第四章 意識が届かい世界 カラダで生きる
脳を可愛がるとは、脳ができることを褒めて頬ずりするばかりではない。
伝統スポーツや芸能の「かわいがり」も愛の形の表現の一つである。
また脳に何ができないかをちゃんと知らせて、無駄な努力や「ありがた迷惑」をさせないのも、「かわいがり」の一つである。
脳にはできないことを脳自身に分かってもらうことや、脳を使わないことで初めて体感できる世界があることも、脳を可愛がるということだ。
電脳化した社会
自己意識を使わない 脱力 呼吸 ヨガ、太極拳、合気道
「空」って何? 「いま、この瞬間」 禅 超意識 宇宙意識
なにもしないことで活性化する世界 自己治癒力
カラダから見える景色
神話の読み方
血管や小腸を鍛える
呼吸法
意識が届かない世界とのつながり方
野性と観念
一万年前まで野生動物だったホモ・サピエンスは、「生」の自然の中で生活することから徐々に観念の中で暮らすようになってきた。観念とは自己意識が過剰一般化した世界のこと。良くいうと効率的で未来予測しやすい合理的な世界のこと。悪くいうと捏造したアンナチュラルな世界で、たまに訪れる自然の猛威やヒトの内にある自然性(野性)を感じていないので、脆い側面を見せてしまう時空間のこと。
この世で例を探してみると、部屋の中や都会生活。
観念の中で生きている人は、国家が実在すると言い張り、貨幣を実体だと信じ、人知によって自然をコントロールできると希望を持つ。 希望の「希」は、ごく少しで薄くて稀で珍しいという意味なのに。
もちろん国家や貨幣はヒトの脳が生み出した幻想であり、その幻想は素晴らしいもので便利で合理的だ。だから上手に利用すれば役に立つ。しかし、国家や貨幣がなくともヒトは生きてきた歴史を持つことを忘れてはいけない。テント暮らしができないヒトはこんな事を理解することを拒否するのだろう。しかしカラダと比べれば観念が作り出したものはどれもあまりに危うく、大事な時に思い込んでいるほどには役に立たない。
植物は酸素を供給しているとか、C02を削減することで気候変動をコントロールできる、と妄想を信じている人には、アタマが良くて優しい人が多い傾向がある。それらは観念の世界の賢さや調和や優しさであって、自分のカラダのことを掴んだり共鳴している優しさではない。アタマを過剰一般化するために多用してしまい、カラダの聲を聴く時間が足りないためだ。
美味しいスムージーを与えてくれる優しき人は、冷たく消化がよく甘くて栄養価が高いものが、腸にとっては有害であるかを知ったり体感する優しさには欠けている。
「人間が情熱を傾けるのは、(解決可能な)答えがある課題だけである」とはいかにも深層意識にアクセスする瞑想などに関心がなかったマルクスの言葉。
観念は脳の産物だから、自分の脳内の問題はとりあえず解決できる。しかし、自然は脳の産物でないために脳が行っている合理的なアプローチでは解決不能だ。
脳化社会
脳化社会とは都市が成立した生活空間のこと。
なにも近代以降の時空間とは限らない。紀元前5世紀の釈迦だって脳化社会の中で生まれた。だから生病老苦に出会うのは城壁の外。城壁の中は自然の法則(ダルマ)よりも観念を優先させる社会だったというわけだ。
生老病死は人間の持っている自然性。自然性とはあるがままの状態のこと、カラダのこと。観念とは脳のこと。
自然のシンボルである死体を社会から徹底的に消しさると脳社会になる。
得体の知れないものを許さないのが脳化社会。「分かる」ことを第一優先とするためだからしょうがない。
こうしなければならない、というのが成立するのも、脳化社会の特徴。自然に任せるのではなくコントロールすることで成り立たせている時空間なのだからしょうがない。
そしてこれに電気というエネルギーが加わり、スピードと量が特化した現代は「電脳社会」とあいなった。
電脳社会は便利で良いのだが、問題はこの脳や電脳が目指す理念やカタチがヒトの本体であるカラダにとっては害を与えるという事実だ。そしてカラダが耐えられる臨界点を突破すると体調不良や病気という目印をカラダは発信し、それでも「躰の聲」に耳を傾けない場合はカラダだけではなくアタマも共に死に至る。
だから脳さんも電脳さんもあなたも滅びるのが嫌ならば、脳だけを中心にした一辺倒なやり方にはもう限界が来ているのでちょっと考えてみてよ、というのがこの章の提案です。
限界とは自分の体の健康や平安な精神状態の乱れです、理想や理念の話ではなく、私たち自身の体の話です。
理性が自分自身の躰をも滅ぼしてしまう時代に突入して久しい。
これを助長する思考法が都会生活や高学歴や先進国に住むリベラルの中から生まれてきた。
この世にあるネガティブなものを排除して正解を選択すれば問題は解決できると信仰する新しい新興宗教の教徒たちである。無意識の内に宗旨替えをしたので、歴史的宗教に依存する必要がなくなった「新しき」人たちである。
植民地時代に理性は武器として拡張開発された。これは他の文化を制圧するのによく効くのだ。都会志向のある右肩上がりの人たちや、既存政権を倒す新興勢力の人たちや、文字に信頼を置くインテリや、お上(組織)をありがたる人たちや、理想からこの世を見下ろす人たちや、都市で生まれ育った人たちや、専門職を持つ人たちや、エリート意識やセレブ意識に憧れる人たちや、過去のプライドを大事にする人たちに対しての効き目が極めて強いのであちこちで乱用してきた。
みんなのためだとキレイゴトを並べるだけで己たちのグループのための利権を手に入れることができるのだからこれほど使いやすいものはない。
悪いやつほど理性を利用して利権を得た。権力者、征服者、下剋上を狙う哲学者、魔女裁判執行者、宣教師、開拓者、折伏門、おかかえ学者、おかかえ法学者。この時代は理性の技を使うのは悪人たちであった。
ところが、20世紀後半から電脳社会の時代に突入して、この理性に新しいベールがかぶさられて、悪人だけではなく無垢な善人までもが理性を乱用する空間ができあがった。
ヨーロッパで他社を制圧する武器として開発され、アメリカが先住者たちを抹消するために大いに利用したいわくつきの理性なのに、これを大事(目標・信仰)にする勢力が現れた。先程に述べた新興勢力の教徒たちである。
なぜこんな事が起きたのか?
答えはシンプルである。このような理性のキレイゴトが通用する世界に生まれ育ち、これを条件反射として暮らしていて不都合になるどころか心地よく生きてこられたからである。植民地時代の脳化社会の頃は、壁の外、すなわち植民地にいけば理性の恐ろしさを直接に体験できた。しかし電脳社会では壁の外にも電脳社会がすでに拡がっておりカラダのリズムを体感していないと、壁の外側にある世界が感じられないことが起きてきたのだ。
電脳社会は全地球に拡がった。旧植民地に行ったとしても貨幣さえ持っていれば、かの地(壁の向こう側)の歴史や気候や大地や伝統のルールを知らないままでも電脳社会の価値観が通用するグローバリゼーションの基準と価値観と貨幣を持ち続けておけば、かの地でも暮らしていける「憧れの」地域が一挙に拡大したためである。
電脳社会の信者たちは、脳にとっては便利な脳化社会に身をおいて、「壁」の中の事実だけで価値観を作り上げている。そこに嘘はないので、壁の中で理性を利用する人は純真で純潔で素直で優しく正しい。
この純真さや正しさには二面性があり、他の集団から見ればこれは恐ろしいものであることを体感しないかぎりは己を疑うことがない。
疑うことがない人は「壁」の内側は「壁」の外のおかげで成り立っていることや、いまも「壁」を作り続けている人への理解は浅い。例えば空気や水やエネルギーや食料を作っているのは都市の外側であったり、先進国では後進国から人やモノが乱入できないように、移民局や税関や税金や法律という「壁」を作り続けているように。
この「壁」によって内部が成り立っていることを体感しようとはしないのだ。
こんな一部のグループだけを基準にした優しさとはどんなに表面的なものなんだろうか。
外側にいる敵を騙す武器として開発された理性の出自を知らないので、これらを活用する人は無垢で素直で優しく優秀で誠実で一生懸命である。だから理性が選択したモノは相手(自分のカラダ)も悦んでいると信じて疑わないので、実は害を与えている「ありがた迷惑」だとは露にも思わず、善意のナルシシズムの勢いに乗っかって、今まで以上に他人(自分自身のカラダ)の足を強く踏みつけるのである。
例えば物質的な貧しさ、イジメ、不公平、不平等、不正などのネガティビティをなくすことに夢中になってしまい、これらのネガテイブなものに助けられたり、ふところに抱きしめたりする体験を持たない。ネガティブなものを活かす経験がないのだ。そして、自分のカラダの内にあるリベラルの正義の奥に何があるのかを見ようとはしない。理念的なキレイゴトの仮面はネガティブなものによって成り立っているという事実を一切見たり感じたりしようとする感覚も意志もなくなってしまっているからだ。
例えば、どうすればこの世から不公平を排除することを理念にすることができるのだろうか?
