三木成夫
内蔵のはたらきと子どものこころ
生命とリズム
胎児の世界
人間生命の誕生
遠い遠い時代の体感 生命の記憶
祖先が感覚したもの
胎児のときの感覚
本能をつかさどる部分にしまいこまれており、ふっと私たちの心によみがえる
潮騒の音 海から陸への変化 エラが肺に変わる胎児
内蔵感覚と理性感覚(大脳皮質感覚)
おなかの空いた時の胃袋の感覚 お腹がすくと機嫌が悪くなり、ケーキを食べると笑みを浮かべる。
乳を吸う時の唇の感覚
オシッコの時の膀胱の感覚
オシッコ
体のルール 中身が詰まると収縮する膀胱と直腸 中身の刺激による内蔵筋の収縮
幼児はこの時の感覚を失敗を積み重ね、尿意・便意として頭でコントロールすることを学んでいく。
膀胱が膨らんで内圧が高まるほど、収縮させる逆圧が高まります。この状態を我慢しなければならいのが禁尿感で、このプロセスは「不快」です。
緊張が取れていく放尿感は「快」です。
まずは不快になり、そして快になります。
子宮の怨念
生理 28日間の準備と使わないことによる放出という結果 これはすごい内乱である。
こんな時に、理性では理解できない行動を起こすことがある。
自然の流れを堰止めるヒトの大脳皮質
将来を心配する避妊 野生の動物や植物にはない あるのは天の配慮
これが観賞用の八重桜や種無しブドウにつながる。
無明
仏教の十二縁起観の最後に行き着くのが「無明」です。これはサンスクリット語ではa-vedanaといい、aは否定の意味で、vedanaは「色・受・想・行・識」の「受」のことで、からだの内外の変化をありままに「受け」とる機能のことで、からだの智慧です。これは「識」(知識・理性・大脳皮質)の知恵ではありません。からだで感じることです。「腹の底」からわかる時の土台が「受」の機能です。この「受」こそ内蔵感覚のことです。
無明とは、内蔵感受にとって不快なもの、例えば膀胱が一刻一刻と張り詰めてくる状態、が人間苦の究極の引き金である、と十二縁起観は言っているのです。
例えば、空腹が縁となって百八煩悩が夏雲のように湧き上がってくる、ということです。
お腹がすいただけで、「生老病死」「愛別離苦」「怨憎合」「求不得」といった煩悩が頭の中にムクムクと湧き起ってくるということです。そしてありもしないことが気になり始めます。貧困妄想・罪責妄想・心気妄想です。
振り払っても振り払ってもまとわりついてきます。これは無明を縁として起こってくるというわけです。
仏教の達人は、お腹が空いた時に、なにがどれくらい不足しているかがわかって、それにふさわしいものを食べることができます。言うのは簡単ですが、実行するには難しく、修業が必要です。
赤ちゃんがむずかる時
肉体からのメッセージがある時です。肉体の生きる理(ことわり)です。
おっぱいが足りない時
おしめが汚れた時
眠りが足りない時
体のメッセージを聞こえなくする意識のメッセージ
肉体からの「不快」のメッセージを聞きに行けばいいのだけど、本人が聞こうとしても、他者が意識の「不快」を与えることでそちらにスポットライトを当ててしまい、自分の体の声が聞こえなくなってしまうことがあります。
顔とは腸(肛門)の先端
顔とは内蔵露出の脱肛です。
エラと腸の感覚の先端が一面に広がったのが顔面です。
食物を選別する精巧無比の触覚が唇と舌です。
そしてこの管は鰓でもあります。ヤツメウナギやホヤが5億年前からの生き残りです。
腸の収縮運動でエサと空気(水)を一緒に取り込むのです。
哺食 「のどから手がでる」
舌は食べ物を分別する触覚の手として進化してきました。
カエル、カメレオン、アリクイ
哺乳類はこの舌の使い方を正しく受け継いで、日々訓練して、母親の乳首から乳を吸い取ります。
母親も赤ん坊も初めての哺乳はうまくいかないから、死に物狂いです。しかし、これが感覚を広げ、伸ばす、はじめの大切な成長です。哺乳瓶ではこれが育ちません。
乳はウシだけではいけないと思います。やはり種独自のものがあります。
この母と子の哺乳に協力しなければならないのは男性諸君です。ストレスを家庭に持ち込むと母乳がピタッと止まります。母乳は汗腺が分化したものですから、緊張すると汗がサッとひいてしまいます。
母親はゆったりとして副交感神経が活性化させておかないと、乳が出ない仕組みになっているからです。
犬や猫はお産しますと、胎盤を美味しそうに食べます。催乳物質が含まれているからです。
保育
保育をする上で、実際に子供をよく観察せず、自分の考えを押し付けたり、大人の都合で子供の本当の要求を無視したりして、かえって子どもの発達を阻害している場合が多いことを、私たちはよくよく反省しなければいけない。斎藤公子
舐める
赤ん坊は舐めることで感覚を広げていきます。モノによっては20分も舐め続けています。
この舐めるという動作は大人になっても無意識に忽然と蘇ってくる体の体験です。命の記憶とでもいいましょうか。
距離というのも畳の目を舐めながら進んだ赤ん坊の記憶がベースになっています。目の距離感だけでは距離計の理性の理論で片輪だけです。舐めるという体の体感があってこそはじめて両輪になります。
畳を舐めると適度なバイ菌が体に入り、腸管のリンパ系が心地よく刺激され、過不足ない防御体制下ができあがるからです。少々の毒物は、舌を通してどんどん入れてやることです。それを衛生だとか何かとやりますと、無菌動物になる。世の荒波にもまれたら一たまりもない。
畳を舐めるとは、形態の把握と外敵の防御の基礎訓練という、二重の意味を持ったものになります。
心の目ざめ 指差し 満一歳
舐め廻しが始まる頃に、ぼつぼつと心の目ざめが始まると思われます。「指差し」がその象徴です。
指を指すということは、一箇所に意識を集中させるということでもあります。自然の一点を固定することです。
上の子供が初めて窓辺で雀を見た時にちっちゃな人差し指を伸ばしました。そしてすぐに部屋の中へ向き直って、今度は小鳥の飾りがついたガラガラを指差しました。あれと同じだというのでしょう。同じものを発見する初体験です。印象像と回想像の二重映しです。
「アー」と声を出しながら遠くのものを指差す動作こそが、ヒトと動物を区別する最初の標識だと、ドイツの哲学者のクラーゲスは言っています。
「あたま」は「こころ」で感じたことを切り取って固定する作用を持っています。指差しは、切り取る(照準・注意・スポットライト)行為ですので、「あたま」の働きの微かな萌しです。
呼称音
そして「ブーブー」や「ワンワン」という呼称音が加わり、言葉が始まるのです。これがヒトの原初の「思考」の姿です。
そして指差しは視覚の空間性に焦点を当てることですが、呼称音は聴覚の時間性を区切ることで「形」を作る行為です。これが原初の思考だといえる理由です。
立ち上がり 満一歳
高いところから全体を見渡そうとするヒトの本能。熱烈な好奇心。この眺望の視点を得ようとするものがヒトを直立にもたらしたのではないでしょか。
遠くを見る眼差しです。遠くを眺めようとする衝動です。
この「遠」に対する強烈なあこがれは、宇宙の彼方まで果てしなく旅を続けていきます。
三歳頃に自己が誕生するまでは、「遠」の眼差しを持つ桃源郷の住人のようです。
言葉の獲得 満一歳 満二歳
「コレ、ナーニ」 一歳半
舐めなれた、触りなれた、見なれたものから、舐められない、触れないものとの接し方。
初めてのものには「かつて」の感覚の記憶はありません。そこで幼児が求めているものは、「かつて」の実感です。舐めたり、触ったりして得た実感を今度は、聞くことで実感しようとしているのです。印象(形のパターン)を実感しようとしているのです。ここでは肉声の織りなすパターンです。これを実感しようと幼児はしているのです。これが話し言葉です。要するに名称です。その名称の持つ音声の響きに幼児は耳を聳てているのです。
名前を読んでやれば、幼児は安心します。必要なのは肉声の持つ心地よい響きで満足します。
