正しいことをしたがるのはなぜ?

 

 

ヒトは正しいことをしたがる。

何故なのか?

こんな事を考えるきっかけは、カラダがあぶなくなってきたから。

条件反射を大切にする脳を大切にするのは理解するが、合理的ではないし、そろそろ自分の首までも締め始めた。

正しさを求めていたら、いつの間にか自分自身の健康が蝕まれてしまっている状況が始まっている。

「意識」で時間と空間を埋め尽くそうとする現代。都会生活、機器の利便性、時間に追われる毎日。

カラダには必要なのは意識的ではない時空だ。何も考えなくても、ただ身を任せておけば元気でいられる時空だ。

「いいこと」をしているつもりでも、実は他人に害を与えたり、病気になるのではたまったものではない。

そこで「正しさ」の裏の顔にも手を差し伸べて、自らの健康を取り戻そうとするのが、この度のトライ(エッセイ)となる。

 

目次

正しさの基準      生存、効率、情、理性

正しさの方向性     サバイバル 条件反射 困っている人を助ける 理念

 

理念としての正しさのデメリット   現実のやまい

 

正しさの作り方  メカニズム

習性 過剰一般化   あなたの正しさや常識や合理性がこの世をダメにする。

恐ろしさ

 

どういう人達なのか?

ナルシズム  ヒーローイズム

意識を常に使いたがる

深層心理

 

正しさの使い分け

自分、家族、地域、インターネット、SNS     インターネット用の自分の割合を減らす

 

 

正しさの基準

正しさとは人間の特有なことなのか?

まずは、正しさの判断の基準と、正しいことを選択したことでどこを目指すのか、について考察することで、正しさの正体に近づいていきたい。

 

人前で個体数を増殖させるセックスをすると罰されるのに、核兵器をはじめとする破壊物に関わる発明をしても誰も罰するどころか、逆にノーベル賞という名誉と金と称賛が与えられる。

何故このようなことが起こるのか?

 

ヒトが正しさを求める目的とはなんなんだろうか?

正しさの基準にはどのようなものがあるのだろうか?

 

2つから一つを選ぶという判断する時に、なぜそちらを選んだの?

危険だから

すきだから

きらいだから

安心だから

不安だから

理由はいろいろあるけれどが、いつもある基準があって選択している。

 

まずは生きられるか、否かの基準がある。サバイバル、

マインドにとっては安心できるかどうかというのも大事な基準である。

また大脳皮質にとっては効率的であるかどうかも大切な基準だ。

 

きれいきたない  内側、外側

 

 

基準はその時々で変化するけれど、あるTPOの時には一つの基準にするのをヒトは好む。(基準を持たないという場合も含めて)

どうしてなんだろう?

 

それには脳の仕組みによって説明する方法がある。

 

脳ができることとは、なんだろう。

これはちょうど暗闇にスポットライトを当てて、明るくなったところを分けて、ラベルを貼り付けることだ。

これが多くできると知識がある、と社会的には評価される。

言葉を使う世界では、言葉がモノゴトを区別して対比させている。

一本の光線を七色に分別させるプリズムのように。

 

ポイントはまずは範囲を決めなければ何事も始まらないということだ。

正しさも、囲いを作ってから生まれてくるものなので、その囲いを知ることから始める。

 

それは「正しさ」にも領域があり、領域が変わると、正しさも変わるからである。

1生命体の存在に関する領域

2生命体の効率に関する領域

3意識の状況に関する領域

4意識の理性に関する領域

それぞれの領域にそれぞれの正しさがある。

 

1生命体の存在に関する領域

サバイバルできるかどうかどうかの基準で正しさを選択する

水があるか?温度が適切か?生きていけるのか?

 

2生命体の効率に関する領域

効率的で便利で快感であるかどうかの基準で正しさを選択する。

自分にとってメリットがある成功した結果を積み重ね、それをパターン把握という便利さ

条件反射

 

3意識の状況に関する領域

困っている人がいたら助ける

社会よりもまずは自分のことから始める

TPOによって正しさの基準が変わる

 

4意識の理性に関する領域

理性を使ってできるものを目指すという信念(理念)を基準にした正しさ

平和、公平、平等、自由、博愛

 

理念の正しさのデメリット

実は、この4番目に問題があり、これを3番目の領域で無意識の内に都合の良いように使うのが現代で癖になってしまっているのも、わざわざ自分から苦しみの世界に突き進んでいるようにも見える。

