サーンキヤ学派の特徴
「サーンキヤ・カーリカー」イーシュヴァラクリシュナ 4c
カーリカー 2行からなる詩節 73(68+5)の詩節からなる
インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 宮元啓一 著
サーンキヤ学派Sāṅkhya-darśanaとは、
インド哲学の学派のひとつで、世界の根源として、精神原理であるプルシャ(神我、自己)と物質原理であるプラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的実体原理を想定する。
厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。
Sāṅkhya(サーンキヤ)は「数え上げる」「考え合わせる」という意味だが『マハーバーラタ』においては、知識によって解脱するための道のことを意味していた。
開祖は4bcのカピラで弟子にアースリ、その弟子にパンチャシカがいる。
時代を遡れば『リグ・ヴェーダ』にあったもので『マハーバーラタ』の一部をなす『バガヴァッド・ギーター』(紀元前数世紀ころの文献)に残されている。
『ブッダチャリタ』Buddhacarita仏教僧侶である馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の著作とされるサンスクリット原典の仏教叙事詩にもある。
馬鳴はクシャーナ朝で活躍した代表的な仏教文学者だが、本作は後の時代のグプタ朝において進められることになる仏典のサンスクリット化の先駆でもあり、また、超人的存在としての仏陀を、説話や比喩の多用で表現する仏教文学を、確立・大成した作品ともされる。
『仏所行讃』は『ブッダチャリタ』を曇無讖が漢訳したもので、大正新脩大蔵経には第4巻本縁部No.192に収録されている。
16世紀後半になるとヴィジュニャーナビクシュが『プラヴァチャナ・バーシャ』という、『サーンキヤ・スートラ』についての注釈書を著したが、これは勢力優勢なヴェーダンタに追いつくために有神論的な考え方を採用したものである。
最終目標
自己が世界に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(カイヴァリヤ)で、輪廻の苦しみから根絶されて得られる絶対的な幸福に至る。
二元論 相入れない二つの永遠なる実在であるプルシャ真の自己とプラクリティ自性があると考える
科学の思考型式と類似性が高く、現在の宇宙論ではプラクリティ(無、根源の自然)からエネルギーが発生(流出、展開)し、終わりにはまたそこにすベテは戻っていくと考えている。
ただ科学は自性の物質のレベルしか扱っていない。
ヨガを実践している人はプルシャ魂(観照する主体)よりもプラクリティ肉体(根本原質)の方が波動が高いので驚くと思う
女性原理のほうが男性原理より波動が高い。
インドの二元論哲学
精神原理であるプルシャ(神我、自己)と非精神(物質)原理であるプラクリティ(自性、原質)を峻別して、
プルシャがプラクリティを観照することで、プラクリティから世界(身心や環境など)が流出した、と考える。
cf.デカルトは実体を精神と物質に分けて、この精神的物体をマインドとした。
カントは自己(超越論的統覚としての自己を構想した)と心を分けて考えた。
パラアートマン(ブラフマン)に達した人類は5人だけ
ヤージュニャヴァルキヤ 7bc ウパニシャッドの哲人 自己論
サーキンヤ哲学は輪廻について誤解していたが何故このように考えたのか?
輪廻するのは肉体だけで、微細心から上のレベルでは輪廻しない。
ブッディ(心)に8つの諸状態がありその中の知識を除いたものが解脱することを束縛すると誤解して信じているのは、ヴェーダ以来の無知に由来する。
ヨガを実践する人のガイドブックとしては分かりやすくて十分であり、目的地まで単純に書かれているので使い勝手がいい。
ただ哲学には誤りがあり、論理的につきつめると矛盾が生じたり、厳密性を著しく欠いている記述があるので注意を要する。
自性から器官が生まれてくる順番についてはわかりやすいが、これは瞑想修行する時の順番の説明と現れてくる順番の説明であって、実際の因果関係ではないことが矛盾を生み出すのだがこの哲学の疑問、そして誤謬の原因となる。
たとえば原質から心が出てきて、そこから我執が出てきて、そこからマナスが出てきてと書かれているが、なぜマナスからそれらが出てくると考えないのであろうか?
たとえば眼がアハンカーラやマナスから生まれてくるのではなく、自性から生まれる。
また微細心であるブッディが何度も肉体に入ることが輪廻であるとしているが、微細心は物質界ではなく幽界に属しているので、実際には物質界(欲界)の輪廻には関係がない。
またサーキンヤ派はプルシャ自己はプラクリティ自性以下の存在とは別であり自由であるので、はじめから解脱している、と説く者もいるが、解脱とは肉体が物質界(欲界)から離れることなので、これを解脱とは呼ばない。
ブッディは、プラクリティから展開して生じたもので、認識・精神活動の根源であるが、身体の一器官にすぎず、プルシャとは別のものである。
ブッディの中のラジャスの活動でさらに展開が進み、アハンカーラが生じる。これは自己への執着を特徴とし、個体意識・個別化を引き起こすが、ブッディと同様に物質的なもので、身体の中の一器官とされる。
アハンカーラは、物質原理であるプラクリティから生じたブッディを、精神原理であるプルシャであると誤認してしまう。これが輪廻の原因だと考えられた。
自我(自己)意識(アハンカーラ)が思惟機能(buddhi)を誤って自己(精神原理)とみなした、のが誤謬である。
真の自己は自性の展開をじっと見守っている霊我(プルシャ)である。
サーンキヤ哲学における世界展開(二十五諦)
サーンキヤ学派は厳密な二元論を特徴とする。
世界はある一つのものから展開し、あるいはこれが変化して形成されるという考え方をパリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)といい、原因の中に結果が内在するという因中有果論であるが、ヴェーダ・ウパニシャッドの一元論や、プラクリティ(根本原質)からの世界展開を主張するサーンキヤ学派はこれにあたる。
精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、それに対し物質原理であるプラクリティを第一原因とも呼ぶ。
プラクリティには、サットヴァ(sattva/ सत्त्व 、純質)、ラジャス(Rajas/ रजस्、激質)、タマス(tamas/ तमस्、翳質・闇質)という相互に関わるトリ・グナ(tri-guṇa、3つの構成要素, 三特性、三徳)があり、最初の段階では平衡しており、平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。
サットヴァ(sattva純質)、ラジャス(Rajas激質)、タマス(tamas翳質・闇質)は
ブラフマー(創造)シヴァ(破壊)ヴィシュヌ(維持)に対応するのか?
自己puruṣaは認識対象とはならない認識主体でātmanのこと。
ātmanは世界内存在として扱われているなどの多義の解釈があったので、puruṣaという語句を用いた。
未顕現(avyakta)すなわち未分化のものとは原質prakṛtiのこと。
顕現(vyakta)とは流出・分化して現れ出た世界の諸原理(tattva)のこと。
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる。
プラクリティから知の働きの根源状態であるブッディ(Buddhi, 覚、マインド?)またはマハット(mahat, 大)が展開され、さらに展開が進みアハンカーラ(Ahaṅkāra, 我慢または我執, 自己意識。アハンは「私」、カーラは「行為」を意味する)が生じる。
自己が心を通して世界を認識するとして、得られたすべての認識は「私の認識」という烙印が押される。
これが「統覚」というもの。
アハンカーラの中のトリ・グナの均衡がラジャスの活動によって崩れると、これからマナス(意, 心根、Manas、思考器官)、五感覚器官(Jñānendriya、五知根、目・耳・鼻・舌・皮膚)、五行動器官(Karmendriya、五作根、発声器官・把握器官(手)・歩行器官(足)・排泄器官・生殖器官)、パンチャ・タンマートラ(五唯または五唯量、Pañca Tanmātra、五微細要素, 五つの端的なるものが展開して生じる。
パンチャ・タンマートラは感覚器官によって捉えられる領域を指し、声唯(聴覚でとらえる音声)・触唯(皮膚でとらえる感覚)・色唯(視覚でとらえる色や形)・味唯(味覚でとらえる味)・香唯(嗅覚でとらえる香り・匂い)である。
この五唯から五大(パンチャ・ブータまたはパンチャ・マハーブータ(Pañca Mahābhūta)、五粗大元素)が生じる。
五大は、土大(Pṛthivī, プリティヴィーもしくはBhūmi, ブーミ)・水大(Āpa, アーパもしくはJala, ジャラ)・火大(Agni, アグニもしくはTejas, テージャス)・風大(Vāyu, ヴァーユ)の4元素に、元素に存在と運動の場を与える空大(Ākāśa, アーカーシャ, 虚空)を加えた5つである。
ヒトは、5元素を5唯の知覚から、推論として知ることになる。
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。
「プルシャ、プラクリティ、ブッディ(マハット)、アハンカーラ、十一根(マナス・五感覚器官・五行動器官)、パンチャ・タンマートラ、パンチャ・ブータ」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。
(「諦(Tattva)」は真理、流出・分化して現れ出た世界の諸原理を意味する。)
ブッディ(マハット)、アハンカーラ、マナスの三つは内部器官ともいわれ、日本語のこころ(心)にあたる。
ブッディは「知るはたらき」をする器官であり、知る主体は覚ではなく霊我である。
ahaṅkāra アハンカーラとは
1ahaṅkāra refers to a physical organ which is part of the body 内的器官
2This ahaṅkāra is composed of the subtle element called ahaṅkāra.
3aham-vṛtti is the material nimitta cause or software which is loaded into the hardware called ahaṅkāra.
4The jīva’s I-ness is tightly bound with the aham-vṛtti software, and this causes the jīva to think that it is the body.
5The process of bhakti unties the knot between the jīva’s I-ness and the aham-vṛtti software, and reties it with a different program.
similar to how the eye is a physical organ for the subtle sense of sight. Just as the eye’s function is to facilitate seeing, the ahaṅkāra’s function is to facilitate the jīva’s identification with the body.
The physical location of the ahaṅkāra is the mulādhāra chakra in the body.
As the eye is the physical organ or seat of the sense of sight, the ahaṅkāra (upādāna) is just a seat of the ‘sense’ of “I-ness” (nimitta). The technical term for this sense is aham-vṛtti, and it is the software that gets loaded into the ahaṅkāra port.
The pure jīva, who is stripped of the subtle and physical bodies, is basically a being endowed with the sense of “I”. This pure “I-ness” is called aham-artha, but it has no predicate. When this pure “I-ness” is superimposed on the aham-vṛtti or software which is pre-loaded into the physical organ which is ahaṅkāra, the jīva thinks, “I am this body”. The tying together of the jīva’s pure sense of “I” with the software in the body called aham-vṛtti also has a term – it is called the hṛdaya-granthi or knot in the heart. Untying this knot, and retying it with a software of a different kind- “I am Bhagavān’s servant” – is accomplished by sādhanā bhakti.
Suppose there is a robot which says “I am Mr. Robot”. The software in the robot which makes the robot say that sentence is aham-vṛtti. The hardware which makes it happen is ahaṅkāra. The battery is the aham-artha.[Of course the analogy is not correct because the robot does not have I-ness at all. ]
By Swami Harshananda Sometimes transliterated as: Ahankara, AhaGkAra, Ahankaara
Ahaṅkāra literally means ‘egoism’.
Ahaṅkāra is that which produces abhimāna, the sense of I and ‘mine.’ According to Sāṅkhyan metaphysics, a large part of which is accepted by Vedānta, ahaṅkāra is the principle of individuation that arises after mahat or buddhi in the process of evolution from prakṛti (nature). It is regarded as a substance since it is the material cause of other substances like the mind or the sense-organs. Through its action the different puruṣas (individual selves) become endowed each with a separate mental background. These puruṣas identify themselves with the acts of prakṛti through ahaṅkāra.
At the individual level it makes the puruṣa feel that he receives the sensations through the senses and the mind, and decides about appropriate action, through the intellect. At the cosmic level, the five senses of cognition (jñānendriyas), the five organs of action (karmendriyas), the mind (manas) and the five subtle elements like the earth (tanmātras) are produced out of ahaṅkāra.
In some works of Vedānta, ahaṅkāra is considered as a function of antahkaraṇa (internal instrument or mind), responsible for ego-sense and possessiveness.
Ahaṅkāra as egoism or self-conceit is considered as a great obstacle in spiritual life and the cultivation of humility is prescribed as its antidote.
By Swami Harshananda
Manas literally means ‘that by which one thinks’.
It is an aspect of the antahkaraṇa or internal organ which is responsible for saṅkalpa or general thinking.
It includes willing and vikalpa or doubting. It is the combination of the sattva-aspect of all the five tanmātras or primordial elements.
探究心 jiñāsā philo sofia 兄弟的愛智
苦をよく観察し、それを滅ぼす手段を探究心を起こすのが哲学の出発点であり、これを原動力にして苦を滅ぼし解脱し、絶対的な幸福(安楽、寂静、涅槃、寂滅)に至るのが目的となる。
3つの苦
生きものに関わるもの ヒンドゥー教では胎・卵・湿・芽生の4 仏教は芽生の代わりに化生(神・地獄)
個体に関わるもの 身体的苦と心的苦の2種類
天に関わるもの 寒暑風雨雷など
仏教は植物を生きものに含まない?
ヴェーダ聖典を権威とし、欠陥を修正
解脱を目指すためには欠陥の修正が必要
ヴェーダの誤謬は時間は克服できない、と思っている。
知覚、推論、信頼すべき言葉の3種類が認識手段である。
認識対象はこの3種の手段によって存在が確定される。
知覚を越えたものの存在は、信頼すべき言葉によって確定される。
知覚にも推論によっても捉えられないものは、信頼すべき言葉によって捉えられる。
たとえば「インドラは神々の帝王である」「天界には妖精アプサラスたちがいる」
cf.唯物論者は知覚のみ、仏教徒は知覚と推論、ニヤーヤ学派は知覚と推論と類推と言葉、シャンカラ出現以降のヴェーダーンタ学派は知覚と推論と類推と言葉と論理的要請と不知(無の確認手段)による。
知覚、推論(∋論理的要請)、信頼すべき言葉(∋可能性・無・直感・伝承)
推論は標印(シンボル)と標印を有するものを前提とする。
信頼すべきものは梵天などの教師、信頼すべき言葉とは天啓聖典、すなわちヴェーダ聖典のこと。
推論の間違いは過剰一般化
時空を伴う因果 雲の大きさをみて降雨の量を推定する 雲になっていない大気を計算に入れていない
繋がっている残り 海の一部の塩分を図り、どの場所も同じ塩分だと推論する。
共通性(共時性?)A点にあったものがB点にあるのを見ると、そこに移動した運動が有ると推測すること
ここでフキノトウが出てきたので、あそこでも出てくるだろうと推測する
cf.ヴァイシェーシカ学派
インド六派哲学(ṣad darśana)の1つで、カナーダが書いたとされる『ヴァイシェーシカ・スートラ』を根本経典とする。一種の自然哲学と見なされることもある。
『ヴァイシェーシカ・スートラ』では、全存在を6種のカテゴリーから説明する。
言葉は実在に対応しており、カテゴリーは思惟の形式ではなく客観的なものであるとする。
カテゴリーは実体・属性・運動・特殊・普遍・内属の6種である。
主要なるものと従属要素は対
pradhānaとguṇa
自己が存在すると思ってしまうのは
非精神的なものである心があたかも精神的なものであるかのごとく顕われるから、非精神的なものの支配者である自己が存在すると誤謬される。
根本原理プラクリティが1つであるので、顕現した私の心、私の体と錯覚する。
他人も根本原理は1つなので、私に関わる世界と他人に関わる世界は別物である。
多数の自己に多数の根本原理がある。
知覚できないもの
遠すぎる 観測の外側にあるもの
近すぎる 眼膏 眼につける軟膏
感覚器官の損傷 聾唖者 色盲
思考器官の不安定 心が散漫な状態
微細であること 大気中の水分
遮断 壁に遮られている状態
圧倒性 昼間の惑星や星
混淆 鳩の中の鳩
主要なるものpradhāna(= 第一原因)、すなわちプラクリティは現象世界の根源的物質であり、現象的存在(個々の物)は全てプラクリティの変化によって生じたものは、微細であることから知覚されない。
どうすれば知覚できるのか?
プラクリティから流出した結果(心、我執、意識、5端、11器官、5元素)から原因を推論される。
プラクリティと結果のカタチは違うが、同質である。
如何に似ているのか? トリ・グナ(tri-guṇa、3つの構成要素, 三特性、三徳)があること
結果は原因の中にあらかじめ潜在的に存在するのか?
因中有果論satkāryavāda 流出論pariṇāmavāda サーンキヤ学派
因中無果論asatkāryavāda 新造論ārambhavāda ヴァイシェーシカ学派 ニヤーヤ学派
世界は無明が作り出した幻影 不二一元論 化現論 シャンカラ
因中無果論は原因が特定の結果を生ずるのは、原因の本性svabhāvaであり、シャクティではない、と主張。
新造論とは「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出す」
Śakti
ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。元来は「性的能力」を意味する女性名詞であるが種々の哲学的概念を意味する語としても用いられた。
その「性的能力(性力)」が地母神信仰と習合して、シヴァ神の礼拝においては彼の神妃を表わし、この神妃を通して表わされるシヴァ神の威力を象徴するとされる。シャクティの礼拝は種々の面を持つ。シャクティは愛情の濃やかな献身的な妻の化身であり、シヴァ神妃のパールヴァティーもサティーもこのようなシャクティに他ならない。
また、シャクティの恐怖面を表わしたドゥルガーやカーリーも女性原理としてのシャクティで礼拝され、いずれもシヴァ神の妃とされた。
タントラ教においては、シャクティは3つの色(白、赤、黒)に分かれており、ブラフマーの白色シャクティがサラスヴァティー、ヴィシュヌの赤色シャクティがラクシュミーと、シヴァの黒色シャクティがパールヴァティーを生んでいる。
4cから5cのインド哲学はシャクティ時代
7cからは宗教界のシャクティ時代がはじまる。
「顕現した心」という結果は「原因」がある。
原因hetu、ウパーダーナ、カーラナ、ニミッタは「心mahat」の同義語で、主要なるものプラクリティという原因が存在する。
それ故、元素にいたるまで顕現したものは原因を有する。
プルシャとプラクリティは偏在するが、他の顕現したものは偏在しない。偏在するものは運動しない。
顕現したものは輪廻する期間にあっては輪廻する。
輪廻転生の主体と解脱
古いヴェーダーンタ学派は自己が輪廻転生の主体だが、サーンキヤ学派は顕現したものに巻き込まれたために自己が苦しむので、顕現したものの輪廻転生が止むことが解脱である。
プラクリティは根本原理であるので常住で、輪廻転生が止んでも消滅しない。
解脱のあとは、プルシャとプラクリティとが無関係のまま永遠に存続する。
11頌 顕現と未顕現の共通性
サットヴァ(sattva純質)、ラジャス(Rajas激質)、タマス(tamas翳質・闇質)
すべての自己にとって、顕現したものは共通のものである。
顕現したものは非精神性であるので、楽・苦・迷妄を意識しない。
楽・苦・迷妄を意識するのは自己である。
12頌 3つの従属要素と快・不快・消沈
サットヴァ(sattva純質) 快 楽 照明 軽快 炎 神
ラジャス(Rajas激質) 不快 苦 活動 刺激・促進 灯心 人
タマス(tamas翳質・闇質) 消沈 迷妄 抑制・静止 鈍重・覆い 油 動物
貪瞋痴は純質・激質・翳質に対応しているのか?
受vedanā蘊のsukha、dukkha、adukkhamasukhāは純質・激質・翳質に対応しているのか?
受vedanā蘊のsukhaṃ dukkhaṃ は翳質、somanassaṃ domanassaṃは純質、 upekkhā はtri-guṇa、3つ質の平衡状態に対応しているのか?
8bcウッダーラカ・アールニ 有の哲学
唯一無二の有(sat)から熱が生じ、熱から水が生じ、水から食物が生じ、そしてその熱・水・食物の3原理が3重となり、有が自己としてその中に入り、かくしてそこから世界の森羅万象が流出した。
「ブラフマ・スートラ」を根本テクストとするヴェーダーンタ哲学は、「有の哲学」を下敷きにして、流出論的一元論を展開した。
欠点は、根本原理ブラフマンから流出した世界に不浄が混じるメカニズムと解決策を見つけられないんが難点。
対して、サーンキヤは自己と原質の2元が立てられ、3つの従属要素より成る原質から世界が流出したとするので、難点が解決されている。
8cシャンカラは低位のブラフマンからの世界の流出は、勝義よりすれば幻影であるとし、あるのは自己=ブラフマンのみの一元だ、と主張した。
16頌 神、ヒト、動物
自己が根本原質にスポットライトを当てると、激質が動き、流出が始まる。
3要素の純質が優勢ならば神々で楽、、激質が優勢ならばヒトで苦、翳質が優勢ならば畜生で迷愚
18頌 人人唯識
「私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、10人の人間がいれば10の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものです。」
すべての物事は、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考える。
これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。
他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子)が存在するからであると唯識では考える。
19頌 自己は観客、世界(根本原質)は踊り妓
自己は非活動で見るものである直証者。
20頌 自己は観客、世界(根本原質)は踊り妓
自己は身心・器官を介して世界を知る。
身心・器官は自己に近いので、身心・器官を誤って精神的なものだと錯覚する。
知ることは自己の本質だが、自己は行為とは無関係である。
「決意」は行為と直結しているので、自己の本質とは無縁である。
決意の主体は行為の主体であり、それは身心・器官などにほかならない。
自己が行為の主体であると見るのは錯覚で、解脱するためにはこれに気づく必要がある。
21頌 解脱のメカニズム
自己は足萎え、根本原質は盲、原質は自己を肩車して歩いている。
この肩車の結合によって、女と男の結合によって息子が生まれるように、世界の創造が生じる。
解脱の場所まで行くと、二人は別れることになる。
自己は原質が生み出した世界をみることによって輪廻転生の苦しみがあったのだが、自己と原質と世界を峻別することvivekanにより、世界の本質を見極める。
見極め終えた自己は、世界への関心を失い、自己自身の内に沈潜する。
この世界と完全に決別した状態を、自己の独存kaivalyaと言う。解脱のことである。
見極め終えた世界は役割が終わり、流出の逆の順序で、世界は原質のみになる。
原質は輪廻転生から完全に脱却し、原質は解脱し、自己は独存にいたる。
22頌 原質と心と意識の名称
原質 avyakta未顕現 māyā世界を生ずる幻力、brahman宇宙の根本原理
bahdhātmaka多様性を本性とするもの
心マインド mahat大なるもの buddhi覚知 sur心的なるもの mati思念 khyāti認識 jñāna知識 prajñā智慧
私の意識 ahaṇkāraアハンカーラ自我意識 bhūtādi万物の最初のもの adhimāna我慢
自己は心を介さないと世界を見ることができない。
認識には認識主体への統一的な帰属性が必要なので、そこで「統覚」である「私意識」が必要となる。
それで器官や対象の前に、まずは「私意識」が流出する。
色声香味触(五微細(パラマーヌ)要素, 五つの端的なるもの)から5つの元素が生まれる
ヒトは、5元素を5唯の知覚から、推論として知ることになる。
音声→虚空 空大(Ākāśa, アーカーシャ, 虚空
触感→風 風大(Vāyu, ヴァーユ
色形→火 火大(Agni, アグニもしくはTejas, テージャス
味→水 水大(Āpa, アーパもしくはJala, ジャラ)
香→地 土大(Pṛthivī, プリティヴィーもしくはBhūmi
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。
25の原理((Tattva)」は流出・分化して現れ出た世界の諸原理を意味する。
3界が25の原理によって遍満されていると知るヒトは解脱を得る。
「それ(tatt)の状態」「tattの存在」が原理tattvaである。
「プルシャ、プラクリティ、ブッディ(マハット)、アハンカーラ、十一根(マナス・五感覚器官・五行動器官)、パンチャ・タンマートラ、パンチャ・ブータ」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。
判断力とは心のこと
判断力adhyavasāyaとadhyavasāna(努力、試行、エネルギー、決定)とは同義語
判断力がある時、それが心の特徴
心は8肢からなる
功徳、知識、離欲、超能力(純質的4肢)
罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢)
功徳の特質は憐愍、布施、制戒(不殺生、不偸盗、不犯、無所有)、勧戒(清浄、知足、苦行、読誦、祈念)
2種類の知識jñāna
外的な知識によって世間より愛されることがもたらされ、内的な知識によって解脱がもたらされる。
外 音韻学、祭事学、文法学、語源学、韻律学、天文学を伴ったヴェーダ聖典、論理学、解釈学、法学
内 原質と自己についての知識
「これが原質であり、純質・激質・翳質の平衡状態である。
これが自己であり、その存在はおのずから確定しており、属性を有せず、遍満しており、精神的である」
2種類の離欲
外的 見た対象に執著しない
内的 「この世では、主要なるものも、夢や幻のようなものである」
25頌 激質的なものが伴うことで顕現する
純質的なものが圧倒されているときに「変異した私意識」から11より成る器官が生ずる。
翳質的なものが圧倒されているときに「万物の最初のもの(私意識)」から5つより成る一群の端的なものが生ずる
激質的なものが圧倒されているときに「私意識」から両者(11+5)が生ずる。
純質的なものと翳質的なものは活動を有しないので、激質的なものと結合したときにカタチが生じる。
27頌 意は思惟する器官である
意は、知覚器官の作用と行為器官の作用とを為す。
意は、思惟するから「思惟するものである」
意は、器官と共通の属性を有しているので、また器官である。
器官は最高神によって作られたのか?それとも本性によって作られたのか?