この指差しの「こころ」の感動は、「もの」と「なまえ」を一体化させた「あたま」によって「言葉」になりました。古代インドの「名色」です。
これは大人になっても変わりません。野山に行って知らない草花や鳥と出会い、それらの名前を聞くだけで、聴覚がくすぐられて満足感を覚えます。
ただ「あたま」が働きすぎてしまい名前にこだわりすぎてしまい、名前のいらない「こころ」の感動がその分だけ減ってしまうという弊害がありますが。
音色の響き
ヨチヨチ、ヨタヨタ、ヨロヨロ、ヨレヨレ
音の色調によって世界は象徴されます。音によってある印象を古今東西においてヒトは共有します。
五感の橋渡しの表現
香りを聞く 味を見る 感触を味あう
象徴思考の世界
「ドーシテ」二歳半
外の世界にあるものの根源の類似をさがす。
二つのものから共通点である面影をさがす。
まさしく象徴の世界の住人です。
これが言葉の起源となります。
概念思考
過去を映し出すのが脳の仕組み 「かつての彼方」と「いまの此処」を二重映しにする
同類をまとめて一つのものとして捉える。例えば波の音。一つ一つは違うものなのに、無意識に同じように波の音として捉えています。ここから「波」という概念を描き出します。これが抽象概念です。
個々の波の顔つきは微妙に異なるのに、全体としての「波」は同じです。このように抽象されたものは古今東西で同じなので、翻訳することもできます。
茶碗をたたいて拍子をとるのも、時に刻みを入れて、同じリズムを生み出すことも抽象です。
また自然科学を支えている「数」も概念思考の世界です。概念を抽出する頭の作業です。
「指差し」というココロ優先の象徴的な思考に、「理解」というアタマだけの概念的思考が加わりました。
自己の誕生 三歳
自分というものができてきて、否定の判断が行動に移されるようになります。
反抗期といって、人間としておぼろの像がしだいに見えてきます。
このころまではものをいいながら考えるのですが、つぶやきが消え、「無声の対話」がはじまります。
これが「思考」の始まりです。自己の誕生です。
この時期がヒトの黄金時代であり、桃源郷であり、堯・舜の世界であり、エデンの園です。
まだなんでも分けてしまい、良いものを選択してしまう理性が発達していない状態です。
モノを分けることにより、その結果として、一つのものが上下・左右・大小・内外と二つになります。ここまではいいのですが、次にこれらを優劣・吉凶・禍福・是非・善悪の評価と判断をしてしまうのが「理性」の弱点です。これが「善悪を知る木」の本性です。そしてこの実を食べる前がこの三歳のエデンの園なのです。
絵を書き始める頃には善悪の実を食べてしまい、神様からエデンの園を追い出されてしまうことになってしまいます。
周期
90分 この周期で眠りと目ざめの繰り返しをしている。 夜は眠りが浅くなり、昼は眠くなる。
12時間半 潮汐
24時間 日型 太陽リズム 昼夜時計 光の明暗 地球の自転 山の民
25時間 月型 太陰リズム 潮汐時計 潮の満ち引き 月の重力 海の民
正確には24.8時間 50分づつずれていく。夜が遅くなる。
海型 調子の山と谷がはっきりしている。海辺の生活。
7日間 貝殻や人間の歯の縞模様 たぶん月の周期
初七日 病気も週単位でよくなる。
12ヶ月 四季(寒暑と乾湿)気象の波 地球の公転
低温から身を守るために冬眠する両生類・爬虫類・クマ
月の自転・公転時間
月は黒く見えて海と呼ばれる質量の重い岩塊と白く見えて山と呼ばれる軽い岩塊がある。質量が重い部分が地球の重力によって引っ張られるため、黒く見える海が常に地球に面するように軌道を進む。これを別の言い方で言うと、月の自転周期と公転周期が同じであるので、月は常に同じ面を地球に向けている。この周期は27.3日である。
昼と夜
昼の眼は空間を展望し地表を水平に進む。 今西錦司
夜の眼は時間に浸り、地層を垂直に進む。 井尻
夜型人間から昼型人間に変えるには
毎日せっせと「月時計」の針を一時間勧めて日時計に合わせる必要がある。
夜泣きの治療法
一日三時間ずつズラせて一週間で元に戻す。Cosmo 82 No7
月自転時間と地球自転時間のズレを「ムチ」で叩き直す。「リズム」に打ち落とす「タクト」
本来は潮汐リズムに合わせて4週間かけて元に戻す。
胎児の顔
32日 4億年前 古生代デボン紀 エラある顔 軟骨魚類ラブカ
35日 2億年 中生代三畳紀 両生類
36日 1.5億年 中生代ジュラ紀 ムカシトカゲ 爬虫類 ツワリが始まる
38日 0.5億年 新生代第三紀 ナマケモノ 哺乳類
古生物学
5億年 シルリア紀 海底 ヤツメウナギ 脊椎動物の祖先 潮汐リズム
4億年 デボン紀 淡水 ラブカ 軟骨魚類
3億年 石炭紀 上陸 両生類 エラ→肺 ヒレ→四肢 昼夜リズム
中生代 ムカシトカゲ 恐竜 爬虫類
新生代 ナマケモノ 哺乳類
胃袋感覚 二つの収縮
1 胃が消化したものを十二指腸に送るために収縮する 膀胱のように。
2 胃が空っぽの時に収縮して、食物をねだる。 ハラが鳴るということ。
胃は空だと、意識と一緒に寝たり起きたりしている。
夜型 夜に食事を腹一杯取り、朝は寝ぼけ眼 朝に無理やり詰め込むと胃下垂になる。
朝型 朝はパッと目が覚め、お腹をグーグー鳴らし、夜はもう飯が済んだら船を漕いでいる
我が道を行く胃袋
空っぽの時にハラが鳴る機械ではなく、
一日のリズム 朝・昼・夜 自転
一年のリズム 春夏秋冬 太陽系 食欲の秋、夏は食欲がない
自転と太陽系のリズムに合わせて動いている。
胃袋そのものが太陽系の一員であり、そのリズムに共鳴する
24時間+αの一日リズム
ヒトは隔離室の中で放っておくと、少しずつ夜に時間がずれてしまうので、体内時計の針を毎日進めてやらねばならない。(北大生理学 広重力)
「早く寝なさい!」 目覚まし時計 「起きろ!」
朝食拒否・登校拒否
内部(内蔵)環境を知って対処するのが大事
胃のタチ(体質・constitution)は均一ではない。
胃の顔つき(起きている・寝ている・安らいでいる・イラついている)が分からないと、愛のムチはふるえない。
これに失敗すると胃弱の子や、登校拒否の性格を作ってしまう。
眠気眼には胃袋から起こすのが効果的 ただし上手くいかなければ胃下垂のなる可能性がある
時間の位相がずれていると学校の始業時間に合わせないといけない。交感神経を目覚めさせるのは横っ面をひっぱたくとか水をぶっかけるのが有効です。朝の冷水による洗顔がおすすめです。
学校の一時間目は声を出したり、体を動かす授業を取り入れるという考え方もあるが慎重に。
生理学的には、体の活性化は目、耳、鼻、舌、皮膚、筋肉の順序。
現代の社会は朝方まで夜型に変えている。昔は夜の八時に電気を消した。
本来のリズムに手を加えると、活動が低下する。これが不調の原因。これが続くと「春眠暁を覚えず」という慢性睡眠飢餓に慣れた人間になってしまう。これを強引に指導すると、「登校拒否」という無意識の自衛手段を取るようになる。
各自には「冬眠」のリズムが有り、その季節によってリズムが平板になる時がある。尿の検査をしてわかった。人間だけ年中無休で働いているが、他の生物は周期を軸に生きている。
「季節感覚」を大事にするということは各自のからだと宇宙の個性的なつながりを自覚するということ。
春夏秋冬の波の変わり目にタクトを振って「節」をつけ、リズム感を昂揚させていた。ただ問題は、このようにタクトを入れると、自然のリズムは傷つき、このタクト棒の節にあわなかった子は落ちこぼれになる。
結論を言うと、その人が冬眠中ならばやみくもに鞭を振るうな、ということです。
子供が大病を患うのは、こうした目に見える無理の蓄積からきていると思う。
「不調」の対策
現代は朝方社会である。
しかし、生命体の中では、夜型の潮汐リズムの根強い勢力が、それを覆う昼型の昼夜リズムを下から脅かし続けています。
では、どのような対策があるのか?
