つぎはぎ仏教入門   呉智英

 

「わたし」とは魂のこと

この「わたし」とは代替不可能な、固有性を持ったもので、これが魂である。

この魂も有限の存在であり、相対的存在であり、必ず死という絶対的虚無に呑み込まれ、消滅してしまうことこそ、意識体の最大の苦痛であり、最大の恐怖である。

 

キリスト教と仏教の魂    救いと覚り

キリスト教では魂は永遠である。最後の審判の後、善なる魂は肉体を得て蘇り、悪しき魂は虚無と化す。

対して仏教では、「生があるが故に、老・死があるのである。生によって老・死があるのである。」

(阿含経1-98毘婆尸)

仏教ではこの真理に目覚めることが「覚り」であり、これが得心できないことが迷妄である。

 

幸若舞の「敦盛」 室町期の芸能

人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者のあるべきか

下天 天界の下層

 

宗教より力のある世俗権力

政治装置である近代国家がうまく機能しているところでのみ、複数の宗教はなんとか表面的に融和している。

 

加上説

富永仲基(江戸中期)が書いた「出定後語」に、後世の人間が自分の思想を始祖の思想の「上に加いて説く」(上に書き加えて説く)ことで、仏典の多くが後世に作られたものであることを実証した。

これが「大乗非仏説論」の始まり。

 

大乗と小乗が尊ぶもの

大乗  諸仏、諸神、諸菩薩、それを讃えるお経の制作   自利利他

小乗  釈迦一仏論 

 

大乗に仏がいくつも存在しているかというと、釈迦の体得した真理は普遍的なものであるのならば、釈迦が覚る前から真理は真理として存在していたはずで、それは時空を超えてさまざまに顕現していた。故にあまたの仏が存在する。

 

三身説

法身  ダンマそのものとしての仏。釈迦がダンマを覚り、これを体得した。覚者となって法身を具現化した。

報身  菩薩の自利利他行の結果として仏になって「報われた」仏身。釈迦より前に菩薩がある。

応身  法身たるに「相応しい」人物に法身が発現した仏。歴史的実在としての釈迦。

 

報身によって先行する伝統信仰や土俗信仰をも取り込むことが可能になる。

諸神は菩薩であり、伝来後には仏、すなわち如来である。  深層は侵略、表層は如来であるシンクレティズム

 

根絶に依らない伝播の宿命は、シンクレティズムであり、まず菩薩ありきの思想である。

阿弥陀如来は、中央・西アジア起源の神  前身は法蔵菩薩であり、衆生(しゅじょう)

チベット仏教の活仏、真言密教の即身成仏、出羽三山の即身仏、ほとけ、も仏身論の応用。

真理は普遍であるなら、あらゆるところに出現しうるし分有可能であり、釈尊と同じほどの修行と徳を積めば誰でも仏になりうる、という理屈。

 

土着の神や精霊を天使として取り入れる。

 

 

煩悩

とは三毒のことである。貪瞋痴。貪欲、嗔恚、愚痴。

仏教は欲望を否定するが、これは資本主義や社会主義や経済活動や富の貯蓄と相性が悪い。

 

輪廻

仏教を哲学的に理解したがる人は、あえて輪廻に目を向けず、これを論じようとしない。

輪廻主体の魂と転生先の輪廻宿主の身体の総数の問題。

 

resurrectionreincarnation

善の魂が再度肉体を得て復活するのと、誰かの魂が別の肉体に入ること、の違い

 

 

毒矢のたとえ    阿含経5-44 箭喩経

マールンクヤプッタの問   世界は永久に続くのか?果てがあるのか?魂は存在するのか?

