無意識と自己意識の脳 ダマシオ
Antonio R. Damasio The Feeling of What Happens 1999
松岡正剛の文を勝手に都合の良いように編集した。
エモーション(情動)とフィーリング(感情)。
アイデンティティ(自己同一性)とパーソナリティ(個性)。
脳には、たくさんの自分が棲んでいる
デカルトの心身二分論以来、
ココロ男とカラダ女が別々にいる。
そんなところへ、ソマティック・マーカー仮説。
アントニオ・ダマシオのちょっと小粋な脳科学。
これって編集的自己リロンじゃん。
まあしばらく、黙って覗いてみてほしい。
それは自己意識の暗闇の奥に咲く、
「花の御所」の蕾(つぼみ)に似ているね。
トレーニングをすると「編集的自己という存在」になれる。そのことをアントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」とその周辺をめぐるいくつかの変わった仮説とともに考える。
ダマシオはポルトガル生まれの脳科学者で、リスボン大学やハーバード大学で脳科学や認知神経科学の研究をして、とくには脳障害者の治療と研究をすすめたのち、いまはカリフォルニア大学の「脳と創造性の研究所」のメインキャラクターになっている。
ダマシオを有名にしたのは自己意識に関する「ソマティック・マーカー仮説」(somatic marker hypothesis)というもので、ソーマ(soma)というのはギリシア語の「体」という意味。その身体的なものを脳はどういうふうにマーキングしているのかという仮説。だから、これを訳せば“脳における身体的記譜仮説”すなわち「自己意識は脳のなかでの身体的なマーキングをともなっている」という仮説。ただし、脳と体は連動しているというようなおおざっぱな話ではない。
脳が受け取る感覚信号の種類
感覚信号の種類は体液性のものと神経的なものという二つの異なる伝達径路によって分けられる
またこれら全ての信号には外界と身体という二つの源がある
脳の体性感覚システムは、接触、温度、痛みといった外側の感覚と間接位置、内蔵状態、痛み、といった内側の感覚の双方を感知する
試みたトレーニングには二つの編集的な基本型があり、それがあいついで重ね合わされていった。でも、最初の基本はカンタンなもの。ひとつは、自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察して、それをちょっとおくれてから再生し、またしばらくたってから再生するというもの。まあ、自分のリアルタイムな意識変化をどのくらいトレースできるか、まあリバース・エディティングを複相的にどうできるかというエクササイズだね。
リバースするとは、自分で自分を精神分析するみたいなものだから、とうていうまくいかない。ただしこれは精神分析とはまったくちがって、むしろ逆で、深層に入るんじゃなくて、出てくるほうのプロセスを見ること。途絶えない流れのほうをね。ウィリアム・ジェームズやプルーストやジョイスの「意識の流れ」のほうに近い。シュルレアリスムのオートマチスムでもない。
これを何度もくりかえしているとね、自分の観察や思考といっても、いったい何が肥大して、どこでズレがおこって、どういう語感が曖昧になり、どんな印象がまったく抜け落ちてしまうのかといったことが、だんだんわかってくる。たとえば、ぼくはいま珈琲を飲もうと手をのばしたわけだけれど、その数秒間のあいだにいろいろなことがアタマの中を走っているわけだよね。そこには記憶の突出もあるし、次に話す言葉をさがしてもいる。そのような「ためらい」と「暫定的決断」のあいだのことを見えてくる。
知人の事故に立ち会って、記憶がなくなった人の意識の中に何があって何がないのか、そのサポートを頼まれたのと、あとは空海の言語論やライプニッツの「アルス・コンビナトリア」やホワイトヘッドの「ネクサス」や、禅の公案にひそむ意識論や三浦梅園の「反観合一」の条理に関係がある。アタマの中が見えないままで、何が思想か、何が幻想かと、何がリアルかと分別しようとした。
これはトレースであって、順逆がいろいろのエディティング・トレース。あとで気がつくんだけれど、編集的自己にとっては、その「失落」や「誇張」の特徴のほうが大事になる。
損傷をうけると推論と情動のプロセスを阻害する領域群
イメージの統合と記憶の想起の間に身体が関与している