この世に公平なものはないというシンプルな事実から、不公平を認めてそれをも含めた生き方の方法をこの世にいる間は模索することが「生きる」意味とするのではなく、ただ公平でないものを相手の立場も考えないで瞬間的に冷たく非情に否定する答えを出すだけだ。
それを理知的だとカテゴライズしてこんな手法を推進させようとする人も現れてしまう始末だ。
ネガティビティを否定したり排除するだけでは、そこから起きてしまう非自然性、閉塞感、不満足感、抑圧が意識の外側に膨れ上がり、それに溺れて忸怩たる思いで表面的に暮らすことになってしまう。
参照エッセイ 優秀で誠実で一生懸命な人がこの地球をダメにする
今ここには、生命体のベースであるカラダという自然性、そして山川の自然がもつネガティブを排除するのではなく抱きしめることが必要なまでに、追い込まれてしまっている現場が現代都市生活にはある。
精神病院、ガン特効薬の認定制度、ワクチン接種の賛否、職場や学校のイジメの現場、老人ホームや病院のルール、食生活、マスメディアや政府との付き合い方、自分自身の脳との付き合い方。
脳が作り出した「優しい真綿」が自分自身の首にまとわりつき、ゆっくりと静かに少しづつ締め付けはじめている。
意識は必要なのか?
第二章で視覚大脳皮質(後頭部)を損傷した患者が、鼻を境に半分が見えなくなることがあり、見えない部分に、小さな点状の光を呈示しても、「何も見えません」と答えるだけですが、その光点に触るように頼むと、「本当に見えません」といいながら、正確に光点を指差すことができる話をしました。
視覚皮質は損傷して半分が見えなくなりはしましたが、脳幹や大脳辺縁系を通過する経路が対象物の空間的な位置を割り出すことができているので、メッセージが頭頂葉にある中枢に送られ、そこか正確に指示するので、本人は「見えない」のに、対象物を指すことができるのです。意識は捉えることができないのに、意識にのぼらないでも認識はあり、それが光点を導いているからです。
ならば全てが脳幹の経路である盲視(ブラインド・サイト)であっていいのではないでしょうか?
わざわざ意識にのぼらせる必要とは何なんでしょうか?
これは第一章で考察したように、「わたし」を軸にすることで、ヒトは認識し、記憶し、検索し、想像し、考察し、判断し、行動できるようにできているからです。他の言い方では、プログラミングされているからです。
もしこの「わたし」がなければ合理性と効率性の高い記憶と思考と行動ができなくなるので、自己意識は有効です。
また、この第一章でみてきたように、「わたし」には間違い続けるという特徴があるので、これが「わたし」がこの世では必要なのかもしれません。
間違えること、そして修正、そしてまた間違えること、この連続こそが、この世で「生きる」秘密だととも思います。
常に変化し続けるこの世と交流し続けることが「ここにいること」だから。
しかし、意識にはどうしてもできないことが色々とあるので、使いごたえがあるのだけど、意識にはできないこともある、ということを自覚し、何ができないのかを知ることは面白いことだと思います。
意識にはできないこと
脳の意識では届かない体感がある。脳を退化させたホヤや脳のない植物だけではなく、動物にも意識を持たない生命体は多くある。脳がなくても生きていけるのである。
わざわざ脳を退化させたり、脳を使わない体感を使ってそれらの生物は毎日をサバイバルして個体の維持と種の繁栄という結果を出して暮らしている。
人間もこれらの生命体の体感を追体験する技の歴史を持っている。
例えば禅、ヨガ、合気道、道教、スーフィー、カバラ、体操、踊り、哲学的表現(わび 方向性を指すだけで後は詫びるしかない)、瞑想。
脳以外ののセンサーを使うのは難しいことではない。
脳にはボーとでもして休んでいてもらえれば他のセンサーが作動していることに気づくことができる。
意識がなにもしないことで活性化する世界 自己治癒力 新陳代謝という奇蹟
この生物界を見渡すと、神経管やその発達した脳を使っているのは特殊なTPOの時だけです。この緊急事態という特殊なケース以外は、緩やかに、流れに身を任せて生きているように見えます。
ではこの緊急事態とはどのような状況なのでしょうか?
それは例えば踏んでしまったマムシに襲われる時や食べたい獲物であるカモを見つけた時です。
この非常時には、自律神経では交感神経が優位になり、瞳孔は開き、脈拍は上がり、血圧は上がり、呼吸は浅くなり、胃腸は休み、脳に血液が流れます。この働きによって緊急時に対処できます。
しかし、交感神経が活性化している時にはできないこともあります。
胃腸の働き、免疫細胞、成長ホルモン、酵素の生成などです。
これらは、緊急時においては優先順位が低くなるので、生命体の脳が活性化しているときには作動しないように作られています。決められたエネルギーしか持っていないので、カラダはその状況に適応した行動を優先させることによってサバイバルしています。
心身が落ち着いている時には緊急ではない副交感神経が関連する作業を優先し、緊急時には交感神経が活性化する非日常的な活動を優先させるのは当然のことです。
逆に言うと緊急時でない時にしか活性化しない世界があるということです。
これが免疫や新陳代謝や自己治癒力の世界です。
できるだけ意識の活性を抑えることで、免疫細胞やホルモンやエンザイムが生成されます。
またカラダは一秒間に500万の細胞を死なせ、同時に500万個の細胞を生まれさせます。
この相反する両者が同時にあって初めて成り立つ新陳代謝こそが、「いのち」の深淵にあるエッセンスです。
カラダから見える景色
視覚を使って見える景色とは違う見方でこの世と接して交流する方法がある。
瞑想やヨガや合気道やタンゴを通じて感じる景色だ。
言語化できないものだが、これをあえて言葉にすることも、時として大事である。
例えば抗癌剤による医学治療や、都市文明の法改正や、数値による体調制限や、情報への依存症や、スポーツ大会の過密スケジュールや、理念による経営体制や、信仰とも言える科学への信頼などに対しては、そうでない方法もあることを言葉にすることは、カラダにとっては身体を守るためにも意味がある。
アタマから見て良いことがカラダにとって害になり、カラダから見て良いことはアタマにとって不本意になることがこの世には多い。
例えば、アタマの過度な活性化がカラダの免疫作用を低下させてしまうように。
そこで、カラダから見ればこの世はどうのようにみえるのか、というファンタジーを書いてみたい。
カラダには大きく分けて4つのパートがある。
神経系器官 脊髄、脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質、運動神経・感覚神経・自律神経
運動器系器官 筋肉・骨 手足
循環器系器官 五臓 肺、心臓、血管、肝臓、脾臓
消化器系器官 六腑 口、胃、小腸、大腸、膀胱、膵臓
はじめの二つは、脳と手足に代表されるものなので、私たちの知っているいつもの世界だ。
循環器系器官
循環器系器官のセンサーはどのようにこの世を捉えているのか?
