ナーガルジュナ(龍樹)の論理性 「テトラレンマ」
tetralemma 4つの主題 漢字では四句分別と訳されています。
cf. dilImma (di-二重の+lêmma主題= 二重の主題
現代ではジレンマは、2つの仮定にはさまれる、と解釈されているが、2つ層があるのでどちらの主題も成り立つという解釈をすれば、
挟まれていると感じるのは同じ世界(領域、次元、価値世界、構成要素)だけにいるために起きてしまう、幻想なのかもしれません。
龍樹『中論』「第18章アートマンの考察・八」
第一律 AはAである
第二律 AはA’でもある
第三律 AはAであり、AはA’でもある
第四律 AはAであるでもないし、AはA’であるでもない
原文を引用すると、
sarvaṃ tathyaṃ na vā tathyaṃ tathyaṃ cātathyameva ca|
naivātathyaṃ naiva tathyametadbuddhānuśāsanam||8||
第一律 一切はそのように〔真実〕である
第二律 また一切はそのように〔真実〕ではない
第三律 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
第四律 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、またそのように〔真実〕ではないのではない
これがブッダの教えである。
このテトラレンマは龍樹がアートマンについて考察したものです。
このアートマンは釈尊の解釈では涅槃nibbānaなのかそれともdhammaなのか、という疑問がありますが、今回は論理の組み立てがテーマです。
このテトラレンマには多くの解釈があり、それを大別すると2つの典型があり、どちらも釈尊が伝えようとしていたこと、とは違います。
釈尊の本意は体から意識、意識から魂、魂から涅槃に至る道について説いたものであることを経典から引用して説明します。
まずはよくある勘違いの2つのパターンを考察して、最後に釈尊の伝えたかったものを示します。
誤謬が発生するのは、その解釈の一部が正しいことに起因します。
正しいところだけにスポットライトを当てることで、他の部分の誤謬に気がつかなくなって自論を主張するようになるからです。
2つの誤謬の正しいところはどこでしょうか?
それは、抽象度を1段階あげたところです。
ブルドッグとチワワと分別するのをやめて、分ける前の「犬」とすることです。
Aパターンは主客分離から主客の連動性へ、Bパターンは物質から機能へ、と抽象度を上げたことまではいいのですが、
そこで満足して、同じ場所にスポットライトを当て続けたために、龍樹や釈尊の本意に気持ちを寄り添うことができなくなりました。
第一の命題をpとすれば、四句は、P・非P・Pかつ非P・非Pかつ非非Pということができます。
2つの間違えの解釈を図にすると、
Aパターン
Bパターン
Aパターンの誤謬
形式論理学で捉えようとして4つの主題を同じ次元で取り扱おうとしてしまい、誤謬する例です。
形式論理学から見ると、第三句の「pかつ非p」は矛盾した主題であるし、
また、第四句の非非pはpに等しく、「非pかつp」の意味であるため、実質的に第三句の「pかつ非p」に等しいことになります。
つまり、四句否定を形式論理の中で理解することはできません。
正しいところは二句分別では意識レベルの因果関係を結ぶことができない、という指摘だけです。
たとえば、これを西洋と東洋という曖昧な概念で括って、
観察主体と観察対象が相対立してしまう西洋的な主客二元論的世界観は、
「@Aである」
「AAでない」
西洋の論理は、「あるか」「ないか」のいずれということになり、@とAのロゴスで説明される論理といえます。
対して、主客一体とする東洋的世界観は、
「BAであることもあり、Aでないこともある」
「CAであることもなく、Aでないこともない」
を加えるのが東洋の論理で
主客合一を含む、直観的な了解を含む出来事として捉えると、
「あるといえる」「いや、ないといえる」「いや、あるとも、ないともいえない」「いや、あるとも、ないともいえる」
となる。
このような論理的に破綻している説明をすることになります。
Bパターンの誤謬は
宇宙の次元を3つに(物質、意識、「空」)限定したことで、4つ目の「非pかつ非非p」の解釈を放棄していまっています。
正しいところは、P、P’、P’’と外側に展開することで、物質レベルから機能レベルに抽象度を上げていることです。
誤謬の解釈の例は、
ここにオレンジジュースがあるとする。
第一律は、「ジュースはオレンジジュースである」という確定になる。
ここで誰かがグレープジュースを作ったとする。そうすると「ジュースはグレープジュースでもある」となる。
二つの種類が出そろったので、第三律は、「ジュースは果物ジュースである」となる。
つまり、ジュースの概念が、一つの限定された種類の定義から果物という一般化された定義になる。
これは抽象度を1つあげる、というモノの分類における上位の集合への整理方法になる。
このような抽象化により、色々な果物の種類に対応するジュースが生まれることがわかる。
しかし、最後の第4律では「ジュースはオレンジジュースでもなく、グレープジュースでもない」で終わるのだが、これをどう解釈したらよいのであろう?
