ちゃんとしたロボットになれたら、次は人になろう

これまでに学習してきた無意識の「自動反応回路」を楽しむ方法

 

 

 

目次

自動反応回路とは

回路が作られるメカニズムとは

ココロは常に幻想をつくる

原始脳と思考脳

回路を解除する方法

 

参考資料 上座部仏教のケース

 

 

 

はじめに

ヒトは動物として生まれ、

学習した自動反応回路に操作されることでちゃんとしたロボットになり、

次に、それを気づくことで「人」になる。

「人」になることが、私たちがこの世にいる理由の一つである。

 

 

ちょっと長いエッセイなので、

時間がない時には       「回路を解除する方法」

理性を信じている時には    「ココロは常に幻想をつくる」

脳機能学に関心がある時には  「原始脳と思考脳」

瞑想に関心のある時には    「上座部仏教のケース」

がおススメです。

 

自動反応回路(アプリ)とは

自動反応回路(アプリ)とは、インプットされる信号があると、ある決まった行動がアウトプットされるプログラミングのことです。

たとえば

日本人であれば、梅干を見れば唾液が出てきたり、

蛇に噛まれたことがある人であれば、くねくねした形をしたものを見ただけで一瞬ビクッとしたり、

訓練された犬であれば、ベルを鳴らしたらドッグフードを見なくても唾液を出したり、

ヒトの膝の下を叩けばその足が前に上がったり、

植物であれば、芽は光に向かっていき、根は重力に向かっていったりする。

生物はある条件のもとで刺激に対して決まった反応をします。

ある信号を感知すると、無意識のうちに勝手に決まった反応(反射、走性、屈性、行動、感情、信号出力など)が起きることがあります。

 

このように、生物はいろいろな反射運動をしますが、このエッセイで取り上げる反射(自動反応回路による反応)とは、「五官器官と神経管(脳)と自律神経と運動神経の連携による反射」にスポットライトを当てます。

いわゆる「心の自動反応回路(アプリケーション)」です。

 

たとえば、膝蓋腱反射や胃結腸反射のような回路は、取り除くことはすぐにはできませんが、条件反射や感情などは弱めたり、他のものに置き換えたりすることができるので、このエッセイではこれらを自動反応回路として扱います。

 

トラウマやPTOや条件反射も心の自動反応回路です。

どれも過去に経験した入力(刺激、情報、信号)から回路を作成することで、同じ新たな入力をを感知すると自動的に出力があり、それが感情や行動や思考という反応になります。

 

 

この回路が作られる理由とメカニズム

神経管(これが発達すると脳になる)や心臓(循環器系器官)の無い生命体もこのような反射があります。

たとえば植物は神経管(脳)も視覚も心臓もないが、光や磁器や重力に反応します。

これらを生物学では走性や屈性と呼んでいます。

 

なぜこんなものが必要なのかというと、それは生命体には生きようとする欲求(本能)があるからです。

このような回路がないと、生命体は死に近づいていく可能性が高まるからです。

回路の自動生成にはメリットとデメリットがあります。

メリットは、統計学的確率論の立場でみてみると、生きる可能性が高まることです。

たとえば植物は光と水分によって空気中から炭素を吸収してそれを細胞の一部にする機能を持っているので、光と水分に接触しようとするメカニズムや本能は有益です。

また、脊椎動物では、自分に害になるものを瞬間的に避け、自分に益になるものに瞬間的に近づくことは大きなメリットです。

たとえばトラに襲われたり、ニワトリを捕まえたりする時にはこの自動反応回路が役に立ちます。

大脳で可能性を思考、選択、判断をして行動する、という時間のかかるプロセスを経なくても、自動反応回路が素早く対応してくれるので便利です。

また大脳を使うには大量の血液(エネルギー)を必要とするが、自動で反応するのであれば、可能性の提示、選択、悩みなどにエネルギーを使わなくてすみ効率的でもあります。

 

デメリットは全体の統計として回路は効率的かもしれませんが、これを頭の中の想像ではなく、実際に自分の置かれた状況で見た場合には、具体的な「わたし」にとっては、この回路が発動することによって、生活を邪魔しているケースが多々あります。

理由は簡単で、各自はそれぞれ違った気候、気圧、地形、温度、湿度、文化、両親、地域、言語、文明、時代の中で適応しているので、普遍性を基準にしている回路が勝手に発動してしまうことで、生存しづらくなるケースが起きるのです。

 

初期の基本的な限られた行動範囲の中では、自動反応回路には問題点が少なくても、枠組の外側にある環境では、自動反応回路は多様性に対応できずに、決まった結果を押し付けてしまうことがあるのです。

統計的には正しくても、個人的には不適格なことがあるということです。

各自の個人史、各自の条件反射、各自の快・不快は個々にちがいますから。

 

このように生命体はいろいろな自動反応回路をつくりあげることを一所懸命にしてきました。

これを生物の進化と呼ぶ人もいます。

しかし、あまりに多くの自動反応回路をつくりあげてしまい、今度は逆にこれに縛られたり、操られたりすることも出てきてしまいました。

 

昆虫にも同じような回路はあるのですが、特に脊椎動物では神経管が発達して脳になり、この条件反射などの回路を自覚なしに勝手に常に次々と作り続けてしまう機能が付随するようになってしまいました。

 

生命体は常に回路を生成するように遺伝子のレベルでプログラミングされています。

エネルギーの摂取が困難な厳しい状況から生存率を高めるためには、自動反応回路の数を増やし、効率化し、高機能にする、という戦略を選んだのでしょう。

しかし中にはホヤのように神経管(脳)を捨てることを選択した生物や、神経管を持たないことを選択?したゾウリムシのような微生物の生き方もあります。

 

生命体にはそれぞれの問題点がありますが、私たちの一番の関心はヒトというホモサピエンスです。

あまりにも神経管を多用して活性化させてしまった結果、脳器官が発達し、必要のない自動反応回路までも常に生成してしまうようになってしまいました。

そしてついにこれが自分や家族や周囲の命の危険までも脅かすようになってくれば、この自動反応回路を制御する技も必要になってきます。

でも、本当に他者だけでなく自分の命さえも傷つける段階まできてしまったのでしょうか?

 

 

心は常に幻想をつくる

視覚の錯覚  理性の錯覚  心の把握の仕方  自我の錯覚  精神病

五官器官と脳の錯覚

実験1  AのマスとBのマス、どちらが濃く見えますか?

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答えはご想像の通りです。見た目はAですが実際は・・・。

プリントアウトしてハサミでABだけを切り出して、比べてみればわかると思います。

 

ではなぜ、ヒトは頭の中でとらえた感覚(見た目)と実際の目の前の事実とは違ってしまうのでしょうか?

それは大脳皮質が常に事実を補正して、大脳皮質にとって理解しやすいように変換しているからです。

(脳のサイドから)良く言うと分かりやすく、(事実のサイドから)悪く言えば事実を捻じ曲げています。

これも「認識」とは、感覚器官からの信号や記憶からのデータを、過去の体験によってパターン化された回路を通すことで、無意識のうちに修正されたデータはベースにするからです。

頭の中にあるチェスの市松模様と光と影のパターン回路を、目の前にある「ありのまま」の事実よりも優先させてしまうのです。

 

ここで脳がしているのは、なんにでも一つ一つに名前(レッテル)を貼り付けることで全体を「部分」にして、それらを脳の中に作っておいたジャンル別の籠に分類しています。

こうすることで、イメージを再利用することができるようになり、目の前のありのままの姿をやり過ごし、なんでも条件反射という回路を通すことで、瞬間的自動修正を無意識に施した後のデータを、脳は把握することになります。

ですから本当のことを言うと、脳とは働くことをできるだけ減らそうとする、さぼり好きで偏見好きで自分よがりな内臓器官だとも言えます。

 

 

理性(マインド)が作り続ける幻想

「心は幻想を作り続ける」というのがこの章のテーマです。

先程は、私たちが認識した時点であらゆる感覚からの信号は、すでに知らぬうちに編集されている一例を見てみました。

心には5感覚器官からの感覚や感情や深層意識もありますが、思考する時の理性も表層意識の一つです。

次は認識したデータを基にして、ヒトの脳が作り上げた理念について考えてみます。

 

理念とは理性を信念にする概念という解釈もできます。

そこで、まずは理性について考察してみたいと思います。

理性の可能性と限界を知ることで、理性が作り上げた回路に操作されない技を学ぶためです。

 

マインド(表層意識・顕在意識)とは思考・判断・知覚・感情・意思などの働きをします。

意識の特徴は一つのものを分断して二つにして、この分化を続けることによって成り立つ世界を作り上げることです。

このマインド(意識)の能力の一つが理性で、物事を分割して、それを根拠に判断する能力なので、感情に囚われずに、道理(割合の数値)に基づいて考えたり判断したりする能力のことです。

その力をラショナリティ(理性)と古代ローマでは呼びました。

「割合」を意味するRatioという単語を語源とする、古代ギリシャのロゴスのことです。

ここで理性とロゴスと科学と意識と二分法と機械と数学と大脳皮質と理念は「マインド」という表層意識で一つの線でつながっています。

 

次に理性がどのような回路を作り、どのような幻想を産み続けていくのか、みてみます。

 

 

理性の錯覚

民主主義や平等や平和や人権や公正や自由などの夢を掲げ、それを持たない集団(共同体、地域、国、大陸)ならばそれらを排除しても良いとしてきた事実は人類史において昔からずっとある。

たとえば大航海時代のヨーロッパ、その後の植民地時代のやり方だ。

日本はそれからの解放といった大義名分があった分だけ、自分たちの植民地主義には気がつきにくい。

 

建前としては、まず始めに教育で未開人に理念を教えなければならない。

しかし教えても結果が出ないとなると、彼らは人間ではないとみなし、抹殺することをためらわなくなる。

参考に、南米を植民地にしていた時代のスペインやポルトガルの神父たちの書簡を覗いてほしい。

あるいは16世紀から20世紀まで続けてきた欧州の植民地支配、そしていまだその土地を離さない英・仏たちの書簡や16世紀から21世紀まで先住民を迫害し続け、今でも中近東をめちゃめちゃにしているアメリカの政治家の書簡を図書館で見つけてみればいい。

体の働きを考慮しないで理性だけで作り上げた理念は、この世の法則から離れてしまっているので、自分の頭の中でしか存在できない単なる理想であって、下手をすると理念で他者を傷つけることになってしまう。

 

 

理性の抹殺の数々

まずは、頭で妄想して自分の内側に「理念」を創る、そして次に知行合一とばかり、理念をこの世で実現させるために行動に移す。

ついにはこれらを受け入れない者たちを「外側」として抹殺するのがピューリタンからコミンテルンそしてファシズムにつながる系譜だ。

 

粛清ではロベスピエールが3万人、レーニンが50万人、

毛沢東が40万人、文化革命では1千万、被害者を含めると1億人におよんだ。

平等を掲げた国家社会主義労働者党から始まった虐殺と戦争で8000万人、被害者は15億人におよぶ。

 

「理性」を利用する者が現れ、「理念」を武器にして、土地や所有物だけではなく、人そのものも奪い自分のものにする大義名分を革命とよぶ。

地主の土地と命を奪ったフランス革命、先住民の土地を奪ったアメリカ独立、幕府の土地を奪った日本の廃藩置県。

理念のもとにオーストラリアではタスマニアの先住民を一人残らず抹殺した。

しかしどれも現在の多数派から支持されているので学校教育の教科書では肯定的に扱われる。

また時代的に妥当性のある革命であったので、現代でも支持されるものもある。

 

 

しかし、たとえば「理念」の1つである博愛Fraternity(同胞愛)の意味とは、同胞でない者は粛清してもいい、ということです。

博愛は多くの犠牲者を生み出しました。

まさか博愛が人の命を奪うはずがない、と疑うのならば、近代国家の国民が殺した人数を17世紀から数えてみればわかります。

それ以前の封建社会の国々と比べれば、殺戮した人数の桁がいくつ違うのかは見物です。

 

そしてこの近代国家は国内の粛清が終わると、次には国外の侵略を始めました。

理念の名の下で。

翻訳された文字を拠り所にして、内なる理性の正義で、外の世界をなぎ倒していきました。

原理主義者たちです。

理念や原理原則を大切にして、その徹底化をこの世ではかろうとする立場の人たちです。

ファンダメンタリストとはキリスト教の根本主義やイスラム原理主義者たちだけのことを言うのではありません。

イギリスやアメリカやフランスや日本に代表される近代国家も理念を原理とする原理主義です。

19世紀には地球全土が欧米の植民地になりました。

正確に言うと風土病の激しかったエチオピア、イギリスとフランスの緩衝地域としてタイ、欧米から一番遠かった日本を除いては。

中国は東北部と海岸部は植民地状態でした。

この理性の力を使って、内側だけを守り外側を抹殺する原理主義が、血縁や地域を大切にする共同体を殲滅し続けています。

地球史上で理性の無い生命体が、これほどまでに他者を批判したり、抹殺し続けたり、環境を破壊し続けている事実を私はいまだ知りません。

 

 

ユートピアという理念の正体

ユートピアも概念なので、脳による意識の働きによって生まれてきたものです。

 

過去には理念(ユートピア)が必要な時代があった。

そして現在でも戦争の後など、必要なTPOもあるが、これは信じたり、こだわるものではない。

ユートピアは頭の中にしか実在しないことを理解して、ちゃんとこの世と向き合うことがユートピアの魔力に囚われない唯一の方法だ。

これができないと祖父の時代のナチスや、現代のイスラム国や、未来の新しいユートピアを産むことになる。

例えば未来の「科学原理主義を信仰するロボット人間が支配する世界」のように。

 

 

マインド(心、精神、表層意識)の定義

マインドとは対象を知る機能のこと。

脳機能学者はこのマインドを脳が主体と考え、上座部仏教ではマインドは脳は計算機と考え主体は素粒子よりも微細なメンタル体がマインドの主体だと考える。

 

この世の法則は、常に変化し続けることなので、どんなものも常に生まれては消えていく。

しかし、このような現象(対象物)を直接体感することが脳にはできないので、五官器官を通した信号を脳が自動反応回路を使って無意識のうちに編集して、イメージを作り出す。

現象は常に変化しており、そのままでは心には認識できないので、それらをバーチャル(仮想)で静止させて固定化し、それにラベルを貼ってイメージや言語にする。

 

他の表現をすると、

脳が何かを把握するためには、

「一つだったモノ」を対象物と「私」の二つに分化させて、

「私」は暗闇の中の一部だけにスポットライトを当てて対象物にする。

このスポットライトによって、範囲が決まり、

「囲む」ことで闇から光を分離させることができ、

範囲が決まることで、流動的なモノを固定化させて仮の姿になる。

次にこの仮の姿を無理やりに切り裂いて「分割」してパーツにする。

そのパーツを似た者同士の「籠」に分類することで、

イメージや、記号や、シンボルや、言語や、概念という脳の中にしかないカタチにする。

そして最後に籠の中に「因果関係」をみつけるのが、脳のお作法である。

 

 

マインドと無意識

顕在・潜在

エッセイでの造語

活性化する箇所

心理学

表層意識

顕在意識

マインド

大脳皮質

自我と自己

中層意識

潜在意識

心 感情

大脳辺縁系

ユングの集合意識

深層意識

潜在意識

こころ

血管・胃腸

自動反応回路

全体意識

潜在意識

ココロ

体内微生物

禅の本来の意識

 

