仏教の宗派
小乗仏教(上座部仏教Theravada[テーラーヴァーダ])とは分別説部大寺派(Mahāvihāravāsin)のこと
釈尊ご入滅後、幾ばくかの時を経て形成されていった部派仏教(Sectarian Buddhism)と現在呼ばれる仏教諸派の中でも、特にセイロンに展開し、往古にはそこから南インドまで教線を伸ばしていた、分別説部(Vibhajjavādin)という部派があります。この部派は現在一般に、上座部(Theravada[テーラーヴァーダ])と自称し、また通称されています。
セイロンの伝説では、セイロンに伝わった上座部とは、仏滅後236年の北インド・ガンジス川中流域すなわち仏陀がご活動されていた主な地域から、インドを始めてほぼ統一した大王アショーカ王の王子の一人で比丘のマヒンダという僧によって、直にセイロン島に伝えられたものである。それは、仏滅後100年に僧伽が分裂して誕生した根本の上座部そのものであり、現在にいたってもなおその当時のままを全く伝える純粋無垢の仏教である、などと云われます。
しかし実際は、この上座部と現在通称とされる部派は、おそらく北インドからではなく西インドからセイロン島に伝わって、むしろここで成立・発展したものです。
それがセイロンにて三派に分かれ、それぞれ千年近くもその勢力ならびに王族からの支持獲得をめぐって争っていたうちの一派である大寺派が、いま上座部と呼ばれるもので、現存する部派で唯一のものです。けれども往古のセイロンにおいて、長い間優位に立っていたのは別の無畏山寺派(Abhayagirivihāravāsin)や、分別説部以外の派または大乗の派などであったようです。
しかし、大寺派の僧Sāriputta[サーリプッタ]が、十二世紀末に時の王の支持と後援を取り付けたのを機として、王権の威をもって島内から自派以外を徹底的に排除する大粛清を計ります。その結果、唯一島内に存しえることになったのが、大寺派(Mahāvihāravāsin)でした。その頃、本土たるインドの仏教は、インドへのイスラム教徒の侵入などによってまさに滅びようとしていた時です。
さて、この大寺派の教義の大綱をよくまとめている概論書に、Abhidhammatthasaṅgaha[アビダンマッタサンガハ]というパーリ語で記され、伝えられてきた書があります。
これは、十一世紀のインドの学僧Anuruddha[アヌルッダ]によって著された比較的新しい書ですが、簡にして要を得た非常に優れたものです。いやむしろ、この書によって現在の分別説部大寺派の教学が大成された、とすら言えるもののようです。
以来、分別説部大寺派の教学を知ろうと志す者は誰であれ、まず必ずこの書から学ばなければならないと言える程の必須の入門書となって、分別説部が伝えられてきた国の内では、特にビルマにおいて今も常識的に学ばれています。この書はまた、近現代の日本の文献学者によって『摂阿毘達磨義論』と訳されており、そのように呼称される場合もあります。
分別説部における「無我」の理解 ―人空法有
さて、仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦という四つの句を、仏教の仏教たる所以、その教えの核・世界観の要を表す言葉として用いてきました。
この世の一切は「無常」であり、ならば、その故に我々の経験する全ては畢竟「苦」である。であるならば、我々が我・我が物と思っている諸々のモノはどこまでも不如意なる「無我」あるいは「非我」であって、実際それは真であると。しかし、それらを全く真であると知り抜いて、それに則った生活を送った時には、そこに涅槃という、一切の心的苦しみから離れた平安なる境地がある。その時には、人は再び生まれ変わって苦を受けることがない、という言葉です。
分別説部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(atta)なるものなども存在しない、故に「無我」(anatta)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、究極的には四つの範疇に分類されるモノが実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
現在の分別説部では、そのような究極的実在を、パーリ語でparamattha[パラマッタ]と呼称します。その意味は、parama(第一の・勝れた)+attha(本質)で、漢訳語ではこれを「第一義」あるいは「勝義」などと言います。あるいは、それら究極的実在を、vatthudhamma[ヴァットゥダンマ]などとも呼称します。これはvatthu(拠り所・基礎)+dhamma(存在)で、いわば存在の根拠、要するに実在するモノのことです。
さて、ではその四つとはなんであるか。これを簡潔に表にして示せば、以下のようなものです。
究極的実在 ―分別説部大寺派(上座部)説 |
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- |
名目 |
意味 |
法数 |
paramattha |
citta |
こころ。精神活動の主体となるもの。 |
1 |
cetasika |
こころの働き。必ずこころと伴って働く作用。 |
52 |
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rūpa |
もの。物質の本質。物を成立させている構成要素。 |
18 |
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nibbāna |
渇愛(飽くことなく欲してやまない欲望)から離れ、何ものからも束縛されず自由な実在する世界。 |
1 |
これら四つの範疇に属するいちいちの法はすべて真に実在するのであり、これ以外の実在を認めるのは誤りである、というのが分別説部における見解です。
現在、俗世間では一部に、何を根拠にその様に言うのか知りませんが、「上座部は小乗ではない」・「小乗では無かった」などと主張する一類の人々があります。
しかし、上に見たように、個我は実在しないけれども、しかし何事か真に実在するものが有るという見解を建てている以上は、これを大乗では「人空法有[にんくう
ほうう]」などと云うのですが、まさしく大乗から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされ、称された教え以外の何物でもないことになるようです。
また、現存する諸部派の成立についての伝承や、それらに対する大乗の見解を記した典籍からしても、多く分裂してその見解の是非を競っていた諸部派は、大乗から小乗と呼称されたものです。
であるとしても、しかし、それら部派の教義・教学体系には見るべきもの、学ぶべき有益な事柄が多くあります。実際、大乗の諸学派はそれら部派を小乗と呼びながらも、しかしそれら(特に説一切有部・経量部・大衆部・犢子部など)を学ぶことは必須のものでした。
実際、大乗であろうが小乗であろうが、いずれも仏陀釈尊という清泉より涌出し、連綿と流れ来たったものです。そこから汲む水は、その広狭・浅深こそあれこれを散ずれば、等しく人を、世界を潤わせ涼やかにする有益なものに相違ありません。
.分別説部の心所説一覧表
Abhidhammatthasaṅgaha(『摂阿毘達磨義論』)の心所説
ここでは特に、先に挙げた第一義とされる四つの範疇のうち、五十二法数えられている心所に焦点をあて、これを表にして列挙したものを以下に示します。
