専門家の限界

 

いいところ     熟練者 経験者 任せておける

ダメなところ    結果が出ない うまくいかない

理由        分けたから  人間だから  

どんな人たち?   分ける宿命 不安 ムラ 他の生き方を知らない 他を認められない 認められたい 

専門家だからこその見解    依存させる 視点が庶民ではない 家畜 コントロール

陥りやすいワナ   一般化と具体化  部分で全体を評価する  全体を見ない責任感

部分の集合体が全体性を破壊する

われらの付き合い方

科学者 学者 医者 官僚 マスコミ

 

いいところ

専門家は他の人よりも自分の専門分野についてよく接し、調査し、経験し、研究しているのだから、見解を聞くことはとても参考になる。

そして自分で考えなくても、そのことについて長年をかけて考えてくれたのだから、意見を取り入れるのは手っ取り早くていい。

自分にはその領域に対して時間やコストを費やす気もなく、時には無関心なので、専門家がリーダーシップをとって、先導して行ってもらえれば、こちらは楽でいい。

 

ダメなところ

車の故障は修理屋さんでちゃんと直してくれたり、麺を食べたい時は専門店に行けば、自分が作るよりも美味しいし便利だ。

ところが、専門家たちに国民の税金を出して、お偉いさんたちが集まる「委員会」で考えをまとめ実行してもらい、言われるままにアドバイスを実行したのだが結果が出ない分野があちこちにある。

地震予測、天気予報、原子力発電所、年金、経済評論家、株予想、抗うつ剤、抗ガン剤、二酸化炭素と温暖化、温暖化と水面上昇、酸素と植物、などなど

どうして、優秀な専門家がそれぞれの分野で誠実に懸命に研究しているのに問題が解決できないのだろうか?

 

理由  分けたから  人間だから  

大きくいって二つある。それは「分けたから」と「人間だから」。

はじめの「分けたから」というのは専門そのもの宿命についてだ。専門とはあることを分けてある領域について詳しく知っている者を指す。

その学問分野や事柄を専門に研究・担当し、それに精通している人のことで、英語ではa specialist a professional an expertのことだ。数学用語の特殊specialと一般generalの特殊。 個体atomisticと全体holisticの個体。特殊particularと普遍universalityparticular。部分と全体の部分を指す。

すなわち専門家とは全体の中のある部分を担当する分業の果てにいる熟練者のことだ。肩書きとは分業によってできた特異性と具体性のことである。専門とは全体から見れば、分けられた部分でしかないので、優秀で誠実で熱心であっても、それは必ずしも全体にとっては良いこととは限らない。 

例えで考えてみよう。私の親父が心臓の医者にかかり、血圧を薬で下げたのだが、同時に足先が冷たくなって痛みが伴い、夜も眠れなくなった。医者に言っても改善なし。薬の服用を自分で調節して血圧を130まであげたら足の痛みが消えた。答えは明解。血圧が低すぎて末梢血管まで血液が回らなかったからだ。極端なことを言えば、心臓のための良い血圧は、足先にとっては壊死を招く可能性がある。しかし心臓の専門家にとっては、自分の専門分野を解決することから問題に取り組んでいく。現在の綜合病院は専門家医の集団なので、自分の専門の部位がよくなることを第一優先にするので、このようなことが起きてしまった。専門化が進んだからこそ起きてしまう不便利さの典型である。しかしその不便さを補う専門の利点がある。専門の宿命である。

このようなことがあらゆる分野で起こっている。

 

では人間であるということのどこがいけないのか?

どこも悪くはないんだけど、当たり前に人間の限界が関わってくる。専門家は人間だから。

一言でいうと、自分たちの利権を大切にしてしまうことだ。

まあ、そうするのが人間として当たり前なのだからこれはいい。例えば専門家は自分たちのやっていることに社会が依存して欲しいと思っている。無意識なグループもあるが。

例えばラーメン専門店では週に一度は来て欲しいので、仕事熱心な職人は家では作れないクセになるラーメンにして通ってもらおうとする。何をするか?油と塩とアミノ酸をマックスにして、それが舌にしつこくならないように酸味と辛味でバランスをとる。たしかに旨い。舌や脳みそにとっては。しかし胃や小腸や腎臓にはきついものになる。だけどこれが外食産業の宿命だ。一見さんをリピーターになってもらうためにはいろいろな企業努力を惜しまない。これがプロフェッショナルの一面だ。

他者からの承認と商売 依存

專門家ということ自体が矛盾を含んでいる。あることを深く知っていることはいいのだが、これを生業にすると、専門家がいないと成り立たないようにしてしまいたい誘惑に駆られる。素人に教えないで自分の専門性のファンを増やしたい。場合によっては専門家に依存するように無意識に誘導してしまう。悪気はなくても、一般人からみるとまた一つ依存が増えただけではなく、専門家のアドバイスが一般人にはふさわしくないことが多い。

