新しいものを自分のものにする     学習、進化、サバイバル

新しいことを自分のものにすることを、大きく4つに分けてみた。

感覚、学習、智慧、体感の4つです。これらは感性・理性・智性・魂性の領域に対応しています。

ここでは二つ目の「学習」についてスポットライトを当ててみる。理性による、合理性の世界だ。因果関係を結び、法則を見つけて、利便性や合理性を追求する仕組みの世界の話です。これを読むと頭が良くなるかも?そしてこのエッセイが理性から智性への架け橋になれればと思っています。

 

意識による理性の認識システムとは、暗闇に懐中電灯でスポットライトを当てて、その明るい部分を分析することです。

 

言葉をかえると、

まずは「囲む」ことで、流動的なものを固定化させて動かくなったと一方的に決めつけ、

次にその固形物を切り裂いて「分けて」全体をパーツに分解し、

そのパーツを似た者同士の「籠」に分類して、新たなラベルを貼り、

最後に籠の中に「因果関係」をみつけること。

これが意識のできることであり、なりわいであり、機能であり、特徴であり、役目であり、限界です。

囲わないと大脳は認識できません。囲ったものを分けないと意識は認識ができないのです。

また囲まないで、そのまま異物と一緒になって溶けたり、同化したり、包んだり、抱きしめたり、共鳴したりすることは意識にはできません。胃腸や血管が毎日しているような異物との交流は脳にはできません。

意識の外側にある感覚とは、他者を対象物として扱うのではなく、他者(異物)を自分と同じ波の一部としてとらえたり、溶解して一体になるというプロセスをとります。

 

未知と学習と呼吸

ヒトは自分の外側にあるまだ知らぬことを毎日のように自分の中に受け入れて生きています。

学習とは、未知の世界を自分の中に取り入れるいく過程のことです。自分とって受け入れがたいものに、自分を浸していくことによって内外のズレを解消していくプロセスとも言えます。

 

未知とのコミュニケーションも同じことが言えます。

最初は未知のものは自分の中では違和感であり、不安定なものなので、これを解決するためには積極的受動性が必要です。受け容れるとは、こちらから相手に周波数を合わせるという積極性が不可欠だからです。この積極性がないと未知なものを拒否して、見ないようにして自分の外に押し出すことによって結着をつけることなります。

 

学習する必要がある時は、未知のものに違和感を覚えた時に回路を自ら閉じてしまってはいけません。

自分の中に他を受け入れるための余地を作ることが必要です。コップに一杯の水がある時はそれ以上の水を注ぐことはできません。新たな水を注ぐ時にはコップの中の水を捨てるしかありません。それはもったいないと思う人は、古い水をとなりのコップに移してあげてコップにスペースを作るのが第一段階です。

まずはゆったりと息を吐いて、自分の中にスペースを作ります。

今までの自分の知っている世界の横に新たな何もないスペースを作ってあげます。

そこに未知のものを取り入れます。

まずは息を感じることから、未知を学ぶ構えは生まれます。

 

新たなことがわかる、という誤解

未知の領域を学ぼうとするときは、単に言葉を学ぶだけではない。自分が今まで持っていた言語体験のネットワーク自体を、組み換えていく必要があるときがあります。つまり、何かを新たなことを知ることは、そのたびに、これまでの自分の理解の枠組みを作りかえていくことになります。

 

何かがわかった瞬間、世界がまるでちがって見えてくる、こんな経験はありますか? 言葉を通して世界とふれている時は、自分の理解の枠組みを作りかえるという作業は、自分の今までいた世界そのものを作りかえることにほかなりません。新たなことが「わかる」というのは、新たな世界にダイブ(飛び込む)ことです。

 

ところが、日常的な「わかる」とは、自分の理解の枠組みの全体を作りかえるのではなく、それを温存したまま、その枠組みの中で、新しい知識の一部を処理しています。単にいままでの前例(メタファー)を使って新たな出来事を処理して、これを「分かった」と呼んでいます。

 

特に、言葉によって語られる「思想」や「哲学」は、その危険をつねにはらんでいます。いくら言葉を費やして説明しても、本人の「体験」がないと今までのやり方に当てはめてしまっただけで終わってしまいます。

 

未知が既知になるプロセス

 

ヒトは電磁波に取り囲まれて生きている。

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この世はすべてが電磁波だ、という捉え方もできる。光も、物質も、いのちも。

「いのち」でさえも電磁波の波動の一つともいえる。

そして視覚化。

これは裸眼が識別できる電磁波の差異をベースにしたものである。この差異を信号として脳に送り、そこで視覚化されたイメージを私たちは認識している。

視覚に限らず、聴覚、嗅覚、触覚、味覚も信号の違いをベースにして記号化している。

ヒトが五官で感知できるものを脳は刺激(信号)として処理している。

体は感じていても、それが刺激として伝わらないと、脳にとってはなかったことになる。外界からの刺激が感覚神経を通じて神経管である脳に伝わり、そこで処理されて運動神経に流れるルートにならないと、何もなかったことになってしまうということです。

信号がなければ脳はどうすることもできない。だから意識化されることもない。

波長が一ミリ以上のラジオ波、テレビ波、マイクロウエーブ波、そして一ミクロン以下のレントゲンX波、ガンマ波を体が感知して意識することはない。それでも意識化できるのは知識によってそれがあることを知ることができるからだ。

ここが理性の驚くべき能力であり、弱点でもある。

顕微鏡や望遠鏡や電磁波計を使って、人間の裸眼では見えないものが見えるようになった。

しかし、それらの機器の世界を基準にして頼りきれば、何が起こるのだろう?

