ブッダの肉声に生き方を問う 中野東禅
セーナー村のスジャータ
隣村のガヤーのピッパラの樹の下で瞑想し、七日後に明けの明星を見たとき、完全なる静寂を確認、つまり悟りを開いた。そして「私はブッダになった」と宣言した。出家から6年後、35歳の12月8日のこと。
すべての人の根源にあるのが寂静であり、それは生命と心の完全なる静寂であり、その原点に戻ることを涅槃という。
「遺教経」(ゆいきょうぎょう)は正式には「仏垂般涅槃略説教誡教」(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)といいますが、「仏遺教経」とか、単に「遺経」とも通称されています。
「仏遺教経」は、その名の示すとおり、釈尊が八十年のご生涯を終えられるにあたって、さいごに示された、いわば遺言とも言うべき教典なのです。
釈尊のご入滅が近いことを伝え聞いたお弟子達は、急遽クシナガラの釈尊のもとへ向いました。
釈尊はすでに沙羅双樹の下に北枕に右わきを下にして、西に向かって静かに横になられておりました。
入滅を目前に、集まった多くの弟子達に、「これがわたしのさいごの説法だぞ」と諄々と法をお説きはじめられたのです。
この時、紀元前四百八十六年二月十五日、満月の夜のことでした。
およそ今から二千五百年前、日本の歴史に当てはめてみるとなんと縄文時代です。
そんな大昔にインドに出世された一人の沙門の説かれた教えがはるか時代を越え広くアジアから日本のみならず世界宗教となって今なお多くの人々の心の支えになっているのです。
それは釈尊が宇宙の真理をさとり、その道理に適った生き方こそ幸福への道だったからです。
その仏法は、あらゆる存在は一切皆空であるが故に無常で無我であるという厳然たる事実から出発しています。
そして、人が避けて通れない四苦八苦の現実も八正道の実践によって必ずや安楽への道に通じていると説かれているのです。
釈尊は49年間におよぶ伝導布教の中で五千四十余巻の経と八万四千の法門を説かれましたが、その悲願は惟ひとつ人類の幸福に他ならないのです。
そしてその最後の結論がこの「遺教経」に集約されていると言えるのです。
まさに釈尊が人類のために遺されたさいごの教誡です。
この教典は漢文で二千五百字ほどで「般若心経」の約十倍ほどですが、今日日本では書き下し文に訳された教典が一般的で案外理解し易い内容となっています。
その経文の中心的教誡が「八大人覚」(はちだいにんがく)、つまり大人が覚知すべき八種の法門の教えです。
古来禅門では鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳である「遺教経」を大変重んじてきました。
道元禅師や瑩山禅師も「遺教経」を大変大切にされていました。
とりわけ道元禅師は、大著「正法眼蔵」の最後に「八大人覚」の巻を著されましたが、このなかでも中心的に説かれているのが「遺教経」からの「八大人覚」の教誡なのです。
病床にあった道元禅師が、示寂を目前に「八大人覚」を執筆されたのは、禅師にとって「八大人覚」は釈尊とまったく同じ境涯からの「遺訓」であったからでしょうか。 「もろもろの仏は、とりもなおさず大人である。大人のさとり知るところであるから、これを八大人覚と称するのである。このことをよくさとり知るのが、涅槃のもととなるのである」(正法眼蔵・八大人覚)
「これを学ばず、これを知らなかったならば、それは仏弟子ではない。これこそ如来の正法眼蔵であり、涅槃妙心である」・・・「われらは、いまや、生々これを習学して成長せしめ、かならず最高のさとりに到達し、さらに、これを衆生のために説くこと、釈迦牟尼仏にひとしくしなければならないであろう」 (正法眼蔵・八大人覚)
道元禅師の遺弟永平寺二世懐弉禅師は、この「八大人覚」の巻の奥書に次のように記されています。
「もし、かの先師(道元禅師)をお慕い申すならば、せめて、必ずこの巻を書写して、これを護持されるがよろしい。
けだし、この巻は、釈尊の最後の御教えであるとともに、また、先師の最後の遺教でもあるからである」
前置きが長くなりましたが、これより拙僧のつたない解説を始めさせていただきます。
尚、文訳は故山田無文禅師(妙心寺派管長)、松原泰道老師(龍源寺住職)、上田祖峯先生(駒沢女子大学)、安藤嘉則先生(駒沢女子大学)の書籍を参考にさせていただきました。
仏遺教経 (1)
釈迦牟尼仏、初めに法輪を転じて、阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅を度したもう。
応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。
是の時中夜寂然として声無し、諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。