絶対的な正しさを妄想して、それで自分だけではなく、他者までも縛ろうとしてしまう意識と無意識のタッグ。

このエッセイではこの問題についてスポットライトを当てるのが目的だ。

 

 

正しさの作り方

正しさの作るためには、「囲い」を作ることからはじまる。

まずは囲いがないと、正しさは安定化せずに、常に悪との間を行ったり来たりして流動的になってしまうからである。

この囲いという枠組によって正しいことと悪が決まり、概念が言葉になる。

しかし、枠組みの中では良いと評価されたことも、外から見れば悪と言われる。

例えば、戦争、アニメでのガンダム、ガミラス、デビルマン、009

映画のバットマン・リターンズ、ダンス・ウィズ・ウルブス

どれも、枠組み(空間・時間)の大きさを縮めたり、逆に拡大したりするだけ正義があっという間に悪に転換してしまう。

我が同胞を守るために相手を殺してくれるヒーローはこちら側にとっては正義であったとしても、相手側から見るとそれは鬼でしかない。向こうには向こうの正しさの必然性があるからである。

 

たとえば、時間の枠組みを変えるというのは、

国境の町で暮らしていたら、今朝がたに隣国からミサイルが打ち込まれ、自分の娘が死んだので、これからはこの地域を守るためにミサイル基地を破壊するという正義がある。

しかしこの3日前には、自国の防衛隊に属している息子が無法で越境してきた隣国の子供に法律に従って警告なしに射撃して乱入を防いでいたという事実があるとしたら、隣国の殺された子供の親たちは警備員に報復するという大義がある。

しかし、この1週間前に、隣国の子供たちが密入国して、自国のマンホールを盗んでいくという事件が頻発していた。

しかし、一ヶ月前には・・・。

しかし、20年前の父の代では・・・。

しかし、40年前の祖父の代では・・・

 

イスラエルとパレスチナのように4000年にわたる歴史をはじめ、あちこちの境では、このようなことが繰り返され、時間軸を変えると、正義と悪が入れ替わる。

 

次に、空間の枠組みをかえると、たとえば、

慶応11年に坂本龍馬が近江屋で多勢により殺された。現代から見れば明治維新につながる坂本の働きを見ると、彼の方に正義があり、殺したものは悪の暗殺者である、という見解がある。

しかし、空間を京都に拡げると当時の行政である幕府から見れば、坂本は体制を崩壊させる悪となり、次に空間を日本に拡げると変革を必要としていた者たちにとって坂本に正しさがある。

しかし、空間を極東アジアに拡げると、坂本は武器商人でもあるグラバーの資金と武器によって被植民地であるアジアの国を窮地に追いやる悪である。

しかし、空間をヨーロッパまでに拡げると、400年をかけて世界を植民地にしている流れの中で、イギリスにとって坂本には正義があるという見地に立つ。

 

また微生物の規模で見てみても、酒造場では酵母菌に害のある酢酸菌や納豆菌を排除することは正しいことであるが、村に空間を拡大すると、酢造場や納豆生産場ではそのような排除は正しい行動ではなく、正しい行動は空間を拡げたり縮めたりすることで、真逆になる。

このように空間の枠組みを変えるだけで、正義と悪は入れ替わる例はあちこちで見られる。

 

正しさという抽象性の性質

正しさというのは抽象性的な概念である。だから見えるものではない。もし見えているとしたら、それは正しさのシンボル(象徴)としてのカタチであって、正しさそのものではない。

 

抽象的と具象的にはそれぞれの利点と欠点がある。

抽象性はわかりにくいが、それ故にぼんやりとしているという良さがあり、

具象性は、わかりやすいが、わかりやすさとはこれまでの経験や判断の再現でしかない。

 

抽象性のデメリット      わかりにくい        メリット ぼんやりと把握する

具象性のデメリット      次の扉が開かない      メリット わかりやすい

 

具象性に固執するのは、未知の体験をしたがらない過保護なお子ちゃまのアプローチである。

のに対して、抽象性に固執するのは、冒険心は旺盛であるが、水先案内人のいない迷い子になるケースが多い。

 

これが抽象性の習性であり、抽象性を語る時には、水先案内人を探すか、もしくはその内容をちゃんと分析して個別のケースに対応することが必要となる。これがはじめに「正しさ」を4つの領域に分別した理由である。各領域への対応が違うにもかかわらず、同じ正しさでまとめてしまっては混乱をきたすからだ。