体感の軽視と知識の重視だ。そして智性と魂性を無視してしまう人が現れることだ。

感知するということは、まずは五官を通じ、次に五官で感知できないものは、モデル図を使ったり、イメージを視覚化したり、時に写真で撮影したりして、今までの経験をベースに例え(メタファー)を使うことによって既知のものとなる。

これが五官で感知できないものを既知のものメカニズムだ。多くのことは、正しく既知になる。ところが同時に多くの誤謬が生まれ、それを訂正せずにそのままにしてしまった者もいる。私のように、あなたのように、どの人も。

いつしかそれが信念となったり、「真実」になることもある。

こんな時は、体をやわらくして、脳も緩ませてあげよう。

勝手に既知としていたものを、もとの未知に開放してやろう。

私たちの脳に囚われてしまう前の、飄々として、ユラユラして伸び伸びした姿に。

 

 

意識にうかぶ新たな出来事のプロセス

遭遇

まずは未知との遭遇です。なぜ?こんな出会いがあったのでしょうか?

 

無意識のうちに、出会う準備が出来ていたからです。

どんな?  環境、地域、時代、民族、事前情報、関心、文化的背景、 

目に入って来ないものでも、今いる場所には、時間と場所と周囲の人々によって、出会うものが限定されてきます。東京の大都会と相模の山奥では出会うものが違うように。

そしてまた、あなたの細胞が何十億年の橋渡しによって今につながり、親や周囲の人の思うことによって、あなたが存在できたように、過去からの積み重ねで今があります。

これらが未知なる何かと遭遇するのかさえも限定していきます。

何もしていない思っていても、存在しているだけでも限定されているのです。

ここで一つ目のバイアスがかかります。バイアスとは古代ギリシャ語源 epikarsiosから来ている傾き( slanted)です。具体化、特殊性、傾向、必然、癖、偏見、パターンなどの意味です。

 

 

次に感情の反応です。情動の世界です。怒り・恐れ・喜び・悲しみといった感情と同時に、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化も伴います。

なんだこりゃ?   モノに出会うと、無関心をはじめ、喜び、驚き、嫌悪感、哀しみ、不安、恐怖など様々な感情が湧いてきます。

これらの感情は自分の過去にあった体験を情報の基にして、生まれてきます。快いと思うものには近寄り、不快なものからは遠ざかるという経験は無意識の内に記憶され、次に似ているものと遭遇した時にはこの無意識の記憶によって動作が導かれます。またその時の強いられた環境が感情を生み出すことにもなります。例えば不快なことがらを強いられた時にそれを受け入れると「悲しみ」となり、それに反発すると「怒り」になるように。どちらも無意識の内に自動的に起こる反応なので、意識はその後になって自分は悲しんでいるんだとか、怒っているんだという事実に気がつくことになります。

 

自分がまだ体験していない新しい知識(本、テレビ、学校、家庭、地域社会の人たち)の導入(認知)は、以前の既知(知識・法則・体験・感情・快/不快)も基準に加えて推定されます。知識は既知なるものと結び付けられて理解されるので、知識も感情と連携されて記憶されるとされています。

ルール、法則、自己と他者との関係性などを頼りにして、新たなものを推定するのですが、その時に、これまでの体験学習のことも無意識の内に浮かび上がってきて、その中には感情も含まれます。記憶には感情も含まれているという話です。興味ある方は神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説を参考にしてください。

 

また、経験では、梅干見たら唾液が出るように、条件反射から感情と体の中の変化が起こるものもあります。

どんな虫の羽音を聞いても気が落ち着かなくなる人がいるように、今までに嫌な経験のある蚊や蜂だけではなく、初めての虫であっても、これまでの体験から無意識が反応してしまい、感情が湧き上がってきます。

未知であるにもかかわらず、情感の世界でもバイアスがかかります。

 

次に意識による分類が始まります。

冒頭にあるように、理性の認識システムとは、暗闇に懐中電灯でスポットライトを当てて、その明るい部分を分類してそこにラベルを貼ることです。ラベル貼りのことを「名前をつける」や「指し示す」ともいいます。

分類

情感行動の世界では、未知の刺激があった場合は、まず無意識のスイッチがオンになり、次にその刺激に対して快か不快のどちらかのスイッチが入ります。情動体験の記憶と類似性が多くない場合は、そのスイッチはすぐにオフになり、もとの無意識のスイッチも切れてしまうので快にも不快にも分別されません。次の出会いの時には、それは既知のものとして処理されますが、新たな出来事が起きない限り、無関心のままなので、感情が起きることはありません。

ところが新たな刺激が過去の体験と強い類似性がある場合は、過去の情感体験の記憶が呼び起こされて、感情が湧き上がってきます。そして新たな体験と記憶が強く結びつき、反復されることにより、記憶されます。記憶の深さは、感情が強いほど、雨が土を削って溝を作るように深くなります。これが何度も繰り返されたりとても強い感情が伴っている場合は条件反射となります。

 

快か不快のスイッチが入ることで、情感(感情+体の反応)が生まれ、この情感が強い時には記憶に刻まれます。

幼児期にはこれでいいのですが、大人になってくれば、この単純な分類だけではなく、この二つに分けた快・不快をそれぞれ二つに分けて上層と下層をつくり、4つにすると、善悪をすぐにして判断してしまう幼児性から脱却して、深みのある成熟した存在になります。

この分類法は、快・不快、美・醜、好き・嫌い、正・悪、カッコイイ・悪い、や経済性や利便性などなど、ヒトによって活用している「籠」が違います。

また老境に入れば、この4つにあの世からの視点を加えて5つ目の籠を手に入れるヒトも現れます。

籠に入れるとは理解するということなので、二つの籠しか持たない人は、ひとまず上下にも一本線を加えて、4つにすることから始めるのがいいと思います。

 