例えば料理番組でレストランのシェフや割烹の板前がプロの技を伝授するが、一般家庭では数人の家族用だし、見た目の商売品ではないので、美味しい生姜の皮をむいたり、元気なニンニクの真ん中の緑芽を取る必要はない。専門家だから何でも素晴らしいとは限らない。包丁の持ち方や姿勢や手際などを大いに参考にさせてもらい、自分の家に相応しいものに応用することが必要だ。閑話休題。

 

もう一つの人間の問題は、専門家たちが内部にムラをつくり、その狭い中で、人情や義理や建前を軸として社会を形成してしまうことだ。

これは人間と組織の限界だからある程度は仕方がない。例えば農協や漁業組合でもムラの政治は常に行われ、内部で利権の獲得に明け暮れている人はいる。

ただ、爆発的な威力を持つ原子力発電所、エネルギー供給連合、金融ネットワーク、医療薬品ビジネスとなってくると話は別だ。専門であることを悪利用して、専門を盾や鎧にして中を隠し、自分たちの利権を追求するために、外部の者たちを犠牲にすることを当然として疑わない輩がいる。外側と話をするときにはキレイゴトのオブラートに包んだものしか提示しない。例えば近頃で言えば、ドローンの便利さを強調し、実際にはどこでどのように使われているかを調べたり語ろうしないことだ。ドローン操縦により今日も心的外傷後ストレス障害(PTSD)を生んでいる。

人を喜ばすのではなく、人を脅かすことによって儲ける人たちだ。

人の役に立つのではなく、人にお金を出させるために行動する人たち。不安を金と結びつける専門家たちだ。

 

ではどんな人たちが専門家になっているのかを見て、彼らの特徴を見てみよう。

専門家とはどういう人たち?

彼らはが特に変わっていたり特殊なのではない。私たち自身がもう専門家のプロセスを歩んでいるので、もう自分が専門家もしくは専門家の卵です。

全体の中で役割を得た者ですが、弱点もいろいろあります。もし専門性を磨くために時間をかけすぎて他の生き方の選択肢を無くしてしまっているのならば、潜在的な不安に付き纏われる人生になります。それが無意識に浸透し、本人が意識していなくても保身を取る選択をしているかもしれません。

 

分業  専門家とは分業のなれの果てである   肩書きも分業の特異性と具体性である

全体を分けてることによって、専門性が高まる。

この分業は人間のみならず生命体の本能の一つである。分業そのものに問題があるのではなく、「いのち」に関わる分業制度は常に全体性の評価にさらされ、暮らしているので、そこに職業倫理ができ、仕事にプライドを持ち生きている。衣食住関係の専門家は常に社会のフィードバックの中で暮らしている。これらの専門家と付き合う時は、消費者側が賢くなる必要がある。例えば野菜にしても大きく傷がなく色が良く甘いものを求めるから、農家は色々と無理をしてそれが農作物にコストやリスクとして反映される。

問題は「いのち」から離れていった分業と行き過ぎた分業が、本来の職務を果たせず、専門性を持たない外部の人たちを混乱させてしまうことだ。

衣食住、安全、人生設計、エネルギー、ライフラインなどの大切な命の問題を他人に任せることを近代化という。

この他人とは近代以降そして現代に至る専門家たちのことだ。

分ける宿命 不安 ムラ 他の生き方を知らない 他を認められない 認められたい

ライフラインから離れて暮らすことができて効率は良くなったが、共給共足できなくなった分だけ、共同体も失われ「不安」になってしまった。そして食べ物とエネルギーは貨幣によってしか得る手段のない専門家はか弱い。他に生きる手段を知らなければ、その専門ムラが酷いことをしていても告発できず、その専門職にかじりついて生きるしかなく、共犯者になるしかない。

またもう一つの矛盾は、分けたことから起こった「他を認められない」ことと「他から認められたい」という欲望だ。

他の集団との間に壁を作り、自分たちがエキスパートになったので、外からの意見は何も知らない素人のくせに、と思って軽んじてしまう。また壁を作ったために、外からは何者か分からず、社会から認識して欲しい、認めて欲しいという欲望は肥大する。全体から存在を認知されないと専門家の意味がない。

精神病患者の引き裂かられた「自己」と同じように、分裂した意識の中で、他人との関係で自己表現に苦労する。

この時に権力をや特権を使うのが、知識階級の専門家である、医者、科学者、学者、官僚、マスコミだ。

 

権力とコントロール

権力とはコントロールを生み出す装置ではない。

みんながコントロールされたがり、それを利用する人がいるというように私には見える。

コントロールをし続けていたら休む暇もなく、いつも脳みそを動かしていなければならない。それだったらコントロールされて、時々好きな時間を遊ぶのがいいやと思う人が一杯いるのは当然だろう。

ただ自由時間にやりたくないことまでもやらされているのはみんなの望むところではない。

みんなが嫌なことはなんだろう。

その中でも大きいのが、「死にたくない」という無意識と意識の本性だ。

ここから発する欲求にキレイゴトをまぶすとみんなが好きな大義名分ができあがる。

昔と違って命令しても人は動かない。そこで専門家たちが国民自らが望んでいるような形に持っていくことを学習している。

「あなたの子孫に健康被害が生じるよ。」というソフトな恫喝が効く。

誰も死にたくはないので、健康には弱い。そして環境が悪くなると健康に悪影響があるので、環境にも弱くなる。

自分の欲望を抑制してまで自分の健康を守ろうとする性質が、権力によってコントロールされることになる。

逆から言えば、死にたくない、ことに常にこだわり続ける者が権力を作り出している。

 

