微笑みを生きる 気づきの瞑想と実践 ティク・ナット・ハン
Peace is every step The path of mindfulness in Everyday Life Thich Nhat Hanh
プラム・ビレッジ
第一部 アーナーパーナ・サティ・スッタの現代的解釈
第二部 感情の変容の仕方
第三部 相互共存 インタービーイング
本物であれば子供が理解できる
私たちは感じたものになることができます。
何にでもなりたいものになれるのですから、嫌なものにわざわざココロの窓をひらく必要はないのです。
他人の手に委ねてしまったら、いつのまにか自分というものがわからなくなってしまいます。
一日のうちにいったい何時間、誘惑に我を忘れ、自分を見失っているでしょか?
自分の運命、自分の幸福は自分で守らなければなりません。
窓を閉ざせと言っているのではありません。
いつも自分のこころや息に気づいていればよいのです。
気づきをもって食べること
ひときれのパンのなかに全宇宙を見いだし、味あうことができます。
イエスは言われました。「これを食べなさい、これは私の肉です。」
瞑想は、「いま・ここ」の一瞬に戻る練習です。幸せはここにあります。
立ち止まって深く見守ることです。
みずからに微笑みかける。
「何かしよとしないで、あてをつくらないで、ただ坐りなさい」
人生から逃避するのではなく、人生の幸福が、現在、そして未来においても可能であることを体験する。
幸福の第一の条件は自分が幸福だと意識することです。
私たちの幸福は気づきのなかにあります。
「平和にむかう道はない。平和こそが道なのだ」。 A・J・マスト
平和を歩もうと決意したら、実現できるのです。未来は要らないのです。
自分が十分に自分でなかったら、あるいは真に、いま、このときに生きることができなければ、何を見てもうつろです。
息を観察する部屋
子どもたちが学校に行く前に、「呼吸瞑想室で坐り、息を吸って、吐いて、ひとおつ。吸って、吐いて、ふたあつ」と10回繰り返す家族を知っています。
感情を扱う
感情にしがみついたり、拒否したりしないで、ただ感情を手放すことが、瞑想行の大切な一歩目です。
第一歩は、それが生じたらすぐに気づくことです。
そうすれば、その感情(たとえば恐れ)は自分のなかから飛びだしてきたもので、恐れは気づきのこころと同じ一つの組成物だと気づくはずです。
恐れも気づきもどちらも貴方のなかにあって、お互いに争う関係ではなく、一方が他方をいたわり世話をする関係です。
次の段階はその感情(たとえば恐れ)と一体になることです。
「恐れなんか出ていけ。おまえなんか嫌いだ。おまえは私とは無関係だ」。と邪険に扱わないでください。
代わりに「恐れさん、こんにちは。今日のご機嫌はいかがですか?」と言ってから、ふたつの自分(恐れと気づき)を仲良く握手させて、ひとつに合体させるのです。
こんな芸当ができるなんて信じられないと初めての時には思うかもしれませんが、あなたはちっぽけな恐れるような玉ではないので、心配しないでまずはやってみてください。
気づきが恐れにちゃんと寄り添っていれば、大丈夫なので安心してください。
コツは呼吸の吸って吐くことをしっかりと意識していることです。
この呼吸にしっかりと気づいていることができていれば、恐れに引き込まれることはありません。
第三の段階は、感情を静めることです。
気づきのこころが「息を吸って、吐いて、私は体と心の活動を静かにする」と感情にそっと寄り添ってあげるだけで感情は静まります。
ちょうどお母さんが優しく赤ちゃんを抱きしめるように、そばにいるだけでいいのです。
静まらない時には、ただ赤ちゃんを抱きしめればよいのです。
だから感情を避けることなく、その感情と一つになって、もう一度言ってみてください。
「息を吐きながら、私を恐れを静める」と。
第四の段階は、その感情を解き放つことです。
恐れは最小限までちぢまって、やわらぎ、不快さもなくなっています。いまがチャンスです。
その恐れに微笑んで、「私」から開放させてやってみてください。
これで終わりではなりません。次にはもっと奥底へダイビングして、恐れの根源を変容させるときです。
第五の段階は、離れていった感情を思い出して、その内に深く潜って寄り添ってあげることです。
お母さんが赤ちゃんが泣きやんだ後でも目を離さないように、恐れが消えても、あなたの恐れに寄り添って、何が恐れの原因だったか、なぜ赤ちゃんは泣いたのかを考えてみます。
赤ちゃんが泣くには、外部や内部のいろいろな原因があります。
どうして恐れが生じたのか、
ちゃんと寄り添うことができていれば、赤ちゃんが泣く原因が見えてきます。そしてそれが見えてくれば、この感情を変化させて解き放ってやるにはどうすればよいのか、何をやめればよいのか、何をはじめればよいのか、などが、自然にわかってくるようになります。
後は内なる自分がちゃんと仕事をしてくれます。
どんな考えや執着が苦しみの原因になっているかを自分自身に見つけさせるのがセラピストの仕事です。
怒りとの付き合い方
今、不要だからといってそれを排除してしまうと、私たちの体や心をつくりあげている、ほとんどすべてのものを排除してしまうことなりかねません。
排除する代わりに、それを別のものに変える方法を考えてみたらどうでしょうか?