「初めに法輪を転じて」とは、「はじめての説法において」という意味です。
「阿若憍陳如」(あにゃきょうちんじゃ)と「須跋陀羅」(しゅばつだら)は、人の名前です。
「度す」とは「済度」のことで、「迷いから救済する」という意味です。
お釈迦さまは初めての説法においてアニャキョウチンジャを済度し、最後の説法でシュバツダラを済度しました。
「応(まさ)に度すべき所の者は、皆已(すで)に度し訖(おわ)って」
済度しなければならない者達はすべて済度し終えて、「沙羅双樹の間に於いて、将(まさ)に涅槃に入りたまわんとす。」
沙羅双樹の下でこれからまさに入滅されようとしていました。
「是の時中夜(ちゅうや)寂然(じゃくねん)として声無し」
もうすでに夜も更けて、あたりは物音一つしないように静まりかえっており、釈尊のおかくれになるショックで誰一人言葉を発する者はいませんでした。
「諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。」
その弟子達のために、釈尊はあらためて仏法の大意を説きはじめられたのです。
最初の一文では、お釈迦さまがはじめて済度されたお弟子がアニャキョウチンジャであり、入滅される直前に最後に済度されたお弟子がシュバツダラであったという、その二人のお弟子の名前を直接あげて、四十九年もの長い間にいかに多くの人々を済度されたかを伝えています。
釈尊は迦毘羅(カピラ)国で御生誕され、16歳で結婚、29歳で出家、6年間の厳しい修行の結果35歳で摩掲陀(マカダ)国にて成道されました。 そして婆羅奈(ハラナ)国の鹿野苑(ろくやおん)でその深遠なる仏法を最初に説き示されたのです。
実はそのとき阿若憍陳如(アニャキョウチンジャ)を含め、そこには五人の比丘(修行者)がいたのです。
彼等はかつてお釈迦さまと共に苦行をされていたのですが、お釈迦さまが、「苦行は合理的修行ではない」と苦行に見切りをつけ、修行の方法を中道(ちゅうどう)に変えられたのです。
その時彼等は、「釈尊は脱落した」と誤解して、釈尊のもとを去って行った修行仲間だったのです。
一人残された釈尊は菩提樹の下でひたすら坐禅の修行をされたのです。
そしてついに6年目の12月8日、暁の明星を見て、活然と大悟され、叫ばれたのです。
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」と。
これを訳すのはヤボの骨頂ですが、愚僧があえて訳せば、「なんと、なんと不思議なことよ、一切の衆生それ自体がまさに仏陀と同じ存在であったとは!」
こうして真如に目覚めた人「仏陀」・釈迦牟尼如来が誕生されたのです。
ところが、釈尊は、この深遠な悟りは他人に話しても、とても理解されないだろうと思われ、「この真如の法は自らの心の中にしまっておいて、他の者には語るまい」とされたのです。
それを知った梵天が、折角の仏法もこのまま釈尊の心の中だけに止まってしまっては、やがて釈尊の死とともに消え去ってしまうだろう。そうなったら何の意味もないことだとして、どうか人々のために広くその法を説き示すよう嘆願されたというのです。
これを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)といいますが、釈尊への畏敬の思いから神話化されたものといえるでしょう。
それならばと、釈尊はさらに八日間菩提樹の下で禅定に入られ伝導のための悟りの内容と説法の手法をまとめられたのです。
そしてまずはあの苦行を共にした五人の比丘たちに会ってこの仏法を伝えようと考え、彼等のいるベナレスの鹿野苑へ向いました。
五人の比丘たちは、苦行から脱落した釈尊がこちらにやってくるのを見て、最初は無視するつもりでいました。ところが、仏陀となられて近づいてくる神々しい姿と威厳に圧倒され、合掌して迎えてしまったのです。
こうして最初の説法がなされたのです。これを「初転法輪」といいます。
その五人の比丘のうち最初に済度されたのがアニャキョウチンジャだったのです。
こうして最初の仏教教団はたった六人の僧伽(そうぎゃ)から出発したのです。
それから四十九年間、釈尊はインドの各地を巡錫されたのです。
そして八十歳になったとき釈尊はさいごの伝導の旅に出ました。
その目指すところは生まれ育ったなつかしい故郷カピラ国でした。
しかしその途中、クシナガラという町に滞在中、チュンダという鍛冶屋の布施した食事を食べたところ、腹痛を起こされ床に臥されてしまったのです。
そのとき、シュバツダラという年老いた信者が、釈尊の噂を聞きつけて訪ねてきました。
侍者のアーナンダは、「世尊はお疲れである」と面会を断ったのですが、その様子を知った釈尊は、「会って質問を聞いてあげよう」といわれ、アーナンダを押しとどめ、親しくシュバツダラに説法されたのです。
