この宇宙のあらゆる存在はは常に変化し続けている。
エントロピーの法則も変化し続けている対象、すなわち宇宙がテーマであるのに、人々はこれを因果関係(前後のパターン)として認識することで、その結果「時間の矢」がここにあると信じ込んでいるが、因果関係とはヒトの大脳皮質が作り出した過剰一般化による観念であることをボルツマンは看破した。
S=kBlogW W状態数 kB ボルツマン定数
エントロピーは増大するというRudolf Julius Emmanuel Clausiusのエントロピー法則式においてエントロピーが低いところから高いところに向かうということが基本的な物理式の中で唯一、過去と未来を認識している法則とされている。
1865年の論文では、不可逆過程も考慮に入れ、
∫dQ/T≤0
クラウジウスは1865年の論文で、Sを
dS=dQ/T
と定義した。
クラウジウスは、カルノーサイクルの研究をする中で、このdQ/Tと言う量を積分すると、カルノーサイクルを1周した際、この積分の総和がゼロに成る事に気が付いた。クラウジウスは、上式の様に、このdQ/TをdSと言う新しい量として表し、このdSを積分した量であるSをエントロピーと呼んだ。そして、この新しい量Sの変化dSが、熱現象の方向を決定する事に気が付いたのであった。
クラウジウスが発見した段階において、エントロピーは原子の実在性を前提としておらず、啓蒙書などで良く使われる「デタラメさの尺度」と言った意味は全く無く、熱機関の可逆性の指標だった。
クラウジウスは、熱力学第一・第二法則を以下の表現で表した。
1.宇宙のエネルギーは一定である
2.宇宙のエントロピーは最大値に向かう
しかし私見では、エントロピーの増大と時間の相関関係があるようには思えていない。
生命体はエントロピーの減少の方向に成長するなど、エントロピー増大を過去から未来への時間経過(時間の矢)と定義するのは過剰一般化ではないと考えている。
エントロピーの増大によって「時間の矢」を観念的に理解した人々は、自分たちの観念によって「時間」を作り出している。
実際のエントロピーとは個々の粒子が常に変化し続けていることを指し示したものでしかない。
第2法則はボルツマンの天才が如何なく発揮されたもので、アトキンスは「自然には根本的な非対称がある」というふうに表現した。熱と仕事のあいだには非対称性があるということで、この見方こそがエントロピーという見方を生み、第2法則が「エントロピー増大の法則」という異名をとることにもなった。熱は仕事に変換できるが、完全にそのことがおこるのは絶対0度のときだけだという意味にもなる。
数ある科学成果のなかでも「熱力学第2法則ほど、人間の精神の解放に貢献したものはない」とよく言われる。
人間精神の解放とは何ぞやというところだが、たしかに蒸気機関を通して第2法則が見えてきて以来、この法則がもたらした見通しはまことに広範囲にわたった。第2法則は極大の宇宙にも極小の粒子にも深くかかわり、かつすべての生物の生と死にも根本においてかかわっている。
こんなに重大な法則はめったにない。それにもかかわらず、これほどその解釈が難しく、また多様な真理の認識をもたらす法則も少ない。
第2法則は次のように定義を順に"いいかえ"てみると、その広大な内容が少しは見えてくる。
(1)「熱を完全に仕事に変換するのは不可能である」。
熱源から熱を吸収して、それをすべて仕事に変換するだけで、あとは何の変化ももたらさないというような過程はおこりえない。いいかえれば、仕事と熱は、双方ともエネルギーを移動させるしかたの様式だという意味では等価だが、お互いに入れかわるときの入れ変わり方は等価ではない。
(2)「自然な過程には宇宙のエントロピーの増加が伴う」。
これは、系を熱するとエントロピーが増加するが、仕事をしてもエントロピーは変わらないとも書き換えられる。つまり、宇宙のエントロピーは仕事には活用しにくいものだということである。エネルギーが分散するときには、エントロピーは増加する傾向にあるということだ。
(3)「宇宙はより高い確率の状態に移っている」。
このことが意味している内容は深遠だが、簡単にいえば、「自然の変化がおこるたびに、世界全体のエントロピーは増えている。そしてその方向が一番の安定なのだろう」ということだろう。これを「宇宙や自然界には、世界全体のエントロピーが増大するという非対称性がひそんでいる」というふうに解釈したい。
(4)「熱の一部が仕事に変換されるとき、カオスが乱雑状態の中から一様な運動を引き出す」。
ここからはエントロピーとカオスが入れ替わる。秩序だった生成物、すなわちエントロピーの低い生成物が、あまり秩序だっていない(エントロピーの高い)反応物質からあらわれてくることがありうるということである。ただしそのためには、系の周辺で系の内部のエントロピーの減少を補う以上のカオスが生成される必要がある。