夜型は少しでも昼型に変え、休眠の期間はなんとかして、これをやり過ごす。ただこれだけです。
これが昔の人が血のにじむような苦心をしながら子供にしつけたものです。
注意しなければ各自によって波形が違うので、一つだけの拍子加減でタクトをふらないということです。
ポイントは、体内で動き続ける遅れがちの時計の針を、朝夕きちんと合わせることによって、表面にはあるが虚弱な「昼夜リズム」を常にサポートしてあげることです。
こころと宇宙の交流 「生の波動」
胸の奥から
肚の底から
心は心臓の象形であり、内臓系の象徴である。
心は小宇宙である。
生命体は宇宙の周期にシンクロナイズして、「個の成長」と「種の再生」の世界を交代させている。「個体の維持」と「種族の保存」です。日常生活で言えば「食」と「性」です。解剖学でいうと、消化腺と生殖腺です。形態学でいうと、植物器官である内臓系の吸収と排出と循環です。あるがままのすがたを見る解剖学と、本来のすがたを知り、その後にねじれて最終の形になるまでの経緯(なりたち)を追っていくのが形態学です。森羅万象の形成の過程に、そのdeformerの謎を解く鍵がある。
すべての生物に共通する「生のリズム」そのものです。この根源のリズムに則って、植物も動物も生を営み、このような本来備わった機能を「本能」と呼んでいます。
月の運行と共にイカやゴカイは子供を産みます。また、鮭のように、季節の流れに乗って食べる場所と子供を産む場所をはっきりと分けている。ある時までは食べることだけに夢中になっていたのに、後は子を産むために飲まず食わずで死を賭して生まれ故郷へ還ってゆく。この日月星辰のリズムの共振が動物の「本能」と呼ばれます。 まるで地球規模の振り子運動のように。渡り鳥は空間で、植物は時間で。
ヒト科では女性の月経。卵巣そのものが一個の天体であり、内蔵された小宇宙です。
また膀胱も胃袋も子宮も心臓も。
この主役は、宇宙周期と同期する植物の機能であり、動物で言うと内蔵の諸器官である。
私たちの内臓系の奥深くには、こうした宇宙のメカニズムがはじめから宿されていたのです。
大宇宙と共振する小宇宙の波を「内蔵波動」と呼ぶことにします。
これが原初の生命球が「生きた衛星」といわれ、内蔵が体内の小宇宙と呼ばれる由縁である。
内蔵された宇宙のリズムを上古の人は動物の「ココロ」と呼び、宇宙のリズムは「天のココロ」と呼びました。
古代中国の人たちは、この大小宇宙の交響の波を三本の波模様で表し、気としました。これがまさに「ココロ」です。
気は心です。
地球とヒトは同じ元素
30億年前に原始の海に小さな生命のタマができた時に、地球を構成するすべての元素が入っていた。
ヒトの中には、砒素、鉛、六価クロムなどの猛毒もきわめて微量に入っています。
地球という塊をちぎって出来たのが、お餅である植物であり、動物であり、ヒトです。これらは生きた地球の衛生です。
地球の森羅万象はことごとく地球生誕の劫初の昔につらなっています。別の表現をするとことごとく地球にあるものは全て46億年の歴史を持っているということです。
地上のすべての生物を生み出し、はぐくみ育てた時代の海水が、いまもなおその「おもかげ」(なりたち・つながり・関連性)を母体羊水に宿し、ヒトの揺籃の袋をくまなく満たすのを見るのである。
羊膜の玉に包まれ、太古の海水に浮かび上がるその情景が人間誕生の瞬間です。
現代人は自閉症
こころと宇宙の交流を閉ざすことを自閉症といいます。
ミクロコスモスとマクロコスモスの対比や交流をやめてしまった時に現れる症状です。
これを大脳皮質は神秘主義として捉えてしまい、人間を自然から次第に離してきてしまいました。
四季の移り変わりとは関係なく、年中を通して温室栽培の野菜を食べ、脳にとって都合の良い生活空間を優秀に正直に一生懸命に作り上げてきました。
宇宙船や都会空間やクリーンルームやバーチャル・リアリティ空間を目指して。
農耕文化や牧畜文化も自閉症の第一段階です。自然任せの採集生活から、ヒトの都合に良い植物や動物の生態系に変えてしまっているのですから。
「自然の持ち味」がなくなっても気にしなくなった時空間が現代です。
そして天(マクロ)と心(ミクロ)の絆がぷっつりと切れて、代わりに頭(分断・法則・機械・理性)を天上までアドバルーンのように上げているのが古今東西における都市文明に住む人たちの共通の人類史です。
独立栄養の植物と欠けた動物
動物のように人様のものを横取りする必要がない植物は、感覚と運動にたずさわる器官が最初から欠如している。
言ってみれば覚醒のない熟睡の生涯を永遠に繰り返し、「宇宙のリズム」とのハーモニーに、全身全霊を捧げ尽くしている。いってみれば、植物の体は天地を結ぶ巨大な循環路の毛細血管のようなものです。
サクラ前線やモミジ前線は、交響曲の調べに参加している天体の音楽を連想させます。植物の生命は、天体運行の厳しい枠に組み込まれています。
目も耳もない植物はいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのか?
