dhātuとは分類単位

 

要素と訳されることもありますが、分類した時の要素数の単位です。

 

MN 115 BahudhātukasuttaSuttaCentralPāli

MN 115に登場するdhātu分類

分類数dhātu

内容

分類の基準・特徴

主な構成

備考

18

六根・六境・六識

感覚器官 × 対象 × それを認識する識

眼・色・眼識/耳・音・耳識/鼻・香・鼻識/舌・味・舌識/身・触・身識/意・法・意識

認識過程を最も具体的に分析する分類。六根・六境・六識

6 @

地・水・火・風・空・識

物質的要素+識

地、水、火、風、空、識

四大+空+識。

18 dhātuとは異なる分類軸

6 A

欲・離欲・瞋・無瞋・害・無害

心の傾向・意向

kāmanekkhammabyāpādaabyāpādavihiavihi

心の傾向・意図を分析する分類

6 B

楽・苦・喜・憂・捨・無明

経験される感受・心理的状態

sukhadukkhasomanassadomanassaupekkhāavijjā

vedanāと煩悩を含む独特の分類

3

欲界・色界・無色界

存在・生存の領域/様式

kāmadhāturūpadhātuarūpadhātu

一般に「三界」として知られる。rūparūpadhātuを混同しないことが重要

2

有為界・

無為界

条件づけられているか否か

sakhatādhātuasakhatādhātu

asakhatādhātuNibbāna

dhātuとは分類軸が異なる

 

 

18 dhātuだけは構造が非常にきれいなので、別に見ると理解しやすいです。

感覚門

感覚対象

対応する識

3つで1

備考

眼(cakkhu

色・形(rūpa

眼識(cakkhuviññāa

@

 

耳(sota

音(sadda

耳識(sotaviññāa

A

 

鼻(ghāna

香り(gandha

鼻識(ghānaviññāa

B

 

舌(jivhā

味(rasa

舌識(jivhāviññāa

C

 

身(kāya

触れるもの(phoṭṭhabba

身識(kāyaviññāa

D

 

意(mano

法(dhamma

意識(manoviññāa

E

記憶、概念、思考、心所、Nibbānaなど

つまり、6 × 3 = 18です。ここで重要なのは、18 dhāturūpaと、3 dhāturūpadhātuは別物だということです。

 

意(mano)の感覚対象である法(dhamma)には広い範囲が含まれ、それらの具体例は

種類

具体例

説明

過去の感覚経験の痕跡

昨日見た富士山、以前聞いた音、昔の香り

現在目の前にない過去の対象が、心の対象として現れる

心的イメージ

富士山の映像、母親の顔、赤いリンゴのイメージ

現在の眼で直接見ているのではなく、心に現れる表象

記憶

「昨日、友人と会った」という記憶

過去の経験に関係する心的対象

概念(paññatti

「富士山」「人間」「犬」「国家」など

個々の感覚データをまとめて認識する概念

言葉・名称

「富士山」という音・文字・名称

意門で対象となりうる

思考

「明日は雨かな」「あの実験は失敗した」

思考内容そのものが心の対象になる

判断・考え

「これは正しい」「これは危険だ」

心によって対象化された判断

感情に関係する対象

「悲しい出来事」「嬉しかった記憶」

感情そのものだけでなく、感情を生じさせる心的対象

citta

過去・現在の心を対象として考える場合

心そのものも意門の対象になり得る

cetasika

vedanāsaññācetanāなど

心所も心によって対象化され得る

Nibbāna

涅槃

dhammaとして意門の対象となり得る

概念的・抽象的対象

数、数学的関係、因果関係など

直接の五感対象ではなく、心によって把握される対象

 

 

意(mano)の感覚対象である法(dhamma)には概念 paññatti)も含まれる、とありますが、 勝義諦 paramattha saccaではdhammaは概念を含まない、とあり矛盾しているように聞こえるのは何故か?

 

これは「dhamma」という語を、二つの異なる文脈で使っているために矛盾して見えます。

dhamma-dhātudhamma」と「paramattha dhammadhamma」は、同じ意味・同じ範囲ではありません。

さらに厳密には、「paññattidhammaではない」と言うときも、「dhamma」という語を「究極的に実在する法」という意味で使っています。

 

@ 一般的・経典的な dhamma   非常に広い意味です。心の対象となるもの、現象、事柄、法、教えなどを意味します。

18 dhātuでは、mano + dhamma + manoviññāaという関係になります。MN 115 Bahudhātukasutta

この場合のdhammaは意(mano)の対象という意味で非常に広いので、心に現れる概念的対象も含めて扱えます。

 

A.paramattha dhamma」のdhamma(勝義的な法)

究極的に存在すると分析される法という意味になります。

Theravāda Abhidhammaでは、はcitta心、cetasika心所、rūpa色法、Nibbāna涅槃という四つに整理します。

ここでpaññatti(概念・名称・概念施設)は、この四つのparamattha dhammaには含まれません。

 

例えば、「富士山」という概念を考えてみます。これはpaññattiです。

「富士山」という概念そのものは、paramattha dhammaとしてのrūpaでもcittaでもcetasikaでもNibbānaでもありません。ところが、その「富士山」という概念を心が対象として捉えることはできます。

つまり、「富士山」という概念   paññatti  ↓心(mano)が対象として捉える manoviññāaとなります。

したがって、paññattiparamattha dhammaではない、とpaññattiは意の対象になり得るとは、両立します。

 

dhamma」という言葉の使い方を整理すると

表現

dhammaの意味

paññatti

dhamma一般

現象・事柄・法・心の対象など広義

含み得る

dhamma-ārammaa

意(mano)の対象

含み得る

dhamma-dhātu

18 dhātuにおける意の対象カテゴリー

概念的対象を含み得る

paramattha dhamma

究極的な法

含まない

paññatti

概念・名称・概念施設

paramattha dhammaではない

 

つまり、「dhamma」という大きな箱の中に、paramattha dhammaという専門的な意味での「dhamma」がある

くらいに考えるとよいです。

 

「犬」という概念を例にすると、目の前に犬がいる場合は、実際の色・形↓rūpa ↓眼 ↓眼識ですが、

目を閉じて「犬」と考えた場合、「犬」という概念↓ paññatti mano manoviññāaとなります。

ここで、「犬」というpaññattiparamattha dhammaではないが、「犬」というpaññattiを心が対象として認識することはできるので、「意の対象になれる」ことと「paramattha dhammaである」ことは別問題です。

