ジャータカ 本生譚 経蔵小部
Jātakaとは、仏教でいう前世の物語のこと。
パーリ語版は、パーリ語経典経蔵小部に収録され22篇に分けて計547もの物語がジャータカとして収録されている。
漢訳『本生経』は、大蔵経の本縁部に各種の話が収録されている。漢訳音写:闍陀迦、闍多伽)
仏教経典には、さまざまな前世の因縁物語が説かれ、主には釈迦仏の前世による因縁を明かし、現世や来世を説いている。
散文と韻文とで構成され、紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。
兎の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊が祇園精舎におられたとき、お説きになったものです。
ある在家信者が七日に渡って釈尊と比丘たちに食事の布施をして、最後の日に、出家生活の必需品全てを揃えてお布施しました。釈尊と比丘たちに布施をできたことで、彼が限りなく喜びを感じていました。彼をさらに喜ばせてあげようと思った釈尊が、兎の話を説きました。
その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりました。その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありました。
彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりました。その時兎は、悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。
ある満月の日、兎は修行しようと思いました。三匹の友人も誘いました。皆、大変喜んで修行することに決めました。修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。
兎は、「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」と、注意しました。
そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけました。キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけました。猿は木からマンゴーを取って来ました。兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。
その代わりに、大きな悩みが出てきました。食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。何か自分が偽善行為をやっているような気もしました。
「偽善になってはたまらない。誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めました。
兎は、修行のために命まで賭けました。天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きました。
皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねました。カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しました。
サッカは「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きました。
(そして)「何か食べ物をください」と、兎に頼みました。
兎は、「それは良かった。誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。
サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りました。
兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みました。
身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。
兎は乞食に尋ねます。「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。あまりにも涼しいのです」
サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」。
サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、山を絞り、液体を出して(溶岩では?)、月に兎の形を描き遺しました。
この話を聞いて、お布施した在家信者が大変喜びを感じて、また真理を理解しました。
スマナサーラ長老のコメント
良いことは、我が身も惜しまないでやるべきです。
人類に遺るのは、日常やっているマンネリの生き方ではなく、すばらしい善行為だけです。
この物語の筋は、右の戒めではないかと思います。
星占いの話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、お説きになったものです。
ある村の由緒正しい家の嫁を、サーヴァッティの都の同じく良家から迎える話がまとまり、お祝いの日取りも決定して、あとは嫁入りの日を待つばかりとなっていました。ところが、その当日になってある宗教家に占いを頼んだところで騙されてしまった家人が、相手の家に無断で、急に予定を変更してしまい、折角のめでたい話が破談になってしまいました。
講堂に集まった比丘たちもこの話題を採り上げていたところ、お釈迦さまがいらっしゃって、「星占いによって昔も、人が幸福になるのを妨害されたことがある」と、星占いの話を説きました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、都会に住んでいた家族が、田舎に住んでいた家族から嫁を迎えることになり、お祝いの日取りも決定して、あとは嫁入りの日を待つばかりとなっていました。
当日になってその家の家人は、一家で親しくしていた遊行者(修行者)に星占いを頼みました。
「先生、今日私達の家でお祝いごとがあるのですが、空の星はめでたい配列になっているんでしょうか?将来はどうなるでしょうか?是非占っていただけませんかと聞きました。普通のやり方は、まず占ってから日にちを決めることです。この家人たちは占い師を頼む前に日にちと段取りを先に決めてありました。これに、遊行者のプライドが傷ついたようです。
その遊行者は心の中で『事前にこの私に相談もしないで勝手に日取りを決めてしまい、今頃になって聞きに来おって!』と思うと腹が立ってきて、この失礼なやつらの邪魔をしてやろう…と、「今日の星の配列は、とても不吉な状態です。今日の祝宴は見合わせたほうがよろしい。もしも強行すれば、大破綻を来すでしょう。」と顔を苦くして占ってあげました。
その一家の人々は彼の言うことを信用して、その日は出掛けませんでした。一方、村の人々は、大変苦労して結婚式の宴の準備をして待っていたのに、誰も現れませんでした。
田舎に住んでいた家族は彼らが来ないことを知って、「あの人たちは日取りを決めて約束を交わしておきながら急に来ないとは・・・我々のことを馬鹿にしているのではないか!」と言って、折角苦労して宴の準備をしましたし、またやり直すくらいの財産はないし、仕方なくほかの家に娘を嫁がせてしまいました。
翌日になると都会に住んでいた家族がやって来て、「娘さんをお嫁にください」と頼みました。
すっかり気を悪くしていた田舎の家族は、「あなたたち都会の人は礼儀知らずで非常識なのではないですか?あなた方がしっかり日時まで決めておきながら急に約束を破って来ないものだから、娘にとっては我慢できない程の恥でした。娘の気持ちを考えて、私たちは娘をほかの家に嫁にやってしまった!」と言いました。
町の人にしても、嫁をもらおうと行ったところで断られると、大変な恥です。
それで互いに言い訳を言いながら、結局喧嘩になってしまいました。
「私たちは、星占いの結果が不吉だったので大事をとって来なかったのです。それは、娘さんの幸せを考えてやったことです。なんとか娘さんをお渡しください!」
「あんたたちが約束を破ったのがいけないのだろう。ほかの家に嫁にやった娘を今さら連れ戻せるわけがない!」
このように彼らが言い争っているそのときに、都会に住んでいるある賢い人が、たまたま用事があってこの田舎の村へやって来ていました。
そこで彼は、自分に関係ないこの喧嘩の仲裁をする羽目になりました。「遊行者の星占いを信じて来なかった」という都会の人々の言い分を聞いてこの賢い人は判決を出しました。
「星の配列にどんな『めでたさが』があるのか。結婚して幸福を得ることが、すなわち『星回りが良くてめでたい』ことなのではないか」と言って、次のような詩句を唱えました。
都会の人々は、お嫁さんももらわず、大恥をかけられて悔しい思いを抱きながら、田舎の村を立ち去って行きました。
お釈迦さまは、「比丘たちよ、この遊行者が人々のお祝いごとの邪魔をしたのは、何もいまだけに限ったことではない。過去生においても邪魔をしていたのである」とおっしゃいました。
この過去生物語で、仲裁に入る賢い人は菩薩(お釈迦さまの前生)でした。
スマナサーラ長老のコメント
偶然の出来事や迷信に、なにか重大な意味があるかのようにこじつけて、大切な決定を誤って下してしまうのは、愚かなことだと思います。
迷信に依存する人は一生弱くて、不幸になるだけです。明るく努力すれば、自分の手で幸せを取ることができます。
世にある様々な占いの術、また超能力術などは、社会に対して迷惑以外の何もありません。
ダンマパーラ王子の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊が竹林精舎におられたとき、お説きになったものです。
ある日、講堂に集まった比丘達のあいだで話題が持ち上がりました。 「デーヴァダッタは釈尊を殺そうと企んでいる。ナーラーギリという凶暴な象を放って、托鉢の行列に飛び込ませようとした。」と。
そこへお釈迦様がいらっしゃって、 「それは今だけのことではない、以前にも彼は私を殺そうと企てた。しかし私を怒らせたり怖がらせたりすることは出来なかった」と、ダンマパーラ王子の話を説きました。
その昔バーラーナシーでマハーパターパという王が国を統治していたとき、菩薩(釈尊の前世のことです)は王の第一の妃であるチャンダー王妃の胎に宿り生まれて来ました。
ダンマパーラという名がつけられ、生まれて七ヶ月になって部屋で母と遊んでいるときに父王がその部屋にやって来ました。ところが妃は母親としての愛情が強く、遊ばせている子供の方に気を取られており、王を見ても立ち上がって挨拶をしませんでした。
王は機嫌を損ねて、 「妃は今ですら傲慢になって、わたしのことをないがしろにしている。このうえ子供が大きくなったら、わたしを人間とすら認めなくなるだろう。いまのうちに子供を殺してしまおう」 と考えながら自分の部屋に戻りました。
王は玉座につくと、泥棒の首を切る処刑人に、処刑の支度を整えて来るように命じました。処刑のための衣装をつけ、道具を持ってやって来た処刑人に、王は 「妃の寝室に行ってダンマパーラを連れてまいれ」 と言いました。
王妃は王が腹を立てて帰ったのに気が付いて、王子を胸に抱いて泣きながら座っていました。処刑人は王妃の背をドンと突いて王子を奪い去り、王のもとへ連れ戻って指示を仰ぎました。
王は、 「板を持って来させて、そこに王子を寝かせよ」と命じ、彼がそのとおりにしていると、王妃が嘆きながら王子を追ってやって来ました。
ふたたび処刑人が、 「王様、どのようにいたしましょうか?」 とたずねると、王は 「ダンマパーラの手を切れ!」 と命令したので、王妃は、 「大王さま、この子はまだ七ヶ月の嬰児で何も知りませんし何の罪もありません。罪があるのは私のほうですから、私の手をお切らせください」 と懇願しました。
しかし王は、 「ただちに手を切れ!」 と言ったので、処刑人はすぐさま鋭い斧を取って、王子の幼い筍のような両手を切りました。
王子は両手を切られながらも、泣くこともわめくこともせず、忍耐と慈悲を心に満たして耐えました。一方チャンダー王妃は、切り落とされた手の端をつかんで腰布にくるみ、血に染まりながら泣いていました。
ふたたび処刑人が、 「王様、どのようにいたしましょうか?」 とたずねて、王が、 「両足も切ってしまえ!」 と言ったのを聞いて、やはり王妃は自分の足を切るように懇願しましたが甲斐もなく、王子は両足も切られてしまいました。
チャンダー王妃は、切り落とされた足の端をつかんで腰布にくるみ、血に染まりながら泣いて「両手足を切断された子供は、母親が大事に面倒をみて育てなくてはなりません。私がお金を作って私の子供を育てますので、どうぞその子をお渡しください」 と頼みましたが、処刑人と王は意に介さずに続けました。
「王様、まだお指し図がございますか?私の仕事はこれで終わりでしょうか?」
「いや、まだおわってはおらん」
「それでは何をいたしましょうか?」
「こいつの首を切れ!」
そこでチャンダー王妃は、 「王様に無礼をはたらいた罪は私だけにありますから、王子をお赦しください。王様、私の首をお切らせください」 と言って、自分の首を差し出しました。
そのとき王子は心の中で自分自身に言い聞かせるように
「今はあなたの心をよく抑制するべきときです。今あなたは、我が子の首を切れと命じる父王と、処刑人と、泣き悲しんでいる母と、王子自身との、この四者に対して平等で冷静な心を持つのです」と堅く決心して、怒ったり恨んだりする気配すら見せませんでした。
ついに処刑人は王子の首を切りました。
「王様、ご命令を果たしましたでしょうか?」
「いやまだ終わりではない」
「それでは何をいたしましょうか?」
「刀の『技』をやって見せろ!」
処刑人は王子の体を空中に投げ、それを刀の先端で受けて空中でバラバラに切り裂く、刀の『技』をやって見せて肉片を床に撒き散らしました。チャンダー王妃は、菩薩である王子の肉を腰布にくるみ、床に泣き伏して、嘆き悲しみました。
「この王に、『我が子を虐待するなかれ、それは理性ある人間の道ではない』というくらいの忠告をできる友人も、大臣も、有識者も、ひとりもこの国にいないのですか」
チャンダー王妃は、両手で王子の心臓を持ちながら泣き崩れました。
「大地を支配する運命を持った我が愛しい子、ダンマパーラの両手両足に、貴重な栴檀の油を塗って、今まで大事に育ててきました。今、ダンマパーラ王子に両手も両足もない。身体もない。これから私は、どこへ再び油を塗って、子育てをするのでしょうか。王よ、我が命もこれで果てます」
余りの悲しみの激しさに、彼女の心臓は燃える竹林の竹のように破裂して、そこで命尽きてしまいました。
正気に戻った王は、自分の犯した罪の残酷さの余りに、椅子に座っていることもできなくなりました。そして椅子から転げ落ちて床に倒れてしまいました。
すると、倒れたところで床板が二つに割れてしまい、そこから王は地面に落ちました。この、二十四万ヨージャナの厚さの大地でさえ、王の罪の重さに堪えることが出来ずに裂けて穴が開いてしまいました。さらに無間地獄から炎が現れて、赤い毛織物が包み込むようにして王を捕らえ、無間地獄に投げ込みました。
大臣たちは、チャンダー王妃と、菩薩である王子の遺骸を火葬にしました。
お釈迦様はこの話を説かれて、過去を現在にあてはめられました。
「そのときの王はデーヴァダッタであり、チャンダー王妃はマハーパジャーパティ・ゴータミー(お釈迦様の育ての母)であり、ダンマパーラ王子は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
自分を殺そうとする程の敵に対して慈悲の心を保ち、怒りを起こさず冷静であることが、いかに厳しい境地であるか、このお釈迦様の前世物語から伺い知ることが出来ます。
この物語では、王は極端な悪を表すもので、処刑人は愚か者で判断力も持たないでどんな悪い事にも手を出す役です。
王妃は完全無欠な優しさの役です。
菩薩であるダンマパーラの役で、仏教徒は他人に対してどのような姿勢で生きるべきかという模範を表していると思います。
自分を殺そうとした敵にも、命を懸けて守ってくれようとする味方にも、言われればどんな悪をもなす愚か者に対しても、怒りと愛情の感情を起こさず、平等な気持ちで冷静にいられることは、菩薩にしかできないのかも知れませんが、この菩薩の境地に少しでも近づけるよう、努力するべきではないでしょうか。
園林を破壊した話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がコーサラ国のある村で、お説きになったものです。
お釈迦さまがコーサラ国の人々の間を托鉢してまわられていたとき、ある村の大きな家の主人に招待されて、その家の庭園を訪れておられました。
主人は、お釈迦さまを先頭とする僧団に御布施をしてから申し上げました。
「どうぞ皆様、ご自由にこの庭園を散歩なさって下さい」
比丘たちは立ち上がり、庭園の管理者に案内されて歩いていると、空き地があるのを見つけて管理者にたずねました。
「この庭園は、ほかのところではいたるところ木々が生い茂って深い木陰になっているのに、ここのところだけは何の樹木も潅木も無いですが、いったいどういうわけですか?」
「はい、皆様。この庭園に植林するときに、一人の村の若者が水やりを任されていたのですが、この場所の苗木を根こそぎ引き抜いてしまい、根の大小に応じて水の量を加減しようとしました。それで苗木は傷んでしぼんでしまい、枯れてしまったのです。そんなわけで、ここのところだけが空き地になってるのです。」
比丘たちはお釈迦さまのもとに近づき、このことを申し上げました。
お釈迦さまは 「その若者が園林を破壊してしまったのは、今だけに限ったことではない」 と、過去の物語をお説きになりました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、人々のあいだでは、これから行われるお祭りの話でもちきりでした。祭りの触れ太鼓の音が鳴り響くと、人々はすっかり祭りのことに夢中になっていました。
そのころ国王の庭園には多くの猿たちが住んでいました。庭園の管理者は、 「この猿どもをうまくてなづけて水やりをさせれば、私は祭りに出掛けることができる」と考えました。 そこでボス猿のところへ出向いて、
「この庭園はお前たちにとっても大切なもので、ここにある花や果実や若芽を食べてお前たちは生きている。わたしはしばらくの間出掛けてきたいので、留守中この庭園にある苗木に水をやってくれないか?」 と訊ねました。
ボス猿は快くひきうけたので、彼は水をやるためのバケツと水さしを猿たちに与えて、いそいそと祭りに出掛けて行きました。さっそく猿たちはバケツと水さしを使って苗木の水やりをはじめました。そこで目付役のボス猿は猿たちに声をかけました。
「さあみんな、水というものは大事に節約して使わなくてはならない。お前たちは苗木に水をやるときに、一本一本根を引き抜いてよく観察し、根が長くて地中深くまでのびている苗には多めの水を、まだ根が短くて浅いところまでしかのびていない苗には少なめの水をやりなさい。そうすればあとで、われわれにもこの貴重な水が残ることになるだろう」 と、自分の知識の深さを見せました。
猿たちは「なるほど」と同意して、ボスに言われたとおりにしました。
ちょうどそのときに、あるひとりの賢い人が王宮の庭園に来て、猿たちのしていることを見かけて言いました。「やあ、猿たちよ。どうしてお前たちはいちいち苗木を引き抜いて、根を見てから水をやっているのか?」
猿たちは答えました。「私たちのボスが、こうするようにと私たちに言いきかせたのです」 と言いました。
賢い人は、このことばを聞いて、 「ああ、全く嘆かわしいことだ。智慧のない愚かな者たちは気の利いたことをしているつもりで無益なことばかりしているのだ」と考えて、次のような詩句を唱えました
有益なことにうとい者は、役に立とうとしながらも全く幸福をもたらさない
その愚か者が逆に益あるものを滅ぼすばかり
あたかも園林に住む猿のように
このようにして、その賢い人は、詩句によってボス猿を諭して、自分の仲間たちとともに庭園を立ち去りました。
お釈迦さまは、 「その村の若者が園林を破壊してしまったのは、何も今だけに限ったことではない。過去においても園林を破壊してしまったことがある」とおっしゃいました。
この過去生物語で、ボス猿は園林を破壊してしまった村の若者、ボス猿を諭した賢い人は菩薩(お釈迦さまの前世)でした。
スマナサーラ長老のコメント
世の中で、知識や学問、論理、理屈などに凝り固まっている人が、いたずらに大勢います。
その人々は何か問題が起きたら、きまり、法律、習慣、慣例、理論など、想像できる範囲のすべての知識を絞って、延々と考えて結論を出す。脳細胞にまで汗が出るくらい考えてくれるのはありがたいのですが、肝心な結論は全く役に立たないか、もうすでに遅すぎるかになるのは残念です。
我々の社会で様々な問題が、次から次へと現れます。その時知識人たちが色々と話し合いますが、一向に問題が解決することでもなく、社会が良くなることでもないのです。
この物語のボス猿は、言ったことが感心するほど論理的です。
大事な水の資源を守ることまで考えたのですから、大したものです。
でも、自分の知識に酔って考えると、どこかに全て無になる落とし穴があります。
知識、科学と技術の進歩などだけ誇らしげに賛嘆している我々は、原子爆弾も作り、地球を丸ごと破壊になるように追い込む。
知識も科学も技術の発展も、芸術も政治経済などの全てが、人間に幸せに豊かで生きていられるための手段として現れたものです。
やがてこの手段は目的になってしまって、目的であるはずの幸せに生きることは忘れたのです。人々が自分を幸せにしてくれるはずの手段の奴隷になって、苦しむようになってしまったのです。
頭の能力では、このボス猿には負けたくないようです。
知識、理屈などにとらわれている我々は、肝心な何かを忘れているということは、この物語の教訓ではないかと思います。
ナンディ・ヴィサーラという牛の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたときお説きになったものです。
そのころ、サンガの和を乱す比丘 たちが、善良な比丘たちを嘲笑い、蔑み、いろいろな悪口を言っては困らせていました。善良な比丘たちがお釈迦さまにこのことを報告したところ、お釈迦さまは彼らを呼び出して叱責され、
「むごい言葉というものは、動物たちですら嫌うのである。過去においても、ある動物が、自分に対してむごい言葉を言い放つ者に、千金もの損をさせたのである」 とおっしゃって、過去の物語をお話しになりました。
その昔、菩薩(お釈迦さまの前世)は牛として生まれ変わり、ガンダーラ王国のあるひとりのバラモンに養われ、ナンディ・ヴィサーラ(以下ナンディと省略)という名前をつけられて息子のように大切に育てられました。
大きくたくましく成長した牛は、大変世話になったこのバラモンに、役に立つことを何かしなくてはいけないと思いました。自分の体力を使って収入でも入るようにしてあげれば、バラモンの貧しい人生が豊かになるだろうと思いました。
ある日、彼に言いました。
「お父さん。牛持ちの商業組合長のところへ出掛けて『私の牛は連結された百台の車を動かせます』と言って千金の賭けをしてください。私は若くて力持ちだから、百台の車を牽いてあげて、お父さんに大金が入るようにしてあげます」
(バラモンは)息子のつもりで育てたナンディの力自慢を、あまりにも可愛くて無視することができませんでした。
バラモンは商業組合長のところへ行って、自分の牛の自慢話を始めました。商業組合長も負けずに、自分の牛たちの力強さを強調しました。すると、バラモンは咄嗟に(言いました。)
「うちの子は百台の車を繋げてもいけますよ。千金でも賭けられます」
プライドが傷ついた商業組合長は、 「そんな馬鹿な。じゃあ、千金を賭けます。できるなら、牽かせてみろ」 と挑戦しました。貧しいバラモンにとってはとんだ迷惑でしたが、後には引けません。
百台の車に砂利や石をいっぱいに積んで綱で連結して、用意ができました。いつもお父さんにきれいに身支度させてもらっているナンディも、誇らしげに出番を待っていました。
ナンディを先頭の車の先端に、ただ一頭だけ繋ぎました。そしてバラモンが車の先端に坐り、突き棒を振り上げて、 「行け、根性なしめ! 牽け、根性なしめ!」 と叫びました。
(仕事をしたがらない普通の牛を働かすために、牛に対してひどい言葉で叱るのは普通です。バラモンもうっかりして、我が子同然のナンディに乱暴な言葉を浴びせてしまいました。ナンディにとっては、あまりにもショックでした。)
ところが菩薩である牛は、 「この人は、根性なしではない私を『根性なし』という言葉で、乱暴に呼びつける」 と思うと、四本の足が柱のように硬直してしまって、動かせずに立ち止まってしまいました。この瞬間にバラモンの負けが決まり、彼は千金を取られてしまいました。
賭けに負けて家に帰ったバラモンがショックのあまりに寝込んでいるので、ナンディは彼に近づき、
「お父さん、私があなたに言われた躾を、ひとつでも破ったことがありますか? あなたに気に入らないことを、ひとつでもやったことがありますか?」
「いいや、そんなことはなかったよ」
「では、どうして私を『根性なし』という侮辱する言葉で呼びつけるのですか。生まれて初めて侮辱された私は、ショックで硬直してしまいました。(賭けに負けたのは)あなたの蔑みの言葉のせいです。試しに今度は、二千金の賭けをしてください。彼もすぐ乗ってくるでしょう。ただし、言葉に気を付けてよ」
バラモンは牛の話を聞いて出掛けて行き、今度は倍額の二千金で賭けをすることにしました。
そして今度は車の先端を、しっかりと牛の頸に固定しました。そこでバラモンは車の先端に坐って、ナンディの背中をやさしくさすりながら、「賢いナンディくん、がんばれ、負けるな!」と、励ましました。
菩薩である牛は、一列に連結されている百台の車を全く一気に引いて、最後尾の車を先頭の車があったところまで持ってきて止めました。牛持ちの商業組合長は賭けに負けて、バラモンに二千金を手渡しました。そのうえ他の人々も、菩薩である牛の力強さに感嘆して、沢山の財貨を贈りました。
お釈迦さまは、「比丘たちよ、むごい言葉というものは、だれにとっても気持ちのよいものではない」と、サンガの和を乱す比丘たちをお叱りになって、言葉使いに関する新しい戒律を設定されました。
そして、次のような詩句を唱えられました。
快い言葉こそ語りなさい
不快な言葉は決して語ってはならない
実に、快い言葉を語る人のために
牛さえも重荷を運び、財貨をもたらす
しかも、それによって(快い言葉)
人々は、幸福な者となる
スマナサーラ長老のコメント
呪文には魔力があると思う人が、希でもいるかもしれません。
でも人間が他人に語る言葉が、全て呪文なのです。
残念ながら、我々が語る呪文は、不幸を招く呪いの呪文だけです。
相手の気持ちをまったく気にせず、自分勝手な感情で放つきつい言葉が、自分にも他人にもかける呪いの呪文だと、思った方が良いのではないかと思います。
動物さえも快い言葉を好みます。いかなる場合でも、他を蔑んではならないのです。
金塊の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がサーヴァッティにおられたとき、ある一人の比丘について、お説きになったものです。
サーヴァッティに住んでいた良家の一人息子が、お釈迦さまの説法を聞いて、仏・法・僧の三宝に帰依して出家しました。そのとき彼の指導者たちは、膨大な数の戒律を複雑な分類で厳密に説明して聞かせました。
そこで彼は、 「この戒というものは実に数が多い。自分はそんなに多くの戒を課せられても到底実行は出来ないだろう。戒も満足に守れない者が出家しても何にもならないのだから、それよりも一家の家長として布施などの善行をなしたり、妻子を養ったりすることのほうが良いことだろう」 と考えました。
そこで指導者に、 「師匠よ、私にはそんなに多くの戒律は守り切れません。守れないのに出家してもなんの益もないと思いますから、私は俗人に還って生活をしますので、僧衣と鉢をお返しいたします」 と申し出ました。
指導者たちは、 「もしそういうことならば、お釈迦さまにきちんとお話してから行きなさい」 と言って、彼を引き連れて講堂に居られたお釈迦さまのもとに行きました。
お釈迦さまは、 「比丘たちよ、あなたたちは何故この比丘を無理に連れて来たのか」 と尋ねられたので、指導者たちは事情をお話しました。お釈迦さまは、
「比丘たちよ、あなたたちは何故この比丘に多くの戒律を説明したのですか?、この比丘は持っている能力の範囲でしか戒を守ることは出来ません。あなたたちは今後は決してそのような指導方法はとらず、この比丘のことは私に任せておきなさい」
と言われて、その比丘に向かって、
「あなたは多くの戒を守る必要はありません。しかし、ただ三つだけの戒ならば守ることが出来るでしょう」
「世尊よそれならば出来ます」
「よろしい、それではあなたは今後、身・口・意(身体の行為・言葉・考えること)の三つを守りなさい、つまり身・口・意による悪業を慎みなさい。俗人には還らずに修行に戻りなさい。この三つの戒だけを守りなさい」
と命じられました。そこで比丘は安心して、
「承知いたしました。世尊よ、私はこの三つの戒を守ります」 と申し上げ、お釈迦さまを礼拝してから指導者たちと一緒に去って行きました。
その後この比丘は三つの戒を守りながら、心の中で、 「指導者たちは私に色々な戒律を説明してくれたが、彼等自身はブッダでないために、私に理解させることが出来なかった。お釈迦さまは、まことに正しく覚られたブッダであらせられるから、あれほど膨大な戒を三つのことに含ませて、私に授けて下さったのだ。お釈迦さまはまことに私の擁護者である」 と思って智慧を増していき、数日を経たある日に遂に阿羅漢の悟りを得ました。
講堂に集まった比丘たちはその知らせを聞いて、
「友よ、『私は膨大な数の戒は守れません』と言って還俗しようとした比丘に対し、お釈迦さまは一切の戒を三つの戒に含めてお授けになり、その比丘は阿羅漢の悟りを得ることが出来た。お釈迦さまは何と非凡な師であらせられることか」と話しながら、ブッダの諸々の徳を賛嘆しながら坐っていました。
ちょうどその時お釈迦さまが講堂に来られて 「比丘たちよ、非常に重い荷物でも、幾つかに分ければ軽くなる」 と、金塊の話を説かれました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩はある村の農夫でありました。
彼はある日、以前は村であって、今は廃墟になっている野原で耕作をしていました。その場所には昔お金持ちが住んでいて、地中に大きな金塊を埋めておいたまま、この世を去っていました。菩薩である農夫が耕作をしていると、鋤がこの金塊に堀当たって動かなくなりました。
「おそらく樹の根が拡がっているのだろう」 と思って土を取り除けてみると金塊が見つかったので、そっとまた土を被せておいて、その日は一日中他の場所を耕していました。
日が沈んだあと、軛や鋤などを片付けて 「金塊を持って帰ろう」 と思ってそれを持ち上げてみましたが、容易には持ち上げることが出来ませんでした。
そこでその場に坐りこんで、心の中で、 「これだけは生活費として使おう。これだけは使わずに貯蓄しておこう。これだけは商売の資金にしよう。これだけを布施などの善行為に使おう」 と考えて、金塊を四つの部分に分けました。
このように分割することによって金塊は軽くなったので、持ち上げて家に運び、四通りに分けて置きました。その後、彼は布施などの善行為をおこないながら、正しく、また大変悦ばしく生涯を全うしました。
この物語をなさって、お釈迦さまは次の偈で説法なさいました。
心の喜びをもって幸せを感じる人が
解脱を得るために善行為を行う
彼が徐々に全ての煩悩を断って
涅槃に到達する
