坐禅の意味

これまでに何度か坐禅や瞑想をしてみたことがあるが、いいことは起きなかった。

もしくはそれが自覚できていない、というのがいま感じるところであり実情。

それで坐禅するのはやめていたが、ミャンマーやタイやインドのお寺などで暮らすことが増えると、必然的に坐禅する時間が増える。

夜明け前から起きるし、規則正しい生活が送れるので、確かに清々しい気持ちにはなる。

それでもいまだにとてもいいことは起きなかったが、坐っていたときのことを振り返ってみると、見事に嫌なことや苦しいことや不快な時間を過ごすことがめっきりと減っていることに気がついた。

これは画期的なことである。

 

しかし寺から出るとまた布団の中や温泉に浸かっての瞑想はするのだが、ちゃんと腰を伸ばして坐ることはしなくなる。

そんな時でも、お経や坐禅の本を読むと坐禅の良さは改めてわかるのだが、それは頭の理解であって、行動になるものではなかった。

やはり自分の過去の体験と比べて、素晴らしく良いことを得たという実感が無いからであろう。

坐禅によるニミッタと呼ばれる光を感じたり溶ける体感があっても、アマゾンやキリマンジャロやアンデスやシベリアなどで体感したものと比べてしまったりする。

比較には意味がないとわかっていても、良いことを得るため坐るのではないことは論理的に、時に直観的にわかっていても、坐禅を毎日の日課として継続する気は起きてはこない。

しかし坐り続けることが深く大きなものであることは、すでに体感があり予感もあるのだが。

 

そこで、何かを得るために坐禅をするのは本道ではないが、私が坐り続けるには、

動機が必要。

理由が必要。

自分に言い聞かせる方便が必要。

すなわち良いことがまだいろいろと必要な段階なのが、今のわたしである。

 

 

 

 

そこで以下のようなものを書いてみた。坐禅をすると

1 幸せになる 

2 スポーツとしての坐禅

3 病気を治す

4 新たな価値観を探検できる

5 ロボットから人になる

6 宇宙の法則が身につき、悟りがわかる

7 坐禅をすれば救われる?

 

 

増支部経典のなかで「慈悲の瞑想」の功徳として、11項目を釈尊は挙げています。

1.安眠できます。

2.気持ちよく目覚められます。

3.悪い夢を見ません。

4.人々に愛されます。

5.人間以外の生命に愛されます。

6.神々によって守られます。

7.火災、中毒、武器などの被害を蒙りません。

8.すぐに心が落ち着いて集中できるようになります。

9.顔色が明るくなります。

10.こころ乱れずに死ぬことができます。

11.この世で阿羅漢になれなくとも、死後は梵天に生まれます。

 

 

 

 

坐禅が流行らない理由

坐禅を知らないのではなく、やったことのある人は少なくない。そして坐らせられると、もう5分ぐらいで「まだかなあ」と思って時計を見だす。それでも他の人が静かにやっているから、途中でやめるわけにはいかないということで、無理に無理を重ねて終わる。そうすると「こんな辛い事は二度とやらない」という体験が多い。

このように坐禅は慣れると楽しいが、初めて無理にやらされたときにはとても苦しい。

それは何にも考えないで背骨を伸ばして坐っていることが私たちの習慣にはないのにやらされるからだろう。

こうして「坐禅とは苦しいもの」という印象が世間一般に広まっているので「あんな苦しいことをやらなければ仏道修行が達成できないのであれば結構だ」と思うようになる。そして坐禅に替わるものにスポットライトを当てるのが仏教界の現状ではないだろうか。

 

坐禅は時間の無駄使い

坐禅をしているのは時間の無駄であるという考え方がある。

「二十四時間のうち、一時間も何もしないでいるのはもったいない」と考える。

ところが気持ちが落ち着いていないと、何をやっていいのかわからないうちにアッという間に時間だけが経ってしまうことがある。

 

それは気持ちと体と時間には深い関係があるからである。

まずは心身が落ち着いていることが、時間を外から見詰めるのではなく、充実した時間の内に「いる」ことの条件となる、と禅師は言う。

 

なぜなのだろう?

それを体感し、「いま・ここ」に生きることを坐禅をしながら学ぶのだと言う。

そこで、坐禅をしてみると身心が落ち着き、坐禅をやっていない時間に何をどうすればよいのかもわかってくる。

こうして身心の落ち着きが体感されると、日常生活で仕事が多くても、必要のないものを省略したり、優先順位をつけることで、早く片付けれられるようになる。
だからそのやらなければならないことややりたいことに自分の精力を集中してやっていれば、自分の一生は悔いのない非常に充実したものになる。

ところが自分とあんまり関係のない事、「人がほめるから」とか「どうも得になるようだから」ということで、一所懸命にあっちをやったりこっちをやったりしてしまい、自分をよく見直さないで時間を多く使ってしまっていることが多い。

私たちの一生の中でやってもやらなくもいい事を、一所懸命に夢中になってやっている事柄は多く、どうしてもやらなければならないことは後回しにしていることが少なくない。
そのことを釈尊は警戒された。こういう人生を避けることを勧められた。

だから多くの寺にも、「生死事大、無常迅速」と書いてあるのも、これは仏教の非常に基本的な考え方だからである。

自分に与えられた一生を無駄にするな、時間を無駄にするな、という非常に単純な教えである。

この世の中で一番もったいない事、一番大切にしなければならないモノはなんだろうか?

時間より大切なものはないような気がする。

なぜならば時間があれば、なんでもできる可能性があるからである。

ところがこの貴重な時間を私たちは大事にせずに過ごして何のために使ったのかよくわからないが、長い時間が経ってしまった、ということになることがある。

 

道元禅師が只管打坐(ただ座れ)と言われたが、それは、坐禅をしていれば仏道はすぐに分るが、坐禅をしないで仏道を分ろうと思っても絶対に分らないという意味である。

「只管打坐」とはただ坐れ、ひたすら坐れという事。「打」のは動作する意味で、坐禅をすることを「打坐」といいう。
ただ坐禅していると、体全体とこの宇宙の法則が一つになってしまって、道から外れようとしても外れなくなる。このようなことでしか仏道は実践できない。

心がけをよくして「こうしちゃいけない、ああしちゃいけない」と常に考えていても、そんな事は人にできず、ただヒトの体と心を宇宙の法則の中に入れてしまうことで間違いを起こせなくなる、と仏道は説く。

坐禅の中身を説明しようとしても、説明しきれるものではない。仏教経典を読んでみて説明を理解しても、坐禅の中身はわからない。

こういうわからないものを、私たち自身が足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っていれば、そのまま何かが感じられる。しかし、その何かは言葉では表現できない。

そして、これと同時に足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてと坐っていれば、その瞬間は私たちが仏と同一の状態に入っているという厳然たる事実がそこにある。

 

 

 

1 自由 幸福 安らぎ 束縛からの解放  ありのままが見える悩みがなくなる  考えない

 

何ものにも束縛されない

坐禅をしている時には何にも束縛されていない。

私たちは普段は学校や会社やSNSやグループの義理人情に縛られて、動きのとれにくい人生を送っているが、坐禅の時だけは何からも拘束されていない。

坐禅の時に蚊に刺されたりすると、そこで初めて外世界と関わるが、こういうことがなければ自由自在の境地に悠然と坐っている。

足を組み手を組み、背骨を伸ばすと、一切のものから解放されてしまう。

こういうものは他には中々ない。

だから坐禅というのは意味がある。

 

幸福になる

坐禅とは自分自身になることです。

自分自身になるということは、自分が何のために生きてきたか、生まれてきたかということがはっきりとわかることです。

これがわかると、非常に大きな幸福感を感じ、それが仏の状態です。

 

貪瞋痴がなくなる地味な喜び

何かを得る喜びではなく、嫌やことが起きない喜び。

坐禅をしている時には、貪(むさぼ)りとか、腹立ちとか、愚痴とか、こういうものから離れた状態にある。

なにもない喜びです。

こういう状態に自分の身が置かれている時に感じられるものが「法悦」です。 

この法悦とは、非常に地味なもので、気がつくか気がつかないかよくわからないような喜びですが、こういう喜びが人生における本当の喜びではなかろうか。

結局は人生とは毎日をいかに過ごすかという問題でしかない。そうすると、あんまり不満を待たないで、腹を立てないで、愚痴を言わないで、毎日やらなければならないことをちゃんとやっているということが人生の喜び。

仏道修行には、まさに喜びがある。

ただそれは非常に地味なもの、平凡なものでしかない。

 

安らぎ

つらい環境や苦しい事件や苦しそうな人と会うと、坐禅は一種の休息だと、感じることがある。

いや、「坐禅は足はしびれるし、痛くなる。また途中で眠くなるし、姿勢を崩してもいけないので、休息ではない」と言う意見もある。

しかし、坐蒲の上に重心をのせて、腰骨を立て、その上に背骨を立て、その上に首筋の骨を立てて坐っているということは、坐蒲の上に体のすべての重さがある、ということ。

そしてその重さの真上に頭と背骨と体のすべてがある。
このようにすると、体の重さとそれが向かっている地球の中心を感じられ、姿勢を保ち続けることがだんだんと苦ではなくなる。

しかも何かを考えなくてもいいという時間を持ち得るのは、人にとっては非常に幸福なことである。

もちろん足が慣れるまでは痛さもあるし、長い時間坐っていると「まだ時間が来ない」と気がもめることも勿論あるが、坐禅は慣れてくると安らぎになる。

現代都市文明では、このような安らぎの時間を持つ習慣がなく、次から次へと自分の体を動かし、心を動かして刺激を追い求めていく、あるいは緊張を追い求めていくことで日々を暮らしている。

そこで、その途中で休むという時間が必要なのではないか。

いや、「酒を飲めば結構休めます」というが、酒を飲むことが本当に休むことに繋がるのかどうか、あるいは一杯飲んで畳の上でゴロゴロ寝ていることが本当に休んだことになるのかどうか。


それに対して、坐禅は「安らぎ」である。

「正法眼蔵」弁道話の巻の中で、道元禅師が「坐禅は安楽の法門である」と言われた意味は単なる誇張や譬えではなく、心底安らかで楽しい行いである。

 

 

最高の生き方を見つける

本を読んでも、そこには自分の生き方は書いてない。

また、向こうからやってくる情報とは、受け取る人が喜ぶことを前提にしている。

それらの情報は受け取る人にとって本当に必要なものであるよりも、発信する人にとってメリットのあるものであることが多い。

そこで、静かに坐っている経験を重ねることで、本当の自分自身がにじみ出てくるのではないか。

そのにじみ出てきた自分自身に忠実に生きていくのが、各人にとって最高の生き方になるのではないか。

だから坐禅を通して、正しい考え方、本当の意味で自分の人生に役立つ考え方を見つけていく。

 

選択肢が減る

若い時にはたくさんの可能性があることを求めたり喜んだりすることもあるが、これは見ようによっては不幸なことである。体も心も一つなので、可能性があっても実践するのは一つでしかない。

年寄りになってくるとたった一つのことしかできなくなるのも非常に恵まれたことだと感じる。

若い時にあれもやれる、これもやれると行動していた時に自分がはたして幸福感を持っていたどうかと振り返ってみると、それは幸福というよりも迷いではなかったのかと思う。

どこへ行くのか自分自身でもわからず、あれをやり、これをやりを何十年も続けていたのだが、年取った時にはパワーも衰え、だんだんと数が減っていき最後には可能性がたった一つしかなくなってしまうのも必ずしも不幸なことではない。

 

なぜ生きるのか?

人が生きてきている以上は、自分は何のために生きているのかをわかりたいという願いがある

自分が何のために生きているのかということをはっきり摑めた場合には、自分の人生に安心がいき、どういう生き方をしたらいいのかが解かってくる。しかしこういうことがわからないうちは、一所懸命にやっていても、何となく時間が経ってしまう生き方にならざるを得ない。

 

こういう状態に対して、釈尊は私たちは誰でも何のために生きているかということを摑んで、人生を有意義に生きなければならない、と教えられた。

「本音と建前の二つに分かれているうちは、人の本当の生活はできていない。

私たちがどういう人生の中に生きているかをはっきり摑んで、一所懸命に日常生活を生きていくことがいかに大切かと気が付いた時に、初めて人生の意味がはっきりしてくる」、と説かれた。  要出典

なぜ生きるのか?
釈尊の教えの中に「四諦」といって、迷いと悟りとの因果を苦・集・滅・道の四つに分けて説明したものがある。

最初の苦諦の考え方では、一所懸命に本を読んだり、いろいろなことを考えたりするために。

二番目の集諦の考え方では、できるだけおいしいものを食べ、できるだけいい着物を着て、できるだけ人からよく思われる生き方をするために。

それに対して三番目の滅諦の考え方では、自分の思惑、世間の思惑から抜け落ち、もしくは乗り越えて、ただ一所懸命に働き、日常生活を生きていくために。


釈尊は、ご飯を食べることや楽しい思いをすることが人生の目的ではなく、自分が一所懸命に生きて、どのような有意義な働きをすることが自分の人生の楽しみである、と説いた。

このような滅諦の立場は、自分の行いを大切にして、生きていくのが本当の生きがいである、と主張する。

ただこのように実際に生きるということは難しい。

そのために四番目に道諦の立場として坐禅を勧められた。

坐禅をすることによって、私たち自身が一体どういうものであるのかを、理屈ではなく体の実感として摑んで、その実感を基礎にして日常生活を生きていくならば、そこになぜの答えがあり、もしくはこのような質問自体も消え失せてしまっているだろう。

 

ダルマに従って生きる  人の最高の生き方

釈尊の生まれる前から、古代インドにはすでにバラモン教の教えがあった。この教えは、この世の中はブラフマンという神によって創られ、私たちヒトの中にもア−トマンというブラフマンの分身があって、そのア−トマンの力を発揮すること、つまり魂を発揮することが幸福につながる道である、と説いた。

 

このような信仰以外にも釈尊の時代には六師外道の思想があった。これらはバラモン教とはまったく正反対にこの世の中はモノが中心だという思想を説いていた。

このような二つの思想の流れの対立の時代に、釈尊はどちらを採るべきかと長い間悩まれて、さまざまな修行をされた結果、「ありのままの現実」を発見された。

私たちは現実の世界に生きている。

私たちは宇宙秩序の法則の中に生きている。

だからその「法」がどういうものかということをしっかり把握して、

その「法」の教えに従って生きていくことが人の最高の生き方だ、と言われた。

 

何をしたいのか、しなければならないのかがわかる

各人だれでも、一日一日をどう過ごすかによって各人の人生が決まる。

ただ自分がどういう事をしたらいいのか、ということがハッキリしないままに、不安に駆られたり腹を立てたり、愚痴をいったりして何となく時間がつぶれてしまって、数十年も経ってしまう場合も少なくはない。 

私たちが人生をよく送るためには、まずは自分自身が気持ちを落ちつけ、体を落ちつけ、毎日何をしたらいいのか何をするべきなのか、何をしたいのか、ということが理屈ではなく分かることが大切な事になる。

そしてこの積み重ねが自分自身の人生を一番いい方向に導く

人が一生を賭けてどういうことをやるのか一つの基準は、自分自身を見失わないようにして、自分自身が毎日何をやったらいいのかを常に捉えていることである。 

 

ないものをハッキリ「ない」、あるものをハッキリ「ある」と見る事ができる

生まれた時にはちゃんとモノが見えていたのに、学習を積み重ねることによって、

私たちは無いものを有ると見え、有るものを無いと見えてしまう。

なぜなのか?

