日本語になったサンスクリット語・パーリ語

 

「あばた」が実はサンスクリット語(梵語)起源の日本語。

「痘痕」なんてどう見ても当て字だし、音的にも日本語っぽくない。

元は「アルブダ」と言って、腫瘍を意味するものらしい。

仏教とともに日本に入ってきて定着した言葉は、歴史が古いだけに外来語かどうか分からなくなってしまっている。

また、仏典における原義と、一般語化して本来の意味から変わってしまったものもある。

忘れないうちにいくつか挙げておこう。

 

「阿吽(あうん)」:梵語の「ア」と「フーン」を合わせたもので、「ア」は口を開く音を指し、「フーン」は口を閉じる音を指した。翻って、「吐く息」と「出る息」となって、「阿吽の呼吸」に至った。梵語 仏教語 相撲用語 一般語という珍しい流れ。

 

「悪(あく)」:梵語の「アクシャラ」。仏教語における「悪」は世の理や仏道に反することで、将来の苦を引き起こすことを指す。和語における「悪」は、「にくらしいほど並はずれた」という意味であり、古代中国における「悪」は、「規則や命令に従わないこと」を指した。また、欧米における「悪」は、「絶対神を否定するもの」を指した。このことからも、「悪」の定義は今日なおも大きく揺らいでいることが分かる。

 

「瓦(かわら)」:梵語の「カバーラ」。儀式で使われる杯や器を指した。後に、人間の頭蓋骨で作られた髑髏杯のこととなり、儀式で血などを入れるのに使ったとされる。織田信長が浅井長政の頭蓋骨で髑髏杯をつくって酒を飲んだ話が思い出される。神秘主義におけるカバラ思想の「カバラ」は別語源らしい。

 

「金毘羅(こんぴら)」:梵語の「クンビーラ」。ガンジス川に棲むワニのこと。古代より水に棲む神として崇められていたという。「琴平」は金毘羅の当て字。

 

「三昧(ざんまい)」:梵語の「サマーディ」。今でこそ「贅沢三昧」などと悪い意味でしか使われないが、本来は一つの対象に集中し、心を動かさないことを意味し、悟りの境地だった。今日の「一心不乱」とか「一意専心」に近く、今日でもヨガの階級では最高位となっている。

 

「娑婆(しゃば)」:梵語の「サハー」。今でこそ受刑囚が「塀の向こう側」を指す言葉となってしまっているが、本来は「現世」を意味し、転じて修行僧が「下界(山の下)」を指すものとして使うようになった。

 

「島(しま)」:梵語ではなくパーリ語の「シーマ」。今でこそヤクザの縄張りを指すが、本来は修行僧たちが修行する空間(領域)を意味した。

 

「刹那(せつな)」:梵語の「クシャナ」。一瞬の意。正確には約75分の1秒とも言われる。数字としては、10のマイナス18乗の数を指す。現代日本語の「刹那的」は「後先考えない」ことを意味するが、仏教の原義的には「一瞬一瞬を大切にする」「瞬間を充実させる喜び」を意味する。

 

どういう訳か仏教語は現代日本語で悪い(ネガティブな)意味で使われるようになっているものが多いことが分かる。

御坊主たちには同情を禁じ得ないが、彼らの側にも問題はあるのかもしれない。

もっとも、逆に仏教語で悪い意味のものだったものが、良い意味で使われるようになってしまった単語もある。

いま流行の「愛」がそれである。

 

仏教語における「愛」は、梵語の「トゥリシュナー」の訳語。

「トゥリシュナー」の原義は「喉の渇き」で、「むさぼり、執着する」といった渇望とか貪欲を意味するものだった。

仏教的には、「欲望の満足するところを求める心情」を指し、愛欲とか愛執などと使い、決して良い(ポジティブな)意味ではなかった。

親鸞の『教行信証』に、「愛心つねにおこりて、よく善心を染汚す」とあるように、愛欲と煩悩は現世へ執着であり、悟りと救済への障害でしかない、とするのが仏法の考え方。

もっとも、日本語における「愛」の起源は、仏教語の他に中国の古典における「仁愛」にも見いだすこともできるが、こちらも「大事にする」「親しむ」の意であり、今日の「愛」とは異なる。