本性という何らかのものが原因として存在する。
本性により作られた従属要素の流出変化によって作られたのである。
主要なるもの・心・私意識は非精神的であり、自己も活動者ではないからである。
従属要素は非精神的であるから、現ずることはないのではないか?
「たとえば、知性をもたない牛乳が、仔牛の発育のために活動するように、主要なるものは自己の解脱のために活動する」第57頌
28頌 端的とは特化している専門家
「端的な」とは「だけ、のみ」という意味で、特化している、ということである。
29頌 期間に共通するものは風
5つの風(吸気、下降気、等気、上昇気、巡回気)はすべての器官に共通する作用である。
心とは判断力のこと 23
私意識とは我執のこと 24
意は思惟するもの 27
30頌 同時性
心・私意識・意・眼は同時に色を見て、判断する。
31頌 プルシャのために器官は活動する
意識は心の意図を知って、心は私意識の意図を知って、それぞれ固有の対象を理解する。
何のためにか?
自己プルシャのためのものは為さなければならない、という目的のために、従属要素は活動するのである。
諸々の器官は非精神的なものであるのに、どうして自力で活動できるのか?
他のいかなるもの(最高神、自己)によっても器官は活動させられない。
ただ一つ、自己プルシャのためというのが、器官を活動させる。
33頌 器官
内的器官とは心、私意識、意の3種類である。そして過去・未来・現在に関わる。
外的器官は5つの知覚器官と5つの行為器官の10種類である。
35頌 門と門番
内的器官は門番であり、外的器官は門である。
37頌 解脱に必要な認識の内容
3つの従属要素の平衡状態が原質である。
これは心である。
これは私意識である。
これは5つの端的なもの、11の器官、5つの元素である。
ここに別に自己があり、それらとは異なっている。
これらを心が知らしめてくることによって解脱が成立する。
38頌 寂静・熾烈・鈍重 貪瞋痴 理念 心 物質 神 人 動物
サットヴァ(sattva純質) 寂静 快 楽 照明 軽快 神
ラジャス(Rajas激質) 熾烈 不快 苦 活動 刺激 人
タマス(tamas翳質・闇質) 鈍重 消沈 迷妄 静止 覆い 動物 草
上方 純質が優勢 ブラフマー
中間 純質と翳質→激質 人間
下方 翳質が優勢 草
風は暑さに悩んでいるものには寂静なもの 受け入れる
風は寒さに悩んでいる人には熾烈なもの 反発する
風は塵に悩んでいる人には鈍重なもの 遮断する
39頌 微細な身体
微細なものとは端的なるもの 色声香味触を感じる身体?
微細な身体は端的なるもの(色声香味触)によって包摂され、常に存在し、輪廻する。
微細身は端的なるものからの被造物であり14種類の生類として展開する。
父母の所産は、胎内で微細な身体を養育する。
微細な身体 背・腹・脚・尻・頭? 知識がなければ輪廻
父母の所産の身体 生じたもの 血液、筋肉、腱、精液、骨、骨髄 地に還滅する
諸元素によって作られ始めた身体 5元素
空隙を与えることから虚空があり
増大させることから風があり
消化のゆえに火があり
まとめることから水があり
保持することから地がある。
微細なものによって造られた身体は悪業の力によって、家畜・野獣・鳥・蛇・植物といった境涯に輪廻し、善業の力により、インドラなどの世界に輪廻する。
このように、常にある微細な身体は、正しい知識が生じない間は輪廻する。
正しい知識が生じたとき、智者は身体を捨てて解脱に赴く。
それゆえ、この微細なものという特殊化されたものは常にある。
40頌 世界の創造と微細身
微細身は世界が出来る以前に生じた。
微細身liṅga 原義は還滅するもの
世界が還滅するとき、心に始まり微細なるものに至るまでのものより成るものは、器官を伴って主要なるものの中に還滅する。
微細身は輪廻しない状態のまま、世界が創造されるまで主要なるものの中に存し、原質の迷妄の束縛に囚われれて、輪廻するなどの行為を行うことができない。
そして微細身は世界が創造されるときに、再び輪廻する。
41頌 特殊性と微細身
杭などなしには影が存在しないように、特殊化されていないものなしには、拠り所のない微細身は存在しない。
特殊化されているところを拠り所にして、微細身は存在する。
42頌 プラクリティとプルシャの目的
主要なるものは、「自己の目的を達成しなければならない」ということで活動する。
自己の目的は2つあり、音声などの知覚を特質とするものと、従属要素と自己との違いの知覚を特質とする。
ブラフマー神の世界においては香などの享受を得ることである。
従属要素と自己との違いの知覚とは、解脱のことである。
プルシャの目的は「知る」ことで、対象は特殊性とこの世界のメカニズムと離脱の方法である。
それゆえ、微細身は自己の目的を原因として活動する。
活動とはこの世の色声香味触を感知し、また、微細身のメカニズムを理解することで、それが還滅するプロセスとステップを知ろうと行動する。
プラクリティは個々の身体を担うということにおいて、微細身を多様化するということである。
微細身は、極小の端的なるものが集積した身体であり、13種類の器官を具え、人間・神々・畜生の母胎に多様に展開する。
あたかも役者のように、舞台のシーンごとに神や人間や道化師として登場しては去る。
43頌 3様の功徳の発現 8つの状態は心(mahat 智慧paññā)を拠り所としている
先天的 生まれた時から功徳・知識・離欲・超能力をもつ
自然に具わる 親の子として生まれ、ある時(たとえば16歳)に生じる
後天的 師という模範像を機会因として、知識、離欲、功徳、超能力が生じる
この師とは原質の変異である。
功徳、知識、離欲、超能力(純質的4肢)
罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢)
の8つの状態は心という器官を拠り所にとする。
この心とは判断力のことである。
44頌 自己と輪廻
自己puruṣaはサーンキヤ学派の用語 流出論的二元論
自己は輪廻する主体ではない。
それなので、ヴェーダーンタ派のいう最高自己とは輪廻するということなので、それは自己puruṣaではなく、輪廻を止めた微細身のことを最高自己だと定義して勘違いしていると揶揄した。
ヴェーダーンタ学派は最高自己をparamātmanと呼ぶ 流出論的一元論
輪廻する主体は個別自己jivātman(個我jiva)であり、これが正しい知識を得て解脱したとき、最高自己すなわちブラフマンになる。
51頌 解脱するためには
思索・ことば・学習・3種類の滅苦・友を得ること・布施が8種類の成就である。
思索 「この場合の真実は何か」「何が至福か」
自己と原質とは全くの別物である。
心、私意識、端的なもの、器官、5元素の原理にスポットライトをあてて関係性を思索することで解脱
ことば 主要なるもの、自己、心、私意識、端的なもの、器官、5元素の知識が生じ、解脱する
学習 ヴェーダ聖典での25原理の知識を学習することで
3種類の滅苦 生きもの・個体・天に関わる苦 (動物、人、神々)を滅する教えによって
友を得る
布施
52頌 微細な身体と粗大な身体
微細身は端的なるものからの被造物であり14種類の生類として展開する。
後続する身体の獲得は、前生における行為が残した潜在的形成力という不可見のもののなせるわざだからである。
功徳などは、粗大な身体と微細な身体とによって成立する。
創造は始まりのないものであるから、種子と芽とのように相互依存している。
それぞれに類に依拠しているとしても、個々の個体は相互に依拠していないからである。
それゆえ、被造物は、諸状態と称せれるものと微細身と称されるものとの2種類として展開する。
54頌 上中下 神人草
上方 純質が優勢 ブラフマー 微細な身体
下方 翳質が優勢 草 粗大な身体
中間 純質と翳質→激質 人間 両方?
55頌 生死に由来する苦 解脱の条件
智性を持つ自己は、生まれることに由来する苦と死ぬことに由来する苦を受ける。
そうした苦を受けるのは、主要なるものでもなければ、心でもなければ、端的なるものでもなければ、器官でもなければ、元素でもない。
微細身が消滅しないかぎり、自己は苦を受ける。
心などより成る微細な身体に自己が宿っているときには個体になり、3つの境涯(神々、人間、動物)において、生死に由来する苦を受ける。
解脱するためには、純質と自己とは別物であるとの認識が必要である。
56頌 自身のためであるかのようであるが、じつは他者のため
原質の創造活動は、あたかも自身のためであるかのようであるが、じつは他者のためなのである。
この場合、自己は原質にいかなる見返りも与えない。
ため(利益)とは、音声などの対象を了知すること、そして従属要素と自己とが別のものであると了知すること。
57頌 自己の解脱のために活動する主要なるもの
牛に摂取された草と水は牛乳へと変化し、仔牛を成長させ、仔牛が成長したときにはその活動を停止する。
同様に、主要なるものという知性をもたないものが、自己が解脱することのために活動するのである。
60頌 原質は楽・苦・迷妄、そして対象としてプルシャにつくす
原質プラクリティは、神(楽)人(苦)草(迷妄)を本性とする状態と、対象という状態で、自己プルシャにつくす。
原質は「私(プラクリティ)とあなた(プルシャ)は別物である」と言って、プルシャにプラクリティを証してのち活動をやめる。
このように原質は自分のためにならないのに、常住な自己のために為すのである。
61頌 原質よりも繊細なものはない。 見られた後に自己に再び見られないようにするからである。
バーダラーヤナを開祖とするヴェーダーンタ学派の根本経典「ブラフマ・スートラ」によれば、世界の原因はブラフマンであり、かつそれは最高自己であり、かつそれは主宰神、それは質料因であると同時に動力因(機会因)であるとされる。
すなわちブラフマン=最高自己=主宰神という唯一者から世界が流出した、という流出論的一元論。
対して、ヴァイシェーシカ学派は、主宰神は認めるが、多元論を採り、世界の生成については新造論に立つので、主宰神は永遠に繰り返される世界の創造と破壊を司る存在ではあるが、主宰神から世界が流出するとはしない。
ニヤーヤ学派もこの説を採用した。
後にヴェーダーンタ派のシャンカラは不二一元論を唱え、流出論を破棄し、世界は無明avidyāに覆われた低次のブラフマンから流出した幻影māyāに過ぎないと主張した。
一元論を守るために流出論を捨てた。
どのような問題が流出論にあるのか?
為されている悪が神の一部であることを説明できない、と思ったからなのか?
本性の原語はsvabhāva
サーンキヤ学派が唱える因中有果論を批判して因中無果論を主張する10cのシュリーダラは、原因が特定の結果を生ずるのは、原因の力能Śaktiによるのではなく、原因の本性svabhāvaによるのだとした。
対してサーンキヤ学派は、主宰神は従属要素を有しないものであるから、従属要素を有する生類がどうして主宰神から、あるいは従属要素を有しない自己から、どうして生まれ得ようか?
それゆえ生類は原質から生まれるとするのが理に適っている。
たとえば白い糸から白い布が生じ、黒い糸から黒い布が生ずるように、3つの従属要素を有する主要なるものから、3つの従属要素を有する3界が生まれたのだと理解される。
主宰神は従属要素を有しない。
従属要素を有する諸世界が主宰神から生ずるというのは理に適っていない。
このことによって、自己が世界の原因ではないことが説明された、とサーンキヤ学派は主張する。
時間
「ある」のは顕現したものと未顕現のものと自己との3者である、とサーンキヤ学派は主張する。
時間はその中の顕現したものである。
主要なるものはすべてを作るものであるから、時間の原因も主要なるものである。
本性も主要なるものプラクリティの中に含まれる。
それゆえ、時間も本性も世界の原因ではない。つまり主要なるもの、原質、プラクリティこそが世界の原因である。
原質以外の原因は存在しない。すなわち主宰神は世界の原因など何もない。
62頌 解脱も輪廻もしない自己 輪廻の主体の微細身
神・人・動物を拠り所にする原質こそが、心・私意識・端的なるもの・元素によって束縛され、解脱し、輪廻するのである。
それゆえ、自己は束縛されることもなく、解脱することもなく、輪廻することもない。
いまだ得られていないものを得ることが輪廻の目的である。
そのために自己が本性から解脱し、かつ偏在していながら、私たちは輪廻するのである。
純質と自己とが別物であると知ることから、自己の真相が明らかになる。
自己にはカタチの原因に成る従属要素がないことを認識する
それが明らかになるとき、自己は独存し清浄で解脱しており、みずからに立脚したものである。
純質と自己を同じ物と誤謬していることから、自己は束縛されている、自己は解脱する、自己は輪廻する、と語られるのである。
自己に束縛がないのならば、解脱もないのではないか?
原質は自らを束縛し、そして自らを解脱せしめるのである。
端的なものより成り3種の器官をそなえた微細身があるかぎり、その微細身は3種の束縛によって束縛されてるのである。
原質による束縛 原質 純質 神
原質の変異したものによる束縛 心 激質 人
祭祀執行への報酬によっての束縛 カタチ 翳質 動物
解脱する主体は、サーンキヤ哲学では自己ではなく原質である。
とりわけ微細身がその中心の主体である。
この微細身は功徳と罪障とに結びついている。
そして微細身が結び目をほどき、解脱したとき、自己は原質への関心を失い、みずからの内に立脚・沈潜する。
これを独存という。
63頌 知識によって原質は解脱する
原質は7つの形態(功徳、離欲、超能力(純質的3肢)罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢))によって、みずからして、自らを束縛する。
自己プルシャの利益の達成させなければならないとして、1つの形態である「知識」によって、みずからして自らを解脱せしめる。
64頌 私意識から離れると誤謬がなくなり、清浄な知識が生じて、解脱の手段になる。
私と身体とは別物であるというように、mahat(大、知る根源状態)が私意識を離れて完璧に誤謬がなくなれば、清浄な知識が生じる。
誤謬とは疑惑のことである。
誤謬がなくなればというのは、疑惑がなくなれば、ということである。
すると、清浄な知識、純然な知識、つまりそれこそが他ならぬそれであるという知識、すなわち解脱の手段である。
25原理に関する知識が自己に生ずる、つまり顕現するのである。
65頌 知識によって自己は本然に帰してただ観察する
知識によって、自己は、生産を止め目的の力によって7つの形態をとらなくなった原質を、あたかも観客のように、安住し、本然に帰して観察する。
すなわち心、私意識といった結果がなくなり、原質は7つの形態をとらなくなった。
自己の2つの目的が無くなったからである。
前にあったプルシャの目的とは「知る」ことで、対象は特殊性とこの世界のメカニズムと離脱の方法である。
具体的には、音声などの知覚を特質とするものと、従属要素と自己との違いの知覚を特質を「知る」ことである。
自己は功徳などの7つの形態によってみずからを束縛していたが、今やその7つの形態を取らなくなった原質を観察するのである。
66頌 原質は見られたことで活動をやめ、自己はすでに見たことで無関心になる
原質の創造の動機は、音声などの対象の覚知と、純質と自己とは違うことの覚知であったが、両者ともが目的を達成したので、もはや創造の動機は存在しない。
原質と自己との間に動機がなくなったのである。
両者が結合することがあっても、もはや創造の動機は存在しない。
67頌 知識と聖典が未来といま・ここの業を焼く
功徳と罪障が輪廻の原因ではなくなっても、潜勢力ゆえに自己は身体を保有し続ける。
知識は未来の業を焼き、聖典で命じられていることを実行することによって人が今為す業も焼く。
潜勢力が滅びて身体が脱落すれば解脱となる。
釈尊は35歳で目覚め、メンタルで何の苦しみも受けることがなくなり有余依涅槃に至ったが、フィジカルには苦しみを受けていた。80歳で命終を迎え無余依涅槃に至った。これを般(はつ)涅槃という。
68頌 主要なるものの活動が停止したとき、自己は決定的かつ絶対的である独存という解脱にたっする
功徳と罪障により生ぜしめられた輪廻が滅びることで、自己からの身体の分離が達成され、目的が果たされたことで主要なるものの活動が停止したとき、自己は決定的、つまり必然的、かつ絶対的、つまり無媒介の、という独存に達する。
独存により解脱がある。
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プルシャ |
puruṣa |
霊我 観照だけ |
出世間界 |
変化のない実体 涅槃? |
プラクリティ |
prakṛti |
自性 エネルギー |
無色界・色界 |
プルの観察で平衡が崩れてプラが展開 根本物質 |
ブッディ |
buddhi mahat |
知る根源状態 微細心? |
色界 |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ |
ahaṇkāra |
自我、 認識 |
欲界 |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
なぜ輪廻の原因になるのか?