たとえば、怒りをもっと理解してみることからはじめてみるのはどうでしょうか?
怒りという感情を、ただ優しく、こころをひらいて見守るだけでいいのです。
怒りから逃げないで、このように寄り添ってあげていれば、怒りはひとりでに変化していきます。
怒りに気づくこと
怒りは自制心を焼き尽くしてしまい、あとになって必ず後悔します。
気づきは裁判官ではなく、怒りをいたわり慰めてくれるお姉さんのよう存在です。
腹を立てると、自分が怒りそのものになります。
怒りを抑圧したり排除したりすることは、自分自身を抑圧したり排除したりするということです。
怒りも自分の中のエネルギーであることに気づいてください。それができればそのエネルギーを受け入れて、別のエネルギーに転換することができます。
悪臭を放つゴミは良き堆肥となり、それはやがて芳しき一輪の花となります。
また花も数週間経てば枯れて腐ってしまいます。
よく見ると、堆肥のなかに花があります。そして花のなかに堆肥があります。
怒りを変容させるには
怒りの根を掘り起こさなければなりません。
怒りの原因を深く見つめてください。そうしないかぎり、怒りはまた芽生えてきます。日々気づきの練習をしながら、新しい健全な種を撒いてゆけば、気づきは怒りを見守り、自然に別の感情に変えてくれます。
太陽の光が植物を守り育てるように、気づきのスポットライトが私たちの心を守り育ててます。
腹が立ったら歩く瞑想
腹が立ったら外へ出て、歩く瞑想をしてみてください。
新鮮な空気、緑の樹々、みんなが助けてくれます。
息を吸って怒りがここにあることに気づく
息を吐いて怒りは私の中にあることに気づく
息を吸って怒りは不快なものだと気づく
息を吐いて怒りは通り過ぎていくものだと気づく
息を吸って私は怒りではないことに気づく
息を吐いて私はこの怒りを毅然として迎える
息を吸って気づくことで怒りの力が弱まり、静まっていくのを確認する。
そうすれば、怒りを直接に見据えて理解することが出来るようになる。
怒りの根に寄り添う
誤解、要領の悪さ、不正、恨み、感情の条件反射などの原因が姿を現すでしょう。
これらの根は全て自分の中にも、相手の中にもあるのがわかります。
寄り添うことと理解と通して、こころを自由にすることで、愛と慈悲は深まっていきます。
上手に料理できれば、怒りは別のエネルギーに変わります。
火は気づきの力であり、蓋は集中力です。
怒りのルーツは外ではなく、自分自身のなかにあります。
外にあるのは二次的な原因に過ぎません。
地震や津波のような天災には怒りを感じずに受け入れますが、組織や人が危害を及ぼすならば、忍耐することを忘れてしまいます。
私に危害を及ぼす人は過去に同じような危害を他の人から受けたのでしょう。
このように相手がなぜ危害を与えるような行動をしたのかという原因を見て理解してあげることが、自分の怒りから開放される道です。
そして、いちばん大切なことは、まず自分の内側にある怒りの種を吟味してみることです。
その後に、外側の苦しみをこころから理解して、その人が自力で混乱から立ち直れるように、おおらかな慈悲の心で援助することです。
こころのしこり 英語ではなんという? Stiffness a tumor, unpleasant feeling
仏教心理学で使う言葉に 「こころの形成物」「束縛」あるいは「しこり」を意味する用語があります。感覚器官を通じて何かをインプットすると、その情報の受容の仕方によっては、こころのなかにしこりができます。だれかが私たちの悪口を言ったとき、もし相手がなぜそのようなことを言うかわかっていて、その言葉を深刻に受けとらなければ、こころはまったく動揺しません。こころにしこりは生じないのです。しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解できなくていらだってしまうと、こころのなかにしこりができます。こころに生じるしこりの原因は、ものごとを明確に理解しないところにあるのです。
気づきの練習を丹念につづけていくと、こころのなかにしこりが発生するや否や、即座にそれに気づけるようになり、変化させる方法も講じられます。たとえば、パーティーで夫が自慢話をしているところを妻が耳にして、こころのなかで彼を軽蔑したとします。もし彼女が、このときすぐに彼に思ったことを話していれば、気持ちもすっきりして、誤解をとくことができ、こころのしこりは簡単に消えてゆきます。このようなこころのしこりは、発生するや否や、ただちに気づくことが大切なのです。しこりがまだ小さくて弱いときに気づいてやると、簡単に変容させることができます。
