ヒトの中にいる4人のプレイヤー(自分)とプラス1 

The theory of 4 players in the man      

 

ヒトの中にはたくさんの自分がいる。

これを大きく分けると次のタイプになる。

体で生きる者、心で生きる者、頭で生きる者、観ることで生きる者の4つだ。

すなわち、本能で生きる者、情感で生きる者、理性で生きる者、これらを観てバランスで生きる者だ。

4番目の観る者と言われると難しくなるけれど、なんてことはない、これを読んでいるあなたのことです。自意識、自己、自我、主体とも呼ばれています。日常会話では自分とはこの自己のことだが、このエッセイでは、それ以外の体、心、頭にも別の自分がいるというメタファーを使っています。

よくコミックなどで自分の中にいる悪魔と天使が喧嘩して、結局は悪魔の意見に従ってしまう、なんていうのがあるでしょう? 実はあの二人以外にも奥深いところで、心のプレイヤーと体のプレイヤーもいるんだよ、そして彼らが私たちの行動をコントロールしているんだよ、というお話です。

4人のプレイヤーには得意不得意、出来ること出来ない事があり、この4つのグループは生きるための価値観が違います。

それぞれの特徴を知って一緒になるのが彼らとうまくやっていくコツです。

プラス1つとは自分の意識がなくなってしまう状態のことです。座禅したり、瞑想したり、祈祷したりして変性意識状態になり、4番目の観る者が溶けてしまう状態のことです。

 

この中でみんながあまり意識していないのが、体と心です。例えば歌を聴いたら涙が流れていたことなんかありませんか?意識をして涙を流したわけでもないのに、感動している自分がいます。これはどのようなメカニズムからなるんでしょうか?それには無意識・潜在意識・深層意識・非意識の世界を知る必要があります。

このエッセイでは、

本能が勝手にやっていること、

情感が無意識のうちに判断をしていること、

理性ができないことまでやってしまっていること、

観ている者が「裸の王様」になっていること、

などいつもは意識していないことにスポットライトを当ててみます。

すると、これを読み進めると、以下の不思議だったヒトの行動の理由やメカニズムがわかってきます。

 

意識していないのに答えを出して行動している? 日常生活は無意識の中で行われている?

悟性・理性・知性は考えるだけで判断はできない? 意思決定は理性ではできない?

価値判断をしているのは情感を司る大脳辺縁系!  価値判断は危険かそうじゃないかの二つしかない?

人生とは言い訳である? 大脳皮質が後付けする理由  理性は感情をコントロールできない?

行動が起きた後に感情が生じて、その後に頭は何が起こったのかやっとわかる?

意識がなくても生きていける?

動機がないとなんにも行動できない?

自由意思って実はなかったの?すべては生命の法則のために?

雑念がアイディアを生む秘密?

価値観が欲求を決めている?  価値観をつくれば好きな欲求が向こうからやって来る。

意識がくだした評価を信じなければ無我の境地へ行ける?

常に幸せである方法とは?

 

以上のことに関心がある方がこの続きを読むと、少しでも腑に落ちることがあることを願ってこれを書きます。

 

ここではまず全体の関係と特徴を図にして解りやすくしておこう。

ここから先は時々、外国語を交えて話を進めていきます。情動や感情や理性などの言葉を扱うときは、定義の問題、生活の中で使っている意味の問題、習慣の問題、訳語の問題、漢字の語源の影響力の問題が一度に絡んできてしまうからです。

ここでは英語(ギリシャ語・ラテン語)を使うことによって、その単語の持つ問題を一歩離れてみる視点を得ることができます。

英語圏の人は母国語になってしまってどうしようもないので、できれば自分の赤ちゃんと話すときに使う言葉に置き換えてみてください。これはかなりの知性と意思疎通能力が求められるチャレンジです。

 

 

 

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直線的思考    

生命体

学習

感性・理性

機能

人の身体では

行動

意識

反射・思考

ウイルス

反射

反射

反射・走性

 

本能行動

非意識行動

無条件反射

 

刺胞動物 

クラゲ 珊瑚

非学習

反射

反射・走性

無腸

 

反射意識

 

原索動物・ホヤ

非学習

反射

反射・走性

腸・神経管

 

反射意識

 

節足動物・アリ

学習

感性?

パタン認識

心臓・神経管

情動行動

集団意識

 

有肺類

カタツムリ

学習

感性?

パタン認識

肺・神経管

 

体意識

 

脊髄動物

学習

感情

パタン認識

脳幹〜脊髄

大脳辺縁系

旧皮質

 

条件反射

意識行動

 

学習・条件反射

魚類

学習

悟性

パタン認識

古皮質

 

意識行動

 

爬虫類

学習

悟性

パタン認識

原皮質

 

意識行動

 

哺乳類

学習

理性・知性

計画行動

未来予測

新皮質

理性行動

意識行動

観念

人間

学習

コギト・観察者

ネオトニー

全体

智性行動

意識行動

概念

動物の進化系統図  脳のない動物 肺のない動物 心臓のない動物

 

 

 

よく知らないことを友人と話し合うときに、私たちは「たとえ」をよく使います。お互いの文化や経験が違うので、両方に通じるモデルがあると、そこから未知のものを察するに便利だからです。

今回は、体・感情・頭・自分を説明する時に、脳機能学を用いてみることにしました。

脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質、そしてこれらをモニターする機能の4つです。

 

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脳の発生

カンブリア紀に生まれた動物の多くは、神経細胞が集合して節や管となり、この神経管が発達して脳になった。ホヤの幼生に似たプランクトンやミミズもアリも神経組織を持っているので、原始的な脳を持っています。中空の神経管は長さは2mmほどでホヤでも人間でも同じです。その後は脊椎動物の脳の「発生」は、前脳、中脳、後脳の発達から始まり、後脳からは小脳と橋が形成され、脊髄の先端が肥大化して延髄となる。

 

この延髄、橋、中脳、間脳 を総称してして 脳幹(”生命脳”)と呼ぶ。これらは、脊椎動物に共通する部分で、呼吸、循環、消化、睡眠などの生命活動を司る部分である。

 

知っている方に質問です。

脳幹が死ぬと人は死ぬのでしょうか?もしかしたら脊髄が機能していれば脳幹が死んでもヒトはある期間は生きているのではないでしょうか?

例 頭を切ってもしばらくは走ることができる鶏、

体を三分割しても再生する「プラナリア」という生物

 

間脳の視床下部には、食欲、性欲の中枢があり、その付近には攻撃性と逃避性の中枢がある。好きならば近づき、嫌いならば遠ざかることを選択します。(本能的な欲求) また、視床下部は、循環器、呼吸器、消化器、瞳孔、涙腺などの働きを自動コントロールする 自律神経の中枢でもある。

 

脊椎動物の脳を比較すると

A     魚類では、水中での運動機能をつかさどる脳の後ろの部分(小脳・運動脳)のみが発達している。

A 両生類・爬虫類では、小脳が魚類よりも小さく、脳幹と 大脳基底核の部分が脳の大部分を占めるようになる。大脳基底核(動物脳・いわゆる”ワニの脳”)は、本能的な情動(原始的な感情)をつかさどると同時に、無意識の時の手足の運動や姿勢の安定に深くかかわっている。

B 鳥類では、小脳がよく発達していると共に、この大脳基底核が運動の最高中枢として働いている。大脳基底核は、運動の”自動安定装置”であり、大脳がそれほど発達していない鳥類が空中での微妙な運動をよくコントロールしている理由であるといわれる。

B     哺乳類になると、後脳から発生した橋(きょう)が形成され、大脳の新皮質が大きく発達し、高等な哺乳類になると、学習や記憶や推量や論理や可能性(未来)の計画を担う 大脳皮質(旧皮質、古皮質、新皮質)が発達する。それにより、嗅覚以外に視覚や聴覚などの情報を取り込むことができるようになった。

 

ヒトの脳    動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト属

ヒトの脳も、発生の初期には、ホヤの幼生と同じ ”神経管”から始まる。ヒトの脳は、妊娠30日程度で、脳の原型となる”原基”がほぼできあがる。細胞分裂を繰り返していくと、外胚葉から”神経板”という細胞の集団が作られ、その内側がくぼんで 一本の”神経管”(直径0.1mm以下)ができあがる。 次に、神経管の前部(大脳へ発達)、中央部、後部(小脳へ発達)がそれぞれ別々に細胞分裂してふくらみ、形が湾曲して、ヒトが二本足で歩行するのに適した形となる。(cf. 魚類では細長いまま)妊娠50日ほどになると、前脳の細胞分裂が活発になり、左右一対の大脳半球が形作られる。妊娠70日頃には、大脳皮質のシワや溝ができ、妊娠9ヶ月には、大人の脳とほぼ同じ原型ができあがり、最終的には、脳全体で千数百個以上、大脳皮質で140億個もの神経細胞をもつ巨大な脳が完成する。この数は、ほとんどヒトの大人の脳細胞と同数である。

類人猿と比べるとヒト属は脳は3倍の大きさに変化した。何が大脳皮質の発達を促したのだろうか?

この爆発的拡大が、視覚・聴覚・手指を発達させ、その隣の部分の顔面筋・口・舌にも影響を与え、その回りの運動性言語中枢(ブローカ野)を発達させ、200万年前のホモ・ハビリスの時代には、言葉を話して自分以外の人に自分の考えをそのまま伝える能力が出現した。

 

Cf. 胎内のことはまだデータが少ないが、出生後に神経細胞相互の連関ができあがっていく。脳の神経細胞は出生後、ほとんど増殖せず、20歳を過ぎると10万個/日減少し、80歳まで生きるとして約22億個が死滅する。と言っても、まだ80%以上である120億個の神経細胞が生きている。また、老齢になっても経験を積むことで神経細胞相互の連関が出来上がっていくことにより、脳は成長をし続ける可能である。また、細胞の「可塑性」という機能により、無くなった神経細胞の近くの他の細胞が代替をするように働く。二足歩行を始めて道具を使うようになったためだという仮説はあるが、実際には道具の利用の進歩がない間にも大きくなっていることが分かっている。今は社会性を原因にする仮説が有力で、集団のメンバーが大きいほどその生物の大脳皮質が大きくなる傾向があるというのだ。しかしカビをはじめとした微生物や集団のイナゴや蟻や数万匹の魚の集団など、直接に個体数と神経管の発達の相関関係が結びつかないことも多い。

 

脳の機能

脳はモデルを作る機械です。これで他者を理解することができるようになります。

有用なバーチャル・リアリティをシミュレーションする箱と言ってもいいでしょう。他者の心のモデルを自分の脳の中で構築できると、他者の行動を予測できます。これが「他者の心の理論」です。そしてより正確に予測するためには、TPOを考慮して、他者(他人・物質・自然・宇宙)の属している世界、経験、記憶、条件反射、人格特性、能力の有無と限界も加味します。

 

脳機能学から見た分類

「本能行動:脳幹〜脊髄」(無条件反射)本能行動(無意識行動)「生物的価値観」

「情動行動:大脳辺縁系」(情動反応) 学習行動(無意識行動)「情動的価値観」 

「理性行動:大脳新皮質」(認知・思考)学習行動(意識行動)「論理的価値観」未来の結果を予測した計画行動

「観察行動」      主格、コギト  観念をモニターするもの  観念から概念や法則を生みだす能力   

 

 

脳から見た思考法

行動

脳内

機能

意識

反射・走行

行動

価値観

本能

脳幹

消化、呼吸

無意識

無条件反射

本能

生理

情動

大脳辺縁系

感情

無意識

条件反射

学習 判断

情動

理性

大脳皮質

記憶 思考

意識

分類の反射

学習 推論

論理・理性

観察

各部関係性

主体の観察

意識

意識の反射

自己意識

バランス

 

 

できる事

役割

精神分析学

身体論

フロイト心理学

認識

脳幹

生命維持

反射

肉体

腸・体

エス 本能

感性

大脳辺縁系

感情

判断

潜在意識

自我(快・不快)

感性

大脳皮質

予測・推論

計画・理由

意識

自我(損・得)

理性

観る者・主体

観察・概念

統合

精神

超自我

知性・智性

 

 

機能

感情

行動

頭葉

時間

意識階層

脳幹

無条件反射

安定

汗・震え 寝返り

後頭葉 視覚

瞬間

深層意識

大脳辺縁系

快・不快

不安・恐怖

夢・白昼夢

頭頂葉 聴覚 記憶

中間意識

大脳皮質

推定

喜び・楽しい

計画

側頭葉  分析

未来計画

表層意識

観る者・主体

概念化

平静

理想・現実

前頭葉 思考 統合

過今未

自己意識

 

ここにプラス1である「あの世」(非意識)が加わると、4番目の「観る者」の認識が知性(理性)に智性・霊魂性が加わり、それに伴い、価値観が理想主義だけではなく自然観(全体性の中での価値観・宇宙観・カミとの関係)が加わります。

 

脳からみた4つの視点

脳幹the brain stem  生命維持機能  心拍や呼吸や血流や内臓運動

無条件反射 「反射」「走性」 遺伝的に定められた反応によって構成される生得的行動

「意識にも心とも無関係で遺伝的なプログラムに無条件で従うもの」

深層意識の領域です。

 

辺縁系limbic system:情動反応  大脳皮質で処理される知覚や認知情報に対して判定

身体内外で起こるあらゆる環境の変化に生物学的な利益・不利益の判定を下す

摂食反応や性的行動や情動の発現の恐れ,怒り,不安,抑鬱(よくうつ),温和化,行動活発化と深い関連。

短期記憶や情動の発現の場であると考えられる

「心の動きに従うもの」

視床下部hypothalamus:情動性自律反応  知覚や認知情報に対しても判定の結果である「情動反応」を生理的な変化に転換   嬉しい、悔しいといった、感情に伴う反応は全てこの経路によって身体に表出される。

辺縁系は系統発生的に大脳皮質よりも歴史が古く、学者からはしばしば原始的なものとみなされますが、人間においては理性(大脳皮質)と同じくらいに高度です。例えば、謙遜、傲慢、慈悲、欲望、自己憐憫の涙です。

中間意識の領域です。

 

大脳皮質the cerebral cortex :「感覚・知覚」「認知・思考」「学習・記憶」 悟性、理性、知性

Understanding  分類  悟性、カントの言うVerstandes 

Rationality   情動を活かす能力 比べる  理由付け 推論  矛盾のない関係 Vernunft

Intellect     本能を活かす能力 新たな基準と考え方  新たな関係性を構築  

大脳皮質は「今現在の状況」と「過去の学習記憶」を基に論理的に矛盾のない「未来の結果」を予測。

この認知結果に応じて実行される計画行動が即ち理性行動

 

この大脳皮質の活動を表層意識と呼ぶことにします。そして、この意識を図にすると凹です。そう「穴」の形です。

Description: Description: 「blastopore」の画像検索結果

 

観る者

「大脳皮質が活動し、外部入力を制御すると自己意識が立ち上がってくる」

この意識こそが観る者のことだ。

自我、自意識、主体のことで、これを書いている「わたし」、読んでいる「あなた」のことです。

この「観る」ことによってはじめて、世界が生まれてきます。変化します。観る者がいないと意識のドラマは始まりません。

これにプラス1である「あの世」が加わると、大脳皮質にも観る者にも影響がおよび、大脳皮質は矛盾を含めた世界観が加わることで、未来の予測も変化することになります。

Intellectは日本語では知性と訳されますが、この単語は18世紀から定義が変わってしまいました。そこで矛盾のない世界を認識する能力を知性(現代の一般的な使われ方)、矛盾を含んだ世界を認識する能力を智性とこのエッセイでは呼ぶことにします。

観る者を図にすると、上図にある凹の上の部分がくっついてしまって、閉じて○になった状態です。

ゲームや本や空想や何かを考察している時って、外からの情報(五官からの電気刺激)を無意識のうちに制御しているでしょう?この時に自己意識である観る者が活躍しているときです。入り口を閉じることによって意識が自己意識に変化するのです。そしてこの入口を再び開けると、自己意識は中断されて消え去り、表層意識によって運営されます。

 

 

4つの視点の関係性

ヒトには悩んだり、考えたり、悲しくなったり、なにをするか決めたり、知らないうちに眼ばたきをしたりしています。どれもなにかのルールに基づいて反応しているように思えます。またこれらは体のどこの部位と関係して、そこでどんなことが起きているのでしょうか?

はじめの二つである体と心は意識がなくても働いているので、普段は自覚していない視点です。あとの二つは意識している時に働くので自覚することができる視点です。

このエッセイを読んだ後には、はじめの二つの性質にもだんだんと「わたし」の方から寄り添っていくのも楽しいのではないかな?というのがこのセオリーでこのエッセイの真の目的です。 

そんなに難しいことではありません。腹の音がなったら、体と心に何が食べたいのを聞いて、台所の材料の様子を見て、調理時間のことを計算しながら、料理する、ということです。こうして4つの世界が関係性を持つのです。 もうお昼の12時だからビタミンの多くてカロリーが少ない冷凍食品を電子レジでチンする、という頭に頼りすぎた暮らし方から、心や体や材料(周囲のモノ=「他」)の気持ちを取り入れた暮らし方へのステップでもあります。

 

情報と脳

ヒトは生命維持行動、感情判断行動、予測論理行動、これらを観るという行動とそれぞれの役割をこなして生きています。体外や体内から来る情報は並列で次の4つのパートで処理されます。脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質、自己(自我・主体・わたし)です。自己とは特定の脳の部位にあるのではなく、各部位の間で関係があった時に立ち上がってくる意識であり、特に上の図でみたように、上部が閉じられた時にできる空間のことで、これによって、自己意識が中心になって認識できた情報をコントロールします。

 

なにか体の外から刺激があったとしましょう。すると、まずはじめに無意識の生命維持と感情判断のパートが自動的に反応します。これでも上手くいかない時には、予測論理のパートが反応すると意識が立ち上がってきて、やっと観察のパートが現れ出ます。この観察者が主体とか自己とか呼ばれている自分です。ここでは、これを読んでくれている「あなた」です。

「あなた」とつながるまでに実はもう3つのパートと活動していたのです。

生命維持   紙(PC画面)が急に目に近ずいたので、眼ばたきをしてしまった。

感情判断   日本語でよかった、でも単語が多くて面倒くさそうで嫌い、でも解説がわかり易そうで好き 

予測論理   大脳皮質と大脳辺縁系の共通性と違いとは何だろう?