ありのままを見ないで思考パターンで判断しているから
ブッディの包含(包摂)関係を二元論として捉えているから
輪廻の原因は固執である。常に変化しているものを実体のある不変と誤謬するからである。
アハンカーラから離脱してブッディを求めることは、プラクリティ以下の輪廻の世界に留まることになる。
ベックによる理解
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アートマン |
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涅槃 |
プルシャ |
自己 観照だけ |
精神原理 |
観察者 |
変化のない実体 |
プラクリティ |
自性 エネルギー |
物理原理 |
無明 |
超感性的な根本物質 |
ブッディ |
知る根源状態 |
物理原理 |
色界 |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ |
自我、 認識 |
物理原理 |
欲界 |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
仏教用語 瞑想
サーンキヤ |
サーンキヤ |
唯識 |
瞑想 |
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パラアートマンparamtman |
ブラフマン |
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涅槃 |
プルシャpuruṣa |
自己 atman |
観照するだけ |
観察者 |
変化のない実体 |
プラクリティ prakṛti |
原質、自性 |
自性エネルギー |
無明 |
超感性的な根本物質 |
buddhi mahat |
覚、 大 citta心 |
知る根源状態 阿頼耶識 |
色界 空の瞑想 無形象唯識派 光り輝く |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ Ahaṅkāra |
我執 主観 |
自我、 認識 末那識 |
欲界 空の瞑想 有形象唯識派 対象あり |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
マナス manas |
意 |
意識 |
空の瞑想 経量部 |
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タマントーラ Tanmātra |
五唯(五境) 五大 |
前意識
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Jñānendriya Karmendriya |
五感覚器官 五行為器官十根 |
眼耳鼻舌身 手足性泄発声 |
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プルシャはプラクリティを観照することで物質と結合し、物質に限定されることで本来の純粋清浄性を発揮できなくなる。そのため、「ブッディ、アハンカーラ、パンチャ・タンマートラ」の結合からなり、肉体の死後も滅びることがない微細身(みさいしん、リンガもしくはリンガ・シャリーラ(liṅga‐śarīra))はプルシャと共に輪廻に囚われる。プルシャは本性上すでに解脱した清浄なものであるため、輪廻から解脱するには、自らのプルシャを清めてその本性を現出させなければならない。そのためには、二十五諦を正しく理解し、ヨーガの修行を行わなければならないとされた。
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。
また、サーンキヤ学派は、夏目漱石に影響を与えたことでも知られる。この学派では、涅槃[寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福]とは、プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(Kaivalya、独存)だと考えた。
夏目漱石は、一高時代に井上哲次郎の東洋思想の講義を受講し、サーンキヤ哲学の講義を受けて深く感銘を受け、無関心こと非人情をテーマに『草枕』を著した。
物質世界から自我意識が現れたのではなく、自我意識から五唯や五大という物質世界が現れた、とするのがポイント。
霊我は複数形であるのもポイント。
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知識の7段階 |
バクティ・ヨーガ |
神智学 |
上座部 |
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1 |
光明への発願 シュベッチャー |
プージャ礼拝 |
誕生 |
預流 |
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2 |
探求 ヴァチャーラナ |
ジャバ 唱名 |
洗礼 ヨハネ |
一来 |
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3 |
微差な心 タヌマーナサ |
ディヤーナ黙想 |
変容 タボル山 |
不還 |
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4 |
自己実現 サトワーパティ |
バーヴァ 愛情 |
磔 |
阿羅漢 |
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5 |
無執着 アサンシャクティ |
マハーバーヴァ 深い愛情 |
復活 |
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6 |
対象物を認識しない パダールターパーヴァナ |
プレマ 愛 |
昇天 |
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7 |
超越 神との合一 トゥリヤーガ |
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コーシャ 身体 パンチャコーシャ(人間五蔵説)では、人間を五層のエネルギーの層で表現
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5つの鞘 |
内容 |
神智学 |
3身体シャリーラ |
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1 |
アナマヤ |
食物 物質 |
肉体 |
ストゥーラ |
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2 |
プラーナマヤ |
生気 |
エーテル体 |
スークシャマ |
幽体 |
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3 |
マノマヤ |
意志、mind |
アストラル体 |
スークシャマ |
幽体 |
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4 |
ヴィジュナナマヤ |
理智、知性 |
メンタル体 |
ストゥーラ |
幽体 |
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5 |
アーナンダマヤ |
心 heart |
コーザル体 |
カーラナ |
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@アナマヤコーシャ(食物鞘)
アンナ(食べ物)からできている鞘、身体
目に見え、触れることのできる、いわゆる肉体と呼ばれる身体
Aプラナマヤコーシャ(生気鞘)
プラーナ(生命エネルギー)からできている身体
Bマノマヤコーシャ(意思鞘)
感情と思考からできている身体
Cヴィジュナナマヤコーシャ(理智鞘)
感情や行動の基準を決定する知性からできている身体
Dアーナンダマヤコーシャ(歓喜鞘)
純粋な意識からできている身体
アーナンダ(歓喜)に満ちた場所
コーシャ (鞘) Koshas
ヨガでは、人間の体の構造はコーシャ(鞘・koshas)と呼ばれる、異なった体の層で成り立つと考えられてい ます。それらの層は、大雑把なものから、より微妙なかすかなものへとつながります。
まずは私たちの目にみえる、最もわかりやすい層;骨や肉で出来た身体、アンナマヤ・コーシャ(annamaya
kosha=食物鞘、肉体)。
次にエナジーの身体、私たちの体内を電気が流れるように、気(エナジー)を流したり、渦巻くエナジーの中心チャクラなどを指す、プラナマヤ・コーシャ (pranamaya kosha=気息鞘、生命体)、
3番目は心や脳や知性がものを考えたりする身体、マノマヤ・コーシャ(manomaya
kosha=精神鞘)です。
4番目は直感的な洞察が起こる、真の知識が現実と結びつき始めたもの、ヴィジナナマヤ・コーシャ(vijnanamaya
kosha=知性鞘)です。
最後は、真の精神・魂が自分の中に繋がったという至福のもの、アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya
kosha=至福鞘、原因体)です。
それぞれの身体は互いに繋がっており、さらに広大な大文字ではじまる現実(大いなる現実、実在)とも繋がっているのだということは後で改めて触れることに します。
まず最初に、その前にそれぞれのコーシャ(鞘)についてざっとみてみましょう。
アンナマヤ・コーシャ Annamaya
kosha (食物鞘、肉体)
物理的な肉体的な層は他の5つのコーシャの中で一番わかりやすいものです。そして、私たちが一般的に「私」を定義するのもこの身体的な体の層によるもので す。「通常、一般的に」私たちが環境をみるときもやはりこの知覚世界によって行われます。ヴェーダ(ヒンズー教聖書)にも、私たちは地球からの直接的な物 質である食物によって構成されていると書かれ、そして、結果的に、食べているとき、私たちが何をしているかを理解していることが非常に重要だとされていま す。 私たちは食物によって完全に構成されているなら、尚更、私たちが食べているものの品質の重要性に気づかなければなりません。 私たちの収穫の結果を最良なものにしたいと思うなら、まずは適切な肥料を使い、土地を耕すことが重要です。 私たちの身体が庭だとしたら、全く同じことで、より気をつけて、より良いものを食べるほうが、より良い身体をつくります。
私たちの身体は私たちが容易に自分の状態を観察したり、直接的に変化させるために努力してあげることの出来る基礎の部分です。アンナマヤ・コーシャは 時としてより深い部分の身体が問題を抱えていることを表現する媒体となります。例えば慢性の消化器系の病気を持っているということは心身相関の病気である ことを示してくれます。日常生活においてその人が消化しきれないくらいの何か困難な状況があって、それが胃痛や胃潰瘍を生み出してると考えられます。
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ハタ・ヨガの練習の中でも特にアサナとシャット・クリヤ(浄化の練習法)ではこのアンナマヤ・コーシャに重点をおきます。これらの練習法は身体を「みた り」「感じる」ことを通して、身体が私たちに発するメッセージを理解しようと試みます。何十億、何百万ある細胞が常に身体の中で動いていますが、それらの 細胞自身が本来持つ知性は何を訴えているのか耳を傾けてあげましょう!
ポーズや動きをすることを通してこれまでの過去の経験から蓄積された体の中の緊張やストレスを解放し、重要な器官を正常に動かしてくれます。そうすること で体内にエネルギーが自由に円満に調和しながら動くことを促してあげることが出来ます。
プラナマヤ・コーシャ
Pranamaya kosha (気息鞘、生命体)
プラナはあらゆる生き物、人間、動物、植物、惑星全体、宇宙全体にさえ存在している生命力そのものです。それは、私たちの周りのいたる所に存在していて、 力や質はさまざまです。
エネルギーの身体は何千ものナディ(nadis)で構成されています。ナディはエネルギーの通り道でチャクラと呼ばれるものに根をおろしています。チャク ラは脊椎に沿って存在する微妙な、かすかなエネルギー渦です。 各チャクラはそれぞれ特定のエネルギーに関連していて、私たちの目標はそれらの渦一つひとつがそれぞれの能力を最大限発揮して働くのを確実にすることで す。どのように働きかけてあげたらいいか、また、それらがどのように私たちに作用しているかは後に触れることにします。私たちがそれらの働きを促してあげ ることが出来れば、非常に役立つ素晴らしい現実です。それらは 本当にかすかなもの、非常に微妙なもので、人々には見ることができず、科学的に観測することができないものの存在を否定する傾向があります。でも、すべて の経験が簡単過ぎたなら、そのゲームの独創性を欠いてしまいます。
また、プラナは私たちの身体を通る、すべての情報伝達を行うためにそれ自身が出入りを行う電流のようなものとして捉えることが出来ます。プラナはどんな思 考活動にも必要で、身体の中にプラナがなくなったということはすなわち死を意味します。 太陽がプラナの究極の源であるので私たちが太陽なしで生き延びることが出来ません。 りんごを食べるとき、私たちは糖分や水分などに形を変えた太陽のプラナを食べているということが言えます。そしてプラナは私達の細胞やマインドを通じて身 体にそうした働きをします。さまざまなエネルギー源があるようにやはり、さまざまなエネルギーのレベルがあります。
私たちはプラナヤマのような練習を通して直接プラナの体に働きかけることができます。後で挙げるように、たいていのものが呼吸法の練習で、呼吸について取 り組むことはすなわち、プラナの体について取り組むことです。
人間の体は単純にエンジンのようなもので、人体が適切に動くためには空気が必要で、呼吸法に取り組むことによって身体がより効率的に働くための適切な量の 空気を取り入れることができるようになります。
ヨガの修行者たちは何千年にもわたってプラナヤマのテクニックを経験してきました。私たちはそこから学べることが多いのではないでしょうか。私たちはもっ と幅広い意識を体験するためにここに存在するのだということを忘れてはなりません。より効率的に経験するために、私はプラナヤマは素晴らしい道具であるこ とを確信しています。
マノマヤ・コーシャ
Manomaya kosha ( 精神鞘)
私たちの知性、思考や理由が存在するのはこの体の中にほかなりません。それは自然に親密に前の2つの体に関連づけられます。 主な司令部を通って、身体の動きは起こります。 情報が入って、指令が出る場所です。ここが内部の世界と外の世界、言い換えれば内側の存在と外側の存在を橋渡ししています。この体の層で私達はエゴや自分 の限界を体験します。でも自分の限界を知り行動を適切なものに正してあげることですべての可能性に対して調和を生み出すことが出来ます。
マノマヤ・コーシャはさまざまなかたちで能力をあらわしています。
細胞と脳が違う構造を持っているからという理由で細胞のはかりしれない可能性を否定できないということ、すなわち私たちの細胞にはある種の知性があるとい うことです。その他の多くの面でも同じことがいえるでしょう。
科学者は、私たちは脳の容量の1/10だけしか使用していないといいます。という事は実は膨大な可能性が目を覚まして使われることを待っているのだといえ ます。私たちはこのエネルギーを放出して、魔法を楽しむ方法を見つけるという役割を担っているのです。
集中することや瞑想の練習の中で私たちは自分の能力に気づいてあげることや今まで知らなかった現実に対して耳を傾ける方法を発見します。私たちの大いなる 自己は自身に語りかけます; 内側にある魂、精神は常に生きる上での洞察力や手がかりを与えてくれています。もっと適切に私たちの存在を調整、チューニングする方法を見つけることがで きれば、その知恵の賢明な教えの単語を理解して、手に入れることが出来ます。私たちは何とか理解することができます。少しづつ色々な練習やテクニックを通 して自覚をもっと鋭く研ぎ澄ませることで、 自分自身の内外にあるあらゆる知性に耳を傾けることが出来るようになります。
このように内側に耳を傾ける方法はずっとより微妙なレベルで人生を経験するためのまったく違った理解を目覚めさせ、次の体のヴィジナナマヤ・コーシャに続 きます。
ヴィジナナマヤ・コーシャ
Vijnanamaya kosha (知性鞘)
「ここから、ヴィジナナマヤ・コーシャです。ジナナは'知恵'、'知識'を意味し、接頭語viは知識が現世のこの生涯獲得した過去の経験と思い出だけから だけではなく、前世からも引き出されるという知識を強調します。 私たち誰もが知識の宝庫を持っていますが、私たちは、その内側の知恵を経験するために教育されていません。ヴィジナナマヤ・コーシャには、関連するチッタ
(chitta)とアハムカーラ(ahamkara)という要素があります。チッタは何が実際に起こっていることに関する観察者になるため、推測や想像の 世界ではなく現実を生きるための『知る能力』を意味します。アハムカーラはエゴ・自我の要素で、感覚ではなく真実として『私』に関する知識、自己のアイデ ンティティを意識することを意味します。ヴィジナナマヤ・コーシャに取り組み始めるとこの理解はついてきます。
私たちは一度、『私』というアイデンティティに取り組んだり、理解すると、そのアイデンティティは3次元世界に現れ、喜び、快楽、快適、苦心、人生の受難 を経験して、至福、幸福、ひとつであること、満足といった次元であるアナンダマヤ・コーシャの経験へと移行します。」--ニランジャナンダ・サラスワティ 1996年9月
ヴィジナナマヤ・コーシャはすべての存在と万物の微妙な、かすかな現実への入り口の扉です。ここの層では違ったいま、違ったここ、に触れることが出来ま す。それは知性によって色づけされていない、純粋なマインド・意識で、コンセプトや理論は存在せず、ただ純粋な実体としての人生の流れがあります。
それは私たちの直感的、アストラルな真正な体です。このレベルの現実では、 すべての存在は互いに繋がり、あらゆる動作や思考は他にも相互にも同様に影響します。ほとんどの人がそれに気づかないのですが、私たちは自身の個性、限ら れた自己が唯一の現実であると思い続けますが、実ははるかにすばらしい真実があって、必要な態度を取ればこの美しくて、複雑で無限の現実を認識することが できるのです。無限の可能性に気づくことで本当に人生を楽しんであげられます。
ここで、まだ私たちの心の中にエゴが存在しているなら、たとえそれが心やマインドの汚染をこれ以上受けていなかったとしても、私たちは本当に意識して次の 層に進むことができません。 次の層は私たちの魂、アトマンと呼ばれる生命の本源、宇宙的現実における神の表現です。私たちがそれから切り離された状態で一体どうやって無限を経験する ことができるのでしょう?「私」が見ているものというコンセプトを伴った「絶対性」は絶対ではなく、「私」が体験しているというというものが消えたとき、 初めて絶対と呼ぶことが出来ます。でも一体全体、無限の絶対性って何を意味するのでしょう?
アナンダマヤ・コーシャ
Anandamaya kosha (至福鞘、原因体)
これは私たちの世界とあらゆる経験できる他の世界のあらゆる表現の中の魂、精神です。また、深くあなたの存在の中に自分は本当は何者なのか問いかけて試み ると、経験するのが非常に難しいということが分かります。辛抱強く問い続けると、多分あなたはあなたが何者でないかに関する一瞥を得る試みをします。次第 にゆっくり何か広大なものがあります、それを見たり、感じようとすることさえできないほど広大であり、次に、すこし切り離してみるような気持ちになり、エ ゴを失うことが何を意図するかを理解するでしょう。
人によって、無限の光とか、完全な深淵と呼びますが、確実なのは何世紀にもわたって聖人や賢人がエゴをなくすこと、ものの非永久性を認識すること、すなわ ち、いま・ここの現実をありのままに経験することの必要性を説いてきました。
異なった体は色と織地で私達を包む織物です。 それらに取り組んであげることによって、私たちは、その織物をデザインし、パターンを変更することが出来ます。私たちには、この人生の間に無限の本質を示 すことができる素晴らしいドレスを私たちの精神、私たちの手先または私たちの俳優に与えてあげる権限があります。
だれと共にこの人生を演じるのか、ふさわしいものを作るために時間をとって組み立てるのは私達です。
1.ヨガ哲学やヨガの修行者=ヨギたちは私達の体をどのように解釈しているか?
まず一般的に私達の体、とか存在といったときに思いつくのは身体的な身体、それと心とか精神というものもどこかにあるということは私達なんとなくわかって います。
ヨガでは私達の体を大きく分けて5つの層で捉えています。
5つの体の層
@アンナマヤ・コーシャ(Annamaya
kosha)=身体
構成:食べ物、栄養、運動
作用する方法:食、アサナ
・・食べ物を口から食べることや、エクササイズ、アサナで身体を動かすことによって出来ている身体。
(余談でベジタリアンの食事に関するお話がありました。ヨガではお肉を食べないベジタリアン=菜食が薦められます。何故かという理由は沢山あり、いろいろ な説明が出来ますが栄養の代謝の面からひとつ大きな利点が挙げられます。野菜は太陽のエネルギーをたっぷり含みそれをそのまま食することで直接私たちの体 の中にそのエネルギーを変えることなく取り入れてあげることが出来るのに対して、例えば牛肉。草に入っているエネルギーをまず牛が食べ、咀嚼して肉にな り、その肉を殺して私達の口から食する。このとき太陽のエネルギーの代謝は何度か死んで繰り返されるために体の中に入るまでに大変です。こういう観点から 一番わかりやすくシンプルにエネルギーを取り入れられる菜食が好まれます)
Aプラナマヤ・コーシャ(Pranamaya
kosha)=エナジーの体
構成:エナジー、気、ツボ
作用する方法:プラナヤマ=呼吸法
・・・目に見えない「気」の流れで出来た層。エナジーがイメージしにくい場合には鍼や気功をイメージしてみるといい。目に見えないけれど確かに体の中に流 れているもの。
Bマノマヤ・コーシャ(Manomaya
kosha)=心の体
構成:心、精神、意識、感情、思考、感覚
作用する方法:集中すること、瞑想
・・・心というのは様々な構成要素があるけれど総括した心とか意識を指す。食べているときの感覚、味覚、感情、想い、思考とか、心に感じるもの全て
Cヴィジナマヤ・コーシャ(Vijnanamaya
kosha)=直感の体
構成:魂、感、直感
作用する方法:クンダリニー・ヨガ*
・・・自分の心や意識で考えたりすることとは別のひらめいたり、感じたりすることの出来る「感」。電話が鳴ったときにあ、○○さんかなあ?とおもうと本当 にそうだったり、そういう時の直感。
Dアナンダマヤ・コーシャ(Anandamaya
kosha)=悟り
構成:自分が自分ではない存在、無、悟り
作用する方法:クリヤ・ヨガ**
・・・完全に自分のエゴから切り離された状態。自己が消えて自分自身が消えたときにわかるもの。「自分」という「個」と他人の境が消えたもの、個と宇宙が ひとつになったもの、個人のレベルでは自分自身のエゴがゼロになった状態=アイデンティティーを失ったとき、それが同時に個人と他人や世界との境が消えた とき。これを体や意識が生きている状態で体験すること。
*・**クンダリニー・ヨガやクリヤ・ヨガは先生や本によって様々な考え方や教えがあるので一概にいうのは難しいけれど、マリオ先生が指すクンダリニー・ ヨガはビハールヨガ大学で学んだことと、スワミ・サチャナンダ師の考え方に基づいたものをここでは指します。
クリヤ・ヨガも同じく、人によって全く違った解釈がありますがマリオ先生はプシュカールのヨガの先生、シャム・ヨギから1日6時間を毎日4ヶ月練習したと きのクリヤヨガをもとに、ビハール大学の考え方も取り入れた形でクリヤ・ヨガを位置づけています。
これら5つの層の体は常に私達の存在の中にあり、それぞれがばらばらではなくお互いに影響しあっています。これら5つを3つのグループに大別することも出 来ます。
身体的な体=@ わかりやすい体
心と気/マインドとエナジーの体=AB かすかな部分の体
魂・悟りの体=CD 因果、カルマの体
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カラダ 器官 |
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5つの鞘 |
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1 |
刺激 |
神経管 末梢・運動神経 |
食物 物質 |
アナマヤ |
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2 |
感覚 |
辺縁系、間脳 |
生気 |
プラーナマヤ |
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3 |
理性 |
大脳皮質 |
意志、mind |
マノマヤ |
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4 |
智性 |
循環器系 |
理智、知性 |
ヴィジュナナマヤ |
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5 |
霊性 |
消化器系 |
心 heart |
アーナンダマヤ |
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サーンキヤ・ヨーガ哲学
サーンキヤ哲学
創始者
伝説のリシ(’聖仙)であるカピラ。
歴史上の師(実在の人物)イーシュヴァラクリシュナ
『サーンキヤ・カーリカー』の著者であり、四世紀ごろの人ということくらいしかわかっていない。
『サーンキヤ・カーリカー』とは?
