意識と本質 井筒俊彦

 

 

リルケ

 

本居宣長

リルケ

メルロー・ポンティ

 

事実界

普遍的規定性

抽象・理

wirklichkeit

 

 

実在界

個的リアリティ

あはれ・直・情

realitat

cet individu preobjectif

 

 

イスラム哲学

 

アリストテレス

ドゥンス・スコトゥス

 

 

Mahiyah 普遍性

それは何か?

本質 esssentia

 

 

 

Huwiyah個体性

これであること「これ性」

 

haecceitas

 

 

 

 

仏教用語

対象

 

 

莊子

老子

老子

老子

意識

世俗

対象

志向

執着

名有り

有欲

有名

万物の母

非意識

勝義

無対象

非志向

無執着

名無し

無欲

無名

 

 

 

 

形而

構造主義

メタ学

大乗起信論

言語以後

文節以後

天と地

形而下

表層意識

意識

心念∋妄念

言語以前

文節以前

天地分離以前

形而上

深層意識

メタ意識

空観

 

 

 

 

大乗起信論

大乗起信論

大乗仏教

 

冠詞

インド思想

 

 

一切の諸法

法・言説・名字・心縁の相

自性

普遍

A

名と形

Nama-rupa

 

充満

一切の境界の相なし

畢竟平等

無自性

 

The

絶対一者

絶対的無分節

真如

 

勝義  (梵pramDrthaの訳語)最勝真実の道理のことで、真如・涅槃などをいう。

 

非意識

何か得体の知れない、ぷよぷよとした、淫らな裸の塊

東洋の哲学的伝統  「存在」、カミ、カミ以前

莊子 斉物論 「渾沌」

華厳宗    事事無礙・理事無礙の窮極的基盤としての「一真法界」

イスラーム  「絶対一者」

 

本質

非意識なのか?それとも意識と非意識の「間」なのか?

二つの転換点に「本質」が出現する。   

分節線(線・コトバ)のこと

一つの名前を持つということは、きまった一つの「本質」を持つ(かのように見える)

 

本質の虚構性

本質の否定を「無自性nih-svabhava」という。自性とはあるものをそのものとして結晶体に保つ、不変不動の実在的中核を意味する

唯識派の三性  parikalpita妄想的に作り出された存在性  「本質」が持つ換気作用に注目してしまい、本当はなにもないところに何かがあるかのように我々の意識が妄想して作り上げたもの

Paratanntra 依他起性  他によってのみ存在性を保つ、絶対に自立することのないあり方  いかなるモノにもそれ自体の「本質」が実在しないのは、全てのモノは他によってのみ存在性を保つ

Parinispanna円成実性 「完成されたあり方」が深層意識に開示される一切存在者の窮極的なあり方 

 

大乗仏教では「本質」は徹頭徹尾に実在性を否定され、終始一貫して無であり、通俗的仏教では無いものであるとする。

本質の虚構と実在性

空は「真空妙有」と、「本質」は実在しなくても、「本質」という存在凝固点がなくても、われわれの生きている現実世界には、またそれなりの実在性がある。「本質」はないのに事物はあるのだ。分節された「存在」に実在性を認めるのは、東洋哲学の特徴的な思惟傾向である。

 

「分ける」ことなし、「本質」ぬきの、流動的な存在文節を、自分で実践的に認証することを禅は要求する。

 

 

なぜ「嘔吐」するのか?

本質をあくまで「・・・の意識」の志向対象として、しかもそれが直接に開顕したままの姿で、じかに把捉しようとするからである。

「・・・の意識」であるものが、「・・・」を失って中にさ迷い、自己破壊の危機に曝されることになる。

 

東洋では「嘔吐」しないのはなぜか?

本質に直面しても狼狽しないだけの準備がはじめから方法的、組織的になされているからだ。

「名無し、天地の始め。名有り、万物の母」

「常に無欲、以て其の妙を観、常に有欲、以て其の徼(きょう)を観る」   「老子」

無欲   絶対に執着するところのない本来の無一物   意識ならぬ意識

其の妙  絶対無分節的「存在」  「無名」 「分節線がない」 「本質がない」 言語脱落 本質脱落

徼    明確な輪郭線で区切られた、はっきり目に見える形に分節された「存在」のあり方

 

二つの間

互いに根本的に異質でありながら、二つの間に断絶がない。言語が脱落し、「本質」が脱落して、一切のものの符牒がなくなっても、老子の意識にはなんの困惑もなければ戸惑いもない。

 

僧肇 374-414

深層意識と表層意識とを二つながら同時に機能させることによって、「存在」の無と有とをいわば二重写しに観ることのできる、こうした東洋的哲人のあり方を僧肇は次のように描き出す。

 

「聖人空洞其懐、無識無知、然居動用之域、而止無為之境、処有名之内、而宅絶言之境、寂寥虚曠、莫可以形名得、若斯而己矣」(僧肇)

 

無意識の次元に立ち、その見地から経験的世界を見るので、いかなるものも「本質」によって固定された客体として認知することなく、日常的現実の世界に見を処しながら、同時に無為の境地にとどまり、言語の「本質」喚起作用を超絶したところに住んでいるのであって、その境位はひっそりと静まりかえってものの影すらなく、形象とコトバで捉えられるようなものは一つだにない―およそ、そんな世界に聖人は住んでいるのである、という。(僧肇)

 

 

ぼやけ ピントをずらす  

王朝文化の雅の生活感情的基底であった「ながめ暮らす心」を、普遍的「本質」消去の手段として、一つの特殊な詩的意識のあり方にまで次第に昇華させた。

 

だが『新古今』的幽玄追及の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、「眺め」の意識とは、むしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度ではなかったろうか。

 

この「眺め」の焦点をぼかした視線の先で、事物はその「本質」的限定を超える。そこに詩的情緒の纏綿(てんめん)があり、存在深層の開顕がある。

 

 

 

 

シャンカラの不二一元論

唯識派の「空」をブラフマンという{「有」の充実した極限}として捉えるのが特徴。

「空」が忽然と「形」になるのではなく、絶対無分節ではあるが「有」であるブラフマンが限定されて、「形」になる。

この「限定」はブラフマンとは無関係のものである。ブラフマンから発されるものではない。

しかしブラフマンのせいにする押し付け(付託-まかせること)のは、自分の「意識」である。意識によってブラフマンが仮象的形姿をあらわし、分節された「形」として表層意識に映る。

「本質」である文節は虚妄であるが、全ての経験的事物に唯一絶対の「本質」を認め、これを無ではなく有であるとする立場。

これは東洋の実在体験的、実在思考的な一つの典型である。例えば次のイブン・アラビー系の存在一性論

 

疑問 実在思考性とはこの世に生きる者にこの思考性を強制するものではないか?

これを無もしくは空とする立場はTPOに合わせて世俗と聖の使い分けをすることができるのではないか?

 

イブン・アラビー系の存在一性論

経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する。それゆえに無ではなく有である。

花を花として見る(これは妄想の働きにすぎない)のではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態としてみるべき。花という現われの形のかげに潜む唯一の真実在、「存在」の姿をそこにみなければならない。

花を花と見ながらも、同時にそれを絶対一者の間接的自己顕現であるので、「本質」も実在である。

しかし「本質」(境界線)が無的なのは、絶対実在ではないのに、それを独立した形で私たちの意識がそれを把握し、理性が「概念的普遍者である本質」に作り変えるからである。

「存在」を花にみせるものは、「限界線」haddである。  ヴェーダーンの限定者upadhiと同じもの

アラビア語のHaddはイスラム哲学では「定義」を意味する。この限界線こそが「本質」を意味する。

 

シャンカラの不二一元論との違い

 

 

 

 

 

シャンカラ

仮現説vivarta-vada

一が多に見える

マーヤーの働きのため

本質はない

イブン

展開説 parinama-vada

一が多になる

文節的自己展開

本質は実在

 

 

「有無中道の実在」a yan thabitahの領域を主張  外的には一つであるが、内的には既に文節している

あるとも言えずないとも言えない中間的な存在で、「限界線」の原形、すなわち「本質」の原初的形態

この領域がもう一段下位の存在領域である日常経験的世界において「本質」として私たちの意識に映る。

 

 

本質の実在性

非有説  般若系の大乗仏教

実在説  都市の哲学者  儒教、朱子学 プラトン

中間説  イブン・アラビー

 

宋儒の理学とは普遍的「本質」の追求

東洋的本質論の一つの代表的事例 

本質を実在として追求する

格物致知窮知とは、全てのものに内在し、内面から支配する永遠不変の理法を体認すること。

 

ものあはれ 本居宣長

中国的思考の特徴(「易」、太極、陰陽、五行、無極、八卦、乾坤、格物致知窮知)――と本居宣長の考えた――事物に対する抽象的・概念的アブローチに対照的な日本人独特のアブローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。概念的把握と対立。「こちたち(言痛)造り事」を排除する

「物のあはれ」とは、物にじかに触れることで、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむことことで「存在の本質への接触」すること。 

 

事物のこのような非「本質」的把握の唯一の道として、宣長は「あはれと情の感(うご)く」こと、すなわち深い情的感動の機能を絶対視する。

「物の心をしるは、すなわち物の哀れをしる也」紫分要領

「心ある人」とは生きた事物を、生きるがままに捉えるために、それにじかに触れて、無邪気で素朴に深く心に感じる事ができる人。

コツは、普遍化しないこと。具体的存在者のままの個体

メルロー・ポンティのいう前客体化的個体cet individu preobjectif の「心」l’ unique noyau de signification existentielleを一挙に、直観的に捉える。

事物の客観的認知を可能にする普遍性を「本質」と一般的に呼ぶので、宣長は本質を排除した直接無媒介的直観知が「物の心をしる」ことである。

 

西洋・現代の本質 essence  最も重要な根本的性質

ラテン語essentia (esseある+-ent現在分詞語尾+-ia-ENCE=存在し続けるもの) 

現代では、本質とは概念的普遍者の意味である。

 

 

二つの違った意味の「本質」

人が原初的存在解語邂逅において見出すままの事物の、濃密な個体的実在性の結晶点としての「本質」

→ものの個的リアリティー→リルケの実在界realitat

人間の意識の分節機能によって普遍者化され一般者化され、さらには概念化された形で提示する「本質」

→ものの普遍的規定性→リルケの事実界wirklichkeit

リルケの「意識のピラミッド」 表層→深層

 

イスラーム哲学の二つの本質

普遍的「本質」マーヒーヤmahiyahと個体的「本質」フウィーヤhuwiyah

Ma huwa? それは何か? アリストテレスの「本質」    それは元来、何であったのか?