と、阿羅漢の悟りに達することを理想とするべきと法話をされて 「その時金塊を得た農夫は私であった」 と話を結ばれました。
スマナサーラ長老のコメント
●数の信望者たちが、自分の頭がいかに優れているかと見せるために、簡単なものでも人間の頭では理解できないほど複雑にする。本当に頭の良い人であるならば、どんな難しいものでもみんなに簡単に理解できるように単純化する。物事を複雑化するのは、頭の悪い証拠です。それは、自己満足にすぎないのです。
実践不可能な一億以上の戒律を、お釈迦さまが実践可能な三つに集約しました。重い金塊を一度に運べなければ、幾つかに分割したならば、簡単に運べるのです。人の役に立つのは、理解し難い複雑な哲学ではなく、単純明快な真理だけです。
●富に恵まれたら、贅沢三昧で堕落することは、論理的な生き方ではありません。
収入は、
1. 使用する分
2. 投資する分
3. 貯蓄する分
4. 他人のために(福祉)、自分の精神的な安らぎを得るために使用する分
として計画的に分配するのは、仏教的な経済観念です。
鹿王の話@
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊が祇園精舎におられたとき、クマーラ・カッサパ長老の母についてお説きになったものです。
彼女はラージャガハの大富豪の娘でしたが、過去生で多くの善行を積んだ結果として、欲に溺れた俗世間の生き方に未練がなく、真理を求める気持ちでいました。そこで、何度も両親に出家させて欲しいと頼みましたが、許してもらえず、他家に嫁ぐことにしました。
ちょうどそのころ、この都で大きな祭りが行なわれ、全市民は、豪華な衣装に身を包んで、祝日を祝っていました。
夫は、彼女を誘って出かけようとしましたが、彼女が全く身なりに構わないので、不満に思って、 「どうしてもっと着飾らないのか」 と、たずねました。
彼女は、 「三十二種類の汚物でできている身体を飾りたてて、その穢らわしさをごまかしても、意味がないでしょう。汚物と汚物が遊び戯れていることには興味がありません。私にとっては、私の身体だけでなく、あなたの身体も汚物の塊にしか感じられません」 と言いました。
夫はこの言葉を聞いて、妻が夫婦生活に全く興味がないことに気が付き、 「俗世間の生き方をそれほどまでに厭う君は、出家するべきではなかったのか。」 と言いました。
彼女は、 「ずっと出家したいと思い続けてきましたが、両親に反対され願いが叶いませんでした。あなたさえよろしければ、すぐにでも出家したい気持ちです」と答えました。
夫は、このままでは両者が不幸になってしまうと思い、彼女に出家を許し、盛大な供養の席を設け、皆の祝福の中で、比丘尼の住所に送り届けました。
念願の出家を果たした彼女でしたが、彼女が入った比丘尼の住所は、デーヴァダッタの系統に属するものでした。また、結婚生活は幾日にも満たないものでしたので、このとき彼女はまだ、夫の子を胎内に宿していることを知る由もありませんでした。
ところが、日に日に彼女の身体に変化が見られるようになり、比丘尼たちは驚いて、 「あなたは妊娠しているのでは?」 と尋ねました。
彼女は、 「私は厳密に戒律を守っておりますので、自分でもどういうことなのかよく分かりません」 と答えました。
そこで比丘尼たちは、この事件をデーヴァダッタに報告しました。デーヴァダッタは、このことが外部に漏れると自分たちが非難を受け、大損害を被ると考え、 「この女を直ちに追放せよ」 と命じました。
彼女は、 「仏教はデーヴァダッタのものではありません。全ての権限はお釈迦さまにあるのですから、私を祇園精舎に住んでおられるお釈迦さまの元へ連れて行ってください」 と、比丘尼たちに懇願しました。
比丘尼たちは王舎城を発ち、彼女を祇園精舎まで連れて行き、お釈迦さまに事情を説明しました。お釈迦さまは、事を隠すことなく厳密に調べることになさいました。戒律についての第一人者であるウパーリ尊者に、審査会を設立するように命じました。
そこで、一般市民を代表してコーサラ王、在家信者の男性代表者にアナータピンディカ(給孤独)長者、女性代表にヴィサーカー大信女、出家代表としてウパーリ尊者と、比丘尼の代表者で審議会を行ないました。
その結果、彼女が在家信者であるときに妊娠したことと、戒律は犯していなかったことが判明しました。彼女は潔白の身となり、月が満ちると、無事に子供を産みました。子育ては修行の障害になるので、王様はその子を養子として引き取り、クマーラ・カッサパ(カッサパ王子)と名づけて王子の資格で養育しました。
大変利発なその子は、お釈迦さまの元で出家し、間もなく悟りをひらいて大阿羅漢になりました。その母親の比丘尼も、やがて悟りをひらくことができました。
ある日、講堂に集まった比丘たちは、「友よ、もしもクマーラ・カッサパ尊者の母が、智慧のないデーヴァダッタの言うがままにされていたら、二人は破滅に陥るところだったが、彼女が智慧と慈悲を備えたお釈迦さまに頼ったお陰で、二人は悟りをひらくことができた」 と話していました。
そこへお釈迦さまが入ってこられ、何を話していたかを問われたので、比丘たちが一切をお答えしました。そこでお釈迦さまは、 「比丘たちよ、私が彼ら二人を救ったのは今だけのことではない」 と言われて、ニグローダという名で呼ばれた鹿の王の話を説かれました。
その昔、バーラーナシーにおいて、ブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩は鹿の胎に宿って生まれました。(つづく)
スマナサーラ長老のコメント
同じ価値観を持たない場合は、夫婦生活も円満にはならないでしょう。我慢して一緒にいても、精神的なストレスは多いと思います。互いの価値観が全く違うと気付いた場合は、早い内に別れて、それぞれの人生を歩んだ方が幸福だと思います。それは憎しみの果ての喧嘩別れではなく、互いの気持ちを尊重することです。
事が起きたら、加害者・被害者、敵・味方、被告・原告、などの対立の立場で争っても、真理は公正に問われるとは限りません。対立型の審判では、「勝ち」と「負け」という二つが成り立ちます。勝者が喜び、敗者が悔しくなります。
仏教の審判制度では、たとえ有罪となっても、被告人がその結果に納得し、賛成するようになっています。勝者・敗者ではなく、事実は何なのかという立場で、事が起きたら調べるのです。この物語でも人の感情・世間の目などに左右されないように、また、客観的に公正な判断ができるように、お釈迦さまが専門家の審議会を設立なさったのです。
鹿王の話A
アルボムッレ・スマナサーラ長老
(承前)その昔、バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していた時に、菩薩は鹿の胎に宿って生まれました。彼の身体は大きくて黄金色に輝き、大変美しい姿をしていました。五百頭の群を率いて森に住み、ニグローダ鹿王と呼ばれていました。近くにもやはり五百頭を率いる、サーカ鹿王が住んでおり、彼もまた黄金色の鹿でした。
その頃バーラーナシーの王様は鹿狩りに熱心で、人民に職業を休ませて多くの人々を召集してまで、日々狩に出掛けていました。人々は、
「こう頻繁に仕事を休ませられては生活に支障をきたす。王様が狩に出なくても、鹿肉を召し上がることが出来るようにできないものか」
と考えました。そこで彼等は、あらかじめ御苑の中に鹿の主食である草を植え、飲み水なども準備しておいて、ニグローダやサーカの群を、大きな物音や武器で威嚇して、王様の御苑の中に追い込み、入り口を閉じました。そして、
「王様。毎日狩のためだけに多くを費やしていては、私達の職業が廃れてしまいます。私達は森から鹿を連れて参りましたので、今からはその肉を召し上がって下さい」とお願いしました。
王様は彼等の願いを聞いて、御苑の中の鹿を見渡すと、二匹の黄金色の鹿がいるのに気が付き、その二匹の鹿王には、身の安全を保証してやることにしました。それ以来、王様や料理人がやって来て、弓矢で鹿を射ては持ち帰る日々が続きましたが、鹿達は弓矢を見る度に死の恐怖に脅かされて、安心して暮らすことが出来ませんでした。
鹿達はこのことを菩薩であるニグローダ鹿王に相談すると、彼はサーカ鹿王を呼んで、
「友よ、我々鹿が殺されるのはもはや逃れられないが、せめて弓矢で射られる恐怖を避けるために、犠牲になる鹿の順番を決め、一日は私の群から、次の一日は貴方の群からというように、覚悟を決めた鹿が断頭台に行くようにすれば、傷を負う鹿が最小限にとどまるだろう」
と提案しました。サーカ鹿王は、 「ごもっともです」 と賛成して、その後は順番の来た鹿が断頭台に首をかけて横たわるようになりました。
ある日、サーカ鹿王の群れの中の妊娠した雌鹿に順番が廻って来て、彼女はサーカ鹿王に
「私のお腹には子供がおりますので、その子を産んでから当番を受けますから、それまで猶予を頂けないでしょうか」
と懇願しましたが、サーカ鹿王は冷たく拒否しました。自分の群れの主に同情して貰えなかった雌鹿は、菩薩であるニグローダ鹿王のところに行き、このことを訴えました。ニグローダ鹿王は、
「よろしい行きなさい、わたしがお前の順番を引き受けて上げよう」
と言って、自分が身代わりになって断頭台に行きました。料理人がそれを見て王様に報告したので、王様は車に乗って断頭台に行き、
「鹿王よ、私は貴方の身の安全を保証してあげたのに、何故断頭台に横たわっているのですか?」
と聞きました。鹿王は事情を説明し、
「ある者が受けるべき死の苦しみを、私の意向で他の者に被らせるわけにはいきません。私が作った規則を私自身が破ってしまったら、鹿の群の規律は完全に乱れてしまいます。そこで私自身が彼女の死を引き受けることにしたのです。あなたも王様ですから、お分かりでしょう」
と答えました。
王様は、自分と同じ指導者の立場にあるニグローダ鹿王の立派な態度に感銘を抱き、
「黄金色の鹿王よ、私は今まで人間の中でも、それほどの忍辱・慈悲・憐れみの徳を備えた者を見たことがありません。貴方のお陰で私の心は清まりました。お立ちなさい、貴方にも彼女にも安全の保証をあげましょう」
と言うと、
「大王様、私たち二人だけは安全を保証されて、群れの統治ができるのでしょうか?」
王は、
「では皆の命を保証します。森に帰してあげます」
と約束しました。鹿王が、
「でも、鹿だけが殺されないで森に住むと、他の動物に申し訳ないと思います」
と言うと、王は、
「自分のことより皆のことを思う君の性格が、誠に素晴らしい。今日から、私の国の全ての生き物の命を、大事に守ってあげましょう。今日から、殺生をやめます」
と、約束しました。
無事子供を産んだ雌鹿は、自分の子供がサーカ鹿王と戯れているのを見て、皆の命を助けてくれたニグローダ鹿王に自分の子供を躾て欲しく、次の詩を唱えました。
ニグローダにだけ仕えて
サーカの近くに住むな
サーカの許で生きるより
ニグローダの許で死になさい
その後、鹿どもが人々の穀類を食べても、人人は安全を保証された鹿を乱暴に追い払うことが出来なくなりました。人々は宮廷に集まってこのことを訴えると、王様は、
「私は信仰心の故にニグローダ鹿王と約束したのであるから、たとえ私が領土を失っても、この約束は破らない」
と答えました。これを知ったニグローダは鹿達を集め、
「これからは人々の穀類を食べて迷惑をかけてはいけない」
と諭し、そして人々には、鹿が入ると困る場所に葉を結びつけて目印にするように言いました。それ以来、どの田にも目印として葉を結びつる風習ができ、そこに立ち入る鹿はいなくなりました。これは鹿達が、ニグローダ鹿王から教誡を受けたからでした。
このように鹿達を教誡しながら寿命を全うし、彼はこの世を去りました。王様もまた、生涯善行為を行なって、やがてこの世を去りました。
お釈迦さまは物語を終えると四聖諦の説法をされて、
「その時のサーカ鹿王はデーヴァダッタ、雌鹿は長老尼で、子鹿はクマーラカッサパ長老、王様はアーナンダで、ニグローダ鹿王こそは私であった」
と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語は、人間に全ての生命を守る義務があることを教えています。それぞれの生き物に適切な環境を与えてあげれば、互いに迷惑を掛け合わないで、幸せに生きられることでしょう。人間だけ良ければ、良い訳ではありません。
また、政治家が正直で約束を守る人格者でなければいけないということも、教えられています。政治というのは、自分のために他を虐める方法ではなく、自分が苦労してでも皆の利益を守ることです。自分の利益だけ考える人が、腐敗者であって、政治家として、指導者にはなれません。
死者を悼む話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティ在住のある資産家についてお説きになったものです。
その資産家は、兄弟が亡くなった悲しみのために、すっかりうちひしがれてしまい、入浴もせず、食事も喉を通らず、体に香油を塗ることもせずに、朝早くから墓場に行き悲嘆にくれて泣くばかりでした。お釈迦さまは早朝に世間を見渡されたとき、彼に預流果(聖者の最初の境地)を得る資質があることを見抜かれ、
「彼に昔の因縁を話して悲しみを鎮めてやり、預流果を得させてやることは、私以外の誰にも不可能である。私は彼を救ってあげよう」
とお考えになりました。
その翌日の午後托鉢からお戻りになってから、お伴の比丘をつれて資産家の家の門口に行かれました。
「お釈迦さまがおいでになりました!」
という声を聞いた資産家は急いで座席を用意させ、
「どうぞお入り下さい」
と申し上げると、お釈迦さまは中に入られ、座席にお座りになりました。資産家も出て来てお釈迦さまに礼拝し、一方に座りました。
そこでお釈迦さまは、
「ご主人、何か考えごとをなさっているのですか?」
と聞かれました。
「尊師よ、そのとおりでございます。私の兄弟が死んでからというもの、そのことばかりを考えてしまうのです」
「ご主人、すべての形あるものは変化していくものです。壊れなければならないものは、いつか必ず壊れます。それをくよくよと考えても仕方のないことです。昔の賢者たちは兄弟が死んでも、壊れなければならないものは壊れるものだと理解して、くよくよ考えたりはしませんでした」
と言って、お釈迦さまは彼の求めに応じて、過去の物語を説かれました。
その昔、バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩(釈尊の前世のことです)は八億の財を所有する資産家の家に生まれました。
彼が成人した頃に両親が亡くなったので、兄が家の財産を管理するようになり、彼はその兄に頼って生活をしていました。ところがその後、兄まで両親と同じような病気にかかり、死んでしまいました。
訃報を聞いた親族・友人・同僚・知己の人々は集まって来て、両腕を拡げて泣き叫び、取り乱さずに冷静でいられる者は一人としていませんでした。しかし菩薩である弟だけは、泣きも叫びもせずに落ち着いていました。
それを見た人々は、
「あれをごらんなさい。あの人は実の兄が死んだというのに顔の表情ひとつ変わりません。とても神経が図太くて、親の遺産を独り占めに出来るから、兄が死んだのをかえって喜んでいるのではないかと思えるほどです」
と彼の悪口を言いました。親戚たちも、
「おまえは兄さんが死んだのに涙も流さないのか?」
と非難しました。
菩薩である彼は人々の言葉を聞いて、
「あなた達は自分が愚かであるために、世の中には付きものである八つの事柄(利益・損失・名誉・誹謗・賞賛・非難・楽しみ・苦しみ)もよく理解できず、『愛する人が亡くなった』と泣きます。
いずれは、あなたたちも私も死ぬでしょう。人が死ぬことがそんなにも悲しい、悪いことであるならば、あなた方もこれからその悲しい悪いことに必ず出会うでしょう。
死んでしまった人のことを無駄に心配するより、自分の身に必ず降りかかってくる死に対して、泣いたりわめいたり悲しがったりした方がよいのではないでしょうか。他人の死を悲しむより『我々も死ぬのだ』と言って自分のことで泣くべきではないのですか。
すべての形あるものは、はかなくてとどまることがありません。この法則によれば永遠に続くものなど、ただのひとつもありません。あなたたちは無知であるために泣きますが、なぜ私まで泣かなければならないのでしょうか」
と言って次の詩句を唱えました。
あなたたちは、すでに死んでしまった者のことばかりを悲しみ
これから死んでいく者のことは悲しまない
身体をもつすべてのものは、次々に命を失っていく
神も、人も、四つ足で歩く獣も、鳥の群もとぐろを巻く蛇も
その身体には力がなく
楽しみを追い求めながらも死んでいく
このように変化し定まらない人間の苦や楽に嘆き悲しんでも無益であるのに
何故あなたたちは心をかき乱されるのか
博打打ち・大酒のみ・悪人・愚者・
世渡りの上手い人・戦争に勝つ勇者・心を育てていない人は皆
「世間の法則」を知らないが故に愚者である
と賢者は説く
このようにして、菩薩である資産家の息子は、人々のために教えを説いて、彼らから悲しみを取り除いてやりました。
お釈迦さまはこの物語を説かれて真理を解き明かし、聞いていた資産家は預流果の悟りを得ました。お釈迦さまは、
「その時大勢の人々に法を説いて、悲しみを取り除いた賢者は私であった」
と話を結ばれました。
スマナサーラ長老のコメント
人が死んだら悲しくなって泣くのは、世間の常識になっています。
あり得ないことが起きたら、誰でもびっくりするでしょう。例えば、ある人に翼が生えてきて、空を飛んでいったとか。母親が産んだのは赤ちゃんではなく、八十歳の老人であるならば、あまりにも不幸なことで、悲しくなっても構いません。
でも、海の水はしょっぱくて飲めませんと、降ってくる雪が暖かくないと、泣く人がいるならば、愚か者という他ありません。おかしいことに、人は誰でも死ぬのにも拘わらず、親しい人が死んだら周りが悲しんだり泣いたりします。
人との死別が悲しみの原因になるのは、自分が喪失して、損をしたからです。
人間は、心の中で「私は死ぬ訳がない」と思っているのです。だから人々は、生きることだけに執着し、悪事を犯してでも生きようとして、愚かで無意味な人生を送るのです。
仲違いの話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、僧団の双璧たる二人の仏弟子について、お説きになったものです。
あるとき二人の偉大な長老は、雨期の間集中して修行に励むために、お釈迦さまの許可を得て人気のない森の中へ入って行きました。すると他人が食べ残した残飯を貰って生活している一人の男が長老たちにはべりつき、二人の住所の近くに居ついてしまいました。男は、長老たちが仲良く暮らしているのを見て、
「こいつらはあまりに仲が良すぎる。こいつらが互いに仲違いするようにしむけて、喧嘩させたらいい気味だぞ」
と考えて、一方のサーリプッタ長老のもとへ行き、話しかけました。
「先生、あなたとモッガラーナ長老のあいだには、なにか敵対心でもあるのですか?」
「きみ、なんでまたそんなことを聞くのですか?」
「先生、あの人は『サーリプッタなんて、生まれ・家柄・国柄にしろ、知識・学問・洞察力・神通力にしろ、どう頑張っても私にはかなうまい』と、あなたの悪口を言っていました」
これを聞いたサーリプッタ長老は、ニヤリと微笑んで、
「出ていってください」
と言いました。
この残飯貰いの男は、また別の日にモッガラーナ長老のもとへ行き、まったく同じような話をしました。モッガラーナ長老もニヤリと微笑んで、
「出ていってください」
と言いました。
その後でモッガラーナ長老はサーリプッタ長老に会いに行き、尋ねました。
「あの残飯貰いの男は、あなたに何かへんなことを言いませんでしたか?」
「ええ、たしかに言いました。あの男は迷惑ですから追い払ったほうがいですね」
「そうしましょう」
ということで、長老たちは残飯貰いの男に、
「これからは、我々の近くに居ることをお断りします」
と言って、指を鳴らして、
「出ていけ」
と追い払いました。(指を鳴らして追い出す習慣は、日本で言えば塩をまいて追い出す様なものです。)
彼ら二人は、仲良く無事に雨期を過ごすと、お釈迦さまのもとへご挨拶をしに行きました。お釈迦さまは二人を迎え入れると、
「心地よく雨期を過ごせましたか?」
と尋ねられました。二人が例の出来事について申し上げると、
「サーリプッタよ、いまだけでなく過去においてもその者はお前達の仲を裂こうと企てたが、やはり失敗して逃げ去ったのです」
と過去の物語を説かれました。
その昔、バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩は木の精霊として森の中の出来事を見守っていました。その頃、ライオンと虎が森の洞窟の中に住んでいましたが、一匹のジャッカルが彼らにはべりつき、彼らの食い残しを食べて暮らしていました。
残飯を食いながらもだんだん肥え太ったジャッカルは、ある日、
「おれは色々な肉を食べたが、ライオンや虎の肉は今まで一度も食べたことがない。こいつらの仲を裂いて争うように仕向ければ、傷ついて死んだこいつらの肉を食えるだろう」
と考えました。
そこでジャッカルはライオンに「ライオンさん、あの虎は『ライオンなんて、身体の美しさ・大きさにしろ、生まれや力強さや勇気にしても、私の十六分の一にも及ばない』とあなたの悪口を言っていましたよ」
と言いました。しかしライオンは、
「おまえなんか出て行ってしまえ。彼がそんなことを言うはずがない」
と言って、ジャッカルの言葉を全く信じませんでした。仕方なくジャッカルは、今度は虎に同じような話をしました。不審に思った虎はライオンに会って、本当にそんなことを言ったのか?と、第一の詩句を唱えました。
見栄えの良さ・生まれ・体力・攻撃力で
君は私より優れていると告げるのか
これに応えて、ライオンは第二の詩句を唱えました。
見栄えの良さ・生まれ・体力・攻撃力で
君は私より優れていると告げるのか
そのように、ジャッカルに言われた作り話を二人で確かめ合いました。そしてライオンは、第三から第五の詩句を唱えました。
互いに信頼しないならば
友情関係は成り立たない
第三者の話を聞いて信じるならば
友情が破れ、敵意が生じる
分裂の気持ちを抱き
常に相手の短所のみ見る者は
真の友人にならない
母の胸に抱かれている子供のように
友人のことを大事に思うならば
その友情は他人には破ることができない
友情がいかに大事なものかとライオンに教えてもらった虎は、大変感激し、ジャッカルの言葉をライオンに確かめたことを謝りました。
虎とライオンに怒られたジャッカルは、残飯さえも得ず、身の危険を感じ逃げ出しました。その後もライオンと虎はその場所で、仲良く暮らし続けました。
お釈迦さまはこの説法をされて、
「その時のジャッカルは残飯貰いであり、ライオンはサーリプッタであり、虎はモッガラーナであり、その出来事をまのあたりに見ていた森にすむ精霊は実に私であった」
と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
世の中にある、さまざまな人間関係の中で、友情は最高たるものです。他人の話を聞いて、友人のことを疑ったりするならば、それは互いを信頼していない、単なる上辺だけの人間関係です。只の顔見知りであって、友人関係ではありません。
現代社会でよく見られるのは、顔見知りの人間関係ですので、トラブルが多いと思います。真の友人がいることは、最高に幸せです。
歩行瞑想の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティーに住む、ある在家信者について説かれたものです。
彼は預流果の悟りを得た尊い弟子でありましたが、ある仕事のことで、車の隊商の一隊とともに旅をしていました。ある日、森のとある場所で荷物をほどきキャンプを張って一夜を明かすことになったとき、彼は隊商からほど近い樹のそばで歩行瞑想をしていました。
そのとき、五百人の盗賊が、 「キャンプを襲おう」 と弓や棍棒を手に持って様子を窺っていましたが、歩行瞑想を続けている在家信者を見て、 「あれは、キャンプの番人に違いない。彼が眠るまでは手出しは出来ない」 と、あちこちに潜んでいました。
ところが在家信者は、夜の前半にも、中盤にも、後半にも、ずっと歩行瞑想を続けており、ついに夜明けになってしまい、盗賊たちは襲撃をかける機会を失って、武器を捨てて逃げて行きました。
無事に仕事を終えた彼は、サーヴァッティーに帰るとお釈迦さまのもとへ行きました。
「尊師よ、自己を守るということは他を守ることにもなるのでしょうか?」
「ええその通りですウパーサカ(在家信者)よ、自己を守ることが、他をも守ることになり、他を守ることが、自己をも守ることになるのです」
在家信者がまた、
「実に世尊のおっしゃる通りです。私はある隊商とともに旅をしておりましたとき、『自分自身を制御しよう』と思い、樹の下で歩行瞑想を行っていたのですが、そのことが結局は隊商全体を守ることにつながりました」
と言うと、師は、
「ウパーサカよ、以前にも賢者たちは、自分を守ろうとして他をも守ったのです」
とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩はバラモンの家に生まれました。彼は成人に達したとき欲望に患いがあることを知って、遍歴行者として出家しました。そしてヒマラヤ地方に住んでいましたが、塩や酢が必要になり人里に降りて托鉢したところで、ある隊商に出会って一緒に旅をすることになりました。
ある日、森のとある場所で荷物をほどきキャンプを張って一夜を明かすことになったとき、かれは荷物から遠くない場所で禅定の楽を享受しながら、樹の下で歩行瞑想を行っていました。
すると五百人の盗賊が夕食を食べ終えてやって来て、 「あの荷物を全部盗んでしまおう」 と彼らを包囲しました。
ところが盗賊たちは修行者を見て、 「もしも彼が我々を見つけたら、キャンプしている人々を呼ぶだろう。彼が眠りについたら襲撃をかけよう」 と、そこにとどまっていました。」
しかし、修行者は一晩中歩行瞑想を続けたので、盗賊たちは機会を失い、それぞれ手に手に持っていた石や棍棒を捨てながら、隊商に向かって大声で、
「皆の者よ! もしも今日、このそぞろ歩きをする修行者が樹の下に居なかったら、すべての物が略奪されていたであろう。おまえたちは、この修行者を大いに敬わなければならんぞ!」
と、悔し紛れに叫んで立ち去って行きました。
隊商の人々は朝早く、盗賊たちが捨てていった石や棍棒などを見つけて驚き、恐ろしくなって、菩薩である修行者に近づき礼拝してたずねました。
「尊師よ、あなたは盗賊をご覧になったのですか?」
「ええ見ました」
「尊師よ、あなたはこれらの盗賊たちをご覧になって恐れたり怯えたりはなさらなかったのですか?」
菩薩である修行者は、
「友よ、財産を所有している者は盗賊を見ると恐れを抱きます。しかし、私には財産というものが一切ありません。私には恐れたり、怯えたりする必要はないのです。村に居ても、あるいは森に居ても私には恐れるものもおびえるものもありません」
と言って、彼らのために説法しながら、次の詩句を唱えました。
村に居るときにも憂いがなく
森に居るときにも私には恐れるものがない
慈しみの心と憐れみの心とをもって
まっすぐに梵天に至る道を昇っている
このように菩薩は、この詩句によって法を説き、心を歓喜させている人々に敬われ、命の続くかぎり、四つの崇高な境地である「四梵住」(慈・悲・喜・捨の四無量心)を修習して、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまはこの説法をされて「その時の隊商は仏弟子たちであり、修行者は実にわたくしであった」と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
世の中の人々は、他人の欠点や過ちは目ざとく見つけて、お節介にもいろいろと指摘したり、忠告したり、批判、非難します。
しかし、忠告されたからといって、相手が反省してよい方向に向かうということはほとんどないのです。
言い換えれば、「君がしっかりしなさい。怠けるなよ」と言って、自分自身がしっかりしていないこと、怠けているということは棚に上げてしまいます。
社会の皆が、「あなたが悪い」という論理でいけば、「自分が悪くない」と思っているから、結局皆悪いことになって、誰一人も良い人間になる努力をしないことになります。
仏教では、他人のことを云々と悩むのではなく、自分の心をしっかり育てなさいと教えられています。
社会の個人個人が、自分自身を正すべきだと思って、実行するならば、結果として社会全体が良くなるのです。
ですから、自分を守れば、他を守ることになります。
警告の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある警告を発する比丘尼についてお説きになったものです。
彼女はサーヴァッティに住む良家の娘でしたが、出家して受戒していました。しかし、出家してから修行の実践を怠り、食べることに貪欲で、他の比丘尼が行かないような地域にまで托鉢に出かけていたので、美味しい食べ物をお布施してもらうことが出来ていました。
彼女は食べ物の味覚に対する欲望に囚われ、
「もしもあの地域に他の比丘尼たちまで出掛けるようになってしまったら、わたしが受ける供養が減ってしまうでしょう。他の比丘尼たちがあそこに行かないようにしなくては…」
と考え、比丘尼たちに向かって、
「みなさん、あそこはとても危ない場所です。恐ろしい像や、強暴な犬や馬がうろうろしていますから大変危険です。どうか托鉢には行かないで下さい」と警告しました。比丘尼たちは彼女の警告を聞き入れ、一人としてその地域に近づくことはありませんでした。
ある日、彼女がその地域で托鉢をしていて、ある一軒の家に急いで入ろうとした時、一頭の獰猛な羊が襲い掛かってきて、彼女の腿の骨を折ってしまいました。人々は急いで駆け寄ってきて彼女の折れた腿の骨を接いで、床に乗せて比丘尼達のもとへ連れて行きました。比丘尼たちは、
「この人は他の者たちには口うるさく警告しておいて、自分ではその地域に托鉢に行って腿の骨を折られて帰って来たのだそうですよ」 と、嘲笑しました。
そしてこの出来事は僧団全体に広く知れわたってしまいました。
ある日、講堂で比丘達が、
「友よ、警告を発していた比丘尼は、自分では、危険な場所を歩き廻って、恐ろしい羊に腿を折られてしまったのです。」
と彼女の不徳を話し合っていると、そこにお釈迦さまがおいでになり、何を話しているのかをお尋ねになりました。比丘達が答えると、お釈迦さまは、
「比丘達よ、彼女は今だけではなく過去においても警告を発している。しかし自分では実行しないので、いつも苦しみを受けているのだ」 と言って、過去の物語をお説きになりました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は森に住む鳥として生まれました。成長してからは鳥の群れのリーダーとなり、数百という鳥を従えてヒマラヤ地方に入って行きました。
かれらがそこに住んでいたときに一羽の粗暴な牝鳥が、大きな道路まで出ていって餌を求めていました。そこで彼女は道路を走る車からこぼれ落ちた米、豆、果実などを拾って食べていましたが、「この場所に他の鳥が来て餌を横取りされたら困る」 と考えて鳥の群れに対して警告を発しました。
「大きな道路というのは非常に危険です。象や馬を始め、恐ろしい牛が牽く車などが行きかっていて、咄嗟に飛び立つこともできません。そこに行ってはいけません」 と。鳥の群れは彼女にアヌサーシカー(助言師)という名前をつけました。
ある日彼女は、いつものように餌を求めて道路を歩き廻っているとき、猛烈な速度で走る車の音を聞いて振り返ってみましたが、 「まだ大分遠い」 と油断していました。
しかしその車は風のような速度で急近づいてきたので、彼女には飛び立つ暇もありませんでした。それで車は彼女を轢いて行ってしまいました。鳥のリーダーは群れの仲間を召集したときに彼女がいないので、 「アヌサーシカーが見当たらない。彼女を捜しなさい」 と言いました。