分析

まずは「籠」に入れて区分けした後は、この未知なるものがどんなものなのか、ヒトは理解しようとします。

その時に使うのが「例え」です。いままでによく馴染んでいることを例にして新しいことをわかろうとするのです。これを古代ギリシャではメタファーと呼んで、自分の知っているパターンにすることです。

この時に使うメタファーでみんなが多く使うのは、機械のメタファーです。

例えば、車とガソリンの関係です。車の燃費がわかれば、何リッター使えば何キロ走行できると計算できるものです。客観性や科学や金銭や経済ではよく使われ、数学にも応用されるマシーンの例えです。

「理解する」にはその中にあるパターンを見つけることからはじまります。

その仕組みを見つけて、法則を導き出します。

何が変数?  何次式? どんな計算式か見つけ、それで新しいことを理解しようとするのです。

 

ところが生命体にはこのメタファーが通用しないことがあります。

例えば、ニラや豆苗。プランターにニラを植えておき、食べたい時にそれをハサミで切っても、根っこから収穫しない限り、しばらくするとニラはまた大きくなって元の形に戻ります。太陽と空気がある限り、永遠に成長を続けるのです。これは機械の世界ではありえないことです。

他にも四季のメタファーやコマのメタファーなど、機械のメタファーではありえないことが生命の世界では現実になります。

新しいメタファーを再確認することで、いままで多用していた機械のメタファーとは違った理解をすることができます。

参照 多摩川(メタファーで勘違い)のエッセイ

 

概観と統合

メタファーができた後は、それと周りとの関係を結びます。なんでも関係性の中で意味が生まれ、意味が変わります。

分かり易い地図を作るようなものなんで、マッピングとも呼ばれます。

背景になる等高線のある地図に、イメージ化された記号を書き込むようなものです。

これによって人工衛星から撮影された衛星写真では分からなかったことが記号化されることで明確になります。

また、関係性にも焦点を当てやすくなるので、同じ記号でも意味の違いが分かるようになります。

例えば、同じ郵便局でも、都市の真ん中にあるのと、山のてっぺんにあるのでは、郵便局の役割や機能は違い、意味も変わってきます。

また背景に見えない流れを書き込むことでも、記号の意味は変わってきます。

例えば、地下水や大気や上昇気流など、見えないものを見えるようにするのも、マッピングには大切です。

 

勘違い

ただ、ここでいつも私たちは勘違いを起こしてしまうことも覚えておかなければなりません。

錯覚がいい例ですが、新しく理解したものを周りとの関係性の中でとらえる時に、どうしてもついてきてしまうのが勘違いです。これを防ぐ方法は非情に面倒くさいことなので、こんなことが起こることは常にあると自覚していることが大切です。

蛇足になりますが、意識とは常に無意識による自動修正によって成り立っているのです。そしてこの意識を使った認識だけで自己を形成しているヒトには、「自我とは幻想である」と言われる理由の一つになります。理性にできることは限られているからです。 理性は使い勝手のいい素晴らしいものですが、当然のごとく欠点やできないこともあります。自分を認識するのに理性だけしか使わないのならば、理性の特質から潜在意識や深層意識にアクセスすることができません。そんなことはない、という人は多くいます。

それは意識ができないことがどれほど多くあるのか体感していないからです。

 

そこでクイズです。

ABではどちらが色が濃く見えますか?

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わざわざクイズにしたのですから答えを予測する人もいるでしょう。

よくよくABを見比べてみてください。

 

 

リピートと肉体化                    

新しいものが周囲と関係を結ぶことで既知のものになりました。

 

今度は、この新しく既知になったものを使ってみようとします。

いろいろなシチュエーションで使ってみて、自分の中で居場所をみつけて安定させようとします。いろいろな条件の下で試してみるのです。

過去における経験を記憶の中から取り出し、新たに加わった既知と照らし合わせます。

未来においてあるかもしれない空想の中でも新たな既知を使ってみます。未来予測というもんです。多くの学問が目指している世界です。    

これらが自己対話とも呼ばれるもので、自意識が新たな既知を何度も意識することで、他との関係を瞬間的に持つことができるように線で結びつけようとします。これが思い込みや「確信」へと発展していきます。

現実の世界では、この新たに加わった既知の使ってみていつも結果が同じになることが幾度か重なると、これは大切な核だと思えるようになり「信念」になります。外からの刺激が信念となったのに、次には「信念」からこの世を判断しようとさえしてしまいます。

そしてついにこの新たに加わった既知を肉体化しようとします。肉体化というのは意識でしていたことを、体に覚えさせて無意識の状態で運動させることです。脳機能学では大脳皮質の活動から小脳の活動に置き換わることを指します。

例えば、自転車に乗ることを会得するのに、はじめは右足をどれぐらいの力で押し、その時は右手に少し力を入れてハンドルを押さえ、次に素早く左足に力をいれ・・・、と考えて体を動かしますが、これを無意識で順序よく動作と修正ができるように自動化します。これができると大脳皮質で考えることなく、小脳で情報が処理されて自転車を操ることができるようなります。そして左手で持ったボトルの水を飲みながら、次の四つ角を右に曲がれば近道だなとか、いろいろなことを一辺に同時にこなしながら運転を続けられます。

このような無意識化は、自転車などの運動だけではなく、五感から入力された刺激に対しても行われます。これが条件反射です。日本人には梅干を見るだけで唾液が出てくる人が多いと思います。見ただけなのに梅干の酸味を強くイメージしなくても、体が勝手に反応してしまうのです。梅干を食べない文化圏の人にはこのような体の反応は起こりません。これは新たに加わった既知のできごとが体の酵素や交感神経までにも強い影響を与える良い例です。

