大学に行ってパーになろう       温室のバラは美しい

副題  植林したら酸素が増えると思ってしまう思考法に陥らないために

    大学は「あるがままの姿」や「いま・ここ」から逃避するための刺激的な娯楽に過ぎないのか?

 

はじめに

前に不思議に思ったことがある。

なぜ大学に行った人は

地元から離れて大きな街に移り住むようになるのだろう?

科学の進歩を支持して、その怖さについては言及しないのだろう?

考え方は優しいのに他人の体調についてはわからないんだろう?

正しいことを言うのに自分では実践しないのだろう?

理想的なことを考えているのに実際は他人を踏みつけるのだろう?

アタマは良くなるのに心情は冷たくなるんだろう?

知識は増えるのに品格は下がるのだろう?

 

それとも、この感覚は私のまったく単なる錯覚で勘違いなのだろうか?

きっとそうに違いない、でも・・・。

 

ことわり

ここに書かれてあることは、私のオリジナリティではなく、諸先輩たちの業績や文献やインターネットの寄せ集めです。極端に言うと、先人たちが作り上げたあらゆる文字や言語を私たちが自由気ままに曲解したまま使わせてもらっているように。

そして、私はただ自分にとって都合の良いところだけを引用して、勝手に話を作りあげて新たな文脈にまとめ上げたに過ぎない。著作権なども考慮に入れず引用しているのでお詫びとお礼を先ずは舒べておきたい。そしてこの偏見で築いた見解の責任は全て私にのもとにある。

 

目次

第一章

大学は何をするところ   意識 順列 サラリーマン養成所 教養 学問 膜もしくは城壁の強化

大学のいいところ メリット

大学を卒業すると    科挙 特権 飛び級 支配する側  軍隊 点数で評価する人・組織・制度

            就職に有利 安全地帯にいられる 理性で他者を踏みにじれる

大学の内容       試験は条件反射 早く反応できるようになる 有名大学生のノートの取り方

 

第二章

大学の弊害 デメリット

ポストがない現実 進学率 プライド

論理性の限界    意外にも論理性を好む文系、そして理系は想定外がお好き

神の数式 美しさ  対称性   重さがゼロになる    

理念中心の基準の欠点   正義 理念 実行力を学習する場所が大学? 

欠陥だらけの脳   脳の限界 自動修正 自己保身 自己弁護 

「考える」と優生思想になる?

知識をつければ人格が下がる? 意識が弱いことが優しさ? 

頭は熱くなるけれど、心情は冷たい人になる?  人の身になれない、なぜならば自分の身がわからないから。  

仏さまがいったこと  意識ではなく無意識に譲る 自分のカラダの声が聞こえない。

法則を見つけるために世界を無菌化する人  

五感の外側の事実に操作されてしまう人たち  大学に行った人に常識の誤謬例題

科学の主観性  ヒトの騙し方   一面性 一要因性 一時性 誘導性とバイアス

 

第三章

理性を磨いてしまった人の陥る傾向  理性と理念のメリットと限界

聖書の中の知恵

4つの眼 4つの領域 4つの自分 

正しさ     論理性の限界  正しさの威力と踏みにじる力

自己意識のメリット  法則による未来予測   

遠近法

人工衛星の視点     

過剰一般化

 

西洋医学の限界   理性のできること・限界  パート2   

機械と生命体

新陳代謝の奇跡 自己治癒力

 

理性と本能の対比  誤解された図柄  ココロとは波  カラダとは溶解

心理学

脳機能学

内臓感覚

 

自己意識の成り立ちと限界 パート2   

意識を図で描いてみると  モンティ・ホール問題

理念に身を売る人たち

はじめに結論からはじめる本末転倒     

カラダには悪影響の意識  他者の意識の痛みは感じるが、内臓(他者)の痛みを感じる心臓の働きが足りない

失感情症と失体感症

平均主義の習慣

 

第四章

バランスの可能性の扉

在学中の人たち・大学に行ってしまった人たちへ  小賢しい理性より大バカもいいんじゃない?

理性的アプローチ  因果関係を利用する

智性的アプローチ  多層を並列で同時に思考する

身体的アプローチ  身になるためのアクセスは呼吸である

未来の大学 自己意識と意識には限界があることから教えはじめる

 

別冊

脳は可愛がってあげなくっちゃ」  潜在意識と自己意識の使い方 

ツールとしての脳の利用法  脳は使うもの、信じるものじゃない。

 

はじめに結論

大学は脳を鍛える場所である。でも、これがいけない。

えっ、何で?

だって、そこが鍛えられちゃうと他のところが弱まっちゃうから。

たとえば、通勤のために駅まで毎朝30分かかって歩いていたとするでしょう。ところが、ある日、左足首を挫いてしまって、10日間ほど、家から出られなかったとする。すると見る見るうちに左足の筋肉が衰えていくのが分かる。次に松葉杖を使って駅まで行くようになると、上半身があっという間に鍛えられる。ところが雨の日が続いたので、杖をやめて車で通うようになると、次第に足も腕も筋肉は衰えるようになる。代わりに鍛えられるのは「意識」。車という重たい塊が高速で移動すると大きなエネルギーになるので、もし少しでも意識が途切れてしまうと、自分だけではなく周りにいる人の命にも係わることになってしまう。

もう逃げ道はない。脳を鍛え、注意力を増す訓練をするしかない。

するとどうなるか?

そう、他の部分が劣化してしまう。ヒトをはじめした生命体というのはこのように、使うところは発達し、使わないところは退化するようにプログラミングされている。しかし、いくらプログラムされていても、そのスイッチがすぐに押されるとは限らないので、環境の変化に対してすぐに対応するとは限らないんだけど。

このように脳を鍛えるというのは、一見いいことのように思われているが、実は、他の大事な部分が確実に劣化しているということでもある。そして脳を鍛えている間は、カラダはこの状態を緊急事態と判断して、脳の活動を優先させてしまうため、免疫細胞をはじめ酵素やホルモンが生成されにくくなる。

アタマに頼って意識の時間を増やすとカラダの機能を低下させてしまうのだ。

アタマとカラダのどちらにも良い、という都合のよいバランスとはどのあたりなんだろう?

 

まえがき    意識ができること、そして限界

人は目の前の動きを捉えることができない。これが意識の限界。

そんなことはないだろう、って誰もが思うんじゃないかな。

ところが、意識のメカニズムが分かると、ヒトは事実を見ることができない、ということがわかる。

常にこの世は変化しているので、まずは変化し続けるモノを囲い込んで動きを止めて固定化させ、そこに次々と線を引いて分けることで初めて意識は外界を信号として認識することができる。

常に変わりつづけるのがこの世の慣わし。それなのに、もし変わらないとしたら、というのが意識が働ける大前提。ここに悲劇と喜劇の始まりがある。

だから目の前に葉っぱが落ちてくるように見えているのも、実は映画やテレビのフレームと同じで、静止画が連続しているのを脳が勝手に無意識のうちにつなげていかにも切り目なく動いているように、「わたし」に錯覚を与えているに過ぎない。

これを無理というか、便利というか、暴力というか、勝手にというか、優しさというか、強引というか、試みというか、恩恵というか。

意識はこのように何でも囲むことでしかはじまらない。暗闇にスポットライトを当てる、ロープを張る、舞台にのせる、といった枠を組んで囲みを作ることでやっと幕が開く。そして次に囲んだ内側を「分ける」ことではじめて「認識」をすることができる。

一つの生きたものを二つに割って死んだものにするのだから、アタマを使えば使うほど冷たくなるのは必然の理。

これが人間の特徴の理性というもので、他の動物から見れば羨ましくなる特技の獲得だけど、その分だけ、情や体の感覚を消失させた。何かを得れば何かを失うのは仕方がない。

意識の世界では時空は限られているのだから。限ることではじめて認識ができるのだから。

「わたし」から見ると、茶碗の大きさも一生の時間も別々のものでしかない。つながりは見いだせない。

これらが繋がっている体験は、意識のお仕事ではないから。これをネガティブにいえば意識の限界。

 

ヒトの意識はこの世を仮の姿でとらえることしかできない。

そしてこの意識でとらえたものを固定化させて、因果関係という法則で把握しているのが、自己意識。 

日常でいう「わたし」。

自我とか、我とか、主体とか自己とか呼ばれるものです。それぞれに意味は違うのだけど、遠く見れば似たようなもの。

こんな「わたし」というのは仮の姿の集まりで、ただの幻想に過ぎず、なにも、確たるものではない。

でもその「わたし」がないと、このエッセイを読んでもらって、幻想を一緒に共有することもできません。

 

まさしく、幻のごとし、

そして本物。

夢のごとし、

だからリアル。

 

第一章

大学は何をするところ   意識 順列 サラリーマン養成所 教養 学問 城の城壁の強化

大学はいろいろなことをします。

人のためになることが一杯あるので、今でもみんなが目指したり憧れたりするところです。

これまでの中学校や高校では友達がいなかった人も、ここで友人ができることもあります。

教養、学問、学術、実業、実務実践、とアタマ、ココロ、カラダの面白いことや大事なことを調べたり、探求したり、論争したり、教えたりしています。

「学」以外にも、いろいろな役目があります。

一つは順列を作ることです。順番をつけて列に並べるということです。

例えば良い点数順に列を作るということです。

試験をすることで、資格や偏差値の基準を作ります。

これによって官庁や役所や会社に入れるかどうかの基準になります。また戦争をしている国では、この順列で戦地との距離が決まったり、戦地では敵との距離が決まったりするので順列は大切です。極論を言うと、高学歴の者は基地の中で作戦を立てて、専門職のない者は前線に送られます。

 

また大学には、普段は気がつかないけれど、「膜」の強化という大切な役割もあります。

膜とはなんでしょう?

枠組みのことです。ボクシングでいうとリングのことです。劇場の舞台のことです。定義できる言葉のことです。理性を元にしたルールのことです。この境界線をつくることができると、その内部では、スポットライトの光を当てることができ、そこに法則や一般化が生まれます。具体的には憲法、法律、文法、物理、化学、数式のことです。これがあることで、膜の内側では、因果関係を結ぶことができる「場」になります。

膜がないと、「場」が形成されないので、法則を作ることができません。法則が通用するか通用しないか以前に、「膜」があることが全ての前提です。ですから、法則を使って未来を予測したい人にとっては、「膜」を強化する大学はとても大切な機関になります。

 

大学を卒業するといいことがある

大学に行っていいことは一杯あります。友達ができたり、新しい体験があったり、落ち着ける場所を発見をしたり、これまでとは違う世界があります。

また、大学で学ぶことにもメリットが一杯あります。

例えば、特権階級に飛び級で入れることもあります。中国で始まった科挙のように。

具体的には、大学の試験をパスすると、卒業した後に、お役人の仕事をする時に、キャリアとノン・キャリアといってはじめから階級や給料に差がつくようになっています。

これは国家公務員だけではなく、一般企業でも給料の高いところは、偏差値の高い大学を出た者を優先して採用します。

Description: http://dol.ismcdn.jp/mwimgs/3/6/670m/img_c8557f5523f7a6eebf01d48a3c4a7fd086958.jpg

(出典)https://doda.jp/careercompass/ranking/daigaku_nenshu.html

 

しかし反対の実験結果も   偏差値の高い大学に行った「から」収入が上がったわけではない

マッチング法を用いたこの研究の結果を見てみると、驚くべきことに、ある大学に合格して実際に進学した生徒のグループと、同じく合格したがその大学に行かずに偏差値の低い大学に進学した生徒のグループのあいだで、卒業後の賃金にたいして統計学的に有意な差はなかったことがわかりました。

多くの人は、「偏差値の高い大学に行けば収入が上がる」と信じているが、クルーガー教授らの研究では、そのような因果関係の存在に否定的です。

まさにクルーガーが述べるように、「より偏差値の高い大学に行くということは、すべての生徒にとって自身の将来の収入を最大化する選択なわけではない」し、「その大学に行けば、誰もが将来の収入を高められるというような唯一無二の大学ランキングなど存在しない」というわけです。

クルーガーらは論文のなかで、ミネソタ州カールトン・カレッジの学長を務めたスティーブン・ルイスの言葉を引用しています。大学ランキングについて問われた際、ルイスは以下のように答えました。

「問題は、どこが最高の大学か、ということではない。本当の問題は、誰にとって最高の大学か、なのだ」。

これが、クルーガーらの結論でしょう。

Dale, S. B.& Krueger, A. B. 2002. Estimating the Payoff to Attending a More Selective College: An Application of Selection on Observables and Unobservables.2014Estimating the effects of college characteristics over the career using administrative earnings data.

 

そしてもう一つの大学の特典は、脳を鍛えることで、意識の中の「自己意識」(理性を使って法則や一般化を学び、未来予測ができる能力)を判断基準の一つにすることです。これを多用することで、理念をいだくことができて、そこからモノを選択することができます。すると大きな理念を前に押し出すことで、小さな現実と比較ratio(理性の語源)して、目の前のモノを価値の低いものとすることができます。これでユートピア(理性で作り上げた想像)を唱えて、その高みから他者を軽視することができるようになります。これを習慣化するとキレイゴトを言って、他者を踏みにじっておきながら、間違っているのは他者であると判断し、一つも自らの反省はせずに他者だけを否定できる、という都合の良い技術を身につけることができます。

これは使い心地が良いので大変良いメリットになります。

 

大学の内容

こんなに良いことが一杯ある大学ですが、どうすれば試験をパスすることができるようになるのでしょうか?

また実際に何を大学は教えているのでしょか?

これらの本や方法は巷に嫌というほど溢れかえっているので簡潔にまとめるだけにしておきます。

 

まずはテスト。試験をパスにしないと大学には入れません。世間では知能指数や論理性や記憶力や創造性が受験勉強に大切だと思っている人もいますが、必要なのは二つです。

一つ目は条件反射。

インプットされたものが自動的にアウトプットされる回路を作る訓練です。例えば英語の構文が出てきたら、反射的に内容や和訳ができたり、あるフレーズを見たら同義語と反義語が瞬間的に浮かんでくる練習です。数学ならば式や図やグラフや順列を見れば、4つぐらいのパターンがすぐにわかって知らぬ間に分析してしまう癖をつけるということです。

二つ目は問題を作る人のことを想像する力です。

テストのどの問題も制作者がいます。その人はある目的のために問題を作ったので、制作者の目的を理解できるかどうかがポイントです。例えば国語の小説の長文で、作者はどう思ったのか?という四択の問題があっても、正直に答えてはいけません。4つのうちの3つの選択は明らかな論理的な間違いを制作者が挿入したものなので、小説の作家ではなく、問題制作者がどう思っているのか?ということに注目するのが正解を見つけるコツです。

 

次は大学の授業の内容です。何を教え何を学んでいるのか?

一言で言うと因果関係です。ある原因があると、このような結果があるということを、推察したり、仮定したり、実験したり、覚えたりしています。

この世は諸行無常なので、TPOにとらわれず常に変化しないものはないのですが、それがまるで一定のものがあるかのように一般化したり法則を見つけろというのが、授業の内容です。例えば物理学ではニュートン力学を習った後に、実はこの力学の法則には因果関係はなく、ただ地球の上における近似値でしかない、という事実を教わります。しかしこのような因果関係がないということをわかっていても、この世では線引きは必要なので、この線の引き方を学習することは有意義なことです。例えば法律学や機械学のように。

この試験勉強をはじめとした「線引」の訓練にも、条件反射は大きなツールになるので、偏差値をあげるためのノートのとり方とは、法則がすぐに浮かび上がってくるように、よく使う法則に「記憶のホック」を一杯くっつけるように、いろいろと書き込みます。例えば、「さみだれ」を覚えるのに、漢字にして五月雨としたり、「さ」は「さつき(五月)」の「さ」、「みだれ」は「水垂(みだ)れ」だとか、サツキの咲くころの雨と梅の咲くころの雨の違いとはなんだろうか?とか、英語ではなんと言うのだろうか?古今集では、「五月雨に物思ひをれば」とあるが、どんな思いなのか?とか「うるさい」を五月蝿と書くが、これは五月雨にかんけいがあるのだろうか?などなどいろいろなことを結びつけることで、記憶が定着するだけではなく、関係性から新たな領域が拡がり活性化していきます。このような思考活動を続けることが条件反射を作り上げ、多くのことを結びつけたり抽象度をあげたり、具象化する訓練になります。今まで別々であった時間と空間は実はお互いは切るに切れない関係性があり、一つの塊であるというのも、このような「ホック」を次々と繋げていったことから生まれた法則です。物理学というモノを扱う学問でも相対性理論のように「分類と統合」をセットにした因果関係を発見し再現することが繰り返されています。

 

第二章 大学の弊害 デメリット

ポストがない現実 進学率

Description: ↑ 中学・高校卒業生の就職者の割合(就職進学者含む) 中学・高校卒業生の就職者の割合(就職進学者含む)

戦後、50%を越えていた中・高生の就職者は減少し、現在では中卒の就職者は1%も満たなくなりました。とはいっても高卒後すぐに就職する人は20%もいるので、まだかなりの割合だとも言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Description: ↑ 大学・短期大学への進学率(過年度高卒者などを含む) 大学・短期大学への進学率(過年度高卒者などを含む)

 

 

敗戦後は、大学を卒業すると、就職に有利な時代が長く続きました。

どの組織も一部の管理職が必要で、大学卒業者にその地位を与える組織が多くありましたし、今もあります。

例えば、

日本では敗戦から5年目の1950年(昭和25年)に大学を卒業した人数はなんと1858人だけでした。1920年代の生まれは毎年約200万人なので、大学卒業者は全体の0.1%

敗戦から10年目の1955(昭和30)には94745人で1920年代は毎年約200万人なので、4.7%

敗戦から20年目の1965年には162,349人で1940年代は毎年約200万人(46年だけは150万人)で8.1%

敗戦から30年目の1975年には313,072人で1950年代は毎年約180万(初頭は200万後半は160万)で17.3%

2017年は卒業者は558千人で1990年代の生まれは毎年約120万人です。46.5%

参照 日本の出生数と大学卒業者の推移

敗戦後における大学卒業は将来のエリートを約束された切符でした。

どの組織も上位の2〜10%ほどの人数が全体の管理をする仕事をすることで組織が回ります。家を建てるのに棟梁は一人で良く、後は基礎、鳶、大工、左官、屋根、水回り、建具、サッシ、電気などの職人たちです。

一度に多くの棟梁や船頭は必要ありません。ところが現在は二人に一人が高学歴者になっています。

 

ここで一つの人間の習性の問題がでてきます。プライドです。

ヒトの脳は自分の行動を肯定するように作られています。否定ばかりしていると学習の効率も下がるし、カラダによくありませんから。

まだ学んでいない他者や学ぶ以前の自分と比較すると、学んだ分だけ明らかに知識が増えているので、以前よりも「マシ」になったような気がしてしまいます。光合成を習うと植物はいつも酸素を生成すると思い込んでしまって植林を進めようとする人がいます。このような科学的にはありえないことを声高に主張するようになったりするケースもあります。しかしこれより質が悪いと思うのは、新たな知識を得たことによって、新たな自分を基準にして、他を判断してしまうヒトの習性です。このプライドに基準を常に置いてしまうと、多くのことがカラダに染み込んできません。また、学んだことを実生活で使えない職業につくと、その不満からプライドが肥大化してしまうケースも多々あります。

大学に行くことで、こんな余分なプライドを持ってしまう確率が増大してしまうのも仕方がないことの一つです。

 

アメリカの進学率と大学の役割

1900年アメリカの進学率は高卒者6%、大卒者2%です。

Richard J. Murnane   http://educationnext.org/graduations-on-the-rise/

 

アメリカでは教育という工場で生徒を平均化するのが目的とされました。

北東部の裕福な学者たちは人道主義を唱え、現実的な実業家たちは「好きなものを若者が選ぶ自由の贅沢さは、一クラス100人でその半分は英語が話せない現状には相応しくない。」とテイラー主義を唱えました。

Raymond e. Callahan Education and the Cult of efficiency 1964 中谷彪訳

 

哲学者科学者や作家や教育者や詩人を育てるつもりはない。芸術家や医者や弁護士や伝道者や政治家や指導者の卵を探すつもりもない。子どもたちを小さなコミュニティにまとめ、彼らの父親や母親が不完全にしかできなかったものごとを、完璧に実行できるように教育していく。

Fredrick T. Gates, The Country School of To-Morrow 1913 Cf.Morrowはゲルマン祖語のmurȝanazで朝の意味。

 

子どもたちを組織化して教育を施し、工場での仕事を完ぺきにこなす労働者に仕立て上げるため、テイラー主義は科学的管理法の中心的な教義に従って教育制度全体の構造の見直しに取り組んだ。

すなわち平均を使ってあらゆるものを標準化したのだ。将来のキャリアへの心構えを持たせるため、工場のベルを真似て授業の開始と終了を告げるベルも導入された。

John Taylor Gatto  The Underground History of American Education p222 2001

 

 

優等生と劣等生に分類するのが学校の役目としてその方法を開発して現代も利用している。

心理学者エドワード・ソーンダイクEdward L. Thorndikeはフランシス・ゴルトンを尊敬し、一つの物事に秀でている人は、他の殆どのものごとにも秀でている可能性が高いという理論を信じていた。

優等生は大学へ進学し、道を開いてやるべき

平均生は、中学か高校を卒業したら、労働者として働き、経済を支えるべきだと決めてかかった

劣等生には資源を費やすのはできるだけ早く止めるべきだと考えた。 

Joncich, The sane Positivist 21-22

 

遺作Human Nature and the Social Order1940では、人間のランク付けに夢中になり、例えばニュートン、パスツール200点、平均点は100点、無為徒食の怠け者は1点で家畜の点数よりも劣るなどの表を作成した。

どのようにして学生にランク付けをするのか? 

著書「個性」によると、ゴルトンの定義に従って、平均からどれだけ離れているかを目安に生徒の価値を決定すべきだとし、そのために、スペリング、算数、読解、国語力、スケッチ、筆跡の標準テストを考案した。

ソーンダイクにとって学校の目的はあらゆる生徒を同じレベルに教育することではなく、生来の才能のレベルに応じて生徒を分類することだった。

Edward Thorndike, Individuality 1911

 

彼は精神的素質のレベルは民族ごとに決定されると信じていたが、彼の功績により教育環境が改善され、高卒者は6%から81%にまで増えた。

http://gradnation.org./report/2015-building-grad-nation-report

 

 

 

大学に行った人は故郷?を捨てるのは何故なのか? 

昔は大学に行くことは特殊なことで、親戚一同からも応援され、都心で働いていることは自慢の一つでした。また右肩上がりの時代は、大学だけではなく、集団就職でも地方から都心部に移住することも常識でした。このような時代性だけではなく、学問と人口密度には深い関係性があります。大学に行ったものが故郷に戻らないのは、専門のことを学んでしまうと、それを活用できる場所が村にははなく都市にしかないことが多いからです。

専門という一つのことのエキスパートが仕事があるのは、細分化されたものが組織化された地域です。何かを専門で学ぶということは、それが専門であればあるほど、自分ができないことを補ってくれる他の種類の専門職の集団が寄り集まっている必要があります。村の自(共)給自(共)足の生活ではなく、細分化された組織の一員になることにより、生きていく道を選択したことになります。本人はそのような決意を意識していなかったかもしれませんが。

一つのことを深く学問するということは人口密度との間には密接な相関関係があるのです。

参照 専門家の限界  仕事・専門家は育てなきゃならぬ  人類愛しましょう 人口密度のエッセイ

 

文系と理系    大学で学ぶと論理性や理性を信じてしまう

日本には学問を文系と理系に分けるクセがあるので批判する人もいるが、これはその人の方向性を示しているので、偏見に満ちてはいるが一つの指標になる区分のしかたでもある。

このような区分は外国ではないという人もいるが、実はこれは欧米でもしっかりとあって、例えば学部別の人気はその地域の時代性や経済景気や人口密度やその変動率にも密接な係わりがある。

この区分には表層と深層の二層で真逆のような特徴があって面白い。

表層では、言葉や個別性・偶然性を強調するのが文系で、数値や法則を多用するのは理系である。だから文系は芸術のように理性的ではなく感覚的、理系は数式のように感覚的ではなく理性的だと思われている。

しかし、深層の方を見れば、この判断とはまるで逆にも見えることが特徴となる。文系は変化し続けるものを扱うので、そこに法則を見つけようとして無茶をし(過剰一般化)、それを論理的に表現しようとする傾向があるのに比べ、理系は法則を具象化しようと無茶をし(過剰具体化)、枠に収まらない物を追求する傾向がある。

表層から見れば意外に見えるが、深層では文系の人は論理性を好み、理系の人は想定外のものを好む傾向がある。

このため、文系の現代批評の中には、意識で捉えることができる一切のものを宙に浮かせることで、実は、起源を探したり比較するという手法は頼りないものであることを見せてくれることもある。また言語をはじめとした意識の世界は「枠」を作ることで発生するので、この「枠」とは何かについても注意を払おうとする。「枠」とは任意と偶然でできた頼りないものであるということを。これを理系でいえば、「数字によっては証明できない」ことを数字や実験で証明することです。例えば、光の二重スリット実験や、物理学の不確定性原理 Uncertainty principleや、量子力学の「観測」が物事を決定する「量子のもつれ」quantum entanglementや、多元宇宙観multiverseや、数学のゲーデルの不完全性定理 incompleteness theoremです。

 

文系の弱点である論理性については、エッセイ論理学の限界」論理性の限界と小賢しさ」「論理性4つの限界」「学問の限界」「人口密度のエッセイ」を参照してください。

理系の弱点である想定外については、エッセイいのちのエッセイ」「理性の限界」「智性の扉を開ける」「意識のエッセイ」を参照してください。

 

カミの数式      大学に行くと、カミの数式があるのだと思ってしまう人が増える

この世に創造主がいたとしたら、どのような設計図を描いて宇宙を作り上げたのか?

なんでもヒトはわかるはずだ、それを数式を使って表現できるはずだと信じてきた人々がいます。この野望に取り憑かれた人たちが現代物理学者だともいえます。

素粒子から大宇宙までを説明できる数式です。

 

そのカミの設計図を発見し、それを数式を使って書き表わそうとしてきたのが、現代物理学の歴史であり、カミの数式の探索の歴史です。万物の理論・法則をみつけることに恋い焦がれる情熱の歴史です。

 

神の数式の美しさの一つである対称性を追求すると、重さがゼロになる結果が生まれてしまいました。そこで   物理学者の南部陽一郎は、机の上に立てた鉛筆が倒れるように、数式でつくりあげた完璧な美しさは崩壊する運命にある、ことを「自発的対称性の破れ」という切り口で証明しました。

ここでも、実験室の中のことをその外にも適用させようとする人に対して、疑問符を投げかけました。

限られたTPOのことが世界どこでも通用するわけではない、という当たり前のことです。

 

また素粒子が点であると無限大∞という計算不能な数式ができてしまうので、素粒子はゴムの輪のようなものである(超弦理論)とか、異次元の設定、10プラス1次元の解釈、超ミクロの世界に潜んでいる異次元の認知、カラビヤウ多様体の仮説、パラレルワールド仮説の支持など、と次々と新説を数式にするので、こんな議論が好きな人以外にはピンとこない世界です。この世を説明するのに、数式を使い続けることにこだわるために、数字そのものや大前提の定義を次々に変えることで対応をし続けることでこの学問は成り立っています。たとえば、異次元を仮定して最低10次元のことを考えないといけない、というのも数学を優先させて基準としたことから発生することで、はじめの定義自体を変えなければならなければ、この思考法を続けることができな必然性に由来します。たしかに面白いゲームではあります。

しかし、大多数の一般人にとっては、この世は「意識」では説明できない、と言い切っていいと私は思いますが、みなさんはどう思われますか?   参照 量子の力学 映像

 

理念と実験室の共通点 もしくは特殊性       大学の中にしかない特殊性   実験室や理念

なぜ大学だけではダメなのか?  

その一つに理念という問題があります。理科でいうと実験室のことです。

どちらも実際にあることなのですが、決めた枠の外にある世界では、枠の中ので通用していたパターンが効かなくなるのが問題点です。つまり、それまで実験室の中ではまかりとおっていた法則や常識や一般化が実験室の外側にある特殊な事情になると通用しなくなってしまうのです。 

理念とは理性が作り上げる信念のことなので、信じて念じることから、まだ体験はしていないが、あると思うことです。「念」の「今」は樽に栓で蓋をしている形(白川静の仮説)で、中のモノを閉じ込めるように、心中に深くかくして、深く思うことを意味します。このように、理念とは理性が作り上げたモノを深く閉じ込めることです。ですから、元の理性が勘違いしてしまっているとしたら、理念も勘違いしてしまったままです。

そしてこの理性にもできることとできないことがあるのですから。

参照エッセイ 理性の限界意識のエッセイ脳の仕組み 新しいものを自分のものにする

 

次に、理性が想像した「理想」も大切ですが、これだけを判断の基準にすれば、理念と同じように、理性が持っている錯覚をそのまま受け入れて基準にしてしまったり、理性ではできない領域まで踏み込んで、その世界を判断してしまうことになってしまいます。

例えば正義の「正」というのも、片面だけの価値や基準や判断なのかもしれません。相手にとっては、とんでもない厄介なものかもしれません。例えば、イスラム国の正しさ、チベットやウイグルにおける中国の正しさ、非核保有国からみる核保有国の核不拡散条約の正しさなどなど。

例えば、は、一が邑(町)、止は足跡を意味し、町にに向かってすすむというのが字源、

進む方から見れば、町を攻めて、征服するいう意味

服して征服地の人から税をとることを征といい、その支配の方法をという。制服した人びとに重圧を加えて税の負担を強制することも政といい、そのような行為を当とし、義とした。これで正は「ただす、ただしい」の意味となった。

正しさは常に権力者によって、意味が変わるのは字源をみればわかる。

政は(攵)ボクとからなり、攵はムチでうつの意味である。

 

また正義とは、シャーマンの世界では守護神のことを指します。各々の正義とは各々の守護神のことなので、各自が自分の正義を通すということは、他人の守護神と戦うということになってしまいます。やられる方も自分の守護神にかけて戦いますので、お互いが正義の旗をかざしている限りは、争いが終わることがありません。

 

次に話を戻して、理科の実験室の特徴です。

これがなぜいけないというのでしょうか?