 

マインドの限界

これがマインドのできることであり、なりわいであり、お仕事であり、機能であり、特徴であり、役目であり、限界です。

まずは囲わないと大脳は何も認識することができません。

囲ったものを「分ける」ことで表層意識はようやく認識することができます。

また囲まないで、そのまま異物と一緒になって溶けたり、同化したり、包んだり、抱きしめたり、共鳴したりすることは脳の機能にはないので、これは他の器官がしていることです。

他者を対象物として扱うのではなく、他者(異物)を自分と同じ波の一部としてとらえたり、溶解して一体になったりするプロセスをとります。

たとえば、胃腸や血管がこの瞬間にもしている「異物との交流」は脳にはできません。

マインドはココロ(こころ)の感知の機能を持たないからです。

 

確かに、表層意識であるマインドは分けることで「形のない力」を具現化させて形にする。

私たちが五官器官と脳で産みだしたマインドの世界は有益ではあるが、これだけが自分と世界をつなぐ手段ではない。

ただの一部でしかない。

もっと極端にと言うと表層意識はツール(道具)である。

 

ここでマインドの行ってるいくつかの強引な行動をみてみる。

1 「一つだったモノ」を、対象物と「わたし」の二つに分化させる

2 スポットライトを当てることで範囲を限定し、範囲の外は闇のままに(無視)する

3 範囲を決めたことで、流動体を固体として扱う

4 一つであることで存在できる流動体を自分の都合で勝手に分割する

5 自己満足で作ったカゴへ勝手に分類する

6 そのカゴの中でしか成立しない因果関係をみつけては、これを信じて、カゴの外でも適用しようとする

7 この因果関係を自動反応回路にして、相手の都合よりも反応のスピードを優先させる

 

1から6はマインドがいつもやっている無理矢理の暴力です。マインドの本音であり、正体です。

7はマインドの奥底にある潜在意識が自動的に行っている作業です。

 

これが私たちの誰もが持つマインドが、この世を把握する方法であり、機能であり、メリットであり、限界です。

ですから脳という内臓器官を使って把握できることはすべてがバーチャルリアリティーである、とも言えます。

 

 

ココロの定義

パーリ語によると、ココロとは対象を感知する機能のこと。Arammana vijanana lakkhanam cittam 

自分の外側や内側にあるものを体感する能力をココロと名付けている。

このように解釈すると、植物は光や重力や磁気を感知しているし、ヒトの体の37兆の細胞も感知しているので、植物にも、細胞の一つ一つにもココロがあるということになってしまう。

 

「波と海全体」という譬えを使うと、

イメージや言語を扱うマインドとは、海の表層で常に変化をしながらもカタチをもつ「波」であり、生命体がもつココロとはカタチもない「海全体」のこと。

マインド∈ココロ

参照)パーリ語は中期インド・アーリヤ語の一つで初期仏教経典に使われた言語のこと。

 

心は常に幻覚を作ることでこの世を認識することができる。

認識とは五官器官から入ったデータを「意識」で編集することです。

「」で囲んだのは、「意識」には顕在意識や潜在意識、表層意識や中層意識や深層意識などいろいろの区分の仕方があるからです。

多くのデータの改竄や編集は、中層意識や深層意識の領域で行われています。

マインドはデータを過去の体験によって作り上げた自動反応回路を通して認識するので、どのように客観的にあろうとしても自動反応回路がある限り、この回路は個人の体験によって作られた独自なものであることに変わりがありません。

また、いくら客観的なデータが並べられても、それらを編集して、認識して、価値評価して、判断して、選択しているのは、主観です。

自分の特有の自動反応回路を使って、潜在意識の自分の好みを基準にして、その時の周囲との関係によって、物事を認識します。

このような「マインドの性質」をそのまま放っておいて、別の客観的データや新たな主観の意見を加えて統合させようとしても、それではありのままの状態を把握することはできません。

 

 

精神的な病気が自分を守るカラクリ

競争して負けそうな時に、心が精神的な病気を作ることがある。

勝負をしたら自分のプライドや見栄や自信が消えるとわかったら、体や精神状態に異常を感じて、寝込んだり引きこもりになったりすることがある。

こうなると、マインドに言い訳を与えることができるからだ。

「病気なのだからしょうがない」

「競争したくてもできないのだから仕方がない」、と。

こうやって自分のプライドを少しも傷つけることなく理由付けをすることで自分を守っている。

「私はちゃんとしているのだが、他に問題がある」と正当性を論理化することが、精神病になるコツである。

 

自分に自信がなくなって、うつ病になったとすれば、それは自分で自分の命を守っていることになります。

自我は生きていく上でとても大切なものだからです。

病気なのだから、私のせいではないという論理をマインドが作ることで、プライドを守っているのです。

しかし、これらは逃げです。

自分を否定される事態を回避する方便です。

自分の体のバランスを犠牲に差し出してでも、自己の安定性を守るために、目の前の事実を捻じ曲げて、妄想のストーリーを作り、それに辻褄があうように自分自身の意識に、自分の体に、周囲の人に自己(自我)を強要しているのが実態です。

 

この意識のデメリットは、瞬間瞬間に変わっていく状況(主体と現象)には適応ができないことです。

これが精神的な病気になる原因です。

根本的な解決法は自己(自我)に依存しない生き方を訓練することです。

 

 

自我意識と自己意識

自我意識と自己意識の違いはなんなのだろうか?

どちらも覚醒している状態の意識のことで、表層意識や顕在意識とも呼ばれています。

 

 

表層意識

自分と他者

想定

ありのまま

年齢の傾向

成果

自我

Ego

自分だけ

想定内

拒否

0歳から30

みえる

自己

Self

相手との関係性

想定外

受け入れ

30歳から死

見えない

 

 

顕在と潜在意識

表層意識の制御

内と外

評価

範囲

自我

顕在意識だけ

制御可能

内部で完結

社会的評価

人工

合理

自己

潜在意識の理解、解釈

制御は不可能

外部を統合

自己評価

自然

不条理

 

 

実現

陰陽

美学

機能

特徴

ニーチェ

自我

自我の構築

強固

アイデンティティ

自我同一性

Ich

自己

自我の崩壊

柔軟

パーソナル

人格

Selbst

 

 

自分と他者

自分と他者

イメージと現実

自我

自分が考える自分

自分視点の自分定義の集まり

イメージへの同化

自己

自分と他人を通しての自分

他人から見た自分らしさ

現実の受け入れ

 

 

では、この自己と自我は自動反応回路とどんな関係があるのだろうか?

「自我」は情動が動いている時に基準点になる意識で、その時は感情の自動反応回路が作動している。

「自己」は思考する時に基準点になる意識で、内外からくる信号の共通点や相違点や因果関係を構築する。

2つの大事な役割は、基準点になることで、私たちは感情的になったり、理知的になったりすることができる。

見たり、聞いたり、話したりしている「変わらない自分が存在している」のは、思考している時だけに現れる自己のこと。

 

しかし、実情はどうなのだろうか?

自我は生存欲を根源として作られた自動回路が作動しているので、自分の生存と利益を優先する。

もし、この自分にしか通じないルールを他者にも強要し始めると、他者との調和はなくなってしまう。

怒りや妬みや喜びがある時には、感情が主体になり、そこに自我がある。

 

自己は自動反応回路によって編集(編纂、捏造、調整)されてしまっている入力データを吟味はせず、データ処理を優先させている。

思考の一部分を合理的にデータ処理するので、その部分の正当性を根拠にすることで、チェックしていない残りの部分までも肯定してしまう。

このような過剰一般化することを盲信とも言う。

 

この自我と自己の共通点は「確固たる私がいる」と信じて疑うことをしないこと。

この「確固たる私」とは、変化し続ける他者との関係性ではなく、自分の頭の中で閉じられて固定化された範囲の効率を優先させる回路である。

 

どちらも、ある条件のもとで一時的に現れる基準点でしかないのだが、これを常にあると思ってしまって過去に学習した回路(法則、因果関係)を「ありのままの姿」の代わりに無意識のうちに置き換えていることに気づいていない。

これが妄想のメカニズムである。

常に変化し続ける状況に対応するのではなく、プログラミングされた感情のパターンや思考のパターンの回路によって、決められたパターン化された行動をまるでロボットのようにしかできない。

 

自我意識も自己意識も緊急事態の特殊なケースの一時的な基準であって、信じるものでもなく、常に基準に置くものでもない。

自分の潜在意識や中層意識や深層意識のことをよく理解していないのに、いくらよい考えを張り巡らしても、それは限定された時空でしか通用しない一時的なものでしかない。

自我と自己は脳が認識できるようになるための一時的なツールであって、自己と自我は心の自動反応回路が作った幻想(現実と妄想のギャップ)であることに、たまには気づくことも面白いかも、というのがこのエッセイのテーマです。

 

参照 

C.G.ユングは自我は肉体に依存した意識で人の数だけあるのに対して、自己はすべての人の心の中心を貫く生命活動の源である無意識であると定義している。

自我は個々の欲求と関わるために利己的活動をし、自己は全人類を1つに結びつけようとするため道徳や宗教と関わる。

「ユング心理学」 J.ヤコービ

 

 

山や森や砂漠や昔は現代ほど精神的な病気がなかった

自然の中で生きていると、嫌でも「自然のルールを認めざるを得ない」体験をします。

しかし、都会ではこのような体験をする機会が少ないので、自然のルールを認めなくてすむ都合の良い経験を積み重ねることができます。

都会にある物資は脳のイメージをカタチにした人工物であり、「都合」とは都会のルールに合わせることです。

 

しかし、この世には都会文明でもどうしようもないものもあります。

たとえば、台風、地震、病気、老化、死。

老化に気づくと、これを脳は認めがたらないので、都合よくアンチエイジングを施すことがあります。

都合とはヒトの頭の中から作られたルールで、大自然のルールではないということです。

しかし、ヒトの細胞も自然の一部であることには変わりはありません。

 

自然の厳しい地域では、「老化は悲しいけれどそれも自然のルールの一つだから仕方がない」という基本的な心構えがあります。

自我や自己でもどうしようもない現象をそのまま受け入れる柔軟性と自然に対する畏怖や尊厳があります。

ところが、自然のルールが体感しづらい所で育った人たちは、それらを受け入れられないだけではなく、「自分の手でコントロールできる」と思って行動します。

すると、ある箇所の自然の力は抑えても、今度はほかのところに抑えたものがモグラたたきのゲームのように出てきてしまいます。

これも「すべてのものが一つにつながっている」という自然のルールです。

他者(内臓、社会、自然、宇宙)を完璧にコントロールできるという自我の高慢さと妄想から離れることができれば、精神的な問題の対象も存在しなくなります。

 

 

 

 

原始脳と大脳

科学のメリットと限界

データが取れることを基盤にしているのが科学なので、データの取れないものには関心を向けることができない。

たとえば、なぜ生きるのか?

私はこの世で何をするのか?

などなど。

 

また、科学の欠点はデータ採集の途中で因果関係を出してしまうこと。

だから新しいデータが出てくるたびに、科学は新しい説を唱える必要があり、これを科学の発展と呼ぶ。

これは医療品の歴史をみればよくわかる。

10年前に主流であった治療法や基準が現代では否定されたりする。

たとえば血圧の基準が120から139に改定されたり、塩分やコレストロールの摂取量と血圧の関係が見直されたりする。

どれも充分なデータがとれていないのに期間と予算と名声と自動回路と幻想のために、まずは結論に飛躍して数値を出してしまうことから起こった。

 

 

生まれては消えることでこの世で存在している細胞、

この「あり様」を存在欲と解釈して、生き続けるための回路を作り続ける原始脳、

これに支配される、お人好しな大脳皮質

ヒトは一秒間に500万個の細胞が消滅し、同時に500万個の細胞を生成することで、この世に「いる」ことができる。

 

大脳皮質は、データの保存(記憶)、収集、計算、予測、因果関係を司る。   

その結果、理性を使って妄想を生み続け、智性によって理性の限界を実感する。

大脳辺縁系(原始脳)は、「生きたい」と「死にたい」という自動反応回路を作成し続けている。   

原始脳の無理(欲と怒り)な指令を断れない大脳は、悩み苦しみによってストレスが溜まる。

 

思考脳と原始脳

代表的な生物

体の器官

性質

特徴

内容

思考脳

ヒト

大脳新皮質

智性

理性の限界を把握

理念とその限界

思考脳

サル

大脳古皮質

理性

合理化、知恵

効率や利便性

原始脳

爬虫類

大脳辺縁系

パターン認識

パターン学習

感情の条件反射

原始脳

脳幹・小脳

感覚・運動

神経管 信号処理

条件反射

血管

ホヤ

循環器系器官

波動性

陰陽の波で把握

二元論からの離脱

小腸

微生物

消化器系器官

融解性

他者との合体

全体性への回帰

 

 

原始脳が判断の基準になる

生命体が持つ生存欲は、生存の確率を上げるために、虫にもある神経管(原始脳の初期段階)で自動反応回路を作成しする。

このアウトプットは、哺乳類では発達している大脳に影響を与えている。

これがヒトの悩みの原因となる。

生命体が持つ

@    存在欲「生きていたい」

A    恐怖「死にたくない」

B    離脱欲「物質に囚われたくない」

3つの欲求を、快と不快(好き・嫌い)に振り分けて、これをベースにして神経管(脳)は自動反応回路を休むことなく作り続けている。

そのため、これらの回路のアウトプットによって、大脳新皮質が意図していない行動をもしてしまう。

 

原始脳の良いところ

自動である

反応が速い

考える必要がない

考えることはなく、感情が起こる自動回路をエンジンにしているので便利で速い。

 

感情のメカニズム

過去の経験から学習した自分に害のあることを表層意識で思考する前に受け入れてしまうと悲しみになり、

害のあることを表層意識で思考する前に拒否していると怒りになる。

過去の経験から学習した自分に益になることを表層意識で思考する前に受け入れると喜びになり、

益のあることを拒否すると不満になる。

 

しかしこの不満を気づき続けていると、不満が「楽」に変化する。

この楽とは喜怒哀楽の楽ではなく、パーリ語のSukhaのことで幸せという意味 

この対義語はdukkhaで「苦」のこと

 

好きに囚われたり、嫌いに囚われることがなくなると、苦しみから離脱して「楽」すなわち幸せになる。

これらの感情は大脳には認識される前に原始脳で処理されている。

ヒトの判断とは、大脳皮質でする以前に、快・不快をベースにした自動反応回路によって潜在意識のレベルで選択されている。

そしてこの判断が行動としてカタチになってあらわれる。

 

大脳の二種類のストレス

生命体は環境との交流を断つと死ぬことになる。 

環境とは、たとえば、水、空気、食物。

大脳は、命は脆いものであり、死ぬことは生きるよりも簡単で、確実に起こることをよく理解している。

しかし大脳辺縁系が作った自動反応回路からの指示は「生き続けること」「死にたくないこと」ばかり。 

すると、大脳は、どうやって生き続けるか、どうやって死の原因を避けるか?ということを考えさせられてしまう。

この二つの間の葛藤が一つ目のストレスになる。

 

次に、この葛藤を回避するため、矛盾を避けようとする大脳の性質によって、次々と仮の因果関係を作りあげてしまい、自らを正当化していってしまう。

仮というのは、特殊な部分では因果関係はあるが、全体からみればそのような因果関係が成り立たないから、嘘とも仮設だとも言える。

これが自分では意識のできていない潜在意識での二つ目のストレスになる。

頭で考えたことと現実とが違うのだからストレスが起きるのはもっともなことである。

これがヒトとしてこの世にいるかぎり誰もがもっている精神的な病気である。

 

 

罪とは原始脳が作ってしまった回路を大脳が制御できなくなることで発生する

可愛いものを触りたいという欲求がヒトにはある。

しかし原始脳がこの欲求で回路を作成すると、可愛いものが目の前にあるとアウトプットとして触ってしまうようになり、最悪のケースの一つが痴漢となる。

大脳は相手の立場になることによって、知らない人に触られるのを嫌悪することは知っている。

この2つの立場の葛藤がストレスになるのだが、どうすれば大脳はこの問題を解決するのだろうか?