観察交信   これを読んでくれているあなたの感想

 

日常会話で、「わたし」を「体と心と頭と自己」の役割に分けて話すことありませんが、

体とは、生物学でいう脳幹と脊髄に入出力される神経信号が繋がって双方向で反応するもの。

心とは、脳機能学でいうと、大脳辺縁系で行われる処理のことをいいます。

頭とは、脳みそのことで、解剖学的には大脳皮質のことで、理性行動で分析予測をします。

自己とは、比喩で言うと意識を閉じ込めた時にできる空間のことで、「わたし」や「あなた」と呼ばれる自我のことです。

 

こうやって分けることによって、今まで気がつかなかったことが色々とわかってきます。では少しずつゆっくりと始めてみましょう。

 

まずはじめに「ココロ」ですが、

これは漢字で書くと心、情、意とあるように、ココロにはいろいろな意味があります。これほど文脈によって意味が変わる語句もないでしょう。「心と体」「心と頭」「心と意識」というように、対比させるもので定義が変わっていきます。また全体性の中では、同じ「ココロ」でも感情(感性)、情緒(理性)、同化(智性)、一心同体(霊魂性)と深度によって、定義が異なります。

「ココロ」とは、二つの違いがあるところに立ち顕れる「架け橋」のことです。感性のココロは環境と体の間に、理性のココロは体と意識の間に、智性のココロは意識と魂の間に、魂性のココロは魂と霊の間のように。

このエッセイで使う「心」は脳機能学では大脳辺縁系にあたり、意識の一部だけではなく、主に意識になる前の中間意識の領域に顕れるものとして扱います。深層意識と表層意識の間にある領域です。

感情を生み出す情感の働きのことです。

特徴は「部分」で識別するのではなく、全体の中での流れと加速度にスポットライトを当てる役割です。

ちょうど波のように山や谷の流れのリズムを認識します。体全体で脈打つ循環器系の役割です。

またもう一つの特徴は、大脳辺縁系と小脳で処理が行われている条件反射です。あの、梅干を見たら唾が湧いてくる世界のことです。

これに対して日常生活で使っている「こころ」とは、その人が意識がある時に、差異を見つけその間の架け橋となる力のことで、大脳皮質で処理が行われているマインドのことで、深層意識や中間意識の世界を含まないのが一般的です。

この二つには大きな違いがあるので、これだけは注意をして読み進んでください。

 

頭に頼ってはいられない理由

日常会話で「頭」と言った場合は、その人の大脳皮質の機能をさし、悟性、理性、知性、智性を司ります。私たちはこの頭によって暮らしていますが、この頭をかなり信用しすぎてはいませんか?

この脳の感覚とはかなりいい加減なものなので、誤解と勘違いを勝手によくしてしまい、私たちはそれに気がつかず暮らしています。

 

論理と実験と法則で積み重ねられた客観的科学ならば大丈夫だと思うかもしれませんが、どこにスポットライトを当てるか(枠・フレーム)で、実験結果が変わるので、客観性があっても条件が変わることで、数年に一度は前のデータが全否定されたり、実験方法そのものが誘導的であったり、ニュートンの法則のようにある条件のもとでしか正しくなかったりします。

 

と書いても、頭に対しての信頼は揺るがないと思いますので、具体例を見てみましょう。

ではここで錯覚の問題です。 ABではどちらの方が色が濃いと思いますか?

こう聞かれたら答えはもう想像できますよね。

 

 

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視覚は目から光として入り、電気エネルギーに変換されて、後頭部に至り、それが頭の上部に向かうwhere経路とも呼ばれ、運動や物体の位置や眼の制御を行う働きと、

耳の奥にある側頭葉へと向かうwhat経路とも呼ばれ、視覚対象の認識や意識にのぼる映像や長期記憶の働きを担う二つの経路があると推定されています。

上の図を見たときに、ABを比較しようと認識する時は、Bが周囲に比べて暗いので、意識した覚えはないのに、実は脳が勝手に自動的に明るく調整してしまっています。ところがそれに自我は気がついていないのです。

我々の脳は高性能過ぎるので、遠近感や陰影など、これまでの経験に基づいて無意識的に状況を推測してしまうのです。これは、一瞬で全体像を把握しようとする、人間の本能的な危険察知能力の一つです。

ポイントは意識をもって判断しているのではなく、無意識で判断が行われてしまっているということです。

 

Description: checkershadow2

 

 

 

「強い刺激が周囲にあると、同種の弱い刺激はいっそう弱く知覚される。周囲に同種の強い刺激がなければ、弱い刺激でも十分な強度で受け取られる」ということが視知覚の基本法則の一つがあります。これも無意識の学習と本能です。

格子錯視は、低輝度や低輝度コントラストがあると脳内処理時間が長くかかってしまい、不鮮明なものを鮮明に認知しようとする高度な視覚の機能のためにおきてしまう錯覚なのです。

Description: HermanGrid

図のような格子状の模様のことで、白の交差点の部分が灰色あるいは、やや影になったように見えます。

このような錯視は、視覚のエラーではなく、生活がしやすいように、脳が自動的に色調、コントラストの違いなどを調整してものをよく見ようとする無意識の働きです。

また、細かい模様や色を正確に認知出来ない事による錯覚もありますが、これは、細かな一つ一つにこだわるよりも全体像で捉える事の方を優先させている為です。この無意識の能力のおかげで、ラッシュ時でも、我々はその1人1人を確認はしませんが、全体の動きを推測して、人にぶつからないように歩く事が出来ます。

また、自分の採った行動を後から意識が勝手に理由づけているという実験で以下のようなものもあります。

Richard Nisbettは、デパートで四組の同じナイロンのストッキングを台にのせ、通りかかった客に一番気に入ったストッキングを選ぶ実験をしました。すると、一番右側の商品が他の4倍の割合で選択されました。客に選んだ理由を聞くと、感触や質やデザインなどのクオリティの理由を上げました。実際には強い位置効果の結果であるのにかかわらずです。この実験でもわかることはヒトが内面的な過程について言語化する時に、後から理由を探して合理化し、真の理由に言及できない事が多々あることを証明しています。

これらの無意識行動を意識のもとでコントロールしているんだと信じ込みたいのが頭です。そして後から無意識行動の結果に言い訳のような理由付けをして、頭自身を納得させています。

 

判断しているのでは頭ではなく心

実は、頭で判断するように、ヒトの体は造られていません。

「大脳皮質には意思決定の機能はない」と言うと、首を傾げると思いますが、実はこれが脳機能学でも確認されたヒトの脳の仕組みです。どういうことかと言うと、大脳皮質は最も高度な情報処理を行う脳機能の最上位中枢であることに間違いないのですが、ここで如何に知的で論理的な判断が行われようとも、辺縁系の情動反応が危険かどうか、快かどうか、好き嫌い、やりたいやりたくないの判定を下さない限り、実際にはそれが行動に移されることはないからです。

行動とは目的を達成するために選択されるものです。思考や想像では行動選択の動機が成立しないのです。行動に必要なのは心の情動判定なのです。

なんでも意識で判断していると思っている人が多いので、具体例を挙げてみましょう。

急に大きな音がして驚いた時               意識して体がビクッとしましたか?

緊張してまばたきをした時                意識して目を閉じる回数を決めていましたか?

思い切って走った後に立ち止まった時           意識して呼吸を速くしましたか?

自信なく話しながらクセで手を口の前に置く時       意識して手で口を隠しているのか?

布団の中で夢を見た時                  意識して夢を見ようとしましたか?

チャイムが鳴ったので玄関に行った時           意識して右足から動かしましたか?

曲が流れてきて、涙が流れていることに気がついた時    意識して悲しくなって涙を流しましたか?

音楽を聴き運転をして、目の前の車が急に停まった時    意識してブレーキを3センチほど踏みましたか?

隣の友人が大きくあくびをした時             意識してあくびをしてしまいましたか?

テレビを見ながら、机の上にある水を飲んでいる時     意識して飲みましたが?

他の例があれば教えてください、良い例に変えていきたいと思います。

 

意識とは無意識の上に浮かぶ氷山の一角でしかありません。殆どのことが意識下のもとで行われています。

この世にいるために大事なことは体のレベルで十分です。しかしそれでも足りない時には心のレベルが対応します。そしてそれでも追いつかない時にはじめて頭のレベルが出動するわけです。言ってみれば「緊急事態」が起きた時の切り札として意識があるのです。この時は緊張状態にあるので、体にはいろいろと無理がかかってしまいます。緊急事態でない時は、意識を休めてあげるのが、ヒトをはじめとした生命体の自然体です。

 

情動を司る脳は単純で、二つ(オンかオフ)の判断しかしない。

二つしかない理由は、電気刺激がニューロンに流れるか、もしくは流れないかのどちらかしかないからです。例えば危ない状況に心が対応すると緊張するスイッチがオンになります。心が対応しないとスイッチはオフのままで、体は弛緩したままです。

情動を司る脳は大脳辺縁系と呼ばれ脳の真ん中あたりにあり、その脳細胞に電気が流れると、体に反応するように指令を出します。この電流は刺激とも呼ばれます。またもっと一般化(抽象度を上げると)すると情報とも呼ばれます。

大脳辺縁系の範囲は研究者によって異なります。旧皮質と古皮質の二つをして大脳辺縁系と定義もありますが、ここでは特に旧皮質を大脳辺縁系と定義します。旧皮質は海馬、扁桃体、帯状回等から構成されており、また視床下部も含めます。

大脳辺縁系は喜怒哀楽、恐怖、不安、興奮等の感情を生成する情動脳であり、また自律神経系の機能を司ります。大脳辺縁系は入力された外部からの情報を、これまでに蓄積された記憶を基幹にして、それが快か不快か、(危険・安全、興奮・安心)ということを瞬時に判断します。

 

ではどのようにして判断するのか、それは感情・感覚を生成することで判断します。生成するとは刺激(情報)

と行動を結びつける回路をつくり二つを繋げることを意味します。因果関係のパターンを作って、スイッチが入れば自動的に反応できるようにすることです。人はこれを学習と呼びます。条件反射の回路を作ることです。

例えば「這い這い」ができるようになった赤ちゃんにとって、ヤカンが危険な存在になることがあります。熱いヤカンにぶつかって火傷をしたりすると、それが学習され、次からはヤカンは危険な存在として記憶されます。

次から赤ちゃんがヤカンを見ると大脳辺縁系がアドレナリンの分泌を命じ、恐怖の感情を生みます。分析的な思考を担当する大脳新皮質が働く前に、大脳辺縁系が働きます。この状況が危険なものである、ということを迅速に教えてくれるのは、大脳辺縁系です。人間の判断というものは理屈よりも情動が先行する一つの例です。

例えばまだ熱いヤカンに触れたことのない赤ちゃんは、ヤカンに近づいても何の恐怖感・不安感も感じません。しかし、火傷の体験をすると、それをパターンで学習して、条件反射で行動できるように無意識で自動的にしてしまいます。すると、ヤカンに近づかなくなるので火傷に繋がる事故を回避することができます。

メリットは判断と行動が素早いこと、そして自動的にやってくれることです。この機能は本当に便利です、しかし便利なものは同時に、便利ではないことも生み出してしまいます。すると当然としてデメリットも増えてしまいます。この情動に従って行動するパターンが硬直化させたものが、神経症やPTSDです。あるインプット(入力・情報)があると、状況や条件にもかかわらず、決まったアウトプットである恐怖感・不安感に固定化された状態が続いてしまいます。

さっきの例えで言うと、赤ちゃんがヤカンを見るとそこを避けて這い這いすることです。確かに熱いヤカンを避けるのは危険性を回避することで価値ある行動ですが、冷たい水の入ったヤカンまでも回避するのは無駄なことになってしまいます。ある条件下で生成した回路を他の条件でも利用すると、時により不都合なことも起きてしまうわけです。

大脳辺縁系が鳴らす生存の警報が、危機的状況が去った後でも、ずっと鳴り響いている状態です。

状況が変化していてもそれに対応せず、一つの情報に対して作った回路だけをどの状況でも使ってしまい、このパターンを固定化させてしまったことから起きる問題です。

 

意思で行動した、と勘違いをする大脳皮質   後から理由を付けるわけ

私たちの日常生活は、そのほとんどが情動行動という無意識行動によって占められており、大脳皮質の判断によって行われる意識行動の比率はほんの僅かでしかありません。にも拘らず、あとからそれが意識行動だったと主張するのが、大脳皮質の特徴です。

日常生活が無意識行動でも滞りなく成立するのは、それはあれこれ考えなくても大概のことはできてしまうからです。この判断は大脳辺縁系に学習された過去の体験結果に基づく心の動きによって下されています。

例えば、テレビを見ながらテーブルの上に置かれたコップに手を伸ばしてお茶を少し飲む、この程度の作業ならば無意識行動で十分可能です。ですが、大脳皮質はこの行動選択の結果を基にして、「コップを取ったのはお茶を飲みたかったからだ」などと後からあれこれと理由付けを行ないます。この意識が記憶に残りますので、我々は自分の行動は自分の意志によってコントロールしているという錯覚を持つわけですが、実際にはほとんどが無意識行動であり、ドアを開けるときに「ノブは右に回す」などと意識している人はまずいません。これを「情動の原因帰結」Emotional cause and resultといいます。電気が流れたのは大脳皮質ではなく大脳辺縁系だったので、理由付けをするために後から大脳皮質に電流を流して、4人目のプレイヤーである「観る者」は意識の下で行動したと錯覚しているわけです。

 

無意識で行動している理由

「情動の原因帰結」は、意識を発生させる大脳皮質とは違い、情動反応を自動的に発生させる大脳辺縁系で因果関係が結ばれます。二つは別々の回路で働いているのです。ですから意識では、自動的に行われた行動を把握することができず、後からそれに気がつく(意識化)ことになってしまいます。

新聞を読む時にメガネの位置をずらしたり、作業の手が空いたらお茶を一口飲む、といった行動は習慣として既に何度も学習されています。ですから、これらに必要な行動選択の動機は情動反応だけで十分なので、大脳皮質がそれを意識する必要は全くありません。まして、情動反応は発生するまで自我(観る者)は知覚することはできないのですから、大脳皮質がその動機の成立を事前に自覚していることはありません。これが、無意識行動が無意識である理由です。

いちいち大脳皮質に電流を流す手間を省くことによって、簡単に効率よく素早く反応して生きていけるために、進化(生成・開発・簡略化・ショートカット・手抜き・がさつ・粗い)したメカニズムになっています。

 

意思で情動をコントロールできない理由

私たちの情動が発生したことを自覚するのは、意識が自分の身体に表われた情動性身体反応の結果を体性感覚として知覚することによって可能です。つまり、情動によって選択された行動や反応の結果を基に、「観る者」(大脳皮質)は自分にどのような情動が発生しているのかを過去の学習体験に基づいて推測するわけです。そして、今現在自分に与えられている状況を過去のデータから判断することによって、「自分は今、何に対してその情動を発生させている」といったい原因帰結を行います、すなわち納得できる理由を探します。これにより、ここで初めて結果を予測した理性行動の選択が可能となり、それを新たな学習記憶として保管することができるようになります。

このように、ヒトの脳内では大脳皮質での認知よりも情動反応の発生の方が必ず先になります。これが、ヒトが自分の意思によって情動をコントロールすることができない理由です。無意識の領域にある、情動の因果関係の回路に新しいパターンを上書きしない限りは。

 

いつでも完全な自由意思はあるのか? 

ヒトは自分の考えを自分の意思で決定します。普段、自分の思考や記憶は自分の意思で扱っていると思っています。しかし実は、物事を自分の意思で決定しているのではないかもしれません。

こんなことを信じられますか?

そこで先ずは意思を決定するというメカニズムについて見てみたいと思います。

まず、ヒトの脳が意思決定を行なうのならば、そこには何らかの選択肢があり、そこから選択することが必要です。何の情報の選択肢もない無意識の状態では、脳が意思決定の機能を使うことはできません。

ヒトはどのように意思決定をしているのか、再確認しましょう。

ヒトは目や耳などの感覚器官を用いて外部からの情報を脳内に取り込みます。そして、脳内ではこの感覚情報を基にそれに一致する記憶情報が検索されるわけですが、ここまではオートマティックです。従って、意識の中にどのような情報が入力され、そこでどんな記憶が選択されるかは私たちの意思決定機能は全く関わっていないということになります。

脳内で二つ以上の情報が比較されると意識が立ち上がってきます。この意識には意思決定が可能となり、ここで初めて考える、そして選択するもしくは切り捨てるなど自発的な思考や情報の取り込みができるようになります。

このように、意識が立ち上がっている時はこれまでの思考を保持しており、連続的な情報の処理を継続させることができます。ですが、いち度これが途切れてしまうならば、次にどのような思念が意識の中に取り込まれてくるのかは自分でも予測することができません。

意思が強くあったしても少しの間でも意識が途切れてしまったり、ほかのことに関心がいってしまうことってあるでしょう?

例えば、大きな音がしたり、地震を感じたり、トイレに行きたくなったり。

その都度、自分の意思にかかわらず、新たな意識や雑念が、頭の中に入り込んできます。これをコントロールすることはヒトにはできません。新たな雑念が入ることにより、そこにまた新たな意思が発生します。

例えばドイツの化学者フリードリッヒ・アウグスト・ケクレがうたた寝していたとき見た蛇の夢から分子構造式のベンゼン環を思いついたような、意識から見れば夢も雑念の一つだと言えます。

つまり、ヒトには無意識の瞬間があった後には、次にどのような意識が生み出されるかを選択することはできないということです。このようにして意識の中に何らかの思念が取り込まれるまで、それが雑念であるかどうかさえ、判断を下すこともできません。

私たちは複数の中から選ぶことを「自分の意思」と考えます。ですが、脳内で実際に行われていることは与えられた状況(情報)に反応して結果を出す機能でしかありません。人はその結果を自分の意思と呼んでいるのが通例です。自分の意識が判断したと思いたがっているようです。

現在、生物学では、例え人間であろうともその脳内に自由意志の存在を認めることはできないという考えが持ち込まれています。

身の回りことでいうと、自分に都合の良い意思に早く戻れるように、壁にイメージや絵や目標の紙を貼りつけたり、気にすることをメモ帳に書き留めておいたりはしませんか?他のことに意思が向かっても、外からの情報によって自分の目指した意思に戻るようにします。これほど意思をコントロールするには努力の必要があるわけです。

従って、全ての生物がこの原則の下で生きているので、「いつ何時もある完全なる自由意志」の存在は否定されてしまいます。

これからのことから、現在では多くの生物学者、脳科学者が神経系を有する動物に蓋然的probably(確かな)自由意志の存在を否定しています。

 

Cf. 

