気持ちを鍛える 自然に踏み入らない者は信用できない
モノに支配されない心になるための鍛え法
脳がやっていること
条件反射を捨てたりつけたりする
ストレスを自分のものにする ストレスに慣れる
トレーニング方法
価値観をつくる 意識の評価にとらわれない
脳がやっていること
脳は正直です。
そして単純です。
慣れていないものや不快なものには反応してしまいます。
ストレスにもなります。体が嫌がるのです。
いくら性格が良い人でも、考えが良い人でも、関係なく。
本人が意識していてもしていなくても同じです。
虫に温度に湿度に音にイメージに匂いに味に言葉に強く反応してしまいます。
自分の学習した心地よい囲いの外に対して脳が不快のメッセージを出してしまうのです。
できることは一つだけ。
鍛えることです、訓練することです。
何回も、いつまでも、呼吸をするかのように。
これしかありません。
自己催眠や洗脳以外の方法は。
自己催眠も一時的なものできっかけでしかありません。
洗脳もずっとされ続けているのはは面倒でしょう。
好きになる必要はありません。
嫌いのままでいいのです。
ただ慣らすことです。
ただ対処法を学ぶことです。
これだけでいいのです。
生物学で言うと、
五感からの情報が「感覚入力(Feeling)」として情動反応を起こし、それが感情になります。
情動とは「感覚入力に伴う反応」で、感情とは「情動反応の出力結果」です。
この情動反応(Emotional response)の訓練をせよ、ということです。
五感や記憶からくる感覚が大脳辺縁系に入ってくると、そこで快、不快の判断を意識するかしないかに関わらずします。
すべてのインプットに対して自動的に辺縁系が反応してしまいます。 そしてそれを体験として学習してしまうのです。
蚊に対して不快と感じ、その刺激が自律神経を通して体内にメッセージが放たれます。 ストレスです。
直ちに交感神経系の活性化の指令が下され、血圧・心拍・呼吸の増加などと共に「筋肉の収縮」が起こります。
寒さの温度、部屋の清潔度、汗の臭い、耳に入るトーンとありとあらゆるものが、判断されてしまいます。
ですからそこで不快とならないようにするには、訓練しか方法がないのです。
体験した不快は記憶として残っていますから、
前の体験で学習してしまったことを一般化させないで、一つの具体例にするのです。
実践のレベルで言うと、寒くても大丈夫のように厚着をする、体内から熱が出るように運動をする、汗が気化する前に拭き取るなど、寒さに対して不快に感じない練習です。できれば文明の利器を使わない方法がいいです。でないと文明が機能しなかったり、ない場所では対処法がなくなり不安になってしまいますから。
部屋が汚れていても不快にならないように、もっと汚れている部屋で暮らしたり、汚れとは科学的に菌がどれほどいるのか把握して、それが生命体に害を及ぼすものなのかどうかを理解することです。そしてその後に、汚れているよりも清潔な方が好ましいので、掃除をする、といった行動です。
寒さに対して、強く不快に反応してしまうのではなく、寒さに対処する手段をいくつかもつことにより、不快の反応は弱まります。
汚れに対して、強く不快に反応してしまうのではなく、汚れに対する手段をもつことにより、不快の反応は弱まります。
鍛え続けていないと、どんどん脳にとっての気持ちが良い方へ、適応力は固まっていきます。ところが大自然は脳の望むことばかりではありません。脳が好まぬ環境が自然にはあります。問題はここです。
そこでヒトはますます自然や他者を拒み、脳の快適空間の環境の中で暮らそうとしてしまいます。
このような環境の中で暮らす人の言う「優しさ」や「平和」は、その囲いから出ると、もう通用しなくなってしまうものです。ですからこのような人はできるだけ、脳の快適空間を拡げる運動を起こそうとします。都市化や言語化です。そして癒しのために同じ枠内であることを条件とした偽りの田園化と身体化(公園、ヨガ、ジム)です。
意識や理念や都市の中にいる限りは「優しさ」と「平和」の中で暮らすことができます。ところが、このような脳の快適空間ではない場所や状況では、「優しさ」と「平和」が通用しなくなってしまいます。例えば「多様性を大切にしよう」「生き物の尊さを知ろう」「生命体と共生しよう」と平和な思想に溢れていても、藪の中に入り込めば、囲いの中の「平和」は、囲いの外の蚊の大群に直面するために、大脳辺縁系で蚊は瞬間的に不快と判断されて、「他者への優しさ」が簡単に敵意に移行してしまいます。本人の理性や知性はそう望んでいなくても、体がそのように反応してしまうのです。
意思が強かったり、大きな理想を持っているなど関係がありません。 情動反応の訓練をしていない者は、いくら論理性や理性や知性を持っていても、大脳辺縁系が反応してしまうので、仕方ありません。