こうして条件反射のパターンが新しく作られました。

いいところは意識しなくても、自動的に体が反応してくれるので、スピードが早い対応ができること、デメリットは他の文化圏に行った時は梅は酸っぱいとは限らず、甘漬けも多いので必要のない反応を体がしてしまうことです。この反応を止めようと意識しても、肉体化した条件反射を元に戻すのは、すぐにはできません。何度も酸っぱくない梅を食べたり情感の伴ったイメージを重ねて、梅が必ずしも酸っぱくないことを体(大脳辺縁系)に覚えてもらわなければなりません。

 

学習とシナプスと記憶

非常に単純な学習であっても、既存のシナプス結合の強度に変化が生じます。学習を行うと、シナプス部分の細胞の中で、cAMPを介して信号伝達系が活性化され、シナプス結合の強化につながります。

長期記憶が形成される場合には、この信号が核内に伝わって、細胞のスイッチをオンにします。すると新たなタンパク質が作られて、新たなシナプス結合が形成されます。これが、安定した記憶貯蔵のやり方です。

 

 

免疫の学習

未知の微生物が体内に取り込まれる時にも面白いことが起きています。

この時に特定の病原体が出す毒素に対して、生命体が特異的に抵抗性をました状態になります。

免疫には伝染病にかかった後に得られるものと、病原体あるいはその毒素からつくったワクチンの注射をうけて得られるものとがあります。

この免疫も外に対して内はどのように対処する過程をみると「学習」としてみてみると面白い。

「免疫というシステムは、先見性のない細胞群をまずつくりだし、その一揃いを温存することによって、逆に、未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性を、すなわち先見性をつくりだしている」。

 

免疫とは新たな要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのこと。

一つの要素が変わると全体のシステムも変わってしまう。

また要素が変わらなくても、全体のシステムの状態や他との関係性において対応が変化することがある。

例えば、新約聖書で言えば、ワインは人によってはいいもので飲むことを勧めるが、アルコール中毒者にとっては悪いものなので禁酒を勧めるように。

 

生命体には「最もよいという発想」がありません。最適解を求めているわけではないからです。

生命は、きっと曖昧の原理のようなものを最初から含んでるいるのだろう。常に変化するこの世に対応するためには、決まったカタチを持つことはない。

しかも目的があっても、それは各パートにとってであって、それぞれ別なものになっているので、何処か一つのパートが全てのパーツを統合する役割をどこかがもっているわけではありません。例えば脳が全てを司っていると思っている人もいるが、無意識や深層意識をコントロールできないし、腎臓や膵臓や新陳代謝を意識によって作動させている人は会ったことがありません。

生命にはオーケストラの指揮者はいないんです。けれども遺伝子のひとつずつはそれぞれ意味についても無意味についても何らかの機能をもっていて、自分で役割を終えて自殺する遺伝子もいれば、繋ぎ役や何の役にもたたないイントロンやエクソンもいるわけです。免疫系でもアナジーといって、反応をやめちゃう機能をもつこともあるんです。それらを含めて、生命には関係の相対において曖昧があります。

最適解を求めてしまうと、変化に対応しづらくなるからです。硬くなってしまうのです。生命体が求めているのは、柔らかくなるのです。強くなるのではなく弱くなることです。

 

免疫系が何をしているかといえば、抗体抗原反応をおこし続けています。抗原は外部からやってくる病原菌やウィルスなどです、いわゆる非自己です。高分子のタンパク質や多糖類であることが多く、生命体はこれらに抵抗するためのしくみの担い手として抗体をつくります。これは自己である。非自己がなければ、自己もつくれないんです。

 

しかも抗体は胸腺のT細胞と骨髄のB細胞の2種類がなければ動かない。B細胞が抗体をつくるためには、T細胞がなければなりません。ということはT細胞とB細胞には関係性があるはずです。関係性を結ぶものを情報と呼ぶことにします。すると、この情報は免疫言語とでもいうべきもので、かつてはインターロイキン(ロイキンは白血球のこと)と、いまはサイトカイン(サイトは細胞、カインははたらくもの)と呼ばれています。

 そのT細胞にもいろいろあって、免疫反応を上げるはたらきのあるヘルパーT細胞も、それを抑制するサプレッサーT細胞も、癌細胞などに直接に結合してその力を消去しようとするキラーT細胞もあります。こうした免疫系の原型はメクラウナギなどの円口類からじょじょに形成されてきて、私たちの一部につながっているのです。

 

 

脳機能学からみた死の恐怖を学習するには       体験できないものを学習する仕組み

 

理由付けをする大脳皮質

情動を生み判断する大脳辺縁系

本能行動を司る脳幹

 

未体験の事柄を認識として自分のものにするためには、何らかの「擬似体験」によって判断を下す以外に手段はありません。認識は大脳辺縁系にはできませんが、大脳皮質には考えるという機能があるので、これが可能です。

ですが、今度は逆に、大脳皮質には情動を発生させる機能がありません。では、「死の恐怖」という情動はいったい何処から生み出されるのでしょうか。

 

恐怖という情動は危険と学習されたものに対して発生するので、大脳皮質に死の概念が獲得されていなければそれを学習することはできません。大脳辺縁系は危険と判断したものに対して不快情動を発生させ、回避行動だけではなく、心拍の上昇や発汗などといった生理反応など、様々な身体反応を引き起こします。

このような行動や反応を知覚し、自分は今、何に対してどのような情動を発生させたのか、といった、結果に対する「理由付け」を行なうのが大脳皮質の役割です。これにより、情動は初めて「恐怖」といった具体的な「感情」として認知・分類されます。