この部派の典籍は、過去の支那においてほとんど漢訳されることの無かったものであり、ここで依用するAbhidhammatthasaṅgahaも過去に漢訳などされたことのないものであるため、まずはパーリ語原名を示しています。しかし、それだけでは一般に意味不明で、また非常に不便であるために、[]内に各語に該当する漢訳語を併記しました。
けれども今述べたように、これは過去に漢訳された経験のないものであるため、[]内に示している訳語は、その他の部派などから該当する訳語を借用しているものです。しかし、分別説部にはあって他部派には無い、この部派独特の術語がいくつかあるのですが、その場合は便宜的に『南伝大蔵経』などで使用されているものを、適宜に用いています。
さらに併せて、それぞれ心所の作用、意味内容をも簡潔に記しています。これら心所の一々の名目は、原則として経典にある言葉であるために他部派とほとんど同様ではあるのですが、時として部派によってその心所の定義などが異なり、故に意味内容が相違しています。必ずしも他の部派と同じ内容のものでないことを注意しなければなりません。
Abhidhammatthasaṅgaha(分別説部大寺派)の心所説 |
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- |
心所の分別 |
心所の名目 |
作用・意味 |
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cetasika |
aññasamāna |
善・不善など、その心所の性質の異同(aññasamāna)に関せず、それらと同調して生起する心の作用。 |
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sabbacitta |
すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に、共に生起する、心の基本的・根本的作用。 |
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phassa |
刺激。感覚器官と対象と認識とが相応して生じる働き。 |
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vedanā |
感受・感覚。心身の苦・楽・不苦不楽いずれかを感じる働き。 |
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saññā |
表象。感覚した対象の形象、例えば男女など、その差異を知る働き。記憶。 |
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cetanā |
意思。表象した対象を知り考える、心の主たる働き。 |
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ekaggatā |
集中。定めた認識対象から、意識をそらさず集中する働き。 |
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jīvitindriya |
寿命。心と心所を維持・存続する働き。精神活動を支える働き。 |
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manasikāra |
喚起。心を覚醒・揺動させ、感覚する対象に引きつける働き。気づき。 |
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pakiṇṇaka |
浄心・不善心のいずれにおいても、雑多(pakiṇṇaka)に生起する心の作用。 |
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vitakka |
思考。知覚する対象について、漠然と考える働き。 |
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vicāra |
思惟。知覚する対象について、細かに考える働き。 |
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adhimokkha |
確認。知覚する対象を、それが何である、と確定する働き。 |
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vīriya |
努力。目的を達成するため挫けず、努めて行為し続けようとす働き。 |
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pīti |
愛好。知覚する対象を、好み喜ぶ働き。 |
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chanda |
意欲。何らか行為しようと求める働き。 |
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akusala |
不善(akusala)なる心と倶に生起する作用。むしろ心を不善にする働き。 |
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moha |
愚痴。認識する対象について無知である働き。 |
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ahirika |
悪を為すことに自ら恥じない働き。 |
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anottappa |
悪を為すことに他に対して恥じない働き。 |
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uddhacca |
躁。心をして騒がしく、落ち着かせない働き。 |
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lobha |
貪欲。知覚する対象に執着し、さらに欲する働き。 |
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diṭṭhi |
邪見。ものごとを、真実に反して理解する働き。 |
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māna |
傲慢。心をおごり高ぶらせる働き。 |
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dosa |
怒り。自・他の人・物事に対して怒る、衝動的働き。 |
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issā |
嫉妬。他の成功・優勢・徳性・長所などについて、不快を催す働き。 |
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macchariya |
吝嗇。己の保持する財産・法を物惜して、他に施そうとしない働き。 |
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kukkucca |