もうひとつは、外から入ってくる刺激や情報を実況中継することをした。街を歩きながら見えてくること、聞こえていること、感じたこと、その場その時に思い出したことなどを、これもリアルタイムでアタマの中でかたっぱしから実況放送する。
発話言語も思索言語すごく遅いから、刺激によって知覚されてくる情報の質量とスピードに、言葉が追いつかないだけではなく、それにもまして知覚情報と言葉情報とはほとんどぴったりしない。思いつきの言葉というものは、どうにも眼の前の情報にちゃんと対応していないのでがっかりする。
ところがね、それでも、言葉をちょっとは意識的につかおうとすることが、そもそも編集的な自分をブーツストラッピングしているのだということだけは、だんだんわかってくる。だからこういうエクササイズをいろいろな場面で徹底していると、自分が選んでつかう言葉や思わずつかう言葉の連結ぐあい(リンキング)、イメージしている事柄のおおざっぱなドメインの範囲(フィールディング)、認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(ルナティング)というものが見えてくる。
おざっぱな編集的自己の骨格のような「心の正体」が見えてきたが、ちがっていたというのは、この二つのエクササイズには、大きな欠陥がある。それはアタマの中での処理に片寄っているということ。
「心」にしては脳の処理法が勝ちすぎているので、同じ意味の言葉の繰り返し(Tautology)と無限遡及(Infinite regress) の堂々廻りになる。
そこで、人と喋っているときに、この逐次トレースの反応を口にしたり、相槌だけにしたり、投げ返したり、感想をすばやく話したり、ノートをとりながら対話して、ラフな図解にしてみて、それらのことを、またあとで追想し、再生してみた。
すると情報編集的体験は、アタマの中だけではなく、「アタマの中の何かのしくみ」と「体を含めた何かのマーキング」とが、いろいろ連動していて、たとえば口元や手の動きとしてとか、言いよどんだフィーリングとしてとか、口がカラカラになった感じとなって。そういうノンバーバルな言葉以外のものとけっこう結び付いていた。
それから、その日のトータル・エモーションの調子の波の起伏なんかとも関係がある。あるいは相手の気持ちに感応するという関係もある。このように自分の現在のトレースというかんたんなことだって、実は脳と体のあいだのさまざまなファクターやファンクションによって何らかのマーキングをうけていること。
編集自己トレーニングで感じたことは、体との関係のことだけではなく、情報の体験的編集には「場」とそのコンフィギュレーション(布置)もおおいに関係がある。
そして編集的自己の拡張をしながらトレースをする。一番わかりやすいのは本を読んでいるときにこのエクササイズを同時にやると、こころのはたらきが多重化してくる。具体的には、本の著者がリテラルに書いていることがまずアタマに入ってくるんだけれど、それをまたいろいろ想像したり、とびはねたりするわけだから、その流れをトレースすると、かなり複合的になる。文脈を追うだけではなく、自分の視点の動きが多重になる。タブを増やしながらググるようなもので多重化してトレースするから、どんどん拡張して、複合重層化していく。
視覚情報のトレース実験
ある図柄を見せて実験動物の視覚皮質に活性化を引き起こさせる視覚皮質のマーキングパターンと動物が見た図柄に著しい相関があることがわかる
「関係の多重ブラウザー」をつかうというのは、白川静さんの方法のように最初から「詩経と万葉集を同時に読む」という方法と、甲骨・金文や王朝制度と孔子を関係的にトレースしつづけていた。
生命のシステムは連続的でかつ、とびとびで、しかも自律分散系で複雑適応系だから脳死で死を決めるのはおかしい。ただ、脳でわかることも仮説できることも多少あり、かつての量子力学や宇宙理論のように、かなりスリリングな分野ではある。
はじめに「自己」とか「意識」というのが、そもそもあやしい。「私」のあやしさの原因の大きな部分は唯脳論にあり、多様性を多様性で破るようにあやしさはあやしさをもって破墨されるべきものなので、その責任を脳や脳科学者にとらせ「脳に勝手なことを言わせない」仮説は大事である。
自己や意識の輪郭的正体や概念的正体を議論するにあたって、身体や身体感覚を持ち出すことはめずらしくなく、すでにアリストテレスからベルクソンにいたるまで、スピノザからメルロ゠ポンティにいたるまで、かなりたくさんの哲人や思想者たちが「心身問題」として議論してきた。