ヒトの脳が如何に高度な情報処理を行おうとも、これは進化の歴史の中で遺伝的に構築された細胞でしかなく、これは生物学的利益の延長線でしかないと言えないでしょうか?つまり、我々は自分の意思で生きているのではなく、自然界の意志によって活かされているのではないか?ということです。

この生物学的利益とは何なんでしょうか? 

サバイバル、子孫繁栄、この世にあること、タナトス、この世から去ること、新たなものに対する反応、習慣の安定、好奇心、保身など一見するとお互いが相反するものです。しかし全体像から見ればどれも力強く関連しています。

全体から分かれていくこと、そして全体に戻っていくこと、このどちらもが生物学的利益といえます。

 

アイディアは雑念から生まれる?

論理的な思考を行うというのは、それは目の前で得られる限られた情報や自分に持ち得る既存の記憶体験の組み合わせでしかありません。

これだけでは何時まで経っても同じ結論しか出せませんし、それでは未知の問題を解決することはどうやってもできないわけです。ところが、無意識の空白が少しでも生まれるならば、脳はそこに自分にも予測のできない無作為な思念を取り込み、その空白を埋めようとします。

それは冷静な思考を妨害する愚にも付かない雑念であるかも知れません。ですが、もし仮にこれがなかったならば、人類がこの歴史の中で、次々と新しい発想に巡り会うという偶然を手にする機会も生まれなかったのではないでしょうか?

創造性とは、意識と無意識の間の往復の繰り返しから生まれてきます。だから斬新なアイディアは意識して生み出すことができないのです。

 

意思は体の摂理に引っ張られている?

脳内で行動選択の動機として働くのは「意欲」や「欲望」などの意識に起因するものだけではなく「欲求」があり、これは無意識である本能や情動の機能によるものです。例えば、おしっこを綺麗なトイレでしたいというのは欲望で、ただ、おしっこをしたいというのは欲求です。欲望には前頭葉の前部帯状回と辺縁系の関与が必要ですが、欲求には大脳皮質の関与を必要としません。

例えいくら高度な計画運動を想定していても、そこに確かな決定的な動機や条件が発生しないと一切の行動に移すことはできません。綺麗なトイレで用を足したくても、近くにそれがなければ「欲望」を叶えることはできず、体の「欲求」に従うしかありません。

行動選択の最終的な動機となり優先されるのは「欲求」であり、それは本能や情動に従うものです。ですから「欲求」を自分の意思(意識の思向)ということはできません。

 

心を鍛えなければならない理由  

これまで見てきたように、行動の判断は無意識のうちにされています。意識(理性)でアイディアを計画しても結局は判断しているのは大脳辺縁系です。未来予測ができる大脳皮質ですが、判断する機能がありません。このことを自覚しない人が多いのですが、行動を選択する(判断する)のは、無意識の世界を司る大脳辺縁系なので、意識の世界からはどんな選択候補があるのかさえ観ることができません。例えば、実際の計画行動の候補は、その日の天気や、その時の気分や、ある人が好き嫌いとか、ある色の快不快などが同じ籠の中に並べられて判定されています。ただ意識は今回の判断は何を基準にして選択したのか気がつかないだけなのです。もし大脳皮質が導いた計画行動ではなく、無意識にある他の候補を大脳辺縁系が選択した場合は、後から意識(大脳皮質の活動によって)はまるで言い訳でもするかのように選択しなかった理由付けをし、自己正当化させて自分の意思で計画行動を選ばなかった、と結論づけます。こんな思い違いをして私たちは暮らしています。

ですから行動の選択がその人の個人的感情体験を基本にする情動行動にいつも左右されないように、情動を鍛える必要があるわけです。

そうでなければ観ている人(自我)は気がついていませんが、その時の湿気や、蚊や、アレルギーや、嫌いなニュースや、昨夜のフェイスブックの書き込みなどで、無意識の情動反応に影響を受けて、行動を選択させられてしまう要素が増えてしまいます。無意識の要素の影響力の強さを、意識はなかなかわからないので、過小評価してしまいますが、この影響力は絶大です。ですから、これらの無意識の入力に大きく反応して情感を発生させてしまうことを減らしたり、できてしまった情動運動の回路を作り直したり、自我や理性が望む回路を新しく作ったりすることが、理性の計画行動を選択したい場合には、まずはしなければならないことになります。

これを「心を鍛える」と、このエッセイでは言います。

 

死にリアリティを感じない理由  体験できないことはメタファーで推定して回路をつくる

恐怖という情動は、それが自分にとって「有害・危険」であるということを学習しなければ発生することはありません。高放射能物質を手にとってもそれがなんだか分からないと、恐怖を感じることはありません。

情動を司る大脳辺縁系には考えるという機能はないので、自分が空想(妄想)を含めた体験したこと以外は学習ができません。つまり、無意識の条件反射の回路は、実際に体験をしなければ作ることができないことになってしまいます。これは、大脳辺縁系で「死に対する恐怖」を発生させるためには、実際に死を体験しなければならないというわけです。

しかし死は体験することができないので、自分で体験できないことは疑似体験やメタファーや想像や他人の死などの原因と結果から推定することで回路を生成するしかありません。他の体験を参考にして回路を作ることになります。

ですから例えば自分にとって大切な人が亡くなるというのは、大脳辺縁系にとっては、とてもとても大切な体験になります。人は大切な人が死ぬことによってしか体験できないことがあるのです。

死に気づくということは意識が未来において、ある時点で終わるということを認識することです。宗教はこの問題を説明するのに明け暮れてきました。死を受け入れるのではなく説明です。

子供はいつか死ぬことを理解すると、その後の生活が変わります。死の気づきに関わる恐れや悲しみや貴重さや尊さと共に生きることになるからです。

これを意識が拒否すると、芸術や理論を使って大仰に呻吟しながら吠えることになります。または、メタファーで推定する作業に忙しくなります。

ある宗教が「永遠の命」と言う場合は、内面世界(意識・我・私)が完全に身体から切り離され、身体が風化した後も生き続けることを指します。

ですから「永遠」という言葉を使う人は、心や体よりも意識を優先させてしまう人なんだなということがわかります。

意識が死を受け入れることができると、毎日を通じてちゃんと消えていく準備することができます。

これが大脳辺縁系と脳幹、すなわち心と体の声を聞くことができる第一歩目です。

 

頭と心がなくても生きていける

植物状態になって22年目になる友人や、意識がなくなって3年目になる同窓生や、アルツハイマーになった先輩たちがいます。彼(女)らは生きていると言えるのでしょうか?

大脳皮質・大脳辺縁系は、魚類から進化をする過程で発達させた新皮質です。ただ虫にも脳の原型である神経管や心臓はあります。

この神経管から発達した大脳皮質・大脳辺縁系という新皮質の特徴の一つは「学習機能」です。これによりヒトは、行動選択に学習結果を反映させるという「心の機能」を使うことができるようになりました。ですが、脳内にこのような新皮質を持たないクラゲやウイルスは本能行動だけでも立派に繁栄しています。ですから、「心の機能」というものが動物にとって必ずやしも必要なものではありません。心や脳は高等動物が本能行動の実現をより有利にするために獲得した「補助機能」ともいえます。

理性は脳に発達した優れた能力ですが、動物が生きてゆくために必ず必要であるわけではありません。そして、「心の機能」というものも必ずや必要ではなく、微生物のようなシンプルなものからヒトに至るまで生命体は、その本能行動だけでも十分に生きてゆくことができるようになっています。

 

Cf. 現在では昆虫類に至っても何らかの学習機能を有することは広く受け入れられています。彼らも我々と同様に「心の動き」というものを持っており、生後学習の成果を行動選択に反映させ、環境の変化に対応することによって彼らたちの繁栄を有利にしています。

 

動機がないとなんにも行動できない?

何らかの行動を選択するためには、まず原因が発生し、それが行動の目的となるための理由が必要です。この二つが揃わなければ我々は行動を選択し、それを実行に移すことはできません。これはあらゆる生命現象で見られるとても基本的なしくみです

例えば、何もしたくないと思っていても、何もしないことに耐えられなくなってきたという内因と耳に入ってきたエンジン音という外因が揃うと、窓の近くに行って外を眺めるようになります。

また、「餌の発見」という外的要因と「空腹」であるという内的要因の二つが一緒に揃わないと、動機にならず、摂食行動が選択されません。動機そのものが成立しないと、ヒトは如何なる行動も選択することができないわけです。

そのために必要なのが、利益・不利益の価値判断です。これは日常で使う損か得かということではなく、その個体にとっての優先順位(価値)をつけるという行為です。各自にとって、より価値の高いものが目的に選択されます。

価値判断の「目的」とは、ここでもまた「生物学的利益の獲得」です。

 

本能とは宇宙の意志?

生物学的利益とは何でしょうか?

本能とは、遺伝情報として定められた結果を「無条件で選択するもの」です。

生命中枢(脊髄・脳幹)の本能行動は無条件反射という無意識行動であり、主体の学習体験や人格・性格などによる「利益・不利益の判定基準」が働く「心の動き」も一切発生しません。それはヒトが動物として生きてゆくために最低限必要なものですから、如何なる状況においても確実に実行され、遺伝的に定められたプログラムに従い、これを自分の自由意志によって変更することはできず、この反応は何時如何なるときにも同じ結果です。また「本能行動の特徴」は、全人類に共通であるということです。

絶対的な価値観とはいったい何なんでしょう?それは意識でも心でもなく、ヒトが動物として定められた「生物学的利益の獲得」です。これはどんな言葉で言い換えることができるのでしょうか?

 

この世にある、これに似た法則はなんでしょうか?

本能の一つである「自己組織化」現象は意識や心がなくても実現します。宇宙の「エントロピー増大法則」に逆行する、「自己組織化」をして、自らのシステムが維持・再生し続けるものです。

また本能のもう一つである「自己壊滅化」現象もあります。寿命がくると組織化されていた細胞は積極的に死んで(アポトーシス (apoptosis))いきます。「エントロピー増大法則」に従って。

二つの方向性が同時にある世界です。

「分裂と統合」「自律と統一」「形と力」「本質と存在」「個と全体」「緊張と弛緩」などの二項対立しているものです。論理学では「矛盾」として扱われるものです。

世界を見回すと、同じような法則が宇宙、地球、生態系などにもあるようにみえます。もちろん人間も生態系の一員です。

宇宙が滅びない方向と滅びる方向が同時にあるのが「宇宙の意志」、地球システムの自己組織化と壊滅化があるのが「地球の意志」であり、生態系の保持と破壊は「自然界の意志」です。そして、我々が知的目的を持つのが大脳皮質の「自意識の意志」そして、本能行動を司る脳幹の「生命の意志」。

こうして意識・無意識を問わず、全ての行動選択の動機を意志と呼ぶならば、本能行動の選択もまた自分の意志ということになりますが、どう思われますか?

 

価値観が欲しいものを決めている  ヒトは価値観によって生かされている  

ヒトは、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされている。意識のある価値観もあれば、無意識の価値観もあります。意識の世界の価値観は行動を決定する力は大きいですが絶対ではありません。自分の意思で価値観を変えることは可能ですし、複数の意識の世界の価値観がぶつかりあい、判断や行動が一定になりません。

確かに、意識の世界では、複数の論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることはできます。しかし、それでさえも如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、欲求が生まれるので、それに反する結果を選択するということは容易ではなくなってしまいます。意思が選択するのではなく、価値観が選択をするからです。

次に、決定的なのは無意識の価値観です。これは意識の世界の意思では変えることができません。例えば条件反射のような無意識の価値観です。赤く漬けられた梅は酸っぱい、といった価値観です。すると経験の繰り返しから、食べる前の視覚の情報だけで、唾液が出てきてしまいます。条件反射は意識に昇る前に勝手にインプットを処理してアウトプットを出してしまうので、自分の意思という意識では対処できないからです。ですから、ひとたび意識の外にある価値観を持ったならば、どうすることもできません。この条件反射の回路によって、欲求というものが決定されてしまいます。

そして我々はその欲求が決まると、それに対する行動しか選択できなくなります。

すると、そこには自由意思はないということになります。動物は価値観に対して選択の自由を持っていないからです。

 

価値観のつくり方    意思がないのならば、良い価値観を持とう

では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思を人生の中で反映させて生きるためにはどうしたら良いのか?

価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。持っている価値観の中で、ベターのものを自動的に選んでしまうからです。

しかし価値観の種類を増やすことはできます。

価値観の方を自分の意思で変更したり、今までの価値観の横に新しく付け足してあげれば良いのです。意思があってもなくても、価値観が判断に大きな影響を与えてしまうことはどうしようもありませんが、その価値観というシステムを意思の望むように作ることができます。

本能の価値観は変更できませんが、条件反射や感性と理性の価値観は変更が可能ですから。

自分の意思によってある価値観を持てれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということです。ヒトが自分の意思で生きる時空間を増やすためには、自分の意思で新たな価値観を置くスペースを作ってあげることが必要です。

新しい価値観とは何なんでしょうか?

そして、この価値観の基準とはどんなものなんでしょうか?

それが今まで自分自身がしてきた評価基準であったり、自分がいる社会の慣習に従うものであるならば、それは新たな価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。

では、どんな価値観があるのだろう、そして、どんなものがいいのだろう?

自分個人のものから、お釈迦さんのまでいろいろあります。

私のオススメは自分を含めた周りから始めることです。

家族、近所、仲間、共同体。

大きすぎると大変なので、小さいのから始めるのがいいです。小さいものから大きいものへ拡大するのが定番です。大きい宇宙、地球、人類、国のようなものからはじめると、最後には自分を押しつぶしてしまうので厳禁です。なぜならば始めのうちは尤もらしいキレイゴトだと、耳ざわりもよく社会的にも受けがいいですが、それを押し進めていったら嘘が露呈してしまうからです。一番の問題は頭の中で作られた理念や理想や“真実”から現実を見てしまい、心や体の世界を軽んじてしまうことになるからです。このやり方が極端になると、“真実”のために、他者を踏みにじることをいとわなくなってしまいます。理想のために、カミのために、結社のために、主義のために。これが、まさしく「自己意識」が作り上げる価値観です。

暇な人は、価値観の最後にはお釈迦さんみたいに、石までも自分の仲間にしてしまうのがすごくてよろしいです。ポイントは「仲間」にしてです。まずは他者の性質や環境や必然や苦しみや悲しみや痛みを共有するということです。それができたら、次に、この世の全ての現象に拘らない価値観です。慈悲の動機に基く行動選択です。

はじめの段階が心と体の声を聞くということです。これをせずにいきなり慈悲なんていっちゃうといつもの歴史が再開されます。

欲求は価値観によって決定されます。そして行動の動機とは、その欲求の実現です。

ですからその人にとって良い価値観を持つことから始めてみませんか?

ポイントはその人にとってよいことです。

 

何もいらない幸せとは

快・好き・安心・報酬は強い動機をうみます。しかし、これは直ぐに結果と繋がらないと次回からはモチベーションは下がり動機は生まれません。ところがひとたび「幸福感」が学習されると、次からは期待値を上回ることを前提とした「予測報酬」という「形のない力」によって行動の動機を発生させることができるようになります。何の報酬も獲得されない動機と行動が発生するとします。普通ならば次がありません。しかしもし「幸福感」を学習していると、報酬がないにも拘わらず、既に脳内では以前に体験した既知の幸福感がリアリティを持って再現されます。五感や六感や心拍やホルモン分泌を伴って。

満足感や安心感の結果が出る前に、幸福感が発生するので、報酬が与えられる必要そのものがないわけです。

こんなことはあるのか?と疑問になる人も多いかと思います。

例えば、苦労して登った山頂から見た朝日の感動の体験が幸福感となると、次回からは登山の道中が苦しさだけではなく喜びにもなり、そのプロセスを満喫できることにより、天候のために朝日を拝むことができなくても、登りの一歩一歩の度に朝日の感動を思い出していれば幸せになれています。

これを情動学習を用いる「報酬系回路の予測機能」と呼ぶそうです。そして、この予測報酬は実際の結果と比較されないので、期待値を下回りようがないのです。

このように、何の欲求もなく行動が選択され、報酬が与えられなくとも幸福が得られるのは、それは過去の体験に基づく「架空の予測報酬」が脳内に再現されるているからです。たしかに一見それはあたかも無報酬な行為のようにみえます。しかし脳内では報酬反応が起きているので、動機と行動は継続されます。

 

これが洗脳教育の現場で良く行われている手法です。他者や組織から使われてしまうのではなく、自分の必要性や好みに合わせて自分専用に使えばこれはとても便利なツールになります。

運動嫌いな人が散歩する時や、食べ過ぎな人がダイエットする時などにも有効です。

温泉に入った時の開放感を思い出したり、好きな人のことを想うだけで心が一杯になったり、来月に行く素晴らしい旅行のことを想像するだけで幸福感に伴う満足感という報酬を得ているのです。

説明するのが難しいと思われている「無償の愛」の動機も、このようなことが脳内でもたらされている幸福感です。

 

意識の評価にとらわれない生き方  無我の境地

ヒトは自分の意識でこの世のできごとを認知するので、それを基準にしてなんでも評価します。

仏教のある一派の教えでは、ヒトの認知することの全ては、意識が勝手に好きなように評価してしまった世界(すわち幻)であるので、幻にとらわれない無の境地に至る生き方をするように説いています。

お釈迦さまは、幻に振り回されたくなければ「意識の評価を行わなければ良い」と仰っています。

いきなり、評価を行わないといっても難しいので、まずは、「自分でした選択を信じない」ということから始めてみるのはどうでしょう?

