アンデス山脈   流れ下る時間の矢  駆け上がる時間の矢

 

違いばかりにスポットライトを当てる、流れ下る矢

共通のことばかりにスポットライトを当てる、駆け上る矢

 

形のない力が、実現化するために、どんどん分割していって形になる

形が、元の「一つ」に戻るために、どんどん元に戻って形のない力になる

 

これは読んでくれている君とは

言葉という流れ下る矢でつながっている

でもこれは駆け上る矢を放つ準備のためだ。

 

次は、君だけの矢が天空に向かって放たれるのを、目をつむって感じていたい。

 

 

赤道の南から北極海まで自転車で旅

自転車で世界旅行をすると体力的に一番きついのはヒマラヤ山脈よりもアンデス山脈だ。なんたって上り坂と下り坂の連続なのだから。険しいところでは5000m、普通で3000mの標高の峠を超えるのだけど、それはいい。次に下って、真下に見える谷底の標高1500mや2500mまで一気に下がる。そしたら今度はまたさっきと同じ高さの3000メートルや5000mまでメダルを漕ぎ登らなければならないんだ。後ろを振り返ると、はじめに苦労してたどり着いた峠が目の前に見える。これを一日で2回から3回繰返すことがずっと続くんだ。ギリシャ神話に出てくる、丸い大石を押して丘の上まで押して運んでもまた下まで転がってしまうのを永遠と繰り返す男の気持ちもわかるというもんだ。

金があれば、山の峠と次の山の峠の間に、吊り橋を作ってあげたい。車はダメだけど、歩行者やロバやリャマはどんなに助かるだろう。

 こんな旅を続けていると、いろいろな考え方も変わってくるのは不思議なことだ。

なぜこんな馬鹿らしいことを毎日しているのか?とか意味があるのか?とか。そのうち無意識のうちに、本能について考えている自分に気がつくことが多くなる。いつもは考えない、細胞の目指す方向とか、生きるという力についてとか、だ。

例えば上り坂をペダルを踏み込んで上り続けることが苦にならなくなってくるのだ。苦に思っていたらストレスになるから脳がそのように判断しているのかもしれない。だけど体がなんだか生き生きとしてきて喜んでいるのが感じられるのだ。重いペダルを踏むたびに力が湧いてくるのだ。それもずっと。これには驚いた。

下る時はたしかに気持ちがいい。上りでかいた汗に風が当たり、こもった暑さで爆発しそうな体が冷やされていく。ただ時代の違いもある。1980年代や90年代のことだったので、海沿いの道以外は舗装されていないところが多く、主要道路も石と穴と溝と砂で出来ていた。下る時も上りよりも少しスピードを出せるだけで、つねにブレーキを握りしめながら、ゆっくりと下っていった。それでも手は常に振動で揺れて、午後になると握力はなくなってしまい、肘や体はその後も痺れっぱなしになっている。ちょっと油断したらすぐにパンクしてしまい、始めのうちは一時間に一回、一日に5、6回はパンクの修理をしなくてはならなかった。

 

駆け上がる時間の矢のメタファーを、アンデスの山をペダル踏みしめて上る喩えで、話そうとしたが、あまりうまくいったとは思えない。続きを次の場所でまた一緒に語りたい。

 

「いのち」が向かう方向

自然の法則の中でヒトはこの世に誕生する

そして便利で暮らしやすい時間の波に乗って成長していく。

物理的にはそうなんだ。

だけど体はそれに反するかのように負荷のかかる時間の波を駆け上るが好きなんだ。

川を遡る鯉や鮎や鮭のように。

きっとそのように遺伝子にプログラムされているんだと思う。

そうじゃないと動物としてこれまで生きてこれなかったから。

これは理屈にも合う考え方なんだ。

大脳皮質は安全で安心な空間でドーパミンやノルアドレナリンが出ることを好むけど、

体は自然にいつも適応していなくては食べ物を消化することさえできない。

ドロドロにする胃までは自分の力だけど、実はその後の吸収は腸の微生物にやってもらっているんだから。

微生物がいなかったら栄養分は短時間で分解されないのですぐには吸収できず、エネルギー補給ができないんだ。

そう、体は自然といつも繋がっていないと生きていけないんだ。

だから体はいつも自然に向かっていく時間を過ごそうとしている。

頭とは反対の方向にね。

それは、自然への方向なんだけど、生まれてきたところでもあり、この世を去っていくところでもあるんだ。

だから駆け上がる時間を大切にするとは、死ぬことの準備でもあるし、体にとっては安心でもあるんだ。

頭にとっては不安でしかない人もいるけれどね。

頭は想定してないことやコントロールできていないのが苦手なんだ。だからといって頭になんでも任せていると、自然の中では生きていけない。

体を動かす喜び、これを満喫できるのが駆け上がる時間だ。

 

 

時間の法則

直線の時間     時計の針のように世界共通の区切られた時間

円の時間      毎年、春になると咲く桜のように、自然に任せておけば周期的に繰り返される時間

球の時間      家系図のように広がりながら、中では創始者、後継者、放蕩者のようなリズムのある時間

螺旋の時間     地球の元素からできた一つの細胞が全ての生命体に広がり繋がっている時間

メビウスの輪の時間  上記の4つを含む宇宙の時間

仏教の「三世実有」(さんぜじつう)「過未無体」(かみむたい)の時間的概念

星が寿命で爆発し、そのクズや他の物質が集まり、また新たな元素を持った新星が生まれる時間

 

 

家族

地理

時間基準

知る

 

 

直線の時間  

居間

乙女

都市

時計

既知

 

 

円の時間

台所

母親

郊外

自分・家族

想定内

 

 

球の時間

書斎

青年

林・荒野

家系

想定外

 

 

螺旋の時間

寝室

父親

山・沙漠

地球

未知

 

 

メビウスの輪

家の外

他人

地球外

相対性理論

 

 

 

 

螺旋の時間から直線の時間に向かうのが「流れ下る時間の矢」で

生物の進化、個の成長、文明、歴史の流れ、時計の流れ

直線の時間から螺旋の時間に向かうのが「駆け上がる時間の矢」で

体の充実、血液や細胞の活性化、生物の深化、共同意識の成長、精神の拡大、個人史の目的

 

 

散逸

コスモス

成長と再生

社会・個

横・縦

流れ下る時間

エントロピー

無機体

物質

成長・死

歴史

多様

駆け上る時間

逆エントロピー

生命体

宇宙

再生

個人史

多層

 

 

授 与

芸術

喜び

快楽

伝達

一と多

流れ下る時間

受身

消費

脳内

マスコミ

分断

駆け上る時間

与身

生産

共同体

一子相伝

一体

 

 

駆け上る時間の意味  必要な理由

インドの年齢に従って暮らす場所を自然に近いところに徐々に移して死を迎えるという生き方。

学生は都市で、家族は郊外で、老夫婦は林で、一人になったら森で死んでいく。

鮭が自分が生まれた川を離れ、海に出て、子供を産むために川の流れを遡り、死んでいく様子

森の中で苔むした大木が菌によて朽ちて消えていく様子

 

体は駆け上がる時間の矢の上にいるのを喜びとしている。生命体の自然な動き。

徐々に自然を、そしてすべてを受け入れていく、という開かれた生き方。

 

 

直線の時間の歴史上の貢献と問題点

時間というものはアリストテレス以来まったく同じように「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在すると解釈されてきた。

時間は不分明な開始と終点をもったので、いまでは左から右に向かって一本の線を引き、そこに1点を打って、「ここを今とすると」といえば、誰もが左は「過去」で、右が「未来」というふうに思うようになってしまった。

科学において、この直線の時間を踏襲したのはアイザック・ニュートンだ。ニュートンは絶対空間とともに絶対時間を確定し、tと−t とのあいだの不可逆を樹立してみせた。
 これがその後の科学と哲学の大半をのせる土台になっていく。ダーウィンの進化論も科学の発展も文明の進化もこの「時間の矢」の絶対進行を疑わない。世の中も
脱進機のついた時計の普及とともにこの矢を疑わなくなった。世界はこの直線の時間がみんなのベースとなり共通認識になった。
 これに対してフリードリッヒ・ニーチェである。ニーチェの「永遠回帰」の思想とは、理性の得意な分割して予測するという考えに基礎を置く「時間の矢」に対決する。ニーチェの思想には駆け上がる時間の世界が蘇っていた。しかし、すでに19世紀の後半は、直線的な時間の流れに乗って近代科学の基礎の大半が築かれていた。

ジェームズ・ハットンは1795年の『地球の理論』で、岩石や鉱物を分析すれば地球は少なくとも数百万年の時間をへてきたはずだと説いて、「現在というのは過去を含んでいるのだ」という仮説を発表した。これをチャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』に普遍化して採用し、この『地質学原理』一冊を携えてチャールズ・ダーウィンがビーグル号の航海に出て、かの進化論を確立した。
 これらはすべての発展・進化・進歩は時間とともに未来に向かっているという通念を世の中に植え付けた。そこには「時間とともに進歩するもの」があるという明白な含意があって、それを社会の通念としてハーバート・スペンサーやトマス・ハックスリーが強調した。そして近代社会の進歩思想を支えるベースがここで作り出された。直線の終わりにある終末への恐怖とともに。その恐怖を忘れるために今日も熱意と良心を持って一生懸命に仕事をする。自分で作った架空世界なのに、それから逃げるために必死になって、自分の体をダメにしようとしている。自分で作ったストーリーに耽溺して急いで自分の首を自分自身で絞めている。馬鹿らしいけれど愛しい。

やっぱり人間が好きみたい。

 

 

無時間と有時間という話を内田樹さんの本を紹介している記事から知ったけれど、これは流れ下る時間にずっと乗りっぱなしで、いつの間にか直線の時間の場所まで押し出され、そこでしか暮らすことができなくなった人たちの世界のことだ。

因果関係が同時間でつながっているので、原因と結果が直線的・直接的に繋がっている。

「最も正解を生み出す思想=良い思想」ということになって、「今の私+最善の思想=素晴らしい私」というインスタントに結果が出るうえ、最も「効率のいい」思想なのが人気になるらしい。
始まりと終わりのあるものへの愛着(消費者=無時間=脳内)、ホンモノの女性との恋愛は(労働者=時間差あり=身体)という図式と言った人もいるけれどこれは直線の時間と円の時間を指すのだろう。

 

努力することは頭にとっては納得できないんだ、そんなの一発でダウンロードしちゃえばいいじゃん、データだけじゃなくてプログラムごと。そうすりゃあもう次からダウンロードも必要ない。

面白いのはこの無時間の空間で暮らしていると、努力したら、その分だけ快感をちゃんと報酬として払ってよ、という感情が湧いてくること。それが無報酬だと面白くなくなって、何をするにも続かないんだよね。

 

 

エドワード・ホール

モノクロニック・タイム文化圏  時間を直線的に厳守 個人主義 合理性 仕事とプライベートを区別

ポリクロニック・タイム文化圏  流動的で螺旋状な時間 集団主義的  根回しを重視

 

 

直線の時間の世界から脱出するいろいろな方法

私のおすすめは体の声を聞いて、体が喜ぶことをしよう!

だけど、時間がもうないと思って、死ぬことを前提にしていくのも有効です。

カウントダウンして、後50年しか生きられない、とか。でも長すぎると、まだいいっかってなっちゃうんで、ひとまず来年にでも死ぬことを覚悟して生きる。ってあたりはどうでしょうか?

