般若経 空の世界 梶山雄一
般若経
大乗仏教の最初の経典が般若経である。
般若経の作者達は、釈尊は全ての実在を否定したと主張、その理法を空と表現した。
龍樹はその主要な著書「中論」で直観と比喩のみで語られる、般若経の空について、「実在(有)でもなく、虚無(無)でもなく、空なのだ」という「中」の論理をもって「空の論理」を完成した。この空の論理が、般若経以後誕生した全ての大乗経典の基層となった。
こうして龍樹は日本仏教のすべての宗派の祖を意味する「八宗の祖」と称され、いずれの宗派にも祖師として尊敬されている。
カエルや犬が見える景色
カエルの視覚は自分の方に向かってくるものしか識別しない
犬の視覚は色調を識別しない
ヒトの視覚は赤外線と紫外線を識別しない(ヘビは赤外線やミツバチは紫外線が認識できる)
このように現象の一部だけしか認識していないのに、すべてを捉えつくしていると思うのは誤謬である。
ヒトが見ている世界が唯一の実在ではない。
多くの見えないものがこの世にはある。
また同じものを見てもある人にとっては美しく、ある人にとっては醜い。
また人は夢は虚妄で目覚めいている意識を信仰しているが、実は認識とは外界に実在する対象を持つとは限らない。
世界とは、各自の描くイメージであり、意織に浮かぶ感覚的な心象であるシンボルでしかない。
ヒトはこれらのイメージやシンボルを認識しているのであって、ありのままのリアルではない。
それなのにこのイメージを現実として受信して、そのデータから思考を構築し、しまいにはそれをパターン化して、他のケースにも適応する。
これを過剰一般化とよぶ。
これらの各自の意識の中で作られているイメージやシンボルは固定化されて実在しておらず、常に変化し続けている。
そしてイメージは他のイメージと重なることでしか実在化しないケースもある。たとえば犬は色調がないので視覚を信用しておらず、嗅覚で同時に捉えないとそこに実在を感じない。それなので鏡に映るものを見ても、そこに匂いがないので、実在としてはとらえない、と言われている。
龍樹の弟子であるアールヤ・デーヴァĀryadeva提婆3cが言ったように、夫から見れば愛らしい妻は、姑が見れば厭わしく、召使いは関心がない。
このように世界には固定した実体などは存在しないことを、「あらゆるものは空である」「色即是空」という。
八千頌般若経(はっせんじゅ) Aṣṭasāhasrikā- Sūtra
漢訳では鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』で小品般若経とも呼ばれる。
「空」を説くにもかかわらず「空」という言葉を使っていないことなどから、般若経典の中では最古級のものとされ、紀元前後か50年頃までに成立したと考えられる。
他の般若経の内容を欠落させることなく、より簡潔な形ですべてを備えていると以下の者たちは述べている。
ディグナーガDignāga陳那(じんな)480年頃-540年頃 因明学を確立した有相唯識派
ハリバドラHaribhadra 獅子賢 9c インド仏教中観派
南インドで成立し、しだいに北インドに伝わったと推定される。
根本分裂以後、大衆部派の主力はクリシュナ川Krishna River(旧名キストナ川)流域のアンドラ王国(アーンドラ・プラデーシュ州?)に地盤を築いた。
E.コンゼは合計40の「般若経」を列挙している。E.Conze, The Prajñāpāramitā Lierrature
漢訳経典としては、
支婁迦讖訳
『道行般若経』(大正蔵224) 179年
支謙訳
『大明度無極経』(大正蔵225) 225年
曇摩蜱・竺仏念訳
『摩訶般若鈔経』(大正蔵226) 382年
鳩摩羅什訳
『(小品)摩訶般若波羅蜜』(大正蔵227) 408年
玄奘訳『大般若波羅蜜多経・第四会/第五会』(大正蔵220) 663年
施護訳
『仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経』(大正蔵228) 980年
法賢訳
『仏母宝徳蔵般若波羅蜜経』(大正蔵229)
pāramitāの解釈
pāramitā 1 pārami最高のtā状態を表す接尾辞 極致、完成
2 pāra向こう岸m目的格i行くtā接尾辞 向こう岸に行くもの
語学的には1、教義的哲学としては2をハリバドラHaribhadraやチベット語訳、漢訳(度彼岸)はしている。
律蔵(巴: Vinaya Pitaka, ヴィナヤ・ピタカ)
『パーリ仏典』の三蔵(巴: Ti-pitaka, ティピタカ)における最初の蔵(pitaka)であり、律(巴: Vinaya, ヴィナヤ)に関する文献が収められた領域のこと。
構成
波羅提木叉(はらだいもくしゃpātimokkha) --- 具足戒二百五十条(比丘尼用三百五十条)の本文
経分別(きょうふんべつSutta-vibhanga, スッタ・ヴィバンガ) --- 具足戒(波羅提木叉)の説明
大分別(だいふんべつMahā-vibhanga, マハー・ヴィバンガ) --- 比丘戒
比丘尼分別(びくにふんべつBhikkhuni-vibhanga, ビックニ・ヴィバンガ) --- 比丘尼戒
犍度(けんどKhandhaka カンダカ) --- 僧団(僧伽)運営規則
大品(だいほんMahā-vagga, マハー・ヴァッガ)
小品(しょうほんCulla-vagga, チュッラ・ヴァッガ)
附随(ふずいParivāra, パリヴァーラ) - 補足内容
聖なる世界は俗世界に呻吟をうむ
宗教の徳は俗世界では絶対的な矛盾となり、うめきを要求する。
慈悲を貫くことはすべてを奪うことになり、愛を貫くことはひとを殺すことである。
たとえば布施太子、玄沙師備のように
解きほごせる問題ならばいい。世界が溺れているときにヒトは失神するよりほかに何ができよう。
もがいても魔の口に捕まえられた足がほどけない悪夢に似ている。
なにも解決しない。目覚めているときだけに矛盾は消えているように感じるだけである。
常悲サダープラルディタと法来ダムモードガタ 「六度集経」の「常悲菩薩本生」
「あらゆるものが汚されず、浄められない」という真実の理法を観察せよ。
あらゆるものは本性として空だからである。
あらゆるものは自我なきもの、幻のごとき、夢のごとき、こだまのごとき、映像のごときものである。
出家と在家
生活の違いが学問や瞑想の程度の相違をもたらした。
例外的在家
郁伽居士ウグラugga 増支部8集22
Aṅguttara Nikāya, AN Aṭṭhakādi-nipāta 22. Dutiyauggasutta https://suttacentral.net/an8.22/pli/ms
Ugga of the Village of Hatthi https://suttacentral.net/an8.22/en/sujato
『大宝積経』 Mahāratnakūṭa Sūtra大乗の経120巻49部 19部郁伽長者会
維摩経の主人公ヴァイシャーリーのヴィマラキールティのモデル?
プールナ 中部経典 145 Majjhima Nikāya Puṇṇovādasutta https://suttacentral.net/mn145/pli/ms
ボンベイ北方のシュローナの出身で仏法を広める
豪華なストゥーパ
バールフットは、インド中部マディヤ・プラデーシュ州サトナーSatnerの南15Kmにあった古代仏教遺跡で、インド仏教美術の最初期の作例
仏舎利を運ぶ象(バールフット出土・前2-前1世紀、ニューデリー国立博物館)
ブッダが亡くなった時、八つの王国は各々遺骨を受け入れることを望み戦争になった。結局、ブッダの遺骸
を荼毘に付しその遺骨を八カ国で分けることで決着がついた。その仏舎利を象が運ぶ姿を現している。・
サーンチーSanchi ボーパールBhopalの近く
古代都市ヴィディシャーの南郊外、約10Kmの地にある。
第1ストゥーパは、マウリヤ朝のアショカ王の時代(前3世紀中葉)に創建され、1世紀後のシュンガ朝の時代にそのレンガ積みのストゥーパを核として、全体を石で覆う増広が行われた。
僧院と一般社会
僧院における禁欲的な戒律と経済的義務から解放された比丘たちの生活
子孫を産み、家族を維持し、職業に従う在家信者との間の大きな断絶があった。
僧院は利他の精神に欠け、自己のみの救済に専念していると批判するようになったのも、
在家の心を救う新しい佛教を探していた。
一般社会と隔絶されることなく、社会人とともに歩み、社会の指導者として生きることが仏教者の務めであると考えた。そして、自分たちは釈尊と同じように、buddhaとなるために菩薩の道を歩まねばならぬと決意した。
彼らが大乗の推進者となった。
大乗の特徴 小乗にないもの
禅定の中で諸仏に会うという経験
般若paññāのおかげで仏陀になれる
教団の分裂 戒律と阿羅漢の解釈
上座部 スタヴィラ・ヴァーダ
大衆部 マハーサーンギカ
釈尊滅後100年 ヤシャスがヴァイシャーリーに滞在していた時に、信者に貨幣の寄進を求め納受したものを比丘たちの間で分配をしているのを目撃し、これは律に反する行為であると非難した。
これが発端になり、大衆部(東、進歩的)と上座部(西、保守的)との対立が始まった。
上座部が伝えるところによると、
金銀を受けること
角の器に塩を蓄えること
正午を過ぎて食事をすること
発酵していないシュロ汁を飲むこと、など10事の慣習について見解が分かれた。
会議の結果、これらは非合法となったのを東側は承服せずに分裂した。
大天の5事 「大毘婆沙論」
5つの大罪のうち3つ(父と母と阿羅漢の殺害)を犯したマハーデーヴァは出家してクックターラーマ(鶏園)寺で座にのぼって法を説いた。
1阿羅漢も精液の漏失を免れない
2阿羅漢は煩悩は断じているが草木の名前を知らないなどの無知がある。
3阿羅漢も疑惑をもつことがある
4阿羅漢のなかには、みずから自覚せず、ブッダに証明されて初めて自分が解脱したことを知る人がいる
5心中で真理を見、道を修するだけではなく、「真実苦しい」と声を発することによって悟りが起こることがある
仏教者は阿羅漢の境地に満足すべきではなく、全知者であるbuddhaそのものに成ることを理想とすべきである。
→大乗仏教の旗印の一致する。
はじめての菩薩
はじめての菩薩は2BC頃、記述されたのは1BC〜2BCに成立した「論事」「発智論」「舎利弗阿毘曇論」であると中川彰は推定する。
弥勒マイトレーヤ(梵: maitreya巴: metteyya)の記述
パーリ仏典にある、とあるがどこ?見当たらない
一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、『中阿含経』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。
ディーパンカラDipankara仏
燃燈仏は、釈迦が前世で儒童梵士(菩薩)(じゅどうぼんし)メーガと呼ばれ修行していたとき、未来において、悟りを開き釈迦仏となるであろうと予言(これを授記という)した仏である。
「瑞応経」 支謙訳『大正新修大蔵経 3 本縁部上』p472に「仏説太子瑞応本紀経」
この話は「八千頌般若経」第19章にもあらわれ、大乗仏教(菩薩)の出発点を形成する。
ただしこの物語の原初形態においてはボサツという言葉まだあらわれていない。
過去仏、未来仏、現在仏、燃燈授記の物語が与えた衝撃
西紀前100年ごろに成立し、大乗仏教の出発点となる。
三世に多数のbuddhaがいて、菩薩が釈尊になったという話を基盤の論理にして展開することで、あらゆる有情はbuddhaたることを期して徳を積む修行者であるという大乗の思想が生まれた。
専門的な学問と修行をすることができない在家の信者や、仏道の実践の仕方を模索していた人々に衝撃的な影響を与えた。
そこには新しい人生の目標と新しい生き方が示唆されていたからである。
多数の人々の安定のために bahujana-stitiye ボサツ誕生の前触れ
パタン村シュドの舎利壺銘文に、ギリシャ人知事テオドロスが「多数の人々の安定のために」釈尊のの遺骨を奉安した、と記されている。1bc中葉のもの
「多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため」
「一切衆生への供養として」
このような環境の中で、一切衆生への利益と幸福のためにbuddhaになろうと志し、「覚りを求める者」bodhi-sattvaが誕生する。
釈尊の前身に限定されている、ジャータカの主人公であるボサツ
すべての修行者にまで拡大された菩薩という観念。
説一切有部が根拠にしている論理
説一切有部の根本論書である『阿毘達磨発智論ジュニャーナ・プラスターナ』二十巻を著わした。(『大唐西域記』では、北インドのチーナブクティ国〈Cīnabhukti〉にて執筆されたという。)
迦多衍尼子(かたえんにしKātyāyanīputraカーティヤーヤニープトラ)は、インドのバラモン出身の僧。
『異部宗輪論』、『三論玄義』、『大唐西域記』などの記述からは約紀元前2世紀に活躍したとされるが、それよりやや時代は下るとされる。
「発智論」の注釈書「大毘婆沙論マハーヴィバーシャ」2c
「阿毘達磨倶舎論アビダルマ・コーシャ」5c 世親ヴァスバンドゥ
説一切有部の「有の哲学」
無常なる自己と世界を観察し、そこにあるものを探求する思想運動。
無常なるものを正しく理解せず、それを恒常なるものと執着するから苦があるので、それは自我という主体を前提にしていることを説いた。
このような無常が苦と無我の根拠であることを説くのは、梵我一如の体感をしていない時の見解である。
しかし、梵我一如の体感からの視点や、それを目指すための読み方は、
ヒトの望みは長くは維持できないことで苦しみが生まれ、そこから離れようとしても自我は無力である、というのが実践者の解釈。
そして、すべてのものは無常を原因としているのっで、どんなものも常在不変なことはないという縁起説が説かれる。
五蘊
「すべてのもの」と同義語で使われる。
とあるが五蘊の分母は「すべてのもの」ではなく「ヒトが感覚器官と意識で現象を捉えたイメージ」なのではないのか?