鳥たちが捜しているうちに、彼女が道路で二つに切断されているのを見つけて、リーダーに報告しました。鳥のリーダーは、 「彼女は他の鳥たちをとどめておいて、自分ではそこを歩き廻り、二つに切断されてしまったのだ」 と言って、次の詩句を唱えました。
他の鳥には警告を与えながらも
自分では貪欲のために歩き廻っていた
彼女は車に轢かれ
羽を失い、死んでしまった
お釈迦さまは、この話をされて、 「そのときの警告を発した鳥は、この比丘尼であり、鳥のリーダーは実に私であった」 と過去と現在を結びつけられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語は、単純過ぎてつまらないものだと思うかもしれませんが、人間の心の働きの一側面について物語っています。
人は一般的に、自分の都合、自分の利益を優先にするものです。もしかすると、「優先」という言葉さえも間違いかも知れません。否、「人間は自分のことのみ考える生命体です」と言ったほうがより正しいかも知れません。自分の利益を得るために、色々と工夫しなくてはいけないのです。我々を悩ませている問題は、この「工夫」なのです。
人のために、社会のために、家族のために、国のために、人類のために、といろいろ盾に隠れて世の中で様々なことを言っていますが、道徳、社会論、政治論などを語っている人々の本心が純粋かということは問題です。世の中にある哲学、道徳、政治理念などについて、聞いている立場から見るとどこかで納得いかないところがあると思います。
私たちに教えられているものについて、完全に納得がいくならば、世の中には何の問題もありません。言う側は、自分の利益を考える分は、聞く人に納得いかないのです。聞く人も、自分の利益を考えるので、人の話には納得がいかないのです。
それなのに、我々は、つい美しい言葉に、良さそうに感じる言葉に操られてしまいます。たとえ自分の利益のために言われた言葉でも、理にかなっていれば問題はないのですが、耳障りの良さにだけ惹かれてしまうと、危険な結果にもなりかねません。
言葉の力で人に反社会的な行動を起こさせることも簡単にできます。ですから、人の言葉に簡単に乗ってしまうということは、大変危険なことです。
仏教の立場は、
語るごとく為す、為すごとく語る
(ヤター ワーディー タター カーリー ヤター カーリー タター ワーディ)
それは、ブッダを如来(タターガタ)と称する所以でもあります。
老夫婦の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がサーケータ城近郊のアンジャナ林におられたとき、一人のバラモンについてお説きになったものです。
お釈迦さまが僧団の比丘たちを伴って、サーケータへ入られたとき、サーケータの都に住む一人の年老いたバラモンが、都の外に出ようとしていて内門のところでお釈迦さまと出会いました。
バラモンは足下に跪いてお釈迦さまの足首をしっかりとつかみ、
「これ息子よ、子というものは両親が年老いたら面倒をみて養うものではないのかい! どうしてこんなに長い間、私たちのところへ来なかったんだ? 今日はやっとのことでお前をみつけることができた。家に来てお母さんにも会ってやっておくれ」
と言って、お釈迦さまを案内して家に連れて帰りました。お釈迦さまは家に着いて、比丘たちとともに用意された席に坐られると、バラモンの妻もやってきて、お釈迦さまの足下に跪き、
「こんなに長いあいだ、あなたはどこに行っていたのですか? 両親が年老いたら息子は世話をするものですよ」
と、むせび泣きました。また息子や娘たちを呼んで、
「さあ、ここに来てお兄さんに挨拶しなさい」
と言って、お釈迦さまに対して挨拶をさせました。バラモンの老夫婦は大変満足して多くの布施を喜捨しました。
お釈迦様は食事を終えられると二人のために「老経(ジャラー・スッタ)」(スッタニパータ四ー六)を説かれ、説法が終わったときには二人とも不還果の悟りに達しました。
お釈迦さまは席から立たれると、そのままアンジャナ林にお帰りになりました。比丘達は講堂に集まると、
「友よ、あのバラモンは、お釈迦さまの父君はスッドーダナ王、母君はマハーマーヤー妃であると知っていながら、妻とともに、お釈迦さまを『私達の息子』と呼び、お釈迦さまもそれに同意なさっていた。いったい、これはどういうわけなのだろう……」
と話を始めました。彼らの会話を聞かれたお釈迦さまは、
「比丘達よ、彼らはふたりとも、まさしく自分の息子に対して『息子よ』と呼びかけたのである」
と言って、過去のことを話されました。
「比丘達よ、かのバラモンは昔五百回の生涯のあいだ引き続いて私の父親であり、また五百回の生涯のあいだは叔父であり、また五百回の生涯のあいだは祖父であった。またバラモンの妻も昔五百回の生涯のあいだ引き続いて私の母親であり、また五百回の生涯のあいだは叔母であり、また五百回の生涯のあいだは祖母であった。
かくして私は千五百回の生涯にわたって、かのバラモンの手によって育てられ、千五百回の生涯にわたってバラモンの妻の手によって育てられたのだ」
と、三千回の生涯のことを語られ、次のような詩句を唱えられました。
その人に会えば気持ちが落ち着き
また心がなごむならば
以前に会ったことがなくても親近感を感じる
そのような人には、人は進んで親しむだろう
このように、お釈迦さまはこの説法を取り上げ、過去の生涯と現在を結びつけられました。「そのときのバラモンとバラモンの妻は、やはり現在のあのバラモンの老夫婦であり、息子はじつに私であった」と。
スマナサーラ長老のコメント
私たちにも時々、似たようなことが起きた覚えがあるでしょう。まったく初対面の人であるのに、幼なじみのように、仲良くなってしまう。考え方も、好みも驚くほど似ている。相手が初対面であることにも気づかず、つい馴れ馴れしく話したり、いろいろと行動を共にしたりします。
逆に、兄弟で一緒に育てられたのに、まったく相性が合わない。仲良くすることができない。兄弟というより、激しいライバル同士のように生活する。会社で何年も一緒に仕事をしていますが、馬が合わず、犬猿の仲になっている人たちもいます。
このようなことは、教育の問題でも育ち方の問題でもありません。自分の社会的な立場とまったく合わないにもかかわらず、意外な人と仲良くすることもあるのですから。
映画「釣りバカ日誌」の、仕事熱心でない万年平社員のハマちゃんと社長のスーさんのような関係は、社会では決して珍しいことではありません。
このように、相性がぴったりはまる現象というのは、どのように説明すればよいのでしょうか。仏教の考え方によると、「過去からの因縁」だと言うしか方法がないのです。人間にとってはこのような出会いがあったならば、大変幸せなことだと思います。やけに気が合う人に出会ったならば、余計なことを考えず仲良くした方がよいと思います。
人間の社会では、知識人とそうでない人、金持ちと貧しい人、立場がある人とそうでない人、国民と外国人などの概念がありまして、互いに区別して、仲良くしないための理由を探すのです。仲良くするために、無理に同じグループの中で人を探すのです。それであまり深入りしない人間関係ができるのです。例えば、知識人同士の付き合い、金持ちの集まりなどです。この場合は、かなり苦労しない限りは、良い気楽な人間関係は成り立たないのです。
人が人間関係で苦労しているのは、同じグループの人とたとえ相性が合わなくても仲良くしなくてはいけないという、概念に縛られているからです。違うグループの人と付き合う場合も、人間が概念で縛られて無理をすることもあります。
例えば「外国人とも仲良くしなくてはいけない、異国の文化も理解しなくてはいけない」という概念で、自分が置かれているグループと違う人と付き合おうと思って努力する人もいる。このような場合も自然な人間関係ではなく、概念に縛られて行動するので、いろいろと無理が生じるのです。
男、女、日本人、外国人、老人、若者などの枠の概念をまったく気にしないで、ただ「相性が合う」という理由だけで人間が付き合う仲間を作るならば、最高に楽しい、心が安らぎに満たされる人間関係が成り立つでしょう。お互いに長い間仲良くしていると、互いの気持ちが通じ、性格が合うようになります。
「長い間」というのは、仏教では、今生だけの何年間かの付き合いではなく、輪廻の中で幾つもの生涯を共にするということです。(やはり何十年間の付き合いは、相手の心をよく理解するためには足らないということでしょう。)
お釈迦さまが、ご自分がお生まれになったインドの北の方のカーシー国とはかなり離れた、南方のサーケータ城に住む年老いたバラモンに突然、息子扱いされて叱りつけられた時、あなたに会ったこともないと反論することもなく、素直に話を聞いて、そのバラモン夫婦に短い時間でも親孝行してあげました。互いの心の中に、親孝行だという気持ちがあったので、お釈迦さまが素直に一切の自分の立場についての枠の概念に縛られることもなく、仲良くしたのです。
我々にも枠の概念を気にせず、気が合う人々と素直に付き合うことができれば、幸せではないかと思います。
死者への供え物の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、死者への供え物についてお説きになったものです。
その頃人々は、多くのヤギや羊を殺し、亡くなった親族への供え物として捧げていました。比丘達は人々がそういう行いをしているのを見て、お釈迦様に、
「このようなことをして利益があるのでしょうか?」
とたずねました。お釈迦さまは、
「比丘達よ、たとえ死者への供え物であったとしても、生き物を殺したならば、いかなる利益もない。過去においても賢者達が説法をし、ジャンブ洲(インド)の全住民に、このような行為をやめさせたことがある。しかし時が経つにつれ、再びこのような悪習が現れたのだ」
と言われて、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、三つのヴェーダの奥義を究めた一人のバラモンが、
「死者への供え物を捧げよう」
と、一匹の羊を捕らえさせ、弟子達に、
「おい、この羊を川で沐浴させ、首に花環をかけ、神への供え物の印をつけ、飾りたててから連れてきなさい」
と命じました。
彼らが言われたとおりにすると、その羊は自分の前世の行為を見て、
「自分は今日こそ、このような苦しみから逃れることが出来るのだ」
と喜びの心が生じ大声で笑いました。そしてさらに、
「このバラモンは、私を殺すことによって、私が受けてきたような苦しみを得ることなるだろう」
とバラモンに対する憐れみが生じ、大声で泣きました。
それを見ていたバラモンの弟子達は、
「羊よ。なぜ大声で、笑ったり泣いたりしたのか?」
とたずねました。すると羊は、
「その問いは、あなた達の師匠の前でなさって下さい」
と言ったので、彼らは羊を師匠の前に連れて行き、いきさつを報告しました。今度は師匠が、
「羊よ、お前は、なぜ笑ったり泣いたりしたのか?」
とたずねました。羊は前世を思い起こす智慧の力によってバラモンに語りました。
「バラモンよ、私は前世で、あなたと同じく聖典を読誦するバラモンでしたが、死者への供え物を捧げようとして一頭の羊を殺したために、四百九十九の生涯において首を切られました。そして今度が私にとって最後にあたる五百番目の生涯なのです。
この苦しみから逃れられると思うと、喜びが生じ笑ったのです。また、私を殺せば、あなたは以前の私のように今後五百の生涯において首を切られる苦しみを得ることになるだろうと思うと、あなたへの憐れみが生じ泣いたのです」 と。
「羊よ、恐れることはない、私はお前を殺したりはしない」
「バラモンよ、何をおっしゃるのですか?あなたが殺す殺さないにかかわらず、私は今日死から逃れられないようになっているのです」
「羊よ、恐れることはない、私はお前を保護して付き添っていることにしよう」
「バラモンよ、あなたの保護はささやかなものですが、私の犯した悪事は強大なのです」
こうした会話を交わした後、バラモンは羊を解放し、
「この羊を誰も殺してはならないぞ」
と言って、弟子達とともに羊についてまわり保護していました。
羊は、ある岩の頂き近くの茂みに首をもたげて葉を食べ始めましたが、丁度そのとき雷が落ちて、岩の一角が崩れて羊の伸ばした首に落ち、頭を断ち切りました。そこに大勢の人々が集まって来ましたが、その場所に樹の神として生まれていた菩薩は、人々の見ている前で空中に足を組んで坐り
「これらの生ける者たちは、このような悪事のもたらす結果を知るならば、おそらく生き物を殺すことはしなくなるであろう」
と、妙なる声で説法をして、次のような詩句を唱えました。
もし、生きとし生けるものが
「生をもつことは苦しみである」と知るならば
生き物が生き物を殺すことはなくなるであろう
生き物を殺す者は、必ず悲しむことになる
こうして菩薩である樹の神は、地獄に対する畏怖心を起こさせて説法をしました。
人々は地獄の恐ろしさにおびえ、生き物を殺すことをやめました。菩薩は説法をして大勢の人々に戒めを守らせ、業に従って生まれ変わって行きました。人々は菩薩の訓戒を守り、布施などの善行為を行って天界に生まれました。
お釈迦さまはこの物語を話されて、 「そのときの樹の神は実に私であった」 と、説かれました。
スマナサーラ長老のコメント
死者のための供養、豊作などの感謝、結婚、出産など、人間にとってのお祝い事は、数多くあります。お祝いだといって、殺生することや飲酒に溺れることを言い訳にするのです。感謝祭、感謝祭といって、七面鳥の丸焼きを食べるのです。クリスマス、お正月などをお祝いするときも、殺される豚、鳥などの数には限りがないのです。
人間のお祝い事、お祭りなどは、動物たちにしてみれば、この上ない恐怖の原因になるものです。人間にとってはお祝いですが、他の生き物にとっては呪いです。
昔の宗教の世界では、豊作、繁栄などを希望して、動物や処女を生けにえにする習慣がありました。動物ばかりではなく、人間さえ「供え物」にしたのです。エジプトのピラミッドに、王の遺体を安置するときには、死者の復活を希望して幾人もの人々を生けにえにしたのです。
これは、「自分の幸福を希望して他の誰かを不幸にする」という無知で愚かな行為です。安らぎを希望して、脅威を与える。平和を希望して、戦いを挑むような生き方は、仏教から見れば、利口な生き方ではありません。お釈迦さまは、苦しみを与えるものは苦しみを受ける、恐怖を与える者は恐怖を受けるという立場で、幸せを望むなら、幸せを与えるべきと説かれました。
殺されることほど、生命が嫌がるものはありません。最大の恐怖は、殺されることです。すべての生命にとって「幸せになりたい」という思いは、普遍的な感情です。であるならば、いかなる理由があっても、他を殺すことは不幸を招くことになるとお釈迦さまは説かれ、一切の生命に対して慈しみの心を育てるようにと教えられました。
慈しみこそが、生命として幸福を実現できる、唯一の方法です。生きることさえも大変苦しいものです。誰の生き方にしても、「やっと生きているのだ」と言った方が正しい。それを知る人が、他の生命を慈しみで思うのであって、殺す気にはならないでしょう。
王妃とバラモンの話@
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、欲情についてお説きになっものです。
サーヴァッティに住むある良家の息子が、お釈迦さまの説法を聞き、三宝に帰依して出家しました。彼は、仏道を実践し、修行に励み、瞑想の修習を怠ることはありませんでした。
ところがある日、サーヴァッティで托鉢をしているとき、一人の美しく着飾った女性を見て、瞑想の修習をつい忘れ、「美しい」とじっと眺めてしまいました※1。そのとき彼の心の中に動揺が湧きおこり、樹液を蓄えた樹を斧で切りつけたように、煩悩が湧き出してきました。
彼はそれ以来欲情の虜になり、身体の安らぎも心の安らぎも感じることはなくなりました。(人家に)迷ってきた野獣のように、仏道に興味がなくなり、髪の毛や爪も伸びたまま、まとった衣も汚れたままになってしまいました。
彼の立ち居振舞いの乱れを見た仲間の比丘達は「友よ、君の振る舞いは以前とまったく変わったようですが、どうしたのですか」とたずねました。
彼は「友らよ、私は修行に魅力を感じなくなりました。」と答えたので、比丘達は彼をお釈迦さまのもとへ連れて行きました。
お釈迦さまは
「比丘達よ、どうしてあなた方は無理にこの比丘を連れて来たのか」とたずねられました。
「尊師よ、この比丘は修行に興味を失いました。」
お釈迦さまはその比丘本人に
「比丘よ、それは本当か」とたずねました。
「本当です」
「だれがあなたをそうさせたのか」
「尊師よ、私は托鉢中に冥想の修習を忘れ、一人の女性を『美しい』とじっと眺めてしまいました。そのとき私に欲情がわきおこり、そのために私は修行に魅力を感じられなくなりました」
そこでお釈迦さまは彼に言われました。
「比丘よ、それは不思議ではありません。異性を、瞑想修習の見方を忘れて『美しい』と眺めるならば、煩悩が湧き起こるのです。
昔、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け※2、清浄な心を持ち、空を飛行することもできた菩薩でさえ、感官の自制を失って異性を眺めたために、禅定を失い、欲情にかられて大きな苦悩を味わうことになりました。
というのは、例えば須彌山を覆すほどの大風が吹けば、象ほどの小さな禿山はひとたまりもない。巨大なジャンブ樹を根こそぎにするような大風が吹けば、崖に生えた小さな潅木は耐えきれない。大海を干乾びさせるほどの大風には、小さな池など相手にはならない。それと同じ様に、最高の智慧をもち、心の清らかな菩薩たちさえも無智な状態にしてしまうほどの強い欲情には、あなたなど、ひとたまりもないのだから、そのことを恥じることはないのです。
心の清らかな者たちでも、欲情を起こすことがあり、最高の名声を得た者たちでも、恥をかくことはあるのです」と言って、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国の、ある大富豪のバラモンの家に生まれました。
分別のある年頃になると、あらゆる学芸に熟達し、やがて俗世間を捨て去って出家生活に入り、瞑想を修習し、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の楽を享受しつつヒマラヤ地方で暮らしていました。
あるとき彼は塩や酢を求めてヒマラヤ山から降りバーラーナシーに行き、王家の遊園に一泊しました。翌日彼は身なりを整えて、樹皮で出来た褐色の衣を身に纏い、一方の肩にはカモシカの皮をかけ、髪を丸く束ねて、荷物を担ぐ棒を携え、バーラーナシーを托鉢して廻るうちに王宮の門に到着しました。
王様は彼の立ち居振る舞いを好ましく思い、彼を招いておいしい硬軟の食べ物をご馳走して満足させ、彼が礼を述べたときに、ここに住んでくれるように懇願しました。彼は承諾して、その後はいつも宮中で食事をとり、王家の人々に教えを説きながら、十六年間そこに住みました。
さて、ある日、王は国境で起こった反乱を鎮圧するために出陣することになりましたが、そのとき「ムドゥラッカナー(優相)」という名前の王妃に対し「心を尽くして仙人に仕えなさい」と言い残して、出征の途につきました。王が出立して以降、菩薩である仙人は、自分の気が向いた時刻に王宮に出掛けるようになりました。(次号に続く)
スマナサーラ長老のコメント
※1 「美しい」とじっと眺めてしまいました。
仏教では、不浄随念という瞑想方法があります。出家修行者の場合は、心を清らかにするために、諸々の欲を退ける瞑想法を実践していきます。どんな人にも異性に対する欲は生まれますが、異性の身体を見て「綺麗だ」「美しい」とは決して思わず、そのかわりに「不浄なものだ」と観察するのが不浄観の瞑想のやり方です。この物語の比丘はその修行を怠ってしまったのです。
自分の身体も人の身体も「不浄だ、汚いものだ」と念ずることは、よくないと思う人々もいるでしょう。寝たきりの老人や痴呆の人々の介護をしたり、身体の不自由な病人のケアをしたりする場合に、障壁になるのでは? という疑念が生じるのかもしれません。人の身体を「不浄だ、汚い」と思うと、介護が苦痛になる…と考えてしまうのでしょうか。不浄観の場合は、身体というものは、心臓・腎臓・大便・小便などの三十二種類の不浄な要素で構成されていて、綺麗に見えるのは表面的であって幻覚であるということを観察します。ですから実際には、「心臓は汚い」というよりも「心臓は欲を抱く対象ではない」という智慧が生まれ、そのことが不浄観の瞑想の目的になります。このように観ることが出来れば、介護をする場合でも「綺麗」でも「汚い」でもどちらでもなく、ただ単に「便である」「よだれである」などと客観的に観て、嫌悪感や不快感もなく仕事をすることが出来るのです。
仏教は、看病、介護、年上の人々の面倒を見ることは、強く奨励しています。そういうことは、賞賛に値するような特別なことではなく、誰でもやらなければならない道徳的な行為です。
※2 五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け…
右記の不浄随念や呼吸随念などの瞑想をしていくと、心の統一された状態を作ることが出来ますが、その状態のことを禅定といいます。禅定というのは、心の中の煩悩が退けられ機能しなくなった状態(完全に消えるわけではなく、観察能力によって煩悩が機能しなくなる)で、心が清らかになった状態です。それには段階があり、八つのステップがあります。心が汚れていると、人間の能力にはおのずと限界があります。人間は肉体を中心に考え、心よりも身体を大事にしていますが、そうした身体に依存した状態(身体の奴隷になっている状態)から離れて、清らかな心を作ると、普通の人間には想像もできないような能力が身につきます。それが「神通」で、神変・天耳界智・他心智・宿住随念智・死生智の五つがあります。
王妃とバラモンの話A
アルボムッレ・スマナサーラ長老
そんなある日のこと、ムドゥラッカナー王妃は、菩薩である仙人のための食事を用意させておいてから「今日は尊者の帰りが遅いわね」と思いながら、よい香りの付いた水で沐浴をし、美しく着飾ってから広間へ小さな寝台を用意させ、仙人の来訪を待っていました。仙人もまた時間が遅くなったのに気が着いて、禅定から出ると、空中を飛行して王宮へ向かいました。
王妃は樹皮の衣の音を聞いて「尊者が来られたわ」と急いで起き上がりましたが、彼女があわてて急に起き上がったために絹の上衣が滑り落ちてしまいました。丁度そのとき仙人が窓から入って来ましたが、彼は王妃の美しい体を、瞑想の修習をつい忘れ、じっと眺めてしまいました。
すると彼の心の中に動揺がわきおこり、樹液を蓄えた樹を斧で切りつけたように、煩悩が湧き出してきました。たちまち彼の禅定の力は消滅し、翼を切り落とされた鳥のようになってしまいました。
彼は立ったままで食べ物を受け取りましたが、少しも口をつけられず、欲情にかられながら宮中から退き、遊園に帰りました。そして自分の草庵に入ると、寝台の下に食べ物を放置したまま、異性の体に心を縛り付けられ、煩悩の炎に焼かれながら飲まず食わずの状態で憔悴し、七日のあいだ寝込んでしまいました。
国境での反乱を鎮圧した国王は七日目に帰還し、都を右回りに廻って王宮に帰ってきました。
王は「尊者に会おう」と遊園に出掛け草庵を訪ねましたが、彼が横たわっているのを見て「きっとなにかの病気にかかられたのだろう」と思い、草庵を家来に掃除させてから、彼の足に頭をつけて
「尊者よ、御病気でしょうか」とたずねました。
「大王よ、私は別に病気ではありません。欲情のために心が魅せられてしまったのです」
「尊者よ、あなたの心は何に魅せられてしまったのですか」
「ムドゥラッカナーに対してです大王よ」
大王は「よろしい尊者よ、ムドゥラッカナーはあなたに差し上げましょう」と言って、美しく着飾らせた王妃を仙人に与えましたが、そのときひそかに王妃に「お前は自分の力で尊者を守るように努めなければならない」と指示を与えました。王妃は「わかりました王様、私はあの方をお守りします」と自分の使命を了解しました。
仙人は王妃を貰い受けると王宮から退出し、大門から出ようとしましたが、そのとき王妃が「尊者よ、私達の住む家を一軒、王に要求して下さい」と言ったので、仙人は王のところに舞い戻って行き、家を要求しました。
王は人々が便所として使っていた廃屋を与えたので、仙人は王妃を連れてそこへ行きましたが、彼女はそこに入ろうとはしません。
「何故入らないのですか」
「汚いからです」
「ではどうすればよいのですか」
「綺麗になるように手入れをして下さい」
ということで、王妃は「さあ鍬を持ってきなさい。籠も持ってきなさい」と、また仙人を王のところに行かせ、汚物とガラクタを捨てさせ、牛糞を運ばせて壁に塗りこめさせました。
それが済むとまたまた仙人を王のところに行かせ「さあ寝椅子を運びなさい。次は腰掛けを運びなさい。次は敷物。今度は壷を運びなさい。瓶を運びなさい」と何度も何度も命令をしながら、ひとつひとつを運ばせました。さらに王妃は彼に命じて、瓶を使って水を運ばせ、壷を満たして水浴の用意をさせ、寝床を敷かせました。
そして彼らが一緒に寝床に坐ろうとしたときに、王妃は仙人の鬚をつかんで
「あなたは自分が修行者であり、バラモンであることを忘れてしまったのですか!」
と言って、自分の方へ仙人の顔をぐっと引き寄せました。
そのとき彼は正気を取り戻しました。それまでのあいだ、彼は無智なものになっていたのでした。
正気を取り戻した彼はこう考えました。「この愛執は増大すれば、私を四悪趣(畜生・餓鬼・修羅・地獄)に堕とし、頭をあげることも出来なくさせる。いまこそ私はこの王妃を王に返し、ヒマラヤ山に入るべきである」と。
彼は彼女を連れて王のところへ行き「大王よ、私にはあなたの王妃はもう必要ありません。私には愛執が増大するだけのことでした」と言って、次の詩句を唱えました。
ムドゥラッカナーを得る前には
欲望はただ一つだけであった
つぶらな瞳の彼女を得てからは
欲望が欲望を生むことになった
そのとき菩薩である仙人は、かつての神通や禅定を取り戻し、天空に坐って説法をして王に訓戒を授け、ヒマラヤ山に向かって飛行して行き、二度と再び人里へは出て来ませんでした。
その後彼は、清浄な行を修め禅定を失うこともなく、遂に梵天界に生まれました。
お釈迦さまは、この話を終えると「四聖諦」を解き明かされ、それを聞いたかの悩める比丘は、預流果の悟りに達しました。
そしてお釈迦さまは、過去と現在を結び付けられて「そのときの王はアーナンダであり、王妃はウッパラヴァンナー、そして仙人は実に私であった」と説かれました。
スマナサーラ長老のコメント
人は自分の願望について、「これさえあれば…」「あれさえあれば…」幸せだと、単純に考えていますが、欲望とは、そう簡単に満たされるものではありません。欲しいものを手に入れたり、望みが叶ったりしても、今度はそれに関連して次から次へと新しい欲望が湧いてくるものです。「これさえあれば、ほかには何も要りません」ということは、生きている上では決してありえない話です。美しいもの、楽しいもの、欲しいものなどは、たまたま容易に得ることができたとしても、そこから享受する喜びや嬉しい気分より、その背後でじわじわと増大する苦悩の方が大きいのです。
白髪の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、大いなる世俗離脱(俗世間の欲を離れ、修行によって到達する離欲・解脱の境地)について語られたものです。
そのとき比丘たちは、十種の力を備えた方であるお釈迦さまの世俗離脱を賞賛しながら、講堂に坐っていました。すると尊師お釈迦さまがその講堂に来られ、ご自分の席にお坐りになって、比丘たちに話しかけ、「比丘たちよ、ここに集ってどんな話をしていたのですか」とお尋ねになりました。
「尊師よ、ほかの話ではございません、あなたさまの世俗離脱を賞賛しながら、ここに集っていたのです。」
「比丘たちよ、如来が世俗離脱したのは、何も今だけに限ったことではなく、過去においてもやはりそうであった。」
比丘たちはその内容を説き明かしてくださるよう尊師に懇願したので、お釈迦さまは前世に隠された経緯を語られました。
その昔ヴィデーハ王国のミティラーの都に、マカーデーヴァという王様がいましたが、彼は理法にかなった正義の王でした。
彼は八万四千年の間、王子としてふるまい、次の八万四千年は副王として国を治め、また次には大王として統治して、長い年月を過ごしてきましたが、ある日理髪師に向かって、「なぁ理髪師よ、もしも私の頭に白髪を見つけたら、そのときは私に知らせてくれ」と言いました。
理髪師もまたともに長い年月を過ごしたある日、王様の黒々とした髪の中に一本の白髪を見つけて、「王様、一本の白髪が見えます」と告げました。「ではお前、その白髪を引き抜いて、私の手の上に置いてくれ」と命じられたので、理髪師は黄金の毛抜きでそれを引き抜いて、王様の手の上に置きました。
そのとき王様にはまだ八万四千年の寿命が残っていました。そうではあったけれども、王様は白髪を見ただけで、死王が近づいて来て側に立っているような、また自分が燃えさかる草庵に入り込んだような心地がして恐怖に陥り、「愚かなマカーデーヴァよ、白髪が生えるまで、この煩悩を断とうとすることをしなかったとは」と考えました。彼がこのように、白髪が生えたことについて考え抜いているうちに、その体内には熱が生じ、体からは汗が流れ、衣服はべったりと体にまとわりついて脱がずにはいられない状態になってしまいました。
王様は、「今こそ私は、世俗的なことから離れて、出家するべきだ」と考えて、理髪師に十万金の収益を得られる良い村を与え、長男である王子を呼び寄せ、「なぁお前、私の頭には白髪が生えた。私は年老いた。それに、人間的な快楽はすっかり享受してしまった。今となっては天上の楽しみを求めようと思う。今は私が世俗から離脱する絶好の機会なのだ。お前はこの王位を引き継ぎなさい。私は出家してマカーデーヴァ・マンゴー樹林の遊園に住んで修行者の道を実践しようと思う」と言いました。彼がこのように出家の決意を固めていると、大臣たちがやって来て、「王様、あなたさまが出家なさる理由は何なのですか」と尋ねました。
王様は白髪を手に取って、大臣たちに向かい、次の詩句を唱えました。
寿命を蝕むこの白髪が
私の頭に生じた
天使が現れた(※)――出家の時が到来した
王様はこのように唱えると、その日のうちに王位を退き、出家して仙人となり、例のマカーデーヴァ・マンゴー樹林の遊園に住んで、八万四千年の間、崇高な境地である「四梵住」(慈・悲・喜・捨の四無量心)を修習して、退くことのない禅定に入りました。死後は梵天界に生まれてから、さらにそこから転生して、同じミティラーの都でニミという王様となり、衰退していた自分の一族を再興した後、同じマンゴー樹林の遊園に出家して住み、「四梵住」を修習して再び梵天界に達しました。
お釈迦さまは、「比丘たちよ、如来が世俗離脱したのは、何も今だけに限ったことではなく、過去においてもやはりそうであった」と以上のように説示されてから、四聖諦を説き明かされました。そこで、ある者は「預流果」の悟りに達し、またある者は「一来果」の悟りに達し、またある者は「不還果」の悟りに達しました。
こうしてお釈迦さまは、これらの説法を終えられると、連結をとって過去を現在にあてはめられました。
「そのときの理髪師はアーナンダであり、長男である王子はラーフラであり、そしてマカーデーヴァ王はじつに私であった」と。
スマナサーラ長老のコメント
(※)天使の告知
天使の告知といえば、間違いなく朗報と喜ぶべきものです。キリスト教だけではなく、仏教でも人に何か大事なことを告知する者という意味で、天使(デーヴァ ドゥータ)という言葉を使っています。天使とは、朗報を告げる者で、間違っても人を脅したりすることはないものです。お釈迦さまが王位を捨てて出家した物語の中でも、四人の天使の告知を受けて出家することになりましたと伝えられています。さて、この四人の天使は誰だったでしょうか?