このとき、それが生死に関わるような重大な危機であれば、当然、大脳皮質内の「死の概念」の記憶や、それに関連する過去の体験が引っ張り出され、大脳辺縁系に結び付けられます。そして、大脳皮質が「自分は今死ぬかと思った」などと考えますと、大脳辺縁系は、今度はそれに対して不快情動を発生させます。

つまり「死の恐怖」というのは、大脳皮質に記憶として保持されている「死の概念」が意識の上に想起されたことに対して発生する大脳辺縁系の反応です。そして、このような学習が刳り返されることによって、やがて「死・Death.」などといった言葉に対しても不快情動が発生するようになります。

 

まず「死の概念」は大脳皮質に獲得されなければなりません。そして何よりも、「死の概念」は他の様々な概念とは異なり、擬似体験以外で獲得されることは不可能です。

次の問題は、他の動物の大脳皮質には、擬似体験によって「死の概念」を獲得することができるかどうか、ということです。

 

「擬似体験」とは、別に仮死状態になったり臨死体験をしたりすることではありません。擬似体験とは、例えば、

「既に導き出されている結果を知識として学ぶ」

「既存の体験に基づいて未来の結果を予測する」

のことです。

知識として死の体験を学ぶためには、人間には高度な言語というものがありますが、動物にはありません。もちろん、言語を理解する動物というのは世界中の研究所やサーカス団にたくさんいます。ですが、それが「概念」を理解しているかどうかについては、まだ多くの学者たちは首をかしげているようです。

しかし、言語による擬似体験がたいへん大きなウェイトをしめるが、死の概念というものを獲得する上で、言語を持たないというのが決定的なハンディキャップでは決してありません。

 

私たちは子供のころ、そんなことをすれば死んでしまうなどと良く脅かされます。また、死が忌まわしいものとして本などに書かれているならば、我々はそれに対して恐怖を感じることもできます。

ですが、他人はそう言いますが、死というのはどうして恐ろしいものなのでしょうか。これが分からなければ死の概念を理解したことにはなりません。このためには、既存の体験を元に自分の未来を予測し、そこに「死」というものを置いてみる必要があります。

 

死というのは実際に体験することができないので、自分の身の回りにある死というのは全てが他人にとっての不利益でしかありません。ですが、それが自分の未来にも発生し得ることであり、自分にとっても間違いなく不利益であるということを知っています。これは、我々人間には「自己と他者」というものの区別を理解することができるからです。つまり、人間には他人の苦しみを自分の苦しみとして受け取ることができるわけです。

哺乳類のような高等動物には、人間と同じように「自己・他者」の区別を付けることができるのでしょうか。これについては、世界中の学者たちが研究をしているのですが、未だに決着が付いていません。現状では、動物にもそれができると主張する側には、どうしてもそうとしか考えられないといった結果が山ほど見付かってはいるのですが、これを論理的に説明して証明する方法が、まだありません。

 

頭の回転の速さ

脳の中には、神経細胞(ニューロン)と、数の上でその50倍(重量で10倍)の神経膠細胞(グリア細胞)が存在し、突起を伸ばして複雑な回路網をつくりあげている。グリア細胞は神経細胞を固定し、栄養面で神経細胞を支える働きをするが、それ自身も回路網の一部を形成できる。 そして、五感をはじめ、脳から発せられるいろいろな情報は、コラムという それぞれに関連する領域を伝わっていく。一つのコラムには、同じような性質を持つ約1万の神経細胞が集まっていて、脳における情報処理の最小単位を構成している。コラムのどの部分で、分析、処理、統合などが行なわれているかはまだほとんど解明されていない。 コラムの数が多いので、それを限られた頭蓋骨の中に収めるため、新皮質は深いシワを作って折り畳まれている。

 

では、”頭が良い”、”頭の回転が速い”とは、どういうメカニズムによるのだろうか?

神経細胞と神経細胞との間には、20万〜30万分の1mm(3〜5nm)程度の隙間があり、この間をつなぐのがシナプスである。このシナプス間を、各種の神経伝達物質(アセチルコリン、ドーパミン、など数十種)が物質移動する。 神経伝達物質は、神経細胞で生産され、シナプスまで運ばれ そこで一時貯蔵され、次の神経細胞の受容体(レセプター)があり、この伝達物質とレセプターが カギとカギ穴のように適合すると、次の神経細胞に信号が伝わり電気が走る仕組みになっている。 これが、各種の知覚や運動、麻酔や覚せい剤・麻薬などの作用する神経系が限定される理由である。

 

一般に、明晰な頭脳の持ち主ほど、

1) 神経細胞のネットワークが複雑かつ効率的に張り巡らされ、

2) 信号の伝達速度も速い。

伝達速度は、軸索の太さが太いほど、また、髄鞘(ずいしょう、リン脂質の絶縁体)の形成ができているほど、大きくなる。(50cm/秒〜120m/秒;各種神経系によって大きく異なる *)

 

また、脳波が α(アルファ)波のときを経ると、人は最も能力を発揮しやすい状態になるといわれる。(脳波には、δ、θ、α、β、γ などがあり、 睡眠中の無意識の状態で α波(10サイクル/秒)、 浅い睡眠と深い睡眠を行き来している状態で θ波、 緊張しているときや数学の問題を解いているようなとき、悩んでいるときは γ波(最も速い)が出る。

何かに集中したり、リラックスしているとき、瞑想して落ち着いて思考している状態でも、脳波は α波になる。ほとんどの人はただ目を閉じただけで α波になるが、10秒も続かない。そこで、イメージトレーニングでストレスを解消し、精神をリラックスさせる訓練が推奨された。

