科学の限界

 

科学って何?

科学の考え方  科学的手法

科学の主観性

人間のレベルでの誤ち  一面性 一要因性 一時性 バイアス

科学のできないこと  未来の予測ができない

トリック テクニック

身の護り方   自然と人間  科学の合理性と希望と平和の先

誤解のパターン

改めて、科学って何?

 

付録

科学史

科学の弊害  デメリット  学会

機械論と生気論 生物とロボットの違い

形といのち  構造と機能

科学と非科学

現代科学

悪魔と科学

ノーベル賞

ゲーテとニュートン

二酸化炭素

科学を多用する人は条件反射が多い人?

 

 

科学って何?

体系化された知識、

〇〇学という学問の分野   

科学的方法に基づく学術的な知識、学問、技術。

 

明治時代に西周が、サイエンスの訳語として「科学」を当て、更にその使い方が中国に伝播して、中国でもサイエンスの意味として使われるようになった。

 

サイエンスの語源はラテン語のscientia scìre,でその意味はto know   知ること、分けること

分別や意識や良識を意味する  Consciousness  con +sciousness  知ること分けること意味する

 from Latin conscientia, from consciêns, conscient-, present participle of conscìre, to be conscious of .

 

科学的手法とは何?

ある事物や現象を説明するにあたり、

考えられる様々な仮説から、

再現性を持つ実験や観測を行い、

その結果に矛盾しない説明を選びだすプロセスの事である。 

「実証性(positivity)」、言いかえれば、「事実的」「経験的」「確実」な仕方で正当化された知識であり、科学的説明には、用いた実験方法や測定方法が公開されて、第三者に検証される事が重要である。 

 

珍奇な現象が一般に認知されるためには

1 確かに実在する現象であること

2 すでに知られている原理に基づいて説明できそうなメカニズムがあること

3 現象そのものだけではなく、重要な意味を持っていること

 

科学の主観性

科学は、理論を実験と照らし合わせることで「客観的な真実」にいたるという捉え方があり、それが一般的信念である。しかし、実際は実験のデータによって、理論に基づいた予測が確認されることがあっても、理論それ自体が確認されることはない。実験データは、いろいろに解釈できるからである。これが科学史が文学批評と同じだけの悪意で満ちている理由である。科学は主観なるものであるが、文学と比べると相対的に客観的だということである。

アリストテレスから中世科学、ニュートン、アインシュタインという権威的「中核的」な科学の変化を見ても、文学史や絵画史や哲学史と同じようなジグザグなコースが科学の進行を特徴づけていることがわかる。

 

科学の進化のコースがなだらかな曲線を描いている時は、ジグザグの革新的な発見の連続な進化の後の場合だ。

徐々におこる変化は、パラダイムの変化のための地固めの期間においてのみ連続的である。そしてこの地固めは凝り固まった権威主義の増大をもたらし、過度の特殊化の袋小路へと導いていく。

 

人間のレベルでの誤ち  一面性 一要因性 一時性

こんな科学は人々から信用され、科学で証明されたものに従う人が多い時代がはじまった。

ここで二つの問題がある。一つは科学そのもの問題で、これまでの科学は実証性にこだわってきたために、モノ(現象)にスポットライトを当て、関係性(TPO)は暗がりの中にあった。

もう一つは科学を理解する人間の問題である。科学的手法で再現性のあるものでも、それを誤用していたら科学的生き方にはならない。誤用の特徴に、一面性 一要因性 一時性がある。

 

一面性

群盲象評と呼ばれる、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話がある。

ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など世界に広がる譬え話だ。

ジャイナ教の伝承では、

6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」。

 

この寓話は誰もが一部を科学的手法で分析・再現・認識してしまい、それを一般化してしまう可能性を示している。いくらちゃんとした手法を経た科学的事実の積み重ねであっても、周囲との関係性や全体との関わりに常に配慮したものでなければ誤解を生んでしまうという楽しい喩えだ。また、多くの手法を統合したものであったとしても象の心がわかるとは言えず、たった一部であって他の部分のことが一切わからないとしても全体との関係性があるのであれば、それによって全体とつながることができる寓話とも解釈できます。

 

一要因性

何かが起こった時に原因や根源を探す人間のクセがある。例えば、河口の支流にいる者がこの川の本当の一つの源流を探し求めようとする行為に似ている。

 

日本の地域の塩の摂取量と血圧を調べた人がいた。

戦後の1950年にアメリカのダール医師が日本各地の食べ物と健康の調査をした。その中の結果で塩と血圧の間で関係性のあるデータが取れた。

鹿児島は一日14gで高血圧が20%

青森では一日28gで高血圧が40

それから現在に至るまで減塩こそが大切というキャンペーンが続いている。

しかしあれから60年が経ち、わかったことはこの二つには関係はあるが、少しぐらい多く摂取しても尿として排出されるのでなにも問題がないし、また反対にこの地球上には塩分を摂らない民族や塩分を多くとっても血圧に関係がない人たちがいることもわかった。日本国内では長野は塩分の量も国内では比較的高いが高血圧は青森ほど多くない。

このように調査者の意図によって、二つの関係は望むような結果を出すことができる。実際には緯度と血圧、気温と血圧、運動量と血圧、納豆と血圧、○○と血圧にも相関関係がある。

相関関係とは二つの間にある関係のこと 単にそういう関係があることを知るに過ぎない。そこにただ一つの因果関係があることが証明されるわけではない。塩を20gとれば高血圧になるとは限らない。

何故か?「いのち」あるものは機械ではないから。

疫学調査は論理的に限界があり、分かることは、「ある因果関係がある場合、ある調査がその因果関係に反しないことを示すことができる」だけです。原因の特定には結びつかない。

厳密に科学的に言うと、あらゆる「いのち」に関わる調査は単一の要因を見つけることができない。

 

河口の支流を川上に向かってたどっていって湧き出る泉の源流を見つける人がいるが、実際にはこの泉はシンボルに過ぎず、実際は雨滴が地面に落ちたところ全てが川の源流である。

 

一時性

何かを判断するときには条件がつく。

時間ならば始まった時から終わるまでの間、空間ならば囲んだ領域の内側での話し、状況ならば周囲の人やグループや社会や環境との関係。

どれもある条件のもとで判断される。

例えば、昔は6歳になれば立派な働き手で、家では弟妹の世話をみる保育園の先生であり、外では仕事を手伝う小間使いだった。現在の先進国では子供が働かなくなって久しい。

ところでこんな現在の子供たちを見て、人間はたんなる消費者でしかない、と言い切るのはどうだろう。

確かに一般的には早くて15歳、多くは20歳を過ぎるまでは、経済的には生産よりも消費の方が多いだろう。ただ人生の前半だけをみて判断するのではなく、後半もみて全体で評価するのが妥当である。

 

ところが、このような全体を見ずに一時(いっとき)だけを見て、一般化して全体を判断してしまう誤ちを侵す人は多い。ナイジェリアの産婦人科の前に住んでいて人口爆発を嘆く人、日本の葬儀屋の前に住んでいて少子化を嘆く人、植物が酸素を作っていると信じている人など、みんなある事象のある時間だけをみて、全体を判断してしまうことは多い。目の前に科学的な事実があったとしても、それだけで判断してしまっては勘違いが多くなる。

 

すべての情報はバイアスがかかっている

科学の基本の一つは、特定の現象を客観的に観察することです。ところが、意識とは主観的な体験です。脳は、どれくらい正確に自分自身である主観的な体験を評価できるのでしょうか?

バイアスとは、事実を歪ませる情報の偏りやそれを生み出してしまう考え方

無意識の判断はバイアスによって行われている。現在と向き合わなくても、過去の記憶や理性の未来推測によって、目の前のことをバイアスによって判断している。 錯覚など

他人はもちろん、自分の意識も、そして自分の無意識さえもバイアスの中にいます。

数字やデータは客観的で中立的であっても、これが人間世界の中で使われると情報となり、この情報は解釈や意味付けが発生します。解釈のない情報はありません。善意があっても、意識していなくてもバイアスがかかります。これが私たちの住む世界なので、それを前提にして暮らしていくことが大切です。

人は自分の信じたい情報を信じる

科学者は自分の信じたい情報を集め、編集し、実証する。

 

科学のできないこと

未来を予測できない科学

「成長の限界」メドウズ博士  マサチューセッツ工科大学1973

資源の枯渇 2010年から環境は悪化し、2050年に人口はピークを迎えるがその後2100年には40億人が餓死する。

Description: images

有名な資源が有限の時の世界モデル図

 

マルサスの「人口論」 1798

国際連盟の計算  地球上で生きることのできる最大人口数265000万人  1935

 

資源

銅は1970年に36年の寿命と言われたが、1995年には61年に増大した。

金属資源は地下のマグマが地表に出てきた後に冷えてできる物質なので、正確な資源量を掴むことができない。

また資源探査の技術が進めば、新たな鉱山が次々と見つかる。探査には資金が必要。

将来においてマグマから直接に金属元素を取り出す技術ができれば無限と言えるほどの資源がある。

人間の活動の癖 希少価値にしたい 100年後に使う資源は探さない。いつも「枯渇の危険」が必要。

そのために常に「何十年」という寿命を持つことになる。

 

資源は有限であるというトリック

「有限の資源を毎日使うのだから、そのうち寿命が来る」

有限とは30年でも500万年どちらも有限。寿命が来るのは30年後と500万年後では大きく違う。

 

 

なぜ科学で未来予想ができないのか?