つまり、「dhamma-ārammaa(意の対象)」と「paramattha dhamma(勝義法)」は別の分類です。

要するに、今回の「矛盾」は、同じ「dhamma」という単語が、「意の対象」という広い意味と、「究極的に実在する法」という専門的な意味を同等に扱うことで生じています。

 

 

6 dhātu3種類あるのがポイント

今回の表で特に注意したいのは、「6 dhātu」が一つではないことです。

@ 六要素              地・水・火・風・空・識       これは「構成要素」に近い分類です。

A 六つの意向・傾向   欲・離欲・瞋・無瞋・害・無害   こちらは心の方向性を分類しています。

B 六つの経験・状態  楽・苦・喜・憂・捨・無明     こちらは経験される状態を分類しています。

 

したがって、「6 dhātu」という名前の分類が一つ存在すると考えると混乱します。

正確には、「6 dhātuという分類数を持つ、異なる3種類の分類法がMN 115に提示されている」となります。

6種類の分類を並べると、dhātuは「世界を構成する物質的な部品」という意味だけではないことが分かります。

つまり dhātuは「要素」「領域」「性質」「構成単位」など、文脈によってかなり幅広く使われています。

 

 

3 dhātuに分ける前の一つのものは何か?

「宇宙という一個の実体を3分割した」という意味ではないということが、この表からかなり明瞭になります。

3 dhātuは、有情の生存・存在のあり方を「kāmarūpaarūpa」という3つの観点から分類したものです。

そして2 dhātuになると、突然、sakhata(有為)/asakhata(無為)という別の分類軸になります。

 

したがって、「3 dhātuの上位概念が何か?」と探していくより、「この場面では何を分類するためにdhātuという語を使っているのか?」と問う方が、初期仏教の分類法には忠実です。

 

なお、31領域はこのMN 115の「3 dhātu」をさらに細分化した後代の体系として扱うべきで、1866632を一つの階層ツリーとして並べるものではありません。

 

 

 

 

 

参考資料

dhātu(要素)とはなにか?

 

Pali-Dictionary Vipassana Research Institute

dhātu:基本的な物質; 原理、要素、材料; 特性物質、

Primary or elementary substance principleelementmaterial a property of a primary substance

 

NYANATILOKA MAHATHERA 著仏教辞典

dhātu:「要素」は、全体の究極の構成要素です。

 

1 4つの物理的要素(dhātuまたはMahā-bhūta)は、一般に土、水、火、風と呼ばれ、物質の主要な性質として理解されるべきである。これらは、hiでは、pahavī-dhātuāpo-dhātutejo-dhātuvāyo-dhātuと名付けられている。Vis.MXI,2では、4つの要素は次のように定義されている。硬さ(thaddha-lakkkhaa)を特徴とするものは土または固体要素であり、凝集性(ābandhana)または流動性によって特徴付けられるものは水要素であり、加熱(paripācana)によって特徴付けられるものは火または熱要素であり、強化または支持(vitthambhana)によって特徴付けられるものは風または運動要素である。4つすべてが、密度の程度は異なるものの、あらゆる物質対象に存在している。たとえば、土の要素が優勢である場合、物質対象は「固体」などと呼ばれる。 4 つの要素の分析については、sdhātu-vavatthāna です。

 

II 知覚プロセスの条件、すなわち基礎を構成する18の物理的およびメンタル的要素は次のとおりです。

1.視覚器官(目)

2.聴覚器官(耳)

3.嗅覚器官(鼻)

4.味覚器官(舌)

5.触覚器官(身体)

6.可視対象

7.音または可聴対象

8.匂いまたは嗅覚対象

9.味覚対象

10.身体印象

11.眼意識

12.耳意識

13.鼻意識

14.舌意識

15.身体意識

16.心の要素(mano-dhātu

17.心の対象(dhamma-dhātu

18.心-意識-要素(mano-viññāa-dhātu

 

1-10は物理的、11-1618はメンタル的、17は物理的またはメンタル的。                                                                                                              物理的対象の例は?

16 は感覚的意識のプロセスの開始時に対象に注意を向ける(āvajjana)機能を果たし、さらに感覚的対象を受け入れる(sampaicchana)機能を果たす。

18 は、たとえば調査する(santīraa)、決定する(voṭṭhapana)、記録する(tadārammaa)機能を果たす

(その他の機能については、表 I を参照)。意識の14の機能については、viññāa-kicca を参照

 

M115SXIV、特にVibhII(ガイドp28f)、Vis.MXV17ffを参照。

 

M115に列挙されている多くの要素のグループ分けのうち、最もよく知られているのは、3つの世界要素:感覚世界(kāma-dhātu)、微細物質世界(rūpa-dhātu)、非物質世界(arūpa-dhātu);さらに、M140に記述されている6つのグループ:固体、液体、熱、運動、空間、意識(pahavīāpotejovāyoākāsaviññāa;上記I)です。M112も参照。

 

NYANATILOKA MAHATHERA 著仏教辞典

viññāa識 +kicca機能: 意識のプロセスすなわち認識の連続性(cittavīthi)内で実行される14ある「意識の機能」。Abhidhamma Com.および VisMXIV では、次の機能が言及されています:

転生(paisandhi)、潜在意識(bhavaga)、注意(āvajjana)、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体意識、受け取る(sampaicchana)、調査する(santīraa)、決定する(voṭṭhapana)、衝動(javana)、記録する(tadārammaa)、死(cuti)。

 

感覚知覚の単一ユニット(例えば視覚意識)は、感覚器官とそれに対応する対象物によって条件付けられ、実際には極めて複雑なプロセスを形成し、その中で意識のすべての単一段階がそれぞれの機能を果たしながら次々と急速に進行します。

例えば、W目に見える対象物が視界に入るとすぐに、それは敏感な眼器官(cakkhu-pasāda)に作用し、それによって条件付けられて潜在意識の流れ(bhavaga-sota)の興奮が起こります。

Wしかし、潜在意識が断ち切られるとすぐに、機能的な心の要素(s.Tab.I,70)が対象物をつかみ、潜在意識の流れを突破し、対象物に向かって心を「誘導」する機能(āvajjana)を果たします。

Wするとすぐに、眼の扉に、そして敏感な眼器官に基づいて、眼意識が生じ、'見る'dassana)という働きをします。...その直後に、心の要素(Tab I3955)が生じ、その意識の対象を'受け取る'sampaicchana)という働きをします。...