サーンキヤ哲学を理解するには、サーンキヤ哲学の論書というべき、この文献を読むのがいちばんであろう。
ブッダの学んだ存在論で、ブッダは、この二元論的存在論を参考に、また批判しつつ、仏教の存在論を引き出したといえるだろう。
カピラ仙はだから、実在の人物とはいえない。
グレゴール・メーレ氏によると、欧米の学者は紀元前1300年頃の人と措定しているが、
「インドの言い伝えでは、彼はもっと昔に生きていたとされている」
前文明の人かもしれない。
古くから口承で伝承されてきたこの哲学の象徴的な祖師といえよう。
サーンキヤとは「数え上げる」という意味。
カーリカーとは「二行より成る詩節」のこと。
サーンキヤ哲学に影響を受けた人々
ブッダのアビダンマも、心や心所を正確に数として数えるところ、影響を受けているように思われる。
夏目漱石も、理想として境地の「則天去私」(天命に任せて非人情に徹すること)を、サーンキヤ哲学から引き出した。
宮元氏本
宮元啓一著『インドの「二元論哲学」を読む ―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』春秋社
という本がある。
興味のある方は、これを直接お読みください。
無謀にもペパミン流に簡単に解説しようと思います。
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存在論
第九頌
核心の一つで、非常に分かりづらく、問題点でもあるので、先に考察する。
ちなみに、「頌」とは韻文の意味。
ここは3つの存在論を説明している。
ここでは、「結果は原因の中に存在する」ということを歌っている。
宮元氏の解説であるが、
パリナーマ・ヴァーダを因中有果論とし、
「流出論」と訳しておられる。
「開展論」という訳語は分かりにくいと却下されている。
アーランバ・ヴァーダを因中無果論とし、
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出すということになりますので、」
新造論と訳しておられる。
そして、「集聚論」という訳語は誤りであると却下されている。
「シャンカラ以前のヴェーダーンタ哲学やサーンキヤ学派は
因中有果論・流出論を採ります。」
「因中無果論を採るのはヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派や仏教徒です。」
つまり、仏教をパリナーマ・ヴァーダでなく、アーランバ・ヴァーダに入れておられる。
サーンキヤ哲学は、最古の哲学で、おそらくアトランティス文明があったなら、パリナーマ・ヴァーダ(流出論)を採用していたであろう。
西洋の神秘学は、アトランティス由来の哲学であろうが、存在論は、流出論である。
つまりグノーシス派などに顕著にあらわれるが、
高次の波動の存在が振動数を落としながら、物質化し、可視化するという考えで、
低次の波動から高次の波動へ復帰する、「源へ帰る」ことが、自由になるということ、解脱であろう。
「習俗の再生」、再生、回帰という言葉も、
過去に「理想郷」があったという伝説も、この存在論が下敷になっていると思われる。
「金持ちになる科学」のウォレスの本も、唯心論的に精神的に祈るのではない。
祈る対象は「原物質」すなわち「プラクリティ」、質量因のほうだ。
現実化には、波動とか何らかの質量のあるものが関わってくる。
創価学会で、不治の病を宣告された人が、ご本尊様に唱題して、
ふと「病気を忘れる」瞬間があったという。病気の現実性が脳細胞から消えた瞬間だったのか、
それで病気が消えたという。
このメカニズムには、おそらく題目のリズムが高波動を実現したのだろうと推測される。
波動と粒子の境界線はおぼろだが、いずれも質量的な性格をもつといってよいのではなかろうか。
引き寄せの法則も、同じようなメカニズムなのだろう。
このパリナーマ・ヴァーダは、プラクリティという質量因が、プルシャという動力因の照射を受けて、次々に低次の存在を流出する。
いわば、低次の存在は、すっぽり、高次の原因の中に含まれている。
種に花や葉の因が含まれるように。
仏教は、結果は原因と別のものなのだ。それゆえ
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出すということになりますので、」
であるから、アーランバ・ヴァーダに分類されたようだ。
しかし、因中無果の唯物論ではない。
因中有果論の一つに分類するほうが、より近いと思うのだが。
つまり因(種)+縁(人とか水とか日光とか)で花が咲くのだから、無因とは言えないのでは。
ただ、サーンキヤのパリナーマ・ヴァーダとは同じでないので、どれに分類と言い切れないが、
近いものというならパリナーマ・ヴァーダだと私は思う。
ではどこが違うのか、
『ブッダの実践心理学 第六巻 縁起の分析』からみてみよう。
ブッダの因果論は「因縁」「縁起」といって、原因から結果が出てくるのでなく、
因が縁にふれて、結果がでてくるので、全く違ったものが出てくる。そういう意味で
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出す」はあてはまるのだ。
「十二縁起」では、
「無明に縁って、行(サンカーラ)が生じる。
行に縁って、識が生じる。
識に縁って、名色が生じる。・・・」
と続きますが、
「無明から行が生じるのだけど、行があるときにも無明もあります」(P234)
つまり、連続性とともに同時性も認めているということだ。
我々に苦があるということは、
「それは、遠い昔に無明があったからです」と言ってしまうと、
過去のことですから、その原因を消すことができないのです。(P237)
ブッダは過去を調べなさいとは言わない。
過去は起こってしまったなら仕方ない。
不幸なカルマを背負って生まれたなら仕方ない。
要は、今何をするかだ。
今善因を積むしかないのだ。
そういう意味で、運命論や占いの危険性を指摘する。
ブッダは、この世を「無常・苦・無我・不浄」というので、ペシミズムといえるが、
やりようはあるというので、積極的ペシミズムというべきか。
常住と無常
第一〇頌
プラクリティの常住を説く。
サーンキヤでは、プルシャとプラクリティ、動力因と質量因の両方が常住である。
プラクリティから流出したものを「顕現した」ものというが、これらは無常である。
第一八頌
自己(プルシャ)=動力因が多数有ることを説く。
そりゃそうだ。もし、プルシャが一つなら、一人が解脱してくれれば、全員解脱できることになる。
化現説=仮現説は、無属性ブラフマンが一つというから、みんな解脱してるやん、何悩んでんの?ということになる。
しかし苦や問題は厳然とあるのだ。
このような存在論からなら、一人のイエスさんが死んでくれて全員の罪を贖ってくれるなんて、ばかばかしい考えも出てくるのだ。
断然、サーンキヤ的な存在論のほうが合理的だ。
プラクリティから流出した諸原理
まず「ブッディ」という無常であるが、その中では最高の原理が流出する。
次に「アハンカーラ」という原理が流出する。
これを「我慢=アビマーナ」でもあるというから、いい意味ではない。
ヒンドゥー教徒が常一主宰の我としてありがたがっている原理であるが、
仏教では、マーナ(慢)は悪心所である。
次に、五つの端的なもの(色声香味触)と五つの知覚器官(眼耳鼻舌身)五つの行動器官(発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官)と思考器官(マナス)が生じる。
五つの端的なものから五つの元素が生じる。
声から虚空が、触から風、色から火が、味から水が、香から地が生ずる。
手や足などが入っているのはどうもプリミティブに思えるが。
西洋の神秘学に影響を与えたと思われる。
西洋の四大元素は火・水・風・土、タロットカードのワンド・カップ・ソード・ペンタクルである。
輪廻の主体
第四〇頌
輪廻の主体を「微細身」といっている。
微細身とは、リンガ・シャリーラともいい、
「世界が出来る以前に生じ」といい、
プラクリティから世界に先立ち生じたとされる。
これは、一つのプルシャに一つの微細身があるイメージだろう。
そして、その人のプルシャが「独存(カイヴァリャ)」に至る、すなわち解脱するまで、
プラクリティの中に「還滅」しないで、輪廻する。
この考え方は、バラモン教から続く、インドの伝統的な輪廻のイメージなのだろう。
この考え方なら、幽体みたいなものが「シュポン」と身体(粗大身)から抜けそうだ。
仏教は、業による「心相続」であるから、微細身のようなものを措定しない。
「独存」(カイヴァリャ)
第六五頌
「自己(プルシャ)は、生産をやめ目的の力によって七つの形態をとらなくなった原質(プラクリティ)を、あたかも観客のように、安住し、本然に帰して観察する」
プルシャとプラクリティの分離「独存」である。
インド哲学 七つの難問 宮元啓一
宮元啓一の本はいつも愉快に読ませてもらってきた。ときどきインド哲学や仏教思想に絡まる識者や流派の曲解を刺す一家言が効いているのが、ぞくぞくさせる。なかでも非我論と無我論に対する切り口がめざましい。仏教思想が安易に無我論に安住しているのを批判するのである。
ぼくはそうした主張がどこまで当たっているのかどうか判定できないが、その書きっぷりからはたいてい宮元の肩をもちたいと思ってきた。
宮元は、泣く子も黙るというか、いまや就職先がないので有名な東大の印哲(インド哲学科)の出身だが、中村元(1021夜)さんの東方研究会の研究員をしたり(だから中村さんの考え方を大きく継承している)、春秋社の編集部にいたりしていたので(山折哲雄さん=1271夜も春秋社の編集者だった)、堅い本も柔らかい本も、そこそこおもろしい。現在は講談社学術文庫に入っている『仏教誕生』や『仏教の倫理思想』は堅い骨格動物のような読みごたえがあり、春秋社の『なるほど仏教400語』や『わかる仏教史』(現在は角川ソフィア文庫)は柔らかい麺類のような説得力がある。その後は国学院で教えている。ぼくより2歳下だ。
宮元の著書は構成や切り口も凝る。本書もタイトルの『インド哲学 七つの難問』がすでにして注射が効いていて、挑戦的で刺戟に富んでいた。用意した7つの難問は、そんなに大上段に構えて大丈夫なのかというものばかりである。
ざっと、(1)言葉には世界を創る力があるのか、(2)「有る」とは何のことか、また「無い」とは何か、(3)本当の「自己」とは何をあらわしているのか、(4)それなら無我説は成り立つのか、(5)そもそも「名付ける」ということはどんな根拠にもとづいているのか、(6)では、いったい知識は形や影をもつのか、(7)総じてインド哲学では、何が何の原因なのかをどのようにして決めるのか、というふうになる。
いずれもとびきりの超難問で、ほとんど今日の認知科学の最前線がかかえている問題に似ているともおぼしいが、認知科学はこれらをばっさり処理しきれていない。そこを、インド哲学によってこんな七難問で切り込んでもらえるなら、ぜひともそのお手並みを拝見したくなる。「心」「脳」「自己」「言語」「思惟」といったディープな問題が鮮明になるだろうからだ。
実際には、本書はこの難問に次々に答えを与えるというものではなく、これらの難問を軸にインド哲学の根底に孕む考え方を抉り出す、ないしは紹介するというふうになっているのだが(そこがいささか残念なのだが)、それでも各種の注射や投薬が効いていた。
インド哲学 7つの難問
古代社会で論理や論理学をつくりだしたのは、おそらくギリシア人とインド人だけだった(理由はよくわかっていないが、ギリシア語やインド語の形成過程に関係があるのだろう)。なぜ論理が必要だったかといえば、治世の行方を判断する哲学の確立とその是非をめぐる議論のためだ。
インドの古代哲学のおおもとは「祭祀のためのヴェーダ信仰」を起源とする。紀元前1500年くらいからインドの外からやってきたアーリア人が、ヒンドゥークシュ山脈を越えてパンジャブ(五河)地方に入り込み、そこで土着系のドラヴィダ文化などと習合してインド・アーリア人としての社会文化思想ができあがったのだが、このとき200年ほどかけて醸成されたのがきわめて特異なヴェーダ信仰だった(アーリア人については1421夜と1422夜を参考にしてほしい)。
この祭祀信仰はバラモン僧が仕切っていたので、のちにバラモン教などとまとめて俗称されるけれど、基本的には「ヴェーダ教」ともいうべきもので、寺院や神殿などの壮麗構造物にほとんど依拠せず(そこがギリシアが好んだ神殿文化やユダヤ・キリスト教の教会聖堂文化とかなり異なっている)、もっぱら祭祀のための儀式や歌を重視した。そのうえでかなり複雑な祭祀の規定をもっていた。
それゆえ、中心にあるのはあくまで言葉、すなわちマントラとその使い方なのである(マントラは日本語では「真言」と訳すのが最も近い)。ようするに、ヴェーダ祭祀は言葉にもとづく信仰行為だったのである。その中身の大半は讃歌集としての『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジャルヴァ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』という4つのサンヒター(本集)として残る。いずれも祭詞・呪詞・賛歌ばかりで成り立っている。
ぼくは筑摩の世界文学大系に入っていた辻直四郎訳で、ヴェーダ集に初めてお目にかかった。その後は筑摩の世界古典文学全集や岩波文庫にも入った。けっこうな量で、『リグ・ヴェーダ』だけでだいたい『源氏物語』くらいになる。英神インドラ、火神アグニなどに捧げられたマントラが多い。
アーリア人の移動 リグ・ヴェーダ
(「世界の歴史B〜古代インドの文明と社会〜」より)
やがてバラモンたちは複雑な祭祀祭式に凝っているうちに、実際の祈りや祭りをとりおこなうよりも、祭祀や祭式や祭儀に盛り込める「知」のほうに関心をもち、祭式にまつわるすべてのことは世界知に匹敵するものだと考えるようになった。バラモンたちはこれらを通して、「すべてを知らなければならない」「すべてを知りつくす必要がある」と考えたのだ(そうとう執拗に考えた)。バラモンたちだけではなく、部族の長や王や専門的論客たちもこの試みに加担した。
この論客の参加によってヴェーダは深い奥行きをもつことになる。サンヒター(本集)だけではなく、言葉の編集も拡充していった。
まずは紀元前800年ころには散文化したブラーフマナ(ブラーマナ=梵書)を生み、ついでは人里離れた森林などで語りあうためのアラーニヤカ(森林書)が編み上げられ、さらには紀元前500年をすぎてからのことだが、古典語を駆使したウパニシャッド(奥義書)に深まっていった。
ウパニシャッドには、祭式に用いられる言葉の真の意味とはどういうものなのか、われわれ人間の思索はどういうものであるべきか、そもそも生きとし生けるものはどんな性質をもっているのか、すべての実在を許容している宇宙の容器としての本質は何かといった、きわめて抽象的で、かつまた主知的な推論や議論が集中的に収められていった。まとめてウパニシャッド哲学とよばれ、その後期の成果はヴェーダンタ哲学とよばれる。
王や貴族や長者たちもこういう議論を待ちかねていたようだ。大いに議論を煽り、賞金を出してまでも有能な論理が生まれていくことを望んだ。そのため論客たちは弁論のための説得法を徹底検討し、論証のための起承転結を完膚なきまでに用意しようとした。なかには奇を衒ったものも少なくない。
ぼくは量子力学者シュレディンガー(1043夜)の『生命とは何か』が、このヴェーダンタ哲学に言及しているのを知って、どこかから忽然と英知の声をもらったような気がしたので、当時住んでいた新宿御苑近くの図書館で全部で9巻の『ウパニシャッド全集』を見つけ、とても興奮したものだ。しばらく繙読に通った。世界文庫刊行会が大正13年に刊行した古色が燻し銀のように輝いていた全集だ。高楠順次郎が監修、木村泰賢(96夜)が翻訳にあたっていた。
『世界聖典全集』に収蔵されている『ウパニシャット全書』
仏典には個人の著者名がなく、たいていが編著者集団によるものになっている(有名なのが3期にわたる仏典結集だ)。ところが意外なことに、仏教誕生以前のインド哲学には個人の著作が早くに出現する。
紀元前8世紀前後、ウッダーラカ・アール二という大哲人が登場して、インド哲学最初最大の嚆矢ともいうべき「有の哲学」を提示した。タレス、ソクラテス、プラトン(799夜)が前6世紀くらいだから、かなり早い。
ウッダーラカ・アール二は、世界には最初に「有」(サット)があった、その「有」はブラフマンという根本実在だと説いた。これは早々に「ブラフマンだけが唯一無二の有である」という論理(ロゴス)を提起したということで、そのような論理(ロゴス)が唯一無二であるということを宣言していた。ということは第二、第三の神々などが存在する余地はないということだ。
ギリシア哲学やキリスト教が「初めにロゴスがあった、神はロゴスとともに生まれた」と主張したのに対して、ウッダーラカ・アール二はそうではなく、ロゴスこそが唯一無二で、論理こそが神の別名あるいは異名そのものの展開だと考えたのである。これは言葉(ロゴス)そのものに唯一無二性の起源があるということでもあった。
その後、時代が変わってきた。紀元前5世紀をくだってくると、ジャイナ教や原始仏教が新たな信仰スタイルを提唱して、それが民衆のあいだに少しずつ広まりはじめた。そこでバラモンたちはこれに対抗するべく、信仰体系と学問体系の両方を準備せざるをえなくなってきた。
こうしてここに、一方では「ヒンドゥー教」が確立し、他方では複雑難解な教理哲学や文法学など、すなわち「インド哲学」が確立していくことになる。
インド哲学は独自の言語体系をつくりだした。自然言語であるヴェーダ語を確乎不動のものにするため、サンスクリット語という人工言語を構築したのだ(ヴェーダ語をもとにサンスクリット語をつくりあげた)。なかでも紀元前4世紀の天才的な文法学者パーニニの『アシュターディヤーイー』は一般には「パーニニ文典」と呼ばれるのだが、約4000ほどの論理記憶用のスートラ(短句)を用意して、インド哲学の基本用法を組み立てるための、いわば人工知能のプログラミング言語のようなものを提供した。これらは紀元前2世紀にはパタンジャリによってさらに精緻に磨かれる。
インド哲学が独自のプログラミング言語(サンスクリット語とその表現方法)を獲得することによって、ギリシア哲学とはまったく異なる体系を確立していったことは、世界哲学史上でも特筆に値する。それも一様な哲学ではなく、幾つかの流派に分かれていっせいに立ち上げていった。これがいわゆる「インド六派哲学」(96夜)だ。
サーンキヤ(数理派)、ヨーガ(行法派)、ヴェーダーンタ(思惟派)、ミーマンサー(祭祀文法派)、ニヤーヤ(論理学派)、ヴァイシェーシカ(自然哲学派)の六派にまとめられる。それぞれ特色があるのだが、なかで各派がとくに際立ったちがいを見せるのは、最初の3つが唯名論を重視して因中有果論を表明し、うしろの3派が実在論を重視して因中無果論を説いたということだ。
因中有果とはすべての事象は原因の中にすでに結果が包含されているという見方を、因中無果とは原因と結果の関係にはそれほどの必然性がないという見方をいうのだが、このちがいが因果応報の各哲学を変化させるとともに、インド哲学特有の論理を多様に育むことになった。
17世紀ごろの「パー二二文法」
では、以上ののことをとりあえずの前説にして、本書で宮元がどのようにインド哲学にひそむ7つの難問を料理したのか、その味を紹介しておきたい。
ぼくの要約編集では危険だろうが、まあ、やむをえない。気になる諸姉諸兄は宮元の著作で確かめてほしい。
【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか?
この問いは、言葉は真実を表明できるのかという問いである。インド哲学は言葉が世界を創ると確信する。それが大前提だ。だから言葉は真実(サッティヤ)をあらわせる。そう、考えた。言葉には世界を創る力があるばかりか、根本的な真実をつくる力があるとみなされたのだ。サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。言霊っぽい。
ふつうは、言葉なんてしごく感覚的なことで、心や真実をあらわしているとは思わない。なぜなら言葉で嘘もつけるし、まちがったことも言えるからだ。人や時代や土地柄によって言葉づかいもちがうし、いつも言葉が同じ意味で使われているとも思えない。これがふつうの常識だ。
しかし、インド哲学はそう見ない。もともとヴェーダのマントラから世界が生まれ、言葉はブラフマン(宇宙原理)でもあったのだから、言語力こそがあらゆる力の源泉なのである。印哲では、なんだって言語力で説明がついたのだ。
それゆえ「その通りにものごとを実現する」には、たとえばサッティヤはカーマ(願望)と連合するほうに動いて願いを叶える気分をつくり、ヴァチャナ(語句)と連合すればその気分が詩歌に至り、そのサッティアをヴラタ(誓約・約束)と連動させれば、人生での約束事を保証していくというふうになるとみなされた。いっときぼくが夢中になった5世紀の言語哲人バルトリハリは、言葉(語)そのものがブラフマンだとみなしたほどだ。
というわけで、第1難問については、「言葉には世界を創る力があった」のである。
『マハーバーラタ』より4つの力
【第2難問】「有る」とは何か。「無い」とは何か?
ウッダーラカ・アールニの「有の哲学」は「有」から始まっていた。「有」から始まるということは、この世において「いったいどうやって無から有が生じたのか」などとは考えないということだ。のっけが「有」なのだ。最初から「有」があったのだ。どんな「有」も「有」からしか生じないとみなすのである。
こういうインド哲学は流出論的な一元論である。そういう特徴をもつ。ユダヤ教もエン・ソフという流出から世界が始まったと見るが、インド哲学は「有」だけが流出していくと見た。
流出論的な一元論はいきおい唯名論的になる。唯名論(ノミナリズム)というのは、ヨーロッパ中世のスコラ哲学が生んだ普遍論争が際立たせたもので、そこでは「人間」「愛」「犬」「薔薇」といった類の概念は実在しないとみなし、それらには名(名辞)があるだけだと見た。これに対して実在論(リアリズム)は、どんな歴史や現象であれそこにおこっていることは、それらに名前がついていようといまいと、それらについての記述があろとなかろうと、ほぼ実在しているとする見方である。
インド哲学は言葉を本質化して見るので、最初ははなはだ唯名論的になる。へたをすれば名辞がありさえすればいいので、それを次々に連ねていくと神秘主義的な傾向にもなる。とくにウッダーラカ・アールニの哲学を解釈していくと、そうなりかねない。しかし六派哲学の時代になると、インド哲学にも実在論が台頭する。ミーマンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの学派だ。とくにヴァイシェーシカ学派は、「すべては知られるものであり、かつ言語にも表現できる」と見て、「知られるもの、言語表現できるものはすべて実在する」とみなした。この「知られる」には「知覚される」だけではなく「推理される」も含まれる。
そこで第2難問だが、「有る」はともかく、「無い」の説明が面倒だろうと思われようが、そんなことはない。インド実在論の見方からすると、「ない」や「無」の議論は実はたいへん明快なのである。「ここに水瓶がない」は「ここに水瓶の無がある」といふうに言えばいいからだ。
これは、「対蹠者」と「場」と「無」の3つを一挙に捉えるという方法だ。ラッセルやクワインらが先導してきたヨーロッパの論理学では、「丸い四角形」は意義(センス)をもつけれども指示対象としての意味(ミーニング)をもたないとされてきたのだが、印哲のヴァイシェーシカ学派では、「丸い四角形」は「絶対にありえないものとして実在するもの」というふうになる。
こういうわけで、すべては「ある」であって、「無」や「ない」すら「無がある」のだし、「ないということがある」なのである。この方法は、初期宇宙に「なかった」はずのヒッグス粒子やダークマターを「あるもの」として提案した宇宙物理学の推論方法につながるところがある(678夜、1506夜参照)。
松岡によるマーキング
実在論学者による「無の分類」
【第3難問】本当の「自己」とは何か?
これもかなりの難問だ。ずっとそう思われてきた。「私」って何かだなんて、とうていわかりそうもない。哲学が躓いてきたものがあるとすれば、それこそは「自己」や「私」なのである。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も、問題は「我」だった。認知科学や脳科学もそこをいまだに明快な説明をしていないままにある。とくに自己の本体と自己意識の区別がなかなかつかないままになっている(最近の認知科学では自己ないしは自己意識は脳のモニタリングによる産物だとみなされつつある)。
しかし、インド哲学ではこの点についても、まったく迷わない。「自己」とはアートマンというもので、そのアートマン(我)とブラフマン(梵)とは一体だと捉えるからだ。梵我一如で一蓮托生なのである。最初に自己を措かないで、最初からアートマンはブラフマンと一緒になっていたと見るからだ。そういう梵我一如状態のアートマンのことをとりあえず真我という。
インド哲学で自己の議論を樹立したのはヤージュニャヴァルキヤだった。紀元前700年前後の哲人で、ウッダーラカ・アルーニの弟子としてウパニシャッドを代表するともくされている。ヤージュニャヴァルキヤは、世界がすべてアートマン(真我)にほかならず、そのアートマンが認識主体になりうる唯一のものだとみなしつつ、しかし認識対象にはなりえないとみなした。では、アートマンは自己反映できないのかといえば、そうなのだ。アートマンは把握することも表現することもできない。それならアートマンを確認するには、「Aはアートマンではない、Bはアートマンではない、Nはアートマンではない」というふうに。どうするかといえば、「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)というふうにしか言いようがない。ヤージュニャヴァルキヤは、そう説いた。
これははっきりいえば「自己は知りえない」ということである。生きるものが生きる器の中にあることを器世間というが、アートマンはその器世間に内属してはいるだろうが、その全体を器世間という環境たらしめているものそのものであるからだ。アートマンによる自己認識は不可能だという説である。
仏教では心身にもたらされる作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。「蘊」とは集まりのこと、センシング・クラスターのことだ。色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の五つをいう。
ブッダは五蘊いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはいけないと戒めた。これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であるという説だ。宮元は、ここにはヤージュニャヴァルキヤの哲学を正統に継承できているものがあると見る。
ヤージュニャヴァルキヤやブッダの自己認識不可能説は、ずっと下って8世紀に登場した哲人シャンカラによって「不二一元論」というものになる。これは梵我一如をさらに発展させたもので、原因を必要としないで存立するブラフマンと個別の本体であるアートマンとは、本来において同一で、それゆえ梵我は一如にして、かつまた不二一元であると説いたものだった。
インド哲学では、こうした不即不離について、実に多くの言説が提起され、乱れとんでもきた。ぼくは相即相入を説いた華厳世界観にもその特色が濃厚に投影したと思っている。
ヴァイシェーシ哲学による「写像の自己」
【第4難問】無我説は成り立つか?