いま、頭の中と現実にあることで計算するしかなく、想像できない発明発見を予測できないため。

現在の状況で未来を予想するため

ライト兄弟が飛行機を飛ばす8年前には、有名な科学者が「気球のように重力のあるものを空に浮かべることができない」といった。

気体の重さについての法則ではなく、新たな浮力の法則の活用に思いがいたらなかったからです。

 

科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ(自然の斉一性)。

このため予測が「科学的」といえども、絶対的な確信は危険である。

論理の前提とすべき命題の不知、

確率的現象やカオスの存在により、しばしば未来によって現在は裏切られるからである

 

科学の悪巧み

利用するのは大義名分  介護、福祉、医療、病気、患者、  未来、希望、夢、未知

○○のため       食い物にする標的である獲物が○○  ロックオンされないようにね

エンジン        オッカムの剃刀を使って、条件を切り捨て、法則という一般化をする  

ガソリン        コインの片面である善意にスポットライトを当てて、動機を燃焼させる

結果          医療や介護などで開発された良いモノも軍事目的に利用される

問題          過剰適用しながらも、分断されているために無責任でいられる

財源          税金を使われ、自分で自分の首を絞めている大衆の私たち

狙い          科学に依存することしかできないライフスタイルに誘導する

科学が踏みつけて潰すもの   自然の中で生きるライフスタイル  意識を使わなくても良い生命循環

 

トリックのお手本

多くの人が誤解することを承知の上で、事実を言う。

責任を追及されないように、嘘は言わない。

嘘ではないと証明できれば、何を言っても良い   これがマスコミや専門家の基準

 

騙すテクニック

科学の法則や歴史的データを再確認させない

特殊なデータを普遍化する 例えば、少年犯罪が増えているというイメージ作るためにグラフの一部だけを取り出して、わずか10年で2倍に増えた部分だけを強調する。

 

三段論法を使う

20世紀になってCO2が増えている

20世紀になって地球の気温が上がっている

→だから、CO2が原因で地球の気温が上がる

 

コンピュータなどの最新技術を使用している

専門家と大学が発信する

マスコミが報道する  

 

正しい側にいることに錯覚させて安心を得る。

複雑な自然(人間の体)と浅はかな知恵の人間

人間の不十分な知識で自然に手を加える例は多いが、多くの場合は、最初の期待と反対の結果になることがある。

例えば、政治組織や宗教組織としての「自然保護運動」のように  個人がしている自然保護は道理があります。

 

人の心に潜む先入観や劣情をくすぐると多くの人は騙される。

不安を煽る商売と同じです。恐怖を駆り立て、将来は危険になる暗い未来 環境破壊、地震を並べる。

困ったことに、危険を強調することは決して悪くない、それで危険を回避する可能性が高まるのだから。

ここを付いてくるのが儲けたい専門家です。

 

どうやって身を守るのか?

大丈夫だ言うのは証明できないが、疑われるというのは、実験や論理ですぐに提案できる。

危険性を訴えることは無限にできるが、安全証明は証明することが無限に出てくるので不可能です。

個々の実体験ではなく、他人の作った本やテレビや人の言うことを見て、理性(頭)で理解し、判断することが、トリックが生じる原因です。

専門家が常に倫理と事実に厳しく誠実に向かい合い、自然の実体験をしていることが、このようなトリックが生じないただひとつの方法です。たった一つです。

ちょっとずつでも常識と科学的な考え方を磨くしかありません。

磨くヒントは息をゆっくりと吐いて、意識を休ませることにあると思います。

 

科学(分析と統合)の次のステップ

人間の意識には二つの面がある。分析知と統合知である。分析知とは分かる、解る、判ると書くとおり、分けるということだ。それに対して統合知はその分けたものを分ける前の状態で理解しようという知性だ。言葉を変えると分けて選択しなかったものの価値を認識することである。劣っていたもの、負であるものの価値をわかって大切にするということである。

これがしっかりとできると次の段階に行くことができる。

それが直観や悟りと呼ばれるものだ。

これは科学的手法の分析知と統合知では届かない世界で、その後の「体験」がなければ認識できない。

直観は心が沈静した時、変性意識状態の時に顕現する。

自然の法則、生命の根源、宇宙の秩序を自己と結びつけるのは直観であり、そのための丹田であり、体である。

 

科学を使ったトリックの数々

トリック 100年後に温暖化で日本の夏の気温が上がる。 気象庁データ

実際   上がるのは2度ほどで、それも北海道の北東部だけ。

 

 

トリック 温暖化でアルプスの氷河が溶けている  30年前の写真と現在の写真を比べる

     温暖化しているので二酸化炭素を出すと危険である。

実際   

ヨーロッパの気温は500700年周期で寒暖を繰り返し、17世紀の欧州はアルプスで氷河が発達し、イギリスのテムズ川も凍り、冬は氷上に店舗がある絵画が残っています。18世紀ごろから寒暖が変わり、氷河がゆっくりと溶けはじました。石油を使用する前の話です。

201011月にスイスの氷河の下から1000年前の遺跡が出てきたのも、1000年前の気温が今と変わらなかった可能性が高いことがわかります。

南極の氷を分析すると今から1000年前よりも2000年前の方がわずかですが気温が高い。

 

 

トリック ツバルが沈む映像

実際   年に一回の2月の末に、大満潮になり、激しく浸水する。1897年イギリスへの電報「満潮時に島が海の下に沈む」  この20年の間におよそ10センチ海水面が低下している。

 

 

トリック ほどなく生物の種類が足りなくなって生態系が破壊される。人間の活動のために一年に4万種も絶滅しているから、

実際           現在は推定3000万種  中生代は600万種 「生物界が生き生きとしている」とは適当な数が絶滅し、それに変わって適当な数の新しい生物が誕生して、徐々に進化するということが理想とすると、このまま600年ほど人間の活動で続け、600万種にしたほうが、生物界にとっては良いのではないかという奇妙な結論

     むしろ過剰な生物の種類を保つほうが自然破壊につながる。

     4万種絶滅していても、人間の活動により多くの種が誕生しています。ウイルス、耐性菌など

 

 

トリック    多様な生物によって支えられている生態系は、パーツが一つ欠けるたびに、少しずつバランスを崩していく。やがて臨界点に達すると、修復できないほどの大きな崩壊を始めることになる

実際           生物が地球上に誕生して繁栄して生態系ができたのであって、生態系が多様な生物に支えられているかは不明。もしかしたら1000種ぐらいでも十分かもしれない。

     崩壊は古生物の研究からはまだ経験も発見もされていない。

 

トリック  死者が年間1万人から3千人へ

実際    交通事故から24時間以内の死者だけをカウントするように1990年から変えた。

年間100万人の負傷者  100人に1人  100歳まで生きれば、一生に一度は交通事故でケガをする

 

 

誤解のパターン集

形式的誤謬

論理学において、「形式的誤謬」 (formal fallacy) あるいは「論理的誤謬」 (logical fallacy) とは、推論パターンが常にまたはほとんどの場合に間違っているものをいう。これは論証の構造そのものに瑕疵があるために、論証全体として妥当性がなくなることを意味する。一方、非形式的誤謬は形式的には妥当だが、前提が偽であるために全体として偽となるものをいう。

後件肯定

「もし P ならば Q である。Q である、従って P である」という形式の推論。「もし魚ならひれがある。この生物にはひれがある。従って魚である」という推論で、クジラなどの存在によって誤謬となる。

前件否定

「もし P ならば Q である。P でない、従って Q でない」という形式の推論。「もし人間ならば脊椎動物である。この生物は人間でない、従って脊椎動物でない」という推論である。

選言肯定

A または B である。A である、従って B ではない」という形式の推論。「ゴッホは天才または狂人である。ゴッホは天才である、従ってゴッホは狂人ではない」という形式で、天才と狂人が同時に成り立ちうる可能性を無視している。

間違ったジレンマ

選択肢をいくつか提示し、それ以外に選択肢がないという前提で議論を進めること。例えば、多重債務者の「このまま借金取りに悩まされる人生を送るか、自殺するか、二つに一つだ」という思考(自己破産という選択肢を除外している)。

4個概念の誤謬

三段論法には通常3つの(論理形式に関わらない)語句が出現するが、4つめの語句を導入することで誤謬となる。例えば、「魚にはひれがある。人間は脊椎動物である。魚は脊椎動物である、従って人間にはひれがある」は明らかな誤謬。通常、二枚舌 (equivocation) との組合せで巧妙化する。

媒概念不周延の誤謬

三段論法において媒概念が周延的でない。「全ての Z B である。Y B である。従って、Y Z である」の場合、媒概念 B が周延的でない。「すべての魚は脊椎動物である。人間は脊椎動物である。よって、人間は魚である」。

 

非形式的誤謬

非形式論理学において、「非形式的誤謬」 (informal fallacy) とは、論証における推論に何らかの間違いのある論証パターンを指す。形式的誤謬のように数理論理学的に論理式で表せる誤謬ではなく、自然言語による妥当に見える推論に非形式的誤謬は存在する。演繹における非形式的誤謬は妥当な形式でも言外の前提によって発生する。つまり、演繹における非形式的誤謬は一見して妥当に見え、その主張自体は健全に見えるが、隠された前提に間違いがある。

間違った類推

条件の相異や例外の存在を考慮に入れずに類推し、その類推を大前提として論旨を組み立てること。「ロシアでは社会主義革命の前は農奴制であった。よって社会主義革命を経ていない社会はすべて農奴制の状態にあると言ってよい」。

早まった一般化

十分な論拠がない状態で演繹的な一般化を行うこと。「1, 2, 3, 4, 5, 6はいずれも120の約数だ。よってすべての整数は120の約数である」。

例外の撲滅

例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人に傷をつけるのは犯罪だ。外科医はナイフで人に傷をつける。従って、外科医は犯罪者だ」。

偏りのある標本

母集団から見て偏った例(標本)だけから結論を導くこと。「(日本在住の人が)周囲には黄色人種しかいない。よって世界には黄色人種しかいない」。

相関関係と因果関係の混同 (擬似相関)

相関関係があるものを短絡的に因果関係があるものとして扱う。「撲滅された病気の数とテレビの普及には相関関係がある。よってテレビが普及すれば病気が撲滅される」(両者は時間の経過により独立に進んだだけだが、数値上は両者に相関ができてしまうので、因果関係があるかのような勘違いをしてしまった)。

前後即因果の誤謬 (羅:post hoc ergo propter hoc)