Wするとすぐに、心の意識要素(Tab.I404156)が生じ、心の要素が受け取った対象を'調査'santīraa)します。...

Wその直後に、機能的で根のない心意識要素(表 I71)が生じ、無関心を伴い、対象を「決定する」(voṭṭhapana)機能を実行します。.....

Wさて、対象が大きい場合は、その直後に、8つの健全な意識、12の不健全な意識、または9つの機能的な意識クラス(表 I1-8 22-23 72-80)のいずれかによって構成される6つまたは7つの「衝動的な瞬間」(javana-citta)が閃きます。

Wさて、衝動の瞬間の終わりに、五感の扉にある対象が非常に大きく、心の扉にある対象が澄んでいる場合、感覚領域の 8 つの根を伴う業の結果の意識のクラス(表 I42-49)の1つ、または3つの根のない業の結果の心意識要素(表 I404156)の1つが、1回または2回発生します。衝動の瞬間が消えた後、この意識は潜在意識の対象を継続し、潜在意識の対象を自分の対象としてとらえる能力を持っているため、それを「登録する」(tadārarmmaa、文字通り「その対象」または「それを対象として持つ」)と呼ばれます。W Vis.M.XIV115 以降)。

 

しかし、感覚対象が弱い場合は、単に「衝動」(javana)または「決定」(voṭṭhapana)の段階に達するだけです。非常に弱い場合は、潜在意識の刺激のみが発生します。

内なる意識すなわち心意識のプロセス、つまり5つの物理的感覚の関与がない場合、次のようになります。

心の扉に入る心の対象が明確な場合、それは「心の扉での注意」(manodvārāvajjana)、「衝動段階」、および「記録段階」の段階を通過し、最終的に潜在意識の流れに沈みます。- App.citta-vīthi)。

 

文献:アビダルマ哲学への援助、CB.ダンマセナ博士著(認知シリーズのカラーチャート付き;WHEEL 63/64)。- 仏教の心理学と哲学、WF.ジャヴァスーリヤ博士著(マレーシア、クアラルンプールの仏教宣教師協会)。

 

 

A.P. ブッダダッタ・マハテラ著、簡潔なパーリ語-英語辞典

dhātu[f.] 要素;自然の状態;遺物;語源;身体の体液;感覚の能力。

 

PTS パーリ語 - 英語辞書 パーリ語テキスト協会のパーリ語 - 英語辞書

Dhātu、(f. [Skdhātu to dadhātiIdg*dhēcpGrti/qhmia]--qhmaSkdhāmandhār =Latconditor); Gothgadēds Ohgtāttuom (意味 --°=dhātucpEserf-dom状態 ...” tuon=Eto do & k 接尾辞付き LatfacioGr.(e/qhka)、Skdhāka dhamma も参照] 要素。B 1b の意味において dhamma と密接に関連しているが、物理的実体とのより密接な関係を暗示しているにすぎない。

属の含意についてはcpDhstrslp198-- 1.通常、4 つの pahavīāpotejovāyo (土、水、火、風)で構成される基本要素。別名 cattāro mahābhūtāni)とも呼ばれる:D.I215 II294 III228 S.I15 II169 sq.224 IV175195 A.II165 III243 Vbh.1472 Nett 73Cpd254 sq で議論されているを参照。-- dhātu の定義は Vism.485 にある。-- 単独または他の組み合わせで pahavī° S.II174 tejo° S.I144 D.III227 4 つプラス ākāsa S.III227、プラス viññāna S.II248 III231 下記 2 b を参照。-- 2.(a 自然の状態、特性、性質; 要素、項目、原理、形式。この意味ではさまざまな組み合わせや応用があり、特に khandha と密接に関連しています。したがって、khandha および āyatana (感覚要素および感覚知覚の要素)とともに、身体的または物理的要素、要素として言及されています(khandha B 1 d を参照、dhātu の項 Nd2 を参照)。Th.2472。それ自体(物理的基質)として、それは lokā または存在の形態の 1 つを構成します(khandha° dhātu° āyatana° Nd2 550)。頻度。また、さまざまな組み合わせや応用でkāma-dhāturūpa° arūpa° k.等の要素または特性」それぞれの範疇において、bhava に先行し条件付ける語として(Nd2 sv.)。d の項参照。-- 以下の「一連の状態または存在の状態(-°)」として:loka° 通常 10 が言及される世界(10,000 に等しい:PvA.138 S.I26 V424 Pv.II961 Vbh.336 PvA.138 KS.II101n1 -- nibbāna° 状態 NS.V8 A.II120 IV202 J.I55 It.38 dveNibbāna の項参照); Miln.312。また以下の接続詞にも:amata° It.62 bhū° 動詞の語根 bhū DA.I229 hapitāya dhātuyā「身体の要素、すなわち生命力が続く限り」Miln.125 vaṇṇa° 形、美 S.I131 Pv.I31.これらの場合、その意味は非常に弱められており、単に Eabstr.接尾辞 --hood または --ity (参照.°hood=起源.「形」:ketu を参照)に対応するので、おそらく Nibbāna°=Nibbāna-dom では。Cpdhātuka-- b 感覚意識の要素:6 つの ajjhattikāni 6 つの bāhirāni āyatanāni を指す S.II140 sq.これらの sepsota° D.I79 III38 Vbh.334 dibbasota° S.II121212 V265304 A.I

255 III17280 V199 cakkhu° Vbh.71 平方; mano° Vbh.175182301 mano-viññāa° Vbh.8789175182 平方.‹-› c 諸: aneka° A.I22 III325 V33 akusala° Vbh.363 avijjā° S.II132 ābhā° S.II150 ārambha° S.V66104 平方; A.I4 II338 hiti° S.II175 III231 A.III338 dhamma° S.II56 nekkhamma° S.II151 A.III447 nissāraiyā dhātuyo 5 D.III239 A.III245290.さらに参照 S.I134196 II153248 aniccā); III231 nirodha); IV67 A.I176 II164 IV385 Dhs.5867121 Nett 5764 sq. ThA.2049285-- d 異なるセットと列挙:3として kāma°rūpa°arūpa の下 A.I223 III447 Ps.I137 Vbh.86363404 sq. の下rūpa°arūpa°nirodha° It.45-- as 6 pathavī +ākāsa° & viññāa°):D.III247 A.I175 sq. M.III3162240 Ps.I136 Vbh.82 sq-- as 7 ābhā subha 等):S.II150-- 18Ps.I101137 II230Dhs.1333 Vbh.87 sq.401 sq. Vism.484 sq-- 3.身体の体液または疾患 DA.I253 dhātusamatā).-- 4.火葬後の遺体 PvA.76 聖遺物VvA.165 sarīra°、肉体の遺物); Dāvs.V3 dasana°、歯の遺物).-- Abldhātuso、人の本性に従って S.II154 sq.(sattā sattehi saddhi sasandanti など); It.70 id.); S.III65.