キーワードは「波」です。
波とは勢い(加速度の力)のプラスとマイナスを一つとしてとらえることです。
動と静を波の一つとしてとらえるのが循環器系器官の特徴です。
視覚はなくても脈の強弱、急緩、速遅をリズムとして把握します。
プラスとマイナスや光と影のように一見すると対立しているものでも、波動の中では流れの過程として捉えます。
ですから神経系器官の特徴である電気のオンとオフの二項対立ではなく、光の密度が高くなると明るく、密度が低くなると暗い、と全体の流れのリズムの一部として体感します。
見える形になると陰と陽や、マイナスとプラスにいう対立する二つの世界になってしまいますが、これを「波動」として捉えると、相反するもの「あちら」があるからこそ「こちら」もあるというお互いが補完し合う関係になります。
そしてこのプラスとマイナスの「波」を使ってこの世と関わる方法でもあります。
肺臓でいうと、呼吸という方法で外界の空気を吐き(呼)、次に空気を取り入れる(吸)ことで、交流しています。呼吸は一つではなく、呼と吸でセットになってはじめて機能します。
心臓でいうと、血管という管を使って、動脈で養分を運び、静脈で老廃物を回収しています。
このようになんでもプラスとマイナスがセットになるものが体感されます。
これを「自己意識」が理解できるように過剰一般化して拡大解釈して翻訳すると、この世は善悪も白黒と分かれて見えるのもすべて仮の姿で、実際は二つはつながっていてセットになることで成り立っている、とういう世界観です。
波動の特徴
波長、速度、波形によって、それぞれの特性を現れてきます。
共鳴のように波動は力を持っているので、響く器があればその力は伝導します。
また、唸りといって、二つの波動が重なることで、新たな波動が生じ、新たな機能を持つことになります。
一つの中にプラスとマイナス、光と闇、陽と陰、白と黒を見つける
これを逆から見ると、カタチになっているものは相反しているものが結合してできているという捉え方です。
カタチになったモノの中に一見すると相反する二つの「極」を見出すのも、この循環器系器官の特徴です。
また、カタチになった時の片方の極のシンボルになっても、中身には反対の極が内在しています。
例えば、プラスのカタチに見えているものでも、その中にマイナスを見つけることができ、反対にマイナスのカタチの中にプラスを見つけるのも、この世界観の特徴です。
人間でいえば、男性の中に女性原理をみつけ、女性の中に男性原理をみつけ、それらを大切にするということです。道教ではこの陰陽の関係を図柄でシンボライズしています。☯
眼(意識)で観たと時とは違って、この世を波動が織りなしている光景としてみえるのが循環器系器官のセンサーです。
参照エッセイ 循環器系器官と波動
消化器系器官
次は消化器系器官が体感する光景です。
胃や腸からこの世をみればどのように感じるのでしょうか?
はじめはカタチのあるゴツゴツしたものをひたすらすりつぶしていきます。
歯で、アミラーゼで、胃液で、胃壁で、膵臓液で、腸壁で。
視覚や嗅覚はありませんから、触覚だけです。
できるだけスムーズになるようにひたすらに細かく潰してかき混ぜます。
それはちょうど胃袋の中であらゆるものが溶解されて混じり合っているように、個々の固形が一つの流体にしてとらえるのが消化器系器官の特徴です。
視覚はなくても流動体の強弱、急緩、速遅を螺旋の渦として把握します。
それは台風や水流の渦巻のような一つの全体性です。
この渦巻はちょうど食道・胃袋から大腸から直腸までのひと繋がりの管が大きなうねりのように捻れているように。
食べる直前までは縁もゆかりもなく別々の空間で成長してきた素材が、噛みくだかれ唾液や胃液で分解され、ここではもう分けることができない一つの塊として把握されます。
実はここでとんでもないことが起きているのです。
この世でカタチになったため分化していた個々が渦の中に巻き込まれ一体となったために、個々は融解してしまったので個としては死んでしまいましたが、渦の一部として、そして全体として新たな生を得ました。
死と復活の再生です。
科学的客観から見れば、カロリーなどの栄養分を摂食したことですし、
ヒトから見れば、他の食物のおかげでヒトは命をつないでいけるということですが、
宇宙人から、見ればいろいろな個々(食物)は死に、かわりに一つの命がある、ということです。
「空」から見れば、この世のカタチになるために分化させたものたちが、また一つに戻る過程です。
消化器系器官、たとえば腸から観たこの世の光景は、個々の生きている素材をすりつぶして、それが一つの大きな渦となり、次の新たな「いのち」に変わっていくプロセスです。
この光景は、死と再生という宗教的な儀式であり、奇蹟であり、宇宙の法則です。これらの動きは意識によってならされているのではなく、無意識の内にカラダそのものによってなされています。そして最終的に消化されるのは自分(消化器系器官)の力でさえなく、腸内に棲んでいる微生物という「他者」によってです。他者なのでこれは自分の無意識でもなく「非意識」です。
また循環器系器官が体感した二つの流れが中和してできたカタチ。それを相反するかのように見える二つの流れの力を借りて元の「カタチなき力」である「空」に回還するプロセスが消化器系器官の役目です。
マイナスであるものの中にプラスを発見して、マイナスをプラスとして再利用する。
プラスの中にマイナスを発見して、プラスをマイナスとして再利用する。
消化器系器官こんなことをしています。
参照エッセイ 消化器系器官と「空」
これらの内臓器官のセンサーは禅や合気道や踊りの深層に流れる体感と共通点があるように思われます。そこで禅や「空」について理解すると内臓感覚がもっと体感しやすくなると思われるので、次はまず禅について書いていきます。
禅
サンスクリット語dhyānaが漢字で禅那と書かれ、これを略して禅。中国では静慮と訳していました。
インドでは古くから行われ、仏教の基本的修行法に取入れられてインド僧菩提達磨を宗祖とした禅宗となります。
禅の教えは不立文字です。
不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということで、言語の持つ欠陥に対する注意です。
そこで禅は実践することによって文字や言葉で言い表せない体験を体得します。
坐禅の実践により生命体の本性を把握します。不立文字ですから言葉を使わないでその教えを伝えていきます。
言語などの分別する意識を使わないで体感による手法です。
心念の起こらぬところ、即ち意識による概念の分節以前のところに帰る(還る)ことを目指すので、これを言葉にする意識の世界から見ると、合理性がなく文章が矛盾して意味が通らなくなります。
禅の思想は
インド仏教の般若 脳のない生物の体感を含む全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧
ナーガールジュナの空 カタチのない「空」に全てのモノが内在している 色即是無含空
中国の老荘思想 世俗の中に埋もれず「道」を求める 生死は表層的変化の一つに過ぎない
の三つの考え方が底流にあると説かれています。
西洋哲学の一元論 宇宙には精神的なものと物的なものとの区別はない
精神と物質の両者は同一であるという見解を中立的一元論Neutral monismといいます。精神と物質は、ちがって見えるけれども実は同じという見解で、バートランド・ラッセルなどが提唱する考え方で欧米では、メタファーとして、メビウスの輪の一面をたどっていくと両面に繋がっているように理解されます。
物質と精神は世界を記述する別々の方法で、どちらもそれ自体で完結しています。それは光が粒子としても波動としても記述できるの同じようなものです。この二つは全く違うように思えるにもかかわらず、どちらも正しいので、どちらの記述が正しいかと問うのは無意味です。
東洋ではナーガールジュナの唱えた「空」の思想がこの中立的一元論です。というより「空」を欧米の哲学で表現すると中立的一元論になります。
宇宙の中心的な謎 私と他者 観る者と観られる者 一人称と三人称 主観と客観
森羅万象の記述には一人称の記述「私は赤を見ている」と三人称の記述「彼は脳内のシナプスが600ナノメートルの波長に遭遇した時に赤を見ているという」がなぜ相補的になるのか?という問題があります。
三人称の記述だけを使うのは「客観科学」と呼ばれ、これだけを実在とすれば「行動主義者behaviorism」と呼ばれて科学的だと言われる時代が20世紀に部分的にありました。
しかし、これは恋人と情熱的に愛しあった後で、「あなたがよかったのはあきらかけど、私にはどうだったんだろう?」というような立ち位置です。
私の観点と他者の観点を調和させる必要性は科学の最重要の未解決問題です。
意識だけを基準の軸にしている限りは、この障壁を取り除くことはできません。何故ならば意識は障壁(区分・分節)を作ることによって認識しているからです。(参照エッセイ 大学に行ってパーになろう)
この種の障壁は、一つの言語を別の言語に翻訳するときにも必ず生じるのは、言語もこの障壁によって成り立っている証拠です。
そこで、試してみるのが禅や合気道やヨガのように、意識に頼らないで世界を体感する方法です。
すると、心とモノ、精神と物質、感覚と言語、力と形を隔てる障壁はなく、この障壁は単なる方便であり、便宜上のものであり、見かけであり、見え方の違いであり、視覚(文節)の結果として生じるだけだ、そして自己と非自己の隔たりは幻想であること、そしてこの幻想が大切であることを体感します。
「わたしが宇宙の一部になる」体感です。もしくは「わたしが宇宙(全体)とつながっている」体感です。
ちなみに「わたしが宇宙と一つになる」というのがウパニシャッド哲学で、ゴータマシッダールタはこれを否定しました。「一つになる」という表現だと「自我」が誤謬してしまう可能性が高くなり、理解される個人的な解釈の問題だけではなく、輪廻に対する解釈も変わり、他者を消滅させることを肯定するカルトにもつながる危険性があるからです。
(参照エッセイ カルトの可能性と限界)
「空」や「いのち」とは何か?