A が起きてから B が起きたという事実を捉えて、A B の原因であると早合点すること。呪術と病気の治癒は因果関係ではなく前後関係である。

滑り坂論法

「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論法で、何らかの事物の危険性を主張すること。ドミノ理論。必ずしも誤謬とは限らない。「風が吹けば桶屋が儲かる」は誤謬といってもよいが、「第一次世界大戦でロシア軍が連戦連敗だとコーカサスバイソンが絶滅する」は現実に起こった事態である。

因果関係の逆転

因果関係を逆転させて主張する。例えば「車椅子は危険である。なぜなら、車椅子に乗っている人は事故に遭ったことがあるから」。「バスケットボールの選手は身長が高い。よってバスケットボールをすると背が伸びる」(バスケットボールをしたから背が伸びたとは限らない。もともと背の高い人を選手として採用している可能性もある)。

テキサスの狙撃兵の誤謬

本来相関のないものを相関があるとして扱う。クラスター錯覚ともいう。

上官が狙撃兵に腕前を問うたところ、遠くにある壁の標的の真中に命中しているのを指し示したため腕前に感心したが、実は壁の銃痕にあとから標的を描いただけだった、というテキサスのジョークから。サイコロ賭博で「丁」(偶数の目)が6回連続したから次は「半」(奇数の目)だ、と考えるのはこの誤謬である。

論点先取

結論を前提の一部として明示的または暗黙のうちに使った論証。形式的には間違っていないが、結論が前提の一部となっているため、全体として真であるとは言えない。「彼は正直者なんだから、ウソを言うわけないじゃないか」。

曖昧語法 (amphibology)

文法的に曖昧な文形で主張をすること。「十代の若者に自動車を運転させるべきではない。それを許すのは非常に危険だ」という文章では、若者が危険な目にあうと言っているのか、若者が他者を危険にさらすと言っているのか曖昧である。

多義語の誤謬 (equivocation)

複数の意味をもつ語を使って三段論法を組み立てること。例えば、「非戦闘地域は、戦闘がおきていない。自衛隊の行く場所は、非戦闘地域だ。だから自衛隊の行く場所は、戦闘がおきていない。」(媒概念曖昧の虚偽も参照)

連言錯誤

ある前提について A という推論と A & B という推論を提示したとき、A だけの方が可能性が高いにも拘らず A & B の方を尤もらしいと感じてしまうこと。「K氏が関西弁をしゃべるとき、彼が大阪出身である確率と、大阪出身で阪神ファンである確率はどちらが高いか」[2]

連続性の虚偽

術語の曖昧性により常識的な認識とのズレが生じる誤謬。「砂山のパラドックス」、「テセウスの船」とも。「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である」。

多重質問の誤謬

質問の前提に証明されていない事柄が含まれており、「はい」と答えても「いいえ」と答えてもその前提を認めたことになるという質問形式。「君はまだ天動説を信じてるのかね?」という質問は、「はい」でも「いいえ」でも「過去に天動説を信じていた」という暗黙の前提を認めたことになる。

 

話のすり替え

合理性のあるような説明

年金でいうと、若いうちから年金を納めておけば、60歳を過ぎたら年金を給付できる。途中から違う目的である、

若い人たち年金でお年寄りをサポートする、にすり替える。

 

 

改めて、科学って何?

科学とは何か? 科学の限界

科学は「理性主義」に基づいて発展してきました。理性は英語でreasonです。理性主義とは、出来事にはすべて理由があるという考え方です。ただしその理由は理性によって説明できるものであって、それを超えた「叡智」や「神秘」を持ち込んではならないというルールです。アニミズムや感情移入を使ってはいけません。

理性が理解できる自然法則で説明しなければならないのです。ところが科学が進むことで、とんでもないことが起きてきました。例えばハイゼンベルクの不確定性の理論です。光が波だったり粒子だったり同時にあるのです。理性の範疇では理解できないことが量子力学で次々と起きてしまいました。理性を使って認識する限界がわかろうとしています。

するとわかってきたのは科学とは、理性でわかる範囲に説明することではなく、「知ろう」とする意志のことではないか?「分けて」いこうとする方向性のことではないか?ということになり、理性にとらわれるばかりではないというのが、わかってきました。

 

科学とは

科学を科学すると

1ものごとを分析

2ある数値の変化を見つける

3その数値をコントロールできるものを探す

4相関関係を調べること、

だから原因がわかっても、それが起きた理由を探していけば、無限に続く

法則、規則、パターンを見つけて能率、効率、をあげていく

科学を目一杯利用しよう、こんな便利なもんだから。

 

でも気をつけよう

科学はいい加減なものだから、信用ならぬものだから。

なぜって?

答えは簡単、科学はある条件のもとで起きた同じ結果の集まりを法則にしたものだから。

その条件を作るのが大変なんだから、コストと細心の注意の塊で作るんだけどこれが、実験室の中でしか試すことができないんだ。地球には宇宙にはあまりに多くの条件があって全部試すことができないんだ。

だから、実験室の外はもう条件の下ではない。

想定しない菌やモノや放射能が少しでも関わるとどんなことが起きるのか一つもわからない。

だって実験していないんだから、しょうがないじゃない、想定できないんだから。

大脳が好きな「わかった気」でいること、

だから理性のお望みの心地よくて綺麗な相関関係を引き出すために、そうなるべくと見えるような実験を色々と探してきてはデータを重ねているんだ。

 

そう科学は「関係がある」という結論と、それを支える実験結果の二つで胸を張っちゃってるんだよね。

わかっているのは無菌状態の中の実験室である温度と湿度と光の下で行われた時に起きた結果でしかないから。

くれぐれもお気をつけあそばせ。

 

物質の世界は科学が分かることがある。

そう、でも生活経験は科学ではわからないんだ。

なぜなら経験とは生きていること、いのちだから。

今ここでしか起きない奇跡が毎秒ごとく目の前で起きている。

ここは自分自身で認識して自分のものにするしかない

法則なんかで手を抜くことができない

科学なんかに任せておけない

面倒なもので愛も憎しみも喧嘩もある

そして、わびを知り、あわれを知り、サガを生きる

これらが成熟した科学の世界の扉だ

 

主観と客観

主観も自我も主体も、あの世から見れば、全体の中の小さな一部でしかないという実感。

これは客観という見方じゃない、学校で習う科学とも違う。

人工衛星からこの地球を見つめても、表面の形しか見えない。

どれも命も住めない場所から自分を見つめようとしてもダメなんだ。

客観なんて主観の一部でしかないんだよ。

君が生きている間はね。

対立しているんじゃない、主観の中に客観が含まれているんだ。

どんな客観を選ぶかは主観しだいなんだから。

そしてその客観的なことだって実は間違いの積み重ねなんだ。

錯覚、思い込み、時代、理性、偏った客観、一面性の客観、表層だけの客観、来年には誰にも振り向かれない客観。

命と全体と時空間を超えたものは、科学も言葉も理性も届かない世界だ。

客観とは分けて分断して理解することでしかない。

五感はあるがままに感じること 主観の世界

智性はあるものの深層まで理解しようとする力 主観の世界

あの世からのまなざしとは、みんなを一つにつなげること  主観の世界

 

科学とは誰がどこでやっても同じ結果が出ることだけではない。 

科学が迷信や魔術から離れた時に大義名分を勝ち得て、この世を我が物顔で歩きはじめた。

だけどもういいでしょう、そんな理知科学は、こんな世になっちゃったんだから。

 

これまでの時代はそんな理知科学ががんばって、しっかりやったよ、しなくちゃいけないことを。

近代から続いてきた幻想自我にアンチしての客観や科学なんて、自分自身が苦しくなっちゃうのはわかっていたじゃない、そりゃあ正義感や乙女の純粋さがでがんばってきたのはよくわかっちゃうけどさ。

でもこれからは、ちゃんとした眼差しの科学や主観が、迷信の合理的根拠や魔術の論理的知性に付き合えるほど大人になった。

オカルトや啓蒙主義やロマン主義をおそれなくていい、柔らかくいこうよ。大丈夫だから。

 

アンチではなくて自我を含んだ他、言い換えれば、自我意識も含まれる全体、すべての生命体、全体からとの関わりでしかない部分、宇宙の誕生からみた星や元素やエネルギーを命としてとらえる科学がもうはじまっている。

 

この世を偶数で分けて分析してまたくっつけて一つにして見るのではなく、この偶数分裂にプラス1で奇数にして、あの世からこの世を見る眼差しだ。

 

生まれる前の世界、自分がいない世界、死んだ後にもある世界、ビッグバンの前の世界、生命が誕生する前の世界、星から見た太陽系、石から見た生き物、川から見た社会、雲から見た人間界、成層圏から見た生命体。

人工衛星から見た地球ではなく、月になっちゃったあなたが見た地球。

これは一つの悟り、でもそんなにすごいものじゃない。 だれだってこの眼差しには簡単に経験できるから。

大切なのは悟りの視点を得たことではなく、難しいけど毎日を生きることを積み重ねることだから。

 

 

 

付録

 

科学史

世界史の中でも歴史とともに「科学」の意味は変遷してきている。

古代文明は科学の力で人口密度の高い都市を形成することができた。

その後、古代ギリシャから近代ヨーロッパまでは、知の探求全般は、古代ギリシア語: φιλοσοφια(フィロソフィア)と呼ばれていた(直訳すれば「愛知」。知を愛すること。現在では「古典科学」と呼ばれる

この古代ギリシャ科学を直接に継承したのは、アラビア語世界で、12世紀ルネッサンス(大翻訳運動)によってアラビア語文献がラテン語に翻訳され、科学がヨーロッパ世界に導入された

17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち実験(冒険)という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとした。

近代科学のスタートだ。

科学革命後に成立した独自の知識の様式を特徴付ける特性は「実証性(positivity)」、言い換えれば、思弁ではなく「事実的」「経験的」「確実」な仕方で正当化された知識であることに求められた。

18世紀ごろまでは、科学はアマチュアによって行われており、「科学者」という職業はなかった、と言われている。20世紀になると、軍事力強化、富国強兵などを目指す国家は国策として、科学技術の興隆に力を入れた

 

 

 

