脳をいまだに信じておられるのですか?

 

目次

脳から見える世界  実験例

脳の限界と欠点 

対処法

参考資料

意識とは  階層

脳をベースにした文明社会

 

 

はじめに

脳は常に間違ってしまう器官である。

しかし、脳がなければ、このメッセージも読むことはできぬ。

だから脳を蔑ろにするわけではない。

脳はモノゴトの表層を手早く認識してくれる便利なものとして、いつも過剰に大事にされているのだから。

 

脳は参考にするものであって信じるものではない。

脳は水先の案内とするものであって、依存するものでもない。

 

脳は使うものであって脳に使われるものではないし、「わたし」をいつも脳に同化させている必要もない。

そして脳を使うことで生じる弊害をちゃんと理解して、使い終わったら脳を休ませてあげよう。

手足の筋肉も使い続けると異常に発達してしまい、日常生活では柔軟性やスピードや嫋やかさに害を及ぼしてしまうのだから。

 

そこで、まずは論理と事実で語り合ってみよう、

まずは実験例から。

そうすれば脳は常に間違ってしまうという特徴がわかってくる。

 

実験例   

1錯覚           無意識によるデータの書き換え

2思考のメカニズム     脳が認識する過程とその限界  

3過剰一般化        現代文明人の陥る穴

 

 

 

 

 

 

実験1  錯覚

AのマスとBのマスのどちらが濃く見えますか?

Description: checkershadow1

 

 

答えはご想像の通りです。見た目はAですが実際は・・・。

両手で周囲を隠して、ABだけを比べてみればわかると思います。

 

ではなぜ、ヒトは頭の中でとらえた感覚(見た目)と実際の目の前の事実とは違ってしまうのでしょうか?

それは脳が常に事実を補正して、大脳皮質にとって理解しやすように変換するからです。

(脳のサイドから)良く言うと分かりやすく、(事実のサイドから)悪く言えば事実を捻じ曲げています。

これも周囲との関係や過去のパターンで認識するようにしているからです。

チェスの市松模様と、光と影の思考パターンをありのままの事実よりも優先させてしまうのです。

 

脳がなにをしているのかというと、過去の記憶の再利用と、分かった気持ち(レッテル貼り)になってやり過ごして新たな情報の無視と、なんでも条件反射にしてしまうのと、無意識の瞬間的自動修正。

 

ですから本当のことを言うと、脳は働くことをできるだけ減らそうとする、さぼり好きで偏見好きなんです。

 

 

 

実験2   モンティ・ホール問題

 

ここに、3つのドアがあります。

どれか1つには、ドアの向こうに豪華賞品があり、それ以外はハズレ(空)です。

どのドアの裏に豪華賞品があるかは、司会者のモンティは知っています。

参加者は、まず、3つのうち、どれか1つを選び、司会者のモンティに伝えます。

モンティは、それを受けて、残りの2つのドアから1つ、空のドアを開けます。

そして、あらためて参加者に、どちらかを選ぶように伝えます。

今、参加者が、ドア@を指定しました。

モンティは、残りのドアA ドアB から、ドアAを開けました。

参加者は、ドア@ ドアB をあらためて選ぶことになります。

どちらが確率的に有利でしょうか?

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Monty_open_door.svg/250px-Monty_open_door.svg.png

1.ドアが3つあります

2.その中に 当りが1つ、ハズレが2つ あります

3.あなたは、ドアをひとつ選べます 

4.あなたが選んでいないドアを司会者が開けます

5.開けられたドアは 必ず「ハズレ」です

6.あなたは、ドアを選びなおす権利があります

7.選びなおさない権利もあります

問い・・・あなたはドアを選びなおしますか?  選びなおした方が、勝率が上がると思いますか?

「選びなおさない」派の気持ち

・残った どちらのドアも 確率的には 1/2 なので、直感を信じる

・もし、選びなおして「ハズレ」ると、後悔する

「選び直す」派の気持ち

・選びなおした方が勝率が上がるから

・ドアを開けられた時点で、確率が変動するから

 

解説の例

Description: Description: モンティ解法

豪華賞品のある確率は、各ドアとも1/3 ずつです。

つまり、参加者が選んだ以外のドアは、2/3でした。

その内の、一つが無くなったので、選んだドアが1/3、そうでないほうが2/3です。

直感的に、分かりづらいかもしれません。

その場合には、ドアの数を増やせば、納得がいきます。

ドアが1000個あった場合に、選んだドア以外から、モンティが、998個の空のドアを開けたとします。

残った2つのうち、どっちに豪華賞品がある確率が高いかは、直感的に分かりますよね。

          

Description: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Monty_closed_doors.svg/250px-Monty_closed_doors.svg.pngDescription: Description: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/Monty_open_door_chances.svg/250px-Monty_open_door_chances.svg.png

 

 →

 

 

 

 

 

有名なモンティ・ホール問題は、自己意識は常に更新され続けないと1.5倍の確率で未来予想が外れてしまう例です。

もし脳が毎瞬間ごとに情報を更新していないのならば、五感感覚と脳を使った認知の方法で、この世を把握ができていないという実例です。

 

 

 

実験3    植物は酸素を地球に供給していないって本当?

具体例を考えてみよう。

たとえば温暖化を防ぐためにタラを植林するプロジェクトを立ち上げようとする。

春にあの美味しいタラの芽を出す樹は伐採地でもはじめに生えてくるように、荒れ地でも成長が早く植林しても失敗が少ない。

欠点は木肌に棘があるのと、5年から長くても20年で他の優勢な樹木の成長によって枯れてしまうこと。

 

このタラの樹の酸素の生成量と二酸化炭素の吸収量を5つの時期に測定してみます。

1 昼の酸素生成量と二酸化炭素排出量を測定する

2 夜の酸素生成量と二酸化炭素排出量を測定する  

3 1年目のある一日の酸素供給量を測定する

4 20年目のある一日の酸素供給量を測定する

5 枯れてから消滅するまでの酸素供給量を測定する

 

これらの時期と酸素・二酸化炭素の生成量を関連付けると以下のようになる。

 

 

時期

スパン

O2CO2量 部分計

O2CO2量 累計

結果

任意の昼

瞬間

O2CO2 

 

光合成の法則

任意の夜

瞬間

O2CO2

 

呼吸の法則

1年目  葉の成長

初期の1日

O2CO2 

O2CO2 

1年目の実験結果

20年 葉が出なくなってくる

後期の1日

O2CO2

O2CO2

測量可能な実験結果

枯れた後に消滅

全期

O2CO2 

O2CO2 同じ

全体性の法則

 

タラの樹は昼間は光合成をするため、二酸化炭素を吸収して酸素を排出しています。

しかし、いつも酸素を排出しているわけではありません。

タラは秋の終わりに紅葉し、すべての葉を落とした後は春まではもう光合成はできず、体内に貯めた栄養分(炭素)で冬を乗り切っていきます。

そして、天気の悪い日や夜間や冬のことを考えてみると、光合成をしているのは案外短い時間でしかありません。

また、いくら昼間や夏には光があるからといって、タラの樹は温度や気圧や風や水分の不足によって光合成を常時しているわけではなく、植物は機械ではないので、いつも光合成して炭素を吸収しているわけではありません。

微生物が機械のように分裂を続けて勢力を拡張しているのではなく、周囲の環境に反応しながら成長するように。

植物に葉緑素があり、光合成の条件が整っているからといって、はたして二酸化炭素を機械的にいつも吸収しているのでしょうか?