身近な人には いつ死ぬ予定? 死ぬ前にしたいことってある?なんて愛がこもっていいと思います。

 

いつもの通り、社会生活は流れ下る時間に合わせ、家族と過ごす時には駆け上る時間に乗るためにスイッチを入れて体を動かし円の時間の世界で生き、仲間とは球の時間の世界で生き、一人では螺旋の時間の世界で暮らすのがバランスが取れていて快適です、脳と心と体にとって。

他にもオススメなのは

 

円の時間

身近で一番のおすすめはなんといってもベランダ菜園です。ビニール袋や植木鉢や四角いプランターにニラやハツカダイコンなど肥料を入れなくても大丈夫なものから始めるのは簡単でいいですよ。

 

球の時間

森林組合で働いている人が持っている時間です。だいたい5060年で樹を伐採し植林するので、いつもそのサイクルを考えてその環境に対処します。

人間生活では、一代目が身一つから事業を起こし、二代目が家業を次いで大きくし、三代目が放蕩して文化に貢献するというようなサイクルの時間のことです。

成人になったら、孫にこんなことを伝えたいと思って生きていくのが、この時間を体験できる一つのやり方です。

 

螺旋の時間

死ぬ前にこれをやっていこう、という生き方です。

わかりにくかいもしれないけれど、この世を去る時から考えて、そこ垂れてきた短いロープにしがみついて生きていく時間のこと。

死ぬまでになにをしようか?ってことかな。

螺旋の時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなもの。

「死へ臨む存在」としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるもの。

赤ちゃんとして生まれた時の時間だし、死んでいく時の時間でもある。

円のように丸く完結していないので、イベントが繰り返されることはありません。

球ではないのでストリーが繰り返されることもありません。

全ては未知です。

また時間のサイクルも大きいので、自分が生きている間に結果を見ることもできません。

でもこの時間を生きられるようになると、ゆったりとしていて大きくて強いんです。

たとえば、

明日、ここに核爆弾を落ちてくるとわかっていても、大豆の種を畑に蒔くような生き方の時間です。

希望がなくても、悠然としているんだから、こりゃあ何者も、かないません。

 

 

二つの時間をつなげる詐欺師たち    直線と螺旋がつながっているように見せるインチキ野郎

一つだけ気をつけて欲しいことがある。流れ出る勢いに乗っていれば直線の時間にたどり着くのだが、そのままの勢いで、螺旋の時間に行くことができると勘違いしている人がいる。そしてその勘違いを利用して、詐欺をしてビジネスをしているものが大勢いる。確信犯も多い連中だ。次々と人が来るので、商売は繁盛している。

先にメタファーで事実を言っておく。この二つの間は全ての記憶をなくすというレナ川が流れており、それに触ると記憶がなくなり流されていってしまう。レナ川とは未来から過去へと進む時間の流れのことだ。

直線の時間の世界と螺旋の時間の世界の二つの間には高い崖で遮られているので、いくらそこに登ろうとしても、いつまでたっても登った分だけ、滑り落ちてしまう。

お願いだから気をつけて!

直線の時間で苦しむのならば、そこから出る準備を始めてください。

もしなにか怖がったりするのならば、大丈夫。でようとする意思をなくせば、今までどおり流れ下る時間の矢の中なので、下にいた場所に戻ってきていますから、時期が違っていたり、相性が合わないと感じだりすればやめればいいだけだから。

道は、流れ下る時間の矢から降りて、体を使って駆け上る時間の矢に乗ることだから。

それしかないから。

順番は直線、円、球、螺旋だから。直線から螺旋に行くことはできないからね、もう一度言うけれど。

 

 

 

時間と空間

はじめの出だしの文章を時間の波を空間の粒子に読み替えても違う内容が浮かんで面白い。

 

学習と記憶

 

五感

芸術

脳機能

領域

Statement

 

時間

聴覚

音楽

側頭葉

言語

陳述

 

空間

視覚

絵画

後・頭頂葉

イメージ

非陳述

 

 

言語・イメージ

 

関係

文法

 

論理性

抽象度

今・未来

時間

主語・述語

名詞

概念concept

論理

Metaphor

未知

空間

関係性

動詞

観念sense

直観

Concrete

既知

 

感覚In → 中枢神経 → 運動Out

 

データ

入力

中枢神経

意識

出力

 

時間

少ないビット

時間必要

速い処理

自動

速い

 

空間

多いビット数

瞬間

遅い処理

意識的

遅い

 

 

 

 

「空」と無限

意識には「空」に向かうものと無限に向かうものがある

「空」とはこれ以上に分けることができない唯一のすべての前にあるもの

無限はいくらでもどこにでもあるもの

 

空は高揚感、力強さ、実感、必然、運命、愛情、有意義、「いま・ここ」を肯定する

 

対して、無限は脱力感や喪失感や偶然や無関心や無意味や空虚を与え、「生きる」存在に否定性だ

無限では意識が多数に分散したあげく、どんな意欲も換気しなくなる

 

この否定性も大事なものだ

不平等な世界には、人はたくさんいてみんな同じだという「無限」の方向は必要であったからこそ、自由平等主義が力を持った。

ところがこの無限が効果を与え、自由平等の世界が拡張すると、みんなはこの世が平等に見え始め、しまいには自分自身も無限の一つでしかなく、価値のないもになってしまった。

自由平等を実践することで喪失感を味わっているのだ。

喜劇である。

 

 

空から無限

力から形へ  神から地上へ 分化のプロセス  創造の光の下降

無限から空へ

形から力へ  分断が統合化へ  神と一体化へ

 

この二つの力を調停するのが心臓である。

物質(観念)を示す頭と、精神を示す腹の対立する原理を調停する、真ん中の感情である胸が大切である。

頭が発達しても、腹が恵まれても、それだけでは胸にはいいことはない、重要なのは、胸に重心を置くことである。胸に重心を置くことが、この世に存在している価値である。

二つのあいだのバランスだけではなく、両方から独立した胸が、存在(生き方)の基準となることが安定であり、平穏であり、自然である。

心臓が主導権をとり、頭と腹の両方と付き合うことではじめて、主体性に柔らかい安定感が生まれる。

頭と腹にとらわれない、胸としての存在からこの世を見つめることができるようになる。

 

 

タロットカードの20の意味

20番目の出来事  審判 Le Jugement  過去と未来がなくなる時

3番目の2    220の対立の調停し、新たな可能性を生み出す。

2は過去の資産に関係し、11は未来に向けての発展をあらわしている。

20は過去と未来が同じになることを意味している。二つの時間が中和されて、内的な時間が消えることを意味する。

 

機械時計と肉体時計  過去から未来へ向かう時間

人間は未来に向けて進化しているので、古代の価値観は今と比較すると劣っている。未来になるともっと進化するだろう。

心の支えとして希望をもたらす働きはある。

肉体時計では精神的なものは高度で、それに比較して物質的なものは劣るという考え方を産む。

過去から未来へと方向づけるのは、価値の方向づけと等しく、モノを二つに分けることであり、善悪にこだわることである。たとえば科学水準である。これは分けることの一つであるので、当たり前に進化する。

そして進化することによって、分けることによって、緊張を作り出している。

このことを「止めた」時に、時間は過去と未来が均等に並ぶことになる。

これがイエスの言う審判である。

 

宇宙時計や意識時計       内的な時計は実感的にリアルに深く感じた時にだけ時間が進む

全体との関わり、全体の中での役割、全体の中での責任と行動、生命体との関わり

未来は過去よりも優れているわけではない

ヒトは進化しているわけではない。

人間の存在状態の重心をどこに置くのか?

悟りを開いた人間が人類全体に広がる意識で生きる人の時間感 時間の流れは虚妄となる。

自分の中で時間の方がぐるぐると循環するだけ。

凝固した物質が解放されていくのが未来

力しかなない精神が形になるのも未来

いろいろ変転しても、総量としては何一つ変わらない。

 

意識の中の流れ

1振動密度の高い領域から物質密度の高い領域に流れ降る時間

2究極の統合的なモノに向けての上昇する時間

 

ヒトは無意識の条件反射の学習を重ねてきた。

好むものには近づき、嫌うものは避けた。

ここから喜び・興味・欲望と悲しみ・無関心・嫌悪が作られた。

知りたいものを明らかにしようとし、忘れたいものを忘れた。

そして明らかにしたいものを未来とし、忘れたいものを過去とした。

 

ところが20の審判では、この条件反射の条件を意味ないものにしようとする。良く言えば解き放とうとする、悪く言えばカオスに引き戻そうとする。

過去に忘れた記憶は蘇り、明らかにしたい意欲は消えていく。

死者も墓の中からゾンビのように蘇生する。過去の話が蒸し返されるのだ。

ただ恥ずかしさなどの感情の判断もその人が支配されている価値観によって生み出された仮りの標準なので、二つの価値観の共存により、その標準は消え去っている。

時間意識の過去と未来が対消滅した世界では、恥と名誉の区別はない。あるのは自己の本性であり、宇宙の存在であり、自然の姿があるがままの状態の物語なので、良いも悪いもなく、ただ起こる。ただ因果関係があるようにみえる。因果関係さえも決めつけなので、ああしたらよかったというルールもしなかったという選択の迷いさえも存在しない。

 

近づきたいもの、離れたいものという両方に反応する必要がなくなった段階で、やっとはじめて人間は自分を正当に全体の存在として認知するチャンスが訪れるのだ。

そしてここからが問われることになる。

ひどく嫌なものを思い出したり、野望をあきらめなくてはならない。個人の意識に固着しこだわる人にとっては苦痛でしかない。人生の光と影が両方から均等に接近してくるのだ。

もっとも恐ろしいものや避けたいものが身近にやって来る。煌く欲望が目の前にあらわれる。

これらと一緒にいられるのならば、広大な拡がりと充実感がやって来る。時間の中での限界ではなく、時間にとらわれない永遠性と空間にとらわれない拡がりだ。

 

傷からの逃走が時間意識を作り出した。

最も大きな傷は出生の傷だ。大きな宇宙から切り離されて、さびしい個体となってしまった。これは大きな疎外感をもたらし、誰もが直視できない一番大きな傷である。

この傷に向き合い、癒し、鍛え柔軟性を持たせることが同時にできるのが20の時間だ。

光と影で、山と谷でみえなくなっていたものが、20の時空で生きることで、2の女教皇のToraを解読できるようになる。

傷から逃げようとした自我では、この逃げる行為が盲点となってずっと気づくことができなかった。

避ける行動の台座の下に、意味が隠されている。全ては足元にある。走り去ろうとする私たちの足の下の影が全てなのだ。近すぎて誰もそこが見えなかった。

自分の外しか見ようとしない相対性から決して逃れることができない呪縛から、ここではやっと解き放たれる。

これは大地を失ってしまうことだ。基準がなくなってしまうことだ。だが心配することはない、20の世界では大地という概念も溶けてなくなってしまっているからだ。

 

カバラによる解釈   ホドとマルクトとの間のパス

ホドの激しい呼びかけにより、マルクトである棺桶が開かれることをあらわしている。

物質界では、イエソドは陽であり、マルクトは陰である。

身体では内蔵はイエソドで骨はマルクトだ。

硬い物質は高い意識の普遍性に追従する性質を持っている。だから高い意識と低い物質に接する時に「墓は開かれる」

マルクトからイエソドへの回帰がはじまる。

 

関心を失ったものは去ってゆく、関心を向ければそれは近づいてくる。物質の中の陰と陽は、外と内に分類される。路上に放置された雑草と家の中にある観葉植物の違いだ。

価値があり関心が集中し、そこへ至る方向性が未来であり、内側

価値がなく無関心もしくは嫌いで、記憶から葬ろうする方向性が過去であり、外側

この方向性でイエソドとマルクトは分けられた。

 

ドイツ語の客観化をフランス語にして、両義性を加え、客観化=客体化=対象化とし、客観と対象を融合する。

Objectの多義性(客観、客体、対象、物)を駆使して、モノとする物化することだと結論する。

認識化する「眼差し」は対象化のことであり、つまり他者化することで、物化することのことである。

そう、視ることはモノとして認識することである。

 

自らが対象化されたと意識することで、他者の実在が承認される。

他者の他性によって、他者の存在を示し得る

 

哲学の基礎 本来性と歴史性 ハイデッガーから教わったもの。

これはリリスとイヴのことか? 

