門脇佳吉   仏教徒とキリスト教神秘主義

公案と聖書の身読  キリスト者の参禅体験

道の形而上学

 

 

霊操 Exercitia spiritualia

イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行、またその方法を記した著作。「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とする。修行の到達点においては神と深い人格的交わりを持つ=神の御意志を見出すことが目指される[1]

 

「霊操」以前にもキリスト教の修道会では祈りや霊的読書などの修行が行われていた。だが、方法は整備されていないものが多かった。ロヨラは霊操でそれまで修道会に伝わってきた良心の究明、黙想、観想、口祷、念祷などの修行の諸要素をはじめて本格的に体系化し、自身の独創を加えてまとめあげた。霊操の中では指導者、修行者それぞれに対する注意点、修行の手順、規則、霊の微妙な動きを感じ取る方法などについて詳細に記されている。

霊操(観想)は11時間を毎日5回行い、四週間にわたるので5時間×28=140時間になる。

 

構成

第一週 罪の認知と痛悔

第二週 キリストの救済活動の観想

第三週 キリストの受難の観想

第四週 キリストの復活の観想

伝統的な修行階梯の三区分、浄化、照明、一致では第一週が浄化、第二、第三週が照明、第四週が一致に相当する。

 

イグナチオの霊操と接心

散歩やヨガやストレッチをする体操のように、霊魂を準備し、整えるあらゆる方法が霊操である。

心構えは、自分の意志と自由のをすべてを献げ尽くし、気高い精神と惜しみなき心をもってから始める。

 

「ひざまずくなり、伏すなり、あおむくなり、坐るなり、立つなりして、いつでも自分の望むものを探し求める心構えをもつこと」

坐禅も一向に差し支えがない

ポイントは2つ

姿勢を変えないこと

自分の望むものを見出すなら、自分が満足するまで、次に進もうと心をあせらず、その要点にとどまる

 

1自愛心を除く

「仏、家を捨て、国を捐つ。・・・易きを好むの人は、自ずから道器に非ざることを知れ」出典?

2離居と静寂

3大死と大活のダイナミズム  「大死一番絶後に蘇る」

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、1つのままである。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ」ヨハネ12/24

 

第一週  改心    「主よ、私がどうすることをお望みですか」使徒行録2210

    「イエスの十字架を見て、私の罪のために死を遂げられてことを思い、自分が何をするのかを考える」

     積極的にコミットする人のみが参加できる

第二週  より貴重でより大切な捧げ物

誇り高き騎士精神    

     自己の邪な欲望との戦い、より大きな自己犠牲  

大死(自己奉献)=大活(キリストの愛)のダイナミズム

弟子がキリストに惚れ込んで、自分の命を投げ出してはじめてキリストの国は現成する。

主の御恵みと御助けのもとに私をささげます

     仏祖の行持道環す 師に出逢ったら、とことんまで従っていくこと。

     仏道とは仏祖の無上行持が道環し、それが現代の我々までも保任し、我々の行持をも見成する

     真理とは自分と他人のダイナミズムの人格関係によって成立する「客観的」なもの

第三週  キリストの受難  私も日々十字架の苦難を担って行こうと決意する

     キリストと自分とは、同じ父なる神のいのちに生かされている

     食事についての規則

第四週  キリストの復活  

十字架即復活の真実を悟る

     キリストの復活の栄光と歓喜に与るとは、自分も同じ復活の生命に生かされていることを自覚する

     キリストの如く、復活の生命力の赴くままに、自由闊達にすべての人のために自己のいのちを燃焼させて生きられるようになる。

 

 

 

禅の良いところ

「からだ」の重要性に気づく。

第一に姿勢を正し端座し、呼吸を調え、心を調える。「身から心へ」進む道。

死に直面してもジタバタしなくても済む。

ヒトに本来備わっているすごい力を開発する。 カラダごと体当りして、渾身の力を引き出す。

身・息・心の3つの全てが総動員され統一集中され、渾然一体になって、力が爆発的に湧き出し、本来の面目が現れる。

罪意識が排除される。

全体を観る眼が養われる。全体、部分、部分から全体、全体と部分、部分と部分の関係を一度に直観的に把える。

 

人間は身体をもつのではなく、身体そのものなので、人間はからだである、ことがわかる。

 

 

 

無門関 第一則

驀然(まくねん)として打発(だはつ)せば、天を驚かし地を動ぜん。

関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得、

六道四生(ろくどうししょう)の中に向って遊戯三昧ならん。

ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、

 

驚天動地の働きが現われるだろう。

それは、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、

仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢いだ。

この生死の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中でも

遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになるだろう。

 

 

 

『無門関』(むもんかん、The Gateless Barrier

中国南宋時代の無門慧開(1183-1260年)によって編まれた仏教書、または禅宗で禅書・公案集と呼ばれる著作[2]。禅宗の公案、古則(仏教の故事で禅修行の道しるべとなるもの[3])を紹介するもので、本則(本文のこと[3])に、無門の禅的な批評鑑賞である評唱(ひょうしょう)がつけられ、さらに俯瞰した頌(じゅ)と呼ばれる宗旨を込めた漢詩が付され、これらをもって1節(禅宗では1則)とし[2][4]48の節(則)と序文、後序とからなる1巻本である。

概要

中国では、重要視されなかったようであり[4]、伝本が絶たれたとされるが[2]、日本には入宋した無本覚心(1207-1298年)が無門慧開に直接参じ、帰国する際(1254年)に与えられたとされる巻本などが伝わる[5]。江戸時代に大いにもてはやされた[4]。ただし、今日流布しているのは広園寺(八王子市)蔵版の巻本で、無門の序文の前に習庵[6]序と表文[ 1]を、巻終(後序)の後に禅箴[ 2]、黄龍三關[ 3]のほか、孟珙[7]という居士が跋文(孟珙跋)を付し、さらに安晩[8]という流浪し僧寺に寓居したことのある南宋の上級官吏による跋文(安晩跋)と1則を加えて49則としたものである[5]

 

西村恵信は、無門がなぜ48則としたのかは分からないとしている[5]。第1則の「趙州狗子(狗子仏性、趙州無字)」は、無門が直参した月林師観から無門自体が与えられた「犬に仏性はあるか」という公案で、無門は6年を経ても見当がつかないでいたが、月林の法座に列していたとき、斎鼓の音を聞いて廓然したとされる逸話があり、禅宗で最も知られた公案のひとつである[5]

「羊頭を懸けて狗肉を売る(羊頭狗肉)」の句は本書による(第6 世尊拈花)。

 

構成内容

序 禅宗無門関

透得此關 乾坤獨歩(此の関を透得せば 乾坤に独歩す)の頌曰で結んでいる。

1 趙州狗子

纔渉有無 喪身失命(わずかに有無に渉れば 喪身失命す)の頌曰で結んでいる。

2 百丈野狐

3 倶胝豎指

4 胡人無鬚

痴人面前 不可説夢 胡人無鬚 惺惺添懵(痴人に面前して夢を説くべからず。胡人に鬚無く惺惺がぼんやりと添う)の頌曰で結んでいる。

※痴人=胡人だが禅宗一般で胡人は達磨を指し、ここでは釈迦とする説もある[9]。公案では己れの事も考慮する。

5 香嚴上樹

6 世尊拈花

7 趙州洗缽

8 奚中造車

機輪轉處 達者猶迷 四維上下 南北東西(輪転の処に機して達者猶お迷う。四維上下 東西南北)の頌曰で結んでいる。

9 大通智勝

10 孤貧

16 鐘聲七條

會則事同一家 不會萬別千差 不會事同一家 會則萬別千差 の頌曰で結んでいる。

※同一群と万別千差は相対的といった意味合い。

24 離却語言

進歩口喃喃 知君大罔措(歩を進めて口なんなんと 君知る大なる網のはからいを)の頌曰で結んでいる。

32 外道問仏

不渉階梯 懸崖撒手(階梯を渉らず 懸崖に撒手す)の頌曰で結んでいる。

33 非心非仏

逢人且説三分 未可全施一片(人に逢ってひとまず三分を説く。未だ全ては可ならず一片を施す)の頌曰で結んでいる。

34 智不是道

盡情都説了 只恐信不及(情を尽してみやびやかに説了するも 只だ信及ばざるを恐る)の頌曰で結んでいる。

※南泉斬猫で知られる南泉の言動を絡めて評したもの。

35 倩女離魂

雲月是同 渓山各異 萬福萬福 是一是二(雲月是れ同じ 渓山各々異る 萬福萬福 是一是二)の頌曰で結んでいる。

※「変成男子」参照。

36 路逢達道

攔腮劈面拳 直下會便會(下骸を遮り割砕して挙し 直下に会すこと便会なり)の頌曰で結んでいる。

※攔=遮る、阻むの意。 =顎(あご)の意。 =さく、ひきさくの意。便會=〜できる、するなどの意。

37 庭前栢樹

言無展事 語不投機 承言者喪 滯句者迷(言展じる事なく 語機に投ぜず。言承る者なく 句滞る者迷う)の頌曰で結んでいる。

※趙州庭前栢樹の問答両者の言辞を絡めて評したもの(無門は評釈で「前無釋迦後無彌勒」と術している)。

40 趯倒浄瓶

脚尖趯出佛如麻(つま先おどって麻ほぐ如く仏を出だす)の頌曰で結んでいる。

※死装束に経帷子を着せるのではなく、白い亜麻布を巻く風習が世界各地にあった。

41 達磨安心

西來直指 事因囑起 撓聒叢林 元來是你(西来の直指 事は嘱するに因って起る。叢林かまびすしくみだすは 元来是れなんじ)の頌曰で結んでいる。

48 乾峰一路

直饒著著在機先 更須知有向上竅(たとえ著著と機先に在るも 更に向上の竅有るを知るべし)の頌曰で結んでいる。

 

https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/mumonkan1.html

 

 

 

身が語る

誠意をもって相手の方に体と顔を向け、真剣に相手の話に耳を傾けているとき、言葉を発しなくても、すでに「語って」いる。

この「身の語り」がなければ、何も語っていないのに等しい。

 

本来の面目

たとえば号泣して、自己を忘れる。つまり悲しい出来事や痛みになりきる。

一事になりきったときに、本人に眠っていた本来の面目がもくもくと姿を現わす。

万物即我、全即個、多即一。

森羅万象が仏のいのちであることが明白になる。

 

調身・調息・調心  大死に徹する  

身を正し、

ゆっくりと大きく、丹田で呼吸する。

吐く息とともに、ムーと唱える。

無とはなにかと頭で考えることをまず排除する。

ムーになりきる。

この時に、気力のありったけを使って、ムーッで、尻の穴をぶち抜き、座布団をぶち抜き、地球の向こう側までぶち抜く。

心の最深層にまで達する大信根や大勇猛心も総動員されて、大死を目指す。

大死とはキリスト教で言えば、十字架にかかる覚悟の行動。

信とは、わたしたちが仏のいのちに生かされている、ということ。

聖三位の神が自分のうちに住まっているという信仰

 

 

 

身・息・心の3つの全てが総動員され統一集中され、渾然一体になって、力が爆発的に湧き出し、本来の面目が躍り出てくる。

こうして万物同根である自己の本性を自覚する。これが般若の智慧paññāである。

この智慧paññāによって、カラダ(対象)のすみずみまで照らされことによって、秩序付けることができ、そして統合されるときはじめて「自己と他己の身心を脱落し」うるようになる。

からだ全体から智慧paññāの光が発散し、世界を照らす。これが禅の目指すからだの徹底的浄化である。

 

しかし智慧paññāの眼が開いても、まだ弱いので心の中の無明の闇を照らすことができない。

 

そこで「遍身眼」という無意識(身体)を遍く見る眼をもち、無意識を全て照らし、その次には、照らされた無意識(身体)と融合した意識である「通身眼」で、世界に接してみる。

言葉を変えればからだ全体が眼になる境地から、眼と対象が一緒になって眼が無くなる境地へと自由闊達になることである。       『碧巌録』89「雲巌大悲手眼(うんがんだいひしゅげん)