多数のプロセスの集合の一番の元になるものに対して、大まかに用いられている語句です。
人類史の中で全ての大本をカミとして宗教にしてきました。
多くの宗教では、このカミを外だけに求めてしまいますが、カミは一人ひとりのヒトの中にもいるという見解もあります。
ヒトの中にもあるカミとはキリスト教では内なる神エマニエルのことだし、詩人ならば「いのち」もしくは「暗闇」だし、哲学者ならば、人間の内なる生命原理もしくは宇宙原理のことです。このことを仏教の中観派は「空」と呼びます。
意識の世界で言うと、抽象度を上げていって最後に残るものです。
この荒削りな見解に疑問がある方はご教示お願いします。
「空」の言語化
ヒトの認識は脳を使います。この意識とは「分別」することで成り立つ回路です。回りめぐる路の配線図型によってはじめて認識ができるようになっています。これはモノから見た時の視点です。
しかしその回路がいくら精密な螺旋階段であったとしても、「空」からみればそれはただの迷い路です。
「空」の体感は意識の回路ではなく、回路と回路の間にある隙間に基準を持っているので、言葉にしたりすることができず、できるのは指差すぐらいしかありません。
しかし、迷い路ではありますが、意識のレベルで「空」を認識できることは、できるだけ似ているように表した比喩(メタファー)を使って形にすることはできます。
サンスクリット語のśūnyaを中国文化の中で漢訳して「空」になりました。
シューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや、数学のゼロを意味します。「家に人がいない」というような時にも使われ、「期待される何かを欠いた」状態を示します。
あらゆる事象は事象間の相互関係の上に成立する(縁起)から、不変的で固定的実体というべきものは何一つないのだから、我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと。
しかし、逆から言うとこの「空」から形なきものからカタチあるモノまで全てが生まれている、とも言語的には言えます。
「空」、すべては固有の本質をもたず変化し続ける。
「空」は過去から未来への直線ではなく、逆流したり枝分かれしたりしている。
「空」はビックバンが起こる前の状態でもあり、起こった後にもあり続けている
「空」カタチはないが全ては絶え間なくここから生まれて消えていく暗闇
「空」はモノとモノの間にあり、言語化すると、そうであってそうでないもの、と矛盾した表現になる。
縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に「無我(心身の諸法は我をもたないこと)」「非我(心身の諸法は我でないこと)」を自覚することが「諸法は固有・不変の本質をもたない」という「空」の本質であると説いています。
「つねに心して自我に固執する見解をとり除き、世間を「空」と観察せよ。そうするなら死を乗り超えるであろう。」『スッタ・ニパータ』(1119)
仏教には「空三昧」という瞑想があります。
そのものに実体がないと観ること、です。
般若心経で言えば、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。」にあたることで、
自我と我所(自我の所有するもの)が「空」であると観察する訓練の大切さを実践します。
ナーガールジュナの「空」
菩薩は、悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、この無執着のあり方を「空」と呼びました。『般若経』はこのことが説かれています。
「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」という空の立場を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、諸法、ひろくは事物の構成要素には固有・不変の本質がある、と解釈していたためです。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。ただし、「空」が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心(意識)のはたらきのクセから解放されることを意味しています。
「空」の立場からこの世を見ると、すべてのものは他に依存して生起するのだから、固有・不変の本質をもった存在、言いかえるなら固定的な存在としてあり続けることは何一つない、ということです。
氷と水の関係で考えてみると、氷が水からできるのであれば、氷と水が別だとか同じだとか言うことはできません。そこには連続性もあり不連続性もあります。様態や働きによって名前も変わります。このように、氷と水は同じか別かという問いは、観点によって答えも違ってきます。動かない定点をあらかじめ決めておいてそこからモノを分別すると、すべてを割合(数式)として書き換えることができるので便利ではありますが、そんな定点は一つもこの世にはないよ、というのがブッダの本意であり、縁起の捉え方なのではないでしょうか?
大気なる非意識 雲なる無意識 水なる語り 氷なる文字
H2Oの形 |
大気「空」 |
雲 |
雨 |
水 |
氷 |
意識の形 |
充満・非意識 |
思い・無意識 |
言葉・記号・音 |
話し言葉 |
書き言葉 文字 |
ヒトから見た形 |
みえない |
掴めない |
掴める |
形を変えられる |
彫塑できる |
「いま」が「空」? 現在とはアタマのはからい
無意識と天国
自己意識が時間を作り出している。
だから、ボーとしている時に時間を気にする人は誰もいない。
意識がなければ時間もない。
いやいや自分が死んでも時間はあるでしょう?
たしかに、だってそれは意識のある時空について話をしているから。
もし私が死んだら、当然私の意識もなくなるので、私の時間はなくなる。そしてあとに残った人が意識を使っていればそこには時間が発生するし、ボーとしていればそこでは時間を気にするものは誰もいない。
そこにあるのは時間のまだない世界、例えば、エデンの園、天国、地獄、黄泉の国。
分別(善悪)することを知る「知恵の実」を食べるまでは。
しかし、知恵の実を食べたからといって、もうだめだと悲観することはない。
1日は24時間もあるのだから、時々は「知恵の実」を食べる前の世界をボーとしながら再体験すればいいのだから。
パラダイスは人智を駆使して作るものではなく、だれが何もしなくてもちゃんと生きていける時空をさすのだと思います。意識を持たなくてもちゃんとやっていける世界です。
植物や微生物が頭を使っていないのに生きている世界です。
ヒトにとっては、時々は意識も使うが、意識がなくてもやっていける世界です。
そんな世界を目指す「道」もあってもいいなとは思いませんか?