近代科学の弊害

「自然には神の意志などといった精神や目的はなく、単なる物体の運動よって機械的に引き起こされているにすぎない」という考え方を「機械論的自然観」という。自然が神の仕業でなく、単なる物体の機械的な運動にすぎないのであれば、人間の力で自然の法則を解明し、自然の力を利用しようというのが近代科学の考え方だ。

 

「人間中心主義」とは、人間は物事を正しく判断できる能力である「理性」が備わっている、だから、人間の理性の力を尊重しようという考え方だ。近代科学は、実験から一般法則を見出すベーコンの「帰納法」と、仮説をたて検証していくというデカルトの「演繹法」の両方を組み合わせた形で発達してきた。

 

「人間中心主義」は、近代科学を産み、さまざまな科学技術をもたらしましたが、一方で、人間が自然を支配できるという考え方や、人間のためだけに開発されたさまざまな科学技術や科学的思考法が、地球環境破壊や放射能による環境汚染や精神病など現代社会に多くの問題をもたらしてしまっている。科学技術を開発したり利用したりするグループの人は、

「人間のためにだけに利用する」という人間中心的な考え方ではなく、「地球全体の幸せのために利用する」という発想が、現代社会を生きる私たちに求められる考え方ではないでしょうか。

と自らの科学的思考と行動を肯定することをやめようとはしない懲りない人々だ。

 

モノを分けて統合するという考え方は機械論と還元論を推し進め、科学の進歩に貢献した。

しかし同時に分けると統合する考え方は、内的な力を無視し、外的な力ばかりにこだわりいろいろな問題を作ってしまった。

全体から切り離されたタコツボ型の考え方と全体とのつながりを持つササラ型の考え方も専門家が進むにつれ、

文化・学問はしっかり根があり、系統立っている(ササラ型の)構造であるのに対し、狭い分野に独立して独創的研究で成果をあげる事が求められる(タコツボ型の)構造になっている

 

「地球全体の幸せ」という新しいキレイゴと大義名分を持ち出すことでまた責任逃れを始めてしまった。

科学的思考・手法・技術は合理性を探求することである。物理学で言うと、簡素に短時間にエネルギーを集約させる技術であるとも言える。分かり易いシンボルは核爆発技術だ。

人間が人間である限り、ロボトミー手術でもして、機械人間にならない限り、人間は悪にも善にもなる。

開発した技術は「地球全体の幸せ」だけのためには決して使われない。

こんな大義名分も人間のサガである。意識がある人間である限りは、受け入れなければならない事実である。

合理的思考法が意識の宿命であるように。

だから科学はそれほど褒め称えられるものではない、サガとして受け止めるものである。

 

 

デメリット

税金

「大多数の国民にとってメリットよりデメリットの方がはるかに大きい

予算の取り合いで

「直接的な市場価値を有さない基礎科学の場合、これはほとんどウソつき競争のようになってくる

 

 

業界の常識は庶民の非常識

科学者には、"学術雑誌に沢山論文を書いた学者に、地位と報酬を与えるのは当然だ"といった考えが深く染み付いているのだろうが、それはあくまで科学者仲間の内部にしか通用しない理屈

 

科学者による不正行為

大学は大学院生の数を増やし続けてきた。その結果、の多くは容易に職に就くことができない

このような者たちは、専門家として生き残るためには、何らかの「業績」を示し、それにより評価されることで研究資金を供給されなくてはならない と考えることになる。

このような状況で焦りに駆られて、研究におけるデータの偽造やねつ造を行う研究者が、近年目立つようになっている

 

科学学会

一般の科学者は信用ができない

学会の常識  学会で偉くなるためには  publish or perish

止まった情報に変える 一冊の本にする 遺伝子AGDC ヒューマンゲノム ライブラリー 生命ではない

意識の中に住む  脳の世界 情報 単純化  自分自身が情報  個性で変わらない自分 

霊魂不滅 西欧的自我  

 

オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。それはきっと大衆の言動に近いものになる。それよりなにより、そうした科学にとびつくのがまさに大衆だということになるだろう。

 こういう懸念がオルテガに「科学的実験が大衆の増長を促す」とし、科学を推進してやまない科学者を「サビオ・イグノランテ」(無知の賢者)と呼んでいた。

 

機械論  分割して統合する方法

全体については語れない  還元主義

すべてのものが関係がある  だから好きな法則を作れる

生気論に関心がない  生命体のことをsystemと呼ぶのが生物学の常識  organism 有機体

 

生気論(せいきろん、vitalism)は、「生命に非生物にはない特別な力を認める」仮説である。生気説、活力説、活力論とも呼ばれる。

生命現象には物理学及び化学の法則だけでは説明できない独特の原理があるとする説]

生命現象の合目的性を認め、その合目的性は有機的過程それ自体に特異な自律性の結果であるとする説。

などを指す。

一般的には機械論と対立してきたとされている。非生物と比較して、動植物などの生命だけに特有な力を 認める/認めない という点での対立である。

現代生物学は基本的に唯物論的・機械論的な立場を採用しており、生気論は認められていない。 現代の科学者はしばしば「過去の誤った理論」などと見なしている。 ただし、一見すると生気論は古い考え方と思われがちだが、生命を情報という観点からとらえる現代生物学は、むしろこの生気論に近い考え方になってきているとも言える[4]と指摘されている。

 

新生気論

ハンス・ドリーシュ (1867 - 1941) は、機械論的立場からウニの初期発生の実験的分析に熱中していたが、ウニ卵が1個の全体として著しい調節能力を持っていることを見て、これの説明にdynamic teleology(動的目的論)が不可避であると認めた。ウニの胚を二分割する実験の結果を踏まえて、自著『有機体の哲学』 (1909) において全体の、形態を維持する「調和等能系」の概念を提示し、これの作用因は「エンテレヒー」である、とした。この生命現象がもつ全体性などを根拠にした論は、ネオヴァイタリズム(新生気論)と呼ばれている。

だが学会では機械論が多数派で、この「エンテレヒー」の概念は大きな波紋を呼び、ドリーシュの説は徹底的に批判された。

ドリーシュとほぼ同時代に生気論的見解を述べた学者にはG.WolffJ.Reinkeなどがいる。

その後、ウィーン・シカゴ学派は、このドリーシュの説を徹底的に攻撃した。1966年のカルナップの著作『物理学の哲学的基礎』にはドリーシュとの論争の様子が回顧されている。

フランスの分子生物学者ジャック・モノ (Jacques Lucien Monod, 1910 - 1976) も自著においてドリーシュの説を否定した。イギリスの分子生物学者フランシス・クリック (1916 - 2004) も自著においてドリーシュの説を否定した。一般に、生物学は機械論の立場を採用しており、生気論は認められていない。

 

生物とロボットの違い  バカな生物の欠点と長所

生物は学校(法則の学習)がないので、トライ&エラーで探って、結果から判断する

各器官になるまでの試行錯誤の歴史がある。

生命体にとっての毒から身を守る防御法も巧みであるが、多くの犠牲の歴史のもとに完成された。

 

構造と機能  近代と中世

対象が生命に関する領域や、有機体に関わる領域では、西欧の科学には説明できないことが多い。

例えば鍼灸、臨床結果から効果があることが知られていて、症状によっては西洋医学でも治せないものが、鍼療法でなら治せるというものがあるが、西洋医学の理論体系では鍼療法がなぜ効くのかその原理をうまく把握することが出来ないでいる。

考え方・理論が異なると、同じ症状を眼の前にしても、解釈が異なり、異なった「絵」、相関関係、因果関係を描く。

同じH2Oでも人によって意味が変わるように。

からだを見る見方にも、《関連する一連の構造物》と見なす観点と、《相互に依存しあう一連の機能》と見なす観点のあいだには特徴がある。

かなかったおかげで、そのかわりにからだの諸機能同士の関係を明らかにしてきた歴史があり、そのおかげで患者の健康を増進させることができたのである。

《構造物》にばかりこだわる者たちは、無思慮なことに、大切な免疫器官を破壊してしまったのであり、《機能》を重視する東洋の医学者・科学者は、それらの器官の有益な働きを増強する具体的な方法を開発した

 

科学と非科学の境界設定

何が科学で何が科学でないのか、

その一つの線引きは、反証可能性かあるかどうかだ。科学と呼ぶには、因果関係を反証できるかどうかにかかっており、できないようなものは科学に属さないという線引きである。   カール・ポパー

 

科学史家トーマス・クーンのパラダイム論

パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。

理論は観察事実によって反証されるのではなく、理論に反する観察事実があろうとも、理論は維持され得るし、理論を打ち倒すのは別の理論である

クーン以後の科学論は、社会的・心理的次元を含めた広い次元を扱うようになると同時に、科学の「あるべき姿」ないし、なにものかの「あるべき姿」の仮託としての科学を語る規範的アプローチを断念し、科学の「実際にある姿」を問題とする記述的アプローチに転じた。

 

科学と疑似科学の区別の問題

伝統的な実証主義の科学観に立つ[5]物理学者マイケル・フリードランダーによる一般書『きわどい科学 ウソとマコトの境域を探る』 At the Fringes of Science によれば、全ての立場の要求に適いどのような批判にも耐えうる「科学の定義」は存在せず、同様に過去に繰り返された「科学」と「そのまがいもの(=疑似科学)」の境界確定の試みも全ての人の満足を勝ち得たことはない[2]。そして極端な疑似科学であればほとんどの科学者は比較的容易に見分けることができるが、その周辺には明瞭に峻別できない領域が存在し、科学者でも分類に苦しむ研究報告や革新的な主張が存在する[2]。フリードランダーは、科学者も科学者でない人も往々にしてこうした「シャドーゾーン」の微妙さを忘れがちであると述べている[6]

この峻別の難しさは新しい知識(科学)の受容の際も同様であり、内容の妥当性にも関わらず時代に先んじていた、すなわち同時代の科学者の理解を超えていた研究成果が永らく不遇を託つことがままある。

科学と疑似科学をいかに区別や線引きしたらいいのか? そもそも線引きはできるのか? という問題は「demarcation problem (境界設定問題、線引き問題)」と呼ばれている。

 

反証主義

カール・ポパー 「科学的発見の論理」1959

「私の見解では、帰納法というようなものは存在しない。「経験によって実証」された命題から、理論を導くことは、論理的に不可能である。したがって、理論は、決して経験的に実証されない」

すべての科学理論は「決して経験的に実証されない」以上、永遠に「仮説」あるいは「推測」にすぎません。しかし仮説を経験的に「反証」することは、論理的に可能です。反例を経験的に発見するか、あるいは他の理論との論理的な不整合性を発見して、その仮説を「反証」あるいは「反駁」するのです。

 

反証できなければ科学ではない   占い師は何を言っても当たったということができる。フロイトやアドラーの理論もしかり。疑似科学にすぎない。後出しジャンケンである。これらは反証不可能なので科学ではない。

 

近代科学の基準

再現性があるか?整合性があるか?根拠はあるか?

