こころのしこり 英語でいうStiffness,
a tumor, unpleasant feeling
感覚器官を通じて信号がインプットされると、その情報の受けとり方によっては、こころのなかにしこりができます。
仏教心理学では「こころの形成物」「行蘊」「サンカーラ」「種子」などと呼びます。
インプットされた信号にアウトプットが自動反応するアプリケーションのことです。
たとえば、だれかが私の悪口を言ったときに、なぜそのようなことを相手が言うのか分かっていて、その言葉を深刻に受けとらなければ、こころは動揺しません。
つまり、こころにしこりは生じることはありません。
ところが、相手がそのような悪口をなぜ言うのか理解できなくて、自分のこころがいらだってしまうと、こころのなかにしこりができます。
このいらだち、換言すると「臨場感」によって、しこりの大きさや硬さが決まります。
身体の変化で見てみれば、臨場感とは呼吸や心拍数の増加のことです。
しこりを解(ほぐ)すには
自分のこころの変化に気づく練習を丹念につづけていくと、こころのなかにしこりが発生するや否や、即座にそれに気づけるようになり、しこりをほぐすことができるようになります。
たとえば、デートの最中に彼が自分の自慢話ばかりをしているのを彼女が聞いて、心のなかでそんな彼をカッコ悪くて嫌いだと感じたとします。もし彼女が、このときすぐに彼に思ったことを話していれば、彼がそんな自慢をなぜするのかもわかり、気持ちもすっきりして、こころのしこりは簡単に消えていきます。
また、彼にその話しをしなくても、彼が自慢話をする必然性やその時の彼の状況の勢いやノリを理解したり、彼女が自慢話をしている彼のことを認める、という心の動きがあれば、しこりではなく、たんなる感想や疑問になります。
ですから、このようなこころのしこりを作らないようにするには、自分の心理作用が発生するや否や、ただちに気づくことがキーポイントになります。
しこりがまだ小さくて弱いときに気づけると、しこりはただの心理作用に簡単に変容してしまいます。
自分のこころの動きに気づいているかどうかが、こころに生じるしこりと関係があるようなのです。
私たちの理性は、怒りや恐れや憎悪といった否定的な感情が、自分にも社会にも受け入れられないとわかっているので、それらを忘れるために抑制したり、表層意識の届かない深層へ押しやったりしています。
私たちの中層意識が苦痛を排除するために防衛機能を働かせて、そんな否定的感情が表層意識では機能せずに、心中の安らぎを保とうとするためです。
しかし私たちのこころに発生したしこりは、つねに破壊的なイメージ、感情、思考、言葉、行動へと発露を見いだす可能性の原因になります。
こころのしこりを柔らかくすることがなければ、それは強固なものになる可能性さえあります。
吐く息に気づいていることでしこりが消える?
無意識下で起こっている「こころの形成物」を扱うには、まずそれに気づく方法を見つけることです。
たとえば、吐く息に気づいている練習は、こころのなかで結ばれてしまったしこりを見つけだすよい方法です。
体とこころは連動しているので、呼吸とこころとの間にも関連性があることは、吐く息に変化があると、こころにも何か変化があり、こころに大きな変化があるときには、呼吸が乱れることから理解してゆきます。
体の変化はこころに現れ、こころの変化は体に現れます。
たとえば呼吸のスピードをゆっくりしようとしてもすぐにそうならない時には、こころに何か大きな変化が起きているからなのかもしれません。
またこころが落ちついている場合は自分の意思で呼吸の強弱や長短は簡単にコントロールできますが、怒りや歓喜などこころの高揚がある時にはそれが呼吸に現れてきます。
意識で呼吸(肺活動)はコントロールできるので、呼吸はこころの状態を知るバロメーターになります。
この時に丹田呼吸や斉藤式呼吸法では効果がないのは、これらの呼吸法は自分の意思で呼吸をコントロールする方法なので、自分自身の呼吸に気づくことを目的にしているわけではないからです。
つまり自分で意図的に呼吸を操作しているのであり、呼吸を「見守っている」のではないからです。
自分のなかのイメージ、感情、想い、思考、言葉、行動に気づいたら、自分にこう尋ねてみてください。
たとえば、
あの人がああ言ったとき、私はなぜ不快感を感じたのだろうか?
どうして私はあんなことを言ってしまったのだろうか?
あの人に会うと、どうして母親のことをいつも思いだすのだろうか?
映画のあの配役が嫌いなのはなぜだろうか?
昔にその役者によく似た人を嫌っていたためであろうか?