分業と家畜化と脳

現代人は「自己家畜化」した人間であるといったのは、ドイツの人類学者アイクシュテットだ。1937年のことだ。

人工環境の中で暮らすことによって、自然の脅威を遠ざることが可能になった。この自然を脳化することを人類史はやってきた。地平線まで建物が連なる都会が象徴だ。

決まった時間に食事をするのは地球上で家畜とある種の人間だけだ。

家畜はより役に立つものに品種改良される。そして人間自身もこの繁殖の管理をするようになった。

人工授精、体外受精、出生前診断、ダウン症殲滅検査。

そして生まれてからは健康優良児を選び、優劣をつけて何でも分けてしまう行為をやめようとしない。

そしてここにも専門家たちが活躍する。

 

近代化による自活能力の低下がクレーマ−を生んだ。自己家畜化した人間の象徴である。

水と食料と燃料を自給できれば人は生きていける。

クレームするのは自分で自分のことをできないからである。

分業して任せたのに、自分の思うようにならなかったので文句を言っているのである。

 

 

無意識に陥っている考え方のパターン  一般化と具体化   全体への責任 

専門家の陥る誤謬

一般かと具体化

Overgeneralization(過剰一般化する) ある条件の下の相関性をそれ以外の場所でも普遍化させること

Overmaterilization (過剰具体化する) 普遍的なことを各々の条件に適応せずに具体化してしまうこと

この二つが専門家本人が気がつかないで(もしくは意図的に)使っている手法で、相手よりも自分に正しさがあると思うことができ、自分の考えを行動に移す根拠にしている。

どちらもTPOを考慮しない軽率さ(もしくは悪意もしくは無知さ)に源を発する。

過剰一般化とは、ある限られた時空間で起きた出来事の中に相関関係をみつけ、それを因果関係のある法則にした後に、それがあらゆる世界で通用するものだと考えてしまう性癖のことだ。

例えば、最近の都会で起きているヒートアイランド現象を、地球の温暖化や二酸化炭素と結びつけるような考え方のパターンが典型だ。確かに都市部では温度が上がっているし、二酸化炭素と温室効果の関係性はあるが、これを地球規模に拡げてしまうと、水蒸気や地球の各地での寒冷化など他の要因を考慮しないで、ある条件の下に起きている事象を全体の問題に過剰一般化してしまっている。一言でいうと部分で全体のことを評価、判断、行動してしまう勘違いだ。

これと反対のことが過剰具体化である。普遍的な一般法則を具体化する際において、その時空と条件に付随する様々な要因を考慮しないことで起こってしまう問題だ。

例えば、ヒトには酸素が必要であるといった普遍的な法則に基づいて、潜水の前などで過呼吸になっている人に、酸素ボンベ吸入をしてしまう。一般論で諸要素が重なり合っている具体的状況に対応してしまうことがある。

ほかに何か良い例があれば教えてください。チャイルドシートの前席禁止? 

 

条件外適用  学歴問題

中卒を鼻で笑う大学院卒 「アナタに話がわかるわけないよね?」

院卒を嫌悪する中卒   「学歴なんて必要ない!」

どちらも自分の領域内にある正しさに基づいて、範囲外のことまでにも自分の正しさを適用させてしまっている。

 

全体の責任を負わない専門家   

専門家が多い社会とはだれもが責任を取る必要がなくなるのは何故か?

これも専門家社会の限界の一つです。キーポイントは責任の所在です。

 

専門家の責任を見る前に、どういう時に誰も責任を取ろうとしないかを考えてみましょう。

正しいことをしているので責任を取らない

常識に従っているので、責任を取らない

受身の役割を果たしているので責任はない

職務を全うしているので責任を取らない

確かにこれでは責任など取る必要がありません。責任を取るどころか、仕事に誇りを持ち、もっと仕事が円滑に行くように推し進めていきます。

そう、これこそが専門家が立っているポジションです。

 

このどこに問題あるのでしょうか?

専門と全体性との関わり、全体における責任を考慮して判断し行動しているか、といういうことです。

例えば、トンネル工事がもっと効率よく、安全性を高めるために、科学者が爆弾を開発しました。専門家としては確かに素晴らしいことです。しかし全体から見ればこの爆弾は第一次、第二次世界大戦に使われ何千万人の人間を殺しました。原子力でも同じことがありました。このような科学者の名前を冠した賞の式典が毎年華々しく開催されています。科学のあらゆる分野で発見・発明されたものは後年に悪用されます。科学は人間の悲しいサガの象徴なので、否定できるものではありません。だからといってそれほど賞賛されるものでもありません。悲しいけれど受け入れるものだと私は思っています。

 