テトラレンマとは「もの」の論理ではなく、「こと」の論理への変換のツールである。
つまり形ではなく、機能にスポットライトを当てるのである。
そうすると第4律は、ジュースを物理的属性で定義するのではなく、意味(機能)で定義するべきである、ということになる。
例えば「ジュースは、食べ物を喉ごしよく、液状にしたもの」と定義することで、抽象化される。
抽象化することで、色々なジュースを創造することができる。
つまりテトラレンマの論理とは、分別の論理から離脱して「抽象度を上げたもので全体を包む」方法への転換である。
色々な存在をあらしめている「形なきエネルギー体」、つまり、「それぞれの存在意義の集合体」によって個々の存在を包み込んでいく装置である。
従って、この「形なきエネルギー体」は「空」と呼ばれ、それには未知の存在も包んでいる。
図示すると次図のようになる。
当初の物質的Aは心的エネルギー体のA’(一般化された観念)となり、
A’がさらに微細な「空」によりA''に広がっている。
テトラレンマの論理はこの形なきエネルギー体の価値の重要さを主張している。
次に、釈尊の伝えたかったことを具体的に経典から見てみます。
パーリ経典中部72の「火ヴァッチャ経」 Discourse to Vacchagotta
on Fire Aggivacchasutta Majjhima
Nikāya 72
の抜粋と意訳の要約です。
釈尊と無因無縁を主張するĀjīvaka派の遊行僧との対話です。
はじめに遊行僧が対立する考え方の数々を釈尊に提示します。
たとえば、「いのちと体は同じである」「いのちと体は別である」といった10の対立する考え方を並べます。
そして、どちらもが苦しみにつながる見解(信念)であると釈尊は否定します
冷静で平和で目覚めにつながるのは、このような対立した見解を避けるように、と釈尊は説きます。
また釈尊は、カタチは感情、知覚、選択、意識を生みだして、これが自我の根底になってしまうので、
覚った者は、信念を廃止している、と説きます。
そこでĀjīvakaの遊行僧は、「この信念を廃止する意味を悟った者は、心が解放されて、どの領域に生まれ変わるのか?」と質問します。
すると釈尊は
「『生まれ変わる』は当てはまりません」と答えます。
「では、生まれ変わらないのですか?」
「『生まれ変わらない』は当てはまりません」
「では、生まれ変わると生まれ変わらないの両方なのですか?」
「『生まれ変わると生まれ変わらないの両方』は当てはまりません」
「では、生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもないのでしょうか?」
「『生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもない』は当てはまりません」
すると遊行僧は、混乱に陥り、「信念を停止するという」以前の会話から得た悟りさえも失ってしまいました。
「あなたが理解していないのも、混乱しているのも不思議ではありません。
考え方、信条、好み、習わし、伝統が違うから、理解に苦しむのです。
この原則は深く、理解しにくく、平和で崇高であり、論理の範囲を超えているからです。
しかし、微細な領域に鋭い人には理解できるものです。」
そして釈尊は遊行僧に尋ねます。
「目の前で火が燃えていますね。この火は、何に依っているのでしょうか?あなたはどう答えますか?」
「私の目の前で燃えているこの火は、燃料としての草と丸太に依拠して燃えています。」
「では、目の前で燃えている火が消えたとしましょう。火は東、南、西、北のどの方向に進んだのででょうか?あなたはどう答えますか?」
「火は草や丸太を燃料にしていました。それが尽きて燃料がなくなったから、火は燃料不足のために鎮火したと考えます。」
「同じように、覚りを説明するあらゆる形態は、根元で切り落とされ、抹消されるので、将来発生することはありません。
覚りを実現した人は、形の観点で分別することから解放されます。
また覚りを実現した人は、感情、知覚、選択、意識(五蘊)を根元から切り離され、意識の観点で分別することから解放されます。
