「中」というのは「真ん中」を指し、たとえば「中流」や「中年」のように普通の真ん中という意味がある。
また、たとえば「中心」や「中正」や「中庸」の「中」は、非常に優れた徳の特性がある。
真髄の「中」は「ほどよさ」である。
両端の解釈の仕方
1物理的解釈 始点と終点
2心的解釈 貪瞋痴 相対性理論
3空的解釈 端は縁起による形の表出なので、実質的なものではなく、空に繋がる入り口である 量子力学
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両端 |
端での行為 |
振動 |
中庸・中道 |
科学的喩え |
物理的解釈 |
始点と終点 |
端を体験する |
しない |
中庸 |
ニュートン力学 |
心的解釈 |
心のはたらき 貪瞋痴 |
端にいかない |
端を基点して 振動 |
中道 |
相対性理論 |
空的解釈 |
空に繋がる入口 |
端はない |
全体が振動 |
中道 |
量子力学 |
3つの違い
『両極端によらずに中ほどが良い』と両端を物理的解釈すると、西洋哲学でいう中庸moderationの意味になる。
両端(たとえば、きつい張りと緩い張り)にスポットライトを当てることによって発生する解釈である。
しかし、仏教がスポットライトを当てるのは、内外にある物質的対象ではなく、自分自身の心の内容である。
弦の張り具合である物理的両端ではなく、まずは自分の気持ちであり、その心の中身の特異点(両端)である。
それは「精神と心と体の本能」であり、具体的には「貪瞋痴」と呼ぶものである。
仏教ではこれらの本能を除去する方法を説き、それを教えてにしている。
たとえば二人の対立した意見の中立を中道とよぶのではなく、自分の気持が貪瞋痴(肯定と否定)に囚われずに、そこから離れている心の状態を中道とよぶ。
2点の基準点があることで振動は発生するので、2点の存在は必要条件である。しかし、この2点の位置に立ってしまうと、振動は消えてしまい、残るのは物理的基準という点になってしまう。
この2つの間にある振動こそが中道の一つの現れ方である。
この中道を心ではなく物質のレベルで理解して、両端に近寄らないことを中道と誤解したのが中立である。
この世にはそれぞれのTPOがあるので、中立という公平な立場は存在せず、それは脳が生み出した観念的なものでしかない。
さらに、釈尊は心のレベルだけではなく、霊のレベルから観照する「中道」にはānañca虚空という語句を使って、具体的に説いている。
ここでいう虚空とは般若心経の「空」であり、インド哲学(サーンキヤ)でいうプラクリティ、仏教でいう自性のことで、この世に適切に顕出する「空と物質の関係」を説いている。
現代科学で説明するには量子力学による「真空」の定義が、釈尊の虚空に近いものだと思われる。
つまり、全体性(空)の中から自分が出したい音(心のはたらきである目的)に合う張り方を、実践することが、ちょうど良い張り方であり、これを中道Majjhimā-paṭipadāとよぶ。
換言すると真空にはあらゆる周波数(霊が観照する空)があり、それが具体的になる周波数(心のはたらき)になり、最後にそれを実現化する張り(物質化)の調整と音波になる。
この3つの解釈の違いは、「両極端」の解釈の仕方に由来する。
両端を物資的なものだと解釈すると、釈尊の意味する端とは解釈が異なることになる。
「端」という状態があると思って、それを前提にすることから誤謬が生じる。
「端」があると思うのは思考による観念によるものなので、「端」が当然のごとくあるように見えているのは霊のレベルからみれば幻想で、この時にヒトは観念に囚われていることになる。
観念による両端があるという前提で、弦のたとえを聞くと「中ほどが良い」と解釈してしまう。
しかし、釈尊の悟ったことは「縁起」なので、端という「起点・終点」を想定しないことが前提であり、当然として「中」という基準を想定する解釈をすることはない。
換言すれば、有・無、断・常などの対立した世界観を超越した無分別で世界を観るのが「縁起」なので、起点と終点となる端はなく、端がなければ中もない。
しかし、ひとたび、「自分が出したい音」という目的を持つと、その縁に因ってちょうど良い張り方が生ずるのである。
極端に言えば、金属的高音で緊張感を演出したいという目的を持てば、切れる寸前の張り過ぎが中道(良い加減のほどよさ)ということになる。
たとえば、釈尊が率いていた比丘と比丘尼たちの生活は、極端に寄らない標準的な生活だといえるのだろうか?
一般的に見たら極端に偏っているが、目的から観ると適しているともいえる。
中道というのは、どれでもすべて選べる。
悟りの境地とは無分別ですから、そこには分別する条件がなくなっている。
そして「そこ」というものもなくなっていく。
その境地の中にいれば、各自の心の変化が条件となって、それに最適の形が生じてくる。
空が心のはたらきによって具体的に具現化するのである。
これが空的解釈の中道である。
量子力学による「真空」の中身とは
自然界には完全な真空は存在しない。
たとえば星と星の間でも13cmに1個の水素原子が存在する。
対してミクロの世界である原子核と電子の間は完全な真空だといえるが、現在の物理学ではこのような空間には「素粒子」が満ち溢れていると考えている。
宇宙空間からわたしたちの体の中や細胞の原子にいたるまで、素粒子が突然現れては消えていく。つまり無と有の区別がはっきりつかないというのが実際のようすである。
1つの粒子が複数の場所に共存するということは、Aという場所に存在している状態、Bという場所に存在している状態など、さまざまな状態が同時に多数(一般には無数)「共存」している。
日常生活では、もし、ここに1つのボールがあればそれはAという人の手の中とBという人の手の中に同時にあるということはありえず、どちらかにある。このような事実から思考パターンを構築して、物事を判断する基準としてこれをミクロの世界にも適応すると19世紀までは考えていたが、事実は上の図のように電子は一つの粒子ではなく雲のように広がり位置は不確定であった。
これは電磁波の波にも同じことが言え、波は1つだけの振幅(波の高さ)で振動しているわけではなく、さまざまな振幅の波が共存していることが明らかになった。
真空のエネルギーの源はなにか?