などなど
このように自分の感情の原因に一段深く突っこんで、自分のこころに寄り添っていると、こころのなかに埋もれていたしこりが、しだいに表層の顕在意識にすがたを現わしてきます。
次に、静かに坐って自分の呼吸だけを見守っていると、5感覚器官からの信号の扉は閉じて、こころのなかに埋もれていたしこりが、イメージ、感情、想いとなって、すがたを現わします。
このような原因不明の不安感、恐れ、不快感に気づいたら、それに気づきの光をあててやり、ごちゃごちゃに絡まって入りまじったもののなかから、このイメージ、この感情、あるいは、この想いを、はっきりと意識的に捕らえ直します。
これらが一度表面に浮上してくると、前よりも強いインパクトを与えるものになっていることがあるので、それらに圧倒されて、こころの安らぎも、喜びも消えてしまうことがあります。
そして、ついには耐えられなくなって、見守っている対象を他に移したくなり、自分の心の奥にダイブすることをやめてしまいたくなることもあります。
自分の心の内容にスポットライトを当てている最中に眠たくなったり、もうスポットライトを当てるのをやめようとこころが感じることを、心理学では「抵抗」と呼んでいます。
埋もれていたイメージや感情が苦痛な場合は、それらを表層意識のレベルまで引きあげるのはつらいことだからです。
しかし、自分のこころが吐いたり吸ったりする息をゆったりと見守り、この世の全体性と自分の意識はつながっていることを再確認し、こころ安らかな微笑の状態をしばらくつづけていると、さまざまな怒りや恐れを直視する力が芽ばえてきます。
そして、息に気づきながら、静かに微笑んでいると、こんなふうに言える余裕ができてきます。
「わたしの恐れるものよ、こんにちは。また会いましたね」と。
目覚めた気持ちで「いま・ここ」の一瞬一瞬にスポットライトを当てていたら、こころのなかで、いま何が起こっているか、気づくことができるでしょう。
こころにわだかまりをつくったり、それを解けないほどに固くすることもないでしょう。
しこりは妄想を繰り返すことで大きく強くなるので、眼の前のことに一所懸命にしていると、そちらにスポットライトが当たるので、しこりができないからです。
そして自分の変化する感情を見守り、自分の気持ちに寄り添うことを続けていれば、長い間かかってできてきた、こころのしこりの根っこを見つけ、もう手がつけられないくらいにカチカチに固まっていたとしても、徐々にほぐされて新しい力に変容させることができます。
しこりを作る原因は、他者(相手、対象)の状況(TPO)と自分のこころを明確に理解できていないことです。
でもまだそれだけでは、しこりにはなっておらず、ただの種子(原因)です。
しかしそれがしこりという形になるのは、よく理解できていないのに自分勝手に法則(一般化、言語化)を当てはめて、それでわかったような気になることからはじまります。
するとしこりが形になります。
理解しようとしてもできない場合は、そのままわからない状態にしておくのがコツです。
始めのうちにそれまでの習慣にはないことなので、喉に魚の小骨が引っかかったようで居心地はよくありませんが、仕方ないので徐々に慣れていくしかありません。
それを理解したように勝手に思い込んで無理矢理に呑み込むと、しこりは形を持ってしまいます。
その上、自分勝手に作り上げたパターン(因果関係)は、相手の変化し続けているこころにフィットしないので、こころに寄り添うなど当然できません。
そして表層に浮かんでくるものだけで作り上げた理解のパターン(因果関係)を基準にして判断を何度も重ねると、相手のしこりがついには弾けて、しまいに怒りなどの強い感情と行動を誘発することになります。
理解や愛には「分けられない」ものもある
相手を理解すると腹は立たなくなります。
相手の考え方に同意はしなくても、相手には相手の立場や環境や必然性があることが推察できるようになるからです。
相手のTPOを理解をすることで自分と相手の心は繋がる可能性は増えます。
理解する心とは、相手を自分の一部だと感じることからはじまります。
具体的には、まずは違う点ではなく、共通点から始めることです。
相手のこころに波長をあわせて、その苦しや喜びを自分でも体感し、味わいます。
理解するという英語はいろいろありますが、その1つにComprehendがあります。
これはcom(強調)+prehendo(掴む)←ghed(手に持つ)が語源です。
頭による判断ではなく身体的に「掴むこと」です。
大脳皮質で1つのものを2つに分別するのではなく、その1つのものである全体を分けることなく、ただ包み込むことです。
何かを理解するためには、このように包み込んで、それと一体になるという方法があります。
ものごとを理解するのには大脳の分析と統合によるものだけではなく、この「掴む」というものもあります。
目も見えぬ新生児が母親の人差し指を小さな5本指で掴んでcomprehendするように。
これが二つにあらずの「不二」です。
全体である「一」をナイフで2つに分けるのではない、という意味です。
このように包み込むという理解の仕方をすれば、共通のこころはひとりでに育ちます。
自分に必要なことにスポットライトを当てるばかりで、相手の求めていることを無視するならば、共通のこころは成立しません。
そのためには自分の、そして相手のこころを深く見つめなければなりません。
共通のこころはここから始まります。
相違点を探すのではなく共通点からはじめることです。
ちゃんと包み込んだり、寄り添ったりしていると、その人とちゃんとこころが繋がります。
「私はちゃんとあなたを理解していますか?