それは学習するたびに、過剰一般化という色メガネを作ってしまい、それを掛けて外界を見てしまうためである。

そこで色メガネを外して裸眼でみることをもう一度取り戻す練習が必要となる。

 

また、私たちは長年の習慣で落ちている視力をもう一回取り戻すことも必要である。凸のついたメガネを掛けていると、何もないところに「何かがある」と思い込む癖がつく。お化けがいるとか、神がいるとか、いろいろな考え方がついてくる。この世の中にありもしないものを「何かありそうだ」と思っている。

またある時には凹のメガネを掛けてしまうと、あるものをないと思い込んでしまう。たとえば、親の恩、社会の恩、国の恩とがあっても、とても小さくにしか見えないので、「そんなものはありはしない」と考えてしまう。

 

メガネを外しても大丈夫のように視力をもとに戻すことは大切で、そうすれば、この世の中でありもしないものをあると思い込んだり、あるものをないと思い込んだりして一生を送ることを避けることができる。

この視力の回復が仏道修行であり、坐禅をすることがおすすめとなる。

 

 

モノがありのままで見えるようになる

坐禅は決して難しい事でも苦しい事でもない。ただ毎日やっていると、気持ちが落ち着いて、ものがよく見えてくる。

普段にモノがよく見えないのは、いろいろなものに引きずられていたり、メガネをかけているからなので、それらがなくなってくると、モノが見えてくる。

  

私たちの見方には、体験を積んだり知識が豊富ということを好むが、これが引きずられたり、メガネを掛けるということである。

実際はメガネを外すことで、素直に実態が見える。

  

私たちの生活の実態は時々刻々と入れ替わり、変化し続けている。

色々なこだわりや過去のパターンで決めつけていると、この常に変化する状態を素直に見ることができない。

各自が勝手な解釈をしたり、あるいは始めから好き嫌いで見るから、そのままに「ありのままの様子」を見ることができなくなる。

 

さまざまなこだわりから脱け出した時に実態がよく見える。

そのためには、何も考えずに静かに坐っていることで、一切のこだりから脱け出すことができる。

偽物も本物もそれぞれに価値はあるが、一番大切な事は自分自身が本物になることだ。

 

 

ものを考えない時間

私たちは朝から晩まで何かを考えて生活をしている。そしていつの間にか何も考えない時間を持つことが少なくなってしまった。

この考えない時間がいかに楽しいものなのか、また、いかに本質的な素晴らしいものなのかを、実際に経験するのが坐禅である。

何をせずに坐っている楽しさがわかると、世間でいわゆる楽しみと考えられているものが、逆に何だか儚いという考え方が出てくる。

 

考えまいとしても考えてしまって苦労するということもある。そこで足と手を組んで、腰骨を立て、背骨を伸ばしていれば、考えようとしても考えられないので、これが救いである。

いろいろな雑念が浮かんでくるが、これは考えではなく、抑圧していたものが表に出てきた事象である。

そこで、この雑念に気づいてあげていれば、雑念の内容に深入りすることもなく、考えることもないので、その抑えられた雑念は出てきては消えていく。

気づくとは、もうその内側におらず、そこから離れていることの証しだからである。

「ぼんやりして、時間をつぶしてもったいない」という人もいるが、考えない時間があって初めて現実が見える。考えない時間がないと考えに引きずり回されて、いつまでたってもありのままの現実が見えてこない。

実は考えるということは、過去に学習した概念と一般化された言語を再体験することなので、そこには眼の前にある現実と遮断するということである。

これほどぼんやりすることは大切な行いなのである。

 

何かを考えるでもなし、感情に囚われた状態でもない時空こそが私たちの本当の人生の姿であり、そこを出発点にすることで、一つの生き方があることを坐禅は提示する。

なぜ坐禅をするかと言えば、つまらないことを考えるのはやめるためである。

そして、感覚的に刺激を受け入れ、それをインプットとする自動反応回路から離れるためである。

 

こうして、坐禅は何かを得るのではなく、普段私たちが囚われているさまざまなものから脱け出すことに坐禅の意味がある。 道元禅師がこのことを「身心脱落」と言われた。

 

 

考えを洗い落とす

仏教は「ありのままを素直に受け入れ、ありのままを素直に認める」ことを説いている。

だから、いろんな迷いを身に付けるのではなく、逆に今まで身に付いているさまざまな考え方を全部洗い落とすというのが、仏道修行であり坐禅の狙いになる。

これは仏教が宇宙そのものを説いているからである。宇宙には何か余分なものをプラスすることはない。

それなのに脳の計らいで足してしまっているので、これらの余分なものを全部洗い落としたところに真実がある、という見解を仏教はする。このような一番単純な思想、そしてすべてを包み込んだ思想になる。

仏教が生まれる頃の古代インドでは輪廻転生という「人は死んでも次の生涯がある」という考え方が盛んだった。釈尊はその考え方を肯定しなかった。そこに仏教の特徴がある。

しかし、インドの思想が仏教経典の中にも流れ込み輪廻転生などの考え方が中国や日本に伝えられている。

このような輪廻転生などの人の頭の中で考え出された思想を払い落とす為にも坐禅をするのである。

 

腰骨を真っ直ぐに伸ばしてただ坐わっていると、骨格、筋肉、自律神経、内分泌の働きの偏りがなくなる。

すると何かを考えている状態とは別の状態になっている。

このような「考えることではない」状態は仏語では「非思量」と呼ばれる。

こうして体の状態が正しくなると、考えが洗い落とされるので、ここに坐禅の大切な本質がある。

 

 

こだわらないと素直になる

坐禅によって何か余分なものがくっつくのではなく、今まで持っていた余分なものがどんどん離れていく。

だから坐禅によって特別なものになるのではなく、こだわりを失っていく。こうしてすべてのこだわりから離れるのが仏道修行であるので、外から仏道を眺めている人にとっては、修行者が悟りからも離れていくことが想像できない。


坐禅を離れて頭の中でいろいろと考えていると「どっちにしようか」とか「こうあるべきだ」と思ったり、こういうこだわりは捨てるべきだと考えてみたりして、どっちにしても素直な行動が取れない。

 

私たちが現実の中の生活で必要なのは素直な行動である。坐禅によって、いろいろな考え方に縛られている状態から脱け出し、従来の習慣から抜け出すことができれば自由自在に動けるようになる。

自由自在になった人を仏。だから仏になるために坐禅修行法がある。

坐禅をしていると「こうしなければならない」「ああしなければならない」という理屈はもう何処かへ行ってしまう。ただ目の前にある「これをやらなくはならない、あれをやらなくはならない」ということが素直にできるようになる。

こういう人生は楽である。

ところが普通はこうはならない。いろいろと本を読んで理屈をこねて、分ったことにこだわりをもつから、日常の人生を楽しむことができなくなってしまう。

 

一切の問題が解決する

事態というのは常に変化している。今の困った状態がずっと続くわけではない。そうなると、今はどういう状態になっているかをよく見守るだけでいい。どういう解決方法があるか色々と知識を得るのもいい。しかし、どうにも動きがとれなかったら、そのうちに事態が変化するので時期を待つだけでもいい。

この場合に一番大切なのは、気持ちが乱れない、慌てないこと。そして真正面から困難にぶつかること。

「坐禅をやっていれば一切の問題が解決する」とはこういう意味。

 

悩みが消える

悩みと姿勢には深い相関関係がある。

思考や笑いや悩みとは、筋肉の状態、背骨の状態、神経の状態がどうなっているかということでしかない、という視点がある。

体が緩んでいる状態から固くなるとヒトは悩み、

体が緊張から緩むとヒトは笑う。

 

このように体の状態が変わることで、気持ちも淀んだりスッキリとするという極めて単純な原理に貫かれている。

しかしそんな単純なことでは人生は説明できない、もっと複雑でどうにもならない悩みがたくさんあると感じることも多くあると思うので、本当に辛いと思った時には、少し気分を変えて坐禅をやってみたら、悩みと姿勢の関係についても何か感じることがあるかもしれない。 

 

問題を感じている時や、不安や悩みがある時に坐禅をするのが手っ取り早い。

坐禅というのは楽しいものであるが、やるためにはやっぱり努力がいるが、一所懸命に坐っていると悩みはいつの間にか消えている。

 

「行解相応」という言葉があり、行いと理解の両方が具わっていることが仏道修行の目標だ、という意味。

そこで「正法眼蔵」には坐禅の中身が書いてあるので、読むことも非常に意味がある。

私たちは文字を使い、頭を使い、問題を考えることも好きな意識体である。

だから「坐禅だけやっていればいい」と言ってもそうはいかない。

また坐禅だけやっていると、中身がわからないからすぐに脇道へそれていってしまう可能性がある。

「正法眼蔵」を読むことも大事だし、坐禅をすることも大事、両方が大事。

 

 

雑念が出てきて楽になる

坐禅をしている時にいろんな考えが出てくる。坐って感覚器官からの信号を閉ざすと、こころの中に埋もれていたしこりがイメージや感情や思いとなって姿を現わす。

これが普通の人のあり方。

考えようとして出てくる考えではなく、考えまいとしていても出てくる考えとは、それぞれの人にとって、心の奥に押さえつけられているものが外へ出てくる現象である。

このようなものに気づいたら、それに気づきの光を当ててやり、混濁している中からはっきりと意識的にイメージ、感情、思いを捕らえなおしてみる。

これを気づかずにおいて、一度表面に浮上して怒りや苦しみという形になると、この形が周りを振り回わす力を得て前よりも強いものになってしまう。そして、この感情に囚われるとこころの安らぎが奪い取られてしまうので、先に気づいていることが重要になる。

だから、こういうものに一つ一つ気づくことが、すべて外に出てしまうと気持ちが楽になって、この世の中が楽しくなる。

 

坐禅の時にいろんな悩みが出てくる、いつの間にか気が付かないうちに考えていたなんていうことは誰にでもある。そのことを決して気にする必要はない。

こういう状況がどんどんと続いていくと、心の中に押さえつけられていたものがどんどんと外に出て行ってしまう。そうして本来の自分がそこに出てくる。これが坐禅の意味。だからいろんな考え方が出てくるということは気にすることではない。

 

自分のことが気にならなくなる、人の目も気にならなくなる

現代人の多くは世間の眼を心配し、どうみられるかという自分を心配して生きている。

足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、自分自身の中に静かに入り込んむと、自分の評判や世間の目が気にならなくなり、自由自在な生活ができるようになるのが坐禅の狙い。 

2 スポーツとしての坐禅    姿勢と心  足るを知る  

 

坐禅はスポーツである

坐禅をすることでヒトは精神的に向上すると考える人はいる。

しかし坐禅を身体の向上のために実践すると考える人は多くはいない。

 

坐禅は他のスポーツと同様に、身体を鍛えるために行うという一面がある。

身体のどこを鍛えるのか?