過去に為し、又は為さなかった善・悪の行為を追憶し、後悔する働き。 |
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thina |
鬱。心身をして鈍重に、沈み、塞ぎ込ませる働き。 |
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middha |
心を惚けさせ、不活発にさせて、対象の把握を不明瞭にする働き。 |
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vicikicchā |
疑惑。四聖諦、因縁生起・業果三宝について確信せず、迷う働き。 |
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sobhana |
浄らかな(sobhana)心においてこそ生起する作用。必ず常に生起する作用と、そうでないものとがある。 |
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sobhana |
すべての浄らかな(sobhana)心と倶に、常に生起する作用。 |
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saddā |
三宝・因業・輪廻などを信じる働き。 |
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sati |
(「善なるもの」を)心に留めて忘れない働き。 |
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hirī |
悪を為すことに、自ら恥じる働き。 |
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ottappa |
悪を為すことに、他に対して恥じる働き。 |
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alobha |
知覚する対象に執着せず、さらに欲しない働き。 |
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adosa |
己の意に反する対象に対しても怒らない働き。 |
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tatra- |
落ち着き。心と心所の均衡を保つ働き。 |
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kāya- |
受・想・行蘊の集まり(kāya)即ち心所、また身体を、安らかとする働き。 |
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citta- |
心(識蘊)を安らかとする働き。 |
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kāya- |
受・想・行蘊の集まり、即ち心所、また身体を、軽やかとする働き。 |
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citta- |
心を軽やかとする働き。 |
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kāya- |
受・想・行蘊の集まり、即ち心所、また身体を、柔軟とする働き。 |
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citta- |
心を柔軟とする働き。 |
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kāya- |
受・想・行蘊の集まり、即ち心所、また身体を、滞りなく作用させる働き。 |
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citta-kammaññatā |
心を滞りなく作用させる働き。 |
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kāya- |
受・想・行蘊の集まり、即ち心所、また身体を、善く練り整わせる働き。 |
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citta- |
心を善く練り整わせる働き。 |
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kāyujukatā |
受・想・行蘊の集まり、即ち心所、また身体を、正直とする働き。 |
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cittujukatā |
心を正直とする働き。 |
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virati |
十悪のうち最初の七悪の禁断・抑制(virati)のある心と倶に生起する作用。 |
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sammā- |
妄語・綺語・悪口・両舌の言語に関する四悪を離れ、正しい発言・言葉遣いをさせる働き。 |
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sammā- |
殺生・偸盗・邪淫の身体によって行われる三悪を離れ、正しい行為・振る舞いをさせる働き。 |
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sammā- |
身体と言葉の七悪を離れた職業に従事させる働き。職業に関する作用。 |
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appamaññā |
その対象とその数を限定しない(appamaññā)心と倶に生起する作用。 |
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karuṇā |
苦しみのうちにある不幸な生命あるものを憐れむ働き。 |
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muditā |
喜びのうちにある幸福な生命あるものを随喜する働き。 |
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paññā |
ただ「識る」のでなく、またただ「知る」のでなく、物事の本質を見通し知り抜く作用。 |
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paññindriya |
般若。ものごとの真実なる姿、本質を知る働き。 |
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これら分別説部の心所説は、分別説部の阿毘達磨を学習するものであれば、まず必ず全て記憶して置かなければ、どうしてもならないものです。それにはパーリ語ならびに漢訳語とその意味を完全に記憶し、そして出来るならば英訳語も知っておくのが望ましいでしょう。