すなわち、少しでも長い時間 α波にすることができれば、脳は深い休息に入り、抑制状態になり、リフレッシュされ、再び活発に活動するのである。

また、宗教的な”難行・苦行”は、大脳内にエンドルフィンを分泌させ”快楽”を得させたり、脳に極度のストレスを与え、洗脳やマインドコントロールや催眠術的行動を起こさせることも可能になる。

 

* 脳波の周波数: δ:1〜3Hz(ノンレム睡眠・熟睡時)、 θ:4〜7Hz、 α:8〜13Hz(レム睡眠、閉眼・安静の覚醒した状態)、 β:14〜30Hz(能動的で活発な思考や集中)、 γ:30〜64Hz(同期的で協奏的な認知活動、新しい洞察の認知)、 その他、 ω:64〜128Hz、 ρ:128〜512Hz、 σ:512〜1024Hz、 また、振幅は、正常人で2070μV

 

参考資料

学習  learning  平凡社百科事典より

学習とは,特定の経験によって行動のしかたに永続的な変化が生ずる過程である。同じ行動様式の変化でも,経験によらない成熟や老化に基づく変化や,病気,外傷,薬物などによる変化は学習とはいえない。また疲労や飽きは,回復可能な一時的変化にすぎないので,これも学習とは区別される。子どもの発達過程では,例えば言葉や歩行の習得のような学習が,長期にわたって行われている。しかしこの場合,行動様式の永続的変化といっても,多様な経験に基づいて,広い範囲の行動が変化するのであって,この過程はとくに〈発達〉と呼ばれる。

[学習の理論]  学習のメカニズムを説明する理論には二つの立場がある。第1は,刺激と反応との結合を学習の基礎とみなす〈連合説〉である。最初にこの立場を表明した E. L. ソーンダイクは,学習を試行錯誤の過程とみなし,刺激と反応との正しい結合が生ずる条件を示すいくつかの法則を作り上げた。例えば,正反応の結果には満足が与えられなければならないことを説く〈効果の法則〉,数多くの反復をしなければならないことを説く〈練習の法則〉,刺激と反応との結合の用意が整っていることの必要性を説く〈準備の法則〉などである。これらの学習法則には,その後若干の修正が加えられたものの,基本的にはそのまま現在に至るまで受け継がれ,とくに行動主義の学習理論の基礎にすえられている。

 第2の立場は,認知構造の獲得を学習の基礎とみなす〈認知説〉である。この立場はとくにゲシュタルト心理学者たちが採っている。学習は場面の構造が認知されることによるが,それは試行錯誤の結果ではなく,場面の中で解決への見通しが一挙に開けてきたためであるとみなす。だから学習すべきものは,刺激と反応との結合ではなく,場面の意味であり,とりわけ手段‐目標関係の理解なのである。しかし学習そのものの中に,二つの基本的に異なる過程があるという視点から,最近では両者の立場を総合させた〈二要因説〉も提起されている。

[学習の過程]  学習はさまざまな条件によって促進されたり停滞,阻害されたりする。それらの現象のおもなものをあげてみる。

(1)学習の構え 同種類の問題を何度も経験すると,その種の問題に対する学習のしかたを習得し,しだいに容易に解決できるようになっていく。これはいかに学ぶかという構えを学習するからである。

(2)高原現象 学習の過程で行動の進歩が一時的に停滞することがある。学習曲線がこの場合あたかも高原のような形を描くので,これを高原現象という。これは学習の疲労,飽和や動機づけの低下などによるほかに,より高次の段階の学習を続けるために,そのときまでの学習行動を質的に変化させる際に現れる現象でもある。

(3)分散学習と集中学習 学習時間の配分のしかたに応じて,適当な休憩をはさんだ〈分散学習〉と,休みなしに連続して取り組む〈集中学習〉とに分けることができる。分散学習の長所は,休憩中に疲労の回復や学習意欲の更新や復習などが行われるうえ,誤反応を忘却できる点にある。ただしあまりにも長い休憩が入ると,正反応でも忘却してしまうおそれもある。一方,集中学習は,長時間続けざまにその学習活動にあてることができるため,学習活動の準備にあらかじめ一定時間を必要とする場合には有利である。そのうえ,集中学習では,分散学習のように反応を固定化させることもないので,反応の変化がしばしば生ずる学習にも有利である。一般に技能学習には分散学習が,問題解決学習には集中学習が適切だといわれている。

(4)全習法と分習法 学習材料の扱い方に応じて,全体をひとまとめにしてなんども繰り返しながら学習する〈全習法〉と,全体をいくつかの部分にあらかじめくぎり,それらを順々に学習していく〈分習法〉とに分けることができる。もちろんいずれの方法が有効であるかは,その学習材料の性質に基づく。長い学習材料やむずかしい学習材料の場合には分習法に,逆に短い学習材料ややさしい学習材料の場合には全習法によらなければならないだろう。また統一性に乏しい学習材料は分習法が,意味連関のある学習材料は全習法が適切だろう。しかし全習法は効果をあげるのに多くの時間と労力を必要とするのに対し,分習法は速く容易に学習の成果をあげられる。したがって年齢や能力の低い者には,分習法が有利だといわれている。

(5)学習の転移 以前の学習が別の内容についての学習に影響を及ぼすことを〈学習の転移〉という。転移には,前の学習が後の学習を促進させる正の転移と,逆に妨害する負の転移とがある。転移が生ずる条件として,両学習間の類似性,時間間隔および前の学習の練習度などがあげられる。そして,前の学習経験に含まれる構造を正しく把握するとき正の転移が生じ,これを誤ってとらえたり,不十分にしかとらえなかったりすると負の転移が生ずることとなる。⇒発達     滝沢 武久

