心と体の一元論と二元論

 

はじめに

1000年のスポットライト

心と体の作品、文学、映画、アニメ

心身問題

一元論

二元論

機械論の限界

 

 

参考資料

 

 

はじめに

 

心と体の2つが分かれて発生する理由

「道具」を使う度に、そこに「心と体」が霧のように立ち昇ります。

使うモノと使われるモノにスポットライトが当たるからです。

使うモノが「心」、使われるモノが「体」として。

主体の心が客体の体を使うからです。

 

ヒトは

S+Vの構文を使うたびに、    主体を作り出さなければならず、

S+V+Cの構文を使うたびに、   嘘の幻想を建前にしなければならず、

S+V+Oの構文を使うたびに、   霧の中で 心と体を垣間見なければならない。

theではなくaを使うたびに過剰一般化の嘘をつかねばならず

I を使うたびに周囲を対象として利用しなければならなくなる。

 

 

 

過去1000年における 霊・魂・心・体(spirit/soul/mind/body)に当てるスポットライト

 

 

一元・二元

時代

シンボル

内容

1

霊魂の一元論

中世

神話

神が魂と心と体を創造する

2

霊と体の二元論

ルネッサンス

ダ・ヴィンチ

霊だけではなく体(物質)の重要性に注目

3

魂・心と体の二元論

17世紀

デカルト

霊については語る領域ではない 心に光を

4

心と体の二元論

18世紀

カント

魂については語る領域ではない 心を分析、

5

心の一元論

19世紀

マルクス

魂と心を混同して物で証明しようとする人たち

6

体の一元論

20世紀前半

機能主義

霊魂を悪用する物理学主義者たち   

7

心と体の二元論

20世紀後半

コンピューター

霊に無知で、魂の経験が少ない心で体を操る人

8

霊魂・心の一元論

21世紀?

仏教

心が体を生み出しているとする人。

 

1神話を子守唄として暮らしていた時代

2ルネッサンス 道具の時代 十字軍の敗北、大航海植民地時代、都市化、武器として理性 神と技術の分離

3デカルトが二元論を使った理由  具体化することで起きたカトリックの廃退

4カントが霊魂をあきらめてマインドの分析と統合を謀った理由   ウィトゲンシュタイン

5固定した思想(心)から始めて、それを物質で証明しようとする人たち  資本主義、共産主義、拡大主義

6二元論を否定する人たちの思考パターン  無理な一元論を賛美する大脳中心主義者  外に敵を作る

7現在のアニメなどの二元論がでてきたわけ  道具(文明都市生活)に囲まれた生活  魂の叫び

8仏教の二元論は、実践としては心の一元論、理論としての4元論、阿羅漢は0からの一元論

 

 

哲学よりもアニメ

「マインドと体の関係性」は古来からの人類のテーマです。

 

パーリ経典中部 Aggivacchasutta  Majjhima Nikāya 72には、

「いのちと体は同じである、もしくは、異なっている、と考えると苦しみになる」

とあります。

 

肉体には物理法則が適用されますが、ヒトには「認知する実体res cogitans」と呼ばれる非肉体がある、、と350年以上前にルネ・デカルトが提案しました。

彼にとって、物理的空間の外側にあるのが無形の「認知する実体」なので、それぞれが独自の領域であり、2つを並べて、その関係性を考えることは「デカルト二元論」と呼ばれています。 

デカルトにとって、「認知する実体」は機能によって精神と魂という2つの呼び方をしています。

純粋に知性的な機能を強調する時にはラテン語のmens,やフランス語の espritと呼び、日本では精神と訳され、

感覚や感情といった機能が強調する時には、ラテン語のanimaやフランス語のâmeと呼び、魂と訳されています。

またラテン語のmensとは、マインドのことなので、「心」と訳されることが一般的です。

肉体でない精神、魂、霊、マインド、心、感情、感覚、概念、意識などを一纏めにしたものを、認知する主体とすることをデカルトは提案しました。

 

彼は、神(霊)の解釈が要因となる酷い戦争(カトリックとプロテスタント)の中で成長期を過ごし、戦争にも参加したために、まずは神の問題は棚上げして、戦争を起こしてしまう人間を分析することから始めました。

その結果、物質的な身体をコントロールする非物質的なマインドがあることを提案します。

「神の解釈」で悲惨な戦争が始まり、長きにわたり停戦ができなかったので、ヒトのマインドが肉体をコントロールしていると考えれば、神の問題ではなく、ヒトのマインドが整っていれば、戦争の解決にもつながる、と考えました。

 

時代が求めた二元論   脳が忙しいと体は弱る 人間も自然の一部なのか?  

 

デカルトやカントが二元論を使った理由   

神の解釈によって権力を握る社会とそれに反発する集団が近代にもありました。

神の解釈戦争に巻き込まれ、そこから脱出するための方策を探し、まずは計測では証明できない神の解釈は除外して、計測できる肉体(物質)とそれ以外のものを二分して、以外のものを精神と名付けた。

精神は計測できないので、存在することを証明するために「我想うゆえに我あり」と「我」という意識があることを示すしかなかった。

 

デカルトの弱点

「我思うの我」とは表層意識のことでそこには潜在意識、中層意識、深層意識は含まれていない。

この我とは表面的な自我のことで、それ以外のものは除外されている。

霊、魂、心と体の関係性を明確にすることができなかった。

 

 

不安な時代のはじまり

16世紀以降は子守唄として神話を聞かなくなる人が増え、自分がどこからきてどこを目指し、何のために生きているのか、という問題を気にする人が増え、自分の存在が確信できなくなり、その答えを探し始める時代になりました。

そういう意味では、16世紀から20世紀は「人類の不安の時代」だと言うこともできます。

 

要因は都市化、大航海時代による搾取、武器としての理性、道具尊重、分析と統合、

言葉を変えると、合理性、消費者の選択、表層的言い訳、目に見える世界での再現性、法則重視、根源の捏造、

逆に失っていくものは、自然の流れ、生産者の深み、変化し続ける世界観です。

 

中世の基準であったメンタルの因果関係を、精霊やカミや魔術や錬金術などは迷信や寓話として否定したために、生命体の基準であったメンタルから始めることができなくなり、物質による再現性(科学的思考)に依存してしまったことに起因します。

これらの変革は「後から来た者たち」の逆転劇を狙う意図にもよりますが、今回のテーマは体と心です。

 

近代から議論している問題は、「物質」から「メンタル」がどのように生じるか、つまり、物質的な脳でどのように思想や意識が生じるか、という片道切符の思考パターンです。

 

18世紀 計測できる証明にこだわる人たち

中世までのヒトの拠り所は、計測ではなく、意識の深層化でしたが、神を解釈することによって戦争を導いた(と早合点した)ので、なんとか計測できるものを根拠にしたいという渇望が起きたのが17世紀の欧州。

18世紀は不安の次代で、なんでも計測できるものに頼る依存症の時代。

この残滓が現在まで残っています。

理由は表層意識を基準にすると結果的には戦争になった(と早合点した)ので、中層意識に価値を見つけられず、深層意識を無意識の内に怖がったから。

潜在意識にある欲望を果たすために自己催眠をかけて、理念を旗に掲げて、時代を誘導する者たちが増えたが、意識の深層化を訓練している人が少なかったので、その欺瞞を指摘して、微細な世界へ導くことができなかった。

 

精神をも計測化しようとしたのが、デカルト以降の哲学、そして精神分析や心理学につながる。

それまでの哲学は神が精神を創造し、精神が肉体を創造すると考えていた(たとえばネオ・プラトニズム)が、

神はヒトから遠いと感じ、解釈による争いまで起きるのでひとまず「神」は置いておいて、精神を分析すなわち、計測することにとりかかった。つまり精神が肉体を作るのではなく、計測できるもの(イメージ)から精神を推測するという手段を取るようになる。

 

なぜこのような不思議な考え方が、流行したのでしょうか?

デカルトやカントの思想を作為的に読み間違えて、彼らのメンタル(精神esprits や精神Geist )の中の一番物質に近いところに位置する理性だけにスポットライトを当てて、他の「いのち」の部分(霊、魂、中層意識、深層意識、智性、叡智)を削除して、理性と肉体を結びつけて唯物論を構築して、科学の体系知だけを「学問」にして、それを基準にしてしまったことに起因します。

共産も社会も資本の思想も、いかにモノに影響を受けるかという一面的な影響を過剰一般化する被害妄想と、いかにモノに影響を与えるかというリベラルの理性優先で捏造した体系知でしかありません。

粗い物質の方から、より微細な意識を把握することはできないので、精神がいかに物質にエネルギー転換したかという体系「智」は体感することはできません。

 

デカルトたちのポイントは心と体の2つを分離させることで、心が体を操作している、という主張です。

神や霊について各自の解釈を語ることで戦争が起きて、収まることがなかったので、「心」に希望をいだくという試みでした。

デカルトたちは、敢えて神や魂の問題を回避して、物質と理性の領域だけにスポットライトを当てて体系知を構築し、そこを基準にして生きることを提案しました。

 

ところが、近代からの科学者をはじめ、教育者、そしてその生徒さんたちは、もはやこの「二元論」を真剣に受け止められませんでした。

つまり彼らは、この世界は根本的に物質的であると主張する「物理的一元論」を採用したのです。

これが唯物論や物理学や医学です。そして矮小化した文学や芸術や哲学です。

 

「自己の精神」を放棄して、「モノという神」に丸投げすることを「崇高なる神の預定説」であると呼んで、他者に責任転嫁をした結果です。

 

そこから出てくる理念(たとえば、自由、平等、博愛)などは単なる自己の本質を見ないための言い訳でしかなく、そのような実体のないものを基準にするにはファナティックにヒステリックになるしかありません。

 

ですから、終いには「平和の正義」のために戦争をはじめることになります。

これが唯物論の世界で生まれてくるリベラルの理性の正体です。

独裁者に侵略される国を援助するといって、武器を寄付して、戦争を長引かせるのが実情です。

メンタル体の性質を知ると、独裁者が侵略をはじめる必然性を知る契機になります。

 

20世紀 二元論を否定する人たち、その奥にある思考パターン   一元論賛美  無理な一元論

20世紀になって、この「心と体」の2つを並べるのはカテゴリー・ミスであると批判されました

第二次世界大戦が終わった4年後に1949年にGilbert Ryleが著書「The Concept of Mind」でデカルト二元論の概念を嘲笑して「機械の幽霊ghost in the machine」と呼びました。

その本で彼はデカルト二元論の棺に最後の釘を打った、として評価している知識人たちがいます。

彼らは二元論が嫌いで、一元論にしないと、自分の専門性が揺らぐと無意識で考えているような人たちです。

 

Ryleはデカルト二元論を否定できたのではなく、18世紀以降に起きた物質とメンタルを対にする表層的な誤謬を指摘したに過ぎません。

デカルトはメンタルが身体を操作しているとし、Ryleの物質一元論は物質がメンタルに影響を与えることにスポットライトを当てました。

Ryleにとっての「幽霊」とは、このエッセイでは心のことであり、「機械」とはサイボーク化する肉体のことです。

20世紀は脳中心主義が強かった時代なので、心=脳という解釈をして、心は脳の産出物として「脳と体」の二元論ですが、どちらも肉体であるので、すなわち脳によって心が生じる、という「体の一元論」で世界を捉えるようになりました。

 

 

「心は自然界や物質界とは別の独立したものだ」という思想では、相互関係の説明がつかないと考え、心が体という系に包まれているという考え方、つまり体が心を限定していると考える人たちが出てきました。

つまり外部情報と肉体が心を生み出している、という一元論です。

 

心と脳を同一視する者                        スマートやファイグル

心は知覚機能の因果化がもたらしているものだとみなす者(心脳同一説) パトナムやアームストロング

心にはもっと合理的な説明がつくはずだと考える者(機能主義)     デイヴィッドソンやデネット

心や言語を部品から説明できるようにするべき             チョムスキーやサイモン

 

「心のモデル」や「意識のロジックモデル」を「作り出す」ことが流行します。

こうして「プログラムとしての心」は「パーセプトロン」とか「フレーム」とか「電子神経方程式」とかと呼ばれつつ、しだいに人工知能として、またロボットとして構成され、その機能や作用がナマの人間と比較されるようになりました。

 

 

脳の特徴はがいくら一元論(体系知)であるとしても、

戦後も加速度的に道具を使い続ける時代になったので、心が物質を使っているという2元論をリアルに感じる生活を過ごすことになります。

思想よりも実感です。

 

道具を扱う時には、体は二次的な役割を実際に果たし、マインドは身体をコントロールしているので、.機械の幽霊の喩えは、揶揄ではなく、実際に人間や動物の実情を表すのに適しています。 

マジョリティー特に文明都市生活者にとって、専門家が好む一元論よりも、二元論が各自の生活と思考のパターンにマッチしていると感じていました。

 

PC、モバイル、インターネット、車、電車、電気器具、どれも道具です。そのうちに言語(たとえば英語)も道具として扱う対象になりました。

 

それを反映するコミックやアニメや映画が作られるようになりました。

現在のアニメなどで二元論、一元論、また二元論がでてきたわけ 

こうしてロボットが設計され、工場ではロボットが製品をつくるようになります。大量生産が可能になる時代が到来しました。

その機械設計はハードではロボット、ソフトではAIとして発展し、これらの技術をベースにした未来像を描く作品が乱立するようになります。

鉄人28号、ジャイアント・ロボ、マジンガーZ、ガンダムなどのように、操縦士がロボットを操る話です。

どれも心が殻(体)を操作する話です。

 

機械が精密になると自動操縦することも可能になってきます。

たとえば、旅客機の自動操縦のように。

すると、スピードや方向だけではなく、予めプログラミンしていた自動反応回路に外部信号を入力することで、情報処理できる自律型の機械が成立します。

これが、ロボットやAIにも心がある、という内容です。

感情はプログラミング化することが可能なので、計算回路によってマインドが設計できるという考え方です。

たとえば、すべての情報に好きか嫌いを数値化したタグをつけ、嫌いな情報を受け取りたくない時には「怒り」、嫌いな情報を受け入れざるを得ない時には「悲しみ」の反応をするようにプログラミングします。

 

このように、物質的信号を基準にする一元論の作品が生まれるようになります。

たとえば、

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 Do Androids Dream of Electric Sheep? 1968年)

『ブレードランナー』1982  

goast in the shell

PSYCHO-PASS

これらは、「その心が実は体(物質、データ、脳、インターネット、法則に準ずる意識回路)であった」

 

イヴの時間

エヴァンゲリオン

serial experiments lain  PlayStation

もしくは「その回路体は実は「いのち」であった」

という「落ち」の作品群です。

 

 

そんな二元論を実際に体験したいという人々が現われはじめました。

たとえば幽体離脱OBEout of body experience)体験です。

 

体外体験のメカニズムとメンタル体

「アストラルプロジェクション」すなわち「幽体離脱の体験」に関する文献や、肉体から浮かび上がる「幽霊の霧のような姿」の写真を見たことがあるでしょうか?

多くの人々が、通常、ストレスの多い状況でこの体外体験を経験しています。

最も一般的なのは、患者が手術を受けて意識不明になった場合ですが、後に患者が上から手術を見ることができた話ががいろいろと発表されています。これは、男性よりも女性に頻繁に起こるようです。

詳細はコラムにて

 

私たちの眼は、電磁スペクトルの中の390 nm700 nmというごくわずかな部分しか見ることができません。

人間の可聴範囲は一般に2020,000 Hzですが、個人によってかなり異なります。

現代の科学機器は、これらを拡張して、たとえば赤外線カメラなどで赤外線周波数を見ることができます。

 

ところが「ゴースト」(幽体離脱の主体)は、見るために光を必要とせず、聞くために空気を媒体とする音波を必要としない、というのです。

これはいったい、何者なのでしょうか?

 

すると、次には、一元論では解決できない問題が表に出ることになります。

外部変化に対する「いのち」の適応、輪廻転生、31領域との交流、深層意識、とAIの限界を扱う作品です。

 

こうしてヒトの意識にスポットライトが当たるようになると、もう心と体という単純な二元論や、物質の一元論や、心の一元論で体系知を作ることができなくなり、意識に段階があることに気づくようになってきます。

 

 

 

人の意識の深層化

スポットライトを当てる地点により意識の機能が違うことを体感するようになる。

まずは「違い」、次に「コンセプト」、そして「タイプ」というように。

具体的には以下のように12段階に分かれるようになるが、これは時代や地域や文化によって7でも13にもなる。

たとえば虹の色がTPOによって、3色であったり5色であったり、7色であったり、9色であるように。

 

 

感覚界

表層意識  感覚器官を通して外界からの信号を「自分」という主体を使って認識する日常生活の意識

      受vedanā 感覚器官からの信号に遠・近・どちらでもないのタグをつける

概念意識  概念による過剰一般化によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

saññā  具体例を集めて一般化する  抽象度を一段階あげる機能

潜在意識  インプット信号に対応する自動反応回路で世界を認識していることに気づき、これを弱体化する

      行sankhāra  決まったアウトプットをする回路を作成する

統合意識  分析して統合するアイデンティティによって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

      識viññāna   認識には3つのパターンがあることを学ぶ

 

意識界

行動意識  自分の意識が物質化することを認識し、物質エネルギー化してしまう意識を弱体化する。

共通意識  他の生命体との共通項にスポットライト当てることで区別することを弱体化する。 

直観意識  元素の基になる微細エネルギーを体感して、粗大エネルギーによる影響を弱体化する。

枠組意識  知識は定義する(枠組み)によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

分別意識  知は分別によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

 

霊魂界

全体意識  「ありのまま」は分けずに直接に世界を認識していることに気づき、全体意識を育くむ

真空意識  なにもない空間から時空が湧き上がる刹那を感じるのを待つ意識を育くむ

真我意識  時空とエネルギーを持たない「元来の自分」の意識に出遭う

 

 

 

 

 

 

「心と体」の作品

 

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 Do Androids Dream of Electric Sheep? 1968年)

『ブレードランナー』1982  2049 (2017),

『追憶売ります』"We Can Remember It for You Wholesale" 『トータル・リコール』(1990) (2012)

『にせもの』(映画化名:『クローン』)

『少数報告』The Minority Report (映画化名:『マイノリティ・リポート』) (2002)

『報酬』Paycheck (映画化名:『ペイチェック 消された記憶』) (2003)

『暗闇のスキャナー』A Scanner Darkly 1977年  (映画化名:『スキャナー・ダークリー』(2006))

『ゴールデン・マン』The Golden Man (映画化名:NEXT-ネクスト-) (2007)

『ニューロマンサー』(Neuromancer) ウィリアム・ギブスンのSF小説。1984

 

イヴの時間

goast in the shell

PSYCHO-PASS

serial experiments lain  PlayStation

ガンダム

エヴァンゲリオン、

 

 

 

 

 

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Do Androids Dream of Electric Sheep?1968

フィリップ・K・ディック

 

放射能灰に汚染され一部砂漠化した未来のサンフランシスコで人間そっくりのアンドロイドを追うバウンティ・ハンター・リック・デッカードのモラル危機を描いている。

『高い城の男』と並んで本作はディック作品の中で最も有名である。本書はアンドロイドの倫理的な面を追求したSFの代表的作品である。

ハンプトン・ファンチャーとデヴィッド・ウェブ・ピープルズはこの映画を原作に1982年の映画『ブレードランナー』を執筆しリドリー・スコットが監督、ハリソン・フォードが主演を務めた。

続編『ブレードランナー2049』が2017年に公開された。

 

あらすじ

第三次世界大戦によって破壊された1992年の地球では放射性降下物が蔓延し動物はほとんど死に絶えていた。この社会では本物の動物を飼うことが地位の象徴となっており飼わない者は不道徳で同情心がないとみなされる。人口の電気羊しかもっていないバウンティ・ハンターのリック・デッカードはアンドロイド殺害の賞金で生きた羊を買うことを夢に見ていた。

 

ヒトの自意識のあり方、機械との差異という点は士郎正宗の『攻殻機動隊』(押井守の映画版に至っては都市のイメージも)やアニメ『イヴの時間』が挙げられます。あるいは同じくアニメの『サイコパス』に、森博嗣の『彼女は一人で歩くのか?』なども本作の影響下にある作品です。

 

 

 

作者フィリップ・K・ディックとは?