もし気が付かないで、あなたを傷つけるようなことをしていたら教えて下さい。
そうすれば、いまよりももっとあなたを理解して、私は幸せになれると思います。
そして、もしかすれば私たちも。」
感情と付き合う方法 息を通じて
怒りなどの感情は拒絶したり、排除しても、それは、潜在意識や無意識の領域に押し込められるだけなので、条件が揃えば、押し込めた力を反発力として、表層意識にまた突如として飛び出してくるので、いくら理性的な人でもその瞬間をコントロールすることができません。
ですから、排除する代わりに、その怒りや悲しみや不満や憎しみなどの感情を別のものに変える必要があります。
まずは、それらの感情のことをもっと理解してみることからはじめてみるのはどうでしょうか?
こころをひらいて自分の感情を優しくただ見守るだけです。
感情から逃げないで、ただ寄り添ってあげていれば、感情はひとりでに変化するようになっています。
感情にしがみついたり、拒否したりしないで、ただ感情を認めることが、はじめの大切な第一歩になります。
怒りとの付き合い方
ここでは怒りを例にとってみます、仏教徒の本からの抜粋を要約と修正したものです。
始めの第一の段階は、怒りや動悸などの自分の感情や身体の変化が生じたらすぐにそれらに気づくことです。
そうすれば、その怒りは自分のなかから飛びだしてきたもので、恐れとは過去に自分が作り上げたもので、まるで自動反応するアプリケーションのようなものである、と気づいていくはずです。
怒りに気づくこと
怒りは自制心を無効にして、あとになって後悔する感情の1つです。
腹を立てると、自分が怒りそのものになります。
怒りを抑圧したり排除したりすることは、自分自身を抑圧したり排除したりするということです。
怒りも自分の中のエネルギーであることが理解できれば、
そのエネルギーを受け入れて、別のエネルギーに転換することができます。
悪臭を放つゴミ(怒り)は良き堆肥(エネルギー)となり、それはやがて芳しき一輪の花(やすらぎ)となります。
ここで重要なのは気づきのこころです。
気づきのこころとは裁判官のようにジャッジするものではなく、怒りをいたわり慰めてくれる姉もしく兄のような存在です。
ゴミが怒りだとすれば、花が気づきです。
しかし、またその花も数週間経てば枯れて腐っていきます。
そして、よく見ると、堆肥のなかに花があります。そして花のなかに過去と未来の堆肥があります。
怒りも気づきもどちらも私たちのこころのなかにあるものです。
次の第二の段階では、その怒りとは自分の中にあり、自分が作り出しているものなので、怒りを排除するのではなく、怒りを自分の一部と認めることです。
「怒りよ出ていけ。おまえなんかは不快で嫌いだ。おまえは私とは無関係だ」と邪険に扱わないでください。
代わりに「怒っているものよ、おはよう、今日も機嫌が悪いのですか?」と語りかけたりして、怒りとそれに気づいているこころが同じこころであることを腑に落ちるように納得します。
こんな芸当ができるなんて信じられないと初めての時には思うかもしれませんが、まずは呼吸を調えてから試してみてください。
ゆったりした心臓の鼓動と静かな呼吸と心の平安が私たちを導くので、心配しないでまずは怒りと自分との合体を試してみてください。
もし鼓動が高まるように感じたら、関心(スポットライト)を呼吸に戻して、安心する気持ちになるまで呼吸に意識を集中させてください。
このときのスポットライトは吐く息だけでもいいし、吸う息も含めても良いし、腹部の膨らみと縮まりでもいいので、自分のこころと心臓の鼓動と息が安定するまで続けます。
この3つが緩やかになったのを確認したらもう一度、怒りに向き合います。
安らかな心の気づきと呼吸があれば、怒りに寄り添っても、この安らぎが私たちを必ず守ってくれて大丈夫なので、安心していてください。
コツはゆったりとした呼吸をしっかりと意識していることです。
この呼吸にしっかりと気づいていることができていれば、怒りの勢いに引き込まれることはありません。
気づけていない時はこれ以上怒りと向き合うのはやめましょう。
また次の機会に試すことにしてみましょう。
第三の段階は、怒りの感情を静めることです。
息を静かにゆっくりと吐いては吸うことを続けます。
呼吸と心の動きを静かになっている状態を続いていることがわかったら、
軽くて優しい柔らかい楽しいゆったりとした気づきのこころで、怒りにそっと寄り添ってみてください。
そうするだけで怒りも徐々にやわらぎ始めます。
ちょうどお母さんが赤ちゃんのそばにいるだけで赤ちゃんは機嫌がいいように。
怒りが和らがない時には、赤ちゃんをやさしく柔らかく抱きしめるように、怒りを包みこんであげてください。
怒りの感情から逃げたり、避けるのではなく、その怒りの感情と一つになって、もう一度言ってみてください。
息を吐きながら
「わたしは怒りと優しく柔らかくゆったりと一緒にいる」と。
