第一章 間違い続ける脳と「わたし」 脳は可愛いがってあげなくっちゃ
脳はおぼっこくて、まだ幼いお坊ちゃん・お嬢ちゃん。
脳のことを過大評価して信じている人は周りの人を苦しい世界に導きます。
脳の弱点や脳の習性を理解して可愛がってあげましょう。
これは自分の脳と付き合うマニュアルです。
目次
脳がない生物 35億年の生命体の変化 脳を捨てた生物
いつも間違えている脳 錯視 自己中心 神経系が脳に 4つのパート バイアス
いつも間違えている「わたし」 意識のメカニズム
自己という幻想
間違え続ける意味 4つのパートの脳
意識と無意識 図、定義、特徴
生物の35億年の変化
地球ではじめて誕生した生命体は神経を持っていなかった。現在でも脳どころか神経を持っていない生物は多い。
神経管を持たない植物
神経管というセンサーはないのに他のセンサーを使って温度、光、湿度、重力に感応して生きている。
神経を持たない動物
ゾウリムシには神経はない。どの単細胞生物には神経がない。
最も単純な神経系「散在神経系」
神経が散らばって存在しているだけで、複雑な情報処理はできず、その結果,単純な行動しか取れない生物がいる。
例えば,ヒドラとかクラゲとか。
神経が集まっている部分がある「集中神経系」
かご形神経系 代表的な生物はイカやタコ。そして切っても切っても再生してくるプラナリア
はしご形神経系 節足動物(昆虫など)やミミズ 例えば,バッタの腹部の一つ一つが体節で、その体節ごとに神経が集まっている部分(神経節)が神経でつながっています。それがはしご形に見える
管状神経系 神経管のことで、これが脳に発達した。魚類、爬虫類、両生類、鳥類、哺乳類
脳を捨てた動物たち ニハイチュウ、ホヤ
進化(evolution)が進む(advance)というと、「進化は複雑な動物を生み出す方向にのみ進む」という誤ったイメージを与えがちです。生物の遺伝子情報は絶えず揺らいでおり、さまざまな変異(多様性)が生み出されますが、「進化」とはある環境で生き延びるのに適した体の構造や生活様式に必要な遺伝子情報を持った生き物が選ばれていく過程であると考えられています。ですから、ある体の構造がより強調され複雑化していく場合もあれば、逆に目的に合わない構造を捨てて単純化していく場合もあります。脳について見てみると、ヒトのように脳を発達させて種を繁栄させていったものもありますが、一方で進化の過程で「脳はいらない」と言って、捨てていったかのように見える動物もあります。
例えば、ホヤは浅い海岸などに広く棲息し、食用としてもなじみの深い動物ですが、幼生の時期には他の脊索動物と良く似た神経管・脊索などの構造を持っています。しかし、発生の過程でこれらは失われてしまい、成体に残るのはとても単純な構造を持った神経節だけです。彼らは、海水中での固着生活に適応した非常に簡略化された神経系を残すことによって、子孫を繁栄させて進化の過程で生き残った「勝ち組」です。
また、極端な例として、神経組織はいっさい捨ててしまったと考えられているニハイチュウのような動物もいます。これはタコやイカなどの腎臓に寄生して、細胞数が多くても50ほどしかない非常に小さな動物ですが、神経組織をまったく持っていません。しかし、遺伝子の比較から、神経を持つ無脊椎動物の祖先から「進化」してきたものと考えられています。環境によっては、脳はおろか神経組織すら無くても生存を続けている実績があります。このように見てみると、脳をふくらませ、高度な「知性」を持つことだけが子孫を残して繁栄させるための唯一の有効な手段ではなさそうです。というよりも脳の過剰な発達による弊害(精神障害、不安、自殺)も周囲で多く見られるようになりました。
コミュニケーションに必要だと思われていた脳ですが、これがない生き物でも、彼ら特有の方法で外界と交流をしていることは間違いありません。微生物や植物や菌類のように脳を使わない交流システムがあるようです。
また、呼吸だったり、摂食だったり、これも外部との立派な交流の方法ではないでしょうか?
神経管がなくても消化器系器官さえあれば、生命維持をすることができている生物がいます。ですから脳がなくても生存はできますが、神経管があるということで、感知できる情報量は増えるので生存の確率も増加する個体やTPO(時間・空間・状況)は確かにあります。と同時に反対の状況も想定することはできます。情報量が増えることでその処理に多大なエネルギーを処理せざるを得なくなり生存の確率が減るという可能性です。
たしかに機能やエネルギーを高密度にすると効率性は高まりますが、想定外のことが起こるとその効率性が裏目に出ます。例えば原子力を使って発電所を建設することができるが、同時にそれは核爆弾もできてしまうように。またそれらの施設が想定外の環境の変化で発電所が周りの環境を破壊してしまうように。
そして科学を発達させてきた脳を進化させると、この理性によって武器はつくられています。今日も科学兵器で人が死んでいます。車という便利な機械?だけでも日本だけでたった1日で100人が死亡しています。
便利な脳によって、自分の首までも絞めてきてしまっているのも一面の事実です。
核爆弾をも作る脳がそんなにいつも正しいわけではないことは同意してもらえると思いますが、だからといて間違え続けているというのはちょっとあまりに大袈裟だと思っていると思います。
次には具体的にどんな例があるのか探してみましょう。
普段は理性に象徴される大脳皮質が注目されるが、このエッセイでは、意外に高度な辺縁系にスポットライトを当てたい。
辺縁系は系統発生的に皮質よりも歴史が古く、しばしば原始的なものとみなされますが、人間においては理性(大脳皮質)と同じくらいに高度だから。
私たちがよくする謙遜、傲慢、慈悲、欲望、自己憐憫の涙はどれも辺縁系が処理している。
いかに脳が間違え続ける例を見てみましょう
目の前のものが見えなくなる脳
たとえば鍵をなくしたといって、目の前にあっても、みえなくなっていることがあります。
そんな時は、鍵がまだ確認できた時点から自分のしたことを時間順に追って考えると、まだ探していなかった目の前の机の中やPCの下やポケットの中から見つかることがあります。
ポイントは、なくしたと言った事で、鍵は身の回りにないと決めつけてしまい、現実に目の前にあるのに見えなくなってしまうことです。
その原因の一つに、ないと判断した時に、頭の中で鍵のなくなったイメージをつくりあげてしまっていることがあります。
人は視覚より先に、思い込みによるイメージのビジョンを頭の中に作り上げることがあります。
そしてこのビジョンの力は想像以上に影響があり、目の前に多くのものがあっても、人はビジョンが見たいものだけを見、全てを聞いているつもりでも、実際は自分のイメージが聴きたいことだけを聞いています。
一度イメージを作ると故意に新しいものに更新しないかぎり、脳は一番最初のイメージの記憶を保存しておき、ずっと後になっても同じデータを再度使おうとするので、その後の対応にも影響をあたえます。例えば本棚の本を探す時に前の記憶をそのまま転用して「あたり」をつけているように。
一つのイメージにこだわってしまう状態になると、イメージしたことに合わないものは無意識の内に情報がはいってこないように脳は働きます。
良く言えば必要としない情報を遮断して、必要なものだけを取得する高度な機能です。例えばカクテルパーティーで周囲がいくら騒がしくても聞きたいことだけは耳に入ってくるような。
ですから始めのイメージを間違えてしまったていたり、想定していることだけにこだわっていたり、習慣的行動をただの反復に任せていると、無意識の段階で新しい情報は入ってきません。
これがスコトーマscotoma(ギリシャ語源Sukotoma盲点)になってしまい、目の前にあるものでさえ見えなくなってしまうという事例です。
ヒトははじめに作ってしまったイメージの虜になってしまう、ということです。
例えば、「これが私の成功例」「我が家の伝統」「100年の伝統」などです。
無意識には、伝統で確約されたことを反復したり、見たいと思っていることを見、思いたいとイメージしたことを思い、考えたいと感じていることを自動的に考えるという便利な特徴があります。良く言えば省エネ、悪く言えばさぼりたがるのです。しかしこのサボるということは体にとってはとても良いことで、これが勤勉だと免疫細胞やエンザイムの生成や消化器系器官が抑制されてしまい、病気になりやすくなってしまいます。
自動修正をしてしまう脳
錯覚や錯聴といって、脳が勝手にしてしまう無意識の処理がある。
感覚器に異常がないにもかかわらず 実際の情報とは異なる知覚を得てしまうのだ。
例えば、欠けたチーズ片のような黒い図形と、灰色の水玉のような図形がある。どちらも一つでは何を意味しているのかよくわからない。
しかし、二つを重ねるとABCDと読むことができる。本来読めないはずのABCDの文字がこ のように読める現象も錯覚の一例。 脳は見たものを自動的に補足してしまう特徴を持つ。
カニッツァの三角形
6つのカタチを並べることで、二つの△が頭の中にイメージされる。
脳の潜在意識は文字の意味だけではなく、文字のパターンと文の構成規則も処理している。
「この ぶんょしうは もじの じゅんょじが いれわかっていても よむとこが できる」
脳が勝手に手がかりを探して文章を理解してしまう。
まずは無意識のシステムでパターン認識し、そのパターンに基づいて全体像を予測して、知覚の断片を組み合わせてしまう。言い方を変えると脳は「つくり話」やウソを勝手に作っていまうのだ。
錯覚
AのマスとBのマスのどちらが濃く見えますか?
答えはご想像の通りです。見た目はAですが実際は・・・。両手で周囲を隠して、AとBだけを比べてみればわかると思います。
ではなぜ、ヒトは頭の中でとらえた感覚(見た目)と実際の目の前の事実とは違ってしまうのでしょうか?