το τι ην ειναι  the what not  is   to ti hn einai

対象物を指差して、これは何か?と問う。この答えは自己同一性を規定するものであり、「本質」が定位される。

これが普遍者であり、一般者である。

Huwiyah huwaこれあるいはそれ +iya接尾辞   これであること「これ性」

 

ドゥンス・スコトゥスの haecceitashaecこれ)現実的存在者の究極的実在性ultima realitas entis

現実に存在する事物はhaecceitasnaturaとの不可分な結合体  私の理解では形と力

 

普遍者のマーヒーヤは概念化への第一歩であり、フウィーヤの実在性を稀薄もしくは剥奪するので、概念にすぎない。

しかしこれには満足できない人たちもいる。

普遍的本質であるマーヒーヤこそ、Xを具体的、個体的に成立させる存在根拠と考える人たちである。

代表的な例がプラトニスト。東洋では「事」よりも「理」を重んじる人。都市に住み学歴で利権のある人。

この人たちの「本質」は普遍的でありながらしかも実在する、ということになる。

 

イブン・スィーナー(アヴィセンナ)10世紀

普遍的「本質」の先にある、前普遍的「本質」を措定した。もっとも根源的で原初的「本質」で本性タビーアtabiahと名付けた。これがラテン語訳されてnaturaとなった。

「馬であることは馬であること、ただそれだけ」

 

フッサールの本質はマーヒーヤすなわち普遍的本質ではないだろうか?

出発点は「事象そのものへ zu den sahen selbst」の「本質」を求めるために、類化generalisierungと形式化formalisierungを使うので、結果として純粋意識に現れてくる「本質」は具体的生の現実からは遠く引き離された無色透明の普遍者でしかない。

プラトンの「モノそれ自体αυτα τα πράγματαphaed.66 超感覚的な永遠不変の真実性、イデアとは違う。 

エマニュエル・ルヴィナスは「厳密な本質」essences exactesまで追求しないで、途中でいわば不徹底な漠然とした「本質」essences inexactesを立てることで、生々転変する現実の起伏を忠実になぞっていくことのできる柔軟で可逆的な「本質」を考えようとした La thorie de l’intuition dans la phenomenologie de Husserl, 1930

しかし、これでも問題は解決されない

 

メルロー・ポンティ フッサールの本質は、漁網が海底からピチピチはねる魚たちや海藻を引き上げてくるように、現実の経験の生気に満ちたいろいろな関係を全部一緒に連れ戻してくるような性質だ。言語化された「引き離された本質」essences separeesではない本物だ。  Phenomenologie de la perception, 1945

 

フッサール、ルヴィナス、ポンティがだめな理由  西洋の限界

仏教でいう「妄念」すなわちコトバの意味分節機能は、意外に執拗で、意外に根深い。名前を通じて定着されている普遍的「本質」の働きが表層意識だけではなく、意味的阿頼耶識として深層意識の構造まで規定する。

 

阿頼耶識  「カルマ」と呼ばれる「業」の情報を集積する「蔵」が「阿頼耶識」である。心の奥底に刻まれている種々の経験のトラウマ(痕跡〈こんせき〉)。

この種子は自己意識が深層領域(例えばハードディスク、忘れている記憶)で揺らめけば、普遍的「本質」が発動する。表層意識にまだ現れないといっても、言語以前ではない。

可能性は、マーヒーヤ、時々フウィーヤ、そして同時に両方だったのか?

 

詩人のポエジー

モノのフウィーヤの飽くなき追求 例えばリルケはマーヒーヤを徹底的に排除した

意識のピラミッドがあり、深層の内的リアリティは表層意識では補足できない。

深層体験を表層言語によって表現する悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消されない。

高次言語が生まれる理由である。

現実の経験で普遍的本質聯関から外れるものがあれば、これが詩的価値がある強力な規定性がある。

マーヒーヤが突如としてフウィーヤに次元転換する微妙な瞬間が詩的言語に結晶する

 

「ながめ暮らす心」

平安朝における「眺め」 

春の長雨期の男女間のもの忌(purification)につながる淡い性欲的気分でのもの思い    折口信夫

花の色はうつりにけりな いたづらに我身よにふる ながめせしまに   古今集 小野小町

花の色も変わったな 春の長雨で部屋にこもってカラダと男と自然の「流れ」を眺めているうちに

【世にふる】

ここでの「世」は「世代」という意味と「男女の仲」という2重の意味が掛けてある掛詞。さらに「ふる」も「降る(雨が降る)」と「経る(経過する)」が掛け、「ずっと降り続く雨」と「年をとっていく私」の2重の意味。

【ながめせしまに】

「眺め」は「物思い」という意味と「長雨」の掛詞で、「物思いにふけっている間に」と「長雨がしている間に」という2重の意味。さらに「ながめせしまに → 我が身世にふる」 と上に続く倒置法。

 

意識の対象志向の尖端をできるだけぼかし、そうすることで、「本質」の規定機能を極度に弱める。

遠い彼方に、限りなく遠いところに「ながめ」られている

眺めの焦点をぼかした視線の先で、事物はその「本質」的限定を越える。

マーヒーヤの実在を肯定する「おぼめかし」

 

 

俳人芭蕉

ものにおけるこのマーヒーヤとフウィーヤとの結合、ないし同時成立を、きわめて独自な詩的、実存的体験の構造のうちに捉えた人物がある。俳人芭蕉がそれだ。

「不易流行」  「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。

新味を求めて変化を重ねていく流行性と変わらないことは表裏一体。

「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」 去来抄

「不易」がいかにして「流行」しえるのか?

古今的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれの普遍的「本質」において定着された世界だ。

芭蕉は、モノの流動の奥に、万代不易の実在を憶った。隠れた「本質」を「本情」とよんだ。

この「本情」に触れるためには、二極分裂的自我意識を変質させなければならない。

これを「私意をはなれる」と芭蕉は表現した。主客の二つに分かれていない主体でモノを見るということだ。

これには修練が必要である。

「をのれが心をせめて、物の実しる事」「許六離別ノ詞」という 美的修練を「風雅の誠」とよんだ。

 

ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修練を経た人、すなわち「風雅に情ある人」、の実体験として、ものを前にして突然「……の意識」が消える瞬間があるのだ。

そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。(芭蕉)

ヒトがモノに出合う。ヒトとモノとの間に実存的磁場が現成し、自己意識は消え、モノの「本情」が自己を開示する。

「物に入る」「物に入りて、その微の顕れる」のは、モノの側が微である本情を自らを顕すことを指す。

瞬間として、普遍者が生々しい感覚性に変性して現れる。普遍者が瞬間的に自己を感覚化する。

この感覚的なものが、その時空だけが持つ、そのモノの個体的リアリティである。

 

 

全体が整合的な理論

すっきりした理論は、マーヒーヤだけに焦点を合わせて思想を展開すればいい。

例えば、孔子の「正名論」

正名とは名分を正すことで、つまり君・臣とか父・子という人倫上の地位に固有の本分が履行されるようにすることをいい、儒教とくに宋学で強調された観念です。

論語の(子路第十三)には孔子の正名論が述べられている。

孔子が「もし政治を任されるとしらまず最初に何からはじめますか」との質問に「必ずや名を正さんか」と答えた。言葉が正されなければ何事も上手くいかないし始められないという理屈です。

 

日本の藤田幽谷の「正名論」は、国教である儒学の立場から孔子の正名の意義を論じ、湯王武王の易姓革命を否定するばかりか、徳治政治すら名分に反する場合には肯定しなかった孔子の厳正な態度を強調すると共に、

「君臣のな正しからず、上下の分厳ならざれば、則ち尊卑を易え、貴賎所を失い、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴き、亡びんこと日無けん」と、国家秩序における普遍的原理を明らかにすることで序論とした。

 

「理(本質)」のみで構成された世界。そこには時間の介入がない(共時性)。現実を捨象することで純粋に本質を構想できる。

現実世界に正名論を適用すれば朱子学(性即理)になってしまい、精神と現実の乖離を生む。

正名論はソシュール言語学に近い。現実世界とは先ずカラダでできあがり、その後に意識ができ、自己意識ができ、そこから「理」を追求したのが順番であるからだ。

 

 

リルケと芭蕉とマラルメの本質追及の形

リルケ  マーヒーヤは始めから概念的虚構  フウィーヤだけを「即物的直視」する 如実に直観

芭蕉  マーヒーヤの感性的表層をフウィーヤに変性する瞬間をとらえる

マラルメ マーヒーヤをイデア的純粋性においてのみ直観しようとした

 

異文化の思想の邂逅と衝突

「般若経」「中論」のsunyataを老荘的に解釈し、中国的「空」または「無」として展開した。

 

東西の「本質」論

本質とは存在と対立し相関する概念である。  西洋・イスラーム・スコラ

はじめに、何かが私たちの意識に向かって自己を提示している。

どこにも裂け目のない一つの存在論的かたまりで、漠然と渾然としている。

次に、理性が割れ目をつけて、「本質」と「存在」に分ける。これが理性の最も本源的な作用で、これがオントロジー(スコラ哲学)の第一歩をなす。

「存在」はとは個別化の原理である。全て「存在」するものは個体である。

そして、これが流動して止まぬの渾沌の只中に、一つの凝固点を作る。

凝固点を作るのは意識だ。意識は必ずそこに「本質」を感知する。そしてこの感知が、意識の焦点をXに合わせることができる。

 

「この花」というと、個別的にちゃんと意味されたつもりになる。花は一般化されていることを忘れて。

 

本質の肯定と否定

本質を仮構として否定する  仏教思想家

本質を肯定する       ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派にとって「花」は実在する本質を指示する。

ニヤーヤ学派

ヴァイシェーシカ学派は、物質世界は何種類かの原子に還元でき、ブラフマンはこの原子の中の意識を作動させる根源的な力であるという原子論的多元論を前提とする

 

 

マーヒーヤ肯定論の3つの特徴  基準は実在する「本質」を、どの意識でどのように受け止めるか?

1 本質は存在の深部に実在し、存在の表面には本質は顕れない     宋学の格物致知窮極

主体の意識次元が表層から深層に転換することで、本質が実在する

生命を賭する緊張と専心を必要とするので王陽明は神経衰弱になった。

マラルメ

 

2 普遍的本質が濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプとして現れてくる。

主体の意識次元が表層であっても、その表層にmundus imaginalisの領域が現れる。

シャーマニズム、神秘主義の特徴

イブン・アラビーの「有無中道の実在」

スフラワルディー「光の天使」

易の六十四卦 2

密教の曼荼羅

カバラ

 

3 普遍的本質を表層で「理知的」に認知する

五感によって認知する個物の背後に形而上一般者を「実在するもの」として認知するが、そのような普遍的「本質」を実際に直接無媒介的に捉えようとはしない。主体の表層意識で本質の実在を確認するにとどまる。

形而上一般者を純粋に一般者として取り扱うと、普遍的概念になってしまい、本質論ではなく概念論になるので注意が必要である。

古代中国の儒学  孔子の正名論

古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派のパダールタ padārtha 存在範疇論

実体は、地(土)・水・火・風(空気)・虚空・時間・方角・アートマン・マナスの九categoryに分けられる。

「アートマン」は認識と行為の主体としての自我、あるいは霊魂である(3.2.4-17)。「マナス」は思考器官で、しばし ば「意」と訳されるように「こころ」に当たるものであるが(3.2.1-3)

 

3を誤読した例

公孫竜の詭弁 普遍的本質を経験的実在性の次元から完全に切り離して抽象的思惟に移し、本質論を概念構造理論として展開した。

荀子の正名論も本質を概念化させている

イスラームのスコラ哲学のマーヒーヤ論の大部分も概念の構造分析に終始する。

 