そんな人はどんな良い人であっても、優しい人でも、残念ながら信用できる人物ではありません。
考えが良くても、体の反応は意識とは違いますから。結局は言葉だけで何も行動はできません。
人の価値基準はその人の考えではありません、情動反応をちゃんと鍛えているかどうか、です。
これには訓練しかありません。
他に方法がないのです。
お願いします。
条件反射を捨てたりつけたりする
好きな料理が目の前に出てくると、体が反応します。酸っぱそうな梅干が出されると唾液がにじみ出てきます。
どちらも条件反射と呼ばれるもので、外からの刺激(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)から体の反応までの流れにショートカットを作ることで、意識を経由する必要がなくなり、経路を簡略化し、時間を短縮化できる便利なシステムです。いつもベルを鳴らしてから犬に餌を与えると、いつからかベルを鳴らすだけで犬は唾液を出して喜ぶ、パブロフの犬と同じです。
これは効率が良いシステムなので、生命体の多くはある条件の時には決まった行動を無意識でするようになっています。みんなは意識が判断してから行動していると思っている人も多いかと思いますが、実際は、この条件反射と無条件反射と呼ばれる本能行動による割合が極めて高いのヒトの行動です。パーセンテージの割合を調べた研究結果を知っている人がいたら教えてください。
とても便利なのでこのシステムを多用してヒトは生活していますが、いくつかの弱点もあります。
例えば、過去と現在では状況が変わっているのに、この条件反射を更新していない場合です。例えば赤ちゃんの時に猫に噛まれた経験がある子は、書き換えられるまでは、猫を見るたびに心拍数と血圧が上がります。大きくなるとヒトにとって猫は小さくなるので、人に対しての噛む殺傷能力も下がり、噛まれても被害のない経験を数回するともう猫を見つけても血圧が上がることはなくなります。
次にはこの条件反射を意図的に作り上げて、逆に利用する方法というのもあります。例えばダイエットというテーマでトレーニング方法を後で具体的に見てみましょう。
ストレスを自分のものにする ストレスに慣れる
気持ちを鍛えるのに、もう一つの大切なことは「ストレス」との付き合い方です。ストレスには意識と無意識の下(もと)があり、無意識とは字のとおり、本人は気がつかないストレスです。これは現在の五感だけではなく、過去の記憶、未来の不安からもくるので、厄介です。
五感に限って言うと、これは避けれれば避けるという選択肢があります。しかしそれができない状況では、ストレスに慣れて過敏に反応しない方法を採ることになります。避けることができないのならば、ストレスに耐えて受け入れるか、徐々にストレスを感じない思考法や体の反応に変えていくしかありません。どちらも有効な反応ですが、ゆっくりと丁寧に向き合う戦略が必要です。そうしなけば逆効果になるので、慎重さが大事です。
体感と条件反射のストレスを低下させる実践
暴露反応妨害法というのがあります。
苦手と感じてこれまで恐れていたことにあえて立ち向かい(暴露法)
これまで不安を下げるためにしてきた強迫行為をあえてしない(反応妨害法)
暴露反応妨害法を続けていくと
苦手なことに直面してもほとんど不安を感じなくなります(つまり苦手なことがどんどんへっていきます)
強迫行為をしなくても不安にならなくなります
強迫観念がおこりにくくなります
その結果強迫症状に支配されない自由な生活ができるよ うになります
イメージと無意識と体感を一つにするトレーニング方法
具体的の方がわかりやすいので、ダイエットについての条件反射の書き換えと付け足しの方法について見てみます。
本当にダイエットしたい人は「ダイエット 潜在意識を意識化する」を見てください。楽しく痩せる方法の実践例です。
こちらは例えとしてダイエットを使っているだけです。
多くの場合はダイエットは特に必要がないと、私は思っています。しかし、過度な肥満により、体の機能に大きな負担がかかっており、本人も変更を希望しているのに、実現できない場合は以下ののことを知ることが有効です。
スリムになる秘密は「一貫性」です。
ダイエットに失敗した理由は簡単です。
あなたの大脳辺縁系に「ダイエットが成功しないようにしよう」「太ったままでいるようにしよう」というパターン(回路、プログラム、法則)があるからです。
そんなことを思ってないよ、と信じていると思いますが、ここは無意識の領域なので、意識の力ではどうすることもできなのです。