フィリップ・キンドレド・ディックは1928年生まれのアメリカのSF作家です。二卵性双生児でしたが、出生直後に双子の妹が亡くなり、その事実が彼の作風に多大な影響を及ぼしています。

 

1950年代にデビュー後、1982年に亡くなるまでの間に数多くのSF作品を発表。作品に社会的問題、政治的問題、あるいは形而上学的思想を盛り込んでいるところに特徴があります。その知名度と人気はアーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインら世界的に有名な「ビッグ・スリー」に勝るとも劣りません。

 

現在有数の高い評価を受けている反面、意外にも小学生時代の作文成績は低いものでした。しかし、その時点でもストーリーテリングの才能の片鱗があったと担当教師は語っています。中学生時代にSFと出会って、それが彼のその後の人生を決定付けました。

 

 

古典的名作が現代でもこれほど愛される理由

考察1

アンドロイドを見分ける方法として「フォークト=カンプフ感情移入度測定法」を使い、

刺激的な質問に対する表情の変化、顔色の変動を検査キットにかけて判定します。

これは人間だけが感情を持ち得て、人間そっくりに作られてはいても、アンドロイドには感情(言い換えれば心)がないという前提を持ってつくられたものです。

 

完全に人間としか思えない者達もいて、ルーバ・ラフトの歌声は彼を感動させました。

本当にアンドロイド=機械には感情が宿らないのか?

ひょっとすると感情は、後天的に獲得出来うるものなのかも知れません。もしそうだとすれば、人間とアンドロイドを区別するものはなんなのか。アンドロイドも生きているとしたら……。

 

人間や動物など、発達した脳を持つ生物だけが、眠る時に夢を見ます。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というタイトルには、人間が生物である羊の夢を見るように、アンドロイドも自分たちと同じ仕組みでできている電気羊の夢を見るのか、という意味。

 

考察2:ピンボケの特殊者であるイジドアが物語上で果たす役割

大戦後の影響で体質が変わり、子供を作れなくなり、それに加えて精神能力テストできわめて低い数値を出す人間がでてきます。

彼らが、アンドロイドと同じ立場、同じ境遇、同じ反応をすることで、作中で常識とされているアンドロイドの既成概念に、読者が疑いを持つよう仕向ける役割を果たしているのです。

 

考察3:マーサー教とは結局何だったのか。荒廃した時代の宗教

地球に住む人々の周辺には、生命の営みが感じられなくなったのです。そこで人々は、悲しみを慰めるように動物を飼い始めました。動物を慈しむこと(動物への共感)がステータスであり、人間的活動の象徴となったのです。

しかしそれだけでは足りないので一般人は、ペンフィールド情調オルガンという感情制御装置を使って生活しています。文字通り気分をスイッチで切り替えているのです。便利ではありますが、それは本物の感情ではありません。

 

そこで登場するのがマーサー教です。過酷な修行をおこなう教祖ウィルバー・マーサーと「共感ボックス」と呼ばれる装置を介して一体化し、その苦しさから生きている実感を得るのです。

共感ボックスは言うなればバーチャルリアリティで、マーサー教は精神安定剤と言ったところでしょう。

 

人間は感情の生き物であるという前提がなされている本作の世界ですが、その感情は機械やVRを通してしか感じることが出来ないのです。こんな風になってしまっても、本当に彼らがしているのは人間的な活動といえるのかを、読者に問いかけてきます。

 

考察4:結局、人間をたらしめるものとは?結末から解釈!

主人公は砂漠を彷徨い、そこで1匹の絶滅したはずのヒキガエルを見つけて再び帰ってきます。

愛情、憎悪、あるいは引っくるめて共感。それこそが人間的だと言うことなのでしょうか。

デッカードはこう問いかけました。

「きみはアンドロイドに魂があると思うか?」

「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」

 

 

 

 

一元論と二元論

1つの原理ですべてを説明することができるのか?

そうでないならば、何と何を分けるのか?

 

このエッセイでは「心と体」の間にどのような線をひくか、ということでの一元論と二元論であるが、

他にも、0と有限、神と霊、霊と魂、魂と心、と線引はいろいろあるので、他のものも概観してみることにする。

 

一元論はある領域では有効だが、その領域の外では無効になる。

したがって、一元論を唱える説は、その領域を見極めることが混乱に陥らない方法である。

最後に至る、0エネルギーの地点は一元的と言えるが、その地点ではもうこのような議論からも離脱しているので、このようなテーマは消失してしまっている。

今のところ、この時空がないエネルギーが0を基準にして、全体の因果関係を体系知にしているのは釈尊の仏法以外は知らない。仏教となると、チベットや大乗仏教なども含まれるので、エネルギーがある領域の中での関係性を説いているので、同じ一元論でも内容が異なる。

 

 

一元論

あらゆる存在の原理を研究する形而上学において、一元論はその原理を単一とする学説のこと。

一元論の基本的な考え方は宇宙の多種多様な実体を統一的に理解しようとするもの。

同時に一元論の思考様式は、多種多様であることの原因をも単一であるものとする。

 

二元論

たとえば、原子と素粒子の間では、原子は素粒子によって構成されるということで、一元論で説明ができるが、

意識は素粒子によって構成されているという実験結果はない。このように2つの繋がりが証明されない場合は二元論で扱うことになる。

 

 

 

 

心身問題   Mindbody problem

哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての考察である。

この問題はプラトンの「霊―肉二元論」そして、デカルトの『情念論』(1649)が心身二元論のモメントとなっいる。

現在では心身問題は、認知科学・神経科学・理論物理学・コンピューターサイエンスといった科学的な知識を前提とした形で語られている。

 

デカルトの心身二元論

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Descartes_mind_and_body.gif/200px-Descartes_mind_and_body.gif

松果体の働きを説明するためにデカルトの「省察」でもちいられたイラスト

 

デカルトは心を「私は考える」 (cogito) すなわち意識として捉え、自由意志をもつものとした。

一方、身体は機械的運動を行うものとし、かつ両者はそれぞれ独立した実体であるとした。

デカルトは精神と脳の最奥部にある(とされた)松果腺や動物精気、血液などを介して精神と身体とは相互作用すると主張した[1]

 

デカルトは、心身の交流が「精神の座」としての松果腺(glans pinealis)において、動物精気を媒介にして行なわれると考えた。しかしエリザベート公女は、こう鋭く質問した。

 

「全く物体性を持たぬ精神が、かように物体(身体)の運動を決定する、ということは矛盾ではないのか。一物体の運動の決定は他の物体によって為される、従って後者は前者と「接触」し且つ「延長」を有するものでなければならない。

しかるに、精神が動物精気の運動を決定するという時には、それは物体に直接に働きかけるのであるから、

「接触」は起こっているはずであるのに、今一つの条件たる「延長」は精神に帰せられていない。

これは不可解である。むしろ精神自体もある延長を有するものとすべきではないか[2]

 

エリザベートの批判は、まさに「等しさものは等しきものによって」説明されるべき限り、心身の相関関係において、心が身体に影響を及ぼす以上、身体という物体に物理的影響を与えうるものはそれ自身精神()も何らかの物質的存在性を有さねばならないという正当な根拠に基づくものである。デカルトは、エリザベートにこう返書した。

 

「私は、嘘いつわりなく申し上げますが、王女様の御質問は、私が今まで出版した書物を読んで後、私に対して発しうる最も理にかなった御質問であると思います。

なんとなれば、人間精神には二つのこと、一つは精神が思惟すること、他は精神が身体に合一していて、それに働きかけ働かれる(agiretpatir)こと、が属するが、後者については私は殆んど何事も論じておらず、専心ただ前者について世人の理解の徹底に努めてきたが、それというのも私の主たる目論見が、魂と肉体の区別を実証することにあったからです[3]       

 

デカルトは、「思惟」と「延長」及び「心身合一」を三種の「原始的観念」とする。

 

『情念論』(Les passions de l'Ame, 1649)に登場する、心(res cogitans = 思惟する実体)と身体(res extensa

思惟res cogitans    思考するもの、心、思惟する実体

延長extensa      広がり、身体、延長するもの   物体即延長 corpus sive extensa

精神mens, esprit    思考実体   純粋に知性的な機能が強調

魂 anima, âme     思考実体  感覚や感情といった機能が強調

Buzon et Kambouchner [ 2011 ]pp. 7-9.

 

そして、「心身合一」の観念は、「思惟」や「延長」とちがい、それらに還元できない原始的なものであり、それの派生観念として「力」の観念がある。

つまりデカルトは、形而上学的なレベルでは、心身分離のテーゼを堅持し、日常的な生のレベルでは、心身合一のテーゼを是認するのである。

デカルトは、心身問題を「心において受動(情念)なるものは、身体においては一般に能動である」という立場から,『情念論』』(les Passions de l'Ame)で主題的に論及している。

『情念論』が、心身の実在的区別と心身の相互作用とがどうして矛盾ではないのかという難問の解決になっていないにしても、デカルトが心身問題を人間存在の情念(Passion)に、即ち感情に解決の方向を見出したことは、それ以後の展開を考えると示唆的である[4]

 

実体二元論は思推実体、魂、精神など様々な名前で呼ばれる、能動性をもった非物質的な実体の存在を仮定する。この実体は脳から情報を受け取り、脳に指令を返す。このモデルは時に心に関する管制塔モデルである、という風にも表現される。

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Pineal_gland_small.gif

デカルトが精神の座だと考えた松果腺。脳のほぼ中央に位置し、視床(濃い茶色で示す)の背中側で、左右の視床体に挟み込まれるようにして存在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

機械論・唯物論

デカルトによる生命の機械論的解釈をさらに徹底化させたラ・メトリー(1709 - 1751)ら機械論や唯物論の見地に立てば、感情などの心の現象も生物学・化学的な作用であるため、心と体という分離自体がナンセンスである。

なぜならば、「心」は「体」の脳の機能によって発生したものである以上、心は独立した実体などではなく、脳によって作り出されたものであるから、と解釈するためである。

 

スピノザとライプニッツ

スピノザは、『エチカ』(1677)の中で、デカルトを批判した。

 

「これがかの有名な人の見解である。もしこの見解がこれほど尖鋭でなかったならば、私はそれがかくも偉大な人から出たとは殆んど信じなかったであろう[5]

スピノザの非難する理由はこうである。

 

「一体彼〔デカルト〕は、精神と身体との結合を如何に解しているのか。……彼は精神を身体から裁然と区別して考えていたので、この結合についても、また精神自身についても、何らの特別な原因を示すことが出来ないで、全宇宙の原因へ、即ち神へ、避難所を求めざるを得なかったのである[6]

 

心身問題に対するスピノザの解決策は、「観念の秩序と連結は物の秩序と連結と同一である(Ordo et connexio idearum idem est, ac ordo et connexio rerum.)[7]」という物心平行論、従って心身平行論である。

つまり現実の円と、この円の観念とは「同一物であり、それが異なる属性によって説明される[8]」のである。

 

「人間精神を構成する観念の対象は身体である[9]」。従って、「我々の精神の対象は存在せる身体であって、他の何物でもない[10]」。そして存在せる身体の観念は人間精神である。同一の人間存在を、思惟という属性の下に解すれば「精神」であり、延長という属性の下に解すれば「身体」である。従って「我々の身体の能動と受動の秩序は、本性上、精神の能動と受動の秩序と同時である[11][4]

 

これに対して、ライプニッツは心身問題を有名な「予定調和説」によって説明した。

「精神と身体とが一致するのは、あらゆる実体の間に存する予定調和による為であり、それはまた実体が元来悉く同一宇宙の表現だからである[12]」。

ライプニッツは、心身関係を二つの時計の比喩で説明する。時計の製作者が優秀であればあるほど、相互に何の因果関係もない二つの時計が、時刻がぴったり完全に一致するように製作可能である。ましてそれが神であれば、それは完全無欠である。

「今この二つの時計の代りに、精神と身体とを置いて見る[13]」。精神と身体との間には、デカルトが明らかにしたように、何の相互作用も実際には存しないにも拘らず、神の予定調和によって、心身間の相互関係は、あたかも直接に対応し合っているかのように、成立する

ライプニッツによると、予定調和説とは「神が初めに精神又は他のあらゆる事象的統一体を創造した際に、その精神に生ずる全てのことが、精神そのものから見ると完全な自発性によっていながら、しかも外界の事象と完全な適合を保って精神そのものの奥底から出てくるような具合にしておいたのである」とする説である[14]

 

しかし、ライプニッツの予定調和による心身問題の説明は神学的な想定による説明であり、それ以上の解明が不可能であり、少しも生産的な考察をもたらさない[4]

 

 

ベルクソンとメルロ=ポンティ

デカルト以来の心身二元論に基づく心身問題に、現代哲学の新しい観点からそれを克服する方途を提示したのは、同じフランスの哲学者ベルクソンとメルロ=ポンティである。

 

ベルクソンは、自ら物心二元論の立場に身を置きながら、物質と精神に独自の解釈を加えることによって心身二元論の難点を解消しようとするのである。

彼はまず物質(matiere)、精神の内にのみ存在する表象と解する観念論の物質観と、我々の表象とは全く独立に存する物と解する実在論の物質観との「中間のもの」(michemin)と捉える[15]のである。

ベルクソンはこれを「イマージュ」(image)と呼ぶ。だからイマージュとは、心像としては精神的であり、それ自体で存在する形像(物像)としては物質的であり、まさに中間的な存在物である。私見namarupa

我々のまわりに存在する石、樹木、港、山はすべてイマージュとしての物質である。そして「私の身体」もやはりイマージュとしての物体である。ベルクソンによれば、知覚とは受動的のみならず、身体が能動的に世界に働きかける可能的運動とされている。だから物質がイマージュとすれば、物質の知覚とは身体に関与したイマージュの運動形態(一種のひろがりのあるもの)であることになる。

「生ける知覚は単に受動的でなく、同時に能動的でもあるという二重構造をもっている[16]」。

つまり生ける知覚は、「記憶」の時間的持続を保持したものである。我々の生ける知覚においては、知覚と記憶の相互浸透が生起しており、この相互浸透が人間存在と世界の問に能動的一受動的な二重の関係構造を形成しているのである。

ベルクソンによれば、私の身体とは、「受けては返される運動の通過地点であり、私に作用する事物と私が働きかける事物との連結線、一言でいえば、感覚=運動的現象の座である[17]」。

 

ベルクソンの哲学的心身論の独創性は、技能を修得する「身体」に特徴的に顕示されている身体現象の実相を、知覚に関して身体の生理的心理的メカニズムを一定の方向に習慣化させる「運動的図式」(le scheme moteur)を想定して見事に説明したことである。

「運動的図式とは、解剖学的に知られる身心の生理心理的メカニズムの根底にあって、世界に対する行動的関わりを潜在的に形成し志向する見えざる作用だといってもいいだろう。身体のメカニズムは、そういう運動的図式によって賦活(活性)されることによって、はじめて生ける身体になるのである[18]」。

 

ベルクソンは、デカルト的な心身二元論やスピノザ的な心身平行論を克服せんと試みて、心身がゆるやかに相互浸透し、結合し合う身体論を構築したが、彼の生ける身体論は、それ自身「ゆるやかな心身二元論」の域を超えるものではなかったといえる[4]

 

これに対して、メルロ=ポンティはフッサールの現象学的方法を活用しつつ、ハイデガーの実存的人間存在論を取り込みながら、ベルクソンを超えるような方向で新たな身体論を試みたのである。

彼は、「ベルクソンは、〔物心という〕二者択一を実際に乗り超える代わりに、その両項の間を揺れ動いている[19]」と批判して、身体の主体的=客体的な「両義性」(ambigu'ite)に基づく哲学的心身論を構想するのである。

 

メルロ=ポンティは、ベルクソンが純粋記憶と純粋知覚、即ち空間的ひろがりのない「心」の在り方と時間的持続のない「物」の在り方とを二者択一的に対比して、その両項の問を動揺しながら、両者の交差点として身体を捉える考え方を批判しているのである。

彼によれば、身体は、主体()としての意識存在性と客体()としての物質存在性という両義的存在性格を分割しがたい形で受肉化したものである。

 

メルロ=ポンティはベルクソンを批判するが、しかし湯浅泰雄が適切に指摘するように、彼の考え方にはベルクソンの影響が大きいと言わざるをえない。

ベルクソンは、「知覚と行動の統一性」の故に、身体を「感覚一運動過程」(processus sensori-moteurs)として捉えて、身体のメカニズムを習慣化させる「運動的図式」(le scheme moteur)を想定した。

メルロ=ポンティは、これに対して表層的な身体即ち「現勢的身体」(1e corps actuel)を「感覚一運動回路」(un circuitsensori-moteur)として捉えて、その基底に深層的な身体即ち「習慣的身体」(le corps habituel)を想定し、その「習慣的身体」は身体のメカニズムを習慣化させる「身体的図式」(schema corporel)によって可能になるものとする。

「私は、私の身体を、分割のさかぬ一つの所有のなかで保持し、私が私の手足の一つ一つの位置を知るのも、それらを全部包み込んでいる一つの身体的図式によってである[20]」。 私見メンタル体

 

メルロ=ポンティの身体論は、ハイデガーの実存的人間論を大きな契機としていることはよく知られている。

ハイデガーは、『存在と時間』において、人間存在(menschliches Dasein)を「被投的投企」(geworfener Entwurf)としての「世界内存在」として捉えた[21]が、ハイデガーの人間存在の存在構造分析は、和辻哲郎が正当に批判する[22]ように、時間意識存在に偏位するものであり、人間の身体性に見られる空間的な存在の側面が希薄であった。

この意味では、メルロ=ポンティの身体論は、ハイデガー的な人間存在論の時間的(意識的)存在性の底に、空間的(身体的)存在性の基層を見ており、哲学的心身論あるいは、人間存在論としてはより充実したものになっているといえる[4]

 

カントの心身論――自由と必然性の二律背反より

カントは『純粋理性批判』(初版1781)の「純粋理性の二律背反」において、意志の自由と必然性のアンチノミーAntinomie(二律背反)をあげている。これは心身問題を直接扱ったものではないが、心身論のもう一つの側面である自由と必然性の問題に焦点を当てていることから、広い意味での「心身論」に含める場合もある。

 

現代哲学における心身論

心身問題に対する様々な見解。 心身問題から心脳問題へ

主に英米系の哲学においては、心身問題は心と体の問題ではなく心と脳の関係で論じられている。

心脳問題として捉える立場には、機械論的唯物論に近い心脳同一説(あるいは精神物理的一元論、DM・アームストロングなど)から精神の非物質性を擁護する創発主義的唯物論(M・ブンケ)まで、多くの理論や考察がある。

 

これらは認知科学、脳科学などの成果を基礎としたものであり、心の発生・作用における中枢神経系の機能を哲学に組み込んだものとして評価される一方、脳に帰すことのできない身体独自の機能を切り捨てた議論であるという批判も多い。

 

日本の哲学者たちの心身問題

現代日本において、心身論を扱ってきた哲学者としては市川浩、大森荘蔵、坂本百大、廣松渉らがいる。また、2001年には唯物論研究協会が学術誌『唯物論研究年誌第6号』において「こころとからだ」というタイトルで心身問題についての特集を組んだ。

 

 

科学における心脳問題

心脳一元論の仮説

現在の科学者に最も広く支持されている考え方は、大脳におけるニューロンの電気的活動に随伴して意識が生じるという仮説である。

ニューロンの活動から心や意識が生じてくるという事を直接に裏付ける証拠はない。

分離脳の研究や生理学者であるベンジャミン・リベットによる準備電位の研究などは、心脳一元論を示唆していると見る者もいる。[23][24]

 

また脳内では極めて多様な働きが起こっている(視覚だけでも、色・形・動きなど30以上の領域に渡って情報が処理されている)にも関わらず、「私」という意識が分裂することなく1つに統合されているのは何故か、という「結びつけ問題」がある。これらの問題については、以下のように様々な仮説が唱えられている[25]

