仏典はどう漢訳されたのか 船山徹
仏教は総合的文化体系。
椅子、茶、砂糖、歯ブラシ(歯木)、須弥山世界、三千大千世界。
ガンダーラ プルシャプラ イスラマバードとカブールの間のペシャワール
「新アジア仏教史05 中央アジア」の松田和信「中央アジアの仏教写本」
語彙研究 初期漢訳研究
辛島静志「正法華経詞典」「妙法蓮華経詞典」「道行般若経詞典」
ジャン・ナティエ「最初期漢訳仏典案内 東漢から三国時代までの諸文献」
「倶舎論索引」 平川彰 平井俊栄
「瑜伽師地論総索引」横山紘一、広沢隆之
大正新脩大蔵経
仏典の総数 1076部 5048巻 「開元釈教録」
中国仏教漢訳経典史
58〜75 「四十二章経」摂摩騰(しょうまとう)インド人 洛陽にて 伝説の可能性大
150年頃 安世高(あんせいこう) 洛陽 「安般守意経」呼吸瞑想 「陰持入経(おんじにゅう)」
安息国アルサケス朝ペルシャ
179年頃 支婁迦讖(しるかしん)Lokakṣema月氏の出身 洛陽 「道行般若経」「般舟三昧経」
月支 大月氏国
cf.竺 天竺インド 康 康居国サマルカンド
247年頃 康僧会(こうそうえ)呉にはじめて仏教を伝えた 建康(南京)の建初寺 「六度集教」
支謙 「維摩詰経」 在家(優婆塞) 固有名詞を音訳ではなく意訳
290年頃 竺法護(ダルマラクシャ) 西普時代
北朝では、僧伽跋澄、僧伽提婆、竺仏念 → 鳩摩羅什 後秦時代の長安
375年頃 道安「綜理衆経目録」を編纂
400年頃 曇摩蜜多(ダンマミトラ) 大乗の懺悔と禅観である「観普賢菩薩行法経」南朝劉宋時代
求那跋陀羅(グナバトラ) 如来蔵思想「勝鬘経」「楞伽経」
402年 鳩摩羅什が後涼の都である姑臧(武威)から長安に強制連行 父はインド人、母は亀茲国王の娘
「摩訶般若波羅蜜経」27巻 「妙法蓮華経」
龍樹の中観派の「中論」「十二門論」や提婆の「百論」、説一切有部の「十誦律」
439年 道教勢力の北魏が北涼を滅ぼし、仏教徒は平城(大同)に強制送還、
南朝の建康に移動、高昌(トルファン)へ移動
500年頃 勒那摩提(ロクナマダイ)「十地経論」「入楞伽経」「深密解脱経」などの瑜伽教派
540年頃 真諦(パラマールタ)ウッジャインUjjain出身 建康 瑜伽教派「倶舎論」「摂大乗論」
那連提耶舎 末法思想「月蔵分」随時代
645年 玄奘 馬22頭 瑜伽行派が中心
690年頃 義浄 ナーランダーに留学 根本説一切有部の律や因明(論理学)を伝えた
982年 天息災 北栄時代の都である開封
翻訳者の語学能力
通訳を必要とした求那跋陀羅(グナバトラ) たった10ヶ月の建康における滞在 死去後にも翻訳続行
中国を全く話さなかった帛尸梨蜜多羅(シュリーミトラ)相手が口を開く前に意図を察知した達人
意思疎通ができる程度の中国語の真諦
総責任者であって翻訳者ではない、随の微尼多流支、那連提耶舎、唐の波羅頗迦羅蜜多羅、菩提流志、般刺蜜帝、般若、(訳場列位、経録 鵜飼1916)
自ら訳した外国人 鳩摩羅什、随の闍那崛多、在家の法智(中天竺出身)、支婁迦讖
梵語を操る漢人 竺仏念(涼州出身)、宝雲(南朝栄)、玄奘、義浄、惟浄
鳩摩羅什の訳経観
梵文を中国語の置き換えると、その美しい文藻(ぶんそう)が失われ、大意はつかめてもまったく文体に齟齬が生じる。まるで飯をかんで人に与えると、味が失われるだけではなしに嘔吐を催されるようなものだ。
「非徒失味、乃令嘔也。」