悲しい専門家たちが自分の責任に気がつかなくても良いようにいろいろ方法を開発しました。

その一つは大脳皮質基準です。大脳辺縁系や脳幹の基準は見ないで、なんでも理性行動を基準にすることで、自分をいつも正義のポジションに立たせることができるので、責任や未来や全体性やいのちや生命体や時空を超えたものの問題に向き合うことなく生きていけるという方法です。

具体的には、

理性を基準にする 

内側の人間の視点を否定し、外側の幻想を基準にする。  

主観性よりも客観性の方が意味があると思いたがっている。

普遍的なユニバースを目指す  Latin  úniversus, whole : únus, one + versus, past participle of vertere, to turn

どれも結果的には、自分や「いのち」から逃げた人たちのすることだというのは私の感情的な高ぶりでしょう。

 

専門には本体の責任はありません。だから全体の一部でしかない専門を信じるほうがどうかしています。

全体のことを思い自分の仕事を憂う専門家こそが、私たちの思いを共有する人です。

 

 

部分の集合体が全体性を破壊する  因果関係が逆

専門家の限界

ミクロ合理性の追求はマクロ不合理性を帰結する。

一部の正しさを追い求めると、全体は崩壊するということです。

意識は一つのものを二つに分けたことから始まりました。優劣に分けた優だけを尊重し、劣を排除することは、全体であった一つものを破壊することになってしまいます。

専門家がその職務と正しさを全うすればするほど、全体にとっては害になる危険性があるということです。

専門家がいくら頑張っても、それが全体性の中で機能していないと、その頑張りがかえってみんなを危険に陥らせます。

科学者の歴史的な発見、医師の素晴らしい薬、官僚の良き構造システム、学者の新たな法則と解釈。

どれも、これが理にかなったものであればあるほど、「いのち」という全体にとっては注意しなくてはならないものです。

 

因果関係が逆

何のために生きているのか?

自分や愛する者のために生きているのですか?

それともモノのために生きているのですか?

人間のためにモノがある。

モノのために生きているのではなく、人間のために生きる。

モノとは、人が幸福になるためにあり、人が幸福になるということは、「こころ」の満足を得ることです。

人の心を満足させることは、専門ではなく全体です。

好きな「いのち」と一緒にいることではないのかな?

 

専門家との付き合い方

その専門家が自分の専門領域だけではなく、全体性を考慮に入れることができる人の話を参考にしましょう。従うのではなく参考にです。参考とは、自分に必要なものを見つけ、それを自分用にアレンジするということです。

自分という特殊性を理解しているんはこの世であなた一人しかいません。

また全体性にはいろいろな意味がありますが、分かり易いのは、その専門家が問題のあるあなたの立場に立ってくれて、専門家がいつも隣にいなくてもやっていける方法を伝授してくれるかどうかです。料理の方法だったら特別の材料から専門の機材がなくても、一般家庭の中でできることもアドバイスしてくれるかどうかということです。

新しい材料や専門の機材がどうしても必要な場合は、その入手方法やメンテナンスやコストのかからない方法までセットで教えてくれないと、また新しい依存先が増えるだけになります。

 

科学者

科学技術が人間の幸せや利益を考えて研究すると多くの問題が起きる。その良い技術が後になって、不幸せと不利益に適用することができるからである。

 

科学者は、「私たちの専門性は現象を明らかにすることであり、現実に使用するかどうかは社会が判断することです。」また「より正確な科学技術の情報を社会に提供することは必要だが、判断は受けての社会に委ねる」

といいますが、この技術を原子力分裂に置き換えると、単なる責任逃れにしか聞こえません。

科学者にわかってほしいポイントは人間の脳も細胞からできており、それは生命体の一部であるということです。

 

学者

学者は信用するものじゃない、参考にするものだ。

ちゃんとした学説を2つ唱えても次の一つがトンチンカンのこともある。

理由は学問がかかえる宿命と頭を使う人間のクセだ。

学問とはものを分けていくことで知識を増やすのだけれども、だからこその欠点がある。参照 学問の限界

もう一つは学問をすることによって頭を多用し、それによりあるクセや考え方ができ、学者になった場合は、そのクセを商売にしてしまっているからだ。

専門家の特徴である責任を取れない体質になるのは、何事も大脳皮質を基準とするために、情感を司る大脳辺縁系や本能を司る脳幹を基準とする機会が減少してしまうことから源を発する。

また一つのことを二つに分けて、その分けたものを法則化してしまい、法則化できない元の一つは無視しようとする。例えば貯金学(経済学)ともいえるビジネスは、いかにして儲けて溜め込むかに重点を置き、いかにして使うかについては教えない。

同じことが学者にも起きて、理性を基準にすることにより、普遍的なユニバーサルを目指す  

内側の人間の視点よりも、外側の幻想を基準にする。主観性よりも客観性の方が意味があると思いたがっている。

というクセが生じてしまう。

するとそのような考え方でこの世の中で暮らしていくと、理性の視点でこの世の出来事を見て判断して行動してしまう機会が増えてしまう。

世でいうリベラルの徒となってしまうのだ。

理性という囲いの中で暮らしていると、それが当たり前と思い、その外の世界を受け入れられないものだと判断してしまう。そして場合によって外の世界を変革しなければならないと思い込もうとするのだ。そうしないと囲いが崩れるかのように。

例えば、良識が肉欲をコントロールしなければならないと思うように。

この囲いの中に外側の異物が入ることは許すことができない。異物に対しては徹底的に排除しようとする。

脳機能学で言うと、大脳皮質が大脳辺縁系と脳幹をコントロールしようとするのだ。

 

しかし大脳皮質には判断を司る機能がない

ところが学者は理性で判断できると思ってしまう傾向がある。

 

すると情感に一つの特徴が出てくる。

弱者を守ろうとすることに関心が強くなる。無理矢理にも弱者をつくり、それを守ることが自分の存在意義だと思う気質が発生する。

何故か?