全てではあるが、まずは腰まわりの姿勢保持に必要なインナーマッスルである。

 

動かないということは筋肉の劣化と退化をイメージされると思うが、実際に坐っていると、

動かないこととは激しい運動であることに気づく。

言葉では矛盾しているが、実際に行われていることは、骨盤の前傾と後傾が呼吸のたびに繰り返され、

それに伴いインナーマッスルに強い負荷がかかっているのである。

 

骨盤を前傾させるときは、主に腸腰筋、大腿直筋、脊柱起立筋が働いて(収縮して)いる。

骨盤を後傾させるときは、主に大殿筋、ハムストリングス、腹直筋が働いてる。

 

 

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次に鍛えられるのは脊髄に沿ってあるインナーマッスルの多裂筋。

骨盤の上に背骨を置き、その上に頭を置くように坐ることで、背骨はミリ単位の振動を繰り返すことになって多裂筋が鍛えられる。

太ももの裏にあるハムストリングを鍛え、ここに重心があると、骨盤を立てるのがラクになる。

体重を太ももの裏にかけるようにすると、重心が後ろにいくので、骨盤が倒れるのを防げるためである。

また、座っている間、お腹を1cmくらいへこますつもりになると腹筋が鍛えられ、重心が後ろにきて、骨盤が立ち、背中が丸まりが真っ直ぐになる。

 

腰回りだけではなく、脊髄、そして肩、首の深層筋も坐禅によって鍛えれれる。

たとえば、肩が上がっていると肩甲骨が動かず、周りの表層筋は緊張し、その結果として肩がこる。

しかし、下がっていれば、深層筋は収縮と伸長を繰り返し、背中や肩の表層にある筋肉はリラックスする。

 

手足の筋肉を動かさないように見えるので、これはスポーツではないと考えるのは至極常識的だが、坐禅は腰、背骨、首という生命体にとっては神経管の基盤である脊髄の周りのインナーマッスルを特化して意識的に鍛える体操でもある。

ヒトは一日の3分の2を起きて暮らすので、この脊髄の周囲のインナーマッスルを鍛えることで、表層筋肉を緩めることができ、その結果、凝り固まる体や心から解放されるのが、スポーツ禅の必要性である

 

 

 

ゼロの行動

動かないという行動である。

ゼロの行動。

これも言葉では矛盾しているが、実際には大事なスタート地点である。

坐禅というゼロの行動を実践することで、すべての行動の出発点を確認することができる。

この基点をつくることで、骨や筋肉や関節の力が発達し鍛えられ、

孤立していた各部位の連携がはじまり、新たな身体運動の繋がりが始まる。

こうして新たな体のすべてがつながり流れるような運動が維持されるのである。

だから、毎日の継続が必要となるのである。

そして、この安定した体ができることによって、はじめて安定した心の状態になる。

体と心は密接に繋がっている。

 

 

オリンピック種目に

坐禅をオリンピックの種目にしてみるのはどうでしょうか?

あまりにもバカらしく思う人も多いでしょう。

 

しかし、スポーツをよく見渡してほしい。

すると坐禅との共通点を持つスポーツは少なくない。

たとえば、射撃、弓道、バイアスロン、ジャンプの飛翔、飛び込みの着水時、体操の静止技、

どの境地でも、落ち着いた心に満月が姿を現し、追い求めているのは外の世界だけではなく、実は全て自分のなかにあるもので、どれもが呼吸を大事にして、それに気づき、凛とした空気の中で生きる喜びを感じている。

この基本になっているのが坐禅のゼロの動きである。

 

走るだけがスポーツや競技ではない。

足が悪い人や体を動かさなくても、体を鍛えてそれを競いあい、お互いを讃えることはできる。

 

 

これ以上何も要らないと思うのも姿勢次第

釈尊は初めは現実を肯定せずに、生老病死に苦しみ悩み、この世の事態を悲観的に考えて、何とか救いはなかろうかと一所懸命に努力した。

しかし、明けの明星を見た時にすべてをありままに見ることができる(悟りを得て)ようになってから、「もう救われているんだ。このままでいい」という確信を持たれた。

このように仏教の悟りとは「このままでいい」と現実を肯定することがわかり、現実に自信を持つことでもある。

 

ところがこういう自信を持つのはそう簡単なものではない。

それなので、多くの人が修行を実践している。

現実を肯定し、これ以上何も要らないということがわかり、そう生きていくために、毎日の朝晩に坐禅を実践する道を示してきた。

それなのに、私たちは習慣で「いや、自分はだめです」ということがある。

しかし、この「だめ」というのをよく吟味してみると、「行いをサボって楽をします」という意味でもある。

 

どうも気分がスッキリしない、なにか面白くないという場合には、だまされたと思って坐禅をちょっとやってみるといい。

しばらく坐っていると、さっきまでどうしてあんなに悩んでいたのか不思議になるくらいに気分が変わる。

なぜならば、それは体の状態が変わったからである。

 

私たちの悩みも、筋肉の状態、背骨の状態、神経の状態がどうなっているかに深く関わっている。

もっとはっきりと言うと、形を治すと気持ちの方も治ってスッキリするという極めて単純な原理に貫かれている。

これが私たちの体と心であり私たちの人生である。

しかしそんな単純なことでは人生は説明できない、もっと複雑でどうにもならないような悩みがたくさんあると考えるのも分かるので、本当に辛いと思った時に気分を変えて坐禅をやってみたら、これが嘘ではないことが高い確率で実感できる。

 

 

背骨と腰とインナーマッスル    智慧

半年ほど坐禅をしていると、背骨を正しく保持するインナーマッスルが発達してくる。

そうすると、簡単には背骨の流れが狂わなくなる。

これがとっても大事になる。

だから坐禅の効果とは、腰と脊髄と首の位置が維持できること。

腰の位置をが安定せずに背骨と首の位置が維持できていないと、心も不安定になり、あちこちに対応してしまう可能性が出てきてしまう。 

しかし、これらの維持がしっかりしていれば、どんな時でも、慌てずパニックに陥らず、智慧が出てきて、TPOに合わせた対処に反応できる。

体と心は一体です。

そして具体的に言うと、脊髄と智慧も一体です。

 

 

体育としての坐禅

坐禅は体育としての一面がある。

「正法眼蔵」の中に「心身学道」という巻がある。

「心身学道」とは、体と心で真実を学ぶ、という意味。

普通、宗教は意識で勉強をするのが常識とされているが、仏道では、体でも勉強するのが基本となる。

これが他の宗教と仏教との大きな違いである。

仏教以外の宗教では、宗教というのは心や魂の問題である、という。

だから体が少しぐらいおかしくても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方をする。

しかし仏教では、ヒトは生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、と主張する。

だから仏道の真実は体で摑むことによって得ることができる。

 

坐禅の腰骨の正しい位置を毎日続けて、体の状態を維持しながら人生を生きていくのが仏道修行であり、それ以外に仏道修行はない、と言う。

道元禅師が「悟るのは体で悟るのだ」としきりに書かれたのは、このような意味である。

私たちが坐禅をずっとやっていると、腰と脊髄の周辺の筋肉が発達して、腰骨を正しく保持でできるようになる。

腰骨が正しく維持できると、その上に背骨が正しくのり、そしてその上に首の骨が正しくのるので、表層の筋肉には余分な緊張がなくなり、体が左右前後に1ミリ単位で揺れるだけになり、これでインナーマッスルが鍛えられ、いわゆる姿勢が正しくなる。

 

姿勢が正しくなる基礎は、腰骨の位置が正しいかどうかに関わっている。

坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしていることが大事で、ここが体の重心になる。

腰骨の状態を正しく保つことが、体全体が健康になることに繋がり、この健康が仏道の体現となる。

すると歩く時でも、腰で歩くことが出来るようなり、立つ時には「骨で立つ」こともできるようになっている。

骨で立つとは、体の中で一番硬い骨に重心がのるので、インナーマッスルだけで体を支えることができ、それによって周りの筋肉は、弛緩したままの状態を保つことができ、この筋肉の緩みが心の安らぎとなり、必要のない条件反射などの回路を作成しなくなったり、頭の中で作り上げている理性の色メガネを外すことが出来るようになる。

 

 

体が悟る

仏教ではよく「悟る」という言葉を使う。この「悟る」という意味は仏教の真実がわかる、ということ。

仏教とは「心で悟るのか、体で悟るのか」という問いがあるが、元来の仏教では「体と心とが一つのもの」という考え方が基本にあり、これを「物心一如」や「身心一如」という。

これを理論的にいうと、仏教は体でも悟るし心でも悟る、体で悟ることが心で悟ることだし、心で悟ることが体で悟ること、になる。

 

この体で悟るとは、坐禅を表現する言葉として「正身端坐」という言葉を道元禅師は使っている。

「正身端坐」とは、体を正しくしてきちんと坐ること。

そして体を正しくした時には、自分の体全体が正しくなった時である。

これが坐禅であり悟りである、という考え方をされている。

 

だから「正法眼蔵」弁道話の巻の中で「坐禅は安楽の法門なり」と言われている。これは文字通りに、坐禅は安らかで楽しい真実に入る道である、ということ。

 

ところが世間では、坐禅というのは、苦しいものだという体験や噂が行き渡っていて、「あれは大変だ」だとか「やめたほうがいい」だとか「体が持たない」と言われるが、実際にやってみるとそう苦痛なものではない。

はじめの10日間は体が痛くなることも多いが、その感覚を気づき続けることで、しばらくすると大変なものではなくなる。

 

坐禅というのは体育としての一面があるので、やらないと何事も始まらない。

実践しなくても何とかわかるような工夫はないものかと考えがちだが、考えているだけでは道は進めない。

仏道は、甘いようで厳しい面であるので、実際にやらないと、何一つカタチが出てこないからだ。

坐禅を毎日やりだすと、肉体も変わって来る。

 

 

 

外が嵐であろうと体を壊していてもできる運動

坐禅で体のインナーマッスルから鍛えていかないと、心の問題を解決する仏道は実現しない。

 

腰を保持することができてくると、気持ちが不安定にならなくなる。

同じ問題を繰り返してクヨクヨと悩んだり、心配したりすることが起きなくなる。

日常生活で、歩いていても、立ち止まっていても、座っていても、寝ていても、気持ちの不安定が少なくなる。

このようなことから、「坐禅というのは腰を正しく保持する修行だ」といっても間違いではない。

腰を正しく保持する修行というのは、坐禅だけの問題ではない。

毎日歩いたり、走ったりするのも、正しく腰を保持することに役立つ。

ただ走る場合は雨や雪や猛暑などの気候や道路状況などで難しい場合もある。

また、ちゃんとした走り方や準備運動がわからないと膝や足首や筋肉を痛めることがある。

ところが、坐禅というスポーツは、どんな気候でも道が凍っていても関係がないので、環境に影響されずに続けることが出来る。

 

また私のようにズボラな面倒くさがりには、ランニングの格好に着替えたり、その後にシャワーを浴びることなどを考えると、坐禅のほうが楽でいい。

 

3 病気が治る 

この地球上では「いのち」はカタチとなって育ち、やがてカタチは枯れていきます。

この流れの途中に「いのち」の働きを阻(はば)むものがいろいろとあります。それならば、これらのエネルギー(障害物)を一つ一つ変容させることができるのならば、本来の「いのち」の働きを取り戻せるのではないかと思われます。

また、手術や薬や鍼灸やマッサージで現状を改善しても、阻むものがある限り同じことがまた繰り返されてしまいます。

目に見えない電子の世界、無意識の世界、そして、意識の世界の障害物に気づき、「いのち」が最もくつろぎ、元々あった気の状況(元気)をつくりだすにはどのような方法があるのでしょうか?

 

ヒトの一生と治療法

 

区分期

細胞分裂

1と2

美学

医学

考え方

弊害

治療対象

幼児期  

激しい

一から二

自然

自然治癒

天然

熱・水

全体  

意識

青年期

頂点

二から一

善悪

西洋医学

解剖・薬

意識

脳   

考え方のパターン

壮年期

安定

二を一に

叡智

東洋医学

血の循環

無意識

心肺   

周期のパターン

老年期

減少

一のまま

静寂

伝統医学

気の流れ

環境

丹田  

内外の電子・周波

 

 

ヒトの一生の視点

 

区分期

細胞数

アーシュラマ

生活

他との繋

哲学

大義

主要武器

観点

幼児期

日の出

2→

学生期

経験

感覚

カオス

成長

感情・悟性

主観

青年期

37

家住期

論理

言葉

二元論

正義

(合)理性

客観重視

壮年期

午後

37

林棲期

術・道

陰陽一致

相反一致

昔あった智性 

主観=客観

老年期

日の入り

37兆→

遊行期

ボケ

非分化

一元論

往生

老人力

主観の禅定

生前死後

0

生前・死去

 

 

空論

再生

 

大いなるもの

 

 

坐禅とは幼児期の成長期を再現すること

ここで注目してほしいのは1の領域です。一般的には自然治癒力や自己治癒力や生命力や免疫力や抵抗力や生命力とよばれるものです。

2、3、4の各分野はそれぞれプロや専門家がいるので彼らの方法を参考にするのがいいでしょう。

ところが1の分野のプロはあなた自身しかいません。あなたの常に変化する体や心や考え方をちゃんと把握できるのは、この地球上でたった一人しかいないのです。

いかに2、3、4の領域で起きてしまう障害を自己治癒力によってプラスになるエネルギーに変容させ、細胞が元来持っている力をおもてに引き出せるかがポイントです。細胞を元来の幼児期のような状態にして、活性化させることを目指します。

そのためには3や4で起きていることを体感して自分の状態を再認識するのが効果的です。

 

活性化とは生死が共に存(あ)ること

活性化させるとは細胞の数を増やすことばかりではなく、同数が死滅することが大切です。

人体の中では一秒間に500万個の細胞が誕生します。そして同じ一秒で500万個の細胞が消滅します。

この働きがしやすくなるような状況をつくるのが坐禅です。

多くの人は失うことを嫌がり、得ることを好むので、意識的に、消滅させることの意義や素晴らしさや大切さを理解して実践することが必要です。

これは吸う息だけではなく吐く息を意識的に大事にしてあげることにもつながります。

食べることだけではなく排出することに気を使うことにもつながります。

視覚や聴覚よりも、嗅覚や触覚にスポットライトを当てることにもつながります。

また触覚も体の外側ではなく内側にスポットライトを当てることにつながります。

排他的で儀式的な公式的で一般的なカタチだけではなく、共有的で祝祭的で自我を解放する時空間も必要です。

「分けること」だけではなく「分けないこと」が細胞の活性化につながります。

 

細胞分裂に良い環境とは

では細胞が伸び伸びと元来どおりの分裂と消滅が出来る状況とはどのようなものでしょうか?

