自意識に操られた人形の時代
自意識に食べらてしまった人たち
観る者(自意識)が正しい判断ができていることを第一にする人たち。
自意識を「わたし」の基準にしてしまっているので、他の7段階の「わたし」を大切にしようとはしない。
自意識のためには、自分の中の自己や心や体までも犠牲にする。
自意識の正しさのためには、自分の良心や体さえも悪者にして、自意識を守るのだ。
それも無意識のうちに。
だから、そのためにはどんな嘘でもつける。
しかし、嘘であるという自覚は本人にはない。
なぜならば、本人の意識が数分前に思っていたことなので、嘘のはずがない、と本人は確信しているからだ。
他人から嘘だといくら言われても、自分の言動を省みることがないので、自分が間違っていると疑うことはない。
ところが実際は、相手の持っている最終的な答えを、まるで自分の自意識が始めから知っていたものだ、として、「ほら、私の言ったとおりだったでしょう」と結論づける。
まるで後出しジャンケンのように。
この詐欺行為に本人が気がつかないので、自分では嘘を言っていることに気がつかないのだ。
そしてこの結論だけを横取りして、自分の正当性をアピールするのがクセとなってしまっているので、意識的にやっているのではなく、無意識という自動反応回路(アプリ)にすべてを任せていることを、自分で考え、判断し、言動に移してしまっている、と信じこんでいることが問題なのだ。
具体例では、ある人のナルシズム的発言を指摘すると、「本当にそう考えていたのではなくでまかせに言っただけ」
論理的間違いを指摘すると、「ゴトクの構造はわからなかったのではなく、説明がちゃんとできなかっただけ」
あるTPOに適合していないことを指摘すると「その本人や親や社会が望んでいることをやっているだけだから」
などと次々に言い訳をする。
といっても本人にとっては言い訳ではなく、素直な感情や気持ちを語っているにすぎない。
では、たとえば「攻殻機動隊」のアニメーションから。
身体を持たないものは動物・子供・人形を求める
▼テーマは「人間には身体がない」出典www.yomiuri.co.jpをNMが勝手に編集して改竄した。
ヒトは自意識を使い、客観的に自己を見ることができる。つまりそれは「精神」が「身体」から遊離している事でもある。
自意識を使い認識できてしまう身体は、自己とは違う外部環境へとカテゴライズされてしまう。
これが「人間は身体がない」という理由である。
一方で「精神」が「身体」から完全に開放されることはない。
遊離していながら束縛されている不完全な「精神」。
身体は精神を、ある限界へと制約し続ける。
その時に人は何を求めるのか。
自分の存在とイコールのレベルで身体が存在してる人がいるんだろうかということなんです。*
人間である以上必ず自意識があるわけだから。自意識があるってことは、必ず自分の身体を外部化しちゃう。
出典日本テレビ放送網出版「押井守論―MEMENTO MORI」 P.28 P.31
「わたし」には7もしくは10の段階がある。モノ(時計、貯金、家)までもわたしとする段階から、自分の体、自分の感情、自分の意識、共通意識、分別意識、「空」意識などいろいろな段階を行き来して生きているのだが、「ヒトは根本的に身体を持っていない」という身体論が今回の映画のテーマである。前作で身体を完全に捨て去った素子。しかし残されたバトーはこの不完全さにどう向き合うのか。その他の人々はどう向き合うのか。
■身体を持たない人間は「犬」を求める
出典zassikousekisei.livedoor.biz
犬などの動物は自身を客観的に見ることはしない。つまり自意識をもたない。それは「精神」と「身体」が絶えず一致していると言える。
犬は身体を持つのである。
自己意識を中心に生きてしまうことを「進化」であるとし、これを肯定することで自己意識を基準にする暮らし方をする誤謬の中で暮らすと、「身体」を失ってしまった人間は、動物としての完全さを備える「犬」を求める。
種類の比はあるが、我々の様に自己意識の強い生物が決して感じる事の出来ない、深い無意識の喜びに満ちている。
イノセンスでキムが語った言葉。人形や神と同等な完全さを動物が持っていると。
■身体を持たない人間は「人形」を求める
人形の姿は人間の身体を模して作られている。しかし作り物の「身体」に「精神」は存在しない。
人形は「身体」そのものである。
ヒトの「精神」は始めから「身体」から離れており、ヒトの意識は「身体」と始めからつながっているのに、まるで別物のように扱うことで誤謬の中を生きることになる。
物理的に外部化された「身体」である人形もまた、ヒトの自己意識にとってはある種の完全さを備えるカミとなる。
人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし。そして・・・その種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり、人形或いは神においてしか実現しない。
出典映画「イノセンス」
イノセンスでキムが語った言葉。素子は無限の意識と融合して神に等しい存在となった。それが出来ない者は完全に外部化された身体を求めるしかない。
というのが映画のメッセージであるが、この素子の意識と無限の意識との融合とは錯覚であり幻想であり願望であり製作者の詐欺である。
実際は「霊なる世界」では融合があると古今東西の宗教がそのことを伝えてきたが、いかなる意識はエネルギー体であり、意識体の融合はなく、意識は個々のカタチ、すなわち「身体」と応対したアプリを積み重ねたものであり、融合体ではない。