 

無我の誘惑・魅力

「有限な存在である我への不安」から宗教は始まっているので、「無限にして恒常不変の確固たる我」を求める。

ところが、仏教は反対に、我は有限であり、そもそも本当のことをいうと、その実体もない、と説く。

自らが有限の存在でありことに不安を感じ、無限の存在に憧れることを、執着や妄執として否定している。

 

ウパニシャッド哲学の梵我一如とは大我(宇宙全体の原理、ブラフマン)と小我(自我 アートマン)を一つにすること。

これを仏教は否定した。恒常不変の自我への執着こそが「無明」を生むため。

だからといって真理に目覚めるのは辛いことで、真理は明察して受け容れるには峻烈だからである。

ヒトは真理からは目を背け、真理に目覚めるよりはまどろみの安逸を好む。

 

そこで、大乗の多くでは否定したはずの梵我一如に回帰していく。衆生にとって抗し難い魅力である。

例えば、密教の曼荼羅は全宇宙の究極原理と我の融合を図に表したものだ。

仏教は釈尊本来の教えとは違った宗教になりながらアジア各地に広がっていった。

 

例えば、五蘊が「我あり」と考えるのである。

「我あり」との考えを抱く者は、五根にはまり込んでいるからである。

そこから離脱する者には、智慧が生じもはや「我あり」とか「これが我だ」という考えも起こらない。

阿含経典U-76 等観察

 

 

 

 

我を拠り所にする   阿含経典V-191 遊行経

「自己を拠り所にして」

ディーバは洲、灯明、もしくは(自己に)頼る、なのか?

 

 

Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraā anaññasaraā, dhammadīpā dhammasaraā anaññasaraā.

 

atta         自分自身

dīpā          頼る

viharatha       住む 在住する 居座る  安住する

saraā         避難場所 家 守り 救済

anañña        他は無しで 他にはない

dhamma         ダンマ 宇宙の法則 摂理 自然則

 

アーナンダよ、自分自身を頼って、そこにいなさい、自分自身を避難所にしなさい、他には避難所はありません、

ダンマ(宇宙の法則、自然の法則)を頼って、そこにいなさい、ダンマを避難所にしなさい、他に避難所はありません。

 

ちなみに英語訳の一例は以下のようなものがあります。

So Ānanda, be your own island, your own refuge, with no other refuge. Let the teaching be your island and your refuge, with no other refuge.

 

 

 

 

 

 

 

苦行の否定

外界を覚知することが迷いの根源であるとして感覚器官を痛めつけたり破壊してしまう行為のこと。

否定したのは感覚そのものを絶ってしまう苦行である。

苦行とは逆転した形での肉体への執着である。             

苦行とは肉体へのこだわりであり、それよりも我執を捨てることからはじめるプロセス(道)を釈尊は説いた。

感覚器官からの信号がなければ心が清浄になるという勘違いである。

 

「いかなる苦行も利をもたらすことなしと知った。

私は、戒と定と慧とにより、この悟りの道を修めきたって、ついに無上の清浄へといたった。」

阿含経典W-118 悪魔相応

 

 

 

諦めと真実

仏教の諦めはgive upではなく「明らめる」という、真理を明察することである。

四諦の諦はsaccaすなわち真理の漢字訳である。

 

江戸時代には妻帯を罰された。

浄土宗や浄土真宗以外の宗派の僧が妻帯するのを罰せられた例がある。

僧侶とは家を出た者、出家者なのである。

 

愛とは我執のこと

愛は愛着を表し、否定的な意味としてとらえられている。

万葉歌人の山上憶良

「至極の大聖すら、なほ子を愛したまふ心あり。祝むや世間の蒼生、誰が子を愛さざらめや」

銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

新潮日本古典集成版「万葉集」の註では「俗人の我執の愛」と説明している。

家族を「愛」する庶民感情と仏教教理との相克(そうこく)と葛藤はアジア伝来において深刻化していった。

 

格義

外来のものを中国の思想に置き換えることを意味(義)をただす(格す)という。

仏教の「空」を莊子思想の「無」で解釈する。

支那仏教は格義仏教である。

 

孝と偽経

支那では先祖崇拝の孝が伝統的に宗教感情の基本要素になっている。

家族を捨てる出家が孝の対極にあたる。

仏教の教祖が家族を捨てて出家することで原理的に孝を否定しているので、「父母恩重経」という偽経が作られてた。

cf.盂蘭盆経も偽経

 