 

判断の基準が無意識も含む情感であるのにそれを認めないために、無理矢理に意識を判断の基準にするための仕組みを作ろうとする。それが弱者の捏造だ。弱者という枠組みを作れるのは意識だけであって、無意識にはできないことである。意識がなければ何もできないと思うことは理性にとって必要な装置なのである。

 

人間の本能や感情を基準とした枠組みを避けようとする傾向がある。枠組みを作ってしまうと内側を○外側を✕と判断しなければならない機会が増えるので、理性の✕と本能や感情の○がぶつかってしまうのだ。またここに囲いを作るということは自分で作ったことを意識せざるを得ないので、責任が生じる。はじめから有ったものや押し付けられたものには責任を感じなくてもいい、と思いたがることができると思う人もいるからだ。

成人はこの矛盾を受け入れるが、理性中心主義者たちはこのような矛盾を極力避けようとする。

すると起きることは感情や本能の基準を持たないという選択だ。具体的に言うと、家族、地域社会の接点を減らし、理性や趣味で社会と繋がろうとする新たな集団だ。

弱点は自然や生命や想定外や変化のある安定。

 

政治家は、公の発言をなす場合にも、世論の表面に対して好むと好まざるとにかかわらず少々は迎合してみせなければならない。世論の風向きに添わねば、その地位を保証されないというのが民主主義の習いだからである。

こうした心理的力学から最も自由なのは本来は知識人のはずである。知識の見地からすれば、世論の裏面に無関心ではおれるわけがない。ところが物事の裏表には言及せず、世論の美味しい方だけを語り、世論から嫌われることせず、ただ迎合するのを生業にするものは、知識の基準である「真偽」を、政治の基準つまり「多少」に変えたり、道徳宗教の基準「善悪」に変えてしまっている者が少なくない。

 

学問をするとリベラルになって、内側である共同体を裏切り地域を壊し、理性を尊び仮想集団との付き合いにシンパシーができます。

 

医者

医師は病気や傷ついた人を治療するのが仕事。

反戦しそうであっても、治療してもまた戦争するから意味がないと言って、職場放棄はしない。ただ黙々と治療を続ける。例えば戦場であっては敵兵であっても、病院内では負傷兵を治療する。 

 

最近は、医者は治療だけではなく、健康を守るも職務だ、と拡大解釈されている。

医者は治療以外の分野に口を出すのか?

これは危険である。

 

医学では、「治療はする。そして健康になる為の参考となる資料は提供して説明もするが、指示や強制はしない」

 

あらゆる体の基準値は薬の販売量と相関関係がある。

例えばコレステロールの基準値が下がると、医師は一斉にメバロチンを使用し、販売量が増大するように。

 

ガン治療

多数は患者を騙して金儲けしてやろうと考えているわけではない。逆に患者のためにと考えている。

それなのに、抗がん剤や手術を施そうとする。本気で患者のためになると思っているからだ。

「放置療法」は成立しない。放置とは、実質的にはそれは療法ではなく、何もしないことだから、医学や医者自身の存在意義の否定になる。医学の存在意義は手を施すことだからである。人のはからいで対象物を変化させる学問だからである。それが正しいことだ学んできたカルト集団は放置することは自己否定になり、何がしらの治療を施さなければならないと信じ込んでしまっているのだ。

医学世界においては、その成り立ちから、人のはからいすることで治療することから始まっているので、この世界観に反することは拒絶する。意識と無意識を使って。当然である。誰もが自分がやってきたことを否定したくはないのだ。

薬療法や手術療法でも全ては自己治癒力を利用することで治癒して商売しているので、それがバレるのがまるで怖いかのようだ。

医学の範疇を超えたものは医学界の外で行われるのが順当だろう。

 

自分たちの利益にならない方向に関心(ベクトル)が向かない。自己欺瞞であるが、人間はそういう生き物である。自分の益にならないものは取り入れない。

 

統計学でしかな現代医学

病院に行くとまず検査をする

人を物理学で生き物からシステムに変える必要がある。

そこで全てを患者の主観から数値化へ置き換えることを仕事としている。

血圧、ヘモグロビン、・・・ どれもベルカーブという偏差値曲線の中に入れて、異常と正常を判断する。

そこにはその人の個人史や特殊性や地域性やTPOには焦点を当てず、普遍性とも勘違いされるただただ数値の統計値による曲線によって、病名がつけられ、そこから治療法や薬が出されるのだ。

 