常に通身眼でこの世に接することができるように坐禅を続ける。

 

そのためには「なりきる」ことが必須である。

たとえば「馬大師不安」(碧巌録3

「からだ」全体をもって死に切らなければ、答えは出てこない。

 

悟りへの心理過程

1悟るためには普通の認識プロセスと思考プロセスを全部捨てなければならない。

 「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す」

2調身調息して心で「ムー」と唱えながら、この「ムー」に精神を集中する。

「心路を窮めて絶する。」

3そうやっていれば疑団が起こる。無とは、私とはなにか?という疑団が全身に漲るのを待つ。

「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(もっ)て、通身に箇の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。」

4この「ムー」を昼も夜も忘れてはならず、坐禅中も食事のときも休憩時間も唱え続け、それに全精神を集中する。その間は、無とは虚無だとか、有に対してとか、有無の対立を越えた絶対無などと頭で考えてならない。

「昼夜提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会()を作()すこと莫(なか)れ」

5このように熱心に修行してゆくと何日か後には、無我夢中になって、普通の頭の働く余地はなくなる。

すると心はますます純粋となり、成熟してくる。

「箇の熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相い似て、吐けども又吐け出さず」

「従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)して」 思考パターンの根をとろけ尽くして無くしてしまう

「久々に純熟」

6するとついに、主と客の区別がなくなり、無字と自分と一つになる。

これが「無」であり、「無我」

 その境地は自分で体得する以外にそれを知る道はない。

「自然(じねん)に内外(ないげ)打成(だじょう)一片」

「唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す(要す)」

「有無(うむ)の会()を作()すこと莫(なか)れ。」

「尽(ことごと)く是れ依草附木(えそうふぼく)の精霊(せいれい)ならん。」

 

 

 

禅の悟り

万物同根に覚醒めること、自己とすべてのものが一なることを「からだ」で体得すること。

 

禅は法理を身心をもって体得する。見性を体験するとき、その法理は見性者の身心に「生きており」その見性体験を生き生きと「構成」しているものである。

しかし悟りはこの法理を対象としてみることではなく、この法理を生きている自己に気づくことである。

坐禅の仕方

全身全霊の気力を尽くして、真剣に坐ることが必要。

漠然と坐るものではない。

次に同じ気力を日常生活でも保ち続け、何事にも全心身を投入して当たる。

 

これができると心を「何処にも置かねば、我身にいっぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手の入る時は、手の用を叶へ、足の入る時は、足の用を叶へ、目の入る時は、目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり。」

無心になると、必要な時に必要な所が働くようになる。

 

 

不動智神妙録の「無心」

心をどこにも留めず、気力を全身に漲らせることが、無心。

 

有心之心、無心之心と申す事の候、有心の心と申すは妄心と同時にて、有心とはあるこゝろと読む文字にて何事

にても一方へ思ひ詰まる所あり、

  有心、無心と分けると、これまた、物事の両極端の事の様に思われるかも知れませんが、ここで言われている、 無心と言うのは、決して心が無い、という様な事を述べているのではなく、どこにも留まっていない心の事を言っています。

 

心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候、

 

無心の心と申すは右の本心と同じ事にて、固り定りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身に延び広ごりて全体に行渡る心を無心と申すなり、

 

どっこにも置かぬ心なり、石か木かのやうにてはなし、留る所なきを無心と申す也

 

留まれば心に物があり、留まる所なければ、心に何も無し、

 

心に何もなきを無心の心と申し、又は、無心無念とも申し候。

 ここで言う無心とは、こういう状態の事を述べています。心が何かに囚われていない状態の事です。

 

 

 此無心が心に能くなりぬれば、一事に止らず一事に欠かさず、常に水の湛えたるやうにして此見に在りて

用の向ふ時出て叶ふ也、

 無心という事を良く会得したならば、必要な時に必要な働きを自然に得られる。

 

一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり、車の輪も堅からぬように廻るなり、一所につまりたらば廻るまじきなり、心も一所に定れば働かぬものなり、

 心を何処かにとどめれば、心は様々に動揺して、一向に安らかならず、又、そのものに留まる事で、思考も硬直して、自由に回転せず、当然、良い思案も浮かばなくなります。

 

 

心中に何ぞ思う事あらば、人の云ふ事をも聞きながら聞えざるなり、思う事に心が止まるゆえなり、

 

心が其思う事に在りて一方へかたより、一方へかたよれば物を聞けども聞こえず、見れども見えざるなり、是れ心に物ある故なり、

 又、極端に何かにとらわれたならば、本来見えるべきものも見えず、聞こえるべきものも聞こえないという事になるでしょう。

 

あるとは思う事があるなり、此有るものを去りぬれば,心無心にして唯用の時ばかり働て、其用に当る。

 

此の心にある物を去らんと思ふ心が、又心中に有る物になる、思はざれば独り去りて自ら無心となるなり、

心をとどめぬ様に、と意識する事も又、心をとらわれる事になるので、それも「放下着」<捨ててしまえ!>

常にそういう心持ちでいれば、何時の間にか、自然にどこにも心をとどめていない境地になっている事でしょう。

 

常にかくすれば、何時となく、後は独り其の位へ行くなり、急にやらんとすれば行かぬものなり、

 急に、そういう境地を得ようとしても、それは無理というものです。

 達人、いわゆる物事の名人、ベテランと言われる人々は、その道を歩んでそれなりの年数を経てきた人々でしょう。

 何事も一朝一夕にはいかないのは、どの様な道にも共通するものでありましょう。

 

古歌に、

「思はしと思ふも物を思ふなり、  思はじとだに思はしや君」

 「思わないでおこうと思う事も物を思う事です。思わないでおこうとすら思わないで下さい」

 

車の運転をする人は、どういう状態が最も安全かを思い浮かべて見て下さい。

美人が歩いているからと言って、それに気を取られていては、前方がお留守になってしまって、これでは、一秒間に何10メートルも進む車の運転は、危なくてどうしようないですね。かといって、何も見ていない、何も聞いていない訳ではないでしょう。

しっかり前後左右に意識は働かせている筈です。

 

 

不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)は、江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物である。執筆時期は諸説あるが、内容から見て寛永年間(1624年から1645年)であろうと推測される。別称を『不動智』、『剣術法語』、『神妙録』とも呼ばれ、原本は存在せず、宗矩に与えられた書も、手紙か本か詳しい形式は判明していない。

 

概要

徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ、『五輪書』、『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与えた書物である。また、沢庵の同種の著作として『太阿記』もある。

 

心が一つの物事に捉われれば(意識し過ぎれば)、体が不自由となり、迷えば、わずかながらでも心身が止まる。これらの状態を禅の立場から良しとせず、達人の域に達した武人の精神状態・心法を、「無意識行動」かつ心が常に流動し、「迷わず、捉われず、止まらず」であることを説き、不動智を「答えより迷わず=結果より行動」に重きを置く禅問答で説明(当書の「石火之機」)したもので、実質的には心法を説いた兵法書であり、実技である新陰流と表裏一体で学ぶもの(当書「理の修行、事の修行」)としている。

 

海外では、オイゲン・ヘリゲル著の『弓と禅』において、一部、紹介されており、西洋諸国の身体運用法とは異なり、意識して動いている内は達人の域ではないとした(意識からの解脱論法の)考えが日本では古くからあり、『不動智神妙録』を例に挙げ、研究対象として貴重である旨の記述がなされている(紹介文では、沢庵は、意識して動く者をどうすれば救えるかといったことを述べている)。ただし、日本兵法書において、「意識して動いている内は武人として未熟である」とした考え方自体は、禅の思想の流入以前からあり、『闘戦経』(平安時代末期に成立)内の「知りて知を有(たも)たず、虜(おもんばか)って虜を有たず。ひそかに識りて骨と化し、骨と化して識る」(知っただけでは忘れてしまうものであり、真に覚えるとは、ひそかに識って骨と化し、骨と化して識るものである)と記述しており、体に覚え込ませる(無意識に働かせる)思想がそれ以前からあることがわかる。

 

無明住地煩悩

「無明」とは「迷い」を指し、「住地」とは仏教の修行段階の五十二位の一つで、「住」には「止まる」の意も含む。心が迷って止まる状態はよくないと説明する。

 

相手が太刀を振るう時に、かかって来ると思った瞬間から自分の心は相手の動きに奪われていると説き、無心で懐に飛び込めば、相手の刀も奪って逆に斬ることも可能であると「無刀」の心構えについて説いている。自由に動くためには「誰がどう打って来る」とか「敵の心を読めば(こちらの心を見透かされる)」など意識的に動いてはいけないことを諭す。相手の刀の動きも、タイミングも、自分の刀の動きも、心を奪われる対象であり、不自由になるだけであるとして、禅の立場から思考対思考の対決を否定した記述がなされている。

 

諸仏不動智

不動とあるが、全く動かないという意ではなく、心は自由に動かし、一つの物、一つの事に少しも心を捉われていないのが、不動智であると説く。不動智を最も体現した不動明王の如く動ければ最良であるとする。

 

例として、10人が1人ずつ斬りかかって来た時、一太刀を受け流したとして、そのことに心が留まっていれば、即次に対応はできず、10人に対して応じるには、10度心を動かす他ないとする。千手観音にしても千本ある手の内、弓を持った一つの手に心が捉われれば、残った999の手は全て役に立たないと説明し、一つに心が捉われていないからこそ、千本全ての手が役に立つとする。木の葉の例をとって、一枚の落ち葉(動くもの)を注視するのではなく、全体を無心で観ることによって、多くの葉を観ることが可能となる話や初めて刀を持った者は(構えなどに対して)心を捉われていないなど、例え話を含む。

 

理の修行、事(わざ)の修行

仏教における「理」は、つきつめれば無心となり、捉われない(境地)の意で、「事(わざ)」は、新陰流の五つの構えの他、様々な技術であると記す。理合を解するだけでなく、自由に動かす技術がなければならないとする。

 

間不容髪

常に流れ動く心の状態がよいと説き、隙がない状態・物事を説明した記述。

 

石火之機

心が物事に捉われていなければ、素早く動けるが、素早いことが重要なのではないと説く。素早く動かなければ、という思いも、また心が捉われている証しであり、心が止まっている状態であるとする。

 

名を呼ばれて、反射的に「お?」と応じるのが、「不動智」の状態であり、思いをめぐらした末に「ご用は」と応えるのが、「迷い」=心が止まっている状態であると説明している。

 

心の置所

この問題に対する答えとして、沢庵は、どこにも置かないことが仏法の境地であるとし、必要に応じるためには一ヶ所に定めるなとする。孟子の「放心を求めよ」も間違いではないが、仏法の境地の前では、まだ低い段階(俗的境地)であると認知している。

 

本心妄心

「本心」とは、一ヶ所に心が留まらず、広がった状態を指し、「妄心」とは、一ヶ所に心が留まり、固まっている(止まっている)状態であると説明する。水と氷で例えており、溶かした水だからこそ、幅広く役立つと説く。

 

有心の心、無心の心

前者は「妄心」と同意で、後者は「本心」と同意であると説明している。

 

水上打胡藘子捺着即転

水面に浮かんだひょうたんを捺(な)着=手で押したところで横に横にと転がり逃げ、さらに押したところで逃げられ、一ヶ所に止まらない事象を引用して、高い境地に達した人は、このひょうたんの如く、止まるところはないと説く。

 

応無所住而生其心

「応(まさ)に住する所無くしてその心を生ず」と読むとしている。心を止めないまま、やろうと思わなければならないことを説く。

 

放心

孟子の「放心を求めよ」の言葉(俗的境地)からさらに高い仏法的境地に至るためにはと考察する。

 

急水上打毬子、念々不停留

「急流に投げた毬は少しも止まらない」という言葉から一つの所に止まらないことを示す。

 

前後際断

以前と今を切り離し、心を止めぬことを示す。

 

敬の一字

この言葉は心法を表したものであるとし、自心を治めることを説く。

 