 

スーザン・グリーンフィールドの仮説

オックスフォード大学のスーザン・グリーンフィールドは、人間の意識は脳内のニューロンのネットワークからなると主張している。ニューロンは大小無数のネットワークを構成しており、大きいネットワークになると数千万個のニューロンから構成されるものもあるが、そのうち最大のネットワークが人間の意識体験になる。

身体の内部から生じるシグナルがニューロンのネットワークを変化させることで、人間は異なる意識体験をする。人間の意識が生じる仕組みそのものについては不明であるが、人間の経験に応じてニューロンの結びつきの強度や範囲が変化する事実は、この仮説を裏付けている。

 

フランシス・クリックとクリストフ・コッホの仮説

DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリックとクリストフ・コッホらは、人間の視覚に相関する神経活動に注目している。クリックとコッホは、ニューロンが40ヘルツ前後の周期で同期して活性化する事で、形・色・動きなどに応答する視覚意識が統合され、これが人間の意識の発生に関わってくるのではないかと推測している。この仮説を直接裏付けるような実験的証拠は殆ど得られていない。

 

ダニエル・デネットの仮説

タフツ大学の哲学者ダニエル・デネットによれば、脳は各種の入力刺激に応じて機械的・無意識的に出力を返す働きを持つ。そして、脳を指揮する「自己」や「主観的な意識」と言うものは存在しない。

脳では複数のニューロンのネットワーク(モジュール)が活動しているが、これらが互いに競合や協調して増幅される結果、脳全体のニューロンが活動した状態になり、これが主観的な意識状態として経験されるとデネットは主張している。

 

ジェラルド・エーデルマンとジュリオ・トノーニの仮説

アメリカの生物学者であるジェラルド・モーリス・エデルマンとジュリオ・トノーニは、知覚のカテゴリー化に関する脳内の領域と、記憶や価値観に関与する領域の相互作用から、人間の意識体験に対応する脳内現象が生じると主張している。

 

心脳一元論への批判

脳のニューロンの働きが意識を生み出すという仮説においては、ニューロンが意識や思考の発現に「関与している」証拠は示されていても、ニューロンが意識や思考を「生じさせている」証拠は示されていない、と指摘されている。近年の神経科学的研究により明らかになっている事は、脳と心には「関連性」があるという事実であり、それは脳から心が生まれる因果関係を証明するものではない[25]

 

実体二元論の仮説

意識は脳と相互作用する事はあっても、意識自体はモノではなく、それ自体独立した存在である(実体二元論)と考える者も科学者の中には存在する。

生理学者であるチャールズ・シェリントンは「人間は脳と心から成り立っているという可能性は、人間は脳のみから成るという考え方に比べて、可能性と言う点では特に差はないと思われる」と述べた。

ワイルダー・ペンフィールドは晩年に「二元論的な仮説の方がより合理的なようだ」と著書に記している[25]。フランスの哲学者であるアンリ・ベルクソンは、脳の役割は記憶を貯蔵し意識を生み出すのというものではなく、フィルターないしリミターであり、より広い領域から記憶を選択的に呼び出すものだという説を展開した[24]

 

ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフの仮説

ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。

ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している[26]

 

ジョン・エックルスの仮説

神経科学者であるジョン・C・エックルスは、意識体験を統合するのはニューロンではなく心であると主張した。心が外界とコミュニケーションを取るための装置が脳であるため、人間は脳からもたらされる情報を奴隷のように受け取るだけの存在ではなく、能動的に取捨選択を行い脳の活動を調整する存在であるとエックルスは述べた。

 

ルバート・シェルドレイクの仮説

元ケンブリッジ大学フェローであり、生物学者であるルパート・シェルドレイク(英語版)は、記憶や経験は、脳ではなく、種ごとサーバーのような場所に保存されており、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、と述べている。

 

 

臨死体験と心脳問題

心停止状態にある人間の臨死体験を研究する事は心脳問題のアプローチと成り得る。臨死体験研究においては、脳機能が停止(あるいは極端に低下)し意識不明の状態にある患者が、明晰な意識や思考を保ったまま「身体から抜け出し」病室や遠隔地の光景を(意識回復後に)正確に描写する例などが存在する。

明るい部屋に入り、電灯のスイッチをOFFにしても室内がまだ明るいままなら、光源は電灯の他にあると考えざるを得ない。従ってこうした臨死体験例は、心や意識が脳とは独立に存在する事を示唆していると捉える研究者も多い[25]

 

こうした立場によく見られる仮説として、脳を意識のフィルターあるいは変換器と捉える解釈がある。研究者のヴァン・ロンメル(英語版)[27]やエベン・アレグザンダー[28]、東京大学医学教授の矢作直樹[29]などの見解が挙げられる。

 

エベン・アレグザンダーの仮説

201210月、ハーバード大学の脳神経外科であるエベン・アレグザンダーは、かつては唯物論者であり心脳一元論者であったが、脳の病に侵され入院中に臨死体験により回復するという体験をした。退院後、体験中の脳の状態を徹底的に調査した結果、昏睡状態にあった7日間、脳の大部分は機能を停止していたことを確認した。また臨死体験中には、かつて顔も知らないまま生き別れになった姉に出会うなど、通常の脳機能では知覚し得ない情報も得られた。そうした体験から「脳それ自体は意識を作り出さない」だろうと述べている。[30]

 

ロジャー・ペンローズ・スチュワート・ハメロフの仮説

ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフは心脳問題と臨死体験の関連性について以下のように推測している。

「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」[26]

 

マリオ・ボーリガードの仮説

モントリオール大学の神経科学者マリオ・ボーリガードは臨死体験における心脳問題と関連して、「脳が損傷を受けたことにより人の精神機能に変化が起こったからといって、精神や意識が脳から生まれているという証明にはならない。プリズムを白い光が通過すると、分光が起こって様々な色のスペクトルが生じる。だが、これはプリズムがあるから光が違って見えるのであり、プリズムそのものが光源になっているわけではない。それと同じように、脳は人間の精神や意識の状態を受容し、変容させ、発現するが、そこが光源というわけではない」と述べている。[31]

 

バーナード・カーの仮説

クイーンメリー大学のバーナード・カー(英語版)によれば「人間の精神は別の次元と相互作用によるものであり、多次元宇宙は階層構造になっており、私たちがいる次元はその最下層にあたる」という。そして「少なくとも4つの次元が実際にあるが、このうち人間の物理的なセンサーは3次元宇宙にのみ働いている」「超常現象の存在は、精神がこの実体宇宙の中に存在しなければならないことを示唆している」と述べている。[32]

 

前世記憶と心脳問題

臨死体験の関連研究として前世記憶の研究がある。仮に人間が前世の記憶を保持しているとすれば、それは肉体の死により意識が消滅せずに記憶が持ち越されたと考えられるため、心身二元論を支持している事となる。

 

前世記憶の研究者としてはヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソンやジム・タッカーが挙げられる。

イアン・スティーヴンソンは幼い子供が前世の記憶を持っていたとする事例を2000例ほど集め、様々な説(虚偽記憶説や作話説など)を検証した結果、「生まれ変わり説」を結論として受け入れている。

ジム・タッカーは「物理世界とは別の空間に意識の要素が存在」し「その意識は単に脳に植え付けられたものではない」と自説を述べている。[26]

 

^ Descartes, R. (1641) Meditations on First Philosophy, in The Philosophical Writings of René Descartes, trans. by J. Cottingham, R. Stoothoff and D. Murdoch, Cambridge: Cambridge University Press, 1984, vol. 2, pp. 1-62.

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^ 和辻哲郎, 『風土』, 1,岩波書店

^ ケヴィン・ネルソン『死と神秘と夢のボーダーランド: 死ぬとき、脳はなにを感じるか』ボーダーランド

^ a b スーザン・ブラックモア『生と死の境界 臨死体験を科学する』読売新聞社

^ a b c d サム・パーニア『科学は臨死体験をどこまで説明できるか』三交社

^ a b c NHK ザ・プレミアム超常現象 モーガン・フリーマン 時空を超えて 2回「死後の世界はあるのか?」

^ Pim Van LommelConsciousness Beyond Life: The Science of the Near-Death ExperienceHarperCollins e-books

^ エベン・アレグザンダー『プルーフ・オブ・ヘヴン』早川書房

^ マル激トーク・オン・ディマンド 646

^ アレグザンダー & 白川 2013, p. 108

^ マリオ・ボーリガード『脳の神話が崩れるとき』

^ Astronomer Says Spiritual Phenomena Exist in Other Dimensions By Tara MacIsaac, Epoch Times | April 7, 2014

 

 

 

 

 

 

一元論

バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した。

スピノザの学説は究極的な原因としての神を前提とする汎神論であり、自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。

また人間の精神と身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。

この一元論についてはスピノザ以外にはプラトン、ライプニッツ、ヘーゲル、ムーアなどが研究しており、

東洋哲学ではヒンドゥー教 (アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)やヴィシシュタ・アドヴァイタ等)、 ユダヤ教(特にカバラ思想)、キリスト教(特に東方諸教会、正教会、イングランド国教会)、イスラム教(スーフィズムの中の特にベクターシ派の中には、一元論的な多神教や一元論的な汎神論を唱える流派がある。

 

私見ではスピノザの神はdhammaであり、心身を同一のものの2側面ととらえているが、心が凝縮されたものが物質エネルギーになり、それが凝縮されると身体となるので、同一のものではない。

基本構成物は無色界のdhammaであるが、その領域を「神」と呼ぶのはいいが、それは輪廻転生の31領域の生命体でしかない。

 

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教の宗教文書であるヴェーダには、存在なき存在、息(生命)なき息(生命)、宇宙的存在に自己投影される単独の力への言及がある。

ヒンドゥー教の中で最初に明確に絶対的一元論を唱えたのは、シャンカラの唱道するアドヴァイタ・ヴェーダンタである(アドヴァイタは「不二」すなわち非二元論の意)。

これはヒンドゥー教の6つの哲学体系のうちの一部で、ウパニシャッド哲学を基礎にしており、究極的なモナドとしてブラフマンと呼ばれる無定型で神聖な基底があると見なす(梵我一如)

こうした一元論的な思考は、ヨーガや非二元論的タントラといった他のヒンドゥー教流派にも広がっている。

 

別のタイプの一元論はラーマーヌジャ学派やヴィシシュタ・アドヴァイタによるもので、世界が神(ヴィシュヌ)の一部であるとする。汎神論ないし万有在神論の一種であるが、この最高存在の中に魂や実体が複数含まれるとする。このタイプの一元論は一元論的有神論と呼ばれる。

ヒンドゥー教では、内在的かつ超越的で普遍万能の最高存在としての人格神の概念が優勢である(一元論的有神論を絶対的一神教と混同しないこと。絶対的一神教は神を超越的とのみ考えるから、全てに現前する内在的な神の観念は不在である)。

 

大乗仏教

仏教では、ヒンドゥー教のリグ・ヴェーダに描かれる形而上学的実体とも言うべきブラフマンといった「かの一者 ted ekam」を認めないが、大乗仏教では一元論的思想を深め、唯識説などを追求することになった。

例えば、真如や実相である如来蔵や、仏性についての理論は、大乗仏教がたどり着いた、一種の一元論である。

私見では、唯識論はdhammaの偏りであるgatiがメンタル体として輪廻転生する考え方なので、涅槃に至るのではなく、無色界に至ることを目指しているのではないか?

 

ユダヤ教

ユダヤ教では、2つの相互に関連する理由から、神は創造に内在的であると考えられている。

第一に「すべての被造物を産み出す神の力は〔創造の後も〕……現前している。わずか一瞬であれ神の力が被造物を見捨てれば、創造以前のような完全な無の状態に戻ってしまうことだろう」。

二番目として、ユダヤ教では神は唯一で、完全に単一である故、神の力は自然の中にあり、そして神の本質も自然の中にあるという、公理がある。

ただし、ユダヤ教では、神はすべての物質的な被造物から分離されており、時間の外にあるということを銘記すべきである。ユダヤ教的伝統のもとにおける否定神学(カバラにおけるツィムツームTzimtzum)においては、神は、有限な世界が存在する概念的空間を準備するために、みずからの無限の本質を「収縮」させたとされる。

 

私見では、ユダヤ教には天界と色界と無色界が混同している。

神が時間の外にあるのであれば、それは涅槃であるが、銘記されていないのではないか?

無限の本質は霊であり、涅槃であるが、これは収縮されることはなく、収縮されるのは普遍エネルギーであるdhammaである。

 

 

古代ギリシャなど

モナドは「一番目」、「根源」、「本質」、「基礎」としてギリシャの哲学者によって参照される象徴であった

一元論には様々なタイプがあるが、それぞれの理論において究極とされている存在は、"Monad"(モナド)という言葉で呼び表される。

モナドという言葉は「単一の、単独の」といった意味を持つギリシャ語 μόνος (モノス)に由来し、古代ギリシアのエピクロスやピタゴラスによって最初に用いられた。

 

以下に掲げるソクラテス以前の哲学者が、世界を一元論的なものとして記述している。古代ギリシャではそれは、おおむね「アルケーは何か?」という問いに答えるような形で表現された。以下、論者とそれぞれの考えの主旨を記す。

 

ターレス - 万物のアルケーは水である。

アナクシマンドロス - アルケーは「アペイロン」すなわち無限な何かである。世界はなんらかの一つのものであるが、われわれがそれを知ることはできない。

アナクシメネス - アルケーは(pneuma、プネウマ、気息、空気)である。

ピタゴラス - アルケーは数である。

ヘラクレイトス - アルケーは火である。火のもとで万物は流転する。

パルメニデス - アルケーは一である。世界は不動の完全な球面であり、不変、不可分である。

ミレトスのレウキッポスとその弟子 アブデラのデモクリトス - それはアトムと空虚(すなわちアトムと無アトム)である。

アナクサゴラス - アルケーは宇宙的精神である。

(以上に対して、エンペドクレスは地、空気、火、水の四元素説を唱えており、一元論ではない)

 

また、ソクラテス以降の哲学者の中では、

ティアナのアポロニウスなど新ピタゴラス派の人々が、モナドすなわち一者を核に置いた世界観を立てている。

ヌメニオスの著作に影響を受けた中期プラトン主義が、モナドすなわち一者から世界が流出したと述べている。

ネオプラトニズムも一元論的である。プロティノスの教えによれば、世界は神聖超越の神すなわち「一者」であり、この一者からさまざまな世界が流出する。ヌース(神なる精神)、プシュケー(宇宙の魂)、コスモス(世界)は、一者から流出したのである。

 

キリスト教

キリスト教はユダヤ教から生まれた一神教であるが、同時に、成立の初期段階で教父らによって古代ギリシャ哲学を取り込んでいる。

キリストは神性と人性をもつという両性説を採るという意味では、一元論的な説と二元論的な説が結合されているといえる。

プロティノスが唱えたようなネオプラトニスムにも似ており、究極的には世界に、超越的かつ内在的で、万能で神聖な神しかいないと考えている。

アウグスティヌスは『自由意志論』の悪について論じた部分で、悪は善の反対物であるというよりも、善の不在にすぎないと述べている。つまり悪はそれ自体としては存在しないものなのである。

同様に、著名なキリスト教者であり『ナルニア国ものがたり』の作者であるCS・ルイスも著書『キリスト教の精髄』の中で、善があって初めて悪があるのであって、悪は単独では存在しないと述べている。さらにルイスは道徳的絶対主義の立場から二元論を批判し、神に比肩するものはないのだから、神と悪魔(サタン)が拮抗するという二元論的観念は認められないとしている。ルイスによれば、悪魔はむしろ大天使ミカエルの敵対者である。

 

ウァレンティヌス派

ウァレンティヌス派はキリスト教の一派であり、紀元2世紀に生きたグノーシス主義の神学者ウァレンティヌスにちなんでこう呼ばれる。一般にはグノーシス主義は二元論的とされているが、ウィリアム・シューデルによれば、「ウァレンティヌス派その他のグノーシス主義解釈の標準的要素は、それが根本的には一元論的だということを認めている。

ウァレンティヌス派の資料によれば、神(ただし認識できるペルソナをもつとはいっても、典型的な正統キリスト教の超越的実在の概念というよりも、言語に絶するネオプラトニズム的なモナドに似ている)が万物に浸透しており、物質世界は錯誤の上に成立しており、われわれの知覚も誤りである。

ウァレンティヌス派によって物質世界がモナドの「外」にあると説かれることもあり、現世にある無知なわれわれの生活は悪い夢にすぎないとする文章もある。

様々な解釈が可能である。非一元論的解釈もあるし、半一元論的な解釈も出されている。「モナド」という概念自体は単一性を指すとも、不可視の隠された神という単一の本質を指すともいえる。

同様に、「モナド」という言い方で精神原理の唯一性を意味することもある。

様々な認識の状態を空間的用語で記述するのはグノーシス派の隠喩に典型的なやり方であり、ウァレンティヌス派でもよく見られる。

 

スピノザや汎神論

スピノザのように、汎神論を唱える一元論者もいるが、全ての汎神論者が一元論者であるわけではない。

多神論者であることも、多元論者であることもある。

同様に、全ての一元論者が汎神論を唱えるわけではない。

排他的一元論者は、汎神論者のいう世界や神は存在しないと考えている。

また理神論を唱える一元論者もいる。

万有在神論的な一元論の場合、万能で完全に浸透した一神教的神が、世界に内在し、かつ超越的にも実在していると信じる。

 

ライプニッツ、バークリー

ゴットフリート・ライプニッツは、実体的には多元論だが、物体を現象とし、神まで含めてモナドの一種類と見なしたという点では、一元論と言える。

また、ジョージ・バークリーは、物体の実在性を否定し、無限精神である神(the God)と人間精神のみを実体とした非物質論を展開した。これも一元論と言える。

 

近年の神学的一元論の広がり

東洋のインド哲学の多くの学派(ヴェーダーンタ学派、ヨーガ学派、シヴァ神を奉じる一部の学派など)、道教、 汎神論、 ラスタファリ運動といった思想体系では、神秘主義的・心霊主義的な立場から一元論的哲学の探求が行われているが、これらの思想体系が西洋で広く知られるようになるにつれ、西洋の心霊主義的哲学的風潮が一元論への理解を強めた。さらに言えば、ニューソート運動100年以上前から多くの一元論的な主張を取りこんできた。

スピリチュアリティという観念と心身統一という一元論的原理とは相矛盾すると唱えるという点では、一元論と宗教哲学とは正反対と言える。

しかし、宗教とスピリチュアリティを英知の源泉と考えると、どんな宗教哲学より一元論が根本的であるとも言えよう。

 

現代の哲学的一元論のタイプ

最近では、一元論は以下の3つの基本的なタイプに区分されることもある:

本質一元論。ひとつの本質だけがあるとするもの。

属性一元論。一種類のものだけがあるが、そのカテゴリーの中にたくさんの個物があるとするもの。

絶対一元論。ひとつの本質、ひとつのものだけがあるとするもの。従って、完全一元論が一元論の理念型といえる。

 

また一元論は以下の3種類に分けることもできる。

観念論。唯現象主義、すなわち心だけが現実だと考える唯心論的一元論。

中立的一元論。心身いずれもがなんらかの第三の本質(エネルギー等)に還元されるとするもの。

唯物論または物理主義。身体だけが現実であり、心は身体に還元されるとするもの。

ただし上記の分類のどれにも当てはめにくい立場もいくつかある。例えば、

機能主義の場合、唯物論と同じく心が究極的に身体に還元されるとするが、 それだけではなく、心の全ての臨界的局面は神経基質(Neural substrate)のなんらかの「機能的」水準に還元できるとする。

それ故ある精神状態になる時にニューロンから何かが出ていなくてはならないということはない。認知科学や人工知能研究でよく見られる立場。

 

消去主義の場合、精神という言葉は将来的に非科学的と証明されるはずであり、完全に放棄されると論じる。

全ての者が地・空気・水・火の四元素から構成されているという古代ギリシャ人の説をわれわれがもはや信じることができないように、将来の人間ももはや「信念」「欲望」その他の精神状態を指す用語を用いなくなるというのである。 バラス・スキナーの徹底的行動主義は、消去主義の変形の一つである。