それは大脳皮質が常に事実を補正して、大脳皮質にとって理解しやすように変換するからです。(脳のサイドから)良く言うと分かりやすく、(事実のサイドから)悪く言えば事実を捻じ曲げています。これも周囲との関係や過去のパターンで認識するようにしているからです。
本当のことを言うと、脳は働くことをできるだけ減らそうとする、さぼり好きで偏見好きなんです。
視覚以外にも聴覚で、脳が無意識的な処理を行なっているものがある。例えばオーケストラの演奏を聴いて鳥肌が立ったり、赤ちゃんが子守唄を聴いて眠りに落ちてしまったりすることがある。このような心身の反応は意識しなくとも感じられる。
メカニズムは聴覚の電気刺激が、条件反射にして学習された情動と結びつき、これが自律神経やホルモン分泌としてアウトプットされるためである。
その結果、身体には発汗や瞳孔の拡張として現れる。
また、周波数の高い音が低く聞こえたり、右にある音が左に聞こえたり、同じ音に対する聞こえ方が変化したり、存在していない音が聞こえたり、いろいろと不思議なことが起こります。これは、聴覚システムが不正確であることを意味するというよりも、むしろ逆に、聞きたい音やそれを妨害する音が混在する日常の環境で、安定して効率よく音を聞き取るために起こる現象です。例えば、騒がしいカクテルパーティーで自分の関心のあることだけが聞こえてくるように。このようなしくみが無自覚のうちに脳内で働いているからこそ、耳に入ってくる音「以上の」ものが聞こえるのです。
音脈分凝の例
2半音差ではリズミカルに馬が駆けるような音、6半音差では規則的に打たれる木魚のような音が聞きやすい。
空白を埋めるためにフィクションしてしまう脳
記憶とは必ずしも信頼できる情報源ではない。それなのに脳の潜在意識はこの確かではない記憶に頼ってシミュレーションを行ってしまう。
寝ている時にも不確かなものを使って話をすすめる。
眠りに入ると知覚は失われ、そして脳が夢を語りはじめる。夢の中でストーリー(空想)を産み出してまでして物語を作り出し、次には目を醒まして夢の内容を語りながら、奇天烈な世界を再構築する。
脳の潜在意識がしていることは、情報の空白を記憶や空想で埋める作業だ。
その空白とは実際の知覚ではないかもしれない。それは不確かな記憶であったり、もしかしたら一面の整合性しかない都合の良い空想(妄想)かもしれない。
意識と夢は自分自身で話を勝手に創りあげていき、穴のあいた空白に別のものを埋めこんで、形を整えるのも脳のお仕事である。
正直な人は自ら嘘を並べ立てたりはしないかもしれないが、善意で協力している場合などでは、(特に人から誘発された場合は)誰でも作り話をしてしまうことは起こり得る。(第二章の迷子の話など)
なぜ記憶を空白のままにしておくわけにはいかないのだろうか?
神経学では内側側頭葉を損傷すると作り話をする傾向があるのではないかという仮説がある。
この内側側頭葉の領域は、アイドルのファンが贔屓のアイドルと一体感を覚えた時に発火(電気信号の活性化)したり、自分を軸にして世界観を作り上げる時にも発火する場所として注目されている。
そこが損傷することで、他者の行動を自分のことに置き換えることができなくなると、どうなるんだろう?
そこが損傷して、自分を軸にしてエピソードを作れなくなるとどうなるんだろう?
何が起きるのか?
その時に、自我が脅威にさらされる、と仮説してみる。
自我とは、記憶、感覚と感情の経験、自己統制、内省。これらの自分を成り立たせる大事なセンターだ。
何が何でも自我を守りたい人がいる。
そんな人は脳は自我を守るためには、無意識のうちにどんなウソでも作り上げてしまうのではないか?
混乱を避けて自我を守るために作り話(空間を埋める行為)をするのではないだろうか?
作り話とは自我が基準の軸に居続けるための脳のメカニズム、防衛システムではないだろうか?
作り話(空白を埋める行為)によって自我は保たれ、使い心地の良い記憶が選択されたり創作され、それによって人生の物語の連続性は維持されるのかもしれない。
自己意識の存在意義は、モノを分けることだ。この自己意識だけを価値観にしてしまうと、全てのものを分けないと安心ができなくなる。分けるとは分類して名前をつけること、すなわち知るということ。だから自己意識だけが自分だ、という病気になると、何かを知らないということを絶対に認たくなくなる。
自我を守るために記憶に空白があることを無意識の内に脳は否定したがる。
そのためには別の記憶から瞬間的に盗用して、それらを継ぎ接ぎして空白を埋めようとする。
そんなことをしても、もう個人の物語を失ってしまっているのだから、すでに自分自身を失ってしまっているのにだ。それほどまでして脳は自我を守ろうとしてしまう、のではないか。
「種」よりも自己を優先してしまう利己的な大脳皮質
識字率と出産率に相関関係があるというデータがある。
ロシア人女性が識字率上昇の後に出産率が下がるという人類の普遍的傾向があり、また通常は下がり続ける乳児死亡率が、ソビエトでは 1970年から上がり始めたことを指摘し、ソビエトの体制が最も弱い部分から崩れ始めることをフランスの評論家トッド・エマニュエルは主張した。ソビエト連邦は実際に 1991年に崩壊したので、一部の人からは予言者と見なされることとなった。
果たして識字率と出産率の相関関係の深層はどのようにつながっているのだろうか?
大脳皮質の特徴は、電気刺激のオンとオフの組み合わせで処理することで機能する。脳はあちこちからの電気信号を処理して、過去の記憶や今の目の前にあることや、未来の想像に対処する。
短い期間での判断もあれば、来週までのことや40年後といった中期や長期のスパンを基にしたものもあるので、目的も期間によって変わってくる。
そしてスパンが短い時は、脳は自らの目的を自己の生命維持を第一とする。中期のための学習や長期のための成長ではなく、この瞬間にとっての利益を追求するクセ(プログラム、条件反射、安易な因果関係の追求)がある。この短期的目的追求によって、リスクのあるものを避け、餌を探したり、リソースを増やすことを目的にすることで成長してきた一面がヒト科にはある。しかし短期の効率だけで目の前の状況を判断すると、たとえば、結婚・子供・ローンの家もどれもリスクが高いので、脳はこれらを選択しない傾向がある。ヒト科の「種」ではなく自分という「個」を維持するための判断を優先させるからだ。
一般的な学問では、短期のデータ結果や合理的法則やを学び、習得して、応用できるように活用する訓練を大学では重点的に教えようとします。しかし時には大脳皮質を麻痺もしくは、長期的な視点を新たな満たさせることも追加しないと、関心が自己から種に移りません。次世代の種の繁栄よりも自分自身のサバイバルや保持や好き嫌いやこだわり(関心)にスポットライトを優先的に当ててしまうから。
そこで、これを解除するには少なくても二つの方法がある。時間軸のスパンを少し長くして判断する習慣を導入するか、大脳皮質自体の働きを抑えるかのどちらかだ。
例えば、燃えさかるような激しい恋愛状態は薬物使用者の脳に酷似しており、大脳の働きは抑えられて、自己保身機能が常に優位ではなくなります。
脳内ではアドレナリンやノルエピネフリンが心拍数を上げ、挙動不審を引き起こす一方で、ドーパミンによって高揚感がもたらされるのです。これらの化学物質は快楽中枢を刺激し、心地良いと感じられる敷居を下げることによって、すべてのものが素晴らしく感じられるようになります。
自己保身する脳
無意識の内に脳は自己像を破壊しないように、都合の良いように事実の一面だけをつなぎ合わせて、ニセの記憶をつくりだす。保身のために。一生苦しまくてもいいように。例えば、レッドソックスのコニグリアロ選手に死球を当てたエンゼルスのハミルトン投手のように。
脳には自己肯定する記憶は覚えているが、否定する記憶は都合よく忘れてしまう傾向がある。しかし、他人に関する負の行動については忘れやすいというデータは今のところない。
脳の潜在意識は自分の世界観と一致する事象や経験や記憶や未来を好む。そんな過去と未来と現在を再現しようとするということだ。自分が大事にしていることに関して都合の良い物語を作り上げる。そして信じたい物語とうまく一致しないことを、今度は都合よく忘れたりする。
屁理屈を捏ねて がんばっちゃう脳
意識をつかさどる大脳皮質の欠点は、なんでも自分を中心にしてしまうこと。たとえば感情というのは、外からの刺激や記憶や条件反射の刺激などにより、無意識のうちに発生した情感で涙が出たり、筋肉が引きつったり、顔面が蒼白になったりしているのを、意識が後からそれを見つけて、悲しいとか楽しいということがわかるようになっている。なぜこのようなことが起こるのかというと、これまでに学習したパターンを自動化(機械化)させたほうが、刺激に対してスピーディーにかつ簡潔に反応ができるためだとも解釈できる。また、時間がかかる上に燃費の悪く、結局の所は原因を特定できないという結果がわかっているので、無駄に大脳皮質の利用を避けるためではないか、とも解釈できる。
そこで、深く複雑な相関関係を吟味するよりも、簡潔で表面的でラベルを貼れば事が済んでしまう、悲しんでいる原因や楽しい理由を、見つけ出したり考え出したりして意識自身を納得させている。しかし、当たり前にこの原因や理由は「仮り」のものなので、必ずしも正しいとは限らない。昔に体験した時に聞いた音楽や食べた味が悲しい出来事に条件反射と結びついてしまっている無意識を、意識が理解できていないというケースは山ほどある。というよりもほとんどの日常生活は条件反射の積み重ねで成り立っているので、いちいち意識にあげて選択しなくても良いようにヒトは生きている。とくに煩雑さの中に埋没する人口過密地域では、想定内の決まった多くの約束事によって日常生活を成り立てている。そうでないとアタマはパンクしてしまうだろう。
自動化によって、理由がわからなくなって不安になったり、スムーズで利便性が高く効率のよい生活を営むことができなくなり混乱してしまうことを防いでいる。条件反射に任せずに意識にあげることとは私たちの想像以上にエネルギーと時間を使用するものなのである。
そのために条件反射やきまったお約束ごとが人口過密地帯を成り立たせている大事な要因なのだが、これだけだと大脳皮質と辺縁系は満足できず、落ち着かないようにどうやらなっているようだ。これは脳のメカニズムが「分けて名前をつけて、一般化して、その中に法則を見つけること」だということを再確認すればいい。
「わたし」が常に主人公ですべてを把握して支配していないと不安に陥ってしまうように過密地域の環境や学校や家庭で教育されてしまった人が多くいる。なんでも理屈をつけて、理由(因果関係)をみつけないと不安になるのが大脳皮質のお仕事なので仕方がない。屁理屈をこねてでも納得したいのだ。そして、こんなものをもっともっと成長させようと社会は時間と金と労力を使おうとするのだから、この社会とは「余裕」に溢れた環境の中にある証拠でもある。言葉を変えると「壁」に囲まれた中で生まれ育ち、未だにこの「壁」の修復や再生に関わっていないことを表明している。
自然も宇宙もこの世も、脳がこれほど発達する以前から存在し、成り立ってきた。ところが、脳はこの世(いのちや宇宙や自然)を理解するよりも、自分が作り出すセルフイメージに逆に追われて、今日もまことに忙しい。心(循環器系器官の内臓感覚)が亡くなるほどに。
バイアス(思い込み)の罠 脳のクセの数々
直観・ヒューリスティックheuristic 物事を判断する時、情報を簡約化し、効率的に結果を出していく脳のバイアス機能。とくに過去の経験や出来事をベースにして結論へと至る働き。4つの直観(感性・理性・智性・魂性)の一つである理性的な直観のこと。
「昔はこうだった」だから「きっと、今でも同じ」と因果関係を結んでしまう。
現状の変化を観察し体験して対処するのではなく、はじめから変化を受け入れないで昔からのパターンで単純に反応する。
答えの精度が保証されないデメリットがある代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴のメリットがある。
語源 ギリシャ語 heuriskein to find 見つける
参照エッセイ 4つの直観
カラーバス効果
物事を一定のフィルター越しに見ることで自分を守ろうとしてしまう行動。
価値基準を限定することで他の価値基準を排除する。
選択を正当化するために他の対象の価値を引き下げて、自分の都合の良い情報ばかりを集める。
メリットはモチベーションを高める力がある。
負の方向へヒューリスティックが働いているときは、カラーバス効果で集まる情報も否定的なものばかりになる。
確証バイアス
脳は、基本的に、「きっとうまくいく」と自分の考えを肯定的に捉えるようにできているので、自分の立てた仮説の正しさを証明する情報ばかりを選び取ってしまう働きがある。
メリットはこの性質のために前向きに物事を進めていくことができる。
デメリットは都合の良い情報を優先的に集めてしまうため、都合の悪い情報を無意識下で無視してしまう。
正常性バイアス
不測の事態が起きてもパニックにならないために働くバイアス。
メリットは不安になる情報を遮断することだが、デメリットはこれが強く働くと、生死に関わる情報を取り入れないことでさらに大きな危険に身を晒してしまう結果を招く可能性があること。
自己奉仕パイアス
成功は自分のおかげ、失敗は相手や環境の責任にする。
自尊心を守ろうとして、失敗の原因を環境や他者におしつける。
これは自分の行動に起因する失敗で心を傷つけないために備わっている防御機能で、軽重はあっても誰もが持っている。
メリットは自尊心を守れること、デメリットは変化を受け入れないので新たに学ぶことができないこと。
内集団的バイアス
自分が所属している集団は他の集団に比べて有能で価値があると考えるバイアス。その結果により組織に必在する欠点に目を向けず、フィルターを通して現状を判断する。
メリットは安心、デメリットは反対意見は出なくなり、競争世界にいるのならば居心地がだんだんと悪くなる。
いつも間違えている「わたし」
自己ってなんじゃ?