たとえば、タラの樹は急激な成長によって幹や枝が折れやすくなったりするので、適切な成長スピードに合わせて光合成の効率を調節することで、しなやかでありながら強い幹や枝ができるのかもしれません。

私たちで言うといくら美味しい食物があるからといって暴飲暴食すると体を壊してしまうように。 

話が横道にそれてしまいました、

閑話休題。

 

植物も生物なので、昼間であろうと夜であろうと、光合成によって取り入れた炭素をエネルギーとして使い、酸素を吸って(結合させて)二酸化炭素を吐いて、呼吸をして生きています。

昼間は光合成ができるので、二酸化炭素よりも酸素の排出量が増えることが多いですが、光合成をしていない時間帯では酸素よりも二酸化炭素の排出量の方が多くなっています。

 

1年目のタラの樹が順調に育っていれば、葉の数も増え、光合成によって酸素を排出します。たしかに呼吸もしているので、夜間は酸素を吸入して二酸化炭素を排出していますが、1日のトータルで観ると酸素の排出量のほうが二酸化炭素の排出量を上回っています。

光合成で吸収した炭素が体の一部になり、残りのカス?を酸素として体外に吐き出しているのです。

CO2 C(体内に吸収)+ O2(体外へ排出)

 

20年目になるともうタラの樹の寿命なので葉が段々と出なくなり、それに比例して酸素を排出しなくなります。

葉が完全になくなったら、一切の酸素を排出しなくなるので、測定もこれで終わりになります。

そこで科学者の中にはこれまでの結果から、樹木の植林は二酸化炭素の吸収に効果的だと判断する人もいます。

 

しかし、ここには樹木自身が消滅するまでの測定結果が入っていません。

タラは吸収した炭素は樹木の幹や根や枝となっていますが、終末期の樹木が腐る過程(もしくは伐採、燃焼、菌類発生)では、これまでに空気中の二酸化炭素を体内に固定化することで貯め込んだ炭素は、燃焼や微生物による分解によって大気の酸素と結合して二酸化炭素となり、周囲の大気に還元されます。

 

友人から、樹木によって寿命は違うので、終末期に至るまでの時間が長い樹木であれば、それまでの光合成を行う時間と量も多くなるので、終末期に酸素を吸収し二酸化炭素を排出しても、結果として酸素供給量のほうが多くなり、酸素を供給していることになるのではないか、という指摘を受けました。

 

そこで、ここに一本のタラの樹がどれぐらいの酸素を大気に供給したのかを20年の観測をしないでも計測する方法があります。

光合成の化学式で見てみると、

6CO2+12H2OC6H12O6+6O2+6H2O

となり、この式の右辺を見ると、6の炭素を取り入れる時に、6の酸素が排出されることになります。

 

すなわち、タラの樹にとっては食物であるC(炭素)を大気中から一つ体内に取り入れるたびに、O(酸素)を一つ排出することになります。

これは、タラの樹の体が大きくなった分だけ、酸素を地球に排出(供給)したことなので、植物の体重の変化を測れば、増加した分だけ酸素を体の外側、すなわち地球の大気に排出(供給)したことになります。

 

ここでのポイントは植物が酸素を吐き出すためには、そのたびに植物を食べ物(炭素)を自分の一部にしなければならないということです。

酸素を排出するとは、その分だけ体が大きくなってしまうということです。

ですから体の増加分がちょうど酸素を排出した量になるので、増加していなければ、光合成をして炭素を吸収していても、その炭素は生命活動や呼吸として利用されて排出することになるので、同量の酸素と二酸化炭素を排出していることになるので、これでは酸素を地球の大気に供給しているとは言えません。

このように植物の体の増減だけにスポットライトを当てると、トータルにおいて酸素を排出しているのかどうかがわかるのではないでしょうか?

 

しかし脳の特徴は、違いを見つけて其処にスポットライトを当てることですから、動物にはない植物の光合成を特別視して、その特徴である酸素の供給を過剰一般化しているのかもしれません。

 

こうなると始めの種から最期の消滅するまでの全体性で観た場合には、吸収した二酸化炭素と排出した二酸化炭素はちょうど同量となるので、植林によって酸素を供給するという説が誤りであることが分かると思います。

植林が悪いと言っているのではなく、林業や山の保全や涵水やタラの芽の収穫のために植林は有効です。

しかし、二酸化炭素の吸収という一面だけならば、植物の一生を通して観てみると、酸素を一つも供給していないので、どの植林も有効ではないということです。

 

このことを生物学の学生や教授に話をした時によくある反応が、二酸化炭素の固定化という観点で見るとそう見えるかもしれないが、光合成には水が必要で、そのH2Oを水素と酸素に分解するので、ちゃんと酸素は供給しているんだよ、という主張です。

確かに光合成の化学式は以下のようになっていて、光合成とは水を水素と炭素に分解する反応式だと言える。

   一般性は  CO22H2A(CH2O)2AH2O   ファン・ニール の光合成の一般式(1929)

もしくは 

6CO2+12H2OC6H12O6+6O2+6H2O

 

たしかに光合成のメカニズムとは2H2OからO22H2を生成するという言い方もできます。

しかし生物学者が作った光合成の式の右辺を見ると、6O2が生成される時とは、6つのCが固定化されるので、炭素Cとの酸素Oの割合は変わらないので、固定化された炭素の分だけしか酸素を供給することができないという事実に変わりはありません。

そしてこの固定化された炭素の集合体は最終段階では腐敗や燃焼で消滅するので、その時には、一つの炭素は酸素と結合して一つの二酸化炭素を生成してしまうことには変わりはありません。

C6H10O5+6O26CO2+5H2O

 

 

 

では、酸素が地球創成期には無かったのに18億年後の65000年前から急に増え始めたのはなぜなのか?

それは、藍藻(シアノバクテリア)類の死骸と泥粒などがストロマトライト岩石となって堆積したため、それらが腐敗も燃焼もせずに炭素が固定化されたままであったためとされている。

また、二酸化炭素がカルシウムなどの陽イオンと結びつき、 石灰岩として固定された。

それから25億年がたち、陸上植物が誕生したのは45000年前であるが、当時の酸素の割合はすでに15%弱であったと推定されている。

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そして現在では95%あった二酸化炭素が0.032%にまで減少し、地球誕生では0%だった酸素が20.947%まで増加し、二酸化炭素の650倍もある。

地球史では空中の炭素を大地に固定化しているのは植物ではなく微生物であるという歴史だとも言える。

 

下記のように、三段論法はいつも正しいわけではない。

ある生物は大気中の二酸化炭素を固定化させて酸素を供給している。

光合成によって地球に酸素が生成されている。

この2つの条件によって、植物は酸素を地球に供給している

 

とするのは誤謬である。

2つの条件は正しい。

しかし結論は間違っている。

なぜか?