こころにしこりが生じたとき、すぐにそれを解かなかったら、それはどんどん強固なものに育ってしまいます。私たちは理性的な意識のうえでは、怒りや恐れ、後悔といった否定的な感情が、自分にも社会にも受け入れられないとわかっているので、忘れるために抑制したり、意識の届かないところへ押しやったりします。苦痛を排除するために防衛機能を働かせて、そんな否定的感情が存在することを認めず、心中は安らかだ、と思いこもうとします。しかし私たちのこころに発生したしこりは、つねに破壊的なイメージ、感情、思考、言葉、行動へと発露を見いだすものなのです。
無意識下で起こったこのようなこころの形成物を扱うには、まずそれに気づく方法を見つけることです。呼吸に気づく練習は、こころのなかで結ばれてしまったしこりを見つけだすよい方法です。自分のなかのイメージ、感情、思考、言葉、行動に気づいたら、自分にこう尋ねてみてください。あの人がああ言ったとき、私はなぜ不快感を感じたのだろうか? どうしてあんなことを言ってしまったのだろう? あの人に会うと、どうしていつも母親のことを思いだすのだろう? 映画のあの配役が嫌いなのはなぜだろう? 昔よく似た人を嫌っていたのだろうか? このように突っこんで観察してゆくと、こころのなかに埋もれていたしこりが、しだいに顕在意識にすがたを現わしてきます。
坐って瞑想しながら、すべての感覚器官の扉を閉ざすと、こころのなかに埋もれていたしこりが、イメージ、感情、思いとなって、すがたを現わします。このような原因不明の不安感、恐れ、不快感に気づいたら、それに気づきの光をあててやり、ごちゃごちゃに入りまじったもののなかから、このイメージ、この感情、あるいは、この思いを、はっきりと意識的に捕らえなおします。これが一度表面に浮上してくると、力を得て、前よりももっと強いものになるので、圧倒されて、こころの安らぎも、喜びも、安楽も、すべて奪いとられてしまいます。ついにはこれ以上耐えられなくなって、瞑想の対象を何かほかのものに移したくなったり、瞑想などすっかりやめてしまいたくなるかもしれません。
瞑想中に眠たくなったり、きょうはもう瞑想をやめようと言いだすようなこころの動きを、心理学では「抵抗」と呼んでいます。埋もれていた苦痛を意識レベルまで引きあげるのはつらいことです。しかし、息の観察と微笑みの練習をしばらくつづけていたら、じっと坐って、さまざまな恐れを直視する力が芽ばえてきます。息に気づきながら、そっと微笑んでいると、こんなふうに言える余裕ができてきます。「恐れさん、こんにちは。また会いましたね」と。
一日に何時間も坐って瞑想していても、こころのなかのいろいろな感情に一度も出会わない人もいます。感情などに関わってはいられない、もっと哲学的な高邁な対象に瞑想するほうが性に合っている、という人がいます。私は、このような哲学的、形而上学的な瞑想対象がくだらない、というつもりはありませんが、私たちが日々かかえる、さまざまな問題との関係で哲学的問題を考えるのでなければ、瞑想はその真価を発揮しないし、私たちの生きてゆく助けにもならないだろうと思います。
目ざめたこころで、いま、この一瞬の生活を充実していたら、こころのなかで、いま何が起こっているか、すぐ気づくでしょう。こころにわだかまりをつくったり、それを解けないほどに固くすることもないでしょう。そして感情の観察の仕方を知っていれば、長いあいだかかってできてきた、こころのしこりの根っこを見つけ、もう手がつけられないくらいカチカチに固まっていても、徐々に解いて、新しい力に変容させることができるのです。
しこりを作る原因は、相手を理解できないことです。
健全な種と危険な種
意識には二つのレベルがある。
潜在意識と顕在意識、種のレベルと発芽のレベルのこと。
例えば怒りが発芽したら、その間に新しい種が潜在意識のレベルで増え続けてしまいます。
だから嫌な感情の表現には常に気をつけなければなりません。
しかし、逆から見れば、これは良いシステムです。
微笑みや喜びの感情を現している時には新しい種がどんどんと増えていくからです。
だから長い間、微笑むことをしなかったら種が減ってしまって、笑う機会が少なくなってしまいます。
そこで、この健全な種を増やしていきましょう。