間違える理由とは? 意識のメカニズム
自己は幻想なの?
自由意志って本当にあるの?
自己ってなんじゃ?
似た言葉には自我、自分、主体、主観、自己意識、自意識、わたし、セルフ、などと、詳しく見れば違いはあるけど、少し離れてみると、どれも大体似たよう意味です。
自分自身とは、さまざまな感覚の印象と記憶を統合し、私の人生を「管理し、自由意志で選択をし、一つのものとしてここに存続しているものです。
自分 その人自身 一人の中に4つ(もしくは30兆)の自分がいると筆者は説く
アイデンティティー 自分(エゴ)視点の自分定義集 自分が自分であるためのもの
自我 エゴ 自分視点の自分が考える自分 自我が強いとは、外から自分を見ずに自己中心的。
パーソナリティ 他人から見た自分の性格 キャラ(クター) 社会の中での役割・仮面
自己 セルフ 他人からみた自分も取り入れた自分 他者からの視点を含めた「わたし」
わたし 自我と自己の両方 割合は各自の自覚によって変わる
主体 自我、自己、わたしのこと 対義語は他者、また文脈により対義語は客体
主観(クオリア) 自分視点の感覚 例)科学的な700nmの波長では説明の意味がない赤色の感覚
例えば、自分は女だけど「男っぽい」と、周囲(他人)から言われたとします。
自分の中(自我)では「自分は女だ」と思っていても、周囲の目を通す(自己)だと「男っぽい」のです。
もし生物的に女なのに「私は男だ」と社会的な観点は一つも取り入れずに本気で「自我」で思い込んでいるとしたら、性格(パーソナリティ)が分裂している状態で性同一性障害の傾向があります。
自我(エゴ)は自己(セルフ)を動かして他者とかかわるため、他者と直接にはかかわることはない。
他者との直接の交流はパーソナリティが担当するので自己(セルフ)はそれらの指揮官。
自己(セルフ)とはキャラではなく自分自身が本当に感じることを集積したもの。
ちょっと大袈裟に定義しましたので、異論がある方はぜひご指摘ください。一緒に考えていきたいと思います。
参照 自己と主観(クオリア)
感情がない自己は現実感がなくなる
ヒトは緊急時に痛みや恐怖を感じなくなる時があります。ライオンに腕を食いちぎられたリヴィングストンや戦場の兵士やレイプにあった女性やてんかん発作にもこのようなことが起こる場合があります
緊急時には、前部帯状回が極度に活性化します。これが扁桃体の情動中枢を抑制あるいは一時停止するために、不安や恐怖などの情動が一時的に抑制されます。しかし同時に、前部帯状回の活動性は、極度の覚醒と警戒を生み出し、その後に必要になるかもしれない防御反応に備えます。
このメカニズムが脳障害や脳内の化学物質のバランスによって誤って誘発されてしまったらどうでしょうか?
強く警戒して世界を見ているのに、情動的な回路が機能しない状態です。
この状態を意識(わたし)はどのように解釈するのでしょうか?
「この世界は現実ではない」という現実感の喪失。
もしくは「私は現実ではない」という離人症のケースです。この状態を体験している間は本人には皮膚電気反応がありません。
自己は感情、空間、時間との関係の中にあるものであり、この関係性が上手くいかないと、離人症・統合失調症・自閉症という症状となって現れます。
自己とは、絶えず、「空間性」を了解(時間化・意識化)することによって成り立っている(吉本隆明『心的現象論』)とも言えますが、その「了解」がうまくいかないと、「自己」は統一されず、意味不明の自己が積もっていくだけで、まったく「自己」とは感じられなくなってしまいます。
自閉症者も、見た映像は記憶に残るのだが、それがいつのものか、他のこととどうつながるのか、はわからないと言いいます(たとえば、ニキ・リンコや東田直樹の作品)。
ここでいう了承とは空間性と時間性を結びつけるもので、良くいうと客観性の獲得です。
しかし瞑想の世界では、「いま、この瞬間」に焦点を当てるために、過去と未来の間にある現在は、全てにつながる「今」というパラダイムシフトが起こり、この二つ(空間性と時間性)が結びつかなくなるので、大脳皮質は主導権を失います。
すると、「自己」がいかに作られたものであり、そこに基準を置かないことで体感できることがあります。
観察者
この観察者は私にとって説明がまだ難しい概念です。
というのもこの観察者はTPOによって性格や機能が変化するからです。
観察者が
「見詰めている」時は、自己意識で対象を観察する者となり、
「見守っている」時は、意識で対象を保護するものとなり、
「寄り添っている」時は、前意識で対象と同調しているモノとなり、
「溶けている」時は、深層意識で同一化していてカタチがなくなっています。
観察者はカタチも深さも密度も変化してしまうのです。
観察者によって、この世の見え方が違います。
「見つめている」や「見守っている」時はこの世を恐怖の目で見ています。これはエゴの観察者なので、嘘をついてでもいかに自分が傷つかないですむか、いかに自分が得をすることを目的としています。必要な観察者ですが、これだけだと表面だけで内側にある面白くて楽しくて柔らかいくて緩んでいて温かい世界には入っていけません。
「寄り添っている」やその先にある「溶けている」時は、この世を包み、そして同時に包まれている緩んだ目で観ています。神仏観とも言われるそうです。
この世で自分が何かを得る場所と思うのか、この世を自分が与える場所とみるのか、の違いとも言えます。
分析する者と共鳴する者の違いです。
この世に自分を含めない傍観者なのか、この世に自分を含める実動者かの違いです。
部分性の囲いを大切にする自意識と全体性の体感を大切にする深層意識の違いです。
「見つめている」観察者ができることは少なく、いかに自分を守るか、いかに自分が得をするか、だけです。
それに比べて「寄り添っている」観察者は与える方法がいくらでもあり、この歓びが原動力になります。
世界に自分が含まれると感じられると、では世界のために自分ができることは何なのだろうか?という観察者も加わります。
繰り返しになりますが、まずは「見つめたり」「見守っている」観察者からはじめるのが大切で、「寄り添ったり」「溶けたり」するのはその後です。
「見つめている」自我の観察者は自分自身をモニター(観察)しています。自分の認識や記憶や行動をモニターして、それらをまとめ(統合)ていなかったら個々の記憶や認識や判断は一つの整合性がない分裂したままなので、本人はこの世に多重にいるように感じるでしょう。
モニターして数々の行動を合理的に辻褄の合うように束ねることで、自分も社会も安定して安心して暮らすことができます。統合する能力がなく、その場その場での判断で良いとしたら、白昼夢のような状態で人を殺しても自分の行動に責任が取れないことになってしまいます。アメリカでは実際に白昼夢で嫁の両親を殺害したが無罪になった判例があります。このようなことが頻発してお互いを恐れて暮らさなくてもよいように、自己は自分自身をモニターする大切な役割を担っています。
ちなみに、これまでの神経学者のデータの積み重ねによると、前頭前野の左半球を中心にした部分に観察者がいるらしいですが、信じますか?