■身体を持たない人間は「子供」を求める
自意識が発達する前の子供。それは「精神」と「身体」が一致した完全な動物であり、親にとっては外部化された完全な身体である。
子供を産むという古来からの行為。それは動物を飼うことと、人形を作ること両方に似ているのかもしれない。
人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか?明らかに中身は人間とは異なるが人間の形はしている・・・
出典イノセンス
イノセンスでのハラウェイの言葉。子育てを人形遊びと同じではないかと明言しつつ、自意識の欠如についても触れている。
▼その道はゴーストの数だけある
自分の生きた証、自分の存在を求める方法は無数にある。
人間の不完全さ故にバトーは犬を求め、キムは人形を求め、トグサは子供を求めた。そして素子は身体からの開放を求め、不完全さを克服していった。
自分の身体の替わりになるものは人間の数だけあるんじゃないかな。*
確かに道具立てはSFなんだけど、語りたいことはSFと関係ないんです。あくまでも今の話で。さらに大それたことをいえば、人間が生きてきた何万年もの話をしたいんです。
出典日本テレビ放送網出版「押井守論―MEMENTO MORI」 P.44 P.45
決してSFの世界の話ではなく、人間には根源的に身体がない。それ故に人々は身体の替わりを求めてきたという。「身体を持たない」という不完全さをどのように癒すのか。それをテーマに押井守はイノセンスを描いた。
身心の喪失では人形で正気を保つ
人形は彼(女)自身であり、親でもあった。
体と心をなくしたものが人形遊びをする。大人は動物を飼う。カップルは子供を産む。
分裂症の時代は人の自己と身体が分離している。
みんな身体を確認することで、正気を保っていようとするためである。
正常よりも分裂状態を好むわけ
全体が部分的体系(準自律性を持つ)へと分裂し、これらの部分のそれぞれがパーソナリティーを持つように分裂する。
全体的統一はなく、パーソナリティの一群たちを統合することで、口調(言葉、単語)の統合さえも分裂して多様化した。
しかしこの統合の瞬間を様々な理由で恐れていた。
統合することで、現状の悲劇と不安をはっきりと自覚してしまうからである。
また統合した後の分裂の過程でひどく恐ろしい記憶が思い出されてしまう。
むしろ統合欠如、非現実、死の状態の方が快適に思え、そこを逃げ場所にすることができた。
上記のような自意識を中心にした生活が長く続くと、自らが発する言葉は自意識を守るための言い繕いのために周囲と折り合いがつけるのが難しくなり、周囲からは嫌われ、疎外され、避けられる、同じ考え方をするグループの一員になるようになる。
本人は誠実や正義や優しさや理性的であるのだが、それは自意識に対して誠実さや正義や優しさや理性であるので、モノや身体や潜在意識や無意識や個我意識(自己意識)や共通意識や分別意識や空意識や霊に対しては誠実性がない発言と行動を繰り返すことになる。
自意識(me)は自己(not-me)を否定するので、軽い統合失調症が始まる。生活意欲の低下や喜怒哀楽が激しくなったり、逆にとぼしくなる。
条件反射のメカニズム
大切な自意識を保護するための自動反応回路(条件反射のアプリ)を無意識のうちに作り続ける。
自分の間違えを訂正することでたどり着いた答えを正しいと信じ込んでいるので、その正しさに導かれるようなアプリを作るのだ。
また、自分の間違えを指摘されるのを恥だと思い、他人から自分の嘘を指摘されるのを恥だと思うので、それらを見えなくするアプリもつくり続ける。
分けることから始まる断絶の病 内と外
身体から自己を引き裂くことで亀裂が生じる。
「私−感覚」は身体から失われ、「私−感覚」が身体はコントロールすることから、ニセ自己の体系を中心にして暮らすことになる。
さらにニセ自己を分裂させることにより、世界は自己・身体・世界という縦断的な分裂になり、身体は不明確な位置を占めることになる。
自意識の体験とは二つに区分すること
まずは、分裂によって私I(霊我、内なるカミ)という感覚が身体からなくなる。
次にMe(にせ自己)によって2つに区分する分割を始める。
ここ あそこ
内部 外部
Me Not‐Me
私I(内なるカミ)はいないので、Meが2つの世界を判断することになる。
しかし問題は、境界線が常に揺れており流動的であるので、境界では混合、融合、錯乱が続くことだ。
Meは自分自身すなわち、境界線をみることができないので、自分の揺れに気づいてはいないが、自分の判断の変化に翻弄されるばかりである。
またもう一つの問題も生まれてくる。
Meは愛されることによってしか身体をしっかりと感じることができない性質をもつことである。
Meとは分割されて生じたものなので、常に受け身であることで存在しているので、受け身の心地よい状態を保つために、つねに人からかまってもらえるように振る舞い続けようとする。
しかしこれはMe世界のインフルエンサー(詐欺師)であるトップの5%の人たち以外には効果がない戦略なので、Meを中心にして暮らす住人のマジョリティーは不満と欠如と不安の中で生きることになる。
他者から識別された身体
Me世界のインフルエンサーの自意識(Me)は他の人に影響されることなく、他の人のように振舞うことができる。
感情を他者の感情と混合したりしないので、他者との感情をただ共有し合うことができる。
これはここのMeとそこのNot‐Me とのあいだに明確な区別が確立することによって初めて可能になる。