それが分かれば障害を一つずつ除いてあげればいいわけです。

イメージで理解するには植物を育てることを思い浮かべれば良いと思います。

植物の成長に必要なのは、太陽(日陰)、水分、温度です。

動物にはこれらに自らの意識であるストレスが加わります。

細胞の新陳代謝はこれらに影響をうけるので、一つ一つを良い状態にする必要があります。 

すなわち良い環境と心地よい気持ちです。

これらを坐禅することで得るわけです。

 

実際の「坐禅」の治療法

「坐禅」の目標は「環境」と「体」と「心」をゆるめて、できるだけリラックスした状態にすることです。

ほんわりと暖かく優しく和やかに緩んで楽しくなることを目指します。

しかしただリラックスするだけではなく、その前や後には緊張も必要なので、弛緩と緊張の2つが波の山と谷になるように周期という波動でリラックスのことをとらえます。

脳機能学で言うと体を司る脳幹、心を司る大脳辺縁系、意識(頭)を司る大脳皮質の各所の問題に取り組みます。

実際の治療は4、3、2の順番で障害を取り除いていきます。

環境、心身、意識の順序です。

では順番が大切なので、まずは4番から説明します。

 

4の領域 環境整備

病気になった原因は体内だけではなく、体外の環境とも深く関係しています。

良い環境は体の抵抗力を強くするので、少しぐらいの病原菌ならば免疫作用が働いて大きな病とならないことがあります。しかし環境が体の抵抗力を増進させていないのならば、それを改善する必要があります。

体の調子が良いように、暑い時は涼しく、寒い時は暖かくし、湿気が多い時は爽やかに、乾燥している時には潤うようにすることが必要です。温度調節もホカロンや暖房などの体外の熱に頼るだけではなく、体から出る熱を利用する保温や、体を動かしたり震わすことによる内から作られる発熱を大切にして、体の温度を上げておくことが免疫作用や生命力にとっては重要です。

次に、空気の流れである周波や電子が適性であることに気を使います。あらゆる物体は、その温度に応じて振動して電磁波を放出しています。電磁波とはマイクロウエーブや音波や可視光線や赤外線などのことです。物体の温度が高くなるにつれて、大きな振動数の電磁波ほど強く放射される傾向があります。体に直接の影響を及ぼすキネシオロジー kinesiology(身体運動学)や気功やシャーマニズムや音楽療法やアロマセラピーなどでもいいのですが、費用がかかったり、周囲に適切な人がいない場合は、一番身近で手っ取り早いのが、身の回りの片付けです。部屋や台所やトイレの掃除や洗濯をして風呂やシャワーを浴びて、要らないものは除去して、必要と思われるものは整理整頓してから坐禅を実践することです。

こんなことが周波や電子のレベルでは有効です。

わかりやすいレベルで言うと、身の回りに必要がないものがある場合には、そこに視線がいった時にその事を気にしたり考えたり心配してしまうこと起こってしまい頭を使ってしまうので、散らかっていても大丈夫なように訓練するか、もしくは整理整頓して気が散らかっているモノに向かわないようにしましょう、ということです。

 

3の領域 血の循環 「体」と「心」

次に大事なのは、いかに体全体に血液が良く流れるようになるかです。

そのためには体内を緊張させないようにしなければなりません。

背骨や骨盤が曲がった姿勢は体をリラックスさせておらず、「骨が立つ」ような姿が体を緩ませます。

 

そのためには、姿勢、呼吸法、体の動かし方、条件反射の書き換えが有効です。

興奮や不安は血管を収縮させます。

自律神経で言うと、いかに交感神経をオフにして、副交感神経をオンにするかということです。

呼吸法によって、副交感神経が働き、脈拍は下がり、血管は緩み、血圧は下がります。

そしてこれができるようになったら波の周期を作る練習です。交感神経と副交感神経を交互に大きくゆったりと繰り返す周波を大切にする生活習慣を身につけることです。

そのためには、坐禅をする前に、体を適度に動かすことによって、先端の毛細血管に血が巡り、代謝を促します。

今までは無意識のうちに反応していた形、音、匂いを自分で意識することができるようになり、もしそれらが日常生活の中で必要のない反応ならば書き換えることも可能です。それによって自律神経の働きが自動的にオンになってしまうことを止めることができます。無意識だった考え方の癖(パターン)を止めることによってニュートラルの状態に戻します。

この三つのやり方は別のエッセイがあるので関心があれば送ります。

 

次に体内に入る食べ物や飲み物、そしてその摂取法が身体に大きな影響を与えるので「食べること」についてちゃんと向き合います。食べたものが体の一部になるのですから、当たり前のことです。

 

2の領域 ストレス 「意識」

合理的に考える方法や情報処理の方法や修正のヒントは後に書いてある「医学(理性)の限界」にあるので、ここではストレスについてみてみます。表層意識の限界について興味がある方は、別紙のエッセイを参照にしてください。

 

ストレスには意識からくるものと無意識からくるものがありますが、無意識なものは血液の循環の時にふれた「考え方を進化させる」(条件反射を書き換えるエッセイ)で減らせるので、ここでは意識からくるストレスについて見てみます。

ストレスは交感神経を通じて、直接に細胞に影響を与えます。       参照エッセイ「眠れない時には」

例えば嫌なことがあると胃が痛んだり、強度の不安が3日間続いただけで胃潰瘍になったりする人が身の回りにいたりします。

ストレスとは、狭隘、圧力、緊張のことです。硬くなってしまい柔軟性が減少してしまうことです。ストレスの対義語は弛緩です。リラックスのことです。

ストレスは生命体には必要なものです。緊張することで、虎から逃げたりウサギを捕まえたりする大切な機能でした。ところがエネルギーの集中した都市生活では、過ちをおかすと、集まったエネルギーの分だけ周囲に迷惑(影響)を与えてしまうので、行動する時にははじめから間違いをしないことを求められるので、どうしてもストレスの時間と量が増えてしまいます。また不安、恐怖もストレスを高めます。あらゆる不安は体が慣れることや心が経験することや頭が現状を理解することでストレスは軽減します。

ここで大切なのはストレスを全くなくすことではなく、メリハリです。ストレスのONとOFFです。そして生きている間は、毎日の生活の中で同じ刺激を受けてもそれがストレスにならないように、無意識の内に慣れるようにプログラミングされています。また意識的に自分自身を少しずつでいいので鍛えていくことで過度のストレスを抑えることもできます。ただ休んでいるだけでは逆にストレスに弱い体質になってしまいます。

自然の法則はシンプルで、「使えば鍛えられ、使わなければ退化します。」筋肉のように。

ですから交感神経と副交感神経が交互にゆったりと流れる波のような生活がストレスに強くなるコツです。

 

意識のストレスは頭の中で思っていることと現実で起きていることのギャップから生まれてきます。

頭の内で想定していることが努力目標だったり目指す理想であれば、ストレスはやる気となります。しかし、形になるのが難しい欲望を実際に実現化できると思いこんでしまうことは大きなストレスが生まれてしまいます。こうなると交感神経のスイッチはなかなかOFFになりません。

例えば練習もしていないのに町内マラソンで入賞しなければならないとか、やり方を教わっていないのに会社のノルマを達成しなければならないとか、毎日の生活の中でいろいろなストレスに遭遇します。

その時には、原因が自分であれば、出来ると思うこと自体に問題があるので、それを修正すればストレスは軽減します。

もし目標を期待したり暗示したり強制したりする人が家族や周囲や学校や会社などの他者であれば、彼らにその目標を達成するための方法を尋ねてみるのがいいでしょう。会社でノルマの目標数値をあげるのはそれによって得をする人がわざとストレスを与えようと企んでいるからです。ですから、その言葉を聞き流すのではなく、そのノルマを達成する方法をステップごとに伝授してもらうか、その数値に達することができることを目の前で実践してもらい参考にしましょう。といっても実際にはそんな上司はあまりいません。与えられるストレスとは、残念ながら、その場では相手の戦略に負けているからです。負けている間はストレス時空間は存続してしまいます。無理なノルマは別ですが、いくつかの場面ではストレスを感じてしまう本人が、トライアンドエラーで効率を高めていくことで、今までの自分の頭の中で作り上げた法則や決まりごとや因果関係が自然や社会では通用しないものであることが実際の経験を通じて分かる機会に巡り会えることもあります。そうなるとストレスは減少します。そしてまた実際に活動してみると目標数値が単なるブラフか努力目標かクリアできるワンステップなのかわかってきますから、それによってストレスも低減します。

 

すべてのストレスが悪いといっているのではありません。しかし身の回りにはストレスの量と時間を減らすことが必要なケースは多いです。そのために、人間関係を学び、仕事のコツやルールや法則を摑んで、頭の中のイメージと現実とのギャップを減らすことが大事です。効率よく行動してストレスの量を減らし、そして意識的にストレスのない時空間をどんどん増やしていく工夫と技術と練習が大切です。そのために各自の環境に応じて色々なことを試すことができるので、思いつく身近なところから始めるのがいいかと思います。

また、私たちが思っている常識が、全体性ではなく一面性であったために誤解してしまっていることも多いのでそれらを修正するのも大切です。多層で成り立っているものを一層だと思ってしまっていることもしばしばあります。

例えば、殺菌、CO2、光合成、ダイオキシン、農薬、化学物質、DDT、環境ホルモンなどの功罪を勘違いしてきたパターンが、他の考え方にも共通している場合が多いので、このあたりのことを調べてみるのもいいかもしれません。そうなると、これまでの受けとめ方を修正するだけでこれから起こる勘違いを修正することができて便利です。

 

その時には今までに使っていたパターンではなく、新しいメタファーを再確認することが大切なので、興味があれば別紙のエッセイを参考にしてください。  

 

1の領域 待つこと

ここまできたら後は待つだけです。

この「坐禅」の治療法というのは、自力の考え方で治すかのように見えるかもしれませんが、実際は全く自力は使わないで、他力である自然や自分の体や体内にいる微生物や「いのち」そのものにお願いするという治療法です。

自分の意識からこの世を見ると、それ以外のものは全て「他」であるので、自然も自分の体も「他」となります。

まさしく他力本願です。この他力にお願いするために、自力(理性)を使って、他力(体)のために準備を整え、その後は意識にはお休みをしてもらい、リラックス(全身全霊でありながら無意)して他力にお任せするだけです。

細胞の分裂は意識でしているのではなく、細胞自身がすることなので、あれこれ悩んだり考えたりすること自体が細胞の活動を邪魔してしまうので、任せることが大切です。意識を使うのではなく、ぼんやりするのがいいんです。

坐禅の気分ではない時には、草むしりや温泉や雲を眺めたりハンモックに揺られたりするのもいいですよ。

 

坐禅の「マ」の四段活用

理性では勝てないものがあるという事実を知り、    まけて  負けて

それを自覚してこうべを垂れて行動に移し       まいって 参って

意識の外側にあるものに主導権を渡し、        まかせて 任せて

自らが動いてしまうのではなく、時が来るのを     まつ   待つ

 

 

意識にはできないことがある、これを気づかせてくれる坐禅

意識にもできることと、できないことがあります。

できないこととは「身体と無意識と非意識の世界」を意識の方法で把握することです。

意識にはどんなことができないか、まずは身の回りのことから見てみましょう。

普段の生活では、なんでも意識がないと生きていけないと思っている私たちですが、実際は一日の90%は意識を使わずに生きている、と突然に言われても、信用できますか?

計算の仕方はいろいろあるので、数値は上にも下にも変わりますが、多くのことは無意識のうちに行動されている例を見てみましょう。

時間的に長いのはなんといっても睡眠。この間は夢は見ても、意識はお休みです。実験でラットの睡眠を邪魔して、ずっと意識状態にさせていると、体温が下がり、体重が減り34週後には免疫機能が低下して感染症で死亡する確率が増えるというデータもあります。

私たちの日中でも昏睡状態のようにボーとしている時は度々ありますが、これも意識を使っていない状態です。また病気による昏睡状態もあります。私の親しい友人の二人が現在でも植物状態となっていますが、一人は22年間、もう一人は4年の間に意識が目覚めたことがありません。だからといっていつも寝ているわけではなく、アクビをしたり、体を伸ばしたり、食べ物をを噛んだり、目を動かしたり、手足を硬直させたり動かしたりします。見たことがない人はこれは信じられないと思うので書きづらいのですが、人によっては器具を使うことで歩くこともできるようです。

そして、生きていることに欠かせないのが、生命体の内臓運動です。これらのほとんど意識で支配していませんが、まるで内臓自身が自分で自律しているかのように運動しています。その中でも呼吸系器官は意識の影響を強く受ける数少ない内臓ですが、もし意識が制御しなければ、無意識のうちに息を吐いたり吸ったりしています、寝ている時のように。

また、血液の循環運動も意識がコントロールしなくても、働いています。喜びや恐怖をイメージすることで心臓の収縮と弛緩のリズムに影響を与えて脈拍は変化しますが、これらも意識がない状態の時でも活動しています。

次に口から肛門までの消化活動ですが、意識ができるのは顎の咀嚼ぐらいで、胃や十二指腸や膵臓や胆嚢や小腸や大腸は意識を使わなくても収縮と弛緩運動や蠕動運動をしています。一番の圧巻は小腸の消化運動で、消化をするために意識を使わないどころか、小腸にいる100兆個から1000兆個の腸内細菌に頼ってお任せしていることで、ヒトは生き続けています。

 

日本語では恒常性と訳されている、ホメオスタシスhomeo〈等しい〉stasis〈平衡状態〉も無意識です。

これは外界の変動にさらされても、内界の状態を一定に保つ機能のことです。

血液内の酸素,二酸化炭素,塩類,ブドウ糖,各種タンパク質などの濃度やpH,粘度,浸透圧,血圧や、体温などの変化を、電気(神経)と化学(ホルモン)によって調節し、定常状態に戻す方向の指令を発します。

そしてこの機能は個体だけではなく、グループや種の維持にも適用されるという実験結果が集まりはじめました。たとえば,生物群集における種の構成の安定性を生態的ホメオスタシス、同種の個体群における遺伝子分布の安定した平衡状態を遺伝子ホメオスタシス、発生過程で一定した表現型を発現する現象を発生的ホメオスタシスと呼ぶように。