それは脳のもう一つのクセである過剰具象化してしまうからである。

上文のある生物とは微生物のことであって植物のことではないのに、同じ生物であるということで他のものを具象化してしまった、という過ちに気がついていないからである。

 

今日も大脳皮質と思考と無意識とパターンと習慣と権威と教育と宣伝によって、

「わたし」たちは間違い続けている。

 

 

脳の特徴と限界    間違い続ける脳  

以上のこの3つの実例から脳の特徴には

 

1つ目は脳が思考パターンを使ってしまって無意識にデータを書き換えている実態、

2つ目は脳は常に更新を続けなければ現状を認識できないメカニズムを持ち、これが認識の特徴であり限界。

3つ目は脳は過剰一般化と過剰具象化をしがちになる傾向(クセ)

があることがわかる。

 

参照) 詳細のエッセイは  

五蘊の罠     無意識の使い方マニュアル     

新しいものを自分のものにするメカニズム   認識とは?

都市文明人の陥る思考法  過剰一般化と人工衛星

 

無意識のデータ書き換え

1つ目の実験でわかるように、なぜ錯覚、錯視、錯聴などの現象が起こるのかという問題です。

五官からの信号が感覚となって脳に伝わってくるのですが、自己意識が認識できる領域の外側で、無意識が都合の良いように勝手に情報が書き換えているのです。

表層意識には、その奥にある無意識の電気信号には気が付かないように脳はできています。

深層に気がついたら、刺激に対する反応のスピードは落ちるし、大まかに把握するという効率も低下してしまうのも一つの理由でしょう。

意識というのは表層の自己意識だけではなく、中層や深層の意識である無意識(潜在意識)によって支えられており、無意識の働きがなければ意識が成り立っていません。

もっといえば、生物の殆どの運動は無意識によって司られており、意識が休んでいても無意識だけで生命維持ができるほどです。

例えば意識を使わなくても自動的に行動に移している情動、条件反射、反射の運動のように。

または、睡眠時や脳障害による植物状態の患者のように。そして時には隣りに座っている恋人との会話に夢中になって、よく知っている道ならばそれほど意識せずに車を運転している時のように。

そして同時にこの便利な自動反応回路によるアウトプットが、間違い続ける理由です。

 

認識の特徴と限界

2つ目は、脳による認識の特徴とデメリットです。

まずはじめの認識のレベルでですが、そもそもスポットライトを当てることに問題があります。

ここでいうスポットライトとは「注意を向ける」、「関心を持つ」という行為の比喩です。

スポットライトがオンにされると当然ながら明るいところと暗いままのところができます。

この分けることが一番はじめの間違い続ける原因になっています。

もともとは分けることができなかった暗闇という「つながっている大きな一つのモノ」を光のスポットの輪で範囲を決めてしまいました。ライトを当てた方からみると偶然のことかもしれませんが、暗闇側から見れば、無理矢理で強引で痛みの伴う行為です。分けないことで成り立っているものが、分けられてしまうのですから。

分けられないことで機能しているものが、分けられることで機能が変化してしまいました。

全てが溶解しており、時に波のように蠢いていた暗闇が光によって、二つに分断され、光が当たっているところでは、なんでも二項対立するのが基盤のルールになる世界になりました。

一つのケーキを二つに切ると、二切れのケーキは左右・大小・多少というように比較される者同士になってしまうように。

これは光側から見れば区分であり、知ることであり、分かり易くなるという、当たり前のことですが、闇側から見れば引き裂かれることであり、働きが破綻することであり、無理であり、無茶であり、暴力であり、偏見であり、差別であり、一方的であり、ありがた迷惑であり、間違いであるということになります。

また、そもそもスポットライトが当たっていないところはなにも「分かって」いません。

そして、光が当たっていて分かるところにしても、それは目隠しをされて象の足だけを触って太い柱であると思っていることなのかもしれません。

この世には「分けられない」「分からないこと」があります。

こうして表層の「わたし」は間違え続けるしかありません。        

参照エッセイ 常識の限界

 

また表層の自己意識による「思考」にも限界があります。

それはモンティ・ホール問題であったように「思考」とは、常に融通無碍・臨機応変に変化するモノ(環境、現象)を固定化させないと考えることが発動できない問題です。

そしてこの更新を随時にわたって継続しつづけなければ目の前の事情を正確に把握できないという欠点です。

 

この自己意識が間違え続けてしまうのは、「閉じる」ことに起因します。

外界からの刺激を遮断しないと「思考」はできないので、まずは「閉じる」ことから始めます。

「閉じる」ことで流動的な世界を固定化させることでしか、対象を分析して法則化(一般化、言語化)することができないのです。

しかし、この世は常に変化し続けているので、閉じてしまうことで、3つの問題がでてきます。

流れているものを固定化させてしまっている問題と、この世の変化し続ける世界よりも常に遅れてしまう問題です。

もう一つは固定化してしまったことで、判断のスピートは早くなりますが、過剰一般化と過剰具象化が起きてしまうことです。

 

「膜」をつくって「閉じる」ことで、その内部に因果関係という法則を見つけることができ、それをパターンとしておぼえて(過剰一般化)して、未来に適用する(過剰具象化)ことができるようになります。

過剰一般化している毎日

3つ目の思考実験で浮かび上がってくる問題は私たちは過剰一般化して判断していることでした。

見つけた法則とは、ある特殊のTPOの時にだけにしか通用することはありません。

しかも根源的な問題点は、この法則は「閉じた」時にだけ通用するものなので、常に変化するこの世には通じないことも多々起こります。

閉じ込めることができないものは法則・一般化にもできないので、それらに対しては対処できず、それが意外に一杯あります。

これらは法則の通用する範囲外の領域なのですから。そして正確にいうと範囲外がこの世のマジョリティーであると言う意外な事実を見つける人もいるでしょう。

 

例えば、高等教育を受けた人は光合成の法則を知って、植物が酸素を供給すると思い込み、植林運動を推し進めたりする行動の割合が増加してしまうように。

これも意識や自己意識の特徴をよく表している過剰一般化の事実です。

確かに植物は二酸化炭素を吸収して酸素を供給し、この光合成の法則の基になる葉緑素を持っているのですが、これは太陽と風と湿度と気温の条件が重なっている時のある特定のTPOの時にだけしか起こらない現象です。それなのにこの特殊環境のもとでしか起こらない法則をこの条件の範囲外にでも適応させてしまって判断し、なおかつ行動を実行してしまいます。

一言でいうと自己意識とは、効率と予測を優先させるために、独断的で、断定的で、大雑把で、粗く、横着で、横柄で、怠惰にならざるを得ない一面があります。

 

なぜ自己意識は過剰一般化をしたがるのでしょうか?