--kathā アビダルマ・ヴィスムの第3巻のN96--kucchi 子宮 Miln.176 --kusala 要素に精通している M.III62 °kusalatā 18)要素に精通している D.III212 Dhs.1333 --ghara 「遺骨の家」、ダゴバ SnA 194--cetiya 遺骨の上にある神社 DhA.III29 --nānatta 特定の経験の多様性 D.III289 S.II143 IV113 sq.284 --vibhāga 遺骨の分布 VvA.297 PvA.212.(340ページ)

 

 

 

Buddhist Dictionary by NYANATILOKA MAHATHERA

dhātu'elements'are the ultimate constituents of a whole.

1 The 4 physical elements dhātu or Mahā-bhūta),popularly called earthwaterfire and windare to be understood as the primary qualities of matterThey are named in ipahavī-dhātuāpo-dhātutejo-dhātuand vāyo-dhātuIn Vis.MXI2 the four elements are defined thusWhatever is characterized by hardness thaddha-lakkkhaa is the earth or solid-element by cohesion ābandhana  or fluiditythe water-element by heating paripācana),the fire or heat-element by strengthening or supporting vitthambhana),the wind or motion-elementAll four are present in every material objectthough in varying degrees of strengthIffor instancethe earth element predominatesthe material object is called 'solid'etc- For the analysis of the 4 elementssdhātu-vavatthāna.

II The 18 physical and mental elements that constitute the conditions or foundations of the process of perceptionare

1
visual organ eye 9gustative object

2
auditory organ ear 10body-impression

3
olfactory organ nose 11eye-consciousness

4
gustatory organ tongue 12ear-consciousness

5
tactile organ body 13nose-consciousness

6
visible object 14tongue-consciousness

7
sound or audible object 15body-consciousness

8
odour or olfactive object

16
mind-element 17mind-object

mano-dhātu) (dhamma-dhātu

18
mind-consciousness-element

mano-viññāa-dhātu

1-10 are physical
11-16 and 18 are mental 17 may be either physical or mental- 16 performs the function of advertence āvajjana towards the object at the inception of a process of sensuous consciousness it further performs the function of receiving sampaicchana the sensuous object18 performse.g.the function of investigation santīraa),determining voṭṭhapana and registering tadārammaa - for its other functionssTable I).For the 14 functions of consciousnesssviññāa-kicca.

Cf
M115 SXIV and especially VibhII Guide p28f),Vis.MXV17ff.

Of the many further groupings of elements
enumerated in M115),the best known is that of the 3 world-elementsthe sensuous world kāma-dhātu),the fine-material world rūpa-dhātu),the immaterial world arūpa-dhātu); further the sixfold groupthe solidliquidheatmotionspaceconsciousness pahavīāpotejovāyoākāsaviññāa sabove I),described in M140 see also M112.

Concise Pali-English Dictionary by A.P. Buddhadatta Mahathera

dhātu[f.] an element natural condition a relic root of a word humour of the body faculty of senses.

PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary

Dhātu,(f. [Skdhātu to dadhātiIdg*dhēcpGrti/qhmia]--qhmaSkdhāmandhār =Latconditor); Gothgadēds Ohgtāttuom in meaning --°=dhātucpEserf-dom “condition of ...” tuon=Eto do & with k-suffix LatfacioGr.(e/qhka),Skdhāka see also dhamma] elementClosely related to dhamma in meaning B 1bonly implying a closer relation to physical substanceAs to its Genconnotation cpDhstrslp198-- 1a primary elementof which the usual set comprises the four pahavīāpotejovāyo earthwaterfirewind),otherwise termed cattāro mahābhūtāni):D.I215 II294 III228 S.I15 II169 sq.224 IV175195 A.II165 III243 Vbh.1472 Nett 73See discussed at Cpd254 sq-- A defn of dhātu is to be found at Vism.485-- Singly or in other combns pahavī° S.II174 tejo° S.I144 D.III227 the four plus ākāsa S.III227plus viññāna S.II248 III231 see below 2 b-- 2.(a natural conditionpropertydisposition factoritemprincipleformIn this meaning in varcombns & applicationsespclosely related to khandhaThus mentioned with khandha & āyatana sensory element & element of sense-perception as bodily or physical elementfactor see khandha B 1 d & cpNd2 under dhātu Th.2472As such physical substratum it constitutes one of the lokā or forms of being khandha° dhātu° āyatana° Nd2 550).Freqalso in combn kāma-dhāturūpa° arūpa° “the elements or properties of ketc.” as preceding & conditioning bhava in the respective category Nd2 sv.).See under d-- As “set of conditions or state of being ” in the foll.loka° a worldof which 10 are usually mentioned equalling 10000PvA.138 S.I26 V424 Pv.II961 Vbh.336 PvA.138 KS.II101n1 -- nibbāna° the state of NS.V8 A.II120 IV202 J.I55 It.38 dvesee under Nibbāna); Miln.312Also in the follconnectionsamata° It.62 bhū° the verbal root bhū DA.I229hapitāya dhātuyā “while the bodily elementievitality lasts” Miln.125 vaṇṇa° formbeauty S.I131 Pv.I31In these cases it is so far weakened in meaningthat it simply corresponds to Eabstrsuffix --hood or --ity cp°hood=origin“form”see ketu),so perhaps in Nibbāna°=Nibbāna-domCpdhātuka-- b elements in sense-consciousnessreferring to the 6 ajjhattikāni & 6 bāhirāni āyatanāni S.II140 sqOf these sepsota° D.I79 III38 Vbh.334 dibbasota° S.II121212 V265304 A.I255 III17280 V199 cakkhu° Vbh.71 sq. mano° Vbh.175182301 mano-viññāa° Vbh.8789175182 sq‹-› c variousaneka° A.I22 III325 V33 akusala° Vbh.363 avijjā° S.II132 ābhā° S.II150 ārambha° S.V66104 sq. A.I4 II338hiti° S.II175 III231 A.III338 dhamma° S.II56 nekkhamma° S.II151 A.III447 nissāraiyā dhātuyo 5 D.III239 A.III245290See further S.I134196 II153248 aniccā); III231 nirodha); IV67 A.I176 II164 IV385 Dhs.5867121 Nett 5764 sq. ThA.2049285-- d Different sets and enumerationsas 3 under kāma°rūpa°arūpa A.I223 III447 Ps.I137 Vbh.86363404 sq. under rūpa°arūpa°nirodha° It.45-- as 6 pathavī etc.+ākāsa° & viññāa°):D.III247 A.I175 sq. M.III3162240 Ps.I136 Vbh.82 sq-- as 7 ābhā subha etc.):S.II150-- 18Ps.I101137 II230Dhs.1333 Vbh.87 sq.401 sq. Vism.484 sq-- 3a humour or affection of the body DA.I253 dhātusamatā).-- 4the remains of the body after cremation PvA.76 a relic VvA.165 sarīra°bodily relic); Dāvs.V3 dasana° the toothrelic).-- Abldhātuso according to one’s nature S.II154 sq.(sattā sattehi saddhi sasandanti etc.); It.70 id.); S.III65.