木星の衛星は1980年には17個、90年代には宇宙望遠鏡の改良で39個、2001年には惑星探査の観測で63個になりました。科学とは完成された作品ではなく、進化の「経過」や「方法」として認識されるものです。

科学は「現地点」で最も「普遍的」で「客観的」で「絶対的」な「真理」をあらわすもの。

無知よりも知を求めてきた科学、人間よりも知識を優先させるのは当然だという暗黙の了承がある。

 

新しい科学から見ると「権威主義的」なものです。

「個別」な事例から「普遍」を導く帰納法も論理的な根拠がない。論理的な必然性がないからです。

帰納法を使って自然法則を見つけてきたのは事実だが、これからも帰納ほうが成立する保証はない。

 

 

今までのルールに収まらない問題が起きる時に新しい科学が生まれる。新たなパラダイムの出現が革命を起こす。ニュートン物理学で物事を予測できたいたのに、速度が光の速度に近づいたような場合や、非常に強い重力場が問題になる宇宙論ではアインシュタインの物理学が必要となる。ニュートンの物理学を包括した新たな物理学にバージョンアップされる必要があります。

旧パラダイムの抱えている問題を挙げて、いかに新パラダイムではそれらをうまく説明できるかを宣伝するわけです。真理や客観ではなく、信念や主観に基づく合意が決定的な意味を持つ。

合理的な基準は存在しない。

進歩という概念は幻想であり、科学では不必要な概念である。二つのパラダイムを比較するための「客観的基準は存在しない」。 二つの概念の共通項がなく、比較して優劣を論じることもできない。これを共約不可能性incommensurabilityと呼びます。

 

科学とは人類が作り出した一つの思考方法にすぎない。

科学こそが、もっとも新しく、もっとも攻撃的で、もっとも教条的な宗教制度である。

ファイヤアーベント

いかに科学が人類に貢献しているからといって、それを妄信するような姿勢は、もはや宗教と同じである。

 

 

人間原理 新たな視点 いや昔からの視点  ケンブリッジ大学のフレッド・ホイル

まず自分が存在するから思考できる。

認識主体の人間が進化するためには○○が存在しなければならない。 例えば炭素。

そのためにはそれが存在するための○○の法則があるはずだ。 例えばベリリウムの共鳴。

 

物理定数の「微調整」が存在する理由を「偶然」とする弱い人間原理 多宇宙理論 幸運な宇宙

「必然」とする強い人間原理 内部に人間のような「観測者」を生み出されるように「微調整」され、「自己組織化」されている

 

現代科学からみると人間の科学は矛盾している

ハイゼンベルグの不確定原理

観察者効果

シュレーディンガー方程式  ミクロの自然はシュレーディンガー方程式が有効なことが多い

シュレーディンガーの猫

 

科学の悪魔性

善悪の基準は二つある。その基準を左右と上下と名付けてみる。

一つ目の左右とは、全体を二つに分けて光影、優劣、高低で片方を善、反対側を悪と名づけるものだ。例えば、人間にとって益になる乳酸菌を善玉菌、害になるピロリ菌を悪玉菌と名づけるような善悪の基準だ。悪玉菌は量が少ない限りにおいては、人間の生命を脅かすことはなく、種類によっては免疫作用の抗体を作るときに必要なものでもある。

二つ目の上下とは、形のない「力」が形のあるモノになり、やがてモノは崩壊して形のない「力」に戻る過程において、「力」を善、モノを悪と名付けるものだ。例えば、全体を求めようとする考え方は善であるのに対して、全体から逃げ続け個別化することだけに意識を持つ考え方は悪となる。

人類史においてこの上下運動を助けるものを神と呼び、この運動を固定化させるものを悪魔と呼んだ。

神学的に言えば、形のない「力」を神、形になったモノにこだわりを持ってしまったものを悪魔と呼ぶ。

キリスト教では上下運動をする天使と呼ばれ、そして下に落ちることにこだわってしまった大天使長ルシフェルが堕天使となりサタンと呼ばれる。

古事記には悪魔という天使と相反する存在はありません。しかし、もし西欧から初めて古事記を見れば、何を悪魔として捉えるのでしょうか?人に忌み嫌われ、罪穢れが押し流される死後の世界である黄泉国があり、その主宰神イザナミではないでしょうか?

神世七代の最後にイザナギとともに生まれ、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうけました。更に山・海など森羅万象の神々を生みました。 

死後の世界と現世の境界に在る「黄泉の坂道」で岩戸を隔てて、死後の世界側に居るイザナミはイザナギに向けて言いました。

「いとしい夫よ、あなたがそのような事をなさるなら、あなたの国(地球)の人々を一日に千人ずつ殺してやりましょう。」それに対してイザナギは、

「いとしい妻よ、お前がそんな事をするならば、一日に千五百人の子供を生ませよう。」

日本の悪魔イザナミは現世を作った神であり、黄泉の国にいることによってはじめて現世を成り立たせりことができる、一番大切な神々の一人であります。

 

全体とともにあるものを善、分化して全体との関係性を断とうするものを悪と呼ぶ。

「魂を悪魔に売る」という表現がある。これは上下運動を自由自在にする魂を、意識を使って固定化させてしまうことを指す。

近代科学は全体を細分化して形を持つことにこだわり固定化させてしまったものなので、神学的には悪魔の化身であり、悪魔の手法である。たしかにモノに固執する場合は悪魔の領域だが、力を形にすることは神の領域なので、問題なのは自由な動きを固定化させてしまうことだけだ。悪魔は絶対的な悪ではない。絶対なのは全体であり、悪はそこから分かれた相対的なものでしかない。悪は全体から見れば必要な部分であり、悪魔がいなければ、形を保つことができない。しかし、形に常に固執し続けてしまうと悪魔自身が全体の中で自分の立場を無くし、自らの首を絞めて破滅に至る。科学の悪魔性は無限に分化しづけようとすることにあるので、分化して形になること同じように、また形なき「力」に回帰することを気づかせることができれば、意識で固執させるという自らが発した形(呪い)から解き放すことができる。

それまでは科学を必要悪として扱い、それほど賞賛すべきものではないが大切なもので、ヒトの意識のサガとして科学と向き合うことこそが、科学との荘厳なる付き合い方だ。

 

 

科学の一等賞の基準  ノーベル賞ってドンダケー?

 

 ノーベル賞は、一九〇一年に、十九世紀にダイナマイトを発明して巨万の富を築いたアルフレッド・ノーベルの遺言によってつくられた。 その遺言の動機は、ノーベルが自分の死後に、自分に与えられる「死の商人」という評価を払拭したいと思ったからである。

 

賞設立の遺言を残したノーベル(18331021 - 18961210日)はスウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとする様々な科学の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし爆薬や兵器をもとに富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のリュドビックがカンヌにて死去するが、この時フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった

 欧米が爆弾を戦争で使用するようになってから、戦争はより大きな破壊を生み出し、現在に至るまで耐え難い多くの兵士と諸国民の命が失われた。そしてそれが原子力爆弾にもつながっていく。

 

 ノーベル賞は、一九〇一年以来、はじめは、欧米の白人だけに、第二次世界大戦後には、有色人種にも、贈られて普遍的な賞となった。 そして、今や、ノーベル賞の受賞は、学者として世界的な業績を讃えられる最大の名誉となっただけではなく、受賞者を生み出した国家の名誉ともみなされるものとなった。

毎年授与されるノーベル賞は、各種の政治バランスなども見ながら、年ごとに主催者が企画を立て運営している。これは平和賞や文学賞に限らず、自然科学も例外ではない。経済学賞だけはノーベルの意向とは関係なく死後70年あとに金融機関などの後押しにより設立された。

ノーベル財団はほとんどこうした内容に触れないが、「公正な選考」を考えても、それは必然的だ。人間はバランスを考える生物であるから。

 

「マンハッタン計画」に参加した物理学者のノーベル賞受賞。

エミリオ・セグレ(59年受賞)マンハッタン計画のリーダー

ユージン・ウィグナー(63年受賞) 原爆製造提案の手紙を米大統領に送った3人の物理学者の1人。リチャード・ファインマン(65年受賞) 核弾頭の基礎計算で最も力を発揮。尚、原爆を具体的に設計した物理学者

ハンス・ベーテ(67年受賞)「マンハッタン計画」の理論面のチーフ、ユダヤ系ドイツ人です。

ルイス・ウオルター・アルヴァレス(68年受賞)「マンハッタン計画」の核爆弾の効果を測定する直接の担当者

アインシュタイン1921年 1939年10月11日、アメリカに亡命していたアインシュタインはF=ローズヴェルト大統領に手紙を送り、原子爆弾の開発を急ぐよう進言した。

エンリコ・フェルミ1938年は、中性子照射によって元素の人工変換 1942年には最初の原子炉を組立て、核分裂の制御に成功し、原子爆弾製造を一歩進めたのだった

 

湯川秀樹と原爆とノーベル賞

『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』中条一雄  

『ユダヤは日本に何をしたが』(2003年)渡部悌治(p.152) (p.155) 米国に技術を売り渡したという記述

『もはや高地なし』〔フレツチャー・ニーベル、チャールズベイリー著、1960年〕

「アメリカ日記」193910月3日の日記  『原子と人間』1948年 湯川秀樹

「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」 有馬哲夫が「月刊現代」(2008年1月号)