健全な種は抗体のように害のあるウイルスがあってもそれを包囲して無害のものに変える力があります。
種には感情だけではなく、心理的な考え方なものもあります。
良い考え方をすれば、その健全な種は増えていきます。
たとえば戦争の記事を読んで軍人のことを悪人と決めつけて排除するのではなく、なぜこの人は軍人になったのだろうか、誰のために戦っているのか、戦争が起きる原因になったのはなぜなのか、と想いをその軍人に寄り添うことができば、排除ではない共有という考え方の種が撒かれたことになります。
そしてこの健全な種が、無意識の内に私たちを守ってくれることになるのです。
種を増やして蓄えるコツは「気づき」の練習です。
生活の中の喜びや幸せに気づくことです。
種は自分の中に、そして外界のあらゆるところにあります。
気づきさえしたら、幸福の種は播かれ、発芽します。
幸福の秘訣は幸福そのものに気づくことです。
呼吸の観察を友人と一緒にできれば、こんなにいいことはありません。
呼吸の不思議に目覚め、喜ぶことができれば、遠くへ旅に出る必要はありません。
いま、ここで触れて味あうことができるからです。
一緒に坐ったり、散歩したりしながら気づきの練習をして、平常心を保ち、喜ぶ時間を増やして、各自のこころを柔軟にしなやかに強くしておくのが素晴らしい。
レタスを責めない
レタスを植えて育ちが悪くても、それをレタスのせいにはしないで、なぜうまく育たないのか原因を考えて調べてみましょう。
「ママもあなたのレタスなの。だからママにもお水をやるのを忘れないでね。」
これが一緒にやる気づきの練習です。
理解と愛は一つのもの
相手を理解すると腹は立ちません。
理解すると愛さずにはおれなくなります。
理解する心は相手を自分の一部だと見ることからはじまります。
まずは違いではなく共通点から始めることです。
相手に深く入り込んでゆき、一体となって一緒になって苦しみも喜びも味わいます。
Comprehend com-(強調)+prehendo(掴む)→ghed-(手に持つ)が語源。「掴むこと」
何かを理解するためにはそれを摑んでそれと一体にならなければなりません。
ものごとを理解するのには、これ以外の方法はありません。二つにあらずの「不二」です。
理解さえすれば、愛はひとりでに育ちます。
自分に必要なことには敏感で、相手の求めていることを無視するならば、愛は成立しません。
そのためには相手を深く見つめてあげなければなりません。
本当の愛はここから始まります。
ちゃんと理解してあげたらその人をちゃんと愛さずにはおれなくなります。
「私はちゃんとあなたを理解していますか?
もし気が付かないで、あなたを傷つけてようなことをしていたら教えて下さい。
そうすれば、いまよりももっと貴方を理解して、あなたも私も幸せになれると思います。」
悲の瞑想
慈とは幸福をもたらす愛のこと
悲とは苦しみを取り除く愛のこと
慈悲の本質は理解する心です。
自分が他者の「皮膚の内側」にまで入っていくことです。
心のしこりまでしっかりと目撃することです。
そうすることではじめて人の苦しみがわかり、触れ合うことで、はじめて悲のこころが生まれます。
悲の心とは共に苦しむことです。 Com共に passion受難
他者に深く寄り添います。十分に時間をかけて、その人の苦しみに深く寄り添います。私の心が苦しみでいっぱいになるまで、たゆまず寄り添い続けます。
ちゃんと深く寄り添っていると、おのずから何らかの行動を起こす力となります。
「好きです」と言う代わりに「何かしてあげたい、苦しみを取り除きたい」と思うでしょう。
このように深く寄り添う練習をしていれば、相手に左右されず、いかなるものにも動じない本物に育ちます。
私自身を苦しめる人の苦悩にも深く寄り添ってみてください。他人を苦しめる人は必ず自分も苦しんでいます。
静かに息を観察し、深いところにたたずむのです。そうすればその人の苦しみがはっきりと見えてきます。
本人も両親も祖父母もその親たちの影響を深く受けています。それがわかれば、自分が苦しめられたからといって、その人を責めることはできなくなります。
寄り添うとは理解することです。
慈の瞑想
だれかに幸福をもたらしたいと思うならば、それは慈が芽生えています。
思いこそが言葉や行動に先立つものです。
それに気づいたら、すぐにその人のところへ行ってみてください。そうすると想像ではなく具体的な世界に働きかける力の源泉になります。