だからここには霊的なもの、普通の人には認識不可能な29界の生命、涅槃、は含まれていない。
五位は五蘊説から直接に展開してきたものであるのか?
五蘊の色rūpa蘊は色法、識viññāna蘊は心法、行蘊は意味を拡大して2分して、心と相伴するものとしないもの、そして無為法を加えて5つとした。
諸法無我
行(サンカーラ−作られたもの)が有為の範疇なのに対して、この法(ダルマの複数形)は有為と無為を含む範疇のことである。
有為の無常な世界だけではなく無為の恒常の世界も含まれている世界に共通している本質(存在そのもの)への目が開かれる。
この諸法の世界では自我は共通項にはならないので役に立たず、ただ真我(霊、無我)のみが有効である。
意識と意根
思う心である意識と思考器官である意根と思われる対象(ダルマの複数形)の3つのうち、説一切有部では意識と意根の区別が判然とせず、
アビダルマでは一刹那前の、過去に過ぎ去った心が意根として、現在の意識とともに認識に参加する、と説明するが、昔から問題になっている。
ダルマの複数形(現象、法、有為と無為)は認識の対象なので、意識体は抽象的、概念的なもの、そして無為を考えることができる。
そして考えれれるのであれば、無存在もまた存在することになる。
無為に属する3つ(虚空、涅槃(智慧paññāによって得た止滅)自然の止滅(縁がないために現象化しないもの))のものは、無存在に過ぎないと大乗では批判されるが、説一切有部では、それらは恒常で無制約的な存在なのである。
五位七十五法
すべての存在の最小単位である(これ以上分割できない)75を発見し、これらを5つに分類した。
この75でないもの、例えば、自我や神は存在しない。
法(ダルマ)
多義の意味を持ち、説一切有部のアビダルマでは「独自の性質を保持するからダルマである」と定義した。
「独自の性質」sav-laksanaとは「他と共通性質」sāmāya- laksanaと対比して使われる語で、他のものにない、それ自身の特性をいう。
またアビダルマで「独自の性質」sav-laksanaと「独自の存在」sva-bhāvaと実体(dravya)は同義語であるとしている。
ダルマは「保持する」という語根から派生したもので、説一切有部は「独自の性質(存在)を保持するから」実体のことをダルマという、と定義した。
説一切有部はダルマ(本体、実体)は過去・現在・未来の三世を通じて実在すという。
無為のダルマだけが恒常であるだけではなく、有為のダルマも実は恒常である(法体恒有)、という。
この論証は、過去や未来のダルマも認識されるから実在する、という推論である。
インド哲学(仏教を含め)では対象をもたない認識を認めない。
つまり対象のない認識はないと定義して、過去や未来のものを考えることができることは、それらが実在していることを示す。「倶舎論」巻20
意識はかならず実在する対象をもっている、というのが主張である。
実在論への批判への反論
軽量部は、過去において見たもの、未来において見るであろうものを意識することは記憶ないし、推理の問題であって、現在における知覚が対象をもっていることとは本質的に別なことである。
だから、記憶や推理があるからといってその対象が実在するわけではない。
これに対して説一切有部の範疇論的実在論の立場からいうと、物質的存在は過去にあろうと、未来にあろうと、現在にあろうと依然として物質的存在でなければならない。
したがって意識されたもの(たとえば赤)は三世にわたって外界に存在している。だからものの本生は三世に恒常に実在する、と主張する。
こうして説一切有部のダルマとは思惟の対象であり、概念の実体化されたものである、ということがわかる。
三世の別は位の違いにすぎず、ものの本体は同じだけれども、その本体が作用をもっているときを現在、作用を持っていないときを過去と未来というだけである、と主張する。
龍樹が「ものは空である」というとき、空とは「独自の性質(存在)をもたない」という意味なので、ダルマは実体の概念に相当すると解釈する。
これに対して説一切有部は、本体は恒常であるが、それが作用をもって現象するのは現在一瞬間だけであるので、すべての作られたものは瞬間的存在にすぎない(刹那滅論)と答える。
ダルマの時空は横に流れ、経験的時空は縦に貫き、この交点は絶対の現在である「いま・ここ」である。
海が全体、波が現象であるとすると、海から見ればすべてのもの(ダルマ)は初めから最後まで存在し続けており、波の生死と流転は単に表層の様態の変化である。僧院という脱俗的生活を暮らすことで、このような海中に潜水した視点を持つことができるとされるが、多くの大衆にはこのような機会がなかったので、新しい視点、すなわち宗教を必要としていたのである。
心不相応行
citta-viprayukta-saṃskāra、
心に伴わないもの。物質(色)でも精神(心)でもない存在。
物と心の間の関係や力を意味する。(有為法(saṃskṛta)以外の法
得(結合)、非得(分離)、同分(共通性)、無想定、無想、滅尽定(禅定における無意識状態の3つ)、命根(生命)、生、住、異、滅(生起、存続、変化、止滅の4相)、名身、句身、文身(単語、句、文の言語的要素)の合計14種の法からなる。
普遍的であるが、個人の心と相伴するものではない。
得(prāpti、プラープティ) - ダルマを獲得させる原理。すべての有情数の法と必ず倶生する。
非得( aprāpti、アプラープティ), 凡夫性- 聖道の非得。 いずれかのダルマの分離の原理。
同分(sabhāgatā、サバーガター) - 法の同類性。生きものの同類性。有情の各類に共通な同類性。それぞれの人にはすべて人として共通の、それぞれの牛にはすべて牛として共通の同類性がある(有差別同分)。また、すべての有情には有情としての共通性がある(無差別同分)。衆同分ともいう。
無想定(asaṃjñisamāpatti、アサンジュニサマーパッティ) - 心の活動作用を止息させる瞑想。無意識にまで至るほどな極度の精神集中。無想天に生まれることを真の解脱と誤解してそれを求める者が修する。
無想(āsaṃjñika、アーサンジュニカ) - 無想定を修することによって達する境地。無想天に生まれた者の獲得する無意識な状態。無想果とも呼ぶ。
滅尽定(nirodhasamāpatti、ニローダサマーパッティ) - 心のはたらきがすべて尽きてしまった瞑想。心のはたらきが消滅した状態にある精神集中。聖者が寂静の境地を楽しもうとして修する。
命根(jīvita-indriya、ジーヴィタ・インドリヤ) - 生命持続の力。生命機能。体温と心のはたらきとを維持する生命力を法の一要素として見たもの。
生(jāti、ジャーティ) - 生起。四相一要素。どんな有為法にも必ずあい伴う。説一切有部では、すべての有為法の上にある特殊な法の存在を考えて、心不相応行法の中に数える。
住(sthiti、スティティ) - 存続。生起した状態を保つこと。四相の一要素。
異(jarā、ジャラー) - 変化。状態が変異すること。四相の一要素。
滅(anityatā、アニティヤター) - 消滅。四相の一要素。
名身(nāmakāya、ナーマカーヤ) - 名称の集まり。文すなわち音節、句すなわち文章に対して、名辞を意味する。名ともいう。本項以下の名・句・心の三つによって、言葉のはたらきが、それによって認識が、成立すると考えられている。
句身(padakāya、パダカーヤ) - 文章の集まり。名すなわち名辞、文すなわち音節に対して、まとまった意味を表しうる文章を意味する。
文身(vyañjanakāya、ヴャンジャナカーヤ) - 字母の集まり。名すなわち名辞、句すなわち文章に対して、音節を意味する。
般若経の出現 欧州よりも1800年早く始まったプロテスタント
阿羅漢に満足せず
現在における無数の覚者buddhaの存在を確信し
やがてbuddhaになると誓った仏教徒が増加した。
街に住む商業、工業を生業とする新しい新興階層の人たち
仏の形像
道行般若経 曇無竭娼菩薩品第二十九」
「たとえば、ブッダが完全に涅槃されたのちにある人が『仏の形像』を作るとしよう。ひとは仏の形像を見てひざまずいて拝み、供養しないものはいない。その像は端正ですぐれた形相をもっていて、(ほんとうの)ブッダと少しも異っていない。ひとはみなそれを見て歎称し、花や香やいろどった絹をもって供養する。賢者(サダープラルディタ)よ。仏という神が像のなかにあるだろうか。」
最も早い仏伝図も2c以前には遡り得なかったとみられる「仏像の起源」p415高田修
智慧paññāの完成 無常にして完全な覚り そして形(仏像)の意味
サダープラルディタ菩薩の求道物語が「八千頌般若経」に取り入れられた理由
まずは禅定、次に禅定の本質を観察する。
なにかものとして妄想しないこと、妄想しない状態に留まっていることが、智慧の完成である。
過去・現在・未来の十方世界の諸仏の智慧の完成の世界と相映じ、互いに目撃し、確認し、讃嘆し、激励し合う。
そこの智慧の完成の普遍性と永遠性が浮き彫りにされている。
これが美術史上の事件である前に「般若経」、ひいては大乗仏教の本質に関わることがらであった。
菩薩大士の試練 八千頌般若経 第19章「ガンガデーヴィー天女」
荒野(盗賊、水や食べ物がない、疫病)にいってもおそれ、おびえ、恐怖に陥ってはならない。
なぜならばあらゆる有情の利益のために自分のすべてを棄てなければならないから。
するとその都度、彼は真理に目覚める。
「この世には実は病気によって害されるようなものは何もなく、病気と名づけられるものも何もないのだ」と空性を洞察する。
天女は私も恐怖に陥らず、この教えを伝えることを宣言したときに、buddhaは黄金の笑みを示した。
般若経の核心をなす縁起 空の理論
忽然とあらわれ、消え去る如来を手がかりとして展開される縁起と空性の哲学
諸仏の出現と消滅が般若経の主題
すべてのものは生じない、という真理の容認 無生法忍
迷いの世界とさとりの世界の不二、不可分性
すべてのものが認識されず、本来清浄である
弥勒菩薩がブッダになる理由 八千頌般若経 第8章末尾
「ものは本体がないから、空である。それがものが絶対的に清浄であるということだ」
弥勒菩薩は未来にbuddhaになるのはこの極意をさとるからである。
実在もせず、認識もされず、説くこともできない智慧の完成を説く。
このようにマイトレーヤは智慧の完成の証人ではあるが、その証言は矛盾(哲学的)である。
「シャーリプトラ長老よ、私はことばで語り、心で考えるそのような仕方でも、私はそれらのものを知らず、認識せず、見出しはしないのです。かえって、身体で触れえず、ことばで語りえず、心で考えられない、そういう本性をすべてのものはもっているのです。それらには本体がないという理由で」
