知識が増大すれば品格は下がり心が冷たくなるのは何故?

 

私たちの常識では、勉強をして脳を鍛えると優しく品格のある人になっていくと思っていませんか?

知識が増えれば人格は増していくと。

ところが実際にはこの反対で、知識が増えると人格が下がるという実験の結果がいろいろあります。

知識の増大は必ずしも他者と共有する心を開かせるものではなく、知識を使って、他人の世界を自分の都合の良いように解釈するレッテル貼りの習慣を助長させる効果があります。

私は学校の先生と話すことがたまにあります。先輩や同級生の先生と。

そんな時に、教育指導者が「必ずしもレベルが高い高校・大学に行かなくても良い。行きたい所へ行きなさい」

というスタンスで進路指導をしていても、多くの先生は偏差値と人格の相関関係は強いという経験しており、

「良い友人に出会ったり、レベルの高い人たちに出会う」という観点から、より上位の学校に進学した方が良いと実際には思っていることがあります。

しかし、ドラマや映画、たとえばコミックの「GTO」とか「ROOKIES」では、勉強のできない生徒たちが主人公になり、頭のいいキャラクターはいつも勉強ばかりしていて、人情や不合理なものをバカにして、冷徹に主人公たちを追い詰める悪者役にされたりします。このような構図が過剰に強調されてデフォルメされることで、面白くなり人気があるのは、そこに消費者が共感できる体験を各自が持っているからです。

この二つの食い違いは何なんでしょう?

常識で考えれば、知識が増えて人格が下がるようなことはありません。この文脈での人格はキャラの集まりのパーソナリティではなく、「品格」のことです。

人格にも多くの定義がありますが、ここではひとまず、自分を統一する行動の主体、ということにするとします。

「自分を統一する」ということは、統一されていない複数の“自分”があるということだから、“自分”というプレイヤーがたくさんいるので、それらに関係性をもたせる、ということです。

プレイヤーたちは一杯いるのでそれらを大きく4つに分けると、自己意識、意識、循環器系器官、消化器系器官があって、それぞれの自分が違った欲求や欲望があり、方向性が違う、というのが問題になってしまいます。

一番初めに、歩いて駅まで通っている人が骨を折って車で通勤するたとえ話をして、意識を使う機会が増えた代わりに筋力が衰えた話しをしましたが、同じようなことが人格においても起こる可能性があるということです。

知識が増やしている間は、足の筋力を鍛えたり、他者が困難になっていることに気づく機会が減るということになってしまいます。ですから統一できる情報が知識に偏ってしまい、カラダが準備できないという事態があります。

たとえば、電車の座席でパソコンでリポートを作成している時に、疲れた人が目の前に立っていても、席を譲ろうとはしないことがあったとします。理由はいろいろ考えられます。知識の吸収する時間の割合が増えて、筋力を鍛える時間の割合が減り、これから家に戻るまでの体力の消耗を避けているのかもしれません。また他者の気持ちを察する時間の割合が減り、疲れている人の心情を察する能力が低下しているのかもしれません。どちらも仮定の話ですが、これを世間では人格がない、という判断をする人もいるでしょう。

 

もう一つは住み分けを推し進めると人格が露(あら)わになる場所が減少することです。人格が問われるのは格差や矛盾が激しいところでの判断や行動です。金銭、体力、才能、生死、学歴、健康、家系、階級、人種、国、エネルギーの過密疎、人口密度の変動率などの差が明らかに激しいところで、どのような判断と行動をするのかによって人格は問われます。エネルギーの過密疎とは、例えばガソリンスタンドと浜辺では火の扱い方の常識やそこで問われる判断や行動(人格)が違うといった場合です。

テレビや漫画や劇場では、あえて対立や格差や矛盾を舞台にして、そこでの葛藤を描き出すのが表現の目的でありエンターテイメントであり商売であるので、そこに注目を集める設定を作ります。スーパーマン的な主人公はそこで大いに人格のある行動を発揮して、読者にとって日ごろの不満を払拭する胸のすく活躍をしてくれます。しかし現実ではあまりの格差のある世界では、夢のような活劇は起こらず、ただ対立や矛盾の中で、それらを見ないふりをして過ごすのが普段の日常です。

そんな中で、偏差値によってグループを分類することによって住み分けが実施されます。分別された新たなグループ内では差が少なくなったことによって、いままで気になっていた対立や矛盾が一時的だとはいえ減少します。

例えば運転免許の書き換えにいったりすると、日常生活では会うことがないような人たちと席を並べて驚くのも、各自の日常生活がいかに「住み分け」されているのかを物語っています。

偏差値が高い学校にいけば年収の良い職業に就く確率が増え、そこでは社会的優位なサークルで暮らすことができるので、格差のある葛藤した世界で問われる人格のある判断や行動をする機会は減少します。

ですから偏差値と人格に相関関係があるのではなく、実は、偏差値と人格が露見してしまう機会との間に相関関係があるのです。確かに偏差値と人格に相関関係がまったくないとは言えませんが、もっとしっかりと内容を見つめると、また違って一面も見えてきます。

偏差値の低いところでは、貧富の対立や不平等や不自由が目の前にあるので、人格は常に問われ続けるので、そこで人格が磨かれる機会と現実から目を背ける機会の両方が多いのに比べ、偏差値の高いところでは、守られたサークルの中で暮らすことができるので、根深い対立を回避することができ厳しく人格を問われずに、安心して暮らしていけるのが、二つの間で食い違いが出る理由です。

これは、お盆や正月の帰省ラッシュ時に乗客率200%の新幹線の各車両の違いのようなものです。たとえば自由席で体の調子の悪い人に席を譲る人を見かけたことはありますが、指定席ではそのようなことはこれまでまだ一度も私は見たことがありません。辛そうにしている人が同じ車両にいても、指定席分の差額を払っているのだから、席を譲る必要はない、というのが座っている人の言い分で、論理的で正しく、まさしく理路整然として一分の隙もありません。ましてやどんなに混んでいても一般客の立ち入りを禁止されているグリーン車では、乗客は厳しい環境や格差を目の前に見ることもないので、平然と人格ある行動を続けることができます。金で買い取った空間では人格の評価はされない治外法権地かのように。人格も筋肉のように使えば活性化して鍛えられますが、使わなければ退縮して衰えていきます。この世には一度ある地点に達したからといって、そのままの状態が保たれることはありません。どんな芸の名人もアスリートもサボれば元の木阿弥です。地位や肩書きや金銭で守られている「元・人格者」は一杯います。

この指定席やグリーン車の乗客の実例が、教育者の本音である「良い友人に出会う、レベルの高い人たちに出会う」という観点から、より上位の学校に進学した方が良いのだろうという思いと、ドラマや映画でフィクションとして表現される、指定席の権利や特別車両の壁をとりさった発言や行動が、2時間の間赤ん坊を抱きながら立ちっぱなしになる人の気持ちに共感されるのかもしれません。

教育者の実感と経験は建前社会ではリアリティを持っていますが、フィクションの本音社会では否定されるものとして扱われることで、それが読者にとって日頃の溜飲を下げ快感を生み出します。

 

では、人格を下げないためにはどうすればいいのか?

体の調子の悪い時は、できるだけ休める環境に身をおいて心身を休め、体の調子の良い時は、「生きている間は、これ修行の期間」と自覚して、厳しい環境に慣れる訓練を積み重ね、厳しさを「日常」に変えることです。

新幹線の例でいうと、疲れているときは指定席やグリーン車で休み、元気な時は自由席でみんなと「今」を楽しみ苦しむということです。

どんな人格者であってもずっとグリーン車に引きこもっていると、心身を使う機会が減ってしまうことから、だんだんとアタマとココロとカラダのバランスが崩れてしまいますよ、ということです。 

 

脳を鍛えれば、ヒトは冷たくなるのか? 意識が強くないことが、優しさにつながる? 

200万年前にヒトの脳は1000ccを超えて人間らしくなってきた。

今は1400ccあって、脳の特徴がだんだんと露わになってきた。

脳は神経細胞を使って脳内に流れている電気信号を整理することで活動している。大脳皮質で行われている作業はちょうどコンピューターのハードディスクに情報を書き込む作業のようだ。

これを「わたし」の方から見れば、暗闇にスポットライドを当てて、明るくなったところだけを分断し、それを仕分けして、たくさんの「籠」に「細切れ」を入れて、それらに名前をつけていく。これは便利なやり方でものごと理路整然と進めていくはじめの一歩だ。しかし、この脳の働きは、全体(カラダ・ココロ)から見れば、分断的で、利己的で、先入観にあふれた勝手なルールで動いてしまう自分勝手な生き物にうつる。

そして、ついに次の段階に突入する。

ものごとをパターンで認識するシステムの発動だ。

名前をつけた後には、特殊なケースの原因と結果の2つを結び付けて法則にする。

このある条件の元でしか起きない因果関係を過剰一般化するかと思えば、次にはこの作り上げてしまった法則を目の前の人に当てはめて押し付け、強引に過剰具象化したりもする。この屁理屈を押し進めるのが、脳のお仕事である。そして、このでっち上げと、押し付けを倍増させるかのように学校で鍛え上げていくのが、「冷たく」感じる理由である。

 

フィリピンの離島やアンデスの山村では、一番出世した人が、一族の不運な人たちを引き受ける生き方がある。 

力ある者が不運な弱いものを助けるのは人として当然なのだから、相互扶助の当たり前のことだ。

他人の物は私の物であり、私のモノはみんなのモノなのである。

これは意識が高い時には考えることができない発想法だ。

なぜならば意識というのは、一つのモノを分けて分類して名前をつけて、その後は、根拠という因果関係の線を二つの間に結んで安心するのがお仕事だから。

だから意識が高いと、所有権や、プライバシーや、個人主義や、優劣や、文字や、学問や、合理化や、効率化を優先させ発展させることに時間を費やしてしまう。

すると必然的に、共同体(カラダ)の時間が減ってしまう。

しょうがないよね、カラダは一つだし、時間も一日24時間しかないんだから。

 

智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい。

夏目漱石「草枕」

 

 

切と結

単位・自と共 

脳機能

主語

温度・性格

器官

意識

分断

個人的・自己的

大脳皮質

わたし

冷たい・厳しい

脳 (神経管系器官)

いのち

つながり

共同体的・共感性

脳幹

わたしたち

温かい・優しい

小腸 (消化器系器官)

 

UCLALeonardo Christov-Moorは利他的(altruism)行動をする時の脳の働きを調査した。利他的行動は脳のより原始的な部位(島皮質)に関係し、理性(論理や判断の能力)に関係する前頭前皮質の働きが人為的に低下させると、利他的行動はより発揮されるデータを得た。しかし二つの関係は一義的ではなく、「利他主義」が「有効」であるためには「前頭前皮質の活性化」が必要である、と結論付けている。自分と他人を分けるには皮質の働きが当然必要ですから。

 

ヒトのカラダはこの400万年の間、大きく進化していません。

ヒトのアタマは日進月歩で、変化しています。

ヒトのココロはこの数万年の間にすこしずつ変化していますが、基本はサバイバル(生存)と生殖のための効率化です。そのための好き嫌い、快・不快、繰り返しと回避、近づきと遠ざけです。

 

ヒトのアタマである脳は「分ける」ことを基本とするので、カラダや完全性(未分)からみれば不完全な器官で、時にはこの分類(主義・人種・階級・格差)によって同類を殺すこともよくします。

自動的に錯覚するように脳はプログラミングされているので、事実の半分しか見ることができません。神経と知識を基準にする感性や理性の世界はよく見えますが、「矛盾と折り合う智性」や「土に還る魂性」には大脳皮質はそのままでは対応ができないのです。智性や魂性を体感する元は「共感」です。

 

競争と共感力

通常は、相手がイヤがるようなことは自分もイヤだと感じてしまい、できなくなる。なぜなら、相手に「共感」するから。相手がイヤなことを自分もイヤだと脳の中のミラーニューロン細胞が感じてとるから。

しかし、この共感力を減らすことは可能です。

カナダのウィルフリッド・ローリエ大学の心理学研究チームは、人が権力を持つと「共感力」がなくなっていく実験データを得た。他人に対する思いやりをなくしたり、相手の立場になって考えることができなくなる傾向が生じる実験結果を集積しました。

権力とは「競争」によって勝った人が得ることのできる力のこと。

常識では、競争をして勝てばそれだけ努力をしたのだから「立派な人」や「人格者」になったんだと思いがちになる人がいる。しかし、この研究が示すのは競争をすればするほど罠にハマっていくという、悲しい現実、というよりも、理路整然とした当然の結果である。

意識が発達する前に基準であった「共感力」から「意識」に基準の中心を移行することで、共感力は減少し、これを押し進めると、共同体感覚を優先させない「冷たい人」になっていく。例えば、競争の極地である戦場では、新米の兵士は初めて人を殺す時に躊躇しても次第に慣れていく過程がある。敵にいちいち共感していては仕事ができないので、共感力を下げるためには、自己意識を発動させて、意識を活性化させて、相手を殺す「正しさ」と自分と仲間を守る「正しさ」を構築しなくてはならない。 例えば、スティーヴン・スピルバーグの「プライベート・ライアンSaving Private Ryan」のように。

そして、多くの人は知らない間の無意識のうちに「競争の土俵」に乗せられているシステムの中にいる。

競争が悪いわけではなく、これがこの世がこの世であるためには、大事な要素である。しかしだからといって、いつもこの競争ばかりの時空で暮らしていると、カラダは維持できないので、生命体は滅亡してしまう。適度な「競争」を生み出す冷たい意識と共に、多くの「安らぎ」を温かいカラダは第一に必要としている。

人間は脳を発達させて倍増させた代わりに、情や暖かさを半減させた。そちらにメリットがあったからだ、しかしこのメリットがいつの時代もこの地域でも通用するとは限らないし、未来もそうなるとは限らない。だって、これを極端に押し進めてしまうと、カラダがもたないから。

「いのち」あるものは、カラダを中心とした生き方や考え方がある。

大学で学問(分断活動)を長くした時には、自分の共感性は失ってはいないかと、たまに確認しながら進むこともワクワクする学問にはいいかもしれない。

参照 「いのち」のエッセイとコラム

 

頭を鍛えると仲間よりも普遍性や正義を大切にする子供になる

共同体よりも基準を理性にしてしまったのは歴史の流れからいって理解はできる。だからといって、仲間や家族の基準をなくして、意識だけに頼ると歴史は途絶えてしまう。この理性中心主義というのは歴史の中での過渡期に表面化される一時期だけのものなのかもしれない。

また、いくら理性が大事だからといって、自分の子供に勉強をさせたはいいが、新興宗教にはいったり、ブラック企業の勧誘をしたり、故郷を捨てたり、ひどくなると他人様を傷つけるような人間になってしまっては、本来望んでいたことではないだろう。 

参照 ユートピアで他者を踏みにじる方法  プロテスタントの免罪符

 

大学に行くと、人の身になれない人が増える?

大学の目的は脳を鍛えることですから、当然、多くのバリエーションのある可能性をシュミレーションすることになります。すると、他者の立場に立って、モノを考えることができるようになるのではないか、と思われます。

これっていいことですよね。

ところが、この他者の立場というのはどんなモノなんでしょう?

もし「わかる」のが自分の意識ことだけの人ならば、分かるのは他者の意識までですよね、当然ながら。

しかし自分の無意識のことが「わかる」のならば、他者の無意識までも理解できる可能性はありますよね。

無意識を理解できるはずがないって?

たしかにそうですが、実験して推定することはできるんです。

たとえば、チーズの焦がした香りが漂ってきたら、急に生唾が口の中に溜まった経験をする人がいます。推察するに過去においしいチーズケーキを何度か食べたことがあってこれが条件反射になったのかもしれません。これを自覚している人は、ケーキ好きで糖尿病で苦しんでいる友人と一緒にいる時は、その人の好きな店の前を通ることは避けるようにするでしょう。無意識のうちに条件反射が反応して欲望が掻き立てられるのを避けるためです。

脳を鍛えることで、意識ばかりにスポットライトを当てる癖がついてしまうと、他人の立場に立つことができても、それは他人の「意」でしかなく、他人の「身」ではありません。

もし、わかるのが自分の意だけならば、わかるのは他人の意だけです。

他人の身になれないのは、なぜならばその時に自分の身がわかっていないからです。

欧米や都市生活者の「わかる」とは一般的には「意」のことであるので、言葉を大切にします。英語で言うとハートやソウルではなくマインドです。日本の都市文明圏でも日常会話で「気持ち」や「心」と言った場合は、ほとんどはマインドのことを指し、循環器系の「心臓が波のようにトキメクこころ」でも消化器系の「異物も一つに溶けて腑に落ちる魂」でもありません。

アタマがわかるのは、相手の「感じ方と考え方」です。それらは、感性と理性であって、智性と魂性ではない、ということです。

現代の都市生活者で、感性と理性の奥にある内臓感覚でわかろうとする習慣を持つ人は少ないと感じるのが私の体験です。

自分自身の条件反射や、自分の血管の状況や訓練や治癒や、自分の小腸の働きや腸内微生物の反応を感じることをしない人は、「意識」よりもずっとバラエティーの多い他人のココロやカラダを理解できることはありえません。