抱擁の瞑想
まず息を吐きながら、「いま・ここ」に入ります。
つぎに、両手でしっかり抱きしめて3回ほど静かに呼吸します。
すると深い喜びが湧き上がってきます。
Interbeing 相互共存
ここにある、とは「ともにある」ということです。
何ものもただそれだけで存在することはありえません。
この地球でなにか問題がある時に、私たちの誰一人として手を汚していない人はいません。
苦しんでいる人がいるのは私がこのように暮らしているからなのです。
豊かな社会と貧しい社会は互いに依存しあっています。
ある社会の豊かさは、別の社会の貧困さによって支えられて成立します。
「これ在るがゆえにかれ在り」
豊かさは豊かでないものから、貧しさは貧しさでないものからできています。
あらゆるものは、それ以外のすべてを包含しているのが真実です。
Interbeingで接してはじめて底なしの苦から解放されます。
この苦しみが全世界の重荷を背負っています。
太陽は私の心臓 一つに繋がる世界
もし太陽が輝くのをやめたら私たちのいのちの流れも止まってしまいます。
だから太陽は、私たちの第二の心臓で、しかも体の外にある心臓です。
すべての生命体はこの光によって生きていられるのです。
私たちの体は、皮膚の囲いの内側にのみ制限されるものではありません。もっと広大なものです。
地球の取り囲んでいる空気の層までも、私たちの体の一部です。この空気が消えてしまえば、私たちのいのちも終わります。
あらゆる現象は私たちの体と密接に結びついています。
海底の小石から何百光年かなたの銀河に至るまで、全てはつながっています。
気づきの生活の方法
自然は私たちの母親です。
この母なる自然から切り離されるから、私たちは病むのです。
マンションなどで暮らすと母なる大地である自然からの距離が離れてしまい、木を植えることができなくなります。
母なる大地との触れ合いが大事です。
木を抱きしめて息を吸って吐く練習をします。
これを毎日行ってみてください。数週間で、気分がずっと良くなっていますよ。
食事の前の黙祷
食事の前に、両手を合わせて日々の食事に困っている子供に気づいてください。
これに気づいてはじめて、今の自分の幸福に感謝できるし、今の社会の問題点や変革法が浮かんできます。
平和運動をする人に多い他者への憎しみ
まず自分が平和でなくして平和のために運動をすることはできません。
自分が微笑むことができないのに、他の人を微笑ませる手助けができるはずがありません。
気づきの練習によって、一人ひとりが見つめ、寄り添い、深め、理解する力を培うことが大切です。
そうすれば、平和運動をする人の中にある他者への憎しみや攻撃をなくすことができます。
平和運動家の中には、彼らが望んでいる平和とは自分たちの怒りを鎮めるために相手を打倒することである、と無意識に活動している人がいます。
停戦や平和を求めたが成功せず、腹を立て、自国の敗北以外のいかなる解決策も受け入れなくなってしまうケースがあります。
苦しんでいるグループは勝ち負けには関心がありません。ただ身にふりかかる暴力がなくなればよいのです。
相手の苦しみを理解し、それを伝え合っていったならば、問題の解決にもっと近づいてゆけるのではないでしょうか。私たちにはつながりが必要です。
葉っぱがお母さん
葉っぱは嬉しそうにひらひら舞い降りてゆきました。その喜びは、葉がすでにみずからを木の中に見出して、木と一体になっている確信からきているのです。木の葉は幸せいっぱいでした。
私は深く頭を垂れて、一枚の葉が教えてくれた多くのことに感謝しました。
和解
すみませんでした。知らずに貴方を傷つけてしまいました。私がもっとちゃんとしていたらあなたを傷つけずにすみました。自分を変えるように、一所懸命に努力します。私に言えることはこれだけです。
こころから人を愛することができ、一方の側に立たないで、現実を丸ごとかかけて見ることができる人。
変革
状況を変えるには、まず状況とは自分の心であることを認識することです。
この自分の心は状況そのものです。
これに気づき、目覚めることが第一歩です。
不正も私たち自身の存在の本質も、みな同じところにあります。
私を本当の名前で呼んでください
すべての叫びとすべての笑い声が同時にこの耳に届くように
喜びと悲しみがひとつのすがたでこの瞳に映るように
私を本当の名前で呼んでください
私が目ざめ
こころの扉のその奥の
慈悲の扉がひらかれるように