この危うさを指摘するのが、このエッセイを書く動機となっている。

つまり、4番目の領域の正しさを3番目の領域のルールで扱ってしまうことで、これがこの世の混乱を助長し、良きと思ってやっていることが他者(隣人、自分のカラダ)を平気で排除し、その本人の健康にまでも影響を与えてしまっている。

 

そこで4番目の領域の正しさの特徴を見てみよう。

過剰一般化、過剰具象化

4番目の領域の特徴は、過剰一般化と過剰具象化だ。この2つを使って、この世を判断して、それを他者にも強要する。

100の要因があるもの(病気、天気など)に単純な一つの因果関係などあるわけがないのに、

 

過剰一般化を産み出す方法の一つは、「時空を別々にして、そこで正しさを求める」というやり方がある。

時空を時間軸と空間軸に分離させて、その中で因果関係を見つけようとすることだ。

時間軸を排除して空間軸だけで法則を作る方法としては、ラディカルなことを求める手法がある。

川の流れの全体像である、水源地から海に至るまでの状況の変化を考慮するのではなく、時間軸を排除するために、一点でしかない水源だけにスポットライトを当てて、そこにあるものを分析して法則を作り出すという手法である。

たとえば、ヒトでいうと個人の特徴を環境よりもDNAの特質を重視することだ。ニワトリと卵のならば、卵の成分を分析することで特徴を見つけ出そうとするアプローチである。

これらにはその後に起こる外界からの百の要因がどのように影響を与えるかについては未知数でしかない。たとえば十の要因の組み合わせだけでも(10!)3628800通りがあり、二十では20! = 2432902008176640000

百では100!= 93326215443944152681699238856266700490715968264381621468592963895217599993229915608941463976156518286253697920827223758251185210916864000000000000000000000000

という天文学的に数になり、これでは法則性を見つけることができないので、要因をできるだけ減らすことが法則を見つけるための必須条件になる。これがこの世のおける「法則」の限界であり、過剰一般化をしなければならない宿命でもある。

一般化という法則は、これからいくらでも見つけていけるが、常に要因を減らすことを条件とする。

 

 

もう一つの時間軸を無視することで、過剰一般化を作り出す方法は「比較する」という手法だ。

あちらこちらと比較することでそこに共通点を見出して法則を作り出すという比較学の陥る穴であり、そこから生まれる「正しさ」で他者を押し切る便利な手法でもある。

 

例えば、時間軸を「現代」に限定して、ホモ・サピエンスとゴリラを比較した場合は、

「ゴリラは、群れの仲間の中で序列を作らないという特徴を持っている。喧嘩をしても誰かが勝って誰かが負けるという状態にならず、じっと見つめ合って和解する。」と、ある関西にある大学長の説。

そして、

「これに対して、多くのサル(ゴリラ以外の類人猿も含まれるように思われるがはっきりしない)はゴリラとは正反対に、勝ち負けの世界を作り出す。サル社会は純然たる序列社会で、もっとも力の強いサルを頂点にヒエラルキーを構築している。」と続け、

ホモ・サピエンスもサルと同じような集団性があることを指摘する。

また、類人猿はセックスは公に食事は個だとし、ヒトはこれを逆にしているとその学長は続けます。

 

ここで、400万年前(大昔のようだが、地球生命体史の中ではたったの110000.1%の時間にしか過ぎない)に宇宙人がこの地球を見ている、と仮定してみよう。

すると、その頃にはホモ・サピエンスは誕生したばかりで数は少なく、ゴリラの数のほうが多かったと推察されます。

その当時は、現代に比べて集団性の低いホモ・サピエンスは喧嘩をしても誰かが買って誰かが負けるという状態にならず、じっと見つめ合って和解する、ということも頻繁に行われていたと勝手に推定します。

また、食事とセックスについても、ヒトという生物でも、密度の低いところでは、セックスを他者がいても扉のない部屋であるパブリックの場所でセックスをしている例を以下の本でも書いています。

アフリカ 苦悩する大陸    作者: ロバートゲスト,Robert Guest,伊藤真

貧困の光景 (新潮文庫)    作者: 曽野綾子

このように、限定する時間軸によって得られるデータは違うことになります。

時間軸が変わり、個体数が変われば「社会的」生物としての価値観と行動が強くなり、効率のよいヒエラルキーを一つの価値基準として加えるのも生命体の必然性です。。

食べることを隠すかどうかは、食物の豊かさと厳しさが行動に影響を与えるので、豊かなところでは食べることを隠さないし、厳しいところでは、個々が食事をするのだと思います。