無の境地と言うと、特別の人だけしか体験できないように聞こえますが、「無我」の境地というのは、我を無くすことではなく、意識の主人であると思いたがっている(錯覚している)自我が、大脳皮質が行う論理や、大脳辺縁系で行う「ことの善し悪し」の判断をみて、「そう、きたか」といって受け止めて、それらのことを頼ったり信じたりしないで、大脳皮質はそう思ったんだな、大脳辺縁系はそう感じたんだな、と横に寄り添ってあげることです。

本当に信じることとは、それらに頼らず、意識をだんだんと減らして、現れ出るものを「待つ」ことです。

わかりにくい表現になっていまいますが、吐く息にスポットライトを当て、空間では間を空け、時間では間を待ち、自然の勢いのままに任せて「待つ」。 意識でコントロールするのではなく、本来のなりゆきのままにすることです。

すると意識を使って「分ける」ことができるのは、ほんの僅かなことに過ぎないことに気付きます。 

この説明は言葉では難しいので、興味がある方は一緒に実践しましょう。

 

他にもいくつかのアプローチがあります。

意識の評価をしない訓練法

意識があると自我が活動するので、意識が活性化しないようにしよう、という瞑想法。

意識が発生する大脳皮質の働きを抑える呼吸法。

発生した意識の評価をできないようにする、酔っぱらい法。

他のことに集中して意識の評価をさせない ランニング、山登り、長唄、草むしり。

評価したことも実は立場によって善し悪しが逆転するので、評価を気にしないようにする智性利用法、

そして「無意識の評価も行わなければ良い」ので、その訓練も必要です。

 

無意識の評価をしない方法  心の鍛え方

ここで大切になってくるのが、大脳辺縁系の快・不快の判断を感性を鍛えることによって、大きくて強い快・不快の反応を弱める訓練です。

無意識の内に判断をしてしまう大脳辺縁系はコントロールするのは難しいように思っている人もいますが、よく観察するとどちらに判断したのかは、後から推察することができます。そこでその条件反射の回路を書き換えるのです。 

自己意識を使って、その時の判断の根拠を探り、その時に選ばなかった理性行動の具体策や、その時に選んだ感性の理由を知ることです。情動の判断には過去の経験と理由があるからです。そして体や心が必要としているものならば、代替のものを用意してあげることが必要です。こうやって少しずつ感性を鍛え上げて、慣れと経験を積み重ねることにより、条件反射的には判断をしない体質へと進化させることです。その時のコツはそれを楽しむようにできるかどうかということです。

これを繰り返すことにより、快・不快の判断はフラットに近づいていきます。感覚神経(求心性神経)の信号があっても、中核神経が処理をしなければ、運動神経・分泌神経(遠心性神経)に信号を送らなくなります。

因果関係を結びつけてしまった情動の回路を解いて、またもとの状態に戻してあげたり、修正を加えてあげたり、もっと洗練されたものにしたり、もっとシンプルなものにします。

これも言葉だけでは難しいので、関心がある人は一緒に実践してみましょう。

 

観る人がいると世界が生まれる?  意識は宇宙の一部なのか?

「観測という行為」とは「無数の可能性の集合」の中から「ひとつの現在」を選択するということで、それは観測者である私たち人類の要求に従っている、という考え方があります。

この考え方では、宇宙の法則というのは観測者の要求に従って決定されるので、あらゆる偶然が人類の存在にとって全て都合良く統合されているという見方です。他の言い方をすると、観る人は都合の良いふうにしか理解しないし、そのようにしか理解できる能力がない、とも言えます。

この考え方では、観測者に従ってこの世界が選択されているので、観測という行為が行われない限り、あるいは観測者が存在しないならば如何なる未来も可能性のままでしかなく、それが現在として出現するということはない、と考えられます。

 

「強い人間原理」という考え方は、人類が誕生したという宇宙の歴史そのものが観測者の要求に従って決定されたものであるとまで言い切ります。現在の宇宙の法則もしかりです。

惑星運動を司る重力の大きさが少しでも違っていたならば現在のような地球環境が生み出されることはありませんでした。

観測者というのはいったい何処からやって来たのでしょうか。人間原理の仮説では、それは160億年前のビッグ・バンによって発生した宇宙の中にひとつの現象として存在を許された者です。

 

 

 

定義の部屋

このエッセイで使っている語句は日常会話と違う意味で使っているので、それってどういうこと?

のコーナーです。

 

特徴

役割

脳機能学

日常会話

身体論

分化

 

生命維持

本能

脳幹

肉体

体 腸

分化不要

 

感情判断

判断

大脳辺縁系

潜在意識・心

心 心肺

二分

 

予測論理

計画

大脳皮質

理性・知性・頭

頭 脳 

認知・分析

 

観察

存在

観る者

意識・精神性

頭 意識

概念

 

 

 

体を司る脳幹     生命維持とは生・成長・死・再生    

本能

遺伝的に定められたプログラムに従う結果を「無条件で選択するもの」

といってもそのプログラムは、多くの要因を持つ環境によって変化するのでどれを選択したのかを分析するのは難しい。

生命中枢の本能行動は無条件反射という無意識行動であり、主体の「心の動き」というものは一切発生しない。また「意識の動き」のもとであっても、自分の意志によって変更することはできない。

これは全人類に共通の反応規準であるため、遺伝的な体質はあっても、そこに人格や性格というものは一切介在しません。

本能の価値観は「生物学的利益の獲得」。この生物学的利益とは「生」だけではなく「死」も含まれる。

増大(生)と減少(死)の両立によって、この世の存在がある。

生得的行動innate behavior(本能行動とほぼ同義)とは「遺伝的性質に基づき、習得的な影響を受けない行動」反意語は「習得的行動」

「本能行動」は脳幹中枢神経で処理され、大脳皮質まで信号がいかないので、未来の結果を予測することができない。

 

意志 (本能と宇宙)

まずは行動選択の動機を「意志」と定義する。

何らかの結果選択をするものを、意志だと呼ぶと、それは「意識」や「心」だけではなく、本能行動も「生命の意志」を持っている。

本能行動における「意志」は「生きて成熟して死んで再生」という循環性を常に選択する。

 

宇宙が滅びないのは「宇宙の意志」、地球システムの自己組織化は「地球の意志」であり、生態系の保持は「自然界の意志」、ヒトの恒常性(ホメオスタシスHomeostasis)も「ヒトの意志」である。

「体」の意志は散逸構造で「エントロピーの原則」に逆行し、自らのシステムが維持・再生される「自己組織化」を行い、次世代を創造し(再生)、細胞死(アポトーシス(apoptosis)する。

本能行動の選択基準は遺伝的に定められたものであり、この結果を変更することはできず、良い・悪いなど、如何なる評価もされない。または、評価してもいいけど、それはその人の意識がそう思いたいだけ。

 

行動

「複数の反応が組み合わされた運動」と定義する。単数の反応では反射・走行と呼ぶ。

動物の「本能行動」は入力情報に決まった単数の反応をする。ただその動物の成長過程において反応が変化すると思われる。

「情動行動」は、入力情報に対して「利益・不利益の価値判断」が行われることによって選択される。

「理性行動」は、計画をたて未来を予測シ実現する行動である。

 

行為act

行動を選択すること。 受動的に表現すると、行動が選択されると行為Actになる。

「行為」には、そのプロセスにおいて、「意識を伴うもの」「心の動きに従うもの」「どちらとも無関係で遺伝的なプログラムに無条件で従うもの」の三種類に分かれている。

そう、大脳皮質、大脳辺縁系、脳幹の3つの回路です。もっというと神経管、循環器系、消化器系の回路です。

 

延髄は、内臓性感覚(味覚)、内臓性運動(消化、咀嚼(そしゃく)、嚥下(えんげ)、酸素の供給)などの生命維持活動をつかさどっている。これ以外にもまだ発見されていない機能がある。例えば「生」「死」に関わるものなどが推定される。

 

 

感情・判断を司る 大脳辺縁系

 

学習

とは、生後環境における本能行動の実現を効率良く行うためにある。しかしその効率化のデメリットである状況変化を把握できず、生命体自身を危険に導く事例もある。条件反射は判断時間の短縮には有効だが、錯覚や聞き違いや勘違いなどの誤情報にも対応してしまう。

 

感情と情動

「感情」は意識で認識して自覚できますが、情動は感情を生むものなので普段は自覚していません。

日本語で使う感情は英語ではfeelingemotionの両方の意味があります。

「感覚入力(sensory input)」は「情動反応(Emotional response)」によって「感情(FeelingEmotion)」や「気分(Mood)」を発生させる。この過程における「精神疾患(Mental disease)」には「情緒傷害(Emotional disturbance)」や「気分傷害(Mood disorder)」があり、このような状態を「情緒不安定(Emotionally unstable)」と言う。

 

心理学などで用いられる「情動」は本来、英悟の「Emotion」の訳語なのだが、概念としてのきちんとした定義は未だ何処にもない。医学、心理学、そのほかにおいても解釈は研究者によって異なり、学術用語として何の取り決めも成されないまま放置されているというのが現状のようだ。知っている人がいれば教えてください。

外部(五官を通じる)や内部(記憶・想像・体内感覚神経)からの刺激を学習によって自動的に判断し、それに反応することを情動と定義づけるのはどうだろうか?

このエッセイでは、動物との共通性のあるemotionを「情動」と呼び、欲求が満たされると快いと感じ、満たされなければ不快と感じるもので、その結果として「感情」の喜怒哀楽が表現される。

例えば、

「情動反応」が不快と判断され、それが納得出来ないことならば怒りとして「感情」がでる。

不快  受け容れない時は怒り

不快  受け容れる時は哀しみ

快   期待以上   喜び

快   期待どおり  楽しみ 

ですから。例えば怒りを抑えるためには、不快と判断をしないように条件反射を書き換えるか、納得できないという考え方の枠をもっと大きなものにして、そういうこともありうるという新たな枠に置き換えることが、効果的である。

 

価値判断するのは大脳辺縁系

「意識行動」は、まず大脳皮質で情報入力に対する認知作業が行われます。「認知」とはそれが何であるのかを判断を下すことなので、これだけではまだ何の行動も選択できません。そこで、何らかの行動が選択されるためには、このような認知結果を基に、「どうすれば良いのか」という「価値判断」が下される必要があります。ですから、運動神経系に命令が下される前に必ずや行われなければならないのは、この「中枢系における価値判断」です。そして、「それをすべきである」「いや、これはするべきではない」というような価値判断が伴う「行動選択の動機」を私たちは「自分の意志」と呼びます。

過去のこれまでにした自分のした判断についていくつかの考察を試みました。すると、今まで自分のしてきた意志行動を見つめ直した時に、納得ができなかったり、理解できない判断をしていることをよく自覚しました。

例えば、ある曲を聴いたら涙が出てきて感慨深くなりボーッとすることがあります。起した行動、判断、動機、記憶、理由を並べてみても首尾一貫していないのです。ところが遠い記憶や、昔の経験や、クセや、考え方のパターンなどの日常では意識の外にあるものを考慮してみた時に、あることに気がつき、仮説を立ててみました。それは判断して神経に司令を出しているのは意識ではなく、無意識の領域のものではないのか?わかりやすい例で言うと梅干を見たら唾液が出るような条件反射です。

これを脳機能学で言うと、「価値判断」を行っているのは大脳皮質ではなく、「大脳辺縁系」ということになります。

入力情報が認知されるというのは、状況の判断を下しているということであり、これにより私たちは、「それをしたらどうなるのか」「それをしなければどうなるのか」といった「未来の結果」を予測することが可能になります。そして、大脳皮質「前運動野」ではこれに基づいて行動計画のプログラムが作られます。

ですが、これだけではまだ脳内に「自分の意志」、すなわち「行動選択の動機」が発生したことにはなりません。状況判断が下され、行動計画が立てられたとしても、自分が「そうしたい!」と思わない限り、特定の行動が選択されたということにはなりません。「未来の結果」をきちんと予測でき、メリットとデメリットが複雑に絡み合っていたとしても、それが自分にとって利益であるのか不利益であるのか、快なのか不快なのか、好きなのか嫌いなのか、嫌いだけどする意味があるのか、といった判断が下されなければ行動は実行に移されません。そしてこれらが条件反射のように意識されていないものまでが判断の要因になります。また、仮に行動命令が出力されたとしても、それには途中で「行動抑制」がかけられてしまうことになります。抑制する要因が次々に襲いかかってくるからです。行動が遂行されるまでには、意識では捉えれていない判断・決め事・クセ・パターン・状況・環境・運・偶然性などの要因が関係してきます。

これらのことから、大脳皮質が導き出した「未来の結果」に対し、この「価値判断」を下しているのが、脳内で「情動反応」というものを司る「大脳辺縁系」だというわけです。

行動が実行されないということは、大脳皮質では立派な未来計画が立てられても、大脳辺縁系に情動反応が発生し「やりたい・やりたくない」といった「行動の動機」が生み出されなければ、それが運動命令として発されないということです。動機はあるかないかの二つに一つなので、何の利益もないという判断が下されるならば、このような無報酬刺激は「不快情動」として判定され、「報酬行動(接近行動)」ではなく、逆に「離脱(回避)行動」の方が選択されてしまうことになります。ですから、大脳皮質が未来の結果を予測し、いかに高度な「計画行動」を立案しようとも、大脳辺縁系の情動反応がYESと首を縦に振らない限り、それが実行に移されないというわけです。

首を縦にふらないことを「行動抑制」といいます。

たとえば「この株を買う!」という運動命令が大脳皮質から下されても、総財産の半分の金額になると怖くてできない時は、行動を自らが制してしまいます。つまり、大脳皮質の運動命令に対して行動抑制がかかるのは大脳辺縁系の情動反応に従う「恐怖」という感情です。これでは行動は実行されません。この他にも、「不安」という情動反応は、基本的にはこの「行動抑制」のために発生するものであり、ヒトの脳は、まだ状況の判明しない不安状態では無闇な行動を選択しないようになっています。

このように、生得的な本能行動以外の日常に行なう行動の選択は、大脳辺縁系の情動反応によって最終的な決定が下されています。例えば、右手を動かすという簡単な行動が選択されるためにも、まず「知覚入力」や「記憶の想起」、あるいは「思考の結果」といった情報を基にした「利益・不利益の価値判断」が発生します。これが「大脳辺縁系の情動反応」です。

 

橋(きょう pons)は、脳幹の一部で中央部に大量の神経繊維が走っていて、大脳と小脳からの情報を連係している。この上部左右には米粒大の”青斑核”があり、これを損傷すると レム睡眠(夢を見る時)が生じなくなるといわれる。

「意識」は目の前の事物にスポットライトを向けることにより、二元論的な思考(何でも二つに分け続けてしまう)をする。この特徴を特化し続けることで、神経管が左脳と右脳に分かれ、それを橋梁で繋ぐ構造に進化していったのではないかと仮説します。

 

中脳には、中央部に神経線維が網状になった”中脳網様体”(延髄から中脳まで広がって存在し、呼吸・心拍・血圧を調整する中枢で、生命維持の働きをする)があり、「意識」、「覚醒と睡眠の調節」を支える重要な役割をもっている。また、”快感神経(A10神経)”、”不快神経”などの起点であり、痛覚線維、三叉神経、視聴覚・対光反射・眼球運動反射などの中継機能、さらに、なめらかな運動機能をつかさどる”赤核”、”黒質”という部分がある。

 

間脳には、自律神経の中枢である視床下部があり、内蔵の動きを自動コントロールし、脳下垂体からは、各種”神経ホルモン”(副腎皮質刺激ホルモン)や”催乳ホルモン(プロラクチン)”、”黄体ホルモン”、”成長ホルモン”などを分泌する。

循環器系の内臓とも密接な関係があると仮説する。

 

インプリンティング(刷り込み)

動物行動学では鳥類などのインプリンティングを「プログラム学習」として扱っています。プログラムそのものは生得的なのですが、これによって獲得される学習は条件反射であるため、インプリンティングは後天的な習得行動として分類します。

例えば生まれたてのアヒルの雛は、「黄色い尖ったもの」に反応するというプログラムが生得的にもっている。

 

心とは  

日本語の「ココロ」には多層の意味があります。日常会話でも感性・理性・智性・魂性のどの領域でも「ココロ」が適用され、大切にされています。二つの違う世界がある時に顕れる「架け橋」が「ココロ」です。

しかしこのエッセイでは、心の意味を感性の領域に限定し、論理的に定義することになります。

 

心とは、学習機能が加えられた、行動の選択判断を行う働きのことです。

本能行動を補佐し、それを効率良く実現するために、与えられた状況に対応した適切な行動を選択する神経系の情報処理のこと。

脳機能学では「心」とは「脳の営み」ですから、何処にどのような状態であるのかというと、それは「中枢系」に「機能」として存在します。

私見では、「こころ」とは相手と呼吸や心拍数を合わせる働きも含めるので、全体性の中では智性nousに一番象徴的に現れ(感性conditional reflection・理性mind・魂性spiritualityにも現れるが)、何処にどのような状態であるのかというと、それは内臓としての「心肺」に「波曲線」を基にした「同化作用」として存在します。私見では、脳機能学のいう「心」を、私のカテゴリーで区分けすると、感性の領域にあり、条件反射の回路をつくる情感機能です。しかしここでは、脳機能学をベースに話を進めていきます。

 

脳機能学の「心(マインド)」は感覚系を介して外界からの入力と、「記憶の想起」や「空腹」といったものは内部からの入力があり、中枢系はこのような身体内外からの情報に判定を下し、運動・自律系に出力します。これにより、「思考」「行動」「情動」「学習」「生理」に影響を与える結果を生み出します。心は頭にも体にもつながっているのです。

生理学 Physiology 

1.           The biological study of the functions of living organisms and their parts.

2.           All the functions of a living organism or any of its parts.

ギリシャ語源のphysio- は「自然・自然物・身体の」を表す。 physiología 自然の因果や現象に関する科学

 

中枢系(神経管系・脳)は身体の内外からの入力情報に対して処理を行い、その判定は「状況に対応した選択的な結果」になります。これにより、ヒトは「自分に与えられた状況に対応した適切な行動」を選択します。TPOです。これが「心の役割」です。 

従って、心とは、身体の内外の情報と、脳と、体との繋がりを持つ唯一の回路であり、それは「入力に基づいた結果を選択する動物の中枢機能」です。

心とは中枢神経系の機能であるが、脳内にその実体はありません。これは、意識と同様に随伴現象です。伴となってなって連れ合うということです。

私説では自己意識は表層意識が閉じられた(外部入力が遮断された)時に発生し、心拍や呼吸のリズムと繋がった時に中層意識である「心」は発生します。

意識は「脳(分析)活動の随伴現象」であり、心は「生命活動の随伴現象(特にリズム)」、体は「生命活動の随伴現象(特に溶解)と言えます。

無意識状態であっても生命活動は続けられています。

 

「心の役割」とは、「行動選択に学習結果を反映させる」こと

知覚情報によって環境の変化に対して価値判断を下し、状況に対応した行動を選択するのが心の役割です。私の言葉で言うと、二つの世界の架け橋になって相互の流れを作るのが心の役割です。

「知覚入力―価値判断―命令出力」

学習結果を基に利益・不利益の判定を下し、決められた適切な選択をして、結果を出します。

この利益・不利益は形になったり得をするものだけではなく、SMや無償の愛のように、個々によって利益・不利益は違います。

心の仕事とは何を想像するかではありません。想像するのは大脳皮質です。その想像した結果に対してどのような判定を下すか、またその行動選択における動機の発生は、脳内では大脳辺縁系にしか発見されていません。

私説では心筋梗塞や空腹などの内臓の動機が大切だと思っています。

「嬉しい、悲しい、欲しい、怖い、それに近づく、それから遠ざかる、好き、嫌い、快、不快」などなど。

感情が発生するということは、行動の目的が示されるということです。大脳辺縁系に情動反応が発生しなければ、ヒトや動物は欲求を達成することも、自分の身を守ることもできません。大脳皮質の論理的な情報処理だけでは、日常生活の判断も下すことができず、何ひとつ行動を選択することもできないからです。

 

「心の動き」 

学習結果に基づいて利益・不利益の判定を下し「情動反応」を発生させるのが、心の動きです。

大脳皮質がどんなに素晴らしいアイディアを提案しても、大脳辺縁系の情動反応、即ち脳内に何らかの「心の動き」が発生しない限りそれが実行に移されることはありません。

情動反応として発生する「心の動き」とは、大脳辺縁系における学習結果が反映したものです。そしてこれらは、意識も情動も伴わない本能行動の規準に従って、知らず知らずのうちに形作られてゆきます。

 

「心の構造」  「神経系の解剖学的構造」

「心の動き」を司っているのが「心の構造」です。どのような仕組みになっているのでしょうか?