仏母の発見
瞑想の中で、過去・現在・未来の十方世界の諸仏の智慧の完成の世界と相映じ、互いに目撃し、確認し、讃嘆し、激励し合う経験をもつ求道者が増えてきた。
いままで禁忌とされた仏像を彫ったり、描いたりせざるを得なくなるのももう間もないほど、苦難と迷いとから救われようと、命がけで祈った時代があった。
民衆のブッダに会う願いを拒否し、より次元の高いBuddhaである「諸仏を産む母」を教えようとした。
それが全知者性、一切智という本質、智慧の完成である。
「どうすればこの智慧の完成が長く存続するであろうか?どうすればこの智慧の完成の名前が滅しないであろうか?」八千頌般若経第12章
「智慧の完成こそ菩薩大士の善友である」八千頌般若経第22章
ストゥーパ崇拝に対しての批判
「カウシカ(帝釈天)よ、そういうわけで、如来は、具体的存在である身体を得ているというこのことによって、如来という名前で呼ばれるわけではなくて、全智者性を得ているために、如来は如来という名前で呼ばれるのである。」八千頌般若経の第3章
「仏陀世尊たちは法身dharma-kayaより成るものである。そして比丘たちよ、けっしてこの物理的に存在する身体を(仏陀)の身体と考えてはいけない。比丘たちよ、私のことを法身dharma-kayaによって完成されているのだと見なさい」八千頌般若経の第4章
第4章の一段にある、(永遠の真理としての仏陀のことである)法身dharma-kayaと真実の究極(実際)の2つの語句は初期の漢訳(道行、大明度、摩訶般若経)には存在しない。
L.R.ランカスター The Eastern Buddhist 1975
初期の大乗運動家は、ストゥーパに安置された仏骨崇拝という人気のある儀式を智慧の完成への崇拝に昇華させようとしていた。
菩薩大士と菩薩 不退転の菩薩大士と迷える菩薩
ボーディ・サットヴァ(梵bodhisattva, 巴
bodhisatta) の音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略。
bodhiとは「悟り、菩提」であり、sattvaとは「生きている者、薩埵」の意味
1 さとりへ向かう有情 パーリ仏典 サンスクリット仏典
2 さとりへの志向をもつ者 般若経 10c中観派プラジュニャーカラマティ
sattvaは語根√as(存在する)の現在分詞satに状態を表す接尾辞tvaが加わってできた名詞で、
存在、本質、意識ある生きもの、有情、心、志向、胎児、精力、勇気と多義にわたる。
初期仏教、パーリ経典において菩薩(巴: bodhisatta)は悟りを開く前の釈迦本人を指している。
釈迦は説法の中で、若き求道者であった頃の自身を語るときには「私が啓示を経ていない bodhisatta であったころは...」というフレーズをたびたび使用していた。
Mayhampi kho, mahānāma, pubbeva sambodhā,
anabhisambuddhassa bodhisattasseva sato,
マハーナーマ(人名)よ、私が菩提を得る前、いまだ成道していない菩薩であったとき…
中部苦蘊小経
大乗仏教における菩薩大士の扱い
般若心経
玄奘訳の般若心経には前段に菩薩、後段に菩提薩埵と音写した2種の訳語が使い分けられている。
般若心経にこのような用語が使われているのは漢訳における語源学風解釈(nirukti, etymology)で、意図的に〈菩提+薩埵〉と分割したという説がある 。
菩薩大士とはbodhi+ maha-sattva 覚り(智慧の完成)を思考する偉大な心(者)という意味。
これは小乗の声聞と他教の智慧の賢者を区別するために、菩薩大士と呼ぶ。ハリバドラHaribhadra 9c
スプーティは釈尊に菩薩大士の意味を問う。 八千頌般若経第1章
「汚れがなく、こだわりのない全智者性を求める心にさえ彼は執着せず、こだわりません。そういう意味で菩薩大士という名で呼ばれるのです。」
菩薩大士の2つの基本的な性格
1 ものの特徴を認識せず、ものに執着しない 無執着の態度≒智慧
2 できるにもかかわらず、完全な涅槃において涅槃したいと思わないで、苦しんでいる有情の世界を見て、無上にして完全なさとりをさとりと欲し、輪廻をおそれない、 不住涅槃の態度≒方便
八千頌般若経第15章
「スプーティよ、この菩薩大士は実は甲冑で身を固めてはいないと知らねばならない。それはなぜか。全智者性というものはつくられず、変化せず、形成されないからなのだ。また、菩薩が彼らのために甲冑で身を固めるというその有情たちもつくられず、変化せず、形成されないものだからである。」八千頌般若経第1章
「つくられず、変化せず、形成されないもの」とは、あらゆるものは本体がなく、ものは空である、ということ。
幻術士が作り出した幻がどれほど大きな光景で、どれほど千変万化しようとも、本体としては存在しないのと同じである。
菩薩大士が生死輪廻をおそれず、涅槃にはいりたいとも思わないのは、輪廻も涅槃も本体がなく、空であるからである。
いいかえれば2つはともに空であることによって不二であり、分けられず、区別できないからである。
「彼は虚空を解放しようとするわけです」八千頌般若経第8章
菩薩大士は虚空の鎧を着け、実在しない有情のために、実在しない敵と戦うのである。
菩薩五十二位
『華厳経』及び『菩薩瓔珞本業經』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。
妙覚(みょうかく)
菩薩修行の階位である52位の最後の位で、等覚位の菩薩が、さらに一品(いっぽん)の無明を断じて、この位に入る。なお一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視される。
等覚(とうかく)
菩薩修行の階位である52位の中、51位であり菩薩の極位で、その智徳が略万徳円満の仏、妙覚と等しくなったという意味で等覚という。
十地(じっち、じゅうぢ)
菩薩修行の階位である52位の中、第41〜50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益するからに似ているから「地」と名づく。
十廻向(じゅうえこう)
菩薩修行の位階である52位の中、第31〜40位まで。上から入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。
十行(じゅうぎょう)
菩薩修行の位階である52位の中、第21〜30位まで。上から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。菩薩が、十住位の終に仏子たる印可を得た後、更に進んで利他の修行を完うせん為に衆生を済度することに努める位。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅密のこと。
十住(じゅうじゅう)
菩薩修行の位階である52位の中、第11〜20位まで。上から灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。十信位を経て心が真諦(しんたい)の理に安住する、という意味で「住」と名づく。あるいは菩薩の十地を十住という説もある。
十信(じゅうしん)
菩薩修行の位階である52位の中、第1〜10位まで。上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。仏の教法を信じて疑心のない位。
なお、十信を外凡、十住〜十廻向までを内凡あるいは三賢と称し、十信〜十廻向までを凡と総称する。また十地と等覚を因、妙覚を果と称し、十地〜妙覚までを聖と総称し、凡と相対する。
十地経
華厳十地経は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十波羅蜜としている。
果たして大乗は3界から離脱しているのか? 八千頌般若経第1章
「(大乗は)3界から出ていくのであり、(修行の)対象のあるところへ進み、全智者性においてとどまり、菩薩大士が(この大乗に乗って)出ていくのである。しかもなお、それはどこからも出ていくことはないし、なんらかの(対象)を経て進むわけでもなく、どこかにとどまるということもない。けれども、とどまらないという仕方で全智者性においてとどまるのである。」
大乗は新しい宗教なのか? 八千頌般若経第9章
「実にジャムプドゥヴィーパ(インド)において、2度目に教えの輪が転じられるのを見ることだ」
と何千何万の神々が空中で喜んで叫ぶ。
「それは転じはじめることも転じやめることもありはしないのである。スプーティよ、このようなものが菩薩大士の智慧の完成なのである」と釈尊は戒める。
自分だけのためにという声聞の考え方 八千頌般若経第11章
声聞や独覚は「われわれは自分ひとりだけをならそう。われわれは自分ひとりだけを完全に涅槃させようと。」
していると釈尊がスプーティに説く。
菩薩大士は戦士?でなければならない 八千頌般若経第11章
「(菩薩大士らは)いかなるときも(悩み少ない)平静な境地に対して心を発してはならない。それはなぜかといえば、彼ら秀でた人々は世間を導く人々であり、世間を利益する人々だからである。だから彼らは、つねにいつでも6種の完成について学ばなければならないのである
「本来清浄」とは「空」のこと、離脱vivikta遠離 八千頌般若経第8章
本来清浄あるいは清浄という語句は「空」の同義語である。
あるものの本体(自性)とは、言葉の意味の実体化されたものにすぎず、真実としては、ものはそのような虚妄な本体を離脱していて空である。
このことが清浄であり、不二である、と「般若経」ではいわれる。
束縛(baddha)された状態から解放(mukata)された状態に移行するのが修行のプロセスである。
「スプーティよ、物質的存在の清浄性とその(修行の)結果の清浄性、これは不二であり、2つに分けられず、相違せず、断絶していない。そういうわけで、スプーティよ、結果が清浄であるから物質的存在は清浄になり、物質的存在が清浄であるから結果は清浄になるのである。同じように、感覚、表象、意欲についてもそうである。」
思惟の清浄性と結果の清浄性、物質的存在の清浄性と全智者性の清浄性、思惟の清浄性と全智者性の清浄性は、不二であり、2つに分けられず、相違せず、断絶していない。
よって、全智者性が清浄であるから思惟は清浄になり、思惟が清浄であるから全智者性は清浄なのである。
ここでいう物質的存在、感覚、表象、意欲とは五蘊(色・受・想・行蘊)のことである。
思惟とは識viññāna蘊のこと?