ですから「自分の意識」はダイエットに成功しなかった理由を探して、例えば、意志が弱いから、とか、太る環境だから、とか、自分や周囲に原因を押し付けて、責任逃れの言い訳をしてしまいます。
普段わたしたちは意識していませんが、私たちの中には4つの自分がいます。本能と情感と理性と自己の4つです。これらが同じ方向を見ていると自己が思ったことは実現しますが、一つでも違う方向を見ているものがあると思うことを継続することができません。実現できても短時間だけです。
4つの自分が一貫性を持つためには、意識の領域である理性と自己の変更は簡単です。意識すればすぐに変えることができます。それに対して、厄介なのは無意識と呼ばれている本能と情感の領域です。特に情感の領域は条件反射として習慣になったパターンができあがってしまっています。ですからこの情感を司る無意識の仕組みがわかれば、4つの自分を一貫性としてとらえる技術がマスターできるわけです。
これがわかればダイエットに成功するのも簡単なことです。
無意識をコントロールしている大脳辺縁系に、新たなパターンを作り加えてあげればいいだけです。
では何故、大脳辺縁系には「太るようにしよう」というパターンが形成されたのでしょうか?
それは、「太る」ことによるメリットがあり、それによって心地よく安心して生きてこれたからです。太ることにより守られてきた、と言ってもいいでしょう。
・寒いところでも皮下脂肪が守ってくれる
・食料がなくなってもメタボがカロリーになって生き延びる時間が長くなる。
・食べることで自律神経が落ち着き、ゆったりすることができる
・食べることで幸せになる
・食べるのがクセになっているのでないと落ち着かなくなる
・食べないと生物は生きていけないのでないことは怖い
・人に安心感を与えて好かれる
・人に癒しを与えて仕事がしやすくなる
意識(大脳皮質)では太ると健康に良くないという情報が多くあるので「やせたい」といくら思っていても、意識が弱まると、大脳辺縁系の無意識の「太ったままがいい」という条件反射が優位になってしまうのです。
この無意識のパターンがある限り、いくらダイエットしてもまたリバウンドしてしまうのは当然です。
そしてダイエットの失敗体験という新たなネガティブなパターンを大脳皮質に付け加えてしまうだけになってしまいます。
無意識の中で起きているパターンを消したり、付け加えるために必要なことは「新たな体験」です。これを発見や気づきと呼びます。眼からウロコが取れる、というやつです。実は、この発見が正しいのか間違っているのかは関係がありません。体感が伴っているかどうかが問題です。
ダイエットで大切なのは無意識で起きている二つパターンの変更です。
条件反射の書き換えと言ってもいいです。体験(イメージ)と無意識と体感のセットで起きているパターンを消したり、新たに作ることです。
日本人ならば梅干を見ても唾がでてこないようにするようなことを意識的にしようとすることです。
また新たなゲームをしている時に、あのボスキャラが出たら青いボタンを連打するといった、新しい条件反射を学ぶことです。
ダイエットでは、無意識で行っている、「太る」と「安心」の結びつきを切り離して、新たに「○○」と「安心」を結びつける新しいパターンをつくる。
そして「やせるイメージ」と「快い時に起こる体感」を結びつけて新しいパターンをつくることです。
血圧、呼吸、心拍数、鳥肌、などを含めた体感は、情感と深く結びついています。安心してゆっくりと呼吸すれば心拍数は下がり、興奮して呼吸が浅くなると心拍数は上がります。
もし「太っている」ことと「安心」が結びついているのならば、例えば、ゆっくりとした呼吸法と安心を強く意識することで結びつけてみます。安心したい時は食べるのではなく、息を吐くことに意識を向けます。このパターンを繰り返すことにより、二つの相関関係の実績が積み重ねると、太っていなくても呼吸法によって安心を得ることができることを実感すれば、「太っている」と「安心」の結びつきは弱まります。安心するための代用ができたからです。
次に、新しいパターンができるとはどういうことなのか見てみます。
興奮には快と不快があります。快には近づき、不快には遠ざかろうとします。
ということは、近づこうとする反応を起こすためには無意識の領域に快を作ってあげれば良いわけです。
わかりやすく言うと「嬉しくなるかどうか」です。脳内でドーパミンなどの脳の活性化する物質が出るかどうかです。体感が多種にわたって深いほど、イメージと情感の結びついたパターンが強化されます。
ですから、喜びの刺激をイメージすることで、パターンが大脳辺縁系と小脳に付け加えられます。
ダイエットで言うと「スリムになったらあなたはまず何をはじめますか?」という質問です。