それらは海のように深く、計り知れず、理解するのが難しいことです。
分別から作った信念を停止すると、上記の4つの断定のどれもが事実に当てはまらないことがわかります。」
すると遊行僧は喜び、「無常によって枝や葉、樹皮や新芽が取り除かれ、純粋な心材になりました。」と喜びました。
解説
遊行僧は、心にあるカタチを基準にする自動反応回路を取り払ったので、二元論(カタチ)の無意味さを悟ったのですが、
釈尊が説くもう2つの話の意味がわからず、混乱していました。
そこで、釈尊が火が燃える根拠を取り払うことで、火を見ることはないことを説きます。
火とは幻想、丸太は形(物質)、草は意識の喩えです。
形のレベル、次に意識のレベルで分別することの無意味さを釈尊が説いたことで、遊行僧は魂のレベルと、そこからも離脱するレベルがあることを比喩としては理解できたので、それを実証するための修行に入ることを釈尊に宣言します。
ポイントは
4つの意見(断定)に対して、当てはらまない世界がそれらの外側にあることを提示する釈尊の言葉の意味です。
釈尊は日常よりも微細な3段階のレベルを前提にして話をしているので、4つの意見を次々と否定することで、涅槃の世界があることを示そうとしています。
3段階とはメンタル体のgandhabba、その中のkammaja kaya、そして涅槃nibbānaです。
第一の命題『生まれ変わる』をpとすれば、四句は、p・非p・pかつ非p・非pかつ非非pということができます。
|
構成要素 |
否定する幻想 |
提示するもの |
31領域 |
p |
|
自己意識 |
メンタル体 |
色界 |
非p |
ダークマター |
肉体 |
意識の回路 |
色界 |
pかつ非p |
ダークエネルギー |
自己意識・肉体 |
魂の回路 |
無色界 |
非pかつ非非p |
0 |
魂と霊 |
涅槃 |
涅槃 |
『生まれ変わる』
『生まれ変わらない』
『生まれ変わると生まれ変わらないの両方』
『生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもない』
『生まれ変わる』
生まれ変わる、と想われる幻想(概念)は、本人の主体です。
本人の主体は再現しないので、「生まれ変わる」というのは事実に当てはまりません。
『生まれ変わらない』
生まれ変わらない、と想われる幻想(概念)は、肉体です。
肉体は再現しませんが、本人の意識のパターンは「生まれ変わる」ので、「生まれ変らない」というのは事実に当てはまりません。
『生まれ変わると生まれ変わらないの両方』
生まれ変わるものと生まれ変わらないもの、と想われる幻想(概念)は、自己意識と肉体のことです。
自己意識がそのまま生まれ変わるのではなく、メンタル体にあるパターン(魂)が生まれ変わるだけなので、『生まれ変わると生まれ変わらないの両方』というのは事実に当てはまりません。
『生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもない』
生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもないと想われる幻想(概念)は、自己意識と魂のことです。
魂はこの世(31領域)にいる間は、生まれ変わらないわけではないのですが、31領域から離脱して涅槃に達する場合は、『生まれ変わるのでも、生まれ変わらないのどちらでもない』というのは事実に当てはまりません。
以上のように、釈尊は物質から始まって涅槃に至るまでの道を説いています。
物質と意識は誰でも分かりますが、パターン回路kamma bīja(魂)とエネルギーが0になる涅槃(霊)の体感がないので、
「これまでの考え方と違うので、理解できず、混乱するのも不思議ではなく、体と心と魂と霊の関係性は、意識レベルの論理の範囲を超えているので、海のように深く、計り知れません。しかし、天界、色界、無色界という微細なエネルギーに対して関心がある人には理解できるものです。」
と説いている理由です。
龍樹の真意
では龍樹のテトラレンマは何を意味していたのでしょうか?