韻文のニュアンスは漢語では伝えられないことを深く自覚。
「法師は中国人が簡潔性を好むが故に、(序品以外は)省略を施して簡略化した」高弟の僧叡(大正55、75上)
意訳派だが、音訳や梵語文法も好む
菩提樹(bodhi-druma, Bodhi-vrksa)
如是我聞 evam maya srutam (Evam mayā śrutam) Thus have I heard
八備説 随の彦j
1仏法を愛し人を利益済度することを怠らない
2戎を厳守し悪行に染まらない
3三蔵に通達し、大小乗を共に理解して不明な点がないようにする
7必ず梵語を理解し正しく訳するように心懸けるが、梵学に縛られないようにする
8中国の辞書や篆書・隷書の書法に習熟して正しい中国語の表記を身につける
玄奘の旧訳批判
西域の人々もみな本経(旧訳)を敬愛しています。
ということはインドから見れば敬愛されているとは限らない、ということ?。
菩薩は分別を煩悩とみなし、分別の惑心の堅さはまるで金剛のようであり、唯一この経典に明らかに説かれる無分別の智慧呑みが、それを遮断し取り除くことができることを明らかにするために、それゆえに、「能断金剛般若」というのです。
音訳の革新性 地名・人名 舎衛国→室羅筏
唐の玄宗「御注金剛般若経」を始めとする多くの注釈が、明清に至るまで、鳩摩羅什に対する注釈であった。
訳さないもの 音訳にとどめる
1善業を生ぜしめる 仏陀、正覚した者 菩提薩埵 道に向かう有情
2呪文のように秘密にすることで効果覿面 陀羅尼
3複数の意味を含むため 簿伽梵Bhagavan 梵 Bhagavat 「世尊 世に尊ばれる人」
4昔からの習慣 阿耨多羅三藐三菩提 梵: (anuttarāṃ-)samyak-sambodhiṃ)「(最も優れた-)正しい-知識」、「(最も勝った-)完全な-理解」 一切の真理を正しく平等に知った最上の悟り
無上正等正覚
5中国にないもの 閻浮樹jambu 神話的大樹
文と質
「質、文に勝てば則ち野(粗野)。文、質に勝てば則ち史。分質彬彬として、然る後に君子なり」「論語」雍也篇
中国人は簡潔さを好む(秦人好簡) 鳩摩羅什「大智度論」
鳩摩羅什、玄奘、道安の美学は「文質彬彬」「文質相半」
キケロ、ルター、質よりも文を重視、訳者よりも雄弁家
文と質 |
優雅と粗野 |
職業 |
文飾と逐語 |
簡と繁 |
意訳と直訳 |
文雅 |
エレガント 品格 |
士大夫 役人 |
文飾 虚飾 自由訳 |
簡略 明瞭性 |
読み易い意訳 |
質素・質朴 |
実直 粗野 |
研究者 |
逐語 直訳 正確 |
繁多 煩雑な繰返 |
読み難い直訳 |
文重視 呉の支謙、西普の竺叔蘭、秦の竺仏念
質重視 後漢の支婁迦讖、西普の竺法護
東普の道安「五失本三不易」説
翻訳によって失われる五箇条 「摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序」
1語順
2本来の質朴性
3詠嘆の深みや強調による繰返し
4意味の解説
5質問に対しての答えの反復
三不易の2つの解釈
A容易ではない 中国の伝統的解釈
B改易しない 横超慧日(1958)
1聖者は時を顧慮して説かれているので、今風に変えることは相成らない
2聖人を凡人は理解できないので、微妙な教えを今風に変えることは相成らない
3聖人でもない凡人が経典に取捨を加えることは相成らない
偽経の意味 漢訳のいかなる面に飽き足らなさを感じていたか?