インド・アーリア人を悩ませたのは輪廻(サンサーラ)である。輪廻転生とも訳す。業(カルマ)によって生まれ変わりがおこるという観念のことだが、再生と再死がずうっとくりかえされるというのだから、これは辛い。
自己の輪廻転生なのだから、死んでも死ねない。自分と死は切り離せない。そこで、業をつくっているらしい欲望を滅却すれば輪廻をめぐる苦悩がなくなるのではないか、そのためには苦行をしたり瞑想をしたりするのが有効なのではないかということが模索された。
ブッダが目覚める前にひっかかっていたことも、このことだった。若いブッダは苦行にも瞑想にも励んだのだが、いくら激しい苦行をしても苦しみに耐えられたとしても苦悩はなくならず、いくら瞑想しても瞑想中はともかくも瞑想がおわると欲望が再発してくるのを知って、輪廻を恐れる感情には制御不能・自覚不能な自己にまつわる根本的生存欲のようなものが関与しているのだと気が付いた。
輪廻転生が恐いのは、そのように思う自己があるからで、それならそんな自己を実感しなくなればいいのだが、それがそうならない。この、自己にへばりついて制御不能になっている根本的生存欲のことを、仏教では渇愛(かつあい)とか無明(むみょう)という。
渇愛や無明が動き出さないようにするには、どうするか。ブッダはこの根本的生存欲を脱するには「智慧」をもつ以外にはないと悟った。人生が苦渋に満ちていることを知り、世の中は無常そのものであると諦めること、そう思えることが智慧である。また自己の心身に自己を実感しないように「五蘊非我」(五蘊はすべて我に非ずという説)を感じられるようにすること、それが智慧だった。
ところが、ブッダが入滅してしばらくすると非我観が修正されてきた。心身のいずれも自己でないのなら、そもそも自己なんてものはないのではないかという考え方が台頭したのである。これが「無我」説だ。
紀元前2世紀の『ミリンダ王の問い』に無我説が確立していることが見てとれる。バクトリア国王メナンドロス(ミリンダ)が仏教界の長老ナーガセーナとの問答に感動して仏教に帰依したという顛末を記したものだ。
『ミリンダ王の問い』で明白になった無我説は、輪廻の主体から自己を外してしまうものだった。宮元はこのようなナーガセーナ流の無我説が台頭してしまったため、その後の仏教はブッダの非我を存分に持ち出せず、ついつい無我の説明に終始することになったと説明している。
というわけで、インド哲学的には無我説は成り立たないのである。とはいえ無我説が仏教修行に我執の減退を貫かせることになったのは、仏教の新たな実用力になったとも、宮元は説明する。
松岡によるマーキング ミリンダ王と尊師ナーガセーナの問答の様子
二人の問答の冒頭はこうだ。
ミリンダ王「尊者よ、あなたはなんという名なのですか?」
ナーガセーナ「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。(中略)しかしながら、大王よ、この『ナーガセーナ』というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。そこに人格的個体は認められないのであります」
【第5難問】名付けの根拠は何か?
幼児はものごとの名前をおぼえることからすべての学習を始める。つまり「ワンワン」「お母さん」「わたち」「お菓子」といった名付けを知ることから、世界を知り始める。ということは、世界は事物や現象で埋まっているというより、さまざまな名前でできているということになる。これはむろん唯名論(命名先行主義)による解釈だ。
しかし、世界がさまざまな名前でできているからといって、それを学習すれば世界がわかるかというと、そうはいかない。名付け(ネーミング)はあまりに任意にされてきたからだ。そのためヨーロッパではこれを学問(学知)でカバーすることにした。学科(スクール)を立て、名辞と概念を普遍と特殊に区分けして、そこに生成と発展の段階を与えていくことによって、このプロセスを学習できるようにした。オッカムの剃刀を駆使して、唯名論の残響からの脱出を試みたのだ。
これはこれでたいへんな効果があったのだが、インド哲学では実在論が名付けの混乱にメスをふるった。とくにヴァイシェーシカ学派だ。
世界には無数の個物があって、それぞれに名がついている。すべての個物いちいちに別々の名がつくのではない。「馬」という名は馬という共通の属性をもつものすべてに名付けられた。この共通の属性は普遍的なものだ。しかし、「馬」という名はその名によって「牛」や「鹿」や「虹」や「道」とは区別できる機能をもちうる。これは名には特殊化する機能もあるということを示す。そうだとすると、普遍(サマーニャ)と特殊(ヴィシエーシャ)は、最も簡潔な規則(それをラーガヴァと言った)によって結びついているはずなのだ。こうしてヴァイシェーシカ学派は、ヨーロッパのようには普遍と特殊を分けなかったのだ。
6世紀のプラシャスタパーダやその著作に注をつけたヴィヨーマシヴァは、この普遍と特殊が二重に畳まれているのは、名前に便宜性=偶有性がひそむからだとみなした。宮元はそうは説明していないが、これは名付けにひそむコンティンジェンシー(当初のものに別様の可能性が包含されていること)の指摘だったのではないかと、ぼくは思っている。
【第6難問】知識は形をもつか?
知識とはどういうものか、残念ながらいまだに定説がない。かつては神々に全知全能が想定されていたので、その神々の知を譲渡されたかっこうで人間の知識が形成されてきたとみなされたのだが、いまではこんなふうに「アダムが知識を盗んだ」ふうなことは、誰も思わない。
最近では知識は、知覚や思考、判断や行動、経験やコミュニケーション、社会との軋轢などによって獲得された情報知識のこと全般をさすようになっている。さらに、コンピュータにあらかたの知識が入ることがわかってからは、システムが用意した区分と階層とが「知識の構造」を代用するようになった(とみなされるようになった)。が、今度はこれでは知識がシステムに依存しすぎて、知識そのものの動向は見えてはこない。カーソル・インすればいつでも引き出せることが可能になっただけなのだ。
そこで、とりあえずは形式知と暗黙知、選言的知識と手続き的知識、アプリオリな知識(先験的な知識)とアポステリオリな知識(後天的な知識)、さらには記憶と再生との関連で分類できる知識などというふうに分別もするようになってきたのだが、これとて知識の本源に触れた感じはしない。とくに「不完全な知」や「いくつもの根拠にまたがる知」をどう取り扱っていいか、こうした見方ではなかなか明確にはなってこない。ここらはきっとイアン・ハッキング(1334夜)めいた検証をしたほうがいいだろう。
こういう問題を、インド哲学はどうしたか。どうもしていない。そもそもシステムにあたるものを事実や情報が入る容器とは見ていないのだ。またシステムに入るコンテンツが知識だとも見ていない。
インド哲学では、もともとが「世界=器世間=システム=知」なのである。根源的な言語作用によって梵我一如化されたアートマン=ブラフマン状態が「知」の母型なのである。つまり、インド哲学ではシステムとコンテンツは分かれないのだ。
では、何も分かれないのかといえば、そこは便法で分けた。まずは言葉にならない無分別知と言語化できる有分別知があって、記憶や判断にまわるのは有分別知だとみなした。これを「決知」などともいう。しかし、決知としての有分別知は人間が素朴に選別できるものであってよく、とくに高次な知識になっているわけではない(高次になる必要もない)。それは体験的な現実から判断できる知としてのアルタというもので、そのアルタの知は高次化したり深化したりはしないと見た。ここまでは知識は形をもっている。
その知識が高次になったり深まったりする場合は、そこからは知的な作業ではない。解脱(げだつ)のプロセスと一緒になっていく。
仏教では唯識派がそこを強調するのだが、前意識に感知された知識と、意識に感知されたものとを区別する。「前意識」は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識のことを、意識のほうを「第六識」という。五識と第六識をあわせて六識または現行という。
唯識は、この六識の奥に「末那識」(マナ識)が、さらにその奥の奥には「阿頼耶識」(アラーヤ識)があると見た。合計で八識になるのだが、この阿頼耶識がまわりまわってすべての意識を動かし、そこに知識を引っ付けてくるのだとみなしたのだ。
ようするに、知識とはいっても世界の識別をしている知識だけでは、本来の知を会得したことにはならないと考えたのである。それはせいぜい、異熟(行為から判断する知識)、思量(思考によって得る知識)、了別(対象によって識別された知識)などにとどまる。でも、アルタを相手にしているのなら(解脱なんてしたいと思わないなら)、それはそれで十分なのである。
唯識における八識
【第7難問】どのようにして、何が何の原因なのか?
ここで問われているのは、世界を因中有果論で見るのか、因中無果論で見るのかという難問だ。もう少しひらたくいえば「因果応報」とはどういうものなのかということだ。
インド・アーリア人に因果応報という考え方が蔓延したのは、業による輪廻転生がもたらすものが現実や人生に及んでいるとみなされたからだった。「親の因果が子に報い」と言うように、因果応報説では、いったいどんな原因がどんな結果になるのかということが取り沙汰された。そうした取り沙汰のなかでは、善行を積めば次の世で次善が得られると想定するのは当然のことだった。そこには前世・現世・来世も想定された。「自業自得」も議論された。自分の業が自分にどう回帰してくるのか、自業自得のことは、考えれば考えるほどアタマが痛い。
やがて原因の中にどのくらい結果の種があるのかどうかということ、その関係をどのように見るのかということが、インド哲学の全般でも最大の問題になっていった。
前説で紹介しておいたように、因中有果論はすべての事象が原因の中に結果が包含されることをいい、因中無果論はその逆で因果の関係には必然性がないという見方のことをいう。もっとも二つは真逆の関係にあるというより、大半が因中有果を実感するなかで、因中無果を言い放つのにかなり大胆な仮説が必要だということを告げている。
因中有果論はビッグバン理論や進化論のような流出論でできている。時間は強力に一方向に流れ、つねに先行するものが後出するものに含まれる(ないしは排除されたり捨てられたりする)。しかしとはいえ、その前駆性と後発性の関係はけっこう微妙なのである。
インド哲学ではサーンキヤ学派がこのしくみを解明しようとして、宇宙全般にプラクリティ(物質原理)とプルシャ(精神原理)とを二元的に想定して、これらの相互関係で説明した。
宇宙的な状態であるプラクリティは、その内なる三つの構成要素としてのサットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)が平衡状態にあるときは自身で安定しているのだが、ひとたびプルシャからの観照をうけると均衡を失い、決まった順序で開展(パリナーマ)を始める。これが因果応報をつくるというのだ。プルシャから観照をうけるというところに、宇宙に言及しようとした知覚や思考が関与する。
サーンキヤ学派による25の原理
因中無果論を解明してみせたのはヴァイシェーシカ学派のほうである。こちらは実在論的で、多元的だ。そもそも因果や応報を考える前に、世の中にはいくつもの範疇(句義)があるのだから、これらが無作為に動くなどと考えては因果応報が勝手に動くように見えて収拾がつかなくなる。そこで、範疇を実体・性質・運動・普遍・特殊・内属・非実在などに分けて、これらが多元的に動いているということを見つめるべきだというのだ。そうすれば、原因と結果は必ずしも部分と全体の関係に還元などできないことが見えてくる。そういう見方だった。
因中有果論と因中無果論の両方から自在になろうとしたニヤーヤ学派もいた。この学派は有効な知覚とは何かを求めて、直接知覚、推論、類比、証言という4つの認識方法が原因と結果の関係に自在な見地をもたらすと見た。
いずれも因果応報をのりこえるというものではないが、インド哲学が「何が何の原因なのかをどのようにして決めようとしてきたのか」ということを、独自に解決しようとしてきたこと、その非ヨーロッパ的方法論に、ときに粛然とさせられることがある。
サーンキヤ学派の教祖カピラの想像画(19世紀)
⊕ インド哲学 七つの難問 ⊕
∈ 著者:宮元啓一
∈ 発行者:野間佐和子
∈ 編集:太田憲一郎
∈ 装幀者:山岸義明
∈ 発行所:株式会社 講談社
∈ 印刷所:信毎書籍印刷 株式会社
⊂ 2002年11月10日 第1刷発行
⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 序章 インド哲学は哲学である
∈ 第1問 ことばには世界を創る力があるのか?
∈ 第2問 「有る」とは何か、「無い」とは何か?
∈ 第3問 本当の「自己」とは何か?
∈ 第4問 無我説は成り立つか?
∈ 第5問 名付けの根拠は何か?
∈ 第6問 知識は形をもつか?
∈ 第7問 どのようにして、何が何の原因なのか?
⊕ 執者略歴 ⊕
宮元啓一
1948年、東京都生まれ。1970年東京大学文学部印度哲学科卒、1972年同大学院修士課程修了、1975年東方研究会研究員、春秋社編集部で仏教書籍などの担当編集者。1986年國學院大學講師、1988年助教授、1995年教授(文学部哲学科)。1997年「初期ヴァイシェーシカ学派の形而上学と認識論」で東大文学博士。著書に、『わかる仏教史』(春秋社)、『牛は実在するのだ!―インド実在論哲学「十句義論」を読む』(青土社)、『日本奇僧伝』(ちくま学芸文庫)、『ブッダ―伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社)など多数ある。
サーンキヤ学派の特徴
「サーンキヤ・カーリカー」イーシュヴァラクリシュナ 4c
カーリカー 2行からなる詩節 73(68+5)の詩節からなる
インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』著者 宮元啓一 著
サーンキヤ学派Sāṅkhya-darśanaとは、
インド哲学の学派のひとつで、世界の根源として、精神原理であるプルシャ(神我、自己)と物質原理であるプラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的実体原理を想定する。
厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。
Sāṅkhya(サーンキヤ)は「数え上げる」「考え合わせる」という意味だが『マハーバーラタ』においては、知識によって解脱するための道のことを意味していた。
開祖は4bcのカピラで弟子にアースリ、その弟子にパンチャシカがいる。
時代を遡れば『リグ・ヴェーダ』にあったもので『マハーバーラタ』の一部をなす『バガヴァッド・ギーター』(紀元前数世紀ころの文献)に残されている。
『ブッダチャリタ』Buddhacarita仏教僧侶である馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の著作とされるサンスクリット原典の仏教叙事詩にもある。
馬鳴はクシャーナ朝で活躍した代表的な仏教文学者だが、本作は後の時代のグプタ朝において進められることになる仏典のサンスクリット化の先駆でもあり、また、超人的存在としての仏陀を、説話や比喩の多用で表現する仏教文学を、確立・大成した作品ともされる。
『仏所行讃』は『ブッダチャリタ』を曇無讖が漢訳したもので、大正新脩大蔵経には第4巻本縁部No.192に収録されている。
16世紀後半になるとヴィジュニャーナビクシュが『プラヴァチャナ・バーシャ』という、『サーンキヤ・スートラ』についての注釈書を著したが、これは勢力優勢なヴェーダンタに追いつくために有神論的な考え方を採用したものである。
最終目標
自己が世界に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(カイヴァリヤ)で、輪廻の苦しみから根絶されて得られる絶対的な幸福に至る。
二元論 相入れない二つの永遠なる実在であるプルシャ真の自己とプラクリティ自性があると考える
科学の思考型式と類似性が高く、現在の宇宙論ではプラクリティ(無、根源の自然)からエネルギーが発生(流出、展開)し、終わりにはまたそこにすベテは戻っていくと考えている。
ただ科学は自性の物質のレベルしか扱っていない。
ヨガを実践している人はプルシャ魂(観照する主体)よりもプラクリティ肉体(根本原質)の方が波動が高いので驚くと思う
女性原理のほうが男性原理より波動が高い。
インドの二元論哲学
精神原理であるプルシャ(神我、自己)と非精神(物質)原理であるプラクリティ(自性、原質)を峻別して、
プルシャがプラクリティを観照することで、プラクリティから世界(身心や環境など)が流出した、と考える。
cf.デカルトは実体を精神と物質に分けて、この精神的物体をマインドとした。
カントは自己(超越論的統覚としての自己を構想した)と心を分けて考えた。
パラアートマン(ブラフマン)に達した人類は5人だけ
ヤージュニャヴァルキヤ 7bc ウパニシャッドの哲人 自己論
サーキンヤ哲学は輪廻について誤解していたが何故このように考えたのか?
輪廻するのは肉体だけで、微細心から上のレベルでは輪廻しない。
ブッディ(心)に8つの諸状態がありその中の知識を除いたものが解脱することを束縛すると誤解して信じているのは、ヴェーダ以来の無知に由来する。
ヨガを実践する人のガイドブックとしては分かりやすくて十分であり、目的地まで単純に書かれているので使い勝手がいい。
ただ哲学には誤りがあり、論理的につきつめると矛盾が生じたり、厳密性を著しく欠いている記述があるので注意を要する。
自性から器官が生まれてくる順番についてはわかりやすいが、これは瞑想修行する時の順番の説明と現れてくる順番の説明であって、実際の因果関係ではないことが矛盾を生み出すのだがこの哲学の疑問、そして誤謬の原因となる。
たとえば原質から心が出てきて、そこから我執が出てきて、そこからマナスが出てきてと書かれているが、なぜマナスからそれらが出てくると考えないのであろうか?
たとえば眼がアハンカーラやマナスから生まれてくるのではなく、自性から生まれる。
また微細心であるブッディが何度も肉体に入ることが輪廻であるとしているが、微細心は物質界ではなく幽界に属しているので、実際には物質界(欲界)の輪廻には関係がない。
またサーキンヤ派はプルシャ自己はプラクリティ自性以下の存在とは別であり自由であるので、はじめから解脱している、と説く者もいるが、解脱とは肉体が物質界(欲界)から離れることなので、これを解脱とは呼ばない。
ブッディは、プラクリティから展開して生じたもので、認識・精神活動の根源であるが、身体の一器官にすぎず、プルシャとは別のものである。
ブッディの中のラジャスの活動でさらに展開が進み、アハンカーラが生じる。これは自己への執着を特徴とし、個体意識・個別化を引き起こすが、ブッディと同様に物質的なもので、身体の中の一器官とされる。
アハンカーラは、物質原理であるプラクリティから生じたブッディを、精神原理であるプルシャであると誤認してしまう。これが輪廻の原因だと考えられた。
自我(自己)意識(アハンカーラ)が思惟機能(buddhi)を誤って自己(精神原理)とみなした、のが誤謬である。
真の自己は自性の展開をじっと見守っている霊我(プルシャ)である。
サーンキヤ哲学における世界展開(二十五諦)
サーンキヤ学派は厳密な二元論を特徴とする。
世界はある一つのものから展開し、あるいはこれが変化して形成されるという考え方をパリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)といい、原因の中に結果が内在するという因中有果論であるが、ヴェーダ・ウパニシャッドの一元論や、プラクリティ(根本原質)からの世界展開を主張するサーンキヤ学派はこれにあたる。
精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、それに対し物質原理であるプラクリティを第一原因とも呼ぶ。
プラクリティには、サットヴァ(sattva/ सत्त्व 、純質)、ラジャス(Rajas/ रजस्、激質)、タマス(tamas/ तमस्、翳質・闇質)という相互に関わるトリ・グナ(tri-guṇa、3つの構成要素, 三特性、三徳)があり、最初の段階では平衡しており、平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。
サットヴァ(sattva純質)、ラジャス(Rajas激質)、タマス(tamas翳質・闇質)は
ブラフマー(創造)シヴァ(破壊)ヴィシュヌ(維持)に対応するのか?
自己puruṣaは認識対象とはならない認識主体でātmanのこと。
ātmanは世界内存在として扱われているなどの多義の解釈があったので、puruṣaという語句を用いた。
未顕現(avyakta)すなわち未分化のものとは原質prakṛtiのこと。
顕現(vyakta)とは流出・分化して現れ出た世界の諸原理(tattva)のこと。
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる。
プラクリティから知の働きの根源状態であるブッディ(Buddhi, 覚、マインド?)またはマハット(mahat, 大)が展開され、さらに展開が進みアハンカーラ(Ahaṅkāra, 我慢または我執, 自己意識。アハンは「私」、カーラは「行為」を意味する)が生じる。
自己が心を通して世界を認識するとして、得られたすべての認識は「私の認識」という烙印が押される。
これが「統覚」というもの。
アハンカーラの中のトリ・グナの均衡がラジャスの活動によって崩れると、これからマナス(意, 心根、Manas、思考器官)、五感覚器官(Jñānendriya、五知根、目・耳・鼻・舌・皮膚)、五行動器官(Karmendriya、五作根、発声器官・把握器官(手)・歩行器官(足)・排泄器官・生殖器官)、パンチャ・タンマートラ(五唯または五唯量、Pañca Tanmātra、五微細要素, 五つの端的なるものが展開して生じる。
パンチャ・タンマートラは感覚器官によって捉えられる領域を指し、声唯(聴覚でとらえる音声)・触唯(皮膚でとらえる感覚)・色唯(視覚でとらえる色や形)・味唯(味覚でとらえる味)・香唯(嗅覚でとらえる香り・匂い)である。
この五唯から五大(パンチャ・ブータまたはパンチャ・マハーブータ(Pañca Mahābhūta)、五粗大元素)が生じる。
五大は、土大(Pṛthivī, プリティヴィーもしくはBhūmi, ブーミ)・水大(Āpa, アーパもしくはJala, ジャラ)・火大(Agni, アグニもしくはTejas, テージャス)・風大(Vāyu, ヴァーユ)の4元素に、元素に存在と運動の場を与える空大(Ākāśa, アーカーシャ, 虚空)を加えた5つである。
ヒトは、5元素を5唯の知覚から、推論として知ることになる。
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。
「プルシャ、プラクリティ、ブッディ(マハット)、アハンカーラ、十一根(マナス・五感覚器官・五行動器官)、パンチャ・タンマートラ、パンチャ・ブータ」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。
(「諦(Tattva)」は真理、流出・分化して現れ出た世界の諸原理を意味する。)
探究心 jiñāsā philo sofia 兄弟的愛智
苦をよく観察し、それを滅ぼす手段を探究心を起こすのが哲学の出発点であり、これを原動力にして苦を滅ぼし解脱し、絶対的な幸福(安楽、寂静、涅槃、寂滅)に至るのが目的となる。
3つの苦
生きものに関わるもの ヒンドゥー教では胎・卵・湿・芽生の4 仏教は芽生の代わりに化生(神・地獄)
個体に関わるもの 身体的苦と心的苦の2種類
天に関わるもの 寒暑風雨雷など
仏教は植物を生きものに含まない?
ヴェーダ聖典を権威とし、欠陥を修正
解脱を目指すためには欠陥の修正が必要
ヴェーダの誤謬は時間は克服できない、と思っている。
知覚、推論、信頼すべき言葉の3種類が認識手段である。
認識対象はこの3種の手段によって存在が確定される。
知覚を越えたものの存在は、信頼すべき言葉によって確定される。
知覚にも推論によっても捉えられないものは、信頼すべき言葉によって捉えられる。
たとえば「インドラは神々の帝王である」「天界には妖精アプサラスたちがいる」
cf.唯物論者は知覚のみ、仏教徒は知覚と推論、ニヤーヤ学派は知覚と推論と類推と言葉、シャンカラ出現以降のヴェーダーンタ学派は知覚と推論と類推と言葉と論理的要請と不知(無の確認手段)による。
知覚、推論(∋論理的要請)、信頼すべき言葉(∋可能性・無・直感・伝承)
推論は標印(シンボル)と標印を有するものを前提とする。
信頼すべきものは梵天などの教師、信頼すべき言葉とは天啓聖典、すなわちヴェーダ聖典のこと。
推論の間違いは過剰一般化
時空を伴う因果 雲の大きさをみて降雨の量を推定する 雲になっていない大気を計算に入れていない
繋がっている残り 海の一部の塩分を図り、どの場所も同じ塩分だと推論する。
共通性(共時性?)A点にあったものがB点にあるのを見ると、そこに移動した運動が有ると推測すること
ここでフキノトウが出てきたので、あそこでも出てくるだろうと推測する
cf.ヴァイシェーシカ学派
インド六派哲学(ṣad darśana)の1つで、カナーダが書いたとされる『ヴァイシェーシカ・スートラ』を根本経典とする。一種の自然哲学と見なされることもある。
『ヴァイシェーシカ・スートラ』では、全存在を6種のカテゴリーから説明する。
言葉は実在に対応しており、カテゴリーは思惟の形式ではなく客観的なものであるとする。
カテゴリーは実体・属性・運動・特殊・普遍・内属の6種である。
主要なるものと従属要素は対
pradhānaとguṇa
自己が存在すると思ってしまうのは
非精神的なものである心があたかも精神的なものであるかのごとく顕われるから、非精神的なものの支配者である自己が存在すると誤謬される。
根本原理プラクリティが1つであるので、顕現した私の心、私の体と錯覚する。
他人も根本原理は1つなので、私に関わる世界と他人に関わる世界は別物である。
多数の自己に多数の根本原理がある。
知覚できないもの
遠すぎる 観測の外側にあるもの
近すぎる 眼膏 眼につける軟膏
感覚器官の損傷 聾唖者 色盲
思考器官の不安定 心が散漫な状態
微細であること 大気中の水分
遮断 壁に遮られている状態
圧倒性 昼間の惑星や星
混淆 鳩の中の鳩
主要なるものpradhāna(= 第一原因)、すなわちプラクリティは現象世界の根源的物質であり、現象的存在(個々の物)は全てプラクリティの変化によって生じたものは、微細であることから知覚されない。
どうすれば知覚できるのか?