腹が立ったら歩いてみる
それでも気持ちが荒立つ時には、外へ出て、歩く気づきをしてみてください。
新鮮な空気、緑の樹々、時にはビルディングでさえ助けてくれます。
息を吸って怒りがここにあることに気づく
息を吐いて怒りは私の中にあることに気づく
息を吸って怒りは不快なものだと気づく
息を吐いて怒りは通り過ぎていくものだと気づく
息を吸って私は怒りではないことに気づく
息を吐いて私はこの怒りを毅然として迎える
息を吸って気づくことで怒りの力が弱まり、気持ちが静まっていくのが確認できます。
そうすれば、怒りを直接に見据えて理解することが出来るようになっていきます。
怒りは私のこころの一部ですが、「わたし」そのものではありませんから。
第四の段階は、その怒りの感情を解き放つことです。
これまでのプロセスにより、怒りと恐れは最小限にまで縮まって、硬さもほぐれ、不快さもなくなってきています。
いまがこの怒りの感情アプリが発動しないようにするチャンスです。
この怒りと恐れに対して微笑み、自分の中で孤立していた怒りの枠組を外してあげて、これも気づきや喜びなどと同じこころの一部であることを確認して、この怒りという感情がこころに溶けてゆく旅立ちを見守ってあげてください。
しかし、これで終わりではありません。
次にはもう少しこころの奥底にまでダイブして、怒りの根源を変容させてみます。
今回の怒りはこころの中に溶けていきましたが、このような怒りを作ったアプリがまだ残っているからです。
怒りのアプリを変容させるには、怒りの根を掘り起こさなければなりません。
怒りの原因を深く見つめることが必要なのです。
そうしないかぎり、怒りはまた新たな芽として生まれてきます。
日々気づきの練習をしながら、新しい健全な種を撒いてゆけば、気づきは怒りを見守り、別の感情に自然に変えてくれます。
太陽の光が植物を守り育てるように、気づきのスポットライトが私たちの心を守り育ててます。
気付きとは太陽の光、スポットライトとは「ひだまり」のことです。
植物が光と水と空気と温度があれば、ありのままに育っていくように、こころもちゃんと育っていきます。
植物やこころの詳しいことがわからなくても、植物やこころの様子を見守り、
時には光(気づき)や水(寄り添い)を与えたりしてあげてください。
十分に根(自立)を伸ばせば、もう野生の植物のように、水さえも与える必要がなくなります。
第五の段階は、離れていった怒りをもう一度思い返して、その内にある根っこにまで深くダイブします。
お母さんが赤ちゃんが泣きやんだ後でも目を離さないように、
怒りや恐れが消えても私たちの奥底にある怒りの根に寄り添って、
なぜ赤ちゃんは泣いたのか、つまり何が怒りの根っこ、つまり原因なのか、について考えてみます。
赤ちゃんが泣くには、外部や内部のいろいろな原因があります。
ちゃんと赤ちゃんと接することで、泣く原因がだんだんと見えくるようになります。
同じように、怒りにちゃんと寄り添うことができれば、どうして怒りや恐れが生じたがわかるようになってきます。
そしてそれが見えてくれば、この怒りという感情を変化させて解き放ってやるにはどうすればよいのか、
何をやめればよいのか、
何をはじめればよいのか、
などが、自然にわかってくるようになります。
その後は内なる自分(深層にある意識)がちゃんと自然にしっかりと仕事をしてくれます。
こうして、どんな見解や考えや執着が苦しみの原因になっているかを自分自身で見つけられるようになります。
怒りの根に寄り添う過程で
誤解、コンプレックス、不正、恨みなどの感情の自動反応アプリを作った原因が姿を現すでしょう。
これらの根(しこり、感情アプリ、記憶、決めつけ、作ってしまった法則、恨み、過剰一般化)は全て自分の中にあることがわかります。
寄り添うことと包み込むような接し方を通して、こころを自由にすることで、愛と慈悲は深まっていきます。
これらの感情の根を上手に料理できれば怒りは別のエネルギー、すなわち「いのちの力」に変わります。
たとえば、蒸し焼き料理ではフライパンの中の水分が水蒸気になり、その熱が素材を変容させるように。
料理するときの火は気づきの力のことであり、蓋は集中力です。
火と水の間にフライパンを使うことで、この2つの力は一体になって水蒸気になることができます。
火は(気づきのスポットライト)であり、水分は怒りであり、水蒸気はいのちの力であり、蓋は集中する環境であり、素材は私たちのこころです。
これが火と水のマジックです。
怒りのメカニズム
猫や蜂も怒る時がありますが、意識体はどのようにして怒りを作るのでしょうか?
人は危害を受けたときの原因が地震や津波のような天災の場合には怒りを感じずにそれらを受け入れてだんだんと諦めることがあったとしても、原因が組織や他者の場合には、それらを受け入れずに、忍耐することを忘れて怒りが発動することがあります。
この2つの違いはどこから来るのでしょう?