どれもが意識が関わっていなくても自律的にバランスを保つように機能します。

 

坐禅すると無意識と自律神経の世界に入ることができる

また、意識は自律神経との間にも密接な相関関係があります。

脊椎動物の受精卵は内胚葉が消化器系器官に、中胚葉が循環器系器官に、外胚葉が神経管系器官として成長していきます。

TPOにより消化器系器官が活性化する必要性がある時には内臓に血液が多く送られ、神経管器官が活性化する必要性がある時には脳や脊髄に血液が多く送られます。この割り振りをしているのが無意識で働く自律神経です。

脳や筋肉が活性化する時には交感神経が働き、消化や血液循環が活性化する時には副交感神経が働きます。

血液はその時の意識の状態によって割り振りされ、脳と内臓を交互に補うことで効率の良い生命維持がなされます。

血液は意識を使う時には脳に、使わないときは内臓に多く流れます。

 

自律神経と内臓の関係は

 

自律神経

血圧

心拍

グリコゲン

胃液分泌

インスリン

小腸消化

意識

交感神経

上昇

上昇

分解

減少

低下

便秘傾向

非意識

副交感神経

下降

下降

合成

増加

上昇

下痢傾向

 

上の表からわかるように、副交感神経の役割は重要で、意識の活動していない睡眠時や休憩時に、成長ホルモンやエンザイムや免疫細胞が生成されます。 

坐禅を実践することで、このような副交感神経が活性化され、身体や無意識や非意識と接触する時間が増大し、身体の新陳代謝や自己治癒力が活性化されます。

      

 

話をヒトの日常生活に戻してみると、多くの行動を意識せずにやっていることに気がつくと思います。

例えば、外出する時に意識せずに靴の紐を結んだり、歩く時に右足から始めていたり、このエッセイを読みながら意識せずにコップからコーヒーを飲んでいたり、気がつかずに頭を右手で触っていたりです。

また、行動だけではなく、頭の中で起こっている脳の活動も多くは意識にかかわらずに行われています。

なにかを思い出す時に意図せずに多くのことが浮かんできたり、条件反射では意識にのぼることもなく外からの刺激に反応して行動していたりしています。

実は新しいアイディアが浮かぶ時や創造力にも、非意識が大きく関与するメカニズムによって、生み出されています。

これらのことから、生命体がサバイバルするには意識を使わないことが必要で不可欠なことがわかります。このようなことも坐禅をすることで気づかされます。

 

 

医学の限界に気づくことができる坐禅

優秀さと誠意と一生懸命

前世紀から医学の問題が周囲にも溢れかえっている。医学は命を扱っているのでその判断や治療には直接に生死にかかわってくるのだから、俎上にあげられることがどうしても多くなる。そして医学の判断によって自分や家族の命までもが危うくなってくると、誰もが黙っているわけにはいかなくなる。人様といえど自分の命を無配慮に預けるわけにはいかない。それも受験、大学、国家試験、病院の世界で過ごしてきた人たちに対してはことさらである。何故ならば、はじめから正解がある中から答えを選んだり、二つの中から一つを選択することにかけては熟練者で、その技法と合理性と思考法とそれらのスピードにおいてはプロ中のプロであるがゆえに、この思考法が体の隅々まで染み込んでしまったことが時と場合には逆に足枷になることがあるからである。もし医学の矛盾と恐ろしさを知らないのならば、ますます人の命やこの世の生命体は医学によって危なくなる。彼らは総じて、優秀で誠意があり一生懸命だからである。

 

なぜこんなことになるのか?

答えはシンプルで明快だ。

一つ目は、命に関わる判断をしなくてはならないから。職業柄なのでこれは仕方がない。

問題は二つ目の医学そのものにある。正確に言うと命にかかわる学問そのもの、もっと大きく言うと「全体性」の中では言葉(理性)に限界があるので、医学のアプローチにも限界があるので致し方ない。

 

たとえば、良いことの優秀・誠意・一所懸命にもネガティブな面があり、善と悪の両面性がある。

 

優秀さとは何が優れているのか?   主語は何?    劣のメリットを選択せずに始めから排除してしまう。

誠実さとは何に対してなのか?    目的語は何?   体からのメッセージではなく意識に真摯で忠誠。

一所懸命とは何をやっているの?   動詞は何?    決まった目標に懸命で無常には耳を傾けない。

名詞を扱うときには注意が必要だ。名詞にはTPOの条件が定かでなく、主語と目的語と動詞が抜けているので、流動化したものを固定化することで勘違いが始まってしまう。

これらのことがちゃんと認識されていない限り、これからもずっと医師によって、いや自分自身の意識によって、命は危険に冒される。

これからの医師には医学だけではなく、この意識の仕組みと無意識の仕組みと全体性についての理解をしてもらった上での判断と治療でないと、これまでと同じように引き続き医学治療が命の力を弱める行動を続ける可能性が出てきてしまう。

逆に言うと、医師と患者が命という全体性をどう認知するかということさえ習得すればいいのだから、それほど難しいことはない。

 

「分ける」限界を体感できる坐禅の効用

言葉の分割性

言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立つ。例えで言うと、小腸は十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官だが、範囲を決めてその中のモノに名をつけることによってしか言葉にすることができない。認知するとは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵としてその上にモノを並べて、二つ(それぞれ)の違いを第三者が見つけて、それぞれに記号(名前)をつけることだ。消化器官という一つのモノを二つ以上に分けて一つずつに胃や小腸と名前をつけることだ。そして学問ならば、それらの器官の間に因果関係を見つけようとする。例えばそれぞれの器官の機能を特定していくことだ。そして科学はそれが間違いではないかと何度も検証を重ねて再現性を求める。

 

これらのどこが問題なのであろうか?

全ての言語はこの過程を踏まないと認識されないではないか?

確かに、この過程しか言葉にする方法はない。

だが、これが言葉や学問(現代医学)の限界なのだ。

囲ったり、線を引いたり、左右・上下・内外を区別することでしか言葉は成り立たない。

区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならないのだからしょうがない。

 

 

生命体の特徴を体感できる坐禅

機械と生命体

次に「分けたもの」と「分けられないもの」の対比がある、機械と生命体の違いだ。

たしかに機械はエンジンのようにパーツごとにピストン、シャフト、シリンダーと分解して、それらをまた組み立てると元の形と機能に戻る。機械ばかりではなく人間界にも同じような仕組みや構造は多い。マニュアル化されているものは誰でもその通りにすれば結果が出るようになっているので、これは交換可能なことを前提にしないと作ることができない。こう考えるとこの世は仕事に勉学に生活とほとんどのことはパーツ化と再構築ができるものばかりになっている。できないものは個人では芸能、技術、存在感、人間関係では親子、家族、友人などがそうだろう。だから人はなんでもエンジニアのメタファーでこの世界を理解しようとしてしまうのだろう。

しかし有機体は、車のようにダメになったパーツを交換できる機械とは違う。名称になった器官たちをバラバラにしてまた元のように繋げても元の有機体にはならない。

なぜならば、有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的だからだ。分けたり、一部を取り去ったりすると、内なる関係性が壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化してしまう。体の内外の変化に対して均衡状態を保とうとするホメオスタシスである。だから一部分を取り去った間に、相互関係が微妙に変化をするので、取り去った部分を元に戻しても、個々の細胞が適応してしまっているので、元と同じ状態にはならない。例えばプラナリア(Planaria)というウズムシを三つに切断するとそこからまた欠けた部分が補われて、三匹の成虫に成長する。

生命体を分解してもすぐに死ぬとは限らず、生きてはいる間は現状に適応するために、内部で変化が続けられる。生命体の全体を物理的にも名称的にも強引に分けることはできるが、それらを元のようにくっつけたからといって、原型と同じものにはならないのが「いのち」の特徴だ。

 

分割すると見えなくなるものを体感する坐禅

分けられるものはいい、一般的な金属、数字、無機物は問題がない。

(厳密に言うと変化はあるのだが)ところが生きているものは分けると死んでしまう。正確に言うと、各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出してその機能を説明しているだけで、全体の中では他のパーツとの関係から複数の機能があることもまだ見つけられていない場合がある。

例えば呼吸と肺と心臓には「同化作用」と強い関係性がある。また小腸と微生物と酵素には「瞑想」と「他者」と「悟り」と「相互共存interbeing, interdependent」と深い関係性がある。しかし分割化されると関係性は見えてこず、相関関係があらわれない。分割できないものは、体験を通して実感し、多くの違った条件の下で統計的な事象を積み重ね、新たな法則を推定するしかない。相関関係は示せるが、統計や確率以外の数値による因果関係は証明できない。相関関係があるだけで平気で薬を開発するほどにまったく科学的ではないのが医学界だ。それなのに、分割しないものに関心を払うことがあまりに少ない。いや敢えて分割しないことを見ないようにしているのが、医学という「分けること」を使命にする学問の宿命である。

分割するとで分かることは、数値に置き換えることができるメカニズムの世界観だ。分割して機能を調査しても因果関係が証明できるのは相互共存の単なる一面である機械的なものでしかない。分けられないものを分けることでわかるのは全体の一部分でしかない。

このような「分ける」というアプローチは必要だ。しかし、盲人たちが象の一部を触って各自の見解に固執する話のように、問題を引き起こすこともあるし、全体像も見えないし、その「意識」も触ることもできないことは坐禅することでよくよく自覚できる。

分けることにより全体のバランスと相互関係が変化して新たな世界が作られ、分割しなかったからこそあった機能が消えてしまうこともあるのだ。

 

 

新陳代謝を活性化する坐禅

生命体には現状を保とうとする新陳代謝という秘密兵器がある。例えば食事をしたり甘いものを食べると歯は溶けるが、食べていない間に溶けた部分をカルシウムが体の平衡運動によって自動的に補充している。

また使わない筋肉は衰えるが、使う筋肉は隆々になる。これらの力を活かす考え方が生命体と向かい合う時には必要となる。

有機体の更新とは新陳代謝のことで毎秒に何百万の細胞が消滅し同時に同じ数だけの細胞が新しく生まれている。

現代医学はフィルヒョウやメンデル・モルガンの理論のように分けることを前提とし、これらを基本として固定化させてしまっている。ホリスティック医療やゲシュタルト心理学などあるが、基本的にはまだ古典的な考え方である分化することにスポットライトを当てる考え方で病院の現場は動いている。

治療者と患者はこの生命体の新陳代謝の柔らかさと弱さと緩やかさとはかなさと奇跡を体感する必要がある。

 

囲いの外にある「いのち」に気づく坐禅

情報量が増加し続ける中で、人間の能力には限りがあり、医学は次第に個々の臓器へと「分化の道」を進むことになった。

全体の中から部分だけを切り出して、その範囲内での法則を作って実用化をしてきている。しかし全体は部分の寄せ集めではない。二つの細胞に込められたDNAの2万以上の要因が常に変化する環境に反応することで分化していったものである。しかしその分化とは常に全体との関係の中である。

生命現象は流動的、循環的、可逆的、全体的、統合的、そして必然的だ。だから分けても全体性との繋がりを常に優先させて部分を語らねばならない。

 

医師と患者はいつも忘れてはいけないものがある。

厳密に言うと生命体を言葉で捉えることができない。ただ便宜上、時空の囲いというロープを張ることで、言葉にしているだけに過ぎない。

命に関わる全ての言葉は、論理学ではとらえることができないモノの集合体なのだ。医学用語も実ではなく虚の言葉でしかない。

比喩でいうならば、囲うことによってできた言葉を締め付けるだけではなく、逆に囲いを柔らかくして囲いそのものに呼吸させてやらねばならない。

瀕死の命がちゃんと働くためにはちゃんとそこに寄り添って、一緒に融解して交感するしかない。

 

表層意識にできること

西洋医学では現状を分析して知ることも大切である。この分析する意識はリスクと時間がつきものの遺伝子操作に向かっている。

東洋医学では生命体を全体として捉え、血流や経絡に注意を向けている。

民間医療では考え方と気の持ちようと学習してしまった条件反射の修正と周波と電子までもを考慮に入れている。

自然治癒力を中心に据える治療では、少しでも命の力が活性化できるように、意識が喜ぶものだけではなく、体が喜ぶ状況や生活習慣を意図的に創り出そうとする。そして、その後は遺伝子の自己組織化と宇宙の「意」にお願いしてただ任せることでしかない。ヒトの意識ができることはそのための体の内外の環境づくりをするまででしかない。

 

死に片足を突っ込んだ難病から生還した人たちの共通点は、「すべてが鮮やかに感じている」こと。

病の不安の中にも充実感があったこと、

逃げようという気持ちがなかったこと、

心に遊びがあったこと、

本人がいままでのどの時期よりも自分自身を確実に体感していたことだ。

 

「自然医学の基礎」森下敬一  抜粋

「(西洋思想の土台となっている)二元論というものは、物理の世界では大変重宝な考え方である。車やロケットなど機械を扱う分野で役に立つ。そういう世界では、この分析的、直線的、不可逆的、排中律的な考え方で十分通用する。

しかし生命の世界はこの考え方ではダメだ。生命の世界は、機械のそれとはまるっきり反対のものだからだ。

生命現象の本質は一言でいうと波動であり、ラセンである。生命の世界には直線も直角も存在しない。また生命の世界においては、すべては可逆的である。たとえば病気になっても、しかるべき処置を施せば必ず『治る』という現象が生じる。

『治る』ということは『元へ戻る』ということで、すなわち『可逆』ということである。よく今の医学は特定の慢性病に対して"不治の病"とか、"絶対に治らない"などというが、それこそまさに西洋思想なのだ。アタマが痛いとか下痢をしたというような症状に対しては、たいてい一過性で終わることから、さすがの現代医学も『治る』と考えているが、膠原病とかがんなどの難病に対しては、彼らは『治らない』と考えている。