それには2つに理由を考えてみました。

1つは、脳のシナプスのオンとオフの二進法の積み重ねを使うことで「認識」が可能になるのですが、これは差異をつくることで区別ができることを意味しています。

つまり「違い」をつくったり見つけることが認識のベースとなっているからではないでしょうか。ですから共通点よりも、違いである差異にスポットライトを当ててしまうクセが自己意識にあるのだと思います。

またもう一つは、区別を早急に安易にするためには、個々の状況や歴史や関係性やポテンシャルや性質や性向やTPOを考慮するのではなく、ただ法則を適応させることの方が効率がよく即時性があって便利です。

一般化することで、判断をシンプルに早くすることができ、相手の状況を考慮する機会を減少させることができます。自己意識もサボるのが好きなのかもしれません。

 

また、法則を持ち出してこの世を認識しようとする自己意識は、この世の変化に対応する愛に欠けた認識方法だとも言えます。

相手の様子をうかがい、相手に委ねて、「待つ」ことはせずに、自己意識の中で作られた法則をもとに判断と実行を行ってしまうからです。

相手のためだといいながら、実はそれは自己意識のためであることは少なくありません。

現代の都市生活をしているインテリと呼ばれる人の認識システムは、このように法則を一般化することをベースにしている傾向があるので、いくら知識(固有名詞)の量はあっても中身には正確性が伴わないことがあまりに多いということをよく自覚し、その上で自分の自己意識(脳での認識)とお付き合いするほうがスムーズにコトが運ぶかと思われます。

もし「正義や理念」がグローバル事業、利便性の追求、植民地政策、ある種の医療機関、ある種の教育、ある種の商売、ある種の平和運動などに内包しているのであれば、一度は吟味してみるのも面白いことでしょう。

 

 

自己意識のメカニズム

無意識と呼ばれる中層や深層の意識に気が付かないようにする生き方を選んでいる人がいます。

 

どうすれば表層の自己意識だけで生きていけるのでしょうか?

それは思考と感情に任せて生きていくことです。

「思考」は外部から入ってくる情報・刺激・信号を一時的に遮断しないとできないので、ことあるごとに外部との連絡口を閉じることです。

すると情報の流れが固定化されるので、それらを自分の意識や無意識が好むようにつなぎ合わせて法則化・一般化・言語化・名詞化・数式化することができます。

これが自己意識の持つ武器です。

これによって、未来予測の確定率を大幅に上げることができます。

しかし、これが通用するのは安定性のあるTPOの中だけの、限定された区域内だけなのですが。

 

例えば地面を這っている黒いアリはよく見るとエゾアカヤマアリであることが認識(分析・指し示し)されると、このアリの特徴であるギ酸を10cmも飛ばす能力があるという一般の法則を、目の前の個体にも適用させてまいがちになります。

自己意識化のメリットは一般化することで特徴を簡潔に把握を一瞬にすることができ、未来予測(確率・統計)も行うことができることです。

しかしデメリットも多く、目の前のモノは特殊でユニークでこの世に一つしかない個体なので一般の法則が通用するとは限らないことです。

例えば目の前のアリがギ酸を飛ばすことができるとしても、それは成長期のときだけかもしれないし、オスだけかもしれないし、昼だけかもしれないし、湿度が高い時だけかもしれません。

それなのに一つの法則を発見したからといって、それをすべての他の個体のすべての状況や時空に適応させてしまうという間違いを自己意識は遂行してしまいがちです。

 

意識的人間の陥るクセ

私たちが論理性や科学的根拠に関心を向けると、その根拠に間違いがないと、それが正しいと判断するように教育の中で訓練されてきました。

しかし、もしかしたら、この正しさはある特殊のTPOだけに通用する根拠であって、全体を通じた一般性には通用しないものかもしれません。

もしかしたら、先に欲しい結果(因果関係)があり、これをサポートする合理的な根拠を見つけることで、無意識の欲望を肯定しているだけかもしれません。

例えば光合成の法則に意識を向けることで、植物が地球の酸素を供給していると言って植林運動を啓蒙してきたデマのように。もしくはコペルニクス的転回を信じてきてしまった歴史のように。

 

地球を軸にして太陽系が廻っているわけではありませんが、太陽を軸として銀河系が回っているわけでもありませんし、銀河系を軸にして天の河が動いているわけでもないように。

ある誤謬を訂正したからといって、その枠組が正しくなるとは限りません。枠組みには他の誤謬がまだ数多くあるからです。

またある枠組みを否定して、抽象度の高い次の領域(パラダイム・枠組み)に移行したとしても、新しい価値観のすべてを正しいものとして、新たなの領域の中で一般性を語れるとはかぎりません。

 

人工衛星の視点で一つの正しさを語るのはいいのですが、その視点を他の視点までにも適用しようとする病いが蔓延しています。

各視点から見れば、その視点からあるがままの姿がある、という事実があるのみです。

天動説を否定したからといって、地動説が正しいわけでもありません。

たとえば、地球を軸にして太陽系は廻ってはいませんが、地球上にいる私の周りを太陽が廻っている、とは言うことはできます。

これをカミ(人工衛星)の視点に立って、地動説の正しさを強要することで他者を踏みにじっていることに気が付かない人もいます。

理念についてよく語る方々です。

理念とは「理性を念じる」という意味ですが、まさしく脳を信じている人たちのことです。

表層の自己意識の比重が大きく、自分の無意識である循環器系の自分や、消化器系の自分や、腸内にいる微生物の自分の割合が少ないのでしょう。

 

3番目の実験で考察したように、いくら光合成の法則が正しくても、この法則に沿って植物が一生を通していつも二酸化炭素を吸収してわけでも酸素を生成していわけではありません。

このことを意識世界の視点から見ると、意識の表層(一瞬・光合成の法則)だけで考えれば理にかなっていることでも、意識の中層(長期・計測可能な実験)の場合は、二酸化炭素は吸収されなくなっており、実験ができない意識の奥底にある深層(全期・全体性の法則)で考慮をすると、最期の終末期は二酸化炭素を吸収するのではなくこれまで貯め込んでいた炭素を逆に排出しています。

このように表層の意識だけで組み立てた思考方法が長期にわたるスパンや全体性の中では通用しないのは、表層の意識では計測できないものがあることを考慮していないからです。

 

大学の博士課程を含む一般的な教育では、このような表層にある法則を見つけだし応用することに終始しているアプローチです。

これは、この世の本質や「いのちの根源」に触れようとするのではなく、表層意識にとって心地よいようにこの世界を理解したいがための方便を優先させているためです。

数値化できることを求められる学問や理路整然と説明することが求められる世界ではこれは良いアプローチ問よりも他のアプローチは思いつきません。

しかし、この世には論理的にはいくら正しくても、実際には表層意識だけでは予測どおりにはならないことで一杯です。

この世は表層と同様に中間意識(前意識・無意識)や深層意識と呼ばれている層もあるためです。

表層意識を基準にすると利便性が高まるというメリットはありますが、常に二項対立と差別と諍いと不安定と乱れがそこには表出してしまうデメリットも伴います。

蛇足になりますが、だからこそ、このような表層の意識を基準にしてこの世を理解しようとするタイプの人たちは、無意識の内に押し込められた力の反発(根深いコンプレックス)によって「一元論や平等や平和や自由や安定」を求めてしまう言動をするのでしょう。