それは自分に危害を与えるものを理解しているかどうかに関わっているのかもしれません。
たとえば、津波は人間の力ではどうすることもできない力が地球環境の事実に由来することが理解できていますが、他者が自分に危害を与える法則などはありませんので理解することなどはできません。
しかし、もしかすれば、私に危害を及ぼした人は、過去に同じような危害を他の人から受けたのかもしれません。
またもしかすれば、世間からの注目を浴びたくてそんなことをしたのかもしれません。
またもしかすれば、気づくことやめてしまって、自分の中に作ってしまったアプリに身を委ねているアンドロイドなのかもしれません。
危害を与える人には、どんな理由であろうとも私の怒りが消え去ることはありえません。
しかし、このように相手がなぜ危害を与える行動を無意識の内にしたのかを感じようとすることで、ほんのわずかでも原因を察しようとすることで、怒りの勢いをほんのわずかでしかありませんが緩和することができるケースもあります。
私たちの「想いや思い」は大脳の活動によって活性化されますが、そこから生じた理性や判断や美学も「意識の力」によって一時的にカタチになったものなので実際には確固たるものではなく流転と生滅の中にあるものです。
脳は意識そのものではなく心臓や小腸と同じ体の器官の1つでしかありません。
何事でも意識の力や理性や努力で世界を変えることができると思っている間は受け入れられないことですが、
ヒトは自然の一部であるので、津波や地震だけが天災ではなく、ヒトが天災になってしまうこともあります。
そうならないように工夫して練習を積み重ねることが大事なのですが、ヒトも自然の一部であるという事実は変わりません。
ところで、
怒りはどのようなメカニズムで作られるのでしょうか?
意識体(たとえばヒト)は、5感覚器官を介する信号に3つのタイプのタグを貼り付けるようにプログラミングされています。
それらは近づく、遠ざかる、どちらでもない、の3つです。快感のレベルでは快・不快・どちらでもない、好き嫌いのレベルでは好き・嫌い・どちらでもない、という3種類です。
これらのタグをベースにしてアプリを作ることで、動物は思考することなく直ちに対処できる条件反射という回路を作ってサバイバルしてきました。咄嗟に闘ったり逃げたりする時(fight&flight)にはとても有効なアプリだからです。
たとえば、体験したある出来事にヒトは無意識のうちに「そこから離れたい」というタグをつけたとします。
自分にとって不快であったり、嫌なことであったり、避けたいと思う記憶が深層意識の領域に残こることになります。
そしてこのタグを基盤の部品としてアプリが作り出されます。
同じような出来事に再び出合うと「それとは距離を持ちたい」という自動反応回路です。
しかし、また同じような出来事が再び起こった時に、その信号を拒絶する条件反射が「怒り」と呼ばれるものです。
「離れたい、距離を持ちたい」ものを受け入れざるを得ない、と条件反射が働いた時には「悲しみ」の感情が生じます。
これが怒りや悲しみのメカニズムです。
このように怒りのルーツ(根)は自分の外側ではなく、自分自身の内側にあります。
自分の中に作り上げたアプリによって怒りが発動したのです。
外側にある怒りの対象は内側(作られたアプリ)が求めていた素材(信号)に過ぎないので、対象とは二次的な原因でしかありません。もっといえば、対象とは怒りが発動するための条件の一つでしかありません。
ですから内側のアプリがなくなれば外側にどんな怒りの原因があろうと怒りそのものは発動しないことになります。
まずは自分の内側にある「怒り、悲しみ、不満の種」を吟味してみることです。
その後に、外側、すなわち自分が遠ざけたいものを発生させてしまう他者の必然性を深く理解することを試してみます。
そしてもし自分のこころに余裕があるケースであれば、その他者が自力で混乱から立ち直れるように、おおらかな慈悲の心(私と他者はつながっている感覚)で接することをトライしてみます。
参考資料
喜びの種を増やして蓄えるコツは「気づき」の練習
生活の中の喜びや幸せに気づくことです。
種は自分の中に、そして外界のあらゆるところにあります。
気づきさえしたら、幸福の種は播かれ、発芽します。
幸福の秘訣は幸福そのものに気づくことです。
呼吸の見守りを友人と一緒にできれば、こんなにいいことはありません。
呼吸の不思議に目覚め、喜ぶことができれば、遠くへ旅に出る必要はありません。
いま、ここで触れて味あうことができるからです。
一緒に坐ったり、散歩したりしながら気づきの練習をして、安らかで緩やかに悦ぶ時間を増やして、各自のこころを柔軟にしなやかにしておくのは嬉しいことです。
レタスを責めない
レタスを植えて育ちが悪くても、それをレタスのせいにはしないで、なぜうまく育たないのか原因を考えて調べてみます。
母親は子供たちに無意識に語っています。