ところが脳科学や脳医学において重視されてきた身体は、その多くは脳の部位やニューロトランスミッター(神経伝達物質)がどのように運動機能や連絡機能と関連しているかというようなことを指摘するにとどまってきた。脳のどこかに障害がおこるとどこかの運動機能が損傷するというような。だから、身体という概念のモデルや身体の動きの全像のモデルを脳がなんとかしようとしているというような見方は、ほとんどなかった。そういうあたりに、アントニオ・ダマシオが脳の中の出来事によってソマティックなマーキングの証拠をあげだした。
身体から脳への信号の伝達
モード認知と関連想起に変化を起こす誘発部位と感情に対する直接的基盤を構成している身体マップに
変化を引き起こさせることで、身体が感情形成に影響を与える
「フィーリングの正体とは何か」“The Feeling of What
Happens”
アイデンティティ(自己同一性)があるとも、パーソナリティ(個性)があるとも一般的には言っているが、哲学的にも科学的にもあやしい用語であり、その自己は意識(consciousness)で充満している、あるいは意識とその隙間をもって埋められているとも思われている。それで、それをまとめて「自己意識」(self consciousness)とも言ってきた。たとえば、よくフィーリング(感情)とかエモーション(情動)と言うけれど、脳科学はついついフィーリングを個人的なもの、エモーションを類的で本能的なものと分けたが、それがよくなかったのではないかとダマシオは考えた。そして、そのように自己像や意識像をよくいえば大目に、わるくいえば無責任に見逃してきたのは、この自己意識をめぐる議論に「脳内の身体像」の関与がなかったからだと考えた。
内蔵、筋肉と間接、神経物質を生産する核からの神経信号が大脳皮質に届くこと、また内分泌系の化学的信号が血流などを介し中枢神経系に届くこと、以上のソマティックなマッピングにより脳は情動を感知することができる
ソマティック・マーカー仮説については『生存する脳』(原題『デカルトの誤り』講談社)が詳しくて、最新のものは『感じる脳』(原題『スピノザを探して』ダイヤモンド社)が邦訳されている。
脳にはソマティック・ブレインともいうべき「脳が身体を表象しているしくみ」がある。これが出発点の発想で、実際にはさまざまな脳障害患者の詳しい事例研究から出発して、研究のなかから、たくさんの仮想脳をつくりだしていった。また、その仮想脳の説明のために、いろいろと新しい仮説用概念を用意した。
ヒトは「注意のカーソル」(cursor of attention)をめまぐるしく動かして、次々に決定しなければいけない脳の中のオプションを選択している。しかし、連想ゲームのように、アタマの中の注意のカーソルはいま「リンゴ」と思っても、次には白雪姫になり、札幌になり、大倉山シャンツェになって、骨折の思い出になったりするように飛ぶので、注意のカーソルがどんなふうに動こうとも、それによって自己意識がすぐにひっくりかえったり、解体したり、おかしくなったりしないように連想を支える一種のホメオスタシス(恒常性を保つしくみ)のような「維持のしくみ」があるはずだと考えた。脳が、脳によって表象されている事柄や出来事をフレーミング・インしたりフレーミング・アウトしたりするための、小さくて柔らかいだろうけれども、しかしきわめて重要なホメオスタシスのようなものを支えているのがソマティック・マーカーだとダマシオは考えた。
脳のなかでの身体的なアフォーダンス(affordance環境が動物に対して与える「意味」)のモデル化みたいなもの。そこにココロとカラダの按配をうまく調整しているマーキングの作用があるはずだと仮説した。いわば「心の体節」みたいなもの。
ダマシオが突きとめつつあるいくつかの候補のソマティック・マーカーの重要なひとつには、前頭前皮質に始まるマーキングがある。前頭前皮質は感覚領域からの信号の大半をうけとっている領域で、思考をつくりだしているとみられている。そこには体性感覚皮質も含まれ触知感をつくっている。それとともにその前頭前皮質は、脳の中のドーパミン、ノルエピネフリン、セロトニンなどをばらまくニューロトランスミッター放出核からの信号とか、扁桃体、前帯状回皮質、視床下部からの信号も同時にうけとっている。ニューロトランスミッターとは神経伝達物質のことで、ニューロンとニューロンがつながる結節点にあるシナプスの袋から出てくる脳内ホルモンのこと。