『原爆の秘密 国内編』は、第4章「湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係」p.149-162技術の流出の可能性

小畑弘道の『被爆動員学徒の生きた時代』(2007年) 湯川秀樹博士らの進言と軍の後押しで創設された広島高師附属中学校は6月に疎開した。

『核時代を超える』(1968年)湯川、朝永振一郎、坂田昌一との共著

 

彼は自身の中間子理論が原爆開発に利用された事を終始悔やんでいたという。戦後平和運動に邁進したのもその思いからだったという。ところが、どっこいこれがとんだ食わせ物の話で、彼は実は戦時中、核開発の研究スタッフの一員だったが、日本がまとめた核分裂に関する理論と資料を米国に売ったというのである。そして広島に原爆が落ちるのは間違いなく知っていた。「ユダヤ人は日本に何をしたか」(成甲書院)。戦後のノーベル賞はその論功行賞だという。確かにノーベル賞というのは白人の独断場で、それまでは白人以外の人間に与える気がなかった。また日本に原子力についての賞を与えることで日本が開発する前に原爆を落とす必要があったことをアピールする必要もあった。

 

「日本にノーベル賞が来る理由」(朝日新書、2008年12月刊行)著者は、伊東乾(けん)

略歴 作曲家にして指揮者 東京大学大学院物理学専攻博士課程単位取得退学、同総合文化研究科博士課程修了。第1回出光音楽賞受賞・・・著書『バカと東大は使いよう』他。

 第二次世界大戦での原子爆弾とノーベル賞受賞との密接な関連性を分かりやすく説明しています。湯川秀樹博士の受賞もこの脈絡の中で語られていますし、日本におけるノーベル賞の紹介が、終戦直後の占領軍政策の中で、メディアに大きく制約があり、今もって歪に説明されているのです。

 

ノーベル財団には大変明確な「戦略」と「理念」がある事です。「メッセージ性」、「個性」とでもいうのでしょうか。それは「人類の平和」であり、「豊かなくらし」であったりです。それに忠実な活動が、「差別の非対称性」を克服するバランスのとれた国際間の「対称性」ある配慮への信頼感を生み出しているのでしょう。

ベースはプロテスタンティズムなので、大きな矛盾と抑圧と理念の恐ろしさを前提にしています。

 

  朝永博士は科学についてこう語っています。「公害や原爆をもたらす科学は、悪いものだという人もいますし、一方で科学は私たちの生活を便利に豊かにしてくれるとても素晴らしいものだという人もいます。しかし、科学には、人間を不幸にも、幸福にもしない第3の見方があると思うのです」。

  秘密シアターに映し出される風景や、顕微鏡から垣間見る小さな生き物の不思議な行動、子供のころ心惹かれたあの瞬間の驚きを追求することは、だれを不幸にするものでも、また幸福にするものでもありません。「心惹かれる不思議を少しずつ掘り下げていく、そういうところに科学の大切な意味の一つがあります。――不思議だと思うこと、これが科学の芽です」。

 

しかし残念ながらこれは第三の見方にはなりません。本人の好奇心への強い気持ちはわかります。人間として当たり前の感情です。そして、これを個人だけのものにしていればこの理屈も通るでしょう。しかしそうとはならないのは、。朝永さんをはじめとした科学者たちは、自分の発見や発明を社会に公表したいという欲を抑えることができない人たちの集団だからです。社会や未来や希望や本能など色々な理由を探してきては自己肯定しますが、結局は世間に問うことに変わりありません。

ならばその世間に公表された研究結果は善悪や幸不幸の両方に使用さえてしまうことになります。

原因は科学者の好奇心や知への探求ではなく、それを世間に発表したことです。

 

 

ゲーテ 対 ニュートン   ウォルター・ハイトラー   人間と自然科学的な認識

色彩を帯びた影 と 電波 はそれぞれの方法で解明することはできない。 

色彩論と物理学 この二つを統合する科学が必要である。

 

ニュートン

色とは光によって導かれる現象の一つです。光がなければ色は存在できないのです。

科学が求めているのはこうした普遍の真理です。

 

ゲーテ

色は自然の中にあります。

人間の目を通して景色を眺めるとき、そこに色が立ち現れるのです。

科学は人間のため、人間があってこそ存在します。科学的な真理とは自然と人間の間にあるのです。

 

ゲーテの色彩論 farbenlehre

プリズムで光は色に分かれなかった。色彩を生じさせるためには境界が必要なのだ。

光は闇から生み出される 色はこの二つの境界線の中にある 

 

ニュートンよ、暗室から出て太陽の下で光を見ればいい。

「友よ、暗室を離れたまえ、光を歪める暗室、複雑怪奇な像にひれ伏せるばかり、あの惨めな暗室」

現代でもニュートン光学では分光器によって数値化した後に統合して色を決める

色の研究は人間の目を通して行うべきである。

ファウスト

光は闇から生まれた。母なる闇と光は本家争いをしているが勝ち目はない、何故ならば光は物質にしばられたものだからである。

 

人間の目の仕組み

色彩を帯びた影  夕焼けの時の影が緑色になる。

錐体は色を感じる  (稈体は光の強さ)   赤と白の光線がまじった影は赤色の波長が交じり、これに錐体が反応して、補色である緑や青色を作り出し大脳皮質に信号を送る。

ベンハムのコマ

白と黒色のコマを回すと、色がついているように見える。回転数により色が変わる。

 

二酸化炭素

原始地球の大気中の二酸化炭素濃度は、現在よりもはるかに高かった考えられている。また大気中の二酸化炭素は地球の温度を決める上で重要な役割を果たす。

 主系列星として核融合反応をはじめたころ太陽は、現在の光度よりも25%〜30%程度暗かったという。そしてだんだんと明るくなり、現在の姿になったらしい。大気中の二酸化炭素が現在の濃度だと、暗い太陽のもとでは当然温度も低く、20億年前までは全球凍結(地球表面では液体の水は存在しない状態)になっていなくてはならない。一方、少なくとも38億年前の年齢を示す、堆積岩起源(つまり海があった)の変成岩が存在する。これが、「暗い太陽のパラドックス(逆説)」である。

 一番簡単な解決は、昔は二酸化炭素の濃度は高かったとするものである。そして、太陽の光度が増すにつれ、大気中の二酸化炭素は地殻に固定され、長期的にはじょじょに減っていったのだろう。ただし、かなり大きな「ゆらぎ」もあり、過去に何回か二酸化炭素濃度が小さくなり、全球凍結の時代もあったらしい。また、逆に中生代(恐竜が反映した時代、約2億年前〜1億年前)は、大気中の二酸化炭素濃度が高く、現在よりもかなり暖かかったらしい。 

 大気の変遷の推定例を下に示す。地球の歴史を通じて二酸化炭素(CO2)は減少し、酸素(O2)は増大、アルゴン(Ar)もたまってくる、またちっ素(N2)はそれほど変化がない(結果として現在の地球大気に主成分となる)ことがわかる。

 

Description: Description: http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/taikinohensen.gif

「地球の進化」(岩波地球惑星科学13)の図5.16より作成

 下に、過去6億年間における酸素(O2)と二酸化炭素(CO2)の量の変化の推定例を示す。細かく見ると、酸素や二酸化炭素の量にはかなりの変動があったことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Description: Description: http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/sanso-nisankatansonohenka.gif

「地球の進化」(岩波地球惑星科学講座131998年)の図6.15より作成。

20世紀になってCO2が増えている

20世紀になって地球の気温が上がっている

→だから、CO2が原因で地球の気温が上がる

 

 

 

絶滅率と地質時代

Description: image004

 

 

 

 

 

生命多様性の変化  縦軸は属で単位は1000 横軸は年代で単位は10000

 

Description: Phanerozoic_Biodiversity

 

CmからP 古生代           TからK   中生代  Pgから新生代 

バージェス動物群、アンモナイト

 

Description: Image2362

 

新成紀(新第三紀) Neogene *1  第四紀 Quaternary     

旧成紀(古第三紀) Paleogene *1       

白亜紀 Cretaceous     

ジュラ紀 Jurassic     

三畳紀 Triassic           第一氷河期が終わる

ペルム紀 Permian      

石炭紀 Carboniferous  

デボン紀 Devonian     

シルル紀 Silurian     

オルドビス紀 Ordovician       

カンブリア紀 Cambrian

これよりも前は多細胞生物が生殖し始めた55000年前には属数はゼロだった。

 

 

 

分類

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生き物は変化する  明治以前 日本 名前は変わるもの

人名 魚名

 

 

オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。それはきっと大衆の言動に近いものになる。それよりなにより、そうした科学にとびつくのがまさに大衆だということになるだろう。

 こういう懸念がオルテガに「科学的実験が大衆の増長を促す」という「風が吹けば桶屋がもうかる」式の推測を成り立たせた。オルテガはこの見方に自信をもっていた(ややもちすぎていた)。それは、こうした科学を推進してやまない科学者を「サビオ・イグノランテ」(無知の賢者)と呼んでいることからもうかがえる

 

近代科学の基本的なスタイルはデカルト、ホイヘンス、ニュートンなど17世紀以後に確立されたもの。

物質に対する姿勢とは何か?