現在の状態      普遍 数値 人工の身体 cure

歴史を背負った状態  個人、両親、祖父母  個がかけがえのない 自然の身体 一般論がない care

末期ガンの時にその人の身体感がわかる

 

健康診断 病気の早期発見・早期治療のためにするもの

実際 CTスキャンで被爆、数値を見せられ病人に指定される     高血圧、メタボ

この早期発見が悪い 手術、抗がん剤で5年生きるよりも だましだましで余命一ヶ月の方が良い

ガンとガンもどきがあり、ガンならば早期発見でも、もう手遅れ 

 

ワクチンと生物兵器

研究プロセスは生物兵器を開発するプロセスと同じ

最後の最後で、ワクチンか生物兵器に分岐する

 

経験の非合理性

経験した時に起きた因果関係が世間一般にも通用する(普遍的なもの)のだと思ってしまうこと

ポジティブな経験であればあるほど、合理的思考を遠ざける。

心筋梗塞に不整脈を抑えるアミオダロンやソタロールを投与するのが一般的であったが、一時的には不整脈は治まるが、長期では死亡率が高まることがわかった。理論的に筋が通った薬であったし、投与したら回復に結びついていたので医師たちはショックを受けた。

 

白木博次

医学を科学としてだけとらえるのは、私は医学の変質だと思うんですよ。数値化できない。デジタル化すると抜け落ちてしまう大事なことがありすぎるからです。 人間で動物実験はできないわけですから、聞き取り調査と観察こそが医学の柱になるべきですね。医学は自然科学ではなく、経験科学です。人間学の観点が必要です。

 

官僚のやりかた

エリートという專門家

違った視点で分類・比較しない。当たり前でそんな視点を持ち込むと自分がエリートでなくなってしまうからだ。

できるだけ今までどおりの価値観だけに固執したいのだ。エリートでいられるのはその価値観の中で、両義ではない一義的に答えが定まっている正解にいかに早く到達できるかを競うことが得意だった者たちの集団である。

その訓練による成果をあげたことが評価されているのだから、他のゲームはしたくないのだ。新しいシステムや人や方法を嫌うのは当然の帰結だ。

大学に行き、その後に官僚や大企業のサラリーマンは、あらかじめ正解のある問題を解く能力はあるが、正解が定かでない問題を解決する能力があるかどうかは疑わしい。卒業後にどのように社会と向き合って生きていくかがで正解のない問題に対する対応の仕方を学ぶので、これはその後のその人の個人の生き方による。

 

権力の源泉は許認可権を持っているから。規制を増やせば役所の権限が増えて、それが圧政と天下りの源泉にもなっている。

規制をなくし、自己責任にすると官庁はいらなくなる。

はじめに世界の現象の一部を取り上げてそこで相関図をつくり、それに数を当てはめて、数式やグラフ化して、事の一部分だけを取り上げて、客観的に再現可能な科学として、それを揺るぎない事実と世間に思わせて、自説を他者に押し付ける。はじめは科学的言説を金科玉条のように使う。そしてそれに騙された世論がその言説に信ぴょう性があると思っている間に、政治的なムーブメントと金儲けの構造を立ち上げる。そしてそれが機能し始めたら、科学的言説は用済みとなる、一部ではなく、全体から検証すれば間違っているからだ。

科学的言説は全体性の科学ではない。多数派と同じ世界観ならば好意的だが、異なる世界観のグループには排除するシステムである。一部だけに焦点を当てるために、多数決で決まってしまう政治的なものである。

科学はこのように人間が関わる限り、その人間を偽るものである。

 

出世や研究しか関心がなくなっていく理由    事務次官や研究者を目指す

一言でいうと、ヒトの無意識の恐怖心が官僚の出世欲を生み出している。

エリート官僚になるためには、その地域でトップの学歴が必要だ。ということは青年期においてこの学歴という世界においては常に傑出した結果を残してきたものであり、この狭い世界においては挫折を知らない。

この知らないというのが、大きな欠点となり、次にこの欠点に無意識のうちに操られる存在になってしまうのだ。

知らないことに対してヒトは慎重に対処してしまうように生きてきた。湯気の立っている鉄瓶には、いきなり触ることなく、手をかざして温度を感知しようとすることから始める。

学歴では挫折というものを知ることができなかったという利点が、次の段階では欠点となり、体験できていないことに対しては、体験をしようと努力するか、もしくは避けるしかない。ところが挫折は残念ながら体験しようともできるものではない。すると挫折は、避けるしかなく、そのような体験していないものが無意識下で遠ざけているものが恐怖に変わることがある。挫折に怖れを感じてしまう条件反射をつけてしまうのだ。

彼らはこれまでに数々のテストで正解を選ぶ能力を鍛え上げ、難関をパスしてきた人たちの集団である。これは一見では利点のようだが、利点というのは次の段階では欠点になってしまう。彼らは教育という20年間の洗脳で、競争に勝つことが条件反射になってしまっている、条件反射にすぐ反応してしまうように飼育されてしまった人たちである。当たり前のことだが、テストは他者によって作られるものだが、他者からの評価に関しては訓練をされているが、自分の考え方で荒野や森林を開墾してきた人たちではない。受験勉強で勝ち続けると、頭が良いとか思っている人がいるが、実は受験勉強とは方式や法則や語学の分野においても単なる条件反射の訓練をしているだけで、理性を使ってモノを考えることではない。試行錯誤やTPOに適応させて考えるのではなく、単なるパターンで暗記する能力に優れていることでしか過ぎない。

