脳が忙しいと体は弱る 時代が二元論を受け入れた理由
心が安らかだと
血液がよく循環し
呼吸が深くなり、
細胞が活発化し、
免疫力が上がり、
体は元気になる。
脳は脳でしたがることがあるのだが、体は体でしなければならないことがある。
どちらも「生きる」ためなのでどちらにも道理がある。
どちらも正しいので、時に全く反対の指令が間脳から体に出されるだ。
血管よ、収斂せよ、いや拡張せよ、と忙しいのだ。
お互いに相手を打ち消そうとする。いいかげんにしてよって体は叫ぶ。
ではどうすればいい?
そう、かわりばんこに効率よくやってくれ。
哲学者や思想家がいうことは別に新しいものはない。
ただ時代がその考え方を必要しているかどうかにかかっている。
そして考え方というものは本来は臨機応変融通無碍に変化するものなのに、受け入れられるやいなや時代の人たちはそれを型に嵌めて形にしてしまう。
思想家の考えをその時代で起きている事実と結びつけて、自分に都合が良いように勝手に解釈して固めてしまうのです。
そうなってしまうと形が優先されて元の意味がわからなくなる。
これが文化や文明の外見です。
だから毎度、硬くなってしまった形を見つめて、何故そうなったのかと思いを巡らそう。そして、体の中に流れる動きを体感することによって、その「形」を解き放し、その中にある「力」を自分の中に取り入れることが必要です。
二元論
ものを二つに分けて理解することを二元論という。
人を肉体Fleshと精神Spiritに分けたり、この世を善と悪に分けたり。
なぜ二つに分ける方法をその時代の人はしたがったのだろうか?
必然性があったのだろうか?
道理があったのだろうか?
デカルトの時代はどんなことがあったのか。みんなは何に喜びを何に怖れをいだいていたのか?
その時の脳は?心は?腸の声は?
デカルトの時代
デカルトが生まれたのは1596年で死んだのは1650年。
22歳の時にはオランダ軍に、23歳の時にはカトリック軍に兵役している。
その時、ヨーロッパはどんな状態だったのか?
この時代の日常生活には、大きな二つの現実がある。
三十年戦争 と魔女裁判だ。
三十年戦争はドイツを舞台として1618‐48年の30年間,ヨーロッパ諸国を巻きこんだ戦争で,いわゆる宗教戦争の最後にして最大のもの。ドイツ国内の戦争であった最初の局面ではまだ宗教的対立による戦争という傾向が強かったが,外国勢力が介入してからは,政治的利害のほうが優越し,最終的にはオーストリア,スペインの両ハプスブルク家とフランスのブルボン家の対抗関係を主軸として戦われた。
戦争の被害はドイツ全体に及んだのではなかったが,戦場となった地域では,人口の30%から90%が失われた。
魔女裁判はもともと異端審問 (inquisition)から発したものだ。
この裁判制度は異端の摘発処罰のためキリスト教会に設けられ、教会の異端にたいする問責,処断は初期の破門からついに本格的な審問制への道をひらいた。審問とはくわしく問いただすことだが、実際に行われていることは糾問であり、罪を陳述させるためにあらゆることが行われた。
デカルトの時代には多数の魔女論や悪魔学(デモノロジー)の著作が書かれた。その代表作として J. ボーダン《魔術師の悪魔狂》(1580),N. レミー《悪魔礼拝》(1595),スコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)《悪魔学》(1597),H. ボゲ《魔女論》(1602)など読み切れない。
裁判官はこれらの教説にてらして被疑者を尋問した。
魔女狩りの犠牲者は最大900万人、最小で数十万人と言われている。一次史料の魔女裁判による処刑者数は40000人であるが、当然のことに書かれていない事例が日常茶飯であったことはその頃の文献を読めば察しがつく。
この審問制の特徴は、
第1に、教皇庁に直属する。
第2に、異端の存在は聖職者から報告されるほか、ことに信徒からの密告が奨励され、その証言は有効な証拠として採用された。密告者、証言者は保護されるため、しばしば虚偽の密告の応酬がおこなわれた。
被疑者は、審問への出頭義務があり、宣誓が強要された。審問官は検事・判事を兼ねることになり、ときには、被疑者の捕縛、拘禁をみずから命じた。