五蘊とヒトの本体はない
説一切有部では五蘊(色・受・想・行・識蘊)は本体をもつと考えていたが、
般若経は、物質的存在をはじめとする五蘊はいずれもいかなる本体をももたないと主張する。
物質は、物質としての本体をもたないから、物質として実在するのはない。
しかしそれは、物質でないもの、恒常なる無為を本体としてあるわけでもない。
だから物質は物質として束縛されているのでもないし、物質でないものとして解放されているわけでもない。
同様に五蘊やヒトという存在も束縛されていないし、解放されてもいない。
というのは五蘊やヒトも、本体がなく実在しておらず、「幻の人」のように空である。
涅槃の本体はない
修行の結果としての涅槃、阿羅漢のさとり、仏陀の全智者性は、五蘊を越えた無為の世界である。
しかしその無為も無為としての本体をもっているわけではない。
束縛されていないし、解放されてもいない。
幻の人は迷いもしないし、さとりもしない。
しかし幻はただ存在しないのではない。
それは幻としてあらわれ、幻としてある。
幻は本体をもたず、空なるものとしてある。
有でもなく無でもないものとしてある。
すべてのものは幻のように、空なるものとしてある。
不二advayaの原理が一元性
2つに区別されず、1つであること。
例えば、束縛された人も修行の結果解放された人も、迷いもさとりも、有為も無為も、空である。
この不二の空性というモノの本性(ダルマの性質)の一元性を般若経が見出したことが、説一切有部の区別の哲学、多元的実在論を批判する原理となった。
貪瞋痴を肯定する天女 維摩経 第6章
天女がいう「この花は法にかなったものです。その理由は、この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、長老シャーリプトラこそが、思慮し分別しているからです。大徳よ、出家して善説の法と律とのなかにありながら、思慮し分別するならば、それこそ法にかなわないことなのです。」
「生死輪廻の恐怖におののく人に対しては、色や声や香りや味や触れ合うことが、そのすきにつけ入ってくるのです。もし形成された諸存在(有為)への煩悩に対するおそれを去った人ならば、その人に対して、色や声や香りや味や触れ合うこと(という五欲)が、何をなしうるでしょうか。」
「愛欲と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです。」
「つくられることもなく、かわることもない、というのが仏陀のお言葉です。」
思惟の世界にあるのが輪廻
2つの世界に区別しているのは判断(分別)であり、思惟である。
虚妄なるものは花(現象)ではなく、思惟である。
輪廻と解脱と、対立した2つの世界があるのではない。あるのはただ一つである。
この一つが菩薩大士にとっては解脱の世界であるのに、シャーリプトラ(一つを2つに分ける思惟)にとっては、それを輪廻と見てしまう。
菩薩大士にとって一つが解脱になるのは、輪廻に輪廻の本体がなく、解脱に解脱の本体がなく、空であるからである。
輪廻の本体とは、空なる一つの世界を輪廻として認識し、執着する人間の思惟の所産にすぎないのであって、そのほかのどこにもありはしない。
しかし思惟(シャーリプトラ)は固執する。貪瞋痴の煩悩を離れてこそ菩提(さとり)はあるのではないか、と。
これこそが、声聞の慢心であり、誤った認識であり執着である、と天女は叱る。
「はからい」の心さえなくせば、煩悩はそのまま菩提である。
煩悩に煩悩の実体はなく、菩提に菩提の実体はないのである。
すべてのものに本体はないのだから、すべての区別は虚妄なのである。
ダルマの本性は変わらない 八千頌般若経第8章
スプーティよ、諸事物にある「ものの本性(ダルマの性質、法性)」というのは、説かれていてもそのままであり、説かれなくてもそのままである。
維摩経 第8章 不二の法門にはいる
1生じることと滅することが2である。ところで生じることなく起こることがない場合には、滅することはまったくない。法は無生であるとの確信(無生法忍)を得ること、これが不二に入ることです。
2汚れと浄め 汚れを十分に知れば浄めに対する妄信もなくなる。
8善と悪 善と悪を探し求めず、特質も無特質も異ならないと知ることが不二にはいること。
10煩悩と煩悩がない 平等性をもって存在を知り、観念がなく、またないのでもない。平等性を得たというのでもなく、観念の結び目がほどかれる。
12世間と出世間 世間の本性が空である場合、そこから出ることもなく、そこへ入ることもなく、行くこともいかないこともない。
12輪廻と涅槃 輪廻の本質を見極めることによって、もはや輪廻せず、したがって涅槃にもはいらない、と理解
27認識によって2つの対立が現実化する。認識の結果として承認したり拒否したりすることのないことが不二
33文殊は「説はすべてよろしいが、説いたところは、それもまたすべて2なのである。無語、無言、無説、無表示、これが不二にはいること」
維摩は黙して語らないのは、範疇によって区別された本体とは、実在するものではなくて、ことばの意味の実体化されたにすぎないものであるからことばを発することをしない。
過去・現在・未来にわたって恒常であり、それ自身として、他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは人間の思惟の世界における概念としてしか存在しない。
現に実在するものは、各瞬間に変化する無常なものであり、他の多くのものを原因とし、他のものに依存してのみ現象する。
大乗のさとり方
名詞で呼ばれるものの本体は概念、つまり想saññā
一般名詞は思惟における概念にすぎないので、一般名詞で呼ばれるものは空であり、本体は概念である。
この本体の想saññāもまた変化し続けるカタチなので、その相違点にスポットライトを当てるのではなく、そこにある共通点にスポットライトを当てる。
すなわち想saññāを智慧paññāにかえるには、表層から深層への転換である。
愛情は凡夫にとっては迷いの絆であるが、菩薩にとって有情を見捨てない慈悲である。
凡夫は愛情の想saññāを実体としてみているので迷いの原因となるが、菩薩は愛情の「空」である智慧paññāをみているので、全体性をそこに感知(幽体感?循環器系感?)することで愛情のエネルギーは慈悲になる。
表層の言葉を離れれば、本体の空なる世界が見える。
すべてのものが空であればいかなる区別もないから、不二である。
と文殊はいう。これを維摩は黙って承認した。
言葉から離れることで智慧の完成に近づく 八千頌般若経第29章
「あらゆるものが名前だけ、言語表現だけで述べられるにすぎないということから、智慧の完成に近づくべきである。
しかし、いかなるものについての言語表現もなく、いかなるものから(生じる言語表現)もなく、いかなる言語表現も存在しないのである。あらゆるものは言語表現を離れ、言語を離れ、表現されず、言説されないということから、智慧の完成に近づくべきである。」
無所得 あらゆるものは感覚器官では認識できない。 八千頌般若経第1章
感覚器官の認識はいつでも概念と名辞、いいかえれば言葉をそのもっとも重要な要素としている。
智慧の完成を認識することはできないと聞いてもおそれずおののかない菩薩大士だけが知恵の完成を理解できる、とbuddhaに変わりスプーティは説く。
Buddhaさえも全智者性あるいは涅槃、世俗的なものというあらゆるものは認識できない。
無生法忍 生じも滅しもしない
「すべてのものは生じもしないし滅しもしないと容認すること」 これを無生法忍という。
「ものを認識してそれに執着すること」を離れることにほかならない。
ものを想saññāによる認識でとらえないこと、いいかえれば、ものとは表層では常に変化しており、深層では空であることを知ることが、無生法忍という空の智慧である。
想saññāを空じたときが智慧の完成である 八千頌般若経第7章
「スプーティよ、すべてのものが(特徴を)離脱しているために、すべてのものが絶対的に離脱しているために、スプーティよ、智慧の完成は説明したり、聞いたり、見たり、注意したり、確かめたり、反省したりすることができないのである。・・・
智慧の完成と蘊、処、界というこれは空であり、離脱しているために、不二であり、分けることのできないものなのである。
このように静寂であるために認識できない。
すべてのものが認識できないこと、それが智慧の完成であるといわれる。
表象(想saññā)、名前、仮説、ことばが存在しないとき、そのとき智慧の完成がある、といわれるのである。」
智慧の完成は言葉でとらえなれない、というのは、それが言葉でないものによって捉えられることを意味しない。
言葉が空であることよって言葉も智慧の完成と不二である、ということなのである。
つまり想saññāに実体がないことを感じて知り、想saññāが空になっていることが、智慧paññāの完成である。
煩悩、輪廻、迷いは、空であることによって涅槃、解脱、さとりに分けられず、不二である。
阿羅漢や独覚の階位をはるかに超える智慧の完成
智慧の完成は、存在論としてはbuddhaの階位で、宇宙に遍満し、永遠なる真理としてのbuddhaの法身、ものの本性(法性)、さとりの世界(法界)である。
認識論としてはものの真相(真如)であり、空性であり、清浄、離脱である。
存在論とは勝義諦 paramattha sacca、認識論とは世俗諦のことである?