--kathā N
of 3
rd book of the Abhidhamma Vism.96--kucchi womb Miln.176 --kusala skilled in the elements M.III62 °kusalatā proficiency in the 18 elements D.III212 Dhs.1333 --ghara “house for a relic” a dagoba SnA 194--cetiya a shrine over a relic DhA.III29 --nānatta diversity of specific experience D.III289 S.II143 IV113 sq.284 --vibhāga distribution of relics VvA.297 PvA.212.(Page 340

Pali-Dictionary Vipassana Research Institute

dhātuPrimary or elementary substance principleelementmaterial a property of a primary substanceas colourtastesound an organ of sense a bodily principle or humour of which there are threephlegmwind and bile a constituent of the bodyas flesh

 

Buddhist Dictionary by NYANATILOKA MAHATHERA

viññāṇa-kicca'functions of consciousness'as exercised within a process of consciousness or cognitive series cittavīthi).In the Abhidhamma Comand VisMXIV the following functions are mentionedrebirth paṭisandhi),subconsciousness bhavaṅga),advertence āvajjana),seeinghearingsmellingtastingbody-consciousness recciving sampaṭicchana),investigating santīraṇa),determining voṭṭhapana),impulsion javana),registering tadārammaṇa),dying cuti).

A single unit of sense-perception
egvisual consciousness),being conditioned through a sense-organ and its corresponding objectforms in reality an extremely complex processin which all the single phases of consciousness follow one upon another in rapid successionwhile performing their respective functionseg.:

WAs soon as a visible object has entered the range of visionit acts on the sensitive eye-organ cakkhu-pasāda),and conditioned thereby an excitation of the subconscious stream bhavaṅga-sota takes place

WAs soonhoweveras subconsciousness is broken offthe functional mind-element sTabI70),grasping the object and breaking through the subconscious streamperforms the function of 'adverting' the mind towards the object āvajjana).

WImmediately thereupon there arises at the eye-doorand based on the sensitive eye-organthe eye-consciousnesswhile performing the function of 'seeing' dassana)....Immediately thereafter there arises the mind-element Tab

I
3955 performing the function of 'receiving' sampaṭicchana the object of that consciousness....

WImmediately thereafter there arises...the mind-consciousness-element TabI404156),while 'investigating' santīraṇa the object received by the mind-element...

WImmediately thereafter there arises the functionalrootless mind-consciousness-element TabI71),accompanied by indifferencewhile performing the function of 'determining' voṭṭhapana the object......

WNowif the object is largethen immediately afterwards there flash forth 6 or 7 'impulsive moments' javana-citta),constituted by one of the 8 wholesomeor 12 unwholesomeor 9 functional classes of consciousness TabI1-8 22-23 72-80).

WNowif at the end of the impulsive momentsthe object at the five-sense doors is very largeand at the mind-door clearthen there arisesonce or twiceone of the 8 root-accompaniedkamma-resultant classes of consciousness TabI42-49 of the sense-sphereor one of the 3 rootless kamma-resultant mind-consciousness-elements TabI404156)....Because this consciousness after the vanishing of the impulsive momentspossesses the faculty continuing with the object of the subconsciousnesstaking the object of the subconsciousness as its own objecttherefore it is called 'registering' tadārarmmaṇalit'that object'or 'having that as object')W VisMXIV115ff).

If
howeverthe sense-object is weakthen it reaches merely the stage of 'impulsion' javana),or of 'determining' voṭṭhapana); if very weakonly an excitation ot the subconsciousness takes place

The proeess of the inner or mind-consciousness
iewithout participation of the 5 physical sensesis as followsin the case that the mind-objeet entering the mind-door is distinctthen it passes through the stages of 'advertence at the mind-door' manodvārāvajjana),the 'impulsive stage' and the 'registering stage'before finally sinking into the subconscious stream- App.:citta-vīthi).

Literature
Aids to the Abhidhamma Philosophyby DrCB Dhammasena with colour chart of the Cognitive Series WHEEL 63/64).- The Psychology and Philosophy of Buddhismby DrWFJavasuriya Buddhist Missionary SocyKuala LumpurMalaysia).