その釈尊の説法を聴いてシュバツダラは直ちに弟子になったのです。
すなわち釈尊が最後に済度した比丘になったという次第です。
こうして、「度すべき所の者は、皆已(すで)に度し訖(おわ)った」のです。
そして、今まさに入滅なされようとしているとき、さいごの説法が始まったのです。
少欲・知足
ブッダはなにも「欲望を捨てなさい」と言っているわけではなく、「多くを求めすぎなければ、心にも余裕が生まれますよ」と言っているのです。
念とは「あこがれ」であり、心に方向を持つことです。
智慧と煩悩
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智慧 |
全体眼的 |
長期 |
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真実と迷いの違い |
安らぎ |
いま・ここ |
静寂へ |
煩悩 |
近視眼的 |
短期 |
愚か |
違いがわからない |
恐怖 |
保身 |
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頭陀(梵dhYtaaの音訳。衣食住に対する欲望をはらいのける修行の意)仏語。
1 生活規律として仏道修行のために定められたもので、一二を数え、十二頭陀行という。
人里はなれた静かな場所に住むとか、常に乞食を行うとか、三衣以外はもたないといったもの。
また、その修行をしている僧。
シンガーラ教誡経
(巴: Siṅgāla-sutta, シンガーラ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵長部の第31経。
『教授尸伽羅越経』(きょうじゅしからえつきょう、巴: Sigalovada-sutta, シガローヴァダ・スッタ)、『善生経』(ぜんしょうきょう)とも。
類似の伝統漢訳経典としては、『長阿含経』(大正蔵1)の第16経「善生経」、『尸迦羅越六方礼経』(大正蔵16)、『善生子経』(大正蔵17)、『中阿含経』(大正蔵26)の第135経「善生経」がある。
経名の「シンガーラ」(Siṅgāla)、「シガローヴァダ」(Sigalovada)、「善生」(ぜんしょう)等は、いずれも経中に登場する同一人物で長者の息子。
釈迦は父親の教え通り、東西南北上下の六方角に毎朝礼拝していたシンガーラに、
四戒(五戒)、四毒(三毒)、六門、四敵・四友、仏弟子としての六方角礼拝、様々な関係性における五法などを説いた。シンガーラは法悦し、三宝への帰依を誓った。
六方礼
父母と子は東方である。
師は南方である
妻は西方である。
友は北方である。
部下は下方である。
宗教者は上方である。
これらの方向を礼拝しなさい。
そうすれば立派な良家の主である。
五下分結・三結 修行者を欲界(下分)へと縛り付ける煩悩を、五下分結(ごげぶんけつ)と呼ぶ。
貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 悪意・憎しみ
有身見(うしんけん) - 我執
戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着
疑(ぎ) - 疑い
この5つを絶つことで、不還果へと到達できる[1][2]。
この5つの内、3-5の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において、早々に絶たれることになる。
五上分結 修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
色貪(しきとん) - 色界に対する欲望・執着
無色貪(むしきとん) - 無色界に対する欲望・執着
掉挙(じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
慢(まん) - 慢心
無明(むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる[1][2]。
煩悩 悪の心 10の項目
貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 悪意・憎しみ
痴 道理がわからないこと - 根本の無知である無明(むみょう)
慢(まん) - 慢心 比べる意識、
疑(ぎ) - 疑い 真実が信じられないこと
有身見(うしんけん) - 自分の感覚や経験を正しいと思いこむこと
辺執見 死後や霊魂の有無など証明できないものにこだわること。
邪見 縁起の道理(存在は多くの条件によって支えられているという法則)を否定すること