インフルエンサーになりたければ内と外との境界線をよく体験することである。
このようにしてMeの肉体は他者から認識されることによって、はじめて本当に肉体化されるという実感(錯覚)をもつ満足感のあるMeになれる。
欠点は一つだけ。このMeの満足は永くは続かない刹那なものでしかないことである。
根拠はこの世は常に変化し続け、境界は揺れ動き変化し続け、Meは他者の評価によってしか存在意義がないためである。
だからgoodボタンの承認を得るために生きることにあり、詐欺師だけがインフルエンサーとして一時的な幻の満足を得ることができるようになる。
つまり大多数はその幻の満足を味合うことがない。
これを幸運だと思う体験をすると、残念な人は立派な庶民として、この宇宙の中ではじめの一歩を進むことができるようになる。
危険な願望
しかし幸運の体験もなく、そのまま自意識に操られる暮らしを続けると、のぞみを得ることがないことから、
死への願望と非存在への願望が生まれる。
この二つが合わさると、生きながらにして死の状態を促進させる方向へ向かう。
たとえば、「私は誰か他人を傷つけるかわりに自分を殺してしまったのだと思います。」
母親とのあいだの陽性感情がある分裂病者の感想である。シアルズ 1958年
精神病への段階
1 本人は良い正常な子供である。
2 心の状態が悪くなり、悩みの種になるようなことを言ったりするが全体としては「やんちゃ」にうつる。
3 周囲の忍耐の限度を超えてしまたため、患者は完全な狂気とみなされるほかなくなってしまう時期と状態。
対治法
「自意識の嘘」の構造を図に書いたのを見て、自意識のメリットとデメリットに気づくことである。
自我は1つの「わたし」なのであって、すべてそこだけを基準にしてこの世を判断するのは幻想である、ことを理解する。
体、心、頭(大脳皮質)、霊魂が自意識と共に揃った時にはじめて、自分自身が調和よく働くことを説明する
便宜上一時的に括弧で括られたもの(優劣の劣、上下の下、高低の低)が本来持っている諸関係を復活させて、その流れをを大切にして、除外されて閉ざされた体系を開いたものにしなければならない。
病気になる救い
ある分裂症患者が、「母親が生きさせてくれない」といっている間は本人の病状に変化はなかったが、「母親がかつて私を殺した」と言いはじめると、本人はすべてが許されたかのように、病状が好転することもある。
本人が病気であることを認識し、自分には責任がない、と考えるからである。
自らの病気を自覚することができるようになれば、徐々にそこから抜け出る道も模索するようになることがある。
離乳遊び 自律性の訓練
子供の流儀によって行わなければならない。子供が自分で統御していると思わせるのが必要だ。
ガラガラを落として拾わせる。また落としては拾わせる。母親が落として子供が拾うのではない。子供の自立性にこちらが合わせるのだ。
モノが去ったり戻ったりするのを楽しんでいるように思われる。
これが離乳につながる。
自分が、自分自身の行動の起源であるという観念を発達させるのが重要だ。
毒親 安定を阻害する親
必要なのは安心を促進することだ。
両親は単純なパターンを与える。カオスをパターンで規制するのだ。
子供が育つに連れて、条件をつけてパターンを加えて、例外をも学んでいく。
両親がパターンを使える環境を与えながら、自律性の成長に付き合わない場合は、子供は独自の鋭い洞察力を養い、それによって生きうるようにしなければならない。
そうしなければ狂気におちいる。
小児が対自存在の初まりを展開するのは母親との最初の絆によってである。
これによって子供に世界を媒介する。
子供をとがめることによって、親の弁明を行う必要がなくなる
分裂病
常識や社会観念の体験を他者とともにすることができない病。
与えられた条件の下、その中で構成し統一することが社会で生きるということだ。
患者の陳述が真実でないから病気ではないのではなく、謎めいているがゆえに病気なのだ。
分裂した部分的体系を統合する機能がない。
この統合方法が恐怖がなく使えるようになれば分裂症は解消する。
反省
自分を反省をするためには、個人としての統一がまず必要である。
二つ以上の自意識を比べる必要があるから、自意識をまとめて一つにする必要がある。
Personalityが統一していても全体が統一されていないとちゃんとした反省にはならない。
反省意識の前提になる全生涯の記憶が現在の中でツギハギとなり、記憶を操作することができなくなる。
これは自分の存在の内と外の境界をベースとする体験を欠いていることを意味している。
しかしpersonalityの横の境界はしっかりしているように見える。
ジレンマdilemmaの対処法
ギリシャ語で「di」は「2つ」を、「lemma」は「仮設」「前提」を意味しています。
つまり、日本語でいうところの「板ばさみ状態」
問題はこの板挟みを不安と解釈するか、当然の状態と解釈するかによる。
この時の対処法の安全策は、二つの異なった基準の両方を心地よく適用させることです。
相手の最小の自由意志、自分には最大の自由意志を持つことです。もしくはこの逆です。
たとえば、両方の前提を交互に気の向くままに実行することです。
もうひとつの解決策はジレンマの異なる前提の共通点を探ってみることです。
すると2つの異なる前提が成り立たないTPOが発見され、そこではジレンマがないことがわかります。
閉じないと思考できない しかし事実は閉じていない。
そこで思考するためにはヒエラルキーを閉じて、「自分」を作り出す必要があるが、思考した後は、その内容も仮のものとして扱い、固定化したドグマとせず、閉じたヒエラルキーの両端を開放して、いきていく。