部屋そのものには何も悪いことはないのですが、実験室とはとても特殊なTPOの環境である、ということが大前提です。実験室で行われることで、実験結果によって今まで気がつかなかったモノの関係性やその深層にあるメカニズムが明らかになって、私たちの自己意識や理性を刺激し続けてきました。この実験のおかげで、私たちは大きな恩恵を受けています。科学や経済の世界における合理性、利便性、効率性は実験室で発見されたり、産み出されたモノで一杯です。

ここまでは良いのですが、問題はこれらの法則を、実験室の外で適応する時におきます。電子顕微鏡の中で起こることが、その外の世界では必ずしも同じように再現されるとは限らないからです。理由は簡単で、実験の時にはなかった要因が追加されるからです。たとえば、微生物、電磁波、素粒子、温度、気圧、宇宙線、ダークマターなどの無限かと思われるほどの想定外のモノたちです。

ですから実験室の中で起きたことは実験室の中では通用するが、外ではまた別の結果になる可能性をいつも持っていることを再認識することが重要になってきます。

実験室の出来事が上手くいけばいくほど、ヒトの脳はこれを条件反射や記憶生成や記憶想起の習慣として捉えるようにプログラミングされて(作られて)いるので、常に注意が必要です。

特に一日の多くを大学の実験室で過ごすとなると、ヒトは実験室の中のパターンを無意識に基準にしてしまうので、その外に出た時も習慣化されて刷り込まれた思考回路に流されてしまいがちになるので、注意が必要です。

実験室の中と外の相違点のことを忘れてしまう時に、「いけない」ことが、突然に大量に押し寄せてきます。

 

欠陥だらけの脳  もしくは欠陥のおかげで生きていける私たち   大学では脳を疑う時空が少ない

大学は脳を鍛える場所でもあります。この時に脳の弱点を知らないで鍛えてしまい、それを誇っているようではいろいろな勘違いが起きてしまいます。例えばある一部の筋トレをしたことでそこの筋力は向上したが、全体のパフォーマンスが落ちてキレがなくなってしまった野球選手やサッカー選手のように。脳もアスリートの筋肉と同じように鍛えればいいというものではなく、それによって起こる弊害もいろいろあります。

 

脳の限界

表皮が神経管となり、この神経管が発達してできたのが脳です。

でも中にはホヤのように、幼生の時期には神経管があるのに、成体になるとそれらを捨て去り、神経節だけになったり、神経組織をいっさい捨ててしまったニハイチュウは、脳に発達させないことで、子孫を繁栄させて生き残っている「勝ち組」です。発達も一方方向とは限りません。

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初期神経管の形成・神経上皮細胞(ラット胚)  神経管の分化と発育

 

この脳のお務めとは、インプットとして入ってくる電気刺激を処理して、それをアウトプットすること。

ではインプットされる前の世界とはどんなものなんでしょうか?

それは、この世。常に変化している、休むことなく。どこまでも区切りなく、ずっと。

しかしこの状態を意識はとらえることができません。そこで、これらの変化をビデオの1コマのように止めることで、はじめて認識できるようになる。だから、意識はこの世の変化にいつも遅れてしまうし、その認識と判断は常に過去の状況に準じたもので、新たな「今」のものではない。 ベイズ統計のように常に更新が必要とするのが自己意識の宿命です。    参照 論理の限界  脳は可愛がってあげなくちゃ

そして問題は次の自己意識。「囲む」という瞬間芸で、外から入ってくる情報(電気刺激)を一旦止めて、時空を閉じて固定化させて、それを分析して、その中に因果関係という法則を見つけ、それをパターンとしておぼえて(過剰一般化)して、未来に適用する(過剰具象化)。

これが自己意識のできることなんだけど、メリットは未来予測の確率が高まるということで、デメリットは法則外のものがいつもあるので、それに対しては対処できず、それが意外に一杯あること。意識の枠に閉じ込めなかったものはどれもが範囲外。そして正確にいうとこの範囲外がこの世のマジョリティーであると言う意外な事実。

法則では解決できない場合に脳はどのように反応しているんだろう?

いつでもなんでもかんでも意識でとらえるほど、「わたし」は暇じゃないし、生真面目でもない。「わたし」はある時にある場所であることにしか関心を向けようとしない我儘な特徴を持っている。

そこで脳がなにをするのかというと、無視と、過去の記憶の再利用と、分かった気持ちになってやり過ごすのと、条件反射にしてしまうのと、自動修正と、無理にでも話をつくりあげてその後は知らんぷり。手抜きをするのを脳は常としていて一度経験したことは再確認はせず、前の記憶を利用するだけで新しい体験をしようとしない。どれもが「わたし」の脳が許可も与えていないのに、勝手にしてしまうのが共通点。

そして、こちら(自己意識「わたし」)が2つをつなげて因果関係と思っている法則も、実は確率の問題でしかない。例えば光の二重スリット実験のように。

他の言い方にすると、自己意識は「一つ」を分別することでなんでも数値にすることができるが、数値にした時点でもう変化し続ける「いのち」は切り刻まれてしまって、決まった数字を再現できる「死体」になっている。つまり自由自在・変幻自在・融通無碍に変化するのが持ち前の「いのち」が、ただのロボット(機械)になってしまう。それで自己意識が予測した範囲の中で決まったアウトプットを繰り返すことができる。これは、もう目の前の無数に変化する「いのち」が、計算して予測できる単なる確率になったということ。これが脳のお仕事であり、限界だ。だから、法則の効かない個別の事実(常に変化するもの)には呼応できないというのが、脳味噌の最も大きな弱点。オンとオフの電気信号がつくる限界だ。

なにも限界は悪いことではない。限界によってはじめて、次のことができるようになる。限界の外側では、どのように対処すればよいのかをやっと真剣に準備する気になれる。そう、限界がないと次のステージが始まらない。

 

自動修正をしてしまう脳

錯覚や錯聴といって、脳が勝手にしてしまう無意識の処理がある。感覚器に異常がないにもかかわらず 実際とは異なる知覚を得てしまうのだ。例えば、欠けたチーズ片のような黒い図形と、灰色の水玉のような図形がある。どちらも一つでは何を意味しているのかよくわからない。

しかし、二つを重ねるとABCDと読むことができる。本来読めないはずのABCDの文字がこ のように読める現象も錯覚の一例だ。  脳は見たものを自動的に補足してしまう特徴を持つ。

Description: ダウンロード

カニッツァの三角形

 

どうですか、白い三角形を作り上げているのは、「わたし」ではなく、アタマの中の何者かでしょう。その後に「わたし」がそれに気がついているでしょう。

 

 

 

 

脳の無意識は図像の修正や文字の意味だけではなく、文字のパターンと文の構成規則も処理している。

「この ぶんょしうは もじの じゅんょじが いれわかっていても よむとこが できる」

脳が勝手に手がかりを探して文章を理解してしまう。

まずは無意識のシステムでパターン認識し、そのパターンに基づいて全体像を予測して、知覚の断片を組み合わせてしまう。言い方を変えると、脳は「つくり話」やウソを勝手に作ってしまうのだ。

 

視覚以外にも聴覚で、脳が無意識的な処理を行なっているものがある。例えばオーケストラの演奏を聴いて鳥肌が立ったり、赤ちゃんが子守唄を聴いて眠りに落ちてしまったりすることがある。このような心身の反応は意識しなくとも感じられる。

 メカニズムは聴覚の電気刺激が、条件反射として学習された情動と結びつき、これが自律神経やホルモン分泌としてアウトプットされるためである。

その結果、身体には発汗や瞳孔の拡張として現れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、周波数の高い音が低く聞こえたり、右にある音が左に聞こえたり、同じ音に対する聞こえ方が変化したり、存在していない音が聞こえたり、いろいろと不思議なことが起こります。これは、聴覚システムが不正確であることを意味するというよりも、むしろ逆に、聞きたい音やそれを妨害する音が混在する日常の環境で、安定して効率よく音を聞き取るために起こる現象です。例えば、騒がしいカクテルパーティーで自分の関心のあることだけが聞こえてくるように。このようなしくみが無自覚のうちに脳内で働いているからこそ、耳に入ってくる音「以上の」ものが聞こえるのです。

  

                                                                              

 

音脈分凝の例

2半音差ではリズミカルに馬が駆けるような音、6半音差では規則的に打たれる木魚のような音が聞きやすい。

 

また、旅の先輩から先日、ノイズと脳の自動調整について以下のことを教えてもらった。

「難聴だったので、人工内耳をつけたら、自分の声も含めて人の声が普通の声として非常によく聞き取れた。その後上京したのだが、飛行機の中や電車の中や駅だと、もう耳がはじけるぐらいに大きな雑音が入ってくる。頭がクラクラッとなって、これはとてもじゃないが、外では使えないなと思ったのである。ちょっとの間そういう状態だったのだが、やがて気がついたのは、雑音がひどくても我慢していると、すぐにその雑音が消えてしまう。これは、人工内耳をつけて3年になる今でもそうなのである。つけた瞬間はワーッと悲鳴を上げたくなるような雑音でいっぱいなのだが、せいぜい10秒か20秒我慢すると、その雑音が消えてしまうのである。そして、人の声がちゃんと耳にはいるのである。雑音がなくなったわけじゃないだろう。ただそれを音として脳が拾わないような、そんな仕組みになっていると考えられる。不思議に思い続けているのだが、魔法のように雑音は消えてしまうのである。

新田医師(担当医)らが、どうすれば難聴者に補聴器が適合するのか、と取り組んでいたら、耳鳴りがしなくなったという患者さんがチラホラ出始めたというのである。

その理由について新田医師らは次のように推論した。

「カクテルパーティー効果」といわれる現象があり、カクテルパーティー会場のようにいろんな人の話し声や音楽が混じり合って騒がしいところでも、関心を持っていることだと少し離れていても、小さな声でも自然と耳に入ってくる。これはつまり、脳が働いて、あらゆる音の中から聞きたい音だけをピックアップして聞いているということである。換言すれば、人間は耳ではなく脳で聞いている。

ところで、原因不明の耳鳴りで悩む人のうち9割以上が難聴であるとされている。 たとえば、内耳の蝸牛内の高音域を感じ取る有毛細胞が損傷したりしていると、高音域の振動が電気信号に変換されにくくなり、高音域の音の信号は脳にあまり送られなくなる。高音域の電気信号が十分に送られていないことが脳に分かると、脳はその音をがんばって聞こうとする。がんばっても高音域が送られてこない。なお一層脳ががんばる。こうして脳が過度に興奮状態になり(脳が不足部分を補おうとして活性を高め)、電気信号を増幅する結果、自分にだけ聞こえるのが耳鳴りではないか、というふうに新田医師らは推論したのである。

 

空白を埋めるためにフィクションする脳

記憶とは必ずしも信頼できる情報源ではない。それなのに脳の潜在意識は記憶に頼ってシミュレーションをおこなってしまう。

眠りについて知覚が失われると、脳は夢を語る。夢の中では完全な物語を作り出そうとまで世界を再構築する。脳の潜在意識がすることは、情報の空白を埋めることだ。そのピースは知覚情報ではなく、不確かな記憶である。

、穴のあいたところに記憶を勝手に埋めてしまい、話を創ってしまうのも脳のお仕事である。

 

なぜ記憶を空白のままにしておくわけにはいかないのだろうか?

内側側頭葉を損傷すると作り話をする傾向がある。

そこは「わたし」がそうでない者とつながる領域。例えば、ファンがアイドルと一体感を覚えた時に発火したり、自分を軸にして世界観を作り上げる時にも発火する。

そこが損傷によって、他者の行動を自分のことに置き換えることができなくなると、どうなるんだろう?

そこが損傷して、自分を軸にしてエピソードを作れなくなるとどうなるのか?

 

自我が脅威にさらされるということだ。自我とは、記憶、感覚と感情の経験、自己統制、内省の総体。

何が何でも自我を守りたい人がいる。

そんな人の脳は自我を守るためには、どんなウソでも作り上げてしまうのではないか?

それともインプットされた情報に一貫性をもたらすために、機械的にフィクションしてしまうのだろうか?

失明した本人がその事実に気がつかないアントン症候群の患者のように、矛盾する情報(見えているはず・見えない)に直面した脳は、二つを一致させる論理的「理由」を考え出して言い訳をする。

「眼鏡をかけていなかった」「部屋が眩しすぎる」「部屋が暗すぎる」と。

知らないという混乱から自己を守っているのが作り話(空間を埋める行為)ではないだろうか?

作り話は「自我」を守るための脳のメカニズム、防衛システムで、作り話によって記憶、すなわち人生の物語の連続性は維持されているのか。

 

自己意識の存在意義は、モノを分けることだ。この自己意識だけを価値観にしてしまうと、全てのものを分けないと安心ができなくなる。分けるとは分類して名前をつけること、すなわち知る、ということ。だから自己意識だけを「自分」だとしてしまう病気になると、何かを知らないということを認めたくなくなる。

自我を守るために記憶に空白があることを無意識の内に脳は否定する。

そのためには別の記憶を瞬間的に盗用して、それらを継ぎ接ぎして空白を埋めようとする。

そんなことをしても、もう個人の物語を失ってしまっているのだから、自分自身を失うことになっているのに。それほどまでして脳は自我を守ろうとしてしまう。

 

「種」よりも自己を優先してしまう利己的な脳     

識字率と出産率に相関関係があるというデータがある。  

ロシア人女性が識字率上昇の後に出産率が下がるという人類の普遍的傾向があり、また通常は下がり続ける乳児死亡率が、ソビエトでは 1970年から上がり始めたことを指摘し、ソビエトの体制が最も弱い部分から崩れ始めることをフランスの評論家のトッド・エマニュエルは主張した。ソビエト連邦は実際に 1991年に崩壊したので、彼は予言者と見なされることとなった。

果たして識字率と出産率の相関関係の深層はどのようにつながっているのだろうか?

 

大脳皮質の特徴は、電気刺激のオンとオフを基礎にして機能する。脳はあちこちからの電気信号を処理して、過去の記憶や今の目の前にあることや、未来の想像に対処する。

短い期間での判断もあれば、来週や40年後といった中期や長期のスパンを基にしたものもあるので、目的も期間によって変わってくる。

そしてスパンが短い時の脳の目的は、自己の生命維持を第一としてしまうので、リスクのあるものを避けようとする。餌を探したり、リソースを増やすことを目的にして成長してきた。すると、たとえば、結婚・子供・ローンの家はリスクが高いので、大脳皮質はこれらを選択しない傾向になる。種ではなく個を維持するための判断だ。

大学では大脳皮質が成長することを重点的に教えようとする。時には脳を麻痺させることを覚えないと、関心が自己から種に移らないのではないか。次世代の種の繁栄よりも自分自身のサバイバルや現状保持やプライドや見た目にスポットライトを当ててしまうから。

そこで、これを解除するには二つの方法がある。大脳皮質自体の働きを抑えるか、時間軸のスパンを少し長くして判断するか、のどちらかだ。

例えば、燃えさかるような激しい恋愛状態は薬物使用者の脳に酷似していて、大脳の働きは抑えられて、自己保身機能が常に優位ではなくなる。

脳内ではアドレナリンやノルエピネフリンが心拍数を上げ、挙動不審を引き起こす一方で、ドーパミンによって高揚感がもたらされる。これらの化学物質は快楽中枢を刺激し、心地良いと感じられる対象の敷居を下げることによって、すべてのものが素晴らしく感じられるようになる。

また伝統的な習慣に判断を任せたり、性的衝動に身を任せることも、大脳の働きを抑える方法だ。

もう一つの時間軸を伸ばす方法は、子供や孫との関係性を想像することで、家族や一族の感覚や安定感を心地よく感じるという、未来報酬の思考法だ。

 

自己保身する脳

無意識の内に脳は自己像(セルフ・イメージ)を破壊しないように、事実の一面だけをつなぎ合わせて、自分に都合の良いニセの記憶をつくりだす。保身のために。一生苦しまくてもいいように。レッドソックスのコニグリアロに死球を当てたエンゼルスのハミルトンのように。

 

脳には自己肯定する記憶は覚えているが、否定する記憶は都合よく忘れてしまう傾向がある。しかし、他人に関する負の行動については忘れやすいというデータはまだない。

脳の潜在意識は自分の世界観と一致する事象や経験や記憶や未来を好む。というよりもこれまでの世界観をベースにしてしか話を展開できない。だから自分が大事にしていることが表現できる物語を作り上げていく。そして信じたい物語とうまく一致しないことは都合よく忘れたりする。

 

屁理屈を捏ねてがんばっちゃう脳

意識をつかさどる大脳皮質は、なんでも自分を中心にしてしまうのが利点でもあり欠点でもあります。たとえば感情というのは、無意識のうちに発生した情感で涙が出たり笑っているのを、意識が後から見つけて、悲しいとか楽しいということがわかるようになっている。そしてその次に、悲しんでいる原因や楽しい理由を後から、見つけ出したり考え出したりして納得している。しかし、実はこの原因や理由は必ずしも正しいとは限らない。昔に体験した時に聞いた音楽や食べた味が悲しい出来事に条件反射と結びついてしまっている無意識を、意識が理解できていないというケースは山ほどある。というよりもほとんどの日常生活は条件反射の積み重ねで成り立っているので、いちいち意識にあげて選択しなくても良いようにヒトは生きている。とくに想定内を基準にしなければ成り立たない人口過密地域では。

そうでないと、スムーズで利便性が高く効率のよい安心できる生活を営むことができない。意識にあげることは想像以上にエネルギーと時間を使用するものだから。

そのために条件反射や反射や走向性は文明の中で利用されるのだけど、これだと脳の中の大脳皮質と辺縁系は落ち着かないようにどうやらなっている。「わたし」が常に主人公ですべてを把握して支配していないと不安に陥ってしまうように学校や家庭で教育されてしまった人が多くいるのだ。なんでも理屈をつけて、理由(因果関係)をみつけないと不安になるのが大脳皮質のおつとめだから。屁理屈をこねてでも納得しないといけないのが特徴である。そして、こんなものをもっと成長させようと時間と金と労力を使おうとするのだから、困ったもんだ。自然も宇宙もこの世も、脳が発達する以前から存在する。しかし、脳はこの世と交感するより、自分が作り出すセルフイメージに今日も忙しい。

 

思考と優生思想      大学で暮らしちゃうと、知らないうちに洗脳されている?

漢字の「脳」とは月(肉)と三本線(髪の毛)凶(田)の組み合わせ。

思うの「思」は田と心の組み合わせでできている。田は頭蓋骨を上から見た形で、心は心臓のことを象形文字は意味している。心に浮かんだことを脳で説明するというのが意義である。

しかし脳は前章で書いたように欠点と不合理と無意識の塊なので、思考法そのものにも脳特有の特徴が現れてしまう。

「思う・考える」ことをすると、それはなんとあの優生思想とむすび付いてしまう。原理は簡単。

考える時に脳内で行われている作業は、一つのものを二つに分けて、それに名前をつけることである。

例えば40人の生徒がいれば、算数のテストをすることで、その結果から偏差値を基準にして、ただの「生徒たち」が優秀な生徒とそうでもない生徒に二分することができる。次に優は良いもの、劣は除外するものという思考法を繰り返し行い、この思考パターンを日常の基準にして、疑わないようにすればよい。これが洗脳で、そのためには、優の生徒を設備の良い大学に入学させるという規則を作るだけで、だれもが劣よりも優を選択しようになる。

そして次に、これを良質の遺伝子として、子孫の素質をすぐれたものにする「優生の繁栄」が結びついてしまうと、あっという間に優生学となる。

優生学は人類の遺伝的素質を、優秀または健全に高めることを目的とする学問のこと。

「優生」はeugenicsのギリシャ語の「良いこと」eu-を「優」にあて、「子孫を作ること」-gen-を「生」と訳したもので、ヒトを品種改良する学問ともいえる。

優を生かすということは、気がつかない人が意外と多いのだが、劣を排除するということを意味する。しかし「劣」を排除するためには基準と理由が必要だ。

そこで必要としたのが二分法と権威づけ。まずは二つに分けて、上下、左右、優劣をつくって、良い方法をとるように教育する。

これも、平和な自由民主主義の中で実践されている、無意識の優生学の前段階だ。優生学はファシズムと一緒にタンスの奥におしこんで、もうこの世にはないように振舞っている。ところが昔から何も変わらず、なんでも優生学でモノを判断しているくせにこれに気がつかないふりをしているだけのことだ。優生学との付き合い方は、タンスの奥に隠すことではなく、ちゃんと向き合ってその良さを認め、そして同時に優生学の限界とデメリットを知って、それが有効な範囲の内では重宝するが、範囲の外では逆に劣生学のメリットと生かし方を学ぶだけだ。

実際にナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)という理念を優先させた党が政権をとる10年も前から欧州では優生学を基準にして障害者を抹殺していた。その時代の最高のエリートによる判断だ。医学界、法曹界、大学関係者、マスコミ、政府はなんでもヒトラーのせいにして逃げていても、自己が意識(脳のメカニズム、循環器系や消化器系のセンサーを体感できない仕組み、二分法、自由・平等・同胞愛などの理念)の限界を自覚しない限り、また同じことを、もう毎日の生活の中で、繰り返している。

20世紀史の優生思想を振り返ると、

1920年「価値なき生命の抹殺を容認する書」ドイツ精神科医ホッへと法学者ビンディングが著者

1933年にドイツでは遺伝病子孫予防法が制定、いわゆる断種法。

34年から39年までに40万人が断種された。

民族浄化は人種主義、障害者排除は優生思想だが、共通点は「優秀なドイツ人をつくる」ということ

優生思想に基づいて20万人の障害者が抹殺された。   

 

次に、では、どうすれば劣生(外部)を抹殺し続けることができるのだろうか?

それは対立する2項目を作り上げ、その間を行ったり来たりすることを永久に続けようとする装置を持つことである。

人間自身を二つの両極端から見るようにして、理念のサイドから見た時に、気に食わないものを排除すればいい。

ポイントは排除する案を成立させるのは本能のサイドではなく、理性のサイドから見た時だ。理性に合わないものを除外するだけでこの装置は永久機関として動き続ける。

人類愛と殺戮、性善説と性悪説、理想と現実、リベラルと保守、民主党と共和党、建前の綺麗ごとと本音の欲望、

哲学で言えば、ロックとホッブスの思想を「代わり番こ」に繰り返すことで、外側にあって受け入れたくないモノを抹殺をし続けることができる装置を動かし続けることができる。

理性を基準にさせることで理念の世界を作り上げれるので、現実との「差異」ができ、外部を叩きたい時には、理想の社会を基準にして法案を国会で通し、現実に生きている世界を批判したり、非難したり、排除したり、叩いたり、抹殺すればいい。それが終われば、次はもう少し現実的になろう、人間の温かみの必要性を訴えて、態度を変えて、排除を止める。そしてまた理性にとって気に食わないものが大きくなってくれば、理念に軸足を移し替えればいい。

例えば、あらゆる差別をなくすとか言っ誰もが欧米に住める法案をリベラルが通すと仮定する。すると大量の移民がその国に流れ込み、多くの不都合が起きる。そこで今度は仕方なく保守が移民を制限する法案を通す、すると悪いのは保守だとリベラルは責めたてる。はじめに無理な理念を通したからこそ起きた原因を隠蔽するかのように、責任者を外側に作り出しているので、本人は鏡に映る自分の顔を見ることなく、善人ヅラと潔白で高邁な精神と純粋な機械的な言動を押し通す。そこでまた次の無理なる法案を通すことができる。これがキレイゴトを言って他者を踏み続ける永久機関のメカニズムだ。

 

たとえば、1856年のイギリス。

イギリスは世界の海を軍事力によって制覇したので、Pax Britannicaという「イギリスによる世界平和」ができあがった。これで「理念の平和」を基準にすることができるようになったのだ。そしてこの平和を侵すものを「外側」とした。それはもう排除ではなく抹消の対象にした。具体的には海賊を禁止するだけではなく、海賊を捕虜と認めず殺害しても良いことにした。現代のテロリストもこの系譜の末裔として扱うのが「理念の平和」を基準にする人たちの実際の行動である。考えることや言うことは理知的で思いやり溢れる心優しさだが、やっていることは爆撃と抹消だ。ピューリタンから派生した脳内純粋主義者が決めた内側の正義に反するものは殺してもよいとするのがこの装置だ。

例えば、戦前のコミンテルン(共産主義インターナショナル)は、域内平和BurgfriedenSecond International)という考え方を持ち出して、域外を戦争状態にさせることを戦略とした。これを使って共産主義を推し進め、邪魔者を抹殺しても良い根拠とした。

参照 教育のダークサイド

 

知識 垢のついた知

知識にも垢のついた知があるらしい。外側を覆っている世間知、核になっている分別知、この2つには垢がついているという。まともなのは、それらの間にある真知だそうだ。  岡潔「春宵十話」

アメリカの一般社会では世間知をstreet smart、分別知をacademy smartと呼んでいる。

世間知とは、仏教用語では世間智と書かれ、有無に執着して世間を離脱できない俗世間の知恵のことで、これが転じて処世の世渡りに必要な知恵のことを指す。

そして知のど真ん中にあるのが分別知。この分別知の特徴は、なんでも分けることでしか認識できないというのが知の限界と欠点で、分けないままではいられないという知の宿命である。

だからそれらの間に真空地帯こそが大切だという。

ポイントは二つの間。どちらかではなく、「間」。カタチのない「空」。

世間知と分別知によって増大してしまう知識は、体からのメッセージを聞くのには役が立たない。

参照 メキシコ・二つの国の川

 

知識が増大すれば人格(品格)が下がる? 

私たちの常識では、勉強をして脳を鍛えると優しく品格のある人になっていくと思っていませんか?

知識が増えれば人格は増していくと。

ところが実際にはこの反対で、知識が増えると人格が下がるという実験の結果がいろいろとあります。

私は学校の先生と話すことがたまにあります。先輩や同級生や地元の先生と。

そんな時に、教育指導者が「必ずしもレベルが高い高校・大学に行かなくても良い。行きたい所へ行きなさい」

というスタンスで進路指導をしていても、多くの先生は偏差値と人格の相関関係は強いという経験しており、

「良い友人に出会ったり、レベルの高い人たちに出会う」という観点から、より上位の学校に進学した方が良いと実際には思っていることがあります。

しかし、ドラマや映画、たとえばコミックの「GTO」とか「ROOKIES」では、勉強のできない生徒たちが主人公になり、頭のいいキャラクターはいつも勉強ばかりしていて、人情や不合理なものをバカにして、冷徹に主人公たちを追い詰める悪者役にされたりします。このような構図が強調されてデフォルメされることで、面白くなり人気になるのは、そこに消費者が共感できる体験を各自が持っているからです。

この二つの食い違いは何なんでしょう?

 

一番初めに、歩いて駅まで通っている人が骨を折って車で通勤するたとえ話をして、意識を使う機会が増えた代わりに筋力が衰えた話しをしましたが、同じようなことが人格においても起こる可能性があるということです。

知識が増やしている間は、足の筋力を鍛えたり、他者が困難になっていることに気づく機会が減るということになってしまいます。ですから生活が知識に偏ってしまい、カラダが準備できないという事態があるとします。

たとえば、電車の座席でパソコンでリポートを作成している時に、疲れた人が目の前に立っていても、席を譲ろうとはしないことがあったとします。理由はいろいろ考えられます。リポートの期限が差し迫っているのかもしれません。知識の吸収する時間の割合が増えて、筋力を鍛える時間の割合が減り、これから家に戻るまでの体力の消耗を避けているのかもしれません。また他者の気持ちを察する時間の割合が減り、疲れている人の心情を察する能力が低下しているのかもしれません。どちらも仮定の話ですが、これを世間では人格がない、という判断をする人もいるでしょう。

 

もう一つは住み分けを推し進めると人格が露(あら)わになる場所が減少することです。人格が問われるのは格差や矛盾が激しいところでの判断や行動です。金銭、体力、才能、生死、学歴、健康、家系、階級、人種、国、エネルギーの過密疎、人口密度の変動率などの格差が明らかに激しいところでは、この矛盾の中でどのような判断と行動をするのかによって人格は問われます。

テレビや漫画や劇場では、あえて対立や格差や矛盾を舞台にして、そこでの葛藤を描き出すのが表現の目的でありエンターテイメントであり商売であるので、そこに注目を集める設定を作ります。スーパーマン的な主人公はそこで大いに人格のある行動を発揮して、読者にとって日ごろの不満を払拭する胸のすく活躍をしてくれます。しかし現実ではあまりの格差のある世界では、夢のような活劇は起こらず、ただ対立や矛盾の中で、それらを見ないふりをして過ごすのが普段の日常です。

そんな中で、偏差値によってグループを分類することによって住み分けが実施されます。分別された新たなグループ内では差が少なくなったことによって、いままで気になっていた対立や矛盾が一時的だとはいえ減少します。

例えば運転免許の書き換えにいったりすると、日常生活では会うことがないような人たちと席を並べて驚くのも、各自の日常生活がいかに「住み分け」されているのかを物語っています。

偏差値が高い学校にいけば年収の良い職業に就く確率が増え、そこでは社会的優位なサークルで暮らすことができるので、格差のある葛藤した世界で問われる人格のある判断や行動をする機会は減少します。

ですから偏差値と人格の間に相関関係があるのではなく、実は、偏差値と人格が露見してしまう環境との間に相関関係があるのです。

区分けされていないところでは、貧富の対立や不平等や不自由が目の前にあるので、人格は常に問われ続けるので、そこで人格が磨かれる機会と現実から目を背ける機会の両方が多いのに比べ、区分けされたところでは、守られたサークルの中で暮らすことができるので、根深い対立を回避することができるため厳しく人格を問われずに、安心して暮らしていけるのが、二つの間で食い違いが出る理由です。

 

これは、お盆や正月の帰省ラッシュ時に乗客率200%の新幹線の各車両の違いのようなものです。たとえば自由席で体の調子の悪い人に席を譲る人を見かけたことはありますが、指定席ではそのようなことはこれまでまだ一度も私は見たことがありません。辛そうにしている人が同じ車両にいても、指定席分の差額を払っているのだから、席を譲る必要はない、というのが座っている人の言い分で、論理的で正しくて、理路整然として一分の隙もありません。ましてやどんなに混んでいても一般客の立ち入りを禁止されているグリーン車では、乗客は厳しい環境や格差を目の前に見ることもないので、平然と人格?ある行動を続けることができます。金で買い取った空間では人格の評価はされない治外法権地かのように。人格も筋肉のように使えば活性化して鍛えられますが、使わなければ退縮して衰えていきます。この世には一度ある地点に達したからといって、そのままの状態が保たれることはありません。どんな芸の名人もアスリートもサボれば元の木阿弥です。これが、世間には地位や肩書きや金銭で守られている「元・人格者」は一杯いる理由です。

この指定席やグリーン車の乗客の実例が、教育者の本音である「良い友人に出会う、レベルの高い人たちに出会う」という観点から、より上位の学校に進学した方が良いのだろうという思いと、ドラマや映画でフィクションとして表現される、指定席の権利や特別車両の壁をとりさった発言や行動が、赤ん坊を抱きながら2時間も立ちっぱなしになる人の気持ちに共感されるのかもしれません。

教育者の実感と経験である「区分けの効用」はルールを優先させることができる社会ではリアリティを持っていますが、フィクションの心の底までも表現する本音社会では「区分け」は否定されるものとして扱われることが読者にとって日頃の溜飲を下げる快感を生み出します。

 

では、人格を下げないためにはどうすればいいのか?