(5)「熱を完全に仕事に変換しようとすると、そこに構造があらわれてくる」。
有名なプリゴジンの散逸構造がどのように出現するかということである。ここでは、「エントロピーがより速くつくられるようになると、構造がないところに構造ができる」というふうにいいかえたい。この構造のひとつが生命なのである。
と、まあ本書の紹介をかねて捻った言い方をしてみたが、第2法則のもつ意味をたった5ステップの「いいかえ」で、宇宙の本質や生命の誕生まで届かせようというのは、どだい無理だったかもしれない。
しかし、第2法則がもっている意味は、急げばそういうことなのだ。そして、ついつい宇宙から生命までを、星の誕生から珈琲にミルクが交じるまでを、一気に駆け抜けたくなるものなのだ。
本書はそのことをいくつものモデル、とくにサイクルモデルやエンジンモデルやケミカルモデルを駆使して、実に巧みにナビゲートした。熱力学やエントロピーを解説した本はいくらでもあるが、本書のように、理知的で、模式性に富んだものは少なかった。
そのうえで、本書は科学思想的にも示唆に富む。ときどき著者が言い放つ言いまわしが得がたかったのだ。
たとえばぼくは、「鉄を燃やす化学反応」のところで、次のような記述に出会ってギョッとした。そこにはこんなふうに書いてあった。「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」!
すでにおわかりのことだとはおもうけれど、鉄が錆びたり、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーと大いに関係することなのである。
確実性の終焉The End of Certainty 1997 Ilya
Prigogineイリヤ・プリゴジン[訳]安孫子誠也・谷口佳津宏
プリゴジンとブリュッセル学派が打ち立てた散逸構造論がもたらした衝撃は、いまなお科学と思想の中心部を揺るがせている。その震動はあいかわらず心地よい。
その心地よさは、それまで夕焼けや波打ち際や滝を眺めているのは好きだが、科学には疎かったという者たちにも波及した。
われわれは長いあいだにわたって、ひとつの大きな疑問をもってきた。地球は宇宙の熱力学的な進行にしたがっていつか滅びるだろうに、その地球上の生命というものはまるでその不可逆な過程に逆らうかのように個々のシステムを精緻にし、生命の謳歌を主張しているように見える。これはなぜなのかという疑問だ。しかもその生命も結局は個体生命としては次々に死んでいく。
詩人たちはこのことをこそ歌い、哲学者たちはこのことをもって思索の源泉としてきた。
生命だけではない。地球の高い空に乱れて散らばっていた雲は、いつのまにかウロコ雲やイワシ雲のような形を整えるということがあり、乱流がほとばしっている川の流れには、いつのまにか見事な渦ができていることもある。けれどもこれらはいずれは消える。そうであるのに、いっときの形を整えるかのようなドラマを見せている。夕焼けを見ていていつまでも飽きないのは、この生成と消滅がしばし大空の舞台の書き割りを覆ってくれるからである。
いったい自然の流れは、大きな流れが見せるものと小さな流れが見せるものとでは、そこには異なる法則がはたらいているのかどうか。もしそうだとしたら、その二つの法則をつなげて理解することはできないのか、どうか。この疑問はさかのぼればヘラクレイトスにまでさかのぼっていた。
そこにはもうひとつ、大きな謎が含まれていた。自然はどのように時間と戯れているのかということだ。科学や数学では時間はtか−tであらわす。力学や化学ではtと−tを入れ替えても事態に変わりがないときに、その過程は可逆的であるとみなしてきた。
しかし、自然界にはtと−tを入れ替えられない現象がいくらでもおきている。熱力学ではとくに頻繁におこっている。熱い珈琲はそのままほうっておけば室温と同じになり、さらにほうっておけばがちがちの固体になっていく。これを熱いブルーマウンテンに戻すことは不可能なのである。
熱いものはいずれは冷える。そこには時間の不可逆がおこっている。いったい時間経過を可逆にしていることと不可逆にしていることのあいだには何がおこっているのか。これをプリゴジンは、力学系のミクロな可逆性と熱力学系のマクロな不可逆とを、ボルツマンの統計学的解決の先っぽでつかまえた。
散逸構造論は不可逆過程の熱力学システムの研究、とりわけ非平衡系のシステムを研究対象にして生まれた。これを非線形熱力学という。
プリゴジンが注目した非平衡系は定常状態にあるシステムのことで、川の流れのように、内部的にはさまざまな変化があっても大局的には時間的に一定の流れをもつものをいう。散逸構造はこの定常状態の中で生まれる。