これによって、早速、いろいろとやりたいことのイメージをはじめるでしょう?あの服を着てみたいとか、ビーチにバカンスに行ってみたいとか。
これが大切なのです。スリムになっている状態をイメージすると嬉しい気持ちとワクワクしたり背筋が伸びるような体感だったりが出てくるとしめたものです。イメージ(経験)と情感と体感の新しいパターンができるからです。
無意識の領域は繰り返すことで新しいパターンをつくる性質があります。いちいち情報を意識に伝えなくても、無意識のシステムでオートマチックに反応することで、回路を簡略化して短時間で反応できるようにするためです。これが私たち生物が条件反射を多用している理由です。
この繰り返しにより、パターンは強固なものとなり、イメージを思い浮かべたり体感を経験することで、快と不快に反応する無意識にもつながるので、これまでの学習してしまった無意識のパターンを消したり、新たなパターンを学習することができます。
これが全てです。このイメージと体感のセットを何度も繰り返すことにより、パターンが大脳皮質と大脳辺縁系の両方にでき、それが本当に出来たなら、もう意識をしなくても、無意識が今までに勝手にしていた「太っていたい」というパターンを作動させなくなります。もう「太っている」必要がなくなったからです。そしてスリムになることが快感になり、スリムになる判断を無意識の領域がオートマチックに選択しようとします。
ポイントは、イメージと体感を結びつけて、それを繰り返すことで、無意識の回路を書き換えることにあります。
一度、このやり方をマスターすると、ダイエットだけではなくほかのことにも色々と汎用できます。
イメージすることによって新たなパターンを加わえる方法は、一段と深みのある人生になります。いままでの責任から逃げたり、消極的な対処法ではない「向き合い方」が、自分の中から現れます。
価値観によって生かされている ならば良い価値観を持とう
ヒトは、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされている。
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまいます。
そして我々はその欲求が決まると、それに対する行動しか選択できなくなります。
もちろん、我々人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることはできます。
ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、欲求が生まれ、それに反する結果を選択するということはできません。
そこには自由意思はないということになります。動物は価値観に対して選択の自由を持っていないのです。
では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いのか?
価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。
しかし価値観の種類を増やすことはできます。
ただ価値観の方を自分の意思で変更すれば良いのです。
本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。
自分の意思によって価値観を持てれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということです。ヒトが自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を今までの横に新しく置くことが必要です。
だけど、その選択にはまた基準が必要です。
それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、ヒトは価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
どんな価値観があるのだろう、どんなのがいいのだろう?
自分個人のものから、お釈迦さんのまでいろいろあります。
オススメは自分を含めた周りから始めることです。
家族、近所、仲間、共同体。
大きすぎると大変なので、小さいのから始めるのがいいです。小さいものから大きいものへ拡大するのが鉄則です。大きい宇宙、地球、人類、国のようなものからはじめると、自分を押しつぶしてしまうので厳禁です。
最後にはお釈迦さんみたいに、石までも自分の仲間にしてしまうのがすごくてよろしいです。
この世の全ての現象に拘らない価値観です。慈悲の動機に基く行動選択です。
欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。
幸せになる方法