 

非法則的一元論は、ドナルド・デイヴィッドソンが1970年代に心身問題解決の一方法として提起した立場である。

上述の区分からすれば、これは物理主義または中立的一元論と考えられる。デイヴィッドソンによれば、物理的出来事だけが実在する。全ての心的対象ないし心的出来事も完全に実在しているが、なんらかの物理的出来事と同一の出来事として記述可能である。ただし、

(1)全ての心的出来事は物理的であるが、全ての物理的出来事が心的であるわけではない、

(2)(ジョン・ホーグランドによれば)全ての原子を除けば何も残らない、

という2つの理由から、物理主義がある程度優位を占める。

この一元論は以前の心身統一理論より優れた理論と考えられている。

なぜなら、この立場を採っても、全ての心的実在を純物理的な用語で記述し直す方法を今すぐ提供できなくてもよいからである。

実際にそのような方法はない。非還元的物理主義はそういう立場を採るし、創発的唯物論の場合もそうかもしれない。

 

反映一元論はマックス・ヴェルマンズが2000年に提起した立場である。意識に関する二元論と還元主義の見解双方につきまとう困難を解決する方法として提起されたもので、知覚された物理現象を意識内容の一部と見なす。

 

 

 

二元論

古代インド

古代インドにおいては、自我を自己の内部に追求し、呼吸や思考や自意識の背後に心臓に宿っている親指の大きさのプルシャを想定し、アートマンとこれを呼び、現象界の背後にある唯一の実在をブラフマンと呼んだ

(アートマンとブラフマンの二元論)。

だが、このアートマンとブラフマンの二元論は、小宇宙と大宇宙の照応観念を背景としたウパニシャッドの神秘主義的なウパーサナ(upasana、同置)の直感のなかで、アートマン=ブラフマン(梵我一如、ぼんがいちにょ)として、一元論に還元されることになった。

 

サーンキャ学派は、人間に内在するアートマンの超越性を強調し、精神原理のプルシャと物質原理のプラクリティを抽出し、体系的な二元論を構築した。

その体系は、普遍のプルシャと結合したプラクリティから、統覚機能、自我意識、思考器官、10器官、5微細元素、5粗大元素へと分かれる、25原理の図式を備えている。

これを今述べた順に降下する方向で理解すると宇宙論となる。

反対に上る方向で辿ると、ヨーガの深化に対応する、人間存在が備えている重層的な主観/客観の二元論構造を示すことになる。

つまり、精神/外界、思考/対象、自我意識/表象、意識/無意識、自我/非自我といった二元論の広いテーマを内包している。

さらに究極の二元はプルシャの解脱のために結合し、世界を開展するとされる。

目的論的に結合する。この二元は、さらに高次の存在により統合される一元論を内に孕んでいる。

 

『バガヴァッド・ギーター』においては、サーンキャ学派の二元論をベースとしつつ、クリシュナ神が至高の存在と宣言される。

また、タントラにおいても、シヴァ神とシャクティ神妃という二元が合一し、一元となることで解脱する。

神秘主義(神秘論)においては、世界を大きく二つの範疇(分類)に分けて認識・理解するという人間の性質を意味している。

例えば、人が木を認識する際に、周りの木でないものと分かつものとして木を認識する、また世界と自己を分かつものとして、自己を理解するということである。

 

伝統的な仏教では、悟りの境地に至るためのきっかけは、このような二元論を乗り越えることだとされている。それは簡単に実現できることではなく、全生涯を費やさなければならないものである。

 

陰陽思想

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Yin_yang.svg/100px-Yin_yang.svg.png太極図

中国を中心に発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の二つの要素から成り立っていると考える。

具体的には光と闇、昼と夜、男と女、剛と柔などにそれぞれ陽と陰の属性が対応すると考えられた。

この場合二つは必ずしも対立することを意味せず、むしろ調和するもの、調和すべきものと捉える。

そして、一元化はしない。そういう点では善悪二元論に陥りがちな一神教の究極的には一元化するものと意味づけられた二元論と、大きく違っている。

 

道教(タオイズム)老子は相待を説く。例えば、美は醜があるから、相反するものと比較するから、美しいのであるとする相対である。相互いに待っているとする。男と女のようなものでの二元論だ。

善も悪があるからである。比較しながらも必要とする二つのものだ。

 

西洋

3000年前より始まり現在も信仰されているゾロアスター教や、すでに消滅したグノーシス主義、それらから影響を受けたマニ教、ボゴミール派、カタリ派などの宗教は、二元論的である。

 

神学における二元論は、世界における二つの基本原理として、例えば善と悪というようなお互いが背反する人格化された神々の存在に対する確信という形で現れている。

そこでは、一方の神は善であり、もう一方の神は悪である。

また、秩序の神と混沌の神として表されることもある。

3世紀、キリスト教徒の異端者であったシノペのマルキオンは、新約聖書と旧約聖書はそれぞれ背反する二つの神の御業だと考えた。

 

心の哲学における二元論

心の哲学における二元論は、まったく異なる種類のものとして認識される、心(精神)と物質の関係についての見方を示すものである。このような二元論はしばしば心身二元論とも呼ばれる。

これと対照をなすものとして、心も物質も根本的には同じ種類のものだとする一元論がある。

 

歴史的に最も有名な二元論としてデカルトの実体二元論がある。この時代の二元論は、法則に支配された機械論的な存在である物質と、思推実体や霊魂などと呼ばれる能動性をもつ(つまり自由意志の担い手となりうる)なにものかを対置した。

 

現代の心の哲学の分野における二元論はデカルトの時代のものとは大きく変化しており、物理的なものと対置させるものとして、主観的な意識的体験(現象意識やクオリア)を考える。

その上で性質二元論または中立一元論的な立場から議論を展開する。

こうした立場の議論で有名なものとして例えば、デイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論、コリン・マッギンの新神秘主義などがある。

現代の文脈でこうした二元論と対立するのは物的一元論、つまり唯物論、物理主義などと呼ばれる立場である。有名な立場として同一説、機能主義、表象説、高階思考説などがある。

 

科学哲学における二元論

西洋の科学哲学における二元論は、物事を主体(観察者)と客体(被観察者)の二つに分けて論じる方法を言う場合が多い。

批判者は、このような二分法をその科学における致命的な欠点だとしている。

また社会構築主義の文献では、この方法が主体と客体の相互作用に影響して、それをより複雑なものにしてしまう可能性があると述べられている。

 

実体二元論   Substance dualism

とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。

ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。

ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。

 

1. この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。

2. そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている

実体二元論は心身二元論、物心二元論、霊肉二元論、古典的二元論などとも言われる。単に二元論とだけ表現されることもある。

西洋では歴史を遡れば古代ギリシアのプラトンまで遡ることができるが、特に代表的だと見なされているのは17世紀の哲学者デカルトの二元論である。

実体二元論は歴史的・通俗的には非常にポピュラーな考えではあるが、現代の専門家たちの間でこの理論を支持するものはほとんどいない。

ただし、ペンローズ、ハメロフ、エックルズ、ベック、治部、保江などによって二元論の発展形や改良型とも言えるような量子脳理論が唱えられている。

また思想家の吉本隆明は、精神と脳という言葉を用いているからといってそれを即「二元論」と捉えて批判していること自体に自然科学や還元論が内に含んでいる方法論上の問題がある、といった内容の指摘をしている。

 

 

歴史

紀元前4世紀の古代ギリシャの哲学者プラトンは、著作『パイドン』の中で、死はソーマ(肉体)からのプシュケー(いのち、心、霊魂)の分離であり、そして分離したプシュケーは永遠に不滅であるとした。

不滅であることのひとつの理由として、プシュケーは部分を持たない、とした。

つまり何かを破壊するためにはそれを部分に分けなければならないが、プシュケーには部分がないのだからそれは分けることができない、すなわち破壊不可能である、と論じた。

そして不滅であることのもうひとつの理由として、物事の状態は互いに逆の状態からもたらされる、ということを挙げた。

生きているとはソーマとプシュケーが一つになっていることであり、死はその反対、ソーマとプシュケーとの分離であるとした。

こうしたプラトンの説も「二元論だ」とするのが従来の定説であった。

(ただし、「二元論」とする従来の定説は大きな間違いで、プラトンの説の内容は「場の理論」であると、学者による緻密な研究によって近年指摘されている。)瀬口昌久『魂と世界 プラトンの反二元論的世界像』

 

17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という表現を掲げつつ二元論を唱えた。デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質、res extensa)と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心、ラ:cogitance)の二つの実体があるとし、これらが互いに独立して存在しうるものとした。

この考えはデカルト二元論(Cartesian dualism)と呼ばれ、デカルトのこの説がしばしば実体二元論の代表的なものとして扱われている。

歴史的に直近に、実体二元論を唱えた人物としては、20世紀のオーストラリアの神経生理学者ジョン・エックルズが有名である。エックルズはしばしば、「最後の二元論者」などと呼ばれている。

 

問題点

デカルト的な二元論は、近・現代の自然科学の哲学的な基礎を作ったが、同時に自然科学が発展するにつれ、徐々に支持されなくなっていった。

機械論が普及するにつれ、この世界で生起している現象はすべて力学で説明できるはず、とする考えが自然科学者らの間で広く受け入れられてゆき、デカルト的な二元論は理論的に難がある、と考えられるようになっていった。

 

デカルトは「松果体において、物質と精神が相互作用する」としたのである。

しかし仮にこうした相互作用があるとするならば、脳において力学の説明していないことが起きている、としなければならなくなる。

この相互作用の問題は、デカルトが理論を提出した当初にすでに指摘されていたが、力学が発展し機械論的な見解が普及していくなかで、大きな問題点とされてゆくようになった。

ガリレイ・ニュートン以後に発展した機械論的世界観と整合性を持たない、と考えられたからである。

(その後の歴史を辿ると、機械論は、力学の自然科学内部での位置づけが低下したり、全体論や有機体論からの批判によって難点が露呈し不人気となってしまったが)そのかわり、現代では物理主義を採用して、その立場からデカルトの説の難点を指摘する人もいる。

 

実体二元論で問題となるのは、ひとつにはデカルトの考え方はカテゴリーミステイクではないか、という点である。またひとつには因果と関わる問題である。

物質と精神を完全に別の二つの実体とすると、両者の間の関係を考える必要が出てくる。

また「精神が物質に命令を与える」とする考え方は、1980年代に行われた自発的な運動にともなう準備電位の前後関係に関する実験結果を見ると説得力を失う。

 

ライルによる指摘

1949年、イギリスの哲学者ギルバート・ライルは、著作"The Concept of Mind"(邦訳:『心の概念』)において、実体二元論を概念上の混乱として批判した。ライルは脳とは別に、実体としての精神を措定するデカルト的な二元論を、機械の中の幽霊のドグマ(en:Ghost in the machine)と呼び、カテゴリー・ミステイクという概念上の混乱によってもたらされた誤りであるとした。

リベットによる指摘

 運動準備電位の観測例。被験者が動作の決定を意識するより、おおよそ1/3秒ほど前から、関連する脳活動による電位の変化が計測される。

実体二元論においては、(熱いものに触って手を引っ込めるといった単純な反射を除き)「人間の意図的な行動というのは、(脳とは別の)精神からの指令によって引き起こされるもの」とされる。

しかしこうした考え方の問題点を浮き彫りにする実証実験が1980年代にアメリカの神経科学者ベンジャミン・リベットによって行われた。

運動準備電位(独:Bereitschaftspotential, :rediness potential)についての一連の研究である。

つまり、脳の中で電位変化(指令に相当する物理的な変化)が観察される、ということであり、「精神が指令している」という説は説得力を失ったと人々は感じることになった。

私見まず条件反射の回路を学習によって作成し、次に入力反応に対して自動反応することで脳は電位変化し、それから0.2秒だけは自由意志があるが、そこで拒否をしなければ、条件反射の結果が身体に現れる。

精神はこの条件反射の回路を取り外す訓練を自由意志によって実践することができるので、精神が指令している説が説得力を失ったと感じる必要がない。

 

 

デネットによる指摘

アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、1992年の著作 "Consciousness Explained"(邦訳『解明される意識』)の中で、「因果的閉鎖性を破るような心身の相互作用はもしそうしたものがあるとすれば、エネルギー保存則をやぶることになる」と説明した。

またデネットは『仮に脳内のどこかで、今まで静止していたものが、何の物理的な力も受けずに突然動き出したり、また今まで動いていたものが、何の力も受けずに突然静止したりするなら、そこではエネルギー保存則がやぶれている。だから、非物質的な精神が物理的なものに影響を及ぼすという考えは、物理学の法則と矛盾するものであり、「考えただけでコップを宙に浮かすことが出来る」といったサイコキネシスや超能力の実在を主張するのと何も変わりない』と説明した。

ひとつの自己に関する問題点

実体二元論では一人の人が、または一つの脳が、分割できないひとつの精神を持つとする。しかしこうした分割不可能な一つの精神、という考えは実際の様々な病気や臨床例を見ていくと、それらと整合的に理解していくことは難しい。以下、そうした点について説明する。

分離脳   高次脳機能障害 

実体二元論においては、思考、判断、言語機能といった高次の精神機能は、物質的な脳ではなく、非物理的な精神によってになわれるとした。

これはデカルトが述べた、精神を持たない人間、の話を見てみると分かるが、デカルトは精神を持たない人間は、ごく単純な反応しか返すことが出来ず、様々な場面での適切な振る舞い(礼儀作法など)は行えないだろう、と考えていた。

つまり人間の持つ様々な高次機能は、非物理的な精神が一手に引き受けている、という捉え方をしていた。

しかし神経科学や医療現場で、様々な臨床例が集まり始めるにつれ、人間の高次機能に対するそうした単純な考え方は、徐々に維持するのが難しくなっていった。

それは人間の持つ様々な高次機能が、選択的に破壊されることが分かってきたからである。

例えば、耳は聞こえ、言葉を口にすることも出来るのに、人の話を理解することが出来なくなる事例や(ウェルニッケ失語:ウェルニッケ野を中心とする領域の損傷で引き起こされる)、また古いことは覚えているのに、新しいことを覚える能力が失われる例(前向性健忘:海馬を中心とする側頭葉内側部の損傷で引き起こされる)など、脳の部分部分の障害が、人間の持つ高次機能の一部だけを選択的に失わせていくような例が、多数調べられ、情報として蓄積されてきた。

 

唯脳論を超える近年の諸見解

エベン・アレグザンダー 

201210月、脳神経外科の世界的権威であるエベン・アレグザンダーは「死後の世界は存在する」と発言した。かつては一元論者で死後の世界を否定していた人物であったが、脳の病に侵され入院中に臨死体験を経験して回復した。退院後、体験中の脳の状態を徹底的に調査した結果、昏睡状態にあった7日間、脳の大部分は機能を停止していたことを確認した。そしてあらゆる可能性を検討した結果、「あれは死後の世界に間違いない」と判断して、自分の体験から「脳それ自体は意識を作り出さないのでは?」との仮説を立てている。

 

サム・パルニアの見解

2013年、英国の医師、サム・パルニア氏(Sam Parnia)は、魂の存在を科学的に実証することを試みた。

パルニア氏は、天井の近くに一つの板を吊り上げ、その板の上に小さな物体を置いた。この物体が何であるかは、パルニア氏のみが知っている。もし亡くなった人の魂が天井まで漂い浮かび上がることができるならば、魂は物体を見ることができる、という仕組みだ。パルニア氏は、この方法で100人の患者に実験を行った。そのうち、救急蘇生で生き返った7人が全員、板の上に置いてある物体を正しく認識していたという。

生命脳波停止して蘇生した患者に停止後に意識が存続していた患者が複数いた事がわかり、肉体から離れて存在できる魂は漂うことができ、移動することができ、「意識は脳とは別個の 存在なのかもしれません」と語り、もう一種の存在形式であると結論づけている。

 

ジム・タッカー 

精神医学のジム・タッカー博士は「物理法則を超える何かが在る、物理世界とは別の空間に意識の要素が存在するに違いない。その意識は単に脳に植え付けられたものではない。宇宙全般を見る際に全く別の理解が必要になって来るだろう」との仮説を立てている。

 

ロジャー・ペンローズ スチュアート・ハメロフ

ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。

ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。

この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。

 

保江邦夫の見解

数理物理学・量子力学・脳科学・金融工学者である保江邦夫は場の量子論ではゼロ点エネルギーの総和が計算上無限大になるという発散の問題をくりこみ理論によって回避しているものの、点状の粒子という従来の物理学上の矛盾は内包している。

それに対して素領域理論では、粒子は最小領域(泡)の中で惹起されると捉えるのでその矛盾は生じず、また個々の粒子に対応する場を無限に想定する必要もなく、それぞれの泡の固有振動数の違い(鋳型)よって異なる粒子が惹起されると捉える。

故にミクロからマクロのスケールにまで適応される統一場理論であり、超弦理論よりもはるかに時代を先駆けていたのが素領域理論なのであると述べている。

素領域というビールの泡の外と内はどのような構造になっているのか? 