熱力学的な非平衡系の単純な例は、高温部と低温部があって高温から低温に熱が流れつづけているような例に容易に見いだすことができる。この変化が止んでシステム内が一定の状態になれば、それは熱平衡系とよばれる。熱い珈琲が室温と同じ状態になったとき、それが熱平衡系である。だから熱平衡系にも構造はある。たとえばシステム内に水と氷や、水と油が分かれてあるときなどだ。
が、その非平衡系の内部をよくよく見ると、実はそこにはもっと劇的な変化がおこっていて、そこにウロコ雲やイワシ雲のように、それが新たな秩序の生成に見えるような現象が生起する。熱いブルーマウンテンにミルクを入れてかきまわしたときのマーブルパターンなども、そのような現象のひとつだった。
こうした現象はシステム内の温度差・圧力差・電位差のような非平衡性を解消するような流れをおこし、非平衡系をなんとか熱平衡系へと転化させようとして、いわば非平衡的なるものをしきりに散逸させている。熱い珈琲のマーブルパターンはそのような小さな散逸が生じた束の間のファンタスマゴリの幻想である。
しかもこの過程は不可逆である。勝手に元の状態に戻るようなことはおこらない。ブルーマウンテンのマーブルパターンはスプーンでかきまぜていったん消えれば、もう恋人を前にしたテーブルの上に再生することはない。
不可逆過程は熱力学の本質と密接にむすびついている。熱力学第二法則はエントロピー増大の法則として、不可逆的にエントロピーを増大させる現象のすべてにあてはまる。
大戦前、プリゴジンは第二法則を研究しながら、熱力学的な平衡が安定であるための条件を求めていた。そして、システム内部のエントロピー生成量が最小になるときにシステムが安定し、その特別の場合が熱平衡状態であること、そこではエントロピー生成量がゼロになっていることをつきとめた。
ところがやがて、この成果(エントロピー生成最小の原理とよばれる)を熱平衡から遠い非平衡系に移そうとすると、まったく別の現象がおこることに気がついた。「熱平衡から遠い非平衡系」というのは、システムをとりまく周囲の非平衡性が大きくなった場合のシステムのことをいう。その場合は、不可逆的な流れの大きさを非平衡の線形一次式ではあらわせない。ということは、ここではエントロピー生成最小の原理は成り立たないということなのだ。システムの内部に生じる構造の非対称性がシステムの周囲の非対称性より大きくなっているからだった。
プリゴジンは、これは「自発的な対称性の破れ」がおこっているためと見て、このようにして生じる構造を「散逸構造」と名付けたのである。散逸構造では大局はそんなそぶりをまったく見せていないのに(対称性はちっとも破れていないのに)、その局所においては小さな秩序が生成されていた。
散逸構造の発生は、ちょっと考えてみると奇妙なことである。熱力学第二法則やエントロピー増大則というのは、システムの構造がしだいに消滅していって、いわば平坦化していくようなことを、いいかえればシステムの対称性がどんどん増大していくことをあらわしていたはずである。
実際にも、熱平衡系では周囲の非対称性が一定に保たれていて、システムの対称性が増大して、そのぶん非対称性が周囲の非対称性と一致したときにシステムは安定する。ところが散逸構造ではシステムの対称性は周囲の対称性より低下する。なぜなのか。
そこでプリゴジンはここに「熱的なゆらぎ」による秩序が生成されて、この差異を解消しているのではないかと考えた。わかりやすくいえば、外見は連続して見える流体などの物質状態も、それを細かく見れば粒子的な構造が激しい熱運動をしていて、そのミクロなゆらぎは非平衡状態が一定の限度に達したときにマクロに発現するのではないかと考えたのである。自発的な対称性の破れもこのときに発生すると解釈した。
プリゴジンはこうした散逸構造の出現でもシステムの大局的な定常状態は大きくは変わらないことを証明してみせた。そこでは、正のエントロピーの生成量と負のエントロピーの流入量が互いに打ち消しあって、システムのエントロピーが一定の値となっていた。これで散逸構造の安定は説明できた。
では、一方、散逸構造が生み出したものは何なのかという問題が残った。ここからが非線形非平衡熱力学の独壇場になる。
ベナールの対流は、液体の入った浅い鍋を下から熱すると、ある温度のところから急に対流のパターンが出てきて、上から見るとハチの巣のような形になる現象をいう。鍋が熱せられて非平衡が大きくなり、それがエネルギーの散逸をともなってグローバル・パターンを自己組織化させているという現象だ。
ベルーソフ・ジャボチンスキー反応では、グローバル・パターンが生じてからも、そのパターンが化学時計とよばれる単位で時間的に振動する。ということは、そこでは時間的な対称性も破れてグローバルな時間のパターンも創発されているということになる。