そんな彼らは、長年の積み重ねで、もう彼ら自身が勝ち続けた土俵の外に出ることが怖くてしょうがない人になってしまったのである。そこで土俵の外に押し出されるのを怖がり、今までに鍛え上げた能力を使い、出世や研究が始まる。一番上のゴールを設定して事務次官やノーベル賞を目指すのだ。

レースの先頭集団は審議官の称号を与えられる。そして次々に春の人参のように株は間引かれて、最後にはただ一人だけが事務次官になれる。間引きとは天下りことだ。このシステムを生かしている間は天下りが必要とされるのだ。馬鹿な合理主義者は天下りをなくそうというが、エリート官僚のエネルギーを出世欲から外した時の彼らの暴走ぶりの恐ろしさを知らないからそんなことが言える。土俵の外に出ることを怖れる未経験者たちの考えている世界観の純粋さ・正しさ・合理化・単純さ・傲慢さ・心のなさ・情緒のなさ・魂のなさから荒唐無稽ぶりの思考回路は実行力を持つだけにとんでもなく恐ろしいものだ。思考実験が出来ない間は、出世欲と天下りを飴にして彼らを飼い馴らすのが庶民の智慧である。

 

税金を使う組織の立ち上げ

健康福祉課や高齢者支援課などを立ち上げると、よけいな仕事を自ら作ってしまう。

調査票、健康アドバイス手帳、出版、連絡、判断、決めつけ、お知らせのおせっかいたちだ。江戸時代ならば領民から税を厳しく取り立てたり、出入り商人などに厳しく当たったりするような武士のようなものだ。藩主のためにはなるが領民のためにはならない。

この調査や取立てがなくなれば自分たちの仕事がなくなるので、一度作った制度はなくさない。

食べていくためにはといって、需要を掘り起こすために、必要のない人も必要のあるように錯覚させなければならない。

 

基本法を作る

メタボ  みんな太りすぎている 健康法  厚生省 御用学者 薬品会社

ペナルティを与える 

健康増進を目的とする団体 140

税金を使うほど出世する官僚 不文律

節約するのは増税と同じ

 

マスコミ

クリティカルな考えが乏しく、保守的である。多様な考えが共存することを阻害している。画一的な考えがもてはやされる。それは当たり前だ。だってみんなに本やテレビやインターネットを見てもらわなければ意味がないと思っている人たちが集まっている組織だからだ。

 

マスコミの存在意義は、世間からの注目である。それが売上部数であったり、視聴率であったり、商売である。

ここからマスコミが始まっていることは忘れてはいけない。

豆腐屋は豆腐が世間に知られ、それを売ることで生業がはじまるように。

ところがマスコミはよく本末転倒して、政府のチェック機関だとか、国民の啓蒙だとか、公共のための、だとか最もらしいことを言う。豆腐屋だってみんなのためにやっているのはかわらないのに。

古代から中世、近代、現代とマスコミに期待をかけるのは、的はずれである。昔からマスコミは注目を浴びることを第一目的にして広報活動をしているのだから、彼らが優位になれる視点をいつも受け手に投げかけているだけだ。それらは彼らの言い分であって、私たちのものではない。

目的を持って説得・納得させるためにメッセージを故意に一方的に流す

金の仕組みを見れば簡単にわかる。マスコミはスポンサーが金を出し続ける機関であるのだから、スポンサーの視点にいつも立っている。そこで働く者はそんなことはないというけれど、多様多種な自主規制を自覚すれば納得してもらえるだろう。そして言葉狩りのような使えない表現のオンパレードであることを否定しないだろう。

害を指摘するのを正しさとして、安全を言う政府や大企業は悪とするのが、マスコミの安易な善の表現の仕方だ。

安全を言った場合は責任を負わなければならないので大変だが、害を指摘するには何も証明する必要がない簡単に正義のヒーローになれるのだ。これもマスコミ特有の自己保身術とずるさである。

事実は間違わなければ、表現はできるだけ受け手を驚かすものがいい。できるだけ勘違いさせるようなタイトルをつけて意図的にミスリードするのが仕事だ。

主語は決してマスコミではない。責任を逃れるために常に他人に押し付ける。

警察の発表によると、〇〇教授の見解は、関係者によると、政府は、・・・。

はっきりしてないことでも記事にするためにデータ・数値がない記述を連呼する。

「可能性がある」「関連が疑われる」のオンパレード。

「○○を食べた実験動物に××という症状が現れた」何グラム食べたらそうなるかを明示していない

あまりに情感操作に偏りすぎた骨組みが多い。

先に答えがあるので、それをサポートする科学的事実の一面だけを寄せ集めて、情に訴える表現で人の判断を意図する方向へ導こうとする。心地よい綺麗事を言って、「空気を作る」ことが得意戦術である。

嫌いな評価が、捏造と強者の味方だ。彼らがプロとしてのプライドをかけて、作り上げたストーリーと弱者の革を着る行為を評価されていないことが悔しいのだ。

 

売ることを優先してしまうのがマスコミの宿命  

組織と専門の両方の限界

自由すぎる日本の報道に自らが慄いて、自分で規制する。

何を怖がっているのか? 