存在論とは存在の事実の立場であり、認識論とは認識可能な正当化された信念である知識の立場である。
道徳や宗教的行為が世に栄えるのは智慧の完成のおかげである 八千頌般若経第3章
具体的には十善業道や四禅
6種の波羅蜜(完成)への道の本質は、無執着である 八千頌般若経第6章
いかに長い間四禅の瞑想に沈潜しようとも、もし修行者が少しでも認識への執着をいだいてそれらを行うならば、それはさとりに導かない。
認識への執着とは事物の特徴、本体を認識し、自己を意識することである。
巧みな手立て(方便)は智慧の完成から生じている
方便とはなにか? 空と色を自在にすること
できるにもかかわらず、完全な涅槃において涅槃したいと思わないで、苦しんでいる有情の世界を見て、無上にして完全なさとりをさとりと欲し、輪廻をおそれない、 不住涅槃の態度≒方便
執着を離れる 八千頌般若経第8章
スプーティよ、全智者性というものは執着を離れ、束縛されず、解放されず、超越さえもしないからである。
スプーティよ、菩薩大士は、実にこのようにすべての執着を超越しようとして、智慧の完成への道を追求せねばならない。
智慧の完成が案内人であり指導者である 八千頌般若経第3章
アーナンダの問にBuddhaは説く
「智慧の完成は(他の)5つの完成に先立つものであり、その案内者であり、指導者である。このような仕方で、5つの完成は智慧の完成の中に含まれている。アーナンダよ、智慧の完成というのは、6種の完成の完全性に対する異名である。それゆえに、アーナンダよ、智慧の完成が宣べられるときには、6種類すべての完成が宣べられたことになのである。
たとえば、アーナンダよ、大地に蒔かれた種子がすべての補助因を得るならば、かならず成長する。
大地はそれらの種子の基礎である。それらの種子は大地に支えられて成長するのである。ちょうどそのように、アーナンダよ、智慧の完成にとりいれられて(他の)5種類の完成は全智者性のなかに立つのである。・・・・
アーナンダよ、智慧の完成こそ(他の)5種類の完成に先立つものであり、その案内人であり、指導者である。」
廻向 ふりむけの思想 八千頌般若経第3章
1輪廻(自己のみの業報の原理)の悪無限性を超越する
2輪廻と解脱の区別を越えて、輪廻の中に解脱を発見する。
智慧の完成が他の5つの徳目をさとりのほうへ「ふりむける」つまり廻向する。
「だから、アーナンダよ、その知恵は最高のものであるから、完成(波羅蜜)という名前を得るのである。そして、その(智慧)によって全智者性のほうへふりむけられた多くの幸福の原因となる行為が、完成という名を得るにいたるのである・・・」
「カウシカよ、これらの6種の完成(への修行)は、巧みな手立てを伴い、智慧の完成の方へ廻向され、全智者性のほうへ廻向されているとき、何の区別もなく、また種別も認められないのである」八千頌般若経第4章末尾
善根よりも随喜と廻向 執着した善根の無意味さ 八千頌般若経第6章
随喜は他人の善事を喜びたたえること、廻向はその他人の善事と自分の随喜の心とさとりに振り向ける意味であるけれども、ここでの随喜と廻向の対象は想像上のものである。
幸福をもたらす行為の認識に執着し、その対象と特徴と行為の主体を意識してなされる善根よりも、幻のごとき想像上の、しかも他人の善根に随喜することのほうがはるかにすぐれている、といっている。
無執着の態度でなされる空なる善根でなければ、それを無上にして完全なさとりに発展させることはできない。
ここでも、主体と対象と特徴を認識し、意識し、執着して行われる善根というものの無意味さである。
アーリヤ人の憂鬱
6bcのインドの知識人や貴族たちは輪廻という地獄の啓示に悩まされていた。
もともとは人は死後にヤマの楽園へ昇天して永遠の快楽を享受する、という楽天的な死生観を持ってインドにやって来たアーリヤ人にとって、昇天した後もそこで再び死に、生と死を無限に繰り返すという新思想は恐るべき衝撃であった。
唯物論や快楽主義の立場から、輪廻の事実を躍起となって否定した者がいることから、輪廻が最大の関心事であったのかを示している。
絶対的な救済者としての唯一なる神をインド人は持たなかったので、輪廻から逃れるすべはなく、どこまでも暗い死生観(昇天した神も地獄に転落する)を生んだ。
輪廻説はつねに業報説と結びついて説かれた。
自己のみが引き受けねばならない。業報説はきびしい自己責任の倫理を与えた。
またどんなに善い行為を積んでも一時的な幸福が保証されているだけで、生死流転の輪そのものを超えることは永久に不可能である。
神の「恩寵」にすがることのできなかったインド人は、輪廻を超越する道を、ヨーガによって得られる梵我一如的直観のなかにたずね、あるいはBuddhaのように縁起と涅槃の理論に求めなければならなかった。
原始仏教、部派仏教を通じて、その自己責任のきびしさと、善因楽果、悪因苦果という因果関係のきびしさは維持された。
2段階の廻向
1善根を自己の幸福への方向から無上として完全なさとりである全智者性に向かって方向転換する
2自己の善根を他人の幸福、とくに至福としてのさとりにふりむける
巧みな手立てと廻向 八千頌般若経第4章
「巧みな手立てを伴い、智慧の完成のほうへ廻向され、全智者性のほうへ廻向されている、これらの6種の完成(への修行)には区別はないし、種別も認められない」
真実の廻向はつねに智慧の完成と「巧みな手立て(善巧方便)」に関係づけられる
廻向とは、対象の特徴に執着せずに、つまり本体を追求しないことだといいかえれば、
「廻向しないという仕方で、私は廻向します」ということが菩薩大士の巧みな手立てである。
もし人が五蘊(色・受・想・行・識蘊)の本体を認識するならば、
「彼は特徴を追求しているにほかならないのです。このような菩薩は巧みな手立てに熟練していないのだ、と知らねばなりません。」とスプーティはいう。 八千頌般若経第1章
したがって巧みな手立てとは空性という智慧の完成、いいかえれば全智者性、無上にして完全なさとりに達するために、ものの特徴をとらえず、本体に執着しないという手立て、方法のことである。
しかしここに陥し穴がある。
「ものは空である」「ものに執着しない」ということを意識すれば、それはただちに空への執着、無執着への執着に堕してしまう。
無執着という態度を貫くためには、人は、ものに執着しない、という自分の意識の背後にある自己肯定、自己への執着を無限に遡って否定し続けなければならない。
この意識の構造を熟知することがまた巧みな手立てなのである。
空の智慧と巧みな手立ての両翼によって、菩薩が菩薩大士として生き続けることができる。
巧みな手立てを欠くと声聞になる 八千頌般若経第16章
修行者(菩薩)たちは巧みな手立てを欠いているために、真実の究極(実際)を直証して、声聞の階位にはいってしまったのであって、Buddhaの階位(にはいったの)ではない。
究極(果て)としてしまうことは空そのものに執着してしまうことであり、菩薩大士の道ではない。
智慧(究極)と方便(究極なきものという否定)という両翼が必要である
この世で遊ぶ 八千頌般若経第20章
「いまは熟知するときであって、直証するときではない」と考えて観察するのである。精神が集中されないときには、(瞑想の)対象に心をしっかりとつなぎ、「私は智慧の完成を会得するであろうが、直証してはいけない」と考える。その中間において、菩薩大士はさとりの(7)要素を捨てはしないが、かといって煩悩を滅尽させもしない。ただそれを熟知するのである。・・・
彼は智慧の完成にまもられていながら、真実の究極を直証しはしない・・・・・。
直証 evidenceの訳語 論証や検証によらずに認識が明白で確実であること
1 ものに執着しない
2 煩悩を断じ真実の究極を直証し涅槃にはいりはしないという巧みな手立て
3 あらゆる有情を見捨てない
その空をさとって、それで終わりと涅槃にはいってしまってはいけない。空の瞑想からもう一度立ち上がり、現象の世界に帰らねばならない。
空と知りながら現象(世俗)の世界に遊ばねばならない。
菩薩の階位 八千頌般若経第26章
世尊よ、それらははじめて(大)乗に進み入った菩薩大士たちの発心を随喜し、
菩薩の修行を行うものたちの発心をも随喜し、
もはや退転することのない不退転の境位をも随喜し、
もう一生だけ束縛されている(一生補処)菩薩大士の、もう一生だけ束縛されている境位をも随喜する
世尊の身体の出現は条件による 八千頌般若経第31章
「それ(世尊の身体)は十方のどの世界にも存在しません。けれども、ある諸条件があるあいだ、身体は出現し、その諸条件がないならば、身体の出現は知られないのです。」
「1つの原因だけ、1つの条件だけ、1つの善い果報の原因となる行為だけからBuddhaの身体は顕現するのではないし、また(その顕現は)原因のないものでもない。多くの因縁が全て集まった時に生じたのですから、それ(身体の顕現)はどこからくるのでもなく、因縁の総体が整わない場合にも、どこに行くのでもありません。」
如来の本性とはサダープラルディタの本性であり、夢の本性、幻の本性、空という本性である。
それ以外のどこにも如来を求めるべきではない。
説かれている縁起は3箇所だけ
第3章「アクショービヤ如来」
第19章 灯火のたとえ 灯心は最初にともされた火によって燃え尽きるのでもなく、最後に灯された炎によって燃え尽きるのでもないが、かといって最初にともされた炎と最後にともされた炎によらないで燃え尽きるのでもない。
そのように菩薩大士も最初の発心によって無上にして完全なさとりをさとるのでもなく、最後の発心によってさとるわけでもないが、しかも彼は無上にして完全なるさとりをさとる。
それが意味深い縁起の真理である。
第31章 ダルモードガタの法話 世尊の身体の出現は条件による
ナーガルジュナの空の思想 すべて縁起したものは空である
「ものはすべて他のものに依存して生起し、存在するから、本体として空である」
存在論と認識論
現実に世界に存在する事柄を「事実」という。何が事実であり,何が事実でないか,すなわち,何が存在するのかとか,存在するとは何なのかとかを考える学問を「存在論」という。
神や霊魂の存在,物や心の存在(8-3)などは哲学の古くからのテーマであった。
一方,正当化された真なる信念を「知識」という。知識は認識するという営みの成果であり,何が認識可能かとか,認識するとはどういうことかとかを考える学問を「認識論」という。これも代表的な哲学のテーマである。
信念は「信じていることの内容」であるから,誰でも自由に信念を抱くことができる。たとえば,「今,日本にはドラえもんがいる」と信じることができる。しかし,それが「知識」となるには,まず「真」でなければならない。「真である」とは,現に事実として「正しい」ということである。何が事実であるかが分かっていれば,事実とその信念を照らし合わせて正しさの判定ができる。「今,日本にドラえもんはいない」から「その信念は誤り」であるとか,漫画の世界も存在として認められれば「正しい」とかと判定がつく。ところが,無知な我々人間のように,何が事実であるか正確には分からない場合は,その判定はできない。そうした場合であっても,何らかの方法で「知識」であると認定(真であることの正当化)ができるとよい。そして,それこそが知識が「使える」ということでもある。
たとえば,「家の裏庭に金塊が埋まっている」という信念がどんな場合に知識になるかを考えよう。単に「そんな気がした」という場合Aと,お母さんから「お爺ちゃんが裏庭に金塊を埋めていた」と聞かされた場合Bとを比べてみよう。場合Aは信念に至る根拠が薄弱で,正当化されていない。仮に裏庭を掘ってみたら事実金塊が埋まっていたとしても,それはたまたま偶然であり,「知識」としての役割を果たさないだろう。