相手の承認がないのに触ると、法律を犯し、訴えられる可能性があるので、「可愛いものがあるから触る」という行動を否定する回路や新しい回路を作る必要がある。

 

そしてこのエッセイで奨励する技が、

原始脳が作ってしまった回路を消滅させて、相手が喜んでくれるのならば触るという新しい条件を加えた回路に書き換える方法です。

 

 

睡眠とは葛藤からの逃避  しかし、寝ていても葛藤が夢になって現れる

葛藤で苦しんでいる人は寝ることに執着している。

寝ている間は2つの矛盾からのストレスから逃避できるからだ。

これが睡眠依存症になる理由の一つ。

抑圧された欲望はいくら大脳で拒絶しても、それは葛藤として残存する。

だから夢の中で怯えや嫌なことがおこり、悩み苦しみが生まれる。

だから寝ていても安らぎはない。

この葛藤を減少させることができれば、夢にも悩まされず、短い時間の睡眠で十分になる。

葛藤の荒波をさざ波に変換する技を次の章で提案します。

 

 

自動反応回路に合わせて妄想する大脳

自動反応回路は快と不快をベースにして作り上げた装置で、快には近づき、不快は遠ざけて避けるという信号をアウトプットとする。

これを感情のレベルでみると、欲望と怒り、不満と悲しみというカタチになる。

これらの潜在意識の指令を大脳が受け止めて意識化するのだが、多くは実現不可能な指令なので、これらの無理なことをカタチ(イメージ)にするということは、現実ではないものをイメージとして具現化すること、すなわち幻想を創りだすことである。 

一言でいうと妄想する、ということ。

 

たとえば、「死にたくない」「生きていたい」という自動反応回路からのアウトプットの信号を、大脳は「死んでも魂は死なない」とか「神様が迎えに来て永遠の命を与えてくれる」などと体験したこともないのに、頭の中でイメージや哲学や信仰を作り上げていってしまう。

これが自動反応回路を正当化するために作り上げたイメージでしかないという事実を大脳は知りたくはない。

大脳はそれを分かってしまうと、自分自身を肯定することができなくなるからである。

大脳は良い人や中立者や観察者でありたいのだ。

 

そこで大脳はありのままを体感するのではなく、「この概念は本当なのだ」、と妄想を信じることになってしまう。

これが大脳の合理性の機能を誤用して使用している典型的な例である。

大脳は自動反応回路の実行不可能な指令信号(希望)を、自らを騙すことで解決しようとしている。

しかし、このように迷信を作り、それを本気で信じることによって、苦しい人生がさらに悩み苦しみに陥る。

そして実際には本気で信じることもできないし、確信も持てないので盲目的に生きることになる。

この盲目的な信仰こそが争いごとの原因になる。

 

 

群盲象評の一面性  誰もが正しい

盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う「群盲象評」というインド発祥の寓話がある。

ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など世界に広がる譬え話だ。

ジャイナ教の伝承では、

6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話しが食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」

 

この寓話は誰もが一部を科学的手法で分析・再現・認識してしまい、それを過剰一般化してしまう可能性を示している。

いくらちゃんとした手法を経た科学的事実の積み重ねであったとしても、周囲との関係性や全体との関わりに常に配慮したものでなければ誤解を生んでしまうという楽しい喩えだ。

また、多くの手法を統合したものであったとしても、それでは象の内臓や象の心やこれまでに学習してきたこの象の条件反射や自動反応回路を理解してはいない。

 

 

ヒトの大脳は妄想に汚染される      大脳にもある自動回路

原始脳で作成された自動反応回路の信号は大脳に到達し、それをイメージすることで、現実ではありえない妄想を作り上げ、今度はその妄想により、強い感情を引き起こすことがある。

たとえば、自分ではない状態を自分だとする妄想(自分は天才、セレブ、成功者、世界支配、超能力、神のお告げ、などなど)をしはじめると、それが妄想であっても、意識の力でイメージしたことが部分的に実現化されるので、その妄想をますます信じてしまうことがある。

 

意識の働きは強力なので、意識することによって素材が集まる(もしくは素材に気づく)ので、具現化する可能性は高まる。

ある自分の想いとその時に起きた現象を因果関係で結びつけることで、大脳に回路を作成することになる。

しかし、回路ができたからといって、自分の立ち位置を誤解しているのならば、じきに具現化は止まり、妄想と現実の違いは明白になるだろう。

そこで回路を捨て去ってしまえば問題はないが、もし回路にこだわってしまうと、妄想と意識の力を混同してしまう状態は続き、大脳にできた回路によって、人は操られてしまうことになる。

この大脳の妄想回路が活性化すると、大脳の智性だけではなく理性をも働かなくなり、相手(他者)の立場になることができなくなる。

 

 

自我や自己という錯覚が必要な理由  自我という便利なツール

自我がないといっているのではない。

ただ自我だけが自分ではない、と言っているだけ。

 

常に変化しているデータを一束にまとめるためには基準点を必要とする。

それで仮の基準点をつくった。これが自我である。

自我だけを自分だと信じているのならばそれは錯覚だと言えるが、信じるのではなくただ活用しているのであれば自我は役に立つツールである。

私が自我を信じている時は、自我が仮の基準点になって自分を管理しているので、この世も基準点に対応して固定化されて認知される。

しかし、大脳は自我が常に変化し続けていているのを知り、これに対応して、この世も諸行無常であることを体感している。

そんな大脳にとって、自我に囚われて無常の現実を無視し続けているのは楽なことではない。

無常を否定するたびに、大脳はストレスになって委縮し、理性も智性も活性化することはできず、自我を基準点にした回路のアウトプットである妄想の中で同じことを繰り返すことになる。

 

たとえば、感覚に身を任せている時には自我が基準になり、思考している時は自己が基準になるが、

自分の感覚の変化や、マインドの変化に気づき続けることができている時には、自我や自己は基準点ではなくなる。

あるのは、気づいている「わたし」という別の基準点であって、これは自我とも自己とも呼ばない。

この「わたし」にまだ一般に浸透された呼び名はないが、伝統的には、「気づいているもの」「観るもの」「知るもの」(曹洞宗では「自我」)などと呼ばれている。

 

自我があるのか、ないのか、という議論がありますが、どうなんでしょうか?

まずは感情があるということは「自我」があるということです。感情は自我を基準点にした回路によって発生するものだからです。

そして基準点があれば、それに関係する、モノ、家族、場所などがある。
次に、科学的客観性から見れば、自我をはじめとして、すべてのモノはモノの寄り集まりなので、自我それ自体があるということが言えなくなってしまう。

そうすると「自我というようなものは、どこにもないのではないか」という考え方も成り立つ。
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つ目は、自分が動いている時には自我を確認できないということ。

ごはんを食べて動き、仕事で動き、趣味に夢中になって動いている時には自我のことを考えている暇はない。

一所懸命に何かをやっている瞬間に自我の存在のことを感じたり考えたりすることはない。

そうすると「自我があるのかもしれないし、ないのかもしれない」とハッキリしなくなってしまう。

「とにかく、夢中に生きる人生があるだけだ」とも言える。


最後は、自我があるのかどうかは、理屈ではどっちとも決められない、という見地。

始めの解釈であれば、自我というものははっきりとあるし、二番目の解釈だと自我というものはない。

三番目の解釈では、動いている時には自我を感じることもないので、あるとも言えるし、ないとも言える。

普段は原始脳の自動反応回路や大脳の妄想の自動反応回路に私たちは操作されているので、自我があるように思える時がある。

 

もし回路によって自我があるのならば、回路がなければ自我はなくなるのだろうか?

本当に自我があるのか、ないのかと言うには理屈ではなく、実際、回路に使われていない生き方を試してみるしかない。

そこで体感してみることが、議論という小さい範囲では終わらずに、各自のちゃんとした実感となります。

 

知らぬうちに勝手に編集してしまう大脳

ココロはありのままに情報を知ることができるが、細胞からの存在欲を原始脳によって作成された自動反応回路のアウトプットを肯定するために、それに合わせて、大脳は実際のデータを書き換えたり、捏造したり、合成したりして編集する。

ありのままではなく、回路にとって欲しいままに、認識してしまう。

特に、自動反応回路による怒りや恐怖などの感情の電気信号が流れると、これに大脳は影響を受けて、ありのままにみることができなくなってしまう。

これではいくら知識は増えても、真理(ありのままの事実)を知ることができない。

 

欲や嫉妬や怒りなどの自動反応回路が大脳を麻痺させる

大脳はこの自動反応回路を気づいたり、気づかなかったりする。

怒りなどの激しい感情で一杯になると大脳の働きである認識能力、判断能力、思考能力が低下する。

そこで直ちにこれを気づける訓練が必要となる。

理由は、気づくことによって、自動反応回路の力が弱まり、無効化されるからです。

これに気づかず、大脳が自動反応回路の結果を正当化しはじめると、大脳は「怒るのは正しい」とか「敵を殺すのは当たり前である」と思ってしまうことがある。

決められた範囲(TPO)の中では通用する正しさはあるので、これを軸にして他の間違いを指摘したり、批判したり、否定したりできるのだが、この「正しさ」を範囲の外側にまで大脳が過剰一般化して、行動に移すと、これは大脳の欠点が露わになります。

たとえば戦争、宗教対立、理念対立、など相手の立場を考慮できない思考や論議や行動などです。

 

罪も悪もすべて、過剰一般化された大脳自身を正当化した結果

大脳が正当化する前には葛藤、考察、例外の吟味など試行錯誤(忍耐)の時間が必要だが、TPOの外側の領域をチェックするには手間、時間、能力が足らなくなると、正当化という回路を作成して、結論に飛びついてしまう傾向がヒトにはある。

この一瞬の誘惑(快感)や脅し(恐怖)に耐えられず、大脳は簡単に相手の立場を考慮しないで行動をしてしまうことで、罪を犯すことになってしまう。

 

 

脳を含めた体の細胞、そして心には欲がある

肉体は常に刺激を欲しがる本能がある。 

原始脳も大脳も臓器であり肉体であるので常に刺激を求めている。 

 

どのような本能があるのだろうか?

一つは、細胞が常に刺激の変化を求める本能で、パーリ語のKama tanha(感覚愛)。

そして五感覚器官からの信号に依存して、心を常に変化させることを喜びとして生きようとする、パーリ語のBhava tanha(存在愛)

 

理性を司る大脳を始めとする、すべての細胞は常に刺激を求める本能があり、その信号を受信する心は常に変化を経験したい本能があり、そこに条件が十分に揃うと自動反応回路が作成され、そのアウトプットは感情、評価、判断、記憶の再現、未来予測などのカタチになって表層意識に表出する。

 

この自動反応回路が悪感情を生むものであれば、早目に回路を弱体化しないと、大脳はその悪感情に慣れてしまい、優等生的な大脳はその状況を合理化しはじめ、この悪感情さえもこの世に生きるための必要なことであると価値づける論理を構築してしまうことがある。

たとえば、相手を破滅に追い込む状況でも、「飯のため」「生活のため」「社会のため」「平和のため」「人類のため」などといろいろな言い訳を用意してしまう。

 

こうなると大脳は悪事までも「正当化する」という作業をするようになり、欲、怒り、嫉妬、憎しみまでも弁護しはじめます。 

この弁護とは、正当化という論理性のことで、これは大脳の管轄です。

 

まずは「だって」からはじまり、結論は「悪いのは相手(他者、組織、社会、国、宇宙)である」で終わります。

特殊なTPOでしか通用しない、強い感情が伴う「正しさ」を基準にするために、たとえば、個の不正、会社の不正、社会の不正を認めて、敵対国との戦争を肯定する論理回路を作り上げてしまうのです。

 

大脳の本来の仕事は細胞を生かすこと。

それなのに過剰一般化による正当化をし始めると、自分が生きることが難しくなるような状況を自ら作り上げてしまうように大脳は働いてしまうクセがある。

これが大脳の理性の限界であるので、次のステップとしては大脳の智性を育むことが必要となる。

 

 

ウツは大脳が機能低下する病気。   

大脳は活性化して、望んだ結果を出している時に喜びを感じる。

喜びは大脳の動機(ガソリン)になる。

逆から見ると、大脳の働きが低下すると、喜びが生まれない環境になる。

働き者の大脳は仕事ができないことが苦しみ。

ウツになると、本人の大脳の楽しみが消えてしまうので、ますます大脳の働きが低下してしまう。

 

大脳の限界

考えることで人はバカになる

ヒトの問題は考えること自体にあります。

人間がバカなのは考えるからです。

もう少し言葉を和らげると、考えている時には目の前にあるモノをありのままの姿で観ることができません。

思考とはある種の妄想の中にいる時に可能になるからです。

理由は考える世界と目の前の現実の世界と比べると2つの間には差異があるからです。

そこで思考をやめてみると、ありのままの姿しかないので、心はすごく穏やかになっていることに驚きます。

しかしこれが難しい。

とくに自動反応回路がたくさんあって常に刺激に反応してしまっている場合には。

 

人は考えることに対する信仰があるので、自分の頭で熟慮したことが絶対に正しいと思ってしまう傾向がある。

たとえば熟慮した判断や、発展した考え方や、最高といわれる知恵を、実際の現実に当てはめてみると、適合しないことが多々あります。

そんな時に、自分の考えとは違う現実に対しては、「現実の方が間違っている」と思うようなこともある。

 

 

ユートピアは大脳から生まれる

自由・平等・平和は自然界にはない。

だが人間界にはこのような理念の具現化がある。

 

何故か?

それは無菌の実験室の試験管の中だけには存在できるカタチだから。

ユートピアとは大脳という試験管の中にあるアートだから。

都市文明とは大脳が外側にカタチになったものだから。

理念は都市文明の中に一時的に咲くあだ花だから。

そして、ユートピアを作り出すために多くの犠牲を出していることに気づかない者によって、この花は成り立っている。

 

自然界から見れば、ユートピアは偽物ともいえる一時的なカタチでしかなく、それを試験管の外に出すことはできないので、どうしてもユートピアを実在させようとすると、自然を征服して実験室にするしかない。

つまり自然界のすべてを都市文明化(大脳の具体化)することである。

そして気が付くのだろう、全世界をドームのように都市文明で覆い被せてしまうと、大脳器官自身も自然界の一部である内臓なのだから、自然の制御(征服)とは自分で自分自身の首を絞めている喜劇であることを。

 

大脳の思考とは、変化し続けているこの世の流れを静止させて固定化することによって、はじめて成り立つ仮想空間であるので、これをベースに世界を構築してしまうと、その世界からは変化し続ける「宇宙の力」が活性化されない。

この宇宙の力とは、命とも、「意」とも、ダンマ(仏教の「法」)とも呼ばれる。

そして宇宙の力は理性を生むが、理性はこの力を生むことができない。

 

宇宙の力をシンボライズしたアートはいろいろある。

たとえば、盆栽や金魚鉢。

どちらもたしかに美しい。

そしてそれらを創造することに意味はある。

だが、それらはただのシンボルであってアートであり、宇宙の力の方向は指しているが、その指先は単なる方角でしかない。

方向は指したので、後は各自が実体験してくださいって「わび」るしかない。

またこれらのアートやユートピアには多くのコストと労力と嘘が必要だ。

たとえば都市文明のドームの中では、空気、水、エネルギーの生命にとっていちばん大切なものを何一つ生産していないように。

その実験室のメンテナンスにどれだけの人間と動物と植物と自然を傷つけなければならないのか?