外宇宙の内在モデル、そして自己は知覚できない
ヒトは知ることによって外部の出来事を脳内に小宇宙のモデルとして作る。
しかしそれは完全ではない、何故ならば、モデルは常に一歩遅れをとっているからである。
外宇宙ヒエラルキーの頂点や小宇宙ヒエラルキーの頂点である統合全体の自己に近づいても、その分だけヒエラルキーは遠ざかってしまうからだ。
例えば、暗闇を宇宙や自己を知ろうとして、そこにライトを当てると、そこは可視化できて詳細について語ることができるようになるが、知りたい暗闇はもうそこではなく、その奥に追いやられてしまっている。
だから五感覚器官や意識を使って「汝自身を知れ」と言ってトライしても、決して自己自身にたどり着くことはできない。
肝心なものが一歩先に常にあるのだが、知ることができないのだ。
鏡という自己意識
自分の行動を内省する鏡として自己意識をメタファーにすることがあるが、実際は、二枚の鏡の中で永遠に映り続ける像の方が実在に近い。
視覚では自己見ることができないが、無限の方からはこちらの姿をじっと見つめている。
「上から目線」の時代 優劣の劣を憐れむ時代
二つの優しさ
「喪にふくして哀しむ人の姿」憂れえ悲しむ姿を「優」というのがもともとのようです。そこから優艶、優柔、優雅、俳優がうまれていったんだけど、「優」が「劣」とくっついてからは他より優れている、という解釈に傾いたみたい。
「いとおし」劣った者を見て辛くなり目を背けたくなる気持ち 気の毒→かわいそう→かわいい→いとしい
観察者の意識を使ってないと、コミュニケーションできないと思う人たち
もともと日本語にこういった自己と非自己を区別するための言葉が少ないのは(例えばプライバシーと言う言葉も輸入物だし)、文化的・歴史的にそういったことを区別する必要性が少ない環境だったからなんでしょうねぇ。
今の都会の住人の感覚からすれば、はっきしとしたアイデンティティを感じるということ=目的意識をもった人、自覚的に自分を認識している人という良いイメージですが。
しかし、TPOがずれれば、「私が〜」という意識が前に出過ぎて悪い自己主張にもなります。
「私」にはいろいろな段階があるので、TPOによって出てくるカタチが違うためです。
自意識は育てるな
自意識からものを考える人は固くなる。
人の意見を聞くよりも自分の意見を言うことに関心が向いてしまうからである。
弱く揺れてることにより成長していくのに、自己肯定から入ってしまうと変化に順応する力を失い、柔軟さを失い、ついには枯れていく。
人から注目されることでしか、自意識は喜ばない。
静かに人の話を聞いて、自分とは違う意識を自分のものにする余裕がない。
自意識は裸の王様だ。自分はなんでもないブヨブヨの体なのに、ずっと昔にあった栄光の王様時代の記憶だけを身にまとい、今日もしたり顔でエンターテインメントに励んでいる。
このわしが、わざわざ下々の目の前に出て喜びを与えているのだぞ、と自慢しながら。
子供が裸であることを叫んでも、自分のこととは気がつかないまでになっちまった。
人間の一番厄介なものが自意識、ほかの呼び名は主体、自己、自己意識、自我、わたし、I、Me、Myなどといろいろある。
脳機能学でもまだどこにあるのか見つけることができないミステリアスな王様。
大したことないくせして、いつの間にかこの世で一番偉いやつだと勘違いしてしまった。
他人どころか自分の体を犠牲にしてまで、自意識を守ろうとする。
ピンチになれば他人、自分の記憶、自分の理性、自分の考え方、自分の意識を犠牲にしてまで、自意識の正当性を守ろうとする。
これがプライドの正体。
企み、騙し、嘘をつき、欺いているのに、最後まで無垢な良い人を演じようとするのはなぜだろう?
自尊心・自意識を何が何でも守るわけ
自分の体や心や理性や否定してまでも、自分の正しさに固執する理由
自意識が過剰な理由
意識を高めることで、メリットがあった経験を積み重ねてきた。
意識を使うことで、他者を踏みにじっている自覚がない。 意識のデメリットを経験していない。
生物はこれまで生きてこられたのは、これまでの脳内システム(価値観、判断、構想)が正しく働いてきた結果である。だからその回路を少しでも変えることは危険である。
しかし、生物はこの危険を巧みに避けつつ、多様な遺伝性の変異を保存する方法を進化の過程で見つけ出しました。それは、遺伝情報を重複して保持することです。これが遺伝子の複相性の獲得です。ある遺伝情報に変異がおこっても、予備の遺伝情報を発動することで、変異を保存しながら細胞は生きていけるからです。
意識とは穴のこと
水は意識の象徴である。その運動、流動性、連帯性、不断の逃亡。
意識は持続の性格を持つ、河のように。
意識にとって、ネバネバしたものになるとはどういうことだろう。
ネバネバしたものは柔らかな粘着であり、各々の部分と陰険な連帯性があり、自己を個別化するために各々の部分の柔らかさと不断の努力にもかかわらず、結果的には、落下し、平たくなり、個別性を失い、実体に吸い込まれてしまう。
意識がネバネバしたものになるであろう瞬間には、自己の過去の粘着の観念によって、意識は変形させられている。
意識は無数の記憶の寄生虫によって侵蝕され、ついには主体を失うまで、そこに居合わせなければならない。
誇大妄想患者のいう「誰かが私の思想を盗む」という恐れのことだ。
自分で自らが穴を掘ったために即自が流れ込んできたのに、その流出物に乗っ取られると感じることだ。
これは即自の前で対自が逃亡することだ。