保江氏は「泡の内側は素粒子で構成される物質の世界であるのに対して、外側は非物質で、ライプニッツのいうモナド(単一)のような絶対無限の世界。そこは完全調和なので何も起こらない。

あるとき完全調和に崩れ(ゆらぎ)が起きたことによって泡が発生し、それぞれの泡の鋳型に応じた素粒子・物質が生まれるのです。

そして人間が肉体の死を迎えると非物質の魂となって元の素領域(泡の外=霊界)に溶けていくんです」と述べている。

 

イアン・スティーヴンソンによる調査

転生を扱った学術的研究の代表的な例としては、超心理学研究者・精神科教授のイアン・スティーヴンソンによる調査がある。スティーブンソンは1961年にインドでフィールドワークを行い、いくつかの事例を信頼性の高いものであると判断し、前世の記憶が研究テーマたり得ることを確信した。多くは24歳で前世について語り始め、57歳くらいになると話をしなくなるという。

日本の前世ブームの前世少女のような思春期の事例やシャーリー・マクレーンのような大人の事例は、成長過程で得た情報を無意識に物語として再構築している可能性を鑑みて重視せず、28歳を対象とした。

『前世を記憶する子供たち』では、子どもの12の典型例を考察している。竹倉史人は、スティーヴンソンの立場は科学者としての客観的なもので、方法論も学術的であり、1966年の『生まれ変わりを思わせる二十の事例』は、いくつかの権威ある医学専門誌からも好意的に迎えられたと説明している。

赤坂寛雄は、スティーブンソンは生まれ変わり信仰に肯定的であり、むしろ一連の前世研究は、前世や生まれ変わりが事実であることを証明しようという執拗な意思によって支えられているかのように見えると述べている。

スティーブンソンの前世研究は、世界的発明家チェスター・カールソンがパトロンとして支え、子どもたちが語る前世の記憶の真偽を客観的・実証的に研究する The Division of Perceptual StudiesDOPS)がヴァージニア大学医学部に創設された。

死後100万ドルの遺産がスティーヴンソンが属するヴァージニア大学に寄付され、現在もDOPSで前世研究が続けられ、2600超の事例が収集されている。DOPSの調査データを分析した中部大学教授・ヴァージニア大学客員教授の大門正幸によると、収集された事例のうち、前世に該当すると思われる人物が見つかったのは72.9%、前世で非業の死を遂げたとされるものは67.4である。

懐疑主義者の団体サイコップの創設メンバーであるカール・セーガンは、生まれ変わりは信じないが、「まじめに調べてみるだけの価値がある」と評した。

 

量子脳理論

ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。

ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。

臨死体験の関連性について以下のように推測している。

「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。

 

神学・宗教哲学

イギリスの哲学者リチャード・スウィンバーンRichard Swinburneは、いくつかの思考実験と帰納推論に関する原則を導入することで、実体二元論を擁護している。

疎外論と幻想論

日本の思想家吉本隆明は、観念論や唯物論の対立を乗り越えるために、疎外論を用いた心身二元論を展開している。

疎外とは、そこから派生するがそこには還元されないと言う意味である。

意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。

生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。

分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。

要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。

霊魂や生命エネルギー(ジークムント・フロイトの概念でいうエス)は、デカルトの二元論のように大脳や松果腺のような部分や器官に集中して偏在しているのではなく、生物のすべての細胞にまんべんなく存在するものである。

だから脳死しても他の器官が活動し続けると言う現象も起こるのであり、死とは瞬間的な現象ではなく、すべての細胞が死滅するまでの段階的な過程なのである。

意識と身体は、炎とロウソクの関係に似ている。ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。

吉本は、すべての生命体を〈原生的疎外〉と呼び、自然から疎外されたものあるから、自然科学的には心的現象やエスは観察できないと述べている。

エスや心的現象とはもともと物質ではないのである。

しかし、自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではないし、オカルト的なものでもない。

文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。

心身二元論を自然科学者が否定するのは当然であり、エスや心的現象はもともと自然科学的カテゴリーではないからである。

物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。

脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。

自分の意思で自分の身体を動かすことができるから生物なのである。

心的現象とは自然科学的に〈観察〉するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に〈了解〉することによって初めて出現するのである。

吉本は心的現象とは〈幻想〉であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。

脳科学や神経学の発達で、知覚の問題は説明できるかもしれないが、人間の持つ感想、解釈、意味付与、価値観、審美眼の問題は説明できないのと同じである。

 

 

出典[編集]

1.           ^ ジョン・サール著 山本貴光・吉川浩満 MiND 心の哲学』 朝日出版社 2006 ISBN 4-255-00325-4 第二章 第一節 「二元論の困難」pp.64-72 以下p.64より引用。「実体二元論に基づけば、肉体が滅びた後も魂は生きつづけられるという結論が導かれる。そしてここから、死後の生があると信じる信仰者たちに訴えるものの見方が生み出される。だが専門家たちのあいだでは、実体二元論はもはや検討にも値しないと考えられている。」

2.           ^ ダニエル・デネット著 山口泰司 『解明される意識』 青土社 1998 ISBN 4-7917-5596-0 第二章 第四節「二元論はなぜ見捨てられるのか」pp.50-58

3.           ^ 西脇与作 『もの、命、心の科学と哲学<下>』「第二節 現代の常識はデカルトの意見」 オンラインマガジンゑれきてる 東芝発行 2004

4.           ^ Nicholas Everitt "Substance Dualism and Disembodied Existence" Faith & Philosophy, Vol. 17, No. 3 (2000), pp. 331-347. 以下冒頭文より引用 "Substance dualism, that most unpopular of current theories of mind,(:実体二元論は、現在最も人気のない心についての理論である)"

5.           ^ スーザン・ブラックモア()、山形浩生,守岡桜()『「意識」を語る』NTT出版 (2009) ISBN 4757160178(翻訳元は "Conversations on Consciousness" (2007). Oxford University Press. hardcover: ISBN 0195179595 。意識に関する二つの大きな国際会議、ツーソン会議とASSCの会場で、様々な分野の研究者20人にインタビューした記録をまとめた本。以下前書き(pp. 10-11)より引用「ハード・プロブレムとは、物理的プロセスがいかにして主観的経験を生み出せるかを理解するのがむずかしいということ。(中略)誰もこの質問に対する答えを持ち合わせていませんでした。答えを知っているつもりとおぼしき人はいましたが。(中略)でも、どんなに混乱が根深いかを明かしてくれただけでも、この質問をした価値はあったと思います。ひとつだけほぼ全員が同意したのは、古典的な二元論はあてはまらないということです。(中略)心と体−脳と意識−が異なる物質であるはずがないのです。」

6.           ^ 瀬口昌久『魂と世界 プラトンの反二元論的世界像』2002年 京都大学学術出版会 ISBN 9784876984497

7.           ^ Pete Mandik "Substance dualism" Dictionary of Philosophy of Mind 2004 以下冒頭文より引用 "Perhaps the most famous proponent of substance dualism was Descartes"

8.           ^ カール・ポパー (), ジョン・C・エックルス (), 大村裕 (翻訳), 沢田允茂 (翻訳), 西脇与作 (翻訳) 『自我と脳』 新装版 新思索社 2005 ISBN 978-4783501374

9.           ^ 芋阪直行編 下條信輔・佐々木正人・信原幸弘・山中康裕著 『意識の科学は可能か』 p.9 新曜社 2002 ISBN 4788508001

10.         ^ 以下、Kirk, Robert, "Zombies - 1. The idea of zombies", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2009 Edition), Edward N. Zalta(ed.) より引用 "Descartes held that non-human animals are automata: their behavior is explicable wholly in terms of physical mechanisms. He explored the idea of a machine which looked and behaved like a human being. Knowing only seventeenth century technology, he thought two things would unmask such a machine: it could not use language creatively rather than producing stereotyped responses, and it could not produce appropriate non-verbal behavior in arbitrarily various situations (Discourse V). For him, therefore, no machine could behave like a human being. He concluded that explaining distinctively human behavior required something beyond the physical: an immaterial mind, interacting with processes in the brain and the rest of the body."

11.         ^ アレグザンダー & 白川 2013, p. 108

12.         ^ NHKBSプレミアム「ザ・プレミアム超常現象 さまよえる魂の行方」

13.         ^ a b c NHKスペシャル モーガン・フリーマン 時空を超えて 2回「死後の世界はあるのか?」

14.         ^ 竹倉 2015. 位置No.1678/2493

15.         ^ a b 竹倉 2015. 位置No.1646/2493

16.         ^ a b 赤坂寛雄、別冊宝島編集部(編)、2000、「【論考編】前世少女という異界 前世夢紡ぎ―少女たちの共同幻想!」、『いまどきの神サマ』、宝島社

17.         ^ 竹倉 2015. 位置No.1617/2493

18.         ^ 竹倉 2015. 位置No.1637/2493

19.         ^ 竹倉 2015. 位置No.1790/2493

20.         ^ 竹倉 2015. 位置No.1844/2493

21.         ^ モーガン・フリーマン 時空を超えて 2回「死後の世界はあるのか?」

22.         ^ NHK ザ・プレミアム超常現象 さまよえる魂の行方

23.         ^ 坂井賢太朗 「実体二元論との対決(1) : 主体について(pdf) 京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus (2010), 13: pp.83-95

24.         ^ Yujin Nagasawa "Review of The Evolution of the Soul" The Secular Web.(2005)

25.         ^ Richard Swinburne "The Evolution of the Soul" Oxford University Press (1997) ISBN 9780198236986

26.         ^ アレグザンダー & 白川 2013, p. 108

脚注[編集]

1.           ^ だが、現代の心の哲学の文脈の中では、単に二元論と言えばクオリア、現象的意識に関する自然主義的二元論(またはニューミステリアン)のことを指すのが一般的である。

参考文献[編集]

            エベン・アレグザンダー 『プルーフ・オブ・ヘヴン 脳神経外科医が見た死後の世界』 白川貴子 訳、早川書房、20131010日。ISBN 978-4-15-209408-7 - 原タイトル:Proof of Heaven.

            Damasio, Antonio (1994) "Descartes' Error" ISBN 978-0399138942 / アントニオ・R・ダマシオ (), 田中 三彦 (翻訳) 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』 <ちくま学芸文庫> 筑摩書房 (2010) ISBN 978-4480093028

            Gonzalo Rodriguez-Pereyra (2008) "Descartess Substance Dualism and His Independence Conception of Substance" Journal of the History of Philosophy, vol. 46, no. 1 6990 (オンライン・ペーパー)

            小林道夫 (1997) 「デカルトの心の哲学」 科学基礎論研究, Vol. 25 No. 1 pp.9-15 (オンライン・ペーパー)

            Lacewing, Michael (2009) "Substance dualism" in Philosophy for A2: Unit 3: Key Themes in Philosophy, Routledge ISBN 978-0415458221(オンライン・ペーパー)

            松田 克進 (1995) 「デカルト的二元論は独我論に帰着するか」 哲学 Vol.1995, No.46 pp.60-69 (オンライン・ペーパー)

            宗像 (1987) 「デカルトの心身二元論再考」 哲学 Vol.1987, No.37 pp.36-57 (オンライン・ペーパー)

            坂井賢太朗 (2010) 「実体二元論との対決(1) : 主体について(pdf) 京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus, 13: pp.83-95 (オンライン・ペーパー)

            立花 希一 (2008) 「デカルトの物心二元論再考」 秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学・社会科学 Vol. 63 pp.1-12 (オンライン・ペーパー)

            米虫 正巳 (1995) 「「魂」の存在は何故「第一原理」と言われるのか」 哲学, Vol. 1995, No. 46 pp.50-59 (オンライン・ペーパー)

 

 

 

 

 

 

機械論の限界

 

機械論   Mechanism、独: Mechanizismus)は、自然現象に代表される現象一般を、心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに、その部分の決定論的な因果関係のみ、特に古典力学的な因果連鎖のみで、解釈が可能であり、全体の振る舞の予測も可能、とする立場。

 

哲学、そして、科学史の分野並びにその学際領域において扱われる名辞・概念、名称・用語であり、それらの分野では目的論や生気論と比較、対置されている。但し、具体的にどの見解に従って"機械論"とするのかは、論者、著書によって異なり、その"機械論"の性質も多少変わってくる。なお、「目的論」「生気論」の範囲についても同様である。ただし、大局的には、哲学史のみならず、決定論に帰着する。

 

超自然的な力の介在を否定する機械論は、自然科学の発展の礎となった。しかし、量子力学の不確定性原理のように、断片的にであれ決定論と衝突する学説も知られている。

 

提唱者と影響

古くは古代ギリシャのデモクリトスを機械論の論者とし、それを「原子論的機械論」と呼ぶ人もいる(デモクリトスは冒頭の機械論の定義と合致する主張をしたのである)。ただし、その理論の成熟度や当時の時代背景等々もあり、多くの支持者を得ることはできなかった。

 

ルネ・デカルト(1596 - 1650年)が機械論的な見方を提唱したことは誰もが認めている。

デカルトの機械論は特に巧みで説得力があったので、多くの信奉者を生み出し、ニュートンやライプニッツらにも大きな影響を与え、それはひとつの潮流ともなり「デカルト主義」とも呼ばれた。さらにデカルトが亡くなってから100年近く経った後、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーが霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し、人間を精神と肉体機械とみるデカルト的二元論よりも機械論に徹底した生命観「人間機械論」を提唱した。

 

 

機械論と唯物論

「霊魂」を考慮しないという点では、機械論と唯物論はほぼ同一だというのが、一般的な評価である。

ただ、「機械論」はどちらかと言えば暗黙裡に「霊魂」に言及するのを避け、あるのかないのか議論を回避することで、(まずは)己の科学的な方法論で分析できるだけ分析を進めてみよう、とするところに比重が置かれているのに対して、「唯物論」の方は機械論が先鋭化したものであると言え、「霊魂は無い」と先験的に断定し主張しているところに相違点がある、といった指摘がなされることが多い。また唯物論は必ずしも決定論的な世界観には立っていないが、機械論は決定論的な世界観に立っているという点が異なる。

 

機械論と還元主義

機械論は「還元主義」と同一視された上で批判されることがある。だが、二つは同一ではない。

機械論であっても還元主義でない立場がある。つまり機械論的に(「霊魂」という概念は用いず)分析しても、全体性を見失わずマクロ的な現象や相互作用も同時に追う、「ホーリズム」的な視点や、近年では「複雑系の科学」の視点もある。

因みに、機械論であって、なおかつ要素だけに着目して、ただそれだけで全体を理解したと錯覚してしまうのが「還元主義」であり、それは批判されてもしかたない、とも言われる。

 

機械論と物理主義

現代では機械論ではなく物理主義の考え方が採用されることが多い。例えば心の哲学での研究などがそうである。

 

 

物理主義Physicalism

あらゆるものは物理的であるとする哲学上の立場。椅子や机や石ころのように一般に物理的対象と考えられているもののみならず、価値、意味、知識、心など一般にあまり物理的とは考えられていないようなものまで含め、あらゆる物事について、それは物理的である、と考えるのが物理主義である。世界は心的なものからなっていると考える観念論や、世界は心的なものと物的なものの二種類からなっていると考える二元論などと対立する。

 

唯物論(英: Materialism)と類似する点は多いが、(物理学への還元のように)その主張内容は必ずしも同一ではない。論理実証主義者らは、あらゆる個別科学(の命題)は物理学に還元可能である、という形で物理主義を論じた。物理主義という言葉はオットー・ノイラートによって最初に定義された。

 

概説

物理主義の立場は「すべては物理的である」(Everything is physical)という標語に代表される。

この標語の中に現れる二つの単語「すべて」と「物理的」、この二点についてどういう考え方を取るかによって、物理主義には様々なバリエーションが生まれる。

 

心の哲学

心の哲学において、20世紀初頭にまず心は物理的であるか、という問題が論じられた。

物理主義的な立場から実体二元論的な考えが批判され、デカルト的な心についての考えが「機械の中の幽霊」といった形で批判を受けた。

 

20世紀中盤に志向性の問題が論じられた。志向性を物理主義的に扱うことができるのか、という問題が論じられた。

 

20世紀末ごろからは、心の哲学の分野の主要な争点が、「意識」に移った。コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきた。

つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきた

こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。

そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalismと呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

 

物理的(physical)なものとは何か、この定義によって物理主義の立場がどういうものかが決まることになるが、この点がハッキリと定義されることはあまりない。

この定義次第で、物理主義はかなり広い範囲の立場を含むことが可能である。

例えば極端な例として、ガレン・ストローソン(一般に性質二元論または中立一元論に分類される)のように、汎心論を唱えつつ自身の立場を物理主義と形容する事もある。

 

一般的には現在の理論物理学のなかに出てくるものの実在だけを認める立場が物理主義なのだと考えておけばおおよそ間違いない。

 

つまり現代の心の哲学の文脈で言うと、意識の問題(意識のハードプロブレム)に関して、存在論的に保守的な形で解決を目指す立場が、物理主義である。

 

物理主義に対する批判はもっぱら、現象的意識、主観的体験、クオリアなどと呼ばれる意識の主観的側面について、物理主義の範囲内ではうまく扱いきれないのではないか、という点に集中する。

 

こうした議論の例として次のようなものがある。

 

トマス・ネーゲル1974年  コウモリであるとはどのようなことか  

コウモリの感覚器官や脳についてどれほど詳細な知識を得たとしても、コウモリがコウモリであることの説明や理解にはならないように、われわれは自己をめぐる表象を、われわれの実在性や心因性から独立する自然科学の方法によって記述することはできない

 

知識論証(「マリーの部屋」とも言う)

知識論法は1982年にフランク・ジャクソンによって提唱された論法で、この世界に関しての全ての物理的な知識を得たとしても、まだ知らない事が残ってしまう、だから物理主義は誤りだ、という論証。

 

ゾンビ論法

ゾンビ論証は、1996年にデイヴィッド・チャーマーズによって提唱された論法で、物理的な側面に関して全く同一だが、現象的な意識を欠く世界を想像できる、だから現象的意識は物理的なものに論理的に付随しているわけではない、ゆえに物理主義は間違っている、という論証。

 

脚注

^ この点はとりわけ論理実証主義者により強調された。詳しくは「科学の普遍言語としての物理的言語」(『現代哲学基本論文集T』所収)、「テスト可能性と意味」(『カルナップ哲学論集』所収)などを参照。

^ Keith, J.F. (2010). Integrationalism: Essays on the rationale of abundance. Createspace. ISBN 1452858934., p. 12.

^ a b Stoljar, Daniel, "Physicalism", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2009 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <http://plato.stanford.edu/archives/fall2009/entries/physicalism/>.

^ Galen Strawson et. al. (2006) "Consciousness and Its Place in Nature: Does physicalism entail panpsychism?" Imprint Academic ISBN 1845400593

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

フィリップ・K・ディック  ヴァリス []大滝啓裕

Philip K. Dick   VALIS 1981

 

 SFにどっぷり溺れていたのは70年代と80年代の20年間ほどだ。ブラッドベリとバラードの衝撃を受けて以来、数々の驚嘆と感嘆に見舞われてきたが、構えて取り組み読みをしたのは、ディックのものが多くなっていた。取り組み読みというのは、暗号解読者のように読むということだ(ピンチョンなどもそのように読んだ)。なかで深くて速い過呼吸に襲われ、構えも崩れそうになったのが『ヴァリス』だ。 

 そこには、情報ネットワークがもたらす知の能動性についての、最も幽遠か、もしくは最も忌まわしい妄想と哲学が滾っていた。

 どうしてあんな異様な話が書けたのか。フィリップ・キンドレッド・ディックであるからだ。これでは何も説明したことにならないけれど、そう言うしかない。それほど卓抜きわまりない作家だった。だから評判も尋常じゃない。

 ブライアン・オールディスは早々と「ディックとバラードだけが読むに足る作品を書いている」と言っていた。アーシュラ・K・ル・グィンは「わが国のボルヘス」という最大級の賛辞をつかった。ティモシー・リアリーは20世紀をとびこえて「21世紀の大作家」と名付け、さらには「量子時代の創作哲学者」と褒めちぎった。

 ボードリヤールは「現代の最も偉大な実験作家である」と書いたし、アメリカのSFが大嫌いなスタニスワフ・レムですらディックだけは褒めたあと、「アメリカのペテン師に囲まれた幻視者」と評した。みんなメロメロなのである。

 

 ディックにメロメロなのは『ヴァリス』のせいではない。ずっとそうだった。アート・スピーゲルマンは「20世紀前半におけるフランツ・カフカと20世紀後半におけるフィリップ・K・ディックは同じように重要だ」と評した。きっと1963年にヒューゴー賞を受けた『高い城の男』(ハヤカワ文庫)のことだろう。

 あれは哲学的迷路というものが初めて稠密なSFになった記念碑だった。

舞台は第二次世界大戦後にアメリカの西部が日本によって、東部がドイツによって分割統治されるという、とんでもない設定のネーベンヴェルト(パラレルワールド)になっていた。いまおもえば、『高い城の男』の主人公ホーソーン・アベンゼンこそ、その後のディックの作品に繰り返しあらわれる社会的共有世界観と個人的幻想世界観との対決を辞さない男の原型だった。

 みんなメロメロだったが、しかし長いあいだ、ディックが宇宙や世界の何かの原型や母型を求めているとは思っていなかった。ディックはもっとずっと多様な才能の持ち主だと信じられていた。「ロンドンタイムズ」が「あらゆる種類の文学を試みたディックこそが欧米の前衛作家の全員の顔色をなからしめている」と書いたのもそのせいだ。スラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの鏡像思想を説明するたびにディックの短編をいろいろ持ち出すのには驚いたけれど、これはディックの錠剤をラカンの症状にあわせて処方したにすぎなかったのかもしれない。

 こういうぐあいにディックをめぐる評価には尖ったものも、その才能に脱帽しきっているものもあるのだが、しかし、いまなおその真骨頂が文学としても思想としても申し分なく語られているとは見えてはこない。とくに『ヴァリス』においては――。

 

 Vast Active Living Intelligence System.