現在と「いま」は同じではない。
現在とは自己意識を使った時のこの世の把握の仕方で、過去と未来に挟まれている時間を現在と呼んでいる。
それに比べて、「空」や深層意識のレベルでこの世を把握するのが「いま」。
例えば、「いつからはじめるの?」「今でしょう!」の「今」は思考の世界なので現在のことを意味しています。
夢中になって時を忘れている時には、常に変化し続ける「この瞬間」の感覚だけに関心が向けられているので「いま」になります。
私たちの多くは、何気なく頭の中で何かを考えながら過ごしています。頭の中で次々と展開する思考に没頭してしまっていることで、私たちは思考そのものを自分自身だと錯覚してしまいがちです。
日常に起こるたくさんの出来事やそれに反応して起こるさまざまな感情、思考に完全に気を取られ、そこで繰り広げられていることを表層の意識だけで捉えてしまい、深層においては何が起こっているのか気がついていないのです。
しかしこの思考とは自己意識がみたこの世のことなので、ボーとしている時や、ゆったりしている時や、「この瞬間」の常に変化するモノに注意深く気づいている時には、思考にとらわれておず、「いま」を生きています。
「空」とは「いま、この瞬間」
「空」とはまだカタチになっていないけれども全てのエネルギーが集約しているという、言葉にすると矛盾したことです。
「空」に「気づいている(意識)」が萌えた瞬間に、「ここにいる」というカタチ(意識)になってしまいます。
カタチのない暗闇、そしてカタチのある光は、同時にあります。闇がないと光は生まれず、光がないと闇もないことになります。言葉遊びのようになってしまったので、少し「間」をとって違うアプローチで解釈してみます。。
私たちがこの「空」を体感するには、思考からはなれ、常に変化している「いま、この瞬間」に気づいている状態です。
たとえば私たちがトイレに行く時、トイレに行って用を足すことや、あるいはトイレとはまったく関係ない思考(記憶・想念や過去・未来)が頭の中を占めており、トイレに向かって歩いているという「いま、この瞬間」には注意が向いてはいません。これは自己意識だけで生きていることで、「空」の把握(体感)ではありません。
思考していると、「いま、この瞬間」に自分がやっている変化し続けている行為そのものに気づくことができなくなります。
このような場合に、「空」の体験をするとは、歩いているという行為それ自体に注意が向き続けているということです。
こうして歩くことで生み出される「変化し続ける感覚」に気づき続けることが結果的に「いま、この瞬間」に気づくこと、そしてこの「いま」そのものと「いま」の奥と「いま」と「いま」の間に「空」があることを体感する瞬間があります。
もう少しは上手く説明できると思って書き始めたのですが、書いてみるとちゃんと表現できていません。すみません。
「今」のところは、ひとまずは試していただいて「いま」を体感していただくことしか術(すべ)を知りません。
カミは細部に宿る
急に悟ることもありますし、長い時間がかかることもありますが、深層意識(多層性・空)への道の上を歩いているということは間違いありません。
思考の中にいるときには、道の上にもいていませんでしたから。
ちなみに私は悟ってはいませんが、他者との一体感や、生命体とのつながりや、自我が感じられなくなっている時空にいることはあります。
私の解釈では悟りとは一度開けばなんでも悟ったわけでなく、この世が常に変化するように、悟りとは毎秒の発見をし続けることだと感じているですかが、悟った方がいらっしゃればこのことについて教えていただきたいのでよろしくお願いいたします。
偉大だとか立派だとかいうのは精神的抽象的な概念で、自己意識が大好きな幻想です。、
偉大という概念を追いかけるのは自己意識に任せておいて、体験するのであれば、「いま、この瞬間」の小さな変化ととともにいる、ことが偉大なことだと感じます。
「いま、この瞬間」はつねにシンプルで、その意味ではつねに小さいのですが、「いま、この瞬間」の中に入った時に、なにか大きな力につながることがあります。その力を通じてこの世にとつながっているような。
私たちを通じて、大いなるものが、その奥深くで全てとつながっていて抱かれているような感覚です。
誰しもが日常生活の中で一瞬からもしれませんが感じたことがあるのではないでしょうか?
そんな九死に一生を得たりとか、臨死体験とか、すべてを諦めたりとか、特別なことではなくシンプルな出来事の中に。
カワズ飛びこむ 水の音
宇宙と意識
脳科学では、人間は宇宙で特権的な地位を占めてなどいない、そして「世界を見つめる」という非物質的な魂を持っているという観念は幻想に過ぎないと告げているデータを並べています。
宇宙の中で、ヒトに心(意識)が存在するという事実は、根源的な意味があるのかなと思います。
宇宙の中にある生物を通して自己認識は生み出されました。この意味を体感することが、私たちはそうあるべくして、ここに存在していることに繋がるのではないでしょうか?
なんでも「分ける」ことを仕事とする意識は、宇宙の時空から時間と空間を産み出し、もしくは、それらがあるようにこの世を映し出しています。
私たちの意識が体験するこの現実感は、宇宙自らのの表現の一つであり、私たちの意識を使って把握(理解)される宇宙は、宇宙自らの一面を提示させているのでしょう。
自分は人工衛星(創造主)の視点をもつ観察者などではなく、実は永遠に盛衰をくり返す宇宙の事象の一部であるといったん体感すれば、幻想にとらわれずに幻想のことを大事にもできるのではないでしょうか?
「分ける」ことと「分けないこと」の両者はありかたが違うだけで同じことなのだと体感します。
表現すれば、この世とは意識のことなんでしょう、宇宙意識として。
また同時に、表現しなければ「空」で、宇宙とは非意識のことなんでしょう、意識のない宇宙も確かにあるので。
再び神話について
序章で脳へのアプローチとして伝統をあげました。諺から話をはじめましたが、物語としての神話ほど、何層にもわたって深く豊かである「この世」を捉えている言語記述はないように思われます。
ヒトのもつ無意識の世界に対してこれまでに多くの先人達が総力をあげて深く豊かなに露骨にあからさまに伝えてきた宝物に感じます。
神話こそが無意識の海に漂う水先案内の船ではないかという安らかな感覚です。
神話には多層にわたる記述があり、まずはそれをあえて分類することで各層によって原因と結果の結びつきが異なることを明確にすることで、各層の相関関係や価値観が整理されると思われました。
そこで、解明が進んでいる脳機能学と神話の接点を仮定することで、神話の解釈も多層性を持ち、その各層の特徴を浮かび上がらせることができると考えました。
まずは神話を大まかに分別して、すぐに理解できる話は脳の意識のエピソード、理解しがたい非合理な話は脳の無意識のエピソードを表現していると、仮定してみます。
これを脳機能学的にいうと、
美しい話は、理念までも作り上げてしまう大脳新皮質の世界観のことを、
正しい話は、一つを二つに分けて片方を選択する大脳旧皮質の世界観のことを、
悲しい話は、感情とカラダを条件反射として結びつける大脳辺縁系の世界観のことを、
分けの分からない怖い話は、意識の届かない脳幹の世界観のことを、
語っていると仮定してみると、神話と無意識と脳とカラダに関係性があるかのような気になってはこないだろうか?
神話 |
脳 |
意識 |
認識方法 |
器官 |
理解の表現 |
美しい話 |
大脳新皮質 |
自己意識 |
理念 |
神経系器官 |
分かる |
正しい話 |
大脳旧皮質 |
意識 |
分けて片方を選択 |
筋肉系と感覚器官 |
つかむ |
悲しい話 |
大脳辺縁系 |
潜在意識 |
波動 |
循環器系器官 |
共鳴する |
不合理な話 |
脳幹 |
深層意識 |
渦巻きと「空」 |
消化器系器官 |
腑に落ちる |
脳からの視点 カラダからの視点
ギリシア神話に神々の怒りをかった王子シーシュポス(シジフォス)が大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた、という話があります。やっと岩を山頂に運び終えても岩は麓に転がり落ちてしまうので、何度繰り返しても終わりがこないという不合理で怖い話です。この話はアルベール・カミュが「Le Mythe de Sisyphe」という随筆で書いたもので、結果から見ると死んでしまうのを承知しているのにもかかわらず、それでも意味もなく生き続ける人間の姿に重ねて描いたとのではないかとされています。
日本の民間信仰にも「賽の河原」で石を積み続ける話がある。「富士の人穴草子」「地蔵和讃」「西院河原地蔵和讃」
このような「果てしない徒労」を続けなければならない不条理な話にはいろいろな解釈がある。
目的が永遠に達成されない地獄の話として、
究極的には生きる意味などはなく、「何のために生きるか」ではなく、「どう生きるか」が大切な話として、
無意味なことを反復して忍耐させられるが、これが強靱な肉体へと自身を鍛え上げることになる話として、
虚無的な結末を知った上で、それでも岩を運び続けることが大切である話として、
どれもが脳にとっては意味のない虚無的な話として解釈される。そしてそこからなにか「意味」を見つけようと努力する。大脳皮質は「意味」を見つけるのがお仕事だから。
しかし、カラダにとっては、この岩運びは日常的な「生きる」ための当たり前のエクソサイズである。
息を吐いて吸う呼吸のように、食事のたびに繰り返す胃腸の収縮運動のように。
シーシュポスがこの繰り返す反復の運動の大切さに気がつかずに「意識」だけの価値観で生きているので苦労しているから、神が愛のある教えを伝えたにすぎない、というのがカラダの視点から見た解釈です。
しかしそれを「脳」は罰だとか地獄だとか虚無だとか不条理を乗り越えてだとかいう。
神話とは神経系器官から循環器系器官そして消化器系器官の体感に気が付かせてくれる「糸」を垂らしてくれている宝物だとは考えてみて、はじめからもう一度再読してみるのはどうでしょうか?