1主権者の意に沿わないため 「大雲教」 則天武后を弥勒仏の下生と見立てる
2主権者の施政を批判したもの 鳩摩羅什の「仁王護国般若波羅蜜経」
3中国伝統思想との調和優劣を考慮したもの
儒教倫理に根ざす「父母恩重経」(ぶもおんじゅう)
中国の五行説に基づく「提謂波利経」
老子や孔子に言及する「清浄法行経」
4特定の教義信仰を鼓吹したもの
懺悔滅罪の功徳を説く「大通方広経」
中国における観音信仰の実体を反映する「観世音三昧経」「救苦観世音経」
仏滅後1300年で仏法の段階的な滅尽を説く「般泥洹後比丘十変経」
5現存した特定の個人名の名を標したもの
北魏の高歓に言及した「高王観世音経」
6療病・迎福のための迷信に類するもの「延寿命経」民間信仰 「天地八陽神呪経」道教信仰
経典の三分類
1漢訳経典 Chinese Buddhist translation
2編輯経典 Chinese Buddhist compilation scriptures
3偽作経典 Chinese Buddhist Apocrypha 外典 経典外
支那 チャイナ
外国人が中国を呼ぶとき使う言葉。
チャイナ(英語)、ヒーナ(ドイツ語)、シーヌ(フランス語)、チーナ(イタリア語)シニカ(ギリシア語)
秦の名が音変化して西方に伝わり、古代インドでチーナスターナCinasthana
(シナスタン、シナの土地)とサンスクリット語で表記されたものが、仏典漢訳の際中国に逆輸入されて、「支那」と書かれたといわれている。
シナスタンは「震旦」、「真丹」、「振丹」などと書かれた。
玄奘も中央アジア、インドで自国が支那と呼ばれたことを伝えている。
仏典以外には、「宋史」に「支那皇帝」の言葉が見られる。
日本にも仏典を通じて伝えられ、空海の書物にすでに見られている。
新井白石の「西洋紀聞」など江戸時代中・後期ころからしだいに普及し、明治になって英語の China、フランス語の Chine などとの対応から、清国や中華民国の国号とは別個の広義の地域をあらわす名称として使われた。
このように、始皇帝によってまとめられた中国王朝「秦」ゆかりの名前で、英語やフランス語の発音にも対応している言葉であるが、中華民国以来日本人が中国人留学生に対して蔑称的に使ったため、中国人留学生の印象は
悪かったようだ。そうして1930(昭和5)年、中華民国政府から日本政府に対して公式文書に「支那」を入れぬよう申入れがあった。そして日本政府はこの申入れを受け、公文書には「支那」を使わないようにした。
シナ関連の言葉として
南シナ海、東シナ海
インドシナ(インドとシナ(中国)の中間に位置し、両大陸の文明の影響を受けた地域。狭義ではベトナム、カンボジア、ラオスの3国のみをさす)など現代日本でも(決して蔑視なしで)使われている。
なお、インドシナとは、ペナンに滞在したイギリス人の医者で詩人のジョン・レイデン (1775‐1811)の造語と言われる。
漢訳が中国語にもたらしたもの
A仏典で初めて成立した熟語
B仏典で転化した熟語
C仏典で転化した漢字
D仏典で初めて成立した漢字
E仏典で語法の変化
A仏典で初めて成立した熟語
縁起、世界Loka-dhatu、輪廻samsara、煩悩、羅漢、四苦八苦、言語道断、金輪際、億劫、滅相、奈落、餓鬼、兎角
B仏典で転化した熟語
衆生→Sattva パーリ語の satta薩埵 一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。
普通は、迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。
玄奘はSattvaを「有情」と訳す
居士(官に仕えない人) →優婆塞grha-pati(在家)
精進→ 決然として勇猛果敢、努力して怠らない
C仏典で転化した漢字
寺 (役所、官舎)→ 仏教のお寺 伝統的説明では鴻臚寺(後漢時代)がはじめの転化
禅(天を祀るという意味 禅譲、封禅 )→ dhyana jhanaの音訳 禅(音訳)定(意訳)
業 (仕事、業務、生業)→ Karma
劫 (脅かす、奪い取る)→ kalpa (天文学的長い時間1000万 一説には10万)
色 → rupa モノ
仏典で専ら音訳語として用いる文字 仏、陀、尼、迦、菩、偈、那、羅
於 梵語の於格(処格) 〜において、〜の時に、〜の場合に
D仏典で初めて成立した漢字
阿耨多羅三藐三菩提 アヌッタラー・サムヤクサンボーディ 無上正等正覚
奈落naraka
梵、塔thupa(プラークリット語 塔婆)、魔、僧、薩、鉢、伽、袈裟、
可能性は、刹、懺、唄、曇
僧はサンガの音訳
梵漢双挙 禅定、偈頌、三昧正受、懺悔
魔羅マーラ(障 修行するための障碍となる) 磨→魔
E仏典で語法の変化
故 文末に理由を示す「故」がくるのは梵語の文法をそのまま直訳しているため。
仏教散文の基本は四拍子 四字句で統一された「無量寿経」
根源的だからこそ訳せないもの
神deus 大日を拝みあれ ヤジローによる通訳 フランシスコ・ザビエル(1506〜52)
大日とは宇宙の根源としての大日如来のこと。
華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。
梵語Vairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。
なぜこのようなことになってしまったのか?