また、裁判では、審問官は被疑者にたいして拷問をおこなうことが認められ、それ自体が極刑というべき身体的・精神的苦痛を加えて、自白を強要した。これらは司法史上の新しい事態である。
第3は、極刑としての火刑、および処罰者の財産没収等は地域権力(王権)の手に委ねられた。このことは、刑事的処罰権を実質上は持たない地域権力にたいしては、物理的権力行使の口実をあたえた。他方、教会には、地域権力との妥協と協調からくる倫理的堕落をもたらすことになった。
中世末から16,17世紀にいたる教義論争や党派争いや魔女裁判は、依然として教皇庁を援用し、トリエント公会議(1545‐63)後のカトリック教会体制の中に脈々と受け継がれた。
宗教改革による対立で、魔女に対する凶悪な訴追が急増する。イギリスには ホプキンズ(Matthew Hopkins. 1620 – 1647)のような、〈魔女の発見〉を職業とする人物も現れてくる。彼は広くイングランドの各地を歩いて300人に上る魔女を告発・処刑した。被告席に連れてこられた者は、拷問による虚偽の自白や、風説による証言、裁判官による誘導尋問によって、異端裁判法廷で有罪を宣せられた。裸にして後手にしばり、水中に沈めて浮きあがったものを有罪とした。
スペイン異端審問制は、類例のない強大な権力を与えられ、南北アメリカ大陸の植民地を含む領土で、カトリック信仰擁護のイデオロギー機関となった。スペインが最終的にこの制度が廃止するのは19世紀初頭である。
聴力を失ったゴヤが「マドリード」「黒い絵」を描き、南米の国々ではヨーロッパからの独立運動が始まろうしていた頃だ。
この時代にヨーロッパ社会がおちいった、逃れようのない悲惨な状況を想像できるだろうか?人々は、お互いに密告の恐怖におびえて、他人に無実の罪をおしつけようとしていた。
当時のヨーロッパを覆った暴力的、政治的、宗教的、共同体的な大きな変動が人々を極端な精神的な不安に落としいれた。
意識と身体
その時、人々の脳は、心は、腸はどうしたのだろう?
一番あせったのは腸(身体)であろう。
だって誰もがみんな不安で不安で、常に心配し続けているので、交感神経ばかりが活躍して免疫力が極端に低下してしまっている。腸としては脳に新しいメタファー(思想)をなんとか早く取り入れてもらって、素早くオートマティックに判断して、交感神経を使う時間を減らすことを望んだであろう。そうでなければ体は頭をノイローゼか神経衰弱にさせてベッドから出させないようにするか、もしくはヒステリーにならせるしかない。頭が心配することをなんとか一時停止させるのが、体が体自身を死なせないようにする手段だ。
そうすれば、血管も弛緩し、呼吸も深くなり、血とリンパの循環もよくなり、体内酵素が再生され免疫細胞も活性化して抵抗力も高まる。
そこで頭(意識・マインド・ココロ)は考えた。簡単にモノを考えるやり方はないかと。未知なるものを既知なるものにする方法をだ。心配しながら考え続けるのではなく、一度に区分して判断できるシステムだ。新しいものが外から来た時に、それをどうやって分けるかという方法だ。ちょうど郵便番号の自動分配装置のような機械だ。
乱暴なやり方だけど、身体が苦しいと言っている緊急時にはいた致し方ない。できるだけ脳を不安にさせず、のんびりさせて交感神経を使わせないようにするのだ。これが身体がサバイバルするためには必要なのだ。緊急事態だから、間違ったことだけど神様も許してくれよう。
理性が見つけた二分法
脳は脳の満足を考えている。理性は人が人を殺し合う人間の不思議さを理解しなければ納得できない。理性は面倒くさいのである。納得しないといけないという、なんとも厄介者である。あの裸の王様のような、おバカなお山の大将だ。
そこでまずはこの世で一番恐ろしい我ら人間をどのように理解すればいいのか、ということになった。
頭の中の想いでは、無上の愛も天国も理想もあるのに、現実の私は今日も隣人を恐れ、逆に陥(おとしい)れ、隣国と殺し合いをしているのだ。これをどのように理解すれば良いのか? 脳は知恵を集め、意識を集中して考え続けた。
そうか、人間の中には二つのものがあると思えばいい、悪魔と天使だ。天使が悪魔をコントロールすればいいのだ。そのやり方をマスターできればいいのだ。そうすればこれでなんとかこの場をやり過ごすことができるのではないか?