素粒子の定義
このような常識が通用しない事実の世界に入り込むためには、まずは素粒子とは何かを確認しておく。
素粒子は、エネルギーの塊のことなので、素粒子とエネルギーはたがいに変換が可能である。
素粒子は、粒子であると同時に波である。
素粒子は、位置と運動(速度)を同時に決定することができない
素粒子は、時間とエネルギーを同時に決定することができない
一方を正確に決めると他方があいまいになる。
たとえば位置を決めれば速度がわからなくなる。逆に速度を決めれば位置がわからなくなる。
電子がある特定の位置にあるとすると、次の瞬間には電子が全空間に広がってしまう。
したがって、電子が存在する位置を、原子のようにある程度限定された領域にとどめておこうとすれば、一点に固定させるのではなく、最初から共存するある程度の広がりをもって想定しなければならない。そうすれば共存する各状態がたがいに影響を及ぼし合って、それ以上広がらないようになる。
この性質を不確定性原理と呼ぶ。
換言すれば、ほんの一瞬であればエネルギーの量が変動しうるが、平均値は一定である。
「場の振動」で真空と素粒子を考える
場の量子論では、素粒子を場の振動によってあらわす。場が大きく揺れた時はエネルギーがたくさんあり、素粒子が存在している状態である。対してエネルギーがなくなると場の振動はおさまり、素粒子がないと考える。
この場の振動がおさまった状態が「真空」と定義される。
ただしこの真空が本当に何も存在しない「完全な真空」なのかどうかについては議論はしない。
真空の状態でも素粒子が沸き立っていると推測されるが、観測できないものなので、量子力学では、素粒子が存在する状態と真空との違いをエネルギーの差で表わすことに終始する。
19世紀までは、たとえば光子が0で、振幅が0という波がまったくない状態がエネルギーも最低だと考えていたが、20世紀からは量子力学が発見したことは、もしある瞬間に振幅が完全に0だったら、次の瞬間にはすべての振幅の波が共存することになる。
微小な振動の波が共存していることを認めずに、振動0を仮定してしまうと、それは予測もつかない莫大なエネルギーの潜在力を想定しなければならなくなる。
そこで最初から微小な振動の波が共存することを前提にすることで、波がお互いに影響を及ぼし合って、振幅がそれ以上大きくならないように働くことになる。
この微小な波のことを「ゼロ点振動」と呼ぶのは、振動0である状態の周辺にはわずかに振動している、という意味である。
たとえば光子がまったくない状態とは、電磁波の波がまったくないのではなく、この量子論的なゼロ点振動が充満している状態なのである。そしてこれは光子に限ったことではなく、電子にしろ陽子にしろ、すべての粒子のゼロ点運動が、この空間には充満している。
無の空間で沸き立つ素粒子たち
誕生しては消える粒子のようすは、不確定性原理によって一瞬だけ存在することが許される粒子である。
対生成の際には「粒子」と「反粒子」のペアが誕生する。誕生した粒子のペアは即座に衝突して対消滅する。
この沸き立つ素粒子の寿命は10−22秒(1兆×100億分の1秒)はあまりにも短いため直接に観測することができないので、仮想粒子と呼ばれている。
しかし実験によって存在は間接的に証明されている。カシミール効果の実験。
なお、原理的にすべての種類の素粒子が誕生しうる。また、素粒子だけでなく、陽子や中性子といった内部に構造を持つ粒子も対生成と対消滅をくりかえす。
10−20秒程度の時間では物質はある、ないという存在自体も定まらない。
何もないはずの真空中でも、2つの粒子はペアになって生まれたかと思えば、すぐに消滅する。
現代物理学では、このような真空のことを「沸き立つ真空」とよんでいる。
対生成・対消滅がおきる理由
時間と空間の関係、また運動量とエネルギーの関係は相関関係であることから、
ΔtΔE>h/2 t時間の長さ Eエネルギー でも不確定性原理は成り立つので、
時間の幅を短くすれば、エネルギーは不確かになり、さまざまな値をとることになる。
ほんの一瞬だけ許されたエネルギーを利用して素粒子が生成され、即座に消滅する。
逆に長い時間をかければ、エネルギーは限りなく0に近づき、概念としての真空の状態である「無」に見えるようになる。
原因は素粒子(物質)は、粒子性であり同時に波動性であること
素粒子はあるときには「粒子」のような性質をみせ、別の時には「波」のような性質をみせる。
概念的な「無」は概念の中でしか存在しないのだが、「無の空間」というと対生成・対消滅と粒子と波の2重の性質が想像されにくいので、「無」の代わりに「場」という表現を量子力学では使う。
中庸
「蜜は甘くて美味しいものだ。しかし、それを食べ過ぎると吐き出したくなる」旧約聖書 ソロモン
「適度ということは健全な徳の姿である」ヘラクレイトス。
「われわれ人間は節度を守らなければならない。快楽の奴隷となってはいけない」ソクラテス
「勇気とは無法な無茶なことではなく、反対に臆病でビクビクしていることでもなく、その中間のもっとも適当な度合いを保つことである。」 アリストテレスの中庸の徳