「ママもあなたのレタスなの。だからママにもお水をやるのを忘れないでね。」
健全な種と危険な種
意識には二つのレベルがある。
潜在意識と顕在意識、つまり、種のレベルと発芽のレベルのこと。
例えば怒りが発芽したら、その間に新しい種が潜在意識のレベルで増え続けてしまいます。
だから嫌な感情の表現には常に気をつけなければなりません。
しかし、逆から見れば、これは良いシステムです。
微笑みや喜びの感情を現している時には新しい種がどんどんと増えていくからです。
だから長い間、微笑むことをしなかったら種が減ってしまって、笑う機会が少なくなってしまいます。
そこで、この楽しい種を増やしていきましょう。
健全な楽しい種は抗体のように害のあるウイルスがあってもそれを包囲して無害のものに変える力があります。
種には感情だけではなく、心理的な考え方なものもあります。
良い考え方をすれば、その健全な種は増えていきます。
たとえば戦争の記事を読んで軍人のことを悪人と決めつけて排除するのではなく、なぜこの人は軍人になったのだろうか、誰のために戦っているのか、戦争が起きる原因になったのはなぜなのか、と想いをその軍人に寄り添うことができば、排除ではない共有という考え方の種が撒かれたことになります。
軍人の考え方に賛意も同意する必要もありません、ただその人にはその人の環境と時代と理由と原因と必然があることをわかるだけです。
そしてこの健全な種が、無意識の内に私たちを守ってくれます。
interdependent interbeing 相互共存
ここにある、とは「ともにある」ということです。
何ものもただそれだけで存在することはありえません。
この地球でなにか問題がある時に、私たちの誰一人として手を汚していない人はいません。
苦しんでいる人がいるのは私がこのように暮らしているからなのです。
豊かな社会と貧しい社会は互いに依存しあっています。
ある社会の豊かさは、別の社会の貧困さによって支えられて成立します。
「これ在るがゆえにかれ在り」
豊かさは豊かでないものから、貧しさは貧しさでないものからできています。
あらゆるものは、それ以外のすべてを包含しているのが事実です。
interdependent, interbeingで接してはじめて底なしの苦から解放されます。
この苦しみが全世界の重荷を背負っています。
太陽は私の心臓 一つに繋がる世界
もし太陽が輝くのをやめたら私たちのいのちの流れも止まってしまいます。
だから太陽は、私たちの第二の心臓で、しかも体の外にある心臓です。
地球上のすべての生命体はこの光によって生きていられるのです。
私たちの体は、皮膚の囲いの内側にのみ制限されるものではありません。もっと広大なものです。
地球の取り囲んでいる空気の層までも、私たちの体の一部です。この空気が消えてしまえば、私たちのいのちも終わります。
あらゆる現象は私たちの体と密接に結びついています。
海底の小石から何百光年かなたの銀河に至るまで、全てはつながっています。
気づきの生活
自然は私たちの母親です。
この母なる自然から切り離されるから、私たちは病むのです。
マンションなどで暮らすと母なる大地である自然からの距離が離れてしまい、木を植えることができなくなります。
母なる大地との触れ合いは大切です。
木を抱きしめて息を吸って吐く練習をします。
これを毎日行ってみると、数週間で、気分がずっと良くなっています。
釈尊の怒りのエピソード
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga 第26章 婆羅門の章
Akkosaṃ vadhabandhañca
Aduttho yo titikkhati
Khantībalaṃ balānīkam
Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ
心に瞋り抱かずに
罵ののしり、鞭打、縛ばくに耐え
心も猛き忍辱者にんにくしゃ そをバラモンと我は説く
訳:江原通子 (Dhammapada 399)
ダナンジャーニーと夫のバラモンの物語
ダナンジャーニーという女性がいました。彼女はバーラドヴァージャ姓という高貴なバラモンの妻でした。バラモン教を厳密に守る厳しい家柄の人でありつつ、彼女は預流果に達していた仏教徒だったのです。しかし良い妻として、家の仕来りを守って生活していました。しかし彼女には、クシャミをしても、咳をしても、つまずいても、つい「正等覚者に礼拝します」という仏教徒の決まり文句を言う習慣がありました。クシャミなどをしたら、何か祝福の文句を言うのはインド文化的な習慣です。その時、普通は自分が信仰する神の名前をとなえるのです。ダナンジャーニーがいくら高貴なバラモン家の妻であっても、彼女は預流果に覚っていたので迷信などは一切持っていません。ですから自分自身に対する祝福として、釈尊に礼拝する文句をとなえたのです。