それは一つ一つの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているからです。原形質の母胎は地球であり、地球の母胎は太陽系であり、太陽系の母胎は宇宙です。原形質には「遠受容」の性能が備わっており、それを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。このおかげで自らの生のリズムを宇宙のリズムに参画させる。植物の成長繁茂と開花結実の二つの相が宇宙のリズムと共鳴し合っている。
この光合成能力の欠けた動物は、代償として「運動と感覚」が備わり、動き廻って草木の実りを求めることになる。
しかし、感覚と運動のデメリットは目先の変化に振り回されるということです。また植物が光合成で栄養をつくれるために栄養の入口と出口の間が小川のようにを流るのに対して、動物は「たまり」とも言える消化物(栄養・水分・空気)を貯めておく場所があります。肝臓、大腸、胃袋。そして肺、口、 体の外に溜め込む脳と手足。
これは植物のからだの延長が宇宙である(一身同体)のに対して、動物は宇宙を自分の体の中に取り込んでいるため、その働きに気がつかないと、宇宙からある程度隔離されるということです。宇宙という自然に自閉的になっているということです。自然から独立したために、食べ物がなくなる冬を越えるためには、溜め込む必要が出てきました。これが動物の業です。
動物の中にある植物を感じる
旧石器時代の若者が一人、巨大な樹木に向かって佇んでいる。かれは、この太い幹の中に、おのれの内なる宇宙が「植物の精」と化して埋もれているところを、さきほどからじーっと見つめている。両の眼球がかすかに、そして戦慄的にけいれんする。けいれんしながら恋人の舌尖のごとく、その幻の輪郭をゆっくりゆっくり倦むことなくなぞりつづける。あとはただ一匹の昆虫と化して、それを掘り起こし、切り出す作業をすれば、もうそれでいいのだ。
科学者の原因と結果
学者は法則を作ると偉いと思う人種なので、なんでも原因と結果を結びつける法則を作り上げようとします。
例えば、生理学では、「何かを見て、それを神経が脳に伝え、次に脳が指令を筋肉に伝え、これが運動となる。」場合は、感覚が原因で、運動が結果と教えます。
しかし、これは間違いです。
その証拠に「犬も歩けば棒にあたる」では、原因と結果が生理学とは逆になっています。この二つを法則として結びつける考え方は「理性の計らい」であり、学者のわがままです。あるいは道楽です。自然の片方をだけを見て一方的に法則を当てはめるやり方です。
事実は、「感覚のあるところに運動あり、運動あるところに感覚あり」
どちらが後先ということは言えず、感覚と運動は互いに相関する、というのが事実の考え方です。
感覚と筋肉と神経
王選手?は現役時代にボールの縫い目が見えた、といいます。 ボールの回転速と目玉の動きが一致したからです。感覚を鍛えるということは筋肉を鍛えるということです。この二つは表裏一体の関係です。
手術の時に筋肉の麻酔剤を使うのも同じ理屈です。筋肉が動くと痛みが止まらないのです。
この対になっている同時進行の感覚と運動を結ぶのが神経です。両者の「走り使い」で機能は伝達です。
天秤の左右の腕に、感覚系と運動系があり、支点が脳と神経です。
吸収と排出と循環
天秤の左右の腕に、吸収と排出があり、支点が循環です。動物で言うと腸管系・腎管系・血管系です。
吸収しながら排出し、排出しながら吸収する。その両者のあいだに常に交流しているのが血管系の仕事です。
ウィリアム・ハーヴェーはこれを循環と呼んだ。
吸収物と排泄物は二つで一つですので、よしあしがありません。吉凶・禍福・是非・善悪の関係ではありません。
命の主は内臓系 感覚と頭は家来
食と性を営む内臓系が生命の主人公であり、感覚と運動にたずさわる体壁系は文字通りに手足に過ぎません。
あたまとこころ
切れるあたま 切れるこころ
温かいこころ 温かいあたま
頭は考えるもの、心は感じるもの。
頭は判断と行為の中心であるのに対して、心は感応や共鳴といった心情の中心です。
頭は体壁の世界、心は内蔵の世界
秋の田んぼに行くと、稲は刈られ、赤とんぼも力がなく、秋の深さがしみじみと感じられる。
頭では、刈られた稲や赤トンボが飛んでいるから秋の終わりだと考えることができます。
心では、宇宙のリズムが谷に向かっているのを「はらわた」で実感し、肚の底からしみじみと感じます。
季節感
四季折ふしのモノに、内蔵波動のココロが共鳴する。はらわたの声が大脳皮質にこだまする。
この内蔵波動は「けはい」を感じ、「もののけ」と交流してきた。
思の字源
思は、田と心を表した象形文字です。この田は脳みそを上から見た形で、心は心臓です。
まさに「あたま」が「こころ」の声に耳を傾けている図柄です。
動物とヒトの違い
宇宙の鼓動に共鳴する内蔵感覚はどちらにもありますが、動物はこれを実感していますが、意識にすることがありません。こころの実感が大脳皮質まで登ってくることがないのです。
逆にヒトはこころの実感が大脳皮質に登ってきても気がつかず、大脳皮質が主体となった感覚を中心に据えて、こころの実感にスポットライトを当てようとしない人が多いです。
人間らしさとは何か?ゲーテはサルから峻別するいわば伝家の宝刀といわれる「理性」Vernunftによって人間は、「いかなるサルよりもサルらしくなった」と言う。「ファウスト」天上の序曲のメフィストフェレスの科白。
そして現今は、この人間らしさを失った生ける屍が世に充満していると言われるのである。
人間生命の誕生
生について 「すがた・かたち」と「しかけ・しくみ」 私説の「ちから」と「かたち」
今日の理科教育では、心理とは誰が見ても変わらない純粋に客観的なものでなければならないと説かれる。そしてここから、すべての現象を数式に還元しないでは済まされない「コンピューター」といったものが登場し、人間の機械化にいっそうの拍車がかけられている。
では、いったい今日のように植物・動物・人間の三つのグループだけに「生」を認めるようになったのはいつの時代からでしょう?