 

駆け上る時間とは分けた以前に行く時間   天使の階段

流れ下る時間とは分け続けようとする時間  堕天使すなわち悪魔の階段

 

数学

この二つを分けて、善と悪に分けて喜んだり、固くなってしまっている人たちがいる。

そんな輩にだまされる必要はない。

この二つを同時にすることがこの世の醍醐味である。

この往復こそが、この世に生きている意味だ。

数学で言えば、駆け上がる時間が「一般」流れ下る時間が「特殊」

特殊に始まり、一般に終わる。そしてその一般が新たな特殊を生み出す。

この繰り返しが、「いのち」であり、数学の無限エンジンであり原動力である。

 

先ずは「特殊」だ。特殊を見いだせ、具体例に心を掴まれろ、出会ってしまった例を一般化し証明してみよう。

二つのうねりの中で捉えないと、どちらも一つでは力はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

ボソンとフェルミオン 光子と電子

同じ場所にいくつでも折り重なって共存する光子   形から力へ

一つの場所に一つしかいられない電子        力から形へ

 

 

時間の中を生きるということは、未知性のうちに生きるということである。
一瞬後の世界は予見不能であり、その中で自分がどのようにふるまい、どのような社会的機能を担うことになるのかを主体は権利上言うことができないという事実「から」出発することである。
それがレヴィナス老師の教えである。

私にはそれがあらゆる意味でいま日本社会にもっとも緊急に必要なことのように思われるのだが、時間の本来的未知性の大切さについて語る人はほとんどいない。
むしろ、その逆に、メディアで語るほとんどすべての人は「未来がどうなるか私にはわかっている」ということを競っている。
想定内です」という流行語はそのような無時間モデルで生きる人間のメンタリティをよく表している。
「未来がどうなるかわからない」という原事実のうちに人間の人間性を基礎づけるすべてのものが棲まっているということに気づいている人はほんとうに、ほんとうに

 

気が遠くなるほど少ない。
メディアは「無時間で一般解を提示すること」を商売の基本にしているから、当然ながら時間と未知性には興味を示さない。
「子どもの自殺について200字以内でコメントを」というような仕事を出すことも引き受けることも怪しまない大人たちのせいで子どもの自殺が止まらないということにどうして人々は気づかずにいられるのであろうか。
子どもたちが自殺するのは「自分の人生の意味を200字以内で言い切ることは可能であり、それができるのは自分が知的であり、自己の生を主体的に統御できていることの証拠である」と彼らが信じているからであり、そのような自己評価のあり方が私たちの社会では公的に認知されているからである。

過去労働主体として社会に参加するのが当たり前だった子供が、今は経済主体として社会生活をスタートさせる。そのため学校教育も経済的な無時間モデルで捉えられるようになり、生徒がお客様化した。例えば授業を大人しく受けるというような努力を生徒は教育の対価として捉えるようになり、賢い消費者としてそうしたコストを最小化しようと務める。学級崩壊みたいな問題が出てくる昨今の教育現場での問題はそうして引き起こされた。

 

「民族の表象」は、イメージの古生物学というものがありうることを攻めた。民族のそれぞれがもつ価値観にはリズムと身体の関係が埋めこまれているのだが、そこでは、「欠乏と制御」こそがその源泉になっていることをたっぷり示唆したのである。その通りであろう。リズムは何かが欠けていることから生まれ、そこにまだ見ぬ価値が派生するものなのだ。
 それに付随して、いまでも鮮やかにおぼえているのは、道教と仏教の結びつきが現世の円環的リズムから脱却するための方向をつくったのではないかといった意外な指摘とか、人間がまわりの世界を知覚するには二つの方法があって、ひとつは動的に空間を意識しながら踏破することだが、もうひとつは静的に未知の限界まで薄れながら広がっていく輪を自分は動かずに次々に描くことではないかという指摘をしていたことだった。
 とりわけこの後者の指摘は、世の中には「巡回する道筋によって得られる世界像」と、「二つの対比する表象によって得られる世界像」とがあって、それはオオカミの世界認識にもマンダラによる世界認識にも共通するものであるという確信をぼくにもたらした。

それ以来というもの、「巡回」と「対比」は編集工学的な方法が最初に試みる楽譜になったのだ。
 本書の最後は、第15章「想像上の自由、およびホモ・サピエンスの運命」となっている。ここではぼくの編集エンジンなど、問題にもならない。J・Gバラード(第80夜)は「人類に残された最後の資源は想像力だ」と言ったけれど、まさにその想像力のためのエンジンが仮想設計されていた。これは、まいった。やっぱりこういう着想を筋立てて表明できる思素者というものがいるんだと、素直に脱帽した。
 しかも、そのエンジンから出力されるのは、ルイス・マンフォードやマーシャル・マクルーハン(第70夜)の出力表には書きこまれていない内容が多かった。
 たとえば、ラジオとテレビは手の退行あるいは手の解放を意味しているのではないか。エレクトロニクスの発達はむしろ口頭文字の復活をもたらすのではないか伝統文化とは出身母体の行動記憶との同一化のことではないか。われわれは新たにメディアに転移された人間像を考えざるをえなくなっているのではないか。このような逆マクルーハン的な“予言”の連打なのである。

かくてルロア=グーランは、まとめていえば、われわれの想像力が選択する枝は次の三つに焦られているのではないかと問うのだ。
 ひとつ、多くの人間が結果を知らないで考えている技術(たとえば原子爆弾)に自分たちを委ねることをやめ、もっともっと結果がわからない人間そのものに未来を賭けたらどうなのか。
 ひとつ、人間も地球もいずれ終末を迎えるのだから、その終点からすべてを逆算して考えてみたほうがいいのではないか。
 ひとつ、あらゆる技術が個人に向かっているのだから、個人の単位の中に少しずつ世界を注入できるようにしてしまって、集団や社会のことを忘れられる人工世界に未来を託す時代に期待しようではないか。
 二一世紀はどれを選ぶだろうか。むろんルロワ=グーランはこのいずれにも与さない。これらの選択肢は想像力をつかっていないと言ったのだ。
 もっと個人性と社会性の関係を根本からとらえなおしたい、もっと地球の管理を偶然と必然の間におきたい、もっともっと生活の細菌的な活動から脱したい。そこから想像力エンジンをつくりなおしたいと言うのだ。ぼくの編集エンジンは、こうして、この大エンジンのプログラムをサーバーしてもらうことになったのだった。

 

音楽

「曲の明るい暗い」といいますのは、まず「主音と第三音との周波数比」によってほぼどちらかに決まってしまいます。

長調の曲の場合、主音と第三音は「長三度(4:5)」と整数倍でたいへん安定した関係にあります。これが短調になるとと第三音が半音下がりますので、整数で割り切れないやや複雑な周波数比になります。我々の脳はこの「短調の不安定感」に対して寂しさや悲しさを感じています。

モダン・ジャズなどでは七度、九度、一三度などより複雑な和声を使います。ここまでゆきますと、もはや不安を通り越して緊張感が発生します。モダン・ジャズのあのスリリングな演奏といいますのは、このような不協和音を多用することによって生み出されるわけです。

 

「不協和音」といいましても、一般の音階(平均律)といいますのは元々オクターブを均等に12分割した関係にあるわけですから、これの組み合わせであるならばそれを音楽と呼ぶことは可能です。ですが、だからといいましても、あまり複雑になりますとしだいに理解が困難となり、更にここで音階そのものを外れてしまいますと、我々の脳はそれを雑音として認識することになります。

 

音楽とは「高揚感をもたらす操音」と定義されます。

「操音(奏音)」といいますのは人間によって操られた音ということです。

我々の脳には、

「安定=安心」

「不安定=不安・緊張」

という反応基準があります。

音楽には必ず時間的な変化というものがありますので、これに従って移り動く感情が「高揚感」です。

通常、最初は安定した旋律から初め、次第に複雑になり、緊張感が盛り上がったところで安心感に転じて終了という構成が最も多く使われます。短調の響きには元々侘しさがありますので、途中から更に複雑に変化させてやるならばより高い感動を生み出すことができます。

このように、「曲の悲しさ」といいますのは「短調の不安定感に対する脳の反応」です。ただ、どうして我々人間の脳は悲しさや緊張感なんてものを娯楽として楽しむことができるのかというのはたいへん難しい問題になりますので、こちらはちょっとパスさせて下さい。

 

私はアマチュアのブルース・バンドでピアノを担当する長年の音楽愛好家で、趣味はSFと脳科学です。

 

>音楽は何でこんなに人の心を動かすのでしょうか。

 

これは全ての芸術において同じことですが、

音楽といいますのは、そもそもひとの心を動かすことが目的で作られるものであるからです。そして、これは人間の純粋な「知的活動」であり、進化の結果として生み出されたものではありません。従いまして、このようなものに生物学的な意義というのはないはずです。

 

音楽とは「高揚感をもたらす奏音」と定義されます。

高揚感といいますのは脳内に情動反応として発生する「心の動き」であり、奏音(操音)とは「操られた音」という意味です。ですから、音といいますのは自然界に無数に発生するものですが、規則に従って作られたものでなければそれを音楽と呼ぶことはできません。

古くギリシャ時代には「二つの音の周波数比」が、

「1:2(オクターブ)」

「2:3(完全五度)」

「4:5(長三度)」

このように整数倍の関係にあるものはたいへん安定した響きを持つことが知られていました。そして、このような物理法則に従って作られたのが現在の「音階」です。従いまして、この音階を外れますと音程はしだいに不安定になり、終いには判別のできない雑音となります。

 

「情動反応」といいますのは我々の脳内では「心の動き(高揚感や不快感)」に当たります。これは「大脳辺縁系」というところに入力される感覚知覚に対して「利益・不利益の判定」が下されることによって発生します。

我々動物はこの情動の発生によって「利益・無益」「安全・危険」などを判定し、

「報酬反応(接近行動)」

「嫌悪反応(回避行動)」

この何れかを選択します。

動物の求愛コールは安定した響きで相手に安心感を与え、危険を知らせる場合はノイズの混ざった危機感のある鳴き声に効果があります。哺乳類や鳥類では人間と同様に大脳辺縁系の情動機能が発達しており、このような音声伝達は多くの動物に見られます。

このように、我々の脳には「心地よい刺激」と「不快な刺激」というものがあります。「美味い・不味い」「痛い・痛くない」「寒い・暖かい」「明るい・眩しい」など、これは動物においては全ての感覚刺激に適用する基本原則です。そして、我々人類はこのうち「聴覚刺激における生体反応の法則」を芸術や娯楽に用いました。それが「音楽」です。

 

価値観といいますのは生後体験によって構築されるものでありますから、全ての趣味がそれに影響を及ぼします。もちろん、音楽における情動体験は音楽に関する価値観を変化させます。表現力や鑑賞力といいますのはこれによって養われるのですから、その鍛錬は単に知識を習得するよりも遥かに困難です。

スポーツ、映画、知識欲とありますが、脳の働きによって分類を行いますと、それは趣味ではなく「芸術」というカテゴリーに統一され、スポーツと知識欲がこれと異なります。

自分の心の中を他人に見せることはできません。ですが、人間には「情動:心の法則」というものがありますので、これを用いて操作を行うならば相手の脳内に自分と同じ反応を発生させることができます