思い込みや思い違いの信念が偶然正しいこともあるのだから,正しいだけでは「知識」にはならない。
一方,場合Bは,お母さんが信頼に足る人物であるなどの,他の知識があれば,「知識」に格上げしても良さそうである。
このように,何が事実であるか(存在の全貌)が分からないまま,どうしたら知識を事実に近づけられるか,それが認識論の大きな課題であった。つまり,認識を通して世界の在り様(真理)を知ろうというのだ。
では「真であることの正当化」を厳密に行なうにはどうしたらよいか。
ひとつの方法は論理を使うことである。たとえば「裏庭に金塊は埋まっているかいないかのどちらかである」は,論理的に「正しい」(これさえも疑う立場もあるが)。明白に正しい観察から出発して,論理的な正しさを追っていくことで,知識の体系を作り,その体系に照らして「正しさ」を「証明」すればよい。こうした発想で認識論の厳密化に取組んだのが,論理実証主義者たちである。
論理実証主義の盛衰
20世紀の初頭,数学は論理学と集合論に還元され,数学の基礎が磐石のものとなった。
この数学の基礎のように,認識を(そして,あらゆる科学を)厳密化しようという運動が,1920年代にウィーンに起きた。これを論理実証主義という。活動のメンバーたちは論理実証主義者と呼ばれ,ナチスの迫害から逃れてアメリカに渡り,1960年頃までのアメリカの哲学の主流となる。
論理実証主義における知識の基礎は,我々の感覚であり,それによって注意深くなされる観察結果である。それらから論理的に導かれるもののみが知識として正当化される。
1928年,論理実証主義の先頭に立つカルナップは,あらゆる科学的営みは,この方法によって基礎づけられると豪語した。この動きはアメリカの心理学界に大きな影響を与え,ワトソンやスキナーによる行動主義心理学の台頭をもたらす。
行動主義心理学によれば,心とは「観察可能な行動」に他ならず,人間よりもネズミの行動の研究で明らかになるものだった(8-3)。
論理実証主義は現代までの科学の成立(8-2)に大きな貢献をするのだが,哲学の内部では次第に陰りを見せてくる。
1931年にゲーデルは,(自然数以上の構造をもつ)論理体系は,原理的に不完全であることを証明した。つまり,真であるにもかかわらず,その論理体系からは証明できない事柄が必ず存在するのだ。これは,基礎的知識から論理で積み上げて「真理」に到達しようとする野望にとっては大きな打撃であった。
またセラーズは1963年,その基礎的知識のほうを批判する。我々の感覚に,あたかも神から与えられたもののように,誤り得ない確実な内容が現われるとは,長年哲学者たちを惑わした「神話」であるというのだ。こうして論理実証のプロセスは,その到達点と出発点との両方の支えを失っていくのである。
知識の全体性・社会性
クワインもまた,論理実証の出発点に疑いを呈した。彼は,ある知識の正しさはその知識単独では決定されず,他の知識に依存しているとも指摘した。
お母さんから「お爺ちゃんが裏庭に金塊を埋めていた」と聞かされたのにもかかわらず,裏庭から金塊が出てこなかった場合に,どの知識が間違っていたかは容易には判定できない。お母さんの信頼性という知識が誤っていたのかもしれないし,金塊というのは実は鉄塊であってそれは地中で腐り去ったのかもしれないし,誰かが先に掘り出したのかもしれないし,他の知識が誤っていたのかもしれない。
クワインは1961年,知識の真偽は他の知識群から文脈に応じて与えられるのだから,出発点としての正しい知識を単独で設定することは不可能であるとした。
つまり知識は,その体系全体として成立する,全体的性格をもつことを示している。
ウィトゲンシュタインは,当初論理実証主義を推進する論考を著したものの,1930年代後半から,一転して批判の側に回った。
彼は,用語の意味を分析することにより,それはあらかじめ定義されるものではなく,使用を通じて文脈ごとに生み出されていくものだと指摘した。
彼の1953年の探究によると,語の使用は「言語ゲーム」のようだという。つまり,語はゲームの駒のように,ルールに則ってプレーされるものであり,知識の正しさはルールに相対的に決まる。その意味で,言語ゲームが「事実」を構成しているのだ。ときにはルールを変更してプレーしてもよいともなれば,知識の体系は社会的に作られていることとなる(8-2)。
知識に全体性・社会性が伴うとすると,先の「正当化された真なる信念」という知識の定義は,「その社会における他の知識全体に照らして合理的なプロセスで導かれる信念」などとなろう。
仮に,夢の中でお爺ちゃんが出てきて「裏庭に埋めた金塊を掘り出してくれ」と言ったので,「家の裏庭に金塊が埋まっている」という信念を持ったとしよう。もしそれが,スピリチュアリズムを容認する社会での現象であれば,知識の社会性により,その信念は立派な「知識」になるのだ。ところが,我々の社会では「知識」とならない。
「夢のお告げ」は,「科学」という知識の体系全体により,合理的なプロセスを経た信念とは見なされないのである。ゆえに,次に検討すべき事柄は「科学とは何か」である。
8-2 科学論
本項では,物事を究明する典型的な方法である「科学」について,その原理と歴史的経緯とを概説する。
<1> 科学と非科学
論理実証主義は,注意深い観察を積み上げ,そこから経験的に理論を形成していくという科学的方法論(実証主義)に基礎を与えた。実証主義における理論とは,観察される事象間の法則的関係を示した論理的構築物であり,そこから将来の予測される観察結果を導くものである。
また,確証されたものが良い理論であり,観察が慎重になされれば,自ずとより確実な理論が導かれるとされた。
実証主義として科学的方法論が確立したことにより,科学と非科学の間に境界設定がなされた。この方法論に則っている科学以外は「疑似科学」なのだ。20世紀始めには,とりわけこの境界設定に,大きな意味があった。当時,民衆を惑わす(とされた)オカルトや心霊研究を排除して,近代科学技術の発展に大きく貢献したのである。
しかし,その副作用として,社会科学の大部分と人文科学のほとんど全部も擬似科学となってしまった。人間の社会的・芸術的営みの多くの部分は,客観的観察が極めて難しいのだ(8-3)。
実証主義の科学的方法論とは,観察データの積重ねと,理論化のサイクルとなっている。観察データをもとにして理論を形成し,その理論によって次の観察データを予測し,実際に観察して理論を検証する。観察結果が理論と合わなければ理論を修正し,また観察による検証を繰返す,といったものである。
この科学的方法論は,ポパーによる反証可能性の基準を加えて,今日までに至っている。反証可能性基準とは,どんな観察によって理論が反証されるかが明確な理論が,より良い理論であるという基準である。しかし次に示すように,こうした科学的方法論による科学の境界設定には根本的問題があることが,哲学者の間ではもはや明らかになっている。だが,一般の「科学者」の間では,その問題はあまり知られてはいない。
<2> 観察か理論か
論理実証主義で観察による知識の正当化が壁に当たった(8-1)のに呼応して,知識の体系である「科学」を生み出す方法論としての実証主義も問題を露わにした。問題の指摘の先駆けは,1958年にハンソンが唱えた「観察の理論負荷性」である。これは,観察をするためには理論が必要であるという,考えてみれば当然の指摘であった。観察の対象となりうるものは無数にある。その中から何を観察するかは,それ以前の知識(あるいは理論)に強く依存している。また,認識の形式さえ,理論によるのだ。同じ観察をしても,異なる理論的背景を持てば,人それぞれに物事が違って見えるのも不思議ではない。
では,誤った理論は,観察結果によって訂正されるだろうか。すでに確立された理論は通常,観察結果よりも強固である。奇妙な観察結果を得た研究者は,実験を失敗したと思って研究を発表しないか,発表しても無視されるのがオチである。(SSPでノーマン・ドン氏は,生理学者が脳波の実験報告論文にPSI予感現象が検出されているのにもかかわらず,何らかの実験上のミスだろうと自ら見なしてしまった例を紹介していた。)
科学史家のトーマス・クーンは,1962年『科学革命の構造』(みすず書房)を著して,誤った理論に対抗できるのは新たな理論だけであると指摘した。現実の科学の営みの上では,反証データが提示されても,反証として働いていないのだ。この本ではさらに「パラダイム」という語が鍵の概念になっている。パラダイムとは科学研究上の枠組みであり,用語の使い方,観察・実験の行ない方,何が研究成果であるかなどを規定する。パラダイムの内部は,(ギルドのような)徒弟制の閉じた空間であり,門外漢には用語の意味さえ分からない。科学の場では,単調に知見が積み重なっていくのではない。旧来のパラダイムが変則的な観察結果のために不安定状態になった頃,次のパラダイムが現われ,ある時点で,革命のようにパラダイムが入れ替わるという。革命は,あたかも集団心理に導かれた群集のように進行し,革命後は革命前のパラダイムが遠い過去の出来事のように感じられる。
<3> 理論の相対性をめぐって
クーンの唱えるパラダイムは,革命の前後で(真理に近づいたなどと)何らかの価値が向上するわけではない。ただ,無数のパラダイムの中からたまたま1つが選ばれただけである。すると理論は,科学コミュニティの社会的情勢によって恣意的に決まる相対的性格のものになる。ラカトシュは1970年,パラダイムに代わって,その相対的性格を和らげ,科学的進歩を部分的に議論可能とした「研究プログラム」という概念を提唱した。研究プログラムの内部はパラダイムのような閉鎖的空間であっても,観察結果を説明するのに新たな理論を次々と付け加えているのは退歩的プログラム,既存の理論体系で新たな観察結果を次々と予測しているのは進歩的プログラムであると,判定できると言う。ここには,ポパーの反証可能性の意義が盛り込まれている。すなわち,反証可能な理論は(ある観察結果は得られないはずだと見なすことで)観察結果を特定のものと予測するので,進歩的プログラムの理論となるからである。ただし,進歩的・退歩的と言っても,研究プログラムの間に価値的な優劣を見出すのではなく,科学の歴史に配して衰え行くものと栄えつつあるものを見分ける方法に過ぎない点には,留意が必要である。
一方ファイヤーアーベントは1978年,クーンの相対性を極度に推し進め,科学的方法論は自由に決められるのだとした。科学上の成功を笠に着て権威化した体制に対しては,どんな方法論であっても反体制であるという理由だけで重んじられるべきであり,それによって改革の芽が育まれるのであると,過激な運動を展開した。またガーゲンは1985年,理論が社会的に形成される以上,その理論が描く「世界」も社会的に形成された結果なのだ,と「社会構成主義」を唱えた。
クーン以降の科学論の展開は,理想的な科学とはどんなものかという絶対的な判断基準はなく,科学のあり方は,悪く言えば場当たり的に,良く言えば社会的に決まるものだということを示している。すなわち,「存在の実体に近づく」というような古い科学観は放棄され,何が事実であるかは理論によって決められるものとなったのだ。いわば科学が,認識論とともに存在論までをも決定してしまうということである。
<4> 科学の価値を守る
理論が相対的であり,我々の認識に依存しているという主張は,客観的な世界の実在性を疑う反実在論を含んでいる。科学が単なる「決め事の体系」あるならば,科学の価値も見失われてしまう。だが現実の科学は,価値あるものとして機能しているように見える。このジレンマの中にあって,科学の価値を維持しようとする主義主張を次に挙げよう。