そこでなんでも二つに分けるということをあちこちでやってみて、この考え方を納得しなければならない。まずはじめに二分法ありき、後はなんでもこれに当てはめればいい、演繹法ってやつだ。荒っぽい緊急時なんでしょうがない。まあ他国の言語を学習する時の文法みたいなもんですね。えっ、わかりにくい例えだって、わかった、また他のいいのを今度考えてみましょう。
人間のことは肉体と精神に分けることにした。すると肉体を動物性、精神を知性にすればいい。同じように、迷信と科学、主観性と客観性、自然と理性、悪と善、よしよし、いいぞ、こうやっていけばいろいろなことがオートマティックに解決されるぞ。こりゃあ良い道具を手に入れたものだ。便利、便利。オ、ホホッホ。
単純なメタファーでこの世をぶった斬りことになってしまった。
いいの、いいの、非常時だから。しかたないの。
そしてついに、ここで理性と体は手を結んだ。
いつも脳を忙しくしていれば、心も亡くなり、意識は脳がすぐに理解できることしか思いつかず、他人のことを考える余裕もなくなってくる。そして脳にとっては他人である自分の体についても思いが及ばなくなる。
すると当然のごとく体は機能しなくなって弱まっていく。
この応急処置用の解決法を使うと、長いスパンで計画を立てることができず、インスタントな結果を求めてしまう。そしてそのような時間の捉え方でも生きていける都会での生き方に指向性が向く。
ついにオートマティックに分類するスピードの音だけが街中に虚しく響いてる。
デカルトが立ち向かったこと
デカルトの旅は人を殺すことから始まった。
22歳の時にまず志願将校としてオランダ軍に入る。
23歳にはドイツへ行って三十年戦争を戦うカトリック軍に入り、その冬から南ドイツのノイブルクに駐屯した。
その後ドイツやイタリアを旅したりしながらフランスで数学の研究を続け、とくに30歳以後の数年はパリで光学の研究をして光線の屈折における〈正弦の法則〉を発見した。
32歳のころからはオランダに居を移し、以後約20年間各地を転々としながらもオランダに隠れ住んだ。
37歳には《光論》と《人間論》とから成る《宇宙論》を完成した。しかし同年のガリレイ断罪を知ってその発表を断念。
41歳の時に《屈折光学》《気象学》《幾何学》の三つの〈試論〉に、序文として《方法叙説》を付けて刊行した。
44歳では形而上学の主著《省察》が、ホッブズ,アルノー、ガッサンディらの〈反論〉と著者の〈答弁〉を付けて刊行。
47歳から6年間はファルツ選挙侯の王女エリーザベトへの書簡を通じて道徳に関する省察を深め、《情念論》を生んだ。
デカルトの[方法]とは、新たな未知なるものをどのように理解するのか、ということだ。
《方法叙説》の第2部に四つの規則としてまとめられた。
(1)精神に明晰判明なもののみを真と認め、速断や先入見を排除すること(明証性の規則)
(2)問題をできるだけ多くの小さい部分に分けてもっとも単純で認識しやすい要素を見いだすこと(分析の規則,(3)もっとも単純なものからもっとも複雑なものへと思考を順序正しく導くこと(総合の規則)
(4)見落しがないかどうか十分に再検討すること(枚挙の規則)
既知の事柄の論証をスコラ論理学に代える〈発見の方法〉を明示した。
これらの規則は,以後諸科学の方法そのものとなったばかりでなく,分析にすぐれ明晰を愛するフランス的知性の形成に影響した。
形而上学