マラルメとリルケ

マラルメ  個物の個体性を無化しつくすことで浮かび上がる「冷酷にきらめく星の光」etoiles pures

普遍的「本質」の凄まじい形姿。極北地帯に、言語的意識を求めた。

 「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Néant)に到達した」(マラルメ)

虚無le Neant、仏教の無、底知れぬ深淵が私を絶望に曵きずりこむ。あらゆる生あるものの消滅する死の世界。

常識的人間の目からみれば、死と絶望以外の何物でもありえないが、彼にとって美であり、l’Eterniteと呼んだ。

万物無化の体験は精神錯乱の一歩手前、しかしその後に美le Beauを見出した。これが普遍的「本質」、永遠のイデア、の絶対美の実在領域であった。

 

Le Hasard偶然、すなわち時間性の支配から存在者を救出することを、マラルメは詩人として己の指名にした。

この偶然とは、永遠の「本質」の直視を妨げる一切の現象的存在要素「地上楽園」l’edenのこと。

 

絶望からの救いは、仏教的虚無だけではない、「ある積極的なもの」を認めたこと。

「あるもの」とは虚無の中に開顕する普遍的本質の現実性。

 

これを伝達するのは言語langageではなく絶対言語le Verbeである。

Le Verbeで語を発すると、異常なことが起こる。

存在の輪廓が空気の振動で消え去り、語を発した詩人の主体性も消滅する。生の流れが停止し、あらゆるものの姿が消える。この死の空間の凝固の中で、一旦消えた花が、形而上的実在となって、忽然と、一瞬の稲妻に照明されて、白々と浮かび上がってくる。永遠の花、不易の花。

 

リルケ   個体の中に存在者の具体性を認め、それをそのモノの真のリアリティとした。彼の見る風景は異様であり、それを歌う彼の心は狂人のようだった。意識のピラミッドの底辺領域は、深層意識領域であった。

 

中国宋代の儒者たちの理学

東洋哲学のマジョリティー 意識と存在、内と外、は密接な相関関係にあり、窮極的には全く一つである。

 

大道は整然と「理」の秩序を貫通して宇宙の窮極的根源に達し、その道に依って、人の意識は静かに一歩一歩深化されていく。意識の深層が完全に拓かれて、ついに意識と、全存在界そのものの唯一絶対の「本質」との窮極的自己同一が自覚されるに至るまで。

 

 

「静座」は心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行。

「格物窮理」は、そのようにして次第に鎮まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見詰めつつ、それらの事物の「本質」(複数)を一つずつ把握していき、或る段階まで来たとき、この「本質」追及のいわば水平的な進路を、突然、垂直的方向に転じて、一挙に万物の絶対的「本質」(単数)の自覚に到達しようとする「本質」探究の道。

 

 

『中庸』巳発とは、意識のゼロ・ポイントから、なんらかの方向に発動した状態における心であり、同時にまた存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指す。

 

 

宋儒が、「静座」とは座禅の場合のように心を徒らに空無にしてしまう訓練ではない、むしろ経験的世界の真只中で、心の動そのものの中に心の静を求めようとするのだ、と

強調するのはこのゆえである。

 

 

 宋学ならびに東洋哲学一般の特徴として先に一言した意識即存在という形而上的体験の事実によって、意識のゼロ・ポイント、すなわち「未発」の極点、が同時にまた全存在界のゼロ・ポイントでもあること、さらに、意識「未発」が意識「巳発」の源泉であることによって、そのまま全存在界生起の源泉でもあるということである。

この「未発」の領域が意識の深層

 

格物窮理(程伊川)

経験界にある事物、事象を観察し省察して、それらに内在する先験的「理」を窮め、極め尽くしてその果てに、ついに突如として万物の唯一絶対の「理」に翻入する道を、それは意味する。

 

 

儒と禅の相違点→「本質」があるという儒者

 

 

 「万事、それぞれに必ず本質的に決められた限界というものがある」(『程氏易伝』)→孔子「正名論」から淵源する。

 

 

 「こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。」(朱子)

 

 

●「豁然貫通」(朱子)

●「今日、一件に格り、明日また一件に格る。積習するところ既に多く、然して後、脱然として

自ら貫通するところあり」(程伊川『遺書』)

●「こいねがわくは心を遊ばせて浸熟し、一日、脱然として大寐の醒むるを得るがごとくならん

のみ」(張横渠『張氏全書』)

 

 

 習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる

 

 

周子の「一物一太極」

 

 

 個々の「理」の形而上性を超えて、その彼方に、それらすべてを統合する至極の「理」、すなわち「太極」、の純粋無雑な形而上性を見る。それが「脱然貫通」である。

 

 

 マラルメにとって、宋儒の「脱然貫通」に相当する体験は、発音された語の音波の振動と化して空しく消えていく経験的事物の消滅に続いて、その「忘却」の向うに、経験的世界の死を背景として、朦朧と立ち昇ってくるそれら事物の永遠の「本質」の、身の毛のよだつような冷酷な姿を見ることだった。

 

 

 宋学の「理」体系とは、要するに、天地の間に存在するすべての事物はそれぞれ存在すべき根拠があって存在しているのだということ、つまり、事物の一つ一つに普遍的」本質」があるということである。

 

 

 因果律の支配する世界(アリストテレス)とは、一切の事物がそれぞれ自分の「本質」をもち、自分の「本質」によって規定され、限界付けられ、固定されている世界でなければならない。まさしく宋学の説く「理」体系としての世界である。

 

 

 だが、この美しい、そして科学的に有効であり得る世界像も、原子論者の呼び名で知られる原初的イスラーム意識の代表者たちの目には、イスラームという宗教の根基そのものにたいして致命的衝撃を加えるものとして映るのであった。なぜならそれは天地万有の創造主、主宰者である神の全能性の否定にほかならないからである。

 

 

因果律の世界→偶然性の否定

 

 

 事物に「本質」があって、それで金縛りになっていたら、奇蹟など起こりようがない。

 

 

 ムハンマド・アル・ガザーリーの哲学的相対主義→因果律の否定に基づく完全な偶然性の哲学である。

 

 

 かくてアザリーは後世のイギリス経験論的哲学者ヒュームと同じ立場に赴く。

 

 

 ガザーリーとアリストテレスの対立は、要するに世界を「本質」のない事物の偶然的集積と見るか、それとも「本質」によつて固定された事物の整然たるロゴス的体系と見るか、の違いに帰

 

 

「時の人、この一株の花を見ること夢のごとくに相似たり」南泉普願

 

 

井筒俊彦 「意識と本質―東洋哲学の共時的構造化のために」 のまとめ

 

 

 

 人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」をきわめるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。

 

 

 西洋哲学だけではない。東洋でも(……)「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と聯関して、著しく重要な役割を果たしていることに我々は気付く。

 

 

共時的東洋哲学の初歩的な構造序論

 

 

 人間意識の様々に異なるあり方が「本質」なるものをどのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として考察してみたい。

 

 

 われわれの日常意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。

 

 

 意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するところに生起する内的状態であると言わなければなるまい。

 

 

初期サルトルの「存在」深淵を垣間見る嘔吐的体験

 

 

「それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語(ことば)は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)) の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、まったく生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向かって坐っていた」(サルトル)

 

 

 われわれの日常的世界とは、この第一次的、原初的「本質」認知の過程をいわば省略して―あるいは、それに気づかずに―初めから既に出来上がったものとして見られた存在者の形成する意味分節的存在地平である。

 

 

むろん、サルトル的「嘔吐」の場合、あの瞬間に意識の深層が垣間見られることは事実である。もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的事態なのであって、それだから

こそ、「存在」が無分節のままに顕現するのだ。

 

 

 しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を視るということは彼にはできない。

 

 

 それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。

 

 

 仏教的表現を使っていうなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよした、淫らな裸の塊りしか見ないのである。

 

 

 勿論、表層意識にも遁げ道はある。他の一切の普通の対象のように、無分節の「存在」を概念化して、一つの対象として取り扱うことだ。……。だが無害にはなるかわり、完全に表層意識の中に取り込まれて死物とかしてしまう。つのり、「存在」の深層意識的真相は全く失われてしまうのだ。

 

 

 それに反して東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に追い込まれはしない。絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的になされているからだ。

 

 

 いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現われる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平において、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現われている。

  常に無欲、以て其の妙を観

  常に有欲、以て其の徼を観る

と老子が言うのはそれである。

 

 

 東洋思想では、どこでもこのような意識ならぬ意識、メタ意識とでもいうべきものを体験的事実として認める。それが東洋哲学一般の根本的な一つの特徴である。

 

 

 この境位にある意識に現われる「存在」には、どこにも「本質」的区分がない。まさしく言語脱落、「本質」脱落の世界。それを老子は「妙」という言語で表現する。

 

 

 「本質」によって区劃された事物の充満する世界を、無「本質」の世界を見た人の目が静かに眺めている。

 

 

 深層意識と表層意識とを二つながら同時に機能させることによって、「存在」の無と有とをいわば二重写しに観ることのできる、こうした東洋的哲人のあり方を僧肇は次のように描き出す。

 

 

「聖人空洞其懐、無識無知、然居動用之域、而止無為之境、処有名之内、而宅絶言之境、寂寥虚曠、莫可以形名得、若斯而己矣」(僧肇)

 

 

 ……しかも言語の「本質」喚起作用を超絶したところに住んでいるのであって、その境位はひっそりと静まりかえってものの影すらなく、形象とコトバで捉えられるようなものは一つだにない―およそ、そんな世界に聖人は住んでいるのである、という。(僧肇)

 

 

 この種の東洋的思惟バターンにおいて、言語の「存在」分節作用が、いかに決定的な位置を占めているかということだ。

 

 

 いわゆる「本質」は虚構であるという考えに導かざるを得ない。ここに大乗仏教特有の徹底的な本質否定が、本質虚妄説として出現してくる。『般若経』以来、ナーガールジュナ(龍樹)の中観を通って唯識へと展開する大乗仏教の存在論の主流の、これが中枢的テーマをなす空観である。

 

 

 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」(『大乗起信論』)

 

 

 「本質」を通さない存在分節

 

 

 非「本質」喚起的な言語の使用

 

 

 シャンカラの不二一元論

 

 

 イブン・アラビー系の存在一性論

 

 

 中国的思考の特徴をなす――と本居宣長の考えた――事物に対する抽象的・概念的アブローチに対照的な日本人独特のアブローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。

 

 

 事物のこのような非「本質」的把握の唯一の道として、宣長は「あはれと情の感(うご)く」こと、すなわち深い情的感動の機能を絶対視する。

 

 

 宣長の「物のあはれをしる」ことを「感動による事物の認識」(吉川幸次郎)とし、それを「存在の本質への接触」として規定した。

 

 

二つの違った意味の「本質」

●人が原初的存在解語邂逅において見出すままの事物の、濃密な個体的実在性の結晶点としての「本質」→ものの個的リアリティー→リルケの実在界

●人間の意識の分節機能によって普遍者化され一般者化され、さらには概念化された形でそれらの事物が提示する「本質」→ものの普遍的規定性→リルケの事実界

 

 

 普遍的「本質」と個体的「本質」

 

 

 イスラーム哲学の二つの本質

●マーヒーヤ

●フウィーヤ

 

 