脳の潜在意識
例えば、黄泉の国〈ヨモツクニ〉の伊邪那岐イザナギと伊邪那美イザナミの話は、誰の脳内にもある潜在意識の話であると思って読んでみる。
そして伊邪那美が「あなたがこんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶのに対して、伊邪那岐は「それなら私は1日に1500の産屋を建てて子どもを産ませよう」と返した。
これを、脳幹からの視点にすると、この世に存在するには、「死滅と産出」が同時にあることが必要であるというヒトの成長期における「新陳代謝」の話と解釈することもできる。
脳の潜在意識のレベル
また同じ話でも、脳のどのレベルで理解するかによって、意味や解釈も変わってくる。
たとえば、旧約聖書の創世記 11:27-12:4にある、
「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの嫁であるサライを連れて、カルデヤのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼等はハランまでくると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。ヤーヴェはアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべての氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」アブラムはヤーヴェの言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムはハランを出発したとき七十五歳であった。」
(注:後に「アブラム」という名は神の命で改められ「アブラハム」となる。同じく、妻サライの名も「サラ」と改められる。)
これらは表層的な大脳皮質の解釈ではウルからハラン、エルサレムの移動は地理的移動のことを示しているが、深層的なカバラ神学では脳幹的な解釈として、ウルは物質、ハランは心、エルサレムは内なる神であるエマニエルという精神的成長の過程の旅路を表現しているとする。この他に聖書の解釈学には寓話としてとらえたり、アナロジーとして理解する中間的な解釈のしかたもある。
カラダを鍛える
血管の鍛え方
3人に1人が「血管病」で命を落とす時代。日本人の死因トップ3は、1位はガンの30%、2位は心疾患(心不全、心筋梗塞など)の15.9%、3位は脳血管疾患(脳卒中、脳出血など)の11.1%ですが、2位と3位を合わせると27.0%。つまり、日本人の死因の約3割に当たります。死因を「血管の病気」というくくりで考えるならば、日本人の死因1位は「血管の病気」になります。
だが、血管そのものは本来、120年もの耐久性を持つと言われています。この強い器官をきちんとケアすれば、寝たきりも早死にも防ぐことができる!
血管は55歳くらいから老化すると言われています。ただし、これはあくまで平均値。問題のある生活習慣が原因で、まだ若いのに、血管だけは老人並みという人が非常に増えているのが現状。
血液はドロドロでも平気?
血管の老化は、ひとたび始まったらもう止められないというのが医学の常識だったが、今は血管を若返らせることができるということがわかってきた。また、すでにできてしまったプラークを完全に無くすことまではできなくても、傷つきにくく安定した状態にすることで血管事故は防げることもわかってきた。
では、そのための血管の鍛え方です。
どうすれば血管を鍛えることができるのか?
一言でいえば、カラダとココロを緩めることです。
緩めるためには緊張させることも有効で、波のようになだらかな緊張と弛緩をゆったりと繰り返すことです。運動とストレッチと休息の3つです。
血管には3つの層がある。外側を覆っている外膜、血管の構造を支えている中膜、そして直に血液と触れ合っている内膜(内皮細胞)だ。血管を鍛えるというのは、具体的にはこの内膜を鍛えることをいう。
自治医大学附属病院の島田医師の見解は、
「内膜は血液の流れる量を調整しながら全身に流す働きをしています。また、血液が固まらないようにしたり、血液の成分がいたずらに壁の組織に入り込まないようバリアするなど、非常に重要な働きをしている。まさに『血管の司令塔』なのです。この内膜の働きがプラークによって妨害されると、動脈硬化、さらには心筋梗塞や脳卒中を引き起こす。それを防ぐには、内膜を鍛えればいいのです。
よく血液がドロドロになって固まると言われますが、正しくは、内膜の内皮細胞が劣化するから固まりやすくなるのです。だから、内膜がしっかりしていれば、血液はある程度ドロドロでも大丈夫」
まずは「2分下半身ストレッチ」(図1参照)。3種のストレッチを各20秒ずつ、左右両脚でやる。あわせて2分で完了なので、デスクワークの合間でもできる。
「筋肉を使うと内皮細胞も活性化し、鍛えることができる。下半身に数多くある大きな筋肉を刺激するこのストレッチは、効率よく強い血管を作る効果があります。下半身に起こりやすい動脈硬化の予防にもなります」
2番目は「自治医大学附属病院推奨体操」(図2参照)。同大の理学療法部が考案したこの体操は、身体に溜め込まれた余分なカロリーを燃やし、内膜を鍛えてくれる。高血圧の改善や血管病の予防を目的につくられた。
一日20分の早歩きが効果的でオススメです。
次に紹介するのは、ふくらはぎにポイントをあてたエクササイズ。東京医科大学・八王子医療センター病院長の高沢謙二医師の解説。
「よく『足は第二の心臓』と言われますが、『ふくらはぎは第二の心臓』と言った方がふさわしいでしょう。ふくらはぎは足から心臓に向けて戻る静脈血の通路です。ここの血流が悪くなると、足から心臓に戻る血液の流れが悪くなり、ひいては全身の血液循環も悪くなる。高血圧の人は、ふくらはぎが硬くなっている例が多く、ふくらはぎをチェックすればその人の血液循環の状態がわかります」
チェックの仕方は両足を揃えてまっすぐに立ち、上体を前に倒して、膝を曲げずに両手を床につけるようにする。
この時、指先が床まで届かなかったり、ふくらはぎや太ももに痛みを感じるようなら、ふくらはぎが硬くなっている証拠だ。反対に、体の柔らかさは、血管の強さに繋がる。
硬くなったふくらはぎに対しては、ふくらはぎを柔らかくし、ミルキングアクション(血液を心臓に送り返す働き)を促進する「かかと上げ下げ運動」が効果的。
具体的な方法は図3のとおり。この運動は立ってやるだけではなく、座ってやってもいい。また、寝ながらつま先を伸ばしたり起こしたりしても同様の効果が得られる。いずれも一日1分程度行えば充分。
それ以上の効果が期待できるのが「つま先歩き」。つま先で歩くと、下半身には体重の4倍の負荷がかかる。その結果、ふくらはぎの筋肉が刺激されて筋肉内の毛細血管が増え、全身の血流がよくなるという仕組み。最初は一日10歩程度で十分。一日30歩を限度に、無理のないよう徐々に増やしていくのがコツ。楽しみがわかると止めたくなくなる。自分の内部と会話する楽しさを体感するかどうかがポイント。三日坊主とはまだ快感を味わっていないからだと思う。
同じく高沢医師がすすめるのが、「足裏たたき運動」。血管若返りが期待でき、血液の循環も促してくれる。
血管をしなやかにするには運動が効果的だ。それも息をつめて一気に走る100m走のような無酸素運動ではなく、ゆっくり酸素を取り入れながら行う有酸素運動がよい。
「有酸素運動を行うと、筋肉の代謝がよくなり、血液がゆったりと流れます。内膜の内皮細胞にとって、血液がゆったり流れるのはいいことで、血管の若返りにつながるのです。また、筋肉の代謝が盛んになると、毛細血管が増えます。道路に喩えるなら、道が増えることによって渋滞が解消され、車(血液)がスムーズに流れる状態になるのです。これだと心臓は血圧を上げて血液を流さなくて済む。血管によく、高血圧対策にもなるわけです」(前出・島田医師)
最も手軽で基本的な有酸素運動は「早歩き」だ。時速6kmくらいのスピードで、一日20分歩く。これを続けると、血液の流れがよくなる。そのメリットは絶大。
「この速度で20分くらい歩くと、ブラジキニンという物質が分泌されるようになります。この物質には、血管を広げる働きがあるため、血液の流れがスムーズになり、血圧を下げてくれる。また、血流がよくなると、(1)血管の掃除がよくできる、(2)血管がよく開く、(3)毛細血管が増える、(4)ミルキングアクションが促進される、という4つの効果が得られます」前出・高沢医師。
血管の掃除がよくできると、コレステロールなどプラークのもとになっているゴミ≠ェ、溜まりにくくなる。そのため、血管の老化予防に繋がる。 ただし、いずれも最低3ヵ月以上は続けること。
「若返り血管がつくられる目安は3ヵ月」(前出・高沢医師)
毛細血管は運動不足で消えてしまう
全身にある毛細血管は成人の場合、その長さはぜんぶで地球2周半分にもなります。手足の指先まで細かく張り巡らされ、細胞や筋肉に血液を届ける役割を果たすため、全身にある血管の90%以上が毛細血管なのです。
ただし、毛細血管は運動不足で消えてしまうこともあります。体を動かすためには毛細血管を通じて筋肉の隅々まで栄養を届ける必要がありますが、運動しないと体が栄養を届ける必要がないと判断。毛細血管が減ってしまうのです。
太りすぎでも毛細血管は減る可能性が大。脂肪は本来、必要のないものですが、毛細血管はそこにも伸びていきます。しかし、心臓から全身に送られる血液の量は一定なので、余分な脂肪に血液が行くぶん毛細血管に届かなくなるのです。
毛細血管を鍛えるには動脈を鍛えるしかない
毛細血管は食べすぎにも影響をうけます。食べ物を摂取すると、それを消化・吸収するため、一時的に胃や腸に血液が集中。暴飲暴食や常に間食をする人は、慢性的に胃や腸に血液が集中して、毛細血管がダメージを受けてしまうのです。
カラダのシステムはシンプルです。よく使う部分は鍛えられ、使わない部分は退化する、という法則です。
それでは、毛細血管はどう鍛えればよいのでしょう?