まずは「科学的実在主義」である。これは,科学の理論はおおよそ「実在」に対応していると,頭から見なしてしまおうという考え方である。しかし理論が認識に依存している点は否定できないので,完全な形の実在主義は成立しない。いろいろな変形が施されるのであるが,代表的なところではパトナムが1981年,「心と世界は協力して心と世界を作り上げる」という内的実在主義を唱えた。
次なるは「実用主義」である。我々の認識の水準で,実在を扱う上での効果的な実践を模索するのが科学であり,理論はその道具であるとされる。そこでは,世界を表現する知識よりも,実践的技能が,そして工学が重んじられるのだ。
<5> 超心理学と科学
よく「超心理学は科学か」という問いが発せられるが,「科学とは何か」が不明瞭なので答えに窮してしまう。科学が方法論のことであれば,少なくとも実験超心理学に関しては,実証主義の科学的方法論(2-1)をとっている以上,「科学である」と言うべきだろう。ところが,科学が「通常科学」を指すのであれば,その反対である。超心理学の研究対象であるPSIは,明らかに「通常科学」のパラダイムの範疇に入っておらず,その科学的知識体系と融和できる見通しも十分にない。超心理学の科学化には,クーンが言うような,ある種の「革命」が必要ということになる。
しからば,革命は起きるのだろうか。メタ分析によって変則的なデータが積重ねられているので,あとは第5章に示したような理論が力を得るのを待てば良い,という気もしなくはない。一般大衆はPSIを許容する傾向が高いので,科学が社会的なものならば,突如として革命が起きる可能性も否定できない。
しかし,科学の社会性を考慮するならばなおさら,超心理学の社会的価値を再考せねばならない。確かに超心理学には社会的な応用上の価値がある(1-1)が,超心理学を受け入れることで失われる価値にも目を向けねばならない。歴史上,超心理学の研究対象を含めた「怪しい」領域を非科学的と排斥することによって,「現代科学技術」の発展が促進されてきた経緯がある。となると,超心理学の科学化には少なくとも,科学と非科学との境界線の引き直し作業が伴われるべきである。
実は,そうした境界の再設定は,超心理学のみならず,心に関する科学的探究が一様に抱えている課題なのである。その理解には,「心的世界の取扱い」について考える必要がある。
8-3 心的世界
明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川
幹人
以下では,心の世界の位置づけと,その究明について議論し,超心理学との関係を捉える。
<1> 機械の上の心
コンピュータが高性能化してきた現代では,人間のように知的にふるまう機械(人工知能)が生産されるのもそう遠くない将来だと感じられる。論理実証主義の企てがうまくいっていたら(8-1),なおさらだろう。なにしろ,知識の格納・蓄積や,それを使って論理的な演繹をする作業は,コンピュータにとっては得意分野だからである。
しかし,人間には,知識という形では明言できない知が他にもあり,むしろ日常生活ではそちらの知のほうが重要である。第1に,自転車に乗るなどの技能に代表されるような,身体知やノウハウの類がある。第2に,言葉が指し示すものを状況・文脈に応じて知る,意味の知,あるいは分類の知がある。第3に,痛みや赤みなどの感覚(8-4),怒りや悲しみなどの感情にまつわる体験の知がある。どれもコンピュータ上に言語で記述するには限界がある一方,相手が人間ならば,それを説明することで共感を通じた理解が得られそうである。
こうした問題で,人工知能の実現は,少なくともまだ当分ありそうにないが,人工知能を考えることは,心にまつわる哲学的問題を鮮鋭化する。すなわち,人間には機械上にはとても実現できない特有の心的世界があるのか,それとも我々が心と思うものは機械上にも実現可能な物理的状態に過ぎないのか,である。前者の考え方を「心身二元論」,後者の考え方を「唯物論(物質一元論)」と言う。
<2> 心身二元論
心身二元論では,心的世界と物的世界とを,それぞれ独立した世界として認める。身体(および脳)は物理的な法則に従って動作し,そこに「心」という独自の存在が「宿る」のである。心身二元論は,宗教的教義によく現われ,また我々の直観ともよく合うので,根強く信奉されている。しかし,「心」と「身体」を別個の存在とすると,両者はどのように関わり得るのかという,深刻な「心身問題」が発生する。意志という心的世界の働きはどのように身体を動かすのか,薬物を服用するとどうして気持ちという心的世界に影響するのか,といった具合である。
また,心が独自のものであるとすると,何故その相手として脳が選ばれるのか,機械に心が宿っても,石に心が宿ってもいいではないか(これを汎心論という),ときには相手がない浮遊する「霊魂」であってもよいではないか,となる。さらには,「私の心」と「あなたの心」はどう違うのか,心の同一性と異質性はどのように成立するのか,宿る脳によって心が変わってしまうなら,どこまでが脳の機能でどこからが心なのか,議論百出である。
心的世界は存在するが,認識の及ばないものであるという考え方もある。コリン・マッギン著『意識の<神秘>は解明されるか』(青土社,筆者らによる邦訳)を参照されたい。物的世界は存在せず,心的世界のみが存在するとして,問題を回避する「唯心論」という立場もある。「観念論」も同様な立場だが,物的世界は(存在しても)認識できないという点に重きを置いている。
<3> 唯物論
すべての存在世界は物的世界のみである,という考え方が唯物論であり,現代の科学が採用している世界観である。しかし,そもそも科学は,物的世界の究明のために発達してきたものであり,心的世界も同様に究明しようというのは,ある種の越権行為とも言える。
唯物論では,結局のところ,心的世界は脳から形成される幻想であると見なされる。理論的には,いかに合理的に脳から心的世界とされるものが生まれるかを説明すればよいのだが,それはなかなかの難問である。また仮にそれが成功したとすると,我々は皆,単なる機械であり,自由意志も欠けた取るに足りないものとなりかねない。
心的世界を物的に説明する最初の試みは行動主義である。行動主義者は自身の経験する心的世界は脇に置き,心的なものは外部から観察可能な行動のみであるとした。こうした行動主義は行き過ぎであり,我々の心的世界に対する直感を何とか救おうというのが,その後の動きである。
「心脳同一説」では,心的状態は,生理学的な脳状態そのものだとされた。「痛み」とは,これこれの神経細胞の興奮に他ならないというのだ。我々が感じる痛みの感覚が,脳細胞の電気的変化とイコールだと言われても直感には合わない。続いて「機能主義」では,コンピュータのアナロジーをもとに,心的なものは機能であり,それは脳で実現されても,電気回路で実現されても構わないと見なされた。巧妙なところでは,心的なものは物的なものに「付随」するとして心的世界の居場所を確保する「非法則的一元論」がある。
唯物論の諸説は,一般に現在の科学との折合いがいいが,科学的方法論でそれらが正当化できる訳ではない。というのは,心的世界は研究者自身は経験できるものの,研究対象としての人間やロボット機械に心的世界(の幻想)があるかどうかは確信できない。たとえ内観報告してもらったとしても,それは単にそう報告するように(プログラミングなどで)強制されているのと,区別がつかない。
こうした事柄は,「心の哲学」として哲学分野で議論されている。
<4> 超心理学と心的世界
超心理学では普通,PSIは人間(生物)の能力であり,心の主体的機能として発揮されると考えられている。このモデルに従えば,PSIの発揮主体として特有の心的世界を認めるのが,超心理学者にとっては素直な発想だろう。心身二元論を顕わに主張する超心理学者は数多い。ベロフ,ホノートン,タート,スティーヴンソン,それにノーベル生理学賞受賞者のエックルス(『自己はどのように脳をコントロールするか』シュプリンガー)などがそうである。また,魂の存在を認める心霊主義者(1-2)ならば,当然心的世界の存在は前提とされるだろう。
超心理学者にとって,心身二元論を採用する利点はまだ挙げられる。それは心身問題とPSIの働きを同一視できるからである。心が身体と関わる不明のメカニズムをPSIであるとし,両者を同一の問題としてしまうのだ。心が脳を通じて手足を動かすのは広義のPKであり,心が脳を通じて外界を知るのは広義のESPであるとすれば,一緒に解決できる可能性が生まれるのである。
しかし,だからといってPSIが解明されやすくなった訳ではないし,心身二元論が有力になった訳でもない。物理学の拡張でPSIを説明しようとする超心理学者の中には,唯物論の立場を崩さない者も見受けられる。ただ,超心理学者の主張の理解には,その背景となる世界観の理解が必要であることだけは,間違いがない。
8-4 意識の探究
明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川
幹人
以下では,心の究明を,意識の究明に置き換えて検討し,超心理学との関わりを見て行く。
<1> 意識とは何か
「心とは何か」と問われるよりも「意識とは何か」と問われるほうが答えやすい。我々が起きている状態には意識があり,寝ている状態には意識がない(夢を見ているときは意識がある)という,明確に区別できる差異があるからだろう。また,寝ぼけているときのような,両者の中間的状態,普通の覚醒状態とは異なる意識状態(4-3)の存在も比較的理解しやすい。
意識とは,精神的経験全体の安定した流れであって,恒久的自己を形成する統一性のとれたものである。また「意識する」とは,主体的な気づきの感覚であり,そこには何かしらの状況把握や反省が伴われる。より客観的には,認知心理学者のバーナード・バーズが1988年,意識しているという内観報告があり,その報告の正確さが別な証拠によって支持されるとき,を「意識している」と定義した。だが,その定義では,すべての意識をカバーしない。報告できなくても「意識がある」場合が考えられる。言語に障害を持った人間や,人間が分かるような言葉は話さない霊長類であっても,ときには意識が認められるだろう。また我々自身,別に証拠がなくても現に意識していると自分で分かるものだ。
意識については,意識状態と無意識状態を比較することでも理解が進む。無意識状態にはなく,意識状態にあるものが何かを調べればよいからだ。我々の素朴な常識からすると,経験の内容のほとんどは意識状態に特有なものであり,無意識状態にはそうした経験の内容はないかのように感じられる。ところが心理学の知見はそれを否定するのである。古くは精神分析を興したジグムント・フロイトが,無意識状態にも信念や願望,感情があり,ときにその抑圧が精神疾患の原因になると説いた。続いてカール・ユングは,無意識とは我々の集合性と創造性の源であるとした(5-8)。
最近の実験心理学の知見では,1986年にヴァイスクランツが「盲視」という現象を見出した。障害で視知覚を失っている特別な患者に物体を提示すると,「見えない」と内観報告をするにも関わらず,「当てずっぽう」の答えが極めて正確なのである。実は「見えている」のに,見えている「自覚」に欠けているのだ。さらに健忘症の患者の中には,自分が何をしているか分からないにも関わらず,ジグソーパズルを解くのはうまい者がいる。同じパズルを再度行なわせると,なんとより早く解けるのである。
どうも無意識状態にも意識状態と同様な経験の内容がありそうである。では意識状態に特有なものは何だろうか。それは質的経験や,経験の反省,自己の認識などだろう。質的経験は「クオリア」とも呼ばれ,「痛み」や「赤み」の感覚である。例えば,赤い物体を感知しているときには,物体があることの感知に加えて,赤さの感覚が経験されているだろう。経験の反省は,例えば,物体を感知していることを感知しているというような,「メタ感知」である。