 これがVALISの正式名称である。

 本書を最初に訳した大瀧啓裕の訳以来、「巨大にして能動的な生ける情報システム」と訳されている。ディック得意の知的トリックだが、架空の『大ソビエト事典』第六版には、VALISについての次の説明があるという。「巨大にして能動的な生ける情報システム。アメリカの映画より。自動的な自己追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、みずからの環境を漸進的に情報の配置に包摂かつ編入する傾向をもつ、現実場における摂動。擬似意識、目的、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とする」。

 小説『ヴァリス』の中でVALISの名は、これまたディック得意の仕掛けによって、同名のSF映画として登場する。ロックグループ「マザー・グース」のエリック・ランプトンが監督・脚本・主演している映画だ。

 エレクトロニクスの天才が経営するレコード会社とホワイトハウスの二つを舞台にした映画で、どうもニクソンの陰謀と失脚がVALISとおぼしいシステムによって動かされていたという筋書きになっているらしい。らしいというのは、こうしたことは小説『ヴァリス』の登場人物たちの断片的な会話によってしか語られていないので、映画の実態はわからない。ようするにVALISはこのSFの題名であって、架空の映画の題名でもあったのである。

 こういうことだから、話の中味を案内するのは並大抵ではない。メタフィクショナルな多重構造になっているなどというよりも、メタフィジカルな多重の構想が錯綜していて、こう言っていいなら、古代の集合脳に未来のネットワーク脳を引き取って進捗しているかのようなのだ。要約はほとんど不可能に近い。

 

in search of planetary nostalgia

 主人公ホースラヴァー・ファットは親しいガールフレンドのグロリアの自殺を止められなかった。これが一応の発端である。ファットはこのことに耐え切れず、自分が自殺を幇助したのかとか贖罪をどこに求めるのかといった葛藤と苦痛によって、だんだん狂い始める。ファットの妻もドラッグのせいか、前年に精神病で死んでいた。

 主人公が狂い始めたのだから、このさき、いったい何が実際に進行したストーリーで、何が妄想によって語られたものなのかは、読み手には判別しがたくなってくる。時代は1960年代後半から70年代にかけてのこと、事態の進行はファットの友人の「わたし」によって報告されていく。そこにファットの日誌が絡む。日誌にはたいてい「宇宙が情報で構成されている」とか、「脳はその情報の配置の一部しか感知できない」だとか、「世界は理性によってはとうてい理解できない」といったことが、やや錯乱ぎみに断片的に綴られている。ただそこには、どうも「宇宙的知性」とでもいうものが関与しているらしい。

 ファットはこのような知性を最初は「ゼブラ」と名付けた。それがシマウマの縞のような混合的な“Active Living Intelligence”と見えたからだ。やがてファットは「神」に出会い、ピンク色の光を体験し、完全な死をめざす。

 一応、物語はこのように展開するのであるけれど、ディックが死んでからのちに判明したように、この物語に始まった“ヴァリス三部作”(『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』)には、それまでディックが書いてきたディストピア・オデッセイとは決定的に異なるものが発散していた。

 

 ディックはこの三部作を書いて1982年に死んだ。53歳の早死にだった。死因はよくわかっていないが、おそらく三部作は遺言だったのである。実際にも作品には死を予感したディックがそれまで紆余曲折を見せつつ人類の宿命を問題にしてきた多様なテーマを、一種の黙示録めいて提出しようとしたようなところがあった。

 なぜディックがそのような試みに突入していったのか、それがなぜ「巨大にして能動的な生ける情報システム」の宿命になっていったのかは、おそらくまだほとんど議論されないままにある。というのも、このヴァリス三部作によって、ディック自身が発狂してしまっていたのではないかという憶測が流れ、そっちの話題に作品が包まれてしまったからだった。この憶測はいまなお否定されていない。

 わざわざ紹介することもないだろうが、たとえばこういう憶測だ。ディックのファンにはすっかりお馴染みになった「2374」は、1974年2月から3月にかけて、ディックが不気味で異様な夢や幻覚や音声に見舞われたときの体験を示す符号をあらわしている。

 ディックはこのときフィボナッチ数列の光の放列の奥にグノーシス的な叡知のときめきを感じた。そのあと数年間にわたってグノーシス主義やクムラン宗団の文献を読み、その周辺を探索し、そして『ヴァリス』を書いたのであろうとおもわれる。執筆は1980年に突入していた。続けさまに『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』を発表した。これがヴァリス三部作になった。やっぱりディックはおかしくなったのではないか。そういう勝手な憶測だ。

 

 思い出してみると、ぼくが『ヴァリス』を読んだのは翻訳が出てまだ数日もたっていなかったころだった。渋谷の大盛堂で買った。一読、5分の1ほど進んだところで、「エントロピーによる虚無」って文学になるのかと驚いた。そして、この奇怪な物語装置は太古から続いているある種の神秘宗教の総決算なのであろうこと、それにしては、ディックの科学主義はそれを十全に処理しきれなかったのであろうことが、すぐに残骸のように見えてきた。

 宇宙の大エントロピーから生まれた生命という小エントロピー(負のエントロピー状態)が、生命誕生以来の何事かの「情報システム上のいたずら」を数十億年にわたってしてきたことはわかっている。それが遺伝情報における誤植という事件であったことも、わかっている。さまざまな突然変異がおこったのだ。その途中で人類という別の知性が派生して、その知性が個体としてはたかだか数十年でおびただしい死を数珠つなぎに経験してきたこともわかっている。言葉や道具や絵画や機械はその途中にもたらされた「いたずら」による産物だったのである。

 しかし、これらのことを宇宙の「知性」による情報システムの誤作動によるものとみなし、その誤作動を一部の人類が解読しようとしたと想定することは、いささかやりすぎだった。ディック自身もあきらかに自分が突入してしまった問題に決着をつけかねているようなのだ。

 

 作品が半ばにさしかかると、ファットは宇宙の一部ないしはホロニックな全体のそこかしこに「生ける情報」(Active Living Intelligence)があるとみなすようになっていく。そして、その情報の一部が生命情報システムとして人類にさしかかったものを「プラスマテ」と名付けるようになる。特別のものではない。一般にはプラスマテは「精神」とか「魂」とよばれている。人類とはそもそもの本来がホモ・プラスマテなのである。

 ディックは、宇宙の情報エントロピーはまわりまわってこのプラスマテの形態になっていると考えたのだ。進化したのではない。プラマステがヒトに異種共生したということなのだろう。

 が、こういうことは、とくにディックだけに特有な独創ではないだろう。プラスマテと呼ぶかどうかをべつにすれば、ほとんどの哲人や宗教者はそういうことがありうるだろうと考えてきた。ぼくのようなぼんくらにも、そんなことは20代の後半にほとんど見えていたことだ。そのあたりのことは『自然学曼陀羅』(工作舎)にも書いたし、その後の『遊学』(中公文庫)にも散らしてある。

 だからこうした展開は、宇宙生物学、遺伝情報論、ヘラクレイトス、ゾロアスター教、ジャイナ教、インド六派哲学、新プラトン主義、カバラ文献、パスカル、スピノザ程度を読むだけでも十分に見当がつく。いや、古代宗教者の大半がプラスマテに近いことを、アヌやらヌースやら般若やら六現観(6つの直観)といった言葉であらわしたからといって、それが物語に組みこまれたからといって、それは哲学がまじっただけなのだ。

 ところが、ディックはこのプラスマテはごく一部の人間にしか感知できなかったと考えたのである。そして、その一部の人間に預言者エリヤや医術者アスクレピオスやオリエント神テレピヌスや、そして魔術師シモンやイエスやクザーヌスやヤコブ・ベーメを充てたのだ。

 こうなると、これは「菩薩はプラスマテの受信者であった」とか「グノーシスは宇宙情報システム解読の記録であった」と言っているようなもので、ここからはディックの狂気と妄想なのである。PKDカルトなのである。PKDはフィリップ・キンドレッド・ディックの頭文字のことをいう。このPKDカルトがヴァリス三部作を記述させた。そうでなければ、悔しいけれども、こんな“傑作”は生まれない。

 

 そうなのだ。おそらくディックは作品の後半にさしかかって、ついに長年にわたった「コイノス・コスモス」(社会的共有世界観と「イディオス・コスモス」(個人的幻想世界観)との対決に決着をつけたくなったのだ。しかしながらそれだけに、そういう決着の経過を描いた『ヴァリス』の後半を読むことは、人類が総じて受容した情報システムの正体と向きあうことを読者に強要することになり、ぼくから見ると、こういう対決を読者が引きかぶるのはあまりに気の毒のようにもおもえるのである。

 つまりは、最期のディックはあまりに真剣すぎたのだ。きっと「もどき」が「もどき」でなくなったのだ。そして、その後の世の中の事態がVALISを宇宙というより地球に引きずりおろしてしまったことを、ディックは予感できなかったのだ。インターネットの出現によって「巨大にして能動的な生ける情報システム」はみんなのものになってしまったのだ。もちろんやむをえないことだろう。

 

 それなら『ヴァリス』はつまらないのかというと、まったく逆だ。いくらだって愉しめる。たとえば、人称のトリックを読むのはおもしろい。『ヴァリス』の語りでは、主人公フィル(ディック自身)が友人ファットと一緒に行動しているようになっているのだが、物語の終盤になって救世主めく少女ソフィアに「フィル=ファット」と指摘されて、ファットが消える。二人は別人ではなかったのだ。

 このカラクリは冒頭で「ぼくはホースラヴァー・ファットだ。ぼくはこれを三人称で書く」という“仕込み”に暗示されていた。一人称フィルの三人称化が、何かを可能にしたはずなのである。これについてはジョン・C・リリーが『サイエンティスト』(平河出版社)で「一人称を三人称にすることで、一人称では思いつけないことが浮かんでくるものだ」と言っていたことを思い出させよう。

 むろん極端に知的な読み方をするのもおもしろい。それには翻訳者の大瀧啓裕も試みていたように、頻繁に登場してくる神秘思想をディック以上に複合賞味することだろう。とくにシモンの知やグノーシス思想について、ディックほど熱心にとりこんだものはなかったのだが、これはその気になればもっと深まるものになる。たとえばシモン(Simon)の知では、キレネのシモン、熱心党のシモン、ハスモン朝のシモン、シモン・マグス(魔術師シモン)、サン・シモン伯爵のすべてを引き取れば、母型としてのシメオン(Simeonがさらに騒然と立ち上がってこよう。

 

 なんだか面倒な話にしてしまったが、それはそれ、もっと気楽に読むのも、他人頼みで読むのもありである。

 たとえば『フィリップ・K・ディックのすべて』(ジャストシステム)というノンフィクション集成が刊行されているので、ここに収録されているディックの文章を遊ぶのもいいだろう。リドリー・スコットが『模造記憶』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きに、かの《ブレードランナー》として映画にしたのはよく知られているが、ディックがこの原作が映画になりうることを一九六八年にとっくにノートとして発表していたことなどは、この集成でなければわからない。

 

 以上はむろん老婆心である。ディックはカフカともル・グィンとも違うし、ボルヘスやエーコほどの幻想制御もしていないということを、また、ティモシー・リアリーやデレク・ジャーマンのポスト・ジェンダーふうの陽気をもちあわせていないということを、老婆心から語ってみたにすぎない。

 けれども、どんな読み方をしようとも、『ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはない。面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに困難なことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることである。そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。

 が、そのぽつんとした自分こそ、死を前にしたディックが入念に仕上げたディックその人の虚無そのものだったのだ。あれっ、こんなことでよかったのかな。ま、ディックだから許してもらえるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリップ・K・ディックと『易経』についてのエッセイの一部を。

『高い城の男(The Man in the High Castle)』の刊行から3年後のもののようです。4分の1くらい削除。

 

≪精神分裂症と『変化の書』(一九六五)

Schizophrenia & The Book of Changes

 草食動物のような生物の多くは、生まれるとすぐにコイノス・コスモス(共有世界)へと程度の差こそあれ、追いやられる。子羊や仔馬の場合、最初に光を目にするとイディオス・コスモス(自分だけの私的な世界)は消失する。しかし、人間の赤ん坊の場合は、一種半現実的な生活がそれから何年かつづく。半現実的というのは人間は十五、六歳になるまで、完全に自立することなく過ごすことができるという意味である。イディオス・コスモスが断片的に残っていて、コイノス・コスモスがすっかり入り込んではいないのだ。コイノス・コスモスの圧力が重くのしかかってきてはじめて「性心理の成熟」と称させるものがあらわれてくる。つまり前に座っているきれいな女の子に、放課後ソーダ水を買ってきてくれないかと頼みたいのだが、いやだと言われたらどうしようと悩んだりする、高校生時代のあの心躍るなつかしい日々のことだ。そう、コイノス・コスモスの到来だ。若者よ、長い冬に備えよ。いろいろ多くのことが―――もっと悪いことがこれから先にひかえているのだから。

 前分裂症的なパーソナリティは、一般に「分裂症情動」と呼ばれている。この症状は、思春期になっても隣のきれいな女の子(男の子)をデートに誘う必要はないと考える。私自身の実体験に即して述べると、一年かそこいら女の子をじっとながめ、あれこれを脳裏に思い描いているだけだった。よい結果は幸運な「白昼夢」になり、悪い結果は「恐怖症」になった。この精神内部の戦いは無限に続く。この間現実の女の子は、この男の子って落ち込んでいて元気がないと思っている(どうしてそうなのか考えてみよ)。もし恐怖症が勝利をおさめるなら(女の子をデートに誘ったら、えっ、あんたと、などと言うにきまっていると思うようになったら)、分裂症情動の少年は閉所恐怖症にやられて教室を飛び出す。こうした恐怖症は徐々に真正の分裂症になり、人との接触を避け、幻想の世界へ逃げ込む。言い換えれば、少年はエイブラム・メリットのようになる―――もっとまずい場合は、H・P・ラヴクラフトになってしまう。いずれにせよ、女の子のことは忘却の彼方に消えて、決して性的な成熟は見込めない。

 このこと自体は別に悪いことではない。きれいな女の子のほかに人生にはいろんなものがあるから(と私は聞かされた)。だが、これはかなり不吉な様相を暗に意味している。一度起こったことは何度も繰り返され、どこへ行っても男の子はコイノス・コスモスにぶつかる。十五歳から二十二歳ぐらいになると、もはやそこから逃げ出すことは望めない(「チャーリー、歯医者に電話で予約をとって、虫歯を治してもらいなさい。」等々と言われる。)イディオス・コスモスはだんだんと消えてゆく。もはや子宮の中に安住はできない。生物学的な老いがはじまり、あと戻りはできなくなる。あと戻りしようとすれば、「大人としての責任と現実から逃げようとしている」とそしられ「現実の世界から幻想の世界へ逃避した」と言われるだろう。これは真実をうがっているが、必ずしも正確な言い方ではない。よく考えてみると、現実にはある種の属性とでもいうべきものがあることに気づくはずだ。この属性から逃げ出すことはできない。周囲から現実が消えてしまったのではなく、周囲の現実から自分を切り離したのだ。現実を避けようとする戦いは結局失敗に帰した。ああ!

 分裂症者の生活とわれわれが楽しく送っていると想像する生活とを区別しているのは、時間という要素である。分裂症者は望むと望まざるとにかかわらず、時間をすべていま手にしている。時間というフィルムの缶がそっくり彼に落ちてくるのに対し、われわれにはフィルムのコマがひとつずつ進行しているのが見える。だから、彼にとって偶然性は存在しない。その代わり量子物理学者ヴォルフガング・パウリが共時性と呼ぶ、非因果関係の原理があらゆる状況で作用する。正気の人間にとっては非因果関係の原理はひとつしかないが、分裂症者はそうではない。LSD常用者のように、分裂症者は無限につづく現在にすっかり呑み込まれている。それはあまり心地よくない。

 ここで『易経』(変化の書)が登場する。この書物は共時性に基づいて書かれている。パウリの非因果関係の語というより「偶然の一致」という語の方が好ましいかもしれない。ともあれ、このふたつの語は非因果関係で結びついた出来事、時間の外側で起こる出来事を指している。昨日から今日、今日から明日へと過ぎ去る時の鎖ではなく、すべてがいま起こるのだ。ライプニッツの時計のようにすべてが今を刻み、しかも誰も他の者とはなんら因果関係を持たない。

(中略)

 緊張性精神分裂症は、少なくとも生きることの意味を教えてくれる。どんなに長くイディオス・コスモスにいても、コイノス・コスモスへは十時間もあれば、戻ることができる。緊張性精神分裂症者にとって、この状態は永遠にイディオス・コスモス型であるばかりではなく、運に恵まれずともコイノス・コスモス型でもある。禅宗的にいうなら、LSDを服用すると瞬時に永遠を経験できる。時をへずして多種多様な出来事が生起する。映画『ベン・ハー』さながらに叙事詩絵巻が繰り広げられるのだ(LSDをやらずにLSD体験をしたいなら、中間の休憩時間なしに『ベン・ハー』を二十回見るがいい)。

 こうした状況の展開にはいかなる意味でも原因というものはない。時計の時間のような因果的連鎖というよりむしろ、非因果的共時性の開示なのである。時間は無制限に広がり、あらかじめ決められた終わりはない。精神分裂症者の世界はいささか大きすぎる。正常者の世界は練り歯磨きを一日に二度決められた量を絞りだすようにコントロールされ、有限である。われわれは処理できる―――もっと正確に言うと、処理できると思っている現実だけに近づく。われわれはとにかく現実をなんとかコントロールしたいように見える。渋滞の高速道路を通らずに自分以外の誰も知らない裏道を通るように。ところで、言うまでもなくわれわれは結局、過ちを犯す。普通、六十五歳にもなると道を間違える。そして、心臓が停まって急死したりする。現実の流れにうまく乗っていたにもかかわらず、永遠の現在にとらえられた精神病者のようになって死んだも同然になる。

 だが、繰り返すとこれは単にこれから先の将来のことである。年に一度健康診断を受けたところで、慢性の潰瘍以外の何も発見されはしない。現実を全て知らなくても充分生きていける。人のいい中産階級のアメリカ人のように保険料を支払い、査定を上回る保険金の支払いを望む。最後にわれわれを破滅させるのは共時性だ。午前四時の酒酔い運転、もう一台の酔っ払い運転の車と、見晴らしの悪い交差点で正面衝突し、ふたりともともあの世へと旅立つ。そこでも同じことの繰り返し。共時性の特徴の一つは予測不可能なことだ。

 それとも、予測は可能か?もしそうならすべての偶然の一致を、あらかじめ系統だった方法で仕組むことができる。この方法は言葉の意味からして先験的で、矛盾してもいない。結局のところ偶然の一致、あるいはパウリが共時性の表れと呼ぶものは過去に依存するものではない。だから、先触れなるものは存在しない。次に何が起こるかわからないのでコントロールしようがないこの状況は、分裂症者の世界についてまわる。彼は無力で受動的で、自ら行動しない。現実が―――永遠に続く交通事故のようなものが、息つくまもなく次々に襲いかかってくるのだ。

 分裂症者は手紙を書かず、どこへも出かけず、電話もしない。腹を立てた債権者や、サンフランシスコ警察のような権力者から手紙が舞い込む。敵意を持つ近親者から電話がかかってくる。ときどき強制的に、床屋か歯医者か精神病院に放り込まれる。奇跡的に彼らが自ら立ち上がって、行動的な姿勢を取り、H14−1234にダイヤルし、親友のローマ法王を訪ねようとタクシーを呼ぶと、途中でごみ運搬車に衝突する。病院から退院したあと(数年前のホーラス・ゴールドの体験を見よ)、もう一度タクシーを呼ぶと、別のごみ運搬車が現れて、また衝突する。彼にとって、共時性、偶然の一致は珍しいことではない。

 では、どうすればいい?分裂症者にとって共時性と対抗できるなんらかの方法があれば、生き残れる可能性がある。正常な者にとってもこれを安全なシステムとして利用できる。

 『易経』は三千年間も、そのようなシステムを持っており、効力がある(パウリらの統計学的な分析によると、当時ざっと80パーセントの確率で当たったそうだ)。作曲家のジョン・ケージは、和音の進行を引き出すのにこれを利用している。何人かの物理学者は分子の動きを定めるのに利用した。ハイゼンベルクの不確定性原理も顔負けだ。私は小説のストーリー作りに利用したことがある。ユングは患者の心理分析に応用した。ライプニッツは、そのモナド論でなくとも、単純明快な二分法の基盤をこれに置いた。

(中略)

 『易経』によって、コイノス・コスモス全体の形態を綿密に調べることが可能になる。だからこそ、西暦前一一〇〇年に文王が牢獄の中でこれを作ったのだ。彼は未来には関心がなかった。独房の外でこの瞬間何が起こっているのか、ノコギリ草の茎を投げて卦をだしたその瞬間、彼の王国がどうなるかを知りたかったのだ。この種の知識は誰にとっても大いに価値がある。それにある程度未来を予測することもできる。だから、何をやるべきかを決めることができる(例えば一日中家にこもっているか、短時間外出するか、ローマ法王を訪問するか、等である)。