ある日、その家で、大きな行事がありました。お手伝いで忙しかった彼女は、つまずいてしまいます。そこで反射的に釈尊に礼拝する文句をとなえたのです。大事な宗教行事の真っ最中、外道の師匠を賛嘆したことに対して、夫のバーラドヴァージャ・バラモンが激怒したのです。
当時のインド人は、女性とはなんの知識も理性もない愚かな存在であると思っていました。夫は、彼女に向かって「おまえの禿頭の師匠を論破して潰してやるぞ」と言い放ったのです。
彼女は「はいどうぞ。できることなら頑張ってみてください」と冷静に答えます。プライドを傷つけられたバラモンは、論破しないで逃げるわけにはいきません。お釈迦さまに会いに行ったバラモンは、このように質問したのです。「ゴータマよ。人々が楽に生活できるために、悩みに陥らないために、突破するべきものは何かと、ずばり一言で述べたまえ。」
釈尊が答えます。 「バラモンよ。怒りを断てば、楽に生活できる。怒りを断てば、悩みに陥らない。甘美な毒の根になる怒りを突破するべきだと、聖者たちが推奨する。」
甘美な毒の根とあるのは、怒る時、本人は気分爽快だと勘違いするからです。お釈迦さまは見事にバラモンの質問に「怒りですよ」と一言で答えたのです。自分にも怒りの経験があったので、バラモンはびっくりしました。お釈迦さまの智慧に感銘して、出家して阿羅漢になったのです。
侮辱バラモンの物語 Akkosasutta SN7.2 賓耆迦経 英訳 The Abuser
弟が釈尊のもとで出家したという報せを聴いて、兄のバーラドヴァージャbhāradvājaバラモンは我慢できなくなったのです。彼は釈尊を非難侮辱することが生活習慣になってしまいました。これは侮辱バラモンとアダ名を付けられるほど酷かったのです。調子に乗った彼は、お釈迦さまに面と向かって非難侮辱したくなって、お釈迦さまを自分の家に呼んだのです。お釈迦さまはなんのことなく、家を訪れました。その時、バラモンは、水一杯さしあげることもなく、派手に釈尊を非難侮辱したのです。お釈迦さまは黙って聴いていました。彼が疲れ果てて黙った瞬間に、お釈迦さまが質問します。
「あなたは高貴なバラモンなので、あなたの家を友人・親戚などが尋ねるでしょう。その時、あなたは、ごちそうを作って客を接待するのではないでしょうか?」
「はい、腕によりをかけてごちそうを作って接待します。」
「では、来る予定の友人・親戚たちが突然、来られなくなったら、あなたはあのごちそうをどうしますか?」
「それなら、ごちそうはもったいないので、私と妻と子供たちで食べます。」
バラモンの言葉を聞いた釈尊は、次のように返しました。
「あなたが私を招待したのです。あなたが私に対して非難侮辱という接待をしたのです。しかし、私はその接待を受け取れないのです。ですから、自分と自分の家族と御一緒に、この接待をご賞味ください。」
この答えで、バラモンの目が醒めたのです。なんの罪もない人を非難侮辱すると、その呪いの言葉が反射して自分に降りかかるのだというのは、インド文化の常識です。バラモンは自分自身で自分を破壊していることに気づいたのです。その人も出家して、後に阿羅漢になったのです。
ひとを侮辱して貶すのは、このバーラドヴァージャ系の習慣のようです。スンダリカ・バーラドヴァージャとヴィランヴィカ・バーラドヴァージャという二人の弟がいたのです。彼らもお釈迦さまを侮辱しようとしたところで、うまく行かなかったのです。二人とも、お釈迦さまのところで出家する結果になりました。性格は悪かったかもしれませんが、かなり知性のある人々でしたので、皆、阿羅漢になったのです。
怒ったときは脳が閉じられる
怒りに感染したら、それは精神病に罹ったことです。怒っている人には、理性的な話は通じません。怒ったときは脳が閉じられるので、人のアドバイスなどは入らないのです。自分の心のなかに現れた怒りを回転させて、自己燃焼するのです。脳にとっては、とても危険な情況です。
脳が自己燃焼プログラムをカットした場合は、怒りも収まります。ひとが怒っても、時間がたつと怒りが無くなるのは、そのためです。それは能力だと勘違いしてはいけません。誰だって一生、怒っていることは不可能です。やりきれないから、脳が怒りのプログラムをストップするだけの話です。
お釈迦さまが推奨するのは、自分で意図的に怒りを収めることです。それは自分の能力になります。怒りが起きたら、決して自然に消えるまで待ってはならないのです。自分の意志を使って、怒りを消すのです。これを繰り返すと、怒りに汚染されない人格が現れてくるのです。
他者の怒りを収めたいなら
怒った人の怒りを収めてあげることは、普通の人々にはできないのです。普通の人々も、怒る性格を持っているからです。「あなたは何で怒っているのか?」と相手に訊く場合も、自分が相手の怒りに対して怒っているのです。ですから、その質問も怒りの炎の燃料になるのです。他人の怒りを収めてあげたいなら、自分に怒りに打ち勝つ能力が必要です。ですから、個人個人が怒りを収める訓練をすることが、周りの幸福にも繋がるのです。「怒れない人」がいるならば、周りの人々もその間では怒らなくなるのです。怒った人の怒りを収めてあげることも、怒れない人にしかできないことです。