こういうような任務をはたすことによって、どんなに注意のカーソルを動かしても、前頭前皮質はちゃんと“自己意識身体”とも“自己身体意識”ともいえるような表象を維持できるようにしている。でも、それをもって自己意識がソマテッィクに支えられているとは、まだいえないが、理論的な仮説も加えることで、一種のソマテッィク・ワールドのプロトタイプをモデル化したのが面白い。
具体的には、「原自己」(proto self)とか、中核意識(core consciousness)とか、延長意識(extended consciousness)仮想概念をもちいた。
ダマシオは、これまで脳科学は自己意識については、ほぼ次のことまでをなんとかあきらかにしてきただろうと整理をつけた。
第一には、意識のプロセスのいくつかは脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけられるだろう。これはMRIなんかで確かめられること。
第二には、意識と注意や、意識と覚醒を分けることは可能だろうということ。なぜなら信号で横断歩道で渡るときや卵を割ってオムレツをつくるときに動いている注意のカーソルは、そのつどそのつどは意識の全体にはたらかなくてすむようになっているし、眠っているときの意識は起きているときの覚醒感覚とは一応は分離されているから。だから、意識は注意や覚醒とは異なっている。
それから第三には、けれども一方、意識とエモーション(情動)とは分離しがたいのではないかということも見えてきた。だからダマシオはあとでこの問題にとりくんでいく。
第四に、意識は単純なものと複雑なものというふうにいくつもに分けられるだろうし、それでいてまた複合しているのだろうということで、これもなんとか技術的にもコンピュータを駆使してわかってきた。
そして第五に、意識はコンベンショナル・メモリー(通常記憶)やワーキング・メモリー(作業記憶)に依存するものと、依存しないものとの両方をもっているのではないかということ。
他方、さっきも言ったように従来の脳科学で脳のなかの身体像というものはまったく想定できていなかったから、ダマシオはなんとかソマティック・ブレインのモデルを導入しようと思っていた。こういう手順で、これらのあいだをつなぐものとして、まずは原自己とか中核意識とか延長意識のようなものを想定した。
身体と脳の相互作用で意識の形成のプロセスを描くソマティック・ブレイン・モデル
「原自己」というのは自己意識の前兆の萌芽。意識そのものではなく、ニューラル・ネットワークのパターンとして示された生物学的な先駆けみたいなもの。でも、それがソマティックな信号を最初にマッピングする。
実際にも脳幹核がその有力な候補であるらしい。信号が脊髄路・三叉神経・迷走神経・最後野を通ってきて、最初の身体的現在表象をキックするのがここのよう。そこに、モノアミン核やアセチルコリン核や、それから視床下部、前脳基底部、島皮質、内側頭頂皮質も関与しているらしい。
原自己に関係するいくつかの構造位置
身体から脳への各信号伝達の構造ダイアグラム
重要な信号のかなりの部分が、脊髄と脳幹の三叉神経核からの径路により伝達される
次の「中核意識」は、脳のなかの生物的な現象や作用による意識をさしている。だから人間に特有なものではなく高等生物にそなわっており、コンベンショナル・メモリーやワーキング・メモリーに依存していないほうの底層の意識ということになる。ということは、この中核意識は仮に人間的な意識が壊れたりしても、生物的な意識として身体を維持しようとする。
植物状態になったときは、中核意識だけでちゃんと生命活動をする。
中核意識の連続パルスが意識の流れを生む無数の対象との相互作用が常に原自己を修正することからイメージの強調をもたらす統合的なニューラルバターン(二次マップ)が形成される
次の「延長意識」はその名の通り、脳の中の時間や時制にかかわっているもの。「いま・ここ」というところに生じた意識や、かつての「いま・ここ」に生じた過去の意識を、その後も「そこ」や「むこう」に持って行っても保持できるデバイスのこと。“here-there デバイス”とでも言うもので、これによってダマシオは前にも後ろにもアトサキ自在な「自己」が有機的に編集できていると考えた。