TPOによる観察者の特徴
|
脳 |
層 |
自 |
機能 |
器官 |
みる |
1 |
大脳新皮質 |
表層 |
自己・ペルソナ |
思考・法則 |
神経管 |
視る 観察 |
2 |
大脳旧皮質 |
表層 |
自我・主観 |
反応・意思 |
五感器官・筋肉 |
見る 眺める |
3 |
大脳辺縁系 |
中間層 |
自動的・機械的 |
条件反射 |
循環器系器官 |
看る 診る |
4 |
脳幹 |
深層 |
自分 |
反射 |
消化器系器官 |
みる 内観・観照 |
みる
見るには、視覚でものをとらえる。見物・見学する。調べる・検討する・判断する。読んで知る。経験する。試す。占うなど多くの意味がある。
基本的には「見る」
ほかの「みる」を総合していますが、中心となる概念は、意識的に見ているものではなく目に入っていて視覚的に認識していること、みえていることをさします。
「観る」 映画や芝居、スポーツなどの観賞、観光など周囲を見渡す場合に用いる。じっくり見る場合
「視る」 注視してじっと見る意味で「注視」「凝視」、みなすの意味で「軽視」「敵視」
「診る」 「脈を診る」「医者に診てもらう」のように、病状や健康状態を調べる意味
「看る」 「看病」や「看護」の熟語があるように、世話をするという意味
「覧る」 一通り眺める意味、
「監る」 監視する意味、でといった表記もある。
「試る」 試す意味 試るは「みる」、「こころみる」と読む場合は「試みる」と書く。
「見つめる」は、対象から視線をそらさず、その物をじっと見続けること、凝視することを意味し、多くは、意識や思考も対象に集中した状態を表す。
「眺める」は、一点に集中せず、視野に入ってくるもの全体を広く見る意味で使われる。
眺めるの方が、ぼんやりとした印象を与えるため、視覚的には一点を見ているものの、意識や思考が他にある状態には「眺める」が多く使われる。
英語の場合は。
主にSee, Look, Watch, Contemplateの4つ。
見ている集中度の度合としては、「See<Look< Watch」
【See】は「見える」
seeの場合、目に映る、見える、といった意味で、特に意識して見よう、としている訳ではなくそこにいたら見えているもの、などに使用します。
ですので「見」の漢字が一番近い概念ですが、「見る」より「見える」という意味合いになります。
ちなみに、偶然知り合いと会った時などもこのseeを使います。
【Look】は「見る」「視る」
lookの場合は対象に自分の意志で視線を向ける、目に映す場合に使用します。
日本語では「見る」か「視る」に対応すると言えそうです。
視線だけでなく、探す(looking for)場合や意識を対象に向ける場合もlookとなります。
【Watch】は「観る」
watchの場合、動くもの、変化のあるものをしばらく見ている、目で追いかけている場合に使用します。
観察の「観る」が一番近いかも。
【Contemplate】は 瞑想して内観することを
ラテン語contemplDtus (con-十分に+templum吉凶を占うための天空の開けた場所+-Dtus -ATE1占いの場所で十分観察する)
ヒルガードの「隠れた観察者」
ヒルガードは、古典的な「隠れた観察者」の実験を通して、これが通常の人にも存在するという可能性を示した。
被験者に催眠下で暗示を与える。「これから大きな音をたてますが、私があなたの右肩に触れるまでは、あなたには何も聞こえません」次に大きな音をたてて被験者が無反応であることを確かめる。
さらに被験者に「催眠中でも観察しているあなたがいて、声が聞こえています。この私の声が聞こえていれば、右人差し指を上げてください。」と指示する。(実際に指が持ち上がる)被験者が突然「大変です。私の指が誰かにより動かされました。なにか変なことが起きているようです。音が聞こえるように戻してください。」検者が被験者の右肩に触れ、催眠が解ける。
このHilgard の実験は、解離や人格の分離という現象の奥深さを表している。
(Hilgard, E. R. (1994).
Neodissociation theory. In S. J. Lynn & J. Rhue (Eds.), Dissociation: Clinical
and theoretical perspectives (pp. 32–51). New York:
Guilford Press.)
神経の論理
Neurologic
意識と無意識が別々に働き、そしてそれらが相互作用することで自我が形成されている。
アイデンティティーを構築するプロセスを、脳が視覚を生み出すプロセスのアナロジーとしてみてみる。
視覚経験は、形、色、大きさ、速度、方向といった幾つかのパーツによって分離され、脳の異なる部位で計算され、それから融合されて、一つの視覚体験が構築される。
同様に、自我の経験も自伝的記憶、感情、感覚、思考や行動のコントロールといった幾つかのパーツで構成され、異なる脳領域で扱われ、最終的には合体して統一された外界の経験を作り出すのではないだろうか?
どちらも、二つのシステムに依存している。無意識と意識のシステムである。
意識的なシステムによって私たちは自我を経験する。苦痛や喜び、行動する意志、と自我は心身を故意に制御している。
そして一方で、無意識のシステムが作り出した物語を自我は体験している。
無意識が自我という物語の隠れた作者である。意識的自我のまとまりのない経験の断片をかき集め、必要があれば新たな情報を補足し、人生の物語を編纂する。
無意識のシステムが自我を構築する。
さらに自我を維持して保護し、そのためには解離(Dissociationとは、無意識的防衛機制の一つで自分が自分であるという感覚が失われている状態)を利用して有害思考や記憶を無意識のうちに排除さえする。
なぜ意識と無意識はそこまでするのか?
アイデンティティーの何がそこまで尊ばれているのか?
答えの一つはサバイバル。
個人の物語を持つことで、「洞察する」という武器をヒトは手に入れた。
もし自分という軸がないと、できないことは一杯ある。
例えば、自身の意図を理解したり、推論や決断を熟考したり、目的や願望と一致する行動を取ったりするのも「自分」という軸があることによる。アイデンティティーを持つことで、自身の性質をよりよく理解し、周囲の世界における自身の位置を明確にすることができる。
また、内生的endogeny(心の中に、ある感情や考えなどが生じることENDO- 「…の中に」+-GENY「発生」)な生物は、アイデンティティーを軸にして自分の生存だけではなく家族や仲間を守ることに力を注ぐ。
確かに、「自分」を軸の中心にすることで多大なメリットがある。ただ同時に、メリットというのは弱点や盲点や欠点というデメリットを産み出す。特にメリットに依存してしまい、それを当たり前としてしまった時にデメリットが顔を覗かせる。
いつも間違えている「わたし」
その理由とは? 意識のメカニズム
これまでに見てきたように、脳は常に間違い続けているのだから、これらの情報をベースにしている「わたし」も間違え続けていると考えるのは当然ではないだろうか?
脳が勝手にいろいろと修正したり、空白を埋めたり、一面のデータから全体を創作したり、幻覚を感じたりすることは、fMRIで脳の電磁波を測定したデータから推論されている。そしてこのような神経学の仮説はこれからも毎日のように積み重ねられている。
では、今のところどのようなことが仮定されているのだろう?
間違え続けているのには意味がある。
一つ目は、初めから間違え続けるように「わたし」は作れれている。
二つ目は、間違え続けることで、経験値を高めて次のステップに進む推進力になるから。
一つ目のメカニズムの説明を試みる。
実験室や医療機器を持たない人でも、「わたし」がなぜ間違い続けるのかを説明することはできる。
それは自己意識は以下のようにメカニズムを持っているからだ。
まず認識とはどのようなプロセスなの?
それは暗闇の中で懐中電灯を照らすようなもの。
まずは、スポットライトが当たったところだけが範囲になる。
するとスポットライトの当たった光と当たらない暗闇の二つに分かれる。
当たった所だけを分析して、これまでの経験で作ってきた「籠」にそれを振り分ける。
これができたら「分かった」ということ。分別、弁別、理解、知ると同じ意味。
つまり認識できたということ。
英語のcognition ラテン語源のco- (= together) gnoscere (= to know)
だから理解できたということは、分類できた、ということでしかない。その本質や機能を体感しなくても、籠に分けさえすれば知ったことになり知識とされる。床を這っている小さな黒いモノがクロアリだとわかった時のように。
認識できているということは、意識できているということ。そして自己意識・・・。
意識できたのはいいですが、これまでに「脳の間違い」を見てきたように意識だけでは、その奥にある無意識は気が付かないようにできています。気がついたら、刺激に対する反応のスピードは落ちるし、大まかに把握するという効率も低下してしまうからです。
次にこの意識を自己意識に変えるにはどうしたらいいのか?
それは外部から入ってくる情報・刺激・信号を遮断するために、外部との連絡口を閉じることです。
すると意識の中の流れが固定化されるので、意識がしたいように、それらを好きなようにつなぎ合わせて法則・一般化・名詞化・数式化することができます。これが自己意識の持つ武器です。未来予測の確定率を大幅に上げることができます。しかし、これが通用するのは安定性のあるTPOの中だけの、限定された区域内だけですが。
例えば床の黒いアリはよく見るとエゾアカヤマアリであることが認識(分析・指し示し)されると、このアリの特徴であるギ酸を10cmも飛ばす能力があるという一般の法則を、目の前の個体にも適用させてまいがちになります。自己意識化のメリットは一般化することで特徴を簡潔に把握を一瞬にすることができ、未来予測(確率・統計)も行うことができることです。しかしデメリットも多く、目の前のモノは特殊でユニークでこの世に一つしかない個体なので一般の法則が通用するとは限らないことです。例えば目の前のアリがギ酸を飛ばすことができるとしても、それは成長期のときだけかもしれないし、オスだけかもしれないし、昼だけかもしれないし、湿度が高い時だけかもしれません。それなのに一つの法則を発見したからといって、それをすべての個体のすべての状況や時空に適応させてしまうという間違いを自己意識は遂行してしまいがちです。
これで認識から意識、そして自己意識の流れはわかったと思いますが、このどこが間違いなのでしょうか?