 

生命維持の経路は「知覚入力―生命維持中枢―結果出力」になっています。

生命維持中枢には、常に同じ反応を発生させるように予めプログラムがされています。

その横に並んでバイパスのように作られているのが「心の経路」です。、

「知覚入力―大脳辺縁系―結果出力」とつながっており、特徴は学習機能があることです。 

例えば、このバイパスである「心の経路」に、梅干は酸っぱいという結果がひとたび学習されると、次からは梅干を見るだけで、その酸味と美味しさがイメージされ、事前に唾液を出すという行動を選択することができます。つまり学習記憶は、生後環境から獲得された体験結果を保持することにより、次に同様の事態と遭遇した場合に、より迅速な行動の選択を行うことができるようになります。これが、大脳辺縁系の学習記憶に基づく情動反応によって生み出された経路です。

未体験のものを一度食べて「美味しい!」と学習されると、次回からは、味覚情報だけではなく、視覚や臭覚からの入力によっても大脳辺縁系には「快情動」が発生します。これにより、「報酬行動(接近行動)」が選択されやすくなり、接触行動の効率は必然的に高まります。

また、逆に「不快情動」が発生し、回避行動が選択されやすくなり、接触の機会は減ります。特に「恐怖」や「不安」という感情を、あるものと結びつけることを学習すると、回避行動がより多く選択されます。

これが、私たちの生きた心の動きです。生命中枢(脳幹)による本能経路ではなく、その横に作られたバイパスが「心の経路」の仕組みです。

例えば半身不随になり右手が上がらなくなった人でもアクビをする時に右手が上がる現象があります。これはアクビをする時に両手を上げるという条件反射をもっている人が脳梗塞で大脳皮質の回路が壊れても、大脳辺縁系の回路が残っているために起こる現象です。

参照 ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』『脳のなかの幽霊、ふたたび』『脳のなかの天使』

この各自の体験と学習と記憶が「心の経路」を形成するため、食べ物の好き嫌いや異性のタイプといった様々な「個人の好み」というものが発生し、「十人十色」となるわけです。

 

情動反応の仕組み

情動行動とはそのときに発生する情動反応によって即座に決定されてしまうため、行動の動機を自覚することができません。これも、意識に上がる前の処理なので自覚できないというのは構造上は当然のことです。この潜在意識の領域に作られた回路は、入力に応じて予めプログラムされているYesNoを自動的にで選択するだけです。動物が生きてゆくための極めてシンプルな構造をした神経管(脳)の自律機能です。現代ではこの仕組みを理解し利用するNLPやメンタル・トレーニングやCMをはじめとしたセールスや企業戦略や洗脳・教育でも注目を浴び、科学的データが続々と取られています。

 

自覚

大脳皮質での認知作業に伴う意識現象が自覚です。簡単に言えば自己意識(自分)が気がつくことです。

気がつくとは、無意識が意識化されることなので、大脳辺縁系の情感に関わりのあること、すなわち心と意識の関係についてのことが多いです。

例えばこんな気づきがあるとします。

喫茶店で流れてきた曲を聴いていたら、目頭が熱くなり頬に水滴が流れるのを感じます。それを意識が発見して、この水滴を涙と認知し、自分が何か心を動かしていることに気づきます。いつ、どこで、誰と、どのような状況でこの曲を聴いたのを想い出し、これは悲しみではなく、あの時に読んだ本に深く感銘を受け、夜道をさまよった時に街角で流れていたポップスだということがわかり、あの本の結末の感動的な場面を再認識したとします。

この時の脳内の動きはどのようになっていたのでしょうか?

大脳皮質は、大脳辺縁系の情動反応に従って身体に発生した情動性身体反応を内臓感覚などの体性感覚を通して知覚し、その結果に対して過去の体験記憶を基に認知・分類を行います。これにより初めて、自分に発生した情動が「喜怒哀楽」のどのようなパターンに属するかということに判断が下され、そして、現在に与えられている状況と答え合わせをすることにより、自分がいったい何に対してそのような情動を発生させているのかを自覚することが可能になります。このようにして自分に感情が発生したことを自覚します。

 

大脳辺縁系に発生する単純な情動反応が「感情の源」です。まずは「危険か否か/好き・嫌い/YESNO」の単純な反応を発生させます。これをどのように受け入れるかによって、喜怒哀楽といった多彩な感情として表出されます。

 

ポイントは無意識(大脳辺縁系)の「二者択一判断」、そして意識の「状況判断」です。

状況判断とは、複数のルールを組み合わせることによって「矛盾のない結果を選択する」ということです。このため、全くの無意識行動であったとしても、我々の行動は自然と秩序が保たれます。 

 

例えば、「私は今、市場でブドウを見ている」という状況だとします。これは大脳辺縁系ではなく、大脳皮質の認知機能を使って行われることです。 

次に、大脳辺縁系に発生する情動反応が「欲しい!」という欲求に発展するためには、「何を、どうして」という動機が必要です。

いろいろな動機があります。

プラスの動機は

空腹である

一粒2万円で一度は食べてみたかったルビーロマンである

初物には目がない

販売している人が自分の好みのど真ん中のタイプである

あの人と一緒に食べたい

ブドウは大地と水のエッセンスで豊穣と酩酊の象徴である、とか・・・

マイナスの動機は

フルーツよりステーキを食べたい

一粒2万円とは馬鹿げている

月末でお金がない

南半球ではもう干しぶどうの季節

売り場に行くには嫌いな上司の前を通らないといけない、とか・・・

 

「観る者」である自己意識には何故欲しいか動機は詳しい理由はわかりませんが、「私が今胸をときめかせているのは、このブドウが欲しいからだ」ということはわかります。

そしてもし買うのならば、「家族のみんなと一緒に食べたい」という理由で財布の紐を開いたとします。

このように、大脳辺縁系に発生した情動反応が大脳皮質に認知され嬉しいという感情に分類され、それを自覚した自己意識は財布を出し、それに大脳皮質が理由付けをしています。

これが必ず理由が後付けになるメカニズムです。 

きっかけが起点となって、「脳内で不意に発生した反応結果」が出て、次にそれに対する「理由」が後付けされます。

これで初めて「自覚・記憶の可能な状態」になります。

つまり脳内では大脳皮質の原因帰結よりも大脳辺縁系の情動反応の方が必ず先にあるので、自己意識が自分の意思でもって情動の発生を阻止することのできない理由です。

自己意識が気付くまでの間に選択される反応や価値判断は、全てが「無意識行動」であり、知覚が成されないので抑制することもできません。ですから、自分の意思によって情動行動をコントロールすることはできません。

できるのは後から他の否定的動機を軸にして、買うことを中断するだけです。

またもう一つできるのは、動機に強い影響力を持たせないように、普段から予行練習や食べた空想などを重ねて訓練することを通じて、未来の情動の反応を自己意識が望む方向へ導いていくことです。これを心の鍛錬といいます。時代劇で言う「修行が足りない」というのはこの訓練が十分になされていない状態をいいます。

 

動機付け

行動を実行するには、入力と潜在的欲求が必要です。この二つが揃わなければ動物も植物はある行動を選択し、それを実行に移すことができません。

入力とは五官を通しての情報と、ヒトの場合は記憶や想像を通じての外からと内からの経路があります。

潜在的欲求とは、本能や情動の持つ欲求です。

この二つが結びつくと、実際に行動の選択が可能となる内的プロセスを「動機付け」と言います。これはあらゆる生命体が行っているシンプルなメカニズムです。

例えば、焼鳥の匂いを嗅いで、空腹に気づき、店に行く、といった結びつきや、

お腹がすいたので、夕食を作ろうと思い、今日はスパゲッティではなく炊き込みご飯をつくる時の空腹とコメの気分の結びつきです。

微生物である酵母は糖分があると、それを吸収して二酸化炭素のオナラとアルコールのオシッコをします。

動機には、原因と、行動の目的となるための理由が必要です。そして行動を選択する「判定基準」のもとで「価値判断」をしています。

店に行くのか、行かないのか、

スパゲッティにするのかご飯にするのか

今、糖分を吸収できるのか、できないのか

より価値の高い目的を選択します。

 

入力には、「外的要因」や条件反射や記憶や夢や空想などの「内的要因」があり、

欲求は本能と情動からあり、

「生得的な反応規準」や「生後の学習結果」などの「判定基準」に基づいた「価値判断」は、ヒトでは大脳辺縁系で処理されます。(微生物では処理するキャパシティが今あるかどうか)

 

いくら焼き鳥のタレが焦げた炭火の匂いがしても、欲求と結びつかなければ、買いに行くことが利益だと判定がくだされないので、動機になりません。

刑事もののドラマでよく動機を探すのは、動機がなければ行動を起こさないことがわかっているからです。

ヒトは理由がないと行動を選択することができません。

選択には大脳辺縁系の判断と大脳皮質の理由付けがセットになっています。

なんとなくやったことでも、それは大脳辺縁系が判断したことであり、大脳皮質は後からでも理由づけして安心しようとします。

価値判断の「目的」は、いつもの「生物学的利益の獲得」です。それが時に短期な利益でしかなく長期的には身を破滅させるものであるとしても。

 

これまで見てきたように、行動選択には動機が必要不可欠です。しかし、大脳皮質ではこれを作ることができません。何故ならば、全ての行動選択の動機とは「欲求の実現」を望むことであり、それが即ち「情動」であるからです。大脳皮質には情動を発生させる機能はありません。従ってヒトの脳内では、大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられておらず、いかに価値の高い計画行動を立案したとしても、情動反応を司る大脳辺縁系がそれに対してYESと反応しなければ実行されません。

 

生得的なプログラム

本能やinnate behavior(ラテン語innDtus (in-中に+nDtus生まれた=生来の)やアプリオリ(ラテンa priori 「より先のものから」とよばれる先験的、先天的なプログラムのことです。

これをどう理解するのは、4人のプレイヤーによって特徴があります。

 

 

自己意識   セルフィッシュ・ジーン  自分勝手な遺伝子が自分自身(遺伝子)の生存確立をあげる行動を取る

大脳皮質   自己繁栄・保身     自己が自分の生存率を高める行動を取る

大脳辺縁系  細胞繁栄・消滅     細胞が存在し続けるためには生起と同時に消滅する 死を当然と受け入れる

脳幹     集団繁栄・継続     時に個よりも集団を優先する行動を取る      死とは再生なり

 

 

恐怖と怒り

感情の内でも最も早く発達するのは、生命維持と危険回避の動機となる「恐怖」と、敵への攻撃と強い意志の動機となる「怒り」です。

どちらも民族や文化や時代の中で体験から学習されるもので、この学習された回路は意識(大脳皮質)と無意識(大脳辺縁系)の両方にあります。

これらの感情を嫌う人もいますが、大切にして向き合うことが全体性の確立と安定にとっては必要なことです。

 

死の恐怖は、大脳皮質に記憶として保持されている疑似体験や他人の死を認識やメタファーから作り出した「死の概念」が意識の上に想起されたことに対して発生する大脳辺縁系の反応です。

死の恐れから逃れるには

宇宙や生命の研究は、時間を超越した感覚や、自分はより大きなものの一部であるという気持ちを与えてくれます。ずっと繋がっている宇宙劇場の一部として自分をとらえれば、自分の命に限りがあるという事実の恐ろしさが軽減されると感じることができる人がいます。ただこれは逃れたり、軽減する、自己意識のための思考法です。

 

「リズム」や「溶解」という大脳皮質では体験できない、大脳辺縁系や脳幹の本能的認知によって、死ぬことの意味を理解することは、恐怖から逃れるだけではなく、死ぬことも大切な全体の一部とすることで、はじめてちゃんと生きることになります。

人間をこの世界の特別な存在だとみなし、無比の高みから宇宙を評価していると考えるならば、自分の消滅は受け入れがたいものとなります。しかし私たちは単なる観察者ではなく、偉大な宇宙の一部であるとしたら、避けられない死も悲劇ではなく、宇宙との喜ばしい再結合としての体感であると、多くの先達はいろいろな方法で伝授してきました。

 

ブラフマンを理解するには、心の中にあるブラフマンを体験しなくてはならない。人間はそうすることで初めて悲しみや死に囚われず、すべての知識を超越して、精緻な真髄をそなえた存在になれる。  ウパニシャッド

 

 

予測論理  大脳皮質

認知と思考と意思

考えたこともなかったことを知るには?

まず、共通点を見つけ同じ土俵に複数を並べる。

次に、お互いの相違点(違いと共通点)のルールを見つけて、分類することが「分かる」ということです。そして、この「分かった」ものを抽象化することで概念のラベルを貼る作業が「知る」ということです。

 

脳機能学的に言うと、「認知」とは「知覚情報」として連合野に入力された主に「外部感覚情報」が脳内の「内部記憶情報」と比較・照合される作業であり、ここには「入力の信号に対する選択的反応」という神経組織の構造的な機能があります。

「認知作業」あるいは「思考」とは、脳内で一度に複数の情報を比較するということで、それぞれの情報は一旦「ワーキング・メモリー」と呼ばれる大脳皮質の「連合野」に収納し、そこを作業が終わるまでの間「短期記憶」としてこの連合野の中に保持されます。パソコンのメモリーやバッファーのようなものです。このように、認知作業は短期記憶を用いるために大脳皮質には意識が発生し、ここではじめて「自覚」が可能になります。

もし視野に入っていても、意識に上らなければ見たことにはなりませんし、記憶にも残りません。過去の体験が「長期記憶」としてきちんと保管されていても、それが短期記憶として連合野に引っ張り出されなければ思い出したことにはなりません。

認知作業と思考の全ては「意識行動」であり、自覚の成された「計画行動」です。、このような大脳皮質の意識に上る「計画行動を選択するため動機」のことを「意思」と呼びます。

 

思考

とは認知作業によって照合された「複数の認知結果」が連携・統合されることによって倫理的に矛盾のないひとつのパターン(情報)に構成されることです。しかし、ここで実際に働いているのは選択的な結果を出力するための複数の認知機能であり、ヒトの脳内には思考という生理学的構造は存在しません。随伴現象の自己意識の一部として思考があるので、当然です。

 

このような文章を読むのも「認知作業の連続」なので、思考です。そして、このようにして認知された思考結果が脳内に記憶される場合は再び「感覚記憶」「言語記憶」「論理記憶」などに分割されてバラバラに保管されることになります。イメージの記憶、概念の記憶、非矛盾の記憶です。

それによって、思考することで「連想記憶」の関係が結ばれている記憶が、それはひとつの出来事として「再構成」することができるようになります。そして、このような筋書きが脳内で再生される過程では、各連合野内に短期記憶として呼び出された情報に対し、それぞれの記憶単位で再び認知作業が行なわれます。

このように、思考は認知作業と分離できない一つのものです。この脳内で複数の結果が統合される過程が「概念」です。

 

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視覚情報の認知は「視覚連合野」、聴覚情報は「聴覚連合野」。このような「感覚連合野」は感覚器官から入力された外部情報を基に脳内に学習されている「感覚記憶」を検索して答え合わせをします。

「文字」や「話し言葉」も目や耳から入る感覚情報で、こちらは言語情報として「感覚言語野」に入力され、ここでは「言語記憶」を基に「言語認知」を行ないます。そして、概念や状態などといった「論理記憶」との情報の照合は「海馬」の役割となります。

 

海馬

アルツハイマー型認知症になると、最初にダメージを受ける場所、それが海馬です。

大脳辺縁系の一部である海馬はタツノオトシゴのような形をしています。

日常的な出来事や勉強などを通して覚えた情報は、海馬で一度ファイルされて整理整頓されます。

その後、必要なものや印象的なものだけが残り、大脳皮質に溜められていきます。

つまり、私たちの脳の中で新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質にファイルされているのです。

ですから、海馬が正しく働かなくなると、私たちは新しいことをうまく覚えられなくなってしまいます。

つまり、昔のことは覚えていても、新しいことはすぐに忘れてしまうのです。

 

前頭連合野と一時記憶

山でBBQパーティーを主催する時に活躍するのがこの前頭連合野です。

誰をパーティーに呼ぶのか、会場はどこにするのか、予算はいくらか、どんな催しを行うのか、どんな食べ物や飲み物をどのくらい準備したらいいのか、アクセスは、許可は、天気が変わったら、などとたくさんのことを決めなくてはいけません。