 

ところが、現代のデータから比較することから、ある法則を見つけ出そうとして過剰一般化し、その根拠である合理的な言い訳を科学的証拠にしていかにもこれが法則であるかのように装います。ここでは「DNAの種の違い」に話を還元させて、話を丸め込むような論法がとられています。

 

 

この比較する方法論とラディカルという方法論の関係はコインの表裏の関係であり、一般化することでできあがる法則の一面性です。

 

次回にこのエッセイを推敲する時には、空間軸を無視することで、作り上げる過剰一般化と過剰具象化の例についても触れてみたいと思います。

 

 

大きな主語 

男は狩をする本能がある。

関西人は話にオチを求める

 

 

正しさの怖さ

これまで見てきたように、正しさというのは、枠組みを決めることから発生するので、正しいことを言うためには、それが通用する「安全圏」をできるだけ無意識の内に作ろうとする。

また、正しいこととは脳内の判断なので、外側の変化について考慮しなくても正しさを作り出すことができる。

 

正しく善を続けるのには2つのタイプがある。

一つは外の変化に対応しているのと、もう一つは外には関心を向けず、内側のイメージに固執する方法だ。

どちらも正しく善い人だが、この2つには大きな差がある。いや差というよりも全くの正反対の別物である。

 

怖いのはこの脳内で作り上げたパターンを固定化し、これに固執して、他者を判断するものである。

 

理性が想像した「理想」も大切ですが、これだけを判断の基準にすれば、理念と同じように、理性が持っている錯覚をそのまま受け入れて基準にしてしまったり、理性ではできない領域まで踏み込んで、その世界を判断してしまうことになってしまいます。

例えば正義の「正」というのも、片面だけの価値や基準や判断なのかもしれません。相手にとっては、とんでもない厄介なものかもしれません。例えば、イスラム国の正しさ、チベットやウイグルにおける中国の正しさ、非核保有国からみる核保有国の核不拡散条約の正しさなどなど。

例えば、は、一が邑(町)、止は足跡を意味し、町にに向かってすすむというのが字源、

進む方から見れば、町を攻めて、征服するいう意味

服して征服地の人から税をとることを征といい、その支配の方法をという。制服した人びとに重圧を加えて税の負担を強制することも政といい、そのような行為を当とし、義とした。これで正は「ただす、ただしい」の意味となった。

正しさは常に権力者によって、意味が変わるのは字源をみればわかる。

政は(攵)ボクとからなり、攵はムチでうつの意味である。

 

また正義とは、シャーマンの世界では守護神のことを指します。各々の正義とは各々の守護神のことなので、各自が自分の正義を通すということは、他人の守護神と戦うということになってしまいます。やられる方も自分の守護神にかけて戦いますので、お互いが正義の旗をかざしている限りは、争いが終わることがありません。

 

次に話を戻して、理科の実験室の特徴です。

これがなぜいけないというのでしょうか?

部屋そのものには何も悪いことはないのですが、実験室とはとても特殊なTPOの環境である、ということが大前提です。実験室で行われることで、実験結果によって今まで気がつかなかったモノの関係性やその深層にあるメカニズムが明らかになって、私たちの自己意識や理性を刺激し続けてきました。この実験のおかげで、私たちは大きな恩恵を受けています。科学や経済の世界における合理性、利便性、効率性は実験室で発見されたり、産み出されたモノで一杯です。

ここまでは良いのですが、問題はこれらの法則を、実験室の外で適応する時におきます。電子顕微鏡の中で起こることが、その外の世界では必ずしも同じように再現されるとは限らないからです。理由は簡単で、実験の時にはなかった要因が追加されるからです。たとえば、微生物、電磁波、素粒子、温度、気圧、宇宙線、ダークマターなどの無限かと思われるほどの想定外のモノたちです。

ですから実験室の中で起きたことは実験室の中では通用するが、外ではまた別の結果になる可能性をいつも持っていることを再認識することが重要になってきます。

実験室の出来事が上手くいけばいくほど、ヒトの脳はこれを条件反射や記憶生成や記憶想起の習慣として捉えるようにプログラミングされて(作られて)いるので、常に注意が必要です。

特に一日の多くを大学の実験室で過ごすとなると、ヒトは実験室の中のパターンを無意識に基準にしてしまうので、その外に出た時も習慣化されて刷り込まれた思考回路に流されてしまいがちになるので、注意が必要です。

実験室の中と外の相違点のことを忘れてしまう時に、「いけない」ことが、突然に大量に押し寄せてきます。

 

 

どういう人達?