影響

『不動智神妙録』の思想は、他書にも影響が見られ、『願立剣術物語』第四十段目の「迷いたる目を頼み、敵の打つを見て、それに合わんとはかるは、雲に印の如くなり」は当書の「無明住地煩悩」で説かれている事と同じであり、他にも「ものに取り付き、止まるところに閉じられ、氷となり、水の自由なる理を知らず」も当書の「本心妄心」で説かれている事と同じである。

 

また18世紀成立の談義本『天狗芸術論』(不動智が禅主体に対し、儒教主体の剣術書で同様に精神面を説く)巻之一で2人目の天狗が、意識し過ぎる(意図ある)ことの害や未熟者には迷いがないとした説明で、「無明住地煩悩」や「諸仏不動智」に説かれていることと同じ語りがある。

 

剣術流派以外にも柔術で引用が見られ、『天神真楊流柔術極意教授図解』(吉田千春・磯又右衛門、八幡書店、初版明治26年)の目録第七「真の位の説」に、水中の瓢を押しても脱する旨の記述があり、不動智の「水上打 胡藘子 捺着即転」の引用である。

 

 

 

 

智慧

全体を観る眼が養われる。全体、部分、部分から全体、全体と部分、部分と部分の関係を一度に直観的に把える。

この観る眼は頭の訓練では得ることができない。

身心を挙げて修行し、全心身を浄化して初めて与えられるもの

 

原罪

煩悩の起源はすべての根源(カミとヒト)からの離反。

これによって他者(対象、体、他人、世界)と自分の間に亀裂ができて、離れてしまった。

仏教の煩悩の起源は無明。すなわち本来の面目(仏性)を見失ったことに由来する。

具体的には、事物を二元相対的に考え、主観と客観、善と悪、有と無などとみて、迷いに落ち込み煩悩にさいなまれる。

 

キリスト教と仏教の共通点は

1人間本来の姿からの堕落。

2堕落から自己と他人(対象、世界)との対立、

 

メタノイア メタ「変更、変化、反対」ノイア「思い、心、心構え」 思いの変化  悔い改め 

イエスは40日の断食の後、悪魔(サタン)に試みられ、その誘惑に打ち克ち数々の奇跡を起こしていきました。その教えの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(「マルコ」1:15

 

イエス自身はユダヤ人で、ヘブライ語とアラム語を使い、ギリシャ語は話さなかったよう。イエスのオリジナルの言葉はおそらく「シュプー」、(神に)向き直れ、 だった。

メタノイア(心を変えること、回心)とイエスの ヘブライ語の間には違いがある。

 

心からの悔い改め、それも個人の内心の問題に踏み込んだ内容は、ヘブライ語聖書では厳密にはエゼキエル書第18章の一箇所しかありません。以下原文に忠実に 訳してみます。

 

それゆえ各人の行き道に応じて私がおまえたちを裁く、イスラエルの家よ、とわが主ヤハウェは言われる。向き直り向き直れ、おまえたちの全ての背きから。 そうすればおまえたちに罪のつまづきは無くなるだろう。全てのおまえたちの背きをを自分の上から投げ出せ。それはおまえたちが犯した背きである。自分に求めよ、 新しい心と新しい霊を。なぜ死ぬことがあろうか、イスラエルの家よ、私は誰の死をも喜ばない、と主ヤハウェは言われる。おまえたちは神に向き直り、生きよ。

 

この「向き直れ(シュープー)」は、ほかの預言のエレミヤ書にも書かれていて、シンプルに、体の向きを直す と言う意味。

 

罪の自覚があるかどうかにかかわらず、天の国が近づいたから、物質ではなく神の世界に体を向き直し、その新しい現実(自分と現象)に向かって自己を投入し、新たな生き方を自分に求め、新しい心と新しい霊を創造しろ。

本源なるカミへ全心身をもって方向転換する。

 

浄化する修行の内容

1の浄化は、煩悩からの完全な解放をするために、本源(であるカミと真の自己)に帰るために向き合うこと。

第2の浄化は、そのためには他者(カラダ、世界、現象)との和解。

 

すなわち、まずは、身心を挙して無字に参じて、本来の面目に覚醒めること。つまり無明を打破して自己の本源に帰ること。換言すれば、万物が同根であることの自覚。

次に、万物同根を自覚しても他者(対象)とはまだ対立しているので、この二元相対観をあらゆる局面にわたって打破していく。

 

自己を死にきる大死一番することで、自己の煩悩を落として、理性を越えた智性に達し、全く新しい生命に生き直すこと。

 

 

福音

父なる神の国が「我が家」になること。

天国に入るとは、十字架で死ぬことによって、父なる神の子(幼児)になり、「からだ」全体が謙虚になり、天真爛漫となって、何事に対しても心を開いて受け入れること。

仏教で言えば、無色界を基準にして暮らしていくこと。

 

からだは主体の道具ではない

手段は目的を達成するために有効かどうかで価値が判断される。

これは物質界と心界でのルールであり、実用的で功利主義である。

しかし精神界をもつ意識体(ヒト)はこの法則では根本的な問題(生死、幸福、苦しみ)が解決できない。

なぜならば功利主義の知覚システムは、主体である(わたし)と対象をセットにすることで認識するが、精神の問題は、セットで知覚することが原因になっているので、主客一致の境地に没入することでしかそれらの問題から離れる方法はない。

手段や目的や効率を基準にして考えては解決がない。

だから心が物質や理性を道具にしている限りはそこに対立があるので苦しみや闘争が消えることはない。

肉体も心も精神のどれもがヒトの全体を密度によって分けたものであって、どれもが要素であり全体であり原理なので、この3界の中に優劣はない。

ものごとを部分的に把握して、どれかを強調するようになると、そこでバランスが崩れて問題が起こる。

たとえば科学第一主義や功利主義は、この物質界を強調し、心霊主義や宗教主義は精神界を強調しているので、そこに不安定な心境ができてくる。

 

たとえば、坐禅を精神安定の心理学的手段として、利用するのは禅の堕落の第一歩となる。

坐禅は手段ではなく、家の外と内とを結ぶものであり、はじめから家に属しているものである。

坐禅は足すものではなく、取り除くものであるので、これで「道」の進み方を学んで、その心持で掃除や洗濯などの日常生活を実践していく。

 

 

煩悩は無意識とカラダにある

だから煩悩をコントロールすることは理性や意志ではどうすることもできない。

感情パターンや思考パターンも無意識の領域なので、理性や意志では処理できない。

また自分で気づいていない習性やクセや条件反射やコンプレックスなども理性や意志で変更することはできな。

 

細胞は刺激を求め、精神は物質から離れようとする、心はそれらに反応する、これらが煩悩。

 

物質は常に変化し続けないといけないという宿命があり、

精神(理性による概念)の中には、物質に対しての反発の反応があり、

心の中には、物質と精神の影響である無明(貪瞋痴)がある。

 

プラトンの「想起の説」

学ぶとは思い起こすことである。     『メノン』対話篇(希: Mενων、英: Meno

想起法

ソクラテス、魂は不死であり、その輪廻の過程で、あの世この世のあらゆるものを既に見て学んできているのだから、それを想い起こすことができるのは、何も不思議なことではない、人が「探求する」とか「学ぶ」とか呼んでいるものは、実は全て「想起する」ことに他ならないと述べる(想起説)。更に、先程の論争家好みの議論は我々を怠惰にするので信じてはいけないし、こちらの「想起説」は我々の探求を鼓舞するのでこちらを信じると述べる。メノン、「想起」の意味を尋ねる。ソクラテス、メノンの従者を使って証明しようと述べる。メノン、従者の中から1人の召使を選ぶ。

 

ソクラテス、召使に「正方形」を書いて見せ、それを縦横に線を引き、「四等分」する。元の「正方形」の一辺を2プース(pous[8]とすると、四等分された「小さな正方形」の一辺は1プースであり、その面積は1平方プースとなる。「小さな正方形」を2つ合わせると、その面積は2平方プース。元の「正方形」は、「小さな正方形」4つから成るので、先の倍(22倍)であることを確認しつつ、ソクラテスはその「正方形」の面積を尋ね、召使は4平方プースと答える。ソクラテス、次に元の「正方形」の「2倍の面積」を持つ「2倍正方形」を想像してもらう。その面積を問われ、召使は8平方プースと答える。ソクラテス、それではその「2倍正方形」の一辺の長さはどれくらいかを問う。召使は(面積が2倍なのだから同じように)元の「正方形」の一辺(2プース)の2倍だと答える。ソクラテス、メノンに今の召使は「面積が2倍の正方形は、2倍の辺からできる」と思い込んでいる状態だと指摘。

ソクラテス、実際に縦横2倍の辺を持つ「大正方形」を書いて見せ、そこには元の「正方形」が4つ入ること、すなわち、2倍の辺からは4倍の面積の図形ができることを指摘、その面積は4平方プースの4倍で16平方プースだと確認する。召使、同意する。ソクラテス、改めて面積が8平方プースである「2倍正方形」の一辺の長さを問う。ソクラテスは、「2倍正方形」が、元の「正方形」の2倍であると同時に、今書いた「大正方形」の半分の大きさであることを指摘。召使、同意する。ソクラテス、元の「正方形」の一辺は2プースであり、「大正方形」の一辺は4プースなので、「2倍正方形」の一辺の長さはその間にあると指摘。召使、同意する。その長さを尋ねられ、召使は3プースと答える。ソクラテス、実際に一辺3プースの図を書き加えて見せ、その面積を問う。召使は9平方プースと答える。ソクラテス、「2倍正方形」の面積が8平方プースであることを確認しつつ、改めてその一辺の長さを問う。召使、分からないと答える。

ソクラテス、メノンに今の召使は先程の「思い込み」状態から、「行き詰まり(アポリア)の自覚」(無知の知)にまで前進したと指摘。そして、「しびれさせること」は真相発見の一助となることを指摘。

メノン、同意する。

ソクラテス、「大正方形」内にある4つの元の「正方形」群のそれぞれに、それらを半分にする「対角線」を引き、正方形を作る。面積が4平方パースである元の「正方形」を半分にしたものが4つあるので、2×4=8平方パースの「2倍正方形」がようやく作られたことを、召使は確認する。

 

ソクラテス、今の一連のやり取りによって、召使は知らなかったはずの事柄に対し、彼の中で様々な「思いなし」(思惑)が生じ、繰り返し尋ねられることでそれが明確化していったことを指摘。メノン、同意する。ソクラテス、それは自分の中にあった知識を取り出し、把握し直すことであり、「想起する」ということではないかと指摘。メノン、同意する。ソクラテス、召使はこれまで幾何を教わったことがあるのか問う。メノン、否定する。

ソクラテス、召使が「現世」でそれを学んでないとすると、「前世」以前に学んだことになると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、したがって魂は不死であり、全てを知っているのであり、知らないと思っているようなことでも、それを励まし、探求し、想起できるように努めるべきではないかと指摘。メノン、なるほどと感心する。ソクラテス、この説を以て様々なことを確信的に断言しようとは思わないが、人が何かを知らない場合に、こうしてそれを探求しなければならないと思う方が、勇気づけられ、怠け心が無くなり、より優れた者になるのではないかと指摘。メノン、同意する。

 

仮設法

ソクラテス、それでは「徳とは何か」の探求に戻ろうと提案。しかしメノン、それよりも当初に尋ねていた「徳は教えられるのか」(それとも生まれつきか)についての、ソクラテスの意見を聞かせて欲しいと述べる。ソクラテス、それを受け入れ、どうやら自分達は「何であるか」すら分ってないものに対して、それが「どのような性質であるか」を考察しなければならないらしいと、自嘲する。

ソクラテス、これを考察するにあたって、正誤未判明なままの結論・前提を先に設定(仮設)し、そこから遡って条件に合うように議論を絞り込んでいく手法を採るよう提案。

ソクラテス、「徳が教えられる」として、それは「どのような性質」か、から議論を始める。ソクラテス、教えられるとすれば、徳は「知識」ではないかと指摘。メノン、同意する。ソクラテス、これで「徳が「知識」の一種であれば、教えられるし、「知識」でなければ、教えられない」という第一段階が片付いたと指摘。メノン、同意する。ソクラテス、それでは次に「徳は「知識」か否か」を考えなければならないと指摘。メノン、同意する。ソクラテス、徳は「善いもの(善)」と仮設し、「「知識」とは別の「善」があれば、徳は「知識」ではないし、全ての「善」が「知識」に包括されるなら、徳は「知識」である」と推定できると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、「善い人間」は徳ゆえにそうであるし、また同時に、「善い人間」は「有益」な人間でもあるので、徳は「有益」だと指摘。メノン、同意する。