また、そのためには以前の成功例や失敗例を思い出すことも必要です。

このように、1.自分の意志で何かを計画し、2.それを行うためのプランを立て、3.成功するために動くという場面で大活躍するのが前頭連合野(ぜんとうれんごうや)です。

前頭連合野は1〜3のほかに4.反省もする脳の最高司令官と言える重要な場所です。

前頭連合野は、人の脳と呼ばれる大脳皮質の中にあります。

前頭連合野は、脳のあちこちにファイルされている情報をかき集めて、一時的に保存することができます。

そして集めた情報を組み合わせたり、ばらばらにしたりして、「これからどうするか」といったことを検討するところです。

その働きがまるで黒板にいろいろな情報を書き並べて作業しているようなので、心の黒板とも呼ばれています。

前頭連合野が行う、心の黒板のような働きをワーキングメモリーといいます。常に照会できる辞書のようなもので、PCでいうメモリーです。

このワーキングメモリーという記憶によって、人間はほかの動物とは違うことを考えられるのです。

ワーキングメモリーは記憶の一種ですが、人間の自意識につながるような脳の情報処理のもっとも高度な働きともいえます。

いろいろな情報を組み立てて問題を解決するとき、このワーキングメモリーが威力を発揮します。

そういう意味でいえば、ワーキングメモリーこそ人間特有の記憶なのかもしれません。

 

思考・知覚・認知・想像力

「思考」とは、大脳皮質の認知作業として行われる複数の情報を対象にした論理的な情報処理を言います。

「視覚認知」「聴覚認知」「内覚認知」etc.など、認知作業とはそれぞれの感覚野の辺縁に当たる連合野で別々に行われ、次に連合野における認知機能を基に成立する過程のこと。

「知覚」とは、感覚器官から取り込まれた感覚情報が大脳皮質の入り口である「感覚野」に到達する過程で、認知の可能な「ひと塊の情報」に整理されること。

「認知」とは主にこの感覚野から入力された知覚情報に対し、脳内の記憶情報を基に比較・分類を行い、それを特定の対象として識別する作業のこと。

「想像力」とは可能性(未来)の結果を予測するために必要なもので、「未来報酬」を想定し、より価値の高い行動の選択を可能にする力のこと。

 

このようにして識別された認知結果は実際の行動選択に用いられたり、単に新規の記憶として保管されたりするだけではなく、それそのものがまた新たな認知作業の材料となります。ですから、このような認知作業の連携や継続、またあるいは、複数の記憶情報といった純粋に内的な情報処理も含め、それを広く「思考」と呼ぶことができます。

 

学習記憶

生後環境から獲得された体験結果を記憶として保持することにより、次に同様の事態と遭遇した場合、より迅速な行動の選択を行うことができます。

 

記憶には、頭で覚える陳述的記憶Declarative memoryと、体で覚える手続き記憶(技の記憶)Procedural memoryの2種類があります。

頭で覚える記憶と体で覚える記憶です。例えば、漢字を覚える「記憶」と自転車の乗り方を覚える「記憶」です。

難しい漢字を覚えたり、数学の公式や歴史の年号を覚えたりするのが陳述的記憶です。

海馬は、陳述的記憶をする時に大切な役割をはたします。この記憶は一度覚えても案外すぐに忘れてしまいます。

手続き記憶は、自転車の乗り方を覚える記憶です。一度しっかり覚えれば、なかなか忘れることはありません。

たとえば、自転車に長年乗っていなかったとしても、体が覚えているのでちゃんと乗ることができます。これは手続き記憶のおかげです。

二つの違いは記憶するためのプロセスです。

手続き記憶が貯められる場所は、海馬ではなくて脳のずっと奥にある大脳基底核(だいのうきていかく)と、後ろ側の下のほうについている小脳です。大脳基底核は脳が体の筋肉を動かしたり止めたりするような割とおおざっぱな動きを、小脳は筋肉の動きを細かく調整しスムーズに動くために働きます。

こうして体で覚えた手続き記憶は、消えることなく、いつまでも私たちの脳に刻み込まれます。

私たちが一生懸命に体を動かし、何度も失敗をくりかえしながら練習するうちに、「大脳基底核」と「小脳」のニューロンネットワークが結び付き経路が形成され、それが記憶となります。

例えば、スポーツ万能な人のことを「運動神経がいい人だ」なんて言いますが、医学的にいうとこの表現はあり得ないのです。

なぜなら、運動オンチの人もスポーツ万能の人も、みんな運動神経は同じものだからです。

この運動神経というものは鍛えて太くなるものでもありませんし、生まれつき特別に発達しているものでもありません。

では、スポーツ選手とあなたの運動能力に差があるのはなぜでしょう?

筋肉の発達は大きな要素ですが、それ以上に運動能力に深く関係があるのは、実は小脳の中の記憶なのです。

記憶とは、練習を繰り返すことで、小脳の中に筋肉をもっとも効率よく動かせる回路のことです。

訓練というのは、何度も何度も練習することによって「どの筋肉を、どの程度動かせばよいのか」といったことを試行錯誤し、小脳の中に最適な動きをするための回路をつくっていく作業です。ですから、訓練を繰り返し、小脳にその情報を叩き込むことができれば、誰だって運動能力を向上させることができる、というわけです。

 

理性

理性は闇にスポットライトを当てて、そこを分割して区分して隣と比べてレッテルを貼ることがお仕事です。

私たちが「理性」と呼んでいるのは、それは可能性(未来)の結果を予測するという、「計画行動」のことです。

「理性」とは「その場の感情に捕らわれない冷静な判断力」の性質で、.二元論では情動を抑制するものとして捉えられていますが、脳機能学では、情動を抑制する特定の機能はありません。 

Cf 全体性の中での「理性」については、エッセイ「理性のできること・できないこと」を参照してください。

知能行動は推理や洞察によって今までに体験したことのない結果を予測して行う行動。これに対して、既に学習したこと、覚えたことをやるのは「学習行動」です。

理性行動は「自分の行為」と「他人の行為」を比較することができるということです。では、その先には当然のことながら「道徳」や「法律」というものが発生してきます。

意識行動は、原因と結果の因果関係を自覚し、「可能性(未来)の結果を予測する」という計画行動のこと

 

智性intellectusとは、その動物における無意識状態である本能行動と情動行動を、慮(おもひはか)る性質のこと。どうすれば心や体が活性化するかを思んばかる意識のことです。

智性とは、ありのままに放置して、自然の成行きが着くまで「待つ」ことができる能力でもある。

Cf. 知性と智性の違いは、エッセイ「智性の扉を開ける」を参照してください。

 

理性行動が情動行動を抑制するシステム

大脳皮質はどのようにして認知よりも先に選択された情動行動を抑制し、理性行動などの計画行動を実現しているのでしょうか。

情動を抑制すると言っても、大脳皮質には大脳辺縁系の働きを抑止する「抑制信号」のようなものを発生させる機能は一切ありません。大脳皮質が大脳辺縁系の情動行動を抑制するためには、それに勝る、より価値の高い計画行動を立案する必要があります。その場の感情や短期的利益に流されず、想定される未来報酬の方により価値が高いと判定が下されるならばその計画行動は実行に移され、結果的には情行動が抑制されたということになります。

Cf. 心を鍛錬する技を身につければ、理性を発するまでもありません。

 

ちょっかん

説明や証明などによらず、あることを感じとることを「ちょっかん」と言います。

英語ではan intuitionと言いますが、全体性の4つの領域によって、内容と意味が異なり、漢字や英語で書くと違いが明確になります。

 

1感性領域の直感 

「第六感」the sixth sense 身体にそなわった五感以外にあるとされる、ものごとを直感する感覚。虫の知らせ

「直感」an intuitionは、説明や証明を待たないで直ちに物事の真相を感じとること。現に存在するものについていうことが多い 学習によって獲得された条件反射による場合も多い

「予感」premonition 事が起きる前にあらかじめなんとなく感じとること

Middle English monicioun, from Old French monicion, from Latin monitio, monition-, from monitus, past participle of monêre, to warn

 

2理性領域の直感 

予想expectation, Latin exspectâre : ex-, ex- + spectâre, to look at, frequentative of specere, to see

Anticipation  Latin anticipâre, anticipât-, to take before : ante-, ante- + capere, to take

経験や確率によって起こりうる可能性を合理的に判断して予期・予想すること

大脳の思考回路をコピーできる小脳で九九などの計算の熟練を無意識にしている

 

3智性領域の直観

相反一致・同化・同情を直に体感すること

自己の外にある他を自分の一部として体感すること

intuitus gnosticus  J. S. エリウゲナ『自然区分論』 

visio intellectualis クザーヌス

 

4魂性領域の直観 

大いなるもの・全体性・カミを直接に感じること 

観照theōria 脱我的な自己直観 プロティノス

meditation; contemplation

 

感性の直感と理性の直感

「直感」とは論理的な結果ではなく、意識せずに導き出されたものです。多くの種類の直感がありますが、その一つは条件反射のことです。 

脳には全ての情報が与えられなくとも結果を出力をしてしまう特徴があります。錯覚・思い込み・パターン化・習慣・条件反射もこの脳の働きが原因で生まれてきます。

これらは、もともと与えられていない情報なので大脳皮質に情報が届かないのでそれらを意識に上げることができません。それでも結果を出力しているので、無意識の領域で選択をしているということです。

このようなものが感性領域の「直感」です。全体の一部の情報から、その情報が現れるものの共通点、特徴、必然性を判断し、全体までも認識すという方法をとっているので、素早く、瞬時に物事を把握してしまいます。

ただはじめのの情報が錯覚であったり、一部情報の把握の仕方が間違っていたり、その作ったパターンのルールを間違えていたり、勘違いしていたりした場合は、必然的に間違った直観を得ることになります。

 

本能行動や情動行動はもともと大脳皮質を使わない無意識行動ですが、果たして大脳皮質にはこのような無意識の直感というのはあるのでしょうか。

それが認知を伴うものである以上、基本的にはないはずなのですが、本来ならば論理的な思考であるはずの複雑な結果を瞬時に導き出してしまうという経験を誰もが持っています。ひとつの理由は、それが過去の学習体験に基づいて無条件に選択されていることです。

例えば、「3×4×10=120=十ダース」という結果を出すのに、我々はしばしば「サンシが十ダース」といった離れ業をやってしまいます。誰でもできることなのにどうして離れ業なのかと言うと、これは大脳皮質の論理性と大脳辺縁系の条件反射を加えたものなので、現在のコンピュータでもそのようなプログラミングがされていないからです。もっといい喩えがあれば教えてください。

簡単な計算を何度も体験することにより、途中のプロセスを省いても対応する結果の選択ができてしまうからです。小学校で覚えた「九九」は無意識の結果選択であり、これを利用して自動的に答え(結果)が出てきます。

 

例えば、道を聞かれて、「この100mくらい先に」と説明する場合は、感性領域である直感的空間認識でしょうか、それとも理性領域の論理的思考でしょうか。

自分が過去に歩いという実体験から100mくらいという数値を割り出したとするならば感性領域の直感で、何軒くらい先なのかといった情報を基に計算したのであるならば理性領域の直感です。

Cf

大脳皮質の認知作業は、複数の情報を基に行われるもので、これらの情報は作業が完了するまでの間、「短期記憶」として連合野内に一時保持されていなければなりません。そして、入力された知覚情報や、呼び出された記憶情報が連合野内に一時保持されることによって、ヒトは初めてそれを自覚することができます。これを「意識」といいます。

このように、認知情報は大脳皮質の意識に上る情報であり、無意識で論理的な思考を行うということはできません。

ヒトの特徴は海馬が司る「短期記憶」を同時に扱える能力です。

 

理性領域の直感と小脳

理性領域の「直感」とは、これは感性領域の第六感ではなく、いちいち思考というプロセスに頼らなくとも「直ちに論理的な結果を選択することができる」ということで、これには必ず訓練というものが必要となります。そして、脳内でこのような「訓練の結果」を学習しているのは「小脳」です。

大脳皮質が繰り返し思考を行うと、その「手順」が小脳に学習されます。そうなると同類の入力に対して小脳が自動的に片付けてくれるので、余裕のある大脳皮質は更にその先を読むことができるようになります。

小脳の特徴は大脳にあるイメージをコピーして、それを「内部イメージ」にします。次に小脳は「消去法」によって、記憶します。海馬の「書き込み式」の逆で、失敗した理由を消していくことで、成功に近づこうとする働きです。ミスが生じると、平行線維とプルキンエ細胞との間にあるシナプスの伝達効率が低下するので、「長期抑圧」されてミスを起こした回路が消去されて、残された回路が熟練した動きを実現します。

例えば、プロの棋士は様々な手筋や局面を無数に体験しているので、論理的に矛盾のない一手をまるで超能力のように見つけ出してしまいます。正に訓練の賜物であり、これが理性領域における「直感」の正体です。

 

観察する者

意識 「内省」とは?

「自己意識」とは何でしょうか?

それは「何か」を「外から眺めているような感覚」ではないでしょうか?

観られるものと観るものの二つがあるのがポイントです。観られるものがあるということは観察する者がいるのです。

体からのメッセージや「心」の反応が、言葉やイメージや法則などの対象化しえるものに変換された時に「自己意識」が発生します。しかし、脳内には意識を発生させる器官や意識を司ると思われる組織は何処にも発見されていません。

対象化されたということは、枠組みが決められたということです。スポットライトが当てられることにより範囲が限定された言うことでもあります。

大脳皮質を凹状の穴として例えると、常に変化する情報を分析するためには、一時的に入り口に蓋をして範囲を限定する必要が出てきます。穴の状態を大脳皮質で処理される表層意識、そしてそれを閉じた状態の時に発生するのが「自己意識」であるというメタファーです。

「自己意識」が発生するのは大脳皮質に情報(電気刺激)が届いた時だけです。

「こころ」が発生するのは、二つの違う世界を繋げる必要がある時で、脳幹・大脳辺縁系・大脳皮質・自己意識と、どの領域でも特徴のある「こころ」があります。意識がないところにも「こころ」はあります。感情や条件反射のように。

ただし、日常会話で使う「こころ」や「気持ち」は意識が作り上げた、その人の空想ともいえる作品です。英語ではマインドmindと呼ばれるものです。

 

では、脳機能全体の中から意識を発生させるために必要な「最低条件」を探ってみましょう。

意識の取り扱いは各分野で様々に異なりますが、脳科学で意識といえば「モニターリング機能である」というのが現在の中心的な考えだそうです。哲学ではここに理性や人格を含める場合もあります。

このモニター機能とは「自覚」をもたらす唯一のものであり、人間が自分の心理を内省する手段はこの意識しかありません。そして、この役割は、最終的には「フィードバック機能」です。

ヒトの神経系は入力を基に中枢処理を行い結果を出力します。これで入力に対応した適切な選択できるならば自己意識が発生する必要はありません。しかし、この過程で情報のフィードバックが行われるならばより価値の高い結果の選択が可能であり、モニターというのはこのために行われます。フィードバックとは入力に対して自動的に出力するのではなく、途中の経過によって、複数の出力があるということです。

 

意識の特異性は、「自己の存在を認知できるのは自己意識だけである」とすると、主人は大脳皮質なのか自己意識なのか。ここに、主従関係という矛盾が発生します。矛盾を受け入れない性質の人は単純に、「自分とは自己意識のことである」と思って暮らしています。これらのタイプの人は中間意識・深層意識・非意識の部分を自分の一部として向かい合わない傾向があります。

ところで、「体や心や脳を含めた自分」を見ているのはいったい誰なのか。脳科学はそのような生理学的構造は発見できないとして自己の傍観者、あるいは表象の観測者である脳内のホムンクスル(小人)を否定していました。まあ、ただ見付からないというだけの主張なのですが、現代はこれを反証する科学者も大勢出てきました。

「身体を含めた自分」は自己意識の他に無意識の領域もあるので、自己意識∈「自分」です。

主従というメタファーを持ち出すので答えがわからなくなるので、答えは単純に「どれもこれもが私です」にするのが簡単です。私が一つしかないと先に決めてしまったのが、いけなかったようです。 生命維持、情感判断、予測論理、観察する者、これら全部が主人であり、自分だというメタファーにすれば矛盾もなくなります。主人は一箇所にしかないというメタファーは、あまりにも生命体とのお付き合いがない人の発想です。安全な書斎にこもって理性と言葉と客観性に身を委ねてしまった人が考えるやり方です。

アッ、まずい、あっちの声が出てきはじめました、定義の部屋の空気に戻ります。

 

自我

「自我」とは何かを聴いたり感じたり考えたりすることの主体を概念にしたもの。「自分」とか「私」とか自意識のことです。今まで話してきた「観る者」のことです。

敢えて「自己意識」との違いを言うと、寝ている時には「自己意識」はありませんが、自我はあります。

なぜならば、寝ると自己意識は発生していませんが、いままでの意識の履歴があるので、これを記憶しておけば、起きている時にはその記憶を思い出して取り入れて自我が成立し、寝ている時は意識の履歴の記憶が自我になります。

自我が理性の中枢であるという解釈も科学的には否定されています。自我は理性的行動を意図的に選択しない場合が多々あります。

この「自我」が存在することにより全ての現象に「主体と環境(対象・他・社会・身体・自然)」の関係が成立し、比較することが可能になります。

人間では生後二歳ごろからこの機能が働き始め、それまでの感覚的運動知能期から概念的知能期へと移行し、「自己と外界という規則」に従って生きてゆくことになります。自我は幻ではない。ヒトは生きている限りこの「主体というプレイヤーから」は逃れることはできません。だからといって、自我を主体という中心にしてしまうと、他の頭や心や体から文句が出ます。ですから他の3人のプレイヤーたちのことも気遣うことがうまくやっていくコツです。

 

Cf.  他人の心を理解する能力    サリーとアンの課題  偽信念課題

サリーとアンという女の子が、部屋で遊んでいる。

サリーはおはじきで遊んでいたが、それを自分のかごに入れて外に遊びに行った。

アンは、かごの中からおはじきを出して遊び、遊び終わってからそれを自分の箱に入れた。

そこに、サリーが外遊びから帰ってきて、またおはじきで遊ぼうと思った。

 