 

 

大脳による思考を信用している人たちには、どのような共通点があるのだろうか?  

細分化された自分の大脳の価値観の中にしか自分の居場所を見つけられない人たちに共通性などあるのだろうか?

 

たとえばユートピアとは風土病なのか?

大都市の近くの新興住宅地で生まれる考え方なのか?

そしてユートピアを産み出す力とはヒトのコンプレックスなのか?

 

文明中心地の風上に「意識の高い人」が多い傾向があるのではないか?

北半球の偏西風の吹くところでは西側。

海に近い平野に多い傾向があるのではないか?

豊かさや街や文明の中心に対する憧憬と嫉妬に関係があるのではないか? 

これは本当なのだろうか?

(逆に風下の特徴は? 手に職、下町文化、五感に素直、欲望を承認)

 

ユートピアとは脳機能障害なのか?

主知主義や理性中心主義に侵されて、脳が体の健康を貪っていることに気づかない人たちの特徴なのか?

リベラルと呼ばれる人たちは親との関係に問題がある人たちなのだろうか?

現状がよいならば新しいことを試すよりもこのままの保守で十分ではないのか?

問題があるから革新が必要なのではないか?

他者の悪いところだけにスポットライトを当てることで、自我のプライドを保つ戦略なのか?

もし親子関係に問題があるのならばそれはどうしてなのか?

親を一切否定する子供のケース、親と同体化している子供のケース。

命よりも大切なものなんかあるのだろうか?

そしてまた自殺するのはなぜなのか?

自分がその他のモノと関係があると思え、実際に体感しているのであろうか?

自分の居場所が全体の中にあるのかどうか?

 

私の場合は、あまりにも欠けているものがあった分だけ、これからの病に対する処方箋を知りたいと強く感じてきた。

厳しい自然の中で生きること、そのことに関連する生き方、アート、悲しさ、サガ、寂静。

 

大脳皮質は寄り添うもので、それに私たちが利用されるものではない

大脳は単なる道具であって、主人ではない。

主人はだれなのであろう?

遺伝子?自分の体?小腸?それとも、そこで暮らす微生物たち?

それとも・・・

 

 

大脳が優位になる時空

大脳皮質が大脳辺縁系や脳幹よりも優先順位が先に来る時空がある。

人口密度でみると10000/km2以上の都市空間に守られている環境で育つか、

もしくは田舎に生まれ育ったが人口密度が増大する環境に移動して青年期を過ごした者は大脳皮質を優先して判断する傾向が強い。

理由はこのようなライフスタイルでは、体や心の判断よりも頭の判断によって行動することによって利益が多かったという成功体験を積み重ねたからである。

 

都会で叫ぶ平和主義者

この世を楽園にしようとする人たちへ

この世を平和で博愛で平等で公正で自由な世の中にしようとしている者は、自分の枠の外(想定外の領域)を考えたり体験したりしないから、頭の中にあるだけのユートピアを信じることができる。

「いのち」に必要な食料・水・空気・エネルギーを枠の外から取ってくる。

枠の外から利益を搾取して貪ってはじめて成り立っているのが自分の枠である身体である。

夢の中、本の中、伝説の中、アニメの中にある楽園、そしてもしかしたら遠い記憶の中での「村」。

でも今いる場所は、人の力で自然をねじ伏せた人工の街々。

そこで「楽園」を叫ぶと、「いのち」が指の隙間から逃げていく。

 

もし本気で軍備を捨てる気持ちがあるのならば、一緒に山にこもって生き続ける技を習得しましょう。

世界で一番の軍事力とテクノロジーを持つアメリカが撤退した戦争が3回あります。

ジャングルのベトナム、山岳地帯のアフガニスタン、沙漠のイラクです。

どこもが自然の厳しいところで、どんな新技術の兵器を装備していたとしても、そのコストと世論と自然により、長期の戦闘を続けることができないためです。

 

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思考と感覚の限界

脳には、合理性を司る大脳、自動反応回路を作成して物事の判断を司る大脳辺縁系、そして神経を司る脳幹があります。

大脳は思考、大脳辺縁系は感情、脳幹は、自律神経機能と反射の中枢です。

 

人は感情や感覚に溺れてしまうことがある。

感覚的な喜びも、自分が楽しむ限界を通り越して突き進んでしまう場合も多々ある。

たとえば、酒を飲んだ時にブレ−キがきかなくなることや、快楽に依存して執着してしまうこともあります。

 

では、自分に害を与えてもそのまま突き進むのではなく、

「大脳を信じるのではなく参考にする」

「感覚に溺れるのではなく楽しむ」

には、どうすればいいのでしょうか?

 

 

二つの「間」を体感する

都市文明とは、大脳にとって都合の良い時空を作り出すことなので、その時空の中では、考えることが基盤になります。

そして生命体の細胞や感覚は常に刺激を求める本能があります。

こうして、私たちは思考と感覚という二つの世界を行ったり来たりして暮らしています。

そこで多くの人がこの二つのバランスをとって暮らしていこうと模索しています。

二つの割合を調和させようとする考え方です。

これを宗教の「中道」だと解釈する人もいます。

しかし、この二つの極端な世界のどちらでもないものが中道である、という解釈と実践をしている技が人類史にはあります。

この二つのどちらでもなく、二つの「間」にいることで、ゆっくり落ち着いた生活をする生き方です。

はじめて「間」という考え方を聴く人にはピンとこないことだと思うので、次章でそのメカニズムや実践方法について書いていきます。

 

 

 

 

 

回路を解除する方法   回路を大事にする時空からの離脱   無意識と遊んでみる

 

 

準備                               掃除、柔軟体操

「一つにつながっている世界」から自分に寄り添ってみる

回路を上書きする方法

気づきというマインドフルネスを使う方法

参考   上座部仏教の伝統的な技術

 

 

頭の中のガラクタを片付ける

わたしたちは知らないうちに一瞬一瞬に入ってくる情報に対して評価という反応をしてしまっています。

この反応に莫大なエネルギーを使い、その上、この回路の機械的反応をベースに思考が作り上げてしまい、その世界の中で彷徨って、疲れ果ててしまっています。

そこで、まずは、これらの思考や感情の自動反応回路が活性化しないようにして、智慧の入る場所を作ってあげます。

コップに水が入っていると、それ以上の水を注ぐことができないので、まずは、一杯になった水を惜しまずに大地に流し戻してしまうように。

 

 

回路を使わないことで柔軟になる

回路というのは原則、原理、法則のようにインプットとアウトプットを固定化させたものなので、これらに依存しないようにしてみる。

 

柔軟な心とは「こだわりのない心」ということ。

私たちは普通、色々な原則を信じ込んで、その原則に従って生きているわけです。

しかし一言で原則といっても、それらには正しい原則もあれば、間違った原則もある。

どんな原則でもそれを習慣にすれば、TPO(変化)に寄り添う必要がなくなり安直に結論を出すことができます。

この手抜きしてできた結論に執着して、「これが大事だ!」と自分の外側にいる他者や社会に押し通そうとすると、

あっちこっちでぶつかって、原則そのものが人に災いを及ぼしてしまうとも多々あります。

 

それから、原則というものがいつでも通用するとは限らない。

上り坂の時に通用する原則が、下り坂の時にも通用するか、というとそうとは限らない。

上り坂の原則を下り坂の時に無理して使おうとすると、かえってその原則を使ったことで大きな苦しみをもたらすことがある。

なぜなら、原則とは、ある限られた範囲の中での統計的な確率論なので、その範囲の外では通用しないし、その中であったとしても、次に出るサイコロの目を当てることはできないのです。

原則とは信じ込んでこだわるものではなく、たんなる参考にするものです。

 

それからまた、私たちには執着というものがある。

執着とは、過去に経験したものや成功体験に固執するという考え方、安心、習慣です。

ある時空にだけに通用する因果関係(原因と結果を結び付けるもの)を、どこでも通用すると信じてしまうのが執着のデメリットです。

パターン化された社会や組織では、パターンを変えるものに対しては、仕事のやり方一つにしても抵抗をします。

 

ですから、柔軟な心を持つことで、作り上げた因果関係はある時空の時にだけ通用するのかも知れないということを理解することでもあります。

原則やパターンを頼りにせずに、常に変化し続ける環境や、自分自身の心も常に変化していることを基準にしてみます。

そうして、自分と環境の一瞬一瞬を大切にして付き合うことを第一にすれば、何かに執着するメリットや理由がなくなってしまいます。

哲学や宗教では、心身一如といって、心と身体は、時間と空間のようにお互いが相関関係です。

ですから、この柔軟な心は柔軟な体と連動している。

そこでヨーガや太極拳や合気道などの「収縮と緩和」や「骨で立って筋肉をゆるめる」という伝統的な脱力の仕方をマスターすると、面白いように心も軽くなります。

 

正義を求めない

頭の中で作られた理念を現実にしようとしてもすぐに障害にぶつかります。

前述した理念を貫き現実化することで、粛清や戦争が人類史において起こりました。

とは言え、理念の欠点をよく理解したからといって、理念に反対しているだけでは、自動反応回路に操られていることにかわりはありません。 

 

欧米をはじめとした現代の近代国家の基本である「理念の原理主義」にアンチであっても、アンチである限りは

形が違っても同じ土俵の原理主義であることにはかわりがありません。

「何か」に反対するということは、元の「何か」があってはじめて成り立つものなので、元の「何か」を越えることはできず、同じレベルの土俵の中にいるということです。

ちょうど光の当たったモノとその影のような関係です。

たとえば、21世紀の中近東では、イギリスやフランスやアメリカの理性主義に対して、イスラム国は反旗をひるがえしました。

アッラーの神の元に一つに戻る、という大義名分の旗です。

これだけ聞けばイスラム国に義があるように思えます。だから先進国の理性の原理主義に疑問を感じている者たちが今日でもそしてこれからも、このような戦いに身を投じていきます。

 

このように、正しいことや義はヒトを惑わせる力があります。

正しいからといって自分たちの理屈を、歴史と風習と条件反射の違う相手に押し付けると、相手の全体性が分断されてしまい、ますます、相手は悲惨な状況になります。

今まで欧米をはじめとする先進国が中東やアジアやアフリカや南米でやってきたように。

ちょうど一頭の象を6人の盲人が手で触ることで自分の正しさを確信して、それを他者にも押し付けてしまうように。

また、文明国がこれからも自然が豊かで厳しい文化共同体の世界をかき乱し続けるように。

 

漢字の「正しさ」の語源は征服の「征」と同根です。(彳は歩くという意、正の一は囗で塀に囲まれている邑、止は足跡の形で行くという意味です)

象形文字の「正」の語源は、城邑に向かって人が進む形で、攻めて征服するという意味です。

 

 

生命の連続性から異身同心の「一つにつながっている世界」へ  

個が二人の両親から生まれ、その両親もまた二人の両親から生まれたという連鎖にスポットライトを当てると世界が変わって見えるかもしれません。

 

10代さかのぼれば千人を超す血とつながっています。

また自分の子供がまた他人と結婚して次々と拡がっていく連鎖の中にいることにも想い馳せることが大切です。

私たちの現在は、過去と未来の中に包まれていることを再認識することです。

大脳は区分することでしか認識ができないので、常に差異を探し、そこにスポットライトを当ててしまいますが、智慧を働かせて、違いではなく共通点にいつも気づいていることが、争いごとをなくす技です。

 

生命圏の連鎖から切り離されて孤立してしまった状態から、宇宙のはじまりからの連鎖している「伝統」の時空を再体験する技です。

過去に戻って始源を探してみたり、固執したりするのではなく、ただ「一つにつながっている時空」を一日一回でいいので体感することを積み重ねる練習です。

自分より前があり、自分より後もある、世界がずっとつながっている生命の連続性です。         

この連続性や「一つにつながっている世界」にいつも気づいていることが、自動反応回路を無効化させる技の一つです。

 

 

順番が大切  理念の前にするべきこと

そして、ここで大切なのは順番です。

素晴らしき理念を旗印に掲げるのは、人を騙したり鼓舞したりするには効果がありますが、これほど厄介なものはありません。

その前にすることがあります。

 

それは大きな正しさや理念にスポットライトを当てるという頭の中の作業ではなく、17世紀に西欧が置いてきてしまった、自分とは違う異端や相反する中で暮らすことです。

部外者や異端者の条件反射まで理解し体感をして、同じ生命体が持つ体の喜びを共有することです。

そうでなければオウム真理教のように、「一つ」に戻るという大義名分の下に他の命を抹殺してもかまわないという結末を迎えてしまいます。

もし真の正しさを実行したいのならば、その前にしなければならないことがあるのです。

これができた者だけが、正しさの矛盾を語り、より微細なエネルギーを体現化することができるのです。

このプロセスを踏まないと歩いている道は蜃気楼のように見えなくなっていくと思います。

 

また「絶対の正しさ」の旗を振りかざすものは、ピューリタンと同じ残虐性を併せ持ちます。

この正義に知行合一、直接介入、神の国の思想が加わってしまうと、自分達の外側にいる者たちを踏みつけることに躊躇しないようになっていきます。

他人の間違った正しさをちゃんと大切にする者は、どんな状況でも、絶対の正義の旗は決してふりません。

静かに胸の奥で抱きしめているだけです。

たとえば戦争によってお互いの親兄弟を殺されて心底から憎しみ合っていても、停戦した時には同じ食卓を囲んで宴会を開いた周代、春秋時代、戦国時や代三国志の逸話のように。

いくら頭の中で平和を唱えていても実際に憎んでいる相手と直に空気を共有しないと、抑圧された憎悪はいくら綺麗な言葉や思想で一時的に覆い隠したとしても、抑え込んだ力の分だけ反発力が逆に大きくなって、表に現れ出てしまいます。

強い感情を大脳皮質の理念では抑え込むことができないことは、前章に書いた通りです。

これが生命体の自然の法則です。

 

しかし、そんなに悲観的になることはありません。

これを読んでくれているのならば、それだけの余裕があって、きっと今晩は食べるものも寝るところも心配がないのでしょう。

こんな素晴らしい時空間なんて、生命史の中でもそうそうあるものではありません。

私たちは天からも恵まれていて、ちゃんと呼吸ができるほど幸せです。

これからは、異身同心、同じ痛みを感じるコンパッション、同じ苦しみを体感できるシンパシー、他者の自動反応回路を理解し、考え方が違っても相手の立場に立って行動することができる智性から始めてみることが可能です。

 

このような順番の階段を踏まないと、現実は生命にとって難しくなるだけです。

目の前に大義があるからといって、単純に飛びつこうとしても、奈落の底に落ちるだけです。

たとえば、ローマ神話のレーテーLetheの水を飲んでしまい、すべてを忘却し、また同じことを繰り返してしまうように。

 