それを難しいとか多すぎてとても無理などと、それに取り掛かる前から不平を言う人が多くあります。が、たとえば生活・収入に直接関しない娯楽のこと、たとえば映画や歌、本のタイトル、俳優や歌手、著者の名前などかなり多く記憶することが当たり前に出来ている者であれば、誰でも出来ることです。本当に興味があり、これを知りたいという欲求があるならば、それほど困難なことではないと思われますが、どうでしょうか。
といって、実際のところ、最初はパーリ語の、日本語からすれば奇異な発音、そして漢字一文字などで表される術語に慣れるのに一苦労となるかも知れませんけれども。しかし、やってみれば案外大して難しいことでないことに気づくことでしょう。
小比丘覺應(慧照) 拝識
1.セイロンにおける伝承
『島史』と『大史』 ―セイロンの叙事詩が伝える部派分裂
現在、東南アジアならびに南アジアに根付き伝わる仏教の一部派の歴史を伝える書のなかに、セイロン(スリランカ)としては最古の、編年史の体裁をもって綴られた叙事詩Dīpavaṃsa[ディーパヴァンサ](『島史』)があります。
パーリ語によって記されている『島史』は、紀元4世紀後半から5世紀初頭にかけて作られたもので、作者は不明です。基本的に『島史』は、セイロンの王統が綴られた叙事詩であって、仏教の歴史書などではありません。しかし、その王統の正当性を、「仏教の守護者」に根拠して主張するためでしょう、仏教について多くの項を裂いています。
よって、これは同時にセイロン仏教の史書として捉えることも出来ます。実際、この書の冒頭から、ブッダの簡略な生涯と、仏滅後の結集ならびに部派の歴史、Asoka[アソーカ](パーリ語の綴りに依る。サンスクリットではAśoka[アショーカ]で一般的に用いられるのはサンスクリット名)王が仏教に帰依してその息子と伝えられるMahinda[マヒンダ]がセイロンに送られて仏教を伝える経緯などが描かれ、そして初めてセイロンの諸王の事績が綴られ始めます。
『島史』によれば、ブッダはその在世中に、セイロンに三度飛んでやってきたといいます。
また、この『島史』につづく王統史に、Mahāvaṃsa[マハーヴァンサ](『大史』)があります。これは『島史』を踏襲し、さらにさまざまな伝説・伝承が加えられ、5世紀末から19世紀初頭までのセイロン史が記されてきた書です。幾世代にもわたり、セイロンの僧侶らによって綴られたものであって、セイロンの分別説部大寺派の立場からの歴史書と言えるものです。すべての歴史書がそうであると言えるように、相応に脚色されています。
『大史』には、『島史』が記述している時代で『島史』では一切触れていなかったこと、あるいは軽くしか触れていないことについて、詳細に記述している点などが、特に自派の正当性を主張する下りにて多々見られます。
『島史』ならびに『大史』は、現在上座部と一般に言われているスリランカ発祥の部派、すなわち分別説部大寺派において、現在も最も信頼され、依用されている基本的な史書となっています。実際、この部派での伝承は、ほとんど全面的にこの書に基づいており、ほとんど全てにおいて間違いがないものとして受け入れられています。また、現代の西洋の学者や仏教徒なども、もっぱらこの書の記述に従って仏教史を語る場合が多くあります。
第二結集 ―ヴァッジプッタの十事
まず『島史』は、第二結集はまさに仏滅後ちょうど100年、Vesālī[ヴェーサーリー](毘舍離)のVajjiputta[ヴァッジプッタ](跋闍子)が十事を主張したことによって、Kālsoka[カーラーソーカ](訶羅育)王の仲裁のもと行われたとしています。
この話は、非法と目される律に関する十項目がヴェーサーリーにて行われていたのを、正式にサンガとして非法であると決定し「律の結集」を行ったとする、現存する全ての律蔵に伝えられる記述に対応するものと考えて間違いないものです。
しかし、これについて王が仲裁に入ったなどとの記述は律蔵には全く見ることが出来ません。また、諸律蔵にはそれが律結集であると明言しているものの、「法と律との結集」をなしたなどとは言われていません。現存するすべての律蔵がわざわざ「律結集」と言っているので、法についての結集など、まず間違いなく行われなかったのでしょう。
また、律蔵では全くこのような非常に重大な事項に触れていないので、ここに不審を覚えてしまうのですが、この結果、十事を主張した比丘達は当地のサンガから放逐され、彼らは自身達でまた別の結集を直後に行ったと、『島史』では記しています。それら放逐された比丘たちは、第一結集にて合誦された律とアビダルマ、ジャータカなどの一部を除いてすべて改変した、とも伝えています。そして、この時成立したのが大衆部であるといいます。
実際、大衆部の律蔵『摩訶僧祇律』は、現存する『十誦律』や『四分律』、「パーリ律」など上座部系の諸律蔵と比すると、その内容が異なっているというのではなく、その構成がまったく異なっているという特色があります。
また玄奘三蔵は、インド求法の記録『大唐西域記』において、ラージギルの近郊で大衆部が結集を行ったと伝承されている地を通り過ぎ、これを記録しています。大衆部が独自の結集を行ったという伝承が、少なくとも『島史』が記された四から五世紀のセイロン、そして玄奘三蔵が渡天した七世紀中頃の北インドにおいてあったのは間違いありません。
さて、この結集のおり、上座部の長老達は、この結集の118年後(すなわち仏滅後218年後)にMoggaliputta Tissa[モッガリプッタ ティッサ]なる者が現れ、サンガの分裂(教法の破壊)を防ぐこと、Pātaliputta[パータリプッタ](巴連弗:現在のビハール州都Patna[パトナ])にAsoka[アソーカ]なる王が現れ、全インドを統治すること等、非常にこと細かく予言したとしています。
その内容とは、この結集の後100年の間に、大衆部は次々に分裂し、計六部を形成。対して上座部も大衆部が分裂した後に分裂し、十一部を形成。それぞれが同様に第一結集にて合誦されたものを改変し、ここに正統なる上座部と、不当・非法なる十七部の、計十八部が形成される、といったものです。
第三結集・・・?
セイロンの伝承、すなわち『島史』と『大史』との伝承によれば、サンガは仏滅後100年から200年の間に十八部に完全に別れたとしています。
そして、第二結集において長老らが予言した通り、アソーカ王の即位後(即位17年・仏滅後235年)に、仏滅後三度目となる結集が行われたといいます。
その理由は、アソーカ王という強大なパトロンがついて経済的に相当豊かとなった仏教のサンガに対し、民衆の支持を失って貧しくなったジャイナ教など異教の者が「生活のため」に面従腹背して出家し、これを仏教では賊住比丘と呼ぶのですが、ためにサンガが乱れたためであったといいます。
この時に行われた結集は、長老モッガリプッタティッサの主導によって、そして「仏教とは分別説である」という定義のもとに行われたのだといいます。このことについて、いくつかのパーリ仏典の注釈書やセイロンの史書(『大史』)などには、このようなやりとりがアソーカ王と長老との間であったと伝説しています。
‘‘kiṃvādī, bhante, sammāsambuddho’ti? ‘‘Vibhajjavādī, mahārājā’ti. Evaṃ
vutte rājā theraṃ
pucchi – ‘‘vibhajjavādī, bhante,
sammāsambuddho’ti? ‘‘Āma, mahārājā’ti.