ソクラテス、「有益」の例として、健康、強さ、美しさ、富などを挙げる。メノン、同意する。ソクラテス、しかしこれらは時には「有害」でもあると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、それではそれらは「正しい使用」である場合には「有益」になり、そうでない場合は「有害」になるのではないかと指摘。メノン、同意する。ソクラテス、続いて魂における「有益」の例として、節制、正義、勇気、物分かりの良さ、記憶力、度量の大きさ等を挙げ、これらも「知識」「知性」を伴う場合には「有益」となり、そうでない場合は「有害」になると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、したがって徳が「有益」なものであるならば、徳は「知」でなければならないと指摘。メノン、同意する。

ソクラテス、更に先に挙げた富の類も、「知」に導かれた魂よって「有益」になるし、そうでなければ「有害」ともなると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、したがって人間にとっての一切の「善いもの」は「魂」に、そしてその「知」に依存するのであり、「徳は「知」」ということになると指摘。メノン、同意する。ソクラテス、したがって「優れた人物」というのも、「生まれつきではない」ということになると指摘。メノン、同意する。

 

 

プラトンの想起法と禅の違い   知識と奥なる自己

プラトンは脳を使って思い起こすことができる知識について語っているが、

禅では衆生本来仏であり、それを自覚しさえすれば良いのだが、そのためには脳だけではなくからだも使う必要がある。

禅は「大死一番、絶後に蘇る」という、体験により始めて自覚される真実の自己が問題となる。

これが坐禅による身心学道である。

 

因果の法    第2則:百丈の野狐

すべてのものは原因と条件によって生起するので、すべてのものの本性は空性である。

因縁と空性は不即不離で、1つづつの事実を成り立たせている。

思考を坐断し、野狐になりきるときに、初めて因果の法が会得できる。

因果の法は万物を支配する法であり、ヒトも狐も構成し生かし続けているので、わたしが狐になりきるとき、因果の法はわたしに現前し、己を露わに示すようになる。

 

不落因果   因果の法から離脱して自由である     空性を基準として生きること

不昧因果   因果の法に昧(くら)くない       因果のままに生きる なりきって生きる。

 

因果の法則によって、あるときは天気が悪く、あるときは晴れるので、そのときそのときに、無心になって従事している物事になりきって生きているときには、自己を忘れた状態で、充実した生涯に安住している。

「風に吹かれるまま、流れのまま」行雲流水のごとく

 

相手の立場に直に立つ

喧嘩(対象としてみる)する前に、直ちに、間髪を入れず直接に相手になることが肝要である。

コツは「自己本来の面目」に帰すること。

すると空の次元から具象化した新しい(相手の)視点で物事を見ることができる。

 

師匠の仕事

弟子が袋小路に入った好機を見計らって、「じっと見つめて」適切な態度をとる。

「頂門の一針」によって弟子は目覚め、この世の接し方を転換し、相手の立場から物事を見ることができるようになる。

 

 

趙州萬法帰一   碧巌録45

「僧問。萬法歸一一歸何所。師云。老僧在青州作得一領布衫重七斤。」

僧問う。万法一に帰す、一何れの所にか帰す。師云く。老僧青州に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤。

 

すべては一に帰る。ではその一はどこに行くのか?

前に青州でふきんを作ったら4.2キロにもなった。

このような当たり前の具体的な事柄になる。

 

「無」(空性、自己本来の面目)に居座ってしまって、無差別の世界にあぐらをかいて安住してしまえば、それは悟りに迷っていることになる。

「一もまた守るなかれ」と戒め、平等の中に差別を見る。

無差別平等の体験を抜け出して、差別の現実世界に躍り出て、すべてのものを肯定し、すべてのものを自由自在に使いこなす境涯。

 

 

一花開いて天下春なり 一花開天下春『宏智広録』宋朝曹洞宗の禅僧、天童宏智正覚(1091-1157)の語録

一人の罪と万人の死 ロマ51219

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、1つのままである。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ」ヨハネ12/24

死ぬと増えるという具体例。

 

カミとの一致の観想生活にひたりきっていないで、現実世界のなかのすべての内に神を見出し、その一つ一つを大切に生かし続ける喜び。

 

アダムの罪によって、イエスが十字架にかかって死という愛の一行為によって、全人類に義と復活をもたらした。

全身全霊をもって一人の隣人を愛すること。

しかし、その前に

一隣人に対して自分が犯した一つの罪を全身全霊をもって究明すること。

 

 

東洋と西洋の無

西洋(論理学)の無は有に対して無がある。 これを大脳での理解という。  机上の空論

東洋の無は、有無を越えた「空」のこと    これを丹田(肚)での理解という  生きた智慧paññā

 

東洋的無とはわたしが対象と一枚になって三昧になることなので、日常生活で何事をなすにも、今なしていることに全身心を投入することで、無を活かす。

 

空の歴史

原始仏教の suññatā

 

sutta nipāta 5.16   Mogharājamāavapucchā

Suññato loka avekkhassu, 世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい。

Attānudiṭṭhi ūhacca, 自己についての誤った見解を取り去って、

 

大乗の空  śūnya [シューニャ]またはśūnyatā [シューニャター]  般若経

中国の空  実践的な無    般若心経  禅

 

日本の空  日常生活の隅々にまで行き渡る「無心」

現代の無  無重力状態  遠心力と求心力とが釣り合ってバランスがゼロになっている。

 

 

禅門の修行   修行の段階

心のあちこちに隠れている二元相対観を徹底的に打破し尽くすために、公案や難透や向上がある。

 

白隠は、初めての悟りの後の修行(悟後の修行)を重視し、階梯的な体系化を行なった。

階梯は次の8段階から構成されます。

「法身」、「機関」、「言栓」、「難透」、「向上」、「洞上五位」、「十重禁戒」、「後の牢関」

白隠以前から、「理致」、「機関」、「向上」という3段階の公案を受け継ぎながら、さらに詳細に分類し、新たなものを付け加えた。

 

「公案」は、瞑想修行の際に師から出される課題のことで、禅僧達が悟りに至ったきっかけとなった問答を手本とした課題を持って行う瞑想法、修行法を「公案禅」とか「看話禅」、「話頭禅」と呼ぶ。

 

「公案禅」は中国の宋時代の、五祖法演から圜悟、大慧の三代によって始められました。

 

日本の臨済宗では、本格的に禅の修業を始める(参禅)と、半年か1年で、師に「相見」します。

師とは、師の師から仏法を体得したとして「印可証明」を得た僧のことです。

「相見」すると、師から課題として公案を出されます。

 

公案を課題として瞑想を行い、正しい「見解」を得たと思ったら、それを確かめるために、一人で師の部屋に入り(独参)、師に判定してもらいます。

修行者は、公案に対する自分の「見解」を、言葉や行為によって示します。

師は、修行者が正しい見解を得て、それが身についているかを確かめるために、その場でいくつか、関連した問いを出す場合もあります。

このことを「拶処」と呼びます。

 

「見解」が不十分だと思ったら、師は、鈴を振ります。

鈴を振られたら、すぐに退出しなければいけません。

正しい「見解」に達しているとされた場合は、次の公案が出されます。

 

公案の見解を示すと言っても、教学的な説明は答えになりません。

公案は具体的な例題のようなもので、公案の意味を理解していることを、公案に沿った具体的な言葉や行為で示すのです。

しかし、公案の論理的な枠組みに捕らわれてはいけません。

ですから、公案には一つの正しい答えがあるわけではありませんし、師も答えは言いません。

 

また、公案の見解を、「著語」といって、中国の古人の句で表現する訓練も必要となります。

同様に、「世語」といって、和歌・都都逸で表現することも訓練します。

あるいは、「書分け」といって、公案の意味を、日本語で解説することも行います。

また、「拈弄」といって、公案を自由に批判して見解を示すことも行います。

 

禅宗ではアビダルマ以来の伝統的な教学によって考えないのですが、本稿では、なるだけ伝統的な教学を使って解釈し、また、中国禅の歴史も参照しながら、以下に白隠の階梯について概説しましょう。

 

階梯の基本的な意味や公案の例については秋月龍aの「公案」などを参考にしています。

各段階の具体的な公案の例と解答については、次の「公案」で紹介します。

 

 

<法身>

最初の段階である「法身」は「初関」とも表現されます。

簡単に言うと、概念をなくして、直観的な智慧を得ることが目標です。

一般に、この段階をクリアするのに、数年かかります。

 

この体験は、「止」による対象と一体化した三昧(第四禅)の状態になる段階と、その状態に対する自覚の段階の2段階で構成されます。

禅では、この第一段階を「打成一片」、第二段階を「驀然打発」と表現します。

 

一般に、「三昧」に入るには、「数息観」、「随息観」を行います。

第一段階の対象は、「公案禅」では公案です。

中でも、公安の中の一つの語が対象となることが多いようです。

この語を「活句」と言います。

「活句」は多くの場合は、空(禅宗では「無」)の象徴となる語です。

これに一体化しながら、その概念をなくします。

 

第二段階では、対象ではなく、対象を認識している自分の心の本性を認識します。

これを「見性」と表現されます。

禅では心を、何でも映しながらもそれに限定されないという意味で、「鏡」で象徴することが多いようです。

 

「法身」の段階は、概念をなくして鏡そのものになることを重視した神秀らの「北宋禅」や、外界を映しながらもそれに限定されない鏡(見性、自然智)を重視した荷沢宗の神会の「如来禅」と、関係が深い段階だと思います。

この段階は、伝統的な修行道論で言えば、最初に「無常」、「空」を直接認識する「見道」に入った段階でしょう。

具体的には、「趙州無字」、「隻手音声」、「不思善悪」、「庭前柏樹」などの公案がこの段階の公案とされます。

 

「法身」の段階は、「般若位」とも呼ばれることもあります。

 

後の階梯でも言えることですが、ある公案の本来の意味がその階梯に属するものではないとしても、その階梯の課題として使うことは可能です。

ですから、ある公案を、複数の階梯で公案として使うことも可能です。

 

<機関>

「無」の認識を日常生活の中で働かせる「悟後」の修行の段階です。

坐禅瞑想中に無概念の悟りを得たとしても、立ち上がったとたん、それを忘れては意味がありません。

日常の中で、生活しながらも、こだわりをなくすことが必要です。

 

天台の「三観」で表現すれば、「法身」は「空」、この「機関」と次の「言栓」は「中」でしょう。

般若学の表現で言えば、「等引智」と「後得智」、華厳宗の表現で言えば、「理法界」と「理事無碍法界」でしょう。

 

一般に、「法身」の悟りは、一瞬で到達する「頓悟」とされますが、それを日常の中で身につけるには、時間がかかる「漸悟」とされます。

「機関」の段階は、鏡に映った像が働くこと(作用)を重視した、馬祖や臨済の洪州宗の「祖師禅」と関連の深い段階です。

具体的には、「水上行話」、「南泉斬猫」、「趙州洗鉢」、「石鞏捻鼻」などの公案がこの段階の公案とされます。

「機関」の段階は、「禅定位」と呼ばれることもあります。

 

<言栓>

「法身」の悟りは言葉を越えていて表現できないものですが、それを言葉で自由自在に表現できるようにするのが「言栓」の段階です。

説法のために必要なので、利他的な目的、菩薩道のための修行です。

具体的には、「州勘庵主」、「雲門屎橛」、「洞山三斤」、「日日是好日」などの公案がこの段階の公案とされます。

「言栓」の段階は、「精進位」と呼ばれることもあります。

 