情動疎通(非言語コミュニケーション)」

これが共通する生物学的構造であり、芸術とは何かといいますと、果たしてそれは「ひとの心を動かすための技術」ということになります。

「知識欲」といいますのは視覚や聴覚などの感覚刺激に対して直接の反応を発生させているのではなく、新たな知識が得られることを報酬・利益と判定しています。因みにこれは自己解決ですので取り敢えず情動疎通には分類されません。では、歌詞や小説も同様に言語理解を必要とするわけですが、ここでは言語を用いて情動伝達を行うことにより、それは芸術としての機能を持ちます。但し、音楽や絵画などの感覚的反応に対し、論理的・文化的価値観の比率が俄かに高くなります。

 

知的活動には生物学的理由を求めることはできません。

「進化」といいますのは人類の脳が発達して知能が高くなったということです。これにより、我々人間は身体が進化しなくとも次々と新しい能力を身に付けることができるようになりました。ですから、こちらは進化ではなく「人類の進歩」といいます。

音楽や芸術など人間の様々な知的活動は、これは進化の結果として生み出されたものではありません。従いまして、このようなものに生物学的な理由を宛がうというのは基本的にできないことです。

芸術といいますのは「ひとの心を動かす技術」であり、そして、それは食べ物やお金を与えて相手を喜ばせるのではなく、「脳の反応を予測して行う作業」です。従いまして、ここで発生する報酬反応といいますのは、それは全てが「架空の利益による幻」ということになります。

ですから、はっきり申しまして、芸術なんていいますのは全く無益な行為であり、それが何らかの生物学的意義と対応する余地は何処にもないです。強いて言いますならば、果たして我々人間の脳にはそれを生み出す能力が備わっていることに意味があるのだと思います。

 

音楽の歴史といいますのは、どうやったらひとの心を動かことができるかという研究によって塗り潰されています。芸術というのはたいへん高度な文化ですが、元より動物の脳がそれに反応する機能を持っていなければ、人間の知能がどんなに高くても生み出されることはありませんでした。そして、それは飽くまで我々の祖先が自然界で生き残るために備わった機能であることに他なりません。

人類の営みといいますのは自然の法則からはだいぶかけ離れてしまいました。ですから、その価値観に照らし合わせますならば芸術が無益だと主張するひとはいないと思います。まして、この「ひとの心を動かす技術」といいますのは人類の文化や経済の構築に深く関わっていますので、もはや取り除くことはできないと思います。

このように、「人類の進歩」といいますのは能動的な結果によって導かれるものであるため、自然の進化とはその速度が格段に異なります。ならば、結果的には人類の脳といいますのはそのために発達したという解釈もできるわけですが、何分にも前例というものがありません。では、それが生物学的利益と一致するかどうかというのは、これは一度絶滅してみるまで分らないことなのかも知れません。

 

綺麗な音はどこにある?

人は、「純正5度」「純正3度」の和音を綺麗だと感じるようにできています。

では、現代の音楽で、このような和音が出てくるか、というと、実は、ほとんどでてきません。

なぜかというと、現在、よく使われている音律である「平均律」を使うと、「純正5度」「純正3度」の和音がひとつも出てこないからです。このように綺麗な音は平均律で作られる音の上にはないことも多いのです。

つまり、私たちが聞くほとんどの音楽からは「純正律」の響きはほとんど聞かれないのです。

 

例外は、コーラス・合唱やバイオリン等の音程を自由に調整できるものを使った音楽の場合。

本当のプロになればなるほど、平均律とは微妙に違う音をうまく使って、純正5度、純正3度といった綺麗な響きを出しているのです。

本来、このような微妙な音程を作ろうとすると、どうしても、音律という概念とは馴染まないところがでてきてしまいます。

全てのフレーズ・和音を綺麗な響きにすることはできず、どこを綺麗に響かせてどこで妥協するか、という判断をして音を選んでいかなければならなりません。

そのため、本来は特定の音律に引っ張られて音を選んでしまうのではなく、耳で聞いて気持ちいい音を選ぶのがいいですね。

 

 

音律とは、1オクターブの中での音程の並べる方法をいいます。

音律の例としては、平均律・純正律・ピタゴラス律・ヴェルクマイスター律 といったものがありますが、現代においては、ほとんどの場合、平均律が使われています。

 

上記の音律は、1オクターブの中に12個の音(ドレミファソラシドとそれらの半音5つ)を使って、音律としています。

 

上記の音律で何が違うのかというと、12個の音の音の間隔が微妙に異なっています。でも、その微妙な違いが、音律ごとの独特の響きを作っています。

 

音律は、必ずしも12個の音を使わなければいけないわけでもありません。

例えば、いわゆる日本の伝統的な音律は「ドレミソラ」の5つの音(いわゆる四七抜き)を使って音楽を作りますし 琉球音律は主に「ドミファソシ」という5つの音を使って音楽を作ります。

ですから、たとえば、「ファ」の音の正しい高さは何か?と聞かれたら、どの音律の「ファ」の音か、もっというと、どういう状況で出てくる「ファ」の音か、というのがわからないと答えられないですし、そもそも、人により感覚はそれぞれなので、答えがあるのかどうかも定かではないのです。

 

純正律とは、「ドミソ」、「ファラド」、「ソシレ」の主要3和音が綺麗に響くように、1オクターブの中に「ドレミファソラシ」の音程を並べる方法をいいます。

 

具体的には、まず、下記のようにソの音とファの音(主要3和音の一番下の音)を調律します。

 

ソ:ドに対して周波数が2分の3になるように調律(ドの純正5度上)

ファ:ドに対して周波数が3分の4になるように調律(ドの純正5度下のオクターブ上)

その後、他の音も、「ド」、「ファ」、「ラ」を基準として純正3度または純正5度の関係になるように調律をしていきます。

 

ミ:ドに対して周波数が4分の5になるように調律(ドの純正3度上)

ラ:ファに対して周波数が4分の5になるように調律(ファの純正3度上)

シ:シに対して周波数が4分の5になるように調律(ソの純正3度上)

レ:ソに対して周波数が4分の3になるように調律(ソの純正5度上のオクターブ下)

このようにして、「ドレミファソラシ」の音程を並べた音律を純正律といいます。

 

 

純正率の特徴は、下記のような点になります。

 

「ドミソ」、「ファラド」、「ソシレ」の主要3和音が綺麗に響く

他の和音は汚くて使い物にならない場合がある

ファ、ソの音は平均律と比較してもあまり変わらないが、ミの音は平均律と比べてかなり低めに調律される

全音の間隔が一定ではなく、「大全音」と「小全音」と呼ばれる2種類の間隔ができてしまう

転調ができない

 

平均律とは、全ての半音を等間隔になるように音程を並べる方法をいいます。

ピタゴラス律の作り方のように純正5度上の音を積み重ねていくと、12回目にドにかなり近い音ができますが、完全なドの音にはなりません。

そこで、その音程の差を全ての半音に均等に割り振っていったもの、それが平均律なのです。

つまり、全ての半音の間隔(正確には2つの音の周波数比)が全て等しくなるように音程を並べるのです。

 

1オクターブ違う2つの音の周波数比は1:2となります。

そのため、その間に12個の音があって、すべての半音の周波数比を一定とする場合には、

各半音の周波数比は、1:(2の12乗根)という比率になります。

 

2の12乗根というのは12回同じ数を掛けると2になるような数なのですが、これは分数では表せない数になります。

 

人間の耳は周波数比が単純な比になる音を綺麗と感じる傾向があるのですが、この平均律により作られた音は周波数比は、単純な比にはなりませんので、当然「濁った音」として認識されることになります。

 

平均律の長所は、転調が容易である、という点です。また、ピアノ等調律に時間がかかる楽器では、どんな調であっても、同じ調律で演奏できるという点があげられます。

 

逆に、欠点は、全ての和音が純正5度、純正3度にはならない、という点です。

要するに、本来の綺麗な和音から、微妙にずれた和音しか出せないのです。

5度の和音のずれはあまり大きくはないのですが、純正3度の和音のずれは結構大きく、聞く気で聞くと、結構ずれた和音になっていることがわかります。

 

他の音律は「特定の和音が綺麗」な代わりに「他の和音は大きく濁る」という特徴を持っています。一方で、平均律というのは「全ての音程が均一」であるがために「全ての和音が少しずつ均一に濁る」という特徴を持っているのです。

 

純正律と平均律の前に、ピタゴラス音階がありました。

音楽の一番最初の形は勿論、原始的な歌であったでしょうが、楽器も考えられた。

最初は遠くの仲間を呼ぶ笛とかであったでしょう。

 

さて、笛では、長さによって音の波長、即ち振動数が変わる。

 

ドの倍の周波数(波長は半分)は1オクターヴ上のドです。しかし、ドの3倍は1オクターヴ半上のソになります。

そのソの3倍はレ、レの3倍はラ、ラの3倍はミ、ミの3倍はシ、シの3倍はファ、ファの3倍はドになります。

 

これらを1オクターヴに持ってきたものが(つまりドの3倍のソならば、更に1/2にして最初のドと2倍のドの間に持ってくる)

ピタゴラス音階です。

 

最初のドの周波数を1とすれば、ドレミファソラシドの周波数は

1,9/8,81/64,4/3,3/2,27/16,243/128,2

となります。

これはかなりミとファ、シとドの間だけが半音で、後は全音、に近い。しかし少し違う。

 

この音階の響きはなかなか良くても移調をする際に本質的な問題を引き起こす、例えばハ長調をヘ長調に移調する際、違う音階になってしまうのです。

 

そこで平均律の考えが出てきました。

半音、全音の感覚は、ピタゴラス音階でもかなり分かる、そこで1オクターヴを12音の半音で均等に割ろう、

勿論、人間の耳と言うのは、1次関数で聴こえるように出来ていない、等比数列的に聴こえるように出来ている。

 

ド♯を212乗根、レを22乗の12乗根、レ♯を23乗の12乗根、・・・

と言うようにします。

 

勿論これで1オクターヴ上のドは、212乗の12乗根=2となり合いますし、人間の耳にもちょうど等間隔に聴こえる。

これで、移調は自由自在になったわけです。

 

しかし、平均律は12乗根などと言う物をとりますから、綺麗に協和した音程は1オクターヴ上とか下とか、その他同じドならド以外、一つもありません。

 

我々は平均律に慣らされていまして、十分美しく聴こえます。しかし厳密には物理で習ううなりが聴こえ、ピアノの調律師の方など、器具も使いますが、そのうなりの回数で調律しています。

 

さて、美しいハーモニーを得るにはどうするか。

出来るだけ単純な周波数の比になるよう、音階を構成すればいい。

 

そこで考え出されたのが純正律です。

これはドを11オクターヴ上のドを2にしたとき、ドレミファソラシドが

1,9/8,5/4,4/3,3/2,5/3,15/8,2

になるものです。

 

ピタゴラス音階でも、特に完全5度は美しい音程とされてきました。

 

しかし、歴史が進むにつれ、3度の和音が重要視されるようになって来ました。

 

ピタゴラス音階では3度(ドーミ)は1:81/64と余り単純でない。

純正律では1:5/4とかなり単純で綺麗なハーモニーに聴こえます。

 

周波数倍が1オクターヴです。あるドの2倍の周波数は1オクターヴ上のドです。

その2倍、つまり元のドからすれば、4倍の周波数が2オクターヴ上のドです。

その2倍、つまり元のドからすれば、8倍の周波数が3オクターヴ上のドです。

 

このように、人間の耳では周波数比で言うと、1:2:4:8が同じドに聴こえるのです。

 

中学の数学を思い出していただければ、等比数列

20=121=222=423=8で、

 

人間は1:2:4:8が等間隔に聴こえる、

元、1オクターヴ上、2オクターヴ上、3オクターヴ上、に聴こえるのです。

そうするとオクターヴ内を割るのも、1,2,4,8と倍々でオクターヴを作っていったように、

ドとドの♯とレとレの♯とミとファと・・・も等比数列になる必要がある。

 

ドの1オクターヴ上のドは周波数2倍。これは絶対。そうすると等比数列になるには12等分ではいけない。

ドに何かをかけてドの♯、ドの♯に何かをかけてレ、

レに何かをかけてレの♯、の何かが全て同じでないといけない。

 

12回かけて周波数2倍になるのだから、その何かは212乗根。

212乗根とは、そのまま12回かけて2になる数です。.