「度を過ぎない程良さ」『論語』
孔子の孫の子思(しし)が書いた『中庸』
「程よいことであって、前後どちらにも傾かず、左右どちらにも倒れないこと」江戸前期の儒者、中村タ斎
ちょうど的(まと)に当たっていることである、という意味として解釈し、その具体的実践は「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」であり、これを「中行(ちゅうこう)」と呼んだ。
心的中道 心のレベルの中道
パーリ語の「Majjhimā-paṭipadā」が梵語のMadhyamā-pratipadになり、それを漢語に訳した時に「中道」という言葉が造語されて訳された。
古サンスクリットMadhyamāはインド哲学やジャイナ教では、「中(なか)」、あるいは「中心」という意味で、二つ何か対立している場合に、どちらにもとらわれない」 ことをいう。
「中道」は度を過ごさないとか、バランスをとるという意味ではない。
右と左の真ん中でありさえすればいい、という考え方に固執していると、全体が右にいっていると、中道も右のほうにいくとか、全体が左に傾いている場合には中道も左にいってしまう。
ジャイナ教の「二つの極端にとらわれるな」を仏教は受けて、「二つの対立した極端にとらわれるな。さらに中(ちゅう)にもとらわれるな」という教えが『スッタニパータ』にある。
二つの極端や、それを合わせ足して二で割る平均値にとらわれてはいけない。
ナーガルジュナの「中論」の「中」には「行き過ぎをただす」の意味もある。
「いきすぎ」とはある特殊な現象を否定するのではなく、その特殊な現象を基準にして法則化してパターン化してしまうことである。
釈尊の時代には、快楽を追求することが人生の目的があると思う人びとや身を苦しめる苦行に耽るのが宗教の本質であると考える人びとがいた。
釈尊の立場は、そのどちらでもなく、
修行者は二つの極端に近づいてはならない。
一つは、もろもろの欲望において欲の快楽にふけることであり
・・・他の一つは、自らを苦しめる苦行にいそしむことで、
両者ともためにならないものである。
人格を完成した人は、この両極端に近づかないで中道を悟ったのである。『サンユッタニカーヤ』
釈尊の時代には都市に富が蓄積されて、その富を使って快楽に耽る人たちが顕著になった。
また体の快楽に対する絶えることのない反応から離れるために、苦行を実践する人たちもいた。
釈尊の生涯そのものが、二つの生き方に対する反応を示している。
若い時は国王の長子として王宮の中で育ったから非常に栄耀栄華を極めていた。しかしその生活に満足することができず、苦から逃れることはなく、出家したのは人生の不安、苦しみを解決するであるとも言われている。
今度は出家して苦行者の元で魂の穢(けが)れを浄らかにする苦行を六年行った。
そしてどちらも苦しみを解決できないことを理解した。
そこで菩提樹の下で瞑想に耽って、そこで悟りに達せられたと、伝えられている。
人類史には楽になる期間と苦しくなる期間がある。
また科学文明によってますます便利になり楽になるが、それを支える基盤が崩れると、大きな苦しみがおとずれる。
釈尊は愛欲を自ら体験し、それが一転して激しい苦行を行ない、どちらも人間の本当の生き方を示すものではない、と感じ、本当の道は何だろう、というところに問題が展開し、出てきたのが中道である。
快楽も苦行も、一つを追求して満足しても、それでは満ち足りず、また次のものを追い求めざるを得ず、果てることがない。
結局自分の心身を苦しめることになるので、中道ということを一番修行の根本に釈尊はした。
快楽と苦行以外でも哲学的な面でも、いろいろな極端なものがあった。
カッチャーヤナよ、世間の人々は多くは二つの立場に依存している。
それは即ち「有」と「無」とである。
もしも人が正しい知恵をもって世間の現われ出ずることを如実に観ずるならば、「無」はありえない。
また、人が正しい知恵をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、「有」はありえない。
・・人格を完成した人は、この両極端に近づかないで、中道によって法を説くのである。
『サンユッタニカーヤ』
釈尊の時代は都市部の商業と工業が急成長して、その覇権争いによる戦争が長く続き、人々は精神の拠り所を失っていた。
考え方もいろいろあり、人間の運命は必然の如くすでに決まっているので努力しても無駄である、というような考えの人もいた。
また、すべては偶然に支配されているのだから、なるようになる、と考る人たちもいた。
また一方では快楽に耽る人もいたし、また一方では苦行に耽る人もいたし、あるい何もわからないのだからもう考えることなど止めてしまうという懐疑論を説く人たちもいた。
人間の観念や概念はたくさんあるが、それらを整理すると、結局は「有」を説く思想と、「無」を説く思想とに帰着する。換言すると有とは肯定であり、無とは否定である。
なぜ釈尊が中道を説かなければならなかったのだろうか?