<難透>

「難透」は、到達し難い境涯と表現される段階です。

具体的にどのようなものとは表現されないのですが、日常で意識せず自然に執着なく行動できるようにする(無心の妙用)段階でしょう。

この段階は、「向上」と不可分なのではないかと思います。

具体的には、「牛過窓櫺」、「倩女離魂」、「婆子焼庵」など八難透と呼ばれる公案などがこの段階の公案とされます。

「難透」と次の「向上」の段階は、「忍辱位」と呼ばれることもあります。

 

 

<向上>

「悟臭・禅臭を抜く」とも表現されますが、悟りや仏に捕らわれないようにする段階です。 

「向上」には2段階を考えることができます。

「仏向上」あるいは「法身向上」と呼ばれる段階と、「自己向上」と呼ばれる段階です。

 

「仏向上」は「仏」や「法身」にこだわらないということで、それらを日常と断絶したものとして観念化してしまわないようにする段階です。

この段階は、「機関」や「言栓」とも不可分で、洪州宗の「祖師禅」と関連が深いと思います。

「自己向上」は、「仏」へのこだわりをなくすあまり、逆に日常にこだわってしまい、ただの凡夫と同じようになってしまわないようにする段階です。

この段階は、洪州宗の行き過ぎを批判した、石頭宗の洞山らの禅と関連が深いと思います。

 

またさらに、石頭宗の行き過ぎを乗り越えて、洪州宗寄りになった石頭宗の雲門のように、「向上」というのは常に自己否定を続けることが必要とされます。

具体的には、「白雲未在」、「徳山托鉢」、「暮雲之頌」などの公案がこの段階の公案とされます。

 

以上のように、禅の「向上」において、作用(日常の行動・感覚)と性(限定されない心)の両極を避けることが永遠のテーマとなるのは、ゾクチェンで煩悩性の現れが自己解脱して清浄なものになるというような、悟る前の日常の行動と、悟った後の日常の行動の差異の論理がないからではないでしょうか。

 

<洞上五位>

公案を階梯的に整理して自由に使えるようにする修行です。

「洞上五位」と次の「十重禁戒」は「持戒位」と呼ばれることもあります。

 

<十重禁戒>

戒律を禅の観点から研究する修行です。

 

<末後の牢関>

特定の公案があるわけではなく、修行者に宗旨の最後を尽くさせるという意味のものです。

「末後の牢関」のさらに後に、「最後の一訣」を置く場合もあります。

具体的には、「臨済一句白状底」、「白雲未在」、「百丈野鴨子」などの公案がこの段階の公案として使われることがあるようです。

「末後の牢関」は、「布施位」と呼ばれることもあります。

 

鏡のごとく

物が前にくれば映るが、その物がなくなればその物の像は跡形なく消えてしまう。

汚いものを映したからといって、鏡が汚れるわけでもない。

心も囚われるところがなければ、物を正確に映し出し、その物が去っていけば、その影を留めず、己を白紙に還元して、全く新しい初心に帰って、いつでも万物を正しく映し出す用意ができる。

 

受け入れる  デコマイ

「まことにあなたがたに告げます。幼児のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」マルコ1015

差し出されたものを受け取る、頂くという意味がある。

五戒の盗まない、すなわち頂くものだけを頂くという教えが連想される。

父なるカミから提供された「神の国」を心から歓迎し、素直に受け入れること、が大切である。

カミの保護のもとで安心して、幼児のみが、カミの限りない愛に感じて、カミをアバ(父)と呼ぶことができる。

「アバよ、これらのことを賢い者や智慧のある者には隠して、幼児たちに現してくださいました。そうです。アバよ。これがみ心にかなったことでした。」マタイ112526

 

イグナチオの不徧心の消極性と積極性

消極性  病気と健康、貧困と富貴、短命と長寿のどちらも望まないこと。  どこにも心を置かない。

積極性  目的により一層よく導く事物のみを望み、選ぶ

 

二元相対を超越して、いつも不徧心を保ち、万事において相対の世界にありながらそれを越えて、創造の目的であるカミの讃美と奉仕する絶対の世界に住まうこと。

 

悟るべき真理は抽象的な原理ではなく、具体的現実そのもの

和尚に僧が尋ねた、「仏とはどのようなものですか?」。

雲門は云った、「乾いたクソの棒じゃ」。

 

截断衆流といって煩悩の流れをバッサリと断つためにこのような言い方をした。言句の妙

雲門乾屎橛(しけつ)  乾屎橛のように汚れた自分が本当に仏であるのか?

 

壁立万仞(へきりゅうばんじん)   「断崖の高くそそり立つさま」

公案が自分自身の問題にならない限り、解決することはない

修行者が問いそのものに化するとき、この仏性が心の最深層から目覚め来たって、その全容を現し出す。

汚物にも仏の命を宿し、この仏のいのちにおいて万物が一つである、ことを躰で体得する。

悟るべき真理は抽象的な原理ではなく、具体的現実そのものである。

それは脳に作った思考パターンを躰(中脳)を経路することで、書き換えることである。

 

食べ物の心配  生活の心配

「何を食べるか、飲むのか、着るのか、などといって心配するのはおやめなさい。こういうものはみな異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることは知っておられます。」マタイ63132

 

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず,刈り入れもせず,倉に納めることもしません。けれども,あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」(マタイ626

「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません」マタイ628

 

生死は仏の御いのちなり

正法眼蔵は公案なり

仏のありようにこだわるのではなく、厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができる。

 

「自分のいのちを救おうと思う人はそれを失います」マタイ1625

 

μβλέπω emblépō  見よ 

「いま・ここ」をよくよく見る、内まで見抜きなさい、実相を見透しなさい 

全身心を総動員して、いま・ここに参じ、そこから生まれる智慧の眼で見なさい。

 

「からだ」で読む    躰の中に新たな条件反射の回路をつくる

仏経と仏心と仏身の関連性・因縁の法則   正法眼蔵  仏経

仏教の経典は仏の心だけ生まれたものではなく、身心を挙しての修行から生まれたもの。

だから経典の中に釈尊の身心を見なければならない

その身心は「あたたかき」もの 

「一句両句、みな仏祖のあたたかき身心なり」行持 下 三十九

 

明窓下に古鏡照心すべし

経典を明鏡として自分の心を照らし、自分の証悟したものと契合するかどうか検する

身心を挙してなされる「からだ」全体の出来事。

仏祖の躰が修行者の躰に肉迫し、修行をすることで、二つの躰の証悟が同一であることが証明される。

 

聖典に理性に光を与えてくれる真理の教えや模範を求めるだけではなく、「からだ」で読むことが必要

身心を挙してキリストの「あたたき身心」が迫り来たって、私の躰全体を同じ道へと駆りたて、ついに私の躰に、キリストの「あたたかき身心」が生きていることを自覚すること。

「我生くるといえども、我生くるにあらず、我がうちにキリストこそ生くるなれ」、(ガラテヤ220文語訳)

 

聖書のなかの「あたたかき身心」

「一同が食事をしているとき,イエスはパンを取り,祝福してこれをさき,弟子たちに与えて言われた,「取って食べよ,これはわたしのからだである」(マタイ262629口語)

キリストが霊的にパンの中に現存しているのではない。

このパンはキリストの「あたたかき身心」(Tコリント1123

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。”

 

「自分の敵を愛しなさい」ルカ63536

敵を愛するキリストのあたたかき身心が私の躰に迫り来たって、私の躰全体を同じ「敵を愛する」道へと駆り立て、ついにキリストの「あたたかき身心」が私の躰をあたたかく生かし、敵を愛するものにたらしめる。

 

法難を身をもって体験し、その法難によって少しも害せられざることを体験し、法華経の正法たる所以を体得し、同時に一切衆生を救済する使命をさずかっていることを確信する。(御書 日蓮)色読の重要性

 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 (マタイ1624

聖霊と父なる神との交感

聖書のなかの「からだ」は多くの場合、人間全体を指すために使われている。

ギリシャでは人間を体と魂に分けて、魂は尊く、体は卑しいものと解釈する。

 

しかし、パウロは言う

汝らのからだは聖霊の神殿である  Tコリント619

 

これを、魂と心に神は住まい、体はその外被であるという解釈だけではなく、生身の体そのものにも神自身が住まっていること、に気づくのが大切。

キリスト教徒の祈りとは、ヒトが神に語りかけるのではなく、聖霊なる神が父なる神に語りかけることであり、この語りに自己意識も一つにすること。

これにきづくためには

1準備    浄化の修行   調身・調息・調心   原罪の病根を除く

2埋もれている聖霊の周りにある灰を取り除く   聖霊を呼び醒まし、智慧paññā Sophiaが働く

 

1をすると神殿が聖霊に相応しいものに変わっていく

2をすると、聖霊が目覚め、その働きである智慧が働きすと情欲の火を鎮め、原罪の病根を根絶しはじめて、

自分が聖霊の神殿であることを悟る。

この驚くべき現実に覚醒める。

この悟りは霊的目覚めであって、理性によるものではなく、行為的直観。

この直観とは「からだ」となった聖霊とその働きである智慧によって父なる神と交感することによって、その真中で実感するもの。

「聖霊のからだ」が神と語りあっているなかに、「からだ」ごと突入し、一枚になる。

これが「わたし」の心からの願いと祈りであると実感する喜びは至高である。

 

 

公案の第一の目的は回頭換面(正法眼蔵 第七  一顆明珠、 第十二 坐禪箴)、人格全体の転換にある。

第二の目的は思量から非思量の領域への飛躍のため 

煩悩を捨て、理性の働きを止め、自己に死ぬことを要請され、智慧paññāによってはじめて公案はわかる。

公案は先達の自己の禅体験を表白したもの

「聖凡の面目を鑑むるの禅境」「一人の臆見にあらず、・・・三世十万の開士と稟を同じうする所の至理」

天目中峰和尚広録

 

公案と聖書の類似性

1師から聞き手を弟子の道を歩ませるための使信

2無色界(カミ)の世界への実存転換(回頭換面)の促し

3不可説なる神秘を指す身振り

4自己了解(己事究明、本来の自己の悟り)へ導くもの

5行為(坐禅、黙想、教導)がセットで必要

6上智sophiaとは理性を超えた智慧のことで、神から与えられるものであって、これをもって接する

7聖句を事前に調べておいて、瞑想することで心が乱れずそこに留まることができる。

 

     

主たる神  相対を越えたもの  空  絶対無 

トマス・アクィナス 神はわれわれを含みながらわれわれに内在する

アウグスティヌス   神は私が私自身に近いよりも、より一層近くにおられる

私から発するものよりも、より深く私の中心から発します。

神と私は不即不離であり、神の望みは私の望み、私の望みは神の望みである。     十牛図の入鄽垂手(にってんすいしゅ)再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く

     

愚か者

価値なき愚か者とみなされたキリストのために、自分もまた世の智者、賢者と思われるよりは、価値なき愚か者と見られることを熱望するのである  Ex167 イグナチオ

大死即大活の生命のダイナミズムの極致

 

「潜行密用は、愚の如く魯の如し」(せんこうみつゆうは、ぐのごとくろのごとし)

人知れずに徳行を積むことは、愚(おろか)な人のように、魯(でくのぼう)のように、目立たずに行え。

(宝鏡三昧)中国曹洞宗の開祖、洞山良价によって作成されたとされる禅の漢詩

 

馬大師不安 

馬大師不安。 院主問う、「近日、尊候如何」。 大師云く、「日面仏、月面仏」。(碧巌録 第三則)

公案を「からだ」で味わっていく。

まずは頭で、次に私のカラダで、つぎにみんなのカラダで、そして神のカラダで、最後に無のカラダで

 

幼児の単純

真理の高みに達した人は、単純で素直で「幼児」のようになる。

この単純の中に無限な豊富がある。

 

十字架理解の3段階

全人類救済の悲願に満ちたキリストの十字架の「からだ」が私の「からだ」に迫り来たって、

私の「からだ」全体を人類救済の悲願で満たし、

ついにキリストの十字架上の「からだ」が私の「からだ」を生かすに至る。

 

私の「からだ」が生きる。

私の肉体が生きるのではない。

キリストの「からだ」が生きる。

 