 

だから、ドを1として、ドの♯は1×212乗根で212乗根、

レはそれに更に212乗根をかけて、212乗根×212乗根

=22乗の12乗根、

レの♯は更に212乗根をかけて、23乗の12乗根・・・

 

平均律には数式があります。

純正律は平均律に似た感じで、周波数比が単純になる物を

選んだだけです。

実際純正律の3度は平均律より1/12音ほど低いです。

 

マルティン・ハイデッガーMartin Heidegger1889926 - 1976526日)は、ドイツの哲学者。ハイデガー、ハイデカーとも表記される[1]。エトムント・フッサールの現象学の他、イマヌエル・カントからゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルへと至るドイツ観念論、そしてセーレン・キェルケゴールやフリードリヒ・ニーチェらの実存主義に強い影響を受け、独自の哲学理論を発展させた。実存主義哲学における重要な思想家とされるだけでなく、20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。

目次 

1 概要

2 生涯

2.1 ハイデッガーとナチス

3 思想

3.1 概要

3.2 前期

3.2.1 存在の意味と現象学的方法

3.2.2 デカルト批判と現存在

3.2.3 解釈学

3.2.4 存在の哲学

3.2.5 時間性

3.3 中期

3.3.1 存在の超絶性

3.3.2 覚書

3.4 後期

3.4.1 「ヒューマニズム」批判

3.4.2 技術論

3.4.3 放下

4 影響・評価

5 著作

6 脚注

7 関連文献

8 関連項目

9 外部リンク

概要[編集]

現象学の手法を用い、存在論を展開した。その思想の中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事に向けられた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られるが、これらは後期思想と密接に結び付いている。

後の実存主義などにも多大な影響を及ぼし、その多岐に渡る成果は、彼の影響を直接にうけた弟子たちが後に現代哲学に多大な足跡を残した事、またハイデッガー以後の哲学者たちが、彼の著作から新しい思索の可能性を発展させた事により、ドイツだけではなく20世紀の世界の哲学・人文諸科学にもっとも重大な影響力を及ぼすものとなった。また1930年代に一時的にせよ彼がナチスへ肯定的な発言をしたことも、彼の哲学がたびたび緊迫した論争の主題へ上ることと関わっている。しかし彼は再び表舞台で発言することになる。それは彼の哲学が与えた影響の大きさを物語っている。

生涯

1889年にマルティン・ハイデッガーは帝政ドイツのバーデン大公国メスキルヒにて、地元のカトリック教会の樽職人のフリードリヒとヨハンナの第一子として生まれた。敬虔な両親の教育もあり、ハイデッガーは初めは神学を学んだ。

1903年からコンスタンツで、1906年からフライブルク大学で学び、1909年にギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。心臓の病気により修道の道を断念した後は、1911年までフライブルク大学の神学部で学んでいた。この時期にも幾つか論文を執筆しており、それらは今日出版されている。

1911年に哲学に専攻を変更し、数学、歴史学、自然科学を共に学ぶ。当時、フライブルク大学の哲学講座は西南ドイツ学派(新カント派)のリッケルトが有しており、ハイデッガーの最初の哲学的訓練もそれに則したものとなった。

1913年に学位論文『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』を、1915年に教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出した。主査は新カント派の西南ドイツ学派のリッケルトであった。また、リッケルトがハイデルベルク大学に転出した後にフライブルク大学に赴任したエドムント・フッサールに現象学を直接に学ぶが、ハイデッガーはそれ以前にもフッサールの著作に親しんでいた。

1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。1923年から28年の間、マールブルク大学の教壇に立った。

1924年にハンナ・アーレントが同大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まる[2]1927年に未完の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みた。1928年のエドムント・フッサールの引退を受け、ハイデッガーはその後任としてフライブルク大学の教授に就任した。ハンナ・アーレントと別れ、翌1929年に彼女はギュンター・シュテルンと結婚した。しかしハンナ・アーレントとの恋愛関係は後に復活し、戦後も長く続くことになった。

ハイデッガーとナチス[編集]

ハイデッガーとナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の関わりは政権獲得以前にさかのぼる。1929年ごろには反ユダヤ主義的言動が目立ち、1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』に深く共鳴した。1930731日の「バーデン郷土の日」の祭典では、オイゲン・フィッシャー、エルンスト・クリーク、レオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに講演を行っている[3]1931年ごろにはハイデッガー家の人々がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある[4]。また、ハイデッガーは学長就任にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけており、すでにこの時点で入党をほのめかしていた[5]

ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年の421日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。51日の「国民的労働の日」をもって、22名の同僚教授とともにナチス党に入党した。527日の就任式典では就任演説『ドイツ大学の自己主張』(Die Selbstbehauptung der deutschen Universität)を行い、ナチ党員としてナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた[6]。またこの式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもしている[7]101日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でもアクティブな活動を行った[8]。フライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガーや、かつて自分の友人であったエドヴァルト・バウムガルテン(ドイツ語版)の密告も行っている。しかしハイデッガーの「改革」は大学内に内紛をもたらし、混乱を収拾できなくなったハイデッガーは1934423日に総長を辞任した[9]

ナチス協力期のハイデッガーは西洋文明の巨大化に危機意識を持ち、物質的でない自然観の復権を願ってナチスに接近し、アドルフ・ヒトラーを指導してナチスを自身の考える方向に向かわせることを考えていたが、イデオロギー闘争に敗れた、と木田元は語る[10]。木田はこれよりも前の著作『ハイデガーの思想』において、思想とナチスを擁護したことを関連付けて思想をも批判されているが、フライブルク大学の学長として同大学を守るがためにナチスに協力をせざるを得なかったとしていた。

総長辞任後のハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線の敗北、エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった[11]。バチカンとの政教条約締結などいくつかの政策には批判的であり、1936年頃からはナチス党諜報部の監視を受けるようになったという[12]。しかしこの頃はナチス党の党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムがドイツの発展の方向を指し示す道だと相変わらず確信していた」[13]と言われるなど、全体としてはナチズム思想の枠内で行動していた[14]

第二次世界大戦後、ハイデッガーはフランス占領当局によって、蔵書と住居の引渡しを求められた上に、非ナチ化を行う浄化委員会の査問を受けることになった。これはハイデッガー裁判と呼ばれる。ハイデッガーはこれに抗して「弁明」を行った。当初は弁明が功を奏したが、フライブルク大学の同僚らの証言によって、次第に窮地に追い込まれることになった。ハイデッガーはライバルであったカール・ヤスパースを頼ろうとしたが、ハイデッガーによるバウムガルテン密告事件を知っていたヤスパースはかえって厳しい評価を含む報告書を送った。こうして194612月、バーデン州文部大臣から大学の職務と講義を停止する命令が下された。給与も一時的に停止されたが、1951年には名誉教授として大学に復帰した[15]

実存主義者サルトルによってハイデッガーの哲学は実存主義であるとされた。しかし、宇都宮芳明によると「ハイデッガー自身は、前期・後期を通じて一貫して実存哲学者とか実存主義者とよばれるのを拒否している」[16]1976年、ハイデッガーはフライブルクにて没した。

 

思想

概要

ここでは便宜的に大きく前期・中期・後期に分けてみる。前期を1920年代。中期を1930年代から第二次大戦終戦まで。後期を第二次大戦終戦から逝去までとする。(『「ヒューマニズム」にかんする書簡』を後期の始まりとし、それ以前を前期とする見方もある。)代表作としては前期では『存在と時間』。中期では『形而上学入門(講義)』『哲学への寄与(覚書)』。後期では『「ヒューマニズム」にかんする書簡』『ニーチェ』『技術への問い』『放下』がある。

前期

前期の代表的な著作は『存在と時間』である。

存在の意味と現象学的方法[編集]

この著作でハイデッガーは、「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在一般」(Sein、ザイン)を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在するという意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。そのためハイデッガーがとったのは現象学的な方法である。ハイデッガーは、フッサールと同様に志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的(ontischen)なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的(ontologisch)なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。

デカルト批判と現存在

現象学的方法は、デカルト的な実体である「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則(のっと)らずに)始めなければならない、したがって、人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在」(In-der-Welt-sein)であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。

存在者がわれわれにとって意味をなすのは、存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア(αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトスからハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない。

解釈学

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カントは『純粋理性批判』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学、物理学、心理学、歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。

存在の哲学

ハイデッガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

時間性

時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである。したがってアリストテレスの均質的な「過去・現在・未来」という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする根源的な「時間性」(ZeitlichkeitTemporalitätとも)の概念を提示した。

中期

中期の代表作として1936-1938年に執筆され死後にクロスターマン版全集第65巻として公表された覚書『哲学への寄与論稿』他がある。またこの執筆の前奏ともいえる1935年講義録『形而上学入門』がある。

存在の超絶性

この時期、人間という場において時熟とともに「世界」を開く歴史としての存在にかえて、超絶的な動態としての意味づけがなされた存在が思索される。つづりもSeinとともにSeynが使用されるようになる。存在と人間は対抗関係にある。存在の制圧的な秩序を人間は元初まで見越す知(techne)によって作品(Werk)にもたらし開く。だが作品にもたらされた存在の超力は人間という場(現-存在 Da-sein)において突発的に裂け開き現象し、その超力をすべて治めることは叶わず、人間は存在によって砕け散る運命にある。砕け散ることは存在が人間という場を必要とする理由であり、現-存在としての人間の本質である。存在と対抗関係にありながら存在の発現する居場所であることによって、「人間とは最も不気味なものである」(ソフォクレス)。

覚書

ナチスから距離を置く中でハイデッガーは公表されざる膨大な覚書を残す。あらゆるものや自然が迅速に算定され、組織的な操業に変えられていくなかで人間の自己喪失は終わりのない過程となる。この根こそぎの喪失へむけて異様な語彙を駆使した思索を残した。それは死後に初めて発表された。ここでは用語は特異なものになり、何を指しているかも熟考を要する。要約すれば、そこに書かれたのは神が必需とする存在(他に有・また原存在の訳語 Seyn)であり拒絶(Verweigerung)が、存在(Seyn)の呼びかけと現-存在の聴従的帰属(すなわち呼びかけへの応答)の「対抗躍動」として、底無しの深淵(Abgrund)として、人間という場において開けていく性起(他に自現の訳語ereignis)である。この動態は「開け透かす覆蔵」、「語り拒み[語り与え]」といった言い回しであらわされ、覆蔵として、また語り拒みとしての贈与とされる。それは単なる自己隠匿ではない、むしろ「自らを覆蔵するものがそのものとして自らを開き明けること」という意味で差し向けの親密さであり拒絶の差し向けとしての開け・最高の贈与である。また悟性や理性といった人間知による確認や算出の不可能である。存在(Seyn)の開けは没落を要求し、その者たちは守護された炎の中で焼き尽くされる。その犠牲は存在に立ち去られることからの退路であり、それは「反-動的な者たち」の「活動」とは全く別である。「反-動的な者たち」は「近視眼的に見られた従来のものに盲目的にしがみつく」だけである。そのように存在者は回復を経験する。人間はこの存在(Seyn)の開けを見守ることしかできない。これらはハイデッガーの従来からの命題「既在的に将来すること」の深化でありすなわち歴史的でありまた予言的ともみえ、高度資本主義社会における実存の不可解を暗示しているかにもみえる。いま重要なのはこの覚書が現実との接点のない詩・絵空事・夢であると決めつけず、また一部研究者のいうような単なる「アイデアの貯蔵庫」とかたずけ良しとせず、また黙示録性にたいし臆せず、現在の時代性において読み説くことであろう。