ここで被験者に対して、「サリーはおはじきで遊ぶためにどこを探しますか?」と質問すると、

 

大多数の子供たちは「箱」と答えてしまいます。

どうして?「だって、おはじきは箱の中にあるもん。」 

子供たちは自分たちの視点に立って事実を指摘するだけで、サリーの立場に立ってサリーがどのように思っているのかを追体験しようとはしないからです。

1983年の実験でマキシ課題と呼ばれ、3歳児の正答率は0%、45歳児は57%、右半球の前頭連合野に損傷がある患者は正解率が下がり、扁桃核損傷者は正答率が低い)

成人でも前頭前野に梗塞などで障害のある人に上記と同じ問題を出すと障害のない人と比べて正解率が低くなる実験結果があります。正解できなかった人を調べてみると腹側内側前頭前野に障害があることが報告されています。(Shamay-Tsoory, SG Etal, 2005)

 

自我が発達し確立すると「自」と「他」の違いが明確になり、一つのものを内と外に分けて、内側の世界から外の世界を見るという新しい基準を加えます。新たな価値基準が増えたことになります。

しかしこの基準を多用することにより、自我だけが基準であるというような固定化が進むと、今度は自我による問題が多発してしまいます。するとあたかも「自我(エゴ)」に縛られているように思えてしまうのですが、実際は喜び、悲しみなどの感情は全て情感刺激の結果として発生するものであり、自我はこれらに振り回されているに過ぎません。自分とは自我そのものではありません。意識発生の主体を自我と呼ぶだけです。しかし意識はいつも存在しているわけではありません。寝ている時や気を失っている時は意識がありません。しかし自我はいつもあります。これからもわかるように、私たちは自我に操られているのではなく、発生した意識や無意識に捕らわれているということになります。

フロイトが用いた「自我意識」は、これは解剖的事実と一致しないことが既に判明しており、現在ではそのまま適用することはできません。

 

自意識が大きいままの人  愛は小さくするのに効果的

どんな共通点があるのかそのうちまとめてみたいと思います。

例えば、現実界に住まない人たち、次世代に関心が少ない人たち、愛する対象が現実にはない人たち、たとえば  歴史上の人物やアイドルとか。 

大きいままでもいいのだけど、それが嫌な時には、常に変化するモノに対する愛の想いは効果的である。

自己意識は自分の内部にある想いの枠を作りあげるので、常に変化するモノを愛することにより、その枠を常に更新する必要が出てくる。アイドルで言えば舞台の上ではなく、普段の本音です。

自意識が小さくなり、ただの人となるためには、最大影響を与える愛するモノが登場することで、相手に合わせて自己像(自意識)もだんだん小さくなる。

 

 

精神分析における自我概念  平凡社百科事典より抜粋と勝手に加筆

常識的にいえば自我とは自分の存在そのもののことであるが,自我が個人の人格の一部に過ぎず,はじめから存在しているわけでもなく,いったん形成されたあとも分裂,拡散,崩壊する不安定なものであることを説くのが精神分析である。人間は生まれたときはイド(エス)だけであるが,イドの一部が外界と接し,自我となる。外界とはまず一般に母親であるが,自分について母親がもつイメージ,母親に規定された自分が自我の最初の核となる。その後さまざまな人たちとの関係を通じて自我は拡大してゆくが,どれほど拡大しても,自我となるのはイドのほんの一部に過ぎないし,いったん自我に組み入れられても,またイドに押し戻されることもある。自我は人格の統合性を保持し,現実適応を図らなければならないので,その妨げになるものはイドに留めおかれる。自我の不安定さは,このように自我に対立する広大なイドの領域を背後に抱え込んでいるためである。精神分析における自我は,主体としての自我と,その主体としての自我に見られる対象としての自我とをともに指しており,この点にあいまいさがあるとして,精神分析者によっては,対象としての自我を自己,自己像,自己概念,アイデンティティ,客体我などと呼んで区別することもある。しかしこの二つの自我は一体不可分なので別々の用語を用いると,あたかも技術者と彼が操作する機械のように別々のものと受け取られる恐れがある。本能が壊れていると思い込み,本能的行動規準を失ったと思っている人間は,人格の統合性を保持するのも,現実適応を図るのも,自分が何であるかということ,自分についての自分の規定,すなわち対象としての自我(たとえば〈おれはアーティストだ〉)を意識的または無意識的に規準にするほかはない。精神分裂病の場合のように,対象としての自我が崩壊すれば主体としての自我も崩壊するのだから,両者を別々の用語で呼ぶことには難点がある。

 

意思 選択するための動機   物事を判断して実行しようとする積極的な心の働き

大脳皮質の意識に上る理性的な計画行動を選択するための動機を意思と呼びます。

意思とは「行動選択の動機」であり、本質的には情動行動や本能行動を選択するための「欲求」に伴って発生するものであるが、それは大脳皮質の中にあるものではない。

実現すべき欲求に伴って脳内に発生する心の変化で、大脳皮質(意識)は単にそれを自覚しているだけに過ぎない。私たちが自覚できる行動選択はほんの一部でしかなく、それ以外は全てが無意識のうちに行われている。

 

Cf. 「心の動き」とは行動を選択するためにある。 自分の欲求に従うもの

意思は心理現象における全能的な役割を果たしている。

大小のリンゴがあった時に、どちらのリンゴが大きいかを判断するのは大脳皮質です。そしてリンゴが好きで腹が減っている時に大きなリンゴを選ぶのは大脳辺縁系です。しかし小さい方を選ぶにはどのようなことが必要でしょうか?この時に必要なのが意志です。行動選択の動機が自覚され、より価値の高い未来の結果を獲得することができるのが意志の力です。またこの意志も欲求の実現を効率良く行うための手段であるとも言えます。

この大きい方を選ぶという情動行動をキャンセルして小さなリンゴの方を選択するためには、何らかの代理報酬が必要になります。例えばダイエットのためにとか、大きい方は息子に食べさせそうとか。

ところで、前述のプロセスにおいて小さなリンゴを選択することが必ずしも自分の意志とされる根拠は何処にもありません。何故ならば意識のある計画行動とは違い、情動行動は自覚の伴わない無意識行動の可能性もありますから。例えば小さい方が美味しかったという経験の積み重ねによる条件反射の場合もありますし。

 

逆エントロピーの選択

「意志」を「エントロピーの原則に逆行する選択」と定義すると、「太陽系」「地球」「気象」「生命」、このようにエントロピーの増大に逆行するものには全て意志があることになってしまいます。

Cf..

エントロピーにはいろいろな解釈があります。その一つに、時間が経過するとモノは整理されたものから乱雑さに、秩序あるものが無秩序に移行する、という法則です。この法則を持って、宇宙は滅びると結論づける我が物顔のインテリがいます。しかしこれは植物は二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すので植林をして地球環境を守ろうと言っているのと同じくらいに、全体像の一部の断面しか見ていない見解です。

逆エントロピーが起こるのは、熱を

 

生命体は自己組織化し続け、個体は滅びながらも次代の子孫を残し続けます。

また銀河系は、星の爆発とチリの収斂を何度も繰り返しています。そして爆発のたびに新たな元素を生み出してきました。

宇宙はビッグバンの後は膨張し続けてやがて死を迎えるという見解がありますが、ビッグバン以前のことや、宇宙の死以降については何も無いと言って、ただ口を閉ざすだけです。

無秩序の中にこそ、見えない正体がある。そこに「秩序」があることを見つける見解は、きっと貴方の生命体と共にあります。

 

意思 Mind, Intention  自分がしようとする行為に対する認識

大脳皮質の意識に上る意味、概念、意向、考え方、思考パターンのことを「意思」と呼びます。

 

意思はどこまで判断できるのか?

私たちは自分の考えを自分の意思である思考パターンで決定します。ならば、意思とは自分のものということになります。また普段、自分の意思で自分の思考や記憶は扱っていると思っています。しかし私たちの脳内には意思というものは実際には存在していません。今まで見てきたように、決定をする判断機能は意識ではなく、無意識の領域を司る大脳辺縁系でした。すなわち自分の意思で物事を決定しているのはありません。 

自己意識ではわからないことが起こっていることを、自己意識が分かる言葉に翻訳したものが意思といえます。

すると意識は納得して安心できるのです。わからないままだと落ち着かないのが意識の特徴です。だから無理矢理にレッテルを貼って概念化して一般化して区別することで安心しようとします。

 

私たちの脳が意思決定を行うとするならば、そこには意識に浮かぶ複数の選択肢が与えられているはずです。何の情報の選択肢もない状態では、脳が意思決定の機能を使う必要がないからです。最低でも二つの相反する選択肢が必要です。右と左や、内と外、上と下といった二元性が意思の世界を存在させる必要条件です。

では果たして、その意思に命令を下しているのはいったい誰なんでしょうか? 

そう、わたしとあなたです。自己意識です。

 

自由意思はない? 自分ではそう思っていても生物学的利益の意思の影響下でしかない?

現在、生物学では、例え人間であろうともその脳内に自由意思の存在を認めることはできないという考えが持ち込まれています。

私たちの脳が如何に高度な情報処理を行おうとも、それは進化の歴史の中で遺伝的に構築されたシステムであり、その全ては生物学的利益の延長線でしかないという考え方です。つまり、ヒトは自分の意思で生きているのではなく、自然界の意志によって活かされているのではないか?ということです。従って、全ての生物がこの原則の下で生きているので、この考え方を推し進めると、完全な自由意思の存在が否定されてしまいます。

 

急に手足が麻痺する患者をMRIで見ると情動中枢である辺縁系と密に結合している前部帯状回と眼窩前頭皮質の部位が光りました。これは情動的なトラウマが手足の動きを邪魔しているために起こると思われます。

 

神経外科医ベンジャミン・リベットの実験

10分以内の自分の決めたタイミングで指を動かすように指示をします。すると被験者が指を動かそうと意識した瞬間と、実際に指が動き出した瞬間はほぼ一致していたにもかかわらず、指が動く0.75秒以上前に、脳波の電位変化があらわれた。

主観的体験としては自分の意志で指を動かしていると感じるのに、指を動かそうという「意思」を自覚する一秒近くも前に、脳波でモニターされる脳内事象が発生しているからです。脳の指令が一秒も前から出ているのなら、意志が動かしていると言えるのでしょか?まるで実際に取り仕切っているのは脳で、「自由意思」は事後の合理化による、自己を納得させるための妄想や言い訳のようです。 

これにはどんな進化的根拠があるのでしょうか?

脳から生じた信号が指に届くまでに遅延時間が生じるためです。テレビの衛星放送のインタビューの間のように。

自然淘汰は、意思という主観的感覚をあえて遅延させ、脳の指令と同時ではなく、指による指令の実行と同時にするような方向に働いたのです。

もし意思が脳内事象に伴っているだけの随伴現象だとしたら、なぜ進化はシグナルを遅らせて、動きと同時になるようにしたのでしょうか?

意思という主観的感覚は、私たちの動きに伴う影のようなもので、私たちを動かす原因ではないのでしょうか?

ここにパラドクスがあります。

実験が示すところでは、自由意思は錯覚です。自由意思よりも脳の事象のほうが一秒先行しているのですから、自由意思が脳内事象を起こしているはずがありません。

しかし一方では、その遅延はなんらかの機能を持っているはずです。

 

緊急時に人は、痛みや恐怖を感じないことが起こります。ライオンに腕を食いちぎられたリヴィングストンや戦場の兵士やレイプにあった女性やてんかん発作にもこのようなことが起こる場合があります

緊急時には、前部帯状回が極度に活性化します。これが扁桃体の情動中枢を抑制あるいは一時停止するために、不安や恐怖など、無力化を起こしうる情動が一時的に抑制されます。しかし同時に、前部帯状回の活動性は、極度の覚醒と警戒を生み出し、必要になるかもしれない防御反応に備えます。

このメカニズムが脳障害や脳内の化学物質のバランスによって誤って誘発されてしまったらどうでしょうか?

強く警戒して世界を見ているのに、情動的な回路が機能しない状態です。

この状態を意識はどのように解釈するのでしょうか?

「この世界は現実ではない」という、現実感の喪失。もしくは「私は現実ではない」という、離人症のどちらかです。この状態を体験している間はどんなものに対しても皮膚電気反応が全くありません。

 

自由意思 freewillと自己意識

自由意思と自己意識には密接な関係がある。

人と動物の差は、人は欲することを欲することである。願いが他と違っていることを望むということだ。

そして複数の欲求が相反する方向で衝突を起こしてしまうことだ。

例えば、喫煙者がタバコを吸いたくないと望むように。

格好がよかったり、気分転換のためにタバコを試したら良かったので、好んで吸っていたら、一部を拡大化した科学的データや社会のトレンドの要求から吸わないようにしたいが、やめにくいというケースだ。

これを大げさにするためにタバコをヘロインに変えてみよう。

ここでは吸いたいという第一次欲求を、吸いたくないという第二次欲求が抑える必要がある。

抑えることができないと、麻薬中毒者として扱われ、意志薄弱と呼ばれる。これでは自由意思がないことになる。

自己意識が計画したことを実行する力が伴わないと、自由意思があるとは世間では言われない。

たしかに自己意識が多くあれば、それだけ意思も多くある。

そして逆から見れば、意思を多く持つほど自己意識も多く持つのである。

ということは、意思の全くない人は自己がない、ということだ。

すなわち意思を減らせば、自己意識が縮小してくれるのだ。

中毒者には条件反射の書き換えを、自意識による精神ストレスの強い人には「考える時間」を減らすことが効果的だ。

 

 

理性と自由意思   ドストエフスキー「地下室の手記」 

「人に必要なのはただ一つ。自分独自の願望である。その独自性の対価がどれほどであろうと、それによってどこに導かれようと。願望の行く先は悪魔のみぞ知る。」

さすがドストエフスキーである。「理性」こそが行動の導きになるべきだと断言する人の小説である。

理性を導きとした願望の行き先は、体の破壊である。

 

自由意思の進化上の利点

自由意思はその環境でそのものの適応を高める

 

予定計画者のデメリット  不安に対する付き合い方

1 未来の可能性を考えるために選択肢が増えてしまう

2 選択を省察してしまうので、複数の価値観の評価基準ができてしまうので比較検討しなければならない

複雑な可能性は不確かさを生み、場合によっては存在上の不安を生む。

そこでこの不安を緩和するために、選択の手引きとなる原理を必要とする。

この原理とは達成させたいシンボル(目標)を持つということである。

 

意思決定の機能

私たち動物の意思決定とは、それは複数の結果を比較して行動を選択することです。そして、少なくともそのためには大脳皮質の発達が条件ですが、これは意思の大きさではなく、基本的には思考能力に比例することです。

ところが、ここに問題がひとつあります。実は、私たち動物の行動選択は、厳密に言えば意思決定ではないということです。

ヒトの脳内で行動選択の動機として働くのは「意欲」(意識)だけではなく「欲求」(本能、情動)であり、これは無意識である本能や情動の機能によるものです。

ですから、大脳皮質が如何に高度な計画行動を想定したとしても、そこに動機が発生しなければ一切の行動に移ることができません。大脳皮質には決定権がありませんから。

では、行動選択の最終的な動機となる欲求とは本能や情動に従うもので、ここで行われるのは外部入力に基づいて定められた反応であり、これを自分の意思とは言いません。

例えば、

「美味しそうなケーキ屋さんがあるけれど、お小遣いがもったいないから我慢しよう」

食べたい:本能

美味そう:情動

我慢しよう:理性

「お金を節約しよう」とか「ダイエットしているから」というのは極めて理性的な計画行動です。このケースでは欲求の抑制としても機能します。ですが、大脳皮質には決定権というものがないので、最終的な判定はここで再び情動機能に託されます。

 

すると、まだケーキを食べたいと思うのが本能の欲求があるのならば、お金がもったいないと思うことが必ずしも理性ではなく、今度は情動としての、もったいない、と思っている可能性も出てきます。いったい、判断の基準は学習した習慣だったのか、それとも意思だったのでしょうか?情動の学習機能による意思なのか、それとも自分の意思なのか?

 

この例えは、「本能を抑える理性」という図式が好きな人のために、つくったものです。

でも実際は

    

我慢しよう 理性

食べたい  情動    視覚・記憶(宣伝・経験)からくる小脳の条件反射

食べたい  理性    記憶(経験とCM)の理性領域  特に食べさせる情報のインプット記憶

それほど  本能

というのが一般的なパターンです。

食べたいと思うのは、理性の問題なんです。美味しそうなものを見て食べたくなってツバを飲み込むのは女腱反射であり、これは情動だけではなく、理性の記憶の役割も大きいためです。

では本能はどうなのか? ここがポイントです。本能は一日2回ほど必要カロリーと栄養素を取りたいという程度なので、それ以上のことを望んでいません。例えば満腹になったライオンの目の前に美味しそうな餌を置いても、飛びつかないように。

 

どちらの例えにしても、私たちは選んだ方を「自分の意思」と考えます。

ですが、脳内で実際に存在するのは与えられた状況を基に行動を選択するための機能でしかありません。我々はその結果を意思と呼んでいるのが通例です。自分の意識が判断したと思いたがっているようです。

 

個性・人格

事実行為の結果が積み重ねられ、全人類に共通の本能行動ではなく、一個人の意識現象や多彩な心の動きとして反映される学習行動のパターンと条件反射のパターン履歴

道徳性

進化の結果に得た、自らの行動を省察し判断する能力が道徳であるとダーウィンは言ったらしい。文献を知っている人は教えてください。

集団の判断の基準の一つは社会的な規則である。例えば集団内の序列に関する規則に無意識的に従う。しかしこれは道徳性ではない。

道徳的であろうとすることは、それにはほかの可能性のある「目標」と比較し、意識的な選択が必要だ。自己意識と自由意思である。

他の人の立場に立って、どう行動すべきを省察した結果に出された判断を、自分だけではなく他者や集団に期待し、時に強要する。

やはり道徳も自己意識から出てくるものだから、自己意識の特徴がそのままであるのが、当たり前だけど面白い。

 

道徳性のジレンマ

道徳的な規則は、長期的で全体的な目標を、自己中心的な欲求と格闘の中で支えていくためにある。

頭の理性と体の動物性や、霊性と肉体の欲求や、長期的な利益と短期的な利益や、集団の利益と個人の利益や主体のIと対象としてのmeとの対立の間に道徳性は存在し、理性や魂性を選択し行動することを道徳の規則とする。

「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」ローマへの手紙715

 

恥や愛や信頼や誠実さは、進化の過程で短期的な利益を避けるために生まれてきた。Robert Frank

信頼や評判などは短期ではなく長期の利益のための選択である。

 

私見 

道徳とは個の優先を避けるよりも、自己意識を優先させたので、生まれてしまったのではないか。

上記の全体性と個人が対立するモデルを前提にするには、小さな定住型の共同体では通用するが、現代の都市型のライフスタイルや移動スタイルでは成り立たない。

道徳は自分をImeに分断することで、責任を逃れることもできるようになる。

 

生命の意志  物質の意志   逆エントロピーの選択  

この項目はこのエッセイにはふさわしくありませんが、意志の定義づけを宇宙の意味と関連付けるために無茶に入れてみました。

エントロピーにはいろいろな解釈があります。その一つに、時間が経過するとモノは整理されたものから乱雑さに、秩序あるものが無秩序に移行する、という法則をさすこともあります。「閉じた系」であるという条件のもとですが。

宇宙にあるすべての物質は、時間とともに、だんだんと無秩序な状態になっていき、それがもとの秩序に戻るということはない。では果たしてエントロピーが時間を生み出しているのでしょうか?

また、「宇宙は、時間とともに、エントロピーが増大する」といって、宇宙は滅びると結論づける学者がいます。これは、宇宙はビッグバンの後は膨張し続けてやがて死を迎えるという見解ですが、ビッグバン以前のことや、宇宙の死以降については「何も無い」と言って、ただ口を閉ざすだけです。

しかしこれは植物は二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すので植林をして地球環境を守ろうと言っているのと同じくらいに、全体像の一部の断面しか見ていない見解ではないでしょうか?

 

「閉じた系」とは大きな水槽の中に沈めた、栓の閉まったフラスコのように、熱の出入りがない世界、ということです。外界とエネルギーを交換するが,物質を交換しない物質系ともいいます。ちなみに物質もエネルギーも交換しない系を孤立系と呼んで区別します。開放系とは、栓のしまっていないフラスコのように、外部からエネルギーや粒子の交換がある場合です、例えば生命体の成長と衰退のように。

 

一粒の種が巨大なケヤキになります。

これだけをみていると、この世のものをすべて滅びる方向にしか進んでいかないのに、どんどん成長していく姿には、感動があります。

確かに、生命体はエントロピーとは逆の方向の力を持ちますが、成長して、子孫を残しはしますが、衰退し消滅するプロセスを繰り返します。ですから逆エントロピーとは呼ばれず、ネゲントロピー (negentropy)とよばれ、生命体は環境に対して開かれており、呼吸などの代謝を通して環境にエントロピーを排出することで、その補償により自己の低エントロピーを保つ作用をしています。これによって生命は自己組織化され散逸構造を維持することが可能となります。

逆ではなく、低の理由は、熱の供給(太陽)が必要なためです。

 

そして、果たして宇宙は「閉じた系」なのでしょうか?それとも「開放系」なのでしょうか?

もし「閉じた系」ならばいつか宇宙は収縮して消滅するのか、膨張し続けるということがエントロピー増大の法則になのでしょうか? そしてもし「開放系」ならば、無秩序に固定化されない秘密は何なんでしょうか?

確かに、この世、地球、宇宙を見る時に、狭い枠組みの中ではエントロピー増大の法則が通用しますが、同じ時空にエントロピーと全く逆に働く力はあるのでしょうか?

 

星の爆発はエントロピーの法則で説明できます。では新星の誕生はどのように説明すればいいのでしょうか?

地球などの惑星ができる1億年さかのぼる46年億前にに太陽は誕生しました。ということはビングバンの90億年後に誕生したわけで、それまでの間は何があったのでしょうか?

そこには太陽の前世?の星の誕生と消滅があったと思われています。

太陽が熱を発し続けるメカニズは、核融合です。太陽は、水素の核が融合する、つまりくっつく時に生じるエネルギーを利用した大きな水素爆弾なのです。

 

太陽46億年前のの歴史過程をみてみます。

太陽は過去の超新星の残骸である星間物質から作られたふたたび集まって形成された星であると考えられている。 (根拠は主に質量の大きな高温の星の内部で元素合成によって作られる鉄や金、ウランといった重元素が太陽系に多く存在しているため)

中心核では熱核融合により熱核融合反応にて水素をヘリウムへ変換することでエネルギーを生み出す。

エネルギーは質量と加速度によって生み出される。 E = mc2 

万有引力の法則、すなわちあらゆる物質はお互いに引き合う力。

星が爆発しても質量が引きつけ合うことで、また新たな新星が生まれる。そしてまた熱源が生まれる。

これはずっと繰り返されるものなのか?

この重力に比例している質量こそが、エントロピーに反する力の根源なのか?

Cf. 万有引力の法則 F=GmM/r2   重力と質量は比例する。

F:重力G:万有引力定数m:物体1の質量 M:物体2の質量 r2物体間距離)

 

詳細の推察

星(太陽)は、宇宙空間を漂う星間ガスが集まって誕生する。最初は星間ガスが自らの重力で集まって密度が高くなった分子雲になる。典型的な星間ガスの密度は1cm³あたり1個しか水素原子を含んでいないが、密度が高くなった分子雲になると1cm³あたり10万個から100万個もの水素分子を含むまでに成長する。分子の中にできた密度の「むら」の濃いところを中心に、分子雲はさらに自分の重力で収縮し、原始星と呼ばれる段階になる。

原始星にはガスや塵でできた円盤があり、そこから物質が中心星に供給されることでさらに成長を続ける。円盤から供給される物質の一部は物質を放出する現象(分子流)により流れ出してしまうが、このため多くの物質が円盤から供給されるようになる。そしてさらに収縮が進み、星の中心部の水素が核融合反応し十分な密度と1,000万度以上もの温度になると、太陽のように明るく輝き始める。

こうした星の生成のプロセスにおいて、星の重力に対抗できる質量を備えたものは、星に引き込まれることもなく、かといって重力から飛び出すことも出来ずに、ぐるぐると星の周りを回り始める。これが惑星で、星が太陽の場合は、地球もこの惑星の一つである。

 

秩序から無秩序に変化するエントロピー増大の方向を「死の必然性」というならば、これとまるっきり反対の方向の力を「生きる意志」と定義してしまうのはどうだろうか?

この滅びないで成長する意志は「エントロピーの原則に従わない選択」とも解釈できます。すると「生命」だけではなく、「気象」「地球」「太陽系」にもエントロピー増大に逆行する方向を見つけることができ、これらのものも全て「意志」があることになってしまいます。

そして少し無茶な定義付けでしたが、私に事実誤認がなくここまでの論理の組み立てが間違っていないのならば、質量を持つもの、すなわち引き合う力をもっている形がある全ての物質は、意志をもつということになってしまいます。

なんだかとんでもないことになってきました。

 

確かにエントロピー増大に従わない方向が2つあります。

一つは、熱源のもとで、自己組織化をし続け、個体は滅びながらも次代の子孫を残し続ける生命体。

もう一つは、星の爆発とチリの収斂を何度も繰り返している宇宙。そして爆発のたびに新たな元素を生み出してきました。

成れの果てだと思われている無秩序。しかしこの無秩序の中にこそ、見えない正体がある。そこに「秩序」があることを見つける見解は、きっと貴方の「生命」と共にあります。

 

 

人間と動物の違い

犬の理性

犬にもヒトと同じように理性があります。

犬は主人が帰って来ると、目の前の垣根を迂回して主人の下に駆けて来ます。遠回りをして主人の所に行こうとするのです。これは紛れもない「計画行動」です。垣根を上を飛び越えれば早いが怪我をする可能性もある、迂回すれば少し時間がかかるが怪我する可能性はない、という二つの手段の可能性から一つを選んでいるわけです。

チンパンジーは道具を使いますし、カラスは硬い地面に木の実を叩き付けて割ります。このようなことは、結果を予測する能力というものがなければ不可能です。

私たちが「理性」と呼んでいるのは、それは可能性(未来)の結果を予測する「計画行動」のことです。

理性とは「本能や情動に捉われない判断」と定義されます。「本能行動」や「情動行動」では今現在に与えられている状況にしか判定を下すことができません。ですから、今現在の状況にしか判定を下すことができなのですから、ここでは未来の結果に対して行動を選択するということは絶対にできないわけです。これに対して、大脳皮質の機能を用いる「理性行動」は過去の学習と現在の状況を基に、今そこに存在しない未来の結果を予測して行う「計画行動」です。

かつては哲学でも理性とは人間だけに備わった知性であると考えられた時代もありましたが、現在では理性行動とは計画行動であり、大脳機能の発達した多くの高等動物には私たちの脳と同じ構造の理性が備わっている、と考えています。

何故犬には「おあずけ」ができるのでしょうか。それは、主人の言うこと聞けばご飯がもらえるという未来の結果を予測することができるからです。そして、それを「理性」とするのは、その生理学的構造が人間と変わらないからです。

但し動物の場合、「おあずけ」ができるだけではそれを理性行動と断定することはできません。主人が厳しく躾けるならば、犬にとってはそれが恐怖に伴う条件反射である可能性もあり得ます。「待て」と言われてその場の食欲や情動を抑制するためには、どうしても未来に何らかの報酬か、あるいは不利益が予測できなければならないわけです。そして、犬くらいの賢い動物であるならば、その程度の知能は十分に備わっています。

 

認知考古学

認知考古学者マイセンは、環境についての知識(博物的知性)、集団のなかで生きていく知識(社会的知性)、道具を使う知識(技術的知性)、言語的知性が独立に進化すると考え、芸術、宗教、トーテムのようなものは、それらをつなぐ流動的知性があってはじめて成立するとしています。

 

動物は概念を使えるか?    

動物は「観念」は持っているが、「概念」が使えないと推定されています。

観念とは個人が頭の中で抱いている考えで、概念は物事に対する一般的な考え方のことです。

動物は体験により二つの出来事を結びつける能力はあるが、これを一般化したり法則化する能力はないということです。

観念は、個人的な経験からくる関係性とイメージ(固定観念)の体験であり、概念は個の関係性とイメージを並べて共通性を見つけて出して抽象度を一段階あげて一般化したものです。英語の定冠詞で言うと観念はtheで概念はaです。

 

例えば、サーカスの動物は餌を欲しくて芸をするならば、その動物は餌がもらえるという観念を持っています。またもらえた時の嬉しさともらえない時の悲しさは二つの観念で違いがあります。しかし、この異なる状態が観念であると理解するためには、二つの観念を並べて共通性を見つけて、これらを括る「籠」と名前を用意する必要があります。例えばこれらの観念の共通性は、「自分の主観である」とか「これを感情という」というように。これが概念で、新たに名前をつけることになります。動物にはこの概念化ができるという実験結果はまだありません。

動物には感情があるので、嬉しい、悲しいと思うことはできます。しかしこれを抽象化するシンボルやイメージを使う実験結果を知っている方がいれば教えてください。

言語は高度な概念を扱うために極めて重要な要素になります。しかし、例えば、「大きい小さい」、あるいは「前と後(原因と結果)」など、言語を使わなくとも論理的な比較を行うことができますし、言語中枢は持っていませんが、言語的な意思疎通を行う高等動物はたくさんいます。

人間でも赤ちゃんには言語コミュニケーションはできません。ですが、成長すればできるようになります。つまり、これは知能の高さだけの問題であり、人間と同じ脳の構造を持つ哺乳類や鳥類に概念を扱えないという理由は何処にもないわけです。このようなことは世界中の動物学者が長年に渡って研究を行ってきましたが、未だ確かな報告は認められていません。ですが、できないという根拠もありません。

 

抽象化の能力  形而上学的な言語

「知性」とは、与えられた情報を基に判断を下す能力です。また感覚・知覚から受け取った情報を抽象的・概念的・総合的認識につくりあげる能力です。

そして、ヒトの知性の特徴とは、それがたいへん高度で複雑であるということです。

言語を用いて様々な対象を抽象化し、論理的に比較できます。これによって思考法は複数になり、学習能力も飛躍的に高まります。しかし、過去の学習体験と現在の状況を比較し、より価値の高い未来の結果を予測することは、言語を持たない他の動物でもできることです。では、言語を用いなければできないことはなんでしょう?「愛」や「死」といった形のない概念を対象として思考を行うことです。従って、このような具体的な形体を持たない様々な概念を対象化する思考法はヒトだけの「知能intelligenceの特徴」だとされています。概念化は言語を操らなくてもできますが、使うことで、飛躍的に効率化されます。脳の発達の比較よりも、その使い方が鍵です。

 

言葉の学習時間とシステム

動物に言葉を解することができるかどうかといった議論に必ずついてくるのは、「意味や概念を理解しているかどうか」ということです。

これについては近年の「構造主義思想」以降では解釈が大幅に変更されて、「それができるのは人間だけだ」という単純な理屈は現在では通用しなくなっています。

これはやや哲学的な解釈ですが、概念を理解するということを構造的に扱うならば、果たして如何に高度で複雑な作業であろうともそれが中枢系における情報処理の結果でしかないというのは生物学的にも反論のできないことです。では、魚類を含め哺乳類に至る動物の脳の構造はヒトと全く同じです。ならば、ヒトにはできて他の動物にはできないとする根拠は何処にもないわけです。

とはいっても、大脳皮質の発達が圧倒的に違いますし、人間の脳には概念というもをの扱うために最も重要な言語表象を専門に扱う機能がしっかり備わっています。また、学習期間として用いられる寿命はインコよりも確実に長いです。

Cf.インコの寿命 

セキセイインコ7年、オカメインコ15年、スミレコンゴウインコ50年、オウム80年。

動物には人間と同じような高度な思考はできないという根拠は何処にもありません。ですが、これだけのハンディを克服し、生まれてから死ぬまでの間に哲学的な思考(概念)を行うことのできるインコを育てるというのは、これはやはり物理的に不可能かと推察されます。

 

知識の探求行動   知ることの快感

無用な知識を次々と獲得するのは、それはヒトが「知識に対する探索行動の可能な動物」であり、ここに快感が発生するからです。

ヒトの脳は生後の学習結果に基づいて利益・不利益の判定を行っています。そして、人間の社会には「知ることは利益である」という文化的価値観が定着しています。このため、私たちは生まれた社会からそれを教えられ、あるいは自らが体験することによって知識の獲得を利益と喜びとして学習し、この基準を使い判定して行動を選択することになります。

通常、脳内の報酬反応は何らかの報酬が与えられることによって発生するものです。ということは、基本的にはそれが自分にとって有益な知識でない場合は快感を得ることはできないはずです。ところが、人間は知ることそのものが利益であるという価値観を学習しています。このため、知ることは自らの脳内に快感を発生させる道具として機能しています。また、このような脳内に報酬反応を発生させるため自発的に繰り返される行動は「自己刺激」と言います。

 

ネズミにレバーを押すと餌が出てくる装置を使って報酬を体験させると、ネズミの脳はレバーを押すことによって快感を発生させるようになります(スキナーの実験)。通常、報酬反応とは餌が与えられなければ発生することはありませんが、ひとたびそれが学習されると「自己刺激」が可能となり、ネズミは自分の脳内に快感を発生させるためにレバーを押すようになります。

このように、まだ結果が判明していないにも拘わらず報酬反応を発生させることができるのは、それは過去に快感を学習することにより、次も利益であるという「未来報酬」を予測することが可能になるからです。

動物の「報酬系回路」はこのような学習予測機能を持っています。だからこそ、私たちはまだ知れぬ未来の結果に対しても行動を起こすことができる訳です。そして、知ることの快感を学習することによって生み出される行動の動機を「知的好奇心」と言います。

 

では、このように行動選択の目的が知的好奇心であるならば、それはネズミがレバーを押すのと構造的には全く同じことです。このため、私たちは自己刺激を繰り返すことによって次から次へと無用の知識を増やしてゆくことになります。そして、ここでは未知の報酬に対して行動が選択されているわけですから「どんな知識が得られれば良いのか」といった具体的な目的はありません。このため、仮にそれが不必要な知識であったとしても基本的には事前の選別を行うことはしなくなります。どんな知識でも快感であることに変わりはありませんから。

 

Cf.

「探索行動」は「無目的」と同じ共通点があります。どちらも結果が保証されていないということです。

単なる探索行動は、無作為、無目的であり、結果によってはくたびれもうけ、場合によっては危険といったリスクを伴います。しかし、遭遇するのは危険ばかりとは限らず、そこには不測の事態と共に「未知の利益」が発生する可能性もあります。このため、私たち動物は未知の結果に対しては行動を起こさない限り未知の利益を獲得することはできないわけです。故事で言う「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というわけです。

動物に習性として備わる探索行動には、無駄や危険というリスクを侵してでも「生き残りの可能性の拡大」という生物学的意義が成立します。しかしそのためには個が死んでも集団の利益になるという自己意識もしくは、個は集団の一部であるというアリのような感性と価値観が付随します。

 

双方向的思考

 

 

身体

全体性

機能

 

学習回路

 

 

ヒト

皮質を閉鎖

コギト

監視

無知を知る

 

 

 

哺乳類

新皮質

知性?

統合

予定計画

 

 

 

爬虫類

原皮質

理性?

推論・直観

仮説

 

 

 

魚類

古皮質

悟性?

分類

分割・概念化

 

 

 

 

大脳辺縁系

感性

判断

 

学習能力

 

 

脊髄動物

脳幹〜脊髄

本能

生存

 

 

 

 

有肺類

カタツムリ

 

 

 

 

 

 

節足動物・虫

心臓

 

同化

一心同体

 

 

 

原索動物・ホヤ

 

交感

交換

 

 

 

 

 

参考文献

「心の脳と心のしくみ」ニュートン・ムック別冊編(ニュートン・プレス社)

「神経生理学入門」ケヴィン・シルバー著(新曜社)

「三つの脳の進化」マックリーン著

『ヒトはいかにして知恵者(サピエンス)となったのか』――思考の進化論

How Homo Became Sapiens――On the Evolution of Thinkingペーテル・ヤーデンフォシュ

『脳のなかの幽霊』『脳のなかの幽霊、ふたたび』『脳のなかの天使』ラマチャンドラン