正しいことをしたがる人たちには何か共通性があるのだろうか?

これもずいぶん無茶苦茶な一般化ですが、4の領域の正しさを3の領域に持ち込まないためには、少し大げさなツッコミも必要になるほど、正しさを追求したために自分たちの首を締めるような未来がすでに現代に入り込んできています。

 

外に敵を見つけることで自分と向き合うことを避ける人たち

ただ正しいことをしているという気持ちを味わいたいが、その材料を探せない、そこでそれはマスコミにやらせる。

正しさについて騒ぐことで、関心を外に向けることができるの、自分の内側を見つめることを避けることができる。

自己の現状を他者の酷さと無意識の内に比較することで自分が置かれている状況や自分の立っている場所が成り立つための不正を忘れさせてくれる。

 

ヒトは死ぬ、病になる、苦しみがある、不安だ、という現実から距離を取ることができる。

だから騒ぐことをやめようとしない、その時に正しさがお守りになる。

悪をみつけてそれを叩くことで満足する

CO2のように

犯人を一つに決めてしまう

大都市にエネルギーを送るための原発、大都市に素材を供給するための環境破壊、

 

捕鯨問題やイギリスが2019年から施行しようとしている、使い捨てのストローや綿棒なども含むプラスチック製品の販売の禁止などの環境保護が良い例である。

科学的に考えれば、プラステイックは石油からの生成物で、この石油は植物や動物の死骸の体積した結果からなるもので、紫外線や火によって分解されるものなので、成分的には炭素の結合体であり、時間軸を伸ばせば、紙で作られるストローと大差ない。

ところが、固定した正しさを必要とする組織は、絶えず新しい敵を探してそれを排除することで正しさを保つことができるので、「いじめ」が大好きな正義の集団となる。

 

ナルシズム

Heroになりたい人たち

歌にドラマに映画に、ヒーローを謳うものは多い。

ヒーローというタイトルの世界を救え、というアメリカのドラマや、日本では視聴率が30%ほどあった、中卒の検事がエリートたちの保身によって成り立っているかのように見える組織にメスを入れるという構成のドラマ。

どちらも誰もが納得する二者択一からはじまり、これがだんだんと範囲を拡げていくという手法をとる。

前者のアメリカのドラマでは、世界を救えというお題目のもとに暴力どころか殺し合いの劇が続く。

後者の日本のドラマは、自分の中にある正義を貫くために所属する組織の保身による圧力を糾弾する。

 

 

 

 

被害者になりたがる人たち

被害者になればなんでも好きなことが言える。

転んで国からお金を貰う人、コーヒーをこぼしてお金を貰う人

 

マクドナルド・コーヒー事件とは、19922月、ニューメキシコ州のマクドナルドの駐車場で停車しているときに購入したコーヒーを膝の間に挟み、ミルクとシュガーを入れるためにコーヒーの蓋を開けようとした。そのとき、誤ってカップが傾いてしまい、コーヒーがすべてステラの膝にこぼれ、第3度の火傷になった。裁判所での陪審員による評議の結果、こぼした本人に20%、マクドナルドに80%の過失があるとした。

填補賠償認定額20万ドルの80%にあたる16万ドルを本来の填補賠償額として、またマクドナルドのコーヒー売り上げ高の2日間分に相当する270万ドルを懲罰的損害賠償額として、それぞれ支払いを命じる評決が下された。しかし、判事のスコットは評決後の手続で懲罰賠償額を「填補賠償額の3倍」に当たる48万ドルに減額を命じ、最終的にはマクドナルドが合計64万ドルの賠償金支払いを命じる判決が下された。その後、和解が成立し、マクドナルドは60万ドル未満(非公開)の和解金を告発者のステラに支払った。

 

2015年には、サンディエゴ元市長の妻が転倒した拍子に豊胸バッグが破裂し、「段差のせいよ!」とサンディエゴ市を訴え、裁判の結果、ヘドック氏が勝訴し、サンディエゴ市には約9600万円(85000米ドル)の賠償が命じられた。