もともとは「トゥリシュナー」を「愛」と訳してしまった古代中国人が悪いのだろうが……

 

ちなみに、大河ドラマの主人公になってしまった直江兼続の兜の「愛」だが、言うまでもなく、現代日本語の「愛」ではない。

上杉謙信が毘沙門天の「毘」を掲げたように、「愛染明王」の「愛」だっただけの話である。

もっとも、愛染明王は「愛欲も煩悩も否定せず、苦難に打ち勝つ力となす」という決意を忿怒(ふんぬ)の形で表した如来の化身像であり、その一点においては今日的理解も許されるのかもしれない。

いずれにせよ勘違いや思い込みを放置しておくことは恥ずかしいことであり、我々は勉強し続けなければならない。

そして、日本語教師や国語教師は仏法の基礎ぐらいは学んでおくことを勧めたい。

 

【参考】

『日常仏教語』 岩本裕 中公新書(1972)

 

 

 

 

 

日本語の中に千語以上のパーリ語がある

 

 標準語のウオ(魚)という発音は鹿児島生まれだと説明したが、

 

 その鹿児島には<><イオ>と発音する人々がいる。

 

 また沖縄では<イユ>と発音する。

 

 これまでは、

 

 これは単に<ウォ>という本州語発音が訛った方言だと思われていたが、

 

 事実はそんなに単純ではなかったのである。

 

 沖縄県の最も西の端は<与那国島>である。

 

 この島の「ヨナ」という変わった名前は、

 

 卑弥呼政権の祭政一致の国家宗教、

 

 当時の帯方郡使が「鬼道」と呼んだ仏教の用語パーリ語でギリシャを意味する名詞「ヨナ」だったことがわかっている。

 

 この<ヨナ>は、古代ギリシャの一地方だった「イオニヤ」の訛ったもので、 <イオニヤ>の語源は「イオン」すなわち「行く・遠征する」という言葉だから、 「イオニヤ」とは「遠征によって取った地方」または「遠征隊の国」を意味していた。

 

だから<与那国>という名も、 この「遠征隊の国」というギリシャ語が「イオニヤ」と発音されていたものを、

沖縄へ<仏教>を広めにやってきた<アシャカ仏教宣布団>の宣教師たちが、

パーリ語訛りで<ヨナ国>と呼んだので、 <与那国>という当て字が現在まで残ったのだとわかっている。

 

こうした事実はすでに市販されている私の著書に詳しく解説済みなので、もっと許しく知りたい方はそれらをお読み戴きたい。

この<ヨナ>は、沖縄語では「ユナ」と発音される。

 

これは東南アジアでも同じ地域が多いから、マレー語圏やミャンマーではギリシャ人を「ユナン」とか「ユナニー」と呼んでいる。

これに中国人が当て字したものが「雲南=ユンナン」という省の名として残っているので、

<与那国>の名は何も特別なものではないことがわかるのである。

 

それ以上に重要なのは、

 <与那国>の本来の国名が、「イオン=行く」だったことである。

この<イク>という発音と、この島の王の名の発音が一致すれば、それは「名乗り」だとわかる。

それが実在している。

 

卑弥呼政権を倒した<狗奴国男王>は、<山上王・位宮>という名乗りを持っているが、この<位宮>は「イク」とも読めるので、「イク」という発音につけた当て字とみても不合理ではない。

彼は、卑弥呼の跡をついで女王になった

<壹與><与那原>で即位させている。

彼が<与那国王>だったのなら、それはごく当然のことだったとわかる。

「与那原=イオニヤの都」だからだ。

 

これで当時の沖縄地方には沖縄語のほかにギリシャ語と日本語、パーリ語などがあったことがわかる。

この内パーリ語は今の日本語と比較しても、共通語が軽く1300語以上もあるから、日本語の中核になった言語だとわかる。

 

※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録9:1314頁」