「世界は常住である」という見解があっても、
また、「世界は常住ではない」という見解があっても、
しかも、生あり、老いあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは、いま、まのあたりにこれらを制圧することを説くのである。
『マッジマニカーヤ』『中部経典』
宇宙論を始めとする「有るや無いや」は概念であって実際に経験できるものではないので、知的な会話としての楽しみにはなるが、議論は専門家に任せておくとして、釈尊が力を注いだのは個々の「生・老・病・死」の問題である。
これらが何人も逃れることはできない人間の生存の本質的なものであり、各自が与えられた命を自分の生涯において如何に生きるか、ということが釈尊の肝要な関心事であり、それが教えとなった。
だから体験して解決ができない問題に囚われることなく、まずは各自がどう生きたらいいか、ということをそれぞれ考えようではないかという提案が釈尊の出発点である。
各自の心を浄めて苦しみを軽減させるためには、これ以上に有無論に関わって余計に頭を使うな、という示しであろうと推察される。
仏典の中にある、生あり、老いあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悶え、と読み過ごしてみると実感がない場合もあるが、毎日の生活で考えると、それぞれに思い当たる深い不安や苦しみがあり、その解決の方法が中道である、と釈尊は説いている。
「イエスか」「ノー か」で答える質問に迫られた時に、釈尊は答えを与えなかった。
それを仏典では「無記(むき)」といい、二つの対立した意見や命題がある場合に、どちらでもないといい、それから離脱している。
どちらに対しても答えを与えない、というのは答を推定できていないとかただの問題からの逃避ではなく、心の浄化により物質的レベルからエネルギー体レベル、そして霊的レベルを徐々に体感していくまでは、各自は自分の立っているレベルによって答えを導き出すしかない。
結果としての答えは相手にとっては一時的なメリットや喜びや救いでしかなく、その答が導き出される考え方を学んでいないのならば迷った時にはまた答えを授けてもらうしか方法がない。
釈尊の指標は、たとえば収穫したキノコをあげることではなく、キノコの育て方や作り方を相手に伝える、ということである。
具体的には、どういうふうにしたら中道を歩み、人生の不安、苦を、どのように解決したことになるのか?
それは八支(はっし)の聖(せい)なる道である。
いわく、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命
これが人格を完成した人の悟り得た中道であって、
これが眼を開き、智を生じ・・・涅槃におもむかしめるのである。 『サンユッタニカーヤ』
ここに「八正道」が中道である、と書かれている。
八正道とはパーリ語のariya-aṭṭhaṅgika-maggaを訳したもので、
ariya聖+aṭṭha八+aṅgika共に立つ(構成する)+magga道を意味するので、直訳には「聖八道」もしくは「八支聖道」が良いのかも知れない。
というのも漢字に訳された「正」は原語のパーリ語ではsammāであり、これは「加えたものからの解放」を意味しており、「加えたもの」とは具体的に貪瞋痴を意味しているので、「正」とは意味の違うことだからである。
聖八道の最初のステップは「SammāDitthi」は「私たちの世界がどのように機能するかを見る(新たな)方法」のことで、漢字では「正見」と訳されたが、これは原語のパーリ語からみると、元の本来の意味の解釈から離れている。
リンクの通り、「正」とは正反の対立を生んだり、侵略に関わる字源をもち、誤解されやすい漢字だからである。
sanの意味のリンク
sanの意味 「正」は誤訳?
パーリ語のsankhyāは数字を意味し、sankhyā=「san加算」+「khyā減算」
このように「san」は「取得または追加」に関わる意味を持つ
「san」は、私たちの道徳的/不道徳な行為を通して「私たちが獲得する良いことと悪いことを獲得・習得・捕捉する」という基本的な意味である。
「san」に道徳的行為が含まれる理由は、それらが輪廻転生(sansāric)の再生(追加)にもつながるためだからだ。
良いカルマを実践したら人界や天界などの良い領域での輪廻転生に繋がり、dasa aksala10不善のような悪い業kammaを実践すると、apāya 苦界(地獄、餓鬼、阿修羅、動物)での輪廻転生すると釈尊は説いたが、どちらにしても「san」のある行為は輪廻転生に繋がるという点では共通である。
sanはリズムが良いため、語尾が「n」ではなく「m」に置き換えられてsamとなることもある。
たとえばsamsāra(sansāra)輪廻は、どちらの方法でも記述および発音する。
対して、sammāは「san」+「mā」が韻を踏むためnがmとなり、「sammā」と記述され発音される。
「san」には輪廻の層に関わる修行の段階がある。
31領域からなるこの世界の真の性質を理解することで、「san」から解放されて貪瞋痴から離れた見解を得ることができる。
まずは、apāya苦界( apāyāsとの違いはある?)での出生につながる不道徳な活動につながる「san」を削除する必要がある。
次に預流果Sōtapannaになった後は、感覚の快楽にかかわる「san」を排除するよう努めるべきであり、
そして 不還果Anāgāmiになった後の目標は、色界rūpaおよび無色界arupaの禅定 jhānaによって「san」を削除するである。。
このようにしてsanの意味を把握すると、sankhāra, sansāra, saññā,
sammāなど、sanが含まれる多くの単語の語源を理解することができる。
たとえば、sankhāraの語源は(san+khāra行う)なので、「san」を実行することで、再生プロセス(輪廻転生)が獲得(追加)されることを意味する。