デカルトはその哲学体系を一本の木にたとえ,その根は形而上学,幹は自然学,枝は医学・機械学・道徳と考えた。このように形而上学は他の諸学を支え基礎づける〈第一哲学〉であって,そこでは神の存在,精神と物質の存在ならびに両者の実在的区別が証明されるが,その形而上学的思索はまず〈方法的懐疑〉から始まる。彼は絶対的に確実なものを求めてすべての感覚知を否定する。感覚はときとして人を欺くからである。一見明白な数学的真理も疑われる。邪悪な霊が人間を欺いているかもしれぬからである。しかしこのようにすべてを疑ったのちにも疑いえぬものがある。それは疑う私,すなわち〈考える私は在る〉という真理である。〈われ思う,ゆえにわれ在り Je pense,donc je suis;Cogito,ergosum〉。ついで精神としての私の存在から神の存在が必然的に導き出される。すなわち疑う,不完全な私が自己の不完全性を自覚しうるのは私の中にすでに完全性の観念(生具観念)があるからだが,この完全性の観念は不完全な存在である私が創造しうるものではなく,私の外に実在する完全者すなわち神が私の精神に刻みつけた観念でしかありえないのである。このようにして今やその存在が確実となった神の〈誠実性〉を根拠として,外界の存在もまた証明される。すなわち私の中には外なる物体についての多くの感覚的観念があり,私はこれらが外なる物体から来たと信じる自然的傾向をもつ。ところで誠実な神が私を欺くことはありえない以上,このことは私の外に物体的な世界が実在することを示す。ただしこれら感覚的観念の表象的内容自体は物体の真の姿を表すものではなく,物体の本質は精神がそれについて明晰判明に理解する〈延長(広がり)〉以外にありえないのである。
自然学
無限の広がりをもつ等質の物質が全宇宙を構成する。物体の本質は延長であるから空間は物体にほかならず(真空の否定),広がりは本来どこまでも分割しうるから物質の最小単位は存在しない(原子の否定)。神に創造されたこの無限で等質の物質に神が一定の運動量を与えると,それは無数の微小部分に分かれて運動を始め,その結果われわれが見る宇宙の万物が形成される。こうして質の相違はすべて量の差に還元され,宇宙の構造から地上の物体,気象現象,光の性質まですべてがただ等質の物質の諸部分の〈大きさ〉〈形状〉〈運動〉のみによってまったく機械的に説明されるとともに,同一の運動法則(慣性の法則や衝突の法則など)が全宇宙を貫いて支配する。彼はまた生命現象をも機械的に理解し,たとえば動物は一つの自動機械とみなされるのである(動物機械論)。
[人間論と道徳] デカルトによれば,人間の身体もまた,心臓を一種の熱機関とするきわめて精巧な自動機械にすぎない(人間機械論)。しかし人間は動物と違って精神をもち,しかも本来は実在的に区別されるべき精神と物体がここでは固く結びついて一体をなしている。その意味で人間は,単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている。そこでは心身が互いに働きかけ,互いに動かされ,たえず能動と受動の関係にある。身体の働きかけを受ける精神の受動passion が情念 passion であり,情念のメカニズムは体内の動物精気の動きによって生理学的に説明される。一方,精神の能動は意志の働きである。そして自己の身体をも含め,すべてが機械的必然に支配されるこの世界の中で,自由な意志を行使して情念や欲望を統御しうる自己に対する尊敬すなわち〈高邁〉の心こそ,あらゆる徳の〈鍵〉なのである。このようにデカルトの道徳はストア主義的色彩を強く帯びながら,また同時に欲望や情念を,認識することによって統御する道を示そうとする。ここに終生学問と知恵の一致を求めたデカルトの変わらぬ姿を見ることができよう。 赤木 昭三 平凡社百科事典を勝手に要約
現代にも影響を与えている彼の考え方の核は、
Je pense,donc je suis;Cogito,ergosum 〈われ思う,ゆえにわれ在り〉
すべてを疑ったのちにも疑いえぬものがある。それは疑う私,すなわち〈考える私は在る〉という真理である。
分けれないもの
これを真理であるという見解もあるが、これは真理ではなく脳と言語の限界を示す表現ではないか?