新たな造語は理解されないか、もしくは予期せぬ誤解の生じる可能性をはらんでいる。
1原語のままに残そうとする場合は音訳という対処法 日本語の場合はカタカナ
2新たな語句を開発
3あえて近似の概念を訳語として用いる AはBのようなものである。
異文化間の対応とズレ ダブル・スタンダード 両義性 誤解
ariyaを聖と言い表した瞬間に、仏教の「聖」は純粋にインドの概念ではなくなり、中国のの伝統との関係性を切り離せない運命に巻き込まれる。これが翻訳の宿命である。
NIRVANAニルヴァーナと無為 隠喩的に指し示す 異文化間での概念の対応づけ 文化対応型
ニルヴァーナはロウソクが尽きて灯火が消え入るように尽き果てた状態
nir-は否定・欠如を意味する
「涅槃」 泥日(ないわつ)、泥洹(ないおん)と音訳
後漢の安世高訳「陰持入経」では無為と訳している(ザケッティ2002)
無為は「道の常は無為にして、而も為さざる無し」「老子37章」 人工的な作為をしないこと
無為と訳せば知識人には意味はよくわかる、しかしそれは誤解の始まりともなり得る。
わかりやすさと誤解とは一枚のコインの表と裏である。
tathatāと本無 「あるがままであること」 迷いを離れた真実のありさま
呉の支謙「大明度経」、秦の竺仏念「摩訶般若鈔経」後漢の支婁迦讖「道行般若経」は
「本無すなわち本来的な無」と訳した。この「無」が老荘思想に基づくのは確かである。
真如
金剛般若経 のサンスクリット本ではtathatāと表現され、中国では「本無」後に「真如性」と訳されている。
「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。
真如はまた、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる。
nagaと龍 似て非なるもの
インドでは実在の生物としてのヘビやゾウであり、さらに神話的存在をも意味する。
devaと天
devaはインド・ヨーロッパ語の同類では英語、フランス語、イタリア語のdivine、スペイン語のDivinaのこと。
日本語では神、中国語では天だる。
梵語のdevaはしばしば複数形をとり、Deva界に住む具体的な神々を指すのに対して、
天は「天・地・人」「天命」「天意」などのように単数形である。
Bodhiと道
Bodhiは菩提と音訳されるが、意訳では「覚(かく)」「道(どう)」である。
「覚」は原語に忠実だが、「道」は文化対応型の翻訳である。
Bodhiは成道すなわち「悟る」という意味である。
arhatと真人 rsiと仙人 (現代日本語では聖仙、詩聖、賢者)
真は「莊子」のキーワード
arhatの音訳は阿羅漢は、支婁迦讖の「道行般若経」でみられるが、呉の支謙は「真人」を用いている。
これは、仏教修行者を道教修行者のイメージに重ね合わせることにほかならない。
中国において、儒教のアンチテーゼとして、仏教と道教はいろいろな点で重なり合う。
sutraと経
sutraは縫い糸や紐を意味し、一つに束ねることに転義した(マイルホファ1963)
経は緯度経度のように、織物の経糸(縦糸)を意味する。
3つの聖
聖は耳と壬と口からなる。壬は人のつま立ちする形である。祝祷して祈り、耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聴くことを示す。
聖の初義は神の啓示を聴きうる者であり、その徳を聡といい、その人を聖という(白川 1994)字統
儒教では聖人とは作者の聖人、つまり中華文明の製作者を意味すると理解された。 「礼記 楽記篇」
「堯帝・舜帝・禹王・湯王・文王・武王・周公旦・孔子」の八人を指す。
老荘では、仙人を理想とする。仙とは不老不死の意であり、真人ともよばれる。
「五穀を食らわず、風を吸い露を飲み、雲気に乗り、飛龍を御して、四海の外に遊ぶ」 「莊子 逍遥遊篇」
儒教的聖人を絶対視せずに、相対化する。
出典「抱朴子」「老子2章、19章」
聖なるもの
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儒教 |
一世代に一人 |
世を治める者 |
文明の作者 |
周公・孔子 |
超人sage |