[学校における学習指導]  上記のような学習のメカニズムを考慮して進められるが,文化,科学,芸術の基本的内容を精選し,系統的に配列し,これを学習者の生活,既得の経験や知識と適切に結合することがとくに求められる。実際の学習指導においては,学習者の多様な反応が現れるから,それらに適切に対応することによって指導の効果をあげることが期待される。例えば学習内容によっては一つの解答,一つの解法だけがあるのではなく,いくつかのものが許容されうる場合がある。このようなときは学習者たちが自発的に多様な解答,解法を示すことも少なくない。教師の発問によってこれを促進することもできる。また集団での学習では,学習者の中に誤りの反応をする者がいるが,誤りの種類や性質によってはこれを積極的に取り上げて解明することを通じて,学習者全員の理解をいっそう十分なものにすることもできる。これらは集団での学習=一斉指導の場面で,教師が直接に学習者たちに働きかけ,その自発性を高め,理解度を深める配慮であるが,これらとあわせて,班あるいはグループを学級の中に作り,学習者相互の働きかけ合いをねらうことによって,さらに指導の効果をあげることもなされうる。

 また学習指導によって,学習者の中に定着したものを確実に把握することも必要不可欠である。とくにそれぞれの学習内容の系列において,必須の概念や操作が習得されていない場合には,後の学習に多大なマイナスとなり,いわゆる学業不振の原因となる。なお,学習させるべき内容の精選・配列,実際の指導,学習者における定着は,学習指導としてひとつながりのものである。そこで,例えば学習指導の効果が上がらない場合など,学習内容の選び方,配列のしかたに問題はないか,指導の方法に問題はないかなどというように,教師にはつねにみずからを反省する態度が要求されると同時に,こうしたことについて教師が自由に研究,研修できるような条件を整えることもたいせつである。             茂木 俊彦

【動物における学習行動】

 動物の行動研究が進むと学習に関する考え方も変わってきた。まず,それまで鳥や哺乳類のみで学習能力が考えられていたのに対し,広範囲の動物で学習する能力の存在が実験的に証明された。例えば扁形動物のプラナリアに光刺激と電気ショックの組合せで条件反射を成立させ,この程度の動物にも学習する能力のあることがわかった。タコの捕食行動では各種の図形と罰・報酬の組合せで図形を学習させられること,ミツバチに色を覚えさせることなど,今日では各種の動物で学習に関する実験が行われている。また,従来は動物の行動を本能と学習に二分する考え方が支配的であったが,近年の研究によって,純粋な学習とみられるものもしばしば何を,いつ,どこで学習するかといった面で遺伝的に決定されていることが明らかにされ,現在ではこのような二分法は有効性を失いつつある。

[慣れ habituation  もっとも単純な形の学習は慣れで,これは,とくに刺激の強化が加えられなくても無害な環境には反応を示さなくなるようなものである。キジなど地上営巣する鳥の雛は,孵化(ふか)後,最初は頭上をかすめるすべての影に対して警戒のうずくまり姿勢を示すが,やがて木の葉や無害な小鳥が横切った程度では警戒姿勢を示さなくなる。このような慣れは,明らかに生後の経験によって獲得した反応であるが,猛禽類の影には決して慣れを示さず,このような能力が遺伝的にプログラムされたものであることを示している。

[刷込み imprinting  刷込み(インプリンティング)は特殊な形の学習である。これは生後のある時期の経験が,その動物のある行動を規制してしまうもので,とくに生後の初期に生じやすい。孵化後23日目くらいのニワトリの雛はに対して強く刷り込まれ,このときに経験した箱の色や形にこだわる。アヒルの雛が母親が近くにいても,入れをもって歩く人の後をついていくのも刷込みの例である。これは生後の脳の発達とも関連し,成体になってからは生じない。また,同種の仲間とある程度以上いっしょに生活すると刷込みも生じにくくなる。

[各種の学習行動]  さまざまな動物には種に応じてプログラムされた学習能力があり,例えば,カリウドバチの多くは巣穴を出て獲物を狩りにいく際,周囲のおおまかな地形を認知し,巣穴に戻る手がかりとする。肉食性の哺乳類の幼獣が成長の過程で仲間とじゃれ合いながら口や四肢の扱い方が巧みになったり,鳥類の幼鳥がしだいに熟達した飛翔(ひしよう)を行うようになるのも経験による学習の効果であろう。試行錯誤的に経験を積み重ね,ある行動を獲得するのも学習といえる。サルのいも洗い行動などはその一つで,たまたま海水につかったを食した個体から,ある集団の中で,すべての個体が海水で洗ってから食すようになったのは偶然の効果から出発している。

 自然な状態における学習の役割は,子が親と同じ行動パターンを受け継ぎ,与えられた環境でうまく生きていけるようにすることである。したがって一般には学習によって行動が進化することはないといえる。                奥井 一満

【認知科学における学習】

認知科学は学際的な学問領域であり,学習の研究を理論的にリードしてきたのは心理学である。心理学において学習とは主体の経験による行動や心的状態(認知)の比較的長期に持続する変化を示す語として使われてきた。認知のモデル化を目指す認知科学においては,学習は記憶とほとんど同じものとして扱われ,特に個体の知識の獲得に対応するものと考えられてきた。しかし,最近になって,知識観の変化と実践活動に対する理解の深まりを反映し,学習を実践のコミュニティの社会的活動とみなす新しい学習観が生まれ,日常のさまざまな活動(ワーク)の研究が盛んに行われている。