 ものにおけるこのマーヒーヤとフウィーヤとの結合、ないし同時成立を、きわめて独自な詩的、実存的体験の構造のうちに捉えた人物がある。俳人芭蕉がそれだ。

 

 

 リルケの「意識のピラミッド」 表層→深層

 

 

 古今的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれの普遍的「本質」において定着された世界だ。

 

 

 王朝文化の雅の生活感情的基底であった「ながめ暮らす心」を、普遍的「本質」消去の手段として、一つの特殊な詩的意識のあり方にまで次第に昇華させた。

 

 

 だが『新古今』的幽玄追及の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、「眺め」の意識とは、むしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度ではなかったろうか。

 

 

 この「眺め」の焦点をぼかした視線の先で、事物はその「本質」的限定を超える。そこに詩的情緒の纏綿があり、存在深層の開顕がある。

 

 

 ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修練を経た人、すなわち「風雅に情ある人」、の実体験として、ものを前にして突然「……の意識」が消える瞬間があるのだ。

 そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。(芭蕉)

 

 

リルケと芭蕉の本質追及の形

 

 

東西の「本質」論

●アリストテレス

●西洋中世哲学→スコラ哲学

●イスラーム

●インド

●中国

●日本の新古今・芭蕉

●リルケ・マラルメ

 

 

指示的と喚起的

 

 

 イスラーム哲学者イブン・アラビーの「有無中道の実在」やスフラワルディの「光の天使」をはじめ。易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラの「セフィロート」など

 

 

 古代中国の儒学、特に孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論など

 

 

 「本質」探究においてマラルメはリルケと対蹠的立場に立つ。

 

 

●リルケは、存在者の存在論的具体性を個物の純粋な個体性のうちに認め、それをこそものの真のリアリティと見て、それを彼のいわゆる「意識のピラミッド」の底辺に探った。

 

 

●マラルメは、個物の個体性を無化し、無化つくしたところに、「冷酷にきらめく星の光」のように浮かび上がってくる普遍的「本質」の凄まじい形姿だった。

 

 

 「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Néant)に到達した」(マラルメ)

 

 

 不断に動き変化して一瞬もとどまらぬ経験的事物のざわめき。この偶然性あるいは時間性の支配から存在者を救出することを、マラルメは詩人としての己れの使命とする。

 

 

 ……マラルメの言語は、もはや日常の人々が伝達に使用する言語ではなくて、事物を経験的存在の次元で殺害して永遠の現実性の次元に移し、そこでその物の「本質」を実在的に呼び出す「絶対言語」なのである。

 

 

中国宋代の儒者たちの理学

 大道は整然と「理」の秩序を貫通して宇宙の窮極的根源に達し、その道に依って、人の意識は静かに一歩一歩深化されていく。意識の深層が完全に拓かれて、ついに意識と、全存在界そのものの唯一絶対の「本質」との窮極的自己同一が自覚されるに至るまで。

 

 

「静座」は心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行。

「格物窮理」は、そのようにして次第に鎮まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見詰めつつ、それらの事物の「本質」(複数)を一つずつ把握していき、或る段階まで来たとき、この「本質」追及のいわば水平的な進路を、突然、垂直的方向に転じて、一挙に万物の絶対的「本質」(単数)の自覚に到達しようとする「本質」探究の道。

 

 

 『中庸』巳発とは、意識のゼロ・ポイントから、なんらかの方向に発動した状態における心であり、同時にまた存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指す。

 

 

 宋儒が、「静座」とは座禅の場合のように心を徒らに空無にしてしまう訓練ではない、むしろ経験的世界の真只中で、心の動そのものの中に心の静を求めようとするのだ、と

強調するのはこのゆえである。

 

 

 宋学ならびに東洋哲学一般の特徴として先に一言した意識即存在という形而上的体験の事実によって、意識のゼロ・ポイント、すなわち「未発」の極点、が同時にまた全存在界のゼロ・ポイントでもあること、さらに、意識「未発」が意識「巳発」のげんせんであることによって、そのまま全存在界生起の源泉でもあるということである。

 

 

格物窮理(程伊川)

経験界にある事物、事象を観察し省察して、それらに内在する先験的「理」を窮め、極め尽くしてその果てに、ついに突如として万物の唯一絶対の「理」に翻入する道を、それは意味する。

 

 

儒と禅の相違点→「本質」があるという儒者

 

 

 「万事、それぞれに必ず本質的に決められた限界というものがある」(『程氏易伝』)→孔子「正名論」から淵源する。

 

 

 「こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。」(朱子)

 

 

●「豁然貫通」(朱子)

●「今日、一件に格り、明日また一件に格る。積習するところ既に多く、然して後、脱然として

自ら貫通するところあり」(程伊川『遺書』)

●「こいねがわくは心を遊ばせて浸熟し、一日、脱然として大寐の醒むるを得るがごとくならん

のみ」(張横渠『張氏全書』)

 

 

 習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる

 

 

周子の「一物一太極」

 

 

 個々の「理」の形而上性を超えて、その彼方に、それらすべてを統合する至極の「理」、すなわち「太極」、の純粋無雑な形而上性を見る。それが「脱然貫通」である。

 

 

 マラルメにとって、宋儒の「脱然貫通」に相当する体験は、発音された語の音波の振動と化して空しく消えていく経験的事物の消滅に続いて、その「忘却」の向うに、経験的世界の死を背景として、朦朧と立ち昇ってくるそれら事物の永遠の「本質」の、身の毛のよだつような冷酷な姿を見ることだった。

 

 

 宋学の「理」体系とは、要するに、天地の間に存在するすべての事物はそれぞれ存在すべき根拠があって存在しているのだということ、つまり、事物の一つ一つに普遍的」本質」があるということである。

 

 

 因果律の支配する世界(アリストテレス)とは、一切の事物がそれぞれ自分の「本質」をもち、自分の「本質」によって規定され、限界付けられ、固定されている世界でなければならない。まさしく宋学の説く「理」体系としての世界である。

 

 

 だが、この美しい、そして科学的に有効であり得る世界像も、原子論者の呼び名で知られる原初的イスラーム意識の代表者たちの目には、イスラームという宗教の根基そのものにたいして致命的衝撃を加えるものとして映るのであった。なぜならそれは天地万有の創造主、主宰者である神の全能性の否定にほかならないからである。

 

 

因果律の世界→偶然性の否定

 

 

 事物に「本質」があって、それで金縛りになっていたら、奇蹟など起こりようがない。

 

 

 ムハンマド・アル・ガザーリーの哲学的相対主義→因果律の否定に基づく完全な偶然性の哲学である。

 

 

 かくてアザリーは後世のイギリス経験論的哲学者ヒュームと同じ立場に赴く。

 

 

 ガザーリーとアリストテレスの対立は、要するに世界を「本質」のない事物の偶然的集積と見るか、それとも「本質」によつて固定された事物の整然たるロゴス的体系と見るか、の違いに帰

 

 

「時の人、この一株の花を見ること夢のごとくに相似たり」南泉普願

 

 

サーンキヤの三徳

純質激質闇質

 

 

 禅ではよく「心を擬する」という表現を使う。心を擬する、とは意識のエネルギーをある一定の方向に向かって緊張させ、その先端に一つの対象を認知すること。

 

 

 「心を擬する」ことこそ見性、すなわち「至道」、への最大の障礙である。

 

 

『楞伽経』の意識三相説

 真相業相転相

 

 

 「本質」は「言語アラヤシキ」の意味的「種子」の現勢化した姿である……

 

 

禅の実在体験そのもの

 

 

 トーマス・マートンの禅理解→静的

 プロティノス的一者観照→エクスタティックな恍惚の追想的形象→静的

 禅→ダイナミック

 

 

 少なくとも第一義的、第一次的には、禅は全体的に、一つのダイナミックな認識論的・存在論

 

 

吉州青原惟信禅師

「山を見るに是れ山、……山を見るに是れ山にあらず、……山を見るに祇だ是れ山」

 

 

分節→無分節→分節

 

 

 「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」(法蔵『妄尽還源論』)

 

 

無門慧開禅師

「箇の熱鉄丸を呑了するが如くに」(『無門関』)

 

 

「本質」で固めてしまわない限り、分節はものを凝結させないのである。内部に凝結点を持たないものは四方八方に向かって己を開いて流動する。

 

 

「粘綴無き一道の清流」(黄檗)

 

 

 風穴の禅機は「掣電の如く」一瞬、走ったのだ

 

 

長憶江南三月裏

鷓鴣啼処百花香

(無門禅師)

 

 

 元来、「本質」とは存在の限界付け、すなわち存在の部分的、断片的、あるいは局所的、限定を意味する。存在界を一つの全体と見て、これを現実と呼ぶ場合、その全体的現実のこの部分、あの部分を他から切り離して、局所的にこれに意識の焦点を絞り、その特殊部分を一個の独立したものとして立てる。この部分的存在凝固の中心的拠点をなすのが、「本質」である。

 

 

或庵(わくあん)の「胡子無鬚」(達磨に鬚がない)

 

 

 だが、突然、日常的意識の活躍のさ中で、ふと、現実的事物との結合を離れ、事実性から遊離したイマージュがどこからともなく現われてきて、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある。何らかの刺激で意識が興奮し、あるいは逆に弛緩した時に、人は屡々それを経験する。

 

 

 ただ、本来、深層意識で機能すべきこれらの、事物性から遊離したイマージュが、それを組織的に取り扱うことのできない常識的人間の日常意識に割り込んでくると、異常現象となり、往々にして病的現象になるのだ。職業的(あるいは天才的)シャーマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを正しく活用する術を心得ている。

 

『楚辞』に現われるシャーマン的実存は、自我意識の三つの層、あるいは次元を異にする三つの段階からなる意識構造体として考えることができると思う。第一は経験的自我を中心とする日常的意識。第二は、いわゆる「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。第三は純然たるシャーマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識。

 

 

「世を挙げて皆濁り、我独り清めり」(屈原)

 

 

 とにかく、具体的事物が現に目の前に実在していようと、いまいと、それに関わりなく、経験的存在の次元とは違った一つの別の次元で活動する特殊なイマージュが、トランス(あるいは半トランス)状態にあるシャーマンの意識に、屡々現われてくるものだということを、私は指摘しておきたいのである。

 

 

 即物性を脱した、あるいは即物性の極度に希薄な、事物は必然的にイマージュ的存在に変質する。

 

 

 マンダラのイマージュ空間は、密教的修行主体の脱自的意識そのものである点で、上に述べた

『楚辞』的シャーマニズムの第三段階的意識状況とまさしく符合するのである。

 

 

 元来、職業的シャーマンは、通常、己れのイマージュ体験の哲学的意義を問うたりはしないものだ。彼はただ超現実的世界に「魂を遊ばせる」だけのことである。

 

 

*「魂の遊び」→「惚けた遊び」

 

 

 古代中国の思想界では、荘子の哲学が、いま言ったような意味で、シャーマニズムを地盤から出発し、シャーマニズムを超えた人の思想だ、と私は思う。

 

 

 『荘子』冒頭に描く怪鳥、鵬――その背中の広さ幾千里なるを知らず、垂天の雲のごとき翼の羽搏きに三千里の水を撃し、九万里の高さに上がって天池に向かう鵬――のあの宇宙飛遊には、「離騒」のシャーマン的天空飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性がある。