 

2016年には道路を走っていた自転車が、わずか6.3センチほどの段差にタイヤをとられて転倒し、大きな怪我をした。これにより、段差の存在を以前より認識していたにもかかわらず補修を行わなかったという理由で、サンディエゴ市は5億円(500万米ドル)近い賠償が命じられる。

 

2014年の関西の自転車転倒事故でシマノが製造物責任法(PL3条)によって、3900万円支払う。

10代の女性がローソクにオーデコロンを振り掛けて、部屋の中に香気を漂わせようとしたところ、気化したアルコールが炎上し、居合わせた友人がやけどを負ったケースでは、オーデコロンメーカーが責任を問われた。

雨にぬれたペットの犬を乾かしてやろうとオーブンに入れた結果、犬が焼け死んでしまったケースでは、そうした使用方法をしないように警告しなかったメーカーにその責任があると断定された。

天井から落ちてケガをした強盗が、家主に対して賠償金を請求した結果、裁判でこれが認められた。

 

意識を常に使う世界に誘導する倫理哲学学者

白熱教室で有名になったサンデル教授

サンデルは脅かします。

The restlessness of reason. 休まることのできない理(ことわり)

正しさについて考え、そしてそれを元に行動することには、常に不安がつきまとうのである。そして一度そうする癖がついたら、そこから抜け出すにはいかないと。

"Once known, it can never be unknown or unthought"

それは無知という無垢との永遠の別れなのであると。

彼は講義の第一回目をこう締めくくり、そして最終講義もこうしめくくっている。

 

この考え方によって一般の人が陥る状態を自覚してやっているのならばヨーロッパの伝統を継いでいて安心できるのですが、もしアメリカの素朴からくる純粋さからくるのであれば、これは問題です。良心や良識さと幼稚さで、自分のしていることを疑いもせずに驀進してしまうからです。周りの人に理性を余分に使わせ、自分たちの自然を理解する力、諦める力、受け入れる力、体の声を蔑ろにしてしまうからです。

体に一番いけないのが脳が不安に陥ってしまうことです。

ここにもまたいる、いつもの奴が。

耳元で綺麗事を囁いて、自分だけが得する方向へ社会を導くお方たちが。

他人に判断させ続けることでメリットを得る人たちです。

 

参照エッセイ オックスフォードの証明の仕方

 

 

 

精神病者

一組の原因と結果に意識のスポットライトを当て続けてしまうと、主体である「わたし」は「何でもできると信じ込めるカミのような万能者」と「何もできない現実の無能者」まで分化する。

これは統合失調症とうつ症(躁鬱症)と癲癇症のどれもが、意識を使って全体性を2つに分け続けるという共通点を持つ。

 

 

ラディカルなことを求める人たち

翻訳された本を読むとヒトはラディカルな考え方になるという。

何故か?

 

一つ目には、抽象性のことを書いた人が抽象性が好きな人によってTPOの違う具体例が適応できない新たな抽象性の強い状況の言語を使って変換されるのだから、より一層抽象性の強い方向へ導かれていく。

荻生徂徠が漢文を日本で読んでもそれは翻訳文でしかない、と看破している。

同じ漢字を使うのでまるで同じ意味のように思われる文章もあるが、場所が変われば同じ語句の意味も違うように。

例えば、遠来のとも

 

 

また、大脳皮質を使用するということは一つのものを2つに分けて名前をつけることで、この時に分けた基準を軸にしてしまって1つを選択して答えを見つけてしまう習性がともなってしまうことによる。

良い方や効率や優秀さや誠実さや一生懸命さなどいろいろな基準がある。

この時にラディカルなものがあると仮定すると、それを根拠にすることで、自分の判断がまるで保証されたかように安心することができる。

このように意識を使うといういうことは、ラディカルのものを創造して、そこから論理的に答えを導くという手法のことだととも言える。

 

ここでラディカルと抽象性のつながりについてもわかるだろう。

この2つは脳機能学では同じこと系列にあることが以下のようにわかる。

まず抽象性とは形のないものなので、この世で具体的にそれに触ったり見たりすることができない。具体的なモノたちに共通する一般性という法則と言い換えてもいい。ある基準を決めることで浮かび上がってくるルールだともいえる。

この見えない法則である抽象性の特徴は一つの基準である。基準がなければルールも抽象性も生まれてこない。

このために抽象性は一つの基準を必要として、これを見つけることを宿命とし、これを創造し、これをラディカルと呼ぶ。

ラディカルというのは抽象性のシンボルであり、この世にはないものを仮にあるとするとどうなるかをカタチにした蜃気楼である。

 

 

「川を遡り、海を比べる」

ラディカルと比較を根拠に正しさを見つけようとする人たち。

どちらも具体性のないものに具体性を与える手品である。詐欺行為といってもいい。

ラディカルについては上記した。

 

比較という手品のネタはどのようになっているのだろう?