怒り症に共通する特色
上に述べたエピソードを読むと、お釈迦さまは怒りが習性になっていた人々の怒りを、いとも簡単に無くしてあげたことが分かります。しかし怒ってしまう弱みがある私たちには、その真似はできないでしょう。ですから私たちは、自分の心のなかに現れてくる怒りの火種が大きくなる前に、消してしまう訓練をしなくてはいけないのです。
怒り症になっている人々に共通する特色があります。それは、「私は正しい。相手が悪い」という気持ちです。
病気を治したければ、決して怒りを正当化しないことです。必要悪とは、愚か者の考えです。
悪結果を出すエネルギーに、悪というのです。悪い結果は決して必要ではありません。ですから、必要悪とは、成り立たない妄想概念です。
いつでも損をするのは怒った人
このような情況を推測しましょう。誰かが自分の玄関のベルを鳴らす。ドアを開けて「なんでしょうか?」と訊く。その時その誰かが、自分を力いっぱい殴って、もしかすると怪我もさせて、帰ろうとする。自分が知っている人ではありません。それなら、相手に対して怒るでしょう。自分がなにも悪いことをやってないのに、殴られて怪我をさせられる理由はありません。相手が悪いのです。
しかし、このような場合でも、自分の怒りを正当化するべきではないのです。ただでさえ殴られて痛いのに、怒りを抱くことで、さらに一生治らない精神的な傷を受けるはめになるのです。
その怒りは自分の幸福を壊します。死後も不幸に陥る可能性があります。しかし、殴った人はそこまで考えていなかったでしょう。
もしかするとその人は、ふざけて程度の悪いイタズラをする気持ちでいたかもしれません。あるいは精神的な病人かもしれません。ですから、損するのは加害者ではなく、怒りを抱いた被害者なのです。
ノコギリの喩え
怒りを収める方法として、お釈迦さまは出家に「ノコギリの喩え」を説かれています。「凶暴な人々が自分を捕まえて、逆立ちさせてノコギリで切断するとしましょう。そんな時であっても、凶暴な人々に対して怒りの気持ちが起きたならば、あなた方は私の教えを実行していない者になる」とお釈迦さまは説かれたのです。それは、怒りがどれほど自己破壊的な感情であるかと教えているのです。
ナーラーギリ象の物語
お釈迦さまに出会ったら、どんな人も落ち着くのです。お釈迦さまを暗殺しようとした人が、象軍のナーラーギリという象に酒を飲ませ、いじめて怒りに狂わせて、お釈迦さまが托鉢に出た町に放ちました。人間はみな逃げましたが、お釈迦さまはそのまま歩いて進んだのです。
ナーラーギリ象に「なんでお前は怒っているんだい? カッコ悪いよ」と言っただけです。象はお釈迦さまの前に跪いて礼をしました。
ひとが怒っている時はなんの話も通じないのに、お釈迦さまはそれでも見事に落ち着くようにしてみせるのです。
釈尊の「人を落ち着かせる能力」について比丘たちが話し合っていたところで、お釈迦さまがその方法を教えてあげたのが今回の偈です。
怒りを収める方法
「ひとが他を非難侮辱する。また暴力を振るう。その場合は、怒りを抱かないで忍耐をするのです。忍耐を訓練して、力ちからになるまで育てるのです。自分の力が忍耐である人は、聖者であると私は説きます。」という説法をなさったのです。
怒りに対して、お釈迦さまは忍耐を推薦しています。忍耐とは、我慢することではありません。パーリ語でkhantīと言って、これは心が落ち着いている状態なのです。
我慢する人の心は、落ち着いていないのです。落ち着くとは、実践して育てるべき能力です。我々の脳は、簡単に興奮してしまうのです。身体に入るデータを自分の都合で捏造することは脳の仕事です。自分の都合で捏造することが出来なくなったら、混乱状態に陥るのです。怒りはそのとき現れる反応なのです。自己防衛のつもりで怒りの反応をするが、それは自己破壊の結果になります。
捏造をやめたら心が落ち着く
物事をありのままに観察することができれば、心は落ち着きます。要するに、捏造をやめたら心が落ち着くのです。ありのままに観ることに成功すれば、一切の現象は無常・苦・無我であると発見するのです。
一切の現象は無常・苦・無我であると発見した人に、心が興奮する理由は成り立たないのです。それでやっと、忍耐を確立したことになります。ですから、「忍耐が力になった人こそが聖者なり」と説かれる時は、忍耐と解脱を同義語にしているのです。
ひとが解脱に達したならば、周りにいる人々も怒りの炎で燃えなくなるのです。周りにいる人々も、安らぎと幸福を感じるのです。
というわけで、怒りを収める実践に挑戦しましょう。
ポイント
怒りは自己発火装置です。
怒りを正当化してはいけません。
怒りが自然に収まることは能力ではありません。
怒りを収めることで人格が向上します。