(大王は尋ねた)「大徳よ、正等覚者(仏陀釈尊)はどのような見解をもっていたのでしょうか?」
「(正等覚者は)分別説者(Vibhajjavādī)である、大王よ」
このように言われて、王は上座に尋ねた。―「大徳よ、正等覚者は分別説者なのですか?」。
(長老は答えた)「そのとおりです、大王よ」と。
Kathāvatthu-aṭṭhakathā, Nidānakathā
[日本語訳:沙門覺應]
このようなことから、多くの異比丘が混じりこんで異見噴出していたサンガを浄化し、結束させるために、Vibhajjavādin[ヴィバッジャヴァーディン](分別説部)として法(経と論)と律の結集を行ったのであるといいます。
現在、第三結集といわれているものです。
無論、これは、アソーカ王の時代にサンガが完全に分裂し、しかも分裂したサンガがそれぞれ多くの部派を形成して別個の教学を保持していた、分別説部という部派もすでに成立してあった、という前提あってこそのものです。
いずれにせよ、何故に現在上座部と自称し通称される部派が、正確には分別説部と云われるかの根拠は、アソーカ王の師であったとされるモッガリプッタティッサが、仏陀をして「分別説者・分別論者であった」と断定したという、セイロンでの伝説によるものです。
さて、この時、三蔵所収の典籍として最後に記述されたのが、Kathāvattu[カターヴァットゥ](『論事』)であるといいます。この書は、分別説部以外の仏教諸派の諸説を邪説であると論難している書で、セイロンの伝説ではモッガリプッタティッサによって編まれたものであるとされています。
なお、先に引いた王と長老とのやり取りの一節は、その『論事』の注釈書において記されているものです。しかし、これがその折に著されたものであるとするならば、なぜそのことが『論事』自身には書かれず、かなり後代に著された注釈書にしか記されていないのか、というのは不審な点です。パーリ仏典の注釈書類は、五世紀のセイロンにて「再編集」されたものと伝説されています。
さて、そして、この時の結集において編纂された経律論の三蔵すべてが、現在にいたるまで全く何の変更・改変も加えられずに伝えられている、というのがセイロンにおける伝説、ならびにこれを受け継いでいるセイロンの分別説部ひいては南方の諸仏教国での伝説です。
これ以降、さらに六部がインドにおいて分裂したといいますが、ただその名を挙げ連ねるだけで、どの部派からどう展開したかは述べられていません。そしてまた、より後代に著された『大史』には、セイロンにてさらに二部が分裂したといい、これについては一応、どのように派出したかが説かれています。
すなわち最終的には、サンガは都合二十六部の部派にまで分裂したことになります。
アソーカ王
セイロンの分別説部の所伝と、説一切有部との所伝とで大きく異なる点、それはアソーカ王の即位年代と第三回目に行われたという結集についての伝承です。
まず、セイロンの伝承ではアソーカ王は仏滅後218年に即位したというのに対し、説一切有部の伝承では仏滅後116年であるといい、ここに102年の開きが見られます。
ちなみに、この102年というのは、仏陀がいつ亡くなられたのか、すなわち仏滅年とさらには降誕年を決定するのに大きく関わるものです。
なんとなれば、仏滅後の年代によって、古代インドにしては(大変珍しいことに)比較的その年代が正確に把握できるアソーカ王の在位年代から、仏滅の年を逆算することが可能であるためです。現在、アソーカ王の在位は、おおよそ紀元前268頃から232頃であったろうと推定されています。
これはアソーカ王がギリシャや中東の諸国との交流があったことに依って、考古学者・文献学者らによって算定されているものです。
第三結集なるものを主導したという、モッガリプッタティッサによって仏教を教授されたのが、セイロンに仏教を伝えたという、アソーカ王の息子Mahinda[マヒンダ]であると言います(7世紀前半にインドを訪れた玄奘三蔵は、マヒンダはアソーカ王の息子ではなく弟であると、その著『大唐西域記』にて報告しています)。
セイロンの伝承でここに行われたという結集は、現在一般に第三結集と言われますが、しかし有部やその他の部派の伝承にはこの結集があったことがまったく認められません。かわりに有部では、第三回目の結集はより後代のカニシカ王のもとにて行われたと言い、分別説部ではこれを知りません。双方の伝承における大きな相違点です。
また、有部やその他部派の伝承では、アソーカ王が師事した長老は、モッガリプッタティッサではなくUpagupta[ウパグプタ](憂婆麹多)尊者の名を挙げている点も相違している点です。しかし、この二人は同一人物であったとみる学者が現在あります。実際、この二人の生涯についての伝承には相似する多く点があって、そう見ることを一応可能としています。
しかしながらそうすると、では何故に有部は、分別説部が「あった」と主張するところの第三結集についてまったく関知していないのか、なぜその重大な事件を伝承していないのかという疑問が起こるので、これをただちに同一人物とみなすことは出来ません。
現在のインド学・仏教学の文献学者などは、第三結集について特に物的証拠もなく色々と疑義があるとしても漠然とこれをあったものであると考えています。しかし、そもそもセイロンの分別説部がいう、(彼らの言う結集自体が全く虚偽とまではせられなくとも、)第三結集なるものがアソーカ王のもとに行われたという伝承自体は甚だ怪しく感じられるものです。
また、もし仏滅後235年という比較的早い時期に第三結集なるものが開かれ、その時には多くの邪説を信奉する派があり、そして自身たちの説・伝承こそがまったく「清純・正統である」などと考えていたならば、何故に第二結集同様、そのことを律蔵などに記録しなかったのか疑問を残します。
セイロンの伝承に従えば、これは第二結集から連なる問題であり、また仏滅後・そして第二結集後それほど時を経ていないこの時に、いわば邪教徒を排除すべく、その「清純」なる法と律との結集を大々的に行ったと言うのですから、これをその律蔵に記述してもまったく問題がなかったことのように思われるからです。
まず、その時に教団が十八にまで分裂していたということは、まずアショーカ王の碑文などからして考えられないことです。