ネタばらしから言うと、比べることができないものを同じ土俵にあげて並べてみせているのに、それに疑問を持たせないのがコツである。

TPOや文化や関係性の違うものを並べてみせるのは、ゲームであり、サプライズであり、アートであり、エンターテイメントであるが、同時にインチキである。

 

例えば北欧の社会保障システムを日本の比べて、劣っていたり遅れているという人がいる。二つの経済システムの環境が違うのに、平気で比べて、違いを語る人がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

丸山眞男がラディカル(根底的)な精神的貴族をラディカルな民主主義と結合させるという理想をうたったのは、たんに民主主義なだけでは「私が民族だ」と主張する僭主が自由な議論を圧殺するとの中になることを見抜いていたからだと與那覇氏は言う。

 

理想とは大脳皮質という思考脳が一つ(ラディカル)を求めて導き出してしまう習性から生まれるカタチなので、それ以外の大脳辺縁系や脳幹や内臓感覚で「波動」として社会の運営システムを時間軸を付加して考察してみると、上昇時期には社会主義(一点突破)、成熟期には民主主義(多点共存)、退廃時期にはポピュリズム(多点混乱)、転換時期には貴族主義(多点整理)、という順序を繰り返すので、結合させてしまうのは時間の流れを止めて次の問題点を創出するにすぎないと思う。

ラディカルはダサいだけではなく、時間軸を考慮しない傾向が強いのであまりに非論理的である。

 

 

 

 

 

深層心理

自己意識の肯定   他を踏みにじる理由付け

普段の生活が悪のために、それを忘れたい

 

やきもち、嫉妬

 

 

絶対性を必要とする人たち  宗教

お膳立てを必要

 

狂気を信仰と呼ぶ人たち  

正しい判断がサバイバルを助けたと信じる神話

 

なぜ信仰するのか?

思考を中断させる

体が安まっていない状態では、体は自らのために、頭が余計な活動をしないように、ヒステリーの状態に導くことがある。頭を使う時間を減らすためである。

頭は納得さえすればいいので、ここで、体と頭の両方の目的は達せられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人口密度と変動率

右肩上がり

 

 

松尾仮説は

密度

DNA

グループと内と外

共感性

集団

過密

ヒト

家族と集団の両方

グループ内と固有の共感

150人以上

ボノボ

オスはマザコン、メスは外部へ

グループ内の共感

50150

チンパンジー

メスは集団間を移動

メス内の共感

20100

過疎

ゴリラ

家族

内の共感、外への好奇心

115

 

参照エッセイ 人口密度と変動率

 

 

 

 

正しさの使い分け

 

正しさはその人だけのもの

全員が正しい

ということは全員が間違っている

この矛盾した2つをどうすればいいのか

 

ヒトができないこと(理念・カミの技)をできると設定することからこんな症状ははじまる。

ウツで何もしたくなくなるのならば、恵まれた環境を捨てたり、水道と電気を止めれば、嫌でもカラダが動くので、病気を治すことを優先させるのであれば解決ができるのではないだろうか?

それができないから病気になるのだが。

守られた環境にいると精神の病に罹るパーセンテージが高まることを自覚して、どちらの環境を選択するのがいい。ただの選択であって決断ではない、すなわち午前中は守られた環境で、午後は厳しい環境に身を置く、というように。

 

 

 

 

ソーシャル・ジャスティス・ウォリアーとは、ネット上である種の正義感を振りかざす人たちのことで、大災害発生時に芸能人が SNS で楽しそうな投稿をすると、「被災した人がいるのに不謹慎」と攻撃をする。過去には熊本地震で長澤まさみさんのインスタグラムが標的になっている。狙いすましたように攻撃し生活の憂さを晴らそうとしている可能性が指摘されている。

 

これに対して意見を求められた箕輪さんは怒りを表明し、自分のリアルな人生がうまくいかないのは仕方ないが、

 