即自とは、他から独立したそれみずからの存在のことで、無意識的な第一段階のこと。(独語an sichの訳語)
対自とは、即自から発展した第二の段階で、他者に関係するのではなく、自己が一定の限界をもちながら自己自身に関係している意識的な段階(独語für sichの訳語)
穴がふさがったことを喜ぶはずだったのに、急に受け止めることをやめ責任を負うことをおそれ、自分はそれに関わったことから逃げてしまい、何事もなかったように振舞う。あまりの流れ込みの強さに、自分を捨てて身を委ねてしまったのだ。そしてそのことを直視することを嫌がってただ背を向けてその場から立ち去ったのだ。
これを流れ降る時間という。駆け上がる時間は、逃げるのではなく、勝ち負けに関係なく、向き合わなければならない。
流れ降る時間が絶えず突き進み、その勢いに駆け上がる時間の意識がビビって吸い込まれてしまうという恐怖をあらわす。そんなことはないのに。でもそう思ってしまったらダメだ。思った瞬間に恐怖が存在してしまう。
単なるイメージが独り歩きして恐怖となる。
もともとは我有化という自分のために始めたのに、自覚して責任を持たなかったために、突如に逃亡の企てに変わってしまった。責任を持つという中心点を作らなかったために、視点が浮遊してしまい、向こう側に移ってしまう可能性も考えてしまい、まさに可能性を考えたことで、自分がほった穴ではなんく、流入物に中心が移ってしまい、穴は主導権が変わったことに驚き怯えているのだ。
普段の穴は冷静だ。
穴は空虚である。そこで私はその中に潜り込むことができる。理想の穴は私の肉体の形にぴったりと合うものである。穴が私を締め付け、ぴったりと私をはめこんでくれることによって、私は充実することができる。
ということは、穴を塞いでしまっては、私の充実を味わうことができないことであり、これは私の肉体の犠牲といえる。この犠牲は受難であり、この受難を耐え忍ぶことによって、はじめて即自を完成し、これを救済と呼ぶ。
計り知れない苦しい犠牲であるが、反対の全体性から見れば、これは全ての特殊性から解放される救いである。
満たそうとする起源から解き放たれ、これに自動化されて進むことに囚われなくなるのだ。流れ降る時間に支配されなくても存在できるのだ。
普通の生活は穴を何ものかによってふさぎ、埋め、空虚を満たし充実の実現に費やされる。幼児は自分の口に乳頭を咥え、ない時には自分の指を口に入れる。空虚に密度を求め、指を溶かし、口の中で密度を増やして、満たそうとする。
食べるとは口をふさぐことである。
女性器は口である。口は「呼び求める」。
穴は侵入と溶解によって自分を充実させる。呼び求めることが、穴であり、それが自分である。
この穴こそが生命と意識とコンプレックスの起源である。性以前の全てもここから始まる。
食べるとは、破壊によって我がものにすることであり、同時に、自分の口を他者で塞ぐことである。
温度と密度と味わいを我がものにする。これは同化作用である。
歯は噛み砕くことによって、密度を味あう。
チョコの風味とは、歯の抵抗、温度の溶解、顕現の時間と現れ方、味、消滅の時間、(歯ざわり、とろけぐあい、味の順番と時間、風味、後味)とのことで、これらが、チョコである。
風味は複雑な建築構造と微分的な素材を持つ。微分的とは風味の時間的変化を指す。
私たちはこれらに対して趣味を持つ。受容したり拒否をする。ここにその人の性質や過去の経験があらわれる。
これが実存的精神分析の仕事である。
人間存在は、自分の対自を「即自−対自」に変身させようとする企てである。
自分の存在の根拠を求めてしまう存在。偶然ではない必然を求めてしまう。
その必然を即自にみる。この即時は宗教では神と名づけているものだ。この自己原因者である創造の根拠を作り上げることで、自己を失うことを企てている。これは受難と言える。
神を創りあげるために、自己を失うからである。
逆に言うと、宗教は有益だ。自己を失うことによって、人間の体は休まることができる。
穴があいていることに気がつかなくなり、物理的にも穴があっても、脳内では穴が消えて平面の内側の一つになる。
コギトは意識の対象として一つの即時存在を指し示す。
コギトは、自己の外へ向かわせるものであり、意識はひとつの滑りやすい傾斜であって、その上では、たちまち外部である即時存在の方へ、傾かずには立っていられない。
意識は、絶対的な主観性として、いかなる存在充足をも持たない。なぜならば意識とは何よりも先に、事物を指し示すからである。
意識はプラトン的な「他」である。
「他」はまるで夢でも見ているようにしか、とらえられない。「他」は、その「他−である」より以外に「ある」をもたない。言い換えれば、「他」は借り物の存在をしかもたない。「他」は、それだけとして考察されるならば、消失する。「他」はわれわれが眼差しを存在のうえに定着させる場合にのみ、一つの欄外的な存在を得る。
「他」もしくは「非−存在」が見せかけの存在をもちうるのは、意識という資格においてでしかない。
プラトンの誤謬は「存在」と「他」を類概念としたことだ。サルトルは「存在」は一つの個別的な冒険とした。
対自の出現は、存在へやって来る絶対的な出来事である。
自意識
隠す欲望を露出することはペニスやセックスの露出者と似ている。隠したいものを見世物とする。自意識が表現される。
実在性の確信を得たいという欲求が根本の問題。「生きているぞと確信できる時間が絶えてなかった。」
客体の自分を意識できれば、確信を得ることができると思ってしまう。「人に見られるというのが私の人生の目的なんです。」これにより自分が存在していること、また彼らが存在していることを認識する手段。