後期

ハイデッガーは、ついには『存在と時間』が失敗作であることを認めざるを得なかった。そして、長い時間を費やした上で、戦後ハイデッガーの思想は大きく「転回」していった。

「ヒューマニズム」批判

ハイデッガーは『「ヒューマニズム」にかんする書簡』においてサルトルが本質と実存を転倒し、実存の先行性を訴えたとし、にもかかわらずそれら既存の形而上学から抜け出ていないことを指摘した。ハイデッガーからみればサルトルの思想は時間性の本質-存在の問い-を省いた空虚さを備えている。サルトルもまた存在忘却の歴運の中にある。ハイデッガーは「人間らしさ」に反対はしないが、ヒューマニズムには反対する。ただヒューマニズムが人間にたいし人間性を十分高く設定しきれないからであり、最高のヒューマニズムさえが人間の本来的な尊厳には届かないからである。

技術論

すでに1930年代の覚書でも書かれていた算定性の組織化がさらに熟考をされ集-立(他に立て組の訳語 Ge-stell)として概念化された。人間は自然を最大限の効率で役立つものにすべく露わに発き(あらわにあばき)挑発し集め-立たせる。同時に人間は自己にたいしそれを遂行する、役立ち得る主体として仕立て挑発し集め-立たせる。これらは絶えざる挑発の派生として、呼びかなめとしてなされる。そのようにして全体は抜け目なく、駆り立たされ、役立ち得る主体として人間は発かれ淘汰されることとなる。ここには真理にとって最高の危険が存している。近代社会における命運がここでは端的に表されることとなった。集-立である存在忘却への追い遣りは存在自身の自己拒絶に至る。このとき危険の転向が急遽現れ起こる。存在忘却は世界(現-存在)による存在の成否の見護り、存在の真理による見護りなき存在への見入り(存在の真理の閃き)に転回する。この見入りの瞬きの出現において、人間は我執を去ってその瞬きの呼び求めに応答し自己を棄て-投げる。かく応答しつつ人間は神的なるものに目見える自己となる。ここには1930年代後半からの存在の思索の1960年代までにいたる継承と発展がみえる。

放下

ハイデッガーが技術への対し方として最後に到達した概念。我々は技術の進化を、我々の本質(存在)を塞き止めないことにおいて、放置することができる。避けがたい使用を放置することができる。同時に我々の本質を歪めるその限り、否を向けることができる。この二重性が技術への対し方であるとした。講演「放下」に於いては放下とともに、技術時代での存在(Seyn)の覆蔵という仕方での到来を密旨とし、密旨に向けて自己を開け放っておく態度をあげ、「物への関わりに於ける放下」と「密旨に向かっての開け」を「その上に於いて私共が技術的世界の内部にあって而もその世界によって害されることなく立ちそして存続しうる如き新しい根底と地盤を約束」する「新しい土着性への展望」とした。

影響・評価[編集]

弟子には哲学者のハンス・ゲオルク・ガダマー、哲学者のカール・レーヴィットがいる。

ハイデッガーの現象学は、ジャン=ポール・サルトルのみならず、エマニュエル・レヴィナス、モーリス・ブランショの他多数のフランス現代思想家、特にポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、フィリップ・ラクー・ラバルトらに影響を与えた。特にハイデッガーによる形而上学の解体はデリダの脱構築に深い影響を与えた。また、ハイデッガーの哲学は、デリダ研究においても有名な後続世代のカトリーヌ・マラブーなどにも影響を及ぼし、フランスにおけるハイデッガー研究は脈々と続いている。

日本においては昭和初期(戦前)から、九鬼周造、三木清、和辻哲郎ら、京都学派と縁の深い哲学者がハイデッガー現象学の影響を受けている。梅原猛もハイデッガーを20世紀最大の哲学者と位置づけ、批評の対象としている[17]。戦後、マルクス主義思想などの隆盛等によってその影響は退潮したものの、サルトルやモーリス・メルロー=ポンティらに代表される実存主義との関連で読まれることも多く、その紹介者としては木田元らが有名である。さらに、1980年代のいわゆる「ニュー・アカ」ブーム(浅田彰、中沢新一など)において、フリードリヒ・ニーチェやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズらの著作との関連において知られる機会が多くなった。浅田彰らの影響を受けた世代では、東浩紀や國分功一郎などが、ハイデッガーを大陸哲学最大の哲学者(「ハイデッガーを以て大陸哲学はすでにやることをやっている」)とした上で、その洗練された思想をドイツ的農夫的イデオロギーから解放しなければならないと述べた[18]

ハイデッガーのことを西部邁(評論家)は次のように評価している。「認識論において、ヴィルヘルム・ディルタイが「生」に、チャールズ・パースが「記号」に、エトムント・フッサールが「現象」に、ハイデッガーが「語源」に、そしてルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが「日常言語」に注目したのも、人間「心理」の核心と全貌をとらえたかったからにほかならない。それらの哲学者は、文学者とも精神分析医とも大いに異なったやり方ではあったが、やはり心理家であった。彼らは、認識活動の根源が、神の理性にでも自然の法則にでもなく、ほかならぬ人間の「精神」のなかにあるとみなした。そしてその精神の根源には、「気分」とよんでさしつかえないものがわだかまっていることを見据(みす)えた。その見据え方において最も腰の坐っていたもの、最も堂に入っていた者、それはハイデッガーであろうと、私は判断している。」[19]また、西部はハイデッガーについて次のようにも述べている。「マルティン・ハイデガーが面白いのは、一生懸命に言葉のオーセンティシティ、本来性を尋ねる哲学をひとしきりやった後で、後半はヘルダーリンという詩人のことを研究し、ほとんど音楽に近いような感覚の世界を探り始めたことです。」[20]

著作

Die Lehre vom Urteil im Psychologismus. Ein kritisch-positiver Beitrag zur Logik (1913)

『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』

Die Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus (1915)

『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』

Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles (1922)

『アリストテレスの現象学的解釈――解釈学的状況の提示』

Sein und Zeit (1927)

『存在と時間』 ちくま学芸文庫他訳書多数

Kant und das Problem der Metaphysik1929

『カントと形而上学の問題』

Einführung in die Metaphysik1935

『形而上学入門』

Beiträge zur Philosophie1936

『哲学への寄与』

Hölderlins Hymne »Der Ister«1942

『ヘルダーリンの讃歌『イスター』』

Die Frage nach der Technik1949

『技術への問い』

Holzwege1950

『杣径』

Der Satz vom Grund19551956

『根拠の命題』

Identität und Differenz19551957

『同一性と差異性』

Gelassenheit1959

『放下』

Unterwegs zur Sprache1959

『言葉への途上』

Nietzsche (1961)

『ニーチェ』 白水社全3巻、平凡社ライブラリー上・下

邦訳された全集としては、創文社から刊行されている『ハイデッガー全集』などがある。

 

 

観測者 強い人間原理

質問者さんが「こじつけ」と仰いますこのような解釈は、言葉としてひと括りにしますならば「人間原理」を追求するための「定立」に当たります。

「人間原理」を定理するということは、我々自身が我々の存在理由を説明するということでありますから、ともすれば、それは人類が絶滅するまでに成しえるような仕事ではありません。ですから、必然性が見出せないからといってこれを「こじつけ」と呼んではなりません。それは、与えられた事実を基により適切な解釈を行うためのテーゼです。

もちろん、何を積極的に受け入れるかに決まりというものはありませんが、証明されていないからという理由で宗教団体が進化論を相手に裁判を起こすなんてのは、このようなことは私には本末転倒と思えてなりません。これでは単なる水掛け論にしかなりませんよね。

 

人類は神が作り賜うたものではなく、それは宇宙の成り立ちに従う偶発的な産物であるというのが現在では最も現実的な人間原理です。ですが近年では、現在の宇宙がかくあるのは「観測者」としての我々人類が存在するからだという「強い人間原理」といったものも提案されており、これは宇宙がかくあったために人類の誕生が許されたという従来の「受動的な人間原理」とは全く異なるものです。

この「強い人間原理」といいますのは、量子力学における「不確定性原理」の発見を基に生み出されたものでありまして、只今のような状態にある我々の宇宙といいますのは、実は「観測という行為」によって「無数の可能性の集合」の中から「ひとつの現在とし選択された事象」であり、それは観測者としての人類の要求に従ったものであるという考え方です。ですから、ここでは宇宙の法則というのは観測者の要求に従って決定されたものなのですから、あらゆる偶然が人類の存在にとって丸々都合良く作られていても全く不思議ではないわけです。

質問者さんの好奇心に応えられるかどうかは分かりませんが、数ある科学哲学の中でも、これは人類を宇宙の創造主として祭り上げてしまうというたいへん過激なものです。ですが、ここで最も重要なことは、神や意思の存在、即ち「必然」というものを否定するならば、従来の「弱い人間原理」ではこの矛盾を解決することはできないということです。従いまして、ビッグ・バンは何故起きたのかを説明することも絶対にできません。

 

二十世紀には量子力学における「不確定性原理」の発見に伴い、物理学の世界では未来は未確定であると結論付けられました。これにより、二百年の長きに渡り人類の自由意志を否定し続けたニュートン力学に基づく「確定論」は崩壊しました。

未来とは「ありとあらゆる可能性の集合」であり、現在とは無数の可能性の中から「観測という行為によって選択されたひとつの事象」です。従いまして、どのような未来が選択されるかというのは当然のことながら未確定ということになりますし、何よりも、観測という行為が行われない限り、あるいは観測者が存在しないならば如何なる未来も可能性のままでしかなく、それが現在として出現するということはありません。同時に、観測者の存在を否定するような現在が観測によって出現するということはあり得ませんから、結局それは観測者の要求に従って選択されているということになります。「強い人間原理」の考え方に基づくならば、現在の宇宙の法則とはこのようにして決定されました。

 

惑星運動を司る重力の大きさが少しでも違っていたならば現在のような地球環境が生み出されることはありませんでした。また、もし核力や電磁気力が別の値を執っているならば、この宇宙に水素や窒素といった元素が生成されることもなかったはずです。ですが、このような別の宇宙の可能性は、現在では全て消滅してしまっています。何故ならば、未来の中から現在が選択されるということは、その確率が100%になるということでありますから、この時点でそれ以外の可能性は全て0%になってしまうからです。

重力定数6.67×10^−11、光速度秒速29万9千何がしkm、このような数値が自然に定まり、宇宙の秩序が整然と維持されてきた、それが全て偶然だなんてのがそもそもおかしい、確かにそうですよね。ですが、これが元々無数の事象の集合の中に可能性として存在し、その中からは観測者の要求に従わない結果が選択されることはない、ということでありますならば話は全く変わってきます。

では、そもそも観測者というのはいったい何処からやって来たのでしょうか。従来の人間原理では、それは160億年前のビッグ・バンによって発生したという宇宙の歴史の中にひとつの現象として存在を許された者です。これはどちらにとっても未解決問題であり、どうして人類が生み出されたのか、ここでもそれは偶然としか説明はされていません。ですが、「強い人間原理」がこれと異なるところは、人類が誕生したという宇宙の歴史そのものが観測者の要求に従って決定されたものであるということです。

 