「私を本当の名前で呼んでください」全文
私が明日発つと言わないで
なぜって いま もうすでにここに着いているから
深く見つめてごらんなさい 私はいつもここにいる
春の小枝の芽になって
新しい巣でさえずりはじめた
まだ翼の生えそろわない小鳥
花のなかをうごめく青虫
そして石のなかに隠れた宝石となって
私はいまでもここにいる
笑ったり泣いたり
恐れたり喜んだりするために
私の心臓の鼓動は
生きてあるすべてのものの
生と死を刻んでいる
私は川面で変身するかげろう
そして春になると
かげろうを食べにくる小鳥
私は透きとおった池で嬉しそうに泳ぐ蛙
そしてしずかに忍び寄り 蛙をひと飲みする草蛇
私はウガンダの骨と皮になった子ども
私の脚は細い竹のよう
そして私は武器商人 ウガンダに死の武器を売りに行く
私は一二歳の少女
小さな舟の難民で
海賊に襲われて
海に身を投げた少女
そして私は海賊で
まだよく見ることも愛することも知らぬ者
私はこの両腕に大いなる力を持つ権力者
そして私は彼の「血の負債」を払うべく
強制収容所でしずかに死んでいく者
私の喜びは春のよう
とても温かくて
生きとし生けるもののいのちを花ひらかせる
私の苦しみは涙の川のよう
溢れるように湧いては流れ
四つの海を満たしている
私を本当の名前で呼んでください
すべての叫びとすべての笑い声が
同時にこの耳にとどくように
喜びと悲しみが
ひとつのすがたでこの瞳に映るように
私を本当の名前で呼んでください
私が目覚め
こころの扉のその奥の
慈悲の扉がひらかれるように
苦しみは悲のこころを育てる
緊迫した苦しみの中にいたら、自分のなかに、なんとも言えない喜びと安堵を感じることでしょう。
なぜなら、苦難を理解すれば、自分が慈悲を与える道具になれると気づくからです。
川
昔むかし、丘を越え、森を抜け、牧草地をとうとうと流れる美しい川がありました。
この川のはじまりは小さな喜びの流れでした。歌ったり踊ったりしながら山のてっぺんから流れ落ちる湧き水でした。まだほんの子供だったのが、ゆったりと低地を流れてゆくうちに、だんだん大きく成長してゆきました。川はいつも大きな海へ流れつくことばかり夢見て、山々や牧草地を蛇行しながら、どうしたら自分が美しく見えるかだけを考えていました。
ある日、川は自分の体に雲が映っているのを見つけました。いろいろな色やかたちの雲たちでした。川はこの美しい雲を追いかけました。雲がほしかったのでした。美しい雲の一つでいいから自分のものにしたかったのでした。けれど雲は、ただ空に浮かんで旅をするばかりでした。いつもかたちを変えながら。ときには外套のように、またあるときには馬のように見えました。川は、雲のこの変わり身の早さに悩みはじめました。雲を追いかけることだけが楽しみになっていた川は、次から次へと流れる雲を追いかけましたが、いつもあとに残るのは絶望と怒りと憎しみだけでした。
ある日のこと、強い風が吹き渡り、空の雲をひとつ残らずちらしてしまいました。空は空っぽになってしまいました。これを見て、川は思いました。もう追いかける雲がいないから私は生きてゆく力もない。川は死を思いました。「雲がいないのだもの、私はもう生きていても仕方がない」。でも、いったいどうやって川は自分のいのちを消したらよいのでしょう。
その夜、川ははじめて自分に戻るきっかけを摑みました。今までは外の世界ばかりずっと追い求めていたので、自分というものを知らなかったのでした。その晩、川は、初めて自分が泣く声を聞きました。川の土手にぶつかる水音に耳をかたむけたのでした。川は自分の声を聞いて、はじめてとても大切なことに気づいたのです。
川はわかったのです。自分が捜していたものは、もうずっと前から自分のなかにあることを。
雲は水なのだと気がついたのです。雲は水から生まれて、水に戻るのです。そして、自分がその水だとわかったのです。
次の朝、太陽が大空に浮かぶと、川はとても美しいものを見つけました。生まれてはじめて青い空を見たのです。いままで一度も気づかなかった空でした。川はひたすら雲に憧れ、空が見えなかったのです。川があれほど憧れた雲の住み家は空だということを忘れていたのです。雲はいつも変わってゆくのに、空はいつも同じです。川はわかったのです。あのかぎりなく澄んだ空が、はじめからずっと自分のなかにあったのだと。
川は喜びいっぱいになりました。はてしなくつづく青空を見て、もう二度とこのしずかな喜びが消えることはない、と気づいたのでした。