 

 

 

 

6 dhātu(要素)の知識

rūpanāma(体とマインド)の直観的な知識をどれだけ獲得したかによって、第2の光であるDhamma-vavatthānaに達することができます。

最も簡単に言うと、次の 6 つの要素について直観的な知識を獲得すると、この光が現れます。

 

(1) Pathavī-dhātu(拡張の要素)

(2) Āpo-dhātu (凝集性または流動性の要素)

(3) Tejo dhātu(運動エネルギーの要素)

(4) Vāyo-dhātu (支持または動きの要素)

(5) Ākāsa-dhātu(空間の要素)

(6) Viññāa-dhātu— (意識の要素)

 

通常の語句では「個」、「生命体」、「自己」、「魂」と言いますが、Abhidhammaによれば、

個、生命体、自己、魂などというものは存在しません。 実際には、pathavīなどの要素しか存在しません。

私たちが「個」、「存在」、「自己」、「魂」などと呼ぶべきものは、ありふれた概念的な語句でしかなく、それらは名前という単なる概念にすぎません。

 

具体的な例え

この世には木や竹で作られた様々な物があります。 それらは「家」「修道院」「寺院」「休憩所」「仮設建築物」と呼ばれるものがあります。 ここで「家」という名前は木材の名前でも竹の名前でもなく、特定の形に対応して構築された対象物に与えられた名前です。

木や竹が大地から生えている間は、それを「家」とは呼ばず、「家」という名前も与えられません。家という形の物が建てられて初めて、家という仮の名前が突然に空から降ってくるかのように現れます。したがって、Abhidhammaによれば、「家」というものはなく、実際には木と竹だけが存在するのです。

「家」は、家が建てられた後に現れる形式的な概念であるため、現実ではありません。この家が取り壊され、僧院の敷地内に修道院が建てられると、修道院の形が現れるので、「修道院」と呼ばなければなりません。

家の形は消え、「家」という名前も消えます。また、その修道院が取り壊され、寺院や尖塔が建てられると、寺院や尖塔の形が現れ、「寺院」や「尖塔」と呼ばなければなりません。それは「修道院」とは呼ばれず、「修道院」という名前は消えます。次に、その寺院が休憩所に改造されると、「寺院」という名前が消え、「休憩所」という名前が出現します。次に、その休憩所が仮設建築物に改造されると、「休憩所」という名前が消え、「仮設建築物」という名前が出現します。形が消滅されると、名前は消えます。形が現れたときのみ、名前も現れます。

 

木材や竹材は、立木の資材である間は木材や竹材であり、たとえ「家」「僧院」「寺院」「休憩所」「パンダル」の形になっていても、やはり木材や竹材はそのままです。パンダル(仮設建築物)が壊されて建築資材が積み上げられたとき、それは「木材の山」「竹材の山」と呼ばれます。したがって、木材や竹材が集合的に建設されたときにのみ現れる「家」「僧院」「寺院」「休憩所」「パンダル」などの形は、最初からそのような形で存在するものではありません。木材や竹材は、成長したときからそのような形で最初から存在しています。したがって、Abhidhammaによれば、「家」「僧院」「寺院」「休憩所」「パンダル」のようなものは存在せず、木材と竹材だけが存在します。

 

一般的真実では、たとえ「家は存在する」と言っても、それはmusāvāda(嘘)ではありません。

なぜでしょうか?それは人々に慣習的に受け入れられている言葉であり、誰かを騙すということではありません。Abhidhammaによれば、「家は存在する」と言うのは間違いです。なぜでしょうか?それは、建築者が家を建てたときにのみ現れる形式的な概念であり、人々は慣習的にそれを「家」と呼んでいるだけだからです。

誰かが他者に「どれが「家」と呼ばれていますか?」と尋ねると、後者は建物を指差して「これが「家」です」と言います。

慣習によればそれは正しいですが、Abhidhammaによればそれは誤りであると言わなければなりません。

 

どのように間違っているかというと、指で家に触れられるのか、それとも木材や竹材に触れられるのかと問われれば、「家」は形式概念であって実体ではないので、指で触れることはできません。実際に存在する物体である木材や竹材だけが、指で触れることができます。ここでは、木材や竹材を「家」と誤解しています。これは、「家」という形式の名前を木材や竹材に誤って適用しています。

もし「家」が木材や竹材の名前であるならば、家が木のように立っても、「家」という名前を持っているはずであり、木材や竹材が他種のものになったとしても、「家」という名前が常にそれらに付随しているはずです。しかし、そうではありません。家の形式が存在している間のみ、「家」という名前が存在し得ます。

この原理を「僧院」「寺院」「休憩所」「パンダル」のケースに当てはめて、慣習とAbhidhammaの違いを分析、検討し、理解してください。

 

この 2 つのうち、慣習は世俗的世界で使われるもので、乗り越えたり、否定するものではありません。Abhidhammaだけが世俗を乗り越え、超世俗的な世界に到達させることができます。ソファ、王座、ベンチ、ボート、荷車などの「構築物」は、慣習に従うとソファ、王座、ベンチ、ボート、荷車などが存在することになります。しかし、Abhidhammaによると、ソファ、ベンチ、ボート、荷車などはなく、存在するのは材料だけです。粘土を鍋、洗面器、コップ、容器にする場合、慣習に従うと鍋、洗面器、コップ、容器が存在することになりますが、Abhidhammaによると、鍋、洗面器、コップ、容器はありません。存在するのは粘土だけです。

 

i)鉄から様々な物を作ること、(ii)銅、金、銀から銅器、金器、銀器を作ること、(iii)糸から様々なコート、タオル、衣類を作ることは、慣習によれば様々な完成品が存在します。しかし、Abhidhammaによれば、上記の物は存在せず、存在するのは木材、竹材、粘土、鉄、銅、糸だけです。

これらの違いを分析し、吟味(比較)し、理解してください。

 

「個」、「生命体」、「自己」、「魂」の場合、慣習によれば、個、生命体、自己、魂はあります。 しかし、Abhidhammaによれば、個も生命体も、自己も魂も存在せず、存在するのはpathavīなどの要素だけです。DevaSakkaBrahmāも牛も水牛も象も馬もありません。 女性も男性も、「誰々」も「私」も「彼」も存在せず、pathavīなどの要素だけが存在します。頭、足、手、目、鼻はなく、pathavīなどの要素だけがあります。頭毛、体毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、胸膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、便もありませんが、pathavīなどの要素だけがあります。

Sasāraを通じて多種の物体として常に誤って認識されてきた大小あらゆる形態の概念を、知識をもって分析すると、要素の堆積、要素の塊、要素の集合体、要素の山にすぎないことがわかるでしょう。

このような知識は、「Dhammaの分析的知識の光」と呼ばれます。

 

 

Pathavīの分析

ここで、Pathavīなどの四大元素について簡単に説明します。

(1) Pathavī (拡張の元素) または (土の元素)