体の調子の悪い時は、できるだけ休める環境に身をおいて心身を休め、体の調子の良い時は、「生きている間は、これ修行の期間」と自覚して、厳しい環境に慣れる訓練を積み重ね、厳しさを「日常」に変えることです。

新幹線の例でいうと、疲れているときは指定席やグリーン車で休み、元気な時は自由席でみんなと「今」を楽しみ苦しむということです。

どんな人格者であってもずっとグリーン車に引きこもっていると、心身を使う機会が減ってしまうことから、だんだんとアタマとココロとカラダのバランスが崩れてしまいますよ、ということです。 

 

脳を鍛えれば、ヒトは冷たくなるのか? 意識が強くないことが、優しさにつながる? 

200万年前にヒトの脳は1000ccを超えて人間らしくなってきた。

今は1400ccあって、脳の特徴がだんだんと露わになってきた。

脳は神経細胞を使って脳内に流れている電気信号を整理することで活動している。大脳皮質で行われている作業はちょうどコンピューターのハードディスクに情報を書き込む作業のようだ。

これを「わたし(自己意識)」の方から見れば、暗闇にスポットライドを当てて、明るくなったところだけを分断し、それを仕分けして、たくさんの「籠」に「細切れ」を入れて、それらに名前をつけていく。これは便利なやり方でものごと理路整然と進めていくはじめの一歩だ。しかし、この脳の働きは、全体(カラダ・ココロ)から見れば、分断的で、利己的で、先入観にあふれた勝手なルールで動いてしまう自分勝手な生き物にうつる。

そして、ついに次の段階に突入する。ものごとをパターンで認識するシステムの発動だ。

名前をつけた後には、特殊なケースの原因と結果の2つを結び付けて法則にする。このある条件の元でしか起きない因果関係を無理矢理に過剰一般化するかと思えば、次にはこの作り上げてしまった法則を目の前の人に当てはめて押し付け、強引に過剰具象化したりもする。こんな屁理屈を押し進めるのが、脳のお仕事である。そして、このでっち上げと、押し付けを倍増させるかのように学校で鍛え上げていくのが、「冷たく」感じる理由だ。

 

フィリピンの離島やアンデスの山村では、一番出世した人が、一族の不運な人たちを引き受ける生き方がある。 

力ある者が不運な弱いものを助けるのは人として当然なのだから、相互扶助は当たり前の常識だ。

他人の物は私の物であり、私のモノはみんなのモノなのである。

これは意識が高い時には考えることができない発想法だ。

なぜならば意識というのは、一つのモノを分けて分類して名前をつけて、その後は、根拠という因果関係の線を二つの間に結んで安心するのがお仕事だから。

だから意識が高いと、所有権や、プライバシーや、個人主義や、優劣や、文字や、学問や、合理化や、効率化を優先させ発展させることに時間を費やしてしまう。

すると必然的に、共同体(カラダ)の時間が減ってしまう。

しょうがないよね、カラダは一つだし、時間も一日24時間しかないんだから。

参照 友達に迷惑をかけよう(ナバホ)  マルカパタ  シベリアのナイフ 

 

智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい。

夏目漱石「草枕」

 

 

切と結

単位・自と共 

脳機能

主語

温度・性格

器官

意識

分断

個人的・自己的

大脳皮質

わたし

冷たい・厳しい

脳 (神経管系器官)

いのち

つながり

共同体的・共感性

脳幹

わたしたち

温かい・優しい

小腸 (消化器系器官)

 

UCLALeonardo Christov-Moorは利他的(altruism)行動をする時の脳の働きを調査した。利他的行動は脳のより原始的な部位(島皮質)に関係し、理性(論理や判断の能力)に関係する前頭前皮質の働きが人為的に低下させると、利他的行動はより発揮されるデータを得た。しかし二つの関係は一義的ではなく、「利他主義」が「有効」であるためには「前頭前皮質の活性化」も必要である、と結論付けている。自分と他人を分けるには皮質の働きが当然必要だし、他人のためにする自分が気持ちいいのだし、自分とは集団(他者たち)の一部なんですから。

 

ヒトのカラダはこの400万年の間、大きく進化はしていません。

ところが、ヒトのアタマは日進月歩で、変化しています。

そして、ヒトのココロはこの数万年の間にすこしずつ変化していますが、基本はサバイバル(生存)と生殖のための効率化です。保持と繁殖です。そのための好き嫌い、快・不快、繰り返しと回避、近づきと遠ざけです。

 

ヒトのアタマである脳は「分ける」ことを基本とするので、カラダや完全性(未分)からみれば不完全な器官で、時にはこの分類能力(主義・人種・階級・格差)によって同類を殺すこともよくします。

自動的に錯覚するように脳はプログラミングされているので、事実の半分しか見ることができません。神経系器官と法則を基準にする感性や理性の世界はよく見えますが、「矛盾と折り合う智性」や「土に還る魂性」には大脳皮質はそのままでは対応ができないのです。智性や魂性を体感する元は「共感」です。ただこの「共感」は、大脳のミラーニューロンではそのまま再現できない質のものなのです。

 

競争と共感力

通常は、相手がイヤがるようなことは自分もイヤだと感じてしまい、できなくなる。なぜなら、相手に「共感」するから。相手がイヤなことを自分もイヤだと脳の中のミラーニューロン細胞が感じてとるから。

しかし、この共感力を減らすことは可能です。

カナダのウィルフリッド・ローリエ大学の心理学研究チームは、人が権力を持つと「共感力」がなくなっていく実験データを得た。他人に対する思いやりをなくしたり、相手の立場になって考えることができなくなる傾向が生じる実験結果を集積しました。

権力とは「競争」によって勝った人が得ることのできる力のこと。

常識では、競争をして勝てばそれだけ努力をしたのだから「立派な人」や「人格者」になったんだと思いがちになる人がいる。しかし、この研究が示すのは競争をすればするほど罠にハマっていくという、悲しい現実、というよりも、理路整然とした当然の結果である。

意識が発達する前に基準であった「共感力」から「意識」に基準の中心を移行することで、共感力は減少し、これを押し進めると、共同体感覚を優先させない「冷たい人」になっていく。例えば、競争の極地である戦場では、新米の兵士は初めて人を殺す時に躊躇しても次第に慣れていく過程がある。敵にいちいち共感していては仕事ができないので、共感力を下げるためには、自己意識を発動させて、意識を活性化させて、相手を殺す「正しさ」と自分と仲間を守る「正しさ」を構築しなくてはならない。 例えば、スティーヴン・スピルバーグの「プライベート・ライアンSaving Private Ryan」のように。

そして、多くの人は知らない間の無意識のうちに「競争の土俵」に乗せられているシステムの中にいる。

競争が悪いわけではなく、これがこの世がこの世であるためには、大事な要素である。しかしだからといって、いつもこの競争ばかりの時空で暮らしていると、カラダは維持できないので、生命体は滅亡してしまう。適度な「競争」を生み出す冷たい意識と共に、多くの「安らぎ」を温かいカラダは第一に必要としている。

人間は脳を発達させて倍増させた代わりに、情や暖かさを半減させた。そちらにメリットがあったからだ、しかしこのメリットがいつの時代もどこの地域でも通用するとは限らないし、未来もそうなるとは限らない。だって、これを極端に押し進めてしまうと、カラダがもたなくなるから。

「いのち」あるものには、カラダを中心とした生き方や考え方がある。

大学で学問(分断活動)を長くした時には、自分の共感性は失ってはいないかと、たまに確認しながら進むこともワクワクする生活にはいいかもしれない。

参照 「いのち」のエッセイとコラム  オックスフォードの正義

 

頭を鍛えると仲間よりも普遍性や正義を大切にする子供になる

共同体よりも基準を理性にしてしまったのは歴史の流れからいって理解はできる。だからといって、仲間や家族の基準をなくして、意識だけに頼ると歴史は途絶えてしまう。この理性中心主義というのは歴史の中での過渡期に表面化される一時期だけのものであろう、もし歴史が続くのであれば。

また、いくら理性が大事だからといって、自分の子供に勉強をさせたはいいが、新興宗教にはいったり、ブラック企業の勧誘をしたり、故郷を捨てたり、ひどくなると他人様を傷つけるような人間になってしまっては、本来望んでいたことではないだろう。 

参照 ユートピアで他者を踏みにじる方法  プロテスタントの免罪符

 

大学に行くと、人の身になれない人が増える?

大学の目的は脳を鍛えることですから、当然、多くのバリエーションのある可能性をシュミレーションすることになります。すると、他者の立場に立って、モノを考えることができるようになるのではないか、と思われます。

これっていいことですよね。

ところが、この他者の立場というのはどんなモノなんでしょう?

もし「わかる」のが自分の意識ことだけの人ならば、分かるのは他者の意識までですよね、当然ながら。

しかし自分の無意識のことが「わかる」のならば、他者の無意識までも理解できる可能性はありますよね。

無意識を理解できるはずがないって?

たしかにそうですが、実験して推定することはできるんです。

たとえば、チーズの焦がした香りが漂ってきたら、急に生唾が口の中に溜まった経験をする人がいます。推察するに過去においしいチーズケーキを何度か食べたことがあってこれが条件反射になったのかもしれません。これを自覚している人は、ケーキ好きで糖尿病で苦しんでいる友人と一緒にいる時は、その人の好きな店の前を通ることは避けるようにするでしょう。無意識のうちに条件反射が反応して欲望が掻き立てられるのを避けるためです。

脳を鍛えることで、意識ばかりにスポットライトを当てる癖がついてしまうと、他人の立場に立つことができても、それは他人の「意」でしかなく、他人の「身」ではありません。

もし、わかるのが自分の意だけならば、わかるのは他人の意だけです。

他人の身になれないのは、なぜならばその時に自分の身がわかっていないからです。

欧米や都市生活者の「わかる」とは一般的には「意」のことであるので、言葉を大切にします。英語で言うとハートやソウルではなくマインドです。日本の都市文明圏でも日常会話で「気持ち」や「心」と言った場合は、ほとんどはマインドのことを指し、循環器系の「心臓が波のようにトキメクこころ」でも消化器系の「異物も一つに溶けて腑に落ちる魂」でもありません。

アタマがわかるのは、相手の「感じ方と考え方」です。それらは、感性と理性であって、智性と魂性ではない、ということです。

現代の都市生活者で、感性と理性の奥にある内臓感覚でわかろうとする習慣を持つ人は少ないと感じるのが私の体験です。

自分自身の条件反射や、自分の血管の状況や訓練や治癒や、自分の小腸の働きや腸内微生物の反応を感じることをしない人は、「意識」よりもずっとバラエティーの多い他人のココロやカラダを理解できることはありえません。

 

ではどうすえば、自分のココロやカラダの声を聞くことができるのでしょうか?

仏教の唯識派では、意識ではなくその下にある「識」にバトンを渡さないと、カラダの声は聞こえない、といいます。

意識の下には無意識(潜在意識)と非意識とも呼ばれる二段階があります。仏教・唯識派のいう末那識とその底にある阿頼耶識です。

無我を自覚したとき、小さな我(自己意識)にとらわれない阿頼耶識の自由で広大な世界が開けてくる、という教えです。

仏教の阿頼耶識とは、無意識の底にある生命の根源である「いのち」で、この世を実感することです。

ユングの唱える心理学で説明すると、私心(自己意識)を使わないと潜在意識が発動して、その奥にある集合的無意識の情報が無意識に立ち上ってくる、ということです。

Description: 400px-唯識  参照 ユング心理学と仏教唯識派

 

五感で感知できない事実(見えないことの法則化)に操作されてしまう人たち 

常識問題集 微視と巨視 原子と宇宙 殺菌して無菌室を造ろうとする人

勉強して賢くなった分だけ、実はヒトはその賢さに操作されてしまう。

五感では感じることができない、電磁波、細菌、放射能、化学物質、分子構造、素粒子の世界を知り、それらについて意図されて提示されたデータを信条にして生きてしまう人たちもいる。

データとは特殊なTPOの時にしか効果がないのに、それを一般化して、それをどこにでも通用できる概念や教義にまで固めてしまい、それを信じ、信念にし、それに囚われる。

知ったことの満足感や優越感を優先させてしまい、知らない人や知らなかった自分を下に見てしまったのである。

「知る」とは大したことではない。なぜならば、目隠しされたままで象の尻尾に触ったことでしかないから。

まだ耳にも足にも牙にも触れたこともないのだから。さらに全体に触れたとしても誰も象の内臓には未だ触りもしていない。そしてハートにも。ソウルにも。

知ったことは、ほんの少しのことでしかなく、だいそれた一般化なんて、できるものではない。象とは毛のついたムチのようなものと信じ込んでいたら、次回に目隠し状態で象の足を触ってもそれが象だとは気が付かないばかりではなく、足を触って象だと言っている人のことを「あなたは間違っている、これは象ではない、正しいのは私だ」といって己の正義を振りかざして攻撃を始めているかもしれない。

 

1実験結果から作られて法則は「常に」更新が必要とされ、 2実験結果は意図されているのが宿命

大学で学ぶことの一つに、ヒトの目に見えない世界に法則性を見つけ、これを使って未来予測をするということがあります。これらの法則は効果的で未来に起こる結果を言い当てる確率が急激に上昇します。

たとえば、経済、歴史、心理、量子、哲学、どれも肉眼では見えないものばかりです。見えるのは集められたデータと、そこから導き出せれた数式だけです。

テクノロジーとして電子顕微鏡や電子望遠鏡やコンピューター、因果関係を探すための数々の実験のデータ、それをベースにした推測と仮説の法則。これらによって新たな視点を大学で学ぶことができます。

このどこに問題があると言うのでしょうか?

新たな視点を得ることによりバリエーションが拡がり、可能性が増え、多様的な考え方できるようになるので良いことばかりではないでしょうか?

しかし、二つの問題点があります。一つは五感の変動性と意識の限界、もう一つは実験による法則の意図性の問題です。

一つ目は、肉体感覚で得た因果関係は、死ぬまで自分の体を使ってこの法則を修正したり、書き換えたりすることができます。例えば梅干を食べたら唾液が出るという条件反射は、自分の体を使って実験することができます。そしてイメージや経験を変えることで、唾液の量が増減したり反応しなくなることも自分の体の体験を通して結果が出るので修正を積み重ねることができます。

しかし、自分の肉眼や五感を使えない実験については、データを論理的に分析し、批評精神で反例をさがしTPO外にある特異な例(特例)を見つけた後は、法則をただ受け入れるしかなく、自分の肉体を使って随時に因果関係をチェックすることはできません。一度受け容れた法則は、反論された新しい法則の情報によって更新されるまでは、それを信用して使うしかありません。その法則が通用するのは、実はある空間とある時間だけにしか効果がないのかもしれません。とても狭い領域かもしれないのにです。

この「通用する範囲」の空間を吟味しなかったり、更新という時間の書き換えをしないと、限定されている時空でしか通用しない旧説をそのまま信じ続けてしまう場合があります。

たとえば、いまだにダイオキシンが猛毒であったり、植物は酸素を生成すると信じて植林事業を進めたり、聖徳太子が17条憲法を作成したと学校で習ったので信じていたり、太陽系運動計算にニュートン力学をそのまま使用している人は多くいます。

 

ではなぜ間違った旧説が否定されないのか?不思議ですよね。

それは、一言でいうと旧説を全部反論することが難しいからで、限定されたTPOにおいては旧説の法則が事実の近似値だからです。これらのメカニズムを簡単な図にして説明します。

 

強度の相関関係

ダイオキシンと死

植物と酸素

聖徳太子と十七条

ニュートン力学

A ○

モルモット

成長期

日本書紀

地球

B ×

ハムスター・ヒト・その他

成熟・終末期

資料批評学

宇宙・光速度

 

例えば、ダイオキシンと死亡確率の相関関係は、モルモットという狭い範囲では強い関係が成り立つので、間違ってはいないが、これをハムスターでみてみると致死量がモルモットの2000倍もあることがわかり、他の動物で実験してみると猛毒とはいえないことが判明した。だからといってAの領域では実験結果は間違っていないので、Bの領域の実験結果をもってAを否定することはできない。これが旧説を根源的に否定できない理由だ。

しかし、ダイオキシンについて社会が問題にするのはヒトに対しての影響であるし、植物と酸素に関しては成長期の昼間だけではなく成熟期や終末期を含めた全体の総量を数値化するべきだし、ニュートン力学は地球の日常生活で十分な近似値だからといって宇宙の真理だとは言えない。

ここが旧説の法則を完全否定できない理由であり、それゆえに更新されることを怠ってしまう理由でもある。

はじめに旧説を受け入れる時に、この法則が狭く限定された条件の中でしか通用しない「仮の法則」である、ということを強く指摘しないことが、後の誤謬を積み重ねるステップとなってしまう。

学説や法則を教えることにはこのような危険性と誤謬があることを自覚するのが、教え学ぶ時の注意点でもある。

17条やニュートン力学のように間違っていても意味あるものもあるが、ダイオキシンや酸素などの実験結果をTPOで限定しなければ、実害は拡散していくことも多い。

中世において大学に行く人の一部は暇な時間を持てる階級に属し、近世においては資産家の暇つぶしを教養と呼んだように、常に新説に触れ、過去の間違いのある説を否定し、改善された説を取り込む余裕のある人にとって大学はよいところです。

ところが情報の更新の余裕がなかったり習慣づけていなかったり、法則そのものを仮りのモノとして捉えない人にとっては、狭いTPO(実験室、時代、地域、文化、民俗、習慣)の結果を拡大解釈して法則化してしまうのは危険なことです。これらは過剰一般化と呼ばれるもので、以下のことをまだ信じている人は大学との付き合い方を考える必要があるのかもしれません。教養課程をバカにしてすぐに専門課程を学ぶカリキュラムに変更したのは学問の欠点と限界がわかっていない愚かなことです。教養課程で「知」の欠点をしっかり学んだ者だけが専門課程を学ぶ価値があるのだと私は思います。そんな時間的な余裕が無いという人には、それならば学問はその人自身を傷つけてしまう毒になるだろうと思います。順番を踏まないと、包丁を研いだはいいがそれで自分の指を切ることになります。 

 

常識問題集

温暖化

温暖化すると北極と南極の氷が溶けて海面が上がる。

ヒント 氷が溶けると体積は? 南極の温度は?

二酸化炭素と温室効果

二酸化炭素が増大すると温暖化する

ヒント 昔の二酸化炭素濃度は?  温度に影響を与える大気とは?

植物と酸素

野菜は光合成で二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すため、野菜を作ることによって二酸化炭素の量を減らすことができる。

ヒント 光合成の化学反応とは? 成長期だけではなく? 炭素の行き先は?

ダイオキシンは猛毒である。

ヒント 動物による致死量の違いとは?  都の職員の天下り先は?

LD50という数値で体重一キロあたりどれぐらい摂取すると50%が死ぬかを基準とする

参考 セベソ事件、ユシチェンコ事件      

参照 常識の限界

 

実験データの「解釈」を変え続ける医療学会

医学界が血圧を130にしろ(現在は149)と指導したり、メタボという値が作られて保健所から連絡があったり、厚生省が塩分を一日8gにしようと提言したりしてきましたが、どれも数年すればまた基準が変更されつづけています。

どの値にも実験データと相関図をもって説明されてきたものばかりです。それなのに、すぐに訂正です。

大学で習う法則は常に更新しておかないと、領域(TPO)を変えることで旧説が通用しないことがよくあるので、常に新説を追いかけるのが面倒くさい人は、勉強しないのが楽でいいです。自分に関わる大事な問題だけを、その都度に勉強して対処していくのが実践的です。

 

自分の五感を離れた視点は自分で確かめることができません。言われるままに従って、そこで大きな問題が起きなければ、新たな法則を採用し始めます。そうすると、ある意図を持った人の価値基準でものごとを判断してしまい、それが癖になって、しまいにはそれが日常になってしまいます。

あらゆるデータの解釈には、それぞれの組織が導きたい方向があるので、それを推察してあげる優しさを持ちましょう。

多くは独善か理念か正義か自己実現か金か権力かプライドか保身か欲なので、推察するのはわりと簡単です。

 

殺菌して無菌室を造ろうとする人

たとえば微生物。これらは裸眼では見ることができませんが、あたりに一杯いる生命体です。

実験室の中でも多くの微生物が発見されます。そして一つ一つの特徴を見るとどれも個性的で、その個性を増幅させるとヒトにとっては毒にも薬にもなります。すべてのモノはサジ加減なので、その量によって害にも益にもなります。例えば、生命体にとって重要な水もヒトが一度に8リットルを飲めば死亡してしまうように。

ですから、どの微生物も良いとも悪いともいえず、まさしくその時の状況によって、立場が変化します。

体内の細菌を悪玉、善玉の区分けしても、状況によって変化するということです。例えば悪玉菌が腸内にいることで、体外の細菌に対して免疫細胞が抗体を即座につくれるというメリットがある時もあります。

現在の医学界でピロリ菌の効用を謳う人を私は知らず、製薬会社、医療関係者、政府・国の機関では排除することを勧めています。あるホームページでは以下のようなことが書かれています。

「ピロリ菌に感染したからといって、潰瘍や胃癌が必ず発症するわけではありません。しかし、感染したほとんどの人に胃炎がおこります。除菌しない限り、ピロリ菌は胃の中にすみ続け慢性的炎症が続き、胃の粘膜を防御する力が弱まり、ストレスや塩分の多い食事、発癌物質などの攻撃を受けやすい無防備な状態となります。」

といった具合です。アンチ体制と自負するダウンタウンの松本人志も除去治療を受けたほどです。

19世紀までは世界のほぼ全員が所有していた菌であり、日本の1992年の調査では40歳以上の70%が体内に保菌していることが確認されています。

しかし医療関係者が脅かすほど、胃癌者を周囲で見るわけではありません。一つ遊びで彼らの口車に乗ったとしても、ピロリ菌のおかげで胃潰瘍がおこることで、それ以上ストレスをためないために休息できる機会を与えてもらっている「坑内のカナリヤ」なのかもしれませんし。

 

誘導されている実験結果

このように実験の結果や法則は、もう一つの問題であった、実験者がはじめから自分の欲しい実験結果や法則を誘導しているのではないのかという疑問です。時にそれは意図的なものであったりしますが、多くは無意識の行動であったりします。問題はこの無意識です。個人やグループや団体や国や機関はその時代の求めているものを実現しようとするバイアスがかかるからです。バイアスとは古期フランス語源で「傾斜」の意味なのですが、この地球上には常にフラットなものはないということです。自意識から地震まで傾けるものでこの世は満ちています。例えば、安全、安心、健康、善行、リスクヘッジ、思いやり、ボランティア、保険、準備という羊の皮をかぶった利益追求もあります、なんと本人たちも自分の本音に気がつかないように洗脳されたままで。

意図的なものはわかりやすく、たとえば薬品会社の新薬の認可における実験とその厚生省の認可制度そのものです。

例えば、ガンの治療薬である抗がん剤の認可基準を、どうかみなさん、インターネットで調べてみてください。きっと驚かれると思います。

 

法則の見つけ方のコツ

今まで行われなかった「分け方」で実験をすれば、分けたモノの間に新たな関係が必ず生じます。元が一つだったのでそこにはある決まった関係とルールが浮かび上がってきます。これをヒトは発見だとか、発明と名づけています。

法則は、もうはじめの段階、すなわちどのように分けるかでいつ、どのように発見されるのが予想されます。

分け方を研究すれば、その逆である関係性(法則)を推察することができるからです。

たとえば、医学で人体を器官ごとに分けることで学問を始めると、器官と器官の関係のデータを集めることで、新しい法則は生まれますが、分けなかった状態の全体性もしくは複数性のデータははじめから求めることができません。例えば小腸と大腸を分けて認識することでこの二つの相違点や関係性は見つかりますが、腸としてまとめた時は、これと対立する器官である胃と比べないと腸の特徴は浮かび上がってきません。

 

またいままで常識の土台として分けていたものを、統合することで、新しい法則が生まれます。

たとえば、時間と空間をはじめから区別するところことを常識として、ここを土台に始まったニュートン力学は、時間と空間の密接な関係をベースにしたアインシュタイン力学の前では、限定的に使われるようになりました。

これらが今までの医療系大学で教えていた細分化医学の限界であり、限界があったからこそ、統合医学を考えるきっかけになりました。

参照 病気を治す  守自意からはじめる 死ぬ前に言葉は通じない 自然からのメッセージ

 

科学の主観性   大学教授が陥る落とし穴

科学って何?

理論を実験と照らし合わせることで「客観的な真実」にいたることかな?しかし、実際は実験のデータによって、理論に基づいた予測が確認されることがあっても、理論それ自体は証明されることはない。例えばピサの斜塔の実験やヒッグス粒子を証明?した実験のように。

実験データに対して、説明のつく因果関係のパターンを表すことが科学では求められている。だから、正確に言うと、理論の予測した通りの近似値が実験結果として出るので、理論が証明されているとその時代の学界が納得しているだけにすぎない。しかし、実際には実験データには、いろいろな解釈がある。例えば実験結果の解釈をニュートン力学とアインシュタイン相対性理論のどちらを使っても近似値がでるように。

 

科学者も無意識を持つヒト科の生物。まずは無意識のうちに自分の信じたい情報を集め、編集し、実証する。

そしてそこに想定外のことが起こるので、それをどう理解すればよいのかという格闘、すなわち新たな法則をつかって現象を説明しようとする「言い訳」が始まる。

これが科学史が文学批評と同じだけ合理的ではない理由だ。科学は主観なるものでしかないが、文学と比べると相対的に少しは客観的だというだけのこと。

 

アリストテレスから中世ラテン・アラビア語科学、ニュートン、アインシュタイン、量子力学という王道の権威的科学の根本が揺るがせ続けた変化を見ても、文学史や絵画史や哲学史と同じようなジグザグな道程が科学の進行を特徴づけていることがわかる。

 

科学の進化のプロセスがなだらかな曲線を描いている時は、革新的な発見の後の小休止時期だということ。革新的な発見時期はジグザグな過程をたどる。逆に言うと、なだらかな曲線は、次の革新的変化の地固めの時期だということ。ただこの時期は、凝り固まった権威主義の増大をもたらし、過度の特殊化(専門化)の袋小路へと導いていくというつまらない特徴もある。そう、時代には時代の役割がある。

 

人間のレベルでの誤ち  一面性 一要因性 一時性

こんな科学ではあるけれど、近代以降からは人々から信用され、科学で証明されたものに従う人が多い時代がはじまった。

ここで二つの問題がある。一つは科学そのもの問題で、これまでの科学は実証性にこだわってきたために、モノ(現象)にスポットライトを当て、関係性(TPO)は暗がりの中にあった。

もう一つは科学を理解する人間の欲望の問題である。科学的手法で再現性のあるものでも、それを利用する人が自分の都合の良いように誤用したり曲解していたとしたらそれは、科学的とはいえない。

誤用の特徴に、一面性 一要因性 一時性がある。

参照 科学の限界  専門家の限界 地球から見たヒト

 

一面性

数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う「群盲象評」というインド発祥の寓話がある。

ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など世界に広がる譬え話だ。

ジャイナ教の伝承では、

6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」

 

この寓話は誰もが一部を科学的手法で分析・再現・認識してしまい、それを一般化してしまう可能性を示している。いくらちゃんとした手法を経た科学的事実の積み重ねであっても、周囲との関係性や全体との関わりに常に配慮したものでなければ誤解を生んでしまうという楽しい喩えだ。また、多くの手法を統合したものであったとしても象の内臓や心や条件反射や無条件反射がわかるとは言えません。しかし、わかるのは、たった一部であって他の部分のことが一切わからないとしても、それによって全体性とつながることができる、という寓話だとも解釈できます。

 

一要因性

人には何かが起こった時に原因や根源を探すクセがある。それは、河口の下流にいる者がこの川の本当の一つの源流を探し求めようとする行為に似ている。

日本の各地域の塩の摂取量と血圧を調べた人がいた。

敗戦後から5年(1950年)、アメリカのダール医師が日本各地の食べ物と健康の調査をした時に、塩と血圧の間で関係性のあるデータが取れた。

鹿児島は一日14gで高血圧が20%

青森では一日28gで高血圧が40

それから現在に至るまで減塩こそが大切というキャンペーンが続いている。

しかしあれから60年が経ち、わかったことはこの二つには実験室では相関関係はあるが、日常生活では少しぐらい多く摂取しても尿として排出されるのでなにも問題がないことがわかっている。またこの地球上には塩分を摂らない民族や塩分を多くとっても血圧に関係がない人たちがいることもわかった。たとえば、日本国内では長野は塩分の量も国内では比較的高いが高血圧は青森ほど多くなく、日本で一番の長寿県である。

このように調査者の意図によって、二つの関係は望むような因果関係にスポットライトを当てることができる。実際には緯度と血圧、気温と血圧、運動量と血圧、納豆と血圧、人口密度と血圧にも相関関係がある。

相関関係とは二つの間にある関係のことで、単にそういう関係があることに過ぎない。そこに一つの因果関係があることが証明されるわけではない。厚労省の減塩目標は、男性は一日8グラム、女性は7グラムまで。しかし、塩を20gとれば高血圧になるとは限らない。日本の長寿県の一位は男女共に塩分を20g近く摂取する長野県である。男性80.9歳、女性87.2201731日 厚生労働省発表

何故このようなことになるのか?