(1)老醜をさらす人 (2)病に倒れている人 (3)死人 (4)出家者
どう考えても人が付き合いたくない四人ですが、それでも天使扱いにされているのは何故かと考えてみるべきです。
人は、欲に溺れて生きている。「どうすれば快楽を味わえるか」ということしか考えないのです。善悪の判断力も、道徳も、倫理も、快楽の前では跡形もなく崩れていくのです。一生食べて遊んで、贅沢三昧の生活をしていても、心が満足を感じないのです。快楽を追えば追うほど、増えるのは苦しみです。もっと楽しみたいという渇愛があるので、老いること、病気になること、死ぬことを最悪の敵として目の仇にしているのです。この、快楽のみを求める生き方が、世の中に存在する一切の罪悪の原因です。どれほど世俗欲に浸って生きていても、「老・病・死」に出会わなくてはならないのです。善行為をして、心を育てて、肉体的な快楽以外には何の幸福も見出せない心の無知を正しなさいと、「老・病・死」が親切に警告します。その道が世俗離脱であると、「出家者」が告知します。人間に最高の幸福の道を案内するので、老人・病人・死人と出家者が、正真正銘の天使なのです。
マカーデーヴァ王は、自分の一本の白髪を天使だと思って、俗世間から離れて出家することを決めたのです。
名馬の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、精進することをやめてしまった一人の比丘について語られたものです。
そのとき、お釈迦さまはその比丘に語りかけられ「比丘よ、過去において賢者たちは、絶望的状況にあっても精進を失わず、傷を負っても決して断念することはなかった」と言って過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はシンドゥ産の名馬の血統に生まれ、身にあらゆる装飾を施されて、王様の吉祥馬となっていました。かれは十万金の価値を持つ黄金の器で、さまざまな最高の美味を添えた三年越しの米飯を食べ、四種の香料が塗られた地面に立っていました。その住みかには紅色のウールの幕が巡らされ、上部には黄金の星飾りが散りばめられた天幕があり、香草の環や、花の環が束ねられ、香油の灯火がたえることなくともされていました。
ところで、そのころの国々の王たちで、バーラーナシーの国土を欲しがらない者はいませんでした。あるとき七人の王たちがバーラーナシーを包囲して、「われわれに王国を引き渡せ、さもなくば戦争だ」という書状を王様に送りつけました。王様は大臣たちを召集して事態を説明し、「我々は今どうするべきだろうか?」と相談しました。「王様、最初からご自身で戦いに出るには及びません。まずは騎馬隊を遣わして戦いをさせるのがよろしいでしょう。もしそれが成功しなければ、また私達が次の策を考えましょう」と大臣たちは答えました。
王様は騎馬隊の司令官を呼び寄せて、「そなたは七人の王と戦うことができるか」とたずねました。「王様、あのシンドゥ産の名馬を頂ければ、七人の王はもちろんのこと、ジャンブ洲(インド)全土の王と戦うことができます。」「よろしい、シンドゥ産の名馬であろうと、他のものであろうと、必要ならば何でも投入して戦ってくれ。」「かしこまりました王様。」と、騎士は王様に敬礼して宮殿から退出しました。そして、あのシンドゥ産の名馬を連れてきてきてもらい、充分に武装させてから自分もあらゆる武具を身につけて剣を持ち、馬の背に跨ると堂々した姿で都を出ました。
彼らは電光のように駆け回り、一番目の要塞を打ち破って一人目の王を生け捕りにすると、都に戻って味方の軍勢に引渡し、再び出ていって第二の要塞を打ち破り、次には第三の…という具合にして五人目までの王を捕らえました。ところが六番目の要塞を打ち破って六人目の王を捕らえたときに、馬は負傷してしまいました。血が流れ、きびしい痛みが彼を襲いました。それに気付いた騎士は、馬を王宮の門のところに横たえさせ、武装をゆるめて別の馬に武装をさせ始めました。
菩薩である名馬は脇腹を下にして横たわったまま、両眼を見開いて騎士を見つめ、「彼は他の馬を武装させているが、あの馬では七番目の要塞を打ち破って七番目の王を捕らえることはできないだろう。私がここまでなしとげた仕事は無に帰するし、比類のない騎士も失われ、王様も敵の手中に落ちるだろう。七番目の要塞を打ち破って七番目の王を捕らえることを可能にするのは、私をおいて他にはあるまい」と考え、横たわったままで騎士を呼び寄せて、「わが友である騎士よ、七番目の要塞を打ち破って七番目の王を捕らえることのできる馬は、私をおいては他にいません。私は自分のなしとげた仕事を無にしたくはありません。どうぞこの私を立たせて武装して下さい」と言って、次の詩句を唱えました。
たとえ矢に射抜かれて
脇を下にして横たわっていても
名馬は駄馬より優れている
御者よ、この私にこそ馬具をつけなさい
騎士は菩薩である馬を立たせ、傷口を縛って充分に武装をさせてその背に跨り、七番目の要塞を打ち破って七番目の王を捕えて王様の軍勢に引き渡しました。大臣たちが馬を王宮の門のところへ連れて来ると、王様は彼を見ようとして出て来られました。大士(偉大な人)である名馬は王様に言いました。「大王様、七人の王たちを殺してはなりません。誓いを立てさせて釈放して下さい。私と騎士とに与えられる栄誉は、この騎士だけに授けて下さい。七人の王を捕らえて引き渡した勇者をないがしろにしてはよくありません。またあなたは施しをおこない、道徳を守り、公正で平等に王国を治めて下さい」このように、菩薩である名馬が王様に訓戒を与えていると、大臣たちは彼の武装を解きはじめました。
彼は、武装がつぎつぎに解かれていくうちに、その場で息絶えました。王様は彼の葬儀を行わせ、騎士には多くの栄誉を与え、七人の王たちには今後ふたたび謀反を起こさないことを誓わせて、それぞれの国に送り返しました。そして、正義によって公正で平等に王国を治め、命が終わるときにはその業に従って生まれかわっていきました。
お釈迦さまは、「比丘よ、このように過去において賢者たちは、絶望的状況にあっても精進を失わず、傷を負っても決して断念することはありませんでした。ところがそなたは、このように生死を繰り返す迷いの境涯から世俗離脱する教えのもとに出家しておりながら、どうして精進することを断念するのか」とおっしゃって、四聖諦を説かれました。真理の説法が終わると、精進を失っていた比丘は阿羅漢の悟りを得ました。
師であるお釈迦様はこの説法を取り上げ、連結をとって過去を現在にあてはめられました。「そのときの王様はアーナンダであり、騎士はサーリプッタであり、シンドゥ産の名馬はじつに私であった」と。
スマナサーラ長老のコメント
仏道を実践し束縛を捨てて解脱する道は、「棚からぼた餅」を得るようなものではありません。七人の王と一人で戦うだけの、勇気と工夫が必要です。お釈迦さまが悟りを開かれた過程も、マーラ(魔)の十軍隊と激戦のすえに勝利を得たこととして表現されています。
ですから、「実践するぞ!」と力んでみても、大体は途中で煩悩に負けて、挫折してしまうこと請け合いです。自分自身の力で心を育てる道ですので、自分では認めたくない心の弱みや汚れを正直に認めながら、修行を進めなくてはいけないのです。
仏道は、精神力と理解能力を必要とする勇者の道です。真理を目指す道を、途中で苦しみの壁に出会ったからといって諦めてはならないと、この物語の吉祥馬が諭しています。何かと言い訳をつけて、善いことを後回しにするのは人間の常識ですが、仏教はそれを認めません。善いことは、どのような邪魔が入っても、何とか通り抜けて達成するべきものです。
吐き出した毒の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ダンマセーナーパティ(法将)サーリプッタ長老について語られたものです。
ある日、サーリプッタ長老が食事をとられるとき、人々は(尊者に差し上げるために)(※1)沢山の「ピッタカーダニヤ(米粉で作る菓子)」(※2)を持って、精舎へやって来ました。一団の比丘たちがこれを食べ終わってからも、まだ沢山残っていました。人々は、「それでは、村へ托鉢に出掛けておられる方々の分として、取っておいて下さい」と言いました。
ちょうど、サーリプッタ長老の年少の弟子が一人、村のへ出掛けているところでした。彼の分を取っておくことにしましたが、なかなか帰って来ません。「正午が来てしまう」(※3)と、比丘たちはその菓子を長老にすすめました。長老がそれを食べ終わったとき、年少の弟子が帰って来ました。
長老が、「私たちは、君のために取っておいたお菓子を食べてしまったよ」と言いました。
すると彼が、「尊師よ、美味しい食べ物は、だれにとっても嬉しいものですね」と腹いせに言ったので、大長老はそれに動揺しました。(※4)
そして長老は、「私は今後、菓子は食べまい」と決心しました。(※5)
それ以来、サーリプッタ長老は、決して菓子を食べませんでした。長老が好物の菓子を食べないということが、やがて僧団のあいだに知れわたりました。
比丘たちは、その話をしながら講堂に一緒に坐っていました。そのとき、お釈迦さまは、「比丘たちよ、そなたたちは、いまどのような話をして一緒に坐っているのか」と尋ねられました。比丘たちが、「このような話でございます」と答えると、お釈迦さまは、「比丘たちよ、サーリプッタは、一度捨てたものは命を落とすことになろうとも、二度と再び受け取らないのです」とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、解毒に巧みな医者の家に生まれ、医療によって生計を立てていました。
そのとき、一人の田舎者が蛇に噛まれました。彼の親類の人たちは大急ぎで、菩薩である医者を呼んで来ました。医者は、「さて、薬をつけて毒を消しましょうか。それとも噛みついた蛇を呪文の力で呼び寄せて、噛んだところから毒を吸い出させることにしましょうか」(※6)と尋ねました。親類の人たちは、「蛇を呪文で呼んで、毒を吸い出させてください」と言いました。
医者は、蛇を呪文で呼び寄せると、「おまえが、この人を噛んだのか」と聞きました。蛇は、「そうだ、私だよ」と答えました。医者は、「おまえが噛んだところから、口で毒を吸い出しなさい」と要求しましたが、蛇は、「私は、一度吐き捨てた毒を、ふたたび吸い取ったことなど未だかつて一度もないよ。自分が吐き捨てた毒を吸い出すつもりなんかない」と拒否しました。
そこで、医者は薪を持って来させ、火をつけて言いました。「もし、おまえが自分の毒を吸い出さないなら、この火の中に放り込むぞ。」すると、蛇は、「たとえ火に入ることになっても、自分が一度吐き捨てた毒を吸い戻しはしないよ」と言って、つぎのような詩句を唱えました。
わが身を守るために毒を吐き出した
その毒をまた吸い戻すとは、
なんとおぞましい
そこまでして生きるより、
いっそ死んだほうがましだ
このように唱え、蛇は火の中に飛び込もうとしました。そこで、医者は蛇をおしとどめ、薬と呪文によって患者の毒を除いて治療し、蛇には戒めを授けて、「これからは、だれも害してはなりません」と言って、放してやりました。
お釈迦さまは、「比丘たちよ、サーリプッタは、一度捨てたものは、命を落とすことになろうとも、ふたたび受け取らないのです」とおっしゃって、この説法を取りあげ、連結をとって、過去を現在にあてはめられました。「そのときの蛇はサーリプッタであり、そして医者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【注釈】
(※1)智慧第一人者であったサーリプッタ尊者が、甘党であられたことは、信者さんもよく知っていました。
(※2)米の粉で作る、菓子類です。現代でいうならば、小麦粉で作るドーナツ、蒸しパン、クッキー、ケーキのようなものです。
(※3)出家者の戒律では、正午を過ぎてからは食事を取らないという決まりがあります。
(※4)出家した子供たちの面倒を、ほとんどサーリプッタ尊者ご自身が見られていました。病気になったら看病したり、美味しいものを頂いたら残しておいてあげたり、優しくなさっていました。子供たち(沙弥)も、甘えるのは当たり前のように期待していました。ですからこの沙弥も、何の躊躇もなくサーリプッタ尊者に嫌みを言ってしまいました。
(※5)子供のころから甘いものに慣れていた尊者にとっては、大変不便な決心でした。しかし人格者は普通の人と違って、何かをやらないと決めたならば、たとえ死んでもやらないものです。
(※6)解毒する場合は、症状によっていろいろな治療法を用います。薬を飲ませたり、薬湯に入れたり、薫蒸したり、また外科的な治療も行います。薬を使えないとき、呪文だけで解毒作業に励みます。噛んだ蛇を呼んで、毒を吸い出してもらうのも、その方法の一つです。この場合は、蛇を捕まえてくるのではなく、呪術で呼び寄せるそうです。
【教訓】
このエピソードでは、悪いことをやめるときの決心の仕方を教えています。人間は、四六時中自分の悪い習慣について、「2度とやらない」と宣言はします。2、3日経たないうちに全て忘れて元に戻ります。一向に良くなる気配は見えないのです。悪いと思われる習慣は、軽い気持ちでやめられるものではありません。心は誘惑には弱いのです。悪いことをしないと決めるならば、「死んでもやらない」と決めるべきです。たとえ、小さな良いことでも、「やり続ける」と強い意志で決心するならば、その人の人格もしっかりと磨かれていきます。
不吉な友人の話
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、アナータピンディカ(給孤独)長者の、ある友人について語られたものです。彼はアナータピンディカ長者と幼馴染みで、同じ師のもとで学芸を修得しましたが、その名を「カーラカンニ(不吉)」といいました。
のちに彼の暮らしむきは困窮して生計が成り立たなくなり、友情を頼って長者のもとにやって来ました。長者は彼を慰め、給料を支払って自分の資産を管理させました。彼は長者の補佐役となって、あらゆる仕事を切り盛りするようになりました。
彼が長者のもとにやって来てからは、人々は彼を「不吉 君」と呼ぶはめになりました。「不吉、いらっしゃい」「不吉、座りなさい」「不吉、入りなさい」というふうに、声をかけていました。長者の資産管理責任者になりましたから、一日中「不吉、不吉」という声が聞かれるようになりました。
ある日、長者の友人たちが長者のもとにやって来ました。家中「不吉、不吉」という言葉が響くのを聞いて、長者にこのように言いました。「大長者よ、彼をあなたの近くにおくのはおよしなさい。一日中『不吉、不吉』という声を聞いたら、あなたは幸福になるどころか、人に不幸を招く鬼さえも怯えて逃げるでしょう。あなたと同格の人間でもないのに、なぜ同格に扱っているのでしょうか。しかも、名前まで『不吉』です。」アナータピンディカは、「名前は単なる呼び声です。賢者は名前でその人の価値を判断したりはしないものです。音で、吉凶を判断する迷信はよくありません。私は、呼び名のせいで竹馬の友を見捨てることなど出来ません」と言って、彼らの忠告を聞き入れませんでした。
ある日、長者は自分の所有している村に行くことになりました。そのとき、「不吉」に家の留守番をまかせて出掛けました。
盗賊たちは、「長者は村に出掛けたようだ。彼の家に盗みに入ろう」と、いろいろな武器を携え、夜の闇に乗じてやって来て、家を取り囲みました。カーラカンニは、盗賊たちがやって来るのではないかと心配して、眠らずに坐っていました。彼は、盗賊たちがやって来たことを知って、人々を目覚めさせるために、「おまえは法螺貝を吹け。おまえは太鼓を打ち鳴らせ」と、まるで大勢の人々を召集するかのように、一人で大声をあげて家中を歩き回りました。盗賊たちは、「家に誰もいないというのは、我々の聞き違いで、ここには大長者がいるのだ」と、石や棍棒を捨てて逃げ去りました。
あくる日、人々はあちらこちらに捨てられている石や棍棒を見て震え上がり、「もしも今日、このように賢明な家の番人がいなかったなら、盗賊たちが思いのままに入って来て家中のものを盗んでしまっただろう。この賢い友人のおかげで、長者の家は無事だったのだ」と、彼を褒め称え、長者が村から帰って来たときに、すべての出来事を残らず話しました。そこで長者は彼らに言いました。「おまえたちは、このように私の家を守ってくれる友を、前には追い出そうとしたが、もしもそのとき、おまえたちの言葉に従って、私が彼を追い出していたなら、今日、私の家の財産は何も無くなっていたであろう。名前が判断の基準ではなく、有能な心が基準なのである」と。
そして、彼に今まで以上の給料を与えてから、「このような良い話は、説法の種になるだろう」と思って、お釈迦さまのもとに出掛けて行き、この出来事の一部始終を告げました。
お釈迦さまは、「長者よ、“不吉”という名前の友人が、自分の友の家の財産を守ってあげたのは、今だけのことではない。以前にもそうであった」と言って、長者に請われるままに過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、偉大な名声のある長者でした。そして、彼のカーラカンニという名の友人が、前に述べたのとまったく同じような行為をしました。菩薩である長者は、自分の所有している村から帰って来て、その出来事を聞き、「もしも私が、おまえたちの言葉に従って、このような友を追い出していたなら、私の財産は何一つ無くなっていただろう」と言って、次のような詩句を唱えました。
共に七歩歩けば知り合いになる
十二歩歩けば同僚である
一月、半月一緒に過ごせば、
親族にも等しく
それ以上一緒に過ごせば、
自分自身と同等になる
それなのに、長年共に過ごしたこの「不吉」を、
己のために捨てられるものでしょうか
お釈迦さまは、この説法を取り上げ、連結をとって過去を現在にあてはめられました。「そのときのカーラカンニはアーナンダであり、バーラーナシーの長者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【教訓】
インド文化には、さまざまな迷信が織り込まれています。何をするにしても、吉凶の有無を考えるのです。計算上成り立っている星占いだけではなく、人相、手相、方角、時間の占いもあります。飼っている馬、牛、象、鶏の特色からも吉凶を占います。家で使う道具も、占いの対象になります。服が鼠にかじられたら、その歯型でも吉凶を判断します。その中で、音の占いは大きな割合を占めます。呪文の信仰は、それの一つです。子供に名前をつける場合は、音の占いで吉凶を判断して吉になる名前だけを選びます。
このような非論理的な、非科学的な迷信に依存するなかれというのは、ブッダの教えです。人は、自分の心、自分の能力、自分の精神に頼って成功を目指すべきです。ですから、ブッダが幸福の道として心を育てるように言われたのですね。このエピソードも、大事なのは人の名前ではなく、能力だと言っています。
◎朋友……友人を大事にすること、信頼することに、仏教では重きを置いています。互いに助け合う人々がいればいるほど幸福に楽しく生きていられます。
和合の話
Sammodamāna jātaka(No.33)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がカピラヴァストゥの近郊にあるニグローダ樹林に滞在しておられたときに、親族の仲たがいについて語られたものです。
そのとき、お釈迦さまは親族の人々に向かい、「大王らよ、親族の間で互いに言い争うことは好ましいことではありません。畜生に生まれた者たちでさえ、前世において、結束していたときには敵を打ち破りましたが、口論を起こしたときには、大きな破滅に陥ったのです」とおっしゃって、王家の一族の人々から請われるままに、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、ウズラの胎内に宿って生まれ、何千羽ものウズラを従えるリーダーとして、森に住んでいました。そのとき、一人の猟師が彼らの住んでいるところへ行っては、ウズラの鳴きまねをして彼らを誘い出し、その上に網を投げて端から引き絞って、みな一まとめにして籠につめ込み、家に帰るとそれらを売り、その代価で生活を営んでいました。
ある日のこと、菩薩であるリーダーは、群れのウズラたちに言いました。「あの猟師は、われわれの親族を破滅に陥れている。しかし私はあの男がわれわれを捕らえられないようにする方策を一つ知っている。これからは、あの男が君たちの上に網を投げたら、すぐに各自それぞれの網の目に頭を入れて、網を持ち上げて運び、イバラの茂みに投げかければいい。そうすれば、下を通ってめいめいの場所から逃げ出せるだろう。」彼らはみな、「わかりました」と答えました。
次の日、猟師に網を投げられると、彼らはリーダーに言われた方法の通りに網を持ち上げ、イバラの茂みに投げかけて、自分たちは下の方を通って、そこから逃げ出しました。猟師は、茂みから網をはずしているうちに夜遅くなってしまい、仕方なく手ブラで帰りました。その翌日からも、ウズラたちはその方法を続けました。猟師は、日が暮れるまで網をはずすことばかりで、何も得られないまま帰宅しました。
そこで、かれの妻は腹を立てて、「あんたは毎日手ブラで戻って来るけれど、きっと他のところにも、養わねばならない者がいるのでしょう」と言いました。猟師は、「俺には、他に養わねばならないところなんかないよ。あのウズラどもが、結束して行動するんだ。おれが網を投げると、すぐそれを持ってイバラの茂みに投げかけて行ってしまう。だがあいつらが、ずっと和合して暮らすことはきっとないだろう。おまえは心配することはない。いつかきっとあいつらは争いを起こすだろう。そのとき、あいつらを全部捕まえて来て、おまえを喜ばせてやるよ」と言って、妻に対して次のような詩句を唱えました。
和合している鳥たちは、
掛けられた網を持って逃げ去る
和合を壊し、争うことになる日は
皆私の餌食になるのだ
数日後、一羽のウズラが餌場に降りようとして、うっかり他の者の頭を踏んでしまいました。相手は、「わたしの頭を踏んだのはだれだ」と腹を立てました。「ついうっかり踏んでしまっただけだ。怒りなさんなよ」と謝りました。
(でも、踏まれたほうの気持ちは治まりませんでしたので、さらに怒りの言葉を浴びせました。「謝ったら許してくれるのは自然な行為ではないか」と思った頭を踏んだほうの鳥は、その言葉にまた怒ってしまいました。それで二羽が「頭を踏んだおまえが悪い」「いいえ、素直に謝っても許してくれないおまえの方がもっと悪い」と口論を始めました。この喧嘩の火種は周りの鳥たちにも飛び火して、群れの鳥たちを二分した大きな争いに発展してしまいました。)
鳥たちが何度も言葉を交わしているうちに、「へえっ、おまえたちだけで網を持ち上げているというような口ぶりだな」という言葉が発せられるところまで口論が発展しました。
かれらが口論をしているとき、菩薩であるウズラは考えました。「言い争いをする者に安全はない。今に彼らは網を持ち上げなくなり、そのために大きな破滅に陥るだろう。猟師は捕獲の機会を得るだろう。私はこのような場所にいてはいけない」と。彼は、自分の仲間(の中で喧嘩に参加しないで落ち着いている鳥たち)を連れて、よそへ去って行きました。
猟師は、数日後にやって来て、ウズラの鳴きまねをし、かれらが集まって来たとき、上に網を投げました。すると、一羽のウズラが、「おまえが網を持ち上げるときには、頭の毛が落ちるそうだぞ。さあ持ち上げてみろ」と罵りました。他方は、「おまえが網を持ち上げるときには、両の翼の羽根が落ちるそうだぞ。さあ持ち上げてみろ」と言い返しました。こうして、彼らが、「おまえが持ち上げてみろ」と言い合っているうちに、猟師が網を持ち上げ、彼らをみな一まとめにして籠につめ込み、妻を喜ばせようと家に帰りました。
お釈迦さまは、「大王らよ、このように、親族間の言い争いは好ましいものではありません。仲たがいは破滅のもとです」と、この説法を取り上げ、連結をとって過去を現在にあてはめられました。
「そのときの愚かなウズラはデーヴァダッタであり、そして、賢明なウズラは実にわたくしであった」と。
【注】……文中の( )内の文は、「ジャータカ」原典にはありませんが、内容を解りやすくするために補ったものです。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
失敗、過ちは、あってはならないものです。しかし、失敗や過ちを犯すものを人間と呼びます。失敗、過ちなどを犯した時に素直に謝ることは、人間社会の和合を保つために必ず必要な条件です。謝られた側が過ちを許し、仲直りをするということは非常に大切なことです。
社会の和合を壊すのは、過ち(犯罪など)を犯す人だと簡単に思いがちですが、過ちを謝られたときに許してあげないことは、和合を壊す重大な原因です。許してあげないと、被害者と加害者の間で立場が入れ替わることにもなります。皆平和で仲良くしているならば、乗り越えられない問題はないと思ったほうがよいと思います。
この物語で、菩薩は自分の仲間を連れて他所へ去っていったと書かれています。
菩薩たるものが仲間の一部が破滅することを黙認するのは正しいことなのかという、倫理的な疑問が生じるかもしれません。ジャータカ物語では、菩薩は倫理の象徴としての役を担っています。しかし、仲間がわがままで身勝手で頑固で自己主張が激しい場合は、どうにもならない末期状態です。その場合は、破滅を見届けるしか他に手だてはないのです。
他者を潤した修行者の話
Amba jātaka(No.124)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、務めに励むあるバラモンについて語られたものです。
彼はサーヴァッティーに住む良家の息子でしたが、教えに深く帰依して出家し、修行者が行うべき日常の作業においてよく気がついて励むものとなりました。
阿闍梨や和尚などのための務め、飲食物や斎戒室、火舎などの務めを、実によく果たしました。また十四の大行や、八十の分行についても完全に行じていましたし、精舎を掃除し、さらに僧房、回廊、精舎まで通じる道をも掃除しました。また人々に飲み物を与えたので、人々は、彼の務めに励む姿を喜んで、五百人分ほどの食べ物を時期を定めて供養しました。多くの供物と尊敬が生じたのです。彼一人のおかげで、多くの人々が楽に暮らせるようになりました。
ある日、比丘たちが説法場でこの件について話を始めました。「友よ、かの修行者は自分の務めに励んでいるので、多くの利益と尊敬とが生じました。彼一人のおかげで、多くの人々が楽に暮らせるようになりました」と。師がおいでになって、「比丘たちよ、ここに集まって何を話しているのか」とお尋ねになったので、「これこれのことです」と答えると、「比丘たちよ、この修行者が務めに励むのはいまだけではない。以前にもこの人一人のお陰で、果物を求めてやって来た五百人の仙人が、彼が得た果物で命ながらえたことがあった」と言って、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩は、西北地方の高貴なバラモンの家に生まれ、成長してから、仙人として出家し、五百人の仙人に伴われて山の麓に住んでいました。
その頃、ヒマラヤ地方はひどい干ばつにみまわれ、あちこちで飲み水が涸れてしまいました。動物たちは飲み水が得られなくて困り果て、渇きのために死にそうになっていました。
すると、その苦行者たちの中の一人が、動物たちの渇きを知って、一本の樹を切り倒して、桶を作りました。そして穴を掘って井戸を作り、その水を汲んで桶に満たし、彼らに飲み水を与えました。多くの動物たちが集まって来て水を飲んだので、苦行者は果物を採りに行く暇がなくなってしまいましたが、彼はそれでも食べずに水を与え続けました。
動物の群れは考えました。「彼は、わたしたちに水を与えるために、果物を採りに行く暇がない。空腹のために非常に疲れている。さあ、わたしたちは、計画を立てようじゃないか。」彼らはつぎのように計画を立てました。「これからは、水を飲むためにやって来る者は、自分の力に応じた果実を持って来なければいけない」と。
それ以来、動物たちは、それぞれ自分の力に応じて、甘い甘いマンゴー、野バラの実、パンの樹の実などを持ってやって来たので、一人のためにもたらされた果物が、牛車二台半ほどの荷になってしまいました。五百人の苦行者たちがこれを食べても、残りをたくさん貯蔵出来るほどでした。
菩薩である仙人はそれを知って、「一人の人が務めに励んだおかげで、このようにおおくの苦行者たちのために果物が集められ、日々の営みが出来ました。精進こそなすべきことです」と言ってから、次の詩句を唱えました。
人たるものは、精進するべきである
賢者は、倦怠することがない
見よ、精進するものの成果を
求めようとしなかったのに
マンゴーを御馳走になっている
このように、菩薩である偉大な人は、仙人の群れに訓戒を与えました。
お釈迦さまはこの説法をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの務めに励んだ苦行者は、今の修行者であり、彼ら五百人の指導者である仙人は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
出家した比丘たちが毎日行うべき仕事は、前もって決まっています。べつに珍しいことではありませんが、掃除を丹念に行うこと、水を汲んでおくこと、病人が出たら看病することなどです。
経典では、この日常作業をいろいろな項目に分けてきめ細かく書いています。掃除を例に取ると、ただ単に「掃除しなさい」とだけ言うのではなく、きちんと項目を立てて説明するのです。庵の掃除の仕方であれば、庵を使うことになった出家がまず家具などの配置を確認します。順番で家具、絨毯などを外へ出し、虫干しします。その間、壁や窓の掃除をします。次に埃を立てないように気をつけて中から外へ床を掃除する。それからまた絨毯からはじめ、家具などを元の位置に戻す。阿闍梨のお世話の仕方なども、このようにうるさいほど詳細に書かれています。
出家サンガは論理的には平等な社会です。目上の比丘を敬うことは当然ですが、目下の比丘に命令したりすることはしないのです。監視、監督、見張りのような役は成り立たないのです。怠けたい人にとっては絶好の環境です。ただし自分の意志で作業しなくてはならないので、作業の「仕方」だけは詳細に教えてあげる必要があるのです。また作業を行うことは、自分自身の修行の一部となっているのです。「作業を行わない者は、戒を満たさない」という訓戒まであります。
従って、全ての作業を自ら進んで行う出家者が、大変まじめな修行者であるということを理解できます。信者もそのような出家者を大事にします。 日常作業について励み努めることは、個人の幸福にも、周りの幸福にもつながります。誰かに命令されるまでもなく、こなすべきことを迅速に行うべきなのです。