sansāric(またはsamsāric)san +sāra実りあること、を語源とする
sansāra(samsāra)はsanが実りあることを意味するので、それは貪瞋痴の溢れる世界なので、それは「再生プロセス」、すなわち輪廻を意味する。つまり貪瞋痴が溢れるために輪廻転生の旅を長く続ける世界であることを示している。
これは、実りあること(sāra)は良いことだと多くの人は信じていることに起因している。
私たちは喜んでsan(追加)をしている本性が貪瞋痴であり、その実りの結果によって、再生プロセスに閉じ込められてしまうことを知らないからである。
sanは善良で実りがあるという誤った認識が多くのヒトにはあるので、sankhāra(特にabhisansāra)を行うことによって、長い再生プロセス(輪廻転生)を続けることになる。
縁起説Paticca Samuppādaでは、すべての苦しみは「avijjā paccayā
sankhāra」で始まる。
したがって、avijjāを完全に取り除くと、すべてのsankhāraが停止し、Nibbānaに到達して阿羅漢の段階が達成される。
それまでは、各自はanicca、dukkha、anattaの状態であり、この世は三相が埋め込められて成り立っている。
anicca ヒトは望みの達成を持続することができない
dukkha 不完全である、無意味であり、苦しみになるもの
anatta この世では我は無力であり、なにも為すことができない
samyōjanaは、仏教において「結」と訳され、sam獲得したもの(貪瞋痴)+ yōjana縛り付ける、から成り立ち、衆生を輪廻に縛り付ける「束縛」としての煩悩のことで、この結のため、人はdukkhaに満ちた生を繰り返すこととなる。
しかしsanを除去する作業を開始することで、まずはじめに
有身見sakkāya-diṭṭhi (sak存在する + kāya身体+ diṭṭhi見)と
疑vicikicchāと戒禁取sīlabbata-parāmāsa の3つのを分割し、除去できるようなる。
sammā はsan加えたもの(貪瞋痴)+mā 〜からの解放、を意味する。
māの用法はたとえば
Māhoti jatiは、繰り返される誕生から解放されますように、を意味し、
māmébālasamāgamōは、Dhammāを知らない人たちとは関係がありませんように、という意味である。
saññāはsan +ñā(知っていること)= sanを知っている(理解する)ことから由来する。
実際にNibbānaに到達すると、何がsanであるのかを理解することができる。
達するまでは、この世に対する歪んだ認識がsaññāである。
たとえば、人を見るとき、私たちはその人との親密さに従って、すなわち、その人に対する認識に基づいて、その人を識別して評価する。
つまり、Nibbānaが達成されるまでは、私たちは何かの真の性質を「見る」ことはせず、私たちはsaññāを歪めて(vipareetha不協和)いることになる。
中立
同じ平面の上に二つの対立したものを並べての「中」というと、足して二で割るというようなことを潜在意識のレベルで考えがちになる。
この対立とは物質的レベルおよび抽象的レベルの両方においてである。
またこのような物質や抽象的対立がある時に、「中立」といって、綺麗ごとをいう逃げ道もある。
眼の前にある実際の出来事は、各TPOにそれぞれの事実が顕出することでそれぞれの立場があるので、誰もがその各瞬間の都度に各立場に立つことになる。
AのTPOにはAの事実があり、BのTPOにはBの事実がある。
この2つの間に実在する点などはない。
また、CのTPOにはCの事実があり、これはAのTPOでもBのTPOとも無関係であるのに、Cはそれを「中立」とただ勝手に名付けているだけである。
この世にはそのような存在は各自の頭の中だけに存在する観念でしかないのだが、中立という事実があると妄想しているにすぎない。
これは抽象化された観念の潜在意識レベルの話なので、表層の意識として、なかなかこのことが自覚できない。
霊的レベルの中道 かなめにいるのが中道
「中(ちゅう)」という字はこれは「あたる」とも読み、本当に適切な、要点にピタッと当たるということが必要である。
これは「正しい道」という解釈ではない。
「正しい」と記述すると、正しさをそのまま定義する必要があり、それは眼の前にあるあるがままの状態を固定化されてしまうことになってしまう。
しかし、原語であるsammāが表現しているのは、「貪瞋痴から離れる」という否定形をわざわざ使って説明しているのは、定義による固定化をしないで、ありのままの流れるような状態を指し示すにはふさわしい記述の仕方になる。
「中道」という真実を踏まえ、肝心なポイントを押さえた生き方とはどのようなものなのか?
真実とはdhamma宇宙の法則のことであり、肝心なポイントを押さえるとは、TPOによって常に変化し続けている唯一無二のありのままの状態に、瞬間瞬間ごとに対応して一体感を持ち続ける、ということである。
だから、中道を生きよとか、中道実践といっても、そう簡単にできるものではない。
そのためには、現象も主体も固定化させないことが前提条件なので、漢訳の仏典では、「中道」を「主要の道」と訳していることもある。
「主要」とは肝心要のところにピタッと当たるところが真ん中で、これが要を踏まえるという意味で、中道の精神である。
いろいろな視点に立つことによってもっとも適切な肝心な要に積極的にあることが、形のない(無色界の)「中」の精神である。
ヒトだけなく如何なる生命体にあるものが「いのち」である。
「いのち」がなければ生物は存在しないので、「いのち」を奪うことは悪であり、これを仏教では禁止している。
まずはヒトに対して、次に哺乳類、魚類、虫類などの動物に対して、と仏教の慈悲の気持を及ぼす範囲は広い。
そしてその範囲を植物や微生物まで広げていくと、ヒトは他の「いのち」を奪うことでこの世にサバイバルしているという事実に突き当たることになる。