プラクリティから流出した結果(心、我執、意識、5端、11器官、5元素)から原因を推論される。
プラクリティと結果のカタチは違うが、同質である。
如何に似ているのか? トリ・グナ(tri-guṇa、3つの構成要素, 三特性、三徳)があること
結果は原因の中にあらかじめ潜在的に存在するのか?
因中有果論satkāryavāda 流出論pariṇāmavāda サーンキヤ学派
因中無果論asatkāryavāda 新造論ārambhavāda ヴァイシェーシカ学派 ニヤーヤ学派
世界は無明が作り出した幻影 不二一元論 化現論 シャンカラ
因中無果論は原因が特定の結果を生ずるのは、原因の本性svabhāvaであり、シャクティではない、と主張。
新造論とは「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出す」
Śakti
ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。元来は「性的能力」を意味する女性名詞であるが種々の哲学的概念を意味する語としても用いられた。
その「性的能力(性力)」が地母神信仰と習合して、シヴァ神の礼拝においては彼の神妃を表わし、この神妃を通して表わされるシヴァ神の威力を象徴するとされる。シャクティの礼拝は種々の面を持つ。シャクティは愛情の濃やかな献身的な妻の化身であり、シヴァ神妃のパールヴァティーもサティーもこのようなシャクティに他ならない。
また、シャクティの恐怖面を表わしたドゥルガーやカーリーも女性原理としてのシャクティで礼拝され、いずれもシヴァ神の妃とされた。
タントラ教においては、シャクティは3つの色(白、赤、黒)に分かれており、ブラフマーの白色シャクティがサラスヴァティー、ヴィシュヌの赤色シャクティがラクシュミーと、シヴァの黒色シャクティがパールヴァティーを生んでいる。
4cから5cのインド哲学はシャクティ時代
7cからは宗教界のシャクティ時代がはじまる。
「顕現した心」という結果は「原因」がある。
原因hetu、ウパーダーナ、カーラナ、ニミッタは「心mahat」の同義語で、主要なるものプラクリティという原因が存在する。
それ故、元素にいたるまで顕現したものは原因を有する。
プルシャとプラクリティは偏在するが、他の顕現したものは偏在しない。偏在するものは運動しない。
顕現したものは輪廻する期間にあっては輪廻する。
輪廻転生の主体と解脱
古いヴェーダーンタ学派は自己が輪廻転生の主体だが、サーンキヤ学派は顕現したものに巻き込まれたために自己が苦しむので、顕現したものの輪廻転生が止むことが解脱である。
プラクリティは根本原理であるので常住で、輪廻転生が止んでも消滅しない。
解脱のあとは、プルシャとプラクリティとが無関係のまま永遠に存続する。
11頌 顕現と未顕現の共通性
サットヴァ(sattva純質)、ラジャス(Rajas激質)、タマス(tamas翳質・闇質)
すべての自己にとって、顕現したものは共通のものである。
顕現したものは非精神性であるので、楽・苦・迷妄を意識しない。
楽・苦・迷妄を意識するのは自己である。
12頌 3つの従属要素と快・不快・消沈
サットヴァ(sattva純質) 快 楽 照明 軽快 炎 神
ラジャス(Rajas激質) 不快 苦 活動 刺激・促進 灯心 人
タマス(tamas翳質・闇質) 消沈 迷妄 抑制・静止 鈍重・覆い 油 動物
貪瞋痴は純質・激質・翳質に対応しているのか?
受vedanā蘊のsukha、dukkha、adukkhamasukhāは純質・激質・翳質に対応しているのか?
受vedanā蘊のsukhaṃ dukkhaṃ は翳質、somanassaṃ domanassaṃは純質、 upekkhā はtri-guṇa、3つ質の平衡状態に対応しているのか?
8bcウッダーラカ・アールニ 有の哲学
唯一無二の有(sat)から熱が生じ、熱から水が生じ、水から食物が生じ、そしてその熱・水・食物の3原理が3重となり、有が自己としてその中に入り、かくしてそこから世界の森羅万象が流出した。
「ブラフマ・スートラ」を根本テクストとするヴェーダーンタ哲学は、「有の哲学」を下敷きにして、流出論的一元論を展開した。
欠点は、根本原理ブラフマンから流出した世界に不浄が混じるメカニズムと解決策を見つけられないんが難点。
対して、サーンキヤは自己と原質の2元が立てられ、3つの従属要素より成る原質から世界が流出したとするので、難点が解決されている。
8cシャンカラは低位のブラフマンからの世界の流出は、勝義よりすれば幻影であるとし、あるのは自己=ブラフマンのみの一元だ、と主張した。
16頌 神、ヒト、動物
自己が根本原質にスポットライトを当てると、激質が動き、流出が始まる。
3要素の純質が優勢ならば神々で楽、、激質が優勢ならばヒトで苦、翳質が優勢ならば畜生で迷愚
18頌 人人唯識
「私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、10人の人間がいれば10の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものです。」
すべての物事は、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考える。
これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。
他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子)が存在するからであると唯識では考える。
19頌 自己は観客、世界(根本原質)は踊り妓
自己は非活動で見るものである直証者。
20頌 自己は観客、世界(根本原質)は踊り妓
自己は身心・器官を介して世界を知る。
身心・器官は自己に近いので、身心・器官を誤って精神的なものだと錯覚する。
知ることは自己の本質だが、自己は行為とは無関係である。
「決意」は行為と直結しているので、自己の本質とは無縁である。
決意の主体は行為の主体であり、それは身心・器官などにほかならない。
自己が行為の主体であると見るのは錯覚で、解脱するためにはこれに気づく必要がある。
21頌 解脱のメカニズム
自己は足萎え、根本原質は盲、原質は自己を肩車して歩いている。
この肩車の結合によって、女と男の結合によって息子が生まれるように、世界の創造が生じる。
解脱の場所まで行くと、二人は別れることになる。
自己は原質が生み出した世界をみることによって輪廻転生の苦しみがあったのだが、自己と原質と世界を峻別することvivekanにより、世界の本質を見極める。
見極め終えた自己は、世界への関心を失い、自己自身の内に沈潜する。
この世界と完全に決別した状態を、自己の独存kaivalyaと言う。解脱のことである。
見極め終えた世界は役割が終わり、流出の逆の順序で、世界は原質のみになる。
原質は輪廻転生から完全に脱却し、原質は解脱し、自己は独存にいたる。
22頌 原質と心と意識の名称
原質 avyakta未顕現 māyā世界を生ずる幻力、brahman宇宙の根本原理
bahdhātmaka多様性を本性とするもの
心マインド mahat大なるもの buddhi覚知 sur心的なるもの mati思念 khyāti認識 jñāna知識 prajñā智慧
私の意識 ahaṇkāraアハンカーラ自我意識 bhūtādi万物の最初のもの adhimāna我慢
自己は心を介さないと世界を見ることができない。
認識には認識主体への統一的な帰属性が必要なので、そこで「統覚」である「私意識」が必要となる。
それで器官や対象の前に、まずは「私意識」が流出する。
色声香味触(五微細(パラマーヌ)要素, 五つの端的なるもの)から5つの元素が生まれる
ヒトは、5元素を5唯の知覚から、推論として知ることになる。
音声→虚空 空大(Ākāśa, アーカーシャ, 虚空
触感→風 風大(Vāyu, ヴァーユ
色形→火 火大(Agni, アグニもしくはTejas, テージャス
味→水 水大(Āpa, アーパもしくはJala, ジャラ)
香→地 土大(Pṛthivī, プリティヴィーもしくはBhūmi
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。
25の原理((Tattva)」は流出・分化して現れ出た世界の諸原理を意味する。
3界が25の原理によって遍満されていると知るヒトは解脱を得る。
「それ(tatt)の状態」「tattの存在」が原理tattvaである。
「プルシャ、プラクリティ、ブッディ(マハット)、アハンカーラ、十一根(マナス・五感覚器官・五行動器官)、パンチャ・タンマートラ、パンチャ・ブータ」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。
判断力とは心のこと
判断力adhyavasāyaとadhyavasāna(努力、試行、エネルギー、決定)とは同義語
判断力がある時、それが心の特徴
心は8肢からなる
功徳、知識、離欲、超能力(純質的4肢)
罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢)
功徳の特質は憐愍、布施、制戒(不殺生、不偸盗、不犯、無所有)、勧戒(清浄、知足、苦行、読誦、祈念)
2種類の知識jñāna
外的な知識によって世間より愛されることがもたらされ、内的な知識によって解脱がもたらされる。
外 音韻学、祭事学、文法学、語源学、韻律学、天文学を伴ったヴェーダ聖典、論理学、解釈学、法学
内 原質と自己についての知識
「これが原質であり、純質・激質・翳質の平衡状態である。
これが自己であり、その存在はおのずから確定しており、属性を有せず、遍満しており、精神的である」
2種類の離欲
外的 見た対象に執著しない
内的 「この世では、主要なるものも、夢や幻のようなものである」
25頌 激質的なものが伴うことで顕現する
純質的なものが圧倒されているときに「変異した私意識」から11より成る器官が生ずる。
翳質的なものが圧倒されているときに「万物の最初のもの(私意識)」から5つより成る一群の端的なものが生ずる
激質的なものが圧倒されているときに「私意識」から両者(11+5)が生ずる。
純質的なものと翳質的なものは活動を有しないので、激質的なものと結合したときにカタチが生じる。
27頌 意は思惟する器官である
意は、知覚器官の作用と行為器官の作用とを為す。
意は、思惟するから「思惟するものである」
意は、器官と共通の属性を有しているので、また器官である。
器官は最高神によって作られたのか?それとも本性によって作られたのか?
本性という何らかのものが原因として存在する。
本性により作られた従属要素の流出変化によって作られたのである。
主要なるもの・心・私意識は非精神的であり、自己も活動者ではないからである。
従属要素は非精神的であるから、現ずることはないのではないか?
「たとえば、知性をもたない牛乳が、仔牛の発育のために活動するように、主要なるものは自己の解脱のために活動する」第57頌
28頌 端的とは特化している専門家
「端的な」とは「だけ、のみ」という意味で、特化している、ということである。
29頌 期間に共通するものは風
5つの風(吸気、下降気、等気、上昇気、巡回気)はすべての器官に共通する作用である。
心とは判断力のこと 23
私意識とは我執のこと 24
意は思惟するもの 27
30頌 同時性
心・私意識・意・眼は同時に色を見て、判断する。
31頌 プルシャのために器官は活動する
意識は心の意図を知って、心は私意識の意図を知って、それぞれ固有の対象を理解する。
何のためにか?
自己プルシャのためのものは為さなければならない、という目的のために、従属要素は活動するのである。
諸々の器官は非精神的なものであるのに、どうして自力で活動できるのか?
他のいかなるもの(最高神、自己)によっても器官は活動させられない。
ただ一つ、自己プルシャのためというのが、器官を活動させる。
33頌 器官
内的器官とは心、私意識、意の3種類である。そして過去・未来・現在に関わる。
外的器官は5つの知覚器官と5つの行為器官の10種類である。
35頌 門と門番
内的器官は門番であり、外的器官は門である。
37頌 解脱に必要な認識の内容
3つの従属要素の平衡状態が原質である。
これは心である。
これは私意識である。
これは5つの端的なもの、11の器官、5つの元素である。
ここに別に自己があり、それらとは異なっている。
これらを心が知らしめてくることによって解脱が成立する。
38頌 寂静・熾烈・鈍重 貪瞋痴 理念 心 物質 神 人 動物
サットヴァ(sattva純質) 寂静 快 楽 照明 軽快 神
ラジャス(Rajas激質) 熾烈 不快 苦 活動 刺激 人
タマス(tamas翳質・闇質) 鈍重 消沈 迷妄 静止 覆い 動物 草
上方 純質が優勢 ブラフマー
中間 純質と翳質→激質 人間
下方 翳質が優勢 草
風は暑さに悩んでいるものには寂静なもの 受け入れる
風は寒さに悩んでいる人には熾烈なもの 反発する
風は塵に悩んでいる人には鈍重なもの 遮断する
39頌 微細な身体
微細なものとは端的なるもの 色声香味触を感じる身体?
微細な身体は端的なるもの(色声香味触)によって包摂され、常に存在し、輪廻する。
微細身は端的なるものからの被造物であり14種類の生類として展開する。
父母の所産は、胎内で微細な身体を養育する。
微細な身体 背・腹・脚・尻・頭? 知識がなければ輪廻
父母の所産の身体 生じたもの 血液、筋肉、腱、精液、骨、骨髄 地に還滅する
諸元素によって作られ始めた身体 5元素
空隙を与えることから虚空があり
増大させることから風があり
消化のゆえに火があり
まとめることから水があり
保持することから地がある。
微細なものによって造られた身体は悪業の力によって、家畜・野獣・鳥・蛇・植物といった境涯に輪廻し、善業の力により、インドラなどの世界に輪廻する。
このように、常にある微細な身体は、正しい知識が生じない間は輪廻する。
正しい知識が生じたとき、智者は身体を捨てて解脱に赴く。
それゆえ、この微細なものという特殊化されたものは常にある。
40頌 世界の創造と微細身
微細身は世界が出来る以前に生じた。
微細身liṅga 原義は還滅するもの
世界が還滅するとき、心に始まり微細なるものに至るまでのものより成るものは、器官を伴って主要なるものの中に還滅する。
微細身は輪廻しない状態のまま、世界が創造されるまで主要なるものの中に存し、原質の迷妄の束縛に囚われれて、輪廻するなどの行為を行うことができない。
そして微細身は世界が創造されるときに、再び輪廻する。
41頌 特殊性と微細身
杭などなしには影が存在しないように、特殊化されていないものなしには、拠り所のない微細身は存在しない。
特殊化されているところを拠り所にして、微細身は存在する。
42頌 プラクリティとプルシャの目的
主要なるものは、「自己の目的を達成しなければならない」ということで活動する。
自己の目的は2つあり、音声などの知覚を特質とするものと、従属要素と自己との違いの知覚を特質とする。
ブラフマー神の世界においては香などの享受を得ることである。
従属要素と自己との違いの知覚とは、解脱のことである。
プルシャの目的は「知る」ことで、対象は特殊性とこの世界のメカニズムと離脱の方法である。
それゆえ、微細身は自己の目的を原因として活動する。
活動とはこの世の色声香味触を感知し、また、微細身のメカニズムを理解することで、それが還滅するプロセスとステップを知ろうと行動する。
プラクリティは個々の身体を担うということにおいて、微細身を多様化するということである。
微細身は、極小の端的なるものが集積した身体であり、13種類の器官を具え、人間・神々・畜生の母胎に多様に展開する。
あたかも役者のように、舞台のシーンごとに神や人間や道化師として登場しては去る。
43頌 3様の功徳の発現 8つの状態は心(mahat 智慧paññā)を拠り所としている
先天的 生まれた時から功徳・知識・離欲・超能力をもつ
自然に具わる 親の子として生まれ、ある時(たとえば16歳)に生じる
後天的 師という模範像を機会因として、知識、離欲、功徳、超能力が生じる
この師とは原質の変異である。
功徳、知識、離欲、超能力(純質的4肢)
罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢)
の8つの状態は心という器官を拠り所にとする。
この心とは判断力のことである。
44頌 自己と輪廻
自己puruṣaはサーンキヤ学派の用語 流出論的二元論
自己は輪廻する主体ではない。
それなので、ヴェーダーンタ派のいう最高自己とは輪廻するということなので、それは自己puruṣaではなく、輪廻を止めた微細身のことを最高自己だと定義して勘違いしていると揶揄した。
ヴェーダーンタ学派は最高自己をparamātmanと呼ぶ 流出論的一元論
輪廻する主体は個別自己jivātman(個我jiva)であり、これが正しい知識を得て解脱したとき、最高自己すなわちブラフマンになる。
51頌 解脱するためには
思索・ことば・学習・3種類の滅苦・友を得ること・布施が8種類の成就である。
思索 「この場合の真実は何か」「何が至福か」
自己と原質とは全くの別物である。
心、私意識、端的なもの、器官、5元素の原理にスポットライトをあてて関係性を思索することで解脱
ことば 主要なるもの、自己、心、私意識、端的なもの、器官、5元素の知識が生じ、解脱する
学習 ヴェーダ聖典での25原理の知識を学習することで
3種類の滅苦 生きもの・個体・天に関わる苦 (動物、人、神々)を滅する教えによって
友を得る
布施
52頌 微細な身体と粗大な身体
微細身は端的なるものからの被造物であり14種類の生類として展開する。
後続する身体の獲得は、前生における行為が残した潜在的形成力という不可見のもののなせるわざだからである。
功徳などは、粗大な身体と微細な身体とによって成立する。
創造は始まりのないものであるから、種子と芽とのように相互依存している。
それぞれに類に依拠しているとしても、個々の個体は相互に依拠していないからである。
それゆえ、被造物は、諸状態と称せれるものと微細身と称されるものとの2種類として展開する。
54頌 上中下 神人草
上方 純質が優勢 ブラフマー 微細な身体
下方 翳質が優勢 草 粗大な身体
中間 純質と翳質→激質 人間 両方?
55頌 生死に由来する苦 解脱の条件
智性を持つ自己は、生まれることに由来する苦と死ぬことに由来する苦を受ける。
そうした苦を受けるのは、主要なるものでもなければ、心でもなければ、端的なるものでもなければ、器官でもなければ、元素でもない。
微細身が消滅しないかぎり、自己は苦を受ける。
心などより成る微細な身体に自己が宿っているときには個体になり、3つの境涯(神々、人間、動物)において、生死に由来する苦を受ける。
解脱するためには、純質と自己とは別物であるとの認識が必要である。
56頌 自身のためであるかのようであるが、じつは他者のため
原質の創造活動は、あたかも自身のためであるかのようであるが、じつは他者のためなのである。
この場合、自己は原質にいかなる見返りも与えない。
ため(利益)とは、音声などの対象を了知すること、そして従属要素と自己とが別のものであると了知すること。
57頌 自己の解脱のために活動する主要なるもの
牛に摂取された草と水は牛乳へと変化し、仔牛を成長させ、仔牛が成長したときにはその活動を停止する。
同様に、主要なるものという知性をもたないものが、自己が解脱することのために活動するのである。
60頌 原質は楽・苦・迷妄、そして対象としてプルシャにつくす
原質プラクリティは、神(楽)人(苦)草(迷妄)を本性とする状態と、対象という状態で、自己プルシャにつくす。
原質は「私(プラクリティ)とあなた(プルシャ)は別物である」と言って、プルシャにプラクリティを証してのち活動をやめる。
このように原質は自分のためにならないのに、常住な自己のために為すのである。
61頌 原質よりも繊細なものはない。 見られた後に自己に再び見られないようにするからである。
バーダラーヤナを開祖とするヴェーダーンタ学派の根本経典「ブラフマ・スートラ」によれば、世界の原因はブラフマンであり、かつそれは最高自己であり、かつそれは主宰神、それは質料因であると同時に動力因(機会因)であるとされる。
すなわちブラフマン=最高自己=主宰神という唯一者から世界が流出した、という流出論的一元論。
対して、ヴァイシェーシカ学派は、主宰神は認めるが、多元論を採り、世界の生成については新造論に立つので、主宰神は永遠に繰り返される世界の創造と破壊を司る存在ではあるが、主宰神から世界が流出するとはしない。
ニヤーヤ学派もこの説を採用した。
後にヴェーダーンタ派のシャンカラは不二一元論を唱え、流出論を破棄し、世界は無明avidyāに覆われた低次のブラフマンから流出した幻影māyāに過ぎないと主張した。
一元論を守るために流出論を捨てた。
どのような問題が流出論にあるのか?
為されている悪が神の一部であることを説明できない、と思ったからなのか?
本性の原語はsvabhāva
サーンキヤ学派が唱える因中有果論を批判して因中無果論を主張する10cのシュリーダラは、原因が特定の結果を生ずるのは、原因の力能Śaktiによるのではなく、原因の本性svabhāvaによるのだとした。
対してサーンキヤ学派は、主宰神は従属要素を有しないものであるから、従属要素を有する生類がどうして主宰神から、あるいは従属要素を有しない自己から、どうして生まれ得ようか?
それゆえ生類は原質から生まれるとするのが理に適っている。
たとえば白い糸から白い布が生じ、黒い糸から黒い布が生ずるように、3つの従属要素を有する主要なるものから、3つの従属要素を有する3界が生まれたのだと理解される。
主宰神は従属要素を有しない。
従属要素を有する諸世界が主宰神から生ずるというのは理に適っていない。
このことによって、自己が世界の原因ではないことが説明された、とサーンキヤ学派は主張する。
時間
「ある」のは顕現したものと未顕現のものと自己との3者である、とサーンキヤ学派は主張する。
時間はその中の顕現したものである。
主要なるものはすべてを作るものであるから、時間の原因も主要なるものである。
本性も主要なるものプラクリティの中に含まれる。
それゆえ、時間も本性も世界の原因ではない。つまり主要なるもの、原質、プラクリティこそが世界の原因である。
原質以外の原因は存在しない。すなわち主宰神は世界の原因など何もない。
62頌 解脱も輪廻もしない自己 輪廻の主体の微細身
神・人・動物を拠り所にする原質こそが、心・私意識・端的なるもの・元素によって束縛され、解脱し、輪廻するのである。
それゆえ、自己は束縛されることもなく、解脱することもなく、輪廻することもない。
いまだ得られていないものを得ることが輪廻の目的である。
そのために自己が本性から解脱し、かつ偏在していながら、私たちは輪廻するのである。
純質と自己とが別物であると知ることから、自己の真相が明らかになる。
自己にはカタチの原因に成る従属要素がないことを認識する
それが明らかになるとき、自己は独存し清浄で解脱しており、みずからに立脚したものである。
純質と自己を同じ物と誤謬していることから、自己は束縛されている、自己は解脱する、自己は輪廻する、と語られるのである。
自己に束縛がないのならば、解脱もないのではないか?