自分の身の周りの仕事は自分でやるというのは、当たり前の話です。しかし、共有する場、また公の場などでやるべき仕事は、命令されないと、管理されないと誰もやる気にはならないものです。例えば、道路に落ちている空き缶、ゴミなどを拾うことなどです。誰かがやるでしょうと思って、そのまま通り過ぎることはよくないことだと、仏教では教えます。問題を見つけた人がそれを解決するべきなのです。(汚れていると気がついた人に、掃除する義務が生じるのです。)
愚か者の話
Naṅgalīsa jātaka(No.123)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ラールダーイ長老について語られたものです。
彼は法話を語るとき、その場に相応しい法を選ぶことが出来ませんでした。おめでたいときに、死者を供養する法要で使う経典で説法をしたり、人の葬式に参加したときに、人間にとって幸福とは何か…という経典に基づいて延々とおめでたい話ばかりしたりしました。
そこである日、説法場において比丘たちは、「友よ、ラールダーイは説法するときはあまりにも見当違いの説法をするのだ」と話し始めました。するとお釈迦さまがおいでになって、「比丘たちよ、ラールダーイが愚鈍で、話をするのに相応しいことも相応しくないことも判らないのは今だけではなく、以前にもそうであった。彼は実に常に愚か者である」と言われて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、裕福なバラモンの家に生まれて成長し、タッカシラーで一切の技芸を身につけ、バーラーナシーで四方に名の広まった先生として五百人の若いバラモンに技芸を教えていました。そのとき、彼ら若者たちのうちに、一人愚かで智慧の劣った若者がいました。何も習得することが出来ず、下僕のように菩薩である先生の身のまわりの仕事をしていました。
さてある日、先生は夕食をすませてから、寝床に横たわりました。その若者が先生の手と足とを揉み、香油を塗って帰ろうとしたところ、先生は、「寝床の足に支えをして帰りなさい」と言いました。そして、先生が朝起きて、傍に座っている彼を見て、「一体何をしているのか」と尋ねました。「先生、寝床の支えが見つからなかったので、自分の腿で支えて坐っていたのです。」先生は驚きました。「ああ、私の弟子の中で、この人は最も知能が低いのだ。何とかして技能を会得するようにしなくてはならない。」
そのとき、彼はこのように考えました。「私はこの若者が薪とりや木の葉集めに行って帰って来たとき、『今日おまえは何を見て、何をしたか』と尋ねよう。すると『今日私はこのようなものを見て、このようなことをしました』と答えるだろう。そうしたら、彼に『お前が見たりしたことはどのようなものか』と尋ねると、彼は『このようなものです』と、譬えや原因をもって、語るだろう。このように次々に新しい譬えや原因を話させていれば、その方法で学ばせることが出来るだろう」と。「若者よ、今日から、薪とりや木の葉集めに行ったところで、おまえが見たこと、貰ったもの、飲んだもの、食べたものがあれば、帰って来てからそれを私に話して聞かせなさい。」彼は、「かしこまりました」と承諾しました。
ある日、彼は若者たちとともに薪とりに森のなかに行ったときに蛇を見たので、帰って来て、「先生、私は蛇を見ました」と言いました。「それでは、蛇とはどのようなものか。」「蛇は、鋤の柄のようなものです。」「よく出来た。お前の譬えは、よく出来ている。蛇というのは、たしかに鋤の柄のようなものである。」そこで菩薩は、「うまく譬えが言えたから、見こみがあるかもしれない」と考えました。若者は、別の日に森のなかで象を見たので、「先生、私は象を見ました」と言いました。「象とは、どういうものか。」「象は、鋤の柄のようなものです。」先生は、「象の鼻は、鋤の柄のようで、牙もまたそのとおりである。彼は、詳しく語れなくて鼻や牙に限定して言えなかったのだろう。」と、何も言わずにいました。
またある日、招待されて氷砂糖を食べたので、「先生、今日私は氷砂糖を食べました。」「氷砂糖とはどんなものか。」「氷砂糖は、鋤の柄のようなものであります。」先生は、「少しはそのように見えなくもない」と黙っていました。またある日招かれて、果糖と凝乳を牛乳と共に飲みました。彼は帰って来て、「先生、今日私は、凝乳と牛乳と果糖を飲みました」と言って、「それはどのようなものか」と問われると、「鋤の柄のようなものです」と答えました。
先生は、「この若者が、蛇は鋤の柄のようであると言ったときにはうまく言えたと思った。また象が鋤の柄のようであると言ったときにも、鼻か牙なら似ていると思った。氷砂糖が鋤の柄のようであると言ったときも、ほんの少しは似ていると思ったが、しかし、凝乳と牛乳とは、入れられた容器の形そのものになる。ひとつの譬えを、すべての場合にあてはめることは不可能である。この愚か者を指導することはとうてい出来ない」と思って、次の詩句を唱えました。
人たるものは、精進するべきである
言葉の適用範囲は限られている
愚か者はひとつの言葉を
全ての場合に当てはめようとする
彼には、凝乳も鋤の柄も区別がない
お釈迦さまはこの説法をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの愚か者はラールダーイであり、四方に名の通った先生は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
知能が低い人にも、自立が出来るくらいのことは教えてあげなくてはいけないのです。既成の教育制度を全ての人に適用することは出来ません。自分に合わない教育方法にはめられて、必要なことを学べないでいる、本来は頭の鋭い若者たちも、世にいくらでもいるのです。固定した教育方法は、いくら立派であろうとも被害者をも作り出すということを覚えておきましょう。
ひとつの固定概念で世の中の全ての現象を理解してやるぞ、と思っている人々が多いのです。しかし、これはとても危険なことです。「神は唯一である」「我らこそ真の神を信じている」「我らの聖書のみ神の言葉で真理である」と愚か者たちが甚だしく勘違いして、世の中の人々の平和な生き方を脅かす。テロ活動などで多数の人命を奪う。また、戦争、報復攻撃などで、関係がある人もない人も、無差別に殺す。地球の財産を自分たちだけのために略奪しようとする。
ものごとは、時と場合によって理解するべきです。全ては変化しているので、固定概念などは成り立たちません。世の中に起こる全ての問題を、コーランのみの教えで、聖書のみの教えで解決することは出来ません。問題に応じて社会学、心理学、哲学、科学、医学、政治・経済学、なども適用しなくてはいけないのです。
何よりも大事なのは、人間の理性なのです。自由にものごとを考えて、自分で判断が出せるような能力さえあれば、ほとんどの問題に解決策が見つかるのです。
このエピソードの菩薩も、知能の低い自分の弟子に、何はなくとも人間に絶対必要な理性と自分で物事を考えられる能力だけは与えようとしたのです。
善い評判のお陰で悟った資産家の話
Kalyāṇadhamma jātaka(No.171)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、一人の耳の遠い姑について語られたものです。
サーヴァッティーのある資産家は、信心深く、心清らかで、三宝に帰依し、五戒を守って暮らしていました。
彼はある日、沢山のバターや薬品類、それに花、香、衣服などを携えて、「ジェータ林のお釈迦さまのもとに行って、説法を聞こう」と出掛けて行きました。彼がそこに出掛けて行ったとき、資産家の姑(妻の母親)が食べ物を持って娘に会いに家にやって来ました。彼女は、少し耳が遠い人でした。彼女は、娘とともに食事をしましたが、少し眠くなったので、眠気を吹き飛ばそうとして、娘にこう問いかけました。「どうだいお前、旦那とは仲睦まじく幸福に暮らしているかね。」娘は、「お母さん、何をおっしゃるのですか。あなたの婿殿のように戒と行を備えた、そんな人は出家者の中でも見つかりませんよ」と答えました。
ところが母は、娘の言葉をはっきりと聞きとれず、「出家者」ということばだけを捕らえて、「なんだって! おまえの主人は、どうして出家したんだい」と大声を出しました。
その声を聞いた家の使用人たちは、「私たちの家の御主人様が出家したそうですよ」と号泣して大騒ぎになりました。その声を聞いた通り掛りの人々は、「一体これはどういうことなのですか」と尋ねました。家の者は「この家の主人が出家したというのです」と答えてしまいました。
張本人である資産家はまた、お釈迦さまの説法を聞き終わると、僧院から出て来て町に入りました。すると、途中で一人の男が彼を見て、「旦那、あなたは、出家されたそうですね。あなたの家では、お子さんや奥さん、それに使用人たちが泣いておりますよ」と言いました。
そこで彼はこう思いました。「彼は、出家してもいない私を、出家したと言っている。私のもとにやって来た善い評判の邪魔をしてはいけない。今日こそ私は出家しなければならない」と、そこから戻って再びお釈迦さまのもとに行きました。
お釈迦さまが、「ウパーサカ(在家信者)よ、たった今私の説法を聞いて帰って行ったのに、今またやって来たのはどうしてなのか」とお尋ねになったので、一部始終を語って、「尊師よ、自分のところにやって来た善い評判を、妨げてはいけないのではありませんか。だから出家したいと思ってやって来たのです」と言いました。
そして彼は出家し、受戒して、あまねく修行を実践して、阿羅漢の悟りに達しました。
この出来事は、僧伽(サンガ)中に知れ渡りました。そこである日、比丘たちは説法場で議論を始めました。「友よ、これこれの資産家が、自分の耳にふと入った善い評判を、それを妨げるべきではないと言って、出家して、いまや阿羅漢の悟りに達した」と。そこへお釈迦さまがおいでになって、「比丘たちよ、ここに集まって、何を話しているのか」とお尋ねになったので、「これこれのことです」と答えると、「比丘たちよ、昔の賢人も、『自分の耳に入った善い評判は、それを失ってはいけない』と、出家したことがある」と言って、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときに、菩薩は、豪商の家に生まれて成長し、父親の死後あとを継いで豪商になりました。
彼は、ある日、王に仕えるために家から出掛けて行きました。するとかれの姑が、「娘に会おう」と彼の家にやって来ました。彼女は、少し耳が遠い人でした。
これ以後はすべて、前に述べた現在の出来事と同じことが起きました。
彼が王に仕えてから帰って来るのを見て、一人の男が「あなたは、出家なさったそうですね。あなたの家で、みんなが大声で泣いておりますよ」と言いました。菩薩は、「耳に入った善い評判は、それを妨げてはいけない」と、そこから戻って王のもとに行きました。
王が、「大豪商よ、いま帰ったばかりなのに、またやって来たのはどうしたのか」と言うので、「王さま、家の者たちが、出家してもいない私を、出家したと言っていているそうです。耳に入った善い評判は、それを妨げるべきではないでしょう。だから、私は出家いたします。どうか私が出家するのをお許しください」と、この出来事を明確にするために、つぎの詩句を唱えました。
王君 善い評判が
人に巡ってでも来たならば
智慧のある人は その名に背かない
悪評を恥じて
善という重荷を担うことにする
その善い評判が
王君よ 私に巡って来ました
これを重んじ私は出家する
世俗的喜びに浸る意欲はない
菩薩は、このように言ってから、王に出家を認めてもらって、ヒマラヤ地方に行き、仙人として出家し、神通と禅定とを得て、梵天の世界におもむきました。
お釈迦さまはこの説法を終えられると、過去を現在にあてはめられました。「そのときの王はアーナンダであり、バーラーナシーの豪商は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
世間の「評判」などというものは、実際には当てにならないものです。
人は、好き勝手に他人のことを噂話のネタにします。何の根拠もなく悪い噂が広がったときは、被害者が並々ならぬ精神的な苦悩を味わうことにもなります。不思議なことに世の中に流れるのは、往々にして悪い噂のほうが多いようです。人の噂話に翻弄されると不幸になるに決まっているので、そんなものは無視するか、TPOによって釈明するしかないのです。
滅多にありえないことですが、人に対して善い評判がたったならば、それがたとえ的外れのものであっても、その人は評判に符合した人間になるよう真剣に努力するべきです。
キンパッカの果実の話
Kimpakka jātaka(No.85)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある修行に身が入らなくなった比丘について語られたものです。
ある良家の息子が、純粋な帰依の気持ちから仏道に入りましたが、ある日、サーヴァッティーに托鉢に出掛けたとき、一人の美しく着飾った女性を眼の当たりにし、それが原因で修行に身が入らなくなってしまいました。そこで彼の阿闍梨と和尚は、お釈迦さまのもとに彼を連れて行きました。
お釈迦さまが、「比丘よ、あなたは修行に身が入らなくなったそうですが、それは本当ですか?」と尋ねられると、「本当です」と答えたので、お釈迦さまは、「比丘よ、五欲は、享楽しているそのときには気持ちのよいものですが、しかしそれらを享受した結果、地獄などの苦しい境遇に陥るもとになります。だから、それはキンパッカの果実を賞味するようなものです。キンパッカの果実は、色・香り・味ともに良いのですが、食べると内臓が破れて、命を失ってしまいます。以前に多くの人々がその害毒を知らずに、色・香り・味に惑わされ、この果実を食べて命を失ってしまったのです」と言われて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、隊商主となり、五百輛の荷車を率いて東方の国から西方の国に行きました。そして森の入口に来たとき、人々に招集をかけて、「この森には毒の樹があります。だから、今まで一度も食べたことのない果実は、私に相談しないうちに食べてはいけません」と命じました。
人々は、森に入ると、森の端の所に一本のキンパッカの樹を見つけました。その枝は実がたわわになっているために、その重みで撓んでいました。その幹・枝・葉・果実は、形・色・味・香りがちょうどマンゴーの樹に似ていました。彼らのうちのある者は、色と香りと味に惑わされ、マンゴーだと思ってその果実を食べてしまいました。またある者は、「隊商主に相談してから食べよう」とそれを食べずに持っていました。
菩薩である隊商主は、その場所を通りかかると、果実を食べずに手に持っていた者には、それを捨てさせ、食べている者には、吐き出させて薬を与えました。彼らのうちの幾人かは助かりましたが、最初に食べてしまった者は生命を失いました。
菩薩である隊商主はその後、予定の場所に無事に行き着いて利益を得たのち、再び自分の故郷へ還り、布施などの善行為を行ない、その業に応じた所へ生まれ変わって行きました。
お釈迦さまは、この出来事を語られてから、悟りをひらいた人として、次のような詩句を唱えられました。
後から来る災厄を知らずして
諸欲を放縦にする者には
放縦の結果が熟すると
苦悩が訪れる
あたかもキンパッカの実を食べた者のように
「このように、諸欲は享楽しているときは楽しいものでも、それが実を結ぶときには苦しむものである」と、教えを関連づけてから、四聖諦を説き明かされました。修行に身が入らなくなった比丘はやがて預流果に達し、他の比丘たちも、ある者は預流果に、ある者は一来果に、ある者は不還果に達し、またある者は阿羅漢果に達しました。
お釈迦さまはこの説法をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの隊商の人々は、今の仏弟子たちであり、隊商主は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
<五欲の享楽>
人は皆、「この世は楽しい」と一般的に思っています。「生きていて良かった」「自分は幸せだ」「人生を謳歌している」という言葉はよく聞こえてきます。
しかし、人生を楽しんでいるにもかかわらず、「楽しみとは何でしょうか」「生きる喜びとは何でしょうか」と具体的に聞かれると、答えられる人はほとんどいないようです。時々、「望みが叶ったこと」「自分の希望どおりの職に就けたこと」「結婚相手が見つかったこと」「子供や孫が生まれたこと」などのように、具体的な例を挙げる場合もあります。でも、人類にとって幸福とは何なのか? という問いに、普遍的な答えを出すのは難しいようです。
仏教では、眼・耳・鼻・舌・身の五つを、形や色・音・香り・味・感触という五つで刺激することを「欲」だと言っているのです。一般的に「幸せだ」「楽しい」などと言うのは、実際には眼・耳・鼻・舌・身で感受する、五つの刺激のことを言っているのです。そういう真理の見方から仏教では「欲」を戒めています。それなのに、非合理的な人間が、「ブッダは、折角自分たちが生きる喜びとしている家族や金を、『捨てよ』と言っているのではないか」と、不機嫌になります。しかし、ただ単に持っている金を捨てるだけでは、家族を捨てて逃げるだけでは、欲を捨てたことにはなりません。金を持っていない人、家族を持たない人は、欲から離れている人というよりは、ただの不幸な人ではないかと言えるだけです。
欲を捨てるということの意味は、眼・耳・鼻・舌・身に依存して生きることを止めて、より高度な目的で生きることです。眼・耳・鼻・舌・身を刺激することのみが幸福な生き方だと思っている全ての人々は、激しい依存症を病んでいるのです。立ち上がることがまったく出来ない、欲という泥沼に溺れて、もがいているのです。
欲というものは、糖衣に包まれた猛毒のようなものです。中毒を引き起こす麻薬も初めて使うときは刺激的で楽しいものですが、ひとたび依存に陥るとその人を破滅にまで追いこむのです。人が無始なる過去から、眼・耳・鼻・舌・身の刺激に依存して、超越した道を発見出来なくなっているのです。形も色も香りも味も、マンゴーに似ている、キンパッカの実が人を苦しみの罠にはめたのです。
表面的に見るだけでは、五欲それ自体に何の悪いところもありません。五欲は、美しい、楽しいものです。しかし、五欲依存症者は、それを得るためにどんな悪事でも犯します。強盗も、親を殺すことも、戦争を起こすことも辞さないのです。その上そういう人は心の成長ということには、まったく縁がないのです。
【参考】
この物語と大変よく似たジャータカがもう一話あります。phala
jātaka(No.54)ですが 、ここには菩薩が毒のある果実を識別した根拠が詩句の形で出てきます。「この木に攀じ登ることは難しくない。村から離れてもいない。 果実は美しく熟しているが、採る人がいない。それによってこの果樹は良いものではないと私は知った」という内容です。
このように論理的で冷静な菩薩の判断力は、このジャータカの教訓が持つ説得力をいっそう高めていると思います。
豚のご馳走の話
Muṇika jātaka(No.30)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、豊満な娘の誘感について語られたものです。
サーヴァッティのある家に十六歳の美しい娘がいました。その娘の母親が、娘の婿として相応しい、道徳的で人格的に優れた若者を希望していました。そこで、比丘ひとりを誘惑し還俗してもらい、彼に頼って暮らしていこうと考えました。
まずは三蔵教師や論蔵師、律蔵師に目をつけ、ご馳走を作って待ち構えていましたが、彼らはいつも大勢のグループで行動しているため、誘いかける機会さえも見つけられませんでした。丁度その頃、ある若者が三法に帰依して出家していましたが、比丘戒を受けた時期(二十歳)から、彼の修行に対する真剣さが薄れてきていました。彼が、髪や衣や身なりを整えて鉢もピカピカに磨き上げてやってきたのが、彼女の母親の目に止まりました。
母親は彼にご馳走して、家に毎日托鉢に来てくれるよう頼みました。彼が母娘と非常に親しくなったところで、「我が家には十分財産があるのに、守ってくれる息子も婿もいない」という母親の泣き言も聞かされるようになりました。
そして母親は娘に、「この比丘に気に入られるよう振舞いなさい」と言いました。彼女も自分の美しさと女らしさで、自分の魅力が彼の頭に焼き付くようにしました。
やがて彼は出家生活に対して悩み始め、修行もおろそかになりました。お釈迦さまが彼を呼んで訊いたところ、豊満な娘の誘惑によって修行が嫌になっていることを認めました。
お釈迦さまは、「比丘よ、かの娘はそなたに不利益をなす者です。前世においてもそなたは、かの娘の婚礼の日に生命を奪われ、大勢の人々のご馳走の品となったのです」と言って、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はある村で、一人の地主の家において牛の胎内に宿り、マハーローヒタ(大赤)と名づけられました。彼には、チュッラローヒタ(小赤)という名の弟がいました。この二頭の兄弟牛のおかげで、その家の運搬の仕事は増えていきました。
ところで、その家には一人の娘がいました。彼女は、都に住むある良家の主人から、自分の息子の嫁に欲しいと望まれていました。彼女の両親は、「娘の婚礼の際に、来客たちのご馳走の品にしましょう」と、ムニカという名の豚にミルク粥の食事を与えて飼っていました。
それを見て、弟牛のチュッラローヒタは、兄に尋ねました。「この家の運搬の仕事は増えているけれど、それは僕たち二人の兄弟のおかげで増えているんだ。だのにこの僕たちには草やわらをくれるだけで、豚はミルク粥の食事で飼っている。どういうわけであいつは、あんなご馳走を貰うんだろう。」
そこで兄は彼に、「なあ、チュッラローヒタよ。おまえはあいつの食べものを羨んではいけないよ。あの豚は、死ぬ前の食事をとっているんだ。娘の婚礼の際に来客たちのご馳走の品にしようと、この家の人たちはあの豚を飼っているんだよ。もう何日か経ったら、その人たちが来るだろう。そのときあの豚が足を掴まれて引きずられ、豚小屋から追い出されて殺され、来賓たちが食べる料理にされるのを、おまえは見るだろう」と言って、次のような詩句を唱えました。
死に際の食べものを食べている豚を
羨んではならない
選り好みをせず籾殻を食べよ
これは長寿のしるしである
それからまもなくして、かの家の人たちがやって来て、ムニカを捕らえ、いろいろなやり方で料理しました。
菩薩である兄牛は、弟牛に聞きました。「おまえ、ムニカを見たかい。」チュッラローヒタは答えて、「兄さん、ムニカの食べものの結末を、僕は見たよ。あいつの食べものより百倍も千倍も、ぼくたちの草とわらと籾殻だけの方が上等で、咎がなく、長寿のしるしだね。」
お釈迦さまは、「比丘よ、このようにそなたは、前世にあってもこの娘のために生命を奪われ、大勢の人々のご馳走の品となったのです」と、この説法を取りあげ、四聖諦を明らかにされました。四聖諦の説法が終わったとき、恋情に悩んでいた比丘は、預流果の境地に到達しました。
また、お釈迦さまは、過去を現在にあてはめられました。そのときのムニカという豚は恋情に悩んでいた比丘であり、地主の娘は比丘を誘惑した豊満な娘、チュッラローヒタはアーナンダ、そして、マハーローヒタは実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
【この物語の教訓】
比丘を誘惑して還俗させるのは、仏教徒として罪になるのではないかと疑問に思われるでしょう。わが子の幸福を考える両親は、愛着のせいで善悪の判断もつかなくなる可能性もあります。悪いことをしてでもわが子を幸福にしてやりたいと考えるのは、ごく当たり前の親の愛情です。しかし愛情という感情だけで行動すると、罪まで犯す可能性もありますので、仏教では、「慈しみ」「哀れみ」は良いのですが、「愛着」「愛情」などは悪いといっているのです。
生きることは、楽な仕事ではありません。しかし一般的に人は皆、楽に贅沢な生き方をしたがるのです。苦しい仕事も、難しいことにチャレンジすることも嫌がるのです。幸福になりたいという希望が頭にこびり付いていますが、「幸福とは何か」ということは理解していないのです。思う存分贅沢をして、やりたいことをやって、自由奔放に生きることが出来れば幸福だと思い込んでいるのです。でも実際に、我々にはそのような生き方を実現出来るものでしょうか。いくら財産に恵まれても、苦しみは他の側面から攻撃してくるのです。
人間の世界では、「幸福」という思い込みに陥って贅沢に耽り、怠けて、だらだらと生きている人々もいるのです。真剣に真面目に努力しながら生きている人々の中にも、このだらだらして生きている人々のことを羨ましがる気持ちがあるかもしれませんが、その羨望は危険だと思います。勉強するべきときに苦労して勉強しないで、いざ試験が迫ってきても徹夜して頑張ることさえせず、仕事に就いても真剣に励まないで、怠けたりふざけたり遊びほうけたりする人々もいます。しかし彼らの「楽しみ」は束の間のもので、結局は一生不幸な人間で過ごすことになります。
地道にこつこつと生きることこそが、幸せな生き方です。
水浴場の話@
Tittha jātaka(No.25)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたときに、法将サーリプッタ長老の弟子で、かつて金細工職人をしていた一人の比丘について語られたものです。(※1)他人の、意向と随眠煩悩を分別する智慧は、仏陀たちにのみあるもので、他の者たちにはありません。サーリプッタ長老には、他人の意向と随眠煩悩を分別する智慧がなかったため、その弟子の性格や気質が解らず、不浄の観想法ばかりを指導しました。しかしそれは、この弟子にはふさわしくありませんでした。なぜかと言えば、彼は五百の生涯にわたって次々と金細工職人の家にだけ生を享けたので、彼には長いあいだ清浄な金を見ることだけが積み重なっていたため、不浄ということがふさわしくなかったのです。それで彼は、悟るどころか不浄という本質に集中することさえできないまま、四ヵ月が過ぎました。
サーリプッタ長老は、自分の弟子に阿羅漢果の悟りを授けることができないので、「きっとこの者は、お釈迦さまに教導して頂くほうがよいのであろう。如来のお側へ連れて行こう」と考え、朝早く彼を連れてお釈迦さまのもとへ行きました。お釈迦さまは、「サーリプッタよ、何故あなたはその比丘を連れてきたのですか」と尋ねられました。「尊師よ、私はこの者に観想法を授けましたが、四ヵ月たっても、悟りの兆しさえあらわしませんでした。そこで私は、『この者は、お釈迦さまに教導して頂くほうがよいのであろう』と考え、お釈迦さまのお側へ連れてまいりました。」「ところで、サーリプッタよ、あなたは、どのような観想法を弟子に授けたのですか。」「世尊よ、不浄の観想法でございます。」「サーリプッタよ、あなたには生きとし生ける者の性格や気質を知る能力がありません。あなたは行きなさい。そして夕刻に戻って来れば、あなたの弟子を連れて帰ることが出来るでしょう。」
こうしてお釈迦さまは長老を送り出してから、その比丘に快適な住居と法衣を与えさせ、托鉢に出掛けるときも彼を特別に連れて行きました。そして頂いた美味のご馳走を彼に食べさせました。大勢の僧団の比丘たちを従えてふたたび僧院へ戻られたお釈迦さまは、昼休みに入られました。夕刻になって、その比丘を連れて僧院を散策されているとき、マンゴー林に一つの蓮池を神通力で出現させ、その中に大きな美しい一叢(むら)の蓮を、さらにその中にひときわ目を引く大きな一本の蓮の花を出現させました。そして、「比丘よ、こちらに座ってこの花を鑑賞しなさい」と言ってから、居室に戻られました。
その比丘は、この花を繰り返し見つめていましたが、世尊はその花を萎れさせました。蓮の花は、彼が見ているうちに、萎れ、色褪せてしまい、その縁のほうから花弁が落ち、瞬く間にみな落ちてしまいました。それから、おしべが落ち、めしべだけが残りました。比丘は、それを見ながら考えました。「この蓮の花は、たった今美しく見栄えがしていたのに、その色は衰え、花弁とおしべが落ち、めしべだけになった。このような蓮にも老いが来るというのに、私の身体にどうして老いが来ないことがあろうか」と。そして、「形成されたものは、すべて無常である」とありのままに観るヴィパッサナーへと心が辿り着きました。
お釈迦さまは、彼の心がヴィパッサナーに辿り着いたことを察知され、居室に坐ったまま、この詩句を唱えられました。
秋の蓮を手折るように
自己への愛着を断ち切れ
仏陀の説かれた平安の道へ
涅槃へ進め
詩句が終わると、この比丘は、阿羅漢果の悟りに到達し、「ああ、私は輪廻から脱出した」と確信し、その喜びを次のような詩句によって発しました。
修行を終えた彼の心は満たされている
煩悩が尽き
最後の身体を持っている
戒は清浄になり
感官は落ち着いている
月触(陰、ラーフ)から抜けでた
月のように
無明の巨大な暗闇を消し去り
すべての汚れを余すことなく根絶した
数千の光線を放ち
天空に輝く太陽のごとく
己の心は輝いている
その比丘は世尊に礼拝しました。サーリプッタ長老も戻って来て釈尊に礼をし、自分の弟子を連れて帰りました。やがてこの出来事が、比丘たちのあいだに知れわたりました。比丘たちは講堂で、「十の力をもつ人」のすぐれた特質を次のように賞賛しながら坐っていました。「友らよ、サーリプッタ長老は他人の意向と随眠煩悩を分別する智慧がなかったので、自分の弟子の性格や気質を知らなかった。ところが、師はたった一目でそれを知り、彼を、特別な能力を具えた阿羅漢の境地に導かれた。ああ、仏陀たちは、まことに偉大な威力をもっておられるものだ。」
するとそこへお釈迦さまが来られ、用意された座に坐り、「比丘たちよ、今どのような話のために一緒に坐っているのですか」と尋ねられました。「世尊よ、他のことではございません。世尊が、サーリプッタ長老の弟子の性格や気質を知られたことについての話のためでございます」と比丘たちが答えると、お釈迦さまは、「比丘たちよ、これは希有なことではありません。この私は今、仏陀となって彼の意向を知っていますが、前世でも、私は彼の意向を知ったことがあるのです」と言って、過去のことを話されました。(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
【注(※1)】Āsayānusayañāṇaṃ=他人の意向(アーサヤ)と随眠煩悩(アヌサヤ)を分別する智慧