いかなる生命体にとっても善悪というのは抽象的で相対的な観念であることに気づくと、その中で暮らす私たちには絶対の善は存在しないことが理解できる。
キレイにいうと、生命体は他者によって活かされているという事実である。
または、他者の「いのち」をいただくことで生存している事実である。
この事実は否定しようがないが、できるだけそれを弱めようとする気持ちが生まれてくる。
しかしだからこそ、この世に居続けると、慈悲の心がうまれる。
他の生命体に寄り添うことで、時に他の存在を共によろこび、時に他の苦しみを知りなんとかしようとする。
Mettā慈
友情という意味
あらゆる生命を慈しんで楽を与えたい(幸せであってほしい)と思うこと。
友人のことを思い浮かべると心が明るくなり、自我中心的な気持ちが緩むので、この気持を育む。
「幸せでありますように」と唱えながら、自然に起こる明るさ、優しさ、微笑みを想い出す。
まずは自分自身の幸せを念じる。
生命の心の本能を復活させることで、明るくなる。
次に親しい人々のことを思い浮かべて「幸せでありますように」と念じる。
スタートは両親や叔父叔母や友人がふさわしい。
異性や子供を選ばないのがコツ。親しみが愛情に変わって、煩悩に溺れてしまう可能性があるからである。
故人は悲しみを作る可能性があるので避ける。
だんだんとその輪の中に、普通の友人や地域の人や知り合いなどを入れていく。
そしてまたスタートの人たちを思い浮かべると、心に現れた明るさ、優しさが強化されて拡大していく。
次に、地方や、国や、地球の人類と輪の中に入れていく。
ますます明るさを心が経験していると、ネガティブな感情や思考には居場所がなくなり、脳も心も喜びを感じ、これが体にも響いてくる。
輪が拡大すると、親しいでは括れなくなるので、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じる言葉を変えて、対象に生命を入れていく。
目に見える生命、見えない生命、宇宙生命。地獄から梵天までの31界の生命はもし、いるのならば、みんな、幸せでありますようにという気持ちで瞑想を続ける。
次に、自分が本格的に自我のない優しい人間に成長したのかどうかを確かめるために、
「私の嫌いな人々も、私を嫌っている人々も幸せでありますように」と念じてみる。
嫌いは人を想い浮かべることで修行中の心は暗くなるが、問題はない。
やがて嫌いな人も、嫌っている人もいないのではないかということに気づく。
これが「慈の瞑想」が成功した印である。
空回りになる言葉は念じず、実感を念じ、生きとし生けるものならば誰でも幸せであってほしい、という気分になるまで、瞑想を続ける。
自分の心の優しさと明るさを育てる実践なので、自分という境界線が拡がっていくことで、常識のレベルを外れた喜悦感が体に湧き出て、心が統一する。それがサマーディである。
他の生命のことを見る時に、思う時、悲しみの気持ちが優先になってしまい、他の気持ちが起こらなくなる。
ここまで成長したらupacāra- bhāvanā である。
次に慈しみの気持ちが強くなって、体も心も慈しみの気持ちに支配されてしまう状態はappanā- bhāvanāである。
それからサ禅定が起こり、マーディ状態になる。
この時には、慈しみの気持ちと自分自身が一体になっているので、我は消えている。
karuṇā悲 他人の苦しみを見てなんとかしてあげたくなる本当の気持ち
すべての生命は自分の業kammaによって生きている。つまり自分の行為の結果である。
幸福な人は自分の為した業kammaによって幸福になり、
不幸な人は自分の為した業kammaによって不幸になる。
つまり、生命は「自立」しているということである。
殺された被害者は加害者のせいで死んだわけではなく、殺される業kammaがあったところで、愚かな加害者に遭遇したのである。加害者はその罪をこの輪廻転生の中でしっかりと経験するであろう。
だから被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はない。
このような恨みを持たない被害者の家族がこの世にはいて、誰にもこのような悲しみを味わってほしくないと思い、他の人々にもアドバイスを与えている人たちもいる。
karuṇā悲を実践する人たちは特別な善行為をしている。
またkaruṇā悲のおかげで、恨み、憎しみ、落ち込み、遺恨は機能しなくなり、悲しみを乗り越えている。
karuṇā悲は釈尊と菩薩のモットーである。
古今東西において、自然の厳しい所で暮らす者たちは、生きることの厳しさを実感し、生き物の命を憐れんで、不必要に奪うことを避けようとしてきた。
歴史的には南アジア、東アジアのほうが生き物を憐れむ伝統が強く根強く続いてきた。
対してメソポタミアやギリシャや欧米では、このような思想が少なく見えるのは、ポリスなどの塀に囲まれた中での思考法にスポットライトを当てる伝統があったからである。
しかし人類の文化が進展し、文明の中で生まれ育つ者たちが「善」のことを考えた時に、自分たちの生活があまりにも「善」から離れていることを反省をするようになり、近世になると、動物愛護や自然環境保護の思想と行動が生まれてきた。
よく言うと善の目覚めと実践であり、
悪くいうと、既に善を実践しているということで、それ以上は、絶対の善への探求を続ける必要がない、という言い訳になる。
「中(ちゅう)にはとらわれるな」ということを仏典では説いているが、これは両端を定義することで、それを否定することで、その中間の変化し続ける動きを感じ続けることを目指すのであって、両端を決めたことで中(ちゅう)を定義してしまい、それにこだわるのではない、という意味である。
「主要の道」「肝心要の道」とは、ポイントを押さえ、真実を押さえている生き方をするための
具体的な指針は、一人一人の各自がそれぞれの立場において、真(まこと)を尽くしていく、という自分の心の中から出てくるものを基準にしながら努力をしていく。