いろいろと理屈はつけるが、基本線としては『治らない』という考え方をすえている。一度病気になったら治らない・・・この直線的思考こそ西洋思想の真骨頂だ。

けれども実際には決してそんなことはない。生きている限り、いい替えれば生命現象が存在する限り、必ず元に戻りうる。条件さえ整えば、病気は必ず治るものだ。がんも例外ではない。この元へ戻るということが生命現象の最大の特徴である。

にもかかわらず、現代の医学者自身が西洋思想にかぶれてしまっていて、直線的で不可逆的な考え方をしているから、『この病気はもうダメですよ』などということを平気でいうのである。これは実に重大な間違いである。『どんな重症ながんの場合でも、生きている限り必ず治るチャンスがある』ということを、私は口がすっぱくなるほど患者さんに話している」

 

 

4新たな価値観を探検できる 内側に光   基準点ができる  純粋 汚れの自覚 

 

スポットライトを外から内側へ     自分のしたいことがわかる

ヒトは普段は外からの刺激と内側からの刺激によって忙しいく暮らしている。

たとえば、自分がどういう事をしたらよいのかということがハッキリしないままに、不安に駆られたり、腹を立てたり、愚痴を唱えたりということで何となく時間がつぶれてしまって数十年経ってしまうという場合もある。

このような時には、まずは自分自身が気持ちを落ち着け、体を落ち着けて、毎日何をしたらよいかが理屈でなしにわかるのがいい。

そこで、坐禅をして動かなくなると、五官器官を通じた外からの刺激(信号)が大幅に減少する。

するといままで気がつかなかったことに気づくことがある。

 

坐禅を水と灰に喩えてみると、コップの中に水と少しの灰を入れて、かき回していると水はいつまでも濁っている。しかし、かき回すのを止めて十分も置いておけば、灰は下の方に沈んで水が透明になる。

普段、私たちは自分自身で心や体をかき回しているから、不安があったり、落ち着かなかったり、あるいは腹が立ったり、愚痴が出たりするので、まずはかき回すのをやめてみることから始めてみる。

 

かき回す事をやめれば自然に自分も周囲も静かになってくる。

このように毎日自分と対面していれば、いま何をしたらよいのかということがはっきりとわかる。そしてこの積み重ねが自分自身の人生を一番よい結果に導くのではないか。

「坐禅」とは心や体をかき回すのを止めること。

人が一生をかけてどういうことをするかという基準の一つは、自分自身に毎日対面して、自分自身がいま何をやったらよいのかということを実践することである。

 

 

 

体を縛る(坐禅する)ことで表層意識の動きを統御して中層・深層意識にアクセスする

体と意識の二つは相関関係があり連動していてのは、元来はこの二つは一体のためである。

そこで、坐禅をすることによって、体を固定すると、意識も固定するので、表層意識の「わたし」が固定されたくない場合には反発し、この縛りを解こうとする。

 

表層意識では、条件反射とも言われる無意識の自動反応回路にも動かされて、活動している。

というのも表層意識の存在意義(仕事)の一つは、自分にとって都合の良い効率的な自動反応回路を作りだすことであるためだ。

この回路を作るためには体の感覚をインプットとし、心の動きをアウトプットとする。

たとえば、蛇を見たり触ったりすると、嫌悪の感情になるような反応回路が作られる。

ところが、臨場感が伴う感情に左右されない平常心で坐っていると、この反応回路が作られない。

また、体が縛られると表層意識の働きも減少するので、その分だけ中層意識からの信号に気づけるようになる。

 

自分の管理

足を組み、手を組み、背骨を伸ばしているのは一種の行動です。

「出発点の行い」であり「0の行動」の中に自分の身を置いていることは、自分の管理をしていることになる。

自分の管理ができるとは、自分と自在に付き合えるということ。

坐禅とは自分が自由自在に行動ができるようになる力をつける練習である。 

 

坐禅は純粋であり真実そのもの

坐禅をしている時には金儲けや、人に誉められたいということから遠ざかっている。

だから理屈抜きに坐禅をするということを道元禅師は主張され、それが「只管打坐」という言葉で残ってきている。

もし自分に対して「欲がなく、世間の評価を気にしない」と強い自信を普段は持っているとしても、坐っている時には一切の損得や世間からの評価から離れているので、そこから自分を見直すと「自分は欲が深い。どうしても損得や人からの評価を気にしている」と反省することになるかもしれない。

このように坐禅をしている時だけは欲得ではなく、絶対の意味がある。

 

苦しみの意味を味わう

坐禅は苦との対面し、この世は苦であることを実感できる。

苦とは苦しみという意味だけではない。

この苦はパーリ語のdukkhaが翻訳されたものだが、これには、

完全ではないもの、不満足なもの、取るに足らないモノという意味もある。

坐禅をすると、自分もこの世もあらゆる限定されるものは、いかに完全ではなく、不満足であり、取るに足らない存在であり、同時に素晴らしい存在であることを体感することができる。

 

道を踏み外さないために

自分の体や心をちゃんと調整すると、目の前のことをちゃんとしていれば、不注意や見当違いすることが減っていく。

たとえばよそ見しないで、自転車のペダルをしっかりと踏んでいれば自転車は倒れないように。

人生に置き換えてみると、人してちゃんと生きていれば人の道を踏み外さない。

これができれば仏と言えるのではないか?

だから誰でも仏になれるのだが、たいていの人は仏になるのを億劫がって、そこから逃げ回っている。

そして、頭の中で考えて、こうしたい、こうしなければならない、あれはできない、あれはしてはいけない、と言うのだが、そんな事を判断しているのは体の一部でしかな脳であって、そこには体の働きや身体のリズムが含まれていない。

そこで、坐禅をやって初めて体のリズムを体感することで、 自分がやりたいと思うこととやっていることとが一致する。

 

 

 

5 ロボットから元来の人になる    二つが一つ   間のよさ  

日常の自分に気づくことができる

坐禅の境地と俗世間の境地を比べてみると、どちらが人の本来の姿なのだろうか?

社会生活や学校では比較し、評価を獲得し、合理的で、効率的なことを優先するように学習してきたから、坐禅よりも俗世間のほうが欲得や名利な生活を一所懸命に頑張っている。

しかし、坐禅を一所懸命にやっていればこれらから離れることになる。

坐禅をすることで自分自分が欲に囚われ名誉に傾く気持ちがあること気づくので、坐禅をしなければこういう自分にも気づかずにいる。

この気づきとは、そこからすでに離れていることである。もし気づいていないのならば、いまだに欲得と名利を中心にした考え方に縛られて日常生活を過ごしていることだが、坐禅をしてこのことに気がつくと、そこから次の段階のプロセスに入っていることを示している。

 

どんな世界に生きているかということを体全体で実感する     悪いことができない。

仏教思想は、断見(死後は無になる)の考え方と常見(死後、肉体は滅びても霊魂が存続し永遠に生きられる)の考え方、そのどちらでもない考え方と三つあるが、このどれもが理論でしかない。

 

頭の中で考えたことであって、私たちが生きている現実の世界の話ではない。

この現実の世界を仏教では「法の世界」という。

この法とはパーリ語のダンマの訳語で「宇宙の法則と秩序のあるありのままの現実」を意味する。

私たちは現実の世界(法の世界)に生きているのだから、まず現実の世界(法の世界)の実体を知らなければならない。その現実の世界(法の世界)を知るために、坐禅という修行法がある。

私たちが「どんな世界に生きているかを体全体で実感する」のが坐禅の目的である。

 

そうすると現実が理屈ではなく体全体、心全体でわかってくると釈尊は説く。

まず自分自身の体と心がちゃんと正しくないとモノがちゃんと見ることができなくなるので、したがって誤った判断しかできなくなり、私たちの一生があっという間に過ぎてしまう。

 

そこで、まず坐禅をして、心身を正しい状態に置くということを勧められる。

そして、どれが良いか悪いかを論議するよりは、自分の体が正しい状態に置かれ、自分の心が正しい状態に置かれていると、良いことをやらなければならないと思わなくも自然に悪いことはできずに良いことしかできない状態になるのが人の本来の姿である、と禅師は言う。

 

したがって、いくら良いことをやりたいと思っても、自分の体の状態、心の状態が正しい状態でなければ良いことを実行できない。また自分体の状態が正しい状態に置かれているならば、悪いことをやりたいと思ってもできないし、そもそもそんな気が起きない、という。

こういう基本的な体感から、私たちの人生をもう一度見直すことをされたのが釈尊の教えである。

 

坐禅をすると「人になる」

カミという全体の中では悪魔や植物は排除されるものではない。

ヒトは時には悪魔に近くなり、そして時には植物に近くなる。

しかしヒトにとっては、このどちらかに偏るのは避けるべき道である。
無意識の自律神経から見ると、交感神経が強い場合には、ヒトは悪魔に近くなる。そして副交感神経が強い場合にはヒトは植物に近くなる。そして交感神経と副交感神経の波がちゃんとしている場合には、ヒトは人になる。

坐禅をすることとは、自律神経が宇宙や身体のリズムに合わせて波をうち、その平衡している状態を味わう時空間である。

すると、頭の内だけにしかないことや無理なことが何であるのかをわかり、どんな行動をしたらよいのかということが直観的に体の状態の中に具体化する。

 

また、坐禅によってやっと人並みになれる。

だから人並みの生活をするためには、どうしても坐禅をやらなければならないのかもしれない。

こう言うと、坐禅をやっている人と坐禅をやっていない人との人数を比べると、やっていない人の方がはるかに多く、こういう人たちも、人として立派に生きているではないか、という疑問がうかぶ。

しかし、はたして坐禅をやらないで本当に人らしい生き方ができるのかどうかという疑問もうかぶ。

たしかに坐禅とは異なる「いま・ここ」の生き方もあるのだが、私の知る限りでは、それは山や森や沙漠などの自然の厳しいところで、自然と向き合って毎日毎晩を暮らしている人に限定される。

 

朝晩に坐禅をやっているから、少しは「こうしたほうがよい、ああはしないほうがよい」ということが見えてくる。

こうして街でも何とか間違いを起こさずに歩いていけるのは全く坐禅のお陰。

だから都市文明圏で坐禅をやめてしまうと、そこにはと何も残らない気がしてしまう。

 

 

 

元の姿に戻る

釈尊の説かれた「一切衆生悉有仏性」とは、私たち人は素直に自然の内にいれば決して悪いことはせずに仏を内在していることを実感できる、という意味である。

ところがこの自然の内にいることは本当に難しい。

小さい時から色々と多くの知恵を教えられているから、良いことや悪いことを自分の意志で自由自在にすることができると私たちは勘違いしている。

またこの「良い」というのは、あるTPOにおける限定された良いことであるので、この枠組みから外れると、この良いことは悪いことになってしまうケースも多い。

ヒーローの正義や、自由への革命や、理念のスローガンや、正当な報復や、病原体を殲滅させる抗生物質や、善意の植民地のように。

こららのどれもが、殺されたり、足を踏まれたり、窮屈になるサイドも作り上げてしまっているのだから。

だから、坐禅によってもう一度本来の姿に帰っていくことができるのならば、無理に悪い事をしようとしない限り、悪い事をすることはないという考え方が仏教の基礎にある。

 

このように坐禅をするのは偉くなるということではない。そうかといって駄目になることでもない。

本来の自分をつかむということが坐禅のねらいとなる。これを臨済禅師は「無位の真人」という言葉であらわした。

無位というのは位がないということ。偉くもない、駄目でもない本当の人になることである。

 

 

「間」の良さが分かる

バランスのことを中道とする解釈もあるが、二つの極端な世界のどちらでもないのが、坐禅の中道。

釈尊が説かれた「中道」(Majjhimā-paipadā、 マッジマー・パティパダー)は、2つのものの対立から離れていることで、2つの中間ではなく、2つの矛盾や対立から抜け出ていることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す。

二つの領域の間にある、初めはまるで何もないと思っている世界を体感するのが坐禅を続けて訓練する一つの理由です。

 

仏教の修行と一般の社会生活はどのような関係や相違点があるのか?

私たちが日常生活を送っている場合には、名誉を得ることは非常に楽しく、またお金が儲かることも非常に楽しい。

 

私たちの社会生活の価値基準の一つとして「名誉」がある。つまり、人から褒められたい、人から尊敬されたい、そして人によってはたくさんの人を支配してみたい、という欲求があります。フォロワー数や再生数が多いことを喜ぶのも、他者の時間を多く使うことを目指しているので、ある種の支配であると言えないこともないでしょう。

それからもう一つ、私たちの社会生活の価値基準として「利得」があります。私たちの社会生活には、お金という非常に便利なものがあります。お金があると自分の欲しいものがかなりの程度までは手に入るので、お金はたくさん貯まっても決して邪魔にはならないと思いこんでいる人が多い。

このように日常生活の中では、名誉を得た時、そしてお金儲けができた時に幸福を感じます。

そうすると、日常生活の重要な部分を占める名誉や利得を離れてみて、人は果たして幸福であり得るのかという疑問が出てくる。

                         

ある人は褒められることに熱心になる。そして人から褒められ自分も満足がいくと、今度は人から褒められるだけではつまらないと想いが出てくる。人に褒められることは嬉しいが、そればかりしていると、財産はたまらない。あるいは商売の方でマイナスが出るようになると、もう少しお金が儲かった方がいいという想いも出てくる。

すると今度は人に褒められることや世間の評価や名誉よりもお金儲けに一所懸命になる。

そして、目的が達成されてかなりのお金が儲かってくると「あいつは恥も外聞もなく、金を儲けた」と言われるのが嫌でまた人に褒められたいと思うと、また逆方向の「名誉」に動く。

たとえば経済界で活躍して財産的には恵まれた人が、そのうちに勲章が欲しくなる傾向がある。

そうすると、今迄儲けたお金を使って今度は勲章をもらおうとして、考え方がまた名誉の方向に行く。

 

こういう問題について仏教でどう考えているのか?