 しかし、『易経』に全面的に頼ることはできない。そんなことをすれば、静止した時間に身をゆだねることになるからだ。王座を失ったあとの生涯を獄中で過ごす文王も、LSDを服用して頭がおかしくなった連中も、今日の分裂症者も、その愚を犯してしまった。とはいえ、『易経』が利用できないわけではない。「来るべき事態を予知する」ことができるのはほんの一部分だからだ。なるほどわれわれは事態をこねくりまわし、未来を描き出すことができるが、そんなことをすれば、もっと重度の分裂症に陥ってしまう。得るものよりも失うものの方が多くなろう。未来を誘発してしまったら、未来は現在によって消滅させられるだろう。未来の状況を完全に理解するには、この現在にそれを持ってこなければならない。実際、そうしてみて、どうなるか調べたらいい。未来が消えてしまったら、自由な行動はとれなくなる。これはもちろん、SFの永遠のテーマだ。私の小説『ジョーンズが創った世界』を思い起こしてほしい。ジョーンズは予知能力者だったがために行動力を完全に失い、自分の能力によって解放もされず、逆にがんじがらめになってしまった。

(中略)

 私は経験に基づいて語っている。託宣としての『易経』が私にこのエッセイを書けと命じた。なるほど、これを書くことで禅的な打開策にはなった。『易経』のアドバイスどおりに行動してはいけない理由を説明しろと言われて書いたのだから。しかし、私の場合は遅きに失した。何年も前からすっかりこの本のとりこになっていたからだ。この本への病的な依存状態からいかにして脱却できるかの示唆は得られただろうか?この本に訊いてみなくてはなるまい。早くても来年にはまたタイプライターの前に戻ってこれるだろう。来年のことはあまりよくわかりはしないのだが。(以上『フィリップ・K・ディックのすべて』飯田隆昭訳より)≫

 

 

The Concept of Mind

1949年にイギリスの哲学者・ギルバート・ライルによって発表された心の哲学の書籍である。

 

20世紀初頭、論理実証主義者は、哲学を研究するためには、日常言語を排除して厳密な用語法を確立することを主張していた。

ライルは日常言語の使用に関する誤りが哲学の多くの問題を引き起こしていると考え、心に関連する表現を含む文章がどのような論理構造を持っているかを研究することによって、伝統的な心身問題を解決することを試みた。

 

本書は第1章デカルトの神話、第2章方法を知ることと内容を知ること、第3章意志、第4章情緒、第5章傾向性と事象、第6章自己認識、第7章感覚と観察、第8章想像力、第9章知性、第10章心理学、以上から構成されている。

 

ライルはルネ・デカルトが「公式教義」を提起して以来、近代哲学が繰り返してきた議論では、心について誤った範疇が使用されてきたと判断し(カテゴリーミステイク)、観念論と唯物論の論争が擬似的な問題に過ぎないと考えた。

ライルの見解によれば、人間には精神があることと身体があることはどちらも適切であるものの、

精神と身体は異なる類型であるために対等に並べて比較することは適切ではない

また情緒の概念についてはあくまで傾向性を示すものであり、特定の場面において発生する出来事を表すとは限らない。

さらに意思作用についても日常言語には存在しない人為的な概念を導入したものである。

このような心の概念について検討した上でライルはデカルト以後の公式教義を批判し、心の哲学に関する新しい枠組みを提示している。

 

 

 

ゴースト・イン・ザ・マシン

「デカルトの神話」の章で、ライルは「機械の中の幽霊の教義」を紹介し、身体とは別の実体としての精神の哲学的概念を説明しています。

 

それが完全に誤りであり、詳細ではなく原理的に誤りであることを証明したいと思っています。それは単に特定の間違いの集合体ではありません。それは一つの大きな間違いであり、特別な種類の間違いです。つまりカテゴリーミスです。

 

デカルト二元論への批判

ライルは、心と体の関係に関するデカルトの理論を、あたかも物理的プロセスから切り離すことができるかのように精神的プロセスの研究にアプローチするという理由で、拒否している[4]

 

この理論がどのように誤解を招く可能性があるかを示すために、

行為を巧みに実行する方法を知ることは、実際に推論できるかどうかの問題であるだけでなく、実際的な推論を行動に移すことができるかどうかの問題かもしれないと説明しています。

 

実際の行動は、高度に理論的な推論や複雑な一連の知的操作によって必ずしも生み出されるとは限りません。

行動の意味は、隠された精神的プロセスについて推論することによって説明されないかもしれませんが、それらの行動を支配する規則を調べることによって説明されるかもしれません.

 

ライルによれば、精神的プロセスは単に知的な行為にすぎません。

知的行為と区別される精神的プロセスはありません。

心の働きは単に知的な行為によって表されるだけではなく、それらの知的な行為と同じです。

したがって、学習、記憶、想像、認識、または意志の行為は、隠された精神的プロセスまたは複雑な一連の知的操作の手がかりにすぎず、それらの精神的プロセスまたは知的操作が定義される方法です。

論理命題は、推論のモードへの手がかりにすぎない。それらは推論のモードである。

 

したがって、「意志」または「意志」の何らかの純粋な精神的能力の身体的行為への変換があるという合理主義者の理論は、精神的行為が身体的行為である可能性があり、身体的行為とは異なる可能性があると誤って想定しているため、誤解です。

精神世界は物理世界である可能性があり、物理世界とは異なります。

この心と体の分離可能性に関する理論は、Ryle によって「機械の中の幽霊の教義」と表現されています。

彼は、身体を支配する心の働きは、独立したメカニズムでも別個のメカニズムでもないこと、

「身体」と呼ばれる機械装置の内部に「心」と呼ばれる実体は存在しないこと、

しかし心の働きは独立したメカニズムである可能性があることを説明しています。

体の動作としてよりよく概念化されています。

 

デカルト理論は、精神的行為が身体的行為を決定し、身体の意志的行為は心の意志的行為によって引き起こされなければならないと主張する. Ryle によれば、この理論は「機械の幽霊の神話」です。

 

ある行動が物理法則に支配されているということと、同じ行動が推論の原則に支配されているということの間に矛盾はありません。

観察可能な行動の動機は傾向と性質です。これらは、純粋に精神的なプロセスではなく、行動が発生する理由を説明します。

たとえば、何かを欲しがるか欲しくないかという性質は、その物に対する知的な動機によっては説明されません。何かを欲しがる傾向は、その物を欲しがる行動によって説明されます。

したがって、心は、学習、記憶、認識、感情、または自発的な行動など、行動を説明する能力と性質で構成されています。

しかし、個人の能力や気質は、精神的なプロセスや出来事と同じではありません。

能力や気質を純粋に精神的な出来事であるかのように言及することは、基本的な類型の誤りを犯すことです。

 

人の動機の性質は、さまざまな状況または状況におけるその人の行動と反応によって定義される場合があります。特定の状況における人の動機の性質は、その人の中に隠された精神的プロセスや知的な行為によって必ずしも決定されるとは限りません。動機は、ある状況での人の行動によって明らかになったり、説明されたりすることがあります。

 

Ryle は、心とは精神的なイメージが把握され、認識され、記憶される場所であるという理論を批判しています。感覚、思考、および感情は、物理的な世界とは異なる精神的な世界に属していません。知識、記憶、想像力、およびその他の能力や性質は、あたかもこれらの性質が共存する空間であるかのように、心の「内」に存在しません。

 

配置または配置する必要があります。さらに、気質は行動的行動と同じではありませんが、行動は気質によって説明される場合があります。

 

性質は、行動アクションと同じ論理カテゴリにないため、表示も非表示もありません。性質は精神的なプロセスや知的行為ではなく、さまざまな行動様式を説明する傾向です。知覚、思考、感情、および感情は、さまざまな生産モードを持つ観察可能な行動として理解される場合があります。

 

Ryle は、心の理論に対する彼のアプローチは、観察可能な行動とは異なる隠された精神的プロセスが存在するという理論に反対するという点で行動主義的であることを認めています。彼のアプローチは、思考、記憶、感情、意志などの行動が、行動様式または行動様式に対する傾向によって明らかにされるという見解に基づいています。しかし同時に、彼はデカルト理論と行動主義理論の両方が過度に機械的であると批判しています。デカルト理論は、隠された精神的出来事が意識のある個人の行動反応を生み出すと主張するかもしれませんが、行動主義は、刺激反応メカニズムが意識のある個人の行動反応を生み出すと主張するかもしれません. Ryle は、デカルト理論と行動主義理論はどちらも硬直的で機械的すぎて、心の概念を適切に理解することができないと結論付けています[4]

 

カテゴリーミス

言語哲学者として、ライルの議論の重要な部分は、言語の概念的使用に基づいて哲学的誤りとして認識されているものを分析することに専念しています。

デカルト二元論に対する彼の批判は、それを範疇の誤りと呼んでいる。

 

Ryle が指摘するようなカテゴリの間違いは、自分が取り組んでいる概念を適切に活用する方法を知らない人々によって作られています。

彼らのパズルは、人間の言語で特定のアイテムを使用できないことから生じます。

 

よく引用される例は、外国人訪問者がオックスフォード (キャンパスのない) を案内され、大学、図書館、研究所、運動場を案内された後、戸惑いながら「でも大学はどこ?」と尋ねるものです。答えはもちろん、これらすべてです。

 

理論的に興味深いカテゴリの誤りは、少なくとも慣れ親しんだ状況では概念を適用する能力が完全にあるが、抽象的思考において、それらの概念を自分が属していない論理型に再配置する責任がある人々によって犯されるものです。 .[4][6]

過剰一般化

 

二元論の教義は、心と体の間に極の対立を確立します。

言語レベルでは、精神的特性は物理的特性の (アリストテレス的な意味での) 論理的否定です。

したがって、精神的出来事の記述に使用される表現は常に、物質的出来事の記述に使用される表現の単に否定的なものであることを考えると、カテゴリーの概念に従って、それらは同じ論理タイプに属します。

次にライルは、そのような使用は、肉体的出来事を記述するために使用されるカテゴリーに適切に属していない精神的出来事の記述に対する「カテゴリーの誤り」を暗示していると言います。

したがって、「心」と「物質」は、二元論が示唆する正反対のものになることはできません。

 

ライルは、これは「彼女は涙を流しながら帰宅した」および「彼女は御輿で帰宅した」と主張することに匹敵すると書いている (ディケンズの「ミス・ボロは涙を流しながら、御輿で帰宅した」という文から引用) は正反対である。

そのような過ちは、ライルの観点からすると、肉体機械における精神的な幽霊の教義です。

次に、二元論の教義は分析的な意味で神話的です。

 

 

前例からの影響

Ryle は、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインやアルトゥール・ショーペンハウアーなどの研究に基づいています[2][7] Bryan Magee によると、Concept of Mind の中心的なテーゼとその補助的なテーゼの本質は、Ryle が学生時代に読んだ作品であるが、その後ほとんど忘れ去られていた Schopenhauer から派生したものである。独自の理論を説明したと信じていたライルは、本が出版された後、誰かが彼にそれを指摘するまで、自分が何をしたかを理解していませんでした.

 

 

哲学者の感想

ライルの同時代の人々の間での「心の概念」の受容と、後の分析哲学者の間での受容に関する情報が欠けています。この情報を含めるには、セクションを展開してください。詳細はトークページにあるかもしれません。 (20199)

ライルは「普通の言語」の哲学者として特徴付けられており[2]、本の執筆スタイルはコメントを集めています。

 

スチュアート・ハンプシャーは、Mind のレビューで次のように述べています。[9]

 

ライル教授とイマヌエル・カントに共通しているスタイルは哲学者です。

カントが二分法で考え、書いたように、ライル教授はエピグラム(矛盾をまとめる譬喩)で書いています。

議論が単純に一連のエピグラムで構成されている多くの節があり、それらは実際に衝撃で効果的に爆発し、従来の思考の流れを打ち砕きますが、ほとんどのエピグラムと同様に、読者の心の残骸の中に、臆病な疑いと資格の痕跡を残します. 

 

ジョン・サールは、多くの脚注を含む偉大な哲学作品はなく、参考文献の数に反比例して哲学の質が変化するとしばしば述べてきたが、「心の概念」に脚注がないことは、その質の表れであると考えている[10]

 

アイリス・マードックは、英国の分析哲学が大陸哲学と同じ一般的な方向性を共有しているという見解で、心の概念をジャン=ポール・サルトルの存在と無(1943)と比較した[11] Ryle David Stannard によって解釈され、無意識の精神分析的考え方は身体と心の二分法のデカルト的概念に根ざしており、それ自体が「Ghost in the Machine」の誤謬の 1 つのバージョンであると主張しています。スタナードによれば、ライルはドグマをカテゴリーの誤りに基づく論理的誤りと見なしている[12]

 

リチャード・ウェブスターは、ライルの議論の明快さと力強さを賞賛しているが、彼の議論は心身の問題を効果的に解決しているが、人間の知識に革命をもたらすことはできなかったと示唆している。

 Webster はこれを、感覚、記憶、意識、自己感覚などの経験の主観的側面は「心」の本質ではないという Ryle の主張が、現代の哲学者、神経科学者、および心理学者によって普遍的に受け入れられていないという事実に起因すると考えています。

Webster は、Ryle The Concept of Mind の行動主義者としての特徴付けを喜んで受け入れることは、そのより微妙な立場を誤って伝えていると考えており、Ryle 自身が示唆したように、Ryle がその説明を受け入れることは無害ではないと書いています。

Webster は、Ryle はしばしば内的な感覚や思考と呼ばれるものの現実を否定していないことを強調していますが、それらが通常の人間の行動の外的な領域とは論理的に区別され、独立した領域に属しているという考えを単に拒否しています.[1]

 

この本の書き方は、ハーバート・マルクーゼによってより否定的にコメントされました。

彼は、ライルが体と心の関係についての「公式の教義」としての「デカルトの神話」の提示に従い、その予備的な実証を行う方法を観察しています。

John DoeRichard Roe、および彼らが『平均的な納税者』について考えていること」を呼び起こす「不条理」は、「威厳ある権威と気楽な気さくさの 2 つの極の間」を移動するスタイルを示しており、Marcuse が特徴的であると感じているものです。

 

 

 

フレッド・ドレツキ   心を自然化する      

Fred Dretske   Naturalizing the Mind 1995

 

フレッド・ドレツキ

1932年、アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。1960年、ミネソタ大学にて博士号を取得。現在はスタンフォード大学およびウィスコンシン大学名誉教授、デューク大学教授。他の主著にSeeing and KnowingKnowledge and the Flow of Information(MIT Press, 1981), Explaining Behavior(MIT Press, 1988.邦訳『行動を説明する』勁草書房、2005)がある。

1 感覚経験の表象的性格

2 内観

3 クオリア

4

5 外在主義と付随性

 

 自分という自己を知るには(つまり自分で自分の自己知を相手にするには)、内側を覗きこむ場合と、外から攻めていく場合とがある。哲学史はめんどうくさい用語をつかうのがたいそう好きなので、内側から覗きこむ方法を「内観主義」といい、外から攻めていく方法を「外在主義」という。

 内観によって自分を覗きこむことを奨励してきたのは、修行や沈思黙考を重視する宗教、内省的な思索の記述を好む省察哲学、プルースト以来の「意識の流れ」を扱う文学、および数々の心理学などである。だが、これらはなかなか科学にならない。実証的ではない。

 言語的な思索における論理的実証を心掛けようとしたヴィトゲンシュタインは、心がそれ自身に注意を向けるという想定は「ありうるとすれば、きわめて奇妙なこと」だとみなした。ここに登場してきたのが、実験心理学や脳科学や認知科学だった。けれども、これらをどのように解釈するかは、われわれに任せられている。

 

 われわれはさまざまな感覚や経験や思考によって「自分」をかたちづくってきたと思っている。そういうふうにかたちづくられた「自分がある」とも実感している。その自分が、生まれついてこのかたいろいろなことを体験し、友達や金魚やスイトピーや歴史の教科書やユーミンの歌や仕事と出会い、さまざまな感情や知識をもつようになって今日に至っているとも、思っている。そういう現在自己には、いくつもの過去自分や他人がまじっている。

 けれどもそう思ったところで、自分がどういうものか、自分の心がどういうものなのかはなかなかあきらかにならない。

 自分の正体や心の本質などというディープなことはともかくも、いったい自分は何を体験したのか、何を獲得したのか、どんな知識とまぜこぜになったのかと問うてみると、履歴書ふうのことならいろいろ列挙できそうなのに、これまで生きてきたあいだに「自分にくっついたあれこれのこと」がどういうものだったかを示そうとすると(自己知の特色を示そうとすると)、あまりに素材が多すぎて、うまく言いあらわせない。

 自分の正体もわからないけれど、「自分化している体験や知識」の正体がわからないことも多い。金魚やスイトピーや歴史の教科書やユーミンの歌や営業や制作の仕事は、自分以外の者も体験しているはずだが、それらはおそらくそれぞれ各人の経験のなかで独特のものになっていると想定できる。それなら、それらを各人が取り出すにはどうすればいいのだろうか。

 

 認知哲学や認知科学は心にひそむものの「取り出し」に挑んできた。欧米の学問だから、出発点は残念ながらデカルトである。デカルトが物と心を分けて心身二元論を説いたことを批判的に問うところから始めた。物と心を分けたから心の中味を取り出せなくなったと詰ったのだ。

 どうしたら取り出せるのか。第二次世界大戦の渦中にひとしきりチューリング・マシン(計算可能性)とサイバネティクス(外界情報をたえず取り入れ、フィードバックしながら軌道修正する)と情報通信理論の議論がピークを迎えたあと、最初にギルバート・ライルの『心の概念』(みすず書房)が「取り出し問題」をぶちあげた。

デカルトのように「心は自然界や物質界とは別の独立したものだ」というふうに機械論的にみなすと、心が体という系に包まれているという相互関係の説明がつかなくなり、心が「機械の中の幽霊」のような様相になってしまう。

 デカルトは心を実体的に扱いすぎた。心は機械の部品ではなく、おそらくは可変的な傾向のようなものなのだから、メカニックな説明では扱えない。デカルトはカテゴリー・ミスを犯していると言ったのである。

 

ギルバート・ライル(1900-1976

イギリスの哲学者。ヴィトゲンシュタインの言語観に想を得たイギリスのいわゆる日常言語学派の代表的人物とされている。心身二元論を批判する時に用いた「機械の中の幽霊(Ghost in the machine)」、「機械の中の幽霊のドグマ」という表現でもよく知られている。

G・ライル『心の概念』(みすず書房)原題:『The Concept of Mind』 

 

 ライルの影響はさまざまに広がった。スマートやファイグルのように心と脳を同一視する者、パトナムやアームストロングのように心は知覚機能の因果化がもたらしているものだとみなす者(心脳同一説)、デイヴィッドソンやデネットのように心にはもっと合理的な説明がつくはずだと考える者(機能主義)、いろいろ出た。

 逆にデカルトに戻って心や言語を部品から説明できるようにするべきだというチョムスキーやサイモンのような立場の者もあらわれた。

 

 いやいや、「取り出す」のではなく「作り出す」のはどうかという一群もあらわれた。この連中は「心のモデル」や「意識のロジックモデル」を作っていった。

 こうして「プログラムとしての心」の候補が次々に提出された。それらは「パーセプトロン」とか「フレーム」とか「電子神経方程式」とかと呼ばれつつ、しだいに人工知能として、またロボットとして構成され、その機能や作用がナマの人間と比較されるようになった。

 

 そこに、脳科学、言語認知学、実験心理学によるデータが次々に加えられていった。そうなると自己知の森に対する大きな方針も問われることになってきた。

 こうしたなか、ウィルフリド・セラーズのような内観主義とジェリー・フォーダーの表象主義が大きな潮流の分岐点になっていったのである。

そして、これらに続くフレッド・ドレツキは『行動を説明する』『心を自然化する』(いずれも勁草書房)で、外在的に「外」から自己や心に出入りする表象を捉える方法を模索した。

 

 