ある時代までは「食と性」である生活と「生命」は同じではなく、死んでも命はまだ続いていました。森羅万象のすべてに「いのち」は満ち溢れていました。死を新たな生の始まりとみる世界観です。
我々がなに心なく自然に向かった時、そこでまず眼に映るのはそれぞれの「すがた・かたち」です。路傍の石も一滴の雨も、それぞれの表情でもって我々に生き生きと語りかけてきます。すべてのものは地球の46億年の時間の積み重ねであり、それを構成する物質と空間は見えない糸でつながって大きな一つのものだと感じる世界観です。
しかしここに「死」こそがすべての「生」(命と暮らし)を奪い去る恐ろしい断末魔である、と捉える考え方が現れました。また古英語のlīfを語源とするLifeが現代では「いのち」と「くらし」が同義になっています。
「生とは死に抗する機能の総体をいう」 La vie est l`ensemble des fonctions qui resistant a la mort
Xavier Bichart 1800 Recherches physiologiwques de la vie et la mort
この考え方は、生命がなくなれば生活に終わりを告げ、また生活が終わればそれは生命が喪失したことを意味することになる。
この新しい世界観が、体に起こるすべての現象を「死に抗するための闘争」としてとらえることに馴れさせていきました。そして科学的客観性がこうした闘争の「しかけ・しくみ」を引き出すことに全力を傾けています。「しかけ・しくみ」の考え方の比重を過大にするために、ここにいつもスポットライトを当ててしまう人たちが出てきました。スポットライトを当て続けるには強大にして確たる自我が必要です。自然の無常の法則に逆らうためには、自我を不動のものに固定化させなければなりません。意識を一点に長時間に集中させる力を使うためには、内外の情報を遮断する必要があります。思考と呼ばれるものです。生と死の闘争を精神性と呼ぶ人たちが好むものです。この精神が、自己の飽くなき欲望充足に取り憑かれてしまった人たちを生み出します。この地球に繋がることはなく、「原形」を分断することに忙しくなってしまいます。「しくみ」はただの思惑の対象としての無生の物体です。例えば解剖学的に涙を考えた時、分泌の伝導路だけで頭がいっぱいになってしまいます。
自然を見るヒトの眼には二種のものに識別される。生に満ち溢れた「すがた・かたち」とモノとして抽出された「しかけ・しくみ」です。言ってみれば「こころ」と「あたま」の眼です。この二本の柱で内外が交流しています。自然中心の思考と人間中心の思考です。
本来の看護とは「いのち」を見る眼によってのみ支えられる。
痛みとは異常収縮
刺激とは筋の収縮の度合いなので、強く大きな収縮は痛みをともなう。
筋肉 こむら返り
内臓 胃痙攣・腸閉塞・結石痛・陣痛
血管 頭痛・歯痛・可能痛 搏動による筋性細動脈
横っ腹が痛い
激しい運動をしたりすると多くの血液量が必要になってきます。脾臓ではそのことをキャッチして、収縮して多くの血液量を放出します。食後に急激な運動をすると胃腸が血液を必要としている状態に、運動をすることによって益々血液が必要になるので、脾臓が大きく収縮します。これが痛みとなります。
リズムと血液と自律神経
宇宙リズムの収縮と弛緩
昼間の張り 快い緊張感 からだの軽さ 爽やかさ
夜間の弛み 快い弛緩 からだの重さ ゆったり
昼間の弛み 不快な倦怠感 胃の重さ
夜間の張り 不快な聡明感 軽快な思考 不眠
呼吸で呼気がおろそかになると、肺の中の空気が一杯になる。
胃の幽門から十二指腸に消化物が出ていかなければ、胃の中に溜まって過剰消化物となる。
日常生活では体壁と内蔵のどちらかに血液が集まり、山と谷のある波型のバランスになっています。
これを司っているのが、交感神経で、動脈に作用し、血液を内臓系にやるか体壁系にやるかを取り仕切ります。
内臓系 胃腸・肝臓・心臓・
体壁系 感覚器・手足・神経系(脳・脊髄・末梢神経)
例えば 内蔵→体壁
食後は血液が内蔵動脈に集中して消化吸収が行われます。ところが風呂に入ると体癖の血管が開き、せっかく内蔵に入った血液が体表に呼び戻されます
汗が出る時は、血液は体壁系にまわっているので、腎動脈には行かなくなり尿が出ません。運動している時は血液は内蔵にはいかず、体壁系に集まります、
脳に血液を送らないと一瞬の緊張もできなくなります。
体壁→内蔵
足が冷えると、血液は腎臓にあつまり尿がでるようになります。
魚類はこの二つを内分泌系で切り替えていた ホルモン 副腎皮質、卵巣、膵臓、下垂体、甲状腺
両生類ではこの内分泌系が次第に神経系に置換されていく。 これが交感神経です。
本当の「調和」とは、血液の切り替えをちゃんとして、内臓系と体壁系の器官がお互いに相補いながら血液を分け合うことです。
三つの心臓
収縮することで、血を体内で循環させ、吸収と排出のメカニズムが働いています。
この機能を持っているのが
心臓 本来は魚のエラ。植物性筋肉のエラが動物性筋肉の肺に変わることで上陸した。
横隔膜 腹の心臓 調和息を使って腹腔を一つの巨大な心臓として搏動運動をする
筋肉 体を動かすことで、老廃物である窒素代謝産物と二酸化炭素を排泄する運動 魚は尻尾を動かす
です。
肝腎
静脈血管では肝臓が入口の関所、腎臓が出口の関所となり、血液循環を守っている。
しかし網の目である肝腎を機能させるには強い力が必要なのだが、この静脈では圧力がかからないので、第二第三の心臓を使わないとうっ血してしまう。
肝臓に入る静脈と腎臓に入る静脈には「搏動装置」が必要なので、動物は二つの心臓を発達させてきた。
横隔膜
体の正面にある左右対の筋肉 舌筋・頚直筋・横隔膜・腹直筋・陰部筋
横隔膜と腕を動かす神経は同じところから出ている。
波浪息 藤田霊斎
10億年前の波うちのリズム 九十九里浜のリズム
変わるリズム 音楽
変わらないリズム 日、月、年、宇宙
血潮(循環する血液の音)と波打ち際の音は一つに聞こえる。
同じ神経支配である心臓の搏動と呼吸の周期は相関関係がある。搏動数は呼吸数で割り切れる。
海はいのちの母、mareの語源はmater
細胞が星
太古の昔にコアセルベート (coacervate)コロイドからなる液胞の流動層と液層が入り混じった物体ができた。
これには地球を構成するすべての元素が含まれている。
細胞も地球の元素でできている。
水星が誰から命令されることもなく、太陽系惑星の周期運動をするように、一つの細胞も一個体の中でリズムを持った運動をしています。
卵巣から卵子が飛び出すのは、まさに天体が分かれて惑星になり、それに衛星が出来ていくのと本質的には同じではないか。
生物のリズムと星のリズムと宇宙のリズムは相関している。
それに対して欲と不安に駆りたてられる文化とは自然のリズムを利用するもので、文明はリズムから離れていくもの。文化の進歩とは、仮構の世界を精緻に構築することである。仮面でありペルソナやキャラや役目だ。ホンネに対しては騙しの機構とその進化といってもい。行動の儀式化ともいいえる。宗教やモラルや常識のことだ。
本音と建前がある世界を生きる私たちに問われているのは本音である。本音が偉いわけではない。あまりに建前に依存してしまったので、自分から動く力をなくしてしまったからである。TPOに合わせた仮面を創るには、元の素顔がちゃんとあり続けなければ、その仮面は単なる模倣となり、現場では活用できない単なる形だけとなってしまうだろう。
息をのむ
祖先の古くから息をのむことには注意を向けてきた。酸欠だけではなく、集中している時に息を吸うと一瞬であるが頭が空白になる。
日常でも息詰まりの危機に曝されている、赤信号で突入するトラックにハッと息を呑むように。緊張する時には多少に関わらず息をのむ。だからハラハラの連続では、両肺はいつの間にかタイヤのようにパンパンに張り、体の方はヘトヘトになってしまう。
息詰まりは、横隔膜の反射的な収縮から起こる。無意識に「肩肘張る」時に、筋肉は収縮し、その結果、胸郭の底が沈み、否応なしに息が吸い込まれる。
こんな時に「息抜き」する方法が案出される。
ストリップの後のコメディー、空中ブランコのあとのピエロ。緊張のあとの絶叫とお喋り。
そして「仕事の唄」。作業で生じる横隔膜の緊張を弛める唄の節回し。
お喋りの起源は、この横隔膜の弛緩である。
同化
食物が同化されるのは肝臓に入ってからである。厳密に言えば、胃腸で消化されたものが血管を通して肝臓に届くまでは体の外部ということができる。肝臓で初めてチェックされてからだに合った栄養となるわけです。
はしか
はしかの前と後では明らかに違いがある。治った途端に足が地に着くので、人生の洗礼(イニシエーション)だと思います。ですから予防注射を信仰せず、あの苦しみを乗り越えさせることが大切です。
また抗生物質をやりすぎず、畳を舐めて徹底的に腸管のリンパ系を鍛えないと防衛力が次第になくなってきます。
子供の成長
舐める→触れる→見る→言葉
舐める・触れるが抜けて、本で見て分類や名前の知識として知っている子供。
小学校一年生を評価する 坂本玄子
泥んこになれますか?ハサミが使えますか?虫と仲良しですか?よく寝ますか?友達はいますか?