目の前にあるのに触れられないことが、悔しく感じるでしょう。

怒りもこみ上げ、時にあせりと不安から眠れない夜もあるでしょう。

それでも理念の正しさの前で踵を返し、理念中心の世界に背を向けて、一見では細くて弱弱しい道であっても、歩いていることで、確かで安らかにゆったりと進んでいくのはいいものです。 

それは自分の一代では届かぬ道かもしれません。

子供がいない人にとっては血がつながっていなくても、ちゃんと次の世代につながる道です。

それは結果のない道です。

でも歩いていることだけでこころが楽しくなる道です。

はじめは孤独に感じる時があるかもしれません。

でもこの寂しく感じるのは吉兆のサインです。

 

心の中にいる自分に出会えると、そこから世界は他者につながります。

するとすべてが一つにつながり、お祭りのように一緒に呑んで食べて踊る体感と、心やすまる静寂の体感が私にはありました。

 

 

嫌な過去を書き換える技     深層意識を修正する

自動反応回路を否定することはありません。

この回路によって私たちはサバイバルできる確率が高まり、生命の保持にとっては大切な装置です。

たとえば、熱湯がかかると瞬間的に逃れたり、埃がたつと瞬きしたり、怖い野犬を見たらすぐに逃げる体勢をとったりする動作(反射)は、いちいち大脳で思索して結論を出さなくてすんでいるのはこの回路のおかげです。

 

しかし、この回路が過剰に増えてしまったり、滅多に起こらないパターンなのに決まった反応を繰り返してしまったり、はじめから間違った因果関係を結んでデザインされたものならば、この回路は弱体化するか、書き直すか、もしくは消去するのが便利です。

 

やり方は、回路ができあがった時空に戻って(記憶をたどって思い出すことで、再現して)、同じことを繰り返す時に、できるだけ心が安定できるように工夫するのがコツです。

興奮や緊張や不安や歓喜の臨場感がないようにします。

できるだけ心を穏やかに保つことです。

回路は興奮することで強化されるメカニズムになっているからです。

 

 

たとえば、小さい頃に犬にかまれた経験から、成人になっても犬を見ると体が反応して緊張してしまう場合や、犬を遠くに見ただけでも鳥肌が立ち、恐怖を感じ避ける行動をとってしまうケースをみてみましょう。

このように体に反応がでるのは、過去におきた臨場感のある事件によって体内に自動反応回路ができてしまったためです。

過去に嫌な思いをしたので、それが再発する可能性がある場合には、事前にそれを避けるために、犬を見たという信号を受信した時点で鳥肌や嫌悪や逃避態勢の準備といった回路が自動的に作動するのです。

 

そこで過去の事件の記憶上に、犬を見ても体が反応しない新たな回路を作成してみましょう。

そのためには、事件の犬を自分の空想を使って、襲ってきた怖い存在である犬を、こちらの都合で可愛いものに置き換えていきます。

脳内の神経回路では記憶の再現と実際の行動と未来の妄想(過去/現在/未来)は同じ回路であり、違いは臨場感による回路の太さなので、恐怖のもとで作られた回路の上に、心が平静な状態で同じ状況を再体験することで回路は弱まります。 

コツはできるだけ平静な状態でそのシーンを繰り返して想像することです。すると回路は弱くなりやがて消滅します。

 

 

よく使われるのは、「映画館のスクリーンに映っている自分の姿」を使う方法です。

登場人物は3人で、スクリーンに映っている自分、客として席に座って映像を見ている自分、そして映画館で映写機を回す管理人の技師です。

 

スクリーンに映っているは、事件に会った時の過去の自分

スクリーンを見ているのは 現在の私

スクリーンに映像を流しているフィルム技師は、この場を自由に扱える魔術師の私だと仮定してみます。

 

鍵を握っているのはこの場を管理しているフィルム技師で、観客の私が平静心でいられるように、CGと音声を変えることができます。

例えば鳴き声を恐ろしい吠え声から可愛い鳴き声や好みであれば牛の声などにアフレコしてしまいます。

また、恐ろしい犬の姿を小さくしたり、ブチ模様にしたり、毛を剃ってみたり、怖くない存在にまで変換させていきます。

また噛まれた体験だったのを、犬が尻尾を振っていたり、じゃれついてきたりする姿に置き換えます。

それでもまだ恐怖があるようならば、犬の方がこちらに怯えているウサギのような小動物にしてみます。

 

主導権はフィルム技師が握っているので安心です。

犬が恐ろしいどころか、笑ってしまうキャラにまでしてしまう想像をしてみます。

それができれば、映画のはじまりです。

スクリーンに映っている小さい頃の楽しい私と犬の姿が流れ、次にそれを楽しく見ている観客の私を思い浮かべます。

そして慣れてきたら、だんだんと元の過去の映像に近づくように少しずつ修正していきます。

もしケガをするほどに噛まれたのでなければ、幼児にとっては犬が大きく、噛みかたはきつかったかもしれませんが、大人から見ればその犬は小さく、噛み方も甘噛みだったかもしれません。

ポイントは怖くならない平静心で常に見られるように、少しずつCG加工を元に戻すこと、そして繰り返すことです。

 

例えば梅干しを外人が見ても唾液が出ないのは、梅(プラム)の保存法は世界では砂糖漬けが多いので、すっぱいという経験がないからです。そこで、日本人も梅干しではなく、砂糖漬けのプラムを実際に食べることを45回ほど繰り返していると、プラムを見ても唾液は出ないばかりか、砂糖漬けとあまり外見が違わない梅干を見ても平気になります。

しかし、その後に梅干を何度か食べるとまた唾液が出るようになります。

これが自動反応回路のメカニズムです。

 

恐怖症の解消のコツをもう一度まとめてみると 

1.          安心      これから映し出す映画は本人である技師がコントロール出来ることを確認。

2.          映写機を動かす技師、スクリーンの映像、それを見ている自分を設定します。

3.          恐怖体験を安全で怖くないCG加工の映像に変換するイメージをして、映画を流します。

4.          終わったらまた最初のシーンまで早送りで巻き戻し、怖くない程度に実写に近づけていきます。

5.          平常心をたもち、大丈夫だと思えるまで繰り返します

 

これで自動反応回路は弱体化されます。

そして、これを他の自動反応回路にも適用するためにも、もう一度、自動反応回路の特徴を考察してみます。

 

 

自動反応回路から解放されるためには

まずは私たちが支配されている自動反応回路のメカニズムや存在欲の機能を発見する。

自分の意識的な行為に関係なく、勝手に働くのが自動反応回路の特徴なので、以下のようなことが起こります。

・わかっちゃいるけど、やめられない

・怒っても何も変わらないのは分かっているが、怒ってしまう

・努力しなければならないが、怠けてしまう

・嫌われることを知っているのに自我を通す

 

生命体の根本的特徴

生命体=細胞の集合体である肉体+分けるモノ(ココロ)。

この細胞とココロから生まれるのが存在欲です。

そして、ヒトは神経管が発達しているのでプラスαの「自我」も生まれてくる。

 

自動反応回路+自我+知ることができると思う妄想+体験していないことを確信する盲信が、生命体の根本的特徴だと上座部仏教では説きます。

そしてこのようなことを理解しようとしないことを「無明」と呼び、これも生命体の特徴です。

 

自分の外側にあるものを見ているだけでは、いくら知識や意識が高い人もでもこれらの特徴を見つけることも気づくこともできないので、これらは潜在煩悩と呼ばれ、パーリ語のanuayaのこと。

この煩悩を言語化したのは釈尊だと上座部仏教(小乗仏教)ではされている。

仏教では「貪瞋痴」と呼ばれている生命体の本能も煩悩である、と言う。

このエッセイでいう自動反応回路とはこの「貪瞋」によって作られた回路のことで、欲愛と怒りに対しての「こだわり」を生み出してしまう。

 

 

生存にこだわり、生存しなければならないと思ってしまう理由

肉体は常に刺激を欲しがるのが本能であり、特性であることから、細胞は刺激に依存しているとも言え、生命体はこの依存によって生きようとしてしまう。

そこで、この肉体の依存の無いところに永遠があると思い、肉体を超越しようとする執着も生まれるが、これは怒りの感情である、と上座部仏教では言う。

 

ありのままの現実をみることができない「無明」の力

ヒトが生命体の本能に気づけないのは、自動反応回路によって、表層意識が働く前に行動を起こすことで問題もなく生きていけるため、ありのままの現実や本能に気づく必然性がない。

これを無明と呼び、仏教でいう存在欲の「貪瞋痴」の一つである「痴」のこと。

無明とは、自分の本能を知ることができなくなる病気のこと。

ありのままの現実を知る必然性がこの世にないことから、それを知ろうとしないのも無明の力。

無明がないことを智慧という。

 

自動反応回路の作り方

ヒトが覚醒している間は休むことなく自動反応回路が作成されている。

回路の作成に必要なものは、感覚器官からの信号と、それに自動的に付随する快と不快のタグと、臨場感のある生存欲や恐怖感。

この脳を含めた器官の感覚信号に快と不快のタグ(チップ、印)が自動的に付随してしまうことは、はじめは気が付かないもしれませんが、私の場合は山道を一人で歩いている時に確認したことがあります。

何でも好きと嫌いや、快と不快に分けられちゃうんだなと感じました。

 

すべての感覚の信号には知らない間に、快と不快と「どちらでもない」という3種類のタグ(チップ、印)が付けられる。

快のタグが付けられたものには近寄っていき、

不快のタグが付けられたものには遠ざかっていく特徴がある。

感情のレベルで話をすると、好きなものとは接触しようとし、嫌いなものとは距離をとろうとすることです。

 

そして次には、タグの付随した感覚の信号が神経管を流れた時に、心(気持ち)が興奮や恐怖の状況だと、この感覚信号と判断と行動を一つに結びつける自動反応回路が勝手に作成されてしまう。

 

たとえば黒い蛇に噛まれて苦しんだ場合や、蒲焼きの香りを嗅いだ後にそれを食べてとても旨かった場合に、自動反応回路が作成される。

生命が環境に適応したり、変化(進化や退化)したり、生存率を高めるために、効率化を目指す生存欲求の特徴である。

この本能があるのは、素早い反応でき、生命維持をする確率が上げる効率化ためだと推定する。

 

自動反応回路の弊害

自動反応回路のデメリットは、インプットに対してアウトプットを固定してしまっているので、TPOに相応しくない反応もしてしまい、あまりにも粗くて雑な判断になってしまうところ。

詳細な状況に応じて対処できないのが致命的な欠陥。

たとえば、黒闇でくねった物体がチューブであったとしてもそれらしきものを見るたびにビクッと飛び上がってしまったり、腐った魚であろうとタレの香りを嗅ぐとウナギだと思ってかぶりついてしまったりするという行動にでることがある。

 

生命史においては、とても便利で生存率を高める装置ではあるが、現代文明の急速な発展の中で生活すると刺激(電気信号)の数が多すぎるので、自動反応回路を大量生産してしまい、常に反応をし続けるようになってしまっている。

そして、しまいにはこの自動反応回路によって、自分が操作されていることにも気づかなくなる。

こうなると、のんびりしたくても勝手に体や脳が反応してしまい落ち着いて暮らせない。

また、一面的なデータや科学や権威やブランドや原則や原理を個々のTPOで吟味せずに単純に信じてしまう。

 

リベラルが保守を意識が低いと馬鹿にし、保守はリベラルを机上の空論だと頑なになるのも、この自動反応回路によることが多い。

 

 

自動反応回路を作成しない方法

大まかにいって二つの方法がある。

 

1 始めの感覚信号に快・不快のタグをつけない。

2 心情をゆるやかにすることで、作成される回路の強度をできるだけ脆くして、消え去るのを待つ。

 

1に関して

感覚信号に付随すタグは快と不快とどちらでもない、という3種類ある。

快と不快の二つの場合に限って、回路が作成されるのだから、始めの段階で、できるだけ好き嫌いの判断をしないようにして、ただ感覚信号を気づいているだけにするように試してみる。

たとえば嫌いな味である新しい果物を食べた時に「まずい」と過剰に反応するのではなく、ただ「私は食べている」という感覚にスポットライトを当て、「好みではない」ことを認識するだけにする。

 

2に関して

心情をゆるやかにすることで、興奮や恐怖などの緊張した状況に陥らないようにする。

そうはいっても、勝手に快・不快の反応をしてしまうことも多いが、その時に落ち着いた穏やかな心でいることで、回路はすぐに消えるような脆いものとなる。

回路は心情の緊張具合によって、すぐに消え去るものから、一日は残るもの、数日、数週間、数か月、数年と強固さに違いがある。

もし数十年にわたる強固さがあっても心配する必要はない。

そのような場合には、その自動反応回路に感覚のインプットが入る時に、できるだけ落ち着いて穏やかな心でいられる訓練を積むことで、その回路の強硬さがだんだんと弱いものとなり、最後には消え去ることでアウトプットは出なくなる。

 

自動反応回路がある限りは、その回路の影響で、マインドはこの二種類の色眼鏡を通して世界を把握し続ける。

これでは、目の前にあるモノのありのままの姿を観ることなどはできない。

すなわち、生命が「無明」である状態が続いてしまうのである。

 

 

自動反応回路を消すのに有効なのは諸行無常の体感

生きていたい衝動である細胞の存在欲には終わりがない。

しかし、執着から離れることはできる。

それは、感覚信号をはじめ、自動反応回路や、自我や、言葉や、概念や、世間や、物質や、宇宙は常に変化し続け、どれ一つも同じ状態でいることができない、ということを実感することである。

 

頭で理解するのではなく、一瞬一瞬にそれを常に感じていれば、AはBであるという因果関係は成り立たないので、何物にも固執する理由がなくなるので、自動反応回路は作る意味もなくなり、その作成をやめてしまう。

前にも後にも同じものがないのならば、ABはこの世には存在しないことになる。

これを科学的にいうと、意識は顕在であろうと潜在であろうと、一つのことにしかスポットライトを当てられない性質のものなので、諸行無常の変化に気づき続けていれば、脳は自動反応回路を作成することができなくなってしまうからだ。

 

 

無明を消すには無明があるという事実を見守っているだけ

「無明がある限り、三種類の渇愛が現れてくる」と釈尊は生命体の深層を分析した。

常に刺激を求める欲、刺激に依存することで生きようとする欲、肉体の依存を超越しようとする欲の3つ。

 

そこで「生命はなぜ無明を根本原因にして限りなく輪廻転生していくのか?」という事実をしっかりと観てみる。

すると、これだけで無明も、生きていたいという渇愛が弱まってしまい、最後には消えてしまい、そして輪廻転生が終わる、と上座部仏教の長老は言う。

なぜならば、無明という存在があることに気づき続けていれば、無明の最大の特徴である「自分(本人)が知らないうちに行動してしまう」という武器が使えなくしてしまうからである。

無明は意識されないことが強みであるのに、無明にスポットライトを当て続けられると力はどんどん弱まってしまう。

 

この世の支配者、生命体の創造者は無明   

生命体は無知の衝動で、無知に支配されて、無知のために、無知の奴隷として、無知に追われて、無知に脅かされて、無知に束縛されて生きている。

これが生命体はロボットであり、回路に操られ、自由がない理由である。

無明の別名はカミ、カミとは人格化された無明のこと、という解釈もできます。

 

生かされている目的は?