人の意識が物質に無関心で、内輪に介入しない間は、物質は堅いままでいてくれる。宇宙のいかなるものも振動しており、それを知性と呼ぶことにした。だからあらゆるものに知性は存在するのだ。

あらゆる物質は周波を発しており、他者がしつこく接近し続けると物質の周波も変化してきます。

物質は人間の感情には関係しないという原理を見つけ出したのではなく、関係ないと思いたがったのだ。

無関心でいたかったのだ。そのための証拠を大量に見つけ出しては理論として構築しようとした。

そう、人は見たいものしか見えないので、感情は物質に影響を与えると信じている人は、その証拠を大量に見つけ出してしまう。生きたものと物質の関係は二つの境界面のテーマなので、科学も関心を抱いてしまう。そしてここが近代以後の人間の傷が疼く場所でもある。

知性は物質に働きかけることができない。できるのは感情と身体だけだ。感情がエンジンとなり身体が接触する。考えるのではなく、感じることに委ねることだ。ニュートンが死ぬほどこれが嫌いだった。

 

 

科学主義の支配

科学と科学主義は別のものであるが、多くの科学者が科学主義者であり、科学と科学主義を混同する。科学者だけでなく、多くの一般の人々も科学主義者であり、「科学の進歩がそのまま人類の幸福を約束するという信仰」

保育園の門をくぐって以来、近代科学の言うところが真であると教えられ続けて来た教育が大きな理由であろう。

 

 

主観客観という思考の枠は、近代になってデカルトが切り開いたもので、現代の科学はこの枠組みの路線の先にある。しかし、デカルトは「われ思うゆえにわれあり」という哲学の第一原理を証明したわけではなく、「神の誠実」(『省察』6)という禁じ手に訴えたに過ぎない。

 主観客観という自分たちの思考枠に引き込み、自分たちが客観的であるからすぐれているというのは、4段階のうちの二つ目で世界をとじようとしている行為である。まず主観客観という思考枠が正しいものであるかを俎上に載せるべきである。そこではじめて、「アリストテレス、ソクラテス、トマス・アクィナス、デカルト」との比較が出来る。

 

 すべての科学は掘り下げると「不可解」という岩盤に突き当たる。それが形而上学つまりは哲学である。科学自体はその無知の大海に踏みとどまっている。しかし、現代は科学主義という「形而上学」に支配されている。科学者は「制度化された科学」、「制度化された価値」の下では、居心地のよい場所を与えられ、安住していられる。だからと言って、科学が真であることにはならない。ソフィストたちはノモス(人為の制度)に迎合することを人間のアレテー(よさ)と考えた。金銭を取り、よいポストを得るための教育をしたのである。

事実判断も価値判断の一つである。

 

一般の人々も漠然と、「宗教→哲学→科学」という進歩の図式を描いているのではないか。

 『進化と人間行動』の「まえがき」もこの「大きな物語」に乗っている。しかし何に対しての進歩なのか?「進化生物学」あるいは特定の個別科学をどんなに究めてもわかるものではない。

 

もう一つの科学主義の典型は、以下のノーベル賞受賞者の主張である。

脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことが出来ると確信しています(『精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』利根川進他、文春文庫)。

この「確信」は利根川の言葉では「訳のわからないもの」、「幻」である。

「客観」は「主観」がなければ無意味なものとなる。科学scientia(知)が成立するにはその舞台、意識 conscientia(共通知)がなければならない。

 しかし、「意識とは端役に過ぎない」(ニーチェ遺稿、1888年春、211158)のであり、意識はより大きな文脈、社会的存在(マルクス)、無意識(フロイト)、構造(レヴィ・ストロース)に依存している。デカルトやカント、現代の教育が前提にしているような、理性的で自律した主体(主観)としての人間などと言うのはフィクションでしかない。

 

諸学問(科学)の範囲が途方もなく巨大化した結果、今日では個々の学者が冷酷な隷役を呪い負わされていますが、これこそが、ゆとりと豊かさと深さの素質を相当に具えた人々までが、もはや自分の身にふさわしい教育と教育者とを見つけられなくなっている一つの主な理由であります。(ニーチェ西尾幹二訳『偶像の黄昏』1888年、2480

 

科学主義者たちは、「語りえないもの」についてもしまりなくしゃべりまくる。海辺で遊ぶ子供の純真さを失い、「真理の大海」をつかんだと放言する。哲学と真理という「かくも尊い二人の淑女」に大変な「非礼」をはたらいている(10497)。

現代の科学者がそれぞれの分野ですぐれているので、「それ以外のたいせつなことがらについても、とうぜん、自分が最高の知者だと考えている」(『ソクラテスの弁明』22d)。しかし、人間にとってのアレテー、「すぐれているということ」は何かが問題なのである。

 

近代科学によって人間は動物に戻ってしまった。古代の人類の教師たちとは逆に、明晰判明な小さな事実にかかわり、「最善ということには考慮」(『ゴルギアス』464d 465a)しなくなった。

「科学が真である」という漠然とした、しかし強固な信念は「神が世界を創造した」と同じく証明されていない信仰である。「科学」が何であり、「真」が何であるかを言わなければならない。

私たちが科学主義者になったのは、自律した主体が事実を検証し、理性的に考えた推論の結果ではない。偶然による。この時代に生れたので、科学の子となったというだけのことである。

 

私の好きな現代科学の比喩は「群盲象を撫でる」(『涅槃経』)である。盲人たちは大きな象の足とか鼻とかの一部分しか触れない。目の見える人は全体を見る。諸科学は盲人であり、洞窟の中の影を見ているに過ぎない。仏陀とは「目覚めた人」であり、洞窟の外に出、全体を俯瞰する。

 

2-3、洞窟の影としての科学主義 

 藤沢令夫(『プラトンの哲学』岩波新書)は「プラトン哲学の『根』にかかわる」、根源的な反対者は現代の「科学主義の支配」だという。これは「プラトン哲学」であると共に「二世界論」の根にもかかわっている。

 科学と科学主義は別のものであるが、多くの科学者が科学主義者であり、科学と科学主義を混同する。科学者だけでなく、多くの一般の人々も科学主義者であり、「科学の進歩がそのまま人類の幸福を約束するという信仰」(『プラトンの哲学』7ページ)を信じている。おそらく小学校の門をくぐって以来、近代科学の言うところが真であると教えられ続けて来た教育が大きな理由であろう。

 

 「日常の行為はすべてその時代の哲学によって支配されている」(岩崎武雄「『無哲学の時代』の根底にも存している哲学」「無哲学の時代」『現代のエスプリ』791974.2)とするならば、名前のない、意識さえされていない哲学があることになる。それはあまりにも強固で当たり前であるために名指す必要がない。哲学がなくなったのではない。逆に、一つの哲学が圧倒的に優勢となり、もはや哲学と名づけられなくなったのが現代である。

 アリストテレスが、「王者の学」「棟梁の学」「第一哲学」を述べた本に名前を付けなかったのに似ている。あまりにも当たり前で名付ける必要がなかった。『形而上学』と名付けられたのは、アリストテレスの300年ほど後にアンドロニコスによってなされた。

 

 哲学と名付けられていない哲学の典型を放送大学の教科書、『進化と人間行動』(長谷川真理子、長谷川寿一)の一ページにも満たない「まえがき」(別掲)に見ることが出来る。

主観客観という思考の枠は、近代になってデカルトが切り開いたもので、現代の科学はこの枠組みの路線の先にある。しかし、デカルトは「われ思うゆえにわれあり」という哲学の第一原理を証明したわけではなく、「神の誠実」(『省察』6)という禁じ手に訴えたに過ぎない。

 主観客観という自分たちの思考枠に引き込み、自分たちが客観的であるからすぐれているというのは、「三位一体」を知らないといって他の宗教を非難するキリスト教のようなものである。まず主観客観という思考枠が正しいものであるかを俎上に載せるべきである。そこではじめて、「アリストテレス、ソクラテス、トマス・アクィナス、デカルト」との比較が出来る。

 

 すべての科学は掘り下げると「不可解」という岩盤に突き当たる。それが形而上学つまりは哲学である。科学自体はその無知の大海に踏みとどまっている。しかし、現代は科学主義という「形而上学」に支配されている。科学者は「制度化された科学」、「制度化された価値」の下では、居心地のよい場所を与えられ、安住していられる。だからと言って、科学が真であることにはならない。ソフィストたちはノモス(人為の制度)に迎合することを人間のアレテー(よさ)と考えた。金銭を取り、よいポストを得るための教育をしたのである。

 事実判断も価値判断の一つである。チスイコウモリが血の貸し借りをし、互恵的利他行動をするかしないか。あるいは蓮舫議員のドレスは何色か。というような事実判断も、考えるに値する、時間を割くに値するという価値判断をしている。

 

 40億年もの間、私たちは二重に回転する(自転し、公転する)地球の上で進化あるいは変化し続けて来た。だから、私たちにとって直線的な時間よりも、輪廻する時間の方が自然である。朝昼夕夜、春夏秋冬、覚醒睡眠、飲食排泄、緊張弛緩など私たちの日常の時間は循環する。初めと終わりのある直線的時間は、創造と終末があるユダヤ・キリスト教的なものである。この世の終りに最後の審判があり、神の国が到来すると言うのである。

 キリスト教が世俗化したものに、ヘーゲル(17701831)、マルクス(18181883)、コント(17981857)などの直線的な進歩史観がある。しかし、今日、歴史が自由を実現していく過程(ヘーゲル)、あるいは人間性(human nature)を回復する共産主義を実現する過程(マルクス)だと誰が考えようか。「大きな物語」は終わったのだ。

 「神は死んだ」、「明日は死ぬのだ。さあ飲み食いしようではないか」(コリントT 1532)ということになりました。

 それに反し、「神学的、形而上学的、実証的」の三段階をたどり進歩するというコントの支持者は案外多いのではないか。確かに実証科学の時代の私たちは、以前より大いに「飲み食い」できるようになった。一般の人々も漠然と、「宗教→哲学→科学」という進歩の図式を描いているのではないか。

 『進化と人間行動』の「まえがき」もこの「大きな物語」に乗っている。しかし何に対しての進歩なのか?「進化生物学」あるいは特定の個別科学をどんなに究めてもわかるものではない。

 

 オーギュスト・コントの人生は結末が振るっている。クロティルド・ド・ボーに恋をし、彼女と死別した体験から「人類教」をつくり、クロティルドは人類教の聖女となり、自らは大司教となる。

 コントが文字に書き表した人類の進歩の大きな物語よりも、彼の体験した恋の物語のほうが更によく人類の未来を「予見」してはいないか。プラトンによれば、恋(エロース)とは「永遠」への憧れであり(『饗宴』207a)、哲学の原動力である。

 

 もう一つの科学主義の典型は、以下のノーベル賞受賞者の主張である。

 

脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことが出来ると確信しています(『精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』利根川進他、文春文庫)。

 

この「確信」は利根川の「精神現象」であり、哲学である。本人の言葉では「訳のわからないもの」、「幻」である。

 利根川はまず「汝自身を知る」べきである。手始めにいちばん近くの自分の「脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究」すべきである。すると自分の脳を研究する「内なる人間」(『国家』589b)が必要となる。その「内なる人間」もまた「内なる人間」を必要とし、無限後退に陥る。

 「客観」は「主観」がなければ無意味なものとなる。科学scientia(知)が成立するにはその舞台、意識 conscientia(共通知)がなければならない。

 しかし、「意識とは端役に過ぎない」(ニーチェ遺稿、1888年春、211158)のであり、意識はより大きな文脈、社会的存在(マルクス)、無意識(フロイト)、構造(レヴィ・ストロース)に依存している。デカルトやカント、現代の教育が前提にしているような、理性的で自律した主体(主観)としての人間などと言うのはフィクションである。

 

 利根川は「私の研究は重大である」という「力への意志」の形而上学を表明したもので、決して科学ではない。この哲学は「偏差値帝国主義」の教育と同根である。

 「ノーベル賞受賞者30人などという、さもしい『国策』」(村上陽一郎『学鐙』2002.3「科学・技術の歴史のなかでの社会」)は科学主義の教育から生え出ている。現代はさもしい教育がさもしい人間を再生産しているさもしい時代である。

 

諸学問(科学)の範囲が途方もなく巨大化した結果、今日では個々の学者が冷酷な隷役を呪い負わされていますが、これこそが、ゆとりと豊かさと深さの素質を相当に具えた人々までが、もはや自分の身にふさわしい教育と教育者とを見つけられなくなっている一つの主な理由であります。

(ニーチェ西尾幹二訳『偶像の黄昏』1888年、2480

 

科学主義者たちは、「語りえないもの」についてもしまりなくしゃべりまくる。海辺で遊ぶ子供の純真さを失い、「真理の大海」をつかんだと放言する。近代人のヒュブリスは、哲学と真理という「かくも尊い二人の淑女」に大変な「非礼」をはたらいている(10497)。

 

 現代の科学者がそれぞれの分野ですぐれているので、「それ以外のたいせつなことがらについても、とうぜん、自分が最高の知者だと考えている」(『ソクラテスの弁明』22d)。しかし、人間にとってのアレテー、「すぐれているということ」は何かが問題なのである。

 

現代に必要なのは、「客観的なデータ」とか「脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究すること」ではなく、キルケゴールのいうように「一人のソクラテス」(『死に至る病』)である。

2400年前にソクラテスが脱獄しなかった理由は、本人がそれを「正しい」「最善のこと」と考えたからで、ソクラテスの体の肉や骨や筋によって説明できるものではない(『パイドン』98)。だからこそ2400年後の今日でも教育者ソクラテスは真の教育者であり続けているのである。

 

 近代科学によって人間は動物に戻った。古代の人類の教師たちとは逆に、明晰判明な小さな事実にかかわり、「最善ということには考慮」(『ゴルギアス』464d 465a)しなくなった。

「科学が真である」という漠然とした、しかし強固な信念は「神が世界を創造した」と同じく証明されていない信仰である。「科学」が何であり、「真」が何であるかを言わなければならない。

私たちが科学主義者になったのは、自律した主体が事実を検証し、理性的に考えた推論の結果ではない。日本生れのものが米を常食とし、17世紀のイタリアに生れた者がキリスト教徒となったのと同じ理由である。つまり偶然による。この時代に生れたので、科学の子となったというだけのことである。

 

 哲学の第一の要件は、科学、「分科した学」ではないということである。哲学は諸科学の「学科相互の間の内的な結びつきと同族的な関係とを」「総合的な見地から」(『国家』531d)、「全体として」(491c 537c)把握する。 

 ある科学が学ぶに値するか?否か?ということは当の科学によって判断できない。学校のカリキュラムあるいは大学での科目編成が、学ぶに値することのリストであるとするなら、それぞれの科目によって学ぶに値するかどうかの判断は出来ない。それはメタレベルの「総合的な見地から」、「全体として」つかんだ哲学によってなされる。ただし、今日その哲学は哲学と名指されることはない。

 

 私の好きな現代科学の比喩は「群盲象を撫でる」(『涅槃経』)である。盲人たちは大きな象の足とか鼻とかの一部分しか触れない。目の見える人は全体を見る。諸科学は盲人であり、洞窟の中の影を見ているに過ぎない。仏陀とは「目覚めた人」であり、洞窟の外に出、全体を俯瞰する。

 

マッハとフッサールの“知の戦争”を、その後に誰かが本格的に研究したという例をぼくは寡聞にして知らないのだが(広松渉を除いて)、ここには恐るべき暗示が含まれていた。それは「科学がつくった“意味”はどこからあらわれるのか」という問題をめぐる。フッサールの本をとりあげるときに、このことについては一言ふれるつもりである。
 ともかくも、こうしてマッハの教科書『力学』は意外な高揚を見せたところで、大団円を迎える。
 読者に残されたのは、ニュートンの質量定義がおかしいという指摘、絶対時空といった観測の手掛かりがない発想を物理学から排除する姿勢、原因と結果ではなく、そのあいだの関係関数が重要だという予告と、そして「模写と予写の原理」ならびに「フッサール論理学との対決」である。

マッハはあきらかに力学に関するニュートン以来の革命家であって、アインシュタインの先駆者であり、またゲシュタルト心理学の最大の冒険者であって、科学と思想と経済を初めて結びつけた最初の計画者であった。

 

<進歩>とは、その利点だけを見れば結局、機械仕掛けの大人向け玩具がおびただしく氾濫することだと考えられてきた。大人たちはそれを利用することで、子どものときに禁じられていたこと―― まだ背が低いから、力が弱いから、知力が不足しているから、性的に未成熟だからといった理由で、また、両親の権威、社会生活の規則や禁忌、その文化や宗教のせいで禁止を受けていたこと―― ができるようになるわけである。
技術の変革によって私たちに押しつけられるようになったもののほとんどすべてが、≪禁止に対する禁止≫――あらゆる大人にとって、かつての子ども時代を演出していたもの――という名目のも とで行われてきたと言ってよいだろう。
<
進歩>の信奉者たち――巨人になりたいと思い悩む危険な小人たち――はそれゆえ、科学的に素朴な<世界観>を抱くようになるだろう。その<世界観>においては、実証主義がニヒリズムの、発展が 衰退の隠れ蓑(ミノ)になる。こうしてしつこく駄々をこねつづける幼児に満足がもたらされることになるのだ。

科学的全体主義にとって未来はプロパガンダである。なぜなら、プロパガンダとは忠誠のプロパガンダ――信仰を広めること――であり、進歩はまさに方向感覚を失った盲信にほかならないからで ある。かつて地球上のあらゆる人類にとって一切の現実の起源であったのは<神による創造>である。だがいまやこの進歩という盲信は、人間の肉体を嫌悪し、容赦なくそれを<神による創造>の埒外へと物理的に放逐してしまおうと邁進するのである。≪進歩とは、いわば加速することである≫。

 ヴィリリオは、進歩は悪いものなので昔の生活に戻そうと言っているのではない。進歩のいい面に比べ悪い面に光が当たりにくい傾向があるので、あえて悪い面ばかりを強調する。その上で、人類が進歩を盲信することなくじっくり考慮を重ねながら未来へ向かうことを願っているのだ。

科学を多用して他者を説得する人は、「固まってしまった条件反射」が多い人?

話をする時に、やたら科学的データを多用して説得する人がいる。そんな人たちに多く会っていると彼らの共通点に気がついた。それは自意識を大切にし、理念をたくさん持ち、条件反射が多いことだ。面白いのは三つ目の条件反射だ。梅干を見ると唾液が出るように、意識によって対象物を分析するよりも早く、体が自動的に反応しているシステムだ。このおかげでいろいろなことを考慮せずにすぐに行動することが利点だ。しかし弱点も多々ある。状況の変化に対応できないという「固さ」だ。時にはこれが命取りになる。

 

科学というのは、ある条件の時に通用する法則を見つけることでもある。ここで肝心なのは「ある条件」ということだ。ボールを投げると描く放物線も地球の重力の条件が関わっているので、地球という条件が変わると方程式も変化する。水を沸騰させても100度にならないのは気圧という条件が関わっているからだ。

全ての科学の因果関係は、ある条件のものでしか成立しない。しかしそれでは人を説得するときには弱すぎる。そこでこんなデータがあると言って科学のデータを表示して自分の正当性を主張しようとする。

このデータの使用法は「ある条件の下(もと)では」というはじめの部分をカットして、固まった因果関係だけにスポットライトを当てている。

あれっ、これって、どこかで見たやり方じゃない。そう、梅干を見るだけで唾液が出てきてしまうという条件反射と仕組みが似てはいないだろうか?

状況を吟味するのではなく、一つの情報だけで決まった結論に結びつけるという回路はどちらにも共通している。この二つを結びつけることに対する信頼は篤い。独断的で、自分勝手で、無意識でオートマチックだ。こちらが、あなたのデータ(因果関係)はある特別の条件の時にしか通用しませんよ、と言っても自分のデータと論理性の正しさがわからないのか、この馬鹿め、と思っているかのように、こちらの声は聞くことがない。

そんなにそちらの正しさを強要されてもこちらはどうすることもできませんよ、と言っても、頑固な固執主義者めと思われているかのように扱われる。

 

ここで改めてデータ主義者のことを考えてみる。どうしてそこまでデータのことを大事にするのだろう、条件が変わればデータも変化するのに。

あれっ、もしかして自分の条件反射をちゃんと見てないんじゃない?自分のクセに気がついていないんじゃない?自分の無意識の行動を冷静に見る訓練をしていないんじゃない?

 

そして、条件反射を自分で変えることを学ぶのが、自分の体のためであるし、宇宙の原理や自然の摂理に近づくことだ。