見取見 自分の記憶や認識を絶対だと思いこむこと
戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着
三毒が生む10項目の煩悩
慳 けち
憍 おごり 分かっていないのに、わかったと思いこむこと。
誑 おう 嘘、悪口、だまし
諂 てん 罪のごまかし へつらい
忿 ふん 内心の怒り
恨 こん 恨み
嫉 しつ ねたみ
害 がい 同情心がない
覆 ふく 自己弁護
煩悩を断ち切るには、物事を正しく見て、そこから行動を起こすことが大事なこと
六門 財産を失う蛇口 、
酒におぼれる
時刻はずれに街を徘徊する
祭礼、歌舞に浮かれ歩く
賭博にふける
悪友と交わる
怠惰な者
四敵・四友
持ってゆくばかり
言葉巧みな者
へつらう者
浪費する者
助ける者
苦楽を共にする者
為になることを言う者
慈しみのある者
インド社会の変化 村と都市
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村社会 |
交換 |
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同族 |
狭い共同体 |
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親戚関係 |
輪廻 |
都市社会 |
貨幣経済 |
裁判制度 |
異族 |
契約社会 |
情報の流通 |
友人関係 |
出家 輪廻からの離脱 |
荒魂 新しい魂、落ち着かない魂、悪の心と共鳴し、「たたり」として支配する
和魂 荒魂が浄化されたもの、 善の心と共鳴し、「いやし」として支配する
自己が自分の主である ダンマパダ 160
Attā hi attano nātho,
自己は 実に 自己の 守護者
ko hi nātho paro siyā;
誰が 実に 守護者 他人 あるだろう(か)
Attanā hi sudantena,
自己によって なぜなら よく調御された
nāthaṃ labhati dullabhaṃ.
守護者を 得る 得難い
自己こそ自己の寄る辺なり
他の何者が寄る辺になろう
自己を調御するならば
得がたい寄る辺を獲得す
愛欲から慈愛へ
自己中心の愛欲であれば悪であり、相手を思いやれる慈愛であれば善の愛情と言える。
それは、相手への感謝があるかどうか、お互いに良かったと言える喜びを育てているかどうかの違いです。
ポヤデー 満月祭
毎月満月の日は休日で、寺院に参詣する風習。不浄な経済活動、肉食、飲酒などを控えて清らかな心で過ごします。
愛情から苦しみが生じる
交わりをしたらば愛情が生じる。愛情に従ってこの苦しみが起こる。愛情から禍の生じることを観察して、犀の角ようにただ独り歩め。 スッタニパータ36
信仰は種であり、修行は雨である
この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。
この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
スッタニパータ80 第1 蛇の章 4.耕作者バーラドヴァージャ経
Evamesā kasī kaṭṭhā,
このように これが 耕作 耕作された
Sā hoti amatapphalā;
これは なる 不死の実に
Etaṃ kasiṃ kasitvāna,
この 耕作を 耕作して
Sabbadukkhā pamuccatī’’ti.
すべての苦から 解き放たれると
不浄な身体
「人間が不浄な身体を持ちながら自分を偉いものだと思い、他人を軽蔑するのは、ありのままの姿を見ていないからだ」と釈尊は説く。
スッタニパータ 197 第1 蛇の章 11.勝利の経 5.6.
またその九つの孔からは、常に不浄物が流れ出る。
目からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁が出る。
口からは或るときは(食べたものを)吐く。
また或るときは胆汁を、或るときは痰を吐く。
全身からは汗と垢とを排泄する。
○日本テーラワーダ仏教協会訳
○パーリ語原文
197.
Ath’assa navahi sotehi
さてこの 九つの 流れから
asucī savati sabbadā :
不浄な 流れる 常に
akkhimhā akkhigūthako
眼から 目やに
kaṇṇamhā kaṇṇagūthako.
耳から 耳くそ
198.
siṅghāṇikā ca nāsato,
鼻汁 また 鼻から
mukhena vamat’ ekadā
口から 吐く ある時は
pittaṃ semhañ ca vamati,
胆汁を 痰を また 吐く
kāyamhā sedajallikā.
身体から 汗 垢