原質は自らを束縛し、そして自らを解脱せしめるのである。
端的なものより成り3種の器官をそなえた微細身があるかぎり、その微細身は3種の束縛によって束縛されてるのである。
原質による束縛 原質 純質 神
原質の変異したものによる束縛 心 激質 人
祭祀執行への報酬によっての束縛 カタチ 翳質 動物
解脱する主体は、サーンキヤ哲学では自己ではなく原質である。
とりわけ微細身がその中心の主体である。
この微細身は功徳と罪障とに結びついている。
そして微細身が結び目をほどき、解脱したとき、自己は原質への関心を失い、みずからの内に立脚・沈潜する。
これを独存という。
63頌 知識によって原質は解脱する
原質は7つの形態(功徳、離欲、超能力(純質的3肢)罪障(反功徳)、反知識、非離欲、非超能力(翳質的4肢))によって、みずからして、自らを束縛する。
自己プルシャの利益の達成させなければならないとして、1つの形態である「知識」によって、みずからして自らを解脱せしめる。
64頌 私意識から離れると誤謬がなくなり、清浄な知識が生じて、解脱の手段になる。
私と身体とは別物であるというように、mahat(大、知る根源状態)が私意識を離れて完璧に誤謬がなくなれば、清浄な知識が生じる。
誤謬とは疑惑のことである。
誤謬がなくなればというのは、疑惑がなくなれば、ということである。
すると、清浄な知識、純然な知識、つまりそれこそが他ならぬそれであるという知識、すなわち解脱の手段である。
25原理に関する知識が自己に生ずる、つまり顕現するのである。
65頌 知識によって自己は本然に帰してただ観察する
知識によって、自己は、生産を止め目的の力によって7つの形態をとらなくなった原質を、あたかも観客のように、安住し、本然に帰して観察する。
すなわち心、私意識といった結果がなくなり、原質は7つの形態をとらなくなった。
自己の2つの目的が無くなったからである。
前にあったプルシャの目的とは「知る」ことで、対象は特殊性とこの世界のメカニズムと離脱の方法である。
具体的には、音声などの知覚を特質とするものと、従属要素と自己との違いの知覚を特質を「知る」ことである。
自己は功徳などの7つの形態によってみずからを束縛していたが、今やその7つの形態を取らなくなった原質を観察するのである。
66頌 原質は見られたことで活動をやめ、自己はすでに見たことで無関心になる
原質の創造の動機は、音声などの対象の覚知と、純質と自己とは違うことの覚知であったが、両者ともが目的を達成したので、もはや創造の動機は存在しない。
原質と自己との間に動機がなくなったのである。
両者が結合することがあっても、もはや創造の動機は存在しない。
67頌 知識と聖典が未来といま・ここの業を焼く
功徳と罪障が輪廻の原因ではなくなっても、潜勢力ゆえに自己は身体を保有し続ける。
知識は未来の業を焼き、聖典で命じられていることを実行することによって人が今為す業も焼く。
潜勢力が滅びて身体が脱落すれば解脱となる。
釈尊は35歳で目覚め、メンタルで何の苦しみも受けることがなくなり有余依涅槃に至ったが、フィジカルには苦しみを受けていた。80歳で命終を迎え無余依涅槃に至った。これを般(はつ)涅槃という。
68頌 主要なるものの活動が停止したとき、自己は決定的かつ絶対的である独存という解脱にたっする
功徳と罪障により生ぜしめられた輪廻が滅びることで、自己からの身体の分離が達成され、目的が果たされたことで主要なるものの活動が停止したとき、自己は決定的、つまり必然的、かつ絶対的、つまり無媒介の、という独存に達する。
独存により解脱がある。
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プルシャ |
puruṣa |
霊我 観照だけ |
出世間界 |
変化のない実体 涅槃? |
プラクリティ |
prakṛti |
自性 エネルギー |
無色界・色界 |
プルの観察で平衡が崩れてプラが展開 根本物質 |
ブッディ |
buddhi mahat |
知る根源状態 微細心? |
色界 |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ |
ahaṇkāra |
自我、 認識 |
欲界 |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
なぜ輪廻の原因になるのか?
ありのままを見ないで思考パターンで判断しているから
ブッディの包含(包摂)関係を二元論として捉えているから
輪廻の原因は固執である。常に変化しているものを実体のある不変と誤謬するからである。
アハンカーラから離脱してブッディを求めることは、プラクリティ以下の輪廻の世界に留まることになる。
ベックによる理解
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アートマン |
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涅槃 |
プルシャ |
自己 観照だけ |
精神原理 |
観察者 |
変化のない実体 |
プラクリティ |
自性 エネルギー |
物理原理 |
無明 |
超感性的な根本物質 |
ブッディ |
知る根源状態 |
物理原理 |
色界 |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ |
自我、 認識 |
物理原理 |
欲界 |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
仏教用語 瞑想
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瞑想 |
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アートマン |
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涅槃 |
プルシャ |
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自己 観照だけ |
観察者 |
変化のない実体 |
プラクリティ |
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自性エネルギー |
無明 |
超感性的な根本物質 |
ブッディ |
citta 心 |
知る根源状態 阿頼耶識 |
色界 空の瞑想 無形象唯識派 光り輝く |
様々な階層の認識に分離する 思惟機能 識viññāna |
アハンカーラ |
我執 主観 |
自我、 認識 末那識 |
欲界 空の瞑想 有形象唯識派 対象あり |
感覚器官と心による認識 自我意識 |
マナス |
意 主観 |
意識 |
空の瞑想 経量部 |
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ジーヴァ? |
個我 主観 |
前意識 十根 五感覚器官 五行為器官 |
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対象、客体 五境 |
五唯 五大 |
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プルシャはプラクリティを観照することで物質と結合し、物質に限定されることで本来の純粋清浄性を発揮できなくなる。そのため、「ブッディ、アハンカーラ、パンチャ・タンマートラ」の結合からなり、肉体の死後も滅びることがない微細身(みさいしん、リンガもしくはリンガ・シャリーラ(liṅga‐śarīra))はプルシャと共に輪廻に囚われる。プルシャは本性上すでに解脱した清浄なものであるため、輪廻から解脱するには、自らのプルシャを清めてその本性を現出させなければならない。そのためには、二十五諦を正しく理解し、ヨーガの修行を行わなければならないとされた。
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。
また、サーンキヤ学派は、夏目漱石に影響を与えたことでも知られる。この学派では、涅槃[寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福]とは、プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(Kaivalya、独存)だと考えた。
夏目漱石は、一高時代に井上哲次郎の東洋思想の講義を受講し、サーンキヤ哲学の講義を受けて深く感銘を受け、無関心こと非人情をテーマに『草枕』を著した。
物質世界から自我意識が現れたのではなく、自我意識から五唯や五大という物質世界が現れた、とするのがポイント。
霊我は複数形であるのもポイント。
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知識の7段階 |
バクティ・ヨーガ |
神智学 |
上座部 |
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1 |
光明への発願 シュベッチャー |
プージャ礼拝 |
誕生 |
預流 |
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2 |
探求 ヴァチャーラナ |
ジャバ 唱名 |
洗礼 ヨハネ |
一来 |
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3 |
微差な心 タヌマーナサ |
ディヤーナ黙想 |
変容 タボル山 |
不還 |
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4 |
自己実現 サトワーパティ |
バーヴァ 愛情 |
磔 |
阿羅漢 |
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5 |
無執着 アサンシャクティ |
マハーバーヴァ 深い愛情 |
復活 |
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6 |
対象物を認識しない パダールターパーヴァナ |
プレマ 愛 |
昇天 |
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7 |
超越 神との合一 トゥリヤーガ |
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コーシャ 身体 パンチャコーシャ(人間五蔵説)では、人間を五層のエネルギーの層で表現
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5つの鞘 |
内容 |
神智学 |
3身体シャリーラ |
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1 |
アナマヤ |
食物 物質 |
肉体 |
ストゥーラ |
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2 |
プラーナマヤ |
生気 |
エーテル体 |
スークシャマ |
幽体 |
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3 |
マノマヤ |
意志、mind |
アストラル体 |
スークシャマ |
幽体 |
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4 |
ヴィジュナナマヤ |
理智、知性 |
メンタル体 |
ストゥーラ |
幽体 |
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5 |
アーナンダマヤ |
心 heart |
コーザル体 |
カーラナ |
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@アナマヤコーシャ(食物鞘)
アンナ(食べ物)からできている鞘、身体
目に見え、触れることのできる、いわゆる肉体と呼ばれる身体
Aプラナマヤコーシャ(生気鞘)
プラーナ(生命エネルギー)からできている身体
Bマノマヤコーシャ(意思鞘)
感情と思考からできている身体
Cヴィジュナナマヤコーシャ(理智鞘)
感情や行動の基準を決定する知性からできている身体
Dアーナンダマヤコーシャ(歓喜鞘)
純粋な意識からできている身体
アーナンダ(歓喜)に満ちた場所
コーシャ (鞘) Koshas
ヨガでは、人間の体の構造はコーシャ(鞘・koshas)と呼ばれる、異なった体の層で成り立つと考えられてい ます。それらの層は、大雑把なものから、より微妙なかすかなものへとつながります。
まずは私たちの目にみえる、最もわかりやすい層;骨や肉で出来た身体、アンナマヤ・コーシャ(annamaya
kosha=食物鞘、肉体)。
次にエナジーの身体、私たちの体内を電気が流れるように、気(エナジー)を流したり、渦巻くエナジーの中心チャクラなどを指す、プラナマヤ・コーシャ (pranamaya kosha=気息鞘、生命体)、
3番目は心や脳や知性がものを考えたりする身体、マノマヤ・コーシャ(manomaya
kosha=精神鞘)です。
4番目は直感的な洞察が起こる、真の知識が現実と結びつき始めたもの、ヴィジナナマヤ・コーシャ(vijnanamaya
kosha=知性鞘)です。
最後は、真の精神・魂が自分の中に繋がったという至福のもの、アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya
kosha=至福鞘、原因体)です。
それぞれの身体は互いに繋がっており、さらに広大な大文字ではじまる現実(大いなる現実、実在)とも繋がっているのだということは後で改めて触れることに します。
まず最初に、その前にそれぞれのコーシャ(鞘)についてざっとみてみましょう。
アンナマヤ・コーシャ Annamaya
kosha (食物鞘、肉体)
物理的な肉体的な層は他の5つのコーシャの中で一番わかりやすいものです。そして、私たちが一般的に「私」を定義するのもこの身体的な体の層によるもので す。「通常、一般的に」私たちが環境をみるときもやはりこの知覚世界によって行われます。ヴェーダ(ヒンズー教聖書)にも、私たちは地球からの直接的な物 質である食物によって構成されていると書かれ、そして、結果的に、食べているとき、私たちが何をしているかを理解していることが非常に重要だとされていま す。 私たちは食物によって完全に構成されているなら、尚更、私たちが食べているものの品質の重要性に気づかなければなりません。 私たちの収穫の結果を最良なものにしたいと思うなら、まずは適切な肥料を使い、土地を耕すことが重要です。 私たちの身体が庭だとしたら、全く同じことで、より気をつけて、より良いものを食べるほうが、より良い身体をつくります。
私たちの身体は私たちが容易に自分の状態を観察したり、直接的に変化させるために努力してあげることの出来る基礎の部分です。アンナマヤ・コーシャは 時としてより深い部分の身体が問題を抱えていることを表現する媒体となります。例えば慢性の消化器系の病気を持っているということは心身相関の病気である ことを示してくれます。日常生活においてその人が消化しきれないくらいの何か困難な状況があって、それが胃痛や胃潰瘍を生み出してると考えられます。
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ハタ・ヨガの練習の中でも特にアサナとシャット・クリヤ(浄化の練習法)ではこのアンナマヤ・コーシャに重点をおきます。これらの練習法は身体を「みた り」「感じる」ことを通して、身体が私たちに発するメッセージを理解しようと試みます。何十億、何百万ある細胞が常に身体の中で動いていますが、それらの 細胞自身が本来持つ知性は何を訴えているのか耳を傾けてあげましょう!
ポーズや動きをすることを通してこれまでの過去の経験から蓄積された体の中の緊張やストレスを解放し、重要な器官を正常に動かしてくれます。そうすること で体内にエネルギーが自由に円満に調和しながら動くことを促してあげることが出来ます。
プラナマヤ・コーシャ
Pranamaya kosha (気息鞘、生命体)
プラナはあらゆる生き物、人間、動物、植物、惑星全体、宇宙全体にさえ存在している生命力そのものです。それは、私たちの周りのいたる所に存在していて、 力や質はさまざまです。
エネルギーの身体は何千ものナディ(nadis)で構成されています。ナディはエネルギーの通り道でチャクラと呼ばれるものに根をおろしています。チャク ラは脊椎に沿って存在する微妙な、かすかなエネルギー渦です。 各チャクラはそれぞれ特定のエネルギーに関連していて、私たちの目標はそれらの渦一つひとつがそれぞれの能力を最大限発揮して働くのを確実にすることで す。どのように働きかけてあげたらいいか、また、それらがどのように私たちに作用しているかは後に触れることにします。私たちがそれらの働きを促してあげ ることが出来れば、非常に役立つ素晴らしい現実です。それらは 本当にかすかなもの、非常に微妙なもので、人々には見ることができず、科学的に観測することができないものの存在を否定する傾向があります。でも、すべて の経験が簡単過ぎたなら、そのゲームの独創性を欠いてしまいます。
また、プラナは私たちの身体を通る、すべての情報伝達を行うためにそれ自身が出入りを行う電流のようなものとして捉えることが出来ます。プラナはどんな思 考活動にも必要で、身体の中にプラナがなくなったということはすなわち死を意味します。 太陽がプラナの究極の源であるので私たちが太陽なしで生き延びることが出来ません。 りんごを食べるとき、私たちは糖分や水分などに形を変えた太陽のプラナを食べているということが言えます。そしてプラナは私達の細胞やマインドを通じて身 体にそうした働きをします。さまざまなエネルギー源があるようにやはり、さまざまなエネルギーのレベルがあります。
私たちはプラナヤマのような練習を通して直接プラナの体に働きかけることができます。後で挙げるように、たいていのものが呼吸法の練習で、呼吸について取 り組むことはすなわち、プラナの体について取り組むことです。
人間の体は単純にエンジンのようなもので、人体が適切に動くためには空気が必要で、呼吸法に取り組むことによって身体がより効率的に働くための適切な量の 空気を取り入れることができるようになります。
ヨガの修行者たちは何千年にもわたってプラナヤマのテクニックを経験してきました。私たちはそこから学べることが多いのではないでしょうか。私たちはもっ と幅広い意識を体験するためにここに存在するのだということを忘れてはなりません。より効率的に経験するために、私はプラナヤマは素晴らしい道具であるこ とを確信しています。
マノマヤ・コーシャ
Manomaya kosha ( 精神鞘)
私たちの知性、思考や理由が存在するのはこの体の中にほかなりません。それは自然に親密に前の2つの体に関連づけられます。 主な司令部を通って、身体の動きは起こります。 情報が入って、指令が出る場所です。ここが内部の世界と外の世界、言い換えれば内側の存在と外側の存在を橋渡ししています。この体の層で私達はエゴや自分 の限界を体験します。でも自分の限界を知り行動を適切なものに正してあげることですべての可能性に対して調和を生み出すことが出来ます。
マノマヤ・コーシャはさまざまなかたちで能力をあらわしています。
細胞と脳が違う構造を持っているからという理由で細胞のはかりしれない可能性を否定できないということ、すなわち私たちの細胞にはある種の知性があるとい うことです。その他の多くの面でも同じことがいえるでしょう。
科学者は、私たちは脳の容量の1/10だけしか使用していないといいます。という事は実は膨大な可能性が目を覚まして使われることを待っているのだといえ ます。私たちはこのエネルギーを放出して、魔法を楽しむ方法を見つけるという役割を担っているのです。
集中することや瞑想の練習の中で私たちは自分の能力に気づいてあげることや今まで知らなかった現実に対して耳を傾ける方法を発見します。私たちの大いなる 自己は自身に語りかけます; 内側にある魂、精神は常に生きる上での洞察力や手がかりを与えてくれています。もっと適切に私たちの存在を調整、チューニングする方法を見つけることがで きれば、その知恵の賢明な教えの単語を理解して、手に入れることが出来ます。私たちは何とか理解することができます。少しづつ色々な練習やテクニックを通 して自覚をもっと鋭く研ぎ澄ませることで、 自分自身の内外にあるあらゆる知性に耳を傾けることが出来るようになります。
このように内側に耳を傾ける方法はずっとより微妙なレベルで人生を経験するためのまったく違った理解を目覚めさせ、次の体のヴィジナナマヤ・コーシャに続 きます。
ヴィジナナマヤ・コーシャ
Vijnanamaya kosha (知性鞘)
「ここから、ヴィジナナマヤ・コーシャです。ジナナは'知恵'、'知識'を意味し、接頭語viは知識が現世のこの生涯獲得した過去の経験と思い出だけから だけではなく、前世からも引き出されるという知識を強調します。 私たち誰もが知識の宝庫を持っていますが、私たちは、その内側の知恵を経験するために教育されていません。ヴィジナナマヤ・コーシャには、関連するチッタ
(chitta)とアハムカーラ(ahamkara)という要素があります。チッタは何が実際に起こっていることに関する観察者になるため、推測や想像の 世界ではなく現実を生きるための『知る能力』を意味します。アハムカーラはエゴ・自我の要素で、感覚ではなく真実として『私』に関する知識、自己のアイデ ンティティを意識することを意味します。ヴィジナナマヤ・コーシャに取り組み始めるとこの理解はついてきます。
私たちは一度、『私』というアイデンティティに取り組んだり、理解すると、そのアイデンティティは3次元世界に現れ、喜び、快楽、快適、苦心、人生の受難 を経験して、至福、幸福、ひとつであること、満足といった次元であるアナンダマヤ・コーシャの経験へと移行します。」--ニランジャナンダ・サラスワティ 1996年9月
ヴィジナナマヤ・コーシャはすべての存在と万物の微妙な、かすかな現実への入り口の扉です。ここの層では違ったいま、違ったここ、に触れることが出来ま す。それは知性によって色づけされていない、純粋なマインド・意識で、コンセプトや理論は存在せず、ただ純粋な実体としての人生の流れがあります。
それは私たちの直感的、アストラルな真正な体です。このレベルの現実では、 すべての存在は互いに繋がり、あらゆる動作や思考は他にも相互にも同様に影響します。ほとんどの人がそれに気づかないのですが、私たちは自身の個性、限ら れた自己が唯一の現実であると思い続けますが、実ははるかにすばらしい真実があって、必要な態度を取ればこの美しくて、複雑で無限の現実を認識することが できるのです。無限の可能性に気づくことで本当に人生を楽しんであげられます。
ここで、まだ私たちの心の中にエゴが存在しているなら、たとえそれが心やマインドの汚染をこれ以上受けていなかったとしても、私たちは本当に意識して次の 層に進むことができません。 次の層は私たちの魂、アトマンと呼ばれる生命の本源、宇宙的現実における神の表現です。私たちがそれから切り離された状態で一体どうやって無限を経験する ことができるのでしょう?「私」が見ているものというコンセプトを伴った「絶対性」は絶対ではなく、「私」が体験しているというというものが消えたとき、 初めて絶対と呼ぶことが出来ます。でも一体全体、無限の絶対性って何を意味するのでしょう?
アナンダマヤ・コーシャ
Anandamaya kosha (至福鞘、原因体)
これは私たちの世界とあらゆる経験できる他の世界のあらゆる表現の中の魂、精神です。また、深くあなたの存在の中に自分は本当は何者なのか問いかけて試み ると、経験するのが非常に難しいということが分かります。辛抱強く問い続けると、多分あなたはあなたが何者でないかに関する一瞥を得る試みをします。次第 にゆっくり何か広大なものがあります、それを見たり、感じようとすることさえできないほど広大であり、次に、すこし切り離してみるような気持ちになり、エ ゴを失うことが何を意図するかを理解するでしょう。
人によって、無限の光とか、完全な深淵と呼びますが、確実なのは何世紀にもわたって聖人や賢人がエゴをなくすこと、ものの非永久性を認識すること、すなわ ち、いま・ここの現実をありのままに経験することの必要性を説いてきました。
異なった体は色と織地で私達を包む織物です。 それらに取り組んであげることによって、私たちは、その織物をデザインし、パターンを変更することが出来ます。私たちには、この人生の間に無限の本質を示 すことができる素晴らしいドレスを私たちの精神、私たちの手先または私たちの俳優に与えてあげる権限があります。
だれと共にこの人生を演じるのか、ふさわしいものを作るために時間をとって組み立てるのは私達です。
1.ヨガ哲学やヨガの修行者=ヨギたちは私達の体をどのように解釈しているか?