血管はお風呂に入ると緩んで、寒いところに行くとキュッと締まったりします。これは血管の壁に細い筋肉があるためです。
ところが、毛細血管にはその筋肉が存在しません。つまり毛細血管の血流というのは、その手前の動脈が押している勢いでなんとか流れている状態です。このため、毛細血管を鍛えるにはその手前の動脈を鍛えるのが効果的。有酸素運動など適度な運動で血液の巡りをよくするしか方法がありません。
動物とは動いていることでモノでいられる生き物です。
動くのをやめるというのはこの世から消滅していくことです。
血管は糖分が5%を超えると傷つく
血管が細い時に大量の糖分を摂取すると気絶する。
なぜ、高血糖になると血管内皮が傷つけられるのでしょうか?
1つめは酸化ストレスの増加です。酸化ストレスとは、体内の酸化反応と抗酸化反応のバランスが崩れ、酸化反応が勝ってしまう状態のことです。高血糖により、酸化ストレスが増加すると、それまで弛緩・収縮をくり返していた血管内皮機能の働きが悪くなってしまい、動脈硬化や心筋梗塞などのリスクとなります。
2つめはAGE(終末糖化産物)が形成されるためです。AGEというのは、タンパク質と糖が結びついた強い毒性を持った物質です。
過剰な血糖は、糖化反応によって血管内皮のコラーゲンなどさまざまなタンパク質に付着します。付着した糖の一部はアマドリ化合物(変性ブドウ糖)となり、これがさらに糖と結合してできるのがAGEです。AGEがたまると、血管内皮細胞に障害を起こし、血管は弾力を失い、動脈硬化の進行が加速します。
3つめは、血糖値が高いと、血液の成分である血小板や凝固国子が増加し、活性化されやすくなり、血栓をつくりやすくなります。
これらが高血糖による動脈硬化の進展とプラーク(肥厚性斑状病巣)脆弱性を招く今のところでわかっている理由です。
諦めると血管が太くなる
危ないのは、張り切ること、熱心なこと、あきらめないこと この3つが揃うと血管が弱る。
血管のことを考えると、大事なのは諦めること。すると副交感神経が活性化し、血管が太くなる。
「あきらめる健康法」 自律神経を整える 小林ひろゆき 順天大学医学部 便秘の専門家
呼吸法を変えてみる
また深呼吸や腹式呼吸もおすすめ。腹式呼吸(深呼吸)をすると、血管の緊張をほぐす副交感神経の働きが活発になり、血管が拡がる。そして血液の流れがよくなれば、先の「早歩き」で解説したとおり、血管が若返ってくる。
血管の老化は気づかないうちに進行し、ある日突然命を奪う「サイレントキラー」。だが、血管病に怯えストレスを溜めこむと、それだけでも血管は収縮し、血液の流れを悪くしたり、血管に傷をつけたりするという。
若々しい血管を手に入れるのに、遅すぎるということはない。さっそく今日から、血管を鍛えるエクササイズを実践してみる。
ストレッチのポーズをしたら、そこで腹式呼吸を3〜10回繰り返してみてください。面白いようにカラダが緩んでいくのを体験できると思います。息を吸いこむ時には肋骨の間や脇や背中まで酸素を吸うイメージにしてお腹を膨らませます。吐く時には体の全ての空気を外に出すイメージでお腹を全力で凹ませます。
また、逆腹式呼吸と言って、吐く時に下腹部が膨らみ、吸う時にお腹がひっこむという呼吸法があります。これは古今東西の瞑想をする時に使う呼吸法です。といってもそんなに難しいものではなく、近所の和尚さんが学童保育の小学生に教えていた時に言っていたのは、風船式呼吸法です。
「息を吐く時に、おへその下に風船があると思って、その風船を大きく膨らましてみてごらん。人のことはいいから、自分の風船をふくらませることだけをやってごらん。」
短く吸って、ゆっくりと楽しく暖かく緩やかに大きく爽やかに息を吐いていきます。
誰でもできる呼吸法です。
小腸の鍛え方
腸を鍛えるにはメリハリをつけたリズムを持つことです。
日常生活で鍛えるのは、消化に時間のかかる食物繊維を多く食べることとボーとする時間を増やすということです。
いくら現代が脳の時代だからといってもヒトの体は400万年前から大きく進化していないので、これまで体がずっとやってきたやり方を無視するわけにはいかないのです。ヒトの体の構造が変化するにはとてもつない長い時間がかかるのです。
鍛えるのにボーとするとは矛盾しているように感じるでしょうが、意識を使わないと自律神経の副交感神経が活性化して、腸の蠕動運動も活性化されます。
自律神経の働き
心拍数 |
血 圧 |
呼吸 |
消化作用 |
血 糖 |
瞳 孔 |
血 管 |
腸 管 |
|
交感神経 |
促進 |
上昇 |
促進 |
抑制 |
増加 |
拡大 |
収縮 |
不活性 |
副交感神経 |
抑制 |
下降 |
抑制 |
促進 |
減少 |
縮小 |
拡張 |
活性化 |
コラム
ウソと真実 鍵は理屈ではなく共感 アタマではなくカラダ
嘘の世界では、「真実」を探しに行こうとする事ができる。
誰かにまかせて正しい答えをもらうのではなく、無意識が一緒に発見の旅に立ってくれるからだ。
「真実」は答えがあるものや与えられるものではなく、自分が探すことでしか見つからいモノのことだ。
真実は各自の出自、時代、背景、環境、性格、運命に深く根ざしているために、各自の真実に至る道が異なるからだ。
いくら正しい答えがあったとしても、それは真実ではない。
真実を体感できるのは偉人の素晴らしい答えではなく、本人が自分で見つけることしか見事に方法がない。
このコラムでの真実に至る鍵は「ウソ」と「本人の体験」と「共感」
古代ギリシャ語では合鍵のことをシンボルという。
まずはウソ。
嘘があるところでは脳は真実を探してしまう特性を持つからだ。
だからヒトはフィクションを好み、必要としている。
例えば、アニメの千と千尋、映画のハリー・ポッターのような。
真実を引き出せるのは事実ではなくウソからである。
事実に対しては「無意識」は耳をふさぎ合鍵に手を伸ばそうとはしないのに、
だれかが嘘を言っている時はその話を「無意識」聞いて自ら合鍵に手を伸ばす。
次に本人の体験。
人は真実を事実から引き出せないのはなぜか?
