巷の神々 石原慎太郎
石原慎太郎の霊力の定義は粗い
霊力は科学では捉えられない、非現実的な能力(見えないものの実在)であり、その能力によって、モーゼ、キリスト、仏陀、マホメットは奇蹟を行った、と石原は霊力を定義している。 P40
つまり、原子レベルの因果関係では理解できないものをすべて霊力にしている。
実際には心(表層意識)のレベル、魂(深層意識)のレベル、エネルギーが0の霊のレベルと特徴が違うので、それを1つにまとめて「霊」とするのは、2分法に囚われてしまった人の思考パターンに操作されてしまっているからである。
宗教経験の諸相 ウイリアム・ジェイムズ
「宗教生活とは、見えない秩序が存在するという信仰と、我々の最高の善は、この秩序と調和順応するところに在る、という信仰とで成立する。信仰とその順応が、霊魂における宗教的態度である。」
神は自分を見つめていてくれる、という実感が宗教における、求められるべき普遍の真理である。
教義はその実感を得るための術でしかない。
神と人間との結びつきが確かにある、という実感が宗教の窮極であり、始まりである。
悟りとは
神の心とつながっている本心、つまり神から分かれた生命そのものとなり、神の目的達成のために生きる肉体発生以前からの心。引力を持たないダンマの光、調和、愛。
もう1つは、意識、想念、識viññāna、業kammaの心。全体ではなく自己自身の安楽、富貴を願う想念。
この想念は因果関係という原因と結果によって生じるもの。
これはカルマ・エネルギーによって発動しているので、各人各様に勝手に作動する私心なので、本心の律動を阻害している。
本心と自分とが全く一つになること。心と吾が1つになること。
自己の本心(神の心)をそのまま光り輝かせること。生命を活かしきれる状態。
我々自身を知るために神を求める。
大悟とは、自己が神と一体である、ということを心身をもってはっきり知ったこと。
法然にとっての悟りは、人類の救いのことで、頭から信じ込むことである、と覚った。
大無量寿経の法蔵菩薩の誓願の教え(西方極楽浄土で阿彌陀佛になり、その名を称える者をみな必ず救う)を読んで南無阿彌陀佛を唱える「念仏」に至った。
仏典は過去の釈尊について書かれたものなので、弥陀の本願である、神と我との一体、我は神の中にいる、という「いま・ここ」の念仏に至る。
学問・知識・修行を続けても安心できないので、想念として捉えるのではなく、スポットライトを阿彌陀佛に集中して、融合させる時に、仏と1つになることを知覚する。
神への自己の没入と依存を念仏で実践する。
まずは念仏という形、そしてそこからその心を感得させようとした。
デルモグラフィー 遠感による皮膚紋画症
頭の中にある形を思い浮かべると、それが上膊部の内側に図形として浮かび上がる。
石原氏の定義や解釈の誤謬
意識はエネルギーというのは同意だが、それは机を動かすほどの力ではない。
父の屍体に触れた時に「自分と親父との仲はこれっきりではない」と覚った、とあるが、これは後に本人が書いてあるとおり、死後の世界を自覚したのではなく、ただ予感しただけのものである。
R.M.レスター 「今在る後の研究」の誤謬
愛妻の死後、これほどまでに愛し合った夫婦が簡単に引き裂かれることを「こんな道理に合わぬ、説明のつかないことの起こるのが許されている世界が、神の計画通り造られた世界であると、誰が信じることが出来るだろうか。」
彼は自分の望みを基準にすることで、この世界と神を道理づけて説明しようとする誤ちに囚われている。
霊の定義
無限の意識で永遠不死
この世以外に在る
霊の働きを数式化する試み
白光真宏会 五井昌久 宇宙線研究会 千葉県市川市
予言や手触れ 先天性唖、ガン
辯天宗 大森智辯 大阪・茨木
霊友会の久保角太郎と小谷喜美
に影響を与えた佛所護念会の西田俊蔵の先祖因縁供養と法華経マントラ
因縁が心霊現象として規制するので、心理的な規制を解くことで、難問題を解決する。
家で先祖供養に励んで、現世に於ける一切の問題を解決する、という教え。
久保角太郎は法華経を学ぶことで宗教的情熱を得る
霊友会から分派した孝道教団、立正佼成会
日蓮正宗
仏教の本仏本尊は、久遠の過去に釈迦を教えた上行菩薩である。
仏は所生、法華経は能性。仏は身なり、法華経は神なり。
宗教家は聖職ではなく、専門的技術者。