脳ではこれ以上分けることができないので、認識することができないものを、「疑う私」と言ったにすぎない。
デカルトの特徴は、考えて答えを探そうとすること、その時に言語を使おうとすること、最深の根源を求めようとすること、一生懸命になること、です。実はこれらが真理から遠ざけてしまう弊害なのです。これらのやり方だと必然的に一極を求め、答えは彼の行き着いた「疑う私」になります。もっと厳しく言うと、根源の求め方がまだまだ足りないのです。「疑う私」の先にあるものに行き着くには魂の熱い力と受難であるPassionが少し足りませんでした。 言葉による表現にこだわったため、理性の限界で探索を止めてしまわざるを得ませんでした。分けれないものをただ「神」としてひれ伏せて、そこから世界を構築して脳に都合の良いような学説を打ち立てるやり方です。
精神と心身の対立
線は好きなところに引くことができます。そしてそれによって意味を持たせることができます。線を引くことで、この世を好きなように設定して、好きな世界にすることができるのです。
二つの間に線を引くとはどんなことなのか?これがわかれば、何故そんなことをしようとしているのか、理由や背景までもわかっちゃいます。
デカルトのいう「精神」とは意識の中の一つである「高度な反応」なので、脳活動の一つです。ここで精神と心身を比較しようとすることに問題があります。脳は体の一部だからです。体の中に脳があるのですから。犬とブルドックを比べることはできません。犬の中にブルドックがあるからです。
このままでは二つを同じ土俵で並べることができません。比較(認知)するためには、この二つを対立させるための土俵が必要です。そこで心身ではなく、体からくる刺激、すなわち体から脳に来る信号である「心身の世界」と大脳皮質の信号である「精神の世界」を対抗させれば、やっとこの二つは同じ土俵に立つことができます。
精神と心身の二つを比べるということは、正確に言うと、意識のある大脳皮質の理性行動と、これに対する無意識である脳幹の本能行動とそれを補助する学習機能を持つ大脳辺縁系の情動行動を比較することです。
本能や情動の欲求とそれを抑制する理性行動との葛藤です。
よくあるイメージは頭の中にいる天使と小悪魔です。
こうなると天使なる精神は、小悪魔なる本能と情動を抑制する側に回らなければなりません。
この対抗させるという構図にすると二択選択なので、この二人が協力し合って答えを出すことをしなくなります。
哲学の世界ではヘーゲルの弁証法でいうアウフヘーベン(aufheben)は矛盾や対立を、相互の矛盾や対立の否定のうえに、より高次の段階で統一すると定義しており、例えば「昇華」といって、小悪魔の意見を聞いて、天使はその悪魔の力を使いながら、方向を変えて両者に益がある解を求めると考えます。
ところが、実世界で二つの間に線が引かれると、こうはいきません。
どちらかが勝って、他方は負けるのが二分法の宿命です。
舞台の作り方で、役割分担までが決まってしまい、結論までもが導かれているのです。
もうこれは出来レースの演劇としてのプロレスです。どういう線を引くかによって、世界は決まってしまうのですから。ですから自分が作りたい世界を、科学や客観という名目でいかにも正しそうな顔をして、結果まで誘導できるのです。
すべてははじめのリング(土俵)づくりで話がついているのです。
「疑う私」は観る者なので、なんでも思い通りにできると考えます。この世を自由で平和で民主主義にできると信じることだって出来てしまうのです。
突き詰めて一生懸命に考えていけば、理性は、なんでも二つに分類し、言葉のルールに従うことにより、一つの根源を求めてしまいます。
情感は前に体験したことを基準にして、意識が判別する前にものごとを決めていきます。
自分と他の壁を取り外すには、心を使って、境を消滅させて同化することができます。
脳が一生懸命をやめてゆったりすれば、腸が機能して、すべての微生物どうしの関係にスポットライトが当たります。
「疑う私」から見た世界
不完全な脳、欲望の心、本能の体、これらを理解している完全なる「疑う私」が精神である。
脳から見た世界
欲望の心、本能の体、これを抑制する理性を司る脳
心から見た世界
ものを分けることでしか認識できない脳、本能の体、他と同化することで体験する心、
体から見た世界
脳が休むことにより、心は「他」と同化することができ、体は「他」と交感することができる精神である。
人間 |
意識 |
体 |
表現方法 |
動物 |
数 |
我 |
自我 |
自意識 |
? |
言語 |
霊長類 |
一 |