無明が目的、無明のために生かされている。

これを残酷と理解するか、無明の支配のおかげで、そこから解放されてありのままの現実を知る喜びのチャンスがあると理解するかは各自の解釈にかかっている。

ありのままの現実とは、宇宙の法則を体感し、讃歌し、「わたし」もその宇宙全体の一部であることを実感すること。

 

 

 

瞑想や坐禅を実践することで、自動反応回路は解除される

具体的な方法は、一つのことにスポットライトを当て続けて集中することや「気づき続ける」こと。

 

瞑想とは

勝手に走り回っているマインド(表層意識)をストップさせること。

まずは外からの刺激(信号)が入らない環境をつくる。

また外側からの音や匂いが感じた場合は、ただ、音が聞こえている、匂いがしていると、受け止めるだけで、その音や匂いが何であるのか、どこから来るのか、といったように分析はしないで、ただその瞬間だけに気づき、静かにしている。

すると気づくことができる信号は自分の内側から発信されるものだけになる。

次に、各自が持つ貪瞋痴(欲愛、怒り、無知)に関わるとマインドはストップしないので、これらと関係のないことを単純に念じて、思考や感情をストップさせる。

好きでも嫌いでもない、感情が働かないことに意識を集中させるのがコツ。

すると自分の中に、自分の感覚を観察する「わたし」が現れてくるので、この「わたし」で自分の感覚や心情の変化を見守るようにする。

 

瞑想とは貪瞋痴から離れることで、思考の荒波を弱めていくこと。

荒波がなくなれば一つのことを冷静に考えることができ、集中力が生まれる。 

瞑想している時に雑念が浮かんでくるが、これに対して嫌悪感を持つ必要はない。

嫌悪感を持ったら、瞑想をして回路を除去しようとしているのに、また新たな回路を作ることになってしまう。

どんな雑念であっても、それを穏やか心で見守っていることで、心の緊張は低下するので、この雑念が生まれてきた回路が弱まっていくからである。

これらを科学的に的確に実践する技術が瞑想や坐禅。

 

上座部仏教では、気づき続けることを大切にし、

大乗仏教の禅では、姿勢よく坐禅することを大切にする。

大乗仏教の禅については、まだ体感中なので、実践している方がいらっしゃればご教示ください。

どちらも外界からの信号を遮断する環境の中にいて、内側から発信される信号(痛み、雑念、妄想、思考、予測など)を落ち着いた状態で、肯定も否定もしないで見守ることが共通点である。

 

マインドを慈悲にする

相手の立場を自己に投影してみる。

相手を他人ではなく自分として見る。

慈悲の「慈」とは他の生命に対しても自分と同じように楽を与え、

「悲」とは自分と同じように苦(dukkha)を取り除くことを望む心の働きのこと。

 

パーリ語のduとは「悪い」という意で、kha は「空間」や「穴」の意であり、車軸が真ん中を通っておらず、乗り心地の悪い状態に由来し、転じて「不快」を意味する。

現代語の「苦」は具体的には、肉体的な苦痛と精神的な苦痛であるが、この仏教でいうdukkhaは現代語の苦とは違い、「苦しみ」、「虚しい事」、「不完全である事」、「無常である事」の4つの意味が含まれる。

 

こうして慈悲の見地からこの世に接すると、自他を区別する意義が減少することで、好き嫌いと判別して評価する価値もなくなり、自動反応回路を作成する理由がなくなってしまう。

また、もし自動反応回路が作成されても、弱い構造のものとなり消え去りやすくなる。

 

現代文明と「苦」 

現代情報文明のように利便性を追求して苦をなくして楽に生きようと努力したら、その分だけ想定外の新たな苦が生まれ出て、それらに呑み込まれてしまう。

いくら人知を使って頑張ってみても苦が増えることがあっても減ることはない。

 

「わたし」という気づきの主体

人は自動反応回路(感情)に支配されると、「わたし」は呑み込まれて自我(エゴ)が発動する。

人は思考している時には自己が中心軸となり、「わたし」のいる場所はない。

しかし、人は変化に気づいている時にはじめて「わたし」が主体になることができる。

「わたし」とは知る者、観察者とも呼ばれる全体意識のことで、この「わたし」を主体にすることで、中層意識や深層意識に気づくことができる。

 

ではどのような変化なのか?

それは感覚(痛み、寒さなど)、動作(呼吸、歩行など)、感情(怒り、妬みなど)、想い(心に浮かぶものが生まれては消えていくこと)、自己(表層意識は仮の姿で常に生まれては消えていく)の変化のこと。

 

脳機能学や身体論で表現すると、

「わたし」が大脳辺縁系に寄り添っている時には感情的な状態で、「わたし」は埋没し自我が現れ、

「わたし」が大脳皮質寄り添っている時には思考している状態で、「わたし」は埋没し自己が現れ、

「わたし」が循環器系器官に寄り添っている時には、「わたし」は波動と諸行無常を体感し、

「わたし」が消化器系器官に寄り添っている時には、「わたし」は自分と他者が一つにつながっていることを体感している。

 

これから先を私は体感していないが経典によると、この「わたし」というのも仮の中心点でしかないので、次の段階になると、「わたし」も消滅して、自分と他者を分けることもしなくなる、とタイの僧院では導師に言われ、経典にも書かれている。

 

段階別の「意」   考察、体感途中

自我意識    EGO     自分を優先する  感情によって操られている状態

自己意識    SELF     周囲との関係を考慮し、自己を基準にして思考して行動する

自己意識過剰  意識の高い人  自己を信じている人  科学や理念を鵜呑みにする傾向がある

自意識    「わたし」という観察者  自分と他者を区別する ゾウリムシも自他を区別する自意識がある   

思考(理性)や自己の限界を自覚できる意識

全体「意」   自他の区別をしなくなることから、判断をする関心や必要もなくなり、判断からも離脱する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考エッセイ

普通の宗教や普通の道徳では、汚れがあるから汚れをすべて洗い落としなさい、というが、上座部仏教ではそういう事は努力をしてみても達成不可能のことだから、むしろ汚れがあるとかないとかという境地を乗り越えて、本来の自分の状態になることを勧めている。

回路をなくすことではなく、上書きすることでもなく、回路を消したり上書きをしたりするという次元から離脱することを勧め、その方法を具体的に実践している。

しかし私にとっては回路という考えを軸にすることで、上座部仏教をより解釈しやすくなると思ってエッセイ(試論)にしてみた。

私自身はまだ実践中の身であり、得度を受戒した僧でもないので、わからないことや体験していないことも多いので、ミャンマーやタイやインドの僧院やパーリ語経典や上座部仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書から学んだことをまとめたものである。

 

 

上座部仏教の場合

上座部仏教では、自我意識、自己意識、存在欲、自意識とは何か、と4つの段階の無明を破り、「意」に至り、この世のありのままの姿を体感でき続けるように毎日を暮らす。

 

無明 avidy´ パーリ語  無明の反義語は「智慧」

生命体の本能や宇宙の真理や縁起の理を知らないという無知。

縁起の法則によって、ヒトだけではなくすべてのものは、宇宙の自動反応回路に操られているので、この流れを一度止めて、流れの源泉である無明に気が付くことで、流れを逆にすることができ、最終的には無明から解放される、と上座部仏教の長老は言う。

 

7つの本能と仏教の解脱

欲愛  快の刺激に執着してしまうこと。

怒り  不快の刺激を拒否することに固執してしまうこと。

見解  TPO(時代、文化、地域、関係性)により解釈というものは変わってしまうことに気づいていない。

    象を触る6人の盲人の共通点は触ることで「知る」ことができると思っている事。これが潜在煩悩

実際には触ることで事実の一端には触れることができるが、それだけでは象の心理状態や条件反射や精神性を知ることができないことに気がづかずに自分の把握した事実に固執する

慢   自意識のこと。生命とは自分と他者を区別するモノ、もしくはその集合体。  

    脳細胞を持たなくてもこの自意識はある。 ゾウリムシも自分と他者を区別する自意識がある。

    脳がなくても心臓がなくても、すべての生命体は自意識を持っている。すなわちココロがある。

    ヒトの場合は、根本的な自意識の中に、社会的な関係性の自己意識、個を優先する自我意識がある。

    自我意識∈自己意識∈自意識

    真理を会得しても、「慢(自意識)」は残るので、これが消滅されるのは阿羅漢の段階になってから。

存在欲 命が現れたということは、存在欲があるということ。すべての生命に本能としてあり、起源はない

無明  煩悩の親分  

生命があるところには無明がある。 ココロの本能。

    生き続けることを優先させるので、これを邪魔するものはすべて見なかったようにする。

    自意識、存在欲、自我、自己はさまざまな原因の組み合わせによって一時的に現れる現象。

    しかし、これらを常にあると思ってしまうのが無明。

 

解脱のプロセス 4つの段階

まずは「意」の集合体と肉体を分離させ、

次に「意」の集合体から、操られている「自我」を分離させ

それから「意」の集合体から「自己意識」を分離させ、   

最後に外と内を区別する「自意識」が消え去り、純粋な「意」となるのを、修行をして待つ。

 

はじめの離脱で、肉体と「意」の集合体は同一でないことを体感し、

次の離脱で、自意識を使って、自我と自己があることに気づくことを体感し、

それから、「自意識」がこだわっている幻想に気づくことを体感し、

最後に、どの生命体もが持つ「自意識」が消えていってしまうのを体感する。

 

具体的な例としては、

まずは、体を長時間にわたった動かさない訓練をすることで痛みと自分を同一視しないようにする。

次に、(歩行)瞑想などで感情(自我)と思考(自己)が「わたし」とは同一でないことを確認し、

それから、感情の根底にある存在欲を潜在意識の中に探索し、その存在欲とは貪瞋痴の3つであることを分析して理解し、ヴィパッサナー瞑想でそれらの変化を気づき続けて、区別する意識へのこだわりをなくす。

最後に、「わたし」という自分と他者を分けている自意識が消え去るのを、修行を通して待つ。

 

はじめの2段階をクリアーした人を私は知っていますが、最後の段階をクリアーした人がいるという話はミャンマーやインドで聞いたことがありますが、まだ会ったことはありません。

 

「生きると何か?」がわからないのに必死に生きようとしている「わたし」

自動反応回路による衝動で生きている生命体。

無明が私たちを生かす衝動である。                                             

生命体ははじめからココロの病気に陥っている。

生き続けたい、死を避けることを優先させて、「いま・ここ」にいる意味に気づいていない。

ここでいうココロとは「分ける機能」のこと。

 

生きるとは何?

生きるのは何のためなのか?

 

ブッダの脳開発プログラム

原始脳は成長も退化もしないので、開発の対象外。

細胞には存在欲はあるが、ただ、爽やかに?生まれ、穏やかに?消滅していく。

原始脳はこの細胞の消滅を嫌い、怯え、恐怖し、そうさせない自動反応回路を作り続ける。

大脳はこの自動反応回路のアウトプットの影響で、心配して悩む。

 

自動反応回路のため、余計な怯えや悩みが生じ、その影響で細胞組織の寿命は縮む。

心配や悩みがあると細胞の寿命が縮み、悩みがないと細胞組織は寿命をまっとうできる。

これを大脳に理解させることがまずは第一にすること。

そしていくら存在欲が生きたいと必死であり、原始脳が作り出した自動反応回路がそのようにプログラミングされていても、大脳がこれに応じずに働かないと、自動反応回路は作動しなくなる。

大脳は原始脳が作った自動反応回路の指令を遂行しないことで、主導権を原始脳の自動反応回路から大脳に移し、原始脳は他の生命維持の自動反応回路を作成する仕事をこなすことになる。

 

脳のプログラムを上書きする方法    

生まれたままの状態から不必要なプログラムを取り除き、新しいプログラムに置き換える。

このプログラムを私は完結した体験がないので、上座部仏教の話を私の解釈でまとめたものです。

 

1 脳の働きを一旦止めてみる      生きることに取り憑かれている脳に休息を与える

2 新しい目的の設定          五戒を守る    心を浄める

3 慈しみ

4 妄想・雑念を制御する

5 集中力を高める

6 ありのままに観察する能力を育てる

先に言っておきますが、これを完結するには厳しい戦いになります。

私にはまだこれを実施する必然性を心底から感じられていませんが、内容は大変に興味があります。

 

1新たな回路を上書きするために一度システムを止める

まずは、自動反応回路が作動してしまう今までの大脳の動きを止めてみます。

そうすることで新しい回路が作れる可能性が生まれます。

 

作ろうとしている回路は存在欲をも乗り越える回路です。

誰も過去に試した前例が極めて少ないので、新規加入者は誤った回路を作ってしまうことがあります、これが宗派だと上座部仏教では解釈します。

生きる目的をサバイバルではなく何か別の大胆なものにセットして、大脳にこれまでと違う仕事をさせるのがポイントです。

自分で自分の大脳の回路を上書きする必要があるので、完結するには厳しい訓練が必要です。

回路の設計図を作る前に、覚悟と決心が必要です。

 

2 大きな目的

大脳に作る回路の目的は生存欲に代わる大胆なものが必要です。

ここでは、心の浄化にします。

心の浄化とは脳の中にある自動反応回路を減少させ、そして全滅させることです。

上座部仏教では五戒(殺生・盗み・不倫・妄語・酩酊の戒め)を守ることから修行をはじめます。

原始脳が作成する回路の基盤を生存欲(渇望や怒りや恐怖が根源にするもの)なので、それ以外の場合は大脳に新たな回路を作らざるを得なくなります。

「心の浄化」は生存浴ではないので、原始脳は回路を作りませんが、「安心して生きたい」という原始脳の欲求には反していないので、細胞の生存欲や原始脳の機能とは矛盾していないので、新しい回路の作成に反することはない。

五官器官に過剰な刺激がない環境の中で、安心に満たされた状況の下で新回路を作成します。

そうすることで原始脳が新たな自動反応回路を作る機会もなく、また過去に作った自動反応回路も作動しないので、自動反応回路から大脳への無理な要求もなくなり、大脳は自動回路の信号を抑圧したり無視したりする必要もなくなるので、大脳は葛藤がなくなり、安らぐことができる。

理性を司る大脳を使い、大脳に新しい回路を作成の過程では、スポットライトは大脳にいつも当たっているので、もし以前に作られた生存欲を基盤にした自動反応回路から起こる感情が湧き上がってきたとしても、その無意識に流されずに、気づいていることができるようになる。

この新しい回路を作成している間は、安心して気持ちよく過ごすことがポイントである。

「心の浄化という回路」を生まれてはじめて利用していても、危険のない快適な暮らしであれば、これが成功体験となり、回路を定着させる鍵となる。

やがて、この成功体験が繰り返されても生存に障害がなければ、「心を浄化して生きることが自然である」、という回路が大脳に加えられる。

生命の「生きていたい、死にたくない、なにがなんでも生き続ける」という存在欲と恐怖感はそのまま残存するが、心を浄化させて生きることで、自動反応回路は減少するにつれて、生存欲と恐怖の感情の信号を発する機会も減り、大脳は「いま正しく生きているから、将来において死んだとしても良い結果になるに違いない」と自信(盲信)をもって自分を肯定できる。

すると、以前に作ってしまった自動反応回路は完全に消えていないので信号が大脳に送られるが、それに気づいていられることで、葛藤も抑圧もせずに肯定的にその信号を選択しないようになる。

この新しい回路を作ろうとする意志を続けるコツの呪文は

「おのれのこころを清らかにしなさい。それがブッダたちの教えです。」

と唱えて宇宙全体がこの新たな試みを肯定している感覚を保つことである。

 

3慈悲

次に、「自我」の錯覚を破ることを目的にしたプログラミングをします。

慈悲の実践をすると自我の錯覚が弱くなり、自我のあちこちがほころびてくるからです。

これまでは存在欲と恐怖心で自分を守ることを目的にしていたので、強固な自我を必要としていましたが、他者の存在を大切にすることで、自我の殻が強固である必要がないばかりか、他者の立場に立つことで、自我の殻はかえって邪魔になるので、自我そのものが弱まっていきます。

ただ、このような慈悲の実践をやったほうがいいと思うだけで実践しなければ、大脳に新しい回路は書き込めません。

原始脳は「手段を選ばず自分だけ生きていればいい」というわかりやすい自動反応回路を多く作り出しているので、そこからアウトプットされる指令(信号)は大脳にはまだ届きます。

ただ大脳がこれに気づけるようになっていれば、これまでのように自動反応回路のアウトプットによって無意識に行動してしまう回数は激減します。

そして今度は、逆に大脳から原始脳にメッセージを送ります。

それは「他の生命体も自分の細胞と同じ気持ちである」という当たり前の宇宙?の法則です。

そして、今度は原始脳に意図的に新しい回路を作ることを試みます。

回路を強く太くするためには、自然界の法則である「繰り返し」が有効です。

繰り返すことで新しい自動反応回路は強くなり、これまでの「自分だけ生きていればいい」という自動反応回路を使う回数が減ることで、原始脳で作った以前の回路はだんだんと弱体化していきます。

「誰でも生きていたい」というのは嘘ではなく正しい情報なので大脳にとってもストレスにはなりません。

 

「生きていたい、死にたくない」というのは何が主語なのかが分かっていると、その後に実践する「ありのまま」の状態が見やすくなります。

37兆の細胞の中のどの細胞や組織が生きたい、死にたくないといっているのであろうか?