事実の決まった答えは「わたし」がまだ傍観者のままでいられて、そこには試すという行為がない。
真実とは個々で違うものだから、自分で試し、手加減や匙(さじ)加減を加えて修正し、また試す、という試行錯誤を繰り返して見つけ出すしかないためだ。
最後に「共感」がないと真実への旅は始まらない。
鍵を開けないと真実には届かない。その鍵とは「共感」。
共感が伝わるのは声、昔話の声、ファンタジーの声
共感が伝わるのは触感、波打つ感覚、溶ける感覚
共感が導く行き先が真実、真実が共感を生むのではない
循環器系器官で共鳴し、消化器系器官で腑に落ちる。
思想は一度も人間を幸せにしたことがない
カラダが満たされた時に幸せになる。
ソクラテスは立派な人で尊敬している。だから、痩せすぎたソクラテスも笑っている豚もいい。
生粋の個人主義などはあるはずがない 脳、自己意識
「世界に一つだけの花」はアタマを優先させる人たちに響く詩である。一つであるというユニークさを強調することで満足し安心することができる環境の人だ。
この詩が好きなのはアタマ(意識)であってカラダ(無意識)ではない。
なぜならば本当にこの世界に一つだけの花ならば、他の花とは交合ができないので、遺伝的多様のない自家受粉になってしまう。が、実際には、おしべとめしべの成熟時期のずれ、受粉後の花粉管ののびの中断などで、受精できない例が見られる。そうなると、この植物はその代限りの命で次世代には全てが絶滅してしまう。
繁殖するのは受精交合が可能なありふれた花だ。
他者を経過しての自己
自分では自分のことはどうすることもできない
相手を通過することで、自分は自分の事がわかる。
他者を経過しないと自分は幸せにならない
どうしたら自分が幸せになるかわからないが、他人のことを幸せにすることはできる
その相手とは隣人だけではない、自分の中の無意識、自分の内臓感覚、自分のカラダこそが大切な相手。
意識の届かない世界とのつながり方
ものごとが上手くいく時は、何かを一つすでにあきらめている時
上手くいかない時は、何か一つをあきらめていない時。
目覚めている時は、自己意識である「わたし」は有用です。
しかし寝る時には、「わたし」は無用です。熟睡するには「わたし」を忘れないといけない。
ぐっすり眠っている時は、「わたし」をあきらめている時。
あきらめると平常心の安らかさが戻ってくる。
あきらめないと心は波立ち落ち着かない。
ゆっくり動くと呼吸もゆっくりとなり副交感神経が活性化する。
昆虫のバッタも普段は静止した状態で30分もいられる。
この動かない状態、静止した状態が重要で、その時に関心が外側の世界ではなく内側に向き、意識が届かない世界の入り口にやっと立つことができる。
人に瞑想が必要なのは、意識の届かない世界を実感するため。
安らかなココロの準備から始まる
「こうであったらいいな」ということがあったら、そうなったつもりになってみます。
これからやりたいということがあったら、いまやっている気になってみます。
すると始まります、無意識の世界が。
だから、どうせ想うのならば、いいこと・大事なこと・大切なことがいいです。
意識は心の門番です。意識の本来の役目は、無意識に間違った情報が入ってこないようにすることです。
意識だけが思考できる唯一の門番であり水先案内人です。この世界では、「わたし(自己意識)」がこの世をどう考えるかに責任があるのであってこの世には一つの責任もありません。
そして「わたし」が想う世界が、自身の無意識に影響を与えて、それが「カタチ」になっていきます。
よいとか悪いとかいうものはこの世にありません。すべては考え方しだいですから。
大天使ルシファー『光をもたらす者』やアゼザル『神が力を与える者』も見方次第で悪魔になったように。
脳ができることは2つに分けて一つを選択することです。
ですがこの思考法だけに固執すると災いを招くことになってしまいます。
奇跡とは、それまでにそのヒトが知っていたことよりもさらに高いレベルの自然の法則です。決して神秘的出来事ではありません。
奇跡とは単なる違う世界の法則の一部が顔を覗かせただけです。ですから奇跡とはこの世では単なるノイズで、あの世では単なる普通の常識です。だから奇跡とはふつう一般に考えられているほど不可思議なことではありません。
祈ることは非常に大切です。なぜなら祈りという行為は自分の思いを頭の中に描き、その実現を深く願うことで、無意識にアクセスしていることだからです。
しかしその祈りの前に、無意識の常識を体感していないと、祈る内容は意識が考えたエゴイズムに満ちたことばかりになってしまいます。
どんな情報や、思考法や、心理や、精神や、感動とつながるかによって、個々の人生は決まっていきます。
この世もあの世もいつでも自分が見える通りの形でしか見えず、それがカタチとなってあらわれます。
ヒトは何も創造してはいません。はじめから用意され準備されているモノのほこりをはらうだけです。この種の発見をこの世では創造と呼んでいるだけです。英語でいう発見discoverとはカバー(覆うもの・包むもの・ほこり)をはずす(dis)ことを語源としています。
無意識が意識に何か信号を送り、それに意識が気がつけるのは、自己意識がくつろぎ、安らかな気分でいるときです。
そういうときに信号が意識の中心にのぼってきます。だからボーとすることはとても大切です。
無意識とつながるのに良い時は、寝る前と起きる前です。意識と無意識の境目です。
平和の内にくつろぎ、静けさと深い安らぎの準備がととのっている時です。
無意識には正邪善悪の区別はありません。無意識は、意識では二項対立するものでも、波や混沌や「空」として捉えているからです。
ですから意識の望むように無意識の世界を書き換えて、意識の望みを叶えてもその成功は長続きしないケースがあります。それは、意識がただ勝手に無意識を一時的に書き換えただけで、無意識の世界のルールを体感しなかった場合です。
たしかに「切に望むことは実現する」ことは多くのヒトが体験していると思います。
ただ、切に望むことの「内容」をよく観ることが大切です。多くの場合は、いくら意識が望んでいても、無意識がそれを打ち消しているからです。
無意識が否定したのには大きな理由があります。それを分かってあげて、それに対応してあげない限りは、いくら意識が肯定しても、知らないうちに無意識によって否定されてしまいます。
無意識に明確な目的がインプットされると、本人である「わたし」の知らないところで無意識は働き出します。
無意識のメッセージはしばしば思いもよらぬ形でやってきます。まったくの偶然としか思えないような形、たとえば通りすがりにふっと耳にした会話がずっと気になっていた深い気づきの糸口になるという場合もあるでしょう。しかしそれは偶然ではありません。無意識が受け入れる準備していたから聴こえてきたという、シンプルなことです。
しかし、無意識を活用するには条件があります。それにはまず意識(自分自身)をコントロールできる練習を積むことです。
なぜならば意識である「わたし」が望まないことも無意識は行ってしまうからです。
まずは無意識のことを理解してあげて、次に意識がどのように対応してあげればいいのかを学ぶことです。
農民は農業の法則を信じます。船長は航海の法則を信じます。彼らは地球上に人間があらわれる以前から存在している地球や自然や宇宙の原理の聲に耳を傾け、それに寄り添っています。
無意識を可愛がってあげましょう。
だれもが持つ無意識です。
人の意見を聞くのは参考になります。
そして自分の無意識の意見を聞くことはさらに大事です。
眠っている間にも無意識は自然の法則の聲に耳を傾けてくれます。
アタマとココロとカラダの状態を平静に保ち、ただただ待つだけでいいのです。
すると、体感するものがあります。