 

 

 例えば空海の場合、金胎両部マンダラは意識と存在の深層に現成する「想像的」イマージュ空間の構造的提示であり、このようなイマージュ空間として自己顕現する存在リアリティそのものの形而上学的秘儀を、思想家空海、は探ろうとする。

 

 

*スフラワルディ「形象的相似の世界」→コルバンimaginal→井筒「想像的」

 

 

 経験的事物を主にして、その立場からものを見る常識的人間にとっては、質量性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり、影のように儚く頼りないものである。が、立場を変えて見れば、この影のような存在者が、実は、経験的世界に実在する事物よりも、もつと遥かに存在性の濃いものとして現われてくる。

 

 

 「想像的」イマージュは「元型」の形象化として、事物の「元型」的「本質」を、深層意識的に露顕させる。

 

 

 こうして「易」の全体構造は、天地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して提示する一つの巨大なイマージュ的記号体系となる。

 

 

 ……八卦、すなわち存在の八つの「元型」が、事物の客観的、分析的観察から帰納的に抽出された普遍的「本質」ではない、ということである。

 

 

 「易」の聖人の意識は、広い意味でのシャーマン的意識。そういう意識に直結した特殊な目で、彼は外界を見る。その彼の目に、事物は幽玄な象徴性を帯びて現われてくる。その象徴性は、経験的存在秩序とは根本的に異なる「元型」的存在秩序の象徴性である。

 

 

 「易」の認める「元型」といえば、勿論、「乾(けん)、「兌()、「離()、「震(しん)、「巽(そん)、「坎(かん)、「艮(ごん)、「坤(こん)の八つで、これがいわゆる八卦だが、……。

 

 

 チベット密教の専門家ラウフの分析の方がもつと綿密で正確だ。深層意識のイマージュ現象を、ラウフは三つの継起的プロセスとして理解する。すなわち、㈠「元型」→㈡根源形象→㈢シンボル。すなわち無意識の領域に成立した「元型」は、無意識と経験的意識の中間にある特殊な意識領域で「根源形象」、すなわち「想像的」あるいは「元型」的イマージュ、となって形象化する。

 

 

 禅宗第五祖、弘忍(601-673)は、座禅する初心者に向って、こう忠告する。……。こんなことが起こったら、じっと静かに心を保ち、決してどれにも注意を払ってはいけない。みんな虚妄で無根拠なのだ。お前自身の妄念の働きでそんなものが見えるだけなのだから、と。(「修心要論」)

 

 

 そして、経験的事物とは存在資格を異にし、性質も機能も違うそれらのものが、経験界の事物とはまったく違った仕方で活動し、作用しあいながら、そこに独自の存在連関を描き出していく。それが深層意識的世界像である。

 

 

 先刻来、私が主題的に論じている「創造的想像力」派の人たちがそれだ。この人たちは、深層意識的現象として生起するイマージュを、言語アラヤシキという最も無意識に近い領域で、従って最も根源的な形態において、把握する。すなわち、意味「種子」の発動によって現われてくるイマージュを、生起する瞬間、生起したままの姿で把えるのである。

 

 

 それは、本論で私が「言語アラヤシキ」という名の下に問題にしてきた深層意識領域内での意味「種子」の本源的イマージュ喚起作用を中心にする言語観であって、そのまま理論的に展開すれば、それは大規模な言語哲学を生む可能性を持っている。我々が常識的に考える言語哲学、すなわち表層意識において理性が作り上げる言語哲学とは全然異質の深層意識的言語哲学だ。空海の阿字真言、イスラームの文字神秘主義、同じくカッバーラーの文字神秘主義など典型的なケースは少なくない。

 

 

 文字象徴論=文字神秘主義→カンタン「文字の道」→ヒルマン「コトバの新しい天使学」

 

 

 およそコトバなるものには「天使的側面」があるということ、つまりすべての語は、それぞれの普通一般的な意味のほかに、異次元的イマージュを喚起するような特殊な意味側面があるということだ。

 

 

 深層意識的言語観→言語呪術→シャーマニズム・呪文、祈祷、陀羅尼・マントラ等

 

 

 深層意識的事態と表層意識的事態とをこの意味で混同、あるいは同一視することこそ、コトバの呪術的用法の根本的特徴なのであって、またそれだからこそ、理性的、合理的であることを誇りとする近代人の目には、言語呪術は一個の未開人的現象としてしか映らないのだ。しかし深層意識の本当の恐ろしさというものを知っている人々は、コトバの呪術的機能を、そう簡単に迷信として片付けることのできるようなものとは考えていない。

 

 

 また、コトバの深層意識的機能を、それの呪術的側面と同時に存在論的側面に注目しつつ考究して、ついに「真言」――真なるコトバ――の哲学という壮麗な深層意識的言語哲学を樹立した空海の思想も、その大筋においては、カバリストやイブン・アラビーのそれと軌を一にする。

 

 

 空海の深層意識に、存在の源底が大日如来のイマージュとして自己顕現する。

 

 

 空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバである。つまり、一切が深層言語現象である。

 

  五大皆有響 十界具言語

  六塵悉文字 法身是実相

               (空海『声字実相義』)

 

 

 コトバの自己顕現の過程において、「深秘の意味」が言語アラヤシキに直結する最初の一点、コトバの起動の一点、を真言密教は「ア」音として捉える。いわゆる阿字真言、「阿字本不生」である。

 

 

 絶対無文節者は、このダイナミックな言語的自己顕現の始点において、大日如来として形象化される。すなわち「ア」音は大日如来の口から出る最初の声。そしてこの最初の声とともに、意識が生まれ、全存在世界が現出し始めるのだ。

 

 

 すなわち、いやしくも意識が意識として起動し、存在が存在として現われようとする時、「無」から「有」へのこの微妙な転換点に、必ずコトバが「ア」音の形で発言し、絶対無文節者の自己分節はそのまま進んで一切万有にまで展開していく、というのだ。

 

 

 深層意識に生起する「元型」そのものが、文化ごとに違うのである。ただ、どの文化においても人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、またそういう意味でのみ、人間意識の深層機構自体に組み込まれた根源的存在分節として「元型」なるものが認められるのである。

 

 

元型イマージュそのものの性格

 文化的制約性

 事実性からの遊離

 説話的自己展開性

 構造化への傾向

 

 

 一切が現勢態にあるというような存在のあり方は、意識深層においてのみ体験される事態であって、時間性によって根本的に規定されている表層意識の見る日常的世界では、絶対に体験されることはない。つまり、事物、あるいは存在世界、の「元型」的「本質」構造を把握する能力は、表層意識にはないということだ。

 

 

 金剛界マンダラは、たんに密教修行者の意識深化過程の図示、あるいは意識深化を実現する目的で使われる瞑想の手段、なのではない。

 

 

 マンダラとは、「正覚」を得た人の深層意識に現われた一切存在者の真の形姿の図示と考えてよかろう。「正覚」意識の見るがままに全存在世界――内的世界と外的世界を合わせた宇宙全体――の「本質」的(「元型」的)構造を形象的に提示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものなのである。

 

 

ラビ的ユダヤ教(教条主義)↔カッバーラ(反抗運動)

 

 

 男神と女神が互いに独立して存立している状況において、その男神が女神を抱擁し、交合し、性的歓喜のうちにこれと一体化するというのでなしに、男としての神が女としての自分と結婚するという、徹底的に一神内部での出来事ではあるけれども、とにかくこの神事によって、カッバーラーはヒンドゥー教の性力派タントラ、シヴァ派タントラ、道教の性愛的側面などに著しく接近する。

 

 

 カッバーラーの認める十個の深層実在範疇、セフィロート。

 

 

 神から、というより神以前の無から発出する「セフィロート」は、そのまま外に向かって進展して、次第に神の外なる世界(外的存在世界)を構成していくのではなく、むしろ内に向かって、神のうちなる世界を構成していく。神自身を内的に構造化するのだ。

 

 

 要するに、観照意識の深みに立ち現われてくる存在の根源的イマージュのうちに経験的事物、事象の「元型」を認知し、そこに経験的世界の深層構造を見ようとするのだ。

 

 

 つまり、すべての「セフィロート」は、神の内部空間の中心点ともいうべき「無」の深淵から流出してくるのである。

 

 

 イデアが実在する普遍者であるという最も基本的な立場そのものは、プラトンのいわゆる「イデア論発展史」全過程を通じて保存され続けた、と考えていいのではないかと思う。

 

 

 ソクラテス的「定義」探求は、すなわち、「本質」探究。どこまでも感覚的事物の非感覚的「本質」を求めて止まぬ、それは執拗な情熱であった。

 

 

 永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論(プラトン)と正名論(孔子)は一である。

 

 

 不変不動の「本質」を倫理主義的階層組織に組み立てることによって、存在世界を一つの永遠的価値体系に作り上げてしまった孔子の世界像の前に立って、これはまたなんと不自由な世界であることか、と荘子は呟くのだ。価値的存在の範疇の位置にのし上がった「本質」が、人間を、そしてひいてはあらゆる事物を、金縛りにしてしまう。

 

 

「夫れ、道は未だ始めより封あらず。言は未だ始めより常あらず」(荘子斉物論)

 

 

だか、イスラーム自身をも含めて、東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、深層に向かって幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変わっていく存在風景を追っていくというところにある。

 

 

 

 僧肇(そうじょう)が……「老荘思想」を通して「仏教思想」を理解しようとしている点について主に焦点を当ててみたい。

 

 ここでは、『肇論』の中に収められている「涅槃無名論」を中心としつつ

 

 「ニルヴァーナ」という言葉の本来の意味は「吹き消すこと」、「吹き消された状態」をいう。

 

 「涅槃は無名である」(僧肇)

 

 寂寥虚曠 (僧肇)

 

 人間の言葉を通した概念的思考の範囲内において、「涅槃」というあらゆる概念的規定を超えて存在する境地を論ずることは出来ないと僧肇は主張する。

 

 その世界は人間の相対差別の境地を超越している。それを仮りに「道」というのである。

 

 言知を越えた世界

 

 真実在の世界()においては、人間の心知(分別知)により生じたあらゆる差別と対立は完全になくなる。

 

 「真に在るもの」()は形象概念として捉えられたもの()を超えているのである。それは通常の人間の感覚、知覚をもってしては把握できない。従ってそれは「名づけられない」「無名」なるものである。

 

 僧肇はこの「斉観」の論と「即物」の思想によって、物我二空の道理を体得することが「涅槃」の境地入ることだという。

 

 

格物致知(かくぶつちち)

『礼記』大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、物格而知至」に由来

儒教(宋学)において『易経』説卦伝に由来する「窮理」(理を窮(きわ)め性(せい)を尽くし以て命(めい)に至る)と結びつけられ、事物の道理を追究することとして重要視された。

代表的な学説を唱えたのが、朱子と王陽明である。

唐までの伝統的な解釈である後漢の鄭玄(127200)注では「格」を「來」、「物」を「事」、「致」を「至」と解し、善や悪を深く知ることが善いことや悪いことを来させる原因になるとしていた。

 