アーサヤは、煩悩です。心に棲みついているという意味で、アーサヤといいます。人の意向・性格などはアーサヤによって形成されます。煩悩は誰にでもありますが、だからといって人はみな同じということにはなりません。煩悩が性格として現われて、「個人」「個人差」というものを形成するのです。アーサヤによって、性格の表層が作られるのです。これは誰でも知っている「人の性格」というものです。
アヌサヤは、潜在煩悩です。表面に現われることなく、心の中で随眠状態を保つのです。ですから、誰にも知り得ることはできないのです。アヌサヤは性格の深層ですが、探っても見つからない性格ですので、深層ではなく「裏層」と言った方がいいかもしれません。例えば、「まさかあの人が」というような、人の意外な行動を目にして、我々が理解に苦しむことがあります。そのときは、潜在煩悩の一部が目覚めて表層になったということです。仏陀は、表層に出ない限りは知り得ないこの性格も読み取るのです。この能力は仏陀に限るもので、現代心理学の方法を駆使しても、この潜在する性格を見出すことはできません。
人の心の働きを読み取る「他心通」(para
citta vijānana)は、悟りをひらいた弟子たちにもあったのです。しかし表面には一向に出てこない性格までは読めなかったのです。この智慧の力で、仏陀は人の性格に完全に合うような指導をされたのです。
水浴場の話A
Tittha jātaka(No.25)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
<前回のあらすじ>
幾多の前世において金細工職人であった人が、サーリプッタ長老に弟子入りしました。サーリプッタ長老は、長いこと美しいものばかり見て生きてきたこの人に、ものごとの醜い側面について目覚めてもらえば、悟りをひらくことが出来るだろうと考えて、不浄の観想法を指導しました。しかし、この冥想方法はその弟子の意向や気質にはふさわしくなく、悟るどころか対象への集中力さえ現われませんでした。
この弟子はお釈迦さまに教導して頂くほうがよいだろうと考えたサーリプッタ長老は、彼をお釈迦さまのところへ連れて行きました。お釈迦さまは、蓮池と蓮を神通力で出現させ、その花を鑑賞するように言われました。弟子が繰り返し見つめているときに、お釈迦さまはその花を萎れさせました。
そこで弟子の心は、「形成されたものは、すべて無常である」とありのままに観るヴィパッサナーへと辿り着き、やがて阿羅漢の悟りに到達しました。
この出来事について比丘たちが講堂で話していると、そこへお釈迦さまが来られ、「比丘たちよ、これは希有なことではありません。この私は、今仏陀となって彼の意向を知っていますが、前世でも、私は彼の意向を知ったことがあるのです」と言って、過去のことを話されました。(前号から続きます)
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は王に実利と道理について教示する廷臣となっていました。
あるとき、王の吉祥馬(王位を正式に象徴する馬を吉祥馬と言います)の水浴場で、馬丁たちが、ある一頭の未調教の若馬を水浴させました。吉祥馬は、未調教の若馬が水浴した水浴場に降ろされかけても、嫌がって降りようとしませんでした。馬丁は行って、王に報告しました。「王さま、吉祥馬が水浴場に降りようといたしません。」
王は菩薩である廷臣に、「賢者よ、どういうわけで、馬が水浴場に降ろされかけても降りないのか、行って見てくるように」と言って遣わしました。廷臣は、「かしこまりました。王さま」と川岸へ行き、馬を調べて病気ではないことを知り、「いったいどういうわけで、吉祥馬はこの水浴場に降りないのだろうか」と推測していましたが、「先にここで他の馬が水浴させられたのに違いない。それできっと、こいつは嫌がって水浴場におりないのだ」と思いあたり、馬丁たちに尋ねました。「これ、おまえたちは、この水浴場でどの馬を先に水浴させたのか。」
馬丁たちは「ある一頭の未調教の若馬(次の吉祥馬に任命される候補の馬)です。旦那さま」と答えました。廷臣は、「この馬は、自尊心が高いから、嫌がって、ここで水浴しようとしないのだ。この水浴場を清めて再び使うより、他の水浴場で水浴させればよい」と言いました。さらに吉祥馬の意向を知って、「これ、馬丁よ、バター油や蜂蜜や糖蜜でこしらえたミルク粥も、繰り返し食べれば、飽きるものだ。吉祥馬は、何回もこの水浴場で水浴したので、飽きているのだ。他の水浴場へ、吉祥馬を降ろして水浴させ、水を飲ますがよい」と言って、つぎのような詩句を唱えました。
御者よ
それぞれ別の水浴場で
馬に〔水を〕飲ませよ
ミルク粥でも
食べすぎれば 人は飽きるのだ
彼らは、廷臣に言われた通り、吉祥馬を他の水浴場に降ろし、水を飲ませ、水浴させました。廷臣は、吉祥馬が水を飲み、水浴しているうちに、王のもとへ戻って行きました。王は、「のう、吉祥馬は水浴し、水を飲んだのか」と尋ねました。廷臣が「はい、王さま」と答えると、「先には、どういうわけで水浴しようとしなかったのか」と理由を問われ、「こういう事情であります」と、すべてのことを説明しました。
王は、「この者はそのような畜生の意向すら知っている。まことに賢者だ」と、廷臣に大きな栄誉を与え、やがて寿命が尽きると、業に従って生まれかわって行きました。廷臣も、業に従って生まれかわって行きました。
お釈迦さまは、「比丘たちよ、私がこの比丘の意向を知っているのは、いまだけのことではなく、前世でも知ったことがある」と、この説法を取りあげ、連結をとって、過去を現在にあてはめられました。「そのときの吉祥馬はこの比丘であり、王はアーナンダ、そして、廷臣の賢者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人を育てて導くことは、決して簡単な作業ではありません。腹を痛めて生んだ我が子の養育でさえ、失敗する親もこの世にいくらでもいるのです。我が子の性格でさえも、わかったものではありません。
性格というものは、貪瞋痴という煩悩で形成されるのです。しかし普通の人間には、この三つの煩悩の理解も出来ないのです。単なる欲を向上心だと言ったり、あるいは実際は欲に走っている人を、たいへん明るくて活発な人だと言ったりする場合もあります。怒りに操られている人を、努力家、我慢強い人、改革者、英雄、などのように誤解することも多々あります。無知な人を見破れない場合もあります。そのときは、欲が少ない人、控えめの人、落ち着きがある人、という風に理解してしまうこともあります。
貪瞋痴があらゆるかたちに無数に顔を変えて人の性格として現われます。一般的には、「性格というのは煩悩そのものである」ということが理解されていないのです。これは、煩悩のアーサヤ(前号の注を参照)としての働きです。性格の核をアヌサヤと言います。全ての生命が持っている、表面に現われてこない完全に随眠状態にある性格が、その核です。性格を正しく理解しようとするならば、表層だけではなくその核も知る必要があるのですが、残念ながら我々には表層の性格もそう簡単には理解できないのです。仏陀のみが、性格の核を知る能力を持っているのです。
このエピソードを読んで、サーリプッタ尊者が間違ったと思ってはいけません。究極のインテリタイプのサーリプッタ尊者が、論理的な結論を出したのです。「ものごとの美しい側面だけ観る能力のある人に醜い側面も観られるように訓練させれば、ものごとをありのままに観られるヴィパッサナ―の智慧が生まれる」と思ったのです。しかし、この比丘にはものごとの醜い側面を観る能力は、全く無かったのです。不浄観相法は、聞いたこともない外国語で話しかけられたようなものでした。
お釈迦さまは、この比丘の見慣れている見方である、「ものの美しさを鑑賞する」という方向を活かして指導したのです。サーリプッタ尊者が期待していた「無常に辿り着く」ことに、いとも簡単に至ったのです。この比丘は芸術家でしたので、論理的な話にはついて行けなかったのです。お釈迦さまは、彼にきれいな衣を着せて、ご馳走を食べさせて、美しいものを見せて、精神的に落ち着いてもらったのです。彼の芸術能力を思う存分活かせるようにしたのです。性格さえ知っておけば、人を育てる、導くということは難しくはないのです。人の性格が読めないことが、我々にある、乗り越えられない難関なのです。
共同墓地を忌み嫌ったバラモンの話
Upasāḷha jātaka(No.166)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ウパサールハカという名の、墓場を忌み嫌うバラモンについて語られたものです。
彼は大金持ちで資産家でしたが、外道の教えを信奉していたので、近くの精舎に住んでおられるお釈迦さまのもとに参じることはありませんでした。彼には、賢くて智慧をそなえた息子がおりました。年老いた彼は息子に言いました。
「ねえ、息子や、身分の賎しいものが火葬になった墓場で私を火葬にしないでおくれ。どこか清浄な墓場に私を葬っておくれ。」息子は「父上、私はあなたをどこに葬ったらよいか知りません。私を連れていって、ここに葬ってほしいという場所を言って下さい」と言いました。バラモンは、「よろしい、息子よ」と言って、息子をつれて町から出て、鷲峰山の頂上に登り、「息子よ、ここは、賎しい身分のものは火葬にされたことの無い場所だよ。だからここで私を火葬にしておくれ」と言って、息子と一緒に山から降り始めました。
お釈迦さまは、その日の朝早く、悟りを得られる資質のある親族をながめられたとき、この親子に預流果に向かう資質があることを見いだされました。そこで、山の麓に行き、親子が山の頂上から降りて来るのを待っておられました。
やがて彼らは降りて来て、お釈迦さまに出会いました。お釈迦さまは挨拶して、「バラモンたちよ、どこへ行ってきたのですか」とお尋ねになりました。若者はこのいきさつをお話ししました。お釈迦さまは、「それでは来なさい。まず、お父さんが言った場所に行きましょう」と、親子をつれて山の頂上にのぼり、「どの場所ですか」とお尋ねになりました。若者は、「尊師よ、父はこの三つの小高い山の中間を指さしました」と答えました。お釈迦さまは、「若者よ、おまえのお父さんが墓場を忌み嫌ったのは今だけのことではありません。以前にも、墓場嫌いでした。この場所で火葬にしてくださいと、おまえに言ったのは今だけではなく、以前にもまたこの場所で自分を火葬にするようにと頼んだのです」と言って、彼に請われるまま過去のことを話されました。
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その昔、このラージャガハで、父はやはりウパサールハカ・バラモンであり、またこの息子も、やはり彼の息子でありました。そのとき菩薩は、マガダ国のバラモンの家に生まれて、学芸を完全に身につけ、仙人として出家し、神通と禅定とを修得して、禅定の楽を享受しながら、ヒマラヤ地方に長らく住み、塩と酢を求めるため鷲峰山の草庵で暮らしていました。
そのときも、かのウパサールハカ・バラモンが、今世の物語と同じように息子に告げると、息子は、「私にあなたの好みの場所を言ってください」と言いました。バラモンはこの場所を告げ、息子といっしょに山を降りる途中で菩薩である仙人に会い、彼に近づいていきました。
仙人は、やはり同じように尋ね、若者の言葉を聞いて、「さあ、いらっしゃい。おまえのお父さんが告げた場所が、不浄であるか、清浄であるかを見てみよう」と言って、彼らとともに山の頂上にのぼり、「この三つの小高い丘の中間が、清浄であります」と若者が言うと、「若者よ、この場所で火葬になった人々の数にはかぎりがない。おまえのお父さんはこのラージャガハのバラモンの家に生まれて、ウパサールハカという名前をつけられ、この山のなかで、一万四千回も火葬になっているのだよ。火葬が行われたことのない場所とか、墓場ではない場所、骸骨でおおわれたことのない場所など、見つけることができないのだよ。」このように、過去を知る智慧によって断言してから、次の二つの詩句を唱えました。
この地で荼毘にふされた人々のうち
ウパサールハカ姓の者が
一万四千人もいる
「不死」は
この世にありえないものである
聖者は真理(法)に至り
平和主義に徹し
自己の節制を具えている
この世でこれこそが
「不死」である
このように、仙人は、親子に法を聞かせてから、四つの崇高な境地である「四梵住」(慈・悲・喜・捨)を修習して、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまはこの説法をされた後、「四聖諦」を明らかにされ、真理の説示が終わったとき、親子は、預流果の悟りに達しました。そしてお釈迦さまは、連結をとって過去を現在にあてはめられました。「そのときの親子はいまの親子であり、仙人は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
「自分だけは他人と違う」と、人は簡単に思ってしまうのです。Upasāḷhakaは、他人よりも自分が上だと高慢に思っていましたが、実際にはその勘違いのせいで普通の人々よりも愚かなことをしようとした、ただそれだけのことです。
我々の身近な人々の間では、このバラモンのように高慢な態度の人は少ないですが、反対に「卑下慢」の思考の人がよくいます。自分の欠点、短所、未熟な点、失敗などが明るみに出ても、「自分は他人と違うのでどうしようもない」という考え方で開き直るのです。そうなると、愚かなことを繰り返すという点では、このバラモンと何ら変わりがないことになります。自分を成長させるべきであるという仏教の観点からすると、自分は他人と違うと考えないことが幸福への道です。
「不死不滅」という言葉ほど、この世の中で誤解される言葉はありません。美人がその言葉を聞くと、「自分の美貌を永遠に保てたら…」ということを妄想します。権力者は、誰にも支配・征服されない絶対的な権力の維持を、金持ちは一切減少しない富と財産を妄想します。不幸な人々の場合は、表面的に幸福に見える他の人々のことを羨んで、自分もそのような状態になれるのではと期待します。例えば、貧しい人は、思いのままの富に恵まれた生活を望みます。病弱な人は、健康と体力を、老人は若々しさを望みます。
今世で豊かさに恵まれる能力のない人は、死後永遠になっても、同じように恵まれない状態が持続するだけではないか…、無知な人は不死不滅になっても、無知のままではないか…、というのが論理的な考え方です。しかし、人々は理性や論理よりも、自分の都合と感情、我がままでものごとを考えるのです。ですから「不死の境地」をイメージすると、人の全ての欲望を実現させてくれる「魔法の世界」や「お伽の国」になるのです。権力・財産・健康・美貌などは、苦労しないで得られるものではありません。もし得たとしても維持するために苦労をするのです。この不可避な苦があるからこそ、不死を夢見るのです。仏教では、苦しみの延長、無限の欲望の延長は、愚か者の妄想だと考えるのです。不死は欲望に悩んでいる人の夢であって、実現出来たためしはないのです。
ですから、そうした絵空事の妄想ではなく、真理を知ること、慈愛に満ちた心を持つこと、自己制御を成し遂げることこそが、高貴な人(聖者)が説く具体的な「不死」なのです。そのように実現出来る、具現化出来る「不死」にこそチャレンジするべきです。
象使いの話
Upāhana jātaka(No.231)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊が竹林精舎に滞在しておられたとき、デーヴァダッタについて語られたものです。
講堂において、比丘たちが話を始めました。「友よ、デーヴァダッタは師に背き、如来の敵となり、大破滅に陥った。」するとそこへお釈迦さまがおいでになって、お尋ねになりました。「比丘たちよ、おまえたちはここに集まって何を話しているのですか。」「これこれの話でございます」と答えるとお釈迦さまは、「比丘たちよ、デーヴァダッタが師に背いて、如来の敵となり、大破滅に陥ったのはいまだけのことではありません。以前にも同じように陥ったのです」とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は象の調教師の家に生まれ、成人して、象使いの技法の奥義にまで達しました。
そこへ、カーシ村出身の一人の青年がやって来て、菩薩のもとで象使いの技法を学びました。そもそも菩薩というものは、なにか技術を教える場合、教え借しむことをせず、自分の知っていることは、あますところなく教えるものです。それゆえにその青年は菩薩の知識と技術をあますところなく習いおえて、菩薩に言いました。「先生、わたくしは王様にお仕えしたいと存じます。」菩薩は、「よろしい」と言って王のもとに行き、そのことをお話しました。「大王よ、わたくしの弟子が、お仕えしたいと願っております。」「よろしい、ここへ寄越しなさい。」「では彼の給料をお決めください。」「おまえの弟子に、おまえと同じ額をやるわけにはいかない。おまえに百やるとすれば五十やるし、おまえに二百やるとすれば、百やろう。」
菩薩は家に帰ると、このことの次第を弟子に話しました。弟子は、「先生、私はあなたとまったく同じ技術を習得しております。もしあなたと同じ給料が頂ければ、お仕えしますが、もしそうでなければお仕えしません」と言いました。菩薩はそのことの次第を王に話しました。王は、「もしその弟子におまえと同じことをやらせて、おまえと同じ技術を示すことができるならば、おまえと同じ給料をやろう」と言いました。菩薩はそのことを弟子に話しました。弟子が、「よろしゅうございます。お見せ致しましょう」と答えたので、そのむねを王に話すと、王は言いました。「では明日技術を見せよ。」「かしこまりました。お見せ致しましょう。ふれ太鼓を鳴らして都中にお知らせください」と応じました。
王は、「明日、先生と弟子の二人が象使いの技術を見せるそうだ。見たい者は、明日宮廷に集まりなさい」と太鼓を叩いてふれさせました。
菩薩は、「わたしの弟子は技法の巧妙さに通じていない」と考えて、一頭の象を捕らえ、一晩のうちに命令の逆に動く調教をしました。菩薩がその象に「進め」と言えば戻り、「戻れ」と言えば進み、「立て」と言えば横になり、「横になれ」と言えば立ち、「取れ」と言えば置き、「置け」と言えば取るように仕込んでおき、翌日その象に乗って宮廷に赴きました。弟子もまた魅力的な象に乗って来ました。大勢の人々が集まりました。そして両人ともに同じ芸をやって見せました。さらに菩薩は自分の象に命令の逆をさせました。象は、「進め」と言われて戻り、「戻れ」と言われて前に進み、「立て」と言われて横になり、「横になれ」と言われて立ち、「取れ」と言われて置き、「置け」と言われて取りました。
大勢の人々は、「ああ、けしからん弟子だ。自分の師匠と競い合うなんて。自分の分際をわきまえず、『先生と同格だ』と勘違いしている」と言って、土塊や棒などで殴りつけて、その場で殺してしまいました。
菩薩は象からおりて、王に近づき、「大王よ、技術というものは、自分の幸福のために習うものでございます。しかし、ある人にとっては、習いおぼえた技術は出来そこないの履物のように、破滅をもたらします」と言って、つぎの二つの詩句を唱えました。
苦しまず楽に歩こうと
人が買った履物
熱で底が熔け 焼きついて
その人の足まで噛み付くように
素性が賎しく 育ちも悪い者は
あなたの学問と技術を学び取り
その学識によって身を滅ぼす
素性が賎しい者は
出来そこないの履物に譬えられる
王は満足して、菩薩に大きな名誉を与えました。
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの弟子はデーヴァダッタであり、先生は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人間はいろいろと才能を持って生まれてきます。生まれてからも能力を開発して自分を磨いて行きます。そうすることで、楽に幸福に生きて行こうと思うのです。しかし、才能・能力・学識・技術などがあったからといって、その人が幸福になれるとは限りません。
人の全ての能力は、人格という器に入るのです。人格者というのは、子供のころからよく躾をされているのです。社会のきまりは自然に身に付いており、悪いことだ、不正だと思われることは、決してしません。何よりも道徳的な人間なのです。人格者は、特別に技術・能力などがなくても、皆に親しまれるので、幸福に生きる事ができます。学識・技術などの能力を発揮して幸福になるためには、人格の支えが不可欠です。
人格が出来ていない人の学識・能力は、人類のためになるものではありません。器自体が汚れているので、その中に入る能力なども汚染されるのです。使い物にならないのです。お金のためなら何でもする人には、何の人格もないのです。その人がその上、天才的な能力も持っているならば、かえって大変危険な存在になるのです。現代の世界でも、学識と技術はめまぐるしく発展していますが、世界は一向に平和になりません。人類が幸福にもなりません。逆に、不公平が増すばかりです。戦争は絶えないのです。貧困もひどくなるのです。収入がないことで自殺する人が出るほど追い込まれているのです。この問題の原因は、技術・学識にあるわけではありません。人類が財産よりも知識や能力よりも、道徳的な生き方に価値があることを忘れていることと、「金さえあれば全てOK」という思考にあるのです。
このエピソードは、現代人が忘れている、「幸福と平和への道は、唯一道徳にある」ことを諭しているのです。この物語に出てくる弟子も、先生と同様な能力を身につけましたが、その能力を生かすために必要な道徳を学ばなかったのです。現代人と同じく、「同じ能力に同じ給料を払え」と要求したのです。実は、今の社会もよく調べると、安定して高い収入を得ている人たちは、能力よりも人格が評価されていることがわかると思います。不正を働くと、能力を問わず誰でも辞任することになるのです。
キンスカの喩えの話
Kiṁsukopama jātaka(No.248)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、「キンスカの喩え」という経典(*)について語られたものです。
四人の比丘が如来のもとにおもむき、自分に適した「集中瞑想の対象」を与えて下さいとお願いしました。お釈迦さまは、彼らに瞑想の対象を教示されました。彼らは瞑想の対象を得て、各自の夜と昼を過ごす場所へそれぞれ出掛けて行きました。彼らのうちのある者は(瞑想の対象として)六種の触処を得て、悟りをひらきました。ある者は(瞑想の対象として)五蘊、ある者は物質を構成する「地・水・火・風」の四元素、またある者は十八界を得て、悟りをひらきました。彼らは各自が与えられた瞑想対象のすぐれた点をお釈迦さまにお話ししました。
そしてひとりの比丘は自分が疑問に思った点を、お釈迦さまに質問しました。「悟りは同一の筈ですが、これらのさまざまな瞑想対象からどのようにして皆が悟りをひらいたのでしょうか」と。
お釈迦さまは、「比丘よ、おまえはキンスカの樹を見たある兄弟たちと、なんら変わるところがありません」と言われました。そして、「世尊よ、そのわけをお話しください」という比丘の求めに応じられたお釈迦さまは、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときのことです。王には四人の王子がありました。
ある日彼らは御者を呼んで、「我々はキンスカを見たいと思っている。我々にキンスカの樹を見せてくれ」と言いました。御者は、「かしこまりました。ご覧に入れましょう」と言って、四人に一度に見せることはせず、最初に最も年長の王子を車に乗せ、森に連れていき、「これがキンスカでございます」と言って、大株が芽吹く頃にキンスカを見せました。他の王子には若葉の出た頃に、他の王子には花の開いた頃に、もう一人の王子には実を結んだころに見せました。
後日、四人の兄弟は一所に集まって、「キンスカとはどういう樹か」という話を始めました。年長の王子は、「焼け焦げた柱のようだ」と言い、第二の王子は、「ニグローダ樹(花は咲かず、たくさんの葉に覆われている美しい大樹)のようだ」と言い、第三の王子は、「ちょうど肉片(キンスカの樹は、花が咲くとき真っ赤な花のみで葉は一枚もなく、藤の花がぶらさがっている様子と似ている)のようだ」と言い、第四の王子は、「シリーサ樹(たくさんの大きな鞘がぶら下がっていて、わずかに破れて種が見えている。しかし、葉は一枚もない)のようだ」と言いました。
彼らは、おたがいの話が合致しないことに満足出来ず、父王のもとにおもむいて、「王様、キンスカというのはどのような樹でございましょうか」と尋ねました。王に「おまえたちはどのように話したのか」と問われて、王子たちは自分たちがした説明の仕方を話しました。
王は、「たしかにおまえたち四人ともキンスカを見たのだ。だがしかし、御者がおまえたちにキンスカを見せているときに、『この時期のキンスカはどのようであるのか』『この頃にはどうであるか』というように、区別して尋ねることをしなかった。そのために、おまえたちに疑問がおこったのだ」と言って、第一の詩句を唱えました。
皆がキンスカを見たとしても
なぜ疑いを起こさぬのか
あらゆる場合について
なぜ導師に尋ねぬのか
お釈迦さまはこの理由を示して、「比丘たちよ、四人の兄弟が区別して尋ねなかったために、キンスカについて疑問が生じたように、おまえたちもまた、この法について疑いを起こすのである」とおっしゃって、現等覚者として、
第二の詩句を唱えられました。
完全な智慧についても
未だ理解せざるところにおいては
疑問が生じる
キンスカについて疑問を抱いた
兄弟のように
お釈迦さまはこの説法をされた後、過去と現在を結び付け「そのときのバーラーナシーの王は実にわたくしであった」と話されました。
(*)「キンスカの喩え」…相応部経典(南伝大蔵経 第15巻 299頁)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
キンスカ樹の変身ぶりは、激しいものです。冬は焼け焦げた柱のようで、生きている感じもしない。春になると真っ赤な花が咲き乱れ、肉屋で肉の切り身がぶら下がっているような感じです。花が落ちると、緑の葉に覆われるのです。秋になると葉が落ちて、鞘だけぶら下がっているのです。一側面だけ見た人は、決して同じ樹だとは思わないでしょう。
ものごとを理解するときは、疑ってみることは必要です。「これがキンスカです」と言われただけであっさりと納得してしまったことを、このエピソードでは批判しています。何かについて知識を得るときには、あらゆる側面から疑問を解決して全体的な知識を得る必要があるのです。中途半端な知識では、何の役にもたたないのです。
仏教は何かを勉強するときには、納得いくところまで努力するように勧めます。経典の中でも、修行するときは少々上手くいっただけで満足してはいけないと戒めています。完全に納得いくところまで、完全な悟りをひらくところまで、妥協せずに努力する人が完全な解脱を得るのです。
不完全な知識を恥じるのではない。隠す必要もない。こつこつと努力して、完成すれば良いのです。世の中で驕慢な人々は、僅かな知識を得てもこの分野について詳しく知っているように振る舞うのです。そういう人々は、他人にも間違った知識を与えるし、自分でも知識を完成しようとはしないのです。世の人々は、曖昧な知識しか持たない人々のリーダーシップのお陰で、嫌になるほど苦労しているのです。
「騙された、詐欺にあった、損害を被った」というような被害報告はしょっちゅう耳に入ります。それは、十分検討しないで、言われただけであっさりと納得する人の問題です。仏教はこのような曖昧な生き方は否定しているのです。
束縛から逃れた犬の話
Sunakha jātaka(No.242)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊が、ジェータ林におられたとき、アンバラコッタの集会所で食物を与えられていた犬について語られたものです。
水汲み人夫たち(集会所の手入れや整備をする人々のこと)が、その犬を生まれたばかりの子犬の頃に連れて来て、そこで育てたそうです。その後その犬はそこで与えられた食物を食べて、体が大きくなりました。(皆がここに集まってご馳走を食べますが、それを分けてもらっていましたので、家で飼われている他の犬よりも栄養価の高いものが食べられ、体格も良く、健康的で可愛くて、皆に好かれていました。)
そんなある日、一人の村人がその場所にやってきて、犬を見ました。(お金持ちのその人は、犬を一目見たとたん可愛くて仕方がなくなり、自分のものにしたくてたまらなくなったのかもしれません。)そして水汲み人夫たちに、上衣(ウッタリサータカ…服の上から肩に掛ける大変高価なものです)とお金を与えて、その犬を革紐で縛って連れて行きました。
その犬は連れて行かれる途中で吠えませんでした。与えられたものを食べて、一所懸命についてきました。(皆に育てられたので、この犬には特定の飼い主があったわけではありませんから、いわば「公共忠犬?」とでも呼ぶべき性格になっていたでしょう。)そこでその男は、「この犬は、もう私のことを好きになっているのだ」と思って、革紐を解きました。その犬は放されるやいなや、まっしぐらに元に居た集会所に帰りました。(平等に皆の忠犬になることを仕事にしているこの犬にとって、ひとりの人に囚われることは、たまったものでなかったのでしょう。)
比丘たちは、逃げ帰ってきたその犬を見て、事情を知り、夕刻に講堂に集まってその話を始めました。「友よ、あの休息所で飼われていた犬は束縛から逃れることが上手で、解き放されるやいなや、集会所に帰って来ました」と。そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、ここに坐って何を話しているのですか。」「これこれのことでございます。」そこでお釈迦さまは、「比丘たちよ、この犬が束縛から逃れることが上手であったのは今だけではありません。以前にも上手でした」とおっしゃって過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、カーシ国のある大金待ちの家に生まれ、成年に達して、家庭を持ちました。
そのとき、バーラーナシーのある人(食べ物を恵んでもらって生活する人のようです)が犬を飼っており、その犬はもらったご飯を食べて、体が大きくなりました。そのとき一人の村人がバーラーナシーにやってきて、その犬を見ました。(「この可愛い犬は、乞食に飼われるよりは私が飼った方が幸せだろう」と思ったのかもしれません。)そしてその飼い主に上衣とお金を与え、犬を捕らえて革紐で縛り、紐の先をもって出かけました。
途中、森の入口にある小屋に入りました。彼はそこに犬を繋いで、板の上に横になって寝てしまいました。そのとき菩薩は、ある用事があって森の中に入り、小屋まで来たところ、紐で縛られたその犬が繋がれているのを見て、第一の詩句を唱えました。