脚下照顧

靴をあるべき所に在らしめるのではなく、自分ののなしているところを照らし出し、そこにある物の正しくあるべきようを見て取って、そのようにあらしめること。

 

水のあるべきように水を大切に使う。それこそ座禅をすることの目的である。

それができないようでは坐禅をしない方がいい。

 

食事は殺活の現場である

戦争の前線、血なまぐさい現場である。

必要なのは食事に関する「見る眼」をもって、食事を調え、食物と自分の身体を生かし、その体感をもって世界と交渉する。

 

「病気にならないように注意しながら、快適な量からだんだんと、より一層多く取り除いていくなら、飲食について守るべく中庸をより一層早く会得するようになるだろう」

 

正中偏と偏中正

洞山「五位の頌」の「正」と「偏」

正位とは無差別平等、本体、空、無一物の平等な世界

偏位とは分別意識、理知、差別、現象の世界

正中偏とは「正の中に偏」がある  自己本来の面目(絶対無を徹見したところ)から一切の現象を見る位

偏中正とは「偏の中に正」がある  現象の中には本来の面目がある

Description: Description: 正と偏

 

正(上)と偏(下)の両方が働いて、もともとの一つになると、自ずと正中来(本来の面目から躍り出てくるところ)が生まれて、すなわち会得する。

 

環境と自我と面目

環境の奴隷になっているのが自我

仏のいのち(面目)に生かされて、自らの主になり、環境に振り回されたり、環境を利用しないようにする。

次に、環境も仏のいのちであることを自覚して、そのいのちをあるべきように生かすと本物の自らの主となる。

 

 

尽十方界是箇真実人体

「尽十方界の真実が人間している」ということ。

尽十方界(宇宙・大自然)の具体的な現れ(真実)即ち小宇宙であるヒトの身体ということを表現している。

「是箇コレ」は強調の二文字

 

ヒトの自己の意思(意欲)を超えた宇宙生成のエネルギーと根源的に同じ宇宙・大自然の生命活動がヒトを生み且つ生かしている。

 

因みにこの事実を、「正法」「本来の自己」「本来の面目」、「全自己の仏祖」等とも表現する。

このような事実は人間だけに限った事では無い。例えば、犬、蛙、草、石等も、それぞれ尽十方界真実犬、尽十方界真実蛙、尽十方界真実草、尽十方界真実石等である。

尽十方界是箇真実人体は、『正法眼蔵』の「身心学道」「遍参」「諸法実相」等の各巻に出てくる。

 

宇宙・大自然に生かされて生きている人間生命の本来の姿、即ち「只管」「無所得・無所悟」「非思量」と言われる在り方を表現している。

つまり「自我意識」を超えた「生身のカラダの生命活動の相・在り方」を端的に表現した言葉である。

 

教学的な用語を混じえて説明すれば、四大(地水火風)の因縁和合が身心(人体)として活動する時、五蘊(色受想行識)という形態をとり、自我意識等(欲)が生じる。

この場合人間の「欲」はその生命維持のための大自然の働き(恵み)であるが、通常その生命維持に必要な分を超えて余分に恵まれている。

そのため、人間は自己の欲を必要以上に追求するあまり欲を暴走させてしまう。

つまり我々が大自然に生かされて生きている事実、即ちこの身体を恵まれている事実に感謝しながら生きる為には、自己の欲を必要以上に暴走させず、自我意識に振り回されないで、この身体本来の生命を大切に生きる事でなければならない。

そしてこの大自然から恵まれた身体に対してする自らの報恩感謝の姿勢は、尽十方界真実を実践する唯一の方法である後述「只管打坐」の坐禅でなければならないのである。

 

そして正にこの報恩感謝の姿勢が、後述「発菩提心」即ち菩提心(尽十方界真実の在り方)を発すということなのである。

 

因みに、自我の「我」とは、脳の生理現象である「自己意識」としてあるだけで、言わば「生理的習性」に過ぎないものである。本当の身体は、尽十方界真実人体であって、自己意識が意識した身体(意識した時点の身体)は単に身体の或る時の相、即ち尽十方界ないし尽十方界真実人体の或る時の様相に過ぎない。

 

例えば、道元禅師がその師如浄禅師の下で悟られた時の有名な言葉「脱落は身心なり、身心は脱落なり」は、「仏法」の項でも述べたように、身体の本当の在り方即ち尽十方界真実人体は脱落(解脱)であるという意味である。

 

このような尽十方界真実人体の在り方即ち身体の生命活動そのもの(脱落の身心)は、自我意識による悩み等とは直接関係が無いので、身体(生命活動)そのものには行き詰まりがない。

 

この事実を「和光同塵」というのであり、まさに良寛さんの言葉に「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す(行き詰まる)」とある通りである。

 

 

すさまじい慈愛

意路不倒   人間の思考や論理では理解できない悟りに達することはできないという教え

言詮不及  (ごんせんふきゅう) 言葉で説くだけでは 及ばないことがある

父なる神は最愛の我が子を殺した玄義

 

殺人刀即活人剣

即が成り立つのは、人間全体のダイナミックな転換そのものであり、父なる神と御子の救済の御業である。

「大死一番、絶後に蘇る」

 

 

 

 

 

 

 

道の形而上学

 

全身心を活性化する道の働きのもとに立つ立場であるから、道元はメタ・エチカ形而上学を現成した。

道は、人類と世界の歴史を動かす根源的原動力であり、究極目的であるから、道の働きに立つ「形而上学」は生態学的環境破壊と人類破壊の危機をもたらしつつある元兇=合理主義を克服する方途を示してくれるように思う。

その上、智慧(全体知)によって、知・情・意のすべての働きを統合する立場であるから、アリストテレスの理性と近代合理主義的理性(科学技術の原動力)をも包摂し、全体知の中でそれらに適切な場所を与えうるものである。

 

形而上の語句の成り立ち

metaphysicaは「易経」の繋辞上伝の「形而上なる者是れを道と謂う」という文から形而上と訳された。

 

知性の意志と霊性の衝動

ギリシャ思想の知性・意志中心とした学問(キリスト教神学)であるかぎり、ヘーゲル哲学に典型的に現れているように、それは精神の哲学となり、神学は精神の神学とならざるを得ない。

すなわち、知性によって善を認識し、意志を持って判断と決意をし、身体を持ってそれを実行する。

身体性を中心に置かないと、旅の思想を語ることはできない。

 

「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」

「神の霊ルアーに動かされて」

 

精神を修養する道

金もうけである商売でさえも道にしてしまう  娯楽の野球でさえも道にする

身心を鍛錬し、精神を修養したいという願いがある

 

芭蕉の「道の思想」

「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」  病中吟

「身の上おぼえ侍るなり。この後はただ生前の俳諧を忘れんとのみ思ふ」

おぼえ(自然と)思われる   自分で思ったのではなく、「思わされた」という、受け身なニュアンス。

 

「たびねして我句をしれや秋の風」  旅寝の境涯を味わった後に、真意を了解してもらいたい

 

旅人の歩みは「道」によって生かされ、支えられている。

 

死の孤絶が同一性を生む

「野ざらしを心に風のしむ身哉」気晴らしなどではない、野ざらしの覚悟 野ざらしとは野山に放置された白骨

 

孤絶の経験によって、実存のもっとも深いところにまで沈潜し、そこで自分の運命が時代を越えて芭蕉の運命と根源的な出逢いを知る。

 

近代個人主義の都市文明圏では、当面する現代の危機的状況を全面的に引き受ける。  知性的解釈

ホログラム理論

分割してもそこにすべての情報が内蔵されている。

周波を合わせることでその情報につながることができる。

すべては一つに繋がっている。

 

ヤスパースの想起erinnerung3レベル位相

心理的レベル  普通の思い出す行為

歴史的レベル  本を読むなどして時間と主体から離れて、対象と同じ想いを起こす

        心の深処では、すべての歴史が私のものである。  「歴史の意味」ベルジェエフ

実存的レベル  共同運命を自分に担い、この「いま・ここ」を創造的に生きる

        「道」に促されて、「本来のあり方」に目ざめ、新しき未来への旅を歩む

 

芭蕉の莊子からの引用37

西行の次に頻度が高い

「無何有の郷」「逍遥遊篇」  一切の地上的なものを超越した境涯

 

大鵬の雄大な飛翔のような自由無礙な境地

巨大な魚が大鵬と化し、「怒(ふるいた)ちて飛べば」、高みから地上を見下ろすとき、一切の差別と対立は止揚されて、この世界は蒼一色となる。

本来の自己である「無為」に還り、「天地の一気に遊ぶ」大宗師篇

一切万物がそこから生まれ、それへと滅び去るダイナミックな原動力と一つになる。

「己」を否定するならば、真の自己があらわれ、至高の人間が誕生する。これこそ莊子が至人、神人、聖人とよぶ、道の体現者である。

 

人類共同運命を生きることが道の真の意味

根源的出逢いを経験することで、「私は道である」ものに抱かれていることを確信する。

 

「自得の箴」(貞亨3年暮)

貰うて喰ひ、乞うて喰ひ、やをら飢ゑも死なず、年の暮れければ

めでたき人の数にも入らむ老の暮

やをら:どうにかこうにか

自得: みずから覚り、楽しみ安んずる

 

貧しさのうちに幸いを味わった者のみが、この地上での真の平安を得る。

 

自得思想

完全な離脱→自由無礙→自己と万物の一体→物皆自得

1天地に存在する一切のものは、「道」の顕れであり、満足して楽しく生きていける(自得)

2万物を究極的に一つであることを覚る

3そのためには地上的なものを越えねばならない

4美醜、善悪というこざかしい分別を棄てねばならない

5己自身をも否定することによって真の自己があらわれ、絶対に自由無礙な真人となる。

6そうして人は万物と一つになり、一切がこの道の顕れであり、楽しみ安んじていることが明らかになる

 

老子と莊子の相違

老子は道を天地万物の根源として静的本体論的実在        古の道に復帰する

莊子は道を天地万物の内在的原動力としての力働的な運動態    変転する天地の中に遊ぶ

 

物皆自得

「花に遊ぶ虻な喰ひそ友雀」 雀よ、虻の自得の安らかさを乱すなよ

自得の世界は危険にさらされる世界なので飢えれば虻を食うことも大自然の営み

 

造化にしたがひ、造化にかへれとなり  笈の小文

しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

 

造化       「自然・天然」。万物を創造する宇宙的意志(理法)の遍満

四時       名詞。春夏秋冬の四つの季節の総称。四季。

像花にあらざる時は夷狄にひとし:像<かたち>。

森羅万象に美を見出さないのであればそれは夷狄(<いてき>未開人)のようなものだ。

 

俳諧におけるものは、自然のままに従って、四季の流れを友とするものである。

見るものが花ではないということはない。思うことが月ではないことはない。

(その人が見る)物の形が花ではない時は、野蛮人と同じである。

心に感じるものが花でない時は、鳥獣と同類のものになる。

野蛮人を抜け出して、鳥獣を離れて、自然のままに従って、自然に戻れというものである。

 

造化  莊子の大宗師篇

汝をこの世に生み、今汝を行かせようとしている。

宇宙の理法(道)の造化者の意志が人間を死に近づけようとするのに、それに逆らうのは、我儘ではないか。

 

莊子との相違点

生への執着を捨てれば、精神は本来の純粋さに立ち返り、「天と一つになる」と考える点までは同じ。

芭蕉は自然の風物の変化を、親しいかけがえのない友と見なし、それらが自分を感動させるままに俳句という形に詠いあげる。

対して、莊子は無常(変化)を造化の働きの顕れとし、同じ無常を自分自身の心にも観て、それに気づきつづけるが形にはしない。

 

乾坤の変は風雅のたね也 『三冊子』

 

乾坤の変は風雅のたね也。

静(しずか)なるものは不変の姿也。

動(うごけ)るものは変也。

時としてとめざればとどまらず。

止(とむ)るといふ見とめ聞(きき)とむる也。

飛花落葉(ひからくよう)の散乱(ちりみだる)るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまるとその活(いき)たる物だに消えて跡なし。

ー『三冊子』―

 