ひとたび満足感が学習されると、次からは期待値に上回ることを前提とした「予測報酬」によって行動の動機を発生させることができるようになります。動機を発生させますと、当然、この時点ではまだ何の報酬も獲得されていません。にも拘わらず、既に脳内では以前に体験した既知の幸福感がむくむくと再現されているというわけです。
満足感や安心感は、結果が出る前に幸福感が発生してしまいますので、基本的には報酬が与えられる必要そのものがないわけです。
少々奇妙に思うかもしれませんが、これは情動学習を用いる「報酬系回路の予測機能」です。そして、実際の結果と比較されないならば期待値を下回るということもありません。
このように、何の欲求もなく行動が選択され、報酬が与えられなくとも幸福が得られるのは、それは過去の体験に基づく「架空の予測報酬」が脳内に再現されるからです。このため、一見それはあたかも無報酬な行為のように思われてしまうわけですが、そもそもこれが報酬反応というものの性質であり、脳内ではこれによってもたらされる幸福感が「無償の愛の動機」ということになります。
意識の評価にとらわれない生き方 無我の境地とは
ヒトはこの意識でこの世のできごとを認知してしまうので、それに囚われてなんでも評価してしまいます。
仏教の教えでは、ヒトの認知することは全てが、意識が勝手に好きなように評価してしまった世界(すわち幻)
であるので、幻にとらわれな無の境地に至る生き方をするようにに説いています。
お釈迦様は、幻に振り回されたくなければ「意識の評価を行わなければ良い」と仰っています。
「無我の境地」というのは、我を無くすことではなく、意識の主人である自我が、大脳皮質で論理を考え、大脳辺縁系で「ことの善し悪し」を判断してしまうので、それらをやめる、ということです。 すなわち無になるのではなく、判断することをやめるのが、大切になります。
いくつかのアプローチがあります。
意識は自我から発生するので発生しないようにする、という瞑想法。
意識が発生する大脳皮質の働きを抑える呼吸法。
発生した意識の評価ができないようにする、酔っぱらい法。
他のことに集中して意識の評価をさせない ランニング、山登り、長唄。
知性を使って、評価したことも実は立場によって善し悪しが逆転するので、評価を気にしないようにする方法
「無意識の評価も行わなければ良い」ので、その訓練も必要です。条件反射をやめたり、新たにつくる訓練です。
評価してしまう大脳辺縁系は無意識なのでコントロールするのは難しいように思っている人もいるが、よく観察すると快と不快のどちらに評価したのかは、後から自我を使って考慮してみるとわかるので、その評価をしてしまった根拠を探ります。 そして、その評価をしないためには、どのようにすればよいかを考えます。多くのことは条件反射になっているので、それが起きないように感性をすこしずつ鍛え上げて、慣れと経験を積み重ねることにより、すぐには評価をしない体質へと進化させることです。その時のコツはそれを楽しむようにできるかどうかということです。
すると、これを繰り返すことにより、快・不快の判断はフラットに近づき、無意識の判断の電気量は減り、末梢神経に信号を送る回数が減ります。
評価をしないというのは、評価をやめることではなく、自分が評価してしまうことを自覚して、それってあまりあてにはならないけれど、日常を暮らすには考える必要のない便利な自動的なシステムだと理解して、評価すること自体も肯定することです。
無意識においても評価をしないようにするには、どんな訓練が必要なのでしょうか?
まずは自分の行動を振り返ってみて、評価に反応してしまった自分をみつめてみましょう。
その原因を探してみて、それが問題と仮定で決めてみて、原因を改革した後に、同じ状況が起きるかどうか実験します。原因を変えて何度も再現して、反応が出ないまで続ける訓練を繰り返す必要があります。ですのでちょっと面倒で時間がかかります。
はじめは嫌いな毛虫に反応してしまうのは仕方がないのですが、可愛い毛虫のアニメのキャラクターに親しんだり、毛虫に会ったことを思い出しながら、それの大きさや色などを変えて、自分の嫌いな反応がなくなるところまで妄想で変化させることにより、条件反射を変える手法などいろいろな手段があります。
どちらにしても動物や人の意識と無意識は評価をするものなので、評価をするのは悪いことではありません。ただ評価しすぎると辛くなるので、評価するのを減らすのがいいですよ、というのが和尚さんの提案なのかなと思っています。
そしてその評価ってそんなに大したものではありませんよ、もっとはっきりといえば、取るに足りるものではないですよ、ということを伝えたいのだと思います。