革紐を噛まないこの犬は
実に愚かである
束縛から逃れ
落ち着ける家に帰るべきである
それを聞いて菩薩の意図を理解した犬は、第二の詩句を唱えました。
私は既に決心しており
それは胸の中に秘めている
そして機会を見計らっている
人々が寝付くまで
彼はこのように言って、皆が眠りについたとき、革紐をかじって、喜んで逃げ、自分の主人の家に帰りました。
お釈迦さまはこの話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの犬は現在の犬であり、通りかかったカーシ国の賢人は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
餌をくれる人に忠実になるのは、犬の仕事です。この二つの物語に出てくる犬は、不特定多数の人々から餌をもらっていたので、誰にでも忠実でかわいく振舞っていたのです。それはその犬の仕事です。いわば、公共忠犬(皆のワンちゃん)だったのです。この男は、公共の愛玩動物であった犬を私有化しようとして、お金だけではなくかけがえのない上衣まで失ったのです。
上半身にまとう「ウッタリサータカ(上衣)」は単なる服ではなく、自分の地位を表す高価なものです。犬を飼いたければ、お金だけ支払えば済むことなのに、わざわざそれまで譲り渡したと、このジャータカでは語られています。それは、公共財産を私物化すると社会的な名誉・地位までなくしますよ、という忠告です。金よりも、名誉と地位のほうが、一旦なくしたらそう簡単には取り戻せないものなのです。
また、たとえ正しい行動でも、起こすべき時期というものがあります。時期が外れたとき、正しい種を蒔いても良い結果は得られません。ですから、我々はやたらに行動を起こすべきではなく、機会を見計らって行動するべきなのです。このエピソードの犬は、見事に機会をとらえました。
世の中の大多数の人々は自己観察をせず、常に怠って生活しているのです。そのことを仏教では、「大衆が寝ている」と言うのです。仏道を歩む人は、他人がいくら怠っていてもそれにかまわず、誘惑されず自己観察をして、一切の束縛から脱出するのです。犬は、人々が寝付こうとしたとき、自分は一緒に寝ないで束縛の紐を噛み切ったのです。
小石を投げる男の話
Sālittaka jātaka(No.107)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、白鳥を打ち落とした比丘について語られたものです。
彼はサーヴァッティーに住む良家の息子で、小石を投げるのが上手でしたが、ある日法を聞いてから、仏教に帰依するようになり、ついには出家し具足戒を受けました。しかし彼は学問を好まず、行ないもまじめではありませんでした。
ある日、彼はある若い比丘をつれて、アチラヴァティー河に行き、沐浴をしてから河の土手に立っていました。そのとき、二羽の白鳥が空を飛んでいたので、彼は若い比丘に話しかけました。「あの後から飛んでいる鳥の目を小石で打って足もとに落としてみよう。」「どうして打ち落とすことなど出来ますか。そんなことは、まさかできないでしょう。」「まあ見ていてごらん。鳥の一方の目から、もう一方の目に打ち貫いて落としてみよう。」「あなたは、馬鹿げたことを言っていますね。」「それでは、見ていなさい。」彼はこのように言ってから、三角の石をひとつ手にもち、指にはさんで、その白鳥の後方から投げました。
それがピューという音をたてたので、白鳥は、「何か危険が迫っているにちがいない」と感じて、振り返ってその音を聞こうとしました。間髪をいれずに、彼は丸い小石を手にもって、振り返って見ている鳥の片目を巧みに打ち貫きました。そして小石はもう一方の目から抜けていきました。白鳥は大きな鳴き声で叫びながら、足もとに落ちました。それから比丘たちがやって来て、「あなたは、何ということをしたのですか」と言って非難し、お釈迦さまのもとに彼を連れて行き、「世尊よ、この比丘はこれこれのことをしました」とその出来事を報告しました。
お釈迦さまは、この比丘を叱責され、「比丘たちよ、彼がこのような技に巧みなのは今だけではない。以前にも巧みであった」と言って、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はその国の大臣でありました。そのとき、王の司祭は大変なお喋りで、饒舌家でした。彼が話し始めると、他の人々はとても口を挟むことなど出来ない状態でした。王は考えました。「だれか彼の長話を切り上げさせてくれる人はいないものだろうか。」王はそれ以来、そのような人を密かに探し求めながら歩き廻りました。
その当時、バーラーナシーに、小石を投げるのが上手な一人の下半身不自由な者がいました。町の子供たちは彼を車に乗せて引っぱり、城門の下の鬱蒼とした大きなニグローダ樹のところへ連れて行き、彼を取り巻き、少しばかりのお金を与えて、「象の形を作って。馬の形を作って」などと言いました。彼は小石を続けざまに投げて、ニグローダ樹の葉で色々な形を現しました。すべての葉は破れ、穴だらけになりました。
そのとき王が御苑に行く途中、その場所に通りかかったので、子供たちは恐ろしくなって、みんな逃げてしまいました。そしてそこには、足の不自由な男だけがとり残されました。王はニグローダ樹の根もとに行って、車に乗ったまま、葉が破れたために影がまだらになっているのを見て、見上げるとすべての葉が破れているのに気づき、「これは誰の仕業か」と問いました。「足の不自由な男です、王様」と従者が答えると、王は、「この男に頼めば、バラモンの長話を封じることが出来るかもしれない」と考えて、「その足の不自由な男はどこにいるのか」と尋ねました。従者たちは彼が樹の間に坐っているのを探し出し、「ここです、王様」と答えました。
王は彼を呼び、人払いをして尋ねました。「わたしの配下に一人のお喋りなバラモンがいるのだが、おまえはそのバラモンを沈黙させることが出来るだろうか。」「ほんの一升分のヤギの糞(固くて小さくて、指三本で掴める小石くらいの大きさです)があれば出来ると思います、王様。」
王は足の不自由な男を王宮に連れて来て、穴を開けた幕のかげに坐らせ、その穴に相対してバラモンの座席を設けました。そして一升分の乾いたヤギの糞を彼の近くに置き、王のご機嫌伺いにやって来たバラモンを座席に坐らせ、話をさせました。バラモンは他の人々に口を差し挟ませず、王とともに話を始めました。そこで足の不自由な男が、幕の穴を通して続けざまにヤギの糞を投げると、糞はまるで蝿が飛ぶようにバラモンの口に入りました。バラモンは、器に油が入るように糞を呑み込んだので、すべての糞は無くなってしまい、それは彼の胃の中で、半升ほどの量になりました。
王は、糞がすっかり無くなったのを知って言いました。「先生、あなたは非常によく喋られたので一升ほどのヤギの糞を飲み込んでも気づかずにおられました。もうこれ以上消化することは出来ないでしょう。帰って薬草と水を飲んで糞を排出し、健康を取り戻してください。」バラモンはそれ以来、すっかり口を閉ざしてしまい、話しかけられても沈黙を守りました。
王は、「彼のおかげで、わたしの耳が楽になった」と足の不自由な男に、十万金の収入を得られる村を四方に一箇所ずつ与えました。菩薩は王に近付いて、「王様、賢人はこの世間における技術を備えていなければならないのです。足の不自由な男は小石を投げることだけで、この成功を得られたのです」と言って、次の詩句を唱えました。
技を持っていることこそ
賞賛に値する
不自由な者でも これほどの技がある
巧みに投げるだけのことで
四方の村を得たことを見よ
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの足の不自由な男はこの比丘であり、王はアーナンダであり、賢い大臣は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
勉強しただけで、何も出来ない人生は不幸です。勉強など出来ても出来なくても、健常者であろうが障害者であろうが、人は何か一つでも他人の役にたつ技を身に付けるべきです。このような役立つ人は、社会から無視されることはありません。
現生物語でのエピソードですが、出家しているにもかかわらず、何故この比丘は、白鳥を撃ち落とすことを考えたのでしょうか。この比丘は、伴っていた若い比丘に、自分の腕を見せて驚かせたかったかもしれません。
なぜこの若い比丘は、「白鳥を殺してはいけません」と止めなかったのでしょうか。殺人を禁ずる戒律は制定されていました。戒律項目(戒律は法律と同じ形式で、条文化するものです)に「人間」とだけあったのです。言葉の定義にも、妊娠した瞬間からの命は人間であると記しています。ですから、その他の「生きもの」は入りません。ろくに仏教を学んでいなかったこの二人は、殺生はいけないことだと気づかなかったのです。この出来事が起きてから、釈尊は「殺生するなかれ」という戒律も付け加えられたのです。仏教では、戒律を定める以前の初犯には罪を問いません。
人は、自分が持っている技を自分と他人の幸福のために使うべきであって、自分の腕前に自己陶酔するために使ってはなりません。
ヴァッチャナカ仙人と長者の話
Vacchanakha jātaka(No.235)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、マッラ人ロージャについて語られたものです。
彼はアーナンダ長老の在家の友人でありましたが、ある日、自分のところに来てもらうために、長老に信書を送りました。長老はお釈迦さまの許しを得て出掛けました。彼は長老を種々最上の飲食物でもてなし、かたすみに坐って長老と親しくうちとけ、長老を世俗の享楽と五種の欲によって誘い、つぎのように言いました。
「尊師アーナンダ様、わたくしの家にはたくさんの人的財産と物質的財産とがございます。これを二等分して、半分をあなたに差し上げましょう。さあ、二人で在家の生活をいたしましょう。」長老は彼に欲望にある危難を話して、席を立って精舎に帰りました。
そこでお釈迦さまは長老にお尋ねになりました。「アーナンダよ、ロージャに会いましたか。」「はい、尊師よ。」「ロージャに何を話したのですか。」「尊師よ、ロージャは在家の生活をしようと私を誘いました。そこで私はロージャに、在家の生活と五種の欲望にある危難を話しました。」
お釈迦さまは、「アーナンダよ、マッラ人ロージャが、出家者を在家の生活に誘ったのはいまだけではありません。以前にもやはり誘惑しました」と言って、アーナンダの求めに応じて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、ある市場が立つ村で、バラモン階級の家に生まれ、成年に達すると仙人の生活に入り、ヒマラヤ地方に長期間住んでいました。
あるとき、バーラーナシーに行って塩と酸味のものを得るために、まず王の御苑に泊り、翌日バーラーナシーに入りました。そのときバーラーナシーの長者が菩薩の善行を喜んで、自分の家へ案内して食事を供養し、御苑に住むように約束してもらい、その場所で菩薩のお世話をしました。そして二人は、お互いに親愛の情を持つようになりました。
そこである日バーラーナシーの長者は菩薩にたいする愛情と信頼からこのように考えました。「出家者の生活というものは苦しみである。私の友人のヴァッチャナカ仙人を還俗させ、全財産を二分してその半分を彼に与え、二人一緒に仲良く暮らそう」と。
彼はある日、食事がおわったとき、菩薩と気持ちよく打ち解けて話し、「尊師ヴァッチャナカ、出家者の生活というものは大変苦労の多いものでございます。在家の生活は楽でございます。さあ、二人で一緒に、諸々の欲望を享楽して暮らしましょう」と言って、第一の詩句を唱えました。
財産にあふれ 豊穣である
家は ヴァッチャナカよ 実に楽しい
そこでは よく食し よく飲み
苦労も知らずに暮らせるのだ
注釈:出家者と違い、在家は財産も食物も豊かである。贅沢な寝具なども用い、快適に眠れる。在家生活はとても楽しいものです。
これを聞いて、菩薩は、「大長者よ、あなたは無智であるために欲望に溺れて、在家生活の長所と、出家生活の短所をお話しになった。今度は私があなたに、在家の生活には長所がないと諭します。今お聞きなさい」と言って、第二の詩句を唱えました。
苦労せずして 在家は成り立たず
嘘偽りを言わずして 在家は成り立たず
他を悩ませずして 在家は成り立たず
回避できない欠陥に満ちて 在家生活を営む
注釈:毎日農耕などの仕事をして苦労しないと在家生活は成り立たない。バカ正直で嘘を言わないでいると、財産を手にすることも守ることもできない。雇用した人々に圧力を掛けたり、不正を見つけたら処罰したりしないと、在家の経営は成り立たない。在家としての成功は、そうした悪いことの上に成り立っている欠陥だらけのものです。
このように、偉大な人は在家の生活の過失を説いて御苑の方へ去っていきました。
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときのバーラーナシーの長者は、マッラ人ロージャであり、ヴァッチャナカ仙人は、実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
俗世間では成功したいという期待を、誰もが持っています。俗世間は、成功者に対して手放しで賛美賞賛するものなのです。どういう手段を取ったとしても、お金を儲けることこそ唯一の生きる目的だと思っているのです。
しかし、豊かになる道は競争が激しく、残酷なものなのです。嘘をついたり、ごまかしをしたり、他人に迷惑を掛けたり、人を陥れたりして、成功の道を歩むのです。成功するために不可欠なこれらの行為は、決して清らかな行為ではなく、悪事なのです。罪に染まらない在家生活は成り立たないのです。
もし人が、罪を犯さずに在家生活を営もうと思うならば、その人は欲を少なくしてあらゆる誘惑に負けない強い精神を持って、苦労もしなくてはなりません。楽をして、しかも贅沢に暮らそうと思えば、あらゆる悪事を犯すことになり、その上それなりの苦労をしなければなりません。一方、質素でもいいから悪事を犯したくはないと思う人は、さらにその何倍も苦労しなくてはならないのです。
どちらにしても、在家生活は苦労の多いものなのです。
食べ過ぎたオウムの話
Suka jātaka(No.255)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、あまりにたくさん食べ過ぎて、消化不良を起こし、そのために死んだ比丘について語られたものです。
彼がこのようにして死んだとき、講堂において比丘たちが彼の不徳について話し始めました。「友よ、ある比丘は自分のお腹に収まる分量を知らず、あまりに多く食べ過ぎて、消化できずに死んだのです。」そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はヒマラヤ地方のオウムの胎内に宿りました
彼は、ヒマラヤの山腹から海までに住む幾千のオウムの王となりました。彼には一人の息子がありました。その息子が力強くなったときには、菩薩の目は既に弱っていました。オウムは高速で飛ぶものです。それゆえにオウムが歳をとると、まず最初に目が弱くなると言い伝えられています。菩薩の息子は、父母を巣のなかに置いて、餌を運んできて養いました。
ある日のこと、彼が自分の縄張りに行って、山の頂上に立ち、遠くの海を眺めていると、一つの島を見つけました。そこには黄金色の甘い果実のなるマンゴーの林がありました。彼は翌日餌を採りに出かけるとき、(自分の縄張りを越えて)飛んで行ってそのマンゴー林に降り、マンゴー汁を飲んでからマンゴーの実を採って帰り、父母に与えました。菩薩は食べながら味を見分けました。
「おまえ、これは某島にあるマンゴーの実ではないか」と尋ねました。「そうです、お父さん」との答えに、「おまえ、あの島へ行くオウムは生命をながく保つことができません。二度とあの島へは行ってはいけないよ」と父は言いました。しかし息子は父の言葉に従わないで、行ってしまいました。
そんなある日、たくさんのマンゴー汁を飲んでから、父母のためにマンゴーの実を持って、海の上を越えて帰る途中、あまりに飽食したために、また長距離の運搬だったので身体が疲れ、眠気に襲われました。居眠りしながら飛んでいたので、せっかく持って来たマンゴーの実をくちばしから落してしまいました。彼は徐々に帰路をはずれて高度を落としてしまい、水面上にいたって遂に水の中に落ちました。そのとき彼を一匹の魚が捕らえて食べてしまいました。
菩薩は、彼が帰巣時間になっても戻って来ないので、「海に落ちて死んでしまったのだ」と悟りました。そして彼の父母は食物が得られないので、飢え死にしてしまいました。
お釈迦さまは以上のような過去のことを話されてから、悟りをひらいた人として、つぎの詩句を唱えられました。
飲食に関して
節度を守っているあいだは
その鳥は生き長らえ
父母も養っていた
しかし
余分に食物を摂ることに陥った彼は
徐々に高度を落とし
海に沈んだ
まさにそれは
適量知らずの定めである
ゆえに
適量を知ることは善い
食物を貪らないことは善い
適量を知らない者は沈み
適量を知るものは沈まない
お釈迦さまは、これらの話を語られて真理を説き明かされ、過去を現在にあてはめられました。(真理の説法が終わったとき多くの人々が、預流果の悟りに達した者、一来果の悟りに達した者、不還果の悟りに達した者、阿羅漢果の悟りに達した者となりました。)
「そのときのオウムの息子は食べ物の適量を知らない比丘であり、オウムの王は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
鳥たちにも動物たちにも、自分の餌をとるための縄張りがあります。その縄張りの範囲内で生活するならば、無事長生きすることができるのです。もしも余計な欲を出して縄張りを越えると、予測できない不幸に遭遇することは避けられません。ほとんどの動物たちは自分の縄張りを越えようとはしないのです。もし縄張りを越えてしまって死の危険にさらされたならば、それは適度を越えた欲か、無知のせいなのです。
人間にも幸福に人生をまっとうできるような縄張りがあるのです。しかし、人間にも縄張りがあることに気づく人はほとんどいません。動物の縄張りは地理的なものですが、人間の縄張りは地理的なものというよりも、精神的なものなのです。
やるべきこととやってはいけないこと、両方にリミットがあります。お金を稼ぐこと、楽しむことなどには、リミットがあるのです。無駄使いはやってはいけないことです。しかし、ケチになるほどであってはいけないのです。無駄話はいけないが、極端に寡黙になってしまうほど会話を慎む必要はありません。必要なことを必要なとき喋るように、リミットを守ればよいのです。強いて言うならば、人間にとっての「縄張り」とは、「道徳」を守った生活の範囲になるのです。道徳という縄張りを破れば、どんな不幸に遇うか分かったものではありません。このエピソードで語っている食事の節度を守ることも、仏教の大事な道徳の一つです。
カラスの話
Vīraka jātaka(No. 204)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、お釈迦さまの真似をした者について語られたものです。
長老たちがデーヴァダッタの仲間を奪還して帰ってきたとき、お釈迦さまはお尋ねになりました。「サーリプッタよ、あなたたちを見てデーヴァダッタは何をしたか?」「お釈迦さまの真似(※注)をして説法していました。」そこでお釈迦さまは、「サーリプッタよ、デーヴァダッタが私の真似をして破滅に至ったのは、何も今に限ったことではありません。前生においても、破滅に至ったことがあります」とおっしゃって、長老たちの求めに応じて過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、ヒマラヤ地方の水鳥の胎から生まれ、ある湖のほとりに住んでいました。名はヴィーラカと言いました。
当時、カーシ国に飢饉がありました。人々は食べ残しをカラスの餌として与えることも、神霊などに食物の供え物をすることも出来ませんでした。ほとんどのカラスは飢饉の国から逃れて森の中へ入り込みました。
そのころ、バーラーナシーに住む、サヴィッタカという一羽のカラスが、雌のカラスとともに、ヴィーラカの住んでいるところにやってきて、その湖の片隅に住みかを作りました。彼がある日その湖で餌を探していると、ヴィーラカが湖に降りてきて魚を食べ、再び出てきて身体を乾かしていました。それを見てサヴィッタカは、「あのカラスに頼って、私はたくさんの魚を得ることが出来るにちがいない。あのカラスに仕えよう」と考えて、彼に近づきました(彼は、水鳥のことを自分と同じカラスだと勘違いをしたようです)。ヴィーラカに、「なんの用ですか?」と問われて、「あなたにお仕えしたいのですが」と答えると「よろしい」と彼が承諾してくれたので、そのときから彼に仕えました。
ヴィーラカもそれ以来、自分に必要なだけを食べ終わると、魚をすくいあげてサヴィッタカに与えました。彼も、自分に必要なだけを食べると、残りを雌のカラスに与えました。そのうちに、サヴィッタカは高慢になって、「このカラスも黒いが、私も黒い。眼だって、くちばしだって、足だって、あいつのと私のとに何も違いはないのだ。これからは、あいつに魚をとってもらう必要はない。私が自分でとろう」と考え、ヴィーラカに近づいて、「これからは、私が自分で湖におりて魚をとりますよ」と言いました。「いや、あなたは水に降りて魚を取るように生まれついてはいませんよ。身を滅してはいけません」とヴィーラカに止められましたが、サヴィッタカはその言葉を聞き入れないで湖に降り、水中に入りました。しかし、浮かび上がろうとしても、水草をかき分けて出てくることが出来ず、水草のあいだにからまって、くちばしの先が見えるだけでした。彼はとうとう息が出来なくなり、水の中で事切れてしまいました。
一方、彼の妻は、彼が帰ってこないので、事情を知りたいと、ヴィーラカのところへやってきて、「サヴィッタカが見えませんが、いったいどこにいるのでしょう?」と尋ねて、第一の詩句を唱えました。
ヴィーラカよ
あなたは見かけたのですか
美しい言葉を語る
孔雀に似た頸を持つ
私の主人サヴィッタカを
それを聞いて、ヴィーラカは、「ええ、私は、ご主人のなれの果てを知っていますよ」と言って、第二の詩句を唱えました。
水中も陸上も自由に生きる
いつも生魚を食べる水鳥の
真似をしたサヴィッタカは
水草にからまり死に果てぬ
それを聞いて、雌のカラスは嘆き悲しんで、バーラーナシーへ帰って行きました。
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときのサヴィッタカはデーヴァダッタであり、ヴィーラカは実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
(※注)お釈迦さまの真似…デーヴァダッタは、お釈迦さまの義理の兄弟です。俗世間的に見るならば、お釈迦さまとデーヴァダッタは、ほぼ同じレベルの立場になるでしょう。釈迦族の他の親戚たちと共に出家したデーヴァダッタは、自分とお釈迦さまの間は、実際には天と地ほどの差があることを解りませんでした。仏陀の跡継ぎは自分しかいないと思いこんでいたのです。新米の比丘たち二百五十人を引き連れて、仏陀の代わりに指導していたのです。
仏道を歩む上で迷子になったこの比丘たちを連れ戻すように、サーリプッタ、モッガラーナの両尊者にお釈迦さまが命じました。両尊者が自分のところにやって来るのを見たデーヴァダッタは更に高慢になり、仏陀の真似をして、自分が途中まで話した説法の続きをサーリプッタ尊者に任せたのです。そしてその、サーリプッタ尊者の真の教えを聞いて、新米の比丘達の目が覚めたのです。結果として、デーヴァダッタは仲間を失ってしまいました。
仏陀に対して激しい敵意を持っていた四人の比丘(コーカーリカ、カタモーラカティッサ、カンダデーヴィヤープッタ、サムッダダッタ)がいて、この四人と組んでデーヴァダッタが仏陀の威厳に対して攻撃していたのです。
この失敗に激怒したこの四人は、デーヴァダッタを激しく殴り、致命傷を負わせたのです。このように大失敗して全てを失ったデーヴァダッタは、その後病気に陥り、亡くなったのです。
この物語の教訓
見かけが似ていても、それだけで同じだと思うことは問題です。カラスと水鳥はかなり似ていますが、全く能力は違います。
世間でも、他人の真似をして不幸になる人が後を絶ちません。権力者の使用人たちは、自分も同じ権力を持っているような錯覚に陥り、不正を働いて、その権力者も道連れにして一緒に破滅するのです。才覚もないのに金持ちの真似をすると、破産するか自殺することで人生は終わるのです。善人の真似をするつもりが、犯罪まで犯して地獄に墜ちるのです。
他人の真似をしたがるのは、空っぽの人です。真似する場合は、必ず自分より優れている人の真似をするのです。ですから、表面的に似ていることは、無知で高慢な人に勘違いを引き起こすのです。
チャレンジするべきなのは、優れた人と表面的に似ることではなく、性格、智恵、能力などの中身で似るようにすることです。
ムーラ・パリヤーヤ・スッタの話
Mūlapariyāya jātaka(No.245)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がUkkaṭṭha(ウッカッタ)の近くのSubhaga(スバガ)林に滞在しておられたとき、「Mūlapariyāya
sutta(ムーラ・パリヤーヤ・スッタ)」(※1)について語られたものです。
そのころ、三ヴェーダに精通した五百人のバラモンたちが、出家して仏道に入り、三蔵を学んで、慢心と驕慢に酔って、「正しく悟りをひらいた人も三蔵を知っているだけである。我々も三蔵を知っている。それならばブッダと我々とに、いったい何の区別があろうか」と言って、お釈迦さまの機嫌をうかがうこともせず、自分たちはブッダと同じだという顔をして、日を送っていました。
そんなある日のこと、彼らがやって来てお釈迦さまの近くに坐ったとき、お釈迦さまは、「ムーラ・パリヤーヤ・スッタ」を「八つの人格」(※2)に基づいて説き明かされました。しかし彼らは何一つ理解できませんでした。そのとき彼らはつぎのように考えました。「我々は、我々に比べうる智慧者はいないと自慢していた。しかし今、我々は何も理解できなかった。ブッダに比べうる智慧者はいない。ああ、ブッダの徳はなんと偉大であることか」と。それ以後の彼らは慢心がなくなり、牙を抜かれた蛇のように、従順になりました。師は好きなだけウッカッタに滞在し、Vesālī(ヴェーサーリー)に赴き、Gotamaka cetiya(ゴータマカ廟)で「ゴータマカ・スッタンタ」という経を説かれると、一千世界が震動しました。それを聞いて、これらの比丘たちは阿羅漢の悟りに到達しました。
「ムーラ・パリヤーヤ・スッタ」を説きおえてから、お釈迦さまがウッカッタに滞在しておられるあいだに、比丘たちが説法場において話を始めました。「友よ、ああブッダの威力のなんと偉大なことか。あのバラモン出身の比丘たちは、あのように慢心と驕慢に酔っていたが、世尊が“ムーラ・パリヤーヤ”をお説きになると、慢心をなくしてしまった」と。そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、ここに集って何の話をしているのか。」「これこれの話でございます。」そこでお釈迦さまは、「比丘たちよ、今だけではなく、以前にも私はこれらの慢心のため頭を高くして歩いていた連中を、改心させたことがある」と言って過去のことを話されました。
**********************
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はあるバラモンの家に生まれました。 成年に達して、三ヴェーダに精通し、世界的に有名な先生となって五百人の青年にヴェーダを教えました。これら五百人の青年たちは、学業を成し遂げ、学問に専心して、「先生が知っておられるだけ、我々も知っている。何の区別もない」と考えて、驕慢になり、学校(先生のもと)に行くこともなく、種々の義務を果しませんでした。
ある日、先生がBadarī(ナツメの木)(※3)の根もとに坐っていたとき、彼らは先生を愚弄しようと思い、木を爪でコツコツと叩いて、「この木には価値がない」と言いました。菩薩は自分が愚弄されていることを知って、「弟子たちよ、おまえたちに一つの質問をしてみよう」と言いました。彼らはたいへんに喜んで、「言ってください、お答えいたしましょう」と言いました。先生は質問を出してから、第一の詩句を唱えました。
あらゆる生類をも
自分自身をも 時は食べつくす
時を食べつくした者は
生類を焼くものを焼き尽した
その質問を聞いて、青年たちの中には一人もこれを理解できる者はありませんでした。そこで菩薩は彼らに言いました。「おまえたちは『この問題は三ヴェーダの中にあるものである』と考えてはなりません。おまえたちは、私が知っていることを全部知っていると考えて、私をナツメの木と同じものと見なしました。私がおまえたちの知らないことを、たくさん知っていることに気付かないからです。行きなさい、七日間の時間をあげましょう。この期間中にこの問題を考えなさい。」彼らは菩薩を礼拝して、各自の住居に帰り、七日間考えましたが、問題の終わりも、極限をも見いだせませんでした。彼らは七日目に先生のもとにやって来て敬礼して坐り、「諸君、問題が分りましたか」と尋ねられて、「分りません」と答えました。再度菩薩は彼らを叱責して、第二の詩句を唱えました。
沢山の髪の毛で飾られている
人間の頭だけは数多くあり
うつむいて首につながっている
耳を持っている者は誰もいないのか
と言って、これらの青年たちを、「おまえたち愚か者には耳の穴(※4)だけがあって、智慧がない」と叱責し、問題を解きました。彼らはそれを聞いて、「ああ、先生は偉大だ!」と言って、謝罪し、慢心をなくして、菩薩に仕えました。
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの五百人の青年たちは、現在の比丘たちであり、先生は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
(※1)Mūlapariyāya sutta(ムーラ・パリヤーヤ・スッタ)
中部経典の第一番目の経です。あらゆる思考の起源と、思考はどのように方向転換するのかという、二つのテーマに基づいた説法です。意訳すると、「基礎知識の基礎経」と言えるかもしれません。
(※2)「八つの人格」
凡夫から阿羅漢まで、人格を八つに分けて、それぞれの段階にある人がどのように同じデータを認識するのかという説明です。