カントが指摘したように、神、霊能、不滅性、自由などの言葉は五感で認識できないので知識の対象とはならない。
これらは準感覚的実在の形式を用いて、対象を知るのではなく、情緒を抱き、握る。
合理主義の根拠
1抽象的原理 明確に述べること
2感覚的事実 明白な体感
3仮説 体感に基づいた論理性
4推理 論理的に引き出される推論
理知の限界
理知に基準をおいた理論は表層的な外観でしかない。
理知は生命体にただ追従しているだけ。
没我と無我と自我
没我というのは自我の判断を捨て去る盲目的信仰。
無我というのは
@没我 自我の判断をせず、他者の判断に任せること
A涅槃への道には自我は役に立たず頼りにならないことを認識すること
色界を体感するためには自我が対象と共鳴して質的転換が必要である。
聖なる人間
霊的感情がたえずエネルギーの中心となっているような人
1自分は利己的利害ではなく、より広大な生活の中にある意識と、ダンマを感じ続けている確信。
2ダンマと物質に連結性の意識があり、ダンマdhammaに対しての自己放棄の喜び
3自己の外郭(感覚と感情と思考のパターン)が融解して深層意識と共鳴し、自由自在、融通無碍の境地
4感情の基準が調和ある愛情、つまり他者に「然り」と答える。
→
1自己放棄が自己欲望を圧倒し、自己犠牲となる。 犠牲と失欲に歓びを見出す。
2個人的動機が取るに足らないものになり、心が安定し、堅忍不抜の世界が拓ける
3清らかな心 五感器官からの信号に固執しなくなる
4広い愛 敵、乞食をも兄弟として遇する
信者の特徴
現状からなんとしても逃れ出たい願望。 抽象的には解脱への願い
信仰の土台
人間の力は無力であり、そこから逃れたいという渇望
5感覚器官の信号で満ち足りた人は神の姿を求めない。
不幸を知らない人間には、感謝の気持ちがない。
入信の動機
1病気などの肉体的動機
2金銭などの物質的動機
3人間関係の動機
4自己の精神的動機
5奇蹟的現象の衝撃による帰依
6教祖との個人的接触
現実的な願望の動機で入信し、叶えられることで感謝が生まれ、叶えたものに畏敬が生まれ、帰依恭順の態度が生じてくる。
知的欠如のよる入信者
自分は他者のような五感覚器官以外の信号などの肝心なことを察知できないこと、への焦燥感。
この焦燥感が、期待している真理の体系とある現象を早急に結びつけて納得したいという潜在心理が働いて、過剰一般化したアプリケーションを作成してしまう。
常識的な知識を超える現象は本人にとって驚きでしかないのに、未知の真理の顯現だと過剰一般化して盲信する。
多くの誤謬が含まれる危険性がある。
客観性の実証を土台とする学問を基準にして暮らしていると、それでは実証されない主観的体験が積み重なると、対象全体を盲信してしまう傾向があるのは、「AでなければBである」という思考パターンを持って暮らしているからである。
人間の自我が理性だけではないことをインテリは忘れて見失いがちである。
論理的理性が自分を失ってしまう原因になる。
悩みに対して物質レベルとは違う解決策と結果、そしてその論理的説明があれば、そのプロセスを本人は許容するが、その論理的説明によってその人は洗脳される。
たとえば、「最初に近づいてきた運命、それが唯一の正しい運命であると信じる。自分は神を信じ、神の定められた運命を信じる」
このような自己放擲、神に対する無我
人間があるから神がある
なぜならば神を証するものは、人間であるから。
因果関係
知性の本性は1つの価値体系の構築
気まぐれな個人的信念から脱却して、すべての思考的人間に妥当するような客観的真理に達することが、知性の最も大きな理想であり、
宗教を不健康な私事から解放して、それに公的な価値を与え、その救いにあずかる権利を万人に与えようとするというのが、理性の仕事である。
宗教や神秘的体験も思考する心の住んでいる舞台面に適合するように解釈されなければならない。
このような哲理哲学は人間の本性として、それが希求される要素を持っている。
理性は自分の体験を1つの価値体系に帰納しようと計る。この本能的態度がもろもろの科学を生んできた。
理性は意識領域の哲理のために論証を見つけ出すが、意識領域を保証することはできない。
測定できない現証を、人間の存在と時代社会に結びつけて体系化したものが哲理である。
宗教の熱狂的感情が呼び起こされる、神的概念とはなにか?