天地自然の変化は、すべて風雅としての俳諧の動機であり、素材である。

多くの天地自然の変化の中でも、静かな物は不変の姿となるが、それもまた変化の一様相である。

動いている物はもちろん変化の姿となる。

その変化の姿は、その時に応じて積極的にとどめようとしなければ、心にとどまることはない。

それがとどまるということは、見とめ、聞きとめることである。

花びらや落葉が散り乱れるのも、そのただ中にあってそれを見とめ、聞きとめなければ、その動きがおさまってしまうと、そのいきいきとした変化、消えうせてしまって、跡形もなくなるのである。

(山下一海『芭蕉百名言』より)

 

日本の芸術   本覚思想

自然の一瞬の変化を言い留める

一瞬の風景を俳句で詠み、その風景を永遠にする。

 

ポール・クローデル明治時代のイギリスの外交官

 

それがあってこそ、たましいは、息づきはじめる若芽の伸びや、泥の闇のなかから水面の明るみへと浮かびあがる魚のあの力づよい尾鰭のひと打ち、などに情愛こまやかに合一してゆくこともできるのでしょう。

(略)

それは要するに生命そのものではないか。

それはもう芸術などではない。

(略)

こうしてこのあわれな生存のはしくれも、謙虚で敬虔な芸術家のおかげで、とこしえにいきいきと生きるものとなったのです。

(略)

あの偉大な芸術家たちは、永遠なるものを表現しようとして、さまざまの象徴や神々を描いたばかりでなく、まさにこの世のもっともかよわい、もっともはかないものを、

(略)

一羽の小鳥を、散りかけている木の葉一枚をえがいたのです。

そういったものみなを、かれらは魔法の筆のただひと打ちで、いつまでも生きながらえるようにさせたのです。

『朝日の中の黒い鳥』「日本の心を訪ねる眼ざし」

 

 

 

 

求道の旅人、道元

身心全体を深く沈潜させ、心のみではなく身をもって「道本円通」(道が宇宙万物を生かし動かしていること)の世界を悟り、その悟ったところを理知のみではなく、感性にも訴える方法で私たちに教えてくれた。

 

求道の覚悟なしには、道元の「正法眼蔵」の扉を開くことができない。

3歳にして父、8歳にして母の逝去に立ち会う

 

建撕記

永平寺14世建撕が編集した道元禅師の伝記。詳しくは『永平開山行状建撕記』文明4年(1472)までに成立

道元禅師200回遠忌を記念に、その伝記を編集して欲しいと願ったと推定されている。

 

身心脱落の経験  如浄の一喝で、道元の全身心が震動し、豁然大悟した。

 

道元の疑団    仏性と修行

建撕記によれば、道元を苦しめた大疑団とは「本来本法性、天然自性身」(一切の人間は誰でも本来仏の本性をそなえ持っている)という天台の根本教義である本覚思想があるのであれば、なぜ私たちは苦しい修行をしなければならないのか?また諸仏・菩薩が、なぜ発心して修行する必要があるのだろうか?

 

 

 

普勧坐禅儀

中国から帰国後、すべての人に勧めるためにすぐに書いた

道元の根本原理である「道本円通」(道が宇宙万物を貫き生かし、道へ導きつつある根源力である)を述べている。

 

そのためには理性を用いず、徹底的な行によって、日常生活を突破して、道のはたらき(本証)が現成する現場に立つことで、道本円通の広大な宇宙に飛翔することができる。

この飛翔はプラトンのイデアの世界への逃避的超越ではなく、修行の完成期に達した者が、悟りの明るい世界を突破して、明暗によって織りされた現実世界に戻り、その直下に「明暗双々」の境涯を生きることである。

 

具体的には、ただただ坐る、只管打坐である。   管打坐との違い

コツはあらゆるはからい(作為)をすてて、道のはたらきに全身心をまかせて坐ることである。

しかし、だれもがこのように単純になれないので、その理由を探ると「我」に突き当たる。

自我の確立こそが最大の課題と思っている近代人にとっては至難の業である。

ポイントは自我と自己は別のものであることを分かることである。

我を捨てることで、道によって活かされてはじめて真の自己が誕生する。

本来の自己、父母未生以前の本来の面目、こそが真の自己である。

これこそが近代人が求めて止まない真の自我の確立である。

意識を中心とする自己から行為を中心にする自己への飛躍転換である。

 

これを門脇は「道のメタ・エチカ」の根本原理とする。

換言すると、すべての人がそれぞれ違った仕方で道を求めて止まない、こと。

 

道を知るためには、全身心を求道心で満たし、全身心を眼にして観なければならない。

 

 

 

驚きとは知のはじめ

アリストテレスによれば、驚きは知の始めであり、神秘への開眼である。

 

辨道

刂とは刀のことで、辛とは分けて明らかにすることなので、2つ辛を重ねることで、「道」を鋭い刀で徹底的に明らかにすることを意味する。

 

「如何なるか是れ辨道」

「遍界不曾蔵」          遍なのか徧なのか

この世界はあるがままの通りに存在しているのであって、何も隠し事などしていないので、見えなくなっているのは私たちの側に問題があるということ。

 

全世界の一切のものが常にいきいきとした「仏の御いのち」の現成である。

辨道とは、この現成の事実をそのままに受け容れ、「仏の御いのち」のままに行じてゆくことである。河村孝道

大根や水や醤油や火を「仏の御いのち」と観て、大根をもっとも大根らしく料理して「仏の御いのち」を生かすことこそ、真の辨道である。

 

 

「道」とは何か?「はたらき」とは何か?

道がヒト(道元)を引きつけ、道の不思議な「活き(はたらき)」に目覚めさせた。

この「はたらき」が出逢い→驚き→目覚め→問い→解決へと発展させる。

「はたらき」は全身心を眼にして「感ぜられる」もの。

「はたらき」は理性で知ることができない。

「はたらき」は道を求めてやまない者の全身に迫ってくる。

 

現象を超えた道という形而上学的本質は、理性(存在論の視点では)では捉えられないので、哲学でいうメタフィジックスの領域には属さないものなので、形而上学的と呼ぶのは正確ではない。

伝統的な哲学用語でいえば、エチカに属するものである。

「求道の旅」とその途上で起こるあらゆる出来事を考察し、その出来事を道という。

自己に完全に死んで、道の大いなる「はたらき」に生かされた老典座の呵呵大笑

道が老典座の呵呵大笑に「全機現」した

全機現とは、道の「はたらき」が露堂々と丸ごと顕現することを意味する。

 

道の第一の「はたらき」は、道から逸脱するもの一切を徹底的に否定し尽くす。

道の第二の「はたらき」は、同時に、万物一切を活かそうとする。

否定が直ちに肯定なのである。表層の否定と深層の復活が同時に起こるのが道の「はたらき」である。

禅でいう「大死即大活」

 

禅の不立文字

この文字とは、「仏の御いのち」や道の「はたらき」を指す。

しかも「仏の御いのち」は別の天上界にあるのではなく、この現実の一切のものに顕現しているものである。

「春は花、夏はほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷(すず)しかりけり」

どれも「仏のいのち」の現成であり、「仏のいのち」を表わす「文字」である。

眼前にあるすべてが真の「文字」である。

「字を学ぶ」とは、事物のありようをつぶさに明らめることである。窮め尽くすことである。

「短きものは短きままに絶対」「長きものは長きままに絶対」それぞれがすべて絶対を宿した存在(「文字」)なのである。

cf. 旧約聖書のダーバール(こと)のことで、神の「光あれ」というダーバールは言葉だけではなく、そのまま「光ができる」。つまり神の言葉は、人間の文字や言葉と違って、指し示すものではなく、現実を創り出す「はたらき」である。

この世界の全ての出来事は、この神の「はたらき」であり、新約聖書のロゴスに引き継がれた。

聖書のダーバールの本義を忘れ、キリストの教えた道を中心にせず、教義に重点をおいてしまったのが、ギリシャ思想の理性によって把握する言葉(意味)を基準にして発展したキリスト教神学である。

 

 

 

雪竇(せっちょう)の頌  10c

一字七字三五字。

万象窮め来るも拠となさず。

夜深け月白うして滄溟(そうめい) に下る。 槍漠か滄溟

驪珠を捜り得て多許(たこ)有り。

驪珠とは黒い龍のあごの下にあるといわれる玉。命がけで求めるべき貴重なもの

 

漢詩の形式は不揃いである

すべてに根拠はない

月光が青海原に遍満し

どの波にも輝珠が宿る。

 

積極的無常観

1吾我の心(自己中心)と名利の念がおのずから起こらないようになる

2死ぬまでの時間が貴重なものであることを覚り、おのずから求道に励むようになる

無常なのはすべてである。すべてとは見えるものだけではなく、自分の心も体もである。

考えることができるものすべてを探求する。それらすべてが無常である。

頭の理解ではなく「おのずから」を生み出す全身の理解とは、対象だけではなく自分の心も常に変化していることを覚り、できることは「いま・ここ」を通して、道の「はたらき」とつながり、その道が自分の中に遍満していることを感じることができる。

この覚りが、表層の私を空じていく。

人は無限で絶対的価値の道のはたらきを通じて、無常を全身で「感じ、知る」

無限の道に対して、自分という主体が感じるものはすべて有限で空しいものでしかない。

こうして人は道に動かされたことを知る。

 

夜が深まる

昼の光(感覚、悟性、理性)が消え去ること

分別知が静められるときにのみ、智慧paññāが光り輝く。

疑問があるのならば、深い暗夜の奥へと次々と経験をするしかない。

 

修行は悟りへの手段なのか?

修行は証悟から分離されている間は、安心立命することはできず、悟りに達することはない

まず何かを修と証の2つに分離し、後にそれらを統一した分別知がある。

この分別知が意識の深層ではたらいているので、修と証を活性化させてしまっている。

坐禅中に大いなる悟りを得たとしても、その証(さとり)を動かしたのは、分別知である。

修証の統一へ飛躍するまでは夜が続く。

すなわち夜は大事なプロセスである。

夜がなければ月は上らない。

修と証を分けた分別知の根源にあるものが月(道)である。

月光が「はたらき」である。

はたらきが修行を本来の修行に活かし、修行は手段から、道の顕現という絶対的価値になる。

月からみれば、修と証も道のカタチであるので、そこに差はなく一等である。

「一切のものが仏性をもつとしても、修行することによって道はより一層顕現するのであるから、修行を続けなければならないことは当然である」

この宇宙にあるものには道が遍満している。

未熟な開眼  心の開眼であり身心全体の開眼ではない

道のはたらきに生かされた老典座の姿に感動し、道のはたらきに目覚めたが、自身が身をもって典座職を実践したわけではなく、全身を辨道へ投入して、全身心が道のはたらきに満たされたわけでもない。

 

求道の完成は、身心全体が道のはたらきに参飽されないかぎり、いつも飢え渇き、道を求めて、彷徨い歩かざるをえない。

 

「身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぼう)せざるには、法すでに足れりと覚ゆ、法もし身心に充足すれば、ひとかたは足らずと覚ゆるなり」現成公案

 

身心に法が充分に行きわたらないうちは、法はこれで充分だと思われる。法がもし身心に完全に充足すると、どこか一方に足りないところがあると感じられる。仏法の悟りに関するとても大事な指摘である。(注・心身ではなく身心である)

 

 

「飽きるまで参じること」となるが、転じて、十分に会得すること、の意。参飽と同義。

道来道去、道来去する飯了は、参飯仏祖意句なり。未飯なるは未飽参なり。 『正法眼蔵』「家常」の巻

 

 

正師

全身がけたはずれに道のはたらきに満ち満ちていて、天地を動かすほどの人「学道用心集」

「行解相応」とは、行と知解とが函と蓋のようにピッタリと合うように一致すること

 

宝慶記

如浄にならう修行のステップやその時の心中が詳細に書かれている。

頭燃をはらって、坐禅辨道すべし

 

元年5月1日   面授

元年7月2日 

道元拝問す。今諸方[の禅匠]は教外別伝と称し、しかも祖師西来の大意となす。その意いかん

経典の教えの外(教外別伝)に真実の道があるのかどうか?