細胞の実態は新陳代謝によって、次々に死んで、また生まれることを繰り返しているだけです。

人体では一秒間で500万個の細胞が生まれ、同時に500万個の細胞が消滅しています。

どの細胞も生きたいとも死にたいとも思っていません。

細胞は存在欲がありますが、最高司令官がいるわけではなく、ただ生成しては消滅しているだけです。

ここで「自我」の登場です。

この自我が「生きたい、死にたくない」と言っていると推察するしか道理は合いません。

ですから、この妄想を生み出す自我の錯覚がある限りは、大脳に新たな回路が完全に定着することはありません。

 

そこで慈悲の実践です。

「慈」(梵maitr)とは他の生命に対して楽を与え、

「悲」(梵karuD苦(ドゥッカ)を取り除くことで、抜苦与楽を望む心の働きのことです。

 

「私だけではなく一切の生命は幸福に生きていきたいのだ」というメッセージを大脳から大脳辺縁系(原始脳)に発信し続けるのです。

するとこれまでに脳にあった「私だけ、他と違った特有な私です」という自我を使う機会が減少するので、自我は徐々に弱っていきます。

使わないものは退化するというのが自然の法則です。

 

このプロセスが進むと、「自分と同じように他者も同じ気持ちを持っている。これはどの生命体もみな同じだ」という回路が強化され、「特有な自我」という錯覚は弱まりはじめます。

ただ、この段階でよくある勘違いは、人権や平和などの理念の実現を唱えている人たちが自分は自我が無い状態であるという思いを主張することがありますが、これを自我の消滅とは仏道では呼びません。

平和の実現は各自の心の中でなされるもので、調和という理念によってこの宇宙は変革されるものではなく、この瞬間に宇宙はすでに完全なる状態である、という見解です。

そして、各自の心の平静が完結されると、その結果、この世も素晴らしいものになる、というのが一般的な仏教の見解です。

 

また、都会文明とは脳にとっての都合の良さを目指している時空なので、その中では自我が表に出ないことを目指しているので、本人が自分には自我がないと自覚している人がいます。

しかし、それは隅々まで人工のシステムによってサポートされているから自我が表に出にくいのであって、その範囲の外に出たら、どのようになるのでしょうか?

この都市文明の外に出ても自我がないことを自覚できるのかどうかがポイントです。

自己啓発セミナーや瞑想ビジネスは、無菌室のような特殊な状況の中での自我が減少する方法を説きますが、実際のストレスの高い職場や現実の中では、このような方法での自我の減少には困難が伴います。

 

では、どのような方法が慈悲の実践にいいのでしょうか?

最初は「すべての生命が幸福でありますように」という言葉を念じても「偽善ではないか?」と疑いがあるでしょうが、繰り返すことで、回路は強く太くなります。

私自身も念じている人たちを初めて見た時には偽善を感じましたが、ポイントは他人が偽善なのかどうかではなく、自分自身が本当に他者の幸福を望める瞬間があるかのかどうかです。

もしあるのならば、それを願うことで回路は太く強くなります。

まずは自分自身や自分の愛するモノや好きな人や家族や友人や仲間から始めてみるのが有効だと思います。

また、すべての生命に思いをはせることで、自分のサガに気づくきっかけになるかもしれません。

もし訓練が進むと、自分が嫌いな人、自分のことを嫌いな人まで範囲を広げて幸福を願うようになれれば、自我の必要性はますます減少していきます。

 

慈悲の実践者は賛同者の協力を簡単に得られます。

そして敵の数は減り、仲間の範疇が拡がります。

すると他者の幸福を思いながら、自分自身が生きていることは事実になります。

自分がちゃんと生きていることは原始脳でつくられたサバイバルのための自動反応回路の目的とも合致するので、だれも慈悲のメッセージに反対する理由がありません。

そして他者の幸福と自分の生存とは同時に成り立つという事実を積み重ねると、これが成功体験となり、大脳に新たな回路が加わります。

「生きていたい、死にたくない」ということを目的とした自動反応回路からのアウトプットがなければ、大脳は安らかな状態を保ち続けることができ、その間は、主導権は生存欲の自動反応回路から大脳に移行しています。 

 

2の目的と3の慈悲は同時に実践するのが効率的です。どちらも試行錯誤があるので時間がかかるからです。

そして、「なぜ殺生はいけないのか」ということを経典や僧や師から言われたからからではなく、理性を司る大脳を使って自分自身で理解する必要があります。

また、なぜ慈しみの実践が必要なのかということを自分自身で学んでいくことも重要です。

まずは、どの生命体も必死に生きたがっている、とありのままの現実の姿をちゃんと見ます。

すると殺生をしないことと慈悲との関係性に気がつくことでしょう。

ですから、どちらか一つだけだと大脳には新しい回路はできません。

理由は2つを実践することではじめて自分のサガに触れることができ、その意味と強い感情が回路を強化させるからです。

 

4妄想

自動反応回路(たとえば、PTSD、条件反射)が妄想を作り出す。

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はじめに考察したように、影と光の回路、チェスの市松模様の回路があると、ABが同じ色に見ることができない。

このように、普段の自我のままで、この世と関わっていると、ありのままの現実を見ることができず、脳はこれまでに学んだパターンをただ繰り返して模倣するので、目の前のありのままの事実とは違うイメージを現実だと思って暮らしている。

そして、私たちはこの妄想に大事な人生の時間が浪費されている。

 

実は、妄想と自我と自動回路の根本は生存欲で一つにつながっている。

どれもが生存欲によって生み出されている。

自動反応回路が妄想を生み出しているのは上記のとおりだ。

そして自動反応回路のインプットは存在欲であり、またこの存在欲によって自動反応回路は作成され続けている。

生命体は生きようとし、便利な自動反応回路を作るのは、当然のことである。

しかし、ただ生きるためだけならば、僅かな欲で十二分であるのに、このような自動反応回路を大量に作ってしまうと、回路に操作されるようになる。

嫌な仕事や不正なことをしている時でも、「飯を食うため」と、大脳は言い訳をし、次に「生活のため」と言い訳をし、自分の作り上げた妄想の世界のルールに従って、自分が貪瞋痴の欲望の中にいることを自我は認めようとはしない。

そして、もし回路のアウトプットに依存するようになると、この生存欲は貪瞋痴というモンスターになり、あまりにも多くの誤謬を生み出し、しまいには相手を抹殺しようとするまでに激化する。

人類史にこれまで起きた領地拡大の戦争や、正義のための革命のように。

 

自分に生存する欲が低まれば、私や私のものに執着する必要性は低下する。

自分に生存する欲が高まると、私がはたす役割はより重要になる。

このように、自我と生存欲は深く関わり、生存欲によって自我の強度は変化する。

むさぼったり、怒ったりする必要がなければ、ヒトは穏やかにしていられ、体を緊張させる必要もなく、ボーとしていても大丈夫だ。

ただ生存するという最小限の欲ならば穏やかに暮らしていけるのだが、多くの場合は自動反応回路が主体となり、時にそのアウトプットに依存してしまうと、これはもう渇望と憤怒が自分の主人となり、周りの環境に関係なく、自分の強い感情を優先させるようになる。

このような時は、感情の自動反応回路が主体となっているので、ありのままを見るのではなく、自分の貪瞋痴の感情を満たすには何が有効なのかという基準、すなわち自我を基準として見るので相違ができる。

これが妄想である。

このように自動反応回路が主体となる行動を起こすと、自我が活性化し、その結果、妄想の世界の住人となるのである。

そして、この妄想が今度は逆に貪瞋痴の感情を掻き立てて、相互に連鎖反応を起こす。

このような貪瞋痴によっておこる相互作用の刺激による妄想が精神病の原因である。

 

こうなると新たな回路を加えない限りはこの妄想の世界から外に出ることができません。

ヴィパッサナー瞑想はこの妄想を制御するところから始まります。

ヴィパッサナー瞑想とは、外界からの信号を遮断して、自分の内側からの信号にスポットライトを当て、平常心を持って、その信号の変化にひたすら気づき続ける訓練のことです。

 

この過程で、徐々に妄想が弱くなって代わりに智慧が現れます。

すなわち、回路に頼らずに、ありのままの姿をそのままに体感しはじめます。

この文脈での智慧とは、自分の脳が勝手に情報を編集しているのに気づいていくことも含まれます。

言葉を変えれば自動反応回路を発見して、それが機能しても、もう以前のように無意識で情報を受け入れるのではなく、「いま・ここ」では、ある信号を受信し、それに自分はある反応をした、という事実を認知する(気づく)力も智慧です。

なにも特別のことではありません。ただ、鼻の先に風を感じたな、とか、母親の料理を思い出したがもうどこかへいってしまったな、とかのような変化に気づいていることを続けるだけです。

智慧が完成すると、自動反応回路がなくなり、ありのままの状態だけが見え、そこから思考をすることができるようになると禅師は言います。

推測で作り上げた妄想の中に住む自分から「いま・ここ」の自分への移行です。

表層意識だけの世界から、中層意識も含めた世界へのシフトチェンジです。

これまでの統計的確率で表層の波の現れを予測して行動する生活パターンから、予測はやめて波の形をみてから行動する機会を一日の中に取り入れてみる試行、といろいろと表現できます。

 

参照)

生命体は大脳辺縁系だけではなく、細胞レベルにも自動反応回路がある。

走性や屈性や反射です。

たとえば植物のように脳がなくても、触ればそれに反応して葉が閉じるオジキソウのように。

これらは書き換えることは基本的にはできないとされていますが、もしこの反射によってその生命体が滅びていく事例が増えていくのならば、突然変異ともよばれる反射を起こさないパターンや神経管の進化を取りやめる種に変化(進化)する可能性もあります。

たとえばホヤは幼生期には神経管があるのに成熟期になると退化して神経節になったり、ニハイチュウはいっさいの神経組織を捨ててしまったと考えられているのように。

 

このエッセイでは自動反応回路が悪いと言っているのではなく、多くは生存のために必要な機能であるが、自動反応回路を基軸にして「主体」としてしまうこと、そしてそれに依存してしまうことで、ヒトは妄想の中でパーリ語のドゥッカ(苦)という不完全で満足ができない生活を送ることになるので、必要のない自動反応回路があるのならば、それらは取り外そうという提案です。

 

5集中力

原始脳は長時間の集中力よりも、あちこちの変化に気づくことを優先します。

突然に現れる敵や、落ちている木の実に気が付くことが「生きていたい」「死にたくない」ためには大事です。

原始脳が刺激を求め続ける環境の中で、大脳が落ち着いて集中するのは難しいことで、やってみると苦痛になります。

そこで、大脳に集中力を経験させたいのならば、まずは気を散らさない環境を作り、次にその中で呼吸など一つのことに意図的に集中してみることです。

五感や感情や雑念などからの刺激をインプットさせないことで自動反応回路を作動させない環境の中に身を置くのが、集中するコツです。

集中が継続すると、大脳は落ち着き、快感物質のドーパミンを放出し、この快感をガソリンとして、集中をまた続けることができます。

 

6 ありのままに観察する能力を育てる   大脳の捏造をやめる

始めに必要な自覚は、脳は常に編纂(捏造)している、という事実です。

脳は入力された信号を無意識が望んでいる都合に瞬時に変換して、新たなイメージに編集(捏造)します。

また、同じ魚の死骸を見ても、見る主体にとって都合の良いように情報を編集します。

ある人とってはご馳走、他の人にとっては嫌悪の対象です。

また、同じ人であってもその日は何も食べていなければ食料に見え、満腹であれば汚れているもの、と見えるかもしれません。

また午前か午後や、雨か晴れや、誰と会ったかによってや、その日のニュースによっても、魚は違って見えます。

すべての情報は編集されてイメージになります。

これは概念とも呼ばれ、イメージ別に作られた籠のようなもので、仏教では五蘊の「想」SANNAのことです。

思考のすべては編纂(捏造)された概念なので、大脳に新しい回路を加える時は、思考(妄想・雑念)を控える訓練をする必要があります。

ヒトは常に思考をしてしまうものですが、訓練することで思考という障害をある程度までは抑えることは可能です。

これができれば捏造を停止させる問題に取り掛かることが可能になります。

 

では、どのようにして捏造をやめるのか?