『中論』にある
「ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない。」
というのは龍樹が見つけたアフォリズム(箴言)なのでしょうか?
それとも
「苦しみは、自らによってつくられたものである(自作)、他によってつくられたものである(他作)、両者によってつくられたものである(共作)、無因である(無因作)と、ある人々はそれぞれ主張する。」
の四句のそれぞれは、「ある問題に関する様々な人々の意見」なのでしょうか?
四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論義領域においてのみ成り立つとされます。
ですから、
「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る。」
とは、ある論議領域において成り立っている一つの命題を、より高次(微細)な論議領域から見ることで前者を否定してゆくプロセスである、と考えられます。
いずれの命題も一定の条件の下でのみ肯定されたり否定されたりするのであって、無条件にどの領域でも通用する絶対的に真ではありません。
このように、四句のいずれをも絶対的なものとしては否定するのがテトラレンマであり、中観の真理になります。
龍樹と釈尊の違いと共通点
龍樹が『中論』「第18章アートマンの考察・八」で使っている
第一律 一切はそのように〔真実〕である
第二律 また一切はそのように〔真実〕ではない
第三律 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
第四律 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、またそのように〔真実〕ではないのではない
はアートマンについての考察である。
このアートマンは釈尊の涅槃とは異なるという解釈もある。
実際に私もそう想っていて、龍樹のアートマンはエネルギーが0ではなく、エネルギーはあるが、不変のprakriti、つまりnāma gottaのことを指し、
釈尊の涅槃はエネルギーが0でこの世から離脱した世界のことを指している、と考えている。
だが、今回のエッセイの目的はテトラレンマの解釈が、物質から意識までの領域に限定されてしまって、より微細エネルギーについての解釈を閉ざしている壁に窓をつけることなので、このエッセイでは龍樹と釈尊の指し示しているものを相違にスポットライトを当てるのではなく、指している方向が同じであることにスポットライトを当てる。
テトラレンマの解釈
では解釈に入る。
アートマンの真実とは何か?
第一律 一切はそのように〔真実〕である
正直、わからない。具体的な情報がないので、何を指しているのかわからない。
そこで、最後の第4律を否定したものがアートマンであることから推論して、考えてみた。
人間に説いているので、具体的に認識できるものを仮定してみる。
たとえば「肉眼に見えるもの」を基準にしてみる。
次にこの否定は「肉眼に見えないもの」になる。
第二律 また一切はそのように〔真実〕ではない
「肉眼に見えないもの」とは何か?
運動エネルギー、電気/電磁エネルギー、意識などいろいろな可能性があると思う。
ここでは物質エネルギーと仮定してみる。
次にこの否定には、いろいろな解釈があり、「肉眼に見えるもの」という元に戻る解釈もあるが、そうすると次の第3律の「肉眼に見えるもの」と「肉眼に見えないもの」の両方に当てはまらないので、
物質エネルギーではないもの、として考え、意識エネルギーという解釈もありえる。
第三律 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
「肉眼に見えるもの」と「肉眼に見えないもの」の両方とは、これまでの仮定を当てはめると、物質と物質エネルギーになる。
次にこの否定は物質と物質エネルギーではないものなので、先程の仮定の意識エネルギーという解釈がある。
第四律 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、またそのように〔真実〕ではないのではない
肉眼に見えるものでもないし、肉眼に見えないものでもない、とは物質エネルギーや意識エネルギーと物質になる。
次にこの否定は、カタチがないのであるが、形をもつこともある、ということで「空」のことを指す。
|
否定する幻想1 |
提示するもの1 |
|
否定する幻想2 |
提示するもの2 |
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p |
目に見えるもの |
物質エネルギー |
|
表層意識 |
中層/深層意識 |
|
非p |
目に見えないもの 物質エネルギー |
意識エネルギー |
|
中層/深層意識 |
prakriti 空 |
|
pかつ非p |
物質ー 物質エネルギー |
意識エネルギー buddhi |
|
表層意識 中層/深層意識 |
prakriti 空 |
|
非pかつ非非p |
物質エネルギー 意識エネルギー 物質 |
prakriti 「空」 |
|
中層・深層意識 「空」 |
アートマンātman |
|
もしかすれば、龍樹のアートマンātmanはエネルギーが0で、prakritiを観照するだけではなく、prakritiと混同した「空」なのかもしれない。