重視されるようになったのは程頤(10331107)が格物を窮理と結びつけて解釈してからである。

彼は自己の知を発揮しようとするならば、物に即してその理を窮めてゆくことと解釈し、そうすることによって「脱然貫通」すると述べた。

南宋の朱熹(11301200)はその解釈を継承し、『大学』には格物致知を解説する部分があったとして『格物補伝』を作った。ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには読書も含められた。そして彼はこの格物窮理と居敬を「聖人学んで至るべし」という聖人に至るための方法論とした。この時代、経書を学び、科挙に合格することによって官僚となった士大夫に対し、格物致知はその理論的根拠を提供した形である。しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めたため、後に格物や格致という言葉は今でいう博物学を意味するようになった。

近代になり、西洋から自然科学を導入するに際して格物や格致が使われたのもこのためである(ちなみに日本では窮理から理科や理学の語を当てたと考えられる)。

一方、明代中葉の王守仁(王陽明、14721528)は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、格を「正(ただす)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「致良知」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また清初の顔元は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。

従って「格物致知」の読み方もそれぞれ異なり、朱子は「知を致すは物に格(至)るに在り」と読み、王陽明は「知を致すは物を格(正)すにあり」としている。

 

 

 

 

 

 

 

抜粋 井筒俊彦 「禅における言語的意味の問題」 『意識と本質』 岩波書店 再読

 

 現代思想は言語に関して多くの根本的な問題を提起した。言語に対する異常な関心は、現代人の思惟を主題的に特徴づけている。「意味」はそれらの根本的問題の中でもとりわけ根本的な問題である。

 

 現代人にとって、無意味(ノンセンス)に言語を使い、知らず知らずに意味をなさない考えに陥るということは愧ずべきことと考えられている。いかなる形にせよ、無意味を語ることは、現代社会の常識を基本的に規制する科学性に反することだからである。無矛盾性と整合性を原理とする科学的思考は先ず何よりも言葉の有意味的使用を要請する。

 

 

 有意味と無意味の問題を禅はどう考えるのであろうか。

 

 

 禅はその活動のあらゆる場において、無意味という現象を重視する。

 

 

 天龍和尚や倶胝(ぐてい)和尚の一本指。なにをどう尋ねられても、彼らは必ずただ一本の指を立てるのを常とした。無意味である。……。すなわち禅には禅の立場からする独特の有意味性の基準があるに違いない。常識的見地から見て無意味であるものを有意味に転成する、その基準とはどのようなものであろうか。

 

 

 「橋が流れている、川は流れない」「山が水上を歩いて行く」

 

 

 禅の最も禅らしい言語活動は問答という形をとって展開するが、問答形式では禅独特の無意味性が更に一段とむき出しになる。

 

 

趙州(じょうしゅう)禅師「庭前の柏樹子」・洞山禅師「麻三斤!」

 

 

 「言語は存在の家だ」(ハイデッガー→ヘルダーリン的言語)

 

 

 「言無展事」(洞山守初→不立文字)

 

 

 言語に対する禅の態度は著しくダイナミックで行動的である。極限的な精神的緊張の真只中に言葉を投げこみ、その坩堝のなかで一挙にその意味志向性の方向を、いわば無理やりに水平から垂直に捻じまげる。言語は自然に与えられたままの形では全然使いものにならないのである。

 こうして言語はもともと無限定的な存在を様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。

 

 だか、禅はものの固定化をなによりも忌み嫌う。一切のものを本来無自性と信じ、かつそう見るからである。本来無自性とは、永遠不変の、固定した「本質」などというものを持たないということである。

 

 ……柔軟性を欠いた存在論(孔子?)は、哲学的にも前哲学的にも、山の本当のあるがままにたいして人を盲目にする、と仏教は考える。

 

 「万物は我と一体」(僧肇)

 

 「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」(南泉普願禅師)

 

 禅はこの覆いを一挙に取り払うために言語を使用する。言語の意味的志向性によって分節された存在を、瞬間的にもとの非分節の姿に還らせるために分節的言語を逆用するのである。

 

 

 公案として方法的に使われた禅的言表は無意味性に全てをかける。公案は全く無意味(と見える)言表の無意味性を著しく強調し、これを人間意識につきつけることによって、日常的意識をその極限に追いつめ、遂にはその自然的外殻をうち破らせようとする手段である。

 

 

 そして意味を考えに考え、遂に理性的思惟能力の窮極の限界点に至り、更に一歩を進めて絶対無意味の世界に飛躍した時、突如としてそこに悟りの境地がある。

 

 絶対無意味性から先は、いわばこの公案の関知するところではないのである。人がもし己が性のつたなさのゆえに、ここで絶対無の陥穽に落ちこんでしまうなら、ただそれまでのこと。「柏樹子」や「麻三斤」は、この点で、もっと親切である。これらの公案は新しい有意味性の地平を開示する。そこには一たん無化された柏樹が、依然として、柏樹として現存しており、絶対無限定者が刻々に柏樹という形で新しく自己限定していく姿がありありと見える。「山は山、水は水」。無数のものたちが親しげな顔をのぞかせる。駘蕩たる万物の春。禅ではこれを人境不奪の境地と言う。

 

 換言すれば、「公案以前」は、既に少なくとも一応の精神修行を了り、叡智的能力が働き出した人の使う言語であって、公案修行の主要部分を構成するところの第一次的存在分節(日常的・感覚的な事実としての「山は山」)から絶対的非分節(「山は山にあらず」)に至る過程は、「公案以前」では、単に当然のこととして予想された前提に過ぎない。公案修行のこの段階においては、まったく無意味なものだった禅的言表は、「公案以前」においては、一転して有意味となる。

 

 常識的には意味をなさない言表を、別の次元で根元的に有意味化する禅的コンテクストとはどのようなものであろうか。

 

 

 「人境倶奪」(臨在)

 

 

 奪境不奪人的分節においては我に対立すべきものは影すらない。この場合、我は場(フィールド)全体の精神的エネルギーの結晶であり、その限りにおいて存在界の全てだからである。

 

 日本の禅の伝統では、この「人」を普通に分節されたものとしての人から区別するために特ににんと読む。

 

 

*春風駘蕩としてうららかな雰囲気

 

 

 以上のように解された絶対無文節態と、その絶対無分節者がそのまま直接無媒介的に顕現して成じた文節態との間に、本来的な禅の言語は働く。仏教の術語を使えば、聖諦と俗諦との間の振幅が、禅的言語の展開する場面である。聖諦とは存在の絶対非分節的次元であり、俗諦とは言語的に分節された存在の次元である。

 

 

 洞山禅師の嗣、曹山本寂禅師は「正位は即ち空界にして本来無物、偏位は即ち色界にして万象形あり」

 

 

 禅手は言語は必ず聖諦から発する。聖諦から発出した言葉は、一瞬俗諦の地平の暗闇にキラッと光って、またそのまま聖諦にかえる。この決定的な一瞬の光閃裡に神的言語の有意味性か成立する。

 

*平成二十八年十月十二日抜粋終了

*印は抜粋者のコメントです。

 

     

抜粋 井筒俊彦『意識と本質』精神的東洋を求めて 岩波書店 再読 ―2 20161010 | 哲学

 『楚辞』に現われるシャーマン的実存は、自我意識の三つの層、あるいは次元を異にする三つの段階からなる意識構造体として考えることができると思う。第一は経験的自我を中心とする日常的意識。第二は、いわゆる「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。第三は純然たるシャーマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識。

 

「世を挙げて皆濁り、我独り清めり」(屈原)

 

 とにかく、具体的事物が現に目の前に実在していようと、いまいと、それに関わりなく、経験的存在の次元とは違った一つの別の次元で活動する特殊なイマージュが、トランス(あるいは半トランス)状態にあるシャーマンの意識に、屡々現われてくるものだということを、私は指摘しておきたいのである。

 

 即物性を脱した、あるいは即物性の極度に希薄な、事物は必然的にイマージュ的存在に変質する。

 

 マンダラのイマージュ空間は、密教的修行主体の脱自的意識そのものである点で、上に述べた

『楚辞』的シャーマニズムの第三段階的意識状況とまさしく符合するのである。

 

 

 元来、職業的シャーマンは、通常、己れのイマージュ体験の哲学的意義を問うたりはしないものだ。彼はただ超現実的世界に「魂を遊ばせる」だけのことである。

 

 

*「魂の遊び」→「惚けた遊び」

 

 

 古代中国の思想界では、荘子の哲学が、いま言ったような意味で、シャーマニズムを地盤から出発し、シャーマニズムを超えた人の思想だ、と私は思う。

 

 

 『荘子』冒頭に描く怪鳥、鵬――その背中の広さ幾千里なるを知らず、垂天の雲のごとき翼の羽搏きに三千里の水を撃し、九万里の高さに上がって天池に向かう鵬――のあの宇宙飛遊には、「離騒」のシャーマン的天空飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性がある。

 

 

 例えば空海の場合、金胎両部マンダラは意識と存在の深層に現成する「想像的」イマージュ空間の構造的提示であり、このようなイマージュ空間として自己顕現する存在リアリティそのものの形而上学的秘儀を、思想家空海、は探ろうとする。

 

*スフラワルディ「形象的相似の世界」→コルバンimaginal→井筒「想像的」

 

 経験的事物を主にして、その立場からものを見る常識的人間にとっては、質量性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり、影のように儚く頼りないものである。が、立場を変えて見れば、この影のような存在者が、実は、経験的世界に実在する事物よりも、もつと遥かに存在性の濃いものとして現われてくる。

 

 「想像的」イマージュは「元型」の形象化として、事物の「元型」的「本質」を、深層意識的に露顕させる。

 

 こうして「易」の全体構造は、天地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して提示する一つの巨大なイマージュ的記号体系となる。

 

 ……八卦、すなわち存在の八つの「元型」が、事物の客観的、分析的観察から帰納的に抽出された普遍的「本質」ではない、ということである。

 

 

 「易」の聖人の意識は、広い意味でのシャーマン的意識。そういう意識に直結した特殊な目で、彼は外界を見る。その彼の目に、事物は幽玄な象徴性を帯びて現われてくる。その象徴性は、経験的存在秩序とは根本的に異なる「元型」的存在秩序の象徴性である。

 

 

 「易」の認める「元型」といえば、勿論、「乾(けん)、「兌()、「離()、「震(しん)、「巽(そん)、「坎(かん)、「艮(ごん)、「坤(こん)の八つで、これがいわゆる八卦だが、……。

 

 

 チベット密教の専門家ラウフの分析の方がもつと綿密で正確だ。深層意識のイマージュ現象を、ラウフは三つの継起的プロセスとして理解する。すなわち、㈠「元型」→㈡根源形象→㈢シンボル。すなわち無意識の領域に成立した「元型」は、無意識と経験的意識の中間にある特殊な意識領域で「根源形象」、すなわち「想像的」あるいは「元型」的イマージュ、となって形象化する。

 

 

 禅宗第五祖、弘忍(601-673)は、座禅する初心者に向って、こう忠告する。……。こんなことが起こったら、じっと静かに心を保ち、決してどれにも注意を払ってはいけない。みんな虚妄で無根拠なのだ。お前自身の妄念の働きでそんなものが見えるだけなのだから、と。(「修心要論」)

 

 