たとえば「クモがいた。怖い!」とか「熟れた柿の実だ、美味しそう!」と感じたとします。

これも、視覚からのデータに、以前に学習されたパターンを無意識のうちに当てはめたものがアウトプットされたものです。

このパターンが作られる過程は次の通りです。

はじめに、体験があります。柿を食べるという行為です。すると甘い柿、渋い柿などいろいろな結果が出てきます。そこで法則性をみつけ、ある形や色は甘い柿、この形や色は渋い柿だとパターン分けをします。

次に、この甘い柿の視覚データには存在欲を源泉とする「快」、(また渋柿には嫌悪の「不快」)のタグ(チップ、印)が無意識のうちに付随されて、それらを果物や柿や秋や朱といった共通点で囲ったカゴに分別されます。

それから、このカタチや色は快、あのカタチや色は不快という回路を作成します。

最後に、新たな柿を見た瞬間に、回路が発動して、美味しそうとか、渋そう、という判断をしています。

実際には目の前の柿が本当に甘いのかどうかもわからないのに。

こうして、快(欲求)か不快(恐怖)のタグ(チップ)のついた感覚データを基礎素材として自動反応回路が作成されます。そして、これが、脳が捏造をする原因になります。

 

ですから捏造しないためには、

五官にどのような信号が入っても、なぜだろうというような思考にいたるスポットライトをあてることなく、概念を作ることなく、評価することなく、ただ「見えている」「聞こえている」と、信号があることだけを確認して、それにまつわる関連情報は遮断して、信号をただの事実だけにする訓練をします。

たとえば、苦い渋柿ではなく、朱色の柿がある、

きれいな音楽ではなく、音が聞こえている、

おいしい刺身ではなく、味がしている、と確認するだけなのですが、初めてトライする時には、難しい訓練になります。

大脳に新しい回路を作成する最終ステップなので、難しくても仕方ないと、新しいチャレンジは面白いと思うのが楽でいい、と上座部仏教の長老は言います。

 

ありのままを観るとは、自分とは、肉体という物体と、感じるというココロの働きで成り立っていることがわかることです。

肉体も変化して流れ、感覚も変化して流れます。

自分とは決して、止まって固定化されている個体ではありません。

個体だと思うから存在欲が続くのです。

心の自動反応回路のアウトプットに依存することで、存在欲は貪瞋痴というモンスターになり、この自動反応回路に支配されてしまうのです。

瞑想の実践は「瞬間瞬間、自分という体と感覚が変化していく」ことを発見することを目的にして始めます。

 

最初に自分の感覚の変化について実況中継をしてみます。

今の瞬間の自分を実況します。

例えば、いま鼻の右穴から空気を吸っている、左足の踵が地面に着いた、白い麺のようなものを右奥歯ですりつぶしている、などなどです。

実況することで、脳に妄想が現れなくなります。  

なぜなのでしょうか?

メカニズムを理解するために、脳は以前に学習したパターンを推定(統計的確率論や原理や法則や体験や信仰)で当てはめていくクセがあるので、ありのままを見ることをさぼる(省略する、節エネルギー)性質があることを確認します。

 

次に、表層意識は一時に一つの事しかスポットライト(関心、注意、マウスのポインター)を当てることしかできず、一つのことに集中すると後のタスクは自動反応回路に任せることになるのでいくつかの例を書き加える

実況しているとそちらに表層意識が働いてしまい、意図的に妄想を繰り広げていくことができなくなるからです。

しかし過去に学習してパターン化された編集の様式(切り取り、当てはめ、置き換え、コラージュ)はまだそのままです。

 

このメソッドを続けていると、身体と感覚の変化の流れが激しいことに気づきます。

それを実況中継していると、潜在意識がデータを編纂(捏造)している余裕がなくなります。

この訓練によって、ありのままに物事を観察する能力が徐々に育まれていきます。

よく使う筋肉は発達し、使わなければ退化していくように。

こうやって、ありのままを見守るようになってくると、これらに寄り添うことで真理を発見すると長老は言います。

その結果、感覚できるものはどれも執着するに値するものは何一つもないのだという発見をする、と言います。

自動反応回路によって得るイメージはどれもありのままの現実とは違う妄想なので執着しても無駄な努力であることを実感します。

このようにあらゆる感覚信号に関連情報を付随させない訓練が成功すればココロは解放されて解脱に達する、と経典や上座部仏教の長老は解説します。

この訓練には指導者が必要です。

自分では自分の捏造した概念がなんであるかは本人にはわかりようがないからです。

 

このプログラムを完結するには、激しい闘いになることをはじめに覚悟を決めることが大事です。

覚悟することで、何回も失敗しても落ち込むこともなく、失敗を過程の一つとして楽しみ、最後まであきらめることなく、精進できるようになると、長老は言います。

 

 

瞑想に成功すると脳の中に新しい神経回路が現れる

ニーチェのいう「超人」を2600年前に釈迦は提案していた、と私には見えます。

新しい回路によって、自動反応回路の指令を真に受けて反応しない大脳になります。

原始脳も存在欲、怯え、貪瞋痴に基づく回路を作成し続ける必要性がなくなると、生命維持の事実に即した回路だけを作成するようになる。

すると、切羽詰まった緊急の最優先を要する信号がなくなるので、大脳は穏やかに、安穏に、活動できるようになる。

自動反応回路からの信号を無視できるようになった大脳は妄想をする必要がなくなる。

妄想がなくなると貪瞋痴がなくなる。

こうなると逆に大脳から原始脳に信号を送ることができる環境になる。

今までに消費してきた妄想のエネルギーを使わなくて済むので、今度は大脳の方から原始脳にメッセージを送信して、原始脳にも新しい回路の作成を試みる。

たとえば、自分に怒りがある瞬間に、これは自分にとって嫌な信号がインプットされ、それに反応する回路が自分の中にあり、自分が無意識のうちに怒ってしまっていることに気づく自動反応回路です。

また、区別を自分の内外に見つける度に、これは「一つにつながった世界」が目で見える時にはカタチになっていることに気づく回路などの作成です。

「波と海」の譬えでは、波を見る度に、それを生み出した海中に思いを馳せる回路です。

このような回路を作成できると、原始脳は存在欲をガソリン(刺激)とするエンジン(自動反応回路)を作ることが極端に少なくなり、だんだんと存在欲を減少させることができる。

ここまでくると、大脳は「細胞が生きているか、死んでいるか」や「自分の死はどのようになるのか」という心配などは消えることになる、と言う。

こうなると、今度は大脳の方が、どのようアプローチで身体に対応するのか?を判断して、その信号を原始脳に送信できるようになる、と上座部仏教の長老は言います。

 

新しい神経回路を持つ人の性格

自他の区別がなくなると、他人の幸福にオープンな気持ちで関わるようになる。

執着がなく、怒りがなく、ありのままの状態を体感している。

 

一般人は食欲の為に殺生をしようとする原始脳と殺生をしたくない大脳の葛藤で行動します。

神経回路を上書きできた人は、殺生する意欲が起きない。

嘘をつく必要がない人間になっている。

怒る理由がない人間になっている。

判断する必要がない人間になっている。

ENLIGHTMENT(悟り)とは外側に向かっていた関心を自分の内側に向けて、ありのままの状態を見て、それに気づいていることで、何か特別の超能力を身につけることではありません。

 

 

 

真理を発見する四段階   上座部仏教における解脱へのステップ

1.第1段階   「意」から自我が分離されて、自我が不必要であることを体感する。

 

真理を発見すると「教えに対しての疑い」が消える。聖職者も無意識のレベルでは自分の修行や師の教えに疑いを持っている人が多いが、この段階でその疑いが消える、と長老は言う。  

自分がやってきた修行が本当に救済につながっているのかどうかを確認することができる。

聖職者がまだこの第一段階に至っていない場合に、救済を過剰に強調することで自分を説得している場合がある。

 

見解の執着が消える .     戒禁取(誤った戒律・禁制への執着)  

TPO(時代、文化、地域、関係性)により解釈が変わってしまうことを実感する     

象を触る6人の盲人の共通点は触ることで「知る」ことができると錯覚することで、これが潜在煩悩である。

 触ることで事実の一端には触れることができるが、それだけでは象の心理状態や条件反射や精神性を実際に知ることができない、ことを体感し、解釈の固執する意義を感じなくなる。

ソーダパンナ(預流果)

 

.2段階   有身見 (無我)  自分と他人を同じよう扱う
  基準が表層意識から中層意識に変わったので、自我を主体にすることがなくなり、所有欲も消え去る。

三毒(貪・瞋・癡)が薄まっている。

→サカダガーミ(一来果)          

 

3 第三段階   過去に作られた自動反応回路が完全になくなる。

 欲愛の貪りと憤怒(瞋恚)が完全に消え去る

存在欲がなくなる   五下分結(三結+貪カーマラーガ・瞋パティガ)が絶たれている。

→アサーガーミ(不還果)          

 

4 第4段階   「意」から「わたし(区別・観察者・慢・自意識)」を分離させる

最後に外と内を区別する自意識である「わたし」が消え去ることで、区別がなくなり、無明がなくなる

→アラハン(阿羅漢) 

 

四向四果(解脱の10ステップパーリ経蔵[5]による)

到達した境地()

解放された

苦しみが終わるまでの輪廻

預流

1. 有身見 
2. 
(教えに対しての疑い)
3. 戒禁取
(誤った戒律・禁制への執着)

下分結

最大7回、欲界と天界を輪廻する

一来

一度だけ人として輪廻する

不還

4. の貪り(カーマラーガ
5. 憤怒
瞋恚, パティガ)

欲界及び天界には再び還らない

阿羅漢

6. 色貪
7. 
無色貪
8. ,
うぬぼれ
9. 掉挙
10. 無明

上分結

三界には戻らず輪廻から解放

Source: Ñāṇamoli

 & Bodhi (2001), Middle-Length Discourses, pp. 41-43.

 

釈尊は三毒(貪・瞋・癡)を避けなければならないと言われた。

この三つの状態に陥ったときには智慧がどこかへ行ってしまうからである。

 

曹洞宗 道元禅師は「身心脱落」「只管打座」と言われた

ものを考えるでもなし、                 つまらんことは考えるのはやめる

感覚的に囚われた状態でもない              感覚的に刺激を受け入れる状態から離れる

さまざまな普段私たちが囚われているものから脱け出す   二つの「間」があることに気づき

坐禅の意味がある                    「間」に実際にいることを実践する

 

 

 

参考資料

生存しようとする理由

欲愛  Kama tanha      肉体は常に刺激を欲しがるのが特徴

存在欲 Bhava tanha      細胞は刺激に依存しているので、これによって生きようとしてしまう

破壊欲 Vibhava tanha     肉体の依存の無いところに永遠があると思い、肉体を超越する怒りの感情

 

生命体は感覚信号にタグをつけて3つに分けてしまうので無明である

Avijja     無明  ありのままの現実を発見していないこと  無知のこと

Tanha  渇愛   無明であることによって、生まれてくるのが渇愛

 

宗教における無明とは

一般的な宗教では、魂の存在に気づかないこと

イスラム教では、絶対的な神の存在に気づかないこと

ヒンズー教では、梵我一如であることに気づかないこと 

しかし、気づいたとしても、それは「命は脆い」ことを誤魔化す慰めでしかない。

絶対的な神に気づいたとしても、それは「6人の盲人と象」のように、他者の神の否定につながる可能性がある。

ヨーガによって体験しても存在欲を強化した結果になる。

理由は、自動反応回路を消滅させたり、書き換えをしたりしていないから。

 

生きているモノの定義

生きているものは

@           内側である自分を感知している。

A           外側である環境を感知している。

だから微生物や植物は勿論、生命体である。それに対して石は生きているとは言えない。

しかし石の集合体は惑星の一部であり、この惑星は星の系の一部であり(地球と太陽系)、これらは爆発と凝縮を繰り返しているので、長いスパンで見るとこれらも「生きている」とも言える。

 

命の定義   ココロとの違い

ココロは私の造語なのであるが、伝統的には「意」や「宇宙意識」や「大いなるもの」と呼ばれている。

命とは、生きていたいという一つの目的をもったモノの集合体。生命体のこと。

ココロとは「体感する機能」のことで、これが生きていたい気持ち(欲求、本能)を生むので、ココロの機能を精査して調べてみると、そこに生きようとする衝動があることがわかる。

命∈ココロ

 

縁起 Paicca-samuppāda      

The Chain of Conditioned Arising; causal genesis. The process, beginning with ignorance, by which one keeps making life after life of suffering for oneself

すべてが「空」から生じ、この宇宙でカタチになり、また「空」に戻っていくことを繰り返していることを実感して存在している時には、自動反応回路は生じない。

しかし、何か一つに固執した時には、縁起の法輪が動き出し、回路に操られる存在となってしまう。

 

至福感

たとえマインドが把握していることが幻覚であっても、マインドに他者との一体感が生じたら、その人が至福感を感じることができます。

しかしこの他者(神)との一体感で、究極の真理を知ったかのように感じてしまうのは誤解だし危険です。

単調なものを繰り返すと、何も考えない状態になり、自我意識のないトランス状態に入れます。

たとえば、音楽、踊り、ヨーガ、マントラ、ドラッグを使うと一体感を得ることはできるけれども、その時には智性は働かず、これまでに作ってしまった自動反応回路を消したり、上書きしたりすることはできません。

ですからこれでは煩悩は消えず、智慧(智性)も成長せず、マインドは潜在意識を理解することができません。

ただ我を忘れる経験を神秘体験だ、覚醒したのだ、宗教体験だ、一体感だ、と大脳は説明して理解するだけです。

この状態は、なにか激しいことを長い間やり続けて我(表層意識)を忘れることだとも説明できます。

このような方法によって起こる一体感にはいくつかの弱点もあります。

それは対象に依存して、対象をいつも必要としてしまうことや、相変わらず自動反応回路によって動かされることや、この至福感は一時的なもので、日常生活では使えないということです。

 

根本衝動は「この時点から起きたと、始原を設定することができない」  

生きたいという根本衝動=無明。

この無明には枠がない。枠がないものは、因果関係を使って解決することができない。

しかし衝動を終わりにするには、「内側の観察」によって可能である。

 

無明を消すにはありのままに観察するだけ

無明がある限り、三種類の渇愛が現れてくる。  

そこで「生命はなぜ無明を根本原因にして限りなく輪廻転生していくのか?」という事実をしっかりと観てみる。

するとこれだけで無明も、生きていたいという渇愛が弱まってしまい、最後には消えてしまい、そして輪廻転生が終わる、と仏教は説く。

気づいていることとは、無意識ではいられないということなので、無明の唯一にして最強の力である「気づかないうちにアウトプットしてしまう」という武器を使えなくしているからである。

無明がないことを智慧という。

 

この世の支配者、命の創造者は無明と渇愛   

生命は無知の衝動で、無知に支配されて、無知のために、無知と渇愛の奴隷として、無知に追われて、無知に脅かされて、自由はなく、無知に束縛されて生きている。

別名はカミ、カミとは人格化された無明のこと

 

 

コラム  調理とは毒づけのこと?

健康にいい食材に腕をふるって調理して、ごちそうにしてしまうと、それは健康に悪い代物になって、体に負担をかけて死を早める。

味覚にとって美味しい料理とは、体にとっては過剰な塩、砂糖、油、食欲を増加させること。

食べ過ぎ

過度な熱処理

過度な欲望

過度な脳活動

副交感神経の不活性化

消化器系器官の活動低下

血管、血脈の硬化、プラークの生成

美食を否定しているのではない。

私も美味しいものを食べるのが大好き。

ただいつもグルメなのではなく、時々というのがヒトの体にはいいということ。

 

意識の段階と分析

 

 

身体

neurology

状態

メンタル

の喩え

大脳

a posteriori cerebric

観察者

Knower観察者

マインド

変化する波の法則

辺縁系の影響下の大脳

a priori  cerebric

思考

  Self 自己

マインド

型にはまった波の連続

辺縁系

limbic system

感情

Ego 自我

波の作成機械

脳幹・五官

the brain stem

感覚

自我

変化する波

循環器系器官

Cardiovascular organ

波動

自意識

こころ

生滅する波の瞬間

消化器系器官

Digestive system

融解

自意識

こころ

海中

体内細菌

bacterium

繋束

ココロ

全体性

 

マインド      表層意識

心         感情、無意識

こころ       内臓の中層・深層意識

ココロ       宇宙の「意」    腸内フローラの「意」

 

 

生命体=細胞(の集合体)+ココロという「分ける力」 

この二つから存在欲が生まれ、ヒトの場合には自我意識が生じる。