一番熱望するのは認知された瞬間であるが、その時は正体を現したことなので、狼狽し恐慌状態になる。
他者から見えるので潜在的に危険にされされていることにたいする意識。防御法は自分を見えなくすることである。
自分を確かめる他人の意識が時に、天秤の反対側に振れすぎて、悪魔の眼になる妄想になってしまう。
未来のイヴL'Eve Future
Villiers de l'lsle-Adamヴィリエ・ド・リラダン[訳]斎藤磯雄
孤高断固な赤貧ダンディズムの蕩尽者。高貴な告知と暗澹たる道化の完遂者。スピリチュアリズムの孤塁を守る戦士。いっさいの低劣に満腔の憤怒を送る高踏派。ボードレールの衣鉢を継ぐ知的アリストクラシーの最終走者。人間人形時代の高らかな宣告者。
これ、30年ほど前に、ぼくがリラダンにつけたキャッチフレーズのいくつかだ。そのいくぶんかは「ヴィリエ・ド・リラダン全集」(東京創元社)をたった一人で翻訳した斎藤磯雄の縷骨の言葉に負っている。徹底に彫啄された斎藤磯雄の日本語名人芸がなければ、ぼくはここまでリラダンに肩入れしなかったかもしれない。
ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン。
これがフルネームである。他人からリラダン伯爵と言われるのを無類に好んだリラダンが、こんな長ったらしい姓名をもったのは、リラダンの困ったほどの華族趣味にほかならず、できればギリシアはロードス島の大勲士の子孫として王位に就くつもりも、どこに実在するやら南米アロニカ王国の建国君子となる気もあったような、階位冠位がやたらに好きなせいだった。
実際にも、リラダン家はブルターニュの名門貴族だった。しかしリラダンの生涯に待っていたのは、悲況である。残酷である。
祖父は大革命で国王のために家財を投げ出し、父は憑かれるごとき産業技術計画者ともいうべき進取の野心家ではあったけれど、リラダンが1838年に生まれるころには、すでに家運がとことん尽きていた。リラダンには夢想と挫折、嘲笑と極貧だけが待っていた。
それでもブルターニュを出てパリに入ってしばらくの青年リラダンは、天をも攫(さら)う英気と人をも欺く才知とが両輪に迸(ほとばし)っていて、それが後半生ではことごとく誤解されたのに、このときばかりはパリ中を沸かせた。
これはひとえに、素性の知れない青年の才能などめったに褒めたことがなかったボードレールが、なぜかリラダンだけには称賛を惜しまなかったからだった。
リラダンがモンマルトルのカフェで才気煥発して周囲を瞠目させたのは1857年のこと、まだリラダン紅顔19歳のときである。
この前後は19世紀文化史のひとつの頂点をなすもので、前々年にパリ万国博覧会が初めて開催され、ファラデーがクリスマスに『ロウソクの科学』を講演し(第859夜)、前年にはフローベールの『ボヴァリー夫人』(第287夜)が発表されて風俗紊乱で取締りを受けた。この年はボードレールの『悪の華』(第773夜)の刊行とワーグナーの『トリスタンとイゾルテ』が目立っているが、ロンドンにはウィリアム・モリスの工房がつくられてレッサーアートが注目され、リヴィングストンの暗黒のアフリカ大陸を初めてあからさまにした探検記が耳目を驚かせてもいた。
リラダンは知人からボードレールを紹介されると、すぐさまこの最も意外な高踏批評力をもつ詩人にぞっこん傾倒したようで、とりわけ彼の地の異才エドガー・アラン・ポーのことを教えられて、すこぶる感嘆しきったことである。
ボードレールとポーを同時に知ったことは、その後のリラダンにとっては決定的なことだった。
ポーを夢中で読んだリラダンは、22歳か23歳のときにほぼ1年を費やして一つの物語を書きこんだ。
これが未完の傑作『イシス』(ISIS)である。どのようにであれリラダンを語るには、まずもってこの『イシス』を知らなければならない。チュリヤ・ファブリヤナ伯爵夫人の、物語ともプロフィールともつかない肖像画作品である。
『イシス』がいまなお精彩を放つのは、チュリヤ・ファブリヤナというイタリア女性をひたすら描写しているだけで1巻すべてが終始していることにある。他には誰一人として登場人物はない。
23歳のリラダンがここで試みたことは、女神イシスのこの世の再来者としてのチュリヤ・ファブリヤナを、その完璧な容貌と大理石のような肢体と、その玲瓏明晰な知性と人を憚る慎み深さと、その深い瞑想と世を絶する孤高の日々と、その存在自体が古代法典であるような優美な振舞とによって、ただただ創写したことだった。
そんな肖像画のような作品なのに、われわれはそこにどんな出来事のひとつもおこっていないにもかかわらず、チュリヤ・ファブリヤナをめぐるあらゆる超越的な出来事を想像することができる。
こういう作品はかつて文学史上に、なかった。このころに発表されたジェラール・ド・ネルヴァルの『オーレリア』だって、ついつい出来事や心理の描写をそこかしこに挿入していたものだ。
それをリラダンはいっさいの日常描写を禁欲的に排除して、この世のイシスの動静を、まるでオリゲネスの神学のように、まるでヴィーコの知学のように、またまるでヘーゲルの自然哲学のように、綴ったのだ。
とくにぼくを歓喜させたのは、第7章「未知の図書室」と第11章「騎士の冒険」である。
のちにユイスマンスやボルヘスやマンディアルグがそういう試みをしたとはいえ、この時代の文学作品に、これほど壮麗で神秘に満ちた図書室を描いた者はいなかったし(ぼくは図書館の描写をした作品に手もなく惹かれてしまうのだ)、女主人公チュリヤ・ファブリヤナが物語が100ページも進んでやっと夜陰に外出する段になって、その装束が身にぴったり張りついた中世騎士の甲冑で、そこへ総レースの薄物衣裳を着て黒いマントを翻すというのは、とうてい想像することすらできなかった異様な場面だった。