「いのち」あるものは、予めプログラムされている機械ではないからだ。

生命体は環境の入力に対して想像以上に多いスイッチが関連しあってアウトプットが決定される。このスイッチが常に環境に合わせて変化し、これを遺伝子として次世代に伝えるという特徴をもつ。

例えば、疫学調査は論理的に限界があり、分かることは、「ある因果関係がある場合、ある調査がその因果関係に反しないことを示すことができる」ということだけ。原因の特定には結びつかない。

厳密に科学的に言うと、あらゆる「いのち」に関わる調査は単一の要因を見つけることができない。

河口の下流から上流に向かい、湧き出る泉の源流を見つける人がいるが、実際にはこの泉はシンボルに過ぎず、実際は雨滴が地面に落ちたところ全てが川の源流である。

 

一時性

何かを判断するときには条件がつく。

時間ならば始まった時から終わるまでの間、空間ならば囲んだ領域の内側での話し、状況ならば周囲の人やグループや社会や環境との関係。

どれもある条件のもとで判断が決定される。

例えば、昔は6歳になれば立派な働き手で、家では弟妹の世話をみる保育園の先生であり、外では仕事を手伝う働き手だった。しかし現在の先進国では子供が働かなくなって久しい。

ところでこんな現在の子供たちを見て、人間とはたんなる消費者でしかない、と言い切ってしまうのはどうだろう。

確かに一般的には早くて15歳(中卒の働き手でさえも1%に満たない)、多くは20歳を過ぎるまでは、経済的には生産よりも消費の方が多いだろう。しかし、人生の前半だけをみて判断するのではなく、後半もみて全体で評価するのが妥当である。

ところが、このような全体を見ずに一時(いっとき)だけを見て、一般化して全体を判断してしまう誤ちを侵す人は多い。ナイジェリアの産婦人科医院の前に住んでいて人口爆発を嘆く人、日本の高齢化した高層団地に住んでいて少子化を嘆く人、植物が酸素を作っていると信じている人など、どれもある事象のある時間だけをみて、全体を判断してしまうことは多い。目の前に科学的な事実があったとしても、一時的なものを基準に判断してしまっては勘違いが多くなる。

 

疑似科学

一面性、一要因性、一時性によって作られた法則が、後に時間が経過して安定すると、疑似科学と呼ばれる。調べると100、詳細にわたると500ほどの分野がある。

マイナスイオン、酸素水、水素水

減塩と健康、メタボの定義、標準血圧、血液サラサラ

電磁波遮断シール、遠赤外線の効用

江戸しぐさ、アポロ陰謀論、血液型と性格の相関

科学は「結果が絶対だ」というものではなく、科学的な方法論とか、考え方とかが「有効だ」と考えること。

有効であるが科学は絶対ではありません。そして、その有効さえもTPOによって変化してしまいます。

参照 疑似科学

 

空想・妄想に取り憑かれる源泉は二分法  「正義」「善意」「ロマン」 

納得できる理由がほしいがために、脳(大脳皮質)は根拠を求めます。

根拠には原因と結果が必要です。「根っこ」を発見するということは、二つの間を線で結んで、二つの間に関係を結ぶ、ことです。これが理由であり、理性reason/ratioであり、根拠のメカニズムです。

根拠がなくても根拠が見つかる理由は、優秀な人がきちんとしたデータを誠実に集めて、合理的に見えるような線で「折り合い」を一所懸命につけているので、一見すると因果関係のある科学のように見えてしまうのです。一つのものを二つに分けたのならば二つの間に関係はありますが、縁もゆかりもない二つを結びつけてでも、ご満悦したいのが脳の性分です。「風が吹けば桶屋が儲かる」という関係のないものを結びつけるのも大脳の特徴の一つです。

そして、この二つを線で結ぶということは、結んでいる時と結んでいない時があるわけですから、これが「二分法」の源泉になります。二つを結んだ以上は、周囲から二項対立の関係にさらされることになります。

またここに「正義」「善意」(悪意)が加わると、線を引くこと(法則をつくる)に情熱が追加されます。

ここで人は歴史に引き寄せられてしまいます。

最後にここに「理念」「理想」「理性」「ユートピア」「ロマン」が加わると、ついに閉じられた世界での永遠の闘争が始まります。脳の中にあるパラダイス(理念)と目の前の現実とのギャップです。

たとえば、平和運動やニューエイジ運動。欧米や都市生活者の物質文明に批判的で、スピリチャル的な東洋思想、肉体的な野性へのあこがれが強いのが特徴です。

ルイセンコが主張した「獲得形質の遺伝」がソ連の正当科学と認められたように、科学はヒトの願望によって決定され、私たちはいつも「時代の希望」にとらわれた判断をしてしまう生き物です。

 

奇跡にだまされる人

奇跡を起こすのはそれほど難しいことではありません。生中継のテレビで視聴者にコインを10回振ってもらいます。同じ表が10回続けて出る人はどれぐらいいるでしょうか?

コインの表が10回連続で出る確率  1/2の10乗  1026回に1

日本人全員が同時にトライすると一度に10万人のヒトがこの奇跡を体験できます。

神奈川県ならば伊勢原市の住民全員が、目の前でこの「奇跡」の体験ができることになってしまいます。そこで目の前に起こった出来事を信じてしまうのです。

奇跡はこれほど簡単に起こってしまいます。

 

すべての情報はバイアスがかかっている

科学の基本の一つは、特定の現象を客観的に観察することです。ところが、意識とは主観的な体験です。脳は、自分自身である主観的な体験をどれくらい正確に評価できるのでしょうか?

バイアスとは、事実を歪ませる情報の偏りやそれを生み出してしまう考え方のこと。

無意識の判断は各自のこれまでの体験というバイアスによって行われています。現在と向き合わなくても、過去の記憶や理性の未来推測によって、目の前のことをバイアスによって自動的に無意識のうちに判断しています。たとえば、錯覚や錯視など。そして、条件反射、狭い領域でしか通用しない経験、妄想、願望など。

他人はもちろん、自分の意識も、そして自分の無意識さえもバイアスの中にいます。

数字やデータは客観的で中立的であっても、これが人間世界の中で使われると情報となり、この情報は解釈や意味付けが発生します。解釈のない情報はありません。善意があっても、意識していなくてもバイアスがかかります。アタマの大脳皮質は二項対立によってはじめて外界の認識ができるので、バイアスをかけてまで対立項を作ります。しかし、バイアスがかかっていることを前提にして暮らしていくことでカラダは緩みます。

 

第三章   理性を磨いてしまった人の陥る傾向    理性と理念のメリットと限界

聖書の中の「知恵」と「賢さ」

「人が心に思い浮かべる想像はみな、常に邪悪でしかない」(創世記六章五節、改訂訳)

「もしあなたがたの中に、自分は賢いと思う者がいるなら、賢くなるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は神にとって愚かだからです」(コリント人への第一の手紙三章一八、一九節、改訂訳)。

エバは、サタン自身の堕落を引き起こしたのと同じ誘惑に負けて、堕落してしまいました。サタンは、「私はいと高き者のようになろう……」(イザヤ書一四章一三、一四節)と言いました。誘惑者は、どのようにエバを魅惑すればいいのかを知っていました。誘惑者は、彼女が持っていたものよりも高度なものを示すことによって、エバを誘惑しました。

エデンの園で善悪の知識を与えた「知恵」は、やがてその頂点に達しました。そして、神は堕落した人類を見て言われました、

「私の霊は人の内にとどまらないであろう。人は道に迷い、肉にすぎないからである」(創世記六章三節、改訂訳)。こういうわけで、堕落したアダムの種族を「死が支配した」だけでなく、最初のアダムと同じ形に生まれた人はみな、「地」に属し、「地的」であり、霊によってではなく肉によって支配されています。

「自己」(ルカによる福音書九章二三節参照)の人格は、霊の召使いではなく、肉と地的命の奴隷です。聖書によると。

 

4つの能力

理性を磨いてしまった人が陥る傾向とはなんでしょうか?

それは理性を通してこの世を見る時間が増えてしまうので、他の「性」を通してこの世を見ることが減ったり忘れたりしてしまうことです。理性のほかにどんな性があるのでしょうか?いろいろな区分や解釈があるのですが、ここでは以下のように仮説します。

生命体の一生をグラフにしてみます。

横軸を時間、縦軸を自己意識への依存度、もしくは細胞の数にしてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


     幼児期       青年期         成熟期        老年期  

 

幼児期 感性  見たまま  子供の絵      感覚を通して外界を感じる能力

青年期 理性  分けて名前をつけて法則化する  未来予測に役立つ能力

成熟期 智性  選択した時に一度は捨てたネガティブや影を再考し、内側に取り入れる能力

老年期 魂性  何も分けないまま受容する能力

 

この4つに対応しているヒトの器官は、

神経管系器官   五感からの電気信号を整理する意識

自己意識     外からの情報を遮断して一般化(法則化)する意識

循環器系器官   心肺の波動運動 動脈と静脈の血管で全体に循環させる

消化器系器官   異物である食物を溶解することで自他の壁を消し去り、自分の一部とする

の4つがセンサーとなり、認識したり、感じたり、波動したり、腑に落ちたりして体感します。

 

器官とはあまり聴きなれない言葉だと思いますので、脳機能学で説明すると

哺乳類の脳    大脳皮質            学習・記憶

人類の脳     自己意識 わたし・主体     意識の主体

爬虫類の脳    大脳辺縁系           条件反射・感情

貝の脳      脳幹              本能

 

問題はこの一つだけを磨きあげてしまい、そこだけにスポットライトをいつも当ててしまうと、いつの間にかそこが基準点となってしまい、他の部分が退化してしまうことです。

例えば、理性を磨くと良いことは、自己意識が発達して、客観性に秀でて、自然の中から法則を見つけ出すことが得意になり、未来予測をする時空が増大することです。

しかし、理性に信頼を置いてしまうデメリットや弱点は、常に変化する現実や想定外のことについては、未来予測することができないので、これらには対応できず、慌てふためくしかないということです。

例えば、分けることができない「いのち」の神秘さや動的平衡、地震、津波、噴火、気象、恋心などなど。

参照 自分の中の4つのプレイヤー 寒の神・キリマンジャロ 神学・たくさんの解釈 ギアナ崖の霧

 

理性のできること・限界     

理性って?

これは明治にできた新しい語句である。ギリシャ語のロゴス、ラテン語のratio、英語のreasonドイツ語のVernunftの翻訳として誕生した。漢字を使って翻訳したので、どうしても漢字の「理」の語源に引っ張られてしまうが、ここではヨーロッパの英国のrationalityの翻訳としての理性とする。現在の中国でも、西欧の概念の中国語訳は明治期の日本語訳をそのまま使用している。

またrationalの訳は1881年以来、日本では「合理的」とされている。 

 

理性と知性と智性

理性はモノを分けて、合理的に分析し、推論し、論理的に組み立て、統合し、未知の予測計画を作る力のこと。推理、計算、比例(比べる)能力を指しているので、現在ではTPOの変化に合わせられれば最良の方法を探る力と思われています。将棋のヨミや、宇宙計画や、コンピューター計算や、未来予測や、天気予測や、そして日常では、今日の予定です。

入学試験や入社試験などで問われるような能力は、理性というよりも条件反射の訓練です。これらは理性を使って考える能力ではなく、合格者になるためには、パターンを使って現状を素早く把握する能力をマスターすることが必要です。和歌を詠む能力ではなく、カルタ取りで勝つことが要求されています。

現在の日常生活で使われている「知性」とはこの理性の枠の中で使われるもので、知性の思考パターンの基準はまだ二者選択です。それに対して、全体の中で把握しようとする能力と直観的に事象を知る能力のことを智性と名付けることにしました。例えば、光は粒子であり同時に波動である、といった考え方で、これまでの知性の思考パターンでは矛盾として扱われ排除されてしまったものです。

 

例えばDilemma(ジレンマ)は、現代では、二者択一の板挟みの意味ですが、智性での解釈は、本来の語源である、di2つのlemma主題、という2つの主題を同時に持つ両義性を意味しています。また、Ambiguousの意味は「曖昧」ではなく、語源どおりの(ambi両方 ig行う ous形容詞語尾)両方とも行う、であるように。

これは新しい思考法ではありません。古今東西にあるものです。ギリシャではヌース(分別知と直知)と呼ばれ、平安時代には紫式部から「やまとごころ」と呼ばれ、ヨーロッパの中世まではintellectusインテレクトと呼ばれたものです。ただ、カントとヘーゲル以降は歴史の中では裏舞台に追いやられて、表舞台から消えてしまいました。これらの「智性」を矮小化して「知性」として使用していたのがギルトなどの組合や結社の中でした。

智性が理性の中に閉じ込められたと言ってもいいし、成熟期を認めず青年期だけでこの世を書き直したと言ってもいいし、青年が乙女に陥落したと言ってもいいでしょう。

土に還ることを拒否した、いたずらっ子のおふざけです。

現在では啓発本の中にこの「智性」を曲解して都合の良いところ(例えばネガティブを生かす、とか、ピンチはチャンスだ、とか)だけをピックアップした「知性」が多く見られます。

 

理性のメカニズムと理性にできないこと

ヒトの4つの認識力

意識 理性            意識 智性  カラダや無意識を意識する

 大脳皮質                   心肺の循環器系器官

  二つに分けて正の選択             負の意義  分ける無意味さと必要性

  推定・理念・理想               無意識の情感・本能を全体性との関係の中で気づく

 同化・同感   

 


無意識 感性             非意識 魂性(脱言語) 意識を使わない工夫

 大脳辺縁系                   小腸・微生物の消化器系器官

 分ける                      分けない

 五官 情感 本能 直観 感覚            魂・悟り・全てとの繋がり 瞑想観

 

参照 多摩川・メタファーで勘違い

 

理性の一番の特徴は「分けること」   

理性的勉強によって減少してしまうもの

勉強をすると、意識の理性が磨かれるが、その分だけ、他の感性・智性・魂性を使うことが減ってしまい、これらのセンサーからのメッセージは入ってこなくなり、それらを使った判断ができなくなる。

体(魂性・全体性)やネガティブ(智性・無意識)の重要な意味がわからない未熟者になってしまうのは、カラダやココロを体感していないからです。

東京スカイツリーやあべのハルカスや原子力発電所は理性によって建築されたけれど、この理性は建てるばかりでその後の想定外の自然に対してどのように解体するかは考えていません。これが理性の特徴です。理性は創ることばかりに焦点を当てて、それをもとに戻すことに焦点を当てられないのです。だから植物が二酸化炭素を吸収して酸素を供給すると考えてしまうのは、理性的人間のシンボライズされた事項です。なんでも一面の事実で土に還るという全体性を考慮できないばかりか、その正しさで他者を寄り切ろうとするのも特徴の一つです。

アタマの使い方も機械的な合理性だけで矛盾の重要性を避けようとしてしまいます。脳の中の大脳皮質を重要視するあまりに大脳辺縁系や脳幹の機能を使っていないのです。

大脳皮質の象徴である理性を高めるのは問題ありませんが、これに依存してしまった人は、知識しか他人より優れているところはないと思いこみ、価値観を大脳皮質の量とスピードにしてしまい、劣った他人を馬鹿にする無意識の傾向があります。意識的には公平であっても「能力」の機能による区分だから、どうしようもありません。本人には悪気は一切ありませんから。ただ持っている力が無意識の内にそうさせるだけです。

分かりやすいのは、毎日、情報飢餓に陥らせるために、恐怖と不安と娯楽と欲望を焚きつけるのを仕事としているマスコミで働く人たちの思考パターンです。例えば、朝日新聞、ニューヨーク・タイムズ、ハフィントンポスト、CNNの労働者たちの本音は、「保守勢力である自民党や共和党を支持する人たちは、オツムの足りない集団だ」と思う傾向があります。なぜならばリベラル派の特徴は内臓よりも大脳皮質の認識を優先させるので、その特徴である「分ける」ことで二項対立を生み出して、優劣の優を選択する能力に長けているので、それができないものを劣っていると判断してしまうからです。知識の量を基準にするのならばそのとおりだと思います。また他の能力(感性・智性・魂性)を訓練する機会が少ない場合は、コンプレックスを持ってしまって、余計に理性による判断能力を重視してしまう結果、優劣判断症候群に陥ってしまうのです。

 

正しさ

正しさについては、「正」の字源が、邑(町)に向かってすすむということから、攻めて、征服するいう意味だと書きました(白川静説)。

征服して征服地の人から税をとることを征といい、その支配の方法を政ということです。政は正と攴(攵)ボクとからなる字で、攵とはムチでうつの意味です。

誰でも正義を持っています。旧住民と新住民、村と都会、殺された側と傷つけられた側、情と知、本能と理性。

自分の正義を通すということは、他人の正義と戦うということになってしまいます。やられる方も自分の共同体をかけて戦いますので、終わることがありません。

 

そんな時に論理性を持ち出して、問題を解決しようとすることがあります。

時にこれはとても効果的なのですが、論理性ではできないことをよく自覚しないと、正義の戦いがエスカレートして火に油を注ぐだけになってしまうことがあります。

論理とは、枠を決めてロープで囲ったリングの上だけで通用するものなので、その外にあるものには通用しないのです。

ですから、内部の仲間には通用しても外部の変な生き物には通用しなくなっちゃうんです。

同じルールを守ってくれる人にはいいけれど、商売敵や虫や宇宙人には論理性は効果がないのが弱点です。

ですから枠の外では、いくら乙女の純潔さで正しさを強硬にアピールしても、それが通用しないだけではなく、そのピュアさによって、摩擦がルサンチマンや復讐心のように深く奥に入り込んでしまいます。

 

論理性のデメリットである、脳の自動修正機能や、法則とは確率でしかないことや、常に更新が必要な論理性のクイズや、部分の論理性が全体では通用しないことなどの具体例は参照エッセイで見てみてください。

参照  論理性の4つの限界   エル・ティンゴ 誰もが正しい   論理学の限界    

 

自己意識のメリットと乙女の純粋性と博愛性、そして限界

確かに意識を使って、モノを分けていくと、正しさを発見でき、未来予測もできるようになりました。ただこの価値観だけでこの世で生活をすると、多々の問題にぶつかってしまいます。

例えば、大学で新しい法則を学び、その力の効果に驚いた者は、意識を常に使うことを優先させてしまう危険性があります。そして自己意識が産み出した理想(法則・一般化・楽園)にあこがれ、そこから世界を見ようとする傾向が急に増加します。

これはいいことばかりではありません。

パラダイスを夢見る。これは、他者を乙女の純真さで攻撃する、ということのメタファーでもあるのです。

「分ける」ことに囚われて、次にベター(まし)な方を選択する行動パターンをする者は、ダメな方を捨てさるということを常に行っています。この最も差別的な行動を毎回積み重ねていると、無意識の内にそこから逃れるかのように差別のない共産・共存的な世界に憧れます。

選択という行動パターンは常に差異を生み出していることを認めないと、脳はバランスをとるために博愛的な共存共栄のパラダイスを目指してしまうということです。

これが自己意識が高い人が、リベラルで、オープンで、差別を嫌い、キレイゴトが言えて、正義感に富み、優しい性格を持つように無意識の内に努力してしまう理由の一つです。

ここにパラドックスに囚われて暮らすことを生業とする現代人が誕生しました。

近代以降の多くの教養学部・学問(リベラル・アート)はここをベースにして成り立っています。

 

そして、もう一つのパラドクス。自己意識を使って、先のことを考える(未来予測をする)ということは、不安になる、ということでもあることを忘れなく。

理由は、いくら正確な予測ができたとしても、現在の絶対の真理が常に変化をし続けることであるように、未来の絶対の真理は、決して分からない、ということだからです。それを大脳皮質はなんとか分かろうと無理なことをするのですから安心ができなくなるのも当然の理。

この予測と不安はコインの裏表です。未来を予測できる分だけ、不安に囚われる生き方を選んでしまっているのです。未来予測を止めても安心できるライフスタイルを築いていれば先のことを考えなければならない時間は必然的に減少します。理性を基準にする人が常に不安を周囲に撒き散らすのはこれが理由です。

 

遠近法の視点 人工衛星の視点     

遠近法の基盤となる消点   主観性から客観性へ

1400年代初め、建築家ブルネレスキは鏡面にフィレンツェの建物の輪郭を写し取り、遠近法を幾何学的な手法で実証します。遠近法は数学によって記述できるところからも分かるように、法則と数値の手法です。ですからコンピューターは計算でグラッフィックを描くことができます、そうCGです。

そして、遠近法こそが客観的手法だ、とこの時代の多くの人は説得されました。15世紀の西欧が求めていたものが、この「作られた客観性」でした。論理的で、美しく、正しく、これから目指すものだとされたので、遠近法はアッという間に欧州、その後は全世界に拡がりました。

 

ここで起こったのが価値観の地盤変革です。標準の軸が主観から客観へと移動していきました。

 

心身

センサー

意識

モノ

空間

キリスト教

時間

人口密度

人口変動率

主観

カラダ

内臓感覚

意識

羅列

森・原

カトリック

周期

過疎

減少

客観

アタマ

脳感覚

自己意識

法則

都市

プロテスタント

直線

過密

増加

参照 主観と客観の入れ替わり 自分と客観 遠近法の視点

 

遠近法とカミさま、そして幾何学

ルネサンス時代にピエロ・デラ・フランチェスカは人間の目の高さが1点消失の遠近法で「理想都市」を描きました。

この時代にはヒトは遠近法の視線で、この世をみるようになっていきました。このヒトとは理性(感性・智性・魂性ではありません)のことです。ヒトは見たままの感性だと、このような直線の比率を持った外界を見ることができないので、大脳辺縁系と大脳皮質で無意識のうちに自動修正して、この図に違和感がないばかりか、美しく感じるように訓練されていきます。

訓練されていなければ、以前に経験(学習)したことのない図柄は目の前にあったとしても見る(認知する)ことができません。また、これまでの経験してきた快・不快によって、ヒトの中にある心象は大きくなったり小さくなったりするので、関心のあるものだけに焦点があわさり、見ることができるようにプログラムされています。

 

Description: ダウンロード (2)

 

Description: ダウンロード (3)

 

実はこの遠近法とは理性をベースにした図像表現なのです。

これまでヒトはカミの領域には信仰や祈祷や儀式や観照や瞑想を通して接してきました。そこでは、ミクロ・マクロコスモスが合一する魂性や、相反の一致をベースとする智性を通してカミとの交流をなしていました。そこに、遠近法によってシンボライズされる理性を使ってカミと交流する方法を付け加えました。典型的なのは理性をきわめることでカミと交流しようとしたのがデカルトです。彼にとっては、理性をきわめることこそが、信仰心の証であり、理性を神学の位置にまで押し上げて「理性=神学」だと考えたかのようでした。土くれに息を吹きかけるとヒトが誕生した(聖書創世記第二章七節)ように、機械に理性(プログラム)を加えるとロボット(回路)が動き始めるように。

遠近法のもう一つの深層は幾何学、数学、そして科学です。

このデカルト座標によって、数学は(はじめて?)運動をあつかうことができるようになり、近代科学はその座標の上を一気に走り出しました。そしてその後の科学の発展が、この現代です。

ヨーロッパ中世において、遠近法という絵画構成法の深層には、このように理念(自己意識を)軸として、神学と幾何学がむすびついたものでした。

遠近法の作り上げた図像はこの世に存在せず、脳が勝手に自動修正してしまっているアタマの中だけにある「正しい客観性」です。

ところが、こんな「幻の客観性」をこの時代のみんなはこれがいい、そうしようということになったわけです。

この思考法を使うと便利なことも一杯あるから重宝され続け、これが、現代そして未来につながっていきます。この遠近法には、未来予測という、文明には欠かせない視点があるからです。

 

例えばヒトの思考法を4つのタイプに分けてみます。

1はコンピューター・プログラム

2は人間社会の日常の常識 ニュートン力学

3は現代哲学や全体学やアーティストや外れたインテリ、農耕民、牧畜民、ジレンマ・矛盾の中に暮らすヒト

4は座禅や山民や猟師や漁師  16世紀以前の西欧の価値観 量子力学

 

 

主と客

意識と身体

主客の別表現

価値観の基準

医学

プラトン「国家」の洞窟の喩え

主観<客観

意先身後

無と全

法則(一般化)

西洋医学

影をリアルと思う拘禁の場所

主観≠客観

身形意力

力と形

意識 神経管

東洋医学

紙でできた二次元の影絵

主観≒客観

身意一如

意と身

ココロ 内臓

民間医療

輝く外界と薄暗い洞窟の間と両方

主観>客観

身先意後

実と虚

いのち 細菌

動的平衡

空、川、草原の拡がる洞窟の外

 

どれもそれぞれの特徴があり、どれもが必要な要素です。影だってリアルで大切なもので全体の一部です。

これらはTPOにより使い分けるのが便利です。

その場にあった適材適所の主と客の関係があります。

そして次の5番目には、生まれる前と死んだ後の世界である主観も客観もまだ未分化のエネルギーの満ち満ちた形のない世界です。「空」もしくは「一」と呼ばれる世界です。

 

人工衛星「対立の視点」の誕生

視る位置によって、見える内容や見る人の価値観までもが変わってくるって感じたことはありますか?

たとえば水平と垂直という角度の違う視点があります。虫の視点と鳥の視点とも言われています。

虫は水平からモノを見てなんでも大きく立体的に三次元でとらえるし、鳥は真上からモノを見てなんでも小さく俯瞰的に二次元でとらえます。

ヒトは想像力を使って、ヒトの視点から鳥の視点、そしてカミの視点、次に人工衛星の視点を手中にしました。これらの視点により生死に対するとらえかたも変化していきました。

 

一般的にはこの世にいることを「生」、いなくなることを「死」と呼びます。ところでこの生死を語る時に、私たちはどの視点に立ってこの問題について語ろうとしているのか考えたことはありますか?

例えば、虫の視点で死を見つめると、だんだんと蛆がわいたり腐って死臭が漂う様子を見ることができます。それに比べて鳥の視点は鳥瞰図の視点で、遠距離から動くものを「生」動かないものを「死」と判別します。

 

生死というのは生き物にとっては情感の伴う対象です。というのも生命体にとっては、生は既知のものですが、死はまだ体験することはできないので、未知のものです。そこで、できることは他人の死を見たり、メタファーで死を理解することぐらいです。

では、生死といった場合に、この両方を体験することができるのはどんな視点なんでしょうか?

生死を両方一度に体験して、生と死を同時扱う立場です。そうなるとそんなところにいるのはカミさまと機械ぐらいのものです、こんな立場で話ができそうなのは。

生と死を超えているのが居場所であるカミ。そして生と死のどちらも体験しない機械は生も死も同列に並べることができます。

もしくはカラダの中に「死」を見つけることができた瞑想者か。

 

機械の視点を一般のヒトが利用するようになるのは科学技術が発達した18世紀以降(ここは諸説あります)ですので、それまでは、ヒトは想像力で自分の視点を屋根の上の鳥に拡張して、樹の上から下を見る視点を設定することにしました。次に自己意識が産み出した「超越」という概念を加えてできたのが、カミの視点です。天の上から下界を眺める視点です。これは自己意識を持ったヒト科の動物が古代から持ったもので、天上から見える景色で物語や神話で世界観を築き上げていきました。

同時に、カミさまのことはよくわからないという人たちが、カミの代りになる視点も作ろうとしました。天の上から地球を眺めている視点です。宙から地球を眺めている視点です。この視点を使って天動説や太陽系の惑星運動を説明するようになりました。この「宙の視点」には、いろいろとあって、地球軸を基準にした地球派(地動説派)、太陽を基準にした太陽派(天動説派)、そして未来には私たちの銀河系を基準にした(天の川銀河系派)といったように、視点の軸をどこにするかによって、見えてくる景色が違うので、当然のごとく物語も世界観(哲学、価値観、使う法則)も違います。

 

はじめは「いのち」を五感でもって体感していた虫の視点は、鳥の視点に、そしてカミの視点や「宙」の視点に変わりました。

次には、この「宙」の視点はイメージである想像物でしかなかったのに、科学の発達によって「かたち」を持つようになりました。

今の私たちの日常生活でいうとグーグル・アースの視点です。この視点はもうヒトの体を離れて、人工衛星という機械とこれらに指示を出している自己意識によって成り立っています。ここで科学技術によって機械と意識の想像力が結ばれでできた新たな視点の誕生です。 

機械と自己意識の共通点は生命体の生死を生命体の外から観察する視点です。内省ではなく外省です。

生きているものと死んでいるモノを「客観的」に捉える視点です。

そしてこの視点とは、機械と見たものを理解するヒトの二つの重なり合いでもあります。

一つは機械のように外から生死を冷静に区別し、もう一つは感情や条件反射を持つヒトの特徴です。

各自の脳内に例えてみれば、大脳皮質と大脳辺縁系の視点の違いです。

大脳皮質が活動している時に発動する自己意識はシンプルに客観的に判断します。この客観性から見た生死は、カミの視点でもなく、死をメタファーとして捉える条件反射の視点でもなく、機械の視点です。

もう一つの大脳辺縁系では、生にとって死は未知であるがゆえに情感からの不安(恐怖)が混入してしまい、無意識のうちに死を忌み嫌って距離をとろうとします。

この二つのことが重なっている時にヒトには無意識なことが起こりました。

それは、グーグルアースを通して地球をそして自分自身を見つめることが、新たな自己意識の視点になっていることです。知らないうちに考えもせずに自動的に当然と常識としてです。

自分のカラダに問うこともなく、判断を機械と自意識に委ねてしまっていることです。

人工衛星から世界を観ると境界線に注目していしまいます。

なんでも二つに分けて境界線で表現することで安心して納得する視点です。

これは同時に対立項を生み出す視点でもあります。こんな視点が加わるだけで、今までの言葉の解釈も変わってきます。

例えば

Ambiguous  ambi両方 ig行う ous形容詞語尾   両方とも行う→あいまいな

Dilemma   di2つのlemma主題 という両義性の意味→二者択一の板挟みの状態

 

私はこれを「人工衛星の視点」と呼びました。自己意識と機械と鳥とカミの視点が重なり合った視点です。

21世紀中期から基準となるAI人工知能の視点のことです。

 

人工衛星の視点の限界 

人工衛星の視点は、以前の地球生命体の五感(感性)の視点を簡単に凌駕しました。自分自身の裸眼ではなく、顕微鏡や望遠鏡などの機械を使わせてもらったことで、視野の可能性が爆発的に拡がったと早合点したのです。

またこの視点こそが客観的で中立的で懐疑的で、次の世界を拓くカッコよくて正しい視点として受け入れました。 

 

中世から近代に移行する時には、メディシンマンから医者へ、そして錬金術師から科学者へと流れました。

中世から近代に移った理由は、デカルトの「アタマ(自己)とカラダ(機械)」や、ルネサンスと呼ばれるイスラム文化の再興や、カントたちによって書き換えられた主観と客観の逆転といったイベントのためだったのでしょうか?