この問は教えの内外についてだが、この2つを超越した、より広い立場から答える如浄

「和尚示して云く。仏祖の大道、何ぞ内外に拘わらん。然るに、教外別伝を称するは、唯だ摩騰等が所伝の外に、祖師西来して、親しく震旦に到り、道を伝え業を授けたまいたり。故に教外別伝と云うのみなり。世界に二つの仏法あるべからず。祖師(達磨)いまだ東土(中国)に来らざりしときは、東土には行李(あんり)のみありて、いまだ主あらず。

祖師すでに東土に到る、たとえば民の王をえたるが如し。この時にあたって、国土・国宝・国民みな王に属す」

 

道からの視点が伝えられるならば、すべてのものは、その支配下におかれる。道が王であることがわかるとこの地上の一切の出来事は、道に属するものである。

 

仏教はもともと第一に教義を教える宗教ではなく、仏陀が正覚に至った道を指示する宗教であって、仏教というよりは、仏道と名づくべきものである。仏行は?

 

道を伝えるためには、生活を共にすることによって、「正師」の身から弟子の身へと伝達しなければならない。

これを禅では「一器の水を一器に瀉す」一器水瀉一器という。

 

仏祖の大道の2つのはたらき

1 大道が摩騰(後漢の明帝・永平10年に洛陽・白馬寺にやって来たという迦葉摩騰・竺法蘭のこと)らの所伝やすべての仏教経典を生み出した。

2 達磨の伝えた道が師から弟子へと相伝されるようにした。

 

偉大な仏道というと、仏祖の人格を離れて、どこかプラトン的イデアの世界に存在する如く、この世を超越するもののように思われるかもしれないが、主客の二元的現象を越えた絶対的事実だとしても、歴史上の生きる仏祖から離れた現実はなく、むしろ「仏祖を本となす」現実なのである。

仏祖の全身心を賭した行持によらなければ、道は現成しない。

すなわち道の顕現は必ず仏祖という人格を通してなされる。

 

如浄の思想

世尊のたまわく「聞思は猶お門外に処するが如く、坐禅は正に家に還って穏坐す」と。

聞いて考えることで門に到り、坐ることで家に還る

 

身心脱落とは脱魂のような異常な体験ではなく、純一に坐禅すること。

それは、「仏祖の大道」のはたらきに満たされることで、五欲と五蓋は押し出され、道と一つになること。

 

 

生ける思想    メタ・エチカの視点  「道」からの視点

最初に相見するときに伝法する。釈尊と迦葉、如浄と道元

時間的因果関係からみる現象的な見方では論理的におかしいが

「道」が主導性をもつ絶対的出来事である仏法の伝授は、「道」そのものが釈尊を迦葉にまみえさせ、「唯仏が仏に授ける」  唯仏与仏の巻

 

生ける思想とは

1道の啓示は、仏祖の全身心を賭した行持によって現成し、伝承しつづけられる。

2道の現実は、仏祖の行持を、全身心を賭して受持して行くことによって、ここに現状する。

3道は釈尊の歴史的人格を本源とする。

4仏祖の大道はメタ・エチカ的現実であるので理性では把握できないことが明らかになった。

5道を覚ることで、これがすべてに偏在し遍満することからすべての王であることがわかる

6伝達される「仏の御いのち」は水に象徴され、一器から一器へと瀉すように、困難な旅を共にする。

7仏祖の大道は、行持の伝達のみならず、仏教経典も生み出すはたらきがある。

8教義を研究することで門に到り、坐ることで仏家に帰って穏座する仏行になる

9純一に坐禅することが身心脱落であり、道のはたらきに満たされ、道と一つになる。

 

 

垂直と水平

「道」が垂直的に釈尊に働きかけて、仏となし、同じく、垂直的に迦葉に直接に働きかけて、仏となし、仏としての釈尊が、仏としての迦葉に仏法を授けた。

対して、水平とは時間軸に沿った因果関係である。

 

正法眼蔵随聞記

たとえ発病して死んでしまったとしても、なお坐禅を修すべきだ。病気しないで修行せず、この身をいたわったところで何の役に立つことがあろうか。

 

学童の人は、参師聞法の時、よくよく窮めて聞きだし、重ねて聞いて決定すべし。師は必ず弟子の問うを待ちて発言する。 第6

 

坐禅箴

還源返本  外に流転しようとする心の働きを留めて、内なる本源に返すような坐禅観をいう。

息慮凝寂  心の働きをやめ、精神を平静にすること

を否定する道元

 

ただ心の動きに気づいていることが大事で、無理に自分のはからいを使うことが坐禅ではないという意味なのか?

 

一坐の功夫  仏の御いのちである智慧paññāを働かせて、自分の修行の仕方が、すべての正しい判断・行動の基準たる道に基礎づけられているかを弁別すること。

 

正しい法を弁別する眼を弟子たちに書き残し、正法を単伝してもらいために「正法眼蔵」を著作した。

 

あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禅の、おのが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、倉卒に迷酔せるによりてなり。かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地・等覚の見解におよばず、いかでか仏仏祖祖の坐禅を単伝せん。宋朝の録者、あやまりて録せるなり、晩学、すててみるべからず。

 

 

宇宙万物の根源

同時に、天地万物を貫くことわり、人が守るべき正しいみちすじであり、万物を動かすはたらきを意味する。

これらの多義性が「道」の内容である。

 

発菩提心

菩提はもともと梵語(bodhi)で、漢字で道と訳す     『正法眼蔵』「発菩提心」巻

菩提とはブッダガヤの菩提樹の下で悟られた正覚のこと。

bodhiは「智」と「覚」とも訳されているが、道元は「道」とした。

 

1菩提心は衆生を救済したいという根源的志向性があるので、智慧よりも慈悲にアクセントをおいた。

道元にとって「道」は衆生済度の大慈悲によって貫かれる根源力である。

2正法眼蔵の諸巻で関心を持っていることは「行ずる」ことなので、道には行うという意味がある。

 

有所得の心を捨てる

行者は自身のために仏法を修せんと念(おも)う可からず、名利の為に仏法を修す可らず、果報(かほう)を得んが為に仏法を修す可からず、霊験(れいげん)を得んが為に仏法を修す可からず、但だ仏法の為に仏法を修す、乃(すなわ)ち是れ道(どう)なり。

『学道用心集』

 

ただ仏法の為に仏法を修す、とは因果関係を追い求める行為ではなく、「道」の垂直的なはたらきに動かされることで、仏法という絶対的真実のためだけにその絶対的真実を修め行じてゆくことである。

他のすべての相対的目的はこの究極目的のために存在して働くので、究極目的は、自己のためのみに存在し、自己を目的にとして働く。

この自己とは「道のために道を修する」ような無私の行をし、すべての衆生を救済しようという大悲に貫かれた根源力である。

 

釈尊はブッダガヤの菩提樹のもとで、仏となる原理(仏法)を悟り、みずから仏と成ったが、さらに進んで、すべての人間・万象にもこの「原理」を覚らせ、仏となるような、力働的「原動力」である「道」に満ち満ちた究極的覚者となった。

この根源であり、はたらきであり、歩むべき道であり、守るべき理(ことわり)である原動力を道元は道とよんだ。

道の全体は塵埃(迷いの世界)を遥かに抜け出ているから、煩悩の塵埃を払い除ける手段など必要はない。

 

アプリオリの違い

カントの先験性は認識や欲求などの経験            主観の内に留まる

道の先験性は、人の全身心をなげうって修行するという経験   主客の一如  内在と超越の一如

 

内在と超越の一如

道が相対立するものを生み、対立するものを活かしながら、両者を根源なる自己において一如たらしめる。

こうして対立は一如へともたらされる。

このダイナミックな道は人間の理性でとらえることはできないのは、理性は抽象化してすべてを二元的に見るからである。

対して、道と一つなって観ることが、智慧であり、菩提であり、般若プラジュニャーである。

「参学識るべし、仏道は、思量、分別、卜度、観想、知覚、慧解の外に在ることを。

・・・学道は思量分別等の事を用うべからず。」    学道用心集

「行ずれば、証その中にあり」学道用心集

道に生かされている行にはすでに証が内在し、その証が行によって外に顕現する、という意味。

 

本証   道のはたらきのこと  無処不周 至らざる所がない  現成公案

道に則った正しい行によってしか顕現しない。

「いまだ修せざるにあらわれず」 辨道話

証上の修    真の意味の行は、本証によって生かされたものでなければならない。

 

修行者はすでに「道中に在る」学道用心集  

修の外に証を追い求める必要はなく、修行の脚下を顧みて、道に則った修行をすることを心掛ければいい。

 

悟りを得るための坐禅→本証に生かされた坐禅   修証不二  修証一等

 

道元の証(さとり)とは、人の意識を超えた「道」のはたらきのカタチになったもの。

対して、一般的な常識は、悟りは意識による一種の直観である。

 

絶対的な信「自己本道中に在り」に達する   

道のはたらきと一つになって行ずることができるようになり、対立はなくなり、疑いが入る余地はまったくない

 

この「信」は人の自力的な行為ではない。もしそうならば、誤謬なしのはずがない。辨道話

道のはたらきは他力と自力の二元相対を超えているから本来的にはこの信は自力でも他力でもない

 

 

信現成のところは仏祖現成のところなり「菩提分法」

仏祖現成とは、道のはたらきによって、仏祖が誕生することであるから、修行の完成である。

 

 

道に礙えられる

佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。

道に礙()えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟()に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。       学道用心集 第9章

 

道に礙えられる、とは道に進行のじゃまをされて、道のはたらきの中に導かれ、ついに道と一つになって行ずる、という意味。

こうなると修行者は、道のはたらきに満たされていることを明らかに知るようになる。

 

()に礙(さ)えられて、とは道の本証(本源的な悟り)のはたらきに捕えられて、この本源的な悟りと一つになる、という意味

 

道は「愛子を持つ親の心」のように、衆生の救いのために、道のはたらきの中に導き入れて、はたらきと一つにさせる慈悲の働きである。

 

天魔の誘惑

「学道とは道に礙()えらるることを求める」

天魔の誘惑にたびたび出会う道元は、「仏の形に化けて」くるものがあった。

「自分は悟って、仏に成った」という考えに固執することで、天魔に引っかかるのである。

大乗が仏になることを求める副作用では。

 

闇の世界へ

修行の初期は、迷いの闇から悟りの光へ

修行の成熟期は、光から闇へ

 

理性に照らされた明るい世界に留まるかぎり、道のはたらきは見えてこないし、道本円通の宇宙は暗闇のうちに姿を消している。

そこで、一切衆生を済度しようとする道は、明るい世界の住人を覚醒めさせるために、彼らの行く手を阻み、暗闇へと突き落とすのである。

このような道の否定的なはたらきは礙える働きである。

 

悟迹(ゴセキ)を忘じて(悟りの自覚を忘れて)、道本円通の広大無辺の宇宙を自由自在に生きることである。

初心から得道までの修行の全過程は、道の否定即肯定のはたらきに動かされていることが分かる。

 

明暗のある現実世界に戻り、悟りを体験しようがしまいが、道の根源的な悟りのなかに安住し、そのなかで自由自在に生きることである。

 

明が暗たる道の根源的悟りに根拠づけられていることを肚におさめていることである。

肚におさめることとは道のはたらきである。

再体験

 

 

全宇宙に影響を与えている各自の「行」

行持がそのまま全地全天にその功徳を及ぼしているということである。「行持」上下

 

 

坐禅の意味

この単伝正直の仏法は最上のなかに最上なり。

参見知識のはじめよりさらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、

ただし打坐して身心脱落することをえよ

 

もし人一時なりといふとも三業に仏印を標し三昧に端座するとき遍法界みな仏印となり尽虚空ことごとくさとりとなる。   辨道話  

 

三業(さんごう). 身・口・意の三つで起こす「業」(ごう)のこと

遍法界  顕れている全宇宙

 

坐禅は道のはたらきと一つになり、無心に遊ぶが如く、宇宙全体を自由自在に遊戯することである。

そして、同時に衆生済度の仏行であるから「宇宙遊化」でもある。