しかもこれらの場面のことごとくが、装飾反復の激しい迷宮のごとき城館にあっても、複雑な円形の天球のごとき閲覧室にあっても、つねにひたすらチュリヤ・ファブリヤナの正確無比な記憶の検証のためであったという顛末を知らされるにおよんでは、さすがのボードレールも、この23歳の青年作家がやがて到達する文学とはいったいどういう魂胆なのか、あっと末恐ろしくなるばかりであったろう。
記憶の検証のためにしか生きない女という発想は抜群である。ただし、リラダンはこのアイディアに溺れない。むしろ、この女主人公を人類の理想に仕立てたい。そういう無理難題なヴィジョンに犯されていた。
そうなのだ。このチュリヤ・ファブリヤナこそは、のちのちに「未来のイヴ」になる前身だったのである。
リラダンは、ボードレールが「闘牛の額をもつ愚劣」と名付けた近代の人間たちの欲望に満ちた胎動から、もはや失われて回復しようがないとおぼしい精神の聖地の奪回をもくろんでいたにちがいない。
またポーが「近代の邪説」に抵抗して、フンボルトの宇宙論に加担しつつ本来の人知の究極にひそむ推理を取り出そうとしていたのに共鳴して、何事も語ろうとしない彫像や装置や書物の陳列から、夥しい知性を再生させたかったにちがいない。
リラダンにこうした気概がつねに満ちていたことは、その後のどの作品や随筆を読んでも伝わってくる。
しかし、このようなあまりに反時代的な試みが、たんに俗物をめざしたいブルジョワ社会に受け入れられるはずはない。当時、リラダンを理解できたのは、僅かにボードレールとシャルル・クロスとユイスマンスとマラルメとレオン・ブロワにすぎなかった。
こうしてわがリラダン伯爵はしだいに赤貧洗う日々をおくることになっていく。
極貧のあまりボクシング・ジムで毎週24回も顔を殴られる仕事についたのは晩年の47歳になってからであるけれど(リラダンは51歳でマラルメら数人にのみにみとられて死んだ)、だいたいは似たような日々ばかりを送ったと考えてよい。それでもリラダンはつねにリラダン伯爵として、古代未来の精神をつねに一歩も外すことなく、理想の極致を描きつづけようとした。
そのリラダンに届いたのがメンロパークの魔術師トマス・エジソンの電気装置発明のニュースだったのである。
リラダンにはもともと父譲りの比類ない機械趣味があった。その機械というのは、未来を予知させる機械か、さもなくば人間人形か、あるいは精巧きわまりない玩具玩物である。
ぼくが何度も目を通してきた『残酷物語』(コント・クリュエル)は、あとで知ったのだが、石川淳がいっときも座右から手放さなかった一冊だったらしい。
一種の短編集であるが、一作ずつが職人の手作り工芸の精華のようで、また未来のためのシニカルな象徴芸術論のようで、どこから読んでも、何度読んでも倦きさせない。ユイスマンスがひそかにこの作品集を耽読していたことはよくよく納得できることだった。
たとえば、『闇の花』は日常の細部に宿る神秘を放蕩者と娼婦の戯れを透いて書いた。『告知者』は宿命が主題になりながら、神秘壮大きわまりないソロモン王の神殿に忍び寄る天地異変を交響曲にしたものである。『前兆』はすべての事件が恐るべき終局をめざして、そこに高潔な憂鬱を描き出したもの、『見知らぬ女』は恋慕を寄せて語りあった美しい女が実は聾者であったという苦い哀切を綴ったもの、というふうに。
この『残酷物語』に、何作かにわたってリラダンの異様な機械趣味があらわれている。
印刷技術がもたらす詐術に深長な意味を見いだしているのは『二人の占師』である。
『天空広告』は大空の広がりを活用した未曾有の幻燈広告を予告したもので、まさに第418夜に紹介したフレデリック・ブラウンのSFショートショートを100年ほど先取りしているのであるが、その一方で、その活用を通していまだ実現すらしていない普通選挙の根本欠陥を突いてみせるというも、その予知能力はいったいどこまで“お見通し”なのかという、そういう小篇だった。
当時は劇場に拍手係という役目がいたものだが、それを揶揄して大衆心理の本質をはやくも見抜いた『栄光製造機』は、その拍手を大規模に組織化した機械を登場させて、そもそも民衆文化の笑止千万とは何かということを早々に抉っている。
大道商人の長々とした売り文句を喋ってみせる玩具機械の有り様を書いたのは、その題名も異常な『断末魔の吐息の化学的分析機』という作品だった。
このようにリラダンは、誰よりも先駆して機械がもたらす社会機能を次々に文学に採用していったのであるが、そのリラダンに決定的な衝撃を与えたのがエジソンの発明だったのである。
これは、電気冷蔵庫があっても極小テレビができても、電気掃除機がいかに高性能になっても月面着陸機を見ても驚かない世代が、パソコンやCGやインターネットの出現ではたちまち「おたく」をめざしたという事情を持ち出しても、なお不釣合いと思われるほどに、リラダンが嗅ぎとった未来技術の革命だったようだ。
しかし、それだけではなかった。リラダンは電気技術が人類にもたらすべきは、通信の進歩や都市の照明や家庭の革新などの「便利」と「便宜」ではなくて、電気的人造人間の文明への登壇であるべきだと考えたのである。
ここに、一人のヴィーナスのごとき完全無欠な輝く肢体をもったアリシャ・クラリーという歌姫がいた。
鳶色の髪、銀色の白柳のような体は申し分なく、その歌声や話し声も男たちをぞくぞくさせた。このミス・アリシャにエワルド卿は心底参っている。