Pathavīは硬さまたは柔らかさの特性を持っています。このような柔らかさまたは硬さは、究極の意味での土の元素です。

(2) Āpo (凝集性または流動性の元素) または (水の元素)

Āpoは凝集性または流動性の特性を持っています。このような凝集性または流動性は、究極の意味での水の元素です。

(3) Tejo (運動エネルギーの元素) または (火の元素)

Tejoは熱または冷たさの特性を持っています。このような熱または冷たさは、究極の意味での火の元素です。

(4) Vāyo (運動または支持の元素) または (風の元素)

Vāyoは運動または支持の特性を持っています。このような動きや支えは、究極的な意味での風元素です。

 

これらの 四大元素の意味を、徹底的に研究して、心して学ぶべきです。

Dhamma-vavatthāna-ñāaの光が完全に理解されるように、上記の 4 つの要素、つまり土、水、火、風について解説します。

究極的な意味での土元素は、単に硬さという性質を意味します。粒子の「原子」を 10 万の部分に分割すると、(究極的な意味で)いかなる硬い物質も存在しません。

きれいな河水に、地中からにじみ出る湧き水の中に、太陽や月や星やルビーの光の中に、鐘や真鍮の銅鑼の音の中に、そよ風、強風や嵐の中に、芳しい香りや腐った匂いの中など、これらすべての中に究極の意味での土元素があります。

 

 

I.  経典による証明

(1)  4要素は共存し、分離不可能です。

(2) Eka mahā-bhūta paicca tayo mahā-bhūtātayo mahā-bhūte paicca eka mahā-bhūtadve mahā-bhūte paicca dve mahā-bhūtā。」

(mahā-bhūta1つに依拠して残りの3つが生じ、mahā-bhūta3つに依拠して残りの 1 つが生じ、mahā-bhūta2つに依拠して残りの2つが生じます。)

(3) 注釈には次のように書かれています: Pathavī土元素には、水元素、風元素、火元素を受け入れる機能があります。

(4) 水、風、火元素の特性は、土元素に依拠せずには存在できないものです。

 

上記の事実から判断すると、上で述べた様々な種類の水、色、音、風、匂いは、土元素に満ちていることがわかります。

これがテキスト(経典)による証明です。

 

 

II. 特性characteristicによる証明

水の塊や風の塊は、下層が上層を支えていることは明らかです。この支持の状態はĀpo(水元素)の特性characteristicではありません。なぜならばĀpoの特性は凝集性だけだからです。またTejoの特性でもありません。なぜならばTejoの特性は熱または冷たさだけだからです。したがって、支持はPathavīVāyoの特性です。

支持の状態は、硬さと組み合わさった場合にのみ可能です。この2つのうち、硬さは究極の意味で土と呼ばれ、支持は究極の意味で風と呼ばれます。ここで、風元素と呼ばれる支持は、土元素と呼ばれる硬さに依拠しています。それは自発的に存在することはできません。硬さと支持の違いを試してみてください。

 

したがって、次のように理解できます。前述の水と風に硬さの特性 (kakkhaa-lakkhaa) が存在するという事実から、それらには土元素もあることが明らかです。太陽光などの光、鐘の音などの音、芳香などの匂いなどには硬さの特性が存在しますが、これらの物質にはこの性質が非常に弱いため、証明は不可能であり、その存在はテキスト(経典)によってのみ証明できます。ここで清らかな水、風、月の光、音、匂いの例を挙げているのは、次のことを明確にするためです。

 

(1) 土元素は硬さという固有(生来の)の性質propertyにすぎない。

(2) 土元素には、「原子」の 10 万分の 1 程度でも硬い物質はまったく存在しない。

土元素は単なる硬さであって実体はないが、比較的硬いものもあれば比較的柔らかいものもある。したがって、Vajira(金剛、雷光)の刃の硬さを一方の極、月光の物質グループの硬さをもう一方の極として、土元素があるものは、2極の間のさまざまな硬さと柔らかさの程度があることを理解します。この土元素の硬さの特性は、慣習的な認識ではなく、究極の真実として熟慮する必要があります。月光などの硬さは、慣習的な認識に従った熟慮では検出できません。

 

何億、何十万、何万もの単なる硬さの特性である土の元素がĀpo(凝集要素)によってまとめられると、「原子」という形の名前が生まれます。こうした原子が何億、何十万、何万と集まって、シラミ、虫などの形の名前が生まれます。このように、体積が徐々に大きくなれば、生物の場合は最小のものから高さ4800由旬のAsurinda(アスラの王)まで、外部の物体の場合は最小のものから高さ168000由旬のMeru山(須弥山)、深さ24000由旬の大地Great Earth伝統的名称は?Panka prabhaと呼ばれているものが生まれます。

 

シラミ、原子などの物体に含まれるすべての物質の塊は、土元素(硬さ)が基本です。この土元素以外に、硬さの性質を持つ要素はありません。水元素、風元素、火元素も土元素に依拠しなければなりません。

 

このように、この土元素の働きの偉大さを理解する必要があります。

Meru山または大地の土元素を究極の意味で熟慮したいのであれば、「原子(最小単位)」レベルの物質さえもない単なる硬さの性質だけを熟慮する必要があります。

すると、それは鏡に映ったもの、すなわち原子レベルさえも混じっていない清らかなの塊として見られます。

原子レベルの物質がマインドに浮かんだ場合、それは究極の意味での土元素ではありません。それには形の概念が混ざったものです。現象の発生と消滅を熟慮(観想)する際に、図像的な観念が混同されると、特徴を明確に理解することができません。

尊者Puṇṇa Mahāthera4は鏡に映る反射像を喩えに元素を観想する修行を尊者Ānandaに教え、尊者Ānandaはこの喩え話のみでSotāpanna になりました。

注釈4     Abhidhamma Piaka, Paṭṭhāna, i, Book 1, page 19, 6th Syn, Edn.