現代世俗社会とオウム真理教

なぜ、若者が消費文明の中で入信出家し、一命を投げ出すのか

密教を起源とした鎌倉仏教

法然、日蓮、栄西は天台密教の比叡山に最初に学び、後に自派を興している。

後に出現した者が、より複雑な理屈を考え出し、自分のほうが正統的だと説いている。

しかし、史実はまずは釈迦の教えを書き留めた阿含経典があり、後に大衆に迎合する大乗仏教が出現し、そこに密教が生まれた。

 

密教と呪術

呪術とは2つの間に関連を見出して、それを利用して「意識の力」で対象物をコントロールすること。

類感呪術  似ているモノを使ってスポットライトを強く当てる

感染呪術  接触したことにスポットライトを強く当てる

 

曼荼羅という視覚イメージとマントラという枠組みされたカタチ(聖なる聴覚イメージ)を表象することで、対象物をコントロールする。

 

呪術の否定

阿含経典T-241 須尸摩  いろいろn神通力を得られたかどうか質問する入門者

呪術とは欲望が源である。釈尊は欲望の実現ではなく、欲望から離れる方法を説いている。

 

儀礼と本能

レーニン廟に参拝する共産党員

人間の精神に源を発し、社会の中で形になっている。

 

道祖神と性信仰

歓喜天、別名お聖天様。

リンガとヨーニ

Description: 240px-Shiva_Lingam

杵は男性器を表し臼は女正器を表わす

 

 

ジャイナ教

農業は殺生であり、金貸しこそが道に適った人間らしい職業であるとされる。

この逆説的真理に論理的に答える必要がある。

 

剃髪は聖別のしるし

俗界と聖界の区別    虚飾を避けるというよりも区別するため

 

浄土思想  南無阿彌陀佛

仏が統治する浄土に凡夫も往って生まれ変わること(往生)できるのが浄土思想である。

阿彌陀佛の浄土に生まれ変わるとするのが阿弥陀教 

阿弥陀仏は衆生を救いきれないことを自ら責めている感じがある。

梵語アミターバを音訳して阿弥陀。意味は無限の光。

大義名分は「衆生を広く救う」

 

「覚りの宗教」である仏教を「救いの宗教」に変容させたのが特徴。

智慧による無明の苦しみからの解脱については触れない。

 

 

如来といういろいろな仏が大乗仏教では考案されている。

すなわち、前世に菩薩として利他行に励むとその善き報いとして仏(如来)になれるという理屈。

 

悪人正機説

これを利用したがる必然性は、近代的な民主主義や人権主義を主張する立場からわきあがる。

キリスト教にも類似する思想。

歎異抄「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 簡潔、逆説、異様な説得力

新約 「私は、義人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのだ」マタイ伝9-13

法然 「弥陀如来はそのような罪業重き者のためこそ、誓願を立てられたのでございます」法然上人行状絵図

 

この悪人とは、必要悪を課された人のこと。

汚れた仕事(死刑執行人、屠殺業者、娼婦など)をしている人は、本人が望んでいるのではなく、貧困や因習や差別のためにやむを得ずそのような仕事をしている。そうした虐げられた人を救うのが阿弥陀如来である。という理屈。

社会には必要悪はあるのだから、それをみんなで平等に負担するか、できないのならば然るべき待遇改善をしよう、と主張している立場と相通じる。

それが近代的社会思想として、現代の良識家から支持される理由であるが、それならば宗教を持ち込まず、大変なことをしている人にメリットのある福祉システムを充実さえれば良い。

果たして、本人たちは「悪」だと思っているのだろうか?まずは本人たちに悪のレッテルを貼ったり自覚させることからはじめるのは回りくどい。

 

罪人のためにイエスが来たという「悪」の解釈では、善悪の基準を世俗と宗教で分けて使っている。

99匹には世俗の判断を適応し、1匹の罪人には宗教の善悪の判断を適応する、という解釈である。

人種や階層差別は「悪」であるが、この悪を阿弥陀如来が救うのであろうか?

罪人は宗教的に救われるのであって、非情な殺戮者が死刑から逃れるということではない。

 

阿弥陀仏を侮辱し、破壊する悪を実行する罪人は果たして救われるのか?