こういう仮想概念による仮想脳のモデルによってソマティックな脳のしくみの説明を試みた。けれども、まだ何かが足りない。なぜ脳の身体像は維持できるのか。それがなかなか壊れにくいのはなぜなのか。これはけっこう難問だったが、ここまでのソマティック・マーカー仮説に、大胆な脳内デバイスをくっつけた。
それは 「あたかも身体ループ」“as if body loop” 「AS-IFデバイス」というもの。まさにソマティック・マーキングのどこかに出没しているはずだと思わせる「あたかもデバイス」。擬似モデルとか擬同型モデルといったほうがいいかもしれない。実際には、この「あたかもAS-IFデバイス」は脳の中の体液的な信号と電気化学的な信号との二重性を処理している。
延長意識と自伝的(編集的)自己は中核自己の連続的パルスと自伝的記憶の連続活性化とに、二重に依存している
まず原自己が駆動する。そうすると、この原自己は発生学的に古い脳構造のほうにプロトタイピングされる。ということは、ヒト以前の哺乳動物の脳機能をつかっている。でも、例のジュリアン・ジェインズのバイキャメラル・マインド(二分心)というわけじゃない。そこには生物的な中核意識が待っている。他方、このとき、トポグラフィカルなAS-IFループが動きだして、これによって基本的な自己意識の母型が維持できるようになっていく。しかし、脳に決定的な障害があると、これらが壊される、と考えた。
ここまででプロトタイプとしての原自己は、身体表象を一次的に準形成したということになる。それとともに、おそらくはAS-IFループをつかって、二次的な身体表象を二重、あるいは多重かもしれないが、ともかくそれをホログラフィックな“しくみ”のように形成して、ソマティックな表象を強化していった。
こうして、われわれが日常の日々において自在に注意のカーソルを動かしても急には壊れない経験自己像にもとづいた自己意識というものが可塑化されていく。
ここにダマシオがさらに仮想していた「自伝的自己」(autobiographical
self)のようなものが駆動するか生成するか、もしくは形成される。すると「自伝的自己」のうえに推論デバイスがどのように動こうとも、どんな刺激によって連想の矢印がどんな動きになろうとも、記憶のなかの情報はまさに編集可能状態になっていく。
編集的自己のトレースは、このソマティックな自己意識をずっと相手にしていたということになる。
「心の科学」は科学としてトレースすればいい。そもそも世阿弥や梅園や、ウンベルト・エーコやマイケル・ポランニーの翼がはえたような仮説からすれば、脳科学そのものが、まるごと科学ゆえの縛りの中にいる。それはそれで科学の宿命。それはそれで香ばしい。オートポイエーシスとか、ミームマシンとか、M理論とか。
オートポイエーシス (auto自己poiesis製作・生産・創作) 自己創出、自己産出
1970年代初頭、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生命の有機構成
(organization) とは何か」という本質的問いを見定めるものとして提唱された理論生物学上の理論である。
特に細胞の代謝系や神経系に注目した彼らは、物質の種類を越えたシステムそのものとしての本質的な特性を、円環的な構成と自己による境界決定に認めた。 現在では、このような自己言及的で自己決定的なシステムを表現しうるシステム論として、元来の生物学的対象を越えて、さまざまな分野へ応用されている。
主観世界すらも説明可能なシステム論であり、生命の自律性に対する言及が不可能な以前のシステム論の限界を突破することに成功している。学術界では現在もオートポイエーシスに関する統一された見解はなく、多様な解釈に基づいて議論が展開されている。
ミーム学(memetics)
ミーム(meme)という心および文化を構成する情報を表す概念を用い、進化論的モデルによる情報伝達に関する研究手法である。
https://www.ted.com/talks/susan_blackmore_memes_and_temes/transcript?language=ja#t-4304
M理論現在知られている5つの超弦理論を統合するとされる、11次元(空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説理論。この理論には弦は存在せず、2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜が構成要素であると考えられている。