次に、近代から現代への移行は、感性から理性へ、カラダからアタマへ、肉眼から機械へ、無意識から意識へ、と流れました。五感とつながっていたり、内臓とつながっていたり、微生物とつながっている、生命体の長年の智慧の結集は、ひとまとめに迷信とされて、バカにされたりもしました。

 

哲学や事件によって時代が変わったというよりも、視点の変化が時代を変えたと理解することもできると思います。

 

 

視点

主客観

情報の修正

自然・宇宙

カミ

人の中の自分

中世

裸眼 肉眼

主観

自由

驚異・脅威

内なるカミ

循環器系器官

近代

遠近法 自己意識

客観 中立的

計算・法則

解読・解釈

外なるカミ

意識

現代

人工衛星 機械

主観と客観の複合

依頼・依存

管理

カミの消失

自己意識

 

機械と自意識の共通点は対象物を外から眺めることです。この視点を客観的と呼んで、これがないと信用に足らないとして客観性がないと受け付けない人が増えました。

そして、これまでの「内とつながる感性」は軽視されるようになります。例えば、ハラ時計や、胸騒ぎや、腑に落ちる感覚などは。

地球生命体のすべての命が繋がっていることが感じられる「内なるカミ」の視点は異物として嫌われます。科学、その象徴である西洋医学でも、月から見た地球や人工衛星からの「外なるカミ」の視点が人気になっていきました。

ちょうど、聴診器よりもMRIに人気が移るように。

人工衛星の視点(機械+自己意識)とカラダとの視点の違いは、「いのち」とのコンタクトがあるかどうかです。

これは外と内、客観と主観のメタファーでもあります。

一般社会の中で「死をどのように扱うのか」という解釈が変わると時代が変わります。

生と死をどのように体感しているのかによって、世界観は変わります。

この人工衛星からの視点が独占的になることで、生死の捉え方も変化しました。法律も変わりました、例えば、

平成9716日法律第104号の臓器移植法のように。

 

これでなんでも客観という物差しでモノを判断する時代が到来するかに見えました。ところが、物事はそうは簡単に進みません。この新たな視点がメジャーになったとしても、これを使って物語りや世界観を作成して理解するのは最終的には人ですから。

いくら理性的で合理的な視点や内容であっても、腑に落ちないことや納得のできないことは多々あります。何故ならば、ヒトは自己意識だけではなく、カラダと共にあるのですから、仕方がありません。

新たな視点の片方の主である自己意識の「家」である大脳皮質も、あきらかに自然の一部であるからです。

脳は、生命体の表皮を元に発達した神経管が大きくなってできました。その一部である大脳皮質の認知方法がいくら機械的な電気信号であっても、錯視などの自動修正や、脳自身が作り上げた無意識の条件反射や感情に強い影響を受けるものであり、脳自体が生命体の一部です。そして、もっといえば大脳皮質には「判断機能」がありませんから。皮質にはデータはありますが、判断するのは大脳辺縁系です。

 

人工衛星の視点にはいろいろな弱点があります。

特徴的なのは、時間のズレや、分からない時の対処法や、情報の修正の仕方や、信仰です。

時間のズレとは、客観性とは新しい情報の更新を常に必要とするのですが、実際にはそんなことがヒトの脳の能力ではできないことに由来しています。脳はできるだけ省エネで活動しようとするので、過去のデータ(記憶)を無意識の内に再利用して簡略化しています。実際のわかりやすい例はグーグルアースのストリートビューです。ニューヨークのセントラルパークの106丁目あたりに私のランニング姿があるのですが、これはもう7年前の映像です。常に変化し続けているのが「この世」のなりわい。しかし常に更新してデータ化することができない人工衛星の視点(機械と自己意識)では、リアルとの間には常にギャップができてしまいます。常に遅れて来るモノは、コンプレックスを持った幼子のように過度に行動してしまうのも特徴の一つです。

また、人工衛星の視点は分かないことに対しては、おかしいほどの脆弱性をみせます。そしてそれを隠すかのように、付け焼き刃のような因果関係を持ち出して、煙に巻こうと画策するのは、可愛らしいほどです。

たとえば、健康法。次々と新しい学説を生み出しますが、ヒトの腸内だけでも1000種類以上の腸内微生物がおり、役割、関係性、因果関係さえも全てはわからず、実際は我々が未だコントロールできていない、まさに神秘の中にあります。把握したり、管理したりすることができないのが今のところの現状です。まあ、管理しようとするトライは素晴らしく面白いんですが。 

人工衛星から見た地球の視点とは、顕微鏡にセットアップされた細菌を見る視点と同じく、全体を自己意識で把握しようとしてしまいますが、この視点は、決して、全能者の視点ではなく、管理することにこだわり続ける人(無理な欲望を持つ自己意識)の視点であることに再度、注目してください。

3つ目には、情報の修正を自分ではできないことです。これは裸眼から離れたことで決定的なりました。自分の目を使っていれば、変化に対しても自分の体験を通じて、因果関係を修正することができます。しかし電子顕微鏡や天文台望遠鏡を使わなければならないような視点は、もう自分ではどうすることもできません。客観性で大事な情報の常時更新を自由にすることはできません。予算と機器を持つものが主導権を握っています。そして、次には専門家に言われるままの情報を取り入れるか、取り入れないかの二者択一で決めることしかできません。こちら側で視点の基本条件を変えたり、実験を試すことができないのです。

これが最後の問題点である、「信仰」です。人工衛星の視点が宗教になるのです。裸眼の視点では別に信じなくても、受け入れて試してみて合わなければ捨て去ればよいだけですし、自分の感性で体験をすることで「信仰」を修正をすることも自由にできます。しかし、人工衛星の視点は、試すことも自分で修正することもできず、ただ受け入れるか入れないかを問われるだけなので、まさしく信じるかどうかを問う信仰の問題になってしまいました。

自己意識をベースにして、鳥とカミと機械が複合した視点は、誰もが気が付かないうちに新たな宗教に入信した信徒になっていたのでした。

参照 コンドルの視点

 

死をカラダの中に受け入れる「相反一致の視点」 

では次にこの人工衛星の視点では、できないことは何かについて考えてみたい思います。

この視点の決定的に欠けていること、致命的な欠落です。

話を「生と死」の話に戻してみます。

カント以前、デカルト以前、遠近法以前、大都市文明以前は、この世にいるには「産まれることと殺すことが同時にある」ことを大切にしていました。体内の細胞は一秒間に500万個消滅することで、新たに500万個が再生されるという事実です。この視点は私たちがこの世に居続けるための「カラダ」の視点です。本能や自然や走性や無条件反射と言い換えてもいいです。脳内でいうと脳幹です、大脳皮質でも大脳辺縁系でもなく。

カラダのレベルでは死を体内に取り入れることが新たな細胞を生み出す鍵であるとわかっています。例えばオートファジーのように。参照 オートファジー解説映像

この生と死の両方を必要とする新陳代謝とは、一秒間に500万の細胞が死に、同時に500万の細胞が生まれ、この両方があって初めてこの世に存在し続けることができるということです。「生と死」という相反するものが一対になっている現象です。これが生命体の共通点です。

ところが、人工衛星の視点を導入すると、これまではカラダがしていた生死一致の判断を機械と自意識の判断に明け渡してしまい、死を遠ざけることが、生きることだと勘違いしてしまっているらしいのです。

なぜそのような死生観に変化してしまうのでしょうか?

それは人工衛星の視点とは自己意識と機械が重なることで誕生したからです。

生命体は死を体験できないので無意識の内に恐れてしまう性質と、二項対立によって世界を認知する機械のシステムが結びついた死生観だからです。

これによって死と生が相反するものだと理解してしまい、カラダにとっては「いのち」の源である「死を内に持つこと」を否定し、生きたいと言いながら自分で自分の首を絞めようとするのです。残念な皮肉です。

この人工衛星の視点から生まれる価値観は体内だけではなく、体外にある社会でも活発に働きます。死に蓋をして、遠ざけ、忌み嫌い、死から逃げ続けようとすることです。もしくはそれを良しとせずに自己意識に頼って自らの死期を早めようとする意図する行動です。どちらも自己意識を中心にした思考法なので、脳障害や睡眠や植物状態などで意識が機能しなくても、循環器系器官と消化器系器官は働き続けるということを忘れているかのようです。

自意識が形になったのが人工の世界。この一番の象徴ともいえるメトロポリスでは死には居場所がありません。都会人が死に振り回されるのは以上のことから必然の結果です。 

 

この世界に「いる」ということは、「生まれることと死滅することが同時にあること」です。

これができなくなると、死が訪れます。この世からあの世への移動です。

 

死を外(人工衛星、機械、自己意識、外なるカミ)から見るのか、それとも、死を内によびこみ生の相棒として新たな細胞を産み出す主人公(内なるカミ)として見るのか?

どの視点を使うのかとよって見えるものが違ってきます。そして価値観が変わります。

 

死を人工衛星の視点からだけで理解するのではなく、カラダを理解しようとする智性の視点からも見つめてみます。これは分断するだけではなく、生命的な繋がりの視点でこの世を見ると、死にも肯定的な見方が加わり、好ましいものだと思うことができることもあります。

例えば倒れた老木の下のドングリから息吹いた新芽が森の活性化の象徴であるかのように。

体はそのまま自然につながっており、死を自然の中で感じると、また違う喜びが湧いてくるかと思います。いかがでしょうか?

 

今でも人工衛星の視点を全能者の視点だと勘違いしているヒトが多いのですが、あれは機械と自己意識に身を委ねてしまった視点です。ですからもちろん生きている「いのち」の視点ではありません。

そして、それは俯瞰から見るだけですので、自分の足元にはくれぐれも各自でお気をつけください。

禅に「冷暖自知」という教えがあります。

器に入っている水は触ってみなきゃわからない、ってことらしいです。

水が冷たいか温かいかは、飲めばおのずと分かるので、他人から言われなくても、自分のことは自分で分かるという意味でもあるかと思います。

参照 新興宗教「人工衛星」教   国家nation stateの作り方  欧米のしくみ 内と外

 

学ぶと勉強は別物    ミラーニューロンは感情によって活性化する

まねぶが無理やりの強制になると「勉強」になっちゃいます。

先生から

一方的に

実生活ではあまり役に立たない知識を

机の前で

体を動かさず

頭に入れる

興味がないから思考が鈍り眠くなる。

 

それに対して、「まねぶ」は

自分で発見して気づいて真似て、そこからできることが広がっていく。

学校の勉強から元の柔らかい姿に戻るのもまた良し。

 

学校教育では、よくわけがわからないことを形だけで覚えてしまうクセがついてしまった人でも大学試験にパスします。というより、そのような条件反射を次々と身につけた人が難関大学の試験にはパスする傾向があります。

嘘だと思うなら、学校や塾や予備校の先生に聞いてみてください、

そして先輩や先生たちに「まねぶ」の本質も聞いてみてください。

国語の先生 音(言霊)と身体の関係

社会の先生 平和がこの世ではありえないわけ

理科の先生 生命体の復元治癒力の理由とその限界   光が粒子であり同時に波動であるわけ

英語の先生 なぜ全部のことが分かっていないのにaを使って一般化してしまい、18世紀から変化した英語

数学の先生 マイナスの自乗がプラスになる理由

 

小脳は思考停止するためにある

大脳皮質を使うためには、交感神経をオンにして莫大なエネルギーと酵素と時間を使い、外界と遮断する無防備状態と肉体を軽視する状態を持続しなければならない。頭を使う時間が長くなることは外敵が多い場所ではリスクのある危険な行動なのだ。

そこで、アタマとカラダが考えたのは、これらの時間を最短にする方法だ。できるだけ脳を思考停止にしておくのが、大脳皮質をはじめ、生存のためには必要である。

脳を使わないために、脳を使う。一見では矛盾しているが、どちらも正しい。

そこで、できるかぎりは条件反射で日常を処理するように脳は働き始めた。大脳辺縁系や小脳の活性化だ。というよりも発達過程では小脳が大脳よりも先だ。

一番わかりやすいのは学校のテスト勉強や自転車の運転だ。受験勉強もそうである。その証拠に、大学を卒業した人に、受験問題をとかせてみればいい。見事に合格点には届かない。常識で考えてみれば、大学に入って学問を積んだのであれば、4歳から10歳も若い受験生よりも学位を得た経験値の高い博士の方が、点数が良いはずではないか。

脳が思考できるために小学校から大学卒業までの16年間の年月を費やしたのではない。脳が思考停止できるように、多くのことは条件反射で処理できるように訓練されただけである。ベルがなればお腹がすいて唾液が出るように。植物は酸素を地球に供給するというように、事実に関係なく、そう思い込む練習を学校で重ねた。

そのために過剰一般化と過剰具象化という方法を脳は生み出した。

だから一般化(帰納法the inductive method)も具象化(演繹法the deductive method)も信じちゃいけないし、多用するものじゃない。

ただ、大脳皮質をあまり活動させないために、脳(大脳辺縁系や小脳や脳幹)は活動して、その結果、私たちは元気で暮らせている。 

大脳は緊急事態用に開発された(発達した)ものだから、できるだけ使わないほうがカラダや自然や地球を活かすためにはいい、虫や草や樹が大脳を持っていないのに(持っていないから)元気に暮らしているように。

 

過剰一般化

数式やニュートン力学のような、法則を教えてもらったので、なんでもこれで世界を理解してしまおうとする。

だが数式もニュートン力学も架空の法則でしかない。

抽象化を進めたものなので、洗練されているように感じる場合もあるが、この宇宙では、このどちらも通用しない場面が多くある。

神学から数学が発展したので、数学の点は、質量をもたないものと定義されたり、現実にはないことから論理が始まっているので、最後にはやはり現実には適応でいないものとなってしまい、それらは不確定性原理 Uncertainty principle や数学者ゲーデルの不完全性定理 incompleteness theoremらによって明らかにされたりしている。しかし、数学や力学が必要ないといっているのではない、それどころか、これらの法則で推測される結論は大変に参考になるので、十分に学んで利用するに限る。ただ信じる対象ではなく、参考にする大事なものである、と言っているだけ。この地球上では事実に近い近似値であり、未来予測する時に大いに参考するべき計算方法であるのだから。

未熟な者は、自意識過剰になり、自分の考えの中に、絶対の基準を作りだして、高揚感を味わいたくなるのだが、それはその人の趣味として続ければいいが、その価値観で他者を切りはじめたら、周囲の者は気をつけたほうが良い。

彼らの根拠はなんでも切れる法則を得たと勘違いしていることと、他者をバカにできるオモチャを手にして喜んでいる傲慢さでしかない。

高学歴によって、人の上に立てた人は、自分の成功例を基準にしてしまうので、そうでない者の立場にたつことが少なくなり、頭でっかちで実践には向かないタイプになる。理性によって特別になってしまった人は、人生の前半は調子が良いが、後半はそれだけでは生きづらくなる。後半には、ココロの成熟による智性の開花、カラダの衰えによる霊魂性の活性化がはじまるのだから。

 

西洋医学の限界 

言葉の分割性

言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立つ。例えで言うと、小腸は十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官だが、範囲を決めてその中のモノに名をつけることによってしか言葉にすることができない。認知するとは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵としてその上にモノを並べて、二つ(それぞれ)の違いを第三者が見つけて、それぞれに記号(名前)をつけることだ。例えば、消化器官という一つのモノを二つ以上に分けて一つずつに胃や小腸と名前をつけることだ。そして学問ならば、それらの器官の間に因果関係を見つけようとする。例えばそれぞれの器官の機能を特定していくことだ。そして科学はそれが間違いではないかと何度も検証を重ねる。

 

これらのどこが問題なのであろうか?全ての言語はこの過程を踏まないと認識されないではないか?

確かに、この過程を経てしか言葉にする方法はない。

だから、これが言葉や医学の限界なのだ。囲ったり、線を引いたり、左右・上下・内外を区別することでしか言葉は成り立たない。

区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならず、思うことができないのだからしょうがない。

とは  ひよめき(頭蓋骨の縫合部分)プラス 心  

心臓の体感(循環器系感覚)を大脳皮質(神経管系認識)で分別(言葉)であえて表現すると、という意味である。

参照 ロゴスがあらわれる前の世界 捏造されたロゴス ロゴスがあらわれた後の世界

   書きとめられた言葉の限界  コルディレラ山脈   書斎・智慧の書 

 

機械と生命体

次に「分けられるもの」と「分けられないもの」に対比させてみる。機械と生命体のことだ。

たしかに機械はエンジンのようにパーツごとにピストン、シャフト、シリンダーと分解して、それらをまた組み立てると元の形と機能に戻る。機械ばかりではなく人間界にも同じような仕組みや構造は多い。マニュアル化されているものは誰でもその通りにすれば結果が出るようになっているので、これは交換可能なことを前提にしないと作ることができない。こう考えるとこの世は仕事に勉学に生活とほとんどのことはパーツ化と再構築ができるものばかりになっている。できないものは個人では芸能、技術、存在感、人間関係では親子、家族、友人ぐらいだろうか?だからなんでもかんでもエンジニアのメタファーでこの世界を理解しようとしてしまうのだろう。

しかし有機体は、車のようにダメになったパーツを交換できる機械とは違う。名称になった器官たちをバラバラにしてまた元のように繋げても元の有機体にはならない。有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的だ。分けたり、一部を取り去ったりすると、内なる関係性が壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化を遂げてしまう。体の内外の変化に対して均衡状態を保とうとするホメオスタシスもしかり。だから一部分を取り去った間に、相互関係が微妙に変化をするので、取り去った部分を元に戻しても、細胞は改めて適応するが、元と同じ状態にはならない。地球上では酸素もわずかしかない頃から36億年かけて積み重ねてきたバリエーションが生命体の遺伝子の中にあるのだ。

生命体を分解してもすぐ死ぬとは限らず、生きてはいる間は現状に適応するために、内部で変化が続けられる。生命体の全体を物理的にも名称的にも強引に分けることはできるが、それらを元のようにくっつけたからといって、すぐに原型と同じものにはならないのが「いのち」の特徴だ。

 

分割すると見えなくなるもの

分けられるものはいい、金属、数字、無機物は何も問題ない。(厳密に言うと変化はあるのだが)ところが生きているものは分けると死んでしまう。正確に言うと、各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出してその機能を説明しているだけで、全体の中では他のパーツとの関係から複数の機能があることもまだ見つけられていない場合がある。例えば呼吸と肺と心臓には「同化作用」と強い相関関係がある。また小腸と微生物と酵素には「瞑想と他者と悟り」と深い相関関係がある。しかし分割化されると関係性は見えてこず、相関関係があらわれない。分割できないものは、体験を通して実感し、多くの違った条件の下で統計的な事象を積み重ね、新たな法則を推定するしかない。相関関係は示せるが、統計や確率以外の数値による因果関係は証明できない。小さな相関関係があるだけで平気で薬を開発するほどまったく科学的ではない医学界なのに、分割しないものに関心を払うことがあまりに少ない。いや敢えて分割しないことを見ないようにしているのが、医学という「分けること」を使命にする学問の宿命でもある。

分割するとで分かることは、数値に置き換えることができるメカニズムの世界観だ。分割して機能を調査しても因果関係が証明できるのは機械的なものしかない。分けられないものを分けるとこのようなことしか分からない。分けることにより全体のバランスと相互関係が変化して新たな世界が作られ、分割しなかったからこそあった機能が消えてしまうこともあるのだ。

 

分けること意図的に控えた?医術 

日本をはじめ各大陸の先住民たち、そして16世紀以前のヨーロッパにもからだの中身や内臓を指す言葉は極めて少ない。命あるものを分ける不合理さとそこからくる矛盾と問題をわかっていたからだと、私は推定する。これまでの学校教育が教えている「分割することを基本とする医学」の遅れの問題、すなわち文明、科学、歴史、理性、が進化・発展していなかったから、という見解に疑問をはさみたい。

和語には「ほね、しし、ち、うみ、ゆばり、くそ、ふくろ、きも、ふくふくし(肺・心臓)」ぐらいしかない。

腹(はら)わたも和語ではあるが、個別の臓器ではない。

それに比べて体の部位を使った表現はあまりに多い。自己と体を分けずに、体を自分の一部として分けない方法だ。

身体意識を強化され、身体で思考し、行動する「身ことば」をざっと上げると、

身にしみる

身をもって知る

身を入れて仕事をする

身を尽くす

身を任す

身の程知らず

身に付く

ほかにも腰、腹、肝、筋、骨、血など身体を自分の一部とし、体を自己から分けた対象物としては扱わない「身体言語」はいろいろ一杯ある。

分ける快楽と同様に分けない、そして分からない悦楽もある。

分けないことや分からないことの大切さを毎日毎時間でも確認して暮らしていきたい。

 

医学の異常と「かたち」 療法の失調と「はたらき」

しかし、ついに江戸時代に西洋医学の病理解剖学が日本にも入ってきた。

医学では、病とは異常である。異常とは正常に対して使う対義語である。その異常の証明を形態学的、器質的な変化として医学はとらえてきた。

X線診断にしても、現在ではまだ形態学が主流であって、X線機能学は遅れている。機能異常だけの疾患は未だ熟慮されていないのが現状だ。

消化器系や循環器系のような自律神経の影響を受ける臓器は、臓器自体の異常の他にも、自律神経の異常が関与している。心因が発病や疾病の経過に大きな影響を与えている。情動が自律神経の中核に影響を及ばし、自律神経系や内分泌系に異常を起こし、ストレス潰瘍をはじめ、いろいろな機能的、またさらに器質的病変を生ずることは古代から認識されており、東洋医学においてはこれらを説明するのに「気」という概念が用いられてきた。

西洋医学では病変を追求し、これを証明して「完全体」に向かって治療するように訓練されてきた。東洋医学ではこれと並行して気と血、機能と物質、用と体としての生命体を理解し、この調和を健康、不和を失調とする。西洋医学では病いであっても東洋医学ではバランスが取れていたら、波線グラフでいう「谷」状態での健康と判断されることもある。民間医療では人の考え方や気持ちや情感や学習してしまった認識や無意識の条件反射や自律神経やホルモンや酵素や体内信号や末梢運動神経のパターンまでも治療の範囲として扱っている。今日の科学でいうと周波や電子のレベルまで含めての治療である。

そして自然治癒力の世界では、この瞬間にも新たな細胞が何百万という単位で滅び生み出し続けていることにスポットライトが当たっている。

 

新陳代謝の奇跡

生命体には現状を保つための新陳代謝という秘密兵器がある。例えば食事をしたり甘いものを食べると歯は溶けるが、食べていない間に溶けた部分をカルシウムが自動的に補充している。

また使わない筋肉は衰えるが、使う筋肉は隆々になる。これらの力を活かす考え方が生命体と向かい合う時には必要となる。

有機体の更新は新陳代謝で毎秒に何百万の細胞が消滅し同時に同じ数だけの細胞が新しく生まれている。

現代医学はフィルヒョウやメンデル・モルガンの理論のように分けることを前提とし、これらを基本として固定化させてしまっている。ホリスティック医療やゲシュタルト心理学などもあるが、基本的にはまだ古典的な考え方である分化することにスポットライトを当てた考え方で現場は動いている。

治療者と患者の両者は、この生命体の新陳代謝の柔らかさと弱さと緩やかさとはかなさと奇跡を体感する必要がある。

参照 新陳代謝 いのちの草 山と谷の時間 流れ下る時間と駆け上がる時間

 

生きているということとは

情報量が増加し続ける中で、人間の能力には限りがあり、医学は次第に個々の臓器へと「分化の道」を進むことになった。

全体の中から部分だけを切り出して、その範囲内での法則を作って実用化をしてきている。しかし全体は部分のよせあつめではない。二つの細胞から機能に従って分化していったものである。しかしその分化は常に全体との関係の中でである。

生命現象は流動的、循環的、可逆的、全体的、統合的、そして必然的だ。だから分けても全体性との繋がりを常に優先させて部分を語らねばならない。

 

医師と患者はいつも忘れてはいけないものがある。

生命体は厳密に言うと言葉で捉えることができない。ただ便宜上、囲んで言葉にしているだけに過ぎない。命に関わる全ての言葉は、論理学ではとらえることができないモノの集合体なのだ。医学用語とは実ではなく虚の言葉でしかない。

比喩でいうならば、囲うことによってできた言葉に締め付けられるだけではなく、逆に囲いを柔らかくして囲いそのものに呼吸をさせてやらねばならない。

「いのち」を、自然治癒力を、生命体を、カラダを、小腸を、微生物を、大いなるものを。

これらにとって一番の心地よい状況を提供することぐらいしか私たちにできることはない。

瀕死の「いのち」がちゃんと働くためには真正面から向かい合って、一緒に静かに楽しく交感するしかない。

参照 線を引くと舞台が始まる

 

自己治癒力 難病からの生還

西洋医学では現状を分析して知ることも大切である。この分析する意識はリスクと時間がつきものの遺伝子操作に向かっている。

東洋医学では生命体を全体として捉え、血流や経絡に注意を払っている。

民間医療では考え方と気の持ちようと学習してしまった条件反射の修正と周波と電子までもを考慮に入れている。

自然治癒力では、少しでも「いのち」の力が活性化できるように、意識が喜ぶものだけではなく、体が喜ぶ状況や生活習慣を意図的に創り出そうとする。そして、その後は遺伝子の自己組織化にお願いしてただ任せることでしかない。意識のできることはそのための体の内外の環境づくりをするまででしかない。

 

死に片足を突っ込んだ難病から生還した人たちの共通点は、すべてが鮮やかに感じていることだ。

病の不安の中にも至高体験やフロー体験や充実感があったこと、

逃げようという気持ちがなかったこと、

心に遊びがあったこと、

本人がいままでのどの時期よりも自分自身を確実に把握していたことだ。

 

「自然医学の基礎」森下敬一  抜粋

「(西洋思想の土台となっている)二元論というものは、物理の世界では大変重宝な考え方である。車やロケットなど機械を扱う分野で役に立つ。そういう世界では、この分析的、直線的、不可逆的、排中律的な考え方で十分通用する。

しかし生命の世界はこの考え方ではダメだ。生命の世界は、機械のそれとはまるっきり反対のものだからだ。

生命現象の本質は一言でいうと波動であり、ラセンである。生命の世界には直線も直角も存在しない。また生命の世界においては、すべては可逆的である。たとえば病気になっても、しかるべき処置を施せば必ず『治る』という現象が生じる。

『治る』ということは『元へ戻る』ということで、すなわち『可逆』ということである。よく今の医学は特定の慢性病に対して"不治の病"とか、"絶対に治らない"などというが、それこそまさに西洋思想なのだ。アタマが痛いとか下痢をしたというような症状に対しては、たいてい一過性で終わることから、さすがの現代医学も『治る』と考えているが、膠原病とかがんなどの難病に対しては、彼らは『治らない』と考えている。

いろいろと理屈はつけるが、基本線としては『治らない』という考え方をすえている。一度病気になったら治らない・・・この直線的思考こそ西洋思想の真骨頂だ。

けれども実際には決してそんなことはない。生きている限り、いい替えれば生命現象が存在する限り、必ず元に戻りうる。条件さえ整えば、病気は必ず治るものだ。がんも例外ではない。この元へ戻るということが生命現象の最大の特徴である。

にもかかわらず、現代の医学者自身が西洋思想にかぶれてしまっていて、直線的で不可逆的な考え方をしているから、『この病気はもうダメですよ』などということを平気でいうのである。これは実に重大な間違いである。『どんな重症ながんの場合でも、生きている限り必ず治るチャンスがある』ということを、私は口がすっぱくなるほど患者さんに話している」

参照 「病と向き合う」  「守自意からはじめ」 「考え方で病気を治す方法

 

理性と本能の対比        誤解された図柄  アタマ・ココロ・カラダ

よく理性で本能を抑える、という表現を使いますが、実は理性が理性を統御しているだけで、理性は本能のことを把握していないケースが多数です。アタマがカラダをコントールするのではなく、アタマがアタマと葛藤しているだけです。

しかし、どうやら多くの人が、理性と本能は対比するものとしてとらえ、天使の理性が悪魔の本能のささやきに勝ったり負けたりするのだと図式化してしまっているようです。

では、なぜこ理性が本能をコントロールするように考える人が多いのか?  

