現代宗教の2つの呪縛を解き放つ

 

現代宗教についての本を読むと、そこには2つの呪縛があることに気づき、それらを解放できる可能性がある。

そこには本来の宗教とは関連のないものが付加されており、それらが混同しているからだ。

具体的には、現代の宗教指導者や識者のミスリードを明らかにすることで、現代の学問や良識や理性の欠点や誤謬を知ることができる。

 

1つは「測定できること」に囚われる根拠とそれからの解放。

もう1つは、「信じること」に囚われる根拠とそれからの解放。

 

1つ目は500年にわたり、人類史の深層意識の中で作動して、表層を基準にする世界に導くことで、人を苦しめてきたものである。

2つ目は2000年にわたり、人類史の深層意識の中で作動して、他者のTPOを考慮しない過剰一般化の世界に導くことで、人を苦しめてきたものである。

 

どちらも本来の宗教ではないので、私たちが現代では宗教だと想っているものは深層意識における思考パターンの書き換えをすることはない。

ただ深層意識の領域に踏み込まないように人を導くことで一時的な安らぎを得ることができるだけなので、本来の宗教から見ると、救済とは関係のない表層的な逃避である。

 

1つ目の測定できるものに囚われたことで、私たちは計測できるものを基準にする習慣から逃れられない毎日を暮らしている。

これは、物質レベルだけではなく、意識のレベルも含まれる。

すなわち、身長や体重やバランスや筋力などの肉体、そして家や食べ物や身の回りの品だけではない。

点数、学歴、年収、貯金、評価、成績、家柄、ネットワーク、評価だけではなく、トラウマや思考パターンなどの条件反射的な自動反応回路などの物質ではないものも含まれる。

 

あらゆる対象を数値化して、その数値によって優劣を判定するという理性の機能に依拠する。

測定できない対象もその表層にだけにスポットライトを当てることで、数値化を可能にする。

換言すると深層意識にあるものを、表層意識のルールに従わせるという手法である。

この手法が開発されたのは古代だが、それがこの世の常識となったのはルネサンス以降の近代である。

そしてこの理性を基準にして、測定できないものにはスポットライトを当てない、という自らを縛る規制がはじまった。

理性とはrationalityの日本語訳で、まず全体を仮定して、次に割合ratioで数値化する機能を意味する。

流動性のある対象を固定化さて全体性を仮設することを前提にして、論理を組み立てて解釈するのが理性の機能である。

したがって、眼の前の事実とは異なる仮説を基準にして思考することになる。

このような理性を重要視することは宗教界でも行われ、対象を各自の深層から表層に移行させた。

具体的には人の内側にある聖なるもの(一なるもの、カミ、原初)への回帰と一体化や、その途中にある自動反応回路を書き換えたり、解体するのではなく、表層の規則を守り従うことに終始することにスポットライトを当てた。

 

この理性の呪縛の原因は測定できないものを盲信することで起きた長年の宗教戦争などの闘争に由来する。

信者の拡大、組織づくり、正統と異端、権力争い、組織の保身、アブラハム教の中での差異の排除(聖地、十字軍、カトリックとプロテスタント)、他宗教の排除によって起きる摩擦を理性によって解決しようと試みたのである。

この解決策を測定できる方法、すなわち理性に求めたのだが、その結果は植民地戦争、2度にわたる世界大戦、文化大革命、内輪揉めなどの死傷者数は人類史上で最多となり、闘いを熱くファナティックにするものであった。

人々に測定できないものは感情によって支持され、測定できるものだけでは世界は成り立たないという見解をもたせるようになったからである。

こうして感情の抑制技術は進歩したが、これは対処療法であって、根本的完治ではない。

 

 

 

2つ目は信じることに囚われたことで、私たちは対象を吟味せずに法則化する習慣から逃れられない毎日を暮らしている。

これは、古来の宗教が人の内面にある自動反応回路の解除することを目指していたのに、人の外側にある対象に対する信念に曲解することで生じた。

信じるという機能は、認知プロセスにおける過剰一般化によって起こるものである。

すなわち、変化し続けている対象に淡々と対応するのではなく、表層にある2つの出来事を安易に結びつけて、不確かな因果関係の回路を作って、表層意識が納得してこの回路を絶対のものとすることを「信じる」と、この社会では名付けている。

実際には因果関係のないことでも、測定できない時空の対象と向きあうことを避ける心の処理機能の1つである。

 

これは古代では宗教とは呼ばず、洗脳や教育や操作や人心掌握と呼んでいたものである。

この操作を使って、権力争い、政治、組織づくり、ビジネス、安定、保身、信仰が現在でも行われている。

釈尊やキリストはこのような信仰に反旗を翻しているのに、宗教団体が信仰をモットーにしている理由である。

信仰とは、宗教の中にあるものではなく、人が対象を認知する時に生じている効率の良い回路を意味している。

換言すると、合理化、すなわち測定できないものを無理矢理に測定できる領域に置き換えて思考する、という誠意なき言動にお付き合いすることを意味する。

 

原因は能率を優先させることで、対象の状況、段階、TPOに寄り添うことをやめて、自分で作り出した因果法則を対象に当てはめる手法を選択したことに依る。

すなわち、脳が行っている思考という名称をもつ「詐欺」である、もし対象を基準にする視点に立つのであれば。

詐欺は方便で使うもので、信用するものでも、操作されるものでも、囚われるものでもない。

 

 

宗教の実践

このように解釈すると、宗教とは信仰とは関係のない、意識を表層から深層に遡上させて、神話や経典や聖書を追体験して、肉体から意識、意識からより原初にある一体性の中に向かう実践であることがわかる。

信じることに宗教が関連することがあるとすれば、そのような一体性を体感していない者が、その真偽を試す瞬間だけである。

その時は一度騙されて、試行体験が必要なので、一時的に信じるような一面があるが、試行の後はそこには信仰は必要なくなる。

宗教は信じるものではない、自分の内面の深層意識に向かって実践するものである。

このように内なる一体性に向き合い続ければ、体の外側にある事象にスポットライトを当てる行為は宗教とは異なるものであることが実感できる。