こうした現象は何かに似ている。そうなのである、生命体にこそ似ている。生命は宇宙的な熱平衡から遠く離れた地球という非平衡開放系の上で生じたシステムである。そうして生まれた情報高分子としての生命はやがて自己組織化をおこして、生物時計というような独自な時間を刻み、消化系や神経系を発達させてそこに秩序を生成させた。
熱力学開放系は、システムの内部から外部に向かって内部化学反応によってこしらえられた反応物質をせっせと取り去ることができるシステムのことをいう。そうだとすれば、代謝機構や排泄機構をもっている生命体は、まさに熱力学開放系のモデルだということになる。しかもあいつぐ不安定性の発生と分岐の出現によって、生物的な化学散逸構造はどんどん複雑化することができる。
このことを述べたのが圧倒的な熱狂をもって読まれたスタンジェールとの共著『混沌からの秩序』(Order out
of Chaos)(みすず書房)である。そこには象徴的に次のように書かれていた。
かつてジョセフ・ニーダムは「西洋の思想はオートマトンとしての世界像と、神が宇宙を支配するという神学的世界像とのあいだを行ったり来りしている」と書いたものだった。ニーダムはそれを西洋に特徴的な分裂病と命名した。それに対してプリゴジンはこう付け加える、「実はしかし、この二つはむすびついている。つまりオートマトンはその外部に神を必要とする」。
こうしてプリゴジンは生命体の発生分化や成長にこそ、自分が研究してきたしくみがあてはまることに気がついた。とくに、生命体にひそむ「内部時間」はプリゴジンが研究してきた時間の演算子でも説明できるのではないかと考えた。神もオートマトンもその内部に時計をもっていたわけだ。
いまでも読者が多い『存在から発展へ』(みすず書房)はまさにこのことを高らかに宣言するパイオニアの役割をはたした。この著書でプリゴジンは、それまでのハミルトニアンによる力学の定式化に代えて、リウビル演算子による定式化を試みて、外部からの規定をうけない「内部時間」にあたる時間演算子を提出している。
というわけで、プリゴジンは散逸構造論の旗手から複雑性の科学の旗手へ、さらに時間論の旗手となって、本書『確実性の終焉』を著すまでにいたったのである。
本書はいま述べた時間の問題をさらに突っこんだプリゴジンの最後のまとまった著書にあたるもので、話題は量子論や宇宙論における時間のパラドックスの解決までを照準に入れている。
プリゴジンはここでは神とオートマトンに代えて、こう書いている。「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界なのである」と。
プリゴジンは最後の最後には、確率論的で相関的な時空開放系を想定したようである。
モノーは『偶然と必然』において、生物学の法則が熱力学の第二法則を侵害している証拠はまったくないと書いていた。一見すると、高度情報分子が構造的に転写され、さらに増殖していくのは、第二法則に矛盾しているように見えるのだが、それはタンパク質の立体特異性にむすびついた情報化学のせいであって、この情報化学のプロセスでは第二法則にもとづく熱力学的対価を生物は何の狂いもなくちゃんと支払っているというのである。ただしモノーはそう言いながらも、タンパク質の情報プログラムを作るアミノ酸の配列順序の決定は偶然によるもので、その偶然が種の特性を決めているのであって、そこには量子レベルでは突然変異による変化があっても、それらは生物の全体の保存機構によって帳尻をあわしているので、生物全体においては自然淘汰は必然の不可逆過程にほかならないと説いた。
しかしカイヨワは、これに疑問をもった。どこかに重要な対角線やナナメが欠けていると見た。
そのひとつが、「形成」ではなく「破壊や崩壊」に目をむけることだった。すなわち、量子的な突然変異は必ずしも偶然の産物なのではなく、そこに対称性の崩れという必然が関与しているのではないかと予想したのだった。
これは驚くべき仮説である。
そもそも「対称」とは均質性や等方性をもったシステムが安定を獲得したときにあらわれる属性であるが、ここに何かのきっかけでごくごく部分的な破壊がおこったときは、その破壊をうけたシステムは新たな特性を獲得して、そのシステムの別の安定のレベルに達しようとする。
これは無対称のシステムが安定を取り戻そうとする動向とは異なるもので、熱力学でいえばむしろ負のエントロピーに向かっている動向だと考えられる。カイヨワはこのような見方に立って、生物と情報とシステムの新たな解読の方法を模索した。
今日ならば、プリゴジンの非平衡系の熱力学やホランドの複雑系の化学によって説明のつくことも、まだ創発性や相転移の科学が見えなかった時期に、これだけの仮説を独自に雄弁に語るということは稀有なことだった。