突き詰めて考えると、めいめいの人の問題になり、それをめいめいの人が実現するということに帰着するので、一律にはいかない。
あくまでも真実(dhamma宇宙の法則)を踏まえ、真(まこと)を通すという基本を押さえながら、努力して生きていく。
それが自ずと、貪瞋痴に囚われない道を歩く生き方に通じて、心掛けていくのが「中道」であり、その実践であり、仏教の教えであり、東洋の心の底流にあるものである。
自分というものがはっきり有るとか無いとか、世界が有るとか無いとか、そのどちらも対立の一方であって、あるがままの事実を体感している見解ではないというのが、釈尊の言葉の主旨である。
有という人もいるが、私たちが有ると思っているものはみんな消え失せるではないか、という人がいる。
そして無にとらわれて、すべてを否定する人もいるが、現実には有も無もともに生かして、ありとあらゆるものは縁起によって現れ出る。
有るということ、それから無いということを否定できない現実がある。
つまり有るということに、有ることに拘らないし、無いということで無いことにも拘らない。
いろいろな因縁の原因と条件が集まり重なって、事柄が現れ出て、また消え失せる、のをあるがままにみようというのが「縁起」の教えである。
たとえばプラスとマイナスのどちらか一つで片付ける考え方があり、すべてプラスだと言えば、マイナスが消えてしまい、マイナスだといえばプラスが消えてしまう。
現実にはプラスとマイナスの両方あるので、それぞれの立場を認めながら片方に囚われことなく両方があり全体を引っくるめる形でみていくのが縁起という見方である
縁起というのは、読んで字の如く、縁(よ)って起こる、という。
互いに依存して成立しているので、何も孤立したものはなく、必ず他のものに縁って起こっている、というのが縁起の思想である。
すべてが依存している。すべてが関わり合いの関係の中で存在しているから、関係を切ってしまって、これだけがあるとも無い、ともいうのは事実に則さず、「有る」と「無い」ということを全部引っくるめた形でこの世の中のあり方を見ていく見方である。
「有と無」は抽象的な観念の対立だが、現実の世界では、どんなモノも人も孤立して存在しているものはない。
お互いに関わりを持って、他のものに依存して、他の人々のお陰を受けて生きているという気づきが縁起の理(ことわり)である。
「両極端を離れる」とは、いろいろな意味で極端に走ることを自分で抑制し、調和を心掛けていくことだが、
前述のように
1物理的解釈 始点と終点 古今東西の「中庸」や観念としての「中立」や平均や中点
2心的解釈 両端は振動させるために必要な基点であるので両点を避ける、両端とは貪瞋痴のこと。
3空的解釈 端は縁起による形の表出なので、実質的なものではなく、空に繋がる入り口である
1両極端を固定化することで中点が明らかになる
2潜在化された両極端を顕出化することで、その両端を基点にする。
そうすれば2つの間にあるものは揺れる(ありのままの状態になる)ことができる。
両端から離れることによって、その揺れている事実を体感することができる。
3対立する世界から対立があるときもないときもある振動の次元(空のはたらきのレベル)の世界の入口に立つこと。
両極端を知りながらもそこに留まることのない境地
ウィキペディアをはじめ、一般的な中道の解釈は両端を固定化させて物理的解釈をするものが多い。
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
— ケン度大品 5,16-17
「ソーナSona-kolivisaよ、琴を弾くにはあまり絃を強く張ってはよい音は出ないであろう、また、絃の張りが弱すぎてもよい音は出ないであろう、ソーナよ、仏道の修行も、まさにそれと同じであり、刻苦に過ぎては、心たかぶって静かなることが出来ず。弛緩(しかん)に過ぎれば、また懈怠(けたい)におもむく。ソーナよ、なんじは、琴の音を調える時のようにその中をとらねばならない。」 (中道の教え)
サンユッタニカーヤ(相応部経典)弾琴の喩
釈尊がソーナという僧に向かって教えられた。
楽器の弦があまり強く張っていてもいけない。そうかといってまた弛んでいてもいい音は出ない。ちょうど適切なところで張らなければいけない、ということを教えられている。
勝手な私意訳
「エネルギーの出力が多すぎると落ち着きがなくなり、エネルギーが弱すぎると怠惰になります。」
「ですから、この現われのような「空」のはたらきについて精進する決意が大切です。」
“Evameva kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atilīnavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ精進の教義 adhiṭṭhaha決意する, indriyānañca空の機能? samataṃ信念、教義 paṭivijjha同上の tatthaのような caそして nimittaṃ印、兆し gaṇhāhī数?”ti.
Evameva In this very way,even thus
kho 実に indeed; really; surely
accāraddha+vīriya Brother + Diligence
uddhacca: 掉舉,心のうわつき
saṃvattati:[saṃ + vat + a] exists; leads to To lead,conduce
atilīna+vīriya
kosajjāya.[kusīta-ya] 懈怠 idleness,sloth,indolence
Tasmātiha tasmā(ta的離格)+t+iha這裏 Therefore, in this world
tvaṃ 人称代名詞 二人称 単数
vīriyasamataṃ 精進の教義?
adhiṭṭhaha 決意する
indriyānañca 空の機能?
ānañca ākāsa:m. [Sk. ākāśa] 虛空,空.