 

 

Meru山(須弥山)や大地のすべての対象(生物・無生物の両方)を熟慮(観想)する際に、土の元素を「原子」レベルに至るまでいかなる物質とも混ぜることなく(究極の意味で)硬さの性質だとはっきりと理解できれば、微生物や無生物のあらゆる対象の土の元素をはっきりと理解することは容易でしょう。

 

鏡に映るもの、水に映るもの、木の影、山の影など、たとえそれが須弥山のように大きくても「原子」レベルさえ実体がないため、、消滅したり破壊されたりする機会があれば、瞬きや稲妻の間に100回以上消滅します。

同様に、須弥山ほどの大きさで、あらゆる方向に広大に浸透している土の元素は、究極の意味では「原子」レベルにおいても実体や塊を欠いており、消滅したり破壊されたりする機会があれば、瞬きや稲妻の間に、100回以上も消滅します。

 

人が自分の体にある土元素を観想して「光」を得るには、自分の体の各部分を観想して各部分を理解できるようにする必要があります。たとえば頭などの部分を観想するときは、外部と内部を区別せずに観想する必要があります。(このような観想では)色の要素が邪魔になる場合があります。図像的な概念も邪魔になる場合があります。知的能力を非常に強く働かせてください体の下部から首から下?足の裏まで、自分の体の各部分を観想して各部分を理解できるようにする必要があります。

このように身体のすべての部分を観想した後、頭のPathavīを観想する時はいつでも、足の裏に至るまで身体の他のすべての部分を同時に理解するようになります。自分の身体の要素を覚れば、無数の宇宙と世界周期のすべての存在の要素を理解できるでしょう。このPathavī(土元素)を覚れば、水元素、風元素の理解は非常に容易になります。

これでPathavīの簡単な分析は終わります。

 

 

Āpoの分析

究極の意味では、水元素は単なる凝集性を意味します。この凝集性、つまり究極の意味での水元素が強い場合、それはpaggharaa(湿り気または流動性)の特性を持つ水元素です。

paggharaa[nt] trickling滴る; oozing漏れる; dripping滴り落ちる

この究極の意味での水元素は、単なる凝集性(ābandhana kiriyā)であり、「原子」の10万分の1にも実体はありません。水元素は、同じ実体的(corporeal)元素グループに共存する他の元素、つまり土要素、風要素、火元素を結合するため、それらはお互いに依拠し合って存在することができます。それらを結び付けている水元素が消えると、他の3つの要素も瞬時に消えます。

これが実体的(corporeal)なグループにおける水元素の有用性です。

実体的グループは、この水元素のおかげで、最小の「原子」であるParamāuau(原子)の36パーツ)から、生命体界のAsurinda(アスラの王)、外界の須弥山、Cakkavāa山、大地に至るまで、さまざまな形、サイズ、次元でこの世界に存在することができます。この水元素以外に、元素をまとめることができる元素はありません。高度168000yojanaの須弥山の凝集力が破壊された場合、その山自体が瞬時に消滅します。高度164000yojanaCakkavāa山の凝集力が破壊された場合、Cakkavāa山自体が瞬時に消滅します。大地の凝集力が破壊された場合、大地自体が瞬時に消滅し、後には空き地だけが残ります。なぜでしょうか。なぜなら、それらをまとめる凝集力がなければ、須弥山、Cakkavāa山、大地にある土元素、火元素、風元素は、互いに支え合ったり依拠したりすることができず、崩壊してしまうからです。Nibbānaを除いて、形成の特性を持つすべてのparamattha dhamma(真のdhamma)は、瞬きや稲妻の間でさえ、支援や助けがなければ存続できません。

 

須弥山、Cakkavāa山、大地の水元素を観想したいのであれば、凝集力を観想すべきです。ただし、それを硬さ(土元素)と混同してはいけません。色彩や図像的な概念は、邪魔になりがちです。色彩や図像的な概念がdhammaの分析的知識を妨げると、後で観想したときに生成と消滅を理解することができないかもしれません。

真のaniccā,dukkhā,anattaは、paramattha dhammas(究極の真実)を明確に理解した場合にのみ実現できます。

 

土元素に関してはすでに説明したように、この水元素においても、水元素は単なる凝集物であると明確に理解すると、鏡や水面の中の雨、雲、太陽、月、木々の像に実体がないように、須弥山と大地にも実体がまったくないことに気付くでしょう。

須弥山と大地の元素を理解できれば、人間、神々、Brahmās、その他すべての生命体の元素を理解するのは非常に簡単です。そして、重要なことは、生命体の要素を理解することです。

生命体の元素を理解するための道を開くために、須弥山と大地から説明を始めます。

頭から足の裏まで自分の体の中の元素を徹底的に理解した後にのみ、他の生命体の中の元素を熟慮(観想)すべきです。

 

 

Tejoの分析

究極の意味での火元素は、単に熱または冷たさの性質を意味します。熱または冷たさは、共存する他の 3 つの元素を成熟させ、強くするものです。熱と冷たさはどちらも、同じ実体的(corporeal)グループで構成する他の元素に熱を与えて成熟させ、強くする力を持っています。鶏が巣に産んだ卵のように、母鶏が絶えず卵を温めて熱を与えて初めて、卵は成熟し、鶏が生まれます。母鶏が卵を温めて熱を与えなければ鶏は生まれず、卵が母親の胎内にいる間に受けた熱がなくなるとすぐに卵は腐ってしまいます。

ここでは、Tejo元素は母鶏に似ており、残りの3つの元素は卵の黄身に似ています。火元素と組み合わせることでのみ、硬さ (土元素) が生まれます。火元素との組み合わせでのみ、凝集力(水元素)は生まれ、熱または冷たさ(火元素)との組み合わせでのみ、振動(風元素)は生まれます。これらは火元素なしでは正常に存在することはできません。

 

大海の水、海の水、この大地を支えている水は、冷たい火元素に依拠しており、その制御の下で存在し続けています。須弥山山、Cakkavāa 山、そして大地も(冷たい)火元素に依拠しています。

他の要素と混同せずに火元素のみを熟慮する場合、冷たい物の冷たさと熱い物の熱さだけを熟慮し、色、形、大きさ、寸法の概念と混同しないようにする必要があります。この火元素には「原子」レベルにさえ硬さの実体が含まれていないという事実は明らかです。このため、火元素が明確に理解されると、この元素にはいかなる次元の固体solidの実体も含まれていないことが明確に理解されます。これは鏡や水面に映る太陽、月、雲、雨が知覚では見えるにもかかわらず、いかなる実体も含まれていないのと同じです。

自分の体の中でこの元素を観察する場合、自分の知識で把握できる体の部分だけを観察する必要があります。

体全体でこの要素を明確に理解できれば、無数の他の存在の中でそれを理解できるようになります。

ここでTejoの分析は終わります。