 

 

対処の仕方

脳の特徴を理解して、いつでも知らないうちに自分は脳にコントロールされているということを自覚することです。

 

無意識から身を守るコツ

脳は全体をわからなくてはならない、という病気にかかっている。

「分からなくていいじゃない」「分けられないものはそのままでいいじゃん」とは言えない病気だ。

すると、嘘をつくしかなくなる、それも表層意識には自覚のないものなので始末に悪い。

なぜ自覚がないかというと、ある視点から見ると整合性と一貫性があるからだ。

ではどんなウソがあるのだろう。

 

大きくいって2つあり、一つのことから全体をつくりあげていく手法と、先に結論があってそれを支持する部分を拾ってきて決めていた結論を補強する手法だ。

一つ目はインプットされた情報から無意識が合理的なエピソードを作り上げる。

例えば植物が光合成をするという事実から、植物は二酸化炭素を吸入して酸素を供給するので、酸素を供給するために植林事業をはじめるというストーリーを捏造してしまう。

科学的事実にこだわる人が陥りやすい。

 

もう一つは、先に結論の答えがあるので、そこに至るまでの空白を埋めるために無意識が世界観を創作する。

例えば911の陰謀説やアポロ計画陰謀論の捏造説 (Moon Hoax)は先に陰謀だという結論があり、次にたしかに整合性がない疑問点がいろいろとあるので、それらを探してしてきてはそれらを列挙して、陰謀という一貫性のあるテーマで全体に及ぶ話を無理矢理に作り上げてしまう手法だ。

一貫性にこだわる人が陥りやすい。

科学的論理性を求めたり、一貫性を保とうとするのは自己意識だけではない。

どちらも無意識の特徴でもある。

 

蛇足だが、謀略説を好む人には共通点があるように思える。

常に事実に即しているとは限らない信念を保持し続けて暮らしていると、現実の世界と自分の信念との間に矛盾が現れてしまう。

そこで矛盾が起きてしまう理由をそれらを裏に押し込んでいる闇の組織のせいにすることにより謀略を説く一貫性を保つことができている。

例えば911。矛盾は各自の信念によっていろいろとある。

あんな大きな事件は小さいテロ組織には起こせない。

ビルはあのように崩壊しないはずだ。

アメリカ政府は常に敵がいることで維持できている、

などとどれか一つでも信じ込んでいれば、

政府が事実を隠蔽している事項は911事件でも確かにあるので、これは政府が裏で謀略した事件である、と結論づけてしまう傾向の人も現れてくる。

確かに大きな組織は敵対する相手がいることで統合しやすく、政府は必ずしもすべての情報を公開できず、政府が謀略を指導や誘導することも過去にはあったので、一つづつの根拠には事実が含まれているが、これらを直線で安直に結びつけて結論を出すには疑問点が多すぎる。

この911事件に手を貸した政府関係者はいるかもしれないが、だからといって大統領を含めた政府上層部が謀略を指導したというには証拠がない。

それにもかかわらず、先に謀略説という結論から唱えるのは、無意識に誘導されているとも言える。

 

無意識から一番簡単に身を守るコツは「本当に自分のしたいことしかしない」こと。 

自分が関心があることを人に聞く時には良い情報が入りやすいが、他人から入ってくる情報はモノやココロ、言葉を変えれば、金がらみや意図(宗教)がらみが多いので精度が落ちるし、自分が精通している分野ではないので、判断を下す前に言われたことを聞くことから始めてしまうからだ。

他人の意見を信用するなと書いているのではない、自分の信頼している人が自分のクセや傾向やこれまでの思考法なども知っていて、かつ親身になってくれている時には素直にアドバイスを聴くべきである。

ただクセのある私の状況を考慮しない一般的な情報(マスコミ、教育、公報)には発信する側の意図があることに自覚的であれ、ということである。

そして次にはその情報は自分の無意識にも語りかけているので、今度は自分の無意識からも次々とお誘いがくるので一度聞いてしまった以上は今度は自分の無意識ともお相手をしなくてはいけない。

 

営業マンは以下のことを学んできて、貴方の前に立っている

もう一度書く。

できるかぎり自分の行動と潜在意識をよく観察して、自分の本当にしたいことを見極めるのが生き易い。

 

 

ゴルディロックス効果 値段は6対4対3の割合にすると真ん中が人気商品に  本当にそれが欲しいのか?  

返報性の法則     何かを貰うとそれに対してお返しをしてしまう    不適切な親切は受け取らない

単純接触効果     接触回数が増えることで相手を信頼する    親近感と信頼感は別物だと戒める

混乱法        判断するのが面倒になり、差し出されたものに賛同する。  いったん持ち帰る。

社会的証明      周りと同じことをしたい           本当にそうしたいのか自問する。

クロスセル           購入を選択したら、勧められると関連商品も買ってしまう。 決めた以外は買わない。

コントラスト原理   はじめに高い商品のあとに、安い商品をすすめる     値段ではなく品質をみる

一貫性の原理     自分の選択したものの価値が高まっていく心理      第三者の意見を聞く

リスクリバーサル   返金保証などで購入の不安を売る側が引き受けて、買いやすい環境を作るテックニック

ローボールテクニック 旨みのある提案をして承諾させたあとに、徐々に売り手有利に変えていく

ピーク・エンド・セオリー  ピークとエンドの出来事を深く記憶に刻み込む

理由付け      「なので」に強く反応し、理由の内容に関わらす、相手を手助けしたほうがいいと判断させる。  比較して理由の正当性について検証する。

権威付け       権威が信じるに足るものかどうか調べる          権威に頼るようでは

エビングハウスの忘却曲線  20分で58%が忘却。               忘れることが大切

復習曲線       20分後に復習、後には1日後、1週間後、一ヶ月後

ウィンザー効果    当人から聞くよりも、第三者からの方が信ぴょう性があると信じる。裏をとること。

承認欲求       人に認められたい、褒められたいという欲求 相手を積極的に承認してバランスをとる

自己開示の法則    内面の弱い部分を見せてくれた相手に心を開く   返報性が働き親近感が深まる

サンクコスト効果   既に支払ったコストにこだわってしまう。    今の状況から合理的に判断する

恐怖管理       恐ろしい情報の後に楽しい情報を与えられると影響を受ける。 テレビCMの手法。

カリギュラ効果    禁止されるとやってみたくなる心理  禁止ではなく後回しにすると欲求が落ち着く

ハロー効果      相手の目立つ特徴に魅惑され、過剰評価してしまう。 即断のデメリットも考える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

意識と脳の関係

意識は脳との繋がりが深い。

そこで、脳と意識は同じものだと思っている人もいる。

また脳がなければ意識はないと思っている人もいる。

脳はカタチ(モノや概念)として認識することができるが、意識は見ることができないものを感じることができる。

例えば、電流、重力、湿度、磁場を感じる微生物や植物のように。

 

では、

意識とはなにか?

日常生活で「意識」というと

1 何事かを気にとめること   スポットライトのように対象物に、関心(注意)を向けること。

2 目ざめているときの心の状態。    「意識を失う」「意識にのぼる」

3 ある物事に対してもっている見解、感情、思想など、社会的、歴史的な影響を受けて形成される心の内容。  「意識が高い」「罪の意識」「社会の一員としての意識」

 

また英語のconsciousnessの日本語訳が意識であるが、これは上記の1,2,3を意味する。

語源のラテン語では con-「強意」sci「知る」-ous「性質」-ness「こと」で、 気づいている状態を指す。

同じsci,.scio(=知る) 語源が同じ単語

Conscience 良心、意識 LL.conscius

scholastic 学校の、(しばしばS-)スコラ哲学() L.schola(school)

science  科学、知識、学術

nescient 無知の、無学の、()不可知論の

nice   よい、けっこうな、おいしい L.nesciere(=知らない)

nicety   正確、精密、機微

omniscience  全知、神、博識 omni(all) L.scio(=知る) 全てを知っている

prescience   予知、先見

 

ポイントは、sci-sci- : L.scio/scire = to know(知る)で、

この知るとは五感と脳による認識や「気付き」を意味するので、

I know Godとは言わず、I have to experience Godのように表現する。

 

以上のことから日常で使う「意識」とは以下のように、知覚、認識、思想という意味で使っている。

1 知覚     意識を失う  lose consciousness / pass out / faint

意識は最後まではっきりしていた  Her mind was clear to the end.

2 認識,自覚   彼には罪の意識が全くない  He has no sense whatever of having done wrong.

彼が意識的にしたことだ 〔故意に〕He did it consciously [deliberately].

3 個人や集団の思想・感情    階級(民族)意識  class (race) consciousness

 

 

確かに脳によって表層意識はコントロールされている。

そしてこの脳によって生まれたのが自己意識である。

意識の意味は以上のようであるが、これらの共通点は何であろうか?

それによっては広義の意識について話し合えるかもしれない。

 

共通点は、こちら(自己意識)の都合だけではなく、あるパターンに対して反応して、また時にはそれを自覚していていること。

この「反応している」そして「自覚している」ことを広義としてみることにする。

すると、「反応する」だけならば、あらゆるものが意識を持っている可能性があることになる。

植物が自覚しているのかどうかはわからないが、食虫植物は外部の刺激に対して反応して、例えばハエトリグサは触感によって葉を閉じる。

この反応を日常会話では意識と呼びはしないが、このエッセイではヒトの内臓運動などを例にしながら考察を進めることにする。

                                                               

内臓に意識があるのか?

そういうと「ない」と答えるだろうが、

内臓には内臓の都合がある、といえばそれは認めてくれるだろう。

例?

たとえば、食事をすると、消化のために腸管への血流を増加させ、血液のリザーバーとして脾臓が収縮して脾臓の血液を動員します。この時に急激な激しい運動をすると、脾臓の収縮が増加し、これがわき腹の痛みになると推定されている。

 

ここで、意識とは、こちらの都合に関係なく、そちらの都合を表現するものだと仮に定義してみる。

都合がある、とは都合を持つものがいるのだから、そのことも意識と呼んでみるのである。

しかし、そこまでいくと意識の拡大解釈は行き過ぎなので、三木成夫のように、脳に関するものを意識、内臓は心と定義する人もいる。

参照 三木成夫、   ヒトとは一本の管である。内臓の意識をカタチにしたのが顔面の表情でもある。

人体5億年の記憶 布施 英利

 

 

層のある意識

意識には表層から深層までの深みがあり、それを

 

感覚器官+脳(大脳旧皮質)      =表層意識  感覚     自己意識

脳(大脳新皮質  記憶、予測、論理) =表層意識  思考     自己意識

内臓器官+脳(大脳辺縁系)      =中層意識  身体意識    内臓意識 ソーマティック・マーカー

魂+脳(脳幹)            =深層意識  神秘意識   一つにつながっている世界観

のように層として区分する仮説もある。

 

脳は神経管が発達してできた器官であるが、生物の中には神経管が発達していないものもある。

例えば植物、微生物。

松の樹や海のホヤや見えない微生物たちは、どれも目や耳や鼻や脳(神経管)を持たないのに、環境の変化に反応して生きている。

反応しているのだから、五感や脳ではなく間違いなく他の方法(媒体)をつかっていることは推定できる。

 

たとえば走性taxisや屈性tropismといって、ミドリムシや植物は光を当てると光源に向かって移動しようとする性質がある。

その他にも刺激となる圧力、化学物質、電流、重力、水、湿度、空気、磁場、温度、接触に対しても生物は神経管(脳)を使わずに反応することはわかっている。

ヒト科の生物も同様である。

つまり脳がなくても、生物は外からの信号を受信してそれに脳を経由せずに無自覚で反応しているということだ。

これらの感覚と反応は脳からみれば不思議な体験となる。

意図していないのに勝手に行動しているからだ。

生命体ならばどれもが持っている反応なのだけれども、これらは五感と脳では認識することができない。

この無自覚な走性を意識できるようになると、深層意識になる。

これは瞑想などのトレーニングを積まないと再現性のある意識化にできないので、誰もがすぐに体感できるものではない。

 

仏教の唯識論では、八識の6つ目にくる第六識が私たちの言う意識を指しているのだが、通常者にとっては無意識である末那識そして次の段階を阿頼耶識呼び、段階的に自覚できるものとして捉えている。

このように無意識を自覚するのは、歴史的にも多くの先達たちが体験して確認され続けており、区分する名前までついているのだから、これらがない、というのは無理がある。

参照)第六識とは、目、耳、鼻、舌、身の五識が五根を通してそれぞれとらえる色、声、香、味、触の五境を対象として、それを認識、未来の予測、過去の追想する「心」の働き。

 

 

意識と思考  時間のスパンや意識の層の違い

人の発言はその人の今まで生きてきた経験を表している。

これまでに学んできたことを言葉というカタチにして表しているので、その表現された言葉から育ってきた環境や思考法や性向も推論することができます。

各自の言葉は各自の思考の仕方の現れであり、この思考方は、その人の意識のあり方や意識の段階と関連しています。

 

思考の仕方は関わる情報のインプットにより思考パターンも違ってくる。

このインプットする情報の性質を

法則として認められることだけにするのか、

目に見えているのならばそれもデータに加えるのか、

無意識のことも加えるのか、

見えていないが本質や本能のことも加えるのか、

ということで、データの取り方も結論も思考の仕方も思考パターンも変わる。

 

例えば時間という切り口で実験するのならば、調査の対象を眼の前で起きていることだけにするのか、3秒にするのか、1日にするのか、10年にするのか、全生涯にわたるものなのかによって思考の仕方が変わるように。

 

脳をベースにした現代社会

この現代文明社会は脳のことを信じ、これを基準にすることで成り立っている社会である。

言い換えれば脳が正常に機能していることを前提とし、これをこの世では正気と呼ぶ。

だから人を殺しても犯人が正気でなければ罪に問われないよう判例もあるように法律は作られている。

 

無罪の例では、 

オンタリオ州トロントのケネス・パークス(当時23才)は義理の両親を殺したが、半意識の状態にあったと判断されて無罪になる。

判決文は、

「コモン・ローでは、他の場合ならば犯罪となる行為を行った人物が、無意識または半無意識の状態であった場合には無罪である。精神の病気または理性の欠如のために、その行為の性質やそれを実行するのが間違っていることを認識できなかった場合も責任を問われない。

人は意識的、意図的行為に対してのみ責任を負うというのが刑法の指針である。」

 

都市文明社会の前提の常識とは、脳を肯定することからはじまる。

だからこれほど科学が兵器を作り、理念が主義となって人を殺しても、これらをいまだ称賛して、子供が文明を目指すように教育するのである。

 

人口密度によって脳の使う部位も変わり、自然現象も常識も法律も変わるので、未来では、人口密度のおける法律の改正も行われるだろう。

たとえば、運転免許を返還する年齢設定などにも有効であろう。

 

 

植物は酸素を供給しているとか、C02を削減することで気候変動をコントロールできる、と妄想を信じている人には、アタマが良くて優しい人が多い傾向がある。

それらは観念の世界の賢さや調和や優しさであって、自分のカラダのことを掴んだり共鳴している優しさではない。

アタマを過剰一般化するために多用してしまい、カラダの聲を聴く時間が足りないためだ。

美味しいスムージーを与えてくれる優しき人は、冷たく消化がよく甘くて栄養価が高いものが、腸にとっては有害であるかを知ったり体感する優しさには欠けている。

「人間が情熱を傾けるのは、(解決可能な)答えがある課題だけである」とはいかにも深層意識にアクセスする瞑想などに関心がなかったマルクスの言葉。

観念は脳の産物だから、自分の脳内の問題はとりあえず解決できる。

しかし、自然は脳の産物でないために脳が行っている合理的なアプローチでは解決不能だ。

 

見えないものもベースにしている現代社会

現代では見えるものを参考にして物事を判断する。

大切なことだ。

だからといって、見えるものだけをベースにして、世界を脳内で作り上げてしまうのは早急すぎる。

いやいや見えないものなんて信じないし、そんな見えないものを含めて世界をイメージするなんて荒唐無稽だ、というのもよく分かる。

でも実際には、見えないものをベースにしているじゃない、文明社会は。

電子顕微鏡、電子望遠鏡、人工衛星などの肉眼では見えないものをベースにして社会は話を進めている。

確認を取ることもなく、都合の良いものだけに意識のスポットライトを当てて、脳内世界というバーチャルリアリティで暮らしている。

少し話は横道にずれるが、

たとえば、清掃、美容、洗濯における減菌化をスローガンに掲げる衛生感覚をお持ちなのならば、トイレの細菌よりも自分の顔に棲息している200万匹の顔ダニ(学名:Demodex folliculorum)に対して関心を向けるのはどうだろう?

全ての種の哺乳類に、特異的に種分化したニキビダニが寄生しており、皮膚の上の異なる種類の分泌腺ごとに種分化が起きていることもあるため、少なくとも5千種以上の種が存在する。

それなのに顔の減菌よりも、電車のつり革の減菌を優先させる。

なにも寄生しているダニを殺菌しようといっているのではない。

先に答えを言っておくと、このダニは殲滅しないほうがいい。

常在菌としてヒトの皮膚と共生しており、その恩恵により皮膚が害のある微生物から守られているからである。

社会や政治や企業やトレンドによって、意識のスポットライトは簡単に誘導され続けている、ことを確認しているだけである。

 

ヒトの認識の特徴

内容が重複してしまいますが、違う例えを最後にもう一つ使ってみます。

この世は常に変化している、休むことなく。

どこまでも区切りがなく、ずっと絶えなく。

しかしこの変化し続けるモノとそれを含んだカタチ無きモノを表層意識ではとらえることができません。

そこで、これらの変化をビデオの1コマのように止めることで、はじめて認識できるようになる。だから、意識はこの世の変化にいつも遅れてしまうし、その認識と判断は常に過去の状況に準じたもので、新たな「今」のものではない。 そこで、ベイズ統計のように常に常にデータの更新を必要とするのが自己意識(判断)の宿命です。    

そして問題は次の自己意識。

「囲む」という瞬間芸で、外から入ってくる情報(電気刺激)を一旦止めて、時空や状況という条件を閉じて結びつけて固定化させて、それを分析して、その中に因果関係という法則を見つけ、それをパターンとしておぼえて(過剰一般化して)、未来に適用する(過剰具象化)。

これが自己意識のできることなんだけど、メリットは未来予測の確率が高まるということで、デメリットは法則外のものがいつもあるので、それに対しては対処できず、それが意外に一杯あること。意識の枠に閉じ込めなかったものはどれもが法則外。そして時空と状況の条件に少しでも変化が出たものも法則外。だから正確にいうと法則外がマジョリティーであると言う事実。

 

 

 

 

 

 

 

 

『空観,仮観,中観』

私たちは脳というプログラムに支配されたゲームのキャラである

 

実はこの世界は、ゲームの世界と大差がない。

私たちは各自の感覚器官が感知可能な範囲の情報を元に脳によって創り出された仮設の代物でしかないということ。

その構造はプログラムが創り上げたVR(仮想現実)の世界とそう変わりません。

また、冷静に考えれば「一体何の意味があるんだ?」と思える非合理的な行為でも、

脳が設定した価値基準を理由に求めてしまう私たちのあり様は(我思う、ゆえに我あり)

ゲームが設定したレアアイテム(キャラ)を追い求める様とそう変わらないでしょう。

 

更には、この世界もゲームの世界もどちらも電気や原子の状態でしかないことも含め、

この世界もゲームの世界も、全体のごく一部だけを取り上げて世界を構築している。

 

私たちは脳(ゲーム)や社会(運営)が後付けした価値に操られているに過ぎません。

そしてそんな現実世界という名のゲームと、富や名声という名のレアアイテムに対し、

これを

「ただのデータ、ゲームに必死になって馬鹿じゃないのw」と考え至ったのが空観、

「例えデータでも、レアアイテムはあるだけ欲しい!」と執着してしまうのが仮観、

「データに固執などしない、けど…ゲームって面白いし、ここにはここのリアルがある」と考えたのが中観。

という解釈もできます。

 

さて、『空観,仮観,中観』、個人的にはどの生き方も個性の範疇だと思いますが、

現実の世界には「人数制限付きの夢」という数量限定のレアアイテムが存在する以上、

「ゲーム(人生)が楽しくないのは運営(社会)やアイテム運(金運)が悪いせいだ」

と事象の有無を絶対視する『仮観』だけでは、息苦しいことも多いでしょう。

そんなときには、クリアを目的とせず、楽しむための手段としてゲームに取り組み、

アイテム運のなさもゲームの面白味の一つとして楽しむ『空観』でも『仮観』でもない『中観』が役に立つ

…かもしれません。

 

我思う、ゆえに我ありとは

意味 ラテン語〈コギト・エルゴ・スムCogitoergo sum.〉の訳。

世界を疑い続けている私という存在は、否定することができない。

私が考えていることは、私が存在する証明である。

関連用語 デカルト、心身二元論、物心二元論、実体二元論、合理論、演繹法、

 

私たちの思考や行動は、脳からの影響を大きく受けている

夢の中の世界は観測はできても実在はしないように、観測は存在の証明にはならない。

それは眼前の現実世界も例外ではなく、疑わしいものを全て取り除いてやると、

最後に残り、唯一存在を肯定できたのは、そうして思考をしている自分自身だった。

というのが、かの有名なデカルトの『我思う、ゆえに我あり』の概要…なのですが、

 

最後に残ったそれは、その思考や行動は、本当に自分の意思によるものでしょうか?

 

例えば食欲。

味覚は栄養価や栄養バランスと必ずしも相関がある訳ではなく、味を追求して精米し、白米が主食となった時代にはビタミン不足で脚気が流行したり、過剰摂取が糖尿病などに繋がる砂糖には薬物中毒と同様の依存症があるなど、私たちは味覚という、脳のくだす非合理的な判断に踊らされている側面もあるものです。

 

そのほか月経前症候群やカフェイン中毒などによる精神症状も含め、

私たちは思考や行動を、必ずしも自身の意思によってのみ決めている訳ではありません。

人は誰しも少なからず、脳内に分泌される幸せホルモンの依存症で、

極端に言えば他ならぬ自分自身の脳にマインドコントロールされ、時にはその行動の持つ意味や合理性すらも理解できていないまま、無意識の内に非合理的な方向へと走らされてしまっていることもあるのでしょう。

 

とはいえ、一方で幸せホルモンには健康増進効果という合理性もあり、追い求めるのが無意味という訳でもないので、過度に忌避する必要はないと思います。

 

しかし、依存症の自覚がないまま身を滅ぼしてしまうのも考えものですから、その選択は本当に自分の意思によるものなのか、自問自答してみるのも一興でしょう。

 

rebirthリバースのビジョン     繋ぎ合わせられた想念と内臓からのメッセージ

ドラッグのために五感認識システムがブロックされて表層意識が活動しなかったので、大脳皮質内で流れる情報を中間意識が勝手に編集した。

この情報のエレメントは消化器系、循環器系、神経管系からの情報と、過去の記憶、とそのブリコラージュされた創作である。

中間意識の特徴は、矛盾の回避、合理性、辻褄合わせ、因果関係である。

なぜリバースなのか?

何を死んで、何を新しく生きようとしているのか。

 

脳に乗っ取られた人たち

Selfish gene なんてことを言ったり信じたりする人たち。

遺伝子は環境に適応して変化していく。

水がない場所では水分が蒸発しないような生命体に。

寒いところでは、凍りつかないような生命体に、へと。

そんな遺伝子をまるで自己を他者に優先させる源であるかのように誤解したがるのが、脳に乗っ取られた人たちの特徴である。

参照  リン・マーギュリスLynn Margulis   共生進化論

 

バーク『近世ヨーロッパの言語と社会』(2009)

共同体(共認基盤)を喪失したヨーロッパにおける社会統合は、共同体を失ったがゆえに規範共認では集団を統合することが出来ず、法律などの観念で統合するしかなかった。

風俗も言語も違う部族の寄せ集めにすぎない欧州が「ヨーロッパ」という一括りの観念が成立したのは、キリスト教とラテン語という共通(支配)観念があったからだが、これも共認基盤を喪失したが故に観念によって統合するしかなかったことの裏返しだった。

教皇権力が王権より強かったのも、観念(キリスト教とラテン語)で統合するしかないから。

共認基盤が存在せず、観念統合が全てなので、観念は権力を獲得し保持するための武器(手段)となる。

だから、ヨーロッパでは中世キリスト教会でも、近代の科学者たちも、エリートの間だけで観念を隠匿し、大衆には知らしめないことが、支配のための常套手段となってゆく。

例えば、神聖ローマ帝国の王となったシャルルマーニュもが権力を安定的に維持するために教会の権力を必要としたのは、彼が武力だけでのしあがった、言わばやくざの親分に過ぎなかったからであろう。

力が強い者が支配者になれるというルールだけではいつまでも殺し合いが続くことになる。

本源的な共認が崩壊したヨーロッパでは、教会が王として認めることが王権を安定させる唯一の共通観念だったのであろう。

 

言語と民族の関係がかなり古いものであるように見えることを確認するが、しかし「こうした見せかけの近代性は幻想にすぎない。民族ということばで示しているのは今日的な意味ではないし、これらの事例における言語が、王国や帝国の絆としての言語を指していることはほぼ間違いないのである」と主張する。

19世紀以降の国家は第一義的には民族国家であり、意図的な言語政策がしばしば採用されるが、18世紀以前にはそうしたケースは稀であるし、少なくともそれは近代的な意味での民族主義の現れではなかった。

1750年頃までについていえば、言語と民族の関係より、言語と国家の関係のほうが結びつきが強かったと言って差し支えはないだろう」(233頁)。

ところが、「18世紀には言語の統一性が「発見」された」。言語と民族意識が緊密に結びつくようになり、「単一の言語」が国家の条件と見なされ始めたという意味で、18世紀後半は画期をなしているとされる。

 

19世紀以降、国軍や義務教育などが重要性を増し、ラジオやテレビなどの新たなメディアも台頭してくる。そうした中で言語の<標準化>が進展したのは確かだが、著者はむしろ、複数の言語による<競合>状態が続いていた――現在でも続いている――ことに注意を促しているように思われる。同じように、19世紀には民族主義と結びついた言語の<純化>運動が増大していったが、本書の議論を踏まえるならば、これもまた複数の言語の<混合>という事態と表裏一体のものとして捉えるべきなのだろう。実際、著者が本書で意図したことは、単一の国語の成長を語るような「国語の民族史、国語民族主義の歴史」を批判することであった(246頁)。

 

 

 

あとがき

脳のことなんか信じない人のことを「詩人」と呼ぶらしい。

正確に言うと精神病者の分類になるのだが、そういうと差別しているように思われるので、ちょっとキレイにいって区別するのだ。

彼は芸術家だから、と予防線を張って注意を周囲に与えておくのだ。

いつも精神異常になる必要はないけれど、たまにはそうなることで、また新たな深い安らかで緩やかな状態にいるのもいいかもしれない。