これについてはまたのエッセイで書くことにする。
puruṣaがprakritiを観ることで、3つのgunaの平衡が崩れて、「空」なる根本物質が「有」として展開する
もう1つの仮説
第一律 一切はそのように〔真実〕である
デカルトの「我思う」の自己という表層意識、
自己意識が真実である、ということを否定できるのは中層、深層意識になる。
第二律 また一切はそのように〔真実〕ではない
自己意識が真実ではない、という視点は、中層、深層意識の領域である。
中層、深層意識を否定できるのは、空である。
第三律 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
表層意識、と中層・深層意識の両方のことである。
これを否定できるのは空の領域である。
第四律 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、またそのように〔真実〕ではないのではない
表層意識ではなく、中層・深層意識ではないもの、とは中層・深層意識と空のことである。
これを否定できるのは、アートマンの領域である。
Definition
X (affirmation)
¬X (negation)
X∧¬X (both)
¬(X∨¬X)⟺X∧¬X⟺∅ (neither)
テトラレンマは梵語ではCatuskotiと呼ばれ、「4重の否定」という意味を持ち、インドにおける伝統ある認識論である。
数学には、方程式や図形の性質を研究するような「構造」に注目するものや、時間に伴う「変化」を研究する解析学がある。たとえばコロナ感染の推移は数理モデルを通して解析学の応用である。
たとえば、中学校の理科で学ぶ物体の落下の公式は、真空の状態で物体を落下させた場合の公式であり、高い所から鉄球を落とす場合には、計算式による結果に近似している。
しかし、ネコが地上250mぐらいから落下した場合には、落下の公式は全く適用できない。
実際、1994年にビルの50階(地上約250m)から落ちたネコが助かったアメリカの報告や、1998年に竜巻に巻き込まれ6km先に無事着地したりした記録もある。
ネコは高い所から落ちた場合、空気抵抗を最大限に利用し、落下速度が一定以上大きくならないようにして、地面に落下するまでにできるだけ安全な態勢をとる習性があるからである。
だから、ネコに対しては空気抵抗をも加味した数理モデルを考えなくてはならない。
ナーガールジュナの12縁起解釈
論蔵(アビダンマ)では
行に依って識が生じる。
識に依って名色が生じる。
名色に依って六処が生じる。
六処に依って触が生じる。
触に依って受が生じる。
受に依って渇愛が生じる。
渇愛に依って取が生じる。
中論(ナーガルジュナ)では
名色に依って識が生じる(26章3cd)
そこから触が生じ、触から受が生じる(26章4cd)
まるで識は生じる前から存在しているかのようである。
まるで触はあらかじめ存在し、そこから流出してくるかのようである。
まるで受vedanāはあらかじめ触のなかにいて、そこから流出してくるかのようである。
対して論蔵(アビダルマ)の解釈は、触や受vedanāは初めどこにも存在しなかったように、それらが生じると記述している。
ナーガルジュナは論蔵はこのような誤謬した解釈をなぜしたのかを探求した。
釈尊は我に実体がないことを知らせるために、我は諸要素からなると説いた。
しかし論蔵アビダルマの読み手はこれを誤解して要素を実体視して解釈してしまっていたので、ナーガルジュナはこの過ちを正すために「中論」を記した。
また中論を記したもう一つの理由は注釈者の青目(ピンガラPiṅgala)によると、「ひとびとが空相を取って貪着を起こし、空において種々の過ちを生じた」からだとする。
空の思想によって、有を否定することで、無に執着するひとが現れていた時代であったので、般若経群の書き手と読み手たちの偏りも正す必要があった。
サーンキヤ哲学でいうと、般若経群の「空」はマナとアハンカーラとブッディの領域にとどまってしまっており、プラクリティの段階を実現していなかったので、無に執着する空の思想家が増えてきていた時代であった。
釈尊の時代ではプラクリティの領域からも離脱していたのだが、時代が経つと、プラクリティどころかブッディの領域にいたることを誇る仏教徒が長となる宗派があったのだと推測する。
ナーガールジュナのいう不生不滅
「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)
種から芽は生じない
不一不異
乳児の時と今の自分は同じではなく明らかに異なっているが、一人の人間としては同じで異なっていない
種と芽は、同じではなく明らかに異なっているが、一つの個体としては同じで異なっていない
不常不断
種と芽は、変化しており明らかに別物であるが、一つの個体としては変化しておらず別物ではない。
不来不去
種と芽で、芽は種の中に外から入ってくるものではなく、芽は種の中から外へ出ていくものでもない。
「種から芽が出るとは穴から蛇が出るようなものか?」
「穴から蛇が出た場合は穴は残る」しかし「種から芽が出ると種は消える」
穴から蛇がでるような穴と蛇の関係は種と芽にはない。
種から芽が出るというメカニズムは2つの関係にはない。
だから「種から芽が出る」という思考法は誤謬である。
ではどのような関係なのか?