宇宙の果てから星の光が届くのに約160億年掛かります。このため、宇宙は誕生してから160億年が経っていると考えられています。ですが、実際に160億年前にその星が瞬いたかどうかは可能性でしかなく、観測という行為が実行されるまでは確率でしか示すことはできません。そして、そのうちの何れかが100%になることによってそれは現在として確定され、同時に他の全ての可能性は消滅します。従いまして、それは観測という行為によって160億年前に遡る事実として現在に確定されるものであり、これによって初めて宇宙の歴史は160億年であると決定されます。

我々は偶然の連続という宇宙の歴史の中に産み落とされたのではありません。不確定性原理を用いるならば、歴史そのものがその出発点に遡り、観測という行為によって決定される現在の事象なんです。そしてそこには、ビッグ・バンも人類誕生も、観測者の存在を肯定する要素として全てが必然的に組み込まれていなければなりません。

 

このように、「強い人間原理」といいますのは、ともすれば人類を宇宙の創造主としてしまうような究極の詭弁術でもあります。ですが、従来の人間原理では説明できない問題を扱うためには、また別な考え方が必要になります。

かつては神という架空の存在を用いなければ解決できなかった問題もありましたし、現在でもあるかも知れません。ですが、ここで最も重要なことは、双方が共に古典宇宙論に従う解釈や量子力学の発見から新たに発展したものであるように、それは無闇に必然性を要求することではなく、与えられた事実に基づいて行われる試行錯誤でなければならないということです。

人類がこの難問に挑戦するためには、このような制約をひとつひとつ乗り越えてゆかなければなりませんし、そのためには既存の知見に基づく未解決というプロセスをきちんと受け入れる必要があります。ですから、質問者さんは何か切掛けがあったはずだと仰いますが、恐らくそうなのかも知れませんが、だからと言ってここで根拠ない架空の概念を用いて必然性だけを穴埋めしてしまおうというのでありますならば、返ってそちらの方がこじつけということになってしまいます。残念ながら科学の世界では、そればかりはできないわけですね。

 

私の説明ではあまり正確ではありませんので、興味がおありでしたら「ロバート・ディッケ」「強い人間原理」などで検索してみて下さい。

また、グレッグ・イーガンの「宇宙消失」はこのようなことを題材に書かれたSF小説です。いったい、どうして宇宙は消滅してしまうのでしょうか、けっこう面白いですよ。

投稿日時 - 2006-10-06 17:31:02

 

「人間原理」・・・あのS・ホーキング博士が支持している考えですね。

 

コペルニクス以前と以後、古典的な「人間原理」と「宇宙原理」とに分かれた・・・そして前者はさらに「弱い人間原理」と「強い人間原理」とに分かれる。このうちさらに前者は、人間が発生するには偶然によるものではなく一定の法則があってその範囲内で選ばれた値でなければならないとするもの。後者は宇宙は発展のある段階で人間を創り出すように作られているとするもの・・・だった様な。

 

この中で強い人間原理が詭弁性を持つかということについてはそれぞれ解釈の違いがありますから断定は出来ないと思います。

我が国に於いては物理学の雄、京都大学の松田卓也博士が「人間原理はそれ自体が研究の対象というよりは、ひとつの哲学である。」と著書「これからの宇宙論」の中でも述べておられます。さらに、「人間原理の立場に立つことによって、もろもろの考え方が、パッと目が開けたようになるし、宇宙からさらに話をすすめて文明の進化といったものにまで一つの暗示を得られるような気がする」と書かれておられます。

 

この「人間原理」は宗教や脳科学とも関係していて真理の追究がなされているようです。

実際に宇宙から地球を見て還った人の話を聞くと私などは感慨深いものがあります。アポロ15号の宇宙飛行士ジェームス・アーウィンでしたか彼が立花隆氏との対話(宇宙からの帰還)の中で「…宇宙空間から地球の姿を見たとき、この地球が宇宙において全く特別の存在であることがどう否定しようもなくわかった。地球と、地球以外の宇宙のすべてとは、全くの別物なのだ。その否定しがたい事実が目の前に突きつけられる。そのとき、これは神の直接の創造物以外ではありえないと思った」と言っています。

これなどは我々と同時代の人類が身を持って体験した貴重な資料といえます。

 

塀の中の解釈 地球と宇宙は全くの別物 神の創造物

塀の外の解釈 宇宙の中にこそ地球がある 光と闇  すべてに意志がある 地球は創造物であり創造主である

 

ホーキング博士の{「我々はどこから来て、どこに行くのか?」というような、いつまでも暗闇の中を手探りするように運命づけられているのではなく、宇宙を解明する完全な理論への突破口もやがて開かれることでしょう。そのときこそ私たちは本当に「宇宙の支配者」となるのです}・・・この自信に満ちた言葉こそが「人間原理」の考えに基づいたものと思われます。

 

 

 

 

 

それがだんだん直線的な時間の観念ばかりが大手をふるようになっていったのは、おそらくユダヤ・キリスト教のせいである。とくにキリスト教が天地創造を特定時点での開始とみなしたのに辻褄をあわせて終末論というものをもちこんでから、時間はせっせせっせと直線を流れるようになった。

 

 

 

日本人はなぜ狐を信仰するのか  松村潔

 

3の意味

1 陽 能動 天

2 陰 受動 地

3 形 中和 人

 

古事記 

ハワイのフナ教

スーフィー     御者・馬・馬車    知性・感情・身体  能動・受動・中和

生命の本質や感情を牛に例える十牛図

ワーグナー  ニーベルンゲンの指輪

ロード・オブ・ザ・リング

伏見稲荷神社 上下中  サルタヒコ・オオミヤノメノカミ・ウカノミタマノカミ 火・水・食べ物

 

西村大観 主体を客体とみなす上位の意識が「真如」

 

一夫一婦制と一神教との関わり  cf. 八百万の神

 

二つの三組

能動・受動・中和  この世 陰陽活動に縛られて異なる次元に行けない 

中和・能動・受動  古事記・カバラ・フナ教

Cf. 男女の愛を謳うものが増えたハワイアンダンス アメリカに征服される以前は山と海と火山

 

意識の活動を一つの世界に閉じ込めるためには、内部の引用に関心を集中させれば良い。

逆に開けるためには、陰陽を結合させて中和させれば、内部の働きは静止するので、その世界の外にある次元について関心が移行する。

 

中和とは何か

意識は指向性を持ち、ある方向に射出される時にのみ意識が働く。

中和とは意識の指向性が消失している状態のことだ。具体性がなく、緊張がなくなり、体はゆるくなり、意識は漠然として、「ゆめうつつ」の状態だ。夢と現実のあいだの世界。明け方と夕方の世界。

幼児と翁の世界、性分化されていない世界。

上位の腹と下位の頭が結びつくことにより中和が生まれる。 アメノウズメとサルタヒコの一体化した瞬間に門が開く。

内部のパーティションに気にならない時にはじめて外の世界を発見できる。

 

 

 

              始まり    コスモス(世界)              理解力    ゆめうつつ                        

陰陽       能動→受動           閉じる    硬直       現実性    因果関係             

中和       中和       開く       柔軟       曖昧       同じ      

 

 

他の世界を認めないためには、日々を忙しい行為で埋め尽くし、心の空白を作り出さないようにしようとする価値観。心を空白にすると、異なる物や非合理なものが入り込んでくるくからである。

社会の役にたたない人、歯車になれない人、無駄な時間を費やす人、ホームレス、老人、幼児、これらの人には異界の世界を呼び込むことができる。

 

囲い込むこと  鳥居をくぐる意味

ヘブライ語のヘトとは囲い込みや垣根を表す  タロットの戦車のカード

母が子に熱中する時には、父と母の関係は距離を作り、母と子の密室の関係が作り出される。これが父をあらわす天との関係に遮断の屋根を作り出す必要がある。天蓋は神社では鳥居をあらわす。千本鳥居を歩くことは、囲われた世界での意識を強化することをあらわす。狭い大地母神の子宮を歩くイメージ。

大地母神と人との間の往来は戦車や狐に乗って向かっていくか、もしくは女神が動物に乗ってこちらにやってくる。

生々しい女性力(善と悪の両方の原初の力)が個人の意思の世界にやってきた時は、「あなたは特別」、という特権を与えることを意味する。メッセージは動物が運んでくる。

動物によって持ち込まれる力は違う。

 

エジプト神話

長男オシリス  

長女イシス 治癒力 むすひ産霊「むす」は生じる「ひ」は霊威の意。天地・万物を生み、成長させる霊妙な力

次男セト

次女ネプチュス typhon台風 イシスと共に泣く女    ハピ(ナイル川)

ナイル河のデルタを襲った暴風、その後の自然の治癒力の神話

 

生産性と死は同じ神

生命の樹 陰の原理ビナー → 個の原理 ゲブラー  繁栄

個の原理ゲブラー →陰の原理ビナー    死滅

人の世界から根源的な原理への回帰という方向は「死」をもたらす

反対は「繁栄」

Cf.上から下 弁財天  下から上 暗闇天女(弁財天の姉)貧乏神

裏表の顔でベクトルが180度違う

 

二つの流れ 上から下 下から上

              方向                                   感情                                  

上下       空有       限定化    エゴ高    深く濃い              執着心    孤立       物質 石

下上       有空                     エゴ低    浅く薄い                            同化       力  風

 

              美学                                                                            

              無限       否定                                                              

                         肯定                                                              

 

無限の示す否定性は、空の示す肯定と通じる。極端に切れ味の良いカミソリの力。

 

思念を無化するには、それよりも上の世界に行くか、もしくはそれよりも下の世界に行くことによって実現できる。

 

シーソー運動

行き止まりの標識  空と矛盾  無と無限   これらの間を行ったり来たりしている。

 

凝固という方向に進むと、最後は砕け散り、成仏に向かう。 

拡散の方向に進むと、最後には形をうみだし、この世が始まる。水蒸気が雨になる。

 

 

男であれ女であれ、人間はだれでも今いるこの現実世界から目をそらさずに生きていると信じるところにある。

つまり逆に、タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的であれ、自分を取り囲む生の営みに全面的に没頭するよう、我々の目を向けさせるのである。

 

固執と解放

夢や欲望は、心の中にある非物質的なものなので、それを形にするには練り続けて濃くする必要がある。

次のステップに二つの選択が可能である。

一つは願う者が、その念を排出して、自分の内側で感じる欲望ではなくすることである。これは念という力が形となって排出されることで、目に見える証拠物質となって目の前にすることである。すると欲望は消え去り、心理は空虚になる。 形にはまだなっていない不満とは、心理の充実であり、感情としては豊かさを所有している。

感情の所有は物質的な欠乏であり、物質的な充満は感情の欠乏である。

もう一つは、念を排出しないで、練り続けて、それを石化させることだ。そしてその石に自己を同化させて、身動きできない状態になることだ。このような囚われた状態は閉じた感情であり、他を受け入れることができないネガティブな面をあらわしている。他に対する拒否だ。限定とは他を否定するという意味である。この硬くなった石は欲望を持ち続けることができる。長く強く執着すれば、それは長く強く影響を与え続け、人はそれにとらわれる。

 

 

 

稲荷の秘宝 巻物・宝玉・神鍵

天地を開闢する言葉     布斗麻爾之御霊   フトマニ 太占

3つの宝玉 天・地・人

神鍵 神界への扉を開く方術  

 

 

猿田彦とアメノウズメの結婚    性はより上位の次元に存在するコスモスの力を招き降ろすための儀式

娼 巫女 上位の力の降下   イシュタルの巫女 アポロンの巫女 ヴェスタの乙女  娼と聖は一体

 

聖と穢は同じ場所に混在する トリックスター 山口昌男

二つを明確に切り分けようとするができないので、白黒はっきりがつかずグレーゾーンになってしまう。

そうなると聖と穢の両方とも関わりたくないと思ってしまうのが都会人

 