 

理性と本能

『理性』と『本能』の違い=『人間』と『動物』の違いと思っている人は多いようです。

「人間は他の動物と違って理性がある」それに比べて「動物は、本能だけ」だと。

この理性の意味とは、「感情におぼれずに、筋道をたてて物事を考え判断すること」

この本能の意味とは「動物(人を含む)生まれつき持っていると想定されていて、ある行動へと駆り立てる性質のこと」を指している。

人間に本能があるかどうかは、ながらく議論されてきたが、それは定義次第。

一般的に生物学会は、人間に本能行動はほとんど無い、もしくは僅かであるとみなされている。

いやいや、そんなことはない、私には食欲も性欲も睡眠欲も一杯あるという人もいるので、順を追って説明することを試みてみる。

理性

理性は言葉に象徴される「分けたもの」がベースになっています。

一つだったものを区切って、それに名前をつけ、一般化したものが名詞になります。この名詞そのものや、この名詞を使って他との関係性ができたものは全てが理性の領域です。

ちょうど暗闇にスポットライトを当てて、明るくなった部分だけを2,4,8,16,32,64と半分づつに分けていき、各部分に名前をつけていく作業です。

そして、理性を感情と並べて使う時は、理性は感情や本能を抑えることもできて、感情よりも優位であることを納得すること、が理性的であるということの中身です。

 

理性とは英語のreason、ラテン語のratio19世紀に日本語に訳したもので、「根拠」や「分別」の意味で、原因と結果の二つを結ぶもの、のことである。一つものを二つに分けた以上、そのままにしておくことができず、二つのつながりを明示する必要があります。これが法則のことです。根拠があるということは、結果があるということですから、これを因果関係がある、といいます。

 

理性にはいろいろなことが含まれています。

神経を流れる電気、伝達物質の放出

刺激に対する対処する順番

思考すること 

思考パターンの集合体

一般化する 法則を見つける

これらを含んだ概念で、インプットされた情報を処理して未来予測をアウトプットする機能を持っています。

 

アタマで考える時に使うデータは、海馬を通した記憶と皮質に蓄えられた記憶です。パソコンでいうとキャッシュとメモリーとハードディスクです。

アタマで考えていることは全てが理性の管轄です。本能だと思っているものも多くは理性の可能性があります。

欲望と関係が深いのがドーパミン報酬系回路で、これは大脳辺縁系と大脳皮質でつながります。

(腹側被蓋野から線条体や側坐核などを経て前頭前野にいたる)

前頭葉にある眼窩前頭皮質は意思決定における最重要部位です。ここにその人の理性と思考パターンと記憶パターンの集積です。脳に電気が流れたり、神経伝達物質の放出や生成も理性の一部です。

 

感情

それに対して、欲求を司る大脳辺縁系の反応を自己意識(理性)は把握する(感じる)ことはできません。しかしこれは本能とは呼ばず、感情といい、理性は情動反応の結果(涙、笑い、怒りなど)を察知して自分の感情を理解することができます。

またこの大脳辺縁系がコトに対して近寄ったり離れる判断をします。条件反射となって自動的に行動に結びついているものもありますし、好き嫌いや快不快の判断もあります。

嫌なことを受け入れると悲しくなりますし、受け入れたくない嫌なことを強制されると怒りとなります。

この条件反射の結果を「わたし」が後から発見するのであって、「わたし」が感情を生み出しているのではありません。嘘泣きの時も、「わたし」ができることは泣いたパターンをイメージすることだけで、後は大脳辺縁系に働いていてもらっています。

まず経験(記憶・実体験・空想)をして、それを条件反射としてパターン化させた回路にします。この一連の行動は理性ではコントロールしておらず、無意識の領域で自動的に回路になります。

 

本能

食欲、排泄欲、睡眠欲、性欲、などの「欲」のことで、大脳皮質の「分ける」作業がなくても存在しています。

ですから言葉がわからなくても、言葉でいちいち考えなくても、欲はあります。生物学では欲求とも呼ばれます。

 

遺伝的に定められたプログラムを「無条件で選択するもの」です。

といってもそのプログラムは、多くの要因を持つ環境によって変化するのでどれを選択したのかを分析するのは難しいのが実情です。

生命中枢の本能行動は無条件反射なので、意識の範疇の外にあるので、主体の「心の動き」というものは一切発生しません。また「意識」してみても、自分の意志によって変更することはできないものです。

これは全人類に共通の反応規準であるため、遺伝的な体質はあっても、そこに人格や性格というものは一切介在しません。

本能の価値観は「生物学的利益の獲得」。

この生物学的利益とは「生」だけではなく「死」も含まれる。

増大(生)と減少(死)の両立によって、この世はあるという価値観です。

生得的行動innate behavior(本能行動とほぼ同義)とは「遺伝的性質に基づき、習得的な影響を受けない行動」反意語は「習得的行動」acquired behaviorです。

「本能行動」は脊髄や脳幹中枢神経で処理されるので、大脳皮質まで信号がいかないので、未来の結果を予測することができません。

 

理性と本能の違いがつかんだところで、いろいろな学問の理性と本能を見てみましょう。

 

フロイトの心理学では

ヒトの心理には、親や教育から教えられた理性的なスーパーエゴと動物的本能の欲求であるエスがある、と理解しています。

極端に言うと、天使であるスーパー・エゴで、悪魔であるエス、が両肩に乗っていて、「わたし」と会話をしている、と捉えています。

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幼児には食欲や排泄欲という本能があります。そして成長と共に、排泄はトイレで、食事は決まった時間に、睡眠はテレビの後に、というように、本能のままではなく、理性とのバランスの中で、判断され行動が実行されます。

例えば、「今すぐ食べたい!」という本能、「今は授業中なので給食まで我慢」という理性が葛藤して、最終的に理性が勝つようになるというのが理性が感情をコントロールするという成長の過程だ、と説明されます。

 

しかし、この図式の欠点やフロイト心理学そのものの誤謬は、いろいろとあります。

まずは、スーパー・エゴとエスが同じロープを引っ張っているので、異なった層ではなく同じ平面にあると思ってしまうこと。

次に、スーパー・エゴとエスに重なり合うものあると図式していること。別の層にあって独立したものだというようには捉えていません。

また、重なり合うところエゴと図式しているので、エゴはスーパー・エゴとエスによって規定されてしまうところ。

これらの考え方が重なると、エゴ(自我、わたし、自己意識)は天使のアドバイスと悪魔のささやきの間で揺れ動き、どちらかを選択するモノだと思ってしまうのでしょう、フロイト心理学の学んだものにとっては。

 

次に脳機能学を利用して説明する人は、

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天使が大脳皮質で、悪魔が大脳辺縁系と脳幹としてとらえて、この理性と本能を説明しようとしています。

大脳皮質は合理的にモノを把握する理性をつかさどり、

大脳辺縁系は学習パターンを基にした感情と判断をつかさどり、

脳幹は内臓との連絡をつかさどります。

 

大脳皮質の天使が強すぎると、「〜でなければならない」とか「〜しなければ」という思いにとらわれがちになり、大脳辺縁系の悪魔が強いと、「〜したい」とか人やものが好きだとかいう、欲望にとらわれると、思っているようです。

悪魔を抑えるとストレスになり、ストレスがたまりすぎると内や外へ向かって爆発します。内側へ向かうと自立神経失調症などになり、外へ向かうと、抑圧が暴力などになって現れたりする、という捉え方です。

そんな時はストレス発散が必要で、心理学では「情動発散」といいます。

 

脳幹の本能は、食欲、睡眠欲、性欲の三大欲求で、

もう一つの本能である大脳辺縁系の特徴は感情で、これが欲しい、これは嫌いと言った欲望だと脳機能学を学んだ者をとらえます。

それを天使の大脳皮質がコントロールすることで、理性的な行動をヒトは選択できると、説明しています。

 

脳機能学では、衝撃?の事実として、以下のように理性と本能を説明します。

「自分」の中には数え切れないほどたくさんの“自分”が存在してる、ことを前提にします。

しかし、ほとんどの人は「自分」は1人しかいない、と思っていると思います。

理性脳から生じる自己意識とは、「わたし」が中心の基本軸になって認識するシステムなので、どうしても一貫性を求めてしまいます。しかし、理性脳以外にも本能脳や身体脳といった“自分”があるとすれば、時に“自分”同士で対立することがあって、ここに葛藤や協同が生まれます。

 

特に対立しやすいのは、本能と理性です。

脳の部分で言うところの爬虫類脳(古い脳)と人間脳(新しい脳)って言われてるところです。大脳辺縁系と大脳皮質のことです。

例えば、

ケーキ屋の前を通ったとき、ケーキを食べたいという本能(食欲)VSダイエット中だから食べないという理性

朝起きたとき、2度寝したいという本能(睡眠欲)VS目標達成のために早起きして活動したいという理性

素敵な異性と話してる時、エッチなことを考えるという本能VS紳士・淑女的な態度で接したいという理性

夢を叶えるために挑戦する時、怖いからやめたいという本能(恐怖)VS夢を叶えたいから挑戦するという理性

このように、いつも本能と理性が対立しているように感じる場面は多くあります。

「あー体重○○キロに減るまではケーキ食べないって決めてたのに食べちゃった..

「あーまた2度寝しちゃった.. 6時に起きて勉強しようと思ってたのに」

「あーあ、また下心丸出しで接しちゃったなぁ」

「あー、もっとあれに挑戦しておくべきだったな…」

「なんて弱いんだ自分は!情けない!」

そうやってくうちに弱い自分(爬虫類脳)のことを嫌って落ち込んだりして、理性で思っていたことが本能に負けた時に、自己嫌悪に陥いるのでしょう。

「あー!本能なんか消してしまえたらいいのに!」

と思うときもあるかもしれません。

しかし、この「違う性質の“自分”が自分の中にたくさんいる」という事実はどうやっても変えられないので、もうこの弱い自分(本能)は消すことはできないという事実は受け入れるしかありません。

そして、この事実とどう接するか、というのが脳機能学的な解決方法は以下のようです。

 

脳機能学の解決方法

本能的な自分も、理性的な自分も、自分の中の一部であるから脳内で戦うのではなく、調和させることを考える。

言葉をかえると、天使と悪魔の両方を認めること、です。

ネガティブな自分とポジティブな自分

感情的な自分と理性的な自分

保守的な自分と大胆な自分

男性性の強い自分と女性性の強い自分

子供な自分と大人な自分

片方が片方に「出ていけ!」と言っても出ていけませんから。

 

調和させるには多くの方法や解釈があります。二つの存在を認めて、両方とうまくやっていく方法です。

本能的な弱い自分のことは別に嫌う必要はないばかりではなく、この弱い自分が「生命維持」には大切な要素だからです。

 

むしろ、この弱い自分がいるおかげで生きることができてうる部分もあるんだと気付き、感謝することもあるでしょう。また排除や嫌うということは、そのことに対して強い関心があることを表わしています。

人間関係でも、ある人のことを嫌えば嫌うほどその人の主張が耳に入ってきます。

ヒトは他者を通すことで自分のことが理解できます。他者に対して感じていることは、それが自分自身の中にあるから認識できるとも言えます。もしかしたら、他者の中に自分が鏡のように映っているのかもしれません。

人によっては完璧主義のところがあって、自分で決めたことがちょっとできなかっただけですぐに自己嫌悪したりする人もいます。しかしダメな自分とも「両立させてみる」という、弱い自分を認めてあげることが、カラダにとっては大事なことが多々あります。すると、力がふっと抜けてなんとなく楽に生きれるようになった気がする人もいるでしょう。

ただ、本能に甘くなって、なんでも欲求に依存するのではなく、あくまでも調和です。

言い換えれば、バランスが大事っていう感じです。

それでも、どうしても本能に負けたくないという緊急事態には、自動的に本能の逆を選択する仕組みを自分で作っておくこともできます。

たとえば「オデュッセウスの契約」っていうギリシャ神話があります。

当時随一の知恵者と言われていたオデュッセウスというギリシャ軍の武将が、セイレーンという海の魔女がいる海域を通ることになったという話で、セイレーンは歌声で船乗りを魅了しては彼らを海に引きずり込んでしまうので、オデュッセウスは船のマストに自分を縛りつけるよう船員に頼んで、無事その海域を抜けたという話です。

こうやって緊急時には本能を束縛させる方法もあります。

ケーキの例で言えば、そもそも店の前を通らないようにするとかですかね。もしくはケーキを食べることで「安心」を感じているのならば、それに代わる「安心」を他の事で見つけてあげるということです。他の安心で自分を縛ることで、ケーキには魅了される割合を減らすことです。

「本能的な部分を頭ごなしに否定しても効果が薄い」ので、弱い自分も1人の“自分”なんだから、時に褒めたり時に叱ったり愛してあげられたらと。

参照 ヒトの中にいる4人のプレイヤー+1

 

脳機能学の限界

これが脳機能学による対処法でしたが、これもはじめの脳の解釈の仕方が間違っていると私は思っています。

この方法の何が欠点なのでしょうか?

本能の解釈です。定義の仕方です。

内臓感覚を経験している者から見ると、脳機能学者は脳幹と内臓の聲が聴こえていないということです。

「わたし」(自己意識)が本能だと思っていたものは、実は大脳辺縁系とそれを補助する理性(大脳皮質)でしかありません。この大脳辺縁系は本能ではなく、感情や条件反射を司る領域です。ということは無条件反射の本能のことが一つも分かっていなかったということです。

 

カラダは自己意識と無意識の犠牲者にすぎないともいえませんか?理想や理性の作った欲望や無意識の条件反射の犠牲になっているように思うことはありませんか?

これらに気がつくとが、本当の生のはじまりであり、自由になることではないかと瞬間はありませんか?

今まで気がついていなかった世界を見守ると、新しい世界が拡がります。

しかし自己意識を無意識に溺れさせているともっと効き目の強いドラッグを探しはじめる。

その麻薬はセックスかもしれないし、酒かもしれないし、金かもしれないし、政治権力しれません。

無意識にさせて気づくことを妨げるものはすべて麻薬です。

それは学校や大学でも麻薬は売られています。というのも、そこでは野心がつくりだされ、野心は人々を無意識にさせておくからです。野心は人々に影、まぼろし、夢を追わせ、走りまわらせます。

これらの欲望や本能や野心と呼ばれているものは、条件反射による無意識と理性と感情が相向き合ってただ葛藤していただけ、というように、内臓感覚の視点からは見えてしまいます。

では、内臓感覚とはどのようなものなんでしょう?

 

内臓感覚

ではついに最後の段階の内臓感覚です。

英語にvisceraというラテン語から由来した「内臓」や「肉」を意味するviscusの複数形の言葉があるのですが、そこがセンサーとなる感覚です。脳がないニハイチュウのような生物が持つ感覚です。

この感覚は、脳機能学が限定している脳から離れて、カラダ全部の感覚に至ります。

脳中心主義者はよく脳から電気信号そしてインターネット空間につながりが拡がる哲学を展開しようとします。

アニメの攻殻機動隊のように。

ところでもう一度、自己意識にいたる必要不可欠なモノの順番を考えてみてください。

生物史の系統発生の歴史や地球史でもいいし、自分のカラダを見つめてみるのもいいかもしれません。

 

自己意識は脳がなければ発生しません。では脳の活動を維持するために、絶え間ない血液の流入が必要です。10分ほど血の流れが止まっただけで脳は壊死します。脳梗塞が身近な例です。

そしてこの循環器系の内臓を支えるのが、消化器系の内臓です。外部とエネルギーを交換することで生命体は現状を維持することができます。

そして当たり前のことですが、脳そのものも実は神経管という内臓の一部でしかないということです。

ですから自己意識があってからカラダがあるのではなく、まずはカラダがあって、次に自己意識が活動する時が時々あることがわかると思います。例えば寝ている時や脳梗塞で寝たきりになっている人や植物状態の人は、自己意識はないように見えますが、カラダは間違いなく機能しています。

このような脳以外の内臓を含めた自分、という視点に立つことで、新たな考え方をすることができます。

例えば、内臓感覚学、とでも名付けておきましょうか。ニハイチュウや植物や微生物は脳がないのに生きいるのは、脳を使わないセンサーがあるということです。

 

António Damásioによるソマティック・マーカー仮説というものがあります。

ヒトは経験をすると必ず、何らかの感情を伴います。その感情の印象が出来事の記憶として、体に「マーカー」としてつながったままでいて、この生物学的な残物のことを指します。

このマーカーが自分自身の過去の経験をミラーニューロンのようにシミュレーションする、という仮説です。

ヒトは熟考する前に、ソマティック・マーカーがその機能を発揮し、それぞれのシナリオがどう展開するかシミュレーションしている。また、選択肢のメリットを検討する前に、ソマティック・マーカーが数々の選択肢をはじめから除去していることは、無意識の内に行われるから「わたし」は全く気が付かない。

ソマティック・マーカーは情動記憶の一種で、過去に体験した情報を形(証拠)として残し、これを使った感覚を私たちは「直感」として経験する、と言うものです。

 

ここから本能を観察すると、理性からみた本能とはまるっきり違う姿が見えてきます。

脳を3つのパターンで分ける脳機能学では、本能が無条件の反射として求めるものを欲求だと言っていましたが、それを一つずつ観察すると、それは本能ではなく理性そのものだということが判明してしまいます。

 

例えばダイエット中なのに、ケーキをみたら食べたくなるのが本能だ、とするとします。このケーキという記憶は大脳皮質にあるデータです。またケーキを見たらヨダレが出てくるような条件反射は大脳辺縁系と関わりの深い学習によって自動化された因果関係です。この回路が機能するのは、ケーキとしてデータ化された大脳皮質の神経細胞とそこを流れる電気信号のおかげです。ですから交通事故なので、理性が拠り所にしている大脳皮質の中にあるケーキにまつわる記憶が機能しなくなると、ケーキを見ても食べたくなるということにはなりません。ケーキに反応するには記憶(知識)が必要です。甘い喜び、有名パティシエの作品、家族で食べた時の満足感、食べると満たされた安心感、どれもケーキにまつわる記憶は全て大脳皮質(理性)の領域のものなので、これは本能ではなく、記憶と感情です。

この構図は性欲でも顕著にあらわれます。一般に言う性欲とは、経験の記憶であったり、ファンタジーであったり、小説であったり、AVであったり、妄想であったり、クセであったり、好奇心であったりするものに誘発されて発動するので、これらは全て基本的には大脳皮質、そして場合によっては大脳辺縁系の領域の話で脳幹とは関係のきわめて薄い欲求です。

 

では本能は何を求めているのか、が内臓感覚で推察するに、求めているのはほんの僅かなものです。

ケーキではなく、一口の炭水化物、

高級なジュースではなく、一杯の水、

毎日のマスターベイションではなく、一生で数人の子供、

効率の良い睡眠ではなく、安心、その一つの形が意識の停止である睡眠

 

本能とはこんなに単純でほんの少しのことしか欲求していません。

本能は無駄なことが好きではないので、大きなエネルギーを必要とする消化運動もできるだけ控えたいと思っています。

本能の欲求はゆっくりとなだらかでわずかです。

本能は未分化の温かいものです。

本能は呼吸や腸の蠕動運動のように、リズミカルにしかも止まることなどなくずっと生き続けています。

 

それをいかにも大きな欲求があるかのように演出しているのが理性で、欲望のお仕事です。

理性は自分の欲望を本能のせいにして、自らの欲望を本能にすり替えているだけです。

この話が腑に落ちるかどうかは、各個人による次の行動にかかっています。

 

チャンスを見つけて、意識を緩めてボーとして、自分の本能の聲を聴いてみてあげてください。

体験できれば腑に落ちるし、

体験できなければ、「本能が少ししかないなんて、信じられるか」と信じられない根拠を言えばいい。

「オレは今日も腹一杯食べて、素敵なパートナーと一緒に寝て、ぐっすり眠るんだから。」と。

それもよしだと思います、体が元気な限りは。

参照 内臓の感受性のゆたかな子に  三木成夫

 

 

自己意識の成り立ちと限界 パート2  自己意識の生成図

意識の形の変化は何に似ているか、どんなメタファーやアナロジーがあるのかと考えてみたところ、細胞の分化と成長の図が腑に落ちた。

小学校の理科で習う細胞分化の過程で起こる、表皮の陥没は内胚葉となり消化器官に分化していくのだが、その後に外胚葉にも内胚葉と同じような陥没が起こり、それらが神経系(脊髄・脳幹・脳)に発達していく。

この過程をメタファーとして「意識」にも類比してみる。

外胚葉が分化して成長を続け、ある時点で、表面が内に落ち込んで凹みができる。この凹みが意識である。

そしてこの凹を閉じて◎にすると自己意識が発動する。

ちょうどそれは、ヒトの目ん玉のようなもので、眼窩から外を覗いているのが意識である。内部の身体も自分自身なのだが、凹みの意識から外側は見えても内側は見ることはできない。

そして瞼を閉じると、外界の情報を遮断して、自己意識がついに働き始める。

Description: Description: 「blastopore」の画像検索結果

 

 

 

原腸胚

Description: Gastrulation (1)Description: Description: http://spider.art.coocan.jp/biology2/visual/pict-yokuwa85.jpg

動物の発生では、まず卵割の進行によって卵割腔が形成され、胞胚期となる。その後、胞胚における細胞層の一部が卵割腔の内部に入り込む形で新たな袋状の構造が形成され、これが原腸となり、それによって生じる口が原口である。そのような変化が起きる間の時期を原腸胚期(Gastrula)と呼んでいる。

ちょうどソフトテニスのボールを指先で押して、その壁を内部に押し込んだような形である。このとき指の入っているところ、およびその周りのゴム層が原腸、指のつっこまれているところが原口である。

原腸胚に続く段階として、脊索動物では神経胚期がある。胚の表面の背側の外胚葉が厚くなり、 板のような構造の神経板ができる。やがて、神経板の中央 に神経溝という溝ができる。神経板の両側のひだは高さを 増して内側に折れこみ、合着して神経管を形成する。 
Description: Description: http://spider.art.coocan.jp/biology2/visual/pict-yokuwa88.jpg胚葉形成    原腸胚 gastrula にて起こる

外胚葉が胚の外側の層となり、皮膚の表皮・脳・神経系を形成する

内胚葉は胚のいちばん内側の層となり、消化器系とそれに付随する器官を形成

中胚葉は外胚葉と内胚葉の間にあり、血液・心臓・腎臓・生殖腺・骨・筋肉を形成

[ギルバート『発生生物学』第10版,p.15より]

 三胚葉を発見したのは、1820年代にニワトリ胚を研究したChristian Pander(ドイツ)。

 

 

 

 

表皮からできた神経      

表皮と神経は同じ外胚葉性由来で、同じ発生起源をもつ。もっと簡単にいうと、表皮の一部が神経になった。

ヒトの表皮細胞には中枢神経系の神経伝達物質(ドーパミンやセロトニンなど)の産生能力と受容能力がある。さらにこれらの神経伝達物質をヒトの角層欠損部(傷)に投与すると修復が早まったり遅まったりする。海面動物には神経系は無い。しかし、すべての細胞が情報センサーである。クラゲのような刺胞動物になると散在神経系であり、神経細胞は体表に発達している。それが進化の結果、体のなかにとりこまれるようになり、内胚葉や中胚葉の器官にも影響を与え合うようになる。

Description: Description: 「blastopore」の画像検索結果

意識とは開いた穴、自己意識とは閉じた穴のこと

もし意識を図像にしてみたらどんな形になるのだろう、という試みです。

それはちょうどゴムボールを指で押した凹みのようなものではないかと。

ボールがカラダ

凹みが意識

凹みの入り口が閉じたら自己意識が発動する

 

ボールの内側の内臓器官は無意識で、ここは自律神経の影響を受ける

 

ボールの中を貫く管は消化器官で、この中は他者である微生物(非意識)が暮らしています。

 

外からの刺激を凹みである意識が対処して判断し行動の有無が決まります。

凹みは外と繋がっているので流動性がありますが、思考したい時には入り口を閉じることで凹みの空間を固定化させることで分析することが可能になります。

 

自分は自分のことを見ることができません。

それで鏡を使ってみることにします。一面だけでは片側しか見えないので、背中の後ろにも鏡を置いて、二つの鏡で自分を見てみる。そうすると、鏡の中に鏡が写り、それが永遠に続いていく。

自分自身を見ることは永遠に無限に続くけれど、まあ、大体のことはわかります。

今回の大体は、細胞が成長していく過程の凹みが意識だというお話でした。

 

 

意識

器官

主体からの視点

他者からの視点

開閉

胚葉

自己意識

大脳皮質プラスα

観る主体

乗物のボタン

閉鎖

閉じた時空間

意識・無意識

大脳・中脳・小脳・脳幹

情報機関

自動操縦機能

開閉

外胚葉

無意識

心・肺・血管(循環器系器官)

機械

ホメオスタシス

閉鎖

中胚葉

非意識

胃腸(消化器系器官)

機械・微生物

命の中心

開閉

内胚葉

 

丸い本体の一部が徐々に陥没してできる凹みが神経系、外部を体で包み込んだ穴が意識の本体。

外部とは空気、あなた、社会、宇宙。

これらを「他者」と呼んでも「いのち」と呼んでも「空」と呼んでも各自の背景によって呼び名が変わるだけ。

身体を貫くのは消化器系器官、この中は他者(微生物・食べ物・空気・「空」「気」)がいる。

 

自己意識の限界

閉じないと思考ができない しかし目の前の事実は開いて常に変化している

自己意識とは、外界から遮断されないと、発動されないものだということに、注目して欲しい。

自己意識が何かについて考えるときは、外からの情報を遮断して、自分だけの世界に入ることが必要だ。そうしないと絶えず五感から入る刺激によって、思考を続けることができなくなる。

例えば、ゲームや本や仕事や想像で夢中になっている時に、周りの音や人の声が聞こえてこないことがある。この「閉じて」いる状態が自己意識の特徴だ。

このように閉じないと自己意識が発動されないが、目の前の現実は常に変化する「開いた」世界。

だから自己意識が変化するこの世をとらえることができない。これが自己意識の限界。

そこで、思考する時は、「わたし」を発動させるが、思考が終わった後は、思考した内容も単なる「仮りのモノ」として扱い、固定化させてしまわず、閉じた箇所を開放して、また開いた世界に戻ることが必要となる。

自己意識で理解したものは、常に「仮りのモノ」だという自覚がこの世と柔軟に接するコツ。

 

有名なモンティ・ホール問題は、意識は常に更新され続けないとこの世を把握できないことを示している。200%の確率で未来予想が外れてしまう実例である。

 

モンティ・ホール問題

ここに、3つのドアがあります。

どれか1つには、ドアの向こうに豪華賞品があり、それ以外はハズレ(空)です。

どのドアの裏に豪華賞品があるかは、司会者のモンティは知っています。

参加者は、まず、3つのうち、どれか1つを選び、司会者のモンティに伝えます。

モンティは、それを受けて、残りの2つのドアから1つ、空のドアを開けます。

そして、あらためて参加者に、どちらかを選ぶように伝えます。

今、参加者が、ドア@を指定しました。

モンティは、残りのドアA ドアB から、ドアAを開けました。

参加者は、ドア@ ドアB をあらためて選ぶことになります。

どちらが確率的に有利でしょうか?

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Monty_open_door.svg/250px-Monty_open_door.svg.png

1.ドアが3つあります

2.その中に 当りが1つ、ハズレが2つ あります

3.あなたは、ドアをひとつ選べます 

4.あなたが選んでいないドアを司会者が開けます

5.開けられたドアは 必ず「ハズレ」です

6.あなたは、ドアを選びなおす権利があります

7.選びなおさない権利もあります

問い・・・あなたはドアを選びなおしますか?  選びなおした方が、勝率が上がると思いますか?

「選びなおさない」派の気持ち

・残った どちらのドアも 確率的には 1/2 なので、直感を信じる

・もし、選びなおして「ハズレ」ると、後悔する

「選び直す」派の気持ち

・選びなおした方が勝率が上がるから

・ドアを開けられた時点で、確率が変動するから

 

解説の例

Description: Description: モンティ解法

豪華賞品のある確率は、各ドアとも1/3 ずつです。

つまり、参加者が選んだ以外のドアは、2/3でした。

その内の、一つが無くなったので、選んだドアが1/3、そうでないほうが2/3です。

直感的に、分かりづらいかもしれません。

その場合には、ドアの数を増やせば、納得がいきます。

ドアが1000個あった場合に、選んだドア以外から、モンティが、998個の空のドアを開けたとします。

残った2つのうち、どっちに豪華賞品がある確率が高いかは、直感的に分かりますよね。

          

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Monty_closed_doors.svg/250px-Monty_closed_doors.svg.pngDescription: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/Monty_open_door_chances.svg/250px-Monty_open_door_chances.svg.png

 

 →

   

 

 

閉じることのデメリット

まずは「閉じ」なければ「分ける」ことができない。スポットライトとは、範囲を限定して、「閉じ」て固定させることのメタファー。

そして「分け続ける」過程で必ず何か(全体としては本質的なもの)が失われてしまうという事実を再確認することが大事な時がある。

全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である。それゆえ複雑な現象の分析は全体像の断片を明らかにするだけである。断片はわかっても「分ける」認識方法では全体は把握できない。

宇宙を含め有機体は、構成する要素はその性質に依存しているが、要素が結合され上位に変じてはじめて全体の性質が姿をあらわす。

ところが、断片の寄せ集めでもって「○○にすぎない」といいきり、独断することで、対象物を固く変化のしないものに押さえ込んでしまう世界観がある。これを還元主義と呼ぶ。基本的に多くの学問はこのような前提に立っている。還元主義を避けるためには、学問が法則を作り上げて「形」にした後に、実はこの法則はある特殊の条件のもとでしか通用しないといって、今まで作り上げた体系を全部なげすてて大声で笑うことである。

 

例えば、量子物理学で、素粒子を集めて原子核を形成すれば、もはや素粒子では説明できない新しいものが創造される。素粒子が消えたり現われたり、量子のもつれといって、一種のテレポート?のようなものができたりしちゃう。

この核の周囲に電子を配置して原子を作り上げたり、原子を集めて分子を形成した場合等にも、同じことが繰り返される。時間を戻るような動きまではじめてしまうのだ。

無生物界は、単純な分子といった低レベルの編成で止まっているが、次の生物界ではもっとすごいことがおきる。分子が集まって巨大分子となり、巨大分子が細胞内小器官(ミトコンドリア、葉緑体、細胞膜、リボソーム、細胞核など)を形成し、ついにはこれらがすべて集まって、偉大な創造の神秘である、びっくりするような内部規制を備えた細胞を形成する。つぎにこの細胞が寄り集まって「高等動物」やますます複雑な個体(たとえば、あなた)を作り出す。各段階ごとに、より複雑で繊細な性質が産みだされ、最終的には、基本的な(物理学と化学)規則は不変であるが、無生物界には例を見ない特性がうまれる。

 

理念に身を売る人たち  理念を第一としてしまった者たちのつくる法律  

良いことをしているのに他者に害を与えてしまうのは狭い思考領域

たとえば、イギリスのスピーナムランド制度。

1795年に始まるスピーナムランド制度とは、物価連動制の救貧者を扶助するシステムです。パンの価格に下限収入を連動させ、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当が支給されました。これはフランス革命の影響から物価が高騰するいっぽう、収入は増えず困窮する農民・市民が続出したためです。バークシャー州スピーナムランド村の治安判事は貧民の窮状を見かねて、対策を協議しました。その結果、ギルバート法の院外救済の制度を拡大解釈し、パンの価格をもとに基本生活費を算出しました。この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填したのでした。

とてもよいアイディアだと思います。

ところが、その結果、何が起きたのか?

博愛精神から生まれたこの制度は、思わぬ副作用をもたらしました。安い賃金でも差額を救貧費で埋めてくれるため、企業家たちが労働者の給与を切り下げだしたのです。救貧税は膨れ上がり、1810年ごろには当初の3倍以上に急増しました。救貧税を負担していた農民は重税に耐えきれず貧民化し、いっぽうで貧民は働いても働かなくても収入がかわらず、勤労意欲を削ぐという事態まで引き起こしました。

 

これが理性を働かせてつくった制度の結果の一つです。良いことをしているのに他者に害を与えてしまうのは、思考領域が狭い時に起きてしまう例の一つです。

文明や都市の発達したところではこのような理性を中心にした政策を実践しても結果が出なかったことが多々あります。動機は困った人に優しい制度を作り上げるなどと良いのですが、結果は他者や都市の周縁部に対して迷惑を積み上げてきました。

アイディアが悪いといっているのではありません。困った人を助けるのは当たり前のことです。しかし理念第一主義者の思考や行動があまりに理念に基準が偏りすぎて、ヒトや生命体の本質やココロやカラダについてわかっていないのではないか、と推定されます。可能性としては、彼らはココロとカラダを失ってしまった失感情症と失体感症の傾向も懸念されます。

ではどんな解決法があったのでしょか?それはTPOによって決まるので一概にこれだということはないので、この問題に当面した地域の住民が一緒になって考えていく問題だと思います。

たとえば、各ケースの状況に合わせながらも、一年ぐらいのスパンで困っている家庭に食料を提供し、家がない家庭には、共同生活ができる場所を共有するといったような。あくまでも大切なのは、その状況に合わせて柔軟に関係者が一緒になることです。

 

理念とは全体性の一部だけを切り取ってしまうこと?

部分的な思考回路は現代の大学の研究のあらゆるところに見ることができます。例えば、メタンガス問題を牛のゲップを温暖化と結びつけて数値化して発表したり、植物が酸素を供給すると勘違いして植林運動を進めるキャンペーンのために光合成時の酸素供給量をデータ化したりしています。どちらも全体の一部分だけにスポットライトを当てて、自分たちの誘導したい方向に有利なデータだけを収集して法則を作り提供するというやり方です。

あまりにもこのような思考法と方法がまかりとおっていますが、もうそろそろこのようなことは退屈ではないかと思います。本人の誠実な人格と、全体性を考慮した科学の因果関係の実験データとは関係がありません。ですから全体のバランスを考えると、誠実さに依存することなく事実優先の見解がもう少し増えるべき時代だと思います。

したり顔の教養ヅラした大学教授やインテリの評論家には、一面だけではなく全体から見た論理性を問うてみるのが良いかと思います。 

 

ところで、

身を売る、とか、魂を売る、というフレーズがありますが、この身とか魂とは何なんでしょうか?