この3つの「識」のそれぞれの段階で問題があります。
認識 そもそも分けることに問題ありです。この世には「分けられない」「分からないこと」があります。
意識 これは意識のまだ気が付いていない無意識が認識できないだけではなく、つねに錯覚に囚われています。
自己意識 これは常に融通無碍・臨機応変に変化するモノを固定化しないと発動できないというのが問題です。
まずはじめの認識のレベルでですが、そもそもスポットライトを当てることに問題があります。スポットライトがオンにされると当然ながら明るいところと暗いままのところができます。この分けることが一番はじめの間違い続ける原因になっています。もともとは分けることができなかった暗闇という「大きな一つのモノ」を光の輪で範囲を決めてしまいました。ライトを当てた方からみると偶然のことかもしれませんが、暗闇側から見れば、無理矢理で強引で痛みの伴う行為です。分けないことで成り立っているものが、分けられてしまうのですから。
分けられないことで機能しているものが、分けられることで機能が変化してしまいました。全てが溶解しており、時に波のように蠢いていた暗闇が光によって、二つに分断され、光が当たっているところでは、なんでも二項対立するのが基本ルールの世界になりました。一つのケーキを二つに切ると、二切れのケーキは左右・大小・多少というように比較される者同士になってしまうように。
これは光側から見れば区分であり、知ることであり、分かり易くなるという、当たり前のことですが、闇側から見れば引き裂かれることであり、働きが破綻することであり、無理であり、無茶であり、暴力であり、偏見であり、差別であり、一方的であり、ありがた迷惑であり、間違いであるということになります。
また、そもそもスポットライトが当たっていないところはなにも「分かって」いません。
そして、光が当たっていて分かるところにしても、それは目隠しをされて象の尻尾だけを触っているのかもしれません。こうして「わたし」は間違え続けるしかありません。 参照エッセイ 常識の限界
次は意識のレベルです。第二章で具体的な例を見ていきますが、意識というのは無意識(潜在意識)によって支えられており、無意識の働きがなければ意識が成り立っていません。もっといえば、生物の殆どの運動は無意識によって司られており、意識が休んでいても無意識だけで生命維持ができるほどです。例えば意識を使わなくても自動的に行動に移している情動、条件反射、反射の運動のように。または、睡眠時や脳障害による植物状態の患者のように。そして時には隣りに座っている恋人との会話に夢中になって、よく知っている道ならばそれほど意識せずに車を運転している時のように。
また他の問題は身近な例では、錯覚、錯視、錯聴などの現象です。五官からの信号が感覚となって脳に伝わってくるのですが、これが、無意識にとって都合の良いように知らないうちに勝手に情報が書き換えられてしまっています。
これも「わたし」が間違え続けている原因です。
最後の自己意識のレベルが間違え続けてしまうのは、「閉じる」ことに起因します。
外界からの刺激を遮断しないと自己意識は発生できないので、まずは「閉じる」ことから始めます。
「閉じる」こと流動的な世界を固定化させることによってしか、それを分析して法則(一般化)することができないのです。しかし、この世は常に変化し続けているので、閉じてしまうことで、二つの問題がでてきます。
流れているものを固定化させてしまっている問題と、この世の変化し続ける世界よりも常に遅れてしまう問題です。
固定化してしまったことで、過剰一般化と過剰具象化が起きてしまいます。
「膜」をつくって「閉じる」ことで、その内部に因果関係という法則を見つけることができ、それをパターンとしておぼえて(過剰一般化)して、未来に適用する(過剰具象化)ことができるようになります。
この見つけた法則とは、ある特殊のTPOの時にだけにしか通用することができません。
しかも根源的な問題点は、この法則は「閉じた」時にだけ通用するものなので、常に変化するこの世には通じないことも多々起こります。閉じ込めることができないものは法則・一般化にもできないので、それらに対しては対処できず、それが意外に一杯あります。これらは法則の通用する範囲外の領域なのですから。そして正確にいうと範囲外がこの世のマジョリティーであると言う意外な事実を見つける人もいるでしょう。
例えば、高等教育を受けた人は光合成の法則を知って、植物が酸素を供給すると思い込み、植林運動を推し進めたりする行動の割合が増加してしまうように。
これも意識や自己意識の特徴をよく表している過剰一般化の事実です。確かに植物は二酸化炭素を吸収して酸素を供給し、この光合成の法則の基になる葉緑素を持っているのですが、これは太陽と風と湿度と気温の条件が重なっている時のある特定のTPOの時にだけしか起こらない現象です。それなのにこの特殊環境のもとでしか起こらない法則をこの条件の範囲外にでも適応させてしまって判断し、なおかつ行動を実行してしまいます。
まあ一言でいうと自己意識とは、効率と予測を優先させるために、独断的で、断定的で、大雑把で、粗く、横着で、横柄で、怠惰にならざるを得ない一面があります。
法則を持ち出してこの世を認識しようとする自己意識は、この世の変化に対応する愛に欠けた認識方法だとも言えます。相手の様子をうかがい、相手に委ねて、「待つ」ことはせずに、自己意識の中で作られた法則をもとに判断と実行を行ってしまうからです。相手のためだといいながら、実はそれは自己意識のためであることは少なくありません。現代の都市生活をしているインテリと呼ばれる人の認識システムは、このように法則を一般化することをベースにしている傾向があるので、いくら知識(固有名詞)の量はあっても中身には正確性が伴わないことがあまりに多いということをよく自覚し、その上でインテリや自分の自己意識とお付き合いするほうがスムーズにコトが運ぶかと思われます。
植民地政策、ある種の医療機関、ある種の教育、ある種の商売、ある種の平和運動などに内包する「正義や理念」があれば一度は吟味してみるのも面白いことでしょう。
内容が重複してしまいますが、違う例えを最後にもう一つ使ってみます。
この世は常に変化している、休むことなく。
どこまでも区切りがなく、ずっと絶えなく。
しかしこの変化し続けるモノとそれを含んだカタチ無きモノを意識はとらえることができません。そこで、これらの変化をビデオの1コマのように止めることで、はじめて認識できるようになる。だから、意識はこの世の変化にいつも遅れてしまうし、その認識と判断は常に過去の状況に準じたもので、新たな「今」のものではない。 そこで、ベイズ統計のように常に常にデータの更新を必要とするのが自己意識(判断)の宿命です。
そして問題は次の自己意識。
「囲む」という瞬間芸で、外から入ってくる情報(電気刺激)を一旦止めて、時空や状況という条件を閉じて結びつけて固定化させて、それを分析して、その中に因果関係という法則を見つけ、それをパターンとしておぼえて(過剰一般化して)、未来に適用する(過剰具象化)。
これが自己意識のできることなんだけど、メリットは未来予測の確率が高まるということで、デメリットは法則外のものがいつもあるので、それに対しては対処できず、それが意外に一杯あること。意識の枠に閉じ込めなかったものはどれもが法則外。そして時空と状況の条件に少しでも変化が出たものも法則外。だから正確にいうと法則外がマジョリティーであると言う事実。
法則では解決できない場合に脳はどのように反応しているんだろう?
いつでもなんでもかんでも意識でとらえるほど、「わたし」は暇じゃないし、生真面目でもない。「わたし」はある時にある場所であることにしか関心を向けようとしない我儘な性質とできるだけ無意識に任せてしまってサボろうする怠け者の性質が本性です。
蛇足だけど、怠けることとは脳に依存しないことなので、生命体や宇宙にとっては大切なこと。特に病気の人や、社会的エリートや、理知的な人や、自己をアピールする人や、文章や音楽を多用する人や、精神病の人や、言語・法則に依存している人や都市生活者にとっては。
話を戻して、法則では解決できない場合に脳がなにをするのかというと、新たな情報の無視と、過去の記憶の再利用と、分かった気持ち(レッテル貼り)になってやり過ごすのと、条件反射にしてしまうのと、無意識の瞬間的自動修正。
常に遅れてしまうということは、常に更新しないと目の前の現実を把握することができないという事が起きてしまいます。
有名なモンティ・ホール問題は、自己意識は常に更新され続けないと2倍の確率で未来予想が外れてしまう例です。
もし毎瞬間ごとに情報を更新していないのならば、脳でこの世は把握ができないという実例です。
モンティ・ホール問題
ここに、3つのドアがあります。
どれか1つには、ドアの向こうに豪華賞品があり、それ以外はハズレ(空)です。
どのドアの裏に豪華賞品があるかは、司会者のモンティは知っています。
参加者は、まず、3つのうち、どれか1つを選び、司会者のモンティに伝えます。
モンティは、それを受けて、残りの2つのドアから1つ、空のドアを開けます。
そして、あらためて参加者に、どちらかを選ぶように伝えます。
今、参加者が、ドア@を指定しました。
モンティは、残りのドアA と ドアB から、ドアAを開けました。
参加者は、ドア@ か ドアB をあらためて選ぶことになります。
どちらが確率的に有利でしょうか?
1.ドアが3つあります
2.その中に 当りが1つ、ハズレが2つ あります
3.あなたは、ドアをひとつ選べます
4.あなたが選んでいないドアを司会者が開けます
5.開けられたドアは 必ず「ハズレ」です
6.あなたは、ドアを選びなおす権利があります
7.選びなおさない権利もあります
問い・・・あなたはドアを選びなおしますか? 選びなおした方が、勝率が上がると思いますか?
「選びなおさない」派の気持ち
・残った どちらのドアも 確率的には 1/2 なので、直感を信じる
・もし、選びなおして「ハズレ」ると、後悔する
「選び直す」派の気持ち
・選びなおした方が勝率が上がるから
・ドアを開けられた時点で、確率が変動するから
解説の例
豪華賞品のある確率は、各ドアとも1/3 ずつです。
つまり、参加者が選んだ以外のドアは、2/3でした。
その内の、一つが無くなったので、選んだドアが1/3、そうでないほうが2/3です。
直感的に、分かりづらいかもしれません。
その場合には、ドアの数を増やせば、納得がいきます。
ドアが1000個あった場合に、選んだドア以外から、モンティが、998個の空のドアを開けたとします。
残った2つのうち、どっちに豪華賞品がある確率が高いかは、直感的に分かりますよね。
→
自己意識と時間または歴史 間違える理由のポジティブな意味
二つ目の間違え続ける理由は、間違えることにプラスの意味がある、ということです。だからわざと間違えているのではないかという推論です。
そもそも分けることができないものまで分けてしまうという間違いをおかし、次には分かれたものを対立させることが「空」からカタチが生まれる宿命ではないでしょうか?
分けないかぎり「空」はカタチにならないし、カタチになったのは分けたことによるので、この世のカタチのある世界では相反することで成り立っているという考え方です。
対立を解消させて元の「一つ」に戻ることも大切ですが、このカタチある世界を活性化させるには、自己の本性である「分化」をさせ続ける機能と同調します。この世を活性化させるのが「わたし」の役目のようです。
この世にいること、すなわち存在そのものが間違え続けることだとも言えちゃいます。
でもそのお陰で、二つ目のポイントである、「目(記憶と感覚器官と意識)」を開けているだけで、自己意識という推進力が永久機関となって「時」を産み出して、二次元であった波動を三次元の螺旋へと導いているという解釈はどうでしょうか?
この世の存在と自己意識と宇宙意識(宇宙誕生の前からあるだろう)は「同じ調べ」があると考えることもできます。
自己意識には時間を産み出し、歴史を急速に進める力と、それを肯定する力がある、という仮説を、また第四章で関係する話を進めていく予定でいます。
自己に一貫性があるかのように思ってしまうわけ
そのほうが、生存するのに効率的で便利であるから、というのはどうでしょう?