不生不滅とは何か?
ものは自己から生じるものでない。他者から生じるものではない。両者から生じるものではない。どちらでもないものから(=原因なくして)生じるのではない。(第1章3)
四区分別テトラレンマを用いて相手の主張を斥けて、生じるものはないことにたどり着く。
「ものは生じる」と主張する相手に「それならば4つのケースがある」と言う。
1ものは自己から生じる 芽は芽から生じる
2ものは他者から生じる 芽は芽以外のものから生じる
3ものは両方から生じる 芽は芽と芽以外のものから生じる
4ものはどちらでもないものから生じる。 芽は芽でもないもの・芽以外でないものから生じる
人は2の芽以外を種にしてこの正しさを主張するが、ナーガールジュナによればこれは間違っているという。
そして説く。
ものの実体svabhābaは原因pratyayaのなかにはない。(4ab)
例えでいうと、芽の実体は種のなかにはない、ということ。
このsvabhāba実体とは自己存在self-being、すなわち自性のことをいう。
つまり「ものに内在すると考えられている不変の性質」のこと。
一般社会での法則はこのような実体があることを前提にして成り立っているので、
「原因に実体がある」として、物事を考え、発言をし、法則をつくり、暮らしている。
しかし、ありのままのすがたは、原因は条件と法則と結果の4つが関わることでやっと形を表わすのであって、条件も法則も常に変化し、また法則は多くあるので、原因を特定することはできない。
もし仮に、その中の1つの原因があったとしても、原因そのものに不変の特質などはない、
とナーガルジュナは説く。
こうして、
種の中を探してみても芽はないので、「もの(芽)は他者(種)から生じない」のである。
自らの実体がないのだから、(4c)、他者の実体も[原因のなかには]ない(4b)
例えでいうと、芽には不変の性質がないのだから、種のなかに種の不変の性質はない、
ということである。
種はそれ自体では種とはいえない。
芽を予想して初めて種といえるのである。
芽を生じないうちに、生じることを予想して種というのである。
「氷が溶けると水になる」で思考してみる
背理法でウイルスは生命体であることを証明してみる
中論への反論とその解説
一般社会では、「父と母は原因で子は結果である」という因果関係を信じている。
あるものどもに依って [ものが]生じるとき、それらのものを原因と呼ぶ。
[ものが]生じないとき、それらを原因と呼ぶことができるか?(第1章7)
例えば、父母によって子供が生じるとき、父と母を原因と呼ぶ。
子供が生じないとき、父母を原因と呼ぶことができるか?
子が親という名を与えるだから、子供が生じなければ父母はいない、のである。
では、親子という相依概念を使わないで、「太郎と花子に依って子が生じる」ならば問題はないではないか?