その先も訓練を積んでいくと、評価するのも評価しないのもどちらも大切なので、同時に行えるようにもなれますよ、ということになります。
参考資料
個性の捉え方
個性と自己主張を勘違いしている考え方が多い。自己主張は仏教で言う小我で、最も忌まわしいものだ。人と違った身なりをしなければ落ち着かない。人と違う視点を強調する。これらは自己主張にほかならない。
深く静かに自分を鍛え、どの一日も短かったと思えるように日々精進する。その結果、自分を掘り起こし、他の誰とも違う充実した人生を進める。東洋の智慧。
本物の個性、自由は、宿命を受け入れ、ねばならないという気持ちで、必然と闘うことである。みんなとの共通性を目指して、工夫して努力する過程は個々によって違う。このプロセスをしっかりと歩んでいる者を「個性」の存る人という。
意識の違いだけではなく、条件反射の反応の仕方、体の欲求すべてがを含めないと個性とは言えない。
意識だけではなく情感を鍛えよう。
男が女に文句が言えない一つの理由
男がメトロポリスで暮らす限り、男はだんだんと苦しくなる。
もし女がメトロの中だけで快適に暮らせば、大脳辺縁系に快適な五感を好むようになる。
一言で言えばクリーンハウスだ。無臭、無菌、無虫、無ゴミの綺麗な部屋だ。
それを目指したり、それに慣れたり、それが当たり前になってしまうと、これが基準になり、それ以外のモノに対して大脳辺縁系は不快の反応をしてしまう。
ただこの美学が困ることは人間には体があるのだ。人間は動物の中の一種類なのだ。そして人間は自然の一部なのだ。
人間は脳の中だけで生きていない、というより脳自身だって体の一部なんだから。
男はメトロの外に出ることで金を稼ぎ、食べ物とエネルギーを運んでくる。メトロの外とは自然だ。そのおかげでメトロの中で暮らすことができる。ところが女の基準はメトロの外に出ないことにより、ますます鋭敏になっていく。すると自然と関わる男が許容範囲外の存在になる。はじめは街の臭いや煙草の臭いからはじまって、そのうちに男自身の菌や匂いまでが不快になる。
森田治療法
森田療法は内観療法と共に日本で開発された精神療法です。一番の特徴は「治そうとすると治らない神経症」に対する、受け入れ療法です。
一人で行える精神療法です。
森田療法には「心理療法士」は居りません。一人で治す精神療法と言われています。そうは言っても最初から一人ではできませんから、何らかの方法でやり方を習得しなくてはなりません。症状の酷い人は入院して森田療法を指導して貰うことはできます最も一般的なお勧めは精神科医に掛る事だと思います。森田療法を実施する医師に指導して貰いながら実践すると良いと思います。医師の指導の元で確かな森田療法を行う事が早い治癒に至る事になると思います。
対応症状 下記のような神経症に対してとても有効とされています。
(1)対人障害
(2)パニック障害
(3)強迫神経症。
(4)心気性神経症
神経症の大半は、従来の「コントロールモデル(普通に治そうとする方法)の治療法では「非常に治り難い」ので、認知行動療法でも「受容」して治そうとする新しい方法が開発されています。
(5)適応障害
社会に出て様々なストレスにさらされて、多様な体と心の不調に悩む症状を「適応障害」として表現しています。
森田療法は現在の境遇や過去を問いません。
森田療法はあなたの考え方や生い立ちを分析的に解説して是正するやり方では有りません。
今のあなたのままで森田療法を始める事ができます。
又、当初は森田療法に疑問を持ったままでも結構です。
問題点
1.「受け入れて治す」事はどういう事なのか。それが難しい理由、又その時の治った状態とはどうなるのか?これらについて、はじめての人に理解して貰えるような具体的な説明が上手くできていない。
2、難しい言葉を使用しているケースが結構多く、分かり難い。又、「あるがまま」のように言葉の意味はやさしいのに、どのように理解すればよいのか難しいと言うような言い回しも多くあります。これらは多分、悩んでいる人にどのように役立てて貰えるのかの分かりやすい記述が不足しているためとも考えています。
3.森田療法は良く体得するのものです。と言われます。しかし、理論からこの体得の間が空白でただ「症状を持ちながら目の前の事をしなさい」と強調はしますが、(これも一つの方法では有ると思いますが)その他の心理学的な知見に基づく方法等により、体得への道程を具体的に示すことができないでいます。
4.森田療法は人間の再教育です。と言う場合もままあちこちの記述で見られます。これに良く似た表現は時々出てきます。これは間違いではないのですが、症状があることを人間として傷があるような意味合いにも受け取れ、純粋な精神療法とは異なる印象を与えるような気がします。