西洋では、人が心を悪魔に渡す換わりに、物質的な利益を得る契約を交わすことを意味しています。 

 sell my soul out to the devil

この身や魂は、「4つの認識」の時に話した4つの感性・理性・智性・魂性の内の智性と魂性のことを指すのではないかと思います。

ココロ(理性でも知性でもなく、ギリシャ語のヌースもしくは紫式部のいう「やまとごころ」)とカラダ(魂性)のことです。

 

一生

器官

一つと二つ

全体性

機能

幼児期

神経系

二つに分ける

感性

細胞分裂と神経

青年期

主体(自己意識)

優劣の優を選択

理性

法則をつくる

成熟期

循環器系

選ばない方の再評価

智性

条件反射の書き換え

老年期

消化器系

分けることを停止

魂性

土に還る

カントとヘーゲルの唱えた哲学とはまさしく、智性と魂性の領域を認めないことでした。その結果、例えば「主観と客観」の意味が入れ替わるなど、西洋の近代において言葉の使われ方がちょうど真逆に変化したものもあります。例えば、cranderoが治療者からインチキ医者になったように。

Ambiguous ambi両方 ig行う ous形容詞語尾)が、「あいまい」になったように。

このように、文明化・近代化は、ココロ(智性)と魂の時間を売って、それで肉体(感性と細胞分裂)と脳(理性と法則)の時間を買ったのです。

なぜそこまでして、理性を買ったのか?

キレイゴトや理念は武器として、他者を踏みにじり、敵から利益を奪い取ることができることに気がついたのも大きな理由の一つです。また、合理的であることが大事なことだと信じこむことができたことです。

わかりやすい例は、大航海時代に欧州が行った世界植民地政策です。まずは敵国地に理念を掲げる宗教者を送り込んで、敵国地のインテリを洗脳し、彼らに利権を与えることを約束した後に、軍隊を送り込み敵国地を壊滅させて植民地にしたら、商人を送って地元のインテリを利用して利益を得るという企てです。聖職者・軍人・商人が同じ船に乗った呉越同舟の底流には植民地を支配にするという共通点で暗黙の了承で協力し合いました。その時の合言葉が「理念」です。

そして18世紀からの革命。フランス、イギリス、アメリカなど世界各地で行われた民主的革命です。これがまた理念で他者を踏みにじった良き例です。理念を掲げることで、それに従わないものを排除しても良いという方法論を生み出しました。理念が武器となることを上級層ではないインテリも経験したのでした。理念さえあれば新興勢力にとって不都合な地主も旧勢力も旧聖職者も先住民など誰でも追放する理由ができます。理念の理は理由の理、理性の理です。そこを正義を付け足せば良心の呵責なしで他者を排除できます。その結果が理念社会の実現を唱えてテロリストの語源になったロベスピエールMaximilien de Robespierreの独裁政治や、純粋さを旗頭にするピューリタン革命や、インディアンの虐殺によって成立した建国です。

この理念を利用した成功体験は現代に続いています。今ではこれが条件反射となってしまい、理念やキレイゴトの恐ろしさや残酷さや冷酷さや支配力や同調圧力や慇懃無礼さ軽薄さに気がつかない人たちも増えてきました。

理性や理念はヒトにとって重要で大事な能力なので大切に扱うことが必要です。でもその裏側の顔を知らないままに、それを価値基準の真ん中に置いて固定化してしまうと、自分の首を真綿で締めることになる、というお話です。

理念に頼るということは、他者の足を踏みにじっていることだと気づくのがこれからの21世紀だと思います。

良く使われるところは進化し、使われないところが退化するのが、生命体のお約束です。また生命体はなんでもプラスマイナスでゼロのバランスの世界です。

何を選ぶのか、そして、何を選ばないのかは、私たちのハラ次第です。

参照 理性の可能性と限界  頭を使うと体は弱る  主観と客観  心の中のピューリタンを救え

 

優秀さと誠意と一生懸命

前世紀から医学の問題が周囲にも溢れかえっている。医学は命を扱っているのでその判断や治療には直接に生死にかかわってくるのだから、俎上にあげられることがどうしても多くなる。そしてついに自分や家族の命まで医学の判断によって危うくなってくると、誰もが黙っているわけにはいかなくなる。自分の命を人様といえども無配慮に預けるわけにはいかない。それも受験、大学、国家試験、病院の世界で過ごしてきた人たちに対してはことさらである。何故ならば、はじめから正解がある中から答えを選んだり、二つの中から一つを選択することにかけては熟練者で、その技法と合理性と思考法とスピードにおいてはプロであるがゆえに、この思考法が体の隅々まで染み込んでしまったことが時と場合には足枷になるからである。もし医学の矛盾と恐ろしさを知らないのならば、ますます人の命やこの世の生命体は医学によって危うくなる。彼らは総じて、優秀で誠意があり一生懸命だからである。

 

なぜこんなことになるのか?

答えはシンプルで明快だ。

一つ目は、命に関わる判断をしなくてはならないから。職業柄なのでこれは仕方がない。

問題は二つ目の医学そのものにある。正確に言うと命にかかわる学問そのもの、もっと大きく言うと「全体」に関わる用語(言葉)と意識そのものの扱い方が部分的すぎる(一面的過ぎる)ことからはじまる。

優秀さとは何が優れているのか?   主語は何?    優劣の捨て去られた「劣」の行方は?

誠実さとは何に対してなのか?    目的語は何?   患者の様態の変化?それとも組織に?

一所懸命とは何をやっているの?   動詞は何?    患者の気持ち?それとも医者の持つ価値観?

 

特に名詞を扱うときには注意が必要だ。名詞は具体物だけではなく、一般化されてしまうことで、TPOの条件が定かでなくなり、主語と目的語と動詞の関係性がなくても、そこにあるような錯覚を与えるからだ。ここから勘違いが始まってしまう。

これらのことがちゃんと認識されていない限り、これからもずっと医師によって命は危険に冒される。

これからの医師には医学だけではなく、この意識の仕組みと無意識の仕組みと全体性についての理解をしてもらった上での判断と治療でないと、これまでと同じように引き続き医学治療が命の力を弱める行動を続ける可能性があり続ける。

逆に言うと、医師と患者が命という全体性をどう認知するかということさえ習得すればいいのだから、それほど難しいことはない。

参照 優秀で誠実で一生懸命な人がこの地球をダメにする

 

はじめに結論からはじめてしまう本末転倒

カラダの立場にたてないのは、他者の意識(メンタル)の痛みは感じる優しさは大いにあるが、自分の内臓の痛みを感じる体験が足りないことに起因しています。

つまり自分の内臓からのメッセージを感じることができないと、他者のカラダのことをわかることはあり得ません。

 

結論を欲しがるアタマ、プロセスが必要なカラダ。

結論からはじめてしまうアタマ、プロセスがないと何も始まらないカラダ。

この2つは性質が違います。

それなのに早合点して「いのち」をアタマからはじめてしまう、これが本末転倒になってしまう理由です。

参照 本末転倒  教育するとダメになる

 

「自分」がアタマ中心のヒトは、自分の意識のことにしか注意を払わず、自分の内臓からのメッセージを聞くことを忘れている。 だから足先が冷えているので血行をよくして栄養や温かさを送って欲しいという血管からのメッセージには気がつこうとはしない。お腹の調子悪いのでこれ以上、脂分や糖分や冷たい飲み物を控えて欲しいと小腸がいっても、目の前のご馳走に夢中になっている意識はそんなことを聞く耳を持たない。ガンになってもまだアイスクリームや甘いお菓子を食べ続けてしまうように。

そんな「自分」(意識と自己意識)しかない人は、どうしたって、他人のカラダの心配はできない。

まずは自分のカラダと交流できる者だけが、他者のカラダの痛みを感じる可能性ができる。可能性でしかないのは、個々のカラダは違うので、自分のカラダで起きた事件は必ずしも他人のカラダでおこるとは限らないからだ。

それでもまずは自分のカラダからのメッセージを受け取る練習がはじめの一歩

参照 自分の中にいる4人のプレイヤー  躰の聲を聴く

 

意識の内と外

意識のルールとは、暗闇にスポットライトを当てて、明るい部分を分析することで認識することです。

言葉をかえると、

囲み

分けて

籠に入れて

因果関係をみつける

これが意識のできること。

 

囲わないと大脳は認識できません。囲ったものを分けないと意識は認識ができないのです。

また囲まないで、そのまま異物と一緒になって溶けたり、同化したり、包んだり、抱きしめたりすることは意識にはできません。胃腸や血管が毎日しているような異物との交流は脳にはできません。

意識の外側にある感覚とは、他者を対象物として扱うのではなく、他者(異物)を自分と同じ波の一部としてとらえたり、溶解して一体になるというプロセスをとります。

 

このように意識の内側と外側では体感するルールが異なります。

そして意識を使っている時と使わない時、そしてその中間の場合と、いろいろな段階があり、これらに対応する血圧や心拍や消化機能や自律神経をグラフ化するとこれも曲線のリズムになります。

 

カラダには悪影響の自己意識

大学で勉強するということは、自己意識を使って、個別の出来事の中に一貫性のある法則を学ぶということです。

言語学でいうと、固有名詞を一般化して普通名詞にするということです。目の前にある赤くて丸くて良い香りがするバラ科Malus属の中木性落葉樹の実をリンゴと呼ぶことです。

これがカラダにはよくありません。

えっ、このどこがいけないのでしょうか?

そんなこといったら全てがカラダに悪いことになってしまうではありませんか。

んー、そういわれると確かにそんなに悪くないので、普段は問題がありませんが、深刻な病気になったりして、命に関わるほどカラダの調子が悪い時には、少しだけ控えたほうがよい、というレベルの話です。病気になったら徹夜や暴飲暴食を控えるといったように。

問題はなんでも一般化してしまうのがクセになっていることです。このクセが働いている時には、カラダからのメッセージを聞くことができなくなるように、ヒトのカラダはできているからなんです。一般名詞にするよりも、目の前の美味しそうなものをかじって嬉しくなることのほうが大切だ、という話です。

 

この一般化や法則化を習うことで、これがクセにしてしまうと、変動する外の世界を動かないようにして閉じ込めてしまうのをいつもの常態としてしまうのが問題になります。確かにこのようなクセは大学に行かなくても習慣化してしまうヒトもいるので、大学で学ぶとこの能力を使用する時間が長くなる確率が増えるということです。

 

では一般化と法則化のどこがいけないというのでしょうか?

この能力を使わないと、お互いに一般的な会話をすることもできず、未来予測することもできなくなり、利便性の効率が劇的に低下してしまいます。それなのに日常生活でこの必要な能力を少しは抑えたほうが良いというのはなぜなんでしょう?

 

これは自律神経で説明するとわかりやすいと思います。

動物は系統進化した時に、自律神経は大きく二つのパートに分かれました。人の体も自律神経によってコントロールされています。自律神経には交感神経と副交感神経があります。眠っている間も呼吸したり、汗をかいたり、心臓は血液を送り出したりと様々な生命活動をしています。

覚醒時や運動時、怒りや不安、緊張などが生じたときは交感神経の働きが強くなって血管を収縮させ、心臓の鼓動を高めます。

交感神経が司る神経・筋肉の表層と副交感神経が司る消化・循環の深層が交互に補うように発達し、血液もその時の意識の状態により、意識を使うときには表層に、使わないときは深層に多く流れて活動を活性化させています。

 

たとえば、ストレスが続くと交感神経が活性化して緊張の働きが高まります。

デスクワークなどで同じ姿勢を長時間続けていると、全身の大半の筋肉が硬直して血液や体液などの循環が悪くなり、特に肩や首がこったり、腰が痛くなります。このようなこわばりは筋肉や関節だけではなく、内蔵にも起こります。例えば緊張すると胃袋の筋肉が硬直し、胃が固まった状態になるのは、よく知られています。

ストレス状態が長時間続けば血管も次第に硬直し、血管が細くなっていきます。すると血流が悪くなって、脳や心臓にも悪影響が及びます。最悪の例は、心臓に血液を送る冠動脈という血管が硬化して縮小した場合です。心筋梗塞です。

 

また、意識と自律神経の間にも密接な相関関係があります。

 

自律神経

血圧

心拍

グリコゲン

胃液分泌

インスリン

小腸消化

意識

交感神経

上昇

上昇

分解

低下

低下

便秘

非意識

副交感神経

下降

下降

合成

上昇

上昇

下痢

 

この副交感神経が活性化している時に、免疫細胞や酵素や成長ホルモンが生成されることが実験データからわかってきました。

交感神経は活性化している時は動物にとっての緊急事態で、トラから逃げたり、獲物のウサギを追いかけることに夢中になって、酵素や免疫細胞を生成している余裕などはありません。また生成された酵素や栄養分は一定なので、脳を使うとそちらに使用されてしまい、必然的にカラダで使用できる量が減少するという研究データもあります。

消化器系や循環器系のような自律神経の影響を受ける臓器は、臓器自体の異常の他にも、自律神経の異常が関与しています。例えば、副交感神経が活性化すると、肝臓ではグリコーゲンが合成され、胃では胃液分泌され、膵臓ではインスリン分泌され、小腸では腸液が分泌されます。ですから心の持ち様や考え方や情動が疾病に大きな影響を与えることは知られています。

参照 意識のエッセイ 精神病の治し方 分裂症バンザイ ヨーロッパ精神の病 ヨーロッパの企み

 

ココロとカラダを失ってしまった私たち カラダのない時代

全人的医療を目指す心身医学psychosomatic medicineではアレキシサイミア(alexithymia失感情症)、アレキソミア(Alexisomia失体感症)という症状について言及している。これらは、P. E. Sifneousらによって1970年代に提唱された概念で、ギリシャ語の「a:非, lexis:言葉, thymos:感情」から作られた造語である。

特に、ガンの予防や治療に最も大切なことは、こうしたココロやカラダへの気付きを的確に持つことだと唱えている。

 

なぜ失体感症Alexisomiaが問題なのか 

心身症患者などでみられる自己の感情の気づきや表現に乏しい傾向は、アレキシサイミア(失感情症)とよばれている。身体感覚の気づきも低下していることが多いとして、身体感覚の気づきや表現に乏しい傾向をアレキシソミア(失体感症)と呼ぶ。

感情と身体とは深い関係があるとされる。特に未分化な感情であるほど、身体(症状)との関連が深いとされ、感情の気づきの低下は身体への気づきの低下と関連する。これは「心」と「身体」が表裏一体の関係とされることとほぼ同義である。従って、アレキシサイミアとアレキシソミアは共通部分が大きく、完全に分離できる性質のものではない。

 

シフネオスらが、精神分析などの治療を行おうとしてもそもそも患者は自己の感情に眼が向いていないので、治療が深まらない特徴を持つ一連のケースがあることから失感情症が注目された。

精神療法の患者には感情への気づきが少ないことが問題になった。そのような患者たちは身体にも眼が向きにくいことは心療内科などの臨床でよく経験される。

失感情症は「自分」をアタマとココロと分けた場合に使われ、失体感症は「自分」をアタマとカラダに分けた場合に使われる傾向がある。カラダ(身体)を、ココロと不可分でかつ、より根元的なものとしてとらえ、ココロ(感情・条件反射・無意識・好き嫌い・判断)も具体的な形(病気や健康状態)としてカラダ(身体)に顕れる、ととらえる。

病気になった者が、感情や身体への気づきが低下した状態を、カラダの調子を優先させることで、ココロとアタマのバランスまでも整えられて病いから回復する過程になることがある。

身体を軸にした視点から「自分」を捉え直すことが、カラダの回復の第一歩である。

 

共通点・相違点と臨床的意義

アレキシソミア・アレキシサイミアは単に気づきの低下のみならず、より本質的に身体、感情、知性などのアンバランスさや相互の機能的な乖離という側面があり、何らかの機能的乖離があるという点は両者で共通している。

生理的観点からみると、大脳新皮質レベルと大脳辺縁系レベルとが機能的に乖離した状態がアレキシサイミアとすれば、新皮質レベルと辺縁系レベルだけでなく、脳幹や身体レベルとも機能的に乖離した状態がアレキシソミアと考えられる。

前者は精神療法が深まりにくいという臨床的問題が大きいが、後者の場合は、受療行動や対処行動などの行動レベルでの問題までも生じやすく、場合によっては生命の危険に及ぶ。

例えば、気管支喘息で実際に気道狭窄がありながらそれに対する感覚や認識に乏しく、受療や対処行動が遅れて生命の危機に瀕するケース。吐血しながらも切迫感がなく、受診が遅れてしまうケースなどがある。

身体をも含めた機能的な乖離やアンバランスさは、心身症の病態の本質にかかわるものである。裏返せば、身体、感情、理性などがつながって、「カラダ」と「ココロ」と「アタマ」の調和がとれると、ヒトの本来の安心した状態になる。

 

 

 

アドルフ・ケトレーの平均主義  Lambert Adolphe Jacques Quételet

トッド・ローズの平均思考は捨てなさい  The end of average  Tood Rose  より

天文学者としての野望を打ち砕いた革命について考えているうちに、社会を管理する学問を想像できないだろうかと閃いた。当時、ヨーロッパ史上はじめてビックデータが押し寄せ、「数字が雪崩を打って印刷されている」時代であった。出生数、犯罪人数、病気の発見件数、死亡者数etc.

L.Hacking, Biopower and the Avalanche of Printed Numbers 1982

 

彼は天文観測の概念から引用して意味づけた。

例えば土星の速度の大勢の測定値は平均値を使えば誤差が最小限に抑えられ真の値に何よりも近くなると天文学者は当時は信じていた。

天文学で使われていた「平均法」を人間社会に応用して社会学とした。

 

ところでこの平均値とは何を意味するのか?

これを社会に適応すると、どうなるか?

 

例えば、真の兵士とは自然の理想像を体現した完璧な兵士であり、いかなる肉体的欠点や障害も持たない。彼はこの奇妙な解釈を正当化するために「剣闘士の彫像」の比喩で説明した。

彫刻家によってある彫像を真似た像が1000体制作されたと仮定しよう。手作りの作品なのでどれもオリジナルと異なる。しかし1000体の平均値を採用した「平均的な彫像」はオリジナルと同じ真の姿になるとケトレーはいう。

次に論理を飛躍させ、同様に1000人の兵士の測定値を合計して平均値を割り出せば、「兵士の真の像」にきわめて近くなると考えた。生身の兵士は全員が不完全だが、この平均は真の存在なのだ、と。

Adolphe Quetelet, Letters90-93

個々の人間は誤差を伴うが、平均値は真の人間の象徴だと、ケトレーは宣言した。

人間性全般に対してもケトレーは同じ論法を使い、宇宙には人間の理想像といえる雛形が存在しており、個々の人間は欠点のあるコピーにすぎないと主張した。

Adolphe Quetelet, Sur physique sociale

平均人の体のバランスや条件と異なるものは、すべてが欠陥であり病気だ、と主張し、バランスや形状が平均と異なるものも、観察値の限度を超えているものも、すべてが奇怪だ、と考えた。

Adolphe Quetelet, Treatise

平均は理想の姿で個人はエラーだとまで宣まうようになった。

 

Description: ダウンロード

 そして、これに基づいて、クリーブランド健康美術館と新聞社が主催で大学医学部は教育委員会の後援で、平均が真の美であるとして、平均値からノーマの彫像を作って、これに該当する女性を探すコンテストを行うまでの世情になるアメリカの常識。

 

 

 

 

 

 

 

平均主義者の論理的誤謬

グループの分布は個人の分布の代わりに十分に通用するという仮定を信仰してしまっている点がこの勘違いの始まりだ。

ランク付けやタイプ分けという作業の根底には、平均主義があり、人々を凍結されたクローンとして扱うことを

前提にしているのだ。

 

なぜこのように考えてしまうスイッチがはいってしまうのだろうか?

エルゴード性の罠とスイッチ  集団から個を予測する  

集団の平均的行動を使って個についても予測しても良いケースをエルゴード的と呼ぶ。条件は以下の二つ。

1 グループの全てのメンバーが同一である

2 グループのメンバーが将来も同じである

19世紀に個々の気体分子の形状や行動を予測する時に使用されたが、この理論は役に立たなかった。実際のところ気体分子の大半はエルゴード的ではなかったのだから。

 

それなのに何故こんなスイッチが入ってしまうのだろう?どんな状況で入るのだろうか?

まずはタイプ打ちの例から。

タイプするスピードとエラーの関係を調べようとしている。エラー数を減らしたいためである。

平均主義者のアプローチは、多くの異なった人たちのタイプのスキルを評価してから、タイピング速度と平均とエラー数の平均を比較する。速度が早いほどにエラーが少ないのだ。この比較というのがエルゴード性のスイッチが入ってしまうところだ。この結果、人々(一般化された)がタイプのエラー数を減らしたければ、自分(わたし)のタイピングスピードをあげるのが良い、という結論が出てくる。

なぜ上記のような相関関係がでてきたのか?

それはタイピング速度の早い人は概してタイピング能力が高い傾向があり、エラー数が少ない、ことに起因する。

集団から考えると、スピードが速い集団はエラーが少ない。

しかし自分がタイプするスピードをいろいろと変えてみて、それに応じてエラー数がどのように変化するか測定してみたらどうだろう? 速度を上げると、明らかにエラー数は多くなる。

誤謬のスイッチが入ってしまったのは個の問題を集団の問題と取り違えたところにある。

 

なぜ平均主義が支持されているのか?

平均の時代において学校や企業などの社会的機関は人々の長所を成績、IQテストの点数、給与など、一つの基準で比較するよう奨励した。おかげで私たちの心は一次的思考への偏重を自然に強めてしまった。

Paul Churchill, A Neurocomputational Perspective: The Nature of Mind and the Structure of Science.

 

支持されたのは、平均主義はほかのどの選択肢よりもうまく機能した実績があったからだ。

タイプやランク、平均を基準にしていれば、区別するのに非情に都合が良い。なんでもレッテルを貼って分別できるので意識が使う脳の認識システムにマッチするのだ。すなわち認識するのに努力が必要ないのだ。意識は分別しないと落ち着くことができない病にかかっているので、この意識の性質に従えば、この平均主義は便利で効果的で合理的なのである。

例えば、簡単に、

彼女は内向的だ。

彼は同学年で2番めにランクされる。

などと説明することができる。

 

分別できるとは数値化ができることなので、曖昧さのない簡潔な表現をすることができる。社会はこの簡潔さを好み、それに共感をおぼえ、それが基準となり、いつの間にか真実とされてしまう。

だからこそ右肩上がりの社会では、平均主義は完璧な価値観であった。この時代は大勢の人たちを選り分けたうえで、標準化と階層化の徹底したシステムのなかで適切な場所に配置するための効率的な方法を必要としていた。

平均は安定性と透明性を備え、しかもプロセスに無駄がないので、決断を早めてくれる便利な基準になった。

右肩上がりの社会の「意識」にとって平均主義は便利なのだ。そしてこれが基礎となっている社会では、馴染みのない大海に乗り出すことを提案するためには、確かな地図が必要である。

 

個性から集団への原理  新たな地図

グーグルもデロイトもマイクロソフトも才能や数字で要約し、あじけない平均と比較するという発想は、機能しないという現実を突きつけられた。何が原因だったのだろうか?

それは一元的な思考です。意識のクセであるから仕方がない。だからといってそのままでは右肩上がりの世界が終わった世界の現実には対応できない。

 

平均主義の特徴

集計してから分析する

大勢の人たちのデータをまとめ、グループに共通するパターンを探す。

そのうえでグループのパターンに基づいて、個人を分析してモデル化していく。

 

個人学の方法

これに対して個人学Idiographic Scienceは、一つの基準で評価できないものだと考える。

分析してから集計する。

まず個人の中にいっていのパターンを探し出す。そしてつぎに何人もの人たちのパターンを集計し、そこから何らかの方法でグループの傾向を洞察していく。

例えば、朝青龍とマイケル・ジョーダンのどちらが大きいかという質問に簡単に答えられない。

身長、体重、肩幅、胸囲、ウエスト、ヒップなどの要因を比較するとバラツキがあるからである。

同じように知性にもバラツキがある。類似、語彙、知識、行列推理、積木模様、空間把握、絵画完成、算数、符号化、演算などなど

 

コンテクストの原理   前後関係,文脈,背景,状況、TPO

特徴や状況だけに注目するのではなく、二つの要素が如何に相互作用しているかを考えなければいけない。

折衷案ではなく、底流に流れている力を発見する必要性だ。

特性理論に基づいた性格検査では、私たちが外向型か内向型のどちらかだと仮定する。両方ではない、しかし誰でも両面を持ち合わせている。

パーソナリティーとコンテクストの相関関係に注目すると、私たちのアイデンティには首尾一貫した要素が存在している。ただしその一貫性とは、特定のコンテクストで首尾一貫しているということだ。

例えば運転している時に神経質な人は明日もそうだろうが、同じ人がリビングルームではズボラな人になるような。

個人の行動は環境の左右されるので、コンテクストから切り離して説明することも予測することもできない。

言い換えれば、行動は特徴だけでも状況だけでも決まるわけではなく、両者の相互作用によって生まれる。

 

迂回路の原理

人生のあらゆる側面において、そしていかなるゴールを目指そうとも、同じゴールにたどり着く道はいくつもあって、しかもどれも妥当な方法だということが一つ。

そしてもう一つは、最適な経路は個性によって決定される。

 

正しい道が一つだけあるように感じられるのはフレディック・テイラーやエドワード・ソーンダイクの影響が大きい。階層型組織での標準的な出世コースという発想は、テイラーが土台を築いた。

 

典型的な子供が歩き始めるまでには正常な成長経路をたどるはずだという前提は直感的に理解しやすい。ハイハイは歩く前に不可欠な段階だという発想は特定の文化の中で人工的に作り出されたもので、特殊な子どもたちの行動のサンプルを集め、平均して引き出された結果だ。この特殊性とは、西洋先進国の都市生活者の子供である。

パプアニューギニアのアウ族では赤ん坊はハイハイしない。代わりに座り込んで尻をひきずって移動する。

何故か?消毒されたフローリングの床ではなく、地面には多くの雑菌が居るので、幼児は段階を踏んで菌と接する必要があるのでうつ伏せは初期の段階では相応しくない行動であるからだ。

例えば、エスター・テレンによる幼児の自立歩行反射の研究のように。

髄鞘形成という生理的なプロセスではなく、大腿部の発達過程だけが要因ではなく、身体を持ち上げる筋肉が必要なために、筋肉の強度と体脂肪の量であった。すなわち身体的成長の割合をみれば自立歩行反射のスピードを予測することができた。

 

習熟する時間を重視する考え方もある。例えば入社や学校の入社や受験システムでは、年に一度しかない。

それに比べて車の運転免許や司法試験は何度失敗しても合格すれば免許が与えられる。

すべての生徒は異なったペースで学ぶとすれば、同じペースで学ばさせるシステムには大きな欠陥がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4章  在学中の人たちへ、もしくは、大学に行ってしまった人たちへ  

これまで見てきたように、勉強したり学校に行くことは必ずしも良いことばかりだとは限りません。何かが進化したということは何かが退化したことです。こうやって生命体は生きてきましたし、これからも生きていきます。

勉強することで、分けるクセや知識を増やす習慣ができてしまい、そのクセにずっと囚われてしまう人たちもいます。

 

分けようとするから、始まってしまう問題もあります。

小賢しい理性より大バカもいいんじゃない?

たとえば、はじめから分かんなきゃいい。

 

多くのことを分からなくても、それはそれで大事な生き方であると思います。

それでも分けたいクセがすぐに止められない時があります。そんな時は、どうせ「分ける」ならば、自分の外側にある知識よりも、まずは自分の気持ちや、自分の体や、自分の意識のことからはじめるのが大事なのではないでしょうか?

分かることが大切でこれがないと生きていけないと思っている人はたくさんいます。そんな世界にどっぷりと両足を入れてしまった私たちにも、片足だけは外に出す方法があるのではないかと思って、私はこれまで暮らしてきました。

経験が伴ったいくつかのアイディアがあります。 

大学に行ってしまった人ももう遅い、ということはありません。

現在において在学中の人や学校をやめたくない人には、どのようにすれば「分割病」を減らすことができるか考えてみましょう。そして、どんなリハビリをするのがいいのか?

個々が自分の歴史やクセにあわせた方法があるはずです。

 

温室の外でも咲くバラになるには 解決の仕方

一番簡単なのは、温泉にでも入って金銭のかからない生活でのんびりと暮らす、ということですが、これが難しいと思う人もいます。

そこで、これまで危ないものとして扱ってきた理性を使ったものや智性をつかった新しい方法や、その後には全体性を使う方法を探ってみたいと思います。

 

まずは理性的なアプローチ

その根拠は? と問う習慣

理論的に正しくても実際にはうまくいかないことがたくさんある。

「いのち」に係わると、こんなことばかりです。そして学問の象徴としての医学では、実はちゃんとした理論的根拠はなく、どれもが臨床的根拠しかありません。

科学的根拠を二つに分けると以下のようになる。

理論的根拠  理論を構築して薬や治療法を開発

臨床的根拠  実際に実験して有効性を確認する  統計的分析をして因果関係を推定する学問が疫学

そして風邪などの病気などを見てもわかるように、この理論的根拠さえ実は不確かなものでしかない。

肝心のなぜ病気が完治するのか、誰にも分からないのです。化学式や電子顕微鏡や分子式や遺伝子や微生物で説明しようとしていますが、それは説明でしかなく理由ではありません。病気は医者が治すのではなく、患者のカラダが自己治癒力によって回復にむかうことしか、分かりません。

しかし、この根拠を問うことは、根拠がわからないことの再確認と、目的を達成する確率を高まるための統計的経験を確認するには有効です。

 

情報の取り入れ方  主語は誰なのか

私たちの認識した情報はすべて背後の利害関係のバイアスがかかるので、TPOによって情報の意味が変わります。

この利害関係の明らかでない情報は取り入れる必要がありません。

誰がそういっているのか、についてスポットライトを当てるとバイアスの傾向がみえてきます。

警察なのか、政府なのか、新聞社なのか、学者なのか、見識者なのか、専門家なのか、ビジネスマンなのか。どれにも、彼らが自分でも気がつかない思考パターンを持っており、無意識のうちに導きたい方向性があります。

新たな情報を出すためにかかったコストとそれを捻出した組織があります。ですから主語であるスポンサーを知ることで、どの視点からモノを見たいのか見当がつきます。わかりやすいのはお金の出処です。企業なのか、税金なのか、特殊法人なのか、自治体なのか、ボランティアなのか。ボランティアだから安心だというわけではなりません。無料でもやるというのは、奥に強い動機と志向性があるので、普通の情報よりも数段強い誘導性が潜んでいます。

情報を受け入れるのにわかりやすい方法があります。

利益相反Conflict of interestです。利益がぶつかる情報源の組織の両方から情報を得るというやり方です。逆に言うと、利益相反する情報が見つかるまでは、新しい情報を信じないで、頭の中の冷蔵庫にしばらく保管しておくクセができると、食べてしまった情報に振り回されることが少なくなります。

 

数字に騙されない

タバコを吸うと肺がんのリスクが50%も高まる、という情報があります。

例えば、吸わない人の肺ガンになる割合が0.1%だとすれば吸った場合は0.15%になるということです

言い換えると吸った場合はリスクが0.05%高まるということです、2000人に1人増えるだけです

 

人が交通死亡事故にあうのは年間1000人だとすると、確率はだいたい1万人に1人なのでたった0.01%だといって安心してはいけません。

年間の交通事故死傷者数(118万人)を日本の総人口(12692万人)で割った「1年間で事故にあう確率」を0.9%と算出。

1-118万人/12692万人)で「1年間に事故にあわない確率」を出し、一生を80年と仮定し、「1年間に事故に遭わない確率」を1から引いて80乗して、その結果は53%。ということで、「人生で交通事故に遭う人はなんと2人に1人」になります。

 

夢の新薬。新開発の痛み止め薬を発売。2倍の効果!

