宗教は現代人を救えるか 仏教の視点、キリスト教の思考
佐々木閑 小原克博
宗教の定義 超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度「サピエンス全史」ハラリ
カルマ業kamma
カルマ クリという動詞の派生語で「行い」という意味の名詞
その行いが倫理的なパワーをもって、善い行いをすると楽な状態が実現し、悪い行いをすると苦が来る。
カルマ業kammaの原則の第1は、善悪の倫理的な活動が、すべての業kammaのシステムに記憶されてゆく。
第2は、活動に対して因果は必ずあるが、そのあいだの時間は不可知である。
第3は、因と果に類似性はない。他人のものを盗むと自分のものが盗まれるということはない。
ネットカルマ
1 ネットにデータが記録される 認証システムにより誰のものかが確定される
2 私というソート(タグ)を使うとデータを統合でき、瞬時に結果がネットワーク全体に拡がる
3 炎上するなどの結果は予想できず、ネットだけではなく実生活も変えてしまう。
他者の評価による自己承認を過度に意識する必要のないキリスト教や仏教の教徒にとっては、信仰の根幹的な部分であり、自由の基盤になる。
インターネット社会では他者からの承認欲求によってビジネスが成り立っている。
解決策はネットで承認欲求以外の価値観を持てるように、同意者がネット上に組織を作る。
煩悩は個人的なものだが、社会的影響をうけるので、現代ではネットにより煩悩の箍を外してしまった。
たとえば「いじめ」という煩悩がはネット社会ではそのままに出てきてしまう。
大乗仏教の業kamma
上座部仏教では日常的な善行をすると善いところに輪廻転生をする、すなわち自業自得で因果関係が成り立つシステムだが、涅槃に入ることはできない。
涅槃に入るのは、出家して厳しい修行を毎日行った結果として悟りを得る。
大乗仏教では、涅槃に入る条件を日常の善行にまで拡大した。すなわち、自業自得ではない、という業kammaのの原則の変更を認めて、日常の世俗の善行も悟りに結びつくと説くようになる。
釈尊と社会活動 無責任の覚悟
たとえば死刑制度に反対することで、加害者、被害者、その関係者に強い苦しみを与え、業kammaを与えることになる。したがって、死刑制度の是非に口を出すことは釈尊の教えからの逸脱になる。
釈尊の教えは、世俗における善悪の価値判断から離れ、社会的には無責任になることを自覚して、それを背負って生きていくことを覚悟するのが仏教という宗教。
社会的責任を放棄し、社会の寄生者となって生きていくことを自ら選択する覚悟が必要。
プロテスタントや大乗仏教の目指す神の国や極楽浄土
彼岸的なものを此岸的に解釈した大乗仏教 極楽浄土
天国ではなくこの世に天国を実現しようとするプロテスタント 神の国運動
生きている者はこの世に極楽を作ろうとする社会革命運動。
メシアの来臨が必要だが、人間の努力によって社会改良をしようとした近代思想。
きれいごとを言って他者を踏みつける植民地政策。
法華経はこの世界をより良い仏の世界にしていくことが、菩薩たる我々の務めであると考え、政治や社会活動にコミットしていく。
思考をもつ人間の集団が行っているので、国策、戦争協力、資本主義支配、政治支配、全体主義的な面をもっている。
社会活動と宗教
仏教は社会を変えて人々を救うのではなく、社会から疎外された人を受け入れて救う
宗教から切り離す信仰と表層化
信仰は認知の問題
表層は近代思想の問題
大乗仏教の経典は釈迦の教えてではない
富永仲基が江戸後期に文献的に指摘した。
東洋学
深層を表層で理解する近代欧米思想では日本仏教は本流から離れた派生物
→近代文献教学 友松円諦、中村元
鈴木大拙の日本的霊性は土着ではなく、アプリのフォーマットで具体的な数値はない
よって読み手が自分の概念を自由に当てはめることができるので受け入れられやすい
また日本仏教の特異性を釈尊と結びつけて権威付けしようとした梅原猛。
比較の本能 優劣 優越感
「他の宗教と論争すれば、その分だけ自分の心が汚れていく。だから無益な論争などせず、修行に励め」
出典は?