次に、それが王の庇護のもとパータリプトラにおいて行われていたならば、現在残されているアショーカ王の碑文にこれを記録あるいはそれを匂わせるような記述すらまったくない点、もしくは支那から渡天した諸々の支那僧が中インドに滞在中そのような伝承をまったく伝え聞いて記録していないという点も、不審に思わせる点です。
さらにまた、何故そのことが中インドから遥か遠方にあるセイロンでのみ言われていることで、インドならびにチベットの他の書に記されていないかもまったく怪しむべき点です。
分別説部の英雄 ―Buddhaghosa
5世紀中頃、インドよりセイロンに来島し、セイロンの分別説部大寺派の三蔵ほとんどすべてに渡って注釈を施したとされる大註釈家、Buddhaghosa[ブッダゴーサ]という大徳があります。
『大史』には、13世紀のDhammakitti[ダンマキッティ]王によるというブッダゴーサの生涯が記されています。それによると、彼は、セイロンのMahanama[ナハーナーマ]王の統治代すなわち5世紀初頭に、中インドはマガダ国ブッダガヤーのすぐ側に居を構えるバラモンの家に生まれたと言います。
若くして3つのVeda[ヴェーダ](吠陀)に通じる抜きん出た秀才でこれを鼻にかけていたものの、Revata[レーヴァタ]という大徳の教化によって仏教の比丘として出家し、その薫陶を受けます。やがてレーヴァタは、セイロンにこそ、インドでは散佚しまった三蔵ならびに正統なるAṭṭhakatā[アッタカター](注釈書)が伝わっていると、ブッダゴーサに言ったといいます。
しかし、それはマヒンダ長老がセイロンを開教したした折、手ずからすべてセイロンの言語であるシンハリーズに翻訳されており、もはやインドでは受け入れがたいものである。故に、セイロンに赴いてこれを「再び」マガダ語に翻訳して持ち帰るように、との使命を与えます。これを受け、ブッダゴーサはセイロンに向かったのだ、とされています。
セイロンに入ったブッダゴーサは、まず島の長老たちに自分の才能・力量を認めてもらい、セイロンにのみ伝わる正統なる注釈書類を翻訳・編纂する許可を得るため、Visuddhimagga[ヴィスッディマッガ](『清浄道論』)を著し披露。これによって全くその才を認められたブッダゴーサは、シンハリーズによって伝えられていた三蔵・注釈書類をすべてマガダ語に再翻訳し、あるいは取りまとめて新たな注釈書として著します。そして、これら偉大な仕事を終えたブッダゴーサは、再びインドに戻った、と『大史』では伝説しています。
(セイロンの伝承では、ブッダゴーサがインドに戻って以降のことは語られていません。また、ブッダゴーサは『清浄道論』を著すのに、無畏山寺派の勝れた修道書、今は漢訳とチベット訳のみが伝わっているUpatissa[ウパティッサ]の『解脱道論』を種本として用い、その構成などをほとんど踏襲したうえで、その内容を適宜改変・編集したことが現在知られています。『清浄道論』は、いうならば世親菩薩の『倶舎論』に対する衆賢の『順正理論』のようなものです。)
偉大ではあっても、聖者であった必要はなかった人
さて、ブッダゴーサによるとされるそれら注釈書は、現在の分別説部においても絶対の権威あるものとして用いられています。なお、当時すでに注釈書が存在したことは、ブッダゴーサが先行するなんらか注釈書を参照しているために確かなようですが、一切現存していないません。
中でも、これは注釈書ではなく修道書と言うべきものですが、大徳の処女作である『清浄道論』などは、分別説部における「正統なる修道法」を決定づけたもので、この書を抜きにしては分別説部は語りえないものとなっています。
例えば、今や世界的にその名が知られ、愛読されているDhammapada[ダンマパダ](『法句経』)一つとったとしても、やはりブッダゴーサの注釈書における物語と同時に説かれることがほとんどで、その偈を解釈するのにもやはり、ブッダゴーサの注釈が全く使用されています。
『大史』におけるこの伝説は、ブッダゴーサは中インドはブッダガヤ周辺出身の人であり、故にその地の言葉であり、また仏陀が使用されていた言葉であり、「世界すべての言語の根本であるマガダ語」(すなわち今で言うパーリ語)に通じていた、さらには優れたバラモンであったからサンスクリット、ヴェーダにも抜きん出て通じていた等々、要するにセイロンの分別説部大寺派が伝える三蔵ならびに注釈書文献群を権威付けるために語られているものです。
先に述べたように、これは13世紀に記述されたとされています。
十二世紀後半、千年以上の長きに渡り、常に王権の支持獲得を巡るせめぎ合い、王権を巻き込んでの勢力争いのあったセイロン島において、Parakkamabāhu[パラッカマバーフ]王が大寺派の長老Sāriputta[サーリプッタ](Sāgaramati[サーガラマティ])に帰依したことにより、セイロンから分別説部大寺派以外の勢力の完全な放逐がなされたといわれます。このことによって、あらためて王権により庇護されたこの派の権威付けを、その生涯が不明であったブッダゴーサにまでさかのぼって、しかも王の名のもとに行う必要があったのでしょう。
一つまた注意すべきことですが、スリランカの分別説部は、現在伝えられている諸々の史書や論書、伝承によるかぎり、セイロンはもとよりインドにおいても教学論争などで活躍したことがないようです。これはセイロンというインド大陸から海を隔てた辺境である、という地理的な要因が大きかったのかも知れません。この点、日本と同じようなものです。セイロンという辺鄙においては、いわゆる外道としのぎを削る必要はなかったのでしょう。
もっとも、仏教内部での諸見解について、これは一応というべきか、先に若干触れた『論事』において、分別説部の立場から他部派の諸々の主張を論駁する試みがなされてはいます。しかし、少々その論理は乱暴で飛躍が多く、すべて自派は正しくて他派の主張は間違いであるという我田引水な論の進め方をしており、論難しきれていません。分別説部は論理学云々については、まるで不得手であったようです。
故に『論事』は、今に伝わっていない諸部派がどのような見解を持っていたかを、多少は伺い知える程度の、しかしそれでもその点かなり貴重な書となっています。