まず一般的に私達の体、とか存在といったときに思いつくのは身体的な身体、それと心とか精神というものもどこかにあるということは私達なんとなくわかって います。
ヨガでは私達の体を大きく分けて5つの層で捉えています。
5つの体の層
@アンナマヤ・コーシャ(Annamaya
kosha)=身体
構成:食べ物、栄養、運動
作用する方法:食、アサナ
・・食べ物を口から食べることや、エクササイズ、アサナで身体を動かすことによって出来ている身体。
(余談でベジタリアンの食事に関するお話がありました。ヨガではお肉を食べないベジタリアン=菜食が薦められます。何故かという理由は沢山あり、いろいろ な説明が出来ますが栄養の代謝の面からひとつ大きな利点が挙げられます。野菜は太陽のエネルギーをたっぷり含みそれをそのまま食することで直接私たちの体 の中にそのエネルギーを変えることなく取り入れてあげることが出来るのに対して、例えば牛肉。草に入っているエネルギーをまず牛が食べ、咀嚼して肉にな り、その肉を殺して私達の口から食する。このとき太陽のエネルギーの代謝は何度か死んで繰り返されるために体の中に入るまでに大変です。こういう観点から 一番わかりやすくシンプルにエネルギーを取り入れられる菜食が好まれます)
Aプラナマヤ・コーシャ(Pranamaya
kosha)=エナジーの体
構成:エナジー、気、ツボ
作用する方法:プラナヤマ=呼吸法
・・・目に見えない「気」の流れで出来た層。エナジーがイメージしにくい場合には鍼や気功をイメージしてみるといい。目に見えないけれど確かに体の中に流 れているもの。
Bマノマヤ・コーシャ(Manomaya
kosha)=心の体
構成:心、精神、意識、感情、思考、感覚
作用する方法:集中すること、瞑想
・・・心というのは様々な構成要素があるけれど総括した心とか意識を指す。食べているときの感覚、味覚、感情、想い、思考とか、心に感じるもの全て
Cヴィジナマヤ・コーシャ(Vijnanamaya
kosha)=直感の体
構成:魂、感、直感
作用する方法:クンダリニー・ヨガ*
・・・自分の心や意識で考えたりすることとは別のひらめいたり、感じたりすることの出来る「感」。電話が鳴ったときにあ、○○さんかなあ?とおもうと本当 にそうだったり、そういう時の直感。
Dアナンダマヤ・コーシャ(Anandamaya
kosha)=悟り
構成:自分が自分ではない存在、無、悟り
作用する方法:クリヤ・ヨガ**
・・・完全に自分のエゴから切り離された状態。自己が消えて自分自身が消えたときにわかるもの。「自分」という「個」と他人の境が消えたもの、個と宇宙が ひとつになったもの、個人のレベルでは自分自身のエゴがゼロになった状態=アイデンティティーを失ったとき、それが同時に個人と他人や世界との境が消えた とき。これを体や意識が生きている状態で体験すること。
*・**クンダリニー・ヨガやクリヤ・ヨガは先生や本によって様々な考え方や教えがあるので一概にいうのは難しいけれど、マリオ先生が指すクンダリニー・ ヨガはビハールヨガ大学で学んだことと、スワミ・サチャナンダ師の考え方に基づいたものをここでは指します。
クリヤ・ヨガも同じく、人によって全く違った解釈がありますがマリオ先生はプシュカールのヨガの先生、シャム・ヨギから1日6時間を毎日4ヶ月練習したと きのクリヤヨガをもとに、ビハール大学の考え方も取り入れた形でクリヤ・ヨガを位置づけています。
これら5つの層の体は常に私達の存在の中にあり、それぞれがばらばらではなくお互いに影響しあっています。これら5つを3つのグループに大別することも出 来ます。
身体的な体=@ わかりやすい体
心と気/マインドとエナジーの体=AB かすかな部分の体
魂・悟りの体=CD 因果、カルマの体
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カラダ 器官 |
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5つの鞘 |
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1 |
刺激 |
神経管 末梢・運動神経 |
食物 物質 |
アナマヤ |
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2 |
感覚 |
辺縁系、間脳 |
生気 |
プラーナマヤ |
|
3 |
理性 |
大脳皮質 |
意志、mind |
マノマヤ |
|
4 |
智性 |
循環器系 |
理智、知性 |
ヴィジュナナマヤ |
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5 |
霊性 |
消化器系 |
心 heart |
アーナンダマヤ |
|
参考資料
『ヨーガ・スートラ』
(瑜伽経〔ゆがきょう〕とも)は、正統バラモン教(インド哲学)一派で、ヨーガの修行による解脱を説くヨーガ学派の教典。様々な素材、群小教典をまとめたものだといわれる[1]。パタンジャリによって編纂されたと言われるが、彼についてはっきりしたことは分からない[2]。現在の形に編纂されたのは、4-5世紀頃と考えられている[3]。
アーサナ中心の動的ヨーガの要素はないが、現代の体操的・動的なヨーガの世界でも、基本経典として紹介されることが少なくない。
概要
たんにヨーガ学派の聖典というだけでなく、6世紀前後までのヨーガがまとめられた集大成になっている。
「ヨーガとは心の働きの止滅(ニローダ)である」という定義から始まる(ニローダは仏教特有の用語でもある)[4]。ヨーガ学派の世界観・哲学はサーンキヤ学派(数論)に多くを拠っており、合わせて「サーンキヤ・ヨーガ」学派とも呼ばれるが、サーンキヤ学派は徹底的な二元論であり、一方ヨーガ学派は自在神(最高神)イーシュヴァラの存在を認め、独自の理論を展開した[5][4]。
三昧に至るまでの具体的方法として、苦行(必ずしも荒行や難行のみではない)、スヴァディアーヤ(英語版)(読誦と研究)、イーシュヴァラ・プラニダーナ(英語版)(自在神祈念、念神)という3つの方向性を示し、これらをまとめてクリヤーヨーガ(行為のヨーガと呼ぶ[6]。クリヤー・ヨーガを具体的に述べたのが、八支のヨーガ(ヨーガの八部門)と呼ばれるものである[6]。また、三昧の階梯、関連する思想が述べられる。三昧に関する部分に仏教の影響が色濃くみられる[7]。
古代インドでは、この世や人間を苦とする見方は主流ではなかったが、ヨーガ学派や仏教は、人間の存在を苦とみて、ヨーガによって生ずる智慧によってそこから離脱することを目指した[4]。ヨーガ学派の悟りの状態とはプルシャ(純粋精神、神我)とプラクリティ(根本物質、自性)という世界を構成する二つの原理の関係が断たれ、別々になって安定した状態に戻ることである[8]。両者を混同させる力となる心の動揺をなくすため、ヨーガの実修が必要とされる[8]。
構成[編集]
内訳[編集]
4章195節からなる。
·
第1章(51節) - 三昧の章
·
第2章(55節) - 達成の手段(実修)の章
·
第3章(55節) - 超自然(自在)の章
·
第4章(34節) - 独存の章
テキストの成立年代[編集]
第1章の前半と第4章以外は、おそらく400 - 450年頃に編纂されたと推定されている[9]。4章は大乗仏教の瑜伽行唯識派(ヨーガチャーラ)の用語を用いて同派を批判する内容があるため、520 - 600年頃の成立であるという説がある[9]。佐保田鶴治は、紀元前1世紀 - 2世紀から紀元後の5世紀頃に間にできたいくつかの論文を、5世紀頃にまとめたものだとしている[9]。その構成に関して研究者の見解は一致していないが、ハウエル、佐保田鶴治は成立順を次のように推定している。
1. 2章28-4章1節 - ヨーガアンガ(ヨーガの部門)・テキスト
2. 1章23-51節 - イーシュヴァラプラニダーナ(英語版)(自在神祈念)・テキスト
3. 2章1-27節 - クリヤーヨーガ(行事ヨーガ)・テキスト
4. 4章2-34節 - ニルマーナチッタ(転変心)・テキスト
5. 1章1-22節 - ニローダ(止滅)・テキスト[9]
構造[編集]
テキスト名 |
内容目次 |
解説 |
ニローダ・テキスト |
1.ヨーガ・スートラの大序 |
仏教との共通性が多い |
イーシュヴァラプラニダーナ・テキスト |
9.自在神への祈念 |
13-19は仏教の影響によりできた |
クリヤーヨーガ・テキスト |
20.行事ヨーガ |
|
ヨーガアンガ・テキスト |
29.ヨーガの八部門 |
29-38はヨーガ修習法の心理学的説法 |
ニルマーナチッタ・テキスト |
48.業と潜在印象 |
サーンキヤ(数論)。主に心の形而上学的問題を扱い、仏教、特に瑜伽行唯識派への反論がされている[1]。 |
内容[編集]
ヨーガアンガ[編集]
アンガは部分・要素を意味し、ヨーガアンガ・テキストは、ヨーガをいくつかに分けて解説した章というほどの意味で、本書では8つの部分に分けられている[9]。ヨーガの八部門は、アシュターンガ・ヨーガとも呼ばれる(八支ヨーガ、アシュタ=8)。現代の動的なアシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガ(英語版)(通称アシュターンガ・ヨーガ)とは異なる。
1. ヤマ:制戒 - 不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有の五戒を守る。これを遵守しても特別なヨーガの状態になるわけではないが、心身が浄化される。[10]
2. ニヤマ:内制 - 心身を浄め、満足を知り、苦行を実践し、経典を唱え、イーシュヴァラ(自在神)を祈念するという五項目の実践により、心身から日常的なもの、行為の残滓、残り香をすべて取り除く。[10]
3. アーサナ:座法 -
ヨーガの実践のために安定した快適な座り方を実践する。姿勢を保つ努力が必要なくなると完全と言える。[10]
4. プラーナーヤーマ:調息 - 通常呼吸は外界の影響を受けて不規則になるため、呼吸を制御・調整して可能な限りゆっくり行い、最終的に息をしているのかわからない状態にする。これによりプラーナ(生命エネルギー)の流れのよどみがなくなり、明晰さを得る。[10]
5. プラティヤーハーラ:制感 - 外界の支配から感覚を引き離し、対象と感覚を切り離す。通常はものを五感で捉えているが、プラティヤーハーラで五感が心に従い心と一体となることで、心の本質において直接そのものを把握するようになる。ここまでが瞑想の準備段階に当たる。[11]
6. ダーラナー:凝念 - 心を凝固させ、不動にし、思いを外界の一点に集中させる。これにより他のものが心に侵入できない状態になる。ダーラナー以降の3段階は一連のもので、質的にはっきりした区別はない。[11]
7. ディヤーナ:静慮 - ダーラナーで一点に集中した思いの固定を時間的に十二倍に引き延ばす。知覚や認識は対象から引き離され、思いは拡張・伸長して、ヨーガ行者の全人格的思惟が対象本来の実在性・有性に直接触れるようになる。[11]「禅」はディヤーナの転訛語の音写。
8. サマーディ:三昧 -
前2段階の結果として、思いが一種の停止状態に入り、思う側と思われる側という対立する関係を離れ、心は対象そのものになる。ヨーガ行者は生との関係、時間の支配も離れ、永遠の現在を生きる者となる。この解放された状態を「アーナンダ(喜悦)」という。[11]
有想三昧・無想三昧[編集]
有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)・無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)という三昧に関する教説で、心の諸作用を「止滅させる想念」を修習する、またはイーシュヴァラ・プラニダーナ(自在神祈念、念神)によって、自意識などの想念がまだ残っている有想三昧から、想念はなくなったが未だ潜在印象の残る無想三昧へと進む[12][13]。『ヨーガ・スートラ』では無想三昧が最も存在感を持って語られており、中心的位置づけとなっていると思われる[12]。
有種子三昧・無種子三昧[編集]
有種子三昧(サビージャ・サマーディ)・無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)という三昧に関する教説で、心の境位(心の状態)が詳細に説明されている。煩悩を作る原因がまだ残っている有種子三昧(さらに4段階に分かれる)から、対象がすべてが消え去った無種子三昧へと進む[12][13]。有種子三昧の段階を上り詰めると三昧知(直感知)が生じ、これからも潜在印象が生じるが、すでに煩悩が消滅しているため、心の作用が生じることはなく、これが無種子三昧であり真の解脱であるとされる[13]。
歴史[編集]
紀元後4-5世紀頃に編纂された『ヨーガ・スートラ』[3][14]は、その成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという[3]。『ヨーガ・スートラ』の思想は、仏教思想からも多大な影響や刺激を受けている[15][16]。
19世紀にイギリス領インド帝国が成立すると、イギリスの支配下で西欧の影響を受けたインド人知識人たちは、インドには蔑視の対象でない、価値ある伝統的な英知があることを西欧に示そうと活動し、こうしたヒンドゥー教改革運動、ネオ・ヒンドゥイズムの潮流の中で、西洋の知的伝統によって六派哲学の有効性を確立しようとした。19世紀半ばの時点で、インドの伝統的なヨーガの実践と『ヨーガ・スートラ』の体系のつながりはなくなっていたが[17]、『ヨーガ・スートラ』は「六派哲学」のひとつとして、西欧を意識して純粋理論の要素を強調する形で翻訳された[18]。インドの文化ナショナリズムと絡む形で、オリエンタリズムとインドの教育システムの中で地位を高め、ヨーガの古典と考えられるようになり(対して密教的なハタ・ヨーガは古典の価値に逆らうもの、または価値のないものとみなされた)、大学でもテキストとして用いられ、大学で学んだヴィヴェーカーナンダらネオ・ヒンドゥイズムの活動家に影響を与えたと考えられている[17]。『ヨーガ・スートラ』はヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダや神智学協会のヘレナ・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった[19]。
純粋理論の要素ではなく実践的要素が強くなったのは、1890年の神智学協会の援助によるドゥヴィヴェディの訳からである[18]。ヴィヴェーカーナンダは、近代ヒンドゥー思想と19世紀の科学からメスメリズムまで様々な西洋の概念を混ぜて実践的な『ラージャ・ヨーガ』を構築したが、シングルトンによると、その際に当時アメリカで広く普及していた神智学協会のウィリアム・Q・ジャッジによる大衆向けの『ヨーガ・スートラ』の訳が用いられた[18]。『ラージャ・ヨーガ』における『ヨーガ・スートラ』の解釈はそれまでより実践的であり、プラーナ(呼吸)とプラーナーヤーマ(調息)に関してハタ・ヨーガの生理学的要素が加えられた。ヨーガを実践しプラーナを制御することで「ほとんど全能、ほとんど全知」になることが可能であると主張されており、当時のアメリカで霊的な高みに上るための身心技法として人気を博した[20]。
『ヨーガ・スートラ』はヨーガの古典、基本経典として重視されるようになり、現代のヨーガへの理解に大きな影響を与えている。
批評[編集]
国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンは、このような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである[21]。佐保田鶴治は、サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』であると述べている[22]。
影響[編集]
イスラーム世界[編集]
『インド誌』(1030年)を著したアブー・ライハーン・ビールーニーによってはじめてイスラーム系言語に翻訳された[23]。この書はあまり広く読まれなかったが、16世紀にアブル・ファズルがインド哲学諸派の解説で、忠実・簡潔に紹介し、同時代のヨーガ実践者たちの思弁と実践的に肉体と魂の鍛錬法はイスラームの知識人や修道者の関心を集め、14〜17世紀の著名なスーフィー文人に帰せられる修道論や雑録などにまぎれこんだ[23]。18〜19世紀のインド・ムスリムによるスーフィー文献にも色濃い影響を与えた[23]。
サーンキヤ・ヨーガ哲学
サーンキヤ哲学
創始者
伝説のリシ(’聖仙)であるカピラ。
歴史上の師(実在の人物)イーシュヴァラクリシュナ
『サーンキヤ・カーリカー』の著者であり、四世紀ごろの人ということくらいしかわかっていない。
『サーンキヤ・カーリカー』とは?
サーンキヤ哲学を理解するには、サーンキヤ哲学の論書というべき、この文献を読むのがいちばんであろう。
ブッダの学んだ存在論で、ブッダは、この二元論的存在論を参考に、また批判しつつ、仏教の存在論を引き出したといえるだろう。
カピラ仙はだから、実在の人物とはいえない。
グレゴール・メーレ氏によると、欧米の学者は紀元前1300年頃の人と措定しているが、
「インドの言い伝えでは、彼はもっと昔に生きていたとされている」
前文明の人かもしれない。
古くから口承で伝承されてきたこの哲学の象徴的な祖師といえよう。
サーンキヤとは「数え上げる」という意味。
カーリカーとは「二行より成る詩節」のこと。
サーンキヤ哲学に影響を受けた人々
ブッダのアビダンマも、心や心所を正確に数として数えるところ、影響を受けているように思われる。
夏目漱石も、理想として境地の「則天去私」(天命に任せて非人情に徹すること)を、サーンキヤ哲学から引き出した。
宮元氏本
宮元啓一著『インドの「二元論哲学」を読む ―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』春秋社
という本がある。
興味のある方は、これを直接お読みください。
無謀にもペパミン流に簡単に解説しようと思います。
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存在論
第九頌
核心の一つで、非常に分かりづらく、問題点でもあるので、先に考察する。
ちなみに、「頌」とは韻文の意味。
ここは3つの存在論を説明している。
ここでは、「結果は原因の中に存在する」ということを歌っている。
宮元氏の解説であるが、
パリナーマ・ヴァーダを因中有果論とし、
「流出論」と訳しておられる。
「開展論」という訳語は分かりにくいと却下されている。
アーランバ・ヴァーダを因中無果論とし、
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出すということになりますので、」
新造論と訳しておられる。
そして、「集聚論」という訳語は誤りであると却下されている。
「シャンカラ以前のヴェーダーンタ哲学やサーンキヤ学派は
因中有果論・流出論を採ります。」
「因中無果論を採るのはヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派や仏教徒です。」
つまり、仏教をパリナーマ・ヴァーダでなく、アーランバ・ヴァーダに入れておられる。
サーンキヤ哲学は、最古の哲学で、おそらくアトランティス文明があったなら、パリナーマ・ヴァーダ(流出論)を採用していたであろう。
西洋の神秘学は、アトランティス由来の哲学であろうが、存在論は、流出論である。
つまりグノーシス派などに顕著にあらわれるが、
高次の波動の存在が振動数を落としながら、物質化し、可視化するという考えで、
低次の波動から高次の波動へ復帰する、「源へ帰る」ことが、自由になるということ、解脱であろう。
「習俗の再生」、再生、回帰という言葉も、
過去に「理想郷」があったという伝説も、この存在論が下敷になっていると思われる。
「金持ちになる科学」のウォレスの本も、唯心論的に精神的に祈るのではない。
祈る対象は「原物質」すなわち「プラクリティ」、質量因のほうだ。
現実化には、波動とか何らかの質量のあるものが関わってくる。
創価学会で、不治の病を宣告された人が、ご本尊様に唱題して、
ふと「病気を忘れる」瞬間があったという。病気の現実性が脳細胞から消えた瞬間だったのか、
それで病気が消えたという。
このメカニズムには、おそらく題目のリズムが高波動を実現したのだろうと推測される。
波動と粒子の境界線はおぼろだが、いずれも質量的な性格をもつといってよいのではなかろうか。
引き寄せの法則も、同じようなメカニズムなのだろう。
このパリナーマ・ヴァーダは、プラクリティという質量因が、プルシャという動力因の照射を受けて、次々に低次の存在を流出する。
いわば、低次の存在は、すっぽり、高次の原因の中に含まれている。
種に花や葉の因が含まれるように。
仏教は、結果は原因と別のものなのだ。それゆえ
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出すということになりますので、」
であるから、アーランバ・ヴァーダに分類されたようだ。
しかし、因中無果の唯物論ではない。
因中有果論の一つに分類するほうが、より近いと思うのだが。
つまり因(種)+縁(人とか水とか日光とか)で花が咲くのだから、無因とは言えないのでは。
ただ、サーンキヤのパリナーマ・ヴァーダとは同じでないので、どれに分類と言い切れないが、
近いものというならパリナーマ・ヴァーダだと私は思う。
ではどこが違うのか、
『ブッダの実践心理学 第六巻 縁起の分析』からみてみよう。
ブッダの因果論は「因縁」「縁起」といって、原因から結果が出てくるのでなく、
因が縁にふれて、結果がでてくるので、全く違ったものが出てくる。そういう意味で
「原因はそれまで存在しなかった結果を新たに作り出す」はあてはまるのだ。
「十二縁起」では、
「無明に縁って、行(サンカーラ)が生じる。
行に縁って、識が生じる。
識に縁って、名色が生じる。・・・」
と続きますが、
「無明から行が生じるのだけど、行があるときにも無明もあります」(P234)
つまり、連続性とともに同時性も認めているということだ。
我々に苦があるということは、
「それは、遠い昔に無明があったからです」と言ってしまうと、
過去のことですから、その原因を消すことができないのです。(P237)
ブッダは過去を調べなさいとは言わない。
過去は起こってしまったなら仕方ない。
不幸なカルマを背負って生まれたなら仕方ない。
要は、今何をするかだ。
今善因を積むしかないのだ。
そういう意味で、運命論や占いの危険性を指摘する。
ブッダは、この世を「無常・苦・無我・不浄」というので、ペシミズムといえるが、
やりようはあるというので、積極的ペシミズムというべきか。
常住と無常
第一〇頌
プラクリティの常住を説く。
サーンキヤでは、プルシャとプラクリティ、動力因と質量因の両方が常住である。
プラクリティから流出したものを「顕現した」ものというが、これらは無常である。
第一八頌
自己(プルシャ)=動力因が多数有ることを説く。
そりゃそうだ。もし、プルシャが一つなら、一人が解脱してくれれば、全員解脱できることになる。
化現説=仮現説は、無属性ブラフマンが一つというから、みんな解脱してるやん、何悩んでんの?ということになる。
しかし苦や問題は厳然とあるのだ。
このような存在論からなら、一人のイエスさんが死んでくれて全員の罪を贖ってくれるなんて、ばかばかしい考えも出てくるのだ。
断然、サーンキヤ的な存在論のほうが合理的だ。
プラクリティから流出した諸原理
まず「ブッディ」という無常であるが、その中では最高の原理が流出する。
次に「アハンカーラ」という原理が流出する。
これを「我慢=アビマーナ」でもあるというから、いい意味ではない。
ヒンドゥー教徒が常一主宰の我としてありがたがっている原理であるが、
仏教では、マーナ(慢)は悪心所である。
次に、五つの端的なもの(色声香味触)と五つの知覚器官(眼耳鼻舌身)五つの行動器官(発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官)と思考器官(マナス)が生じる。
五つの端的なものから五つの元素が生じる。
声から虚空が、触から風、色から火が、味から水が、香から地が生ずる。
手や足などが入っているのはどうもプリミティブに思えるが。
西洋の神秘学に影響を与えたと思われる。
西洋の四大元素は火・水・風・土、タロットカードのワンド・カップ・ソード・ペンタクルである。
輪廻の主体
第四〇頌
輪廻の主体を「微細身」といっている。
微細身とは、リンガ・シャリーラともいい、
「世界が出来る以前に生じ」といい、
プラクリティから世界に先立ち生じたとされる。
これは、一つのプルシャに一つの微細身があるイメージだろう。
そして、その人のプルシャが「独存(カイヴァリャ)」に至る、すなわち解脱するまで、
プラクリティの中に「還滅」しないで、輪廻する。
この考え方は、バラモン教から続く、インドの伝統的な輪廻のイメージなのだろう。
この考え方なら、幽体みたいなものが「シュポン」と身体(粗大身)から抜けそうだ。
仏教は、業による「心相続」であるから、微細身のようなものを措定しない。
「独存」(カイヴァリャ)
第六五頌
「自己(プルシャ)は、生産をやめ目的の力によって七つの形態をとらなくなった原質(プラクリティ)を、あたかも観客のように、安住し、本然に帰して観察する」
プルシャとプラクリティの分離「独存」である。