その日の午後に雲が戻ってきました。その晩、川はもう雲を自分のものにしようとは思いませんでした。一つ一つ美しい雲を優しく迎えました。雲が近づくと、川は優しくこころを込めて挨拶しました。雲が去ろうとすると、明るくこころを込めて、さようならの手を振りました。
雲は自分なのだと気がついたのです。もう雲と自分を区別する必要はありませんから、ふたりはひとつだと感じました。雲と自分のあいだにしずかな調和が訪れていました。
その晩、すばらしいことが起こりました。川が自分のこころを夕暮れの空に向けて完全に解き放ったとき、彼女の水面に満月が映りました。美しく丸い月のすがたは、こころのなかに大切にしまっておいた宝石のようでした。自分がこんなに美しい月影を宿すことができるとは、考えたこともありませんでした。
中国に美しい詩があります。
「さえざえと月が天空を渡る。生けるもののこころの川が清らかになるとき、美しい月がすがたを現す」。
この詩はまさしくこのときの川の心境そのものでした。川はこころのなかに美しい月を見たのです。そして水と雲と月は手と取り合って、一緒に海へと下ってゆきました。すべてに気づきながら。
追い求めるものは外の世界にはありません。この川のように、すべては自分のなかにあるのです。自分に戻れば、こうして息をし、微笑み、元気に美しい自然のなかで生きる喜びを味わえるのです。
大脳
脳幹 古い脳
集合意識 細胞間 エンタングルメント
脳内物質 活性物質 セロトニン ドーパミン
遺伝子
修行 大脳からはずれる 古い脳へ そして、遺伝子の司令を聴く能力を得るため
昼間の不安と付き合うステップ
第一歩は、不安が生じたら、それにすぐに気づいてあげることです。
不安とは体からの大事なメッセージなのだから。
そうすれば、不安のという感情は自分の内から出てきたもので、不安は気づかれるためにそこにいることがわかるかと思います。
不安も気づきもどちらも私たちの内にあって、気づきが不安をいたわり世話をすることになります。
不安はいたわりという毛布を必要としているのです。
気づきとは寄り添うことです。
次の段階はその不安の感情と一体になることです。
「不安なんか出ていけ。おまえなんか嫌いだ。おまえは私とは無関係だ」。と邪険に扱わないでください。
代わりに「不安さん、こんにちは。今日のご機嫌はいかがですか?」と言ってから、ふたつの自分(不安と気づき)を仲良く握手させて、ひとつに合体させるのです。
気づきという毛布で不安さんを包んであげる、と言ってもいいと思います。
こんな芸当ができるなんて信じられないと初めての時には思うかもしれませんが、あなたはちっぽけな不安に乗っ取られるような玉ではないので、心配しないでまずはやってみてください。
気づきが不安にちゃんと寄り添っていれば、大丈夫なので安心してください。
コツは呼吸の吸って吐くことをしっかりと意識しながら、不安をいたわりながら包んであげることです。
特に息を吐くことをしっかりと気づいていれば、不安に振り回されることはありません。
第三の段階は、不安の感情を静めることです。
気づきのこころが「息を吸って、吐いて、私は体と心の活動を静かにする」と不安の感情にそっと寄り添ってあげるだけで不安は静まります。
ちょうどお母さんが泣いている赤ちゃんの隣に優しく座るように、そばにいるだけでいいのです。
静まらない時には、ただ赤ちゃんをあやしながら優しくギュッと抱きしめればよいのです。
だから不安を避けることなく、その不安と一つになって、もう一度言ってみてください。
「息を吐きながら、私の不安と一緒に安らかになる」と。
第四の段階は、その不安を解き放つことです。
ここまでくれば不安は最小限にまでちぢまって、やわらぎ、怯えることもなくなっています。
いまがチャンスです。
その不安に微笑んで、「私」から解放させてあげてください。
この不安という感情は実は「わたし」自身ではありません。
「わたし」に気づきのチャンスを与えるエンジェルですから。
いに変容させるときです。
第五の段階は、離れていった不安の感情を思い出して、その内に深く潜って寄り添ってあげることです。
お母さんが赤ちゃんが泣きやんだ後でも目を離さないように、不安が消えても、あなたの不安に寄り添って、何が不安の原因だったのか、なぜ赤ちゃんは泣いたのかを考えてみます。
赤ちゃんが泣くには、外部や内部のいろいろな原因があります。
どうして不安が生じたのか?