ゲーテ
太陽系の描く螺旋軌道に乗って「食と性」の位相を交替させる、果てしない波の連なりが生の本質。
成長繁茂の拡張ausdehnungと開花結実の収縮Zusammenziehung
植物の一連の形態形成の変身 子葉→葉列の階段→花弁・花芯・結実→枯れる
一つの原形すなわち原植物Urpflanzeが色とりどりに変身して現れたもの
根原のかたちが個々のかたちに変身し、しかもそれが茎に沿ってみごとにその跡を留めている。
人間の理性が自然の流れを阻止し、自分の中の自然である体の働きまでも蹟止めてしまう。理性の宿命という怨念によって、ヒトの思想は常に翻弄されることをツェルター宛の追伸で吐露した。
生きとし生けるものの波動に、天の命(Vorschrift der Natur 自然の指図)を見てとった。
蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな 其角 交尾を終えた雄が雌にかじられる光景に、稔を終えた野原と重ねた句
青虫と蝶
青虫では個々の体節が多少なりとも独立して生活の諸機能を営む
蝶では個々の体節が互いに融合して頭・胸・腹の三部を形成し、これらの間に完全な機能分担が行われる。
青虫から蝶への成長は、地方分権から中央分権への移行に譬えられる。
植物と昆虫
植物では完全に独立できる(接木)個々の茎節が「食と性」の二相に分かれて、垂直方向に積み重ねられてゆく。
動物では独立できない個々の体節が発生初期から出揃って水平方向に融合し二相はそれぞれのかたちで変身していく。
この茎節の垂直の積み重ねも体節の水平の融合も共に螺旋Spiraltendenzを描いて行われる
頭蓋椎骨節 植物が葉という基本的な器官によってつくられるように、動物の骨格も椎骨という基本的な器官で構成される。頭部の分節構成を形成するホメオボックス遺伝子が発見され再評価されている。
動物の水平の融合とその螺旋がわからない
万物流転 Panta rhei ヘラクレイトス
森羅万象は独自のリズムをもって流転する この波からは一歩も出られない。 食と性の位相交代の波
自然科学
「しくみ」を分析することは、自然のもろもろを個々の「物体」としてとらえ、観察器具の発達と伴って、これをより細かく分析しながら、各要素の繋がりをを法則的に解明してゆくもの。
アリストテレスは人体を「異質部」(器官)から「等質部」(組織)を経て「四元素」(分子)にまで分解することを考えた。
この時は機械の目的と機構の「ために」動くという考え方をする。これが自然科学の唯一の方法論である「原因探求」という思考形態そのものである。原因は未来と過去に求められる。このような思考法は「目的論」と「機械論」として学問の基礎であり限界となっている。どんな構造も一方ではある「目的」に、他方ではそれに見かなう「機構」に結ぶつけられる。
心臓はもはや単なるポンプとして扱われる運命を悲しいまでに見せつけている。
「悲」しいとは、こころがあたまによって踏みにじられることを表している。
自然科学のいかなる知識も、分析する以前の大いなるものを直感するという「後見」に支えられない限り、そこには空虚な数の理論しかない。「我」の力学の諸定理だけなのだ。
あたまは「いかにしてwie」という答えを探し、こころは「なぜWarum」という答えを見つける。
しくみからかたちへ
構造のもつ「かたち」を体得するとは一体どんなことか?
それは構造の「かたちづくられた」「過程」にスポットライトを向けることである。そして対象物として眺めるのではななく、その中にいるということである。結果として名詞ではなく、変化している現場としての動詞だ。
共通の祖先から分かれたということは全ての生物は繋がっているということでもある。この「遠い彼方」にスポットライトを移し、これを対象物として見るだけではなく、その中に飛び込み、自分である主観もその一部であると実感すること。これが体得である。
「かたち」の意を求めてただひたすらに過去にそして内側に遡ってゆくのが発生論的思考法genetischeDenkweiseである。
「かたち」の体得が長い歳月をかけて日増しに深まり、ついにある日ある時に、ひとつの閾値をほんの僅かに越したその瞬間に、学者たちは稲妻のひらめきでそのかたちをひとつの法則に固定する。
ヨブ記
見よ神が我が前を過ぎ給う
4:15時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、わたしの身の毛はよだった。
4:16そのものは立ちどまったが、わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。わたしは静かな声を聞いた、
4:17『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
仏像 あたまからこころへ
感覚門の眼をかすかなに閉じて、栄養門の口元に豊かなえみをたたえた仏像を作ることで、心の故郷にかえろうとした。
実証のあたまから類推のこころへスポットライトを変えてみるのだ。すると外にあるものが内なるものとなり、対象物が自分の一部となる。
右と左
脳潅流圧(のうかんりゅうあつ)とは血圧と頭蓋内圧の差のことであるが左右にも差がある
心臓の渦潮が左右の脳に分かれる時にかすかに「左傾」が現れる。
参考
同じ構成要素を持っているアミノ酸の中には、その立体的な構造がちょうど右手と左手の関係(鏡に映した関係=鏡像)になっているものがある。そのタイプによってL型、D型という。化学的な性質は同じはずなのに、なぜか地球の生物はL型のアミノ酸しか使っていない。じっさい逆に、宇宙起源のアミノ酸、例えば炭素質コンドライト(いん石の一種)から検出されるアミノ酸は、L型もD型も含んでいる。
L型、D型:下にアミノ酸の一種、アラニンを示す。平面という二次元構造の世界を考えると、L型、D型は同じ構成要素を持っているが、この平面内ではどのように回転・移動しても重ならないことがわかる。ただ、3次元的にパタンと折り返せば重なる。実際のアラニンは、細い三角(H2Nがついている)が手前に、点線(Hがついている)が後ろにという立体的な構造をしてるので、パタンと折り返しても重ならない。ちょうど、親指から小指までという同じ構成要素をしている左手と右手のような関係である。つまり、この3次元空間の中では重ならない(4次元的にぱたんと折り返せば重なる?)。
この両者の化学的な性質は同じである。だから生物はどちらを使ってもよかったはずなのに、L型のアミノ酸だけを使っているのである(ごく一部にD型のものも使われている)。もっとも、立体的な配置が違うので、例えば生物の消化酵素などは片方(L型)のアミノ酸を使ったたんぱく質しか消化できない。もし宇宙生物がいて、その宇宙生物がたまたまD型のアミノ酸を使って進化してきたものならば、そこでできた食料はいかにおいしそうであっても、われわれには消化できないであろう。
地球上の生物が合成し、利用しているのはL型のアミノ酸である。しかし、人工的にアミノ酸を合成すると、ふつうは両方のタイプのアミノ酸ができてしまう。
なお、L型を左旋性、D型を右旋性ということがある。これは、この二つのタイプが偏光に対し、その偏光した光の振動面を左に回転させるか、右に回転させるかという違いがあるのである。このように、光(偏光)にたいする性質が異なるので、こうしたものを光学異性体ともいう。
不斉反応:2001年にノーベル賞を受賞した野依良治(のよりりょうじ)氏の業績は、このL型、D型を選択的につくる方法を見つけたことである。同年のノーベル化学賞は、同じ業績でほかに2名の受賞者を出している。
仮説 左脳が強いのは脳潅流ではなく、人口密度が高く変化していくところで起きる現象(人口密度の山谷の波が上がるところ)なので、密度が低くなるところや波が下がるところは、右脳機能を重視する人や時間や場所が増える。そうすれば女性の右脳を救い神にしなくてもよい。
実験 過疎地、戦闘地域、高齢化、
脾臓
脾臓は腸の一部(動静脈でつながっている)であり血を造る器官であったが、脊椎動物が上陸をした時にその機能を骨髄にゆずっていった。
1宗族発生的に腸壁からとびだしている。動脈の岸に脾原基があらわれる。 5億年前 ヤツメウナギ
2脾臓から二次静脈がつくられる。 デボン紀の汽水 肺魚
3脾臓が独立し、腸との一時静脈は退化する。 石炭紀の古代緑地 両生類
何故、造血の機能が脾臓から骨髄に変わっていったのか?