5.療法が上手くやれているかどうか、図る目安がないので、上手く治らないような場合にどのように軌道修正すれば良いのか、分かり難い。
森田療法
1919年(大正8年)に森田正馬により創始された神経質に対する精神療法。神経質は神経衰弱、神経症、不安障害と重なる部分が大きい。また近年はうつ病などの疾患に対して適用されることもある。
なお森田正馬は薬を使わなかったが、現代では薬を併用することが多い。さらに元来入院が基本だったが、最近では通院が中心になりつつある。そのため重度や長期の人は入院、軽度で短期の人は通院が基本になっている。
またそれ以外に自助グループ「生活の発見会」や会員制掲示板「体験フォーラム」などの利用方法もある。なお日本国内だけでなく、海外でも中国を中心に活動が展開されている。
森田学説
森田正馬は、病(神経質)=素質(ヒポコンドリー性基調)×機会×病因(精神交互作用)と考えた。その後の慈恵医大の治療者は、森田神経質の発症機制=素質(神経質性格)×病因(精神交互作用)×病因(思想の矛盾)と表現している。
ヒポコンドリー性基調:いたずらに病苦を気にする精神的基調のこと。
神経質性格:弱力性(内向性・心配性・過敏症・心気症・受動的 )と強力性(完全欲・優越欲求・自尊欲求・健康欲求・支配欲求)を合わせ持つ性格。
精神交互作用:ある「感覚」に対する「注意」が強くなるとその「感覚」が強くなり、「感覚」が強くなるとさらにまた「注意」が強くなること。注意と感覚の悪循環。
思想の矛盾:理想の自分と現実の自分のギャップ。かくあるべしと思う「考え」とそうではない「事実」がある場合に考えを事実よりも優先すること。
生の欲望:向上・発展しようとする欲望。
あるがまま
森田療法では「あるがまま」という言葉が使われることが多い。
森田正馬はその著書で『治療の主眼については、言語では、いろいろと言い現わし方もあるけれども、詮じつめれば「あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない」とかいうことになる。』と述べている。また同じ著書では『ことさらに、そのままになろうとか、心頭滅却しようとかすれば、それはすでにそのままでもなく、心頭滅却でもない。』『当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、何とも思わないからである。そのままである。あるがままである。』とも述べている。
さらに晩年は、『理屈をいってもわからないから、ただ働きさえすればよい』『暑さでも対人恐怖でも、皆受け入れるとか任せるとかあるがままとかいったら、その一言で苦しくなる。』『強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいう事を、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、既に「あるがまま」ではない。』などともいっている。
なお森田療法で使われる「あるがまま」という言葉は「治療過程」と「治療目標」の2つの意味で用いられ、一般的な意味とは少し異なり「症状受容」と「生の欲望の発揮」の2つの側面があると考えられている。また北西憲二は「あるがまま」という言葉がさまざまに解釈され、理解の混乱を招いてきたことを指摘している。さらに鈴木知準のように、「あるがまま」という言葉は使わない方が良いと考えている人もいた。また立松一徳のように、とらわれの強い患者に「あるがまま」という言葉を使うのは禁忌で、『不安をあるがままには受けいれられない方が健全』と考える人もいる。
治療方法
入院
第一期 - 絶対臥褥(がじょく)期:患者を個室に隔離し、食事・洗面・トイレ以外の活動をさせずに布団で寝ているようにする。
第二期 - 軽作業期:外界に触れさせ軽作業をさせたりする。なおこの時期から主治医との「個人面談」と「日記指導」も行う。
第三期 - 作業期:睡眠時間以外はほとんど何かの活動をしているという生活にする。なお現代では適時休憩をとるように指導するところもある。
第四期 - 社会生活準備期:日常生活に戻れるよう社会生活の準備に当てられる。
上記の課程を40日〜3ヶ月程度行う。
通院
「個人面談」が中心だが「日記指導」を併用することもある。なお入院までの準備期間や退院後のアフターケアとして行われることもある。また並行して「生活の発見会」や「体験フォーラム」を利用することもある。
その他
生活の発見会 - 森田療法を相互に学習する自助グループ。
体験フォーラム - (財)メンタルヘルス岡本記念財団のホームページにあり、不安障害などに悩む人達のコミュニケーションの場。
全治と悟り