西欧は魔女裁判の時代に人間から体を切り離し頭を常に優位にしたために、体と頭の中和であるものを神の領域として捉えたのが近代思想の暴走を招いた。

神の子であるイエスの神聖化に象徴される解釈が、西欧の価値観の根底にずっと流れている。

 

精神を示す頭と、物質を示す腹の対立する原理を調停する、真ん中の感情である胸が大切である。

頭が発達しても、腹が恵まれても、それだけでは胸にはいいことはない、重要なのは、胸に重心を置くことである。胸に重心を置くことが、この世に存在している価値である。

二つのあいだのバランスだけではなく、両方から独立した胸が、存在(生き方)の基準となることが安定であり、涅槃であり、自然である。

心臓が主導権をとり、頭と腹の両方と付き合うことではじめて、主体性に柔らかい安定感が生まれる。

頭と腹にとらわれない、胸としての存在からこの世を見つめることができるようになる。

 

ヘレニズムの宇宙観でも、人は創造神と異なり、直接に神が作った特別な生き物であるいう概念が打ち出されていた。ここから人は自然界のどんなものも開発対象とすることができることが許されると考えるようになった。

 

Cf.神が創造神と人間を作り、創造神が作った世界を人間がのぞき、そこに嵌ってしまったので、そこから元の世界に戻るのが人間の本来の使命である、という考え方。

 

 

 

 

 

ヘルメス思想における宇宙構造図

グノーシス思想 本来あるべき人間はもっと力の振動密度の高い場所に戻らなければならない 

地球は間違った棲家  この解釈をした人は書斎の人 私の解釈は全てはすでにあるので、後は体験すること

 

禿げ岩のむき出し

一つの次元が異なる次元と接触する場所   性器、傷口

この場所が原因で、このコスモスや有機体は単独では独立せず、異界の影響に振り回される。

脆弱な縫合部の重要性はラカンもとなえている。

 

不要が重要に  中心と周辺

この世では不要な排除すべき部分とは、上下の異界とのつなぎの働きを持っている。中心では不要なものが、周辺では大切なものになっている。会社や社会では用のない弱者の老人が、辺境ではすべての鍵を握る翁に変貌する。

閉じている世界での役立たずは、他の世界では逆に役に立つ重要な始点となる。主体を一つにすることで成り立つ社会では、この役割を見ることができない。

 

Overgeneralization(過剰一般化する) ある条件の下の相関性をそれ以外の場所でも普遍化させること

Overmaterilization (過剰具体的する) 普遍的なことを各々の条件に適応せずに具体化してしまうこと

 

 

3の意味

1 陽 能動 天

2 陰 受動 地

3 形 中和 人

 

古事記 

ハワイのフナ教

スーフィー     御者・馬・馬車    知性・感情・身体  能動・受動・中和

生命の本質や感情を牛に例える十牛図

ワーグナー  ニーベルンゲンの指輪

ロード・オブ・ザ・リング

伏見稲荷神社 上下中  サルタヒコ・オオミヤノメノカミ・ウカノミタマノカミ 火・水・食べ物

 

西村大観 主体を客体とみなす上位の意識が「真如」

 

一夫一婦制と一神教との関わり  cf. 八百万の神

 

二つの三組

能動・受動・中和  この世 陰陽活動に縛られて異なる次元に行けない 

中和・能動・受動  古事記・カバラ・フナ教

Cf. 男女の愛を謳うものが増えたハワイアンダンス アメリカに征服される以前は山と海と火山

 

意識の活動を一つの世界に閉じ込めるためには、内部の引用に関心を集中させれば良い。

逆に開けるためには、陰陽を結合させて中和させれば、内部の働きは静止するので、その世界の外にある次元について関心が移行する。

 

中和とは何か

意識は指向性を持ち、ある方向に射出される時にのみ意識が働く。

中和とは意識の指向性が消失している状態のことだ。具体性がなく、緊張がなくなり、体はゆるくなり、意識は漠然として、「ゆめうつつ」の状態だ。夢と現実のあいだの世界。明け方と夕方の世界。

幼児と翁の世界、性分化されていない世界。

上位の腹と下位の頭が結びつくことにより中和が生まれる。 アメノウズメとサルタヒコの一体化した瞬間に門が開く。

内部のパーティションに気にならない時にはじめて外の世界を発見できる。

 

 

 

 

始まり

コスモス(世界)

理解力

ゆめうつつ

 

 

陰陽

能動→受動

閉じる

硬直

現実性

因果関係

 

中和

中和

開く

柔軟

曖昧

同じ

 

 

 

他の世界を認めないためには、日々を忙しい行為で埋め尽くし、心の空白を作り出さないようにしようとする価値観。心を空白にすると、異なる物や非合理なものが入り込んでくるくからである。

社会の役にたたない人、歯車になれない人、無駄な時間を費やす人、ホームレス、老人、幼児、これらの人には異界の世界を呼び込むことができる。

 

囲い込むこと  鳥居をくぐる意味

ヘブライ語のヘトとは囲い込みや垣根を表す  タロットの戦車のカード

母が子に熱中する時には、父と母の関係は距離を作り、母と子の密室の関係が作り出される。これが父をあらわす天との関係に遮断の屋根を作り出す必要がある。天蓋は神社では鳥居をあらわす。千本鳥居を歩くことは、囲われた世界での意識を強化することをあらわす。狭い大地母神の子宮を歩くイメージ。

大地母神と人との間の往来は戦車や狐に乗って向かっていくか、もしくは女神が動物に乗ってこちらにやってくる。

生々しい女性力(善と悪の両方の原初の力)が個人の意思の世界にやってきた時は、「あなたは特別」、という特権を与えることを意味する。メッセージは動物が運んでくる。

動物によって持ち込まれる力は違う。

 

エジプト神話

長男オシリス  

長女イシス 治癒力 むすひ産霊「むす」は生じる「ひ」は霊威の意。天地・万物を生み、成長させる霊妙な力

次男セト

次女ネプチュス typhon台風 イシスと共に泣く女    ハピ(ナイル川)

ナイル河のデルタを襲った暴風、その後の自然の治癒力の神話

 

生産性と死は同じ神

生命の樹 陰の原理ビナー → 個の原理 ゲブラー  繁栄

個の原理ゲブラー →陰の原理ビナー    死滅

人の世界から根源的な原理への回帰という方向は「死」をもたらす

反対は「繁栄」

Cf.上から下 弁財天  下から上 暗闇天女(弁財天の姉)貧乏神

裏表の顔でベクトルが180度違う

 

二つの流れ 上から下 下から上

 

方向

 

 

感情

 

 

 

上下

空有

限定化

エゴ高

深く濃い

執着心

孤立

物質 石

下上

有空

 

エゴ低

浅く薄い

 

同化

力  風

 

 

美学

 

 

 

 

 

 

 

無限

否定

 

 

 

 

 

 

肯定

 

 

 

 

 

 

無限の示す否定性は、空の示す肯定と通じる。極端に切れ味の良いカミソリの力。

 

思念を無化するには、それよりも上の世界に行くか、もしくはそれよりも下の世界に行くことによって実現できる。

 

シーソー運動

行き止まりの標識  空と矛盾  無と無限   これらの間を行ったり来たりしている。

 

凝固という方向に進むと、最後は砕け散り、成仏に向かう。 

拡散の方向に進むと、最後には形をうみだし、この世が始まる。水蒸気が雨になる。

 

 

男であれ女であれ、人間はだれでも今いるこの現実世界から目をそらさずに生きていると信じるところにある。

つまり逆に、タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的であれ、自分を取り囲む生の営みに全面的に没頭するよう、我々の目を向けさせるのである。

 

固執と解放

夢や欲望は、心の中にある非物質的なものなので、それを形にするには練り続けて濃くする必要がある。

次のステップに二つの選択が可能である。

一つは願う者が、その念を排出して、自分の内側で感じる欲望ではなくすることである。これは念という力が形となって排出されることで、目に見える証拠物質となって目の前にすることである。すると欲望は消え去り、心理は空虚になる。 形にはまだなっていない不満とは、心理の充実であり、感情としては豊かさを所有している。

感情の所有は物質的な欠乏であり、物質的な充満は感情の欠乏である。

もう一つは、念を排出しないで、練り続けて、それを石化させることだ。そしてその石に自己を同化させて、身動きできない状態になることだ。このような囚われた状態は閉じた感情であり、他を受け入れることができないネガティブな面をあらわしている。他に対する拒否だ。限定とは他を否定するという意味である。この硬くなった石は欲望を持ち続けることができる。長く強く執着すれば、それは長く強く影響を与え続け、人はそれにとらわれる。

 

 

 

稲荷の秘宝 巻物・宝玉・神鍵

天地を開闢する言葉     布斗麻爾之御霊   フトマニ 太占

3つの宝玉 天・地・人

神鍵 神界への扉を開く方術  

 

 

猿田彦とアメノウズメの結婚    性はより上位の次元に存在するコスモスの力を招き降ろすための儀式

娼 巫女 上位の力の降下   イシュタルの巫女 アポロンの巫女 ヴェスタの乙女  娼と聖は一体

 

聖と穢は同じ場所に混在する トリックスター 山口昌男

二つを明確に切り分けようとするができないので、白黒はっきりがつかずグレーゾーンになってしまう。

そうなると聖と穢の両方とも関わりたくないと思ってしまうのが都会人

 

西欧は魔女裁判の時代に人間から体を切り離し頭を常に優位にしたために、体と頭の中和であるものを神の領域として捉えたのが近代思想の暴走を招いた。

神の子であるイエスの神聖化に象徴される解釈が、西欧の価値観の根底にずっと流れている。

 

精神を示す頭と、物質を示す腹の対立する原理を調停する、真ん中の感情である胸が大切である。

頭が発達しても、腹が恵まれても、それだけでは胸にはいいことはない、重要なのは、胸に重心を置くことである。胸に重心を置くことが、この世に存在している価値である。

二つのあいだのバランスだけではなく、両方から独立した胸が、存在(生き方)の基準となることが安定であり、涅槃であり、自然である。

心臓が主導権をとり、頭と腹の両方と付き合うことではじめて、主体性に柔らかい安定感が生まれる。

頭と腹にとらわれない、胸としての存在からこの世を見つめることができるようになる。

 

ヘレニズムの宇宙観でも、人は創造神と異なり、直接に神が作った特別な生き物であるいう概念が打ち出されていた。ここから人は自然界のどんなものも開発対象とすることができることが許されると考えるようになった。

 

Cf.神が創造神と人間を作り、創造神が作った世界を人間がのぞき、そこに嵌ってしまったので、そこから元の世界に戻るのが人間の本来の使命である、という考え方。

 

 

 

 

 

ヘルメス思想における宇宙構造図

グノーシス思想 本来あるべき人間はもっと力の振動密度の高い場所に戻らなければならない 

地球は間違った棲家  この解釈をした人は書斎の人 私の解釈は全てはすでにあるので、後は体験すること

 

禿げ岩のむき出し

一つの次元が異なる次元と接触する場所   性器、傷口

この場所が原因で、このコスモスや有機体は単独では独立せず、異界の影響に振り回される。

脆弱な縫合部の重要性はラカンもとなえている。

 

不要が重要に  中心と周辺

この世では不要な排除すべき部分とは、上下の異界とのつなぎの働きを持っている。中心では不要なものが、周辺では大切なものになっている。会社や社会では用のない弱者の老人が、辺境ではすべての鍵を握る翁に変貌する。

閉じている世界での役立たずは、他の世界では逆に役に立つ重要な始点となる。主体を一つにすることで成り立つ社会では、この役割を見ることができない。