そしてなんでも自己を中心にして記憶したり、決断したり、想像するように、ヒトはプログラミングされているとも。
自己を中心にすることで枝葉のように階層的に世界を把握することでコントロールすることができます。
これが一貫性のメリットです。
ただし、自己の価値観に強い一貫性を持たせてしまうと、TPOが変われば今度はその強い一貫性が逆に害になってしまい、この世を把握する邪魔になってしまいます。このような場合は解離を起こして一貫性から逃れたり、自己は幻想であると主張して一貫性を投げ捨てるのではないかと思います。
無意識よりも後からくる自由意志 freewill
以下は神経外科医ベンジャミン・リベットが行った実験です。
10分以内の自分の決めたタイミングで指を動かすように指示をします。すると被験者が指を動かそうと意識した瞬間と、実際に指が動き出した瞬間はほぼ一致していたにもかかわらず、指が動く0.75秒以上前に、脳波の電位変化があらわれました。
主観的体験としては自分の意志で指を動かしていると感じるのに、指を動かそうという「意志」を自覚する一秒近くも前に、脳波でモニターされる脳内事象が発生しています。
脳の指令が一秒も前から出ているのなら、意志が動かしていると言えるのでしょか?まるで実際に取り仕切っているのは脳で、「自由意志」は事後の合理性をもたせ、自己を納得させるための妄想や言い訳のようです。
脳から生じた信号が指に届くまでに0.75秒の遅延時間が生じています。まるでテレビの衛星放送のインタビューの間のように。
これにはどんな根拠があるのでしょうか?
意志という主観的感覚をあえて遅延させ、脳の指令と同時ではなく、指による指令の実行と同時にするようにしたのはどういう意味があるのでしょうか?
もし意志が脳内事象に伴っているだけの随伴現象だとしたら、なぜ進化はシグナルを遅らせて、動きと同時になるようにしたのでしょうか?
意志という主観的感覚は、私たちの動きに伴う影のようなもので、私たちを動かす原因ではないのでしょうか?
ここにパラドクスがあります。
実験が示すところでは、自由意志は錯覚です。自由意志よりも脳の事象のほうが0.75秒(100m競争では7mぐらいの差のある「長い」時間)も先行しているのですから、自由意志が脳内事象を起こしているのではなく、後から自由意志がそのことに気づくという順序です。
この遅延にはなんらかの機能を持っているはず、と考えることもできます。どんな意味があるのでしょうか?
まずは無意識から始まっている。それに遅れて自由意志が起動する。
これはなぜか?
私の仮説では、自己意識を中心にして一貫性を保つことが、記憶、自己管理、モニターには有効で必要なので、普段の生活では自由意志で操ったと思うことが、自己維持のサバイバル機能を活かす時には効率のよい視点になるためではないか?この無意識の働きを受け入れるために意識は間違え続ける、というのが今のところの解釈です。
閉じないと思考はできない しかし目の前の事実は常に変化して開いている
モンティ・ホール問題で自己意識による法則のパターンを適応するには常に更新を続ける必要があることを考察しました。
その理由は実は自己意識とは外周(周囲の環境)と遮断されないと発動できない、からでした。
自己意識が何かについて考えるときに、外からの情報を遮断して、自分だけ(自己意識)の思考の世界に入ることが必要だ。そうしないと絶えず五感から入る刺激によって、思考を続けることができなくなるから。
例えば、ゲームや本や仕事や想像で夢中になっている時に、周りの音や人の声が聞こえてこないことがある。この「閉じて」いる状態が、自己意識の特徴だ。
このように閉じないと自己意識が発動されないが、目の前の現実は常に変化する「開いた」世界。
思考する時には閉じることで「わたし」を作り出す必要があるが、思考が終われば、思考した内容も単なる「仮のモノ」として接して扱い、これを絶対に正しいとする固定化したドグマ(教義・教理)とはせず、閉じた両端を開放して、また開いた世界に戻ることが必要となる。もしどうしてもドグマが好きな人ならば、この世は「常に変化し続けている」ということをドグマにするのがいいだろう。
自己意識で理解したものは、常に「仮りのモノ」だという自覚が現実と柔軟に対応・呼応するには必要だ。
自己意識に至るまでのプロセス
ところでもう一度、自己意識にいたる必要不可欠なモノの順番を考えてみてください。
生物史の系統発生の歴史や地球史でもいいし、自分のカラダを見つめてみるのもいいかもしれません。
自己意識は脳がなければ発生しません。では脳の活動を維持するために、絶え間ない血液の流入が必要です。10分ほど血の流れが止まっただけで脳は壊死します。脳梗塞が身近な例です。
そしてこの循環器系の内臓を支えるのが、消化器系の内臓です。外部とエネルギーを交換することで生命体は現状を維持することができます。
そして当たり前のことですが、脳そのものも実は神経管という内臓の一部でしかないということです。
ですから自己意識があってからカラダがあるのではなく、まずはカラダがあって、次に神経系器官があり、その次にそこから発動する自己意識が活動する時が「時々」あることがわかると思います。例えば寝ている時や脳梗塞で寝たきりになっている人や植物状態の人は、自己意識はありませんが、そんな時でもカラダは間違いなく機能しています。
過去35億年の生物史の変化も内胚葉から発達した消化器系器官、次に中胚葉から発達した循環器系器官、そして最後に外胚葉から発達した神経系器官の順番です。この逆ではありません。
自己意識のできないこと(限界)と他のセンサーの有無?
この自己意識のメリットは一つのものを二つに分けことなので、常に二者択一の答えを求めてしまいます。
しかし、「生命」のような問題に対処するには、別の基準も並列して思考する必要があります。
一言でいうとカラダの考え方、二言でいうと循環器系の波の思考法と、消化器系の溶解の思考法の導入です。
波の思考法とは、栄養分を体全体に伝える時に使うやり方で、血流は血管を通してオンとオフの二つに分けて循環させるのではなく、心臓の収縮・拡張の機能にしたがって、波の力で全体に伝えるものです。
次の溶解の思考法とは、胃腸が食物を消化するように、異物を溶かすして自分の一部にするプロセスの思考法です。全てのものは分けられることなく融解しており、なおかつこれらを吸収するのは「自分」ではなく、「他人」である腸内微生物によってでしか自分自身の一部にならないという体内の事実を基にした思考法です。
「分ける思考法」だけではなく、これらの二つがに新たに加わることで、踏みにじる者と踏みにじられる者という関係から、どちらも必要でありどちらの立場にもなれる流動性を得たり、すべてのモノがつながり影響しあっている踏みにじる者と踏みにじられる者が一体になる実感が生まれてくるのだと思います。
「文明と野生」の問題から見れば、学問だけを重要視したり、自然への回帰を実践するだけではなく、一年は365日あるのですから、その中で自分に合った配分を見つけて応用するということです。また一日は24時間もあるのですから、6時間は自己意識を基準にして仕事や学問をし、6時間は神経系と筋肉と骨を基準にして洗濯・掃除・食事・散歩をし、6時間は循環器系器官を基準にして、団欒・のんびり・呼吸法をしながらボーとしたり・瞑想し、6時間は消化器系器官を基準にして、ゆったりと休んだりして、全体でバランスをとることです。
現代及び将来の人間の叡智と気楽さと勇気と欲望と願いと諦観と安心と実践によって、進む方向が決まっていくのでしょう。
自己という病
自己はカラダを傷めつける。
自己にスポットライトを当てていると血液もエンザイム(酵素)も脳に使われてしまい、内臓への養分がおざなりになってしまう。
自己は緊急時の秘密兵器だ。
トラから逃げたり、キジを捕まえる時のために。
思考する時のために。
ゆったり気持ちよくボーとしていられない時のための非常手段だ。
「わたし」の弱点は、発動している時は、外敵に弱いところ、外の世界を遮断しているから。
もう一つの弱点は「わたし」に依存しちゃうと、カラダが弱まり病気になったり、この世のことを勘違いしてしまって、この世界が滅びる方向に先導してしまう。
自己意識をなだめて、安らぎを与える
ヒトは意識によって行動を選択する機会が多くあります。しかしこの意識が働きすぎると、血の流れは交感神経が影響を与える器官を中心にして、その結果としてモノの捉え方や理解の仕方に偏りができてしまいます。緊急事態にはこの自己意識の発動が効率的であり効果的で良いのですが、交感神経の活動がおさまり副交感神経が活性化しないと免疫細胞やホルモンや酵素(エンザイム)が生成されません。緊張を強いられる時間が終了したらできるだけ早くリラックスすることが体には必要です。
4つのパート
自己意識以外にも脳には他の機能もある。
複雑化した脳を簡単に分類してみると、脳には4つのパートがある。
|
|
部位 |
機能 |
把握方法 |
関連器官 |
場所 |
人口密度 |
目的 |
1 |
潜在意識 |
脳幹 |
いのち・反射 |
融解 |
消化器系器官 |
小屋 |
過疎 |
種の保持 |
2 |
潜在意識 |
大脳辺縁系 |
情感・条件反射 |
波動 |
循環器系器官 |
村 |
疎 |
個の維持 |
3 |
意識 |
旧皮質 |
感覚・運動 |
因果関係 |
感覚器・筋肉 |
市 |
密 |
効率性 |
4 |
意識 |
新皮質 |
一般化・言語 |
法則 |
自己意識 |
大都市 |
過密 |
合理性 |
この4つの脳が並列に同時に連動して、ヒトは体感し、判断し、行動する。
脳はなぜ間違え続けるのか? 意識レベル・脳機能・器官・密度には目的(美学)の違いがあるから
この間違えるということが重要で、悪いばかりではなく、これがあるために生命は生きていける。
4つのパートはどれも特徴も方向性も正しさも目的も違い、いつも同じ方向を向いているわけではないので、いつも間違え続けるしかない。
合理性、効率性、「個」の生命維持、「種」の保持とどれも目的も違うのだから仕方がない。
間違えるのが嫌だとなると、判断や行動が単一化して、外界の変化に対応できない、ロボットになってしまう。
どこか一つを基準とすると、そこから見れば、他の3つのパートは間違っているので、これが間違え続ける理由だ。そしてこの間違え続けるおかげで、次々と変化する環境に対応することができる。
重要なのはこの事実を大脳が認知することで、サバイバルの確率が上がる。逆に脳が間違え続けていることに気が付かないと、その生命体のサバイバルできる確率は低下する。もしくはサバイバルしないという選択を選ぶこともできない。
次々と変化するTPOに合わせることができるモノはサバイバル能力が高く、安定した優等生タイプである。
また、一つのパターンに依存するものは、当たりハズレが大きい、ギャンブラーのタイプである。
どちらも面白い。
サバイバルでどちらが正しいという正解はない、明日だれが交通事故に合うかわからないように。もっというならばサバイバル自体が第一優先されるものかどうかもわからない。もし第一優先されるものであったとしても「個」のサバイバルが「種」のサバイバルと相容れない場合は多数ある。またその「種」のサバイバルによって、他の種が滅ぶ可能性が増大する時に、その種にとっての第一優先は、その他の種や地球や宇宙にとっては、望ましくないことだけは確かである。
サバイバルという大義名分は、「閉じた範囲の中だけ」にしか通用しない法則でもある。
自己は幻想である
脳の中には、自己に相当する単一の存在はないという意味で、自己は幻想にすぎない。
神経プロセスがDNAやクレスプ回路の生化学的メカニズムのようにわかれば、自己とは何かということに一つの答えを提供することができる。
自己とは、人格に一貫性や連続性や安定性を付加して、より効率よく機能できるようにするための組織原理ではないか?