「彼らは何か自分が被害にあったとか、自分のビジョンがあって言っているのではなく、芸能人や大手企業のサラリーマン、テレビ局の人が何かミスを犯した時に、なんでもいいから引きずり下ろそうってやってるだけなんで」

とコメント。不謹慎狩りをする人は、なんの信念もなく騒ぎに便乗しているだけと糾弾している。

 

「一番大事なのは相手にしないことですよ。長谷川さんはイメージを売ってる芸能人の方ですから 大変だと思うんですけどできるだけ『こいつらクズだな』って言い続けることが大事だと思います」

と持論を語った。ネット上でも影響力の大きい箕輪さんは、自身もSNSで絡まれることが多いのだろう。誰にとっても他人事ではないのだ。

「余計なトラブルを招くくらいなら、楽しそうな画像は全部 NG

 

しかし経済評論家の勝間和代さんは、SNSに慣れていれば、余計な投稿をしないこともやり方のひとつと諭す。パソコン通信時代だった19歳のころからネットをやっているという勝間さんは、ネット上での共通知識が皮膚感覚としてあるため、「この日(災害時)は、ご飯を食べる・遊んでいる画像は全部 NGです」と警告する。

 

「おかしいけれど、余計なトラブルを招くくらいなら、どうしても出す必要がない限り出さない」ときっぱり。そういった画像は友達限定で送ることを薦めている。

 

また、勝間さんは過去何度か炎上しており、あまりにもひどいものは IP アドレスの開示(請求)を行い、 弁護士を通じて内容証明を送りつけたという。勝間さんを攻撃していた人物は、勝間さんのことを全く知らない「引きこもりの学生さん」で、 お祭り騒ぎに便乗しただけだったのだ。しかし絡む相手を間違えたというものである。

 

勝間さんは、「そういう人たちなので、気にしないことが一番ですし、あまりにも誹謗中傷がひどく殺人予告などあるようなら警察に行くべきです」と断言。粛々と大人の反撃をすべきというわけだ。さらに「わざと火に油を注がない。その上で対策をとる」というSNS上の処世術をおすすめしていた。

 

 

 

 

大人になることと進化

他集団と出会うことが多ければオス同士の喧嘩や対立が起きる頻度も高いので、早く大人になってしまうと大人同士の闘いに巻き込まれて傷つく恐れも大きく、それで、大人になる速度を遅めて、生まれ育った集団の中で安全に暮らす時間を少しでも長く確保しようとしているのではないか、と山極氏は言う。

 

松尾仮説

ここでいう「大人」は、智慧や敵味方が共にサバイバルできる本能のことを指してはおらず、単なる力の強さと残忍さを指しているように思われる。

だから成長しないで、子供でいる戦略をとるのではないか、という推察のように読める。

山極さんの考える「大人の本能」は理性で捉えたもの(理性で本能を抑える)で、動物の本能(静かで小さな欲求―――少しのカロリー、安心、数匹の子孫)に対する信頼がかけているように思う。インテリがいう本能とは、理性が増幅させた欲望であるように思う。

 

もし、大脳の進化を優先させるのならば、ネオトニーはよい戦略であるが、殺し合いや戦争を避けるのならば、大脳の進化よりも、早く脳幹を成長させて、なんでも二分させて判断してしまう大脳と、そこから生成される「理念」を使用するのではなく、相手の呼吸に自分の呼吸を重ねて、何事も元は一つであるという消化器系器官の感覚にスポットライトを当てるほうがよいのではないか? 

 

 

 

 

 

参考資料

デイヴィッドソンが考え抜いたことは、「どのようにして一人の話者は、他人の発する言葉について、それがどんなに些細なものであっても、ともかく理解することができるのか」ということを体系的に示すにはどうしたらいいかということだった。そこで「ラディカル・インタープリテーション」というモデルを設定し、見ず知らずの二人がどのように相手の言うことを理解していくかという考察を徹底し、そこに「図式」(scheme)と「実在」(reality)の図式の交換を見定めてていったのである。それはそれは天才的な仕事であった。そのうち千夜千冊することがあるかもしれないので、期待しないで待っていてほしい。

 ところで、デイヴィッドソンを理解するにも、イアン・ハッキング(1334夜『偶然を飼いならす』)が、いい。『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(勁草書房)がいろいろの示唆を与えてくれる。