仏道は、名誉にも寄り過ぎない、利得にも寄り過ぎない、その両方から離れた世界である「法の世界」にいることを勧める。

名誉、利得が本当の基準ではない。その両極端から離れた「間」に「法(ありのままの現実)の世界」がある。

仏道で「中道」というのは、この「間」が本当の拠り所になるという考え方が基礎にある。

仏道修行の基本は、「間」という法(宇宙の法則)の価値観で、日常生活の中で努力をし続けることから始まる。

 

 

善と悪を一つにする

私たちの心の中には、善玉と悪玉があって、その両方があるうちはその人はまだ本来の姿ではなく、この善玉と悪玉、あるいは良心と悪心が一つに重なって、善心も悪心もなくなったところに本当のその人が出てくる。

こういう話を聞くと、たいていの人が少し奇妙に思うのではないか?

私たちは学校や社会で良心や善心は非常に大切なもので、それがなくては人ではないと教えられてきている。ところが仏教(上座部仏教や禅などの瞑想する仏教)では善心あるいは良心が目立って自分の心の中に感じられるうちは、まだ本当の自分が出てきていないというのである。

 

このような考え方は実際の生活の中で役立つのだろうか?

例えば私たちが日常生活でいろいろな判断をするときに、一番正しい現実的な判断とは、自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なってなくなった時に出てくる、禅師は言う。

良心と悪心とが別々にあるうちは「本来はこのようにしなければならないのだが」と自分の心の中で考えることがある。

ところがあまりそのように良心的にばかり考えると、現実に合わないことがある。

たとえば、具体的に例をみてみると、自分たちが損をしてしまうような場面になると、良心に従いたいのだが、実際に従うと損をしてしまうことがわかってくる。

そうすると、判断する場合にも、「どちらにしようか」と迷ってしまう。

多くの場合は良心だけに従っていては経営が成り立たず、そうかといって、良心に背くのも気が咎めるので、なんとなくどっちつかずの中途半端な判断をすることが普通の私たちの日常生活の中にある。

 

ところが、こういう心の中における善玉と悪玉が一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にも、すぐ現実的な判断ができる。これは物事を「空」にしているからである。

この「空」を色メガネの譬えを使って表現してみると、善玉の赤メガネと悪玉の青メガネを一度に重ねて使ってみると、視界が濃い紫になって何でも見えづらくなってしまうので、両方のメガネを外して外の世界を直に裸眼で見るようなものである。

 

それは、良心を基準にして考えるだけでもなく、そうかといって、良心を打ち消して損得だけを基準にして考えるだけでもなく、これらのどちらもしなくなった状態がこの世にはある。

この時に初めて私たちは心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感ずる。

こういう二つの考え方がなくなった状態のときには、決断が非常に速い。

問題があっても、すぐに答えが出てくる。

もちろんそのあとで、判断が正しいか正しくないか、色々と材料を寄せ集めて検討する必要はある。

だが、私たちの判断は長く考えた末にやっと出てくるものではなく、一番最初にどうしたらいいのかすぐに出てきてしまうのである。

こういう理想中心や物質中心の基準に依存しない、直感的で現実的な判断が私たちの日常生活の基礎である、というのが釈尊の教えである。

 

この善玉と悪玉の二つを一つに重ねるようになれる修行が坐禅になる。

だから私たちが足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時には、善もなければ悪もない状態になっている。

善もなければ悪もない状態とは、きわめて現実的な世界に生きていることである。

そのきわめて現実的な世界とは、具体的なもので、例えば、目の前に見えている窓であり、机であり、柱であり、外から聞こえる車の音であり、こういう極めて具体的で単純な世界に私たちが生きているのを、坐禅をしている時に初めて感ずる。

 

坐禅をする前や後の世界とは、これまでに学習したパターンを脳内で再生しているにすぎない。

坐禅をしていない時にはいろいろな思考パターン(色メガネ)に従って、いろいろなことを考えているから、脳が生み出した極めて複雑な世界に私たちは生きていると思い込んでいる。

ただこの頭で考えられた複雑な世界とは自分の思念がつくった世界なのであって、本当に現実に生きている世界とは別なものである。

 

私たちは現実のありのままの世界に生きているのだから、最も現実的な立場で、現実の問題について、現実的な判断を下さなければならない。

善玉と悪玉の二つを持って、こっちが良くて、あっちが悪いと言っていると、自分自身が安心した境地に到達できないが、 このような善玉と悪玉がなくなると、ただ一所懸命に日常生活を生きることに徹することができる。

それが仏の世界であり、初めも、中ごろも、終わりも、ただ真実を実行している。

 

素通しの眼鏡でありのままの外界を見るには修業が必要なので、一番簡単でかつ脳が喜ぶのは、専門家が作った「赤いメガネ」を買ってきては、雑誌や論文を読んで「赤く見えるのは本当だ」とか「なるほど世の中は赤い」と言って満足する。新しいと言われる赤いメガネは、何十年前に使い古されたものだとも知らずに。

そして時代が変わってくると、今度は「青い眼鏡の方が本当だ」という評論家が現れて、次は猫も杓子も「青いメガネ」を買ってきて「やっぱり青い眼鏡の方が本当だ」ということになる。

これが世の中の動きであり、思想の流れである。

こうなると流行の思想以外にあるだろう一生の百年や何代にも渡る何百年も変わらない考え方を探そうとする。

もっとも、流行している哲学の考え方に従って歩いていくのがちょうどよく、損もしないですむという生き方もある。

だが、これではちょっと寂しいと思う人もいる。こういう人にとっては、どんな時代が来ようとも通用する考え方とは何かを知りたい気持ちが起きる。

そしてこういうときに仏道が浮かび上がってくる。

 

 

倫理社会から離れる 善悪で判断しない

どうしても私たちは世間の倫理道徳の執着から離れられない

しかし、損得を離れ、人の評判が気にならなくなると、本当の生活や、本当の仕事ができるようになる。

この世の中で、損得だけを基準にしてよい仕事をしたという人はそんなにいないのではないか?

人から誉められるかどうかを気にしながらやった仕事というのに、そう大したものではないのではなかろうか?

人類の文化に貢献し、人類の幸福に寄与した仕事は、損得や評判を離れて努力した結果ではなかろうか?

 

一般の倫理道徳の世界とは違い、仏道の世界は利得から離れ、生活の基礎に徹底して触れるところから始まる。
このような境地に到達するには、やはり坐禅になる

それは坐禅をやっている時には損得でも何でもないからである。

人に誉められたいから坐禅をするのではそれは坐禅ではないし、やった事にはならない。人が誉めようと人が貶そうと、損になろうと得になろうと、とにかく足を組み、手を組み、背筋を伸ばして坐っていることが仏道修行である。


このように坐禅の世界は、倫理道徳の世界ではない。人がどう思うかということでやるものではないし、損になるからやらないとか、得になるからやるというものでもない。

仏道そのものの世界が坐禅の中に現れてくる。

だから坐禅に徹するということが、仏道修行の唯一最大の道である。


道元禅師は「只管打坐」と言われことは、坐禅を頼りにしない限り、仏道修行はありえない、ということである。

また坐禅を頼りにしない限り、社会の倫理道徳から離脱することは難しい。

坐禅なしの毎日では何らかの形に甘えた気持ちで生きることになるのではなかろうか?
坐禅を頼りにして、坐禅にしがみついてて生きるのが仏道修行である。

 

 

 

6 宇宙の法則が身につき、悟りがわかる   智慧を養う   

法の体験

「法」とはダンマのことで、宇宙の法則、宇宙の秩序、普遍的な摂理のことをいう。

坐禅をする結果として「法」が身につく。

 

なぜか?

身心は一体(一如)なので、ちゃんとした姿勢になることで、ちゃんとした心になるからなのか?

自律神経の2つの波の働きが良くなるからなのか?

体が落ち着くことで、心が無意識の世界からメッセージを体感できるようになるからなのか?

体を動かさないことで、感覚器からの信号が減少し、意識の奥底にある情報に気づきやすくなるためなのか?

坐ることで基準点ができるので、諸行の流れが見やすくなるからなのか?

感覚の無常を体感し続けるからなのか?

そして諸行の流れの変化を体験することによって、その変化が自分の意識と関わっていることに気づくことができるためなのか?

この諸法無我の体感によって、この世には永遠の定点となるような物質も意識もないことがわかり、一切皆苦を体感するからなのか?

腰骨を立てることで骨で坐ることができ、外側の筋肉(背筋、肩、脇腹)が緩むことができ、その結果、思考することも感情に巻き込まれることもなくなり、ただ眼の前の法の世界に気づいていられるようになるからなのか?

法が中層意識や深層意識にあり、坐禅をすることで、そこからのメッセージを聞いたり、体感することが出来るからなのか?

 

身についた「法」に従って、寝たり、起きたり、ご飯を食べたり服を着たりするすべてが「行仏」である。

坐禅をして「法」が身につくと、宇宙の法則が基準になってそこを基点にする正しさがわかる。

 

智慧(パンニャ)を養う

なぜ釈尊が私たちに仏道を教える手段として坐禅を説かれたかというと、坐禅が智慧を得るための行動であるからだ。

仏教はこの智慧をとても大切にしている。

私たちが足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時に具わるものが智慧そのものである。

こういう経験を持つと、その体の状態、心の状態を、日常生活のどんな時でも再体験できるようにだんだんとなるので、判断を間違えようと思っても間違えることができない。

だからこうやって坐禅が私たちの一生を守ってくれる。

 

坐禅を知らない人は、正しい判断をすることもたまたまあるが、間違った判断をすることもある。 

判断の当たり外れを自分で管理できていないので、幸福になるか、不幸になるか、を運(環境、TPO、状況、他者)に任せるしかなく、あっという間に「お終い」ということになりかねない。

そこで釈尊は坐禅を勧められた。

哲学書をいくら読んだところで、師匠がお茶を飲みたい時にちゃんとお茶が出せるかどうかとなると、そうはいかない。

これは法という現実の実体がわかっているかどうかと関わっていることなので、私たちが坐禅をするのは、こういう智慧を育むためにやるのであって、頭がよくなるために坐禅をするのではない。

また、日常生活の気持ちが坐禅をしているときのように落ち着いた状態になって、何をすべきなのか、何をすべきではないのかが直観的に出てくるかどうかが、仏道修行のプロセスが順調に行っているかどうかの目安になる。

 

 

行いを思想に置き換えない    「行い」の伴わない思想は仏道ではない

仏教を勉強する上で、一番警戒しなければならないのは行動すべきことを文字やパターンに置き換えてしまうことだ。

このような形で、修行を思想に置き換えてしまえば、どんなことも説明することができるが、それは説明であって仏教そのものではない。

音や言葉や文字による教えはあくまでも脳による把握であって、そこには体の実践がない。

体感なき文字の羅列は思想にはなるが、仏教では、行いなき思想は成り立たない。

教えは「行い」と一体なので、修行という「行い」を排除して、教えを思想として捉えてしまっては、仏道とは無関係のものになってしまう。

 

これは釈尊の教えを自分の解釈で矮小化してしまうことでもある。

実際に行動をして体感するのではなく、経典や解説書や本を読んでわかったつもりになることは危険である。

思想の理解の中に仏道はない、なぜならば釈尊の教えには実体が無いからである。

坐禅が衰えると仏道が衰える。

 

 

宇宙との合一

この世を理解し把握するのには、文字を通してだけでは、もっと言うと大脳皮質の働きによるものだけでは、可能なことは限られている。

体を正しい状態にして静かに坐っていると、五感覚器官からの信号が減り、表層意識の働きと必要性が減少し、中層意識の働きがあることに気づき、そこにも注意を向けることができる。

中層意識は五官が感覚できる信号ではなく、動脈や静脈、呼と吸などの波動を基準にするので、すべての境界線はなくなり、一つのつながりのある次元(領域、パラダイム)での出来事となり、現象は「わたし」との波動の重なりとしてとらえられ、次の段階では、その奥にあるカタチの溶けた次元の世界になる。

ここでは「わたし」も対象物も溶けて波動となっているので、二つは共鳴し、「わたし」は宇宙の一部であることを体験する。

 

そしてこの体験を続けていると、この一つに流動するものと繋がりながらも影響を受けない「悟り」を得ることになるという話である。

奥底で一体であることで、表層ではTPOに適応したカタチが出現する。

しかし、この変化し続けるカタチを基準点にするのではなく、カタチを全体が現れる出る奇跡の瞬間として体感する時に、カタチは無常でありながらも、確固たるカタチになるのではないだろうか?