さて、分別説部のうち大寺派が最後まで残ることになったのは、教学が云々、正統が云々ということではなく、むしろ時の王に擁護されてその庇護のもと、島内の大規模な粛正を計ったという、政治的な要因によるものと思われます。
為政者にとって、異教間の争いはまことやっかいなものですが、国内における同一宗教内における異端争いもまた、その臣民を二分三分することになりかねない実に面倒な問題であることは、どの国においても同じでしょう。
そもそも両派が確執を生じ、ついに熾烈な闘いを繰り広げることになる第一の原因が、教義が云々というよりもむしろ、時の王がどちらの派を支持したかによるという、全く経済的なものあったように思われます。
実際、永くセイロンの諸王の支持を得ていたのはむしろ無畏山寺派であって、三世紀末には大寺はまったくの無住となり荒廃しきっていたといいます。
いずれにせよ、セイロンの伝承の上からすると、ブッダゴーサの権威を認めなければ、分別説部のパーリ三蔵の権威は全く認められなくなってしまうと言って過言でないものです。分別説部において、まずは仏教をセイロンに伝えたマヒンダが、そして彼と同等にブッダゴーサは特別な存在とされています。これら伝説を、現在の分別説部のほとんど全ての僧徒もやはり、まったく真実であると固く信じています。
ただし、マヒンダは二十歳のおり具足戒を受けたその日その場でたちまち三菩提を得て阿羅漢となったのである、などと言われているのに対し、ブッダゴーサはその才能と功績が讃えられているだけで、阿羅漢がであった、聖者の一人であった云々などとは最後まで言われていないようです。
(もっとも、『大史』などがそのことについて言及していなかったとしても、現在のスリランカにおいては、ブッダゴーサは紛れもなく阿羅漢であった、いや、弥勒菩薩であったとの口承があり、であるからといってブッダゴーサを伏し拝むなどということは全くないのですが、そのように信仰する僧侶らが若干ながらあります。)
阿羅漢マヒンダと大学僧ブッダゴーサ
大王アショーカの王子でありながら出家し、セイロンに仏教を伝えたマヒンダは阿羅漢(でなければいけない)ですから、マガダ国の都パータリプッタから相当なる距離を隔てたセイロンという辺境の島まで、数々の困難を乗り越えてようやくたどり着いた、等と言っては(声聞乗において到達しうる最高の境地である阿羅漢としての)品格・イメージが落ちます。
故に、ここはやはり阿羅漢らしく、よりエレガントに「飛んできた」とされています。このように阿羅漢が何処へでも便利に「飛ぶ」のは、経説に基づくものであり、なにも分別説部に限らず有部などもやはり同様に言います。しかし、ブッダゴーサはそのように言われていません。
ところで、ビンビサーラ王の勧めによって仏陀が布薩日をバラモン教から取り入れ、数々の試行錯誤の末、僧伽ならびに信者の特別な日となるまでは、仏教教団において満月の日など大して重要なものでなかったようです。
しかし、セイロンの分別説部は、例えば仏陀のなにか重要な出来事はすべて満月の日であった、しかも年は違っても暦の上でまったく同じ満月の日であった、すなわちインドの暦で言うところのVaisakha[ヴァイサーカ](パーリ語でVesakha[ヴェーサカ])月、太陽暦ではおおよそ4月から5月にあたる満月の日であるとしています(『大史』)。
またあるいは、仏陀に直接関しないことでも仏教に関する重要な日はすべて満月である、とそうでなければいけないかのように、ただ単純に押しなべて伝えている癖があります。
(故にセイロンにおいては、釈尊誕生の日・成道の日・入滅の日をまったく同じ日であったと固く信じ、今もこの日を、シンハリーズ風に転訛したWesak[ウェーサク]として盛大に祝います。またセイロンを起源とする東南アジアの上座部仏教諸国においても、この日をやはり釈尊誕生・成道・入滅の日として盛大に祝うのが、社会的に根づいています。)
それと同様にまた、分別説部にとって誰か重要な僧侶の生誕話についても同一の話を当てはめることが多いようで、実際、ナーガセーナとブッダゴーサの生誕にまつわる話は、ほとんど一緒となっています。しかしながら、セイロンの後代の人からすると、ブッダゴーサは阿羅漢である必要は無かったのでしょう。あるいは、何か彼が阿羅漢であるはずがない等の伝承があったのかもしれません。
さて、初出となるその伝記が十三世紀というはるか後代に著された、しかもかなり恣意的なものであるため、これを事実として受け入れることは少々難しいことです。
しかし確かに、その諸著作中『清浄道論』一つをとって見ても、大徳が非常にすぐれた頭脳をもち、抜きん出た編集・構成能力、そして並外れた精力の持ち主であったことは間違いありません。ブッダゴーサは確かに讃えられるべき偉大な註釈家です。
ビルマにおけるブッダゴーサの伝承
余談となりますが、ビルマでの伝説、Sāsanavansa[サーサナヴァンサ](『教史』)などにおいては、ブッダゴーサはもともと南ビルマの古都Tathon[タトン]出身の人(すなわちモン族)であったと言います。
彼はタトンからセイロンに赴いて仕事を終えて後、セイロンから自身がパーリ語に翻訳した三蔵ならびに注釈書類をビルマに持ち帰ってきた。これを十一世紀、ビルマ族のアノーヤター王が、タトンから略奪してパガンに都を建設。これによって全ビルマに上座部が根付くこととなった、などと伝えられているのです。
また、先に挙げたビルマ仏教史を伝える書は、ビルマの諸王は釈迦族の血筋であり、ビルマにはセイロンに先駆けて仏教が伝わっていた、仏陀は二度飛来された、アショーカ王によって二人の僧が派遣されて北ビルマの教化に尽力した等々まるごと伝説に彩られており、近代までのビルマ人らの仏教への篤い信仰心がこのような形で現れています。
ビルマもセイロンに対抗意識を燃やし、セイロンより早くに仏教が伝わっていたのだ、と言わずにはいられなかったのでしょう。
実際、現在にまで分別説部が信仰されている国々において、すなわち主要のスリランカ・タイ・ビルマにおいて、それぞれの国が思い思いに、自分の国の伝える仏教こそが最高であると誇っています。
(そして時としてその誇りが、互いにいがみ合いを起こし、また自国内ですら優劣を言い合って内ゲバを起こし、まったくのバラバラとなっています。いわゆる破僧が常態化し、収拾が付かなくなっています。すなわち、サンガが有名無実化して、まったく機能しなくなっています。)