フレッド・ドレツキ『心を自然化する』(勁草書房)原題:「Naturalizing the Mind

 いったい心身を「外」から攻めて、外在的に(外側から)自己や心を見るとはどういうことなのか。そんなことができるのか。

 にわかに想定しにくいだろうが、ドレツキはそのための「表象主義テーゼ」というものを考えた。そしてこのテーゼには、譲れぬ前提があって、そこには、

@「すべての心的事実は表象的事実である」、

A「すべての表象的事実は情報的機能に関する事実である」が含まれていると仮定した。

勝手に仮定したのだ。

 

 最初に言っておくが、ドレツキは少し古いタイプの認知哲学者である。ミネソタ大学卒業後、ウィスコンシン大学、スタンフォード大学で教鞭をとりながら、認識、心、意識、自己知、情報、表象などととりくんで思索の成果を理知的にまとめてきた。

『行動を説明する』では、いったい生物の信念や欲求があるとしたら、それはどんなものであるかを議論した。生物の信念や欲求を意味論的な特徴をもてるように説明する方法はあるのかと問うた。

 生物の行為や行動を子細に説明するというなら、エソロジスト(動物行動学者)の粘り強い観察でもそこそこのことがわかる。生物医学的なデータを継続して収集してその変化を見るという手もある。ドレツキはそれでは満足せずに、生物としての人間がそのような行動をしているときの「内部表象」のようなものを想定した。

 

 

フレッド・ドレツキ『行動を説明する』(勁草書房)  原題:「Explaining Behavior

 生物に内部表象があるなどというのは、もちろん勝手な想定だ。哺乳動物ですらキリンやシマウマやサルにそんなものがあるかどうか、あやしい。まったくないとは言えないかもしれないが、あるとも言えない。

 しかし、あるだろうと想定してみたらどんな特徴があらわれてくるかというふうに、ドレツキは仮定した。そのうえでそれを人間にあてはめて考えた。そういう思考法なのだ。

 ドレツキは、取り出しにくい「自分にくっついたあれこれのこと」をこそ内部表象と呼んだわけである。あらかじめ、そう呼ぶことにしたのだ。しかし、ふつうに考えていては内部表象には手がつけにくい。そこで外側からこれに手を入れていく。この方法が外在主義だ。

 ここには、「あるシステムSが性質Fを表象するのは、Sがある特定の対象領域のFを表示する機能をもつとき、そしてそのときのみである」という考え方が貫かれる。

「Sがある特定の対象領域のFを表示する機能をもつとき」というのは、「Fについての情報を与えるとき」ということだ。

もしも「自分という心のシステム」があるのなら(みんな、あるだろうと思っているわけだが)、それは知覚器官や脳機能によってなんらかの情報化がおこっているからで、それ以外ではないというふうにみなすということだ。

 このようにみなせば、われわれの知覚的表象は体温計や速度装置やラップトップコンピュータやテレビの表象状態やカラオケで歌うこととはちがって、その表象を有するシステムが表象される対象を意識することを引きおこしている(引き出している)、とみなせるはずである。

 つまりドレツキは、経験はシステムに内属しているのだから、それ自体が表象(シンボル、イメージ)なのだとみなしたのだ。これが一見乱暴な表象主義テーゼというものだった。

 このテーゼは、われわれがディズニーランドで経験したものを心のどこかで表象としていたとしても、脳の中の電気的活動や化学的活動をいくら精密に観察しても、その当のものは見えてはこないことを主張する。

 それがディズニーランド経験にくっついたものであるかもしれないと感じるのは、その活動記録にどんな「読み取りラベル」を付したかということにかかっているのである。このことは脳のクオリア(主観的意識)さえ「読み取りラベル」がないかぎり言い当てられはしない。もっとありていにいえば、表象とは「内なるもの」を「外なるもの」によって置き換えないかぎりは言及できないものなのだ。

自分という自己知の範囲のなかで内部表象を問題にするには、このような方法でしか一人称権威を損なわせないようにする手はないはずなのだ。そういう見方だ。

 

 人類にはいろいろの概念的資源が貯まっているが、個人にはそれらを活用する能力が備わっているとはかぎらない。個人という自分ができることは、概念的資源がなんらかの置換的知識に転出されていて(教科書とか写真とか噂話とか)、それらの転出トークン(象徴)によって自分の記憶を類的なものとして補綴(足りないところを補足する)することである。この補綴行為のときにメタ表象性が登場する。

 われわれにメタ表象性があるということは、実はクオリアを機能的に定義することはできないということを示す。ネッド・ブロック、ジェリー・フォーダー、S・シューメイカー、E・ビジャッキらが同じ見解を述べていった。

 このような見方は、エトムント・フッサールが「超越論的現象学」として提案した方法にも、どこか似ていた。認知科学はふたたび哲学に回帰しつつもあったのである。

 

 

エドムンド・フッサール(1859-1938

オーストリアの哲学者、数学者。「現象学」を提唱し、20世紀哲学の端緒を担った。大学でひたすら目の前の机が存在するのかどうかを講義し、みるみるうちに学生は減り、最後には一人だけ残った。その学生が一番弟子となるマルティン・ハイデッガーだった。

 われわれが自分の心を想定するとき(つまり自分を自覚しようとするとき)、そこにはたいてい「志向性の立ち上がり」(intentionality)のようなものと、われわれの心のどこかをのべつ流れたり滞留したりしている「意識のあいまいな動向」(consciousness)のようなものとの、二つを感じる。志向性はフッサールが師のブレンターノから継承した考え方だった。

 しかし「志向性の立ち上がり」も「意識のあいまいな動向」も、同じく自分の経験がもたらしているのだから、これらが別々に感じられるとしたら、それは内部表象の扱いを分別しているからなのである。

 そこでドレツキやその賛同者たちは、表象の中に内在的特徴と志向的特徴が一緒くたになって作用しているのだと仮説した。知覚と経験の質のようなものを感じるクオリアのようなものがあるとしたら、それはこれらの特徴を一緒くたにした表象によるものなのだとみなしたのである。

 そんな程度のことで心の特質やクオリアの本体に迫れるとは思えそうもないが、しかしそれを担う内部表象に「取り出しラベル」がくっついているとしたら、いや、「取り出しラベル」によってしか内部表象を観察できないのだとしたら、この見方には多少の可能性があった。

 

 ざっとは、ドレツキによる「心を自然化する」という試みには、以上のような考え方や見方がはたらいた。

本書のタイトルにもなった「心を自然化する」とは妙な言い方だが、心や自己知をできるかぎり自然主義的な解釈のなかで処理するという狙いを言いあらわしているのだと思えばいいだろう。むろんのこと、こういう見方は一種の哲学的理科主義である。

 さあ、この試みをどう見るかだが、いくつかおもしろいところがある。表象を知覚が反応した「情報のタグ」が外部に出てきたところでのみ扱うというところは、それなりに冷たくていい。内観主義の介在を避けるには必要な作業仮説だった。しかし、ここには問題もある。

 そもそも心の自然化には、思考の自然化と経験の自然化があるはずで、その両方が表象によってのみ担われていると見るのは、ムリがある。いっとき日本でも話題になったトマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)が指摘したことだが、コウモリの感覚器官や脳についてどれほど詳細な知識を得たとしても、コウモリがコウモリであることの説明や理解にはならないように、われわれは自己をめぐる表象を、われわれの実在性や心因性から独立する自然科学の方法によって記述することは、なかなかできない相談なのである。

 

 

トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)

1937生まれ。アメリカの哲学者。機能主義的な物理主義に対する反論として、意識・クオリアの主観性をコウモリを例にして主張した。

 できない相談なのだが、それならぼくはどうして今夜の千夜千冊にドレツキの外在的表象主義の一端をとりあげたのかというと、それは、心や魂の問題は「外に出す」ことによってしか議論できないだろうと、あるいは、「内」を外にするときのインターフェース(膜的なるもの)そのものに心や魂の特性の一部を付与しないかぎり議論にならないのではないかと、ぼく自身が昔から考えてきたからなのである。

 

 すべてを脳の中にとじこめていてはしょうがない。脳から何かを引っぱり出して、それからそれを脳のどこかに戻してやらなければならない。

 だから認知科学の試みの半分くらいは、フランシス・クリックやクリストフ・コッホのNCC(特定の意識的知覚が生じるために必要なひとまとまりの最小神経メカニズム)のようなものを、あえてわれわれの内部性と外部性の境界(膜があるところ)にまで、まずは引っ張り出してくることなのである。では、その「外」とは何なのか。部屋なのか、絵画なのか、文芸作品なのか、仮想空間なのかといえば、この問題はまだのこされている。

 もうひとつ、付け加えておきたい。それは、だからといって内観主義を葬り去ってはまずいだろうということだ。内側を覗くばかりの内観主義には限界があるが、内側に紛れている外側を観照する方法だって、あるはずなのだ。内観は少し残しておくべきなのだ。さらには荘子やホワイトヘッドや湯川秀樹がそうしたのだが、そもそも内側にはいろいろ隙間や非局所性や外部痕跡があって、それらを含めてネクサス状態(連結)が広がっていると見ることも可能なのである。

 内側に残る痕跡を見つめて、これを外在化するためのインターフェースを想定していくこと、これがぼくの「心」が好むやり方なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クオリア(英: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)感覚質

感覚的な意識や経験のこと、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のことであり、脳科学では「クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されている」と考えられている。

 

哲学・心理学・認知科学などにおいて、クオリア(主観的意識)は理数系学問(自然科学)で観測・解明できないという見解が多く出されている。

一方、神経科学などでは複数の研究がクオリアを観測し解明を進めている[4][5][6][ 2]

2009年に精神科医・神経科学者ジュリオ・トノーニと計算神経科学者デイヴィッド・バルドゥッツィは、意識の統合情報理論に基づく論文「クオリア:統合情報の幾何学」を発表した[4]。この研究は幾何学的手法によって、クオリアの複合体である「クオリア空間(“qualia space”、略称は“Q”)」を、「神経生理学的データ(“neurophysiologic data”)」として計測した[9]

2017年に神経科学者・医用工学者ロジャー・D・オープウッドは、「ECoGデータ(皮質脳波検査データ)」およびガンマ波振動とアトラクターを解析して、「クオリアは高確率で局所的皮質ネットワーク内における情報処理の結果である」と述べている[5][ 3]2018年にIBM社が出願した情報工学の特許技術では「疲労、気分、および疼痛や苦痛の重症度」等といったクオリアを、「クオリアデータ(“qualia data”)」として情報処理している。

 

概要

笛から発せられた空気振動(音)が、笛の音のクオリア「ピー」を発生させるまでの流れ(左端:笛、青:音波、赤:鼓膜、黄:蝸牛、緑:有毛細胞、紫:周波数スペクトル、橙:神経細胞の興奮、右端:笛の音のクオリア)。

Description: 350px-Qualia_of_sound

 

2016年の『脳科学辞典』で神経科学者の土谷尚嗣は「哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている」と述べている[1]2009年『スタンフォード哲学百科事典』で哲学者のマイケル・タイが言うにはクオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面である[10]

 

 

2001年にソニーコンピュータサイエンス研究所の茂木健一郎は、こう述べている[11]

「数や量で表現できるような物質の性質に比較すると、クオリアは、曖昧なもののように思われる。 クオリアは、曖昧だからこそ、ニューロンの発火頻度や、膜電位のような定量的な記述ができないのだ、そのように思いがちである。

 

しかし、脳内にあるニューロンの発火パターンが生じた時に、私たちの心の中にどのようなクオリアが生じるかという対応原理は、実際には極めて厳密なものであると考えられる。現在〔2001年〕、私たちが主観的に体験するあらゆる心的表象は、脳内のニューロン活動に伴って生じる「随伴現象」(epiphenomenon)であるという説が有力である」[11][ 4]

 

もしクオリアに関して物質的過程でない「隠れたパラメータ」を主張するならば、それは「心脳二元論を唱えているに等しい」、と茂木は言う[11]。物質系には、原因と結果の「因果的必然性」がある[12]。客観的な物質系は、定量的な変数(位置・速度・運動量など)によって決定されており、これが物質系の「因果的必然性」である[13]。主観的なクオリアの「因果的必然性」は、物質系の「因果的必然性」に従っている[13]。そして物質系の「因果的必然性」を表現する際は、定量的な記述(微分方程式・差分方程式・行列力学・セルオートマトン・経路積分など)が使われている[13]

茂木によればクオリアの「因果的必然性」も、同様に厳密な原理に基づいているが、これを表現する記述方法はまだ見つかっていない[12]

 

なお、クオリアがニューロン活動に伴う現象として数学的形式化(定量化)されクオリア問題が解決されていくと、ヴィトゲンシュタイン以来の「言語論的転回」が起きると茂木は述べている[14]

「ニューロンの活動も究極的にはシュレディンガー方程式のような定量的な法則によって支配されている」が、「そもそもニューロン活動を客観的に記述している時に用いている数学的フォーマリズム〔数学的形式〕とクオリアがどのような関係にあるのかが明らかにされなければ、問題の本質的な解決にならないだろう」[15]

例えば数学的言語の一つに、「シュレディンガー方程式」がある[14][ 5]。これに対しクオリアは「一見数学的フォーマリズム〔数学的形式〕に乗らず、一切の定量化を拒否しているかのように見える」[15]。しかし人間の認知過程上では、「シュレディンガー方程式」は《白いクオリア(背景色)の上にある黒いクオリア(文字色)》として認知されている[15]。従って、クオリアのシンボル表現という点では、自然言語として表現される「木漏れ日」のような情景描写だけでなく、数学的言語として表現される「シュレディンガー方程式」も同様である[15]

 

つまりクオリアの表現形という点から考えれば、実は「数学的言語」と「自然言語」との間に本質的な差は無い[15]。クオリアが数学として解明されていけば[14]、人間の知性(人間が表現する数学的言語と自然言語の在り方)を基礎から再検討することが近い将来必要になる、と茂木は結論している[15]

 

 

日本語で「クオリア」といった場合、それは「赤さ」や「痛み」などひとつひとつの質を指していることが多い[要出典]。つまり英語で言う「quale」にあたる意味で使われていることが多い[要出典]。しかし英語で「qualia」といったときは、「複数のquale」つまり「赤さや痛みなど」という意味で使われていることが多い[要出典]

 

簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。[要出典]

 

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される[ 6]。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。[要出典]

 

人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの[ 7]、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。

 

クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない[要出典]。この問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」[17]などと呼ばれている。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、様々な考え方が提出されている[要出典]

 

現在こうした議論は、哲学の側では心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されている。[要出典]

 

また科学の側では、神経科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論されている。ただし科学分野では形而上学的な議論を避けるために、意識や気づきの研究として扱われている[要出典]

 

 

 

 

 

 

 

観念論(英語: idealism、ドイツ語: Idealismus、フランス語: idéalisme

認識の妥当性に関する説の一つで、事物の存在と在り方は当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方を指す。

 

Idealism」は、日本では訳語が一定せず、存在論においては唯心論、認識論においては観念論、倫理学説においては理想主義と訳し分けられていた。

 

概説

この語は多義的であり、しかし、現在多く使われるのは、存在論におけるそれであるにもかかわらず、認識論における観念論と呼ばれることが多い。

認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方である。

その理論は、思考と外界はお互いにお互いを創造しあうが、そこでは思考が、決定的な役割を持つ、という主張を含んでいる。ヘーゲルは、歴史は科学と同じように明確に理性に適ったものでなければならないと考えた。進んで、ジョージ・バークリーやアルトゥル・ショーペンハウアーのように、すべて人間が認識するものは思考による観念の所産(表象)であると考えるものもある。

 

つまり、観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。この主張はしばしば観念的なものが自存し、実在性をもつという主張に結びつく。

例えば、プラトンは、我々が考えることができるすべての性質や物は、ある種の独立した実在であると考えた。まぎらわしいことに、この種の観念論は、かつて実在論(観念実在論)と呼ばれた。

 

またある思想が観念論に属すかどうかにも、議論が分かれる場合がある。

イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において、我々が世界を空間や時間という形で把握するのは人間認識のアプリオリな制約である経験への超越論的制約によるとした。

カント自身は(物自体の存在を要請したが故に)これを観念論とは考えなかったが、純粋理性批判が出版された当時の多くの読者はこれをきわめて観念論的な主張であると考え、カントは誤解を解くために自説の解説書である『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ』を出版した。

 

事物よりも認識主体に内在する構成能力などを重視する立場は、西洋近代哲学において顕著であり、またインド思想でもその傾向が存在する。

 

観念論と対比される思想に、唯物論がある。

だが、厳密に言うと、超自然的な存在に対するすべての信仰や信念が、唯物論に反対しているわけではない。

多くの宗教的信念は、特に観念論的である。

例えば、ブラフマンを世界の本質とするヒンドゥー教の信仰に対して、一般的なキリスト教徒の教義では、キリストの人間としての肉体の実在性と物質的な世界における人間の善性の重要性についてはっきりと述べている。禅宗は、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置している。

 

西洋哲学

認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(観念)によって規定される、という考え方。

 

まず最も知られているのがプラトンのイデア論である。これは事物の原型的なものと説明された。

 

ルネ・デカルトとジョン・ロックが、プラトン的なイデアを解釈しなおし、人間の心に内在する事物の似姿としての観念だとした。人間は事物をじかに知るのではなく、観念を通じて間接的に知る、とし、観念なしでは、ものごとについては何ごとも語りえない、とする考え方である。

この認識論的な意味でもidealismは(西洋では)近代特有の思想である。

認識をideaないし表象から出発して説明しようとするならば、イデアリスムのほうが整合的な体系となる。

この意味のイデアリスムはレアリスムと対比されて用いられる。

 

カントやドイツ観念論においては、「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」とする説(構成説)が現れた。

 

このidealismが形而上学的な方向に進むと、「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説(唯心論)となる。唯心論ほどまでに先鋭化すると、唯物論と対立することになる。

 

このような意識を、個人的で経験的なものと見なす立場もあり、超個人的で規範的なものと見なす立場もあり、それぞれ体系が異なる。前者にはバークリの非物質論やライプニッツの主観的idealism、デイヴィッド・ヒュームの現象主義、がある。後者にはドイツ古典哲学の超越論的観念論がある。

 

ただし、意識から出発して物質世界を説明することは困難がつきまとうので、論者は次のような理論戦略を用いることになったという。

 

神を立てて宗教と結合させる

ideaと事物とを同一視して、一元論化し、いわば裏返しの唯物論になる。

外界の存在については沈黙する懐疑主義になる。

物自体を想定し、物自体は不可知である、とする。

人間に即して考えられていた精神を絶対的なものに仕立て上げる。

 

バークリ

ジョージ・バークリは、外的な世界は完全にideaの複合体でしかない、とする物体的世界は、神が人間に与えた表象の世界でしかないのであり、それ自体としては存在しない、とする。自然の法則も我々のideaにおいてのみ成立する、とする。

 

カント

合理主義的なidealistらは、人間の知性を神の無限の知性に結び付けて説明し、世界を認識する知性に限界はない、と見なした。

それに対してカントは、そのような合理化には限界があると述べ、決定されないものが残るとし、それが実在する、という実在論を展開した。

外界の諸現象は、カントの場合でも現象でしかないのだが、神の知性という上部構造は採用せず、人間知性には限界がある、と考えたのである。

神という絶対的なものの援護を失った我々の認識ではとらえられない諸現象の根拠を「物自体」と呼んだ。この物自体は、実在するが、経験の内容にはなりえない、とされ、人間の認識の限界を指し示すことになった。

カントによる人間理性の限界の画定によって啓蒙時代が終わりを告げることになったという。

 

 

idealismと唯物論の論争

唯物論が18世紀以降に台頭してくると、idealismと唯物論の議論は激化した。

両者の調停をはかるために、19世紀末からは様々な中性的一元論が提唱された。

 

IdeaIdeal

ドイツ古典哲学において、プラトン的なideaが変化、変容し、Idee(理念)、Ideal(理想)という概念が現れた。よってそれ以降は、「Idealism」は理想主義という意味を持つことがある。

卑近な用法

日常会話においてこの言葉は、現実的ではない、現実からかけ離れているといった意味でも使われる。