イエスと離れた教会
何を食べようと何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな マタイ6:25
心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない マタイ18.3
信者獲得ではなく来る人の受け皿である仏教
測れるものを増やそうとする志向が宗教界に入って本末転倒になった。
倫理観の基盤
プロテスタントでは聖書、とその解釈
イエスは大酒飲み マタイ11.19
カトリックは歴史的に蓄積された法的な仕組み、教皇を頂点
プロテスタントは聖書の解釈による分派
供養
対象に敬意を払い、因果関係を設定することで善行は善いカルマになり輪廻転生の中で果報となる。
バラモン教やヒンドゥー教の輪廻転生での習慣が悟りとも結びつくと大乗仏教では考え、これを回向と呼んだ
現代では悟るためではなく悪行を消すために行っているケースが多い。
現代社会が生み出した精神安定のための儀式。
山川草木悉皆成仏
自然の無機物にも仏性があるという釈尊とは関係ないが、東アジアで広がった自然観
成仏とはなにか?仏性とはなにか?
仏となる可能性としての因子で、大乗ではすべてのものにそれがそなわるとする仏の本性。
中国の隋統一までの南北朝時代に「大乗起信論」に仏性について論じられている。
修行をしなくてもよい、という考えに結びつくので道元はジレンマに陥る。
そこで悟りの確認のために修行をしているのであって、悟るために修行しているのではない、と考えた。
インドの仏性思想は、輪廻する衆生と呼ばれる生命体に仏に解脱できる可能性があることを説いている。
中国の仏性思想は、森羅万象に仏性がある、と考える。
日本の仏性思想は、比叡山の円仁が「あらゆる存在には仏となるべき特性が内在する」と天台本覚を唱えた。
人間と動物を同等に見るのは、進化論と輪廻思想だけだが、それを自然にまで拡げて考える。
人間中心主義が全てのものが人間と同じだと考える方向に進むとヒトの絶対性はなくなる。
成仏とは解脱ではないが、深く考えることはせず、この世から肉体がなくなり、輪廻転生に戻ることを仮説している。
一元主義を欲求する人たちの想いを満たす共通性をもたせるフォーマットとして、自分の好みの思想を作ることが可能なので、現代の環境論にも応用されている。
山川草木悉皆に国家やペットや理念や幽霊を含めるは各自の勝手自由である。
釈尊の教えは、このような超越的実在(フォーム、アプリ)を承認せずにそこから離れることです。
神の像 ImagoDei
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
And God created man in His own image, in the image of God created He him; male and female created He them.
創世記1章27節
人間だけにある神の像とは何なのか?
動物には神の像、すなわち魂はなく、仏性に相当する特殊な優越性は人間に限定している。
犬はキリスト教の天国に行けるのか?
キリスト教では魂を持つのは人間だけ 出典?
くしゃみをしたら「長生きしてネ」という習慣を信じるのかを問うた釈尊
しかし社会の中では関係性を優先するために言うことを勧めた釈尊
迷信の否定よりも人の気持を優先させた
悟りの道へ進むことを善、妨げるものは悪という基準があるため。
出典?
仏教では犬の供養は仏道とは関係ないが、社会の中の評価で判断する
魂の救済 救いとはなにか?
キリスト教では、罪が贖われる、死後に魂が天国に行く。
カトリックは、免罪符、贖宥状によって救済される
プロテスタントは神の恩寵によってのみ救済される。
釈尊は修行に集中
大乗仏教は阿弥陀仏を信仰する救い
究極の安楽
魂が救われて天国に行くと、魂が存在し続ける状態で最高の幸せが来ることを想定している。
換言すると、魂が望む欲求が全て叶えられている状態が実現することが、キリスト教の幸せ。
「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」マタイ7.7
この欲求は超越者を前提にしている。
仏教の到達目標は欲求しなくなることなので、外界との関係性は安楽の実現の役に立たず、自己変革が唯一の道。
欲求が満たされた極楽浄土ではなく、欲求がなくなった状態
浄土宗の涅槃に入るには極楽が中継地点になるという教えから涅槃が消えたのが浄土思想の阿弥陀信仰
浄土信仰、法華経信仰、密教信仰も欲求の充足を最終目標に含めている。
本来は欲求のない自分を目指していたものを、欲求が全てを叶う状態へと目的を転回している。
浄土信仰は日本的プロテスタント カール・バルト「教会教義学」
プロテスタントは恵みによってのみ義とされる宗教
鎌倉時代の日本の浄土運動はプロテスタント主義。
イエスが神のメッセンジャーであるように、釈迦は阿弥陀如来の伝言者
欲求から逃れる時空としての宗教
こころ教
測定できる科学と整合性の取れる教え