脊椎 酸素 運動量 塩分 海 陸
血とは何か?
原形と変容
個体差に関わることのないパターン。「おもかげ」。
根源のかたち⇔個々のかたち
種独自の形を保つ方向 根源器官 Grundorgan 根源の形成 Bildung 根原形象Urbild
条件に従って形を変える方向 転身 Metaporphose 個々の形成 Umbildung
解剖と芸術
人体解剖とは「内なる原形」(内部構造)の解明 しかけしくみ
造形芸術とは「外なる原形」の探求 すがたかたち
すがたかたちを体得なくしては、しかけしくみの解明を期待できない。
個の原形とは何か
相手から一度離れた時にひとつの「形象」として色鮮やかに眼前に浮かび上がり振り払うことのできないもの
古語でいう「おもかげ」
他者とは峻別されるひとつの本質Wesen 「らしさ」
原形は霞のような掴みどころのない印象を与え、idee観念として却けられるが、ゲーテはideeの本来の意味をギリシャのEidos(面影)に求め、この眼で見られる、ひとつの現実であるとシラーに答えている。
夢や幻も空想から生まれるものと、おもかげを体得して生まれるものの二種類があるのである。
原形とは、自然のしかけ・しくみではなく、すがた・かたちを見る眼である。背後ではなく、そのものの中に映し出される夢幻の出来(しゅつらい)である。
体得の深さと共により色鮮やかに浮かび上がってくる。
知覚と類の原形
知覚とは原形を根底にして初めて成り立つもの
aからtheへ 類の原形を体得する過程がありはじめて種類を識別することができる。
類概念の抽出 類の原形 ヒト・ネコ・イヌ
一人一人の顔貌の中に、ある共通した根原のかたちGattungsbild(類の原形)を見て取り、個々のかたちをこの原形の変容Metamorphoseとして眺めている
コスモスと地母神
森羅万象の悉くを宇宙根原のかたちの彩のMetamorphoseとして眺めた時に、この宇宙の原形を「kosmos」または「天」(あま)と呼ぶ。
これをファウストはDas Ewigweibliche永遠の女性と呼び、世界思想史はMagna Mater大地母に託して披露した。
根原秘奥への賛歌
受容から実施へ
眼に映るおもかげは、他の器官でも感知され、家人の足音、肉親の体臭、家庭の味、故郷の風の膚ざわりを血肉のものと感じた。
そしてこのような受容から次には、行動にも原形(おもかげ)を見つけようとする。運動のコツの習熟である。
原形の体得
ある一つの形象が、過去の既知なるものと「オナジ」か「ミタイ」かと重ねられる。
庭にいる初めて見る雀と、家の中にある玩具の小鳥、そして絵本の鳩ポッポ、それからまた庭の雀と、玩具の小鳥が相次いで指差される。
見た目にかなり異なって映るこれらの三者の間に、「根原の類似」が底流にあることを、幼児は誰に教わることもなく見てとっている。
回想した像たちが重なり、累積が繰り返されて同類と感じることで次第に輪郭を定め、やがて「小鳥」と呼ばれる面影にまで成長発展し、遂にはこれを基にすることで、コウモリやワシと混同することもなくなる。
「同類の印象の不断の累積」が原形の体得の前提である。累積された回想像が原形そのものである。ヒトは回想像を「原形」として眺めていたのである。おもかげと呼ばれるにふさわしい。
これは、遥か遠くの祖先の彼方から、私たちの個々の生命に直結している。意識のないカラダも代の上に代を重ねながら、絶えず外界から各自の肉体に至適の条件を取り入れて、血肉に変えていく根原的な「同化」の機能が備わっている。
記憶とは、おのれの至適条件を肉体に銘記することで、これが「原形体得」である。これが代々の生命を推移していくことを「生命記憶」と呼ぶ。
これはヒトだけではなく、アメーバに初まり、地球上のすべての生物で行われている。どんな生物もこの「記憶」によって快不快・向背自在の反応を示すことによって、「個」の生命は保たれる。地球に姿を現した太初の単細胞から蜿蜒と受け継がれてきたものであり、この記憶を累代に伝えることで、「種」の生命は存続している。
太初の命を歴代の祖先の肉体を介して、体得し続けてきた。
同類・仲間という面影は、あらゆる生物が肉体の根原から知り尽くしたものである。もし同類の認知に失敗したとしたら存続できていなかっただろう。仲間との交わりは、水との関わり合いの如く生命の歴史の根である。
ゲーテ1807年 自然の生きた直観に到達しようとするならば、自然が示してくれる実例に倣って、形になっていく過程の世界に身を置くことだ。
「なりたち」の知られていない原形は体得できない。どんな原形もそれが成り立ってきた歴史がある。
いくら人体を解剖しても、その器官の成り立ちが分からないと「内なる原形」を体得できない。
それには「史蹟」を通して類推する必要がある。
30億年の形成の歴史は原初の単細胞から宗族(phylum)に分かれていった。個人の個体発生Ontogenieがあるように、人類には人類の宗族発生Phylogenieがある。これをからだの内部構造において求めることで、原形は体得できる。
それには古生物学、比較解剖学、比較発生学の三つを重ね合わせる作業で、史蹟の輪郭が色鮮やかに浮かび上がってくる。
ヒトの個体発生と宗族(系統)発生の成長のズレは、個の発生が類の発生のあまりにも速やかで抽象的な再現であることを物語っている。束の間のおもかげしかみてとれない。そこでもっと緩やかで具体的な歴史を再現する古い宗族の個体発生を参照していく方法をとる。
原形とは、現象する過去の諸心情である。クラーゲス1921年 vergangenheitsseelen 過去の魂
理性Vernunftから智性Verstandへの転機 ゲーテの内面の転機
Verstand mind 心 esprit 悟性
Vernunftig 理性的 reasonable
Vernunft reason 理由
星雲の極大の世界から素粒子の極微の世界に至るまで、どれ一つをとってみても、それらは悉く「造られながら造り変えられてゆく」 Das Gebildete wird sogleich wieder umgebildet.