2倍の効果の主語は何? 効くまでの時間、効いている時間、痛みの感じ方、効く人の割合などいろいろある。

 

夢の新薬 死亡リスクが半減する、ガンの新薬の開発に成功!

従来は100人中2人が死亡した薬が100人中1人になる新薬。2%が1%に減っただけ。これでも半減にいう看板に嘘はありません

 

分母を意識する   数(分子)ではなく割合で考える

すべての情報は認識された時点でバイアスがかかっていると書きました。このバイアスの一番の原因は、実は、自分自身です。自分の体験が各自の個性とも言えるバイアスを作り上げ、またそれに由来する早とちりがバイアスを強化させています。

早とちりの一つが数に誤魔化されるということです。どの情報も価値があることを数値を使って自らアピールしてきます。その時に、分子ではなく分母を見る習慣は効果的です。分母とは全体数のことで、それがわかると割合がわかるので、だまされる確率が減少します。

たとえばミネラルが2倍になったという砂糖の宣伝があったとしても、そのミネラルの量が全体の0.1%しかないのであれば倍になっても0.2%でしかなく、それならば他のもので補充した方が効果的だということもあります。

そして、余裕があればその分母も意図的に編集されて加工されているので、その理由を見つけてみるのも余興です。

 

隠されている失敗例 成功するTPOは限定的

成功例の裏には100の失敗例があると思って、情報に接することも大切です。

こんな大きな成功したという情報も、ある人がある状況である時に行った時に、起こったことなので、一つの要因が変わっただけで、そのような成功は起こらないケースが多いのです。

失敗例とはなにも間違いがあったのではなく、当たり前のことが当たり前にあるということに過ぎません。それよりも成功例というのが、特殊なTPOの時に起きた特異な例であることを知るのは、情報に惑わされない大事なことです。

 

比較 何と何を比べて%を出したのかに注意する   表層だけではなく深層も比べて偏った部分を取り除く

比較する時はまずは名詞にだまされちゃいけない。

例えば、

「軍隊を持たない平和な国になろう、コスタリカのように。」

と言った場合、この「軍隊」や「平和」という名詞が曲者。

確かにコスタリカは軍隊は無いのだけど、コスタリカ政府は2011年以降には、警察の中に国境警備専門部隊を持ち、その警備費は42000万ドルなので、仮想敵国である隣国のニカラグアの軍事予算8500万ドル(2015年は7160万ドル)の5倍を上回る。装備内容を見ればその格差は明らかで、片方は警備費と呼び平和のイメージを強め、片方は軍事費と呼び好戦国のイメージを与えるが、実際の状況はアメリカを含めた周辺国の加勢もあって、圧倒的にコスタリカが優位な状況にある。多くの国では軍隊が行う治安維持という軍事活動はコスタリカでは警察によって行われ、特別強襲隊と呼ばれる諜報活動を行う組織は、アメリカ軍隊との合同軍事演習に参加している。例えば、2010年にアメリカはコスタリカに7000人の軍人を派遣し、名目は麻薬取締だが狙いは周辺国に対しての軍事活動デモンストレーションをした。

スイスが永世中立国だと謳っているのも、そもそもは平和を求めてそのようになったのではなく、農地の少ない山岳国なので傭兵として現金獲得を中世の時代からしていたため、仕事を得やすくするための「中立」である。

表層の名詞を頼りにして比較をするといろいろな誤謬をうみだす。

次に比較する時には、対象物の深層にある文化、歴史、経済的結束、価値観を考慮しないと比較する者の導きたい方に誘導されるだけになる。

例えば、欧州内にある小国の平和・理念・社会保障国家にしても同じこと。16世紀以降の欧州の植民地的利益、制度決定権、EC欧州という殻に包まれているからこそ言える理想的幻想のことを取り除いてから数値化にして比較しないと、囲いの中にいる純粋な乙女は理性的なキレイゴトをいくらでも並べることができる。なぜならば、「幻想膜」と私が勝手に呼んでいる壁の内側では実際にキレイゴトの世界が実在するからである。この膜を維持するコストや無茶な暴力や洗脳教育や努力や苦しみには、想いをはせないままで。例えば北欧諸国がどうやって儲けているのか調べてみるのも一興だ。

ちなみにこの膜とは文明都市cosmopolitanと大脳皮質との複合によってできている、見えない膜のこと。

 

因果関係を作ってみる

因果関係の誤謬

因果関係はこの世にないという話をしました。しかし同時に、因果関係を作ることが大脳皮質の特徴なので、事実に係わらず理性は二つの間を結ぶことでしか世界を認知することができないという話もしました。ですから因果関係があると仮定する世界も大事にしましょう。

この文章を書いたり読んだりしている時は、私たちは意識を使って理性を使ってコミュニケーションするしかないのですから。

 

因果関係には原因と結果の二つがあるのですが、どちらが原因でどちらが結果なのか区別できないことも多くあります。

原因と結果が入れ替わりながら、時間の流れと共に好循環や悪循環となっていることもあります。

では、時系列ならば、因果関係が成り立っているのか?

たとえば、次のような時にはどうでしょう?

「点滴を施したら一週間後に死亡した。」

可能性 

1 点滴の悪影響で死亡した

2 点滴の好影響で死亡するまでの時間が長引いた

3 点滴の影響はなかった

 

時系列の出来事を@のように、原因と結果として因果関係を結んだり、Aのように、原因と結果の関係を逆にとらえて思い込んでしまうことがよくあります。しかしそれだけではなくBのように、点滴をしていなかったらどうなっていたか、という仮定も考慮するのが因果関係の罠から逃れるコツです。

 

因果関係を探す時に気をつけること  相関関係と因果関係の違い

対照群(比較されるもの)はあるか?

時間軸を考慮しているか? 追跡調査をしているか?

交絡因子(他の真犯人)はないか?

 

複数の要因を考える。

多くの病気は多因子疾患で多くの原因が複雑に絡み合っている。

インフルエンザは単因子疾患に見られるが、免疫力のさがった他の要因も考慮に入れる。不顕性感染といってはっきり症状は示さず、自然に治っているケースもある。

 

因果関係をチェックする方法  頭を整理する PICO

P People        人      何を対象に

I Intervention    介入       何をしたら

C Comparison     比較      他の何と比べて

O Outcome       結果     何がどうなるのか

これら4つの視点で疑問を明確化し、研究(実験)によって、その検証を行えば、介入で想定した要因と結果として現れた事象に、何らかの関係があること明らかにできる。

 

合理的な意思決定

エビデンス 根拠   情報

バリュー  価値観  文化、好み、同調圧力

リソース  資源   金、モノ、時間

の3つの要因のバランスで決まる。 

大切なのは、「何のために?」という目的の確認   見かけの目的だけではなく、本来の目的を自問自答する

 

直感ヒューリスティック heuristicな判断も時には利用する  

経験知による判断、直観、勘   瞬間的に結論を出せるのが強みなので依存はせずに時には利用する

参照 4つのレベルの直感

 

行動の注意   真の目的と代理の目的   本来と当面

当面の目標を本来の目標と間違えているケースがある

エンドポイントを決め、その途中の代理ポイントを設定して実践にあたるのだが、代理ポイントが良ければ真のエンドポイントも良い結果とは限らない。

 

行動の優先順位の基準

優先順位は遠位よりも近位からはじめ、そして長期よりも短期のもの、難しいものよりも簡単なものから、はじめるというのが基本だ、と一般社会では教育されます。

しかし、これだと「そもそも」という本来のことではなく、「とりあえず」という当面のことに軸足を置いてしまっていることです。

近くのものにすると、本来の力を体の奥底から引き上げることができず、かといって、遠いものにすると、己の力の無さに打ちひしがられます。

ですから基準を一つにするのではなく、遠くと近くという相反するものを同時に持つことがコツです。はじめは慣れていないので難しいですが、頭の隅においていけば、すこしずつコツを掴むことができるかと思います。

参照  想ったことは現実になる

 

次に智性的アプローチ

負を受け入れる

学校ので習うことは一般化と法則性です。これはなにかというと、曖昧であったことを理路整然にすることでもあります。また、二つあるものから、合理的なものを一つを選択することでもあります。

すると、ここで行われていることは、選択しなかった一つを捨て去る、ということでもあります。

ところが、「全体性」ということを考える時には、この捨てたものを拾ってまた取り組む必要性が出てきます。だって範疇が「全体」なんですから。たとえば、生命体の一生も前半の幼児期と青年期ばかりではなく、後半の成熟期と老齢期があるのですから。成長ばかりではなく、いかに「土に還る」かということも考えなくてはなりません。

いや考えなくても、体や自然や時間がこのメッセージを伝えているので、こちら側は静かに耳を澄ませるだけです。

参照 智性の扉を開ける キク村・弱さが宇宙の命 マラカイボの侍 南アフリカ 太平洋の中で 

 

多層化

カラダの声を聴く時に重要なのは、奥深くからやってくるメッセージを待つという準備です。聞こうとするのではなく、相手に任せてそしてゆっくりと時が来るのを「待つ」ということです。

浅瀬にある五感から伝わってくる信号ばかりではなく、深みの奥底から伝わってくる「流れ」にも身をゆだねることだと思います。

こんな時に浮かび上がってくる形が「多層」です。

お金、モノ、考え方、時間、空間とどれもが単層ではなく、複数の層を持っていることに気づき、TPOに合わせた層にその度に向き合うのがコツです。

表面の単層と奥にある深層を同時並列で受け入れ、応対して、複層において同時に行動するのが、成熟した大人の生き方ではないでしょうか。

参照 伍流の暮らし方  居間5の話  4つの直観認識  コルディレラ山脈・雲と意識が生まれる瞬間

 

空間と時間と美学

              

 

 

ヒトの一生の視点

 

 

区分期

細胞数

アーシュラマ

1と2

生活

他との繋

哲学

美学

観点

主要基準

幼児期

2→

学生期

1→2

経験

共感

カオス

成長

主観

感情

青年期

60

家住期

論理

言葉

二元論

正義

客観重視

理性

壮年期

60

林棲期

2→1

術・道

陰陽一致

相反一致

主観=客観

智性

老年期

60兆→

遊行期

ボケ

非分化

一元論

往生

主客交代

老人力

生前死後

0

死去

1も2も

 

 

空論

再生

大きなもの

 

 

 

時間と空間のシンボル

 

 

 

  空間

  時間

  自然

  

  

身体

  美学

   周期

  T

  /沙漠

  前史

  厳格

  

  

 腸

  叡知

 10億年

  U

  

 縄文

 力強

  

  青年

心臓

  共感

  50年

  V

  郊外

  江戸

  恩恵

  

  

辺縁系

  豊饒

   1年

  W

  都市

  近代

  去勢

  水

  乙女

大脳皮質

  /

  1秒

  X

中心・周縁

   今

  存在

  

  

細胞

 いのち

   瞬間

 

 

二つの間に立つ もしくは同時に二つを行ったり来たりする

答えをすぐに出したくなる時があります。

白黒をはっきりとつけたくなるときがあります。

こんな時は、「この場面で「選ぶ」ことって本当なのかな?」と立ち止まることも必要です。実はこれが、智性的に考える習慣ににつながります。

わかりやすい二分法を大脳皮質(理性)は好みますが、自然界は二分できないことで溢れています。

正確に言うと分けられないものを強引に二分しているのが問題なのです。

こんな矛盾しているものに、向かい合う時に必要なのだが、「白黒つかないことを気にしない力」です。

参照 二つの間  インカの智慧  偏見をなくしたあとは未知への探索

   考え方を進化させる  気持ちを鍛える

 

分けないで留保する    ペンディングというぶら下がり

新しい情報がインプットされると、意識はすぐにそれを今までの習慣に従って分別して、これまでに作ってきた「カゴ」の中に入れて整理しようとします。パターンとよって振り分ける籠です。

ですが時には、そこで振り分けたり、二者択一の判断をせずに、そのまましばらく横においておく、ということも智性の世界では意味があります。

緊急事態にはそんな余裕がありませんが、敢えてゆったりとして時間を作って、その間は、選択の判断をせずに保留するという訓練が、この世を深い層で理解する時には有効です。

英語のpendingのことでラテン語源で、ぶらさがることです。自分であれこれと判断しないで、重力に任せたままにして、そのままにしておく、という意味です。

よく先延ばしがダメだという議論をリベラル系の人がします。何故ならばリベラル系の人は意識が高いので、常に意識を活動させるため、意識のお仕事である二者択一の機能をオンになってしまうので、ペンディング(置いておくこと)は「悪い」ことと無意識の内に信じ込んでしまっている傾向が強いからです。

しかし、実際は保留というのも立派な選択肢の一つなので、なんでもすぐに結論を出すのではなく、体内で腑に落ちるときまで「待つ」ことは次のステージに行くには重要です。

参照 既知のものを未知にする 千里ニュータウン 偏見をいっぱい持とう 心を取り戻す術

 

変化を好む者、嫌う者

変化を怖れる者、現状に利権がある者、変化に対応できない者、未知を恐がる者は、できるだけ変化しないように行動する。

また、変化を嫌うのではなく好む傾向が強いのは、現状に満足していない者、冒険心にあふれる者、好奇心が旺盛な者である。

真実が各自によって違うのは、その人がどのようにこの世を理解したいのかに違いがあるから。各自の納得の仕方が違うのだから、それに合わせて事実は真実に姿を変える。そしてその各自の真実に対応する理論や言い訳や欺計や偽造や騙詐はすでに用意されている。自分の立場を変えたくないものは、それらのどれかを選択して、条件反射にすればよい。

どちらかの選択に飽きたものは、海の潮汐のように、どちらも受け入れればいい。時に変化を好み、時に変化を嫌う。表面的な一貫性なんかにこだわってしまうと硬直化してしまう。どうしても一貫性が好きならば、流れによって好みを変えるという一貫性にすればいい。

 

リスクを友達にする

白黒はっきりしけたがるのは、脳の不安が原因です。大脳皮質の細胞の構造はコンピューターと同じように、オンとオフの二進数の集積なので、いつもどちらにしたがってしまうのです。そうしないと落ち着けない構造になっているからです。だから答えがわからない時に、内容よりも納得できる答えがあれば、そちらに飛びつく習性があります。何かしら拠り所になる答えがないと安心できない仕掛けになっています。これを防ぐためには二つの間にいても不安にならない練習をするしかありません。

恐怖に左右されない立ち位置を確立する訓練です。

 

意思決定の基準 リスクと利益(ベネフィット)を並べて天秤で判断する

車に乗るリスクってどれぐらいか考えたことはありますか?

平均寿命を80年とすると二人に一人が交通事故に遭うリスクがあります。しかし私たちはこのリスクよりも便利さを優先させた現代社会を選んで暮らしています。

みんな自分にとって都合の良いほうへ誘導したいがために、リスクの過少もしくは過剰を強調して情報を伝えることがCMをはじめとして当たり前の世界になりました。

ですから与えられた情報の反対側を考えたり、反対の立場の人に聞く習慣も大事になります。

 

薬は医者のさじ加減、ということわざがありました。ヒトにとって一日1.5リットルの水は生きる上で重要ですが、一度に8リットルの水を飲むと死にいたります。

なんでも毒にも薬にもなります。逆に言うと、すべてのリスクにはベネフィットがあると言えます。

ところで、効く薬よりも副作用のない薬を好む日本人は多くいます。日本人は西欧に比べてリスク回避を優先する傾向があるのかも。

どんな時にリスクを過大視するのでしょうか?  

不安や恐怖を感じる時の条件

1 意図していないのに巻き込まれる      空気感染>喫煙

2 不平等な分布               赤痢>おたふく風邪

3 予防策をとっても逃れられない時      マラリア> エイズ

4 馴染みがないこと、新しい原因       エボラ出血熱>交通事故

5 天然よりも人為的な原因から起こる     農薬>トリカブト

6 隠れていた(潜伏期間)損失        放射能による疾病>インフルエンザ

7 子供や妊婦に危害を引き起こす       サリドマイド>アルツハイマー

8 恐怖を呼び起こす             エボラ出血熱>一酸化炭素中毒

9 匿名よりも特定できる被害者        具体的な情報>噂   

10 信頼できる複数の情報源から矛盾する報告  政府✕NPO>政府○NPO

 

人工衛星の視点が陥った罠と解決策

罠というよりも、単なる穴ボコなので脱出するのはそんなに難しくはありません。

シンプルな方法があります。

現代の常識を大切にしながら、それが全てではないということを知るだけです。

これで大丈夫です。

人工衛星の視点の問題は、単なる仮の話なので、たまにはそうやって太陽系や地球を眺めるのも面白いけれど、実際に見るときは自分の眼で月や惑星や星を見るのだから、そちらを大切にしてあげるということです。

穴ボコにいるからこそ見える景色や考え方もあるので、中に入ってはそれを楽しみ、時に穴ボコから出て、自分の眼や心や体が感じる世界を大切にするのです。

機械や理論を考える時は穴ボコの特別ルールを使って考えを進めるのもいいでしょう。

次に生命や、全体や、地球や、超時空間の時は、穴ボコにいても一面的な方法しか出てこないので、穴ボコから出て心臓や血管(動脈・静脈)や腸で感じるのがお勧めです。

穴ボコの外でははじめから自由や平等や平和や理想は一つも与えられていません。

ですから無いことを批難するのではなく、無いことを楽しむのが現代の都市生活の問題を解決するコツです。

参照 マラパスクワ・腸から見た世界

 

大学生が他者を踏みにじる方法と解決策

学問を修した者にかぎって他人を平気で踏みにじることが多々あります。

どうしてこんなことが起こるのでしょうか?

これには、どんなメカニズムが隠されているのでしょうか?

社会的にも認められて成功した学問を修めた人格者は善意を持って行動しているのに、彼らの価値観の外にいる者にとっては、踏みにじられている感じてしまっているのです。

 

例えば、シュヴァイツァーSchweitzer,Albertの「生命への畏敬Ehrfurcht vor dem Leben」です。

密林の聖者」と呼ばれ、1952年にノーベル平和賞受賞した彼が一番最高の価値観として示した原則です。

これには多くの解釈がありますが、「患者の生命を可能な限り死の力から解き放ち、長させる」ことが鉄則である、と彼は信じていたように思われます。

このどこが踏みにじりと関係があると言うのでしょうか?良い事ばかりのように聞こえます。

これは「give & take」の発想にも共通点があるように思われます。

共通点は、どちらも主語がIで、Youの意見や文化や慣習や環境や歴史が考慮されていないところです。

患者やtakeされる者の気持ちが彼らと同じ目線で聴かれてはいません。彼らの死生観や霊魂観や家法や覚悟や願望や美学や誇りや経済的状況が何一つ含まれていないのです。Givetakeもわたしの都合です。わたしがgiveしたものは本当にあなたに必要なものなのでしょうか?

量的生命の技術的引き延ばしへの努力は大切なことです。しかし、そこに生命の窮極的意味や人間性の証しを見出そうとするところに、問題があります。

こんなところを第一にしようと信じ込んで安心しようとするところに、現代の人間の生の「分裂」と共に虚無性があるとはおもいませんか?

 

自分の価値観を自分に適用している間は問題が起こりませんが、この価値観を違う世界で生活している人たちにいくら「正しい」からといって、ちゃんと向かい合い、時には何世代もかけて理解しあおうとするプロセスを経ないのならば、それは「踏みにじる」行為だというのは、被害妄想癖の強い誇張された偏見なのでしょうか?

 

文明の中で生まれ育った者や学問を修めた者は、近代以降の西欧人類史において、自然を「開発exprolation or developmentEntwickung)」することは直ちに人間の進歩を意味していました。 そして、「開発」は人間的知性の「啓蒙enlightmentAufklärung)」に対応して、環境の変革は、無条件に人間を幸福に約束するものと考えられていました。またこれらは、自然の「発展Evolution」の新段階として見られていた時代です。 

これに対して、文明そのものを悪とみなして「自然への還帰」を主張する人も多くいます。

しかし、啓蒙家ルソーはそれは不可能だといいます。『人間不平等起源論』【原注9】

自然への還帰は、実際には不可能であるし、人間の本性に適うことでもない、それに今日では、もはや帰るべき自然の状態はどこにも無いと反論しています。

そんな人間に文明と学問を勧めるのは啓蒙派、そして自然への回帰を勧めるのは野生派?です。

 

両方の持つ共通点は、「自己意識」による判断に対しての強い信頼です。

この自己意識のメリットは一つのものを二つに分けことなので、常に二者択一の答えを求めてしまいます。

しかし、「生命」のような問題に対処するには、別の基準も並列して思考する必要があります。

一言でいうとカラダの考え方、二言でいうと循環器系の波の思考法と、消化器系の溶解の思考法の導入です。

波の思考法とは、栄養分を体全体に伝える時に使うやり方で、血流は血管を通してオンとオフの二つに分けて循環させるのではなく、心臓の収縮・拡張の機能にしたがって、波の力で全体に伝えるものです。

次の溶解の思考法とは、胃腸が食物を消化するように、異物を溶かすして自分の一部にするプロセスの思考法です。全てのものは分けられることなく融解しており、なおかつこれらを吸収するのは「自分」ではなく、「他人」である腸内微生物によってでしか自己の一部にならないと言う体内の事実を基にした思考法です。

 

「分ける思考法」だけではなく、これらの二つがに新たに加わることで、踏みにじる者と踏みにじられる者という関係から、どちらも必要でありどちらの立場にもなれる流動性を得たり、すべてのモノがつながり影響しあっている実感が生まれてくるのだと思います。

 

先ほど話していた「文明と野生」の問題に戻れば、学問だけを重要視したり自然への回帰を実践するだけではなく、一年は365日あるのですから、その中で自分に合った配分を見つけて応用するということです。また一日は24時間もあるのですから、6時間は自己意識を基準にして仕事や学問をし、6時間は神経系を基準にして洗濯・掃除・食事・散歩をし、6時間は循環器系器官を基準にして、団欒・のんびり・呼吸法をしながらボーとしたり・瞑想し、6時間は消化器系器官を基準にして、ゆったりと休んで、全体でバランスをとることです。

現代及び将来の人間の叡智と気楽さと勇気と欲望と願いと実践によって、進む方向が決まっていきます。

参照   叫び・モシ  メトロポリス以降・良いことをしたら子供が苦しむ  マンハッタン

 

自己意識をなだめて、安らぎを与える

起きている時には意識して行動を選択する機会が多くあります。しかしこの意識が働きすぎると、血の流れは交感神経を中心にしてしまい、モノの捉え方や理解の仕方に偏りができてしまいます。緊急事態にはこの自己意識の発動が効率的であり効果的で良いのですが、免疫細胞やホルモンや酵素(エンザイム)の立場から見ると、早くリラックスすることによって生成することができます。

 

センサーを意識から身体(内臓)にする呼吸

呼吸法で視床下部(体の生存中枢)の出力で下垂体(内分泌オーケストラの指揮者)にホルモンと神経シグナルを送り、自律神経を交感神経から副交感神経に切り替えることができます。

緊急事態の準備と実際の行動(闘争・逃走・摂食・性行動)から、リラックスした状態になると副交感神経が活性化し、涙・唾液・汗・血圧・心拍数・体温・膀胱・腸が安定します。

 

学問などによる思考により、血行が内臓よりも脳に偏ってしまっているので、バランスを戻すことが必要です。自律神経で言うと、いかに交感神経をオフにして、副交感神経をオンにするかということです。

呼吸法によって、副交感神経が働き、脈拍は下がり、血管は緩み、血圧は下がり、流れは神経管から内臓に移ります。

体を適度に動かすことによって、先端の毛細血管に血が巡り、代謝を促します。

今までは無意識のうちに反応していた形、音、匂いに対して、自分で指摘することができるようになるので、もしそれらが日常生活の中で必要のない反応ならば書き換えることも可能です。それによって自律神経の働きが自動的にオンになってしまうことを止めることができます。無意識だった考え方の癖(パターン)や条件反射を止めることによってニュートラルの状態に戻すこともできます。

 

参照 呼吸法 躰の聲を聴く 興津・時間を友達にする 死と再生 あの世から見る・グアテマラの市場

   人から習う方法  気持ちを鍛える  いのちに至る順番 コロン山・歩く 瞑想

   この世はフリー 壁の外へ  パタゴニア・ヒトは粘土細工   北極海のションベン 

   シベリアのカラス  台所  寝室 城の中のプリンセスへ ブルックリンのカーニバル

 

未来の大学

大学で教えることをそのまま信じた人たちの行動で、この世は誤謬で一杯になってしまいました。

ヒトは事実から作った法則を探求していますが、それはどれも不完全で、実験室のように限定されたTPOの中でしか同じ因果関係を繰り返すことができないものばかりです。大袈裟に言うと地球上では成り立つ法則も宇宙線の中では通用しないモノもあります。

囲われた空間の中で鉄のような重たい金属を手から放つと、落下位置と時間を言い当てることができます。しかしその計算式は温度や電磁波や気圧を無視し、地球の上だけでのみ近似値が繰り返されるだけです。

どんな法則を使ってもこの手を開いてタンポポの綿毛を宙に離した時に着地時間と着地地点を予測することができません。隣の犬がワンと吠えれば、綿毛はまた宙に漂い始めてしまいます。

 

理性は全体の中の一部でしかないので、理性の分析力と一面性だけから得た見解は、全体には通用しません。

ここまで見てきたように、植物を植林しても地球の酸素は増えず二酸化炭素は減りもしません。大学の実験室では植物の光合成にスポットライトを当てて、酸素の生成を証明しました。しかし歴史の中で誰一人の生物学者も植物の一生を通して、どれぐらいの酸素を生成し、どれぐらいの二酸化炭素を吸収したというデータを取った研究者はいません。確かに植物は太陽のもとでは酸素を生成しますが、雨の日は二酸化炭素を生成します。また成長期には二酸化炭素を吸収しますが、終生期には二酸化炭素を排出します。

植物の一生というサイクルで見てみると、酸素を生成しないことはデータを採らなくても実は簡単にわかります。

植物はCOを吸収してO2を排出したのですから、C(炭素)がどこに行ったのかを見ればわかります。

土や空気に運ばれたり戻ったのでしょうか?それならば植物の下の土にライターを近づければ石油のように燃えてくれるはずです。でもそんなことは起こりません。

ではどこにいったのか?

それは植物の根、茎、枝、葉、花、実となったのです。Cが植物のご飯なので、それを食べてその分だけ体を大きくしていったのです。

そしてその植物をヒトが食べることでそのCは腸内で微生物によって消化されCO2になります。

また老木は枯れて、キノコや微生物のご飯となってCはO2と化合してCO2になって大気に戻っていきます。また微生物の食事になる前に人間に切り倒されて柱や家具になったり炭になったり、単に燃やされてどのCCO2に戻ります。46億年の歴史の中では、いや100年単位の時間の中では、植物は酸素も二酸化炭素も生成するのではなく、ちょうどプラスマイナス0です。植物は酸素を生成するためではなく、ただ地球の命と命をつなぐ媒介として暮らしています。

 

高等教育では、自己意識と意識ができることには限界があることから教えはじめるのがはじめの一歩には最適だと思います。

これがこれからの大学の役割です。

物理学はニュートン力学が常時において通用するものではない事をわかってもらって、それでもニュートン力学の大切さを講義する。

言語学は言語では多くのことを伝えることができないことを体験してもらって、それでも言語学の大切さを講義する。

ヒトの意識の特徴をよく見て、意識のできることは意識を充分に利用し、意識のできないことは何かを吟味して、できないことは他のやり方でそれに向かいあうのが、これからの生き方だと思います。

そのためのヒントは循環器系器官と消化器系器官、そしてこれらの特徴を理解する神経系器官の柔軟性です。

 

そして、最後に 

自然の中で人と遊ぶ

自然の中で自然と遊ぶ

自然の中で身を自然にゆだねる

そしてただ静かに「待つ」

 

あとがき

ずっと足先を踏まれている心象があった。それは自分の右足の踵が自分の左足の先を踏んでいる感覚でもあった。

また踏んでいる者も悪意があるのではなく気がついていないケースが多いことが分かっていたから、そのうちに気がついてくれるだろうと思って疑わなかった。

ところが、踏んでいる本人がだんだんと病気になり始めた。踏まれているのは本人のカラダでもあったから。

こうなれば「痛い!」と、なんとか声をあげるしかない。しかし、声に出すまでに時間がかかった。どう発声したら良いかわからなかったから。

そして、まだちゃんと発音ができていないので、踏んでいる自分自身という本人に伝えることができないでいる。 

 

「大学」の代わりに、アメリカ、資本主義、西ヨーロッパ、書斎、ビルディング、社会主義、民主党、民主主義、メトロポリタン、エリート階級、大組織、財団法人にしても話が通じるように書いてみました。みなさんも好きなものを「大学」の代わりに入れてみて、あなた自身の話を私にも聞かせてください。

 

先週に漫画を読んで、夏目漱石や森鴎外も文明に対して同じような感覚と苦しみを持っていることを知った。

そして今日、知ったのだが、インドのガンジーは子どもたちに勉強をさせなかったのだそうだ、まだその理由は知らないのだが、きっとこのエッセイの内容と類似点があると勝手に思っているのだけど、どうなんだろう。

ガンジーの長男は酒と女に溺れイスラム教に改宗したのだそうだ。ガンジーとその長男の両方の気持ちが沁みる。