人間が神について知っているもろもろの真理を1つの体系にまとめたものが神学。
宗教の哲理が科学と二律背反する矛盾があるのは、扱う領域が違い、1つの領域のルールで他の領域を説明できないことに起因する。
換言すると主観(意識エネルギー)を客観(物質エネルギー)のルールで説明しようとするからである。
特に粗い世界のルールで微細な世界を説明することは不可能である。
理念を使ってパターン化することで、文明的に大きなことを成し遂げる
経験する現証から回路つくることによって、力が発揮される。
この回路を哲理と呼び、それを基軸として生きることを使命とよび、この哲理を宗教とするのが池田大作。
救いよりも情熱のエネルギーを与えるのが宗教
この現実の中で、自分自身の存在意味を見出し、存在を充実充足させるための情熱のエネルギーを与えるのが宗教の教え。
救済や前世の因縁からの脱出は信仰の属性であり、絶対の目的ではない。
この1つしかないTPOに生きる根元的な意味を知ることが、使命であり、生きていく態度を決めて創り出していく。
1つの思想の価値は、どのような行動を生み出すか、ということである。
根源を根拠にするの対立は自我のレベル
自我は自分の信仰を正統であるか亜流であるかということで飾ったり、卑下したりする。
比較が自我の本性であるからだ。
誰が本仏か、本家かというような比較や根源は、「存在」にとっては関わりなく、本仏にとっても意味がない。
宗教的対立は哲理の相違や解釈以前の自我の卑俗なレベルなものが多い。
祈りとは霊界とつながる準備である前提条件
真剣に心の扉を開いて受け入れようと身構えた態度のこと。
霊界から恩恵が流れ込んでくる原理のこと
五感では捉えることができない霊界(色界・無色界)とつながる作業は孤独である。
そこで五感で捉えるものを「寄す処」とするのはヒトの弱さである。
教団
不安の前に、多数の精神的繋がりによって乗り切るために、大きな組織に結集する。
キリスト教団の発展は、キリストの死後に、ローマ帝政下にあって、超民族的救済が被征服民、奴隷によって急速に発展した。
部族間の対立が激化して不安が大きかったアラビアで、マホメットの唯一神の教えは当時の被征服民、奴隷に急激に浸透した。
宗教団体の陥りやすい誤りは、哲理の普遍性をかざして、瑣末主義になることである。
都市文明生活者の回心
ウイリアム・ジェイムズは、今まで分裂しており、自分は不完全であり不幸であると意識していた自己が、宗教的実在者をしっかりとつかまえた結果、統一されて、自分は正しく優れており幸福である、と意識するようになることが、信仰における回心である、と言っている。
この回心により布教者としての自覚は確かになる。
これがパウロの回心が起こった意識のレベルである、と松尾は推定する。つまりjivaの分解と統合の意識レベルである。
自力と他(神)力
自力 哲理 享楽的 ありのままの人間を是正 自身の価値観の確立
他力 信心 ストイック 制約
イスマイリ派
アーガー・ハーン3世(Sir Sultan Muhammed Shah, Aga Khan III)(1877年11月2日〜1957年7月11日)は、シーア派イスマイリ派イスラム教徒の第48代イマーム
アリ・カーンの父
人間と獣の違い 情熱に価値を見出す
己の理念理想のために勇敢に情熱的に命をかけられるのが獣との違い
創価学会の教条主義から排他的戦闘的性が生まれ、多くの現代人の心を捉えた理由。
エネルギーの源泉は個人体験の「効き目」
鬱勃たる人生への不満、焦り、劣等感が「価値論を法則として理解する」ことで、解決された。
教理を信仰することで現証を生活の中で確認して、更に教理とそれへの信仰の確信を持つ。
日蓮正宗が開闢以来の繁栄をみせている。
頭でっかちのインテリを信者に捉えきれない理由
では危険な理念とは何か?
獣や虫や微生物がしている全体性とコミュニケーションを知らない人間の理念である。
相違点から始まるのではなく、共通点から始まった後に理念にスポットライトを当てないと、現実の変化をみない、パターン化された概念になってしまい、それを正義の基準にすることで他者を傷つけることになる。
命をかける勇敢さになる理念とは何か?
ヒーローイズム、改革革命、自己陶酔、理念追求、目的の創作、生きがい、虚無を埋める・・・?
創価学会
布教が信仰の証 折伏
他教の教理批判をする時に、唯物論の形をとったものが勝利する。
なぜならばその人たちが唯物論を基準にして生きているからである。
リベラルの思考パターン
ヒトには宗教心や宗教本能はなく、説教の産物である。
宗教を信じない人が多くいるのがその証拠である。宗教心が備わっていないのを心理的な片輪だというのか?
「宗教と信仰の心理学」
素粒子以下の微細なるものを計測できないという理由で認めない
差別という平等で公平ではないものを悪にし、欠けている者を優劣の劣と見なすものを批判する。
しかし、リベラルの論理は相違点に注目することで成り立つという矛盾があって初めて成り立つ。
選択は感情によって決められている。 パスカルのパンセ瞑想録
「問題を解決せずに未解決のままにしておく」というのも感情的決定である。
知性の限界
選ぶことで危険にさらされる可能性があるので選択しないということは、真理に取り逃す危険にさらされる。
科学的証明が必要であるという感情にとりつかれた未熟な知性。
微細感覚器官
「眼でじゃないんだ、違う眼と耳なんだ。心の眼と耳に見えて聞こえたというのだろうか。」