世の大半の女性とは異なって、ミス・アリシャはその肉体を惜し気もなくエワルド卿に捧げ、ありとあらゆる快楽をもたらしてくれる。
ところが、アリシャには根本的に欠けていたものがある。魂はあまりに凡俗で、知性があまりに乏しかった。そればかりかアリシャの日常はちょっとした贅沢品をほしがるだけで、男の精神になんらの感動も与えない。
そこでエワルド卿は友人のトマス・エジソン博士に相談をする。いや、エジソンが友人のエワルドの心中に宿る悩みを察知する。エワルドも悩みを打ち明ける。「美しい愚劣きはまりない女なのです。造物主が何かのはづみで手違ひをしたとしか思へません」。
ここまでならよくある話である。そんな女は諦めろとか、体がいいなら目をつぶれとか。
けれども、一部始終を聞いたエジソン博士は、ここで前代未聞の“開発”に乗り出しただ。ミス・アリシャ・クラリーそっくりの電気人形を造ってみせようというのだった。
しかしエワルドはそんなことをしてくれたところで、何の渇望も癒せないことを知っていた。
ともかくも花咲き乱れる約束の日、エワルドはエジソン博士のメンロパークの実験室に招かれる。その一角に光が差し込み、そこに黒い布に覆われて登場したのは「未知といふ印象」の「存在」である。やがてエジソンがいくつかの追加実験を加えると、そこにはミス・アリシャと寸分変わらない容貌と肢体をもった「女」が出現していた。
エジソンが言った、「さあ、ミス・ハダリー、愈々生きる時がやってきた!」。
リラダンがここからエジソンとエワルドに交わさせた会話は、おそらく人間人形思想をめぐる「義体文明の可能性」に関する最も高邁精緻なプレゼンテーションである。
ミス・ハダリーは二人が交わす会話のたびに、人造人間としての技能を、生ける人形としての言葉を、未来のイヴとしての精神を、次々に心身に帯びていく。こうしてリラダンが言いたかったことは、「或る超人間的な存在が、この新しい芸術作品の中に呼び醒まされてゐて、これまで想像もつかなかったやうな神秘が決定的にその中心を占めるといふこと」である。
これは、義体文明にこそ新たな宇宙思想や地球精神が胚胎するであろう可能性についての、それこそ全き確信ともいうべきものだった。
エワルド卿はこの信じがたい奇蹟に最初はたじろぐのだが、すぐにミス・ハダリーに「愛」を感じ、それがハダリーにもひそむ愛の萌芽と交信しつつあることを知る。
それはかつて感得したこともない「霊妙」であり、かつ、かつてここまでの哀切はありえないとおもわれるほどの「無常」であった。
こうしてリラダンは文学史上初めての「はかなさ」としての機械人間の哲学を滔々と述べつつ、アンドロイドが地上に君臨しうる極上の可能性を開き、物語の最後をエワルドとハダリーの人ならぬ愛の進展に寄せていく。
が、そこでリラダンが最後の最後に用意したのは、意外な結末だった。
エワルドとアンドロイド・ハダリーが大西洋上に二人して蜜月の航海を始めてまもなく、この豪華客船が暗礁に乗り上げ、爆発炎上の後に沈没したというのである。物語はそのニュースがエジソン博士に届いたというところで終わる。
まさにすべてのアンドロイド・ストーリーをも、すべてのレプリカント映画をも、さらにはハリウッド映画『タイタニック』をも、100年前に予告したものだった。
さて、以上の、この一文のすべてを、完成したばかりのフルCGアニメーション・フィルム『イノセンス』を世に贈った押井守監督に捧げたい。
この映画にはすでにご覧になった諸君は感づいたかもしれないが、全篇が『攻殻機動隊』で姿を消した草薙素子のイメージの行方をめぐる物語になっていて(したがって草薙素子のパートナーだったバトーが主人公)、しかも『未来のイヴ』数百年後の物語にもなっている。
とくに押井監督のリラダンへの敬意は本物で、ロクス・ソルス社のガイノイド2052「ハダリ」がその名のままにずらりと登場する。冒頭にも、リラダンの次の言葉がエピグラフとして掲げられた。
「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」。
ミス・ハダリーが複数ガイノイド化したハダリを製作するロクス・ソルス社は、レーモン・ルーセルの同名の原作から採っている。『ロクス・ソルス』は、パリ郊外モンモランシーに住む奇っ怪な科学者マルシャル・カントレルが作り上げた発明品の数々を、一群の人々が邸内で数時間見てまわるというだけの驚くべき作品である。
もっとも、『イノセンス』のみならず、押井守はもともと青年期からのただならない人間人形感覚の持ち主で、とくにハンス・ベルメールの人形描写にはずっとぞっこんだった。
もう一言、リラダン伯爵に免じてもらって押井守監督を褒めつくしたい。
『イノセンス』の映像はほとんど完璧ともいうべき場面を連続させていた。傑作などという言葉は使いたくない。こうあってほしいと思う映像場面を徹底して超構造化し、細部にいたるまで超トポグラフィックに仕立てていた。これは作品を設定した段階での「世界定め」が並々ならぬ計算で仕上がっていたということで、つねに部分と全体がネステッドな「意味の形態学」によって相依相存するように作られていたということだろう。
それでいて、どんな場面にも空気の密度をもたらしていた。おそらくかつてのどんなアニメーションより空気感(シズル)に富んでいた。表情を殺した人間人形を動画とするのはきわめて困難だろうに、その“異業”も徹底して成し遂げている。
『イノセンス』――。これは21世紀の押井リラダンが掲げた映像音響版『未来のイヴ』なのである。ともかく、ともかくも、脱帽。