森羅万象はこうした宇宙生成の果てしない波のある瞬間である。
植物のメタモルフォーゼ
最初の子葉に始まり、最後の果実を完成させるまで、常に漸進的な動きがある。そこではひとつのかたちが、目には見えぬ梯子を登るがごとく一段ずつ上の形に転入して、ついにあの自然の絶頂Gipfel der Naturをなす両性の生殖にまで登りつめる
この流れに頓挫したのが八重咲きである。雄しべ雌しべの代わりに花びら(萼)が生まれた。
蕃生の薔薇 花の中心から茎が伸びて新しい葉が生まれる
撫子 完成した花の一部から枝が伸びて再び花が咲く
日本の名随筆「生命」
胎児の夢
夢は、睡眠時に優勢な内臓系の興奮が、各政治に優勢な体壁系の細胞記憶をよみがえらせる。
睡眠中の内蔵感覚が、かつて体得した出来事を夢のなかに呼びさます。
覚醒時に意識が判断した出来事を、睡眠時には体の世界で見直して判断しているのが夢。
胎児の夢は進化のおもかげ 人類の神秘のヴェールのかなたにしまっておいた世界 時の遠さ、時の重み
32日 ヴァリスカン造山運動の巨大なうねりの中で行くか行かないかを迷う
50日 アルプス造山運動の山鳴りに、哺乳類の曙を予感しながらも目前の竜の牙におののく
生命記憶とは「かつてのかなた」が「いまのここ」によみがえる世界。
玄米 農耕時代
クルミ・クリ 縄文時代
母乳 アルプス造山運動 哺乳類
羊水 古代海水
味の回想が、白昼夢の香りの中で、時空の「遠」のおもかげをしのばせる
二元論の生物の捉え方
死んだ魚も魚であるが、生きているということは、この死物としての身体に、何ものかが宿り、何ものかが働いて、はじめて身体を生かしているという見方をしてきた。この何ものかが生命や精霊と呼ばれた。
この考え方が肉体は仮のモノ、そして肉体は滅びるが霊魂は不滅であるといった考え方も導き出された。
二元論では、生きているということと生命があるといういうことが、同意義に解されている。しかし生命も一種のモノとしてとらえてしまい、理性では分析できない存在としての生命を、智性や霊魂性の領域からとらえることができていない。ここに二元論の幼稚さも誤謬もある。
一元論の生物の捉え方
生物はもともと一つの細胞から生成発展したものである。生物が先にあったのでも、細胞が先にあったのでもない。生物とは一つの有機的総合体に与えられた名称である。生物が死ぬというのはこの有機的統合作用の破綻を意味するので、この持続が生命の持続だ。
身体即生命、生命即身体が具体的な生きた生物である。だから生きた生物以外に生物などはもともと存在しようはずがない。生成発展する有機的統合体がすなわち生物である。出産や子葉や孵化が生物の誕生とみなすは便宜的な解釈でしかない。
生物的生命も一個の細胞的生命に還元される。だから一つの細胞的生命が生長して一つの生物的生命にまで発展するので、そのどこまでが細胞的であるとか、どこからが生物的であるといった区切りはもとよりない。
今のこの世が、われわれはまずモノの世界だと認識しているのが、一つのヒトの性格的特徴であるならば、二元論のような生物の捉え方があるのは怪しむに足りない。
原腸胚
動物の発生では、まず卵割の進行によって卵割腔が形成され、胞胚期となる。その後、胞胚における細胞層の一部が卵割腔の内部に入り込む形で新たな袋状の構造が形成され、これが原腸となり、それによって生じる口が原口である。そのような変化が起きる間の時期を原腸胚期(Gastrula)と呼んでいる。嚢胚(のうはい)とも呼ばれる。
原腸胚に続く段階として、脊索動物では神経胚期があるが、それ以外の動物では、このような発生の段階としての一般的な名を与えられたものはなく、普通は幼生の名を与えられている。つまり、後生動物はこの時期までの発生をほぼ共有している。なお、ウニの場合、原腸胚期はプリズム幼生とも呼ばれる。
原腸胚期は、発生の段階ではきわめて大きな転機となっている。発生はこの段階まではそれぞれの細胞がそのままの位置で分裂するだけであったが、この時期からは細胞間での移動が激しくなり、胚は単純な細胞の集合体から一転して構造を持つに至り、その結果として体軸がほぼ決定する。特に重要なのは原腸の形成、および胚葉の分化である。また真体腔動物では体腔の分化もほぼこの時期である。
ちょうどソフトテニスのボールを指先で押して、その壁を内部に押し込んだような形である。このとき指の入っているところ、およびその周りのゴム層が原腸、指のつっこまれているところが原口である。
胚葉形成 原腸胚 gastrula にて起こる
陥入により原口ができる
三胚葉を発見したのは、1820年代にニワトリ胚を研究したChristian Pander(ドイツ)。
外胚葉が胚の外側の層を形成、
皮膚の表皮・脳・神経系を形成する
内胚葉は胚のいちばん内側の層となり、
消化器系とそれに付随する器官を形成
中胚葉は外胚葉と内胚葉の間にあり、
血液・心臓・腎臓・生殖腺・骨・筋肉を形成
[ギルバート『発生生物学』第10版,p.15より]
↓
肛門になる(原口が肛門に発生するのは後口動物.
原口が口に発生する先口動物は比較的下等な動物)
口になる部域は別のところに開く。
胚葉形成…原腸胚の時
外胚葉(表皮や神経になる) 中胚葉(筋肉や骨片になる) 内胚葉(腸になる)
なぜ神経は表皮と同じ外胚葉なのか 池田博明
各胚葉の分化を学んだとき、誰しもちょっと引っかかるのが表皮と神経が外胚葉性由来だということであろう。表皮と神経はずいぶん違う器官だが、それが同じ発生起源をもつというのは妙な感じなのである。
しかし、実は表皮は、神経なのであった。
ヒトの表皮細胞には中枢神経系の神経伝達物質(ドーパミンやセロトニンなど)の産生能力と受容能力があった。さらにこれらの神経伝達物質をヒトの角層欠損部(傷)に投与すると修復が早まったり遅まったりする。海面動物には神経系は無い。しかし、すべての細胞が情報センサーである。クラゲのような刺胞動物になると散在神経系であり、神経細胞は体表に発達する。つまり、神経はもともと体表にあったのである。
それが進化の結果、体のなかにとりこまれるようになり、中胚葉系の器官の運動を支配するようになったのだ。
(夏井睦『傷はぜったい消毒するな』光文社新書,2009年)
神経胚と器官形成
原腸胚を過ぎると、胚の表面の背側の外胚葉が厚くなり、 板のような構造の神経板ができる。
やがて、神経板の中央 に神経溝という溝ができる。神経板の両側のひだは高さを 増して内側に折れこみ、合着して神経管を形成する。
神経板、神経溝、神経管ができるこの時期を神経胚という。
神経胚全体はやや前後にのびて長くなる。
原腸の背側にあった中胚葉はしだいに腹側にものびてくる。
神経板の下の中胚葉は棒状になって脊索となり、その左右は 体節となる。
植物半球の内胚葉のほうに伸びた中胚葉は側板 となる。
脊索は胚の時期に体を支える背骨のような働きをするが、脊椎骨自体は体節から分化するものだ。
側板は内蔵筋 に分化する。
(4)尾芽胚と器官分化
神経胚を過ぎると、さらに前後に延びて尾ができ、 尾芽胚となる。
尾芽胚期に外胚葉・中胚葉・内胚葉 からそれぞれに決まった器官がつくられるもとの原基が形成され、それが器官に分化する。
表皮や神経は外胚葉性器官、骨格や横紋筋は中胚 葉性器官、呼吸器や消化器は内胚葉性器官である。
アリの繁殖
女王アリ ひたすら卵を産む産卵機。
受精卵は働きアリになる
巣が大きくなるとこの受精卵が羽を持つ雌アリとなる。
巣が大きくなった後に未受精卵が育つと雄の羽アリとなる。
この羽アリは結婚飛行で交尾して、雌アリは自分で羽を切り落とし、女王アリになる。