ところが「ある」、とナーガルジュナは言う。
子が生じないかぎりは、子が太郎と花子に依ることがないので、依られることのない太郎と花子は原因になりえない、と説明する。
存在しないものの原因は考えられない8a
存在するものの原因は考えられない8b
存在しないどんなものに原因があるだろう8c
存在するもに原因など何の用であろう8d
8a8cは原因はなにものかの原因なので、ないものがなければ原因はない、という意味である。
8b8dはすでに存在するものに、今更どんな原因が必要であろう、という意味である。
アビダルマの6因説のように法則は数多くあるので、原因を特定するのは難しいし、それができる者はいない。
六因説
六因説は経典に明確な文言を用いて説示されている説ではない。有部アビダルマにおいて構築された説である。『倶舎論』において世親が特に言及しない。
なお六因説の初出については『発智論』[大正蔵26巻920c]であると指摘されている。
能作因(のうさいん, 梵: kāraṇahetu, 蔵: byed-rgyu)
ある存在(法ダンマdhamma)が生起するとき、少なくともその妨げをしないという点で、他のすべての存在がその存在に対して原因としてのはたらきをもつこと。
芽に対する種のような結びつきの強い原因はもちろん能作因であるが、月が存在することに対してスッポンの存在は何も影響力もないことから月にとってスッポンは能作因である。
倶有因(くういん, 梵: sahabhū-hetu, 蔵: lhan-cig 'byung-ba'i rgyu)
因・果が同時に生じ、相互に因となり果となるという同様な関係を持つときの因のこと。
たとえば二枚のトランプをお互いよりかからせて立たせた時に、お互いがお互いの倶有因であり士用果である。
「大」とは四大種(四元素:地、水、火、風)のこと(分別界品第一)。
「相」とは有為法の四相(生、住、異、滅:分別根品第二之三)のこと。
「所相」とは相をもつ本法のこと。心隨轉とは、心所のこと。
同類因(どうるいいん, 梵: sabhāga-hetu, 蔵: skal-mnyam-gyi rgyu)
現在の瞬間と同類の現象が後に果として生じる時の原因のこと。
因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。
例えば、忍耐をしているある瞬間は、忍耐をしている次の瞬間の同類因となる。
相応因(そうおういん, 梵: saṃprayukta-hetu, 蔵: mtshungs-ldan-gyi rgyu)
倶有因の一種で、心と心作用との間の関係についてのみ用いる。
「心(しん)」はものに対するこころ自体のこと。五位(色、心、心所、心不相応行、無為)のひとつ
「心所(しんじょ)」は心の作用のこと。倶舎論では46種類に分類される
遍行因(へんぎょういん, 梵: sarvatraga-hetu, 蔵: kun 'gro'i rgyu)
同類因の特別な場合で、11種の遍行およびそれと相伴う諸法 のこと。
好ましくない感情や態度が、後の瞬間の好ましくない感情や態度を作り出す時の原因にあたるもの。
11種とは見苦所断の五見(有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取)、疑、無明、および見集所断の邪見、見取、疑、無明。
異熟因(いじゅくいん, 梵: vipāka-hetu, 蔵: rnam-smin-gyi rgyu)
諸々の善・悪といった、(煩悩に関連する)業のこと。
相互に時を隔てた異時点間の因果関係から、楽・苦などの果をもたらす。
この果(異熟果)は、善でも悪でもない(「無記」である)ことから、異熟と呼ばれる。
こうして原因の概念は成立しないことが証明される。
「これあるとき、かれあり」も否定される
龍樹の言う「原因の概念は成立しない」という意味は、実体の概念(「わたし」や「霊魂」などが言葉で考えることによって変化しないで独立しているものであるという考え)を認めると原因の概念は成立しない、といっているのであって、原因の概念そのものを退けているのではない。
「不生の」という限定をつけたうえで、「縁起」を認めている。
不落因果、不昧因果 因果に落ちず、因果に昧(くら)くない
バラモン教のヴァイシェーシカ学派は「因中無果論」のように、原因の中に結果は潜在しないという主張を唱えた。
それに対して
そんなことをいうなら、原因でないものからも結果は現れるだろう14cd
とした。
結論として
だから、原因からなる結果もなければ、原因からならない結果もない。結果がないなら、原因とか無原因とかもない16
「顛倒滅すれば無明また滅する」第23章22
空に対する無知(顛倒)が減少すると、空であることに対する無知(無明)が減少すると、説いている。