クレーム 相手を不快 尊厳を冒涜 名誉を傷つける

これは意見を言うためには仕方がないこと、しかしリスクヘッジの考えを導入した組織と専門はこれが嫌。

責任を逃れたために

覚悟がない

TPOに対応できる忖度がない  

主体的ではない、

自律的ではない

 

そのために過剰な自主規制

標識をいっぱい立てる。内側が安全、外側は危険だということをわかりやすくするため。

だから標識ばかり  

同調圧力

間接的な圧力はあるが、大したことはない 放送法を読め、  言い切るのが大切 わかってやっているんだ

 

マスコミのわかりやすさ

わかりやすく作られている、ということは編集と加工がされているということ。

 

責任を取らないやり方  

人の意見を鵜呑みにして発表しても、その人が罪にとらわれない

マスコミが警察発表を鵜呑みに報道していれば間違いがなっても自分たちのせいではないと言い訳が立つ。

「私は誰かを信じていました」

 

責任とは自己意識と自由意志から生まれることが前提となる。

1自分の行動がどういう結果をもたらしうるか予測する能力を持っていることが必要である。

2別の仕方の行動を決断できる環境がある。

つまり、責任には自己意識と自由意志が伴うのである。法学では意図的な行為と非意図的な行為との区別である。殺人と過失致死罪との違いだ。だから動物や子供の行動には責任は問われない。

 

ここで自己意識の自己矛盾がまたよく見える。

自己意識は自分をImeに分断することで、責任を逃れることもできるようになる、ということだ。

主体であるIは対象物のmeに対して責任を取らないのだ。すべてをmeの責任に負わせて、主体のIは大真面目な顔をして事態をただ嘆いていればいいのだ。

自己意識が責任を生んだのに、その自己意識はそこから逃げることができのだ。これが理性の範囲の中での意識の特徴だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学者は信用するものじゃない  大学に行ったら馬鹿になる

学問をするとリベラルになって、国を裏切り、理性を尊び、地域を壊す

 

学問を目指す段階で信用のおけない連中だ。

学問の本質

 

 

10人位2、3人はいいが、後は気をつけたほうがよい。

理由は学問がかかえる宿命があるから。

 

学問とはものを分けていくことで知識を増やすのだけれども、だからこその欠点がある。

 

ダメなところ

常識を正しいとする

内側を作らない  その方が客観性だと思っている。

ユニバーサルを目指す。  

責任を取らない 

受身なので責任を取らない。

正しいと思っているので責任を取らない

常識をとるので、責任を取らない

逃げた人達がするのが

 

 

大沢を「高卒のアナタに話がわかるわけないよね?」と鼻で笑った高学歴セレブ妻たちは学歴差別を当然のように行使している人々であるが、その経験だけで「学歴なんて必要ない!」と頑なに思い込んでしまう大沢も視野が狭い。大沢は彼女たちのせいで学業そのものにまで悪いイメージを抱いているのかもしれないが、何かを学んで自分の教養を高めるのはポジティブなこと。それを「私はセレブ主婦だから必要ない!」と捨てたうえ、他の主婦たちにまで当てはまるように誇張してしまうのは問題だ。今はタレントとしてテレビバラエティ出演の機会に恵まれ、多額の現金収入を稼ぐ夫と幸せな生活を送っているように見える大沢だが、一寸先は闇という言葉があるように、人生まだまだ何が起こるかわからない。驕るべからず。

(ルイコスタ松岡)

 

 

近代科学の基本的なスタイルはデカルト、ホイヘンス、ニュートンなど17世紀以後に確立されたもの。

物質に対する姿勢とは何か?

人の意識が物質に無関心で、内輪に介入しない間は、物質は堅いままでいてくれる。宇宙のいかなるものも振動しており、それを知性と呼ぶことにした。だからあらゆるものに知性は存在するのだ。

物質であるマルクトにもしつこく接近し続けるとイエソドに変化するということだ。

 

物質は人間の感情には関係しないという原理を見つけ出したのではなく、関係ないと思いたがったのだ。

無関心でいたかったのだ。そのための証拠を大量に見つけ出しては理論として構築しようとした。

そう、人は見たいものしか見えないので、感情は物質に影響を与えると信じている人は、その証拠を大量に見つけ出してしまう。生きたものと物質の関係は二つの境界面のテーマなので、科学も関心を抱いてしまう。そしてここが近代以後の人間の傷が疼く場所でもある。

 

知性は物質に働きかけることができない。できるのは感情と身体だけだ。感情がエンジンとなり身体が接触する。考えるのではなく、感じることに委ねることだ。ニュートンが死ぬほどこれが嫌いだった。