疑う偽の私 |
脳(理性) |
意識 |
大脳皮質 |
音・イメージ |
哺乳類 |
二 |
不可知 |
心(情感) |
意識と潜在意識 |
扁桃体 |
体言語 |
爬虫類 |
多 |
信じる予測 |
魂 |
潜在意識 |
心肺 |
気 |
虫 |
二つ(多)が一つ |
存在 |
精神 |
無意識 |
腸 |
波動 |
微生物 |
一は多 多は一 |
受容 |
スコラ論理学
「君は走っているかあるいは動いている。したがって“君は走りもせずそして動きもしていない”ということはない。」
といった論理の立て方。これを推断(コンセクエンティア consequentia)と言う。
古代ギリシアにはなかった種類の論理学です。
推断の理論とは〈選言的な肯定命題から,その命題の部分と矛盾的に対立する部分からなる連言的な否定命題への推断は妥当である〉といったたぐいの論理形式のこと。
こうした推断の理論は確かに命題論理学であるが,ストア学派の命題論理学とは独立に,新しくつくり出された命題論理学である。
アリストテレスの三段論法も,スコラの推断の理論も,学問的な討論や議論のために実地に使用され,特に中世の大学における論争はすべてそうした論理形式を使ってきわめて精密に遂行された。
ところが論理学のルールは自然界には通用しません。例えば光。粒子であって、同時に波動でもあります。
中性子も形があるのに、ない時もあります。論理学や数学のルールも理性と同じで使える場所と使えない場所があります。
三十年戦争
[発端] ドイツでは1555年のアウクスブルクの宗教和議後まもなく新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)の対立が再燃し,1608年新教派諸侯が新教連合(ウニオン)を,翌年には旧教派諸侯が旧教連盟(リガ)を結成して対抗していたが,戦争の直接の発火点となったのはボヘミアであった。ボヘミアはフス派戦争以来政治的にも宗教的にも独立的な傾向が強く,貴族たちは皇帝ルドルフ2世治下の09年以来信仰の自由を承認されていたが,17年フェルディナント(のちの皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王位につくと,新教派の弾圧に乗り出した。それは反宗教改革(対抗宗教改革)と一体となったハプスブルク家のボヘミア支配強化政策の表れであったが,それに憤激したボヘミアの新教貴族の一行が国王の側近をプラハ王宮の窓から突き落とし,つづいて武装反乱に立ち上がった。これが戦争の発端である。
[ボヘミア・ファルツ戦争(1618‐23)] ボヘミアの反乱軍にはオーストリアの新教徒も味方して蜂起し,トランシルバニア(ジーベンビュルゲン)侯も皇帝に反旗をひるがえして,反乱はボヘミア外にも拡大したが,その渦中の1619年に皇帝マティアスが死亡して,フェルディナント2世が皇帝位につくと,ボヘミア議会はフェルディナントのボヘミア王位を取り消して,新教連合の指導者ファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。このため戦争のドイツ全域への波及は不可避の形勢となったが,フリードリヒ5世がカルバン派であったことが災いして,多くの新教派諸侯の援助をうることができず,当時スペイン接近をはかっていた義父のイギリス王ジェームズ1世も動かなかった。いっぽう皇帝は旧教連盟の指導者バイエルン公マクシミリアンの協力とスペインの援助をとりつけて反攻に転じ,20年11月フリードリヒ5世の軍をプラハ西方のビーラー・ホラ(ワイセンベルク)に破った(ビーラー・ホラの戦)。これによってボヘミアは再びハプスブルク家の支配下に入ったが,それに続いて皇帝は反乱に荷担した新教派諸侯軍を各地に破り,スペイン軍もファルツ領に侵入して,イタリアとネーデルラント間の軍隊輸送路を確保した。
[デンマーク戦争(1625‐29)] デンマーク王クリスティアン4世はこのドイツの内乱につけこみ,イギリス,オランダの援助の約束を得た上で,1625年北ドイツに侵入した。苦境に陥った皇帝にとってこのとき救世主の役割を果たしたのはワレンシュタインであった。彼は軍事指揮権をゆだねられることを条件に,自己の財力で軍隊を募集して皇帝のために戦うことを提案し,皇帝は彼を皇帝軍総司令官に任命した。ワレンシュタインは旧教連盟軍の総司令官ティリ Johann Tserclaesvon Tilly(1559‐1632)と協力してクリスティアン4世を破り,29年リューベックの和約を結ばせた。この勝利に乗じて皇帝は同年回復令を発布し,1552年以後新教派に没収された宗教領を旧教派側に返還することを命じた。この法令はそれまで中立の立場を守っていた新教派諸侯をも反皇帝の側に立たせることになったが,旧教派の側でも皇帝の勢力が強大となることを恐れる諸侯と皇帝との溝が深まり,旧教派諸侯は皇帝に迫って,1630年ワレンシュタインを罷免させ,皇帝の軍事力を低下させた。