キリスト教では救われない。最後の審判による選別はイエスに従った者のみが神の王国に住むことができる。

 

組織は排他性を本源的に備えている。

体系やシステムや国やグループやビルや生物は他と区別できることからカタチを保つことができる。

寛容を説く組織(言説)は寛容を説かない組織に対して不寛容になる。

ここに論理的矛盾はないという解釈がある。表層の主張は中層の構造によって支えられているからである。

もし表層だけにスポットライト当てるのならば、寛容を守るための不寛容さが際立ち、「潔癖」となり、これに執着すると「聖戦」につながっていく。

 

日蓮の仏教批判

念仏無間  悪人を救うというだけで覚りを目指さなければ無間地獄への道も残ってしまう

禅天魔   独り覚りの魔物になってしまう

真言亡国  梵我一如だけをみんなが求めると国という組織は廃退する

律国賊   自分たちの決まりに執着すると大衆の集合体である国と隔離するだけではなく破壊者となる

 

法華経  1cに成立

序品 霊鷲山で釈迦を囲む9万人。大乗経の無量義、教菩薩法、仏所護念を説いた後に瞑想に入る。

   すると花びらが降り注ぎ、釈迦の眉間から一条の光が放たれ、世界中を照らした。

方便品 諸仏は煩悩に塗れた濁世に出現する

譬喩品 釈迦は救いのために大きな乗り物を与える。信じなければ地獄か畜生界に落ちるか、もしくは人間界での狂、唖、聾、貧窮、癩になると呪詛する。

提婆達多品 悪人正機説

 

不信心への呪詛、濁世に仏が現れるなど、キリスト教に類似する終末思想。

時代にあった具体性や現実性があったので、一般に受け入れやすかった。

言葉(題目)というシンボルで外界をコントロールするという密教と共通性のある呪術。

 

変成男子といって、女性が仏になるには、女性器が男性器に変じ、女から男になった後に仏になる。

 

 

上から目線

ふびんなやつ、あわれじゃわいな。

「させていただく」という偽善的な言葉遣いや態度は平準化の圧力に迎合し、区別するヒトの意識を抑圧させることで、それは昇華されずに反動として表に現れる。

 

平準化という無我

 

 

自我という病

有限の自我を無限であると思い込み、現象であるはずの自我を実体であるとして固執するのは、当の自我自身である。

 

自己愛性格障害  自己を愛しすぎて、自己が弱いままに肥大し、社会に適応できなくなり、引きこもりやニートになったり、社会への反感を募らせて無差別殺人に走る例もある。

自己愛とは我執のこと。

自分探しといって、転職や海外放浪や自己啓発セミナーに通い、「本当の自分」を強迫観念のように探し求める。

 

自我は他者、すなわち社会によって意味が確認されるので、社会や共同体が崩壊する時には自我が問われるので、そうせざるを得ない激流が社会を襲う環境下では、「自分探し」をする人が現れる。

 

富の貯蓄を肯定する後代

「富める者が神の国に入るより、駱駝が針の穴を通るほうが容易である」マタイ伝19-24

ジャン・カルヴァンは「世俗人の使命」「世俗内禁欲」という概念でこれを覆した。

これで貪欲ではなく、禁欲的な使命として蓄財が裏付けられた。

 

仏教ではカルヴァンもウェーバーも生んでいない。

覚りと救いの違いなのか? 

なぜか?

仏教は覚りに近づくほど資本主義から離脱した生き方になる。

覚りが遠い時には、資本主義を始め社会から離れる必要がない。

だから富に関した概念を覆す必要もなく、経験やTPOに応じた対応をすればよいのであって、その人の悟りに合わせて自分の立ち位置で暮せば良い。

覚りのプロセスの中で富の貯蓄への関心が自然と薄れていくので、教義や概念を変える必要もなく、また資本主義と対立するものでもないから、そうなるまではその中で暮せば良い。

 

女の扱い

修行の最中は、女を見ずに、話をせずに、用心したほうがいい。

阿含経典Y-150