ただし、ブッダゴーサの律蔵の注釈書Samantapāsādikā[サマンタパーサーディカー]において、アソーカ王がインド亜大陸に比丘たちを派遣したとされる中に、Suvaṇṇabhūmi[スヴァンナプーミ]という地名が挙げられているのですが、これは現在の南ビルマ(すなわちタトン)であった可能性があることも、現代の一部の学者によって一応言われています。現在のビルマにおいても、それら諸々の伝説は紛れもない事実、史実であるとして僧俗共に教育されています。
そのようなビルマとしても、やはりブッダゴーサという分別説部を語るに絶対に欠くことの出来ない人物と、その歴史においてなんとか深い関連を持たせて置かずには済まなかったのでしょう。
(学問の世界では、パーリ語はマガダ語などではなく西インドのピシャーチャ語に類する言語であるとほぼ確定しています。また、ブッダゴーサもマガダ国出身などではなく、またバラモン出身でもなくて、南インドの農民出身の人であったろうと、『清浄道論』の奥書に基づいて言われています。さらにまた、ブッダゴーサが、本当に三ヴェーダに通じていたかどうかは別としても、その程度は不明ながらもサーンキャ派の素養が一応あったであろうことが、注釈書の用語にサーンキャ派の語を転用していることが見られることなどから推測されています。)
2.セイロン所伝の僧伽分派説図
「分別説部の比丘達」(?)によるインド亜大陸各地の開教
先に触れたSamantapāsādikāには、『島史』などにて伝えていない、モッガリプッタティッサの提案によってアソーカ王の後援のもと為されたというインド亜大陸各地の開教についての記述があります。そこには派遣された比丘らの名と、その派遣先の土地の名が記されています。
これは、セイロンの分別説部における部派分裂の伝承ということだけでなく、部派分裂の真相について重大な示唆を与え得るものとして、重要なものです。そこで以下、それを表にして示します。
なお、Samantapāsādikāには抄訳ながら漢訳されたものとして、『善見律毘婆沙』があります。といっても、古来この書は『四分律』の注釈書であると見なされてきたもので、実はこの漢訳であったとわかったのは近代のことです。それは、インド学・仏教学に多大な功績を残した高楠順次郎博士という大学者によるものです。
さて、一応参考までに、この書における漢語名(そのほとんどが音写名)も併記しておきました。
Moggaliputta Tissaによって派遣されたという長老名と派遣先 |
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派遣された長老の名 |
派遣先の国・地方名 |
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Pāli語 |
漢語名 |
Pāli語 |
漢語表記 |
Madhyantika |
末闡提 |
Kaśmīr-Gandhāra |
罽賓ノ陀羅咤国 |
Mahādeva |
摩訶提婆 |
Mahisakamaṇḍala |
摩醯婆末陀羅国 |
Rakkhita |
勒棄多 |
Vanavāsi |
婆那婆私国 |
Yonaka- |
曇無徳 |
Aparantaka |
阿波蘭多国 |
Mahā- |
摩訶曇無徳 |
Mahāraṭṭha |
摩訶勒咤国 |
Mahārakkhita |
摩訶勒棄多 |
Yonakaloka |
臾那世界国 |
Majjhima |
末示摩 |
Himavantapadesa |
雪山辺国 |
Kassapagotta |
迦葉 |
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Alakadeva |
提婆 |
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Dundubhissara |
帝須 |
||
Sahadeva |
提婆 |
||
Soṇaka |
須那迦 |
Suvaṇṇabhūmi |
金地国 |
Uttara |
鬱多羅 |
||
Mahinda |
摩哂陀 |
Tambapaṇṇidīpa |
師子国 |
Iṭṭhiya |
一地臾 |
||
Uttiya |
鬱帝臾 |
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Bhaddasāla |
拔陀沙 |
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Sambala |
参婆樓 |
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Sumana |
須末那 |
この伝承のすべてが事実であったかどうか、またその開教とはいかなるものであったかの詳細を知るのは今や不可能となっています。
しかし、たとえばサーンチーからMajjhimaらの舎利壷が発見されるなどしており、その限りにおいては、事実であった可能性があるとされています。
これら比丘たちは、そもそも分別説部の比丘などではなく、むしろアソーカ王によって各地に派遣され開教していった比丘たちが、諸々の部派が形成されていく大きな要因の一つとなったように思われてなりません。
『島史』・『大史』所伝の僧伽分列説図
以下、『島史』に主として基づき、また『大史』やその他パーリ典籍の所説をも勘案して、僧伽がいかに分裂したかの経緯を出来るだけ忠実に、そして誰でもこれを明快に理解できるよう図表としたものを示します。
(この項に載せた図表は、PTSから出版されているKathāvattuの英訳版冒頭に記載されている僧伽分裂図、ならびに花園大学の佐々木閑博士が一論文にて示した案に基づき、これに重要な諸情報を織り交ぜ、改良してより理解しやすいものとしたもの。)
もっともその中には、閲覧者の理解に資するよう、十事非法にたいして行われた結集やアソーカ王の即位などの、分別説部における仏滅後年代も挿入しています。これによってある程度、分別説部における部派分裂の過程についての伝承が、明瞭になると思われます。
小苾蒭覺應 (慧照) 敬識