自己は驚く程の持続性を持っていることは、オリヴァー・サックスの説が参考になる。「心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界」「音楽嗜好症(ミュージコフィリア)− 脳神経科医と音楽に憑かれた人々」
クレプスサイクル【Krebs cycle】
クエン酸回路とも言われ、糖質や脂肪酸やアミノ酸などが代謝の結果,最終的に分解されて二酸化炭素を生成する循環的な代謝回路。好気的代謝に関する最も重要な生化学反応回路であり、酸素呼吸を行う生物全般に見られる。アミノ酸などの生合成に係る物質を生産し、効率の良いエネルギー生産を可能にしている。
自己意識は幻? カラダも借りモノ
経験を積むと勘違いが減っていく。
それでも「普通の老人」になるのが如何に難しいことか。
勘違いが減った分だけ、勘違いが取り除かれて後に残った考えのパターンをいまだ正しいと思いこみ、それに固執して頼ってしまうからだ。
間違いを見つけると、それを取り外せば後には正しいもの残っていると思いこんでしまう、のも自己意識のクセである。
間違いと思って取り外した内にこそ、幾分かの正しさがあるのに。
少なくなった分だけ、残りの部分には勘違いの濃度が濃くなったにすぎないのに。
これまで見てきたように、私たちの脳は次々と誤謬を重ねている。
錯覚で、無意識の自動修正で、無意識の創作で、無意識の辻褄合わせで、過去に学習したパターンの使い回しで、感情と体の反応を結びつけた条件反射で、過剰一般化で、法則で。
そしてこれらのデータを土台(ベース)にして「わたし」が成り立っている。
だったらこんな「わたし」ほど頼りにならないものはない。
10人で次々と行った伝言ゲームの成れの果てのほうが、自己意識よりもまだ確かなのかもしれない。
じゃあ自己意識なんか一切信用できないから捨てちゃえばいい、という時もある。
でもこれがないと他者とどころか独り言さえも言えなくなってしまう。
そこで、大切な幻としてゆったりと付き合うというのもいいと思う。
自分というもの全ては、意識という自分で成り立っていると思いたがってしまうのが自己意識が陥りやすい習性だ。
実態は自分(自己意識)はなにもしていなくて、この世ではなんでもかんでもが借りものでしかなく、自己の実績の多くも実は他力でしかない。
例えば消化。
意識が直接的に関われるのは咀嚼の回数ぐらい。
収縮したり蠕動している胃腸だって回数を意識して動かしているんじゃない、彼らに任せているだけ。
それに食べたご飯を消化しているのも自分ではない。それは腸にいる微生物さんたち。
土地だって自分のものじゃない、生きている間だけ地球から借りているだけ。所有権をフランス人が言い張ったのはたった300年前の話で人類史からみればまだ未完成な「分け方」でしかない。
この体だって、この世にいる時だけの借り物で、後にはこれらの元素を字義どおりに元に還すしかない。
喩えてみると、「自分」とはちょうど干潟のようなもの。
満ちていた潮は自分のものではなく、そこいらにある「空」が満潮であっただけ。
ナーガールジュナの「空」とは「いのち」の根源、カミ、すべてを産出し消滅させるもの、大いなるもの。
この世の常に変化するものとは、「いのち」、カミの息吹、魂、新陳代謝、だと言い換えることもできるでしょう。
前半の人生にいただいた「潮」を後半は元に還していることの充実感と感謝を覚えるひと時がある。
「真実」にはカタチがない。カタチがあるモノは真実ではない。あえて真実を言葉で表そうとしたら、「そうであって、そうでないもの」という矛盾したややこしいものになってしまう。
ほかの言い方でいうと、モノではなく心臓が同調する消え去る波形。
二つの隙間にある「あいだ」こそが真理の隠れたる居場所だ。
「いま」の力を使って、その隙間に染み込んでいくには私たちの熟練の技術によってでしか方法がない。その時に初めて「真実」「真理」を垣間見る、いや垣間に体感する瞬間がある。
意識と無意識と潜在意識の相違点
意識に関しては色々な分け方があるので、少し説明が必要だと思います。
有意識と無意識、顕在意識と潜在意識、表層意識と深層意識、個人的無意識と集団的無意識、前意識、変性意識などなど。
共通点はどれも意識を基準にして話が始まっているということ。この文章だって意識によって書かれているのだから仕方がない。
この地球上のものは植物やゾウリムシのように意識のないもののほうが圧倒的に多いのだから、無意識を基準にしてこれを生命体の常識として話を進めたいのだが、まずはヒト科の常識に沿って話を進める。
まずは図を使って区分してみる。意識は区分して定義することしかできないから。
意識のモデル図
唯識は仏教の八識のモデル図
上の図を見てもわかるように、各業界が好きなように、潜在意識や無意識をはじめとしたその他の意識層を都合の良いように使っている。
だから、先に答えだけを言うと、無意識や潜在意識にまだ統一された定義はなく、これからもないだろう。
個人の成長においても、前意識・無意識・潜在意識・イド・末那識・アラヤ識に気づいていくと、そこは意識の一部へと変わっていくのだから。
そこで各文脈によって意味の内容を把握するしかない。
無意識の意味
無意識には、二つの違った意味がある。
「意識がない状態unconscious」と
「心のなかの意識でない或る領域」(前意識Vorbewussteと無意識Unbewussteのレベル)。
「意識がない状態unconscious」にも二通りの使われ方がある。
一つ目は大脳の働きがほとんどない状態で、脳梗塞や損傷や植物状態で完全に活動がない状態から、睡眠中などのほとんどない状態までがある。
二つ目は「気づかない」という状態だ。例えば、図書館で本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、周りの人の声の両方が意識されている。しかし、読書に集中しくいく内に、周りの音はきこえなくなる。そして、ふと何かで読書に対する集中力が中断されると、周りの声が急に聞こえて来る。声はずっとしていたのだが、読書に集中していたため、声に「気づかなく」なっていた状態だ。
ヒトは非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受けつづけているが、その多くは意識していない。しかし、記憶に関する心理学の実験からは、「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激として大脳が感受し記憶に刻んでいる量は膨大であることがわかっている。
次に「心のなかの意識できていない或る領域」とは。
意識には対象が必要だ。対象がないと意識は起動しない。
意識の「識」とは、「対象の総体」がある「領域」のこと。何かを「意識している」、何かに「気づく」とは、対象が「意識の領域」に入って来ることだ。意識に昇って来ることで対象化される、ということだ。
しかしその対象に「気が付かなかった」らどんなことになるのだろうか?
膨大な量の記憶は、電気信号を通じて神経細胞(ニューロン)に書き込まれて形になり、再生される時にはまた電気信号となって引き出される。この個々のニューロンは孤島の集団のように存在しているのではなく、グループとして繋がって保存されている。そこには、感覚・意味・感情・本能・好き嫌い・快不快といろいろな要素のホックのような「手がかり」がついていて、これらにひっかかると記憶は再生されるので、「わたし」はこれを再体感することができる、仮定されている。
ところが、記憶の中にはこのホックがついていないものがあり、一生涯において二度と「意識の領域」に昇って来ないものも膨大な量ある。これらは「意識の外の領域」にあるという仮説がある。
「意識の外」と言っても、科学的には、大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、「意識の外」とは、意識の検索に引っかからないということで、ある時に過去の事項と類似性の高い経験をした時にはこの過去の出来事の詳細を急に思い出したという体験をしたことがある人も多いだろう。
このような普段は「意識できていない領域」も無意識の第二の意味になる。
無意識の存在
意識が対象とするものは、経験や学習によって得た記憶・知識以外に、生得的または先天的に備えていたものがある。それらをなんと呼ばれるものか?
本能、隠されている「知識」、遺伝子の配列のように「構造」を持つものetc。
その一つの例は、「言語」であり、ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張する。
子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、つまり、まだ記憶には存在しない文章を言葉として話す。
それではどこからこのような文章が湧き出るのか?