(※3)Badarī
どこにでもある、ほとんど価値のない樹木の一つです。神木でもないし、珍木でもない。材木にもなりません。しかし、師が使用しているものが何であろうとも、それを軽視するのは、師に対する強烈な侮辱です。
(※4)耳の穴
昔の学問は、口伝で耳から学びました。ですから、耳の「穴だけ」があると言えば、学問する能力がないという意味になります。ちなみに、学者は bahussuta(多聞者)と言います。
この物語の教訓
師と同格になること、師を乗り越えることは可能なことです。何かを学ぼうとする者が、それについて師と同じ知識を得ようとするのは素晴らしいことです。能力があって、師の知識も乗り越えるならば、その生徒はその学問に多大な貢献をする者になります。しかし、怒りで、憎しみで、嫉妬心で、攻撃的に学ぼうとしても、人の役に立つ知識人にはなれません。このような性格の場合、学問が身に付くとは言い難いのです。
菩薩は、立派な師として自分が知っている全てを弟子達に学ばせたのです。正しい師は、知識を伝授することを惜しまないのです。弟子にとっては、良い師は自分の命と同じくらい価値ある存在です。一生尊敬の念を持ち続けるべきなのです。
このエピソードは、弟子としてあってはならない性格を説明しているのです。「知っているんだぞ」「卒業した」と驕慢になって、怠けてしまうと、知識の発展はその時点でストップするのです。そこから知識は衰えるのみです。菩薩は高慢にならず、生命についてさらなる真理を探し求めていたのです。菩薩は、「君等は私より偉いと思うならば、今私が考察している疑問に答えてみなさい」と一週間の時間を与えたのです。しかし、知識の探求を一日も怠らなかった師に、知識を得たと満足して高慢になった青年達が、太刀打ちできるはずもなかったのです。
時に焼かれて無限に悩んでいる生命が、どうすれば時を焼き尽くすことができるのかと探し求めた菩薩は、悟りをひらいてその答えを見つけたのです。
水牛と猿の話
Mahisa jātaka(No. 278)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、不躾な猿について語られたものです。
サーヴァッティーのある家で、一匹の猿が飼育されていましたが、その猿は象の小舎へ行って徳高い象の背中に坐って大小便をたれ、遊び戯れていました。象は善い性格と、忍耐力という徳をそなえていたために、何もしませんでした。そんなある日のこと、この象のかわりに別の悪い象の仔が立っていました。猿は、「これは例の象だ」と考えて、悪い象の背によじ登りました。そのとき、象は猿を鼻で捕らえ、地上に叩きつけて足で踏み潰してしまいました。
この出来事はサンガに知れわたりました。ある日、修行僧たちが説法場で話を始めました。「友よ、不躾な猿が、徳高い象の背であると考えて、悪い象の背に乗りました。そのとき象は猿を殺してしまいました。」そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、いま一緒に坐って何を話しているのですか。」「これこれの話でございます。」そこでお釈迦さまは、「比丘たちよ、この不躾な猿がこのような振る舞いをしたのは今だけではありません。昔もこのように振る舞っていました」と言って過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、ヒマラヤ地方の水牛の子として生まれました。
成年に達し、力をそなえ、山の麓・洞窟・山嶽・こえ難い密林のなかを彷徨って、とある快適な木の根を見つけ、餌を食べてから、昼間その木の根のところに立っていました。そこへ、一匹の不躾な猿が木から降りて来て、水牛の背に乗り、大小便をして、角をつかんで、ぶらさがり、しっぽをつかんで揺すり動かして遊びました。しかし菩薩は忍耐・慈愛・憐愍の情をそなえていたので、猿の狼藉ぶりを意に介しませんでした。猿は再三再四同じように振る舞いました。
するとある日、この木に住んでいた神が、木の幹に立って、彼に、「水牛の王よ、なぜあなたはこの悪い猿の侮辱に耐えているのですか。猿にやめさせなさい」と言って、その意味を説明しつつ、最初の二つの詩句を唱えました。
望みに応える人を擁護するが如く
軽薄で信頼を欺き屈辱を与える者を
堪え忍んで擁護することが
汝に何の意味があるのか
角で突き刺して殺したまえ
足で踏みつけて殺したまえ
悪しき者を処する者がなければ
愚か者の行為は
さらに増すであろう
それを聞いて、菩薩は、「木の神よ、もし私が、猿の生まれ・種姓・力等を蔑視し、その罪過を耐え忍ばないならば、どのようにして私の願望を成就させることができるのでしょうか。この猿は他の水牛も私と同じと思いこんで、同じように狼藉を働くでしょう。そこでこの猿が、常に怒りっぽい他の水牛たちにこんなことを仕掛ければ、猿はどのみち殺される羽目になるでしょう。その時私は、猿の屈辱からも殺生罪からも免れるでありましょう」と言って、第三の詩句を唱えました。
この者は
私だと思いこんで
他の水牛にも悪戯するでしょう
そのとき彼らは彼を殺すでしょう
私も自由になるでしょう
数日後に菩薩は別のところへ去りました。別の怒りっぽい水牛がその場所にやって来て立っていました。悪猿は、「これは例の水牛だ」と勘違いして彼の背に乗り、そこで狼藉を働きました。そこで水牛は猿を振り落して地上に叩きつけ、角で心臓を突きさして、足で踏みつけて粉々にしてしまいました。
師はこの法話をされて、真理を説き明かし、過去を現在にあてはめられました。「そのときの悪水牛はこの悪象であり、そのときの悪猿はいまの悪猿であり、徳高い水牛の王は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
■正義の味方の悲哀
誰でも正義の味方になりたがります。不正や犯罪などの悪いことを容認する人々は、それほど多くないのです。悪を嫌うことは、素晴らしいことです。悪を嫌って避ける考え方は、「正思惟」になります。悪を嫌う人こそ、善の道を歩む人です。
しかし、感情的に「私は曲がった事は大嫌いだ」と叫んでも、善人になるとは限りません。理性に基づいて悪を嫌うべきです。悪を嫌うという正思惟は、自分自身の人格を正すために必要不可欠な思考です。ところが、感情的な人は悪を嫌う気持ちだけで、自分が完璧で正しいと思いこむのです。それは正思惟ではなく、反対に「邪思惟」になります。自分のことは後回しにして棚に上げ、世直しに奮闘するのです。結局は人を裁いたり、責めたり、殺したりすることで忙しくなるのです。
人の行為が善か悪かを判断することは、落ち着きのない感情的な人に出来ることではありません。ですから、曖昧な判断で他人を責めることになるのです。そうなってしまうと、「曲がった事が嫌い」「正義感から」などと考えながら実際に行う行為は、罪そのものになります。さらにまずいのは、自分が正しいことをしたと信じ込んでいるので、犯した罪を反省して、罪から免れることもできなくなることです。木の神は正義の味方になれと勧めましたが、罪を犯したくない菩薩は断るのです。
仏教は人に善悪の区別を親切に教えてあげて、その人自身が善を行う手助けをします。しかし、「悪人を懲らしめる」という、余計なことはしないのです。
■人格者の道
道徳的に優れている人を、仏教では人格者と言います。俗世間では、高貴な生まれの人、お金がある人、知識がある人、権力者、そういう人々は一般人よりも優れていると考えられています。しかしこのような俗世間の人格者も、世の中からは攻撃の的になるのです。泥棒は金持ちの家に入る。マスコミは政治家や人気者を批判する。暗殺者は権力者を付け狙う。美人はストーカーされる。このように、優れた人はそうでない人に批判されたり、攻撃されたり、屈辱を受けたりするのです。
しかし本物の優れた人は、このような侮辱などはあって当たり前の出来事として受け止めて、落ち着いて行動するのです。報復しようとして自分の人格を汚すことはしないのです。自分はたまたま恵まれた状況に置かれているだけだと謙虚に理解して、他人に対していつも優しく憐れみ深く接するのです。差別思考などは、ひとかけらも起こさないのです。
これが、人格者が自己を守る方法です。それによって、さらに優れた人間になるのです。優れた人格を作りたいと励んでいた菩薩の水牛は、品格のない、性格の悪い、体力のない愚かな猿から受ける屈辱を、意に介することは全くしないで堪え忍んだのです。犬が人間を噛んでも、人間は犬を噛まないのです。
蛇を慈しむ話
Khandhavatta jātaka(No.203)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある比丘について語られたものです。
比丘が浴室の焚き口で薪を割っていると、腐った木の間から一匹の蛇が出てきて足の指を噛みました。彼はその場で死んでしまいました。彼がこのようにして死んだことは、サンガの中に知れわたりました。講堂では比丘たちがその話に花を咲かせていました。
「みなさん、これこれの比丘が、浴室の焚き口で薪を割っていて蛇に噛まれ、その場で死んだそうです。」そこへお釈迦さまがおいでになって、お尋ねになりました。
「比丘たちよ。何の話があって集まっているのですか。」
「実はこういう話がありまして…。」
「比丘たちよ、もしその比丘が四つの蛇王族に親切にしていたら、蛇は彼を噛みはしなかったろうに。ブッダが現われる前、昔の苦行僧たちは、四つの蛇王族に親切にして、それら蛇王族のために生じる恐ろしさを免れたのです」と言って過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国のバラモンの家に生まれ、成長して、諸欲を捨てて出家生活に入り、神通と禅定を修得して、ヒマラヤ地方のガンガー河が曲がる箇所に庵を作り、禅定の楽しみに耽りながら、仙人たちにとり囲まれて住んでいました。
その当時、そのガンガー河の岸には、さまざまな気味の悪い蛇がいて、仙人たちに危害を加え、ときには仙人たちが命を失ったりしていました。仙人たちは、このことを菩薩に告げました。菩薩は仙人たちを全部呼び集め、「もしおまえたちが四つの蛇王族を慈しむならば、蛇はおまえたちを噛まないだろう。だから、いまから四つの蛇王族をつぎのように慈しむべきである」と言って、つぎの詩句を唱えました。
ヴィルーパッカ蛇族に我が慈しみを
エーラーパタ蛇族に我が慈しみを
チャッビャープッタ蛇族に我が慈しみを
カンハーゴータマカ蛇族に我が慈しみを
このように四つの蛇王族を挙げて、「もしおまえたちが、彼らを慈しむことができるなら、蛇はおまえたちを噛みもせず、困らせることもないだろう」と言って、第二の詩句を唱えました。
無足のものに我が慈しみを
二足のものに我が慈しみを
四足のものに我が慈しみを
多足のものに我が慈しみを
このように、肉体の形状で分別して慈しみを実践する方法を示してから、今度は個人の祈願に基づいて慈しみの冥想を示し、つぎの詩句を唱えました。
無足のものは私を悩まさないように
二足のものは私を悩まさないように
四足のものは私を悩まさないように
多足のものは私を悩まさないように
続いて(対象を)特定しない形で、遍く慈しみを実践する方法を示して、つぎの詩句を唱えました。
一切衆生 一切有情 一切存在
余すところなく幸福でありますように
いかなる災いも来ないように
このように、「すべての有情を、差別無く慈しむように」と教示し、さらに三宝の徳を憶念させるために、
仏陀(の徳)は無限である
法(の徳)は無限である
僧(の徳)は無限である
と示しました。三宝の徳は計り知れない、無限である。しかし、有情の持つ徳は有限である。これを示すために、
爬虫類(の力)は有限である
蛇、サソリ、ムカデ、クモ、トカゲ、ネズミ(の力)も
と言いました。このように、菩薩は、「これらの生きものには、こころに怒り等の煩悩があるので、力は有限である」ということを示し、「三宝の無限の力によって、有限な力を持つ生きものたちから、日夜我が身が守られる」と言い、「三宝の徳を憶念せよ」と説きました。そして、さらに行うべきことを示すために、つぎの詩句を唱えました。
私の護衛は定めた
護囲を定めた
もろもろのものは退散せよ
私は世尊に敬礼します
正覚者七人に礼拝します
このように菩薩は、「礼拝をして、七人のブッダを憶念せよ」と仙人たちにこの言葉を与えました。それ以来、仙人たちは菩薩の教えを守って、すべての有情を慈しむことにつとめ、ブッダの徳を憶念しました。このようにして、彼らがブッダの徳を憶念しているかぎり、爬虫類は退散しました。菩薩も四つの崇高な境地である「慈・悲・喜・捨」を修習して、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの仙人たちは現在の仏弟子たちであり、仙人たちの師は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人間にとって犬はとても可愛いものです。人間の最高のパートナーとも言われているものです。犬は、そう思われていることなど知らないのですが、決して人間の気持ちを裏切ることはないのです。やはり、犬のほうも人間のことを好きみたいです。猫に対しては、人間は別のアプローチをします。番犬のようにはなってくれないことを確かに知っていますが、可愛らしく遊んでくれれば、それで大満足です。人間と約束を交わしたことはないが、猫も見事に応じてくれるのです。人間に甘えさせてもらうことしか猫はしないのです。ペットとしてどんな動物を飼ってみても、彼らが飼い主の気持ちに沿うのは不思議な現象です。
蛇は嫌い、熊もライオンもヒョウも恐いと、殆どの人が思っています。その動物たちが、人間に悪さをしているわけでもないのに…。もし人が恐怖感を抱いている状態で、その動物のうちのいずれかに遭遇する羽目になったら、想像通りの恐い結果になるのです。海の凶暴者、シャチは、人間にしてみれば可愛いのです。シャチも、人間に対しては同じ気持ちなのです。しかし、鮫は凶暴だと人間がきめつけているので、鮫には気をつけた方が良いのです。だからと言って、鮫がところ構わず人間を攻撃しているわけではないのですが…。
生命との関係は、自分の気持ち次第です。蛇のみならず、一切の生命に慈しみを育てると、絶対的な安全の確保ができるのです。
悪戯好きの話
Keḷisīla jātaka(No.202)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、Lakuṇṭakabhaddika(ラクンタカバッディカ)長老について語られたものです。
この長老は美声の持主で、説法がうまく、特別な能力を具えた大阿羅漢の境地に達し、仏教界では有名な人でした。しかし、八十大弟子のなかで一番背が低く、まるで沙弥のように小さく、戯れられるために生まれてきたかのようでした。
ある日、彼が如来を礼拝してから、ジェータ林(祇園精舎)の境内のところへ行くと、地方に住む三十人ほどの比丘が、「十力者(お釈迦さま)を礼拝しよう」とジェータ林に入ってきて、僧院の境内のところで長老を見かけ、「あいつは沙弥だな」と思い込んで、長老の衣の裾をとったり、手を掴んだり、頭を捉まえたり、鼻を摘んだり、両耳を引っ張って揺り動かしたりして、ちょっかいを出してからかいました。
それから、鉢と法衣を整えてお釈迦さまに近づいて礼拝し、腰を降ろしました。お釈迦さまとの穏やかな会話が終わったとき、彼らは尋ねました。
「尊師よ、釈尊のお弟子の一人に、ラクンタカバッディカとかいう方がいらして、巧みに法話をされるということでございますが、今、どこにおいでになりますか。」
「比丘たちよ、おまえたちは会いたいと言うのですか。」
「はい、さようでございます。」
「比丘たちよ、おまえたちが境内のところで出会って、法衣の裾などをとり、からかって遊んできたのがその人です。」
「尊師よ、そのように誓願に誓願を重ねて、八十大弟子の資格を持つお弟子が、どうして、威厳に欠けて生まれついたのでございますか。」
お釈迦さまは、「自ら犯した罪のためです」とおっしゃり、彼らの求めに応じて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は神々の王サッカでありました。
当時、ブラフマダッタ王に、老い衰えた者は、象であれ、馬であれ、牛であれ、見せることは出来ませんでした。王は悪戯好きであったので、そのような者を見ると、あとを追わせ、古ぼけた車を見ると、打ち壊させました。年老いた女たちを見ると、呼びつけてその腹を打たせ、倒させたり、また立たしたりしておびえさせました。年老いた男たちを見ると、曲芸師のように地面を回転するなどの芸をさせました。老人が見当らないときには、「これこれの家には老人がいるそうだ」と聞くと、呼びつけて楽しみました。人々は恥じて、自分の父母を国外に送り出しました。母への孝養、父への孝養は跡を絶ってしまいました。王の家来たちも悪戯好きでした。
死者たちは次々に四つの苦界(四悪趣)を満たし、天界の人々は減少しました。サッカは、新しく天界に生まれてくる者を見かけないので、「いったい、どういうわけなのだろう」と考えたすえに、王の悪戯に気がついて、「ひとつ彼をしごいてやろう」と思いました。
あるお祭の日、ブラフマダッタ王は飾りたてた象に乗って、飾りたてられた町を右から巡回していました。そのときサッカは老人の姿に身を変えて、古ぼけた車に乳清(醗酵乳)の入った壺を二つのせ、二頭の年老いた牡牛をつなぎ、ぼろの着物をまとって、車を御しながら、王に向って近づいて行きました。
王は古ぼけた車を見て言いました。「あの車をどけろ。」「王様、どこにあるのでございますか?わたしたちには見えません。」神々の王サッカは自らの神通力によって、王だけにしか姿を見せなかったのです。サッカは王のすぐそばに近づくと、王の上方に車を駆って、王の頭上で一つの壺を打ちこわし、引き返して二つめの壺を打ち割りました。すると王の頭から、ここかしこに乳清が流れ落ちました。王はそのために、困惑し、羞恥し、嫌な思いをしました。
王がこのように困りはてたのを知って、サッカは車を消して、サッカの姿をあらわし、金剛杵を手にして空中に立って言いました。
「悪者よ、悪王よ、おまえだけが歳をとらないなどということがありえようか? 老いがおまえの身体には襲いかからないとでもいうのか? 悪戯好きとなっておまえは年寄りを苦しめている。おまえ一人のために、このように年寄りたちは苦しめられて、死んでいった者は次々に苦界を満たしている。人々は父母を養うことも許されないでいる。もしおまえがこういうことをやめないのならば、わしは金剛杵でおまえの頭を打ち砕くぞ。これから決してこのようなことをしてはならない。」
こう言っておどかして、父母の徳を述べ、年長者を敬う行為の功徳を説き教えて、サッカは自分の住居に帰っていきました。王はそれ以来、そのような行為をする気を起こしませんでした。
お釈迦さまはこの過去の物語をされて、悟りをひらいた人として、次の詩句を唱えられました。
身体の大小に関わらず
白鳥・鴨・孔雀・象・鹿
また他の生きものたち
みな獅子を怖れる
同じく 人間においても
たとえ青少年でも
賢者こそが偉大である
愚者は体格が大きくても
偉大にはならない
お釈迦さまはこの法話をされて、真理を説き明かされ、過去を現在にあてはめられました。真理の説明が終わったとき、比丘たちのある者は預流果の境地に達し、ある者は一来果の境地に達し、ある者は不還果の境地に達し、ある者は阿羅漢果の境地に達しました。
「そのときの王は、ラクンタカバッディカであった。彼はその悪戯好きな性質のために、他人の悪戯の的になって生まれてきたのである。そして、サッカは実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
面接試験を受けに行く場合は、身なりを整えて行かないと、試験官はあなたの履歴書に目を通すこともなく不合格にするでしょう。代わりに、身なりは良いが能力のない受験者のほうを採用し、会社にとっては悩みの種となるでしょう。人間の容姿はさまざまです。大柄も小柄もいる。障害者も健常者もいる。美男美女だけでなく不細工な人もいる。無知な人は外面的なかたちにこだわって、不幸になるのです。重要なのは、人の役に立つ知識や能力を持っていることです。歳さえも関係ないのです。ラクンタカバッディカ尊者は、輪廻の中で固い誓願を立てて修行を積んで、天才的な能力を持って生まれて、解脱を得るのです。仏陀の八十大弟子の一人として認められることに、容姿は何のハンディにもならなかったのです。
誰にとっても、悪戯をやらかすことは気持ちよく感じるものです。悪戯をすることで簡単に楽しめます。人が楽しんで何が悪いかと思うのは、一般的な感情かもしれません。しかし、自分が楽しむために誰かが不幸を味わう結果になるのです。この物語の王は、年寄りをいじめることが楽しかっただけなのです。悪気はなかったのです。しかし形がどうであろうとも、他人に迷惑をかけることは罪なのです。
ソーマダッタの話
Somadatta jātaka(No.211)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、長老ラールダーイ(『とんちんかん』という意味で付けられたあだ名と思われます)について語られたものです。
彼は、ほんの二・三人の人々の前でさえ、一言も話すことが出来ませんでした。大変なあがり症で、「こう話そう」と思っても、別のことを話してしまうという始末でした。ある日、比丘たちは説法場でそういう彼のことを話題にして坐っていました。そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、なんの話があってあなたたちはここに坐っているのですか?」「これこれこういうわけでございます。」そこでお釈迦さまは、「比丘たちよ、ラールダーイがたいへんなあがり症なのは、今に限ったことではない。前生においてもそうだったのだ」と言って過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国のあるバラモンの家に生まれ、成長してから、タッカシラーで技芸を学び終え、再び家に帰ってみると、父母が貧しくなっているのを知りました。「衰退した家を再興しよう」と両親に願い出て、彼はバーラーナシーに行き、王に仕えました。彼は王に大変気に入られました。
一方、彼の父は二頭の牛を使って耕作を行ない、生計をたてていましたが、そのうちの一頭が死んでしまいました。彼は菩薩である息子ソーマダッタのところへ行って、「息子よ、牛が一頭死んでしまって、耕作がうまく行かない。王様に牛を一頭お願いしておくれ」と言いました。「お父さん、私は先刻王様にお会いしたばかりです。だのに今また牛をお願いしに行くのは相応しくありません。ご自分でお願いしてください。」「息子よ、おまえは私が大変なあがり症であることを知らないのだ。私は二・三人の前でさえも話をすることができない。もし私が王様のところへ牛をお願いにでかけたら、残ったこの牛さえ差しあげてきてしまうだろう。」「お父さん、それならそれで結構です。とにかく私が王様にお願いすることはできません。しかし、私はあなたに稽古をつけてあげましょう。」「そうか。それはよい。私に稽古をつけておくれ。」息子は父をつれて、ビーラナ草の茂っている墓地に行き、あちこちに草を縛って束にしたものを置き、「これは王様。これは皇太子。これは将軍」と名前をつけて、順々に父に示し、「お父さん、あなたは王様のところへ行って、『王様万歳』と言ってから、つぎのような詩を唱えて、牛をお願いしてください」と言って、詩句を教えました。
大王よ 私に二頭の牛があり
それで田を耕しておりました
王よ その一頭が死にました
第二の牛をお与えください 王よ
バラモンは一年かかって詩を暗記して、息子に言いました。「ソーマダッタよ、私は詩をよく憶えた。今ではそれを誰の前でも唱えられる。私を王のところへつれて行っておくれ。」「いいでしょう、お父さん」と言って、彼はしかるべき贈物を持たせて、父を王のところへつれて行きました。バラモンは、「王様万歳」と言って贈物を差しあげました。王は、「ソーマダッタよ、このバラモンはおまえの何なのか?」と尋ねました。「私の父でございます。大王様。」「なんのために参ったのだ?」この瞬間、バラモンは牛を願うための詩を唱えました。
大王よ 私に二頭の牛があり
それで田を耕しておりました
王よ その一頭が死にました
第二の牛をお受け取りください 王よ
王はバラモンが間違えて唱えたことに気がつき、微笑んで、「ソーマダッタよ、おまえの家にはたくさんの牛がいるようだね」と言いました。ソーマダッタは、「きっと、あなたさまから頂戴したものでございましょう」と言いました。王はそういう菩薩が気に入り、バラモンに十六頭の牛と、その装身具と、住むべき村とを彼への引出物として与え、非常な栄誉をもってバラモンを送り出しました。バラモンは真白な駿馬のひく馬車に乗り、大勢の従者をつれて村に向かいました。菩薩は父とともに馬車に乗って行く道すがら、「お父さん、私はまるまる一年というもの、あなたの訓練におつきあいしました。でも大切なときに、あなたは牛を王様に差し出しましたね」と言って、第一の詩を唱えました。
ビーラナ草の茂みでまる一年
怠らず 訓練して
なのに人の前で 言い間違えた
智慧の浅い人に 決めごとは守れない
すると彼の言葉を聞いて、バラモンは第二の詩を唱えました。
ソーマダッタよ
物を乞う人が 至る運命は二つです
財を得るか 或いは何も得られないか
物を乞うとは そういうことです
お釈迦さまは、「比丘たちよ、ラールダーイはいまに限ってたいへんあがり症だったのではない。前生においてもたいへんなあがり症であった」とこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときのソーマダッタの父はラールダーイであり、ソーマダッタは実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
ラールダーイ長老は、あがり症がひどかったようです。人の前で適切な言葉を語ることができなかったのです。しかし出家生活をする上では、多種多様な人々と関わることになります。出家は自分が関わる人の社会的な立場、理解力レベルを配慮して、対応しなくてはいけません。知識人であろうが、農民であろうが、王であろうが、乞食であろうが、人は誰でも善悪を分別して善を行う生き方をしなくてはなりません。全ての人に、善悪判断して道徳的な生き方ができるようなアドバイスをすることは、比丘の仕事です。
人の前で上がってしまって、何もしゃべれない場合は、比丘としては困ったことになります。また、適切な言葉を使わないと、人の性格を正すことはできないのです。言葉を間違えたら、人を正すどころか相手を怒らせて、さらに間違った道へ追いやることになりかねません。TPOに応じて話せないことは、比丘としては無視できない大問題です。
だからといって、生まれつき能力が備わっていない人に、強引にその能力を育てるように勧めても、それは徒労に終わります。勉強できない人に学者になることを勧めたり、体力のない人をスポーツ選手に仕立て上げるようなことは、やめた方がいいのです。何か能力が欠けている場合は、周りの人々は問題が起こらないように、その人に対して慈しみをもって、庇護しなくてはいけないのです。
人は全能になる気持ちをやめて、持っている能力を活かせるようにすれば、自分も他人も幸福になるのです。
兄弟ブタの話@
Tuṇḍila jātaka(No.388)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、死を恐れたある比丘について語られたものです。
彼は、サーヴァッティーに住む名家の子で、ブッダの教えに従って出家しましたが、非常に死を恐れていました。ほんのちょっとした木の枝のざわめきや、棒の倒れる音、鳥や獣の声、あるいはそのほかの似たような音を聞いては、死の恐怖に苛まれて、まるで腹部を傷付けたウサギのように、震えながら走ったということです。
比丘たちは、講堂で話を始めました。「友よ、ある比丘が死を恐れて、ほんのちょっとした音を聞いても、震えて逃げるそうだ。この世においては、生きとし生けるものにとって死は必然であって生命は無常である。そもそもこのことは、根本的に心すべきことではあるまいか。」そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、何の話をするために、今集まっているのか。」「これこれの次第でございます」と言われて、お釈迦さまはその比丘を呼んでこさせました。「おまえは死を恐れているそうだが本当か。」「さようでございます、尊師よ。」その事実にもとづいてお釈迦さまは、「比丘たちよ、今ばかりではなく、過去においても彼は死の恐れに苛まれたことがあるのだ」と言って過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は牝ブタの胎に宿りました。牝ブタは月が満ちて、二匹の子を産みました。
ある日のこと、牝ブタは子ブタをつれて、とある穴のなかに寝そべっていました。そのとき、バーラーナシーの城門に近い村に住んでいる一人の老婆が、綿畑から綿を籠一杯つみ取って、杖を地面に突きながら帰ってきました。牝ブタはその音を聞いて死の恐怖に襲われ、子ブタをそこに棄てたまま逃げて行ってしまいました。老婆は子ブタを見つけて、息子であるかのような想いを抱き、子ブタをかごに入れて家へつれ帰り、兄をマハートゥンディラ、弟をチュッラトゥンディラと名づけて、自分の息子のようにして育てました。二匹のブタは、その後、すくすく成長して大きな身体になりました。老婆は、「こいつらを売って金にしないか」と言われても、「私の可愛い息子なんだから」と言って決して手離そうとはしませんでした。
さて、ある祭礼のときのことです。博奕打ちたちが酒を飲んで、肉がなくなってしまったとき、「どこかから良い肉が手に入らないか」と考えました。彼らは老婆の家にブタがいることを知り、代金をもってそこへ行って、「婆さん、お金を受けとって、ブタを一匹俺たちにくれよ」と言いました。老婆は、「おまえさん、我が子を食肉用として売り渡す母親がこの世に居るとおもいますか、ばかばかしい」と拒みました。博奕打ちたちは、「婆さんよ、息子と呼んでいても、所詮はブタだ。人間じゃないぜ。俺たちにゆずっておくれよ」と何度も頼みましたが、手に入れることができませんでした。そこで老婆に酒を飲ませ、酔った頃を見計らって、「婆さんや、ブタなんか飼って育てても、何の役にも立たんよ。金に替えて、何か好きなものを買いなよ」と言って老婆の手にお金を握らせました。
老婆は金を受けとって、「あんたたち、いくらなんでもマハートゥンディラだけは絶対にやらないよ。どうしてもというなら、チュッラトゥンