はじまりのブッダ 初期仏教入門   平野純

 

 

スッタニパータ 第四章

人が来世についていだく希望や目的は、欲望にもとづいて生じる。    865

聖者は修業につとめはげみ、この世についてもあの世についても望まない 779

死も再生ももはやない者、彼はなにを怖れよう?            902

 

輪廻思想の起源

アーリヤ人は神々ヘの讃歌をおさめてヴェーダ聖典をつくった。vadaは英語のwise、ドイツ語のwissenと語源を同じにする。

 

ガンジス河流域にいた先住民は輪廻思想のもとになる再生思想を有していた。

生長した植物が地に落とした種子はいつのまにか芽をだす。いったんは死んで姿を消すがふたたびそっくりの植物のカタチになってこの世に蘇ってくる。この無限の再生のサイクルがインスピレーションとなった。

 

「リグ・ヴェーダ」は先住民を「色黒・鼻低・吃音」を特徴とする悪魔もしくは悪魔に準ずる人々と記述している。出典?

 

遊牧のアーリヤ人が定住化して農作に転換して、ここにウパニシャッド哲学といわれる革新的な文献に輪廻思想がまとまったかたちとして表記されている。

知識人好みの?「前世の行いが現世の人生を決定する」という新しい思想が付加された。

再生に因果応報が加わった。

 

バラモンの食い扶持

民衆は輪廻の連鎖におびえ、そこから自由を求めた。

なぜ民衆は恐怖を感じたのか?

なぜ? 輪廻の中にいれば安心できないのか? 

戦争や疫病で過酷な現実であったのか?

この輪廻で食べていけることに気づいた。

恐怖に囚われた人々に輪廻からの脱却を保証する救済策をツールとして、人を操り、支配をスムーズにできる。

この輪廻からの解放の指南役、祭儀の取り仕切り役をかってでた。

人を救うと信じることでプライドを養なった。

輪廻を信じる人に対して、輪廻の原因となる「罪業」を浄化するために、祭祀を売り込んだ。

 

 

人が来世についていだく希望や目的は、欲望にもとづいて生じる。    865

釈尊は「輪廻は事実ではなく、欲望が生み出す幻想にすぎない」と宣言することはバラモンにとっては挑戦状である。

 

新興宗教の教祖が選択した苦心の戦術

輪廻への直接攻撃を避けて前提そのものを突き崩す。

民衆の不安は、死後の世界である。

「自己の消滅」に対する恐怖。

「いつまでも生きていたい」「いつかは快適な人生を送りたい」という願望が不安を生み出す。

輪廻が存在するというのは、望ましいこと。

輪廻とは欲望(持続とそれが叶わない恐怖)の産物であり、強迫観念。

 

釈尊の戦術

欲望そのものを根絶やしにする

修行とは祭祀を無用とし、本人だけの力で欲望を解き放つ実践方法。

 

 

仏教の密教

紀元7世紀にヒンドゥー教との融合の中で民間信仰のエネルギーを取り入れつつ台頭した新しい仏教。

いけにえを捧げた。

しかし「サンユッタニカーヤ」経典集(2875の経)では「正しい道を行く聖人たちは、大規模な生贄の場所には足を向けない」とある。

 

迷信嫌い

夢占い、体の特徴、願掛け、土地の相、まじない、天候などの判断を無価値とした 

「ディーガニカーヤ」梵網経

星になんのご利益があるのか。良い娘をめとることこそめでたい星ではないか。「ジャータカ49

 

なぜ仏教圏は近代科学のダイナミックな発達において遅れを取ったのか?

はじめからゴールにいる人間は走る必要を感じないため

 

沐浴に功徳はあるか?

バーフカー河にいつも愚者は飛びこむが、悪い業は浄まらない。  「マッジマニカーヤ」152の経典 不喩経

罪業を浄化するとは「内側を洗うこと」に他ならなかった。

 

合理主義の権化

沐浴によって悪業から自由になるのならば、カメもカエルも罪業をのがれるでしょうに。

「テーリーガーター」尼僧の告白集

 

優雅な倦怠   女性たちの歌や踊りの裏側

ボーディサッタ(ブッダになる前のゴータマシッダールタ)は・・・・・自分の宮殿にあがり、国王用のベッドに横たわった。すると、それをみて、飾り物を身にまとい、踊りや歌などが巧みな天女を思わせるような美女たちが、たちまち様々な楽器を手にしてとり囲み、かれを楽しませようと歌い、踊り、楽器をかなではじめた。

だが、ボーディサッタは、この時にはもうこころが煩悩からぬけでていたので、女たちの振る舞いを楽しむこともなく、眠りについてしまった。

女たちも「あたしたちは、この方に、せっかくおつとめを果たしているのに、この方はさっさと眠ってしまわれた。これ以上やってもくたびれるだけの話だわ。」と、楽器をほうりだして寝てしまった。

ボーディサッタは目が覚めたので、ベッドの上に両足を組んで起き直り、女たちの楽器を散らかして眠りこけている姿を眺めた。ある女は口端から垂らしたよだれで体を濡らし、ある女は歯ぎしりをし、ある女はいびきをかき、ある女はきものをはだけていやらしい陰部を露わにしていた。

ボーディサッタは女たちの打って変わったありさまをみて、ますますじょうよくがうせるのをおぼえた。

「ああ、なんという哀れ、なんという悲惨なことか」と思わず慨嘆の言葉が出て、ただもう出家することに心がかたむいていった。

 

 

 

 

 

 

ミソジニー misogyny とは、女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のこと。

女性の求めるところは男であり、関心を寄せるところは装飾品や化粧心であり、よりどころは子供であり、執着するところは夫を自分だけで独占することであり、究極の目的はかれを支配することである。

「アングッタラニカーヤ」増壱阿含経

 

女性は怒りっぽく嫉妬深いし、物惜しみして愚かだからだ。「アングッタラニカーヤ」増壱阿含経

 

 

ウルヴェーラーUruvelā、音写:優留毘羅   悟りを開いたブッタガヤのこと

ラジャーガハ(マガダ国の首都)の南西にある村で6年間の苦行をした。

 

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苦行

少量の豆汁以外の食物を取らないで毎日を過ごすという修行で、背骨に触ろうとすると腹の皮に指があたった。

「マッジマニカーヤ」 大サッチャカ経

立ったまま暮らす修行、這ったままで歩き回る修行、呼吸を止める修行 「マッジマニカーヤ」 大獅子吼経

 

遠離行  孤独行のことで、一人きりで何日も森にこもる修行法。

独坐と瞑想を捨てることなく、サイの角のようにただ独り歩め。  69   スッタニパータ ヘビの章

 

アブと蚊とヘビと山賊と四足獣の5種類の恐怖におじけづいてはならない。 964  スッタニパータ第四章

 

悟り 解脱 4番目のニッバーナ

「解放」の直後、ブッダは生々しい解放体験の自己点検を通じて、世界把握の方法にまつわる原初的感覚すなわち智慧を得た。

この新鮮な感触を使って、TPOに合わせた具体的な思索を深めていく。

これが縁起の教えという形で定式化された。

数百年後には「空」の理論の最終的な確立にむけて高度に洗練をとげていく。洗練とは堕落に通じる?

 

ためらい

「苦労のあげく私が手にしたさとり。それをいま説く必要がどこにあるというのか?貪りと憎しみにとりつかれた人々が真理(縁起の道理)をさとるのはむつかしい。なぜなら、この真理は、世の中の流れに逆行して、微妙であり、深遠で、(だれにとっても)見ることがむつかしく、微かなものだからだ。欲を貪ることで暗闇にくるまれている人々には、しょせんこのような真理は目にできようもないのだ」「サンユッタニカーヤ」

 

世間は執着(アーラヤ)に楽しんでふけり、しかも嬉しがっている。執着を捨てさり、安らぎの境地を見ることはむつかしく、理解できないであれば、わたしには消耗が残るだけだ。悩みが増えるのがおちだ。

 

衆生の救済とか慈悲に強調される前向きの文句には似つかわしくない、自分のことで頭が一杯の倦怠感に満ちたものだった。

 

悪魔

色香に溢れた悪魔の娘たちからしつこく誘惑される「サンユッタニカーヤ」

ところが、尊師は無上の「生存の素因の破壊」パーリ語では?のうちにあって解脱されていたから気にもとめられなかった。  「ブッダ悪魔との対話」岩波文庫

 

志の達成と楽しいさとりを一人で味わっている。それゆえに、わたしは人々とつき合わない。

 

ニーチェ

「神」という概念は仏教があらわれた時、すでに片付けられていた。  「アンティクリスト」1888

バラモンたちは、祭司が神々より力をもつこと、祭司の力とは祈祷の儀式そのものの中にあることを信じていた。

神は人間の願い事を叶えるための道具、神聖な操り人形の一種であるという見方。

バラモンたちは神々を捨て去った。ブッダはさらに一歩すすめて祭司や仲介人をお払い箱にした。

ブッダは自己救済の宗教の教師の出現である。

 

仏教が生れた可能性   インドの宗教観の転換期

バラモン教の形式主義→「否を唱える者たち」の端境期→ヒンドゥー教の確立

この端境期を作ったのは、ヴェーダの権威の衰退であり、商工業の発達に基づく貨幣経済の飛躍的進化によるインド社会の変質である。

莫大な富は都市生活者の心をわしづかみにし、考えを変え、ついには階層間の秩序意識を揺るがしたのである。

都市に寄生する人たちが生れた。それは都市周辺の農村地帯も含まれる。

光り輝く都市と取り残された農村。

保守派バラモン、すなわち儀式で騙すシステムに満足しない人たちが生れてきた。

 

百家争鳴の「過激主義思想家」

こうして人口密度と変動率が高いところでは新たなグループが生れ、百家争鳴の「過激主義思想家」が流行する。

虚無主義(ナースティカ そうではないと言う人)と呼ばれるこれまでの価値観に異議申し立てする人たちである。正統に反抗する使命を自らに課した「異端」である。

保守派バラモンの威光に翳りがさし、本来の多様性が再活性化した。

 

プーラナ・カッサパ  完全な悪の肯定論  非効果説 「ディーガニカーヤ」沙門果経

奴隷の出身、他人に与える悪に敏感、全裸

殺人、盗み、不倫、嘘は罪悪ではなく、報いも生じない。

施しをしたり、自己に克ち、真実を語っても善ではなく、報いも生じない。

輪廻の因果応報を否定した。

善悪を超えることこそが、修行の目標。

自分にふりかかった不条理な経験をベースにして、そこから「超えた」ところに切実な救済を求めた。

 

アジタ・ケーサカンバリン 唯物論者

人毛を編んだ衣を着ていた。冬に冷たく夏に熱く肌触りも悪く悪臭を放つ。快楽主義者かつ苦行者

肉体が破壊されれば、すべてが消滅する。死後には何も残らない。ただ灰になる。

善悪の報いも一切生じない。

あの世があることを前提にするバラモンを名指しで「空虚なたわごと」と嘲笑した。

 

パクダ・カチャーヤナ  殺人不可能論  唯物論者  無神論者

人間は元素の集合したものである。不動の実体であるので、だれかの頭を刃物で切り落としても、それは殺人ではなく、7つの成分(地水火風と苦・快楽・霊魂)の隙間をただ通過したにすぎない。

霊魂は地水火風と同じレヴェルであり、永遠に持続する物理的実体である。

7つの成分は永遠に生きている。だから殺すことなど不可能なのである。

 

一休宗純 室町の奇槽1394-1481

「身は死ねども魂は死なぬ、は大いなる誤りなり」

 

人は死んだら4つの元素に帰る。人はこれと離れて存在はしない。「一休水鏡」

人は迷いの目で「身は滅びても霊魂は死なない」と見るが、仏も虚空の一部である。すべてのものは虚空に帰るべきものである。「一休骸骨」

仏は説法の時に相手に関心がない場合には、この手の中に良いものがあるよといって近づける。

仏法とは幼児を騙すようなもの、だから方便である。「一休水鏡」

釈尊の教えを全部調べても、聖人になろうなどという心はどこにも見当たらない。経典などは古い暦のように無用なものにすぎない。

 

「能く物を案ずるに、地獄も遠からず。鬼というものは瞿曇なり。一代蔵経は、皆んな人間を痛めんがためなり。

あら憎の釈迦殿や。色々の嘘をつきておいて、それを誰か問えば、「よしなの問わず語りや」・・・・それ仏というものは、有るにもあらず無きにもあらず。悟りぬれば、有りとも無しとも知らぬ事なり。一切8万余経を見るに、仏にならむずらん心は少しもなし。とにかく古暦などと同じことなり。」「一休水鏡」

 

 

あら憎          なんと憎たらしい

よしなの問わず語りや   ただのひとりごとです

知らぬ事なり       関心がなくなる

ならむずらん       なろうとする

 

 

鬼は釈尊(瞿曇(くどん))である。聖人はあってもなくてもよい、と言い放つ。

これは釈尊のもつ、真理への崇拝、ダンマの優位性、プラグマティズムから引き出されたもの。

 

筏の例えのように、束縛されたものから解放をとき、最後にはその教えからも執着せずに放つように戒めた。

 

 

 

永続的な自己  すなわち霊魂の有無

「サンユッタニカーヤ」

ヴァッチャゴッタに永続的な自己はあるのか、ないのかを釈尊に問うたが沈黙していた。

アーナンダが問うと、どちらの答えを出しても彼が混乱するから黙っていたと答えた。

 

無記  第三の道、新機軸。

「ディーガニカーヤ」のポッタパーダ経

宇宙は時間的に有限か無限か?

宇宙は空間的に有限か無限か?

霊魂は時間的に有限か無限か?

霊魂は空間的に有限か無限か?

釈尊は解答を拒んだ。理由はこれらは苦の治療にはなんの関係もない問題だからである。

毒矢のたとえ 「マッジマニカーヤ」マールキヤ経

形而上学的な問いかけは経験的には確かめようがない。要するに初めから答えが出ない問題なのだ。

これらは不可知の領域にあるものなので誰も答えることができないものなのだ。

 

自殺について

「煩悩にまつわる何者にも依存しない者には、動揺がない。動揺がなければ、安息がある。安息があれば生存への執着がない。執着がなくなれば、来るものも去るものもない。生死の問題も消えてなくなる。

なくなれば、この世もなく、あの世も、その中間もない。これがすなわち「苦」の終結である。」

チャンナはわたしの教えに従って、一切の執着を断って死んでいったのだ。

「マッジマニカーヤ」チャンナ教誡経

 

滅びたモノ

「滅びた者については、知るよすがない。・・・・・あらゆるものが絶えたとき、そこに論じる手段がない」

「スッタニパータ」

 

体験できないものについては語らずにまずは体験をする

バラモンの弟子ヴァーセッタが、梵天へと至れるのか問う。

釈迦は、梵天に至ったことがある者がいるのか問う。2人は否定する。釈迦は存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもないと述べる。

 

そして梵天へと至る梵行として、十善戒、六根清浄、正念正智、三衣一鉢による満足、五蓋の除去(五禅支の生成)、四無量心(四梵住)について述べ、それを行う比丘が梵天と共に住み、死後にも梵天へ生じるという。

ディーガニカーヤ 三明経Tevijja-sutta  経蔵長部の第13経。

 

宇宙の始まり、神々、永続的な自己などの議論は不可知の領域なので、あるやないの実体主義的な判断を一貫して控えた。沈黙するという無記の戦略をあみだし行使した。

 

 

現世に焦点を当てる

過去が作る未来の運命をあげつらうことはせずに、「いま・ここ」という処方箋を提示するのが自身の責務であると釈尊は語った。

地獄は単なる喩えであり、目の前にある一局面に対する形容である。

 

清浄な修行者は過ぎ去った過去を思い出して悲しむこともない。未来のことにくよくよすることもない。たざ現在のことだけを暮らしている。だから顔色が明るいのである。   

「サンユッタニカーヤSaṃyutta Nikāya相応部 

 

 

治療の技術

患者にふさわしい処方箋を示す、臨機応変、融通無碍なる「応病与薬」

 

 

不可知論の二重構造

不可知論者ブッダがある種の問題について「ある」「ない」に関する議論を回避すればするほど、では、本心ではどう考えていくるのか?、という真意が人の注意を引き始める。

「知る手段のない世界については語るな」

しかし、「生」とは合理主義の尺度から溢れ出ようとするなにかの謂ではなかったのか?

この「生」を支えるものが、希望(時に不安とも呼ばれる)を根絶やしにすることを、ブッダは命じる。

死後の世界は、仏教ではあってもなくてもよいのだが、かりに「ない」としておいて、そこから始めるのが禅仏教である。

 

不可知であると信じることで自在に、自身の主張を方便として駆使できる。

アジタやパクダの「ある」「ない」に固執する実体主義的判断は「強い」原理主義的決定なので、軟弱王子のブッダのプラグマティズムは真似ができない。

 

 

ナーサディーヤ讃歌

リグ・ベーダの詩人たちが到達した神話的思弁的宇宙論の総決算である。

ナーサディーヤ讃歌は、汎神論的思索の極致。

pantheismの訳語であり、宇宙の諸力・法則が神であり、神の具現したものが宇宙の万物であるという一元論思想は、後世ウパニシャッドにおいて著しい発展した。

 

 

そのとき無もなかった、有もなかった、空界もなかった、それを覆う天もなかった。なにものが活動したのか、だれの庇護のもとに。深くして測るべからざる水は存在したのか。

 

そのとき死もなかった、不死もなかった。夜と昼の標識もなかった。かの唯一なるものは、自力により風なく呼吸した。これよりほかになにものも存在しなかった。

 

宇宙の最初においては暗黒は暗黒に覆われていた。一切宇宙は光明なき水波であった。空虚に覆われ発現しつつあったかの唯一なるものは、熱の威力によって出生した。

 

最初に意欲はかの唯一なるものを現じた。これは思考の第一の種子であった。聖賢たちは熟慮して心に求め、有の連絡を無のうちに発見した。

 

かれらの紐は横に張られた。下方はあったのか、上方はあったのか。はらませるものがあった、威力があった。本来存する力は下に、衝撃力は上に。

 

だれが正しく知る者であるか、だれがここに宣言し得るものであるか。この展開はどこから生じ、どこから来たのか。神々は宇宙の展開より後である。しからば展開がどこから起こったかを、だれが知るであろうか。

 

この展開はどこから起こったのか。かれは創造したのか、あるいは創造しなかったのか。最高天にあって宇宙を監視する者のみなじつにこれを知っている。あるいはかれもまたこれを知らない。

 

「リグ・ヴェーダ」では神々は世界創造の後に出現したと主張する。

 

修行の内容

修行の中でつねに身体を思いつづけて、すべきではないことをせず、すべきことをし、みずからに気をつけている人は、もろもろの汚れから自由になる。 「ウダーナヴァルガ 20Udānavarga

 

尼僧の告白詩集の「テーリーガーターTherigatha」、男僧の「テーラーガータ」

不死、安らぎ、静けさ、不滅なる心の安らぎの境地

不死の境地とは「生死へのとらわれから解放された境地」すなわち安らぎの境地であるニッバーナ、涅槃を言い換えてものである。

 

死体観察の報酬

墓場をねぐらにするカラスどもは、身体に対する愛着からの解放をわたしにもたらしてくれた。599

「テーラーガータ」にあるサンキッチャ長老の告白

 

 

美しい者の死体

壊れやすいカタチあるものの例として使うのが、美しい者の死体の崩れ去ってゆくプロセスと末路。

マッジマニカーヤの大苦蘊経

 

熟練した屠殺人

身体を31に分解して観察して認識する。やがて在家的な記憶と思考がなくなる。

なくなれば、心は安定し、落ち着き、集中してくる。

マッジマニカーヤの念身鏡

 

クソにまみれたヘビ

この身体をクソにまみれたヘビと見立てて正しく避ける人は、煩悩のもとを捨て、汚きものとしてねはんへおもむくだろう。 「テーラーガーター」のカッパ長老

 

内と外という解釈の仕方

「この死体もかつては生身のようだったのであり、(わたしの)この生身もいずれは死体のようになるのだろう」

こう考えて、内にも外にも、身体に対する欲望を離れるべきである。  「スッタニパータ」第一章

 

繋がっていることから離脱する

わたしに死の恐怖などもはや存在しない。また生への執着も存在しない。わたしは気を確かにたもち、落ち着いている。わたしは、身体を捨てるだろう。  「テーラーガーター」20

 

つかの間の集まり  諸行無常

梵天の詠じた詩の一部

「この世における一切の生あるものは、つかのま吹き寄せられた集まりとしての心身を、ついに捨てるだろう」

ディーガニカーヤの大パリニッバーナ経

 

寂滅為楽

カタチづくられたものの寂滅こそが楽しみである。「ディーガニカーヤ」の大パリニッバーナ経

安楽である、安らぎである。

この形作られてものの別訳は「有為」である。

因果関係を通じて生み出される全ての現象にあてはまる。

有為がのちに「憂い」に変形して流布することにより、抒情歌の促進という意味でさらに徹底したものになった。

 

三種浄肉

生き物が自分のために殺されたことを見たり、聞いたり、疑わない時には浄肉として、口にすることが許された。

四分律(梵: Dharmaguptaka-vinaya)上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律

 

そぞろ歩きする釈尊

経行(きんひん)のことで、理由にとらわれなくヴィパッサナー瞑想をしながら歩むこと。

坐禅のさなかに眠気に襲われたり体をほぐす運動が必要になった時には、精舎のそばの空き地などを往復したり、そぞろ歩きを釈尊自身もした

高い台地の物陰で、ブッダがそぞろ歩きをしておられるのを見た。わたしは近づいて敬礼した。

「テーラーガータ480」ソーパーカー長老の詩句

 

死後の霊魂

パーヤーシ王とクマーラ・カッサパとの霊魂(ジーヴァ)の有無に関する対話

「ディーガニカーヤ」のパーヤーシ経

 

対機説法とは多重人格を自己治療する一つの手段?

複数の人格をあやつる対機説法は、「主体の空虚」の病を飼い馴らすブッダにとっての自己治療の一種だったのではないか?

 

サンジャヤ・ベーラッティプッタ  うなぎ論法  正確な論理的記述   同一性はない

「あると思ったら、あると答える。しかし、肯定も否定も考えないし、否定も考えないし、否定を拒否することも考えない。」

韜晦ではなく、真摯な説明をするため

 

ニガンタ・ナータプッタ   条件の明瞭化

話をする時には、ある観点から見ると、という前置きを示さなければ誤解を生む。

ジャイナ教の開祖となる。 マハーヴィーラという尊称。

 

思想についての釈尊の考え  熟慮と省察

「外部の人とつまらない論争に明け暮れる暇があるなら、私の教えをきちんと守り、瞑想していなさい。」

 

意識体の脳は依存症なので、

「一方的に決定した立場によりかかり、みずからの基準で量りつつ、かれらは世間の論争にはげむ。一切の断定を捨てれば、ヒトは争いごとをおこすことはなくなる」    「スッタニパータ第四章」894

 

指導者にできることは、ただ道を説き示すこと

「目的地である安息の境地は存在し、そこへ至る道もあるのに、ある者はそこに至り、あるものは至らない。そのことでわたしになにができましょう?」  「マッジマニカーヤ」のモッガラーナ経

 

ナーガルジュナ 龍樹   空

大僧院そだちの秀才哲学者。

ブッダの縁起説は時間上の関係についてのみ説かれていたが(ある条件のもとABになる)、ナーガルジュナは「空間的側面」を加味したので、ABの相互依存性にスポットライトがあたり、常に変動しているという新鮮なダイナミズムが伝統的な縁起の教えが再活性化した。

これを「空」という。

 

世界とは、  相互依存性のネットワークであり、別の観点からみれば、言葉による構築物である。

生とは、   相互依存性のネットワークと心臓が止まるまで呼吸すること

言語とは、  一時的に設定された「同一性」と「別異性」を交感させることで、この世を解釈するための形式。

 

この世は発話のつどに言語によって構築されるものなので、便宜的な比喩である。

これは古代インドの思索が持った唯名論である。

空は古代インド語でゼロを意味するsuññatā [スンニャター]の漢訳語で、

「固定的で不変な実体を欠くこと」を意味する。

時空間の世界幻影論である。

一瞬であろうと変動をやめない無限の関係の世界で、釈尊でさえも一片の聖なる幻影となりはてる。

 

名前で表現されるあらゆるものは実体を欠いており、「空」である。    「空七十論」

 

 

洗練された爽快な理論であるが、苦の治療薬の実効性は失われた。

世界の実体を剥奪した結果、「輪廻や神」という抽象物をまるで実体でもあるかのように氾濫させた。

 

 

 

 

ブッダは生死をめぐる問題の克服を説いたが、空性論はまず「関係性」からはじまるので、生死の二分法の問題ははじめから解消されている。

また起源や終末を実体化した議論自体を認めない。無限に伸びる「関係」の中では、議論自体が解消されるからである。

「関係」のネットワークでは、二分法や時間的因果が廃棄される。

あらゆるものは単独で実在することはありえず、あくまで関係性の中で成り立つ。

哲学的に言えば、「関係は存在に先立つ」。

そうであれば、霊魂が存在するかどうかを問うのではなく、まず霊魂とどのような関係を結べるかを問わなければいけない。

 

前後の限界というものはなく、世界は幻のように現れる。   「六十頌如理論」

 

 

 

問   いったい、だれがこの世からあの世に行くのか?

答え  原子ほどのものも、この世からあの世へは移らない。

「空なるもの」から「空なるもの」が生じるというだけである    「因縁心論」

 

中観派の哲学者は自らを「名前の対応物(レファラント)として固定的で不変な実体を想定すべきでないと主張する人々」と定義した。

 

わたしは、(実体としての)発生と消滅もないところの関係性(縁起)の教えを説かれたブッダに敬礼する

「中論」の冒頭

しかし、釈尊はそんなことは一言も言っていない。

 

日本では龍樹の「空」は、日本的無常観として理解された。

さくら、あわれ、

 

 

ブッダ最後の旅    大パリニッバーナ経

赤い血がほとばしり、激痛があった。  原典では?

 

「あらゆる形作られたものは無常だ。怠りなく修行にはげむように」これが修行者の最後の言葉だった。

 

 

堕落する出家集団

生活のために出家する修行者    「マッジマニカーヤの無垢経」

 

地獄の登場

スッタニパータ第三章

バラモン教の多数派が維持してきた死後の霊魂、地獄、輪廻などの考え方が方便の名のもとにつぎつぎと取り入れられていった。

無記はかすみ、あながえないものになる。

 

インドにおける仏教の滅亡

1203年 東インドの大寺院の消滅   戦乱とイスラム教徒の侵入

 

実際には密教や大乗などの分化を見てもわかるように、ヒンドゥー教の巧みな宥和攻勢に呑み込まれていった。

ヒンドゥー教の吸収政策の中で、釈尊はヴィシュヌ神の9番目の分身として、任務は「わざと誤った教義を説くことで悪人や悪魔にヴェーダの学習を放棄させ、彼らを破滅に導く」

後に再定義を要求し、仏教の修行を成就したものこそが、真のバラモンと称されるにふさわしいと主張した。

 

 

大乗仏教経典の偽経について

パーリ語経典もサンスクリット経典も「創作性」において両者は五十歩百歩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釈迦伝説2 求道からさとりまで‐

1. ビンビサーラ王との対話

 

 出家して沙門となった釈迦が最初に向かったのは、シャカ族が従属していたコーサラ国をも超える勢力を誇っていた、インド最大の強国マカダ国であった。この国の都ラージャガハ(王舎城、現在はラージギール)は、周囲を五つの山に囲まれた天然の要塞で、当時インド最大の都市でもあった。釈迦は七日でこの都に着いたといわれるが、直線距離でも三百キロ以上離れており、托鉢しながら移動したのであれば、これはかなりの強行日程となる。マカダ国の王はビンビサーラ(ビンバシャラ、頻婆娑羅)王といい、後に釈迦教団最大の後援者となる人物である。

 『スッタニパータ』によると、家臣から城の近くに常人とは思えない雰囲気を纏った修行者が来ていることを伝えられたビンビサーラ王は、自ら城を出るとその修行者(=釈迦)に次のように語りかけたとされている。

 

 「あなたは若くして青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生まれ貴いクシャトリヤのようだ。象の群れを先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受しなさい。私はあなたの生まれを問う。これを告げなさい。」

 「王さま。あちらの雪山の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気をそなえています。姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈サーキャ族〉といいます。王さま。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。もろもろの欲望には患いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです」と。

 

 ここに「つとめはげむために進みましょう。」とあるが、これは「出家」の原語である「パバージャ」の字義である「前におもむく」と同義である。この物語が後の「ジャータカ序」では次のようになる。

 

 王臣たちは、その様子を見てから帰り、王に報告した。王は、使者のことばを聞くと、急いで都から出て、ボーディサッタのところへ行き、その立居ふるまいに喜び信ずるこころをおこしてボーディサッタに一切の主権を譲り渡そうとした。ボーディサッタは、「大王よ、わたしには事物にたいする欲望も汚れたこころの欲望も意味はありません。わたしは最高のさとりを求めて世俗から離れた者となったのです」といわれた。王は、いろいろな仕方で懇請したけれども、これの心を捕らえることができなかったので、「きっと、あなたは仏となられるのでしょう。あなたが仏となられたならば、まずわたしの領国にお出でくださいますように」といった。

 

2. アーラーラ仙人とウッダカ仙人を訪ねる

 ラージャガハを訪れるのと前後して、釈迦は二人の仙人に教えを受けている。一人はアーラーラ・カーラーマという禅定に練達していた仙人で「無所有処」を説いていたとされる。これはジャイナ教が説いている「何も所有しない」という「無所有」とは異なり「あらゆるものには、認識されているような本質的なものなど無い」という認識である。この認識に対して釈迦は次のように述べたとされる。

 

 そのときわたくしはこのように思った、 ― 「この教えは厭離におもむかず、離欲におもむかず、止滅におもむかず、平安におもむかず、英智におもむかず、正覚におもむかず、安らぎにおもむかない。ただ無所有処を獲得し得るのみ」と。そこでわたくしはこの教えを尊重せず、この教えにあきたらず、出て去った。

 

 後世の仏教では迷いの世界を欲界・色界・無色界の三界に分けている。無色界は更に四段階に分けられており、この内二番目にさとりに近い第三天を、この「無所有処」としている。

 次に教えを受けたのがウッダカ・ラーマプッタという仙人で「非想非非想処」を説いていたとされる。「無所有処」が対象の自性を否定するという認識であるのに対して、これは意識作用そのものを否定するという認識である。釈迦はこの認識もさとりとはせず「無所有処」と全く同じ言い方で否定したとされている。この認識は無色界の最もさとりに近い第四天「非想非非想処」とされているが『スッタニパータ』には、次のような釈迦の言葉が残されている。

ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ― このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいておこるからである。

 中村元氏は、この認識が「非想非非想処」であるとして「無所有処」とともに、元々は仏教のさとりに対する認識であると指摘している。初期の仏教では「無所有処」をさとりとしていたが、仏教が思想的に進化をすると「非想非非想処」がさとりとなり、更に進化したアショーカ王以降には「非想非非想処」も迷いの境地とされていったため、それぞれを釈迦の師であった外道の仙人の境地として仏教の中に残したとい考え方である。中村元氏は無色界の残り二つの内、第二天「識無辺処」と第三天「無所有処」の関係を表しているという最古層の経典を引用している。

 

 師(釈迦)は答えた、「ポーサーラよ。すべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来)は、これの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。無所有の成立するものを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、それから〔出て〕それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンには、この〈ありのままに知る智〉が存する」と。

 

 また、無色界の第一天である「空無辺処」を表すと思われる思想も原始仏典にある。

 

 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることができない。

 ここにある「空」は大乗仏教の「空」と同一ではなく「自我に固執する見解」を持つことなくありのままに認識することである。このように、後世の仏教がさとりに対する認識が進化していった過程を「無色界」として定型化していったと考えられる。

 

 

3. 苦行

 釈迦は、二人の師のもとを離れてからウルヴェーラーという場所で苦行に入ったとされる。この時、釈迦の父であるスッドダーナ王の指示により、シャカ族の五人が釈迦の身の回りの世話をしながら共に修行をした。この五人とは、アンニャータ・コンダンニャ(阿若・憍陳如)、パッディヤ(婆提梨迦)、ヴァッパ(婆敷)、マハーナーマ(摩訶摩男)、アッサジ(阿説示)であり、後に五比丘と呼ばれるバラモンである。六年とも七年とも伝えられる苦行によってもさとりを得ることができなかった釈迦は、最後に極めて厳しい断食を行っている。最初は一日に一粒のゴマや米で過ごし、最後は食を断ち、骨と皮だけになったという。この時の釈迦の様子を表した彫刻が、後にガンダーラでいくつも作られることとなる。

 この苦行の結果、釈迦は「それはまるで空中に結び目を作ろうとするような〔徒労の〕歳月であった。かれは、「この難行はさとりにいたる道ではない」と考え、通常の食物をとるために、村や町で托鉢して食物を得られた。」とされる。これを見たシャカ族の五人は釈迦を見限り、釈迦のもとを離れイシパタナ(鹿野苑)に行ってしまう。これ以降、釈迦は苦行を否定したといわれるが、釈迦の教団の中で孤独行や止息行、断食行が全く行われなかったわけではない。ただし、ジャイナ教などのように修行の一つとして義務化されたものではなく、個々の修行者の自由意志で行うことまでも止めなかったという程度である。

 「ジャータカ序」では、このときスジャーターという村娘からミルクがゆを釈迦が供養されたとされているが、仏伝によって娘の名前や物語が違っているため、創作された部分が多いと思われる。ただし、女性の手から供養を受けたということまで否定することはできない。体力を取り戻した釈迦は、バラモン教の習慣に従い、ネーランジャラー河の岸辺にあったスッパティッタという名の沐浴場に入り、サーラ林で休息をとった後、菩提樹の方に歩んでいった。

 

4. 悪魔の攻撃

 菩提樹に向かって釈迦が歩んでいった時の様子を「ジャータカ序」は「竜や夜叉や金翅鳥などが天上の香や花などをもって供養し、天上の合唱がわきおこり、一万の世界が一つの香、一つの花輪、一つの歓呼の声に埋まった。」と伝えている。菩提樹の東側に吉祥草を敷き座った釈迦は「むしろ皮や筋や骨は干からびるがよい。身体の肉や血は干上がるがよい。けれども、正しいさとりを得なければ、この組み合わせた両足を解くまい」という誓願をしている。この時、釈迦がさとりを開くのを阻止するために、魔天子が大軍を率いて攻めてきたと「ジャータカ序」は伝えている。釈迦を守るために神々や竜王が立ちはだかったが、あまりの魔王軍の勢いに、皆逃げ帰ってしまう。魔天子は旋風を起こし多くの町を粉々にしたが、釈迦のところには微風さえも届かなかった。大雨を降らせ大洪水をおこしたが、釈迦の衣を濡らすこともできなかった。噴火した火山を雨のように降らせたが、釈迦の手元に来るとすべて天上の花束になってしまった。刀を煙や焔を噴き上げさせながら雨のように降らせたが、釈迦の手元に来るとすべて天上の花になってしまった。真っ赤に燃えている炭火の雨も、釈迦の手元に来ると天上の花となって散らばった。灼熱の灰を降らせたが、釈迦の手元に来ると栴檀の粉となった。非常に細かな砂の雨も天上の花となり、泥の雨は天上の塗油となって落下した。そこで魔天子は暗闇で釈迦を覆いつくそうとしたが、まるで太陽の光に征服されたかのように暗闇は消え失せてしまった。最後に魔天子自ら武器である円盤を投げつけたが釈迦の花環の天蓋となってしまい、大きな岩山を投げつけても花束になってしまったという。完全に神話化された話ではあるが、この物語の中でも、釈迦は「偉大な人」もしくは「偉大な人間」と書かれており、あくまでも「人」として扱われている。

 「ジャータカ序」では、このように悪魔が釈迦を攻撃しているが、これより古い経典である『スッタニパータ」では断食中の釈迦に対して悪魔は次のように語りかけている。

 

 〔悪魔〕ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、いった、「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそもろもろの善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行ないをし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。〔苦行に〕身をやつれさせたところで、なんになろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人の側に立っていた。

 

 ここに出てくるナムチはヴェーダや叙事詩によく出てくる悪魔であるが、ここではマーラ(殺す者)と呼ばれている。この悪魔が後に「悪しき者(波旬)」となる。この物語の中でナムチが勧めているのは、バラモンとしての生き方である。これは、釈迦の歩みがバラモンの教えに反していたことを表している。この悪魔のことを釈迦は次のように言っている。

 

 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと、強情と、〔第九の軍隊として〕誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉、また〔第十の軍隊として〕自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。ナムチよ。これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。〔勇者は〕うち勝って楽しみを得る。このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか?この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。ある修行者たち・バラモンどもは、この〔汝の軍隊の〕うちに埋没してしまって、すがたが見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

 

 これは釈迦に対する悪魔の誘惑を述べた最古の文章である。悪魔はこの後七年間釈迦に付きまとったが、ついに諦めたという。後世には、悪魔との戦いはさとりを開く間際だけになるが、最初期の仏教は悟りを開いた後にも悪魔との戦いが続いているということになる。これは、後世の仏教ではさとりを開いたものは惑わされ無いということになるのだが、初期仏教では、誘惑との戦い自体が仏の歩みであると考えらえていたためである。

 悪魔との対話には、後の仏教で人々を導く存在としての仏という性格を決定づけるものもある。

 

 〔悪魔はいった、〕「もしそなたが、安穏にして不死にいたる道をさとったのであれば、去れよ。そなたは独りで行け。そなたは、なぜ他人を教え諭さとすのか?」

 〔尊師はいった、〕「彼岸にいたろうとする人々は、不死の境地をたずねる。かれらに問われて、すべての休止した生存の素因のない境地を、われは説く。」

 

 また、悪魔が女性の姿になって釈迦を惑わそうとする「娘たち」という対話もある。

 

 さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちが、悪魔・悪しき者に近づいた。近づいてから、悪魔・悪しき者に詩をもって語りかけた。「お父さま!なぜ、あなたは憂えておられるのですか?いかなる人のことを悲しんでおられるのですか?わたしたちは、その人を愛欲の綱で縛って連れてきて、あなたの支配のもとに置きましょう。 ― 森の象を縛って連れてくるように」と。〔悪魔はいった〕「世に尊敬される人・幸せな人を、愛欲で誘うのは容易ではない。彼は悪魔の領域を脱している。だから、わたしは大いに憂えているのだ。」そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のようにいった、 ― 「修行者さま。わたくしたちは、あなたさまの御足に仕えましょう」と。ところが、尊師は、無上の〈生存の素因の破壊〉のうちにあって解脱されていたから、気にもとめられなかった。さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは傍らに退いて、このように熟考した、 ― 「人人の好むところは、いろいろ異なる。さあわれらはそれぞれ百人ずつ少女のすがたを作りだそう」と。そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちはそれぞれ百人ずつ少女のすがたを作りだして、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のようにいった、 ― 「修行者さま。わたしたちは、あなたさまの御足に仕えましょう」と。ところが、尊師は、無上の〈生存の素因の破壊〉のうちにあって解脱されていたから、気にもとめられなかった。

 

 この後、三人の娘たちは「人人の好むところは、いろいろ異なる。」として少女ではなく「いまだ子を生んだことのない女」、「一たび子を生んだことのある女」、「二たび子を生んだことのある女」、「中年の女」、「熟年の女」となって同じように釈迦を誘惑するが、同じように相手にされなかった。釈迦を惑わすことをあきらめた娘たちは次のように釈迦に問いかける。

 

 傍らに立った悪魔の娘・〈愛執〉は、尊師に詩をもって話しかけた。「あなたは悲しみに沈んで、森のなかで瞑想しているのですか?それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?なにゆえに人々とつき合わないのですか?あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。〔尊師はいった、〕「愛しく快いすがたの軍勢にうち勝って、目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで思っているのです。それゆえにわたしは人々とつき合わないのです。わたしは、だれとも友にならない。」そのとき悪魔の娘・〈不快〉は、尊師に詩をもって語りかけた。「修行僧はこの世で、どのように身を処すこと多くして、五つの激流を渡り、ここに第六の激流をも渡ったのですか?どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。〔尊師はいった、〕「身は軽やかで、心がよく解脱し、迷いの生存を作りだすことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執着することなく、真理を熟知して、思考することなく瞑想し、怒りもせず、〔悪を〕憶いだすこともなく、ものういこともない。このように身を処することの多い修行僧は、この世で五つの激流を渡り、ここに第六の激流までも渡った。このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない。」

 

 女性が釈迦を誘惑する話は『四分律』にも出てくるが、四人の娘が釈迦に心惹かれ、もし釈迦が出家するならば弟子となり、出家しなければ妻妾となろうと言ったというものであり、この段階ではまだ悪魔という設定にはなっていない。

 

5. さとりを開く

 釈迦がさとりを開いたとされるウルヴェーラ−は現在ブッダガヤーと呼ばれている。日本語で菩提樹とされている樹は「アシヴァッタ樹」といい、イチジク属の二十メートル以上にもなる常緑高木である。この樹はバラモン教でも神々の住居(根には宇宙の創造を司る神・ブラフマー、枝には維持・繁栄を受け持つ神・ヴィシュヌ、幹には宇宙の破壊を司る神・シヴァが住むとも、この木自体がヴィシュヌの化身であり、その妃である女神・ラクシュミーが宿るともいう)とされる霊樹であり、不死を観察する場所とされている。釈迦がこの木の下でさとりを開いたことから「正しい悟りの智の木」を意味するボーディ・ドルマ(菩提樹)と呼ばれるようになった。この樹の日本名は印度菩提樹(覚樹、道場樹)といい、日本の寺院にある菩提樹(栄西が宋から持ち帰った中国原産のシナノキ属)とは全くの別種である。菩提樹と呼ばれるものには、他にハーブとして使われているシナノキ属のフユボダイジュ(コバノシナノキ)や、数珠に用いられているホルトノキ科のジュズボダイジュなどがある。アショーカ王時代からそう遠くない頃には、菩提樹の周りに金剛宝座と蓮池が整備されていたことが古い彫刻から見て取れる。

 釈迦のさとりの内容として一般に言われているのが「十二因縁の理」である。

 

 すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。

 

 しかし、この十二因縁はさとりを開いてからしばらく後に観じたともされており、さとりとの間に本質的な連関はない。十二因縁自体が原始仏教でもかなり遅い時期に成立していることも分かっている。釈迦のさとりは言語化し得ないものであったようで「わたくしは・・〔眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能の生起と消滅と耽溺と患いと出離とを如実に〕証知したがゆえに〈さとりを開いた〉と称した。」という言葉によるしかない。または「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏」に至ったという事実だけである。中村元氏も「仏教そのものには特定の教義というものがない」と示唆している。これは「対機説法」といい、釈迦が相手に応じて異なった説法をしていることからも分かる。これは思想がないということではない。「如実にありのままの世界を証知して、無上の安穏に至る」ことがさとりであり、そのために「実践的存在としての人間の理法」を体得するする必要がある。ただそのための方法(教義)は、その人に応じたものであればよいということである。この考え方は、釈迦入滅後に大きな混乱をもたらす要因にもなるが、仏教発展の基本的な考え方ともなり、仏教には人の種類な数だけ教えがあるという「八万四千法門」という発想の根拠ともなっている。