<2> 意識と心の関係
西洋思想で「心」というと,物的世界と対比させた心的世界を指し示し,「意識」をも含んだ広い概念である。現代の心の哲学では,「意識」と「志向性」が大よそ「心」(心的なもの)に対応していると考えている。志向性とは,何かが何か別のものに「ついて」であるという性質である。例えば「トマトが赤い」という信念は,「トマトが赤い」という事態に「ついて」のものである。あらゆる信念は志向性を持つがゆえに,心的なものであるのだ。
それに対し東洋思想では,意識と心とを分離して考える。心は精神的活動プロセスや認知の機能である一方,意識は存在するものである。上述の「意識状態に特有なもの」というのが,東洋思想の「意識」に大よそ当たるのだろう。東洋思想の「心」はずっと「物的」である(東洋思想では「物」自体が,西洋思想よりもずっと「心的」なのではあるが)。例えばサムキヤ・ヨーガでは,心(サトラ)は,物に関する知であり,物(プラクリティ)の一部である。またそれは,物とは独立した意識(プルシャ)から影響を受けるともされる。
<3> 意識科学
認知に関する実験心理学に,脳神経生理学と,コンピュータによる認知機能のモデル化研究とを加えた研究領域を,認知科学と言う。だが最近では,心を研究対象とする分野を,学際領域まで含めてもっと広く「心の科学(マインドサイエンス)」と呼ぶ傾向も現われてきている。
それに対して,「意識科学」を標榜する動きも出てきている。アリゾナ州ツーソンで1994年から隔年で開催されている「意識科学に向けて」という国際会議である。この国際会議には,心理学者はもとより,生理学者,生物学者,物理学者,コンピュータ科学者から,社会学者,哲学者,宗教学者までが数百人規模で集まり,意識に関するさまざまな話題を議論する場である。研究領域は「心の科学」と大部分重なっているが,「意識科学」というだけに,哲学的な研究が多く含まれている。国際会議の主催は,アリゾナ大学の意識研究センターであるが,そこでは意識研究誌(JCS)と言う論文誌も発行しており,そちらの内容はかなり哲学に重点が置かれている(1-3)。
さらに1997年からは,意識の科学的研究学会が結成された。こちらも哲学者が中心になっているようである。次のWEBサイトを参照されたい。http://assc.caltech.edu/
意識や心の科学というのは,まだはっきりとした「科学」になっていないために,研究コミュニティや研究アプローチが混沌とした状態である。
<4> 超心理学と意識
現在模索されている「意識科学」の営みには,科学と非科学の境界を再設定しようとする狙いが含まれている。そうでなければ,意識は科学の対象にはならない(8-2)。この境界再設定に伴って,超心理学が科学と扱われる可能性があるかもしれない。実際,「意識科学に向けて」の国際会議では,超心理学のセッションが設けられ,数人の超心理学者が研究報告している(2002年の会議では,マリリン・シュリッツを座長にした5件の発表と,チャールズ・タートらによるワークショップが開催された)。このように超心理学は,意識科学という大きな傘の下に居場所を見つけようとしている。
けれども他方では,意識研究と超心理学の結びつきに疑問を呈することもできる。PSIの能力発揮は無意識に行なわれる傾向が強く(4-8),意識がむしろ邪魔になるようでもある。ホーンティング事例(7-4)のように,人間を介在しないような現象もみられ,物理学や工学出身の超心理学者には,物質的な説明体系の内に超心理現象を収めようとする者もいる(5-5)。
8-5 研究方法の問題と展望
明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川
幹人
本項では,超心理学の抱えている問題をまとめ,研究の妥当な進め方を展望する。
<1> 研究対象に起因する問題
超心理学は,心霊やオカルトと同一視されやすい。超心理学者は,霊魂やオカルトパワーの信奉者であり,科学的手法でもって他の人々を説き伏せようとしている,と思われがちである。宗教家が超心理学に親近感を持ち,宗教活動の擁護の目的に利用されてしまう。そうした見方に反して,超心理学は経験的で実践的な研究である。PSIの体験や実験結果の理解をボトムアップに追求しているのであり,特定の理論や思想を支持しようとするものではない。こうした超心理学のスタンスを,広く広報する必要がある。
超心理学には,詐欺がつきまとう。残念なことに,偽りのPSI能力がたびたび,詐欺師やカルト教団の教祖によって,ときには超心理学者自身の手によって作り出されてきた。超心理学のコミュニティは詐欺に対抗する手段を持たねばならない。詐欺の手口の研究や,詐欺の社会的背景をも研究する必要がある。
妄想が,超心理の体験と結びつきやすい。ドラッグの影響や精神疾患では,通常の説明がつかない個人的な異常体験が多くなされる。そうした体験の中には超心理の体験と区別がつかないものがある。超心理学者は被験者を守るためにも,臨床心理学者や精神科医との連携を図って,研究を進めねばならない。
<2> 本流科学側に起因する問題
超心理学は,科学的方法論に対する脅威と見なされやすい。確かに超心理学には,現在の科学的方法論をそのままの形では適用できない。だが,そうした特長を持つ研究対象は他にもたくさんある。複雑系,開放系,実験者が関与する系などがそれである。超心理学は,システム論的な発想でもって理論化を行なうなど,新たな科学的方法論を確立しようとする流れに寄与して行かねばならない。
超心理学は,現在の生物学や心理学が退けてきた,生気論や意識研究をまた蒸し返しているとも見られがちである。しかしこれは逆に,科学の境界設定が厳し過ぎたと見ることもできる。超心理学は,他の科学から排除されている研究分野とも手を取り合って,境界の再設定を推進すべきである。
超心理学は,確立した世界観に対する脅威と見なされやすい。超心理現象が存在すれば,これまでの科学的な物質還元的な世界観が揺らいでしまう。逆に神学からは,超心理学によって神聖な体験が低俗化されると批判される。超心理学者は,こうした板ばさみ状態にありながら,忍耐強く我々の自然理解の不完全さを指摘し続けねばならない。
<3> 超心理学研究上の問題
超心理学には,潜在的に極めて大きな倫理上の問題がある。超心理学の実験や調査は,肉体的にも精神的にも負荷が大きいのは確かなことである。PSIのトレーニングも,それによって体得される能力の正体や,その個人差による影響の程度も分からぬまま行なうのは危険が大きい。にもかかわらず巷には,手軽で安易な能力開発ビジネスが横行している。超心理学の研究は,段階的に慎重に進める必要がある。絶対と言える倫理的対応は残念ながらないが,被験者や調査対象者と研究者とが相互理解できる環境作りは必要最低限の要件である。
超心理学は,複雑な開放系の難解な研究になる。PSIとして時空間を越えた未知の相互作用を認めると,あるPSI現象に,他のどの要素が関わっているかを特定するのが極めて難しい。さらに実験者自身もその要素となり得るのであれば,なおさらである。ゆえに超心理学の理論は(反証可能性が低く)何でも説明できるものになりやすく,理論の評価も容易ではない。しかし,だからこそ超心理学では理論が重要となる。理論を背景にしない実験や調査は,関連する要素の範囲が絞れずに実施が不可能になるからである。複数の理論が,それらを個々に検証する実験・調査を伴って,互いに正当性を比較し合うのが,超心理学において当面追求すべき健全な状況だろう。
<4> 超心理学研究の進め方
超心理学者ロバート・モリスは,上述の諸問題を踏まえて,将来の超心理学の進め方に次のような提言を行なっている。
まず始めに,メタ分析などを利用して過去の研究を精査し,より完全な評価を行なうことである。その際には,PSIが起きなかったという否定的な結果をもっと重要視すべきである。そこから弱い効果が検出されることがある。一方で,うまく行っている実験法については,理論の評価が可能なまでに信頼性を上げるような努力が必要である。さらに,実験の見通しをつけるために,理論を先行して打ち立てて行くべきである。
また,従来の「超心理学者」と「懐疑論者」という区分を捨て,超心理学の研究者は等しく,十分に懐疑的な姿勢が取れるようにしなければならない。さらに,他の専門的研究分野との交流を深め,協力して研究を進めていくこと,メディアとの連携を図って,研究成果を大衆に知らせていくことも重要である。
<5> 状態特異科学
最後に,超心理学者チャールズ・タートの試みを紹介しよう。彼は1972年に,意識状態に特異的な諸科学が形成可能であると指摘した。科学の合理性は我々の認識によって正当化されるのであるから,我々の認識形態に多様性がある場合,それら各々に対応した科学がそれぞれ存在すると言うのだ。
その指摘のうえで彼は,現在の本流科学は通常の「覚醒した」意識状態に対応する科学に過ぎず,変性意識状態には別な固有の科学が存在すると主張する。最先端の物理学の理解は,特別な学問体系を6,7年かけて学んだ一部の人間にのみ可能であるが,同じようにPSIが可能な世界を理解できる意識状態に至るのに,6,7年の訓練が必要であっても何も不思議ではない,と言う。
こうしてタートは,変性意識状態を探究する学問として,トランスパーソナル心理学を推進したのである。トランスパーソナル心理学とは,個の垣根を超えて全体論的な世界観に至ることを目指す,実践的な心理学であり,PSIの理解を実現する研究に当たるのだろう。
彼のアプローチでは,実証主義の科学的方法論をそのまま残したうえで,観察・理論化・検証の各段階で適用される我々の認識のほうを,PSIに適うよう変更すべきであるとした。状態特異科学は,超心理学を推進する1つの方向性を示していると言えよう。
チャールズ・タートのホームページ:http://www.paradigm-sys.com/cttart/
Y. 演習問題
明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川
幹人
ここでは,超心理学講座の理解を深めるために,演習問題を挙げた。解答はあえて掲載してないが,講座のどこかに解答に当たる部分が明示的に,あるいは暗黙的に記載されている。
問1:超心理学研究においてメタ分析がさかんに使われるようになった理由を説明せよ。
問2:ガンツフェルト実験は,ドリームテレパシー実験に比べ,どのような改善がなされたか説明せよ。
問3:超心理学の事例研究は,実験研究に比べて,どのような長所・短所があるか説明せよ。
問4:トランプ1組52枚をよくシャッフルして扇状に広げ,絵札を念じながら引き当てる試行を,1人の友達に200回繰返したところ,平均3/13を有意に上回る結果を得た。「この実験ではPSIが働いたとは言えない」という批判的主張を展開せよ。
問5:図と地の対比に基づいてPSIの転移効果を説明し,転移効果がPSIの実験を困難にする場合を例示せよ。
問6:ANPSI実験をひとつ企画し,そこに実験者効果が働く余地がないかどうか検討せよ。
問7:PMIR理論を「反証」するようなPSI実験を,いくつか企画せよ。
問8:DAT理論と観測理論を比較し,類似点と相違点を説明せよ。
問9:ポルターガイスト現象を実地調査に出掛けたところ,そこの8歳になる少女が隠れて皿を投げるなどの演出をしているのを目撃した。研究者としてどのように対処するべきであろうか。
問10:超心理学者の多くは,厳密な実験的証拠を積重ねるだけでは特異現象の存在が科学コミュニティに受け入れられないと思い始めている。この受け入れられない理由を科学論の観点から説明せよ。