samataṃ信念、教義
paṭivijjha同上の
tattha そこに,そこで,そのとき
ca と,そして,また and, then, now
nimittaṃ 印、兆し
gaṇhāhī 数
ti itiの略 かく,…と,とて
参考資料
中道Majjhimā-paṭipadā
2つのものの対立を離れていること。
断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと。
解釈は各宗派によって微妙な違いがある。
漢語としての中道
中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す。
二辺の語義
二辺は、中道を離れた両極端を指す。
仏典では『中論』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『順中論』の巻下が〈常・断〉を、『摂大乗論』世親釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている。
二辺の語義に、「二諦」と同様の"空"や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある。
総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする。
原始仏教・パーリ仏典・阿含経典
原始仏教において中道は、主として不苦不楽の中道を意味した。
具体的には八正道を指す。
不苦不楽の中道
中阿含経巻56などでは、八聖道の実践は快楽主義と苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃のさとりに趣く道であるから八聖道を中道という。
初転法輪
釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際に(初転法輪)、中道と八正道について次のように述べたことが、パーリ語経典相応部の五六・二に描かれている。犍度大品における初転法輪のほぼ同様の内容である。
そのとき、世尊は五人の比丘に告げられた。「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
第一にさまざまな対象に向かって愛欲と快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。
また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。
比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。
これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。
それは八つの項目から成るとうとい道(八支聖道)である。 相応部諦相応
十二縁起と中道
雑阿含経巻12などでは、十二縁起の真理を正しく理解することは、常見と断見や、有見と無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く。
条件付きの発生とは 「永遠主義」と「消滅主義」の極端を避ける中道である。永遠の自己の存在、また死による完全な消滅という考えを避ける。
上座部仏教の救済論においては、無我とは、永遠の自己を否定し、さらに死亡時の完全な消滅も否定するものであり、因果に基づく現象発生と停止のみが存在する。
縁起とは、ドゥッカをもたらす十二因縁ともされ、無明から老死までの一連の依存関係である。
部派仏教・部派仏典
『総合仏教大辞典』は、部派仏教では大毘婆沙論巻四九や成実論巻十一などに、阿含の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている。
大乗仏教・大乗仏典 中論・中観派
ナーガールジュナの中論では、中道は縁起・空・仮名と同じ意味である。
また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う。
中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである。
中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という。
中観派では、般若波羅蜜を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする。
瑜伽行派
瑜伽行派(唯識派)においては、認識対象は外在的なものではなく識の顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)。
琴の弦(緊緩中道)
パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった。
それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った。
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「そのとおりです、大徳よ」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
— ケン度大品 5,16-17
出典
律蔵犍度、大品 5,16-17
英文 theravāda vinayapiṭaka khandhaka (mahāvagga) 5. Leather (Camma)
The story of Soṇa Koḷivisa https://suttacentral.net/pli-tv-kd5/en/horner-brahmali
原文 mahāvagga Cammakkhandhaka1. Soṇakoḷivisavatthu https://suttacentral.net/pli-tv-kd5/pli/ms
釈尊の中道の教えに、弦の張り方のたとえがあります。
弦をあまりにきつく張っていても、反対に弦が緩く張っていても良い音はではない。
ちょうど良く張られているのが、良い音色を出すのだ。
というものです。
「ソーナSona-kolivisaよ、琴を弾くにはあまり絃を強く張ってはよい音は出ないであろう、また、絃の張りが弱すぎてもよい音は出ないであ ろう、ソーナよ、仏道の修行も、まさにそれと同じであり、刻苦に過ぎては、心たかぶって静かなることが出来ず。弛緩(しか ん)に過ぎれば、また懈怠(けたい)におもむく。ソーナよ、なんじは、琴の音を調える時のようにその中をとらねばならない。」 (中道の教え)
サンユッタニカーヤ(相応部経典)弾琴の喩
抜粋翻訳
「琴の弦がぴんと張られているでもたるんでいるでもなく、演奏に適したピッチの時に琴の調子は良かったですか?」
「エネルギーの出力が多すぎると落ち着きがなくなり、エネルギーが弱すぎると怠惰になります。」
「エネルギーの適性に基づいて、空のはたらき(機能)を適性を貫き、それについて熟考しなさい。」
これを『両極端によらずに中ほどが良い』と解釈すると中庸と同じになります。
このように両端(きつい張りと緩い張り)にスポットライトは当てるとこのような解釈になるが、仏教でフォーカスする部分は、弦の張り具合の両端ではなく、まずは自分の気持であり、次にそれが具体的になる周波数であり、最後にそれを実現化する張りの調整である。
釈尊が「自分が出したい音(目的)に合う張り方が、ちょうど良い張り方である」
この解釈の違いは、「両極端」という前提にある。
「端」という状態があると思って、それを前提にしていることから誤謬が生じる。
しかし「端」という状態があると思うのは幻想で、「端」が当然のごとくあるように見えているのは囚われです。
その前提がある状態で、弦のたとえを聞くと「中ほどが良い」と解釈してしまう。
しかし、釈尊の悟りは、「縁起」なので、端という「起点・終点」を想定しないことが前提なので、当然として「中」という基準を想定する解釈をすることはない。
換言すれば、有・無、断・常などの対立した世界観を超越した無分別で世界を観るのが「縁起」なので、起点となる端はなく、端がなければ中もない。
しかし、ひとたび、「自分が出したい音」という目的を持つと、その縁に因ってちょうど良い張り方が生ずるのです。
Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā徐緩にすぎるhonti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti,
kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”ti.
“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo neva accāyatā honti nātisithilā, same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammaññā vā”ti?
“Evaṃ, bhante尊者”ti.
“Evameva kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atilīnavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ精進の教義 adhiṭṭhaha決意する, indriyānañca空の機能? samataṃ信念、教義 paṭivijjha同上の, tattha ca nimittaṃ印、兆し gaṇhāhī数?”ti.
“Evaṃ, bhante”ti kho āyasmā soṇo bhagavato paccassosi.
Atha kho bhagavā āyasmantaṃ soṇaṃ iminā ovādena ovaditvā—seyyathāpi nāma balavā puriso samiñjitaṃ vā bāhaṃ pasāreyya, pasāritaṃ vā bāhaṃ samiñjeyya; evameva— sītavane āyasmato soṇassa sammukhe antarahito gijjhakūṭe pabbate pāturahosi.
What do you think about this, Soṇa? When the strings of your lute were too slack, was your lute at that time tuneful and fit for playing?”
“No, indeed, Lord.”
“What do you think about this, Soṇa? When the strings of your lute were neither too taut nor too slack, but were keyed to an even pitch, was your lute at that time tuneful and fit for playing?”
“Yes, Lord.”
“Even so, Soṇa, does too much output of energy conduce to restlessness, does too feeble energy conduce to slothfulness.
“Therefore do you, Soṇa, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it.”
“Yes, Lord,” the venerable Soṇa answered the Lord in assent. Then the Lord, having exhorted the venerable Soṇa with this exhortation, as a strong man might stretch out his bent arm or might bend back his outstretched arm, so did he, vanishing from in front of the venerable Soṇa in the Cool Grove, appear on Mount Vulture Peak.