森田正馬は神経質が「全治」した状態に対して「悟り」という言葉を用いており、その体験者として釈迦や白隠の名前を挙げている。
また鈴木知準は神経質の「全治」と禅の「悟り」は同じ心理状態と考えており、宇佐玄雄は近い状態と考えていた。ただし森田正馬自身は神経質の「全治」と禅の「悟り」は全く違うと述べている。さらに宇佐晋一のように、神経質の「全治」は不安がありながらも働いている姿で瞬間、瞬間にしかなく、あるがままを「悟り」と考える人もいる。
なお北西憲二のように、神経質の「全治」と「悟り」は無関係と考える人もいる。また大原健士郎のように、神経質の「全治」と仏教の「悟り」は似て非なるものであり、治療者は森田療法を体験すると「悟り」を得られるなどという、おごった気持ちになるべきでないと考える人もいた。
治療結果
「全治」に到るまでの期間は数十日から数年と個人差がある。なお治療結果で「全治」や「軽快」の率がかなり高いが、「全治」や「軽快」の定義がさまざまであるため注意が必要。また「治療結果がどのような方法で得られたものであるか」にも注意が必要。なお森田正馬は薬を使わなかったが、現代では薬を併用することが多い。しかし治療結果が「森田療法単独」のものか「森田療法+薬物療法」のものかを明記していないものがあるので注意が必要。
くさみ
森田療法で治った人の中には、専門家ではないのに自ら指導的立場に立ったり、禅や森田正馬の言葉をふんだんに引用したり、治ったことを自慢する者の存在が指摘されている。このような「くさみ」のある治癒者は、森田療法特有の現象ではないかと考えられている。
また岡本重慶は「症状へのとらわれ」が「森田療法へのとらわれ」に変化することがあると指摘している。一つ目のタイプは「狭義の森田療法へのとらわれ」であり、何十年森田療法をやっても駄目であるのに、いつまでも森田療法をやり続けることなどである。また二つ目のタイプは「広義の森田療法へのとらわれ」であり、客観的に治ってないのに自分は全治したと主観的な錯誤にとらわれることである。このような人は症状へのとらわれを放棄するだけでなく自己内省も放棄して、人間的成長がなく自分は全治したという勝ち誇ったような驕りにとらわれている擬似的な治癒像で、森田療法で治癒した人によくある特徴(くさみ)として、かなり古くから指摘されていた。
その他
森田正馬は自身の療法を「神経質療法」「神経質の特殊療法」「自覚療法」「自然療法」「体験療法」「体得療法」「訓練療法」「鍛錬療法」などと呼んでいた。また森田正馬は「神経質」を「病」「病的気質や変質者(現在のパーソナリティ障害)」「病ではない」などと表現していた。さらに森田正馬は「治療」と言わず「修養」「教育」「訓練」「しつけ」などの言葉をよく使っていた。
なお森田正馬は患者に対して、医者には「治らない」とは言い難いから、「大分良くなった」と言えばいいと述べており、医者に「少しも良くならない」と言う患者は、医者に愛想をつかされると述べている。また森田正馬の側近患者であった井上氏や山野井氏は、森田正馬の前では「治らない」と言い難かったと述べており、山野井氏は「治らない」と森田正馬に言って、よく叱られたと述べている。
なお岩田真理は森田正馬が使う言葉の多義性や曖昧さを指摘しており、例として「ものそのものになる」「恐怖突入」「あるがまま」「自然服従」という言葉が同じ意味で使われている場合があると述べている。また「なすべきをなす」ことがかえって悩みを深くする可能性を指摘しており、この言葉は恐怖で動けない人がそのまま実生活に取り組むための言葉であり、教条的でどんな状況でもやるべきことをやらなければならない、という押しつけの意味ではないと述べている。
なお立松一徳は「目的本位に」「なすべきことをなせ」「恐怖突入」という言葉を治療中に使うことは禁忌で、これらの言葉が患者の治療抵抗を強化したり副作用の原因になる可能性を指摘している。また以前日本森田療法学会には、神経症を克服した体験を持つ者しか治療を理解できない、などのやや狂信的な考えを持つ者によって議論が困難になる場合あり、このような学会内の神経症的態度を克服できず自閉的な体質があったと指摘している。しかし最近はさまざまな分野の若い専門家の参加により、学会の雰囲気はかなり変化していると述べている。
また森田療法では患者が治らなかった時、原因が患者側にあると考える場合があり、田代信維のように森田療法で治らなかった場合は、明らかに患者の理解と実行の不完全さが原因と考える専門家もいる。なお治療効果を得るには患者自身の「治したい」という意思が重要であり、このような心構えがないと治療の過程で脱落しやすい。他の療法と比べると厳しく感じられたり、「生き方」や「人生観」に関わってくる治療法であるため、一部の患者には敬遠される場合もある。