道教 |
複数でも可 |
道を得た者 |
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黄帝・老子 |
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仏教 小乗 |
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高貴な立派な人 |
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阿羅漢 |
徳 noble ariya |
仏教 大乗 |
煩悩から離れる |
崇高な人 |
初地から十地 |
菩薩 |
holy one saint |
景教 |
聖典、聖誕節 |
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アッシジ聖人 |
神聖holy saint |
日本 |
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半僧半俗 |
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儒教的聖と景教(ネストリウス)的聖を介在するのが仏教的聖、仏教の聖は景教の聖に借用され、取り込まれた。
小乗の聖
ariyaを賢人と聖人の両方の訳がある。
安世高は賢、支婁迦讖は聖 後漢時代からariyaを聖と訳した
大乗の聖
悟りに向かう大いなる者である「菩薩」は「一切衆生を利益して悟りに導くという大誓願」を立て、輪廻転生を繰返して修行し、初地とよばれる境地に達する。最終的に十地に達して仏になる。
この初地から十地の菩薩を聖人と呼ぶ。
この世で初地に到れるものは極めて少ない。
例えば、龍樹や無着が到達した階位は初地だった。一般の修行者は到達不能な高い境地
観音などの天上の菩薩は神性を帯び、神通力を発揮して衆生を救済する存在
日本の聖 呉智英
半僧半俗の聖 五来重
逐語訳が仏典漢訳の基本 word-for-word translation 単語中心主義
逐文訳 sentence-for-sentence ではない。 「仏祖統紀」
語彙研究が重要な課題。
綴文による語順序入れ替えで、読みやすくしている。
文化対応型訳語と動的等価
ariyaを聖と漢訳したことを考察したEugine A. Nida「翻訳学序説1964」
厳密には二言語間に完全に同一な等価物など存在しない。
翻訳という等価を形式的formal等価と動的dynamic等価に区分する
形式的formal等価 起点原語の視点 逐語的翻訳
動的dynamic等価 目標言語の視点 逐文的翻訳
漢訳のスポットライトは翻訳可能性と音訳の問題
鳩摩羅什と玄奘「五種不翻」
陀羅尼は音訳のみ 言霊思想 ヴァイブレーションの意味、間の意味、リズムの意味、トーンの意味
原語が複数の意味を同時に含意する。
音の近似による掛詞
世親の倶舎論の第四章(業論)で「sitalatvad iti niruktih」、
とsitala(冷たい、静か、激情を掻き立てない)から戎(sila)である、という音による掛詞の言葉遊びないし洒落を使って、silaを説明している。
真諦も「冷だから尸羅(戎)である」として、ちゃんと訳せていない。(大正29、230中)
玄奘も同じ(大正29、73上)
梵語にオノマトペ的要素がある場合、それをうまく生かして漢訳した例は見当たらない。
誤読の可能性 3つの立場
発信者 訳者 受信者
各立場によって感じているものが違うという事実。
お互いの前提が違うという事実。
一つの言葉や文や表現では理解し得ないという事実。
翻訳学
ギリシャ古典 ラテン語訳 キケロ −1c 逐語訳を否定
「私は訳者interpreterとしてではなく、雄弁家oratorとして翻訳したのである」
聖書 ラテン語訳 ヒエロニムス4〜5c 逐語訳を否定
マルティン・ルターも逐語訳を拒否(マンデイ翻訳学入門P36 )
近現代の翻訳論 17c ジョン・ドライデン 翻訳の三分類
19c フリードリヒ・シュライアーマハー 翻訳の様々な方法について
19c ワルター・ベンヤミン 翻訳書の課題