これらが「無意識の領域」だと彼は言う。
チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。言語の自然な生成や言語の流れの生成は、意識の外で、すなわち意識の深層や無意識の領域で、言葉と意味をめぐる整序が行われているというのだ。
(チョムスキーは無意識とか深層意識という表現を後になって避けたが、言語の先天的な構造性の主張の変化はない。 「無意識」という用語は、定義が曖昧で、通俗性が高く、恣意的な意味で使用される危険性が大きいので、使用することに対する消極的な傾向がある。)
このように、意識の外の領域に記憶や知識や構造があり、意識と影響を及ぼしてあっていることは、科学的に実証されているので、いろいろなデータを次の章で具体例を見てみよう。
広義の無意識
「意識でない領域」に関しては、様々な解釈が行われている。
催眠状態での意識状態や、宗教的な儀式や薬物摂取で生じる「変性意識(変成意識)」なども、通常の意識でない状態である。
また、このような広義の変成意識などの他に、サブリミナルなどの「意識でない状態・領域」が考えられてきた。これらを含む無意識については未解明な領域であり、心理学の分野や脳科学の分野や他の分野等で研究が続いている。しかし、「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。
これだけ話題になるテーマであるが、フロイトやユングやトランスパーソナル心理学の理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在を実証する方法はまだ見つかっていない。
意識と記憶
ヒトには意識するものに、過去の記憶、目前の感覚、見えない空想がある。
過去の経験である記憶を再生するには、ある体験から想起される言葉や知識などを媒介として内的なイメージとして過去の情景(視覚的・聴覚的・嗅覚的・味覚的等と創作されたストーリー)が思い出される。
記憶は日常的に再現されており、複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を「意識しない」で、自動的に行われている。例えば、自動車に運転の時のように、アクセルの微妙な踏み具合を一々記憶を辿っているわけではなく、「カラダ」で覚えている。このような記憶を手続き記憶Procedural memoryもしくは非陳述記憶と認識学では呼ぶ。
しかし、何かを思い出そうとして、確かに知っているのに、どうしても思い出せないというようなケースがある。
思い出そうとして、努力が必要な記憶は、「滑らかに流れて行く意識の領域」には、想起が成功するまでは、存在しなかったことになる。このような記憶は「現在の意識領域」の外、前意識 (ドイツ語Vorbewusste)と呼ばれる、通常は意識に昇らないが努力すれば意識化できる記憶が貯蔵されている「無意識の領域」にある。今の科学では証明されていないので仮説とされているが、fMRIを使ってホック(他の事項との関連性)の大小や有無の実験はできると思う。
意識領域 |
||
|
精神分析学 |
分析心理学 |
意識 |
意識 |
|
前意識 |
前意識 |
|
深層 |
無意識 |
個人的 |
(未定義) |
集合的 |
意識状態 |
||
|
覚醒状態 |
深睡眠 |
有意識 |
無意識 |
|
フリンジ |
||
|
|
コラム
明治文化人の自己意識との出会い
どの時代にも当たり前に自己意識はあった。しかし庶民が自己意識だけを価値基準の中心にすることはなく、カラダからのメッセージも重視して暮らしていた。
腑に落ちる
腰が据わる
胸がつかえる
断腸の思い
肝に銘じる
腹を決める
ところが幕末に欧米の圧倒的な軍事力を目の前にして、富国強兵が求められた。
それには意識をたんと使って精進しなければならない。
「いのち」よりもカタチが優先される。
体の中にあるカミよりも、組織を統一するカミが求められた。
自然の摂理よりも、意志による効率やスピードを選択した。
そして、なんでもかんでもアタマの自己意識を基準にしろという風潮が春一番のように吹き荒れた。
あまりに露骨なたくらみだったので、これをオブラートで包むキレイゴトが必要だった。
カラダが無い者には理念にしか、頼り依存するしかなかった。
ちょうどカラダと自然に劣等感を抱く人々に時代はスポットライトを当てた。
するとそのような人々が次々と生まれてきていた。
病人、インテリ、都市生活者、女子供、機械利用者、植民地拡大推進者、毛唐、先進国人、金銭依存者
このような躰体の聲が聴こえにくい人に白羽の矢は向けられた。
頭でっかちの知識人、カラダが未発達な乙女、学問に憧れを持つ百姓、都会に住む職人と商人、決まった給料を受け取る職業人、アタマを優先させようとする若い学生、体力のない病人たちに。
こうして合理性、耽美、遍く愛、純潔さ、正義、ナルシズム、平等、公平、自由、完璧性が祭壇に飾られ、カタチさえない幻からこの世を見詰める人で溢れかえる。
自然の摂理の因果関係は逆さまになり、先に結果を見て原因を考えるという奇術が常識となった。
こうして学問が普及する。
夏目漱石は自己にこだわり窃視症と慢性胃炎を患い、
平塚明子は「孤独の旅路なり我が二十年の生涯は勝利なり」「わが生涯のシステムを貫徹するためなり」と叫び、
樋口奈津は偏頭痛を抱え肺結核でこの世をさり、
藤村操は華厳の滝に遺書を残し、
管野壽賀子は人柄よりも略奪者の打倒を選択した。
宇宙と自己意識
宇宙の中で、ヒトに意識が存在するという事実は、根源的な意味を持つのであろうか?
自己認識は生物を通じてこの世に生み出され、この「わたし」は「宇宙の意識」について注目している。
「私たちは、ここに存在している。」ということに人類は異常ともいえる関心を傾けてスポットライトを当て続けている。
自己意識は「宇宙の意識」の表層を理解できるかもしれないが、「宇宙の意識」の深層は理解することはできない、私の体験では。理由は自己意識にはできることとできないことがある。これが自己意識の限界である。その外側にある範囲外の領域には他のアプローチで近づくしかない。
宇宙と自己意識の関係性については面白い事例が多い。
「いま、この瞬間」に関心を向けると、過去や未来、そしてその間にある現在という時間の枠組みが外れてしまい、ただ、「いま」だけの中に「わたし」はいて、それに気づいている内に二つは融解して「わたし」も消え去ってしまうという現象が起きる。
このプロセスの途中に、「いま」と自己意識と宇宙が繋がっている感覚を体験することになる。
因果関係からは解き放され、時間との結び付きとも切り離され、ただこの「いま」に宇宙と自己意識がある。
深い安心感と深い喜びと深い悲しみがともなう。
幸福感ではない、大事な人が亡くなったりした場合などの時として不幸であるにもかかわらずだからである。
これも証明はできないが二つの間を体験し続けると、体や精神の病が治癒しているケースもある。
新しく細胞が生まれ、同じ数の細胞が消え去っていく。ただそれだけである。だからすべての病気は過去と未来のもであって、「いま」のものではない。「いま」の宇宙と自己意識は何事ととも結びつかず、しまいにはこの両極さえもが一つに溶けていってしまう。
自己は幻想なのか? 自己意識以外のセンサーはあるのか?
脳科学では、人間は宇宙で特権的な地位を占めてはおらず、そして「世界を見つめる」非物質的な魂を持っているという観念は幻想に過ぎないと告げている学者が多い。
自分は「対象物を見つめている観察者」だけではなく、実は永遠に盛衰をくり返す宇宙の事象の一部である、とういうことを一度でも体感すれば、自己・自我・「わたし」・主体という幻想から大きく解放される。
それには自己意識以外のセンサーをつかってこの世と交流する体感をする必要がある。
生物界には植物や微生物のように脳のない生命体は数多くいるが、それらは脳以外のセンサーを使って他者との交流や交感や交換をしている。それによって重力、光、湿度、接触、を感知し、その刺激に対して反応している。
酵母菌が糖を吸収して二酸化炭素とアルコールを排出するのも交換だし、植物が二酸化炭素を吸入して酸素を排出すことによって炭素を吸収するのは動物でいう摂食運動である。
感知して反応するということは表層意識である感性や理性がなくても、他の方法で信号を受信して発信していると抽象度を一つあげた表現を使うと言い換えることができる。
地球上における38億年の生命体の進化(変化)を見れば、外部を内部に取り入れる消化器系器官を持つ生命体が発生し、次にそれを体内で平衡させる循環器系器官を持つ生命体が発生し、最後に感覚器官とその信号を処理する神経系器官を持つ生命が発生した。
また昆虫や脊椎動物の卵という一つの細胞の発生を見ると、始めに内胚葉が消化器系器官となり、次に中胚葉が循環器系器官となり、最後に外胚葉が神経系器官に発達していく順序である。
どの生命体も脳を使わなくてもサバイバルしてきた事実がある。脳がなくても環境と交流をしている事実がある。
自己意識を持っていなくてもちゃんと繁栄している植物や微生物や動物がいる。
彼らは自己意識とは違うセンサーを使ってこの世と交流している。
これらを無意識や非意識との交流と仮定して話を進めてみよう。
意識(感性)、自己意識(理性)、無意識(智性)、非意識(魂性)と意識にも層の違いがあることが分かると各「自分」の正しさは全体の中では1/4でしかないことが分かるから、いくら自己意識が嫌がってみても、これを体感した時点でもう謙虚になってしまっている。こうなると社会通念(アタマ)の謙虚さに体験(カラダ)の謙虚さが付け加わったことになる。
どんなモノもその構造によってこの世の変化を捉える媒体が違い、方法が違い、それによって他の感覚を体感することはできない。匂いを聴くことはできないし、音は視ることはできない。視覚は電磁波、聴覚は空気の振動、嗅覚は分子、味覚は分子結合、触覚は圧力という媒体が必要なように。各器官はその構造の特質によってこの世の変化を捉えるしか方法がない。(音に色が付いている共感覚だって条件反射で結びつけているのであって聴覚が音を視覚しているのではない)
脳もまた同じで、脳の構造の特徴で捉えることの変化でしか、この世を察することができない。
脳は脳が感じることができることしか感じないのだから。言葉を変えれば、脳はそれ自身が見たいものしか見えないのだ。
脳は電気信号を使って「分ける」ことで、この世の変化を把握しているので、脳を使う限りは、この世はその姿を分類可能な一面でしか「顔」を見せることができない。区分されたカタチ(物理的・観念的・言語・シンボル・区切りがあるモノ)こそが、脳という器官の唯一の把握方法だ。だから脳が把握したこの世は、二項対立のあるカタチを媒体(ベース)にする「意識」によって把握され、この世のものは何でも同じ構造でしかないように想定しまいがちだ。
これが脳ができることだ。脳は脳のできることでしかこの世と交流するしかない。
だからといって、この自己意識(脳)にあまりにもスポットライトを当てすぎて、内臓が行っているこの世との交流のコミュニケーションに目を塞いでしまっているのは本末転倒だ。
まずは赤ん坊がたどってきたコミュニケーションの順番どおりに始めてみるのが楽しい。
聴覚、触覚、口覚、視覚の順番に。(嗅覚がいつ頃始まるのかについては諸説ありまだ確定されていない。)
また一度は、視覚や聴覚を塞いでみるのはどうだろう?それでも感じる感覚でこの世にいることで、他との交流ができているという体験を積み重ねることにより、新たなセンサーが始動し始めるのを静かに待つのがいい。
この時に自己は幻想ではなく実体であるが、それは全体の中の一部でしかない体感があるだろう。
だからもし自己意識のセンサーだけを使ってこの世と交流しているのならば、その自己意識の形成した世界観は全体性から見れば単なる幻想でしかない。
これについては第四章でもう一度、触れてみたい。
明晰夢
脳科学の分野ではデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる脳内の複数の領域で構成されるネットワークがについて研究されており、ぼーっとしている状態でも脳は自由勝手に活動していて問題解決をするのではないかと考えられている。