 そして、経験的事物とは存在資格を異にし、性質も機能も違うそれらのものが、経験界の事物とはまったく違った仕方で活動し、作用しあいながら、そこに独自の存在連関を描き出していく。それが深層意識的世界像である。

 

 先刻来、私が主題的に論じている「創造的想像力」派の人たちがそれだ。この人たちは、深層意識的現象として生起するイマージュを、言語アラヤシキという最も無意識に近い領域で、従って最も根源的な形態において、把握する。すなわち、意味「種子」の発動によって現われてくるイマージュを、生起する瞬間、生起したままの姿で把えるのである。

 

 それは、本論で私が「言語アラヤシキ」という名の下に問題にしてきた深層意識領域内での意味「種子」の本源的イマージュ喚起作用を中心にする言語観であって、そのまま理論的に展開すれば、それは大規模な言語哲学を生む可能性を持っている。我々が常識的に考える言語哲学、すなわち表層意識において理性が作り上げる言語哲学とは全然異質の深層意識的言語哲学だ。空海の阿字真言、イスラームの文字神秘主義、同じくカッバーラーの文字神秘主義など典型的なケースは少なくない。

 

 文字象徴論=文字神秘主義→カンタン「文字の道」→ヒルマン「コトバの新しい天使学」

 

 およそコトバなるものには「天使的側面」があるということ、つまりすべての語は、それぞれの普通一般的な意味のほかに、異次元的イマージュを喚起するような特殊な意味側面があるということだ。

 

 深層意識的言語観→言語呪術→シャーマニズム・呪文、祈祷、陀羅尼・マントラ等

 

 深層意識的事態と表層意識的事態とをこの意味で混同、あるいは同一視することこそ、コトバの呪術的用法の根本的特徴なのであって、またそれだからこそ、理性的、合理的であることを誇りとする近代人の目には、言語呪術は一個の未開人的現象としてしか映らないのだ。しかし深層意識の本当の恐ろしさというものを知っている人々は、コトバの呪術的機能を、そう簡単に迷信として片付けることのできるようなものとは考えていない。

 

 

 また、コトバの深層意識的機能を、それの呪術的側面と同時に存在論的側面に注目しつつ考究して、ついに「真言」――真なるコトバ――の哲学という壮麗な深層意識的言語哲学を樹立した空海の思想も、その大筋においては、カバリストやイブン・アラビーのそれと軌を一にする。

 

 空海の深層意識に、存在の源底が大日如来のイマージュとして自己顕現する。

 

 空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバである。つまり、一切が深層言語現象である。

 

  五大皆有響 十界具言語

  六塵悉文字 法身是実相

               (空海『声字実相義』)

 

 

 コトバの自己顕現の過程において、「深秘の意味」が言語アラヤシキに直結する最初の一点、コトバの起動の一点、を真言密教は「ア」音として捉える。いわゆる阿字真言、「阿字本不生」である。

 

 

 絶対無文節者は、このダイナミックな言語的自己顕現の始点において、大日如来として形象化される。すなわち「ア」音は大日如来の口から出る最初の声。そしてこの最初の声とともに、意識が生まれ、全存在世界が現出し始めるのだ。

 

 

 すなわち、いやしくも意識が意識として起動し、存在が存在として現われようとする時、「無」から「有」へのこの微妙な転換点に、必ずコトバが「ア」音の形で発言し、絶対無文節者の自己分節はそのまま進んで一切万有にまで展開していく、というのだ。

 

 

 深層意識に生起する「元型」そのものが、文化ごとに違うのである。ただ、どの文化においても人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、またそういう意味でのみ、人間意識の深層機構自体に組み込まれた根源的存在分節として「元型」なるものが認められるのである。

 

 

元型イマージュそのものの性格

 文化的制約性

 事実性からの遊離

 説話的自己展開性

 構造化への傾向

 

 

 一切が現勢態にあるというような存在のあり方は、意識深層においてのみ体験される事態であって、時間性によって根本的に規定されている表層意識の見る日常的世界では、絶対に体験されることはない。つまり、事物、あるいは存在世界、の「元型」的「本質」構造を把握する能力は、表層意識にはないということだ。

 

 

 金剛界マンダラは、たんに密教修行者の意識深化過程の図示、あるいは意識深化を実現する目的で使われる瞑想の手段、なのではない。

 

 

 マンダラとは、「正覚」を得た人の深層意識に現われた一切存在者の真の形姿の図示と考えてよかろう。「正覚」意識の見るがままに全存在世界――内的世界と外的世界を合わせた宇宙全体――の「本質」的(「元型」的)構造を形象的に提示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものなのである。

 

 

ラビ的ユダヤ教(教条主義)↔カッバーラ(反抗運動)

 

 

 男神と女神が互いに独立して存立している状況において、その男神が女神を抱擁し、交合し、性的歓喜のうちにこれと一体化するというのでなしに、男としての神が女としての自分と結婚するという、徹底的に一神内部での出来事ではあるけれども、とにかくこの神事によって、カッバーラーはヒンドゥー教の性力派タントラ、シヴァ派タントラ、道教の性愛的側面などに著しく接近する。

 

 

 カッバーラーの認める十個の深層実在範疇、セフィロート。

 

 

 神から、というより神以前の無から発出する「セフィロート」は、そのまま外に向かって進展して、次第に神の外なる世界(外的存在世界)を構成していくのではなく、むしろ内に向かって、神のうちなる世界を構成していく。神自身を内的に構造化するのだ。

 

 

 要するに、観照意識の深みに立ち現われてくる存在の根源的イマージュのうちに経験的事物、事象の「元型」を認知し、そこに経験的世界の深層構造を見ようとするのだ。

 

 

 つまり、すべての「セフィロート」は、神の内部空間の中心点ともいうべき「無」の深淵から流出してくるのである。

 

 

 イデアが実在する普遍者であるという最も基本的な立場そのものは、プラトンのいわゆる「イデア論発展史」全過程を通じて保存され続けた、と考えていいのではないかと思う。

 

 

 ソクラテス的「定義」探求は、すなわち、「本質」探究。どこまでも感覚的事物の非感覚的「本質」を求めて止まぬ、それは執拗な情熱であった。

 

 

 永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論(プラトン)と正名論(孔子)は一である。

 

 

 不変不動の「本質」を倫理主義的階層組織に組み立てることによって、存在世界を一つの永遠的価値体系に作り上げてしまった孔子の世界像の前に立って、これはまたなんと不自由な世界であることか、と荘子は呟くのだ。価値的存在の範疇の位置にのし上がった「本質」が、人間を、そしてひいてはあらゆる事物を、金縛りにしてしまう。

 

 

「夫れ、道は未だ始めより封あらず。言は未だ始めより常あらず」(荘子斉物論)

 

 

だか、イスラーム自身をも含めて、東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、深層に向かって幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変わっていく存在風景を追っていくというところにある。

 

     

抜粋 谷川理宣「僧肇における「涅槃」の理解」インターネットPDF 20160828 | 哲学

 

僧肇(そうじょう)が……「老荘思想」を通して「仏教思想」を理解しようとしている点について主に焦点を当ててみたい。

 

ここでは、『肇論』の中に収められている「涅槃無名論」を中心としつつ

「ニルヴァーナ」という言葉の本来の意味は「吹き消すこと」、「吹き消された状態」をいう。

「涅槃は無名である」(僧肇)

寂寥虚曠 (僧肇)

 人間の言葉を通した概念的思考の範囲内において、「涅槃」というあらゆる概念的規定を超えて存在する境地を論ずることは出来ないと僧肇は主張する。

 

 その世界は人間の相対差別の境地を超越している。それを仮りに「道」というのである。

 

 言知を越えた世界

 

 真実在の世界()においては、人間の心知(分別知)により生じたあらゆる差別と対立は完全になくなる。

 

 「真に在るもの」()は形象概念として捉えられたもの()を超えているのである。それは通常の人間の感覚、知覚をもってしては把握できない。従ってそれは「名づけられない」「無名」なるものである。

 

 僧肇はこの「斉観」の論と「即物」の思想によって、物我二空の道理を体得することが「涅槃」の境地入ることだという。

 

 

 

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抜粋 井筒俊彦 東洋哲学覚書『意識の形而上学―大乗起信論の哲学』岩波書店 再読

 

20160730 | 哲学

 

第一部 存在論的視座

 

 『大乗起信論』 馬鳴菩薩? 六世紀 原文四十七ぺージ(岩波文庫)

 

 

 東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握

 

『起信論』二つの特徴

 一 思想の空間的構造化

 二 思惟が、至る所で双面的・背反的、二岐分離的、に展開

 

 思考展開の筋道は、至るところ、二岐に分かれ、ふたつの意味指向性の極のあいだを、思惟は微妙な振幅を描きながら進んでいく。

 

 右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見うしなう。要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だから、このような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『起信論』の思想は自己の思想、ということにもなりかねないだろう。

 

*グレゴリー・J・ミルマン『ヴァンダルの王冠―国際金融帝国の敗退』、フェンテス『アウラ』

 

 「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 

 ……思惟展開のこの強力な二岐分離的傾向は、『起信論』に使われている多くの(というより、ほとんどすべての)基本的術語、キーターム、の意味構造の双面性、背反性となつて結実する。

 

 要するに、「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 

 二つの相反する意味志向性の対立が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向かう二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。

 

 意味志向性のこの二重構造に目隠しされることなく、それを超出して、事の真相を、存在論的、かつ価値符号的双面の「非同そのまま非異」性において、無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚識をもつ人こそ、『起信論』の理想とする完璧な知の達人(いわゆる「悟達の人」)なのである。

 

            限りない妄象現出の源泉(存在分節否定の立場)

「アラヤ識」和合識〈

            「真如」の限りない自己顕現の始点(存在分節肯定の立場)

 

 一に非ず異に非ず

 

 一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。

 

 いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと―そこにこそ形而上学の本旨が存する。

 

東洋哲学の諸伝統→形而上学的極所

 「絶対」、「真(実在)」、「道」、「空」、「無」等々→『起信論』「仮名」(けみょう)→「真如」

 

 プロティノスの「一者」という名もまた然り。(「仮名」)

 

*私の「惚けた遊び」もまた然り。

 

プロティノス

「どんな言葉を使ってみても、我々はいわばその外側を、むなしく駆け廻っているだけのことだ」

 

馬鳴菩薩

「言説の極、言に依りて言を遣るを謂うのみ」

「当に知るべし、一切の法は説く可からず、念ず可からず。故に「真如」となすなり」

「言真如亦無有相」

 

命名は意味分節行為である。

 

 存在現出のこの根元的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。

 

 むしろそれは実在の決定的な次元転換を意味する。(次元転落という方が荘子の真意に近いか)

 

老荘の道

ウパニシャッドの名色論

イヴン・アラビーの存在一性論

 

 無名無相、それは一切の「……である」という述語づけを受けつけない。

 

 「名づけ」がものを、正式に、存在の場に呼び出すのだ。

 

 私見(井筒)によれば、言語意味分節論は東洋哲学の精髄であって、いったんこれについて語りだせば止めどなくなってしまう恐れがある。

 

真如 離言真如と依言真如

 

 

 

第二部 存在論から意識論へ

 