ちゃんと寄り添うことができていれば、赤ちゃんが泣く原因が見えてきます。
そしてそれが見えてくれば、この不安を変化させて解き放ってやるにはどうすればよいのか、何をやめればよいのか、何をはじめればよいのか、などが、自然にわかってくるようになります。
ここまでくれば、表層意識は何もしなくても、後は内なる自分である無意識がちゃんと仕事をしてくれます。
どんな考えや執着が苦しみの原因になっているかを自分自身に見つけさせる環境を作るのがセラピスト、すなわち「わたし(自己意識)」の仕事です。
不安に気づくこと
不安は自制心を刺激するので、眠れない夜もあります。
こんな時は、不安に寄り添い、呼吸に気づいているだけで体が緩んでくるので、もし眠ることができなくても、体にはなんの問題もありません。
わたしは7日間にわたって眠れないことがあり恐怖を感じましたが、眠れないことに危険がないということがわかると、恐怖は去りました。
体は疲れているので、横になって休息することは必要です。
しかし、心は思考と感情に囚われずにただ気づいているだけならば、それだけで睡眠と同じだけの気力は充実することを体感しました。
わたしもはじめは自分の状態におっかなびっくりでした。
この気づきとは裁判官ではなく、不安をいたわり慰めてくれる姉のような存在です。
不安に飲み込まれると、自分が不安そのものになってしまいます。
そんな時に不安を抑圧したり排除したりすることは、自分自身を抑圧したり排除したりするということです。
不安も自分の中にあるエネルギーの一つであることに気づいてください。
それができればそのエネルギーを受け入れて、別のエネルギーに転換することができます。
不安は自分の無意識からのメッセージであり、エンジェルです。
悪臭を放つ不安も、時間が経つと良き堆肥である優しさになります。
そして、それはやがて芳しき一輪の花となります。
また花の華やか香りも数週間経てば枯れて腐って悪臭の不安になります。
よく見ると、不安のなかに花があります。
そして花のなかに不安があります。
サティパッターナ・スッタ(Satipatthana
Sutta)、日本では大念住経
と呼ばれている経典があります。
サティパッターナSatipatthanaはサティ(sati)とは「目の前で起きていることに気づくこと」+
パッターナ(patthana)とは「絶えることなく突入し浸透すること」、スッタSuttaは経典のことです。
これは釈尊が修行者に、「人生の苦悩から解放され涅槃に至る」ために説かれたことを書き留めたものです。
この経典の中に不安に対するアプローチが書かれています。
不安(distraction and worry)は、それらをを引き起こしている原因に対する無知で生じます。
不安は永続しないと気づくことで消え去ります。
心を成長させて平静さを保つことでも消え去ります。
不安 がある時には、
「わたしの中には不安がある」 と自覚するのです。
不安がない時には、 「わたしの中には不安がない」
と自覚するのです。
まだ生じていない不安が、どのように生じるのかも自覚するのです。
生じた不安が、どのように消えるのかを自覚するのです。
消えた不安が、どのようにすれば将来生じないのかを自覚するのです。
以上が2000年前のお経に書かれていました。
不安の時には心が浮きだっているので、何を考えても適切な状況を把握できません。
そこで、不安の場合は、ひとまず、今、眼の前にある変化していくものだけにスポットライトを当てて、思考を停止させます。
思考とは考える対象が過去か未来なので、不安から離れるには、「いま・ここ」に注目し続けることで簡単に心配する状態が消え去ります。
たとえば、歩いている最中ならば、体の重心の移動の変化に。
たとえば、座っているときならば、どちらの鼻孔から呼吸が入って、どちらから出ていくか。
目の前の変化を見つめているだけで、まずは不安は力を弱めていきます。
原因 イメージとの同一化
不安は、自分自身と頭の中で抱いているイメージとの同一化から来ます。
この同一化は実際にはこの世には存在せず、不安を抱かせるイメージを単に消滅してゆくアニッチャ(無常)であると捉えていれば、同一化したものはあなたとは何一つの関係もありません。
このことに気づくことができると、抱いていた不安というものはこの世にないことがわかります。
この世では、誰もがイメージに同一化することはできず、それにしがみつくこともできず、そして頼ることもできないということをただ見守るっていることが大事なことです。