[個体内の出来事としての学習]  心理学において中心的な学習観は学習を一個体のシステムの機能や行動の変化としてとらえる立場である。行動主義の学習理論では,刺激と反応の間を結ぶ有機体の内的な機構をブラックボックスとし,研究対象とはしなかった。これに対して,情報処理的アプローチをとる認知心理学では,情報の入力から出力までの過程全体のモデル化をコンピューターメタファーを積極的に利用することによって進めていった。認知主義の立場では,学習とは個体の知識獲得と知識獲得による個体の内的システムの変化,そしてそれによる個体のパフォーマンスの改善として取り扱われる。これは広くは知識の構成主義にくみする立場であり,内的な記号処理,すなわち表象の計算過程のモデル化である。最近では,言語学習や知覚,運動学習といった意識化されにくい認知過程に対して,脳の神経系メタファーを利用したコネクショニズムを人間の学習に応用した並列分散処理(PDP)モデルも提起され,記号処理モデルとの統合の試みが始まっている。行動主義的な学習論と認知主義的な学習論では変化の焦点をそれぞれ行動と認知とする点では大きな違いがあるが,どちらも一個体の変化に焦点をあて,そのメカニズムを明らかにすることを研究課題としている点では共通性がある。

[社会的な出来事としての学習]  熟練者になることは,外側からは行動の変化として,また,当事者にとっては知識の変化として観察可能な部分があることは事実であろう。しかし,熟練者になるためには,その主体を熟練者として位置づける人間関係,すなわちコミュニティが必要である。伝統芸能におけるわざの習得は個人的な出来事ではない。師匠と弟子という徒弟制があり,さらに,それはその芸能の専門家集団,その芸の鑑賞集団などのコミュニティの中に含み込まれている。そうした実践のコミュニティは価値を創造し,更新していく。〈新人〉として扱われていた人も,新しい新参者が参加することによって,古参者への仲間入りをする。周りの人たちの扱いも変わり,その人の自己のアイデンティティも変わっていく。このように考えるとある人が熟練者になるということは個人的な変化ではなく,その人を含むコミュニティ全体の変化と見なすことができる。その意味で,学習は実践のコミュニティ内で起こる社会的な活動なのであり,その参加者の行動の変化や認知的な変化はその一部を取り上げたものにすぎない。また,学習が学習者によるリソース(資源)の再編ととらえられることによって,学習は教育から独立した活動として位置づけられることにもなる。この新しい学習観の中で,学習を個体内の出来事として扱う立場の研究も再配置されていくことが期待される。

[状況論と学習研究の課題]  学習を社会的活動としてとらえる立場を理論的に支えているのが,状況論と総称される立場である。状況論はビゴツキー L. S. Vygotsky(1896-1934)に始まる社会歴史的アプローチ,活動理論をベースにして,コール M. Cole(1938- )らのアメリカ・カリフォルニア大学の比較人間認知研究所を中心として展開されている学際的な理論的志向を指す。特に,リテラシーなどの文化的道具と認知との関係に関する研究,工場や家庭における日常的認知の研究は,状況論的な学習の理論化において重要な役割を果たした。エスノメソドロジーの知識観,行為観も強い影響を与えている。その中心的な主張は,知識や行為はそれが使用される活動から切り離すことができないという知識や行為の状況性の強調である。このことは言語理解が常にその使用文脈に参照されることによってしかなされないことを考えてみればよい。状況論に基づく学習研究では,学習自体が状況に埋め込まれているとみなし,人やコンピューターなど,一個体の内的システムの変化ではなく,ある状況を構成している活動システム全体をとらえようとする。このような立場に立つと,学習は一個体の知識の獲得ではなく,ある状況内における複数の人々や人工物(技術的道具,文字や記号などの心理学的道具)の間の相互行為あるいはコラボレーションの過程であると理解することができる。認知は個人の中に閉じられたものではなく,社会的に分散しており,身体運動の学習も単なる個体の行動の習得としてではなく,社会的実践としての身体技法として取り扱われる。このような様々なリソースのコラボレーションの過程をそれぞれの活動に即して歴史的に明らかにしていくことが現在の認知科学における学習研究の主要な課題である。   石黒 広昭

 

 

 

スーパーシステム

多田さんには、スーパーシステム論という大胆な仮説がある。

 われわれは遺伝情報とともに免疫情報や内分泌情報をもっているのだが、その両方を組み合わせていくと、どこかに要素を創発しているとしか思えないしくみがあることに気がついた。それがスーパーシステムの特色である。けれども、どうもその創発は女性(メス)が思いついたようなものなのだ。

 

「私家版免疫文法」というスライドまでつくったんです。免疫にも文法の時制のようなものがあるんです。

 そうしたら井上ひさしが、こう言った。教室で一回さされると、当分さされることはない。これは免疫みたいなものですね。われわれは日々、自己と非自己をくりかえしてるんですね。それがどのようにスーパーシステムになるかというと、ひょっとするとそれは戯曲や小説を書くときのしくみと似ているかもしれませんね。

 多田富雄が、こう言った。ふつうのシステムはいろいろな要素を組み立ててできるんです。スーパーシステムは、要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのことです。まさにすぐれた文学と同じです。井上ひさしが、膝を打ってこう言った。形容詞ひとつで芝居は変わってしまいますからね。その形容詞ひとつが男と女の成り立ちにまで関係しているので驚きました。『生命の意味論』(新潮社)を読んでいたら、「人間は女がモトで、男は女があとから加工されてできあがった」と書いてあったでしょう。同性愛すら生命意味論なんですね。多田富雄が、微笑して言った。男はむりやり男になっているんですから、型通りにならない男はいくらでも出てくるんです。