 与えられたテクストの言述の表層を解体し、その底に伏在している思想の深層構造を読み解くための、読みの方法論的テク二ークとして、『起信論』哲学を、そういう道筋(存在論から意識論へ、思想的中心軸を移すこと)で、組み立てなおしてみようとするだけのことなのである。

 

忽然念起、いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。

 

 「念」が起こる、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ぬ意識の分節が起こる、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。

 

 (『起信論』の)存在論は、どことなく人間的であり、主体的.・実存的であり、情意的ですらある。

 

 心=意識→意味のズレを意図的に利用して、東洋哲学の世界における間文化的意味論の実験を試みる。

 

 『起信論』本文に出てくる「心(しん)」の一語を、自由に「意識」と訳しながら……。

 

 「意識」の超個的性格、超個人的・形而上学的意識一般、純粋叡智的覚体。

 

 プロティノス的流出論体系の「ヌース」、アンリ・コルバンの創造的想像力、ユング心理学の集団的無意識等と同様に考える。

 

 このような超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がりこそ、『起信論』は術語的に「衆生心」と呼ぶ。

 

 むしろこのホンヤク操作によって、「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫重関係を醸成しようとするのだ。

 

 「薫重」は『起信論』でも重要な働きをする大乗仏教の基本的術語の一つ。要するに、「移り香」。

 

 だがいつの日か、同様な試みが、もし巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われることになれば、我々の言語アラヤ識は実に注目すべき汎文化性を帯びるに至るであろう。

中国→仏教典籍の漢訳

イスラーム→ギリシャ哲学の基本的典籍のアラビア語に翻訳

 

 

 「三界(=全存在世界)は虚偽にして、唯心の所作なるのみ。」

 

 「心、心を見ざれば、相として得べきなし」

 

 「乃至、総じて説く、一切の衆生は分別するによって、皆相応せず。故に説いて空となすのみ。もし妄心を離るれば、実には空ずべき〔空も〕無し」

 

 もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。本来的には、空ずべき何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。

 

 そもそも、「形而上的なるもの」の窮極処を「空」とか「無」とかいうような、現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのが、東洋哲学一般に通ずる特徴的アブローチなのであるが……

 

 「心真如」の中に、元型的あるいは形相的に潜在していたものが、現勢化する、それが「心真如」の自己分節にほかならない。

 

 「空」「不空」という相対立し、相矛盾する二側面が、結局、本来的には、ただ一つの「心真如」自身の、自己矛盾的真相=深層にほかならないということ

 

 「心真如」と「心生滅」とのこの特異な結合、両者のこの本然的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。

 

 唯識の立場では「アラヤ識」は千態万様の「心生滅」のみに関わるのに反し、『起信論』的「アラヤ識」は、「心真如」と「心生滅」との両方に跨ること。すなわち、唯識哲学においては、生々流転(「心生滅」)の在り方だけが問題なのであって、不生不滅(「心真如」)の実在性は問題とされない。

 

『起信論』の「アラヤ識」→「心真如」と「心生滅」の両領域にわたる→和合識→真妄和合

唯識哲学の「アラヤ識」→「妄識」

 

 

第三部 実存意識機能の内的メカニズム

 

 「覚」「不覚」「始覚」「本覚」。これら四つのキータームが、互いに接近し、離反し、対立し、相克し、ついに融和する、力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。

 

 理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。

 

   「根本不覚」(根元的「不覚」)

不覚<

   「枝末不覚」(派生的「不覚」)

 

 「真如」の真相を、全一的意識野において覚照する能力がないこと、それがすなわち「無明」=「根本不覚」なのである。

 

 「枝末不覚」は、いま述べた、「真如」についての根本的無知の故に、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方である。

 

 『起信論』の「三細六麁」→「九相」論

 

 個的実存の意識を「妄」界に巻きこんでいく「不覚」形成のプロセスを『起信論』は九の段階に分けて記述する。

 

 「三細」とは三種の微細な、つまり、ほとんど気付かれないようなかすかな形で働く、深層意識的心機能を意味し、

 「六麁」(ろくそ)とは六種の粗大な形を取って現われる表層意識的心機能のことである。

 

 要するに、「アラヤ識」の「妄念」的機能フィールドは九つの段階的様相を持つということである。

 

「三細」 ㈠「業相」㈡「見相」㈢「現相」

「六麁」 ㈣「智相」㈤「相続相」㈥「執取相」㈦「計名字相」㈧「起業相」㈨「業繋苦相」

 

*なんということだ、この細分化は。

 

 「忽然念起」。いつ、どこからともなく、唐突に、心の深みに何かが動く。「念」の起動。たちまちそこにものが生起する。ただ忽然と、ものが現われるのだ。何かが認識されるのではない。まだ主体も客体もない原初的状境だから、誰かが何かを意識するということはない。ただ何かが生起するだけ。主客未分、認識以前、前認識論的状態である。→業識

 

「五蘊集合」的物象化

 

「三界は虚僞」

 

「心、心を見ざれば、相として得べきなし」

 

 未だどこににも、これといって特別の「名」が現われていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、それを様々に区劃し、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のあり方を「計名字相」という。

 

それを「妄念」と見るところの「不覚」論の立場では、ものに「名」をつける人間の言語行為は、「妄念」強化の要因でしかあり得ないのである。

 

 「名」としてのコトバは膠着性、あるいは染着性、を一般的特徴とする。いったん「名」がつくと、現象的存在は本来の生々とした浮動性を失って、「名」としての語の意味形象の示唆する枠に膠着してしまう。いままで生気溢れる可塑性をもって自由に浮動していた存在の無限定性が奪い去られ、万物が動きのとれない意味枠に固着して、あたかも実在するものの如くに我々の意識を支配し始める。

 

 「計名字相」は、命名についてのこのネガティブな見解を、特に実存的意識の情的、情緒的側面に、限定的に適用しようとするのである。

 

 「名」与えられることによって言語的凝固体になる前の無記名的浮動性にあるかぎり、一般に情念はただ漠然とした気分のようなものであって、それにはそれほど恐るべき力はない(というのが『起信論』の見方である)。ところが「名」によって固定されて、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存意識に対して強烈な呪縛力を行使し始めるのだ、と考えるのである。情念のこのような言語的凝固体を、伝統的仏教の用語では「煩悩」という。

 

 『起信論』によれば、我々普通人の実存様相は、たいていの場合「不覚」である。情念的生の渦に巻き込まれ、数限りない「煩悩」に取り押さえられて金縛りになっている人間が、実存的に「不覚」の状態にあることは、むしろ当然でなければならない。

 

 「妄念」の所産に過ぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思い込んでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかも、それに気づかずに――ということ。

 

 忽然と「不覚」の自覚が生じて来ることがある。(「本覚」からの促しによって)

 

 『起信論』によれば、「本覚」としての資格で機能する「覚」は、「不覚」の状態にある人々に向かって、絶えず呼びかけの信号を送り出し続けているからなのであって、もしたまたま、発信されたこの実存的信号が、心の琴線に触れることがあれば、自分の実存が「不覚」の状態に陥ちこんでいること、すなわち己が自己本然の姿を忘れて生きていること、に気づき、慄然として、自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが、すなわち「始覚」なのである。

 

 修行の全プロセスが「始覚」

 

「風に騒ぐ海」

 

 「薫重の義とは、世間の衣服は実には香無きも、若し人、香を以って薫重すれば、即ち香気有るがごとく、此れもまた是くの如し。真如の淨法は、実には染なきも、但だ無明を以って薫重するが故に、即ち染相有り。無明の染法は、実には淨業無きも、但だ真如を以って薫重するが故に、即ち浄用有り。」(『大乗起信論』)

 

「染法薫重」・「浄法薫重」

 

「染法薫重」(下り)

 第一段 「無明薫重」(己れを生み出す源となった「無明」に反作用して第二段に移っていく)

 第二段 「妄心薫重」(「妄心」が反作用を起こして「無明」に「逆薫重」し、「無明」勢力増長させ、そのエネルギーが「妄境界」を生み出す)

 第三段 「妄境界薫重」(「妄境界」の反作用で能生の「妄心」に「逆薫重」してそのエネルギーを増長させ、人間的主体を限りない「煩悩」の渦巻きの中に曳きずりこみ……)

 

「浄法薫重」(上り)

 ㈠ 「本薫」(実存主体、「妄心」は、己れが現に生きている生死流転の苦に気づき、それを厭い、一切の実存的苦を超脱した清浄な境地を求め始める)

 ㈡ 「新薫」(強烈な厭求心となつた「妄心」が、「真如」に「逆薫重」して、人をますます修行に駆り立て、ついに「無明」が完全に消滅するに至る)

 

 「心源を覚するを以っての故に究竟覚と名づく」

 

 悟りはただ一回だけの事件ではないのだ。

 

「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交代が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。

 

 

 この実存的円環運動こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。

 

 

あとがきに代えて(井筒豊子)

 

それができたとき、彼の実存意識の意味的網目組織磁場も円環閉止的に完成し内的に完了していたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

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20160505 | 哲学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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志学元年の経験    20160429 | 哲学

 

 一般に、我々は孔子の言うように「十有五にして学に志す」と言われている。

 自ら意識的に学び始めるというこの志学の年、十五歳説は前後二、三年のズレはあっても客観的な事実として現代の実証的な心理学者もつとに認めているところである。

 

 これに関して、W・ジェイムズは次のように言っている。

 我々は、「普通十四歳から十七歳までに」「自分は未完成であり不完全であるという感じ、思案、意気阻喪、病的な内省、罪悪感、来世に対する不安、懐疑の悲しみ」等々の強い印象を残す経験をする、と。

 

 また、E・ミンコフスキーは、これを次のように述べている。「思春期は、それまでまどろんでいた力の荒々しい目覚めによって、単に幼少年期から成年期への移行期であるだけでなく、われわれの前に一つの生、つまりわれわれの生の展望を開きながら、われわれのうちでの〈人間〉の目覚めの時期ともなっている」のであると。つまり、俗に反抗期とか自意識の誕生とか言われるこの経験は少年期特有の経験なのである。

 

 この経験は外部世界の不意の登場によってもたらされる、という点に特徴がある。

 というのも、それまで〈見て見ず〉であった事象を誕生以来初めて意識を伴って、〈それ〉として〈そこ〉に見始めるのである。この新たな目、つまり意識を伴った目で万事万象を見始めることを指して、孔子は〈志学〉と言ったものと思われるのである。

 

 ところで、昔から、このような特異な経験をする端境期の少年を対象にして地上のあらゆる地方に、その土地特有の大人の仲間入りを儀式化した入会式・イニシエィションが数多く執り行われているし行われていた。

 これは、この時期の少年のこの特有な経験に注目し、それを日常的な事件にしてしまわないため特異性を更に展開するために儀式化し、そこに教育的な配慮をこめた先人の知恵の成果なのである。

 

 しかし現代では、この儀式は影が薄くなり村落や共同体の導きは無くなり、先達は呆けてしまい、少年達は自ら一人一人が試行錯誤を繰り返しながら孤立した環境のなかで学びとって行かなければならないような状況に放り出されているのである。

 

 

 

出所―平成七年 哲学書『情緒の力業』(四百字詰め原稿用紙五五三枚)近代文藝社