[スウェーデン戦争(1630‐35)] 皇帝勢力の北進は,北ヨーロッパでの勢力拡張をはかっていたスウェーデン王グスタブ2世アドルフの介入を誘発した。グスタブ2世はフランスの援助の確約をとりつけて,1630年6月ポンメルン(現,ポモジェ)に上陸し,新教派の有力諸侯ブランデンブルク選帝侯,ザクセン選帝侯の協力を得,31年9月にザクセンのブライテンフェルト Breitenfeld にティリを大敗させ(ブライテンフェルトの戦),南ドイツ,西ドイツへと進出し,31年にはボヘミアのプラハをも占領した。この劣勢に皇帝はワレンシュタインを再度皇帝軍総司令官に起用することに決し,ワレンシュタインは32年11月ライプチヒ近くのリュツェンL‰tzen にグスタブ2世と会戦して,戦いには敗れたが,王を戦死させた(リュツェンの戦)。ワレンシュタインはその後ひそかに新教派諸侯,スウェーデンと和平を交渉したが,それを知った皇帝によって暗殺された。スペインの援助を受けた皇帝は新教派諸侯,スウェーデンを圧倒し,35年新教派諸侯の多くは皇帝とプラハの和約を結んで講和した。
[フランス・スウェーデン戦争(1635‐48)] フランスは三十年戦争の開始以来,つねに反ハプスブルクの黒幕的存在として新教派に援助を与えていただけでなく,オランダやベネチアと結んで,スペイン領ネーデルラント,北イタリア進出を策していたが,ドイツでの新教派の劣勢に直面して,1635年に宣戦し公然と戦争の表舞台に乗り出すことになった。戦争はその後一進一退を繰り返したが,この間にはスウェーデンとデンマークの対立が再燃してスウェーデンの軍事活動を制約したり,オスマン帝国の介入もあって,状況は複雑をきわめた。しかし長年の戦争にうみ疲れた皇帝,ドイツ諸侯,スウェーデンの間に和平の気運がみえ,45年以後講和の交渉が行われて,48年ようやくウェストファリア条約が成立した。
[結果] 当初ドイツ国内の宗教的,政治的対立に出発した三十年戦争は,それと並行して戦われていたオランダ独立戦争(八十年戦争)と絡み合い,ドイツに政治的利害関係や領土的野心をもつフランス,スウェーデン,デンマークの介入を招いて,ほとんど全ヨーロッパ諸国の関与する戦争となった。列国の関与の大きさは,直接戦争に参加した国々のほか,スイス,ポルトガル,ローマ教皇,ベネチア,オスマン帝国までがウェストファリア講和会議に加わったことからも知られるであろう。この戦争によって最も大きな打撃を被ったのは,オーストリアとスペインの両ハプスブルク家であった。戦後ドイツの諸侯は皇帝に対する独立の度合をいっそう強め,神聖ローマ皇帝の地位はいよいよ名目的な存在となったが,他方オランダは独立を最終的に承認されて,スペインの衰運も加速していった。なおすでに中世末期に神聖ローマ帝国から事実上独立していたスイスがウェストファリア条約で独立を正式に承認された。それに対してこの戦争から最大の利益を引き出したのはフランスで,ライン左岸に領土を獲得して,国境をライン川に到達させることができただけでなく,フランスをはさむオーストリア,スペイン両ハプスブルク家の勢力を後退させることができた。ドイツのバルト海沿岸に領土をえて,バルト海に雄飛する基礎を固めたスウェーデンの利益も,フランスのそれに次いだといいうる。ドイツ国内では,やはりバルト海沿岸に領土を加えたブランデンブルクの利益が大きく,これによって将来のブランデンブルク・プロイセンの台頭が準備された。
いっぽう,ドイツ全体にとって三十年戦争の結果は惨澹たるものであった。神聖ローマ帝国はいよいよ名目的な存在になったほか,フランス,スウェーデンが割譲地の領有者の資格で帝国議会の出席権を得たことは,外国勢力にドイツへの政治干渉の可能性を与えた。それだけでなく,30年間戦火にさらされたドイツ国民の被害も大きかった。もっとも,そのような被害は,スウェーデンのために北ドイツの海港を失って,商業的発展に打撃を被ったこととあいまって,ドイツの後進性を決定づけることになった。 中村 賢二郎 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha を勝手に要約