言語で表現すると矛盾したものになるが、言語を使う以上は仕方がない。

 

 

坐ることが悟ること

一つのものを二つに分けることをしなくなるのが悟りである。

自分が真実と一体になったかどうかは、自分自身ではわからることができない。

私たちが坐禅をやっている時に、悟ったとか、悟らないとかは自分自身では感ずることはない。

というのも本人が悟っているかどうかという判定は、「分ける」ことから離れて、「分ける」ことから抜け落ちることなので、悟った時点で本人はもう悟りにこだわらなくなっているはずである。

だから、毎日坐禅をするという意外に手がない。

 

毎日坐禅をやっているうちに、体が変わることがある。

また、毎日坐禅をやっているうちに、心が変わることがある。

しかし、それは後で気がつくこと。

坐禅をやっている時、ある日突然電燈がパッとつくように「悟った!」ようなことはない。

むしろ坐っていること自体が悟りであるが、それが悟りであることは、自分自身にはわからないのが真実である。

この考え方が「正法眼蔵」には何回となく出てくる。

仏道の究極は、坐禅をし、そして感じるしかない。

自分ではわからないが、実際にやってみることでしかない。

体験することでしかない。そのことは「谿声山色の巻」でも説かれている

 

 

坐禅をやりさえすれば仏になれる

坐っていればもう仏になっている、と言う。

この教えはあまりにもシンプル過ぎるので、大抵の人が信じるところまでは行き着きにくいという事情がある。

坐ることがそれほどの効果があるとは信じられない。

ちょっと坐ってみても、効果があったのか、なかったのかよく分からないから、そのうちにつまらなくなって止めてしまうのが、坐禅の今日の実情である。
しかし坐禅を信じて一所懸命に毎日やるようになれば、仏道の世界に入ったということになる。

毎朝、坐禅をやって仏の状態で一日を送る人のことを仏というだけのこと。

また毎晩、坐禅をやって仏の状態で一日を終える人のことを仏というだけのこと。

こういう生活をずっと続けていくと、仏教哲学のさまざまな細かい問題も少しずつわかってくる。

ただこういう時点が来なくも、一日一日坐禅をして仏として生きれば、それ以上のものは何もない。

 

 

空間が地面に落ちる

趙州禅師は「空間が地面に落ちる時に柏樹子の木は仏になる」と言われている。

 

自分自身の状態が仏の状態になって、庭先の柏樹子の木が生き生きとした仏として見える時には、私たちの住んでいる空間そのものが一変させている。

これは文字通りに、私たちの住んでいる周囲の様子が一変する、という顕著な事実である。

その変化を響きに譬えるならば、100の雷、1000の雷が一辺に轟くのと同じような非常に大きな変化である、と言う。

 

たとえば、私たちがクヨクヨしている気持ちを思い返してしまう時には周囲の空間は何も輝かないが、足を組み、手を組み、背骨を伸ばすと、私たちの心境そのものが大きく変わり、すると周囲の空間も前とは違うように見える。

だからといって坐禅を組んだから周囲の空間が急に変わるものではないが、少なくても気落ちした時に見える景色とは違うものを経験をした人もいるだろう。

悟りの体験をしなくても、「気持ちと見える景色」には関係性があることは体験できる。

 

 

自然の説法を聴くことができる

「眼で自然の説法を聴いた時にその意味が分かるであろう」、と禅師は言う。

私たちは眼で物を見たり耳で音をきいたりするのが普通だが、それ以外にも体全体で感じ取る何かがある、というのが仏教の見解である。

耳で聞こえる音ではなく、眼で見えるものではない何かを感じ取るために私たちは坐禅をする。

 

それが無情説法であり、何かおかしなものが見えるということではないし、何かおかしなものが聞こえるということでもない。

無情説法(自然が行う釈尊の説法)は、頭で考えることができない。

これは無意識に働きかけるコミュニケーションなので、まずは自分の無意識のことをよく知ることから始められる。

無意識の特徴はシンボルを主体にし、合理性に下駄を預けてしまい、否定形を判別できないことにある。

無情説法は言葉や音とは別のものであるので、耳を澄まして聞こうとしても結局のところは理解できないであろう。

これには意識は通用しないので、これはやってみるしか意味が分かる方法はないようだ。

 

 

悟りたいという気持ちがなくなることが坐禅の目標 

坐禅の目標は自他を分けない境地に至ること。

この境地は悟りとも呼ばれる。

 

たとえば、ここに悟りを目指して坐禅をしようとする人がいるとする。

ところが彼らは決して悟りを得ることができない。

なぜなのか?

それはその人ば「自他を分けない」ことをまだ体感しておらず、またその意味を理解していないからである。

悟りを得ていないのだから、体感していないのは当たり前だが、意味を理解することは可能である。

「自他を分けない」というのは、一つのものを二つに分けないこと。

そして、悟りとは、「分ける」ことを止めてしまい、「分ける」ことから離れて暮らすことです。

人によっては、抜け落ちる、脱する、乗り越える、などといろいろな表現が使われる。

意味するところは同じで、一切の「分ける」ことをしなくなる状態のこと。

善悪も「する、しない」の判断も全てです。

目の前のモノもこれまで通りのように認識できなくなる、だって主体と現象も分けないのだから。

当然、悟る、悟らないの分別もしない。

分別の世界から離脱しているのだから当然のこと。

このような境地にいる時には、悟るかどうかについてイメージすることさえしなくなる、と言う。

だから、悟りの境地に向かう道中に、「悟りたい」という分別と自己意思があっては、彼岸に到達することを邪魔する要素になるだけである。

悟りたいという気持ちから離れて、ただ大いなるものに任せておくことでしか、彼岸に到達する道はない、と言う。

 

 

生理学的に言うと自律神経のバラ ンス と関係がある。交感神経が強い場合には悟りがあると信じて、悟りたいと思っている。副交感神経が強い場合には意識はなくなり睡眠状態になる。

そこで、坐禅をして二つの神経のどちらにも偏らない状態になると、〇〇したいという気持ちもなくなるが、怠けて寝てしまうこともなくなる。 

悟りたいという気持ちがあるうちは、時々だらけたいと思ってだらけてしまう。

交感神経が働いている分だけ、副交感神経が働くからかもしれない。

だらけたことを隠したり、反省したり、気まずくなったりすることも修行の弊害になる。

 

仏道は悟りたいともだらけたいとも思わず、人の普通の状態がただ続くというだけのもの。

だから悟りたいという気持ちがあるうちは坐禅を一所懸命にやって、交感神経を緩めるのがいい、ということになる。

悟るために坐禅をするのではなく「悟らなくも何も問題はない」ということを実感するために、坐禅をする。

だから悟るとか悟らないとかということから抜け出るのが、普通の、そして本当の人の状態となる。

「無情説法の巻」にある「超凡超聖」とはこういう意味である。

「凡」は怠けたい、楽になりたい気持ちで、「聖」のは偉くなりたい、俗ではない、という気持ちがあること。 
怠けたいという気持ちも、偉くなりたいという気持ちからも抜け落ちたところが仏の状態。植物でも悪魔でもカミでもなくなることが本当の人、すなわち仏です。

だから本当の人になった状態を「仏になった」という。

人そのものがはじめから高貴な存在である。 

 

 

霊我のマネをする

霊我というのは「本来の自分」である精神性のことで、インド哲学のサーンキヤ学派では、「霊我」がプラクリティpraktiと呼ばれるエネルギー体を観ることで、そこから物質が生まれでてくる、という解釈をする。

これは霊我がこの世を認識するときや、宇宙の誕生のときに起こる出来事である。

 

坐禅とは、この霊我のはたらきを真似る(模倣する)ことであり、それによって目的を達成する。類似の原理に基づく類感呪術(imitative magic)であるので、霊我の精神世界と物質世界は、周波数が違う世界であるが、連続しているものなので、 霊のコーザル界での働きを再現することで、起こったことは、波動によって物質世界に影響を及ぼし、現実世界を変えてゆく、と考えられている。

たとえば、雨乞いのために水をまいたり、雷の音を模して太鼓を叩くなどして、降雨の自然現象を模倣するように。

霊我ができることをただ観照することだけで、何一つ行動も、感情も、思考ももつことができない。      ただ観ているだけである。

 

 

 

 

心理学 哲学

物理学

内容

仏教

瞑想

サーンキヤ哲学khya

(観察者)

変化のない実体   

観照する主体

ほとけ

阿羅漢の覚り

Vasumitraの覚り

択滅無為

観察者

プルシャ

purua霊我

エネルギー

超感性的な根本物質

無明のはじまり

自性

虚空無為  「空」

般若心経の覚り 

無色界

プラクリティprakti

叡智

直観

消化器系感覚

腸内微生物

知る根源状態

分別機能

相違機能 

智慧 全体性

citta(覚・我・意)

阿頼耶識

金剛般若経では覚

八千頌般若経では大

色界 

空の瞑想

無形象唯識派 

パンニャ 般若

ブッディ

Buddhi

mahat

自我

循環器系

器官感覚

感覚器官と心による認識

自我分別機能

mulādhāra chakraにある

自我、我執

末那識

アビダルマの心と心所?

有形象唯識派

欲界 空の瞑想

分別する自分を基準にすることから離脱する瞑想

アハンカーラAhakāra

(深層意識)

 

意識体の共通の意識

普遍的正と邪の判断

思考、意志、疑問

意識

経量部の覚り

空の瞑想 

他者との共通性を求める瞑想

マナスManas

自己意識

自意識

アイデンティティ同一性

個性(進化するgati)を持つ「ダイナミックな自己」

 

アイデンティティのある(違いを求める)私は「わたし」ではない

ジーヴァ

jīva

生命我・個我

 

無意識

潜在意識

顕在意識

主客未分別  集合意識

ヘーゲル弁証法的感情

基礎論理

即非の論理

内の対立による進行

viññāna

泣いている私は

「わたし」ではない

 

感覚器官

身体

感情

五感覚器官

感覚パターン

感情パターン

眼耳鼻舌触

 

 

歩いている私は

「わたし」ではない

五感覚器官

Jñānendriya

五行為器官

Karmendriya

物質

対象、客体

 

五唯・五境Pañca Tanmātra 

五大  Pañca Mahābhūta

色法 rūpa

 

 

 

Abhidhamma(論蔵)を学ぶと、釈尊が「自己」と「無自己」の両方の概念を拒絶した理由がわかります。

「生命体」は、瞬間的に常に変化する実体です。 だからといっていつも実体があるわけではありません。しかし、実体がいつもないわけでもないので、「存在しない」とは言えないのです。

インド哲学では、独自のアイデンティティによって決定されて個性を持つ「ダイナミックな自己」から、カタチのないただ観照するだけの自己である真我(霊我)へと導く「道」を説きます。

 

 

 

 

7坐禅をすれば救われる?

坐禅をするとは、筋肉運動です、動きの一番少ない運動です。

実行とも、行動とも言ってもいい、実践の世界です。 

そして実践していることが仏道を信じている唯一の事実です。

もしこれが仏道だと思うのならば、

「私は仏道を信じていますが、坐禅はやりません」と言うのでは、これは仏道を信じていることにはならなくなります。

たとえば、これは「自転車に乗るのは好きですけど、ペダルを踏むのは嫌です」と、いうようなものだからです。

              

人らしく行動するということが仏道の根底である。

坐禅はそのためにやる。これが自転車のペダルを踏むということです。「ペダルを踏んだ方がいいんだが」と思いながら、ペダルを踏まないことではない。

釈尊の説いた原理はシンプルで、ただペダルを踏むならば、自転車は倒れないで走る、ということである。

 

したがって、「只管打坐」の坐禅が尊い。

ペダルを踏まなくも悟りさえ開けばよい、ということではなく、ペダルを踏んでないと自転車は倒れるという単純な事実である。

 

、これが道元禅師が中国まで行って天童如浄禅師から教わって帰ってきた「只管打坐」の教えである。

ペタルを踏まなければ自転車は倒れるということ。 これだけのこと。

深く信仰していなくも、ペダルを踏んでいれば、それだけでいい。

なぜならばペダルを踏むことが本人が自覚していなくも信仰していることだからである。

坐禅しているだけで救われているのである。

これが坐禅教の深い信仰の証である。

 

戒律と坐禅

上座部仏教は「戒」を守ることからはじまる。 

では、慎みや道徳を全然持たなくも、立派な行動は果たしてできるのか?


できるというのが仏道信仰です。

牧場に譬えると、戒律とは牧場の外枠の柵のことで、その中で人は自由自在に動くことができる。

自由自在に動いても「法(ありのままの現実、宇宙の法則)」に従っている限り、決して柵を越えて外には出ないものだというのが仏道の信仰です。
戒律を守る、守らないという事は日常生活においては非常に大きな外枠です。

だから、それを守る、守らないということを問題にするのではなく、戒律の内側で自由自在に行動すべきだいうことにスポットライトを当てるのが仏道の考え方です。戒律は最低限の大枠のことでしかない。

道元禅師は、戒律を守ろうとしても守れるものではない、という考え方をした。

私たちはこういう弱い人であるからこそ坐禅に頼れと。

坐禅に頼る事によって、戒律は自然に犯さなくなる、と言うのが道元禅師の主張。

だから坐禅を優先するか、戒律を優先するかとなると坐禅を優先する。坐禅を信じて坐禅に頼れ、そうすれば戒律を犯さなくなる状態は自然についてくる、と道元禅師は説く。

仏道で考えている、全宇宙、全大地は、途轍もなく大きな無限、すなわち「限りの無い」世界である。

このことを学ぶには、三回、五回と何度も繰り返してそれらを考えてみる必要がある。決まっている枠組みの内にある単純な理解だけでは、その外側にある全大地、全宇宙を理解したことにはならない。

 

この道理がわかれば、極端に大きいものは小さいものに通じ、極端に小さいものは大きいものにつながる、ということを理解し、仏教界の諸先輩の境地を行動によって実践することになる。

大きいとか小さいとかの問題ではないとは「一体どういうことなのか」という疑問が浮かんでくるが、明々白々として疑うことのできないものは、私たちの日常生活の行動を通じて、大いなるものとはじめて一体になったものである。

この威風のある姿こそが真実に他ならない。

 

 

 

参考資料

禅の良いところ

「からだ」の重要性に気づく。

第一に姿勢を正し端座し、呼吸を調え、心を調える。「身から心へ」進む道。

死に直面してもジタバタしなくても済む。

ヒトに本来備わっているすごい力を開発する。 カラダごと体当りして、渾身の力を引き出す。

身・息・心の3つの全てが総動員され統一集中され、渾然一体になって、力が爆発的に湧き出し、本来の面目が現れる。

罪意識が排除される。

全体を観る眼が養われる。全体、部分、部分から全体、全体と部分、部分と部分の関係を一度に直観的に把える。

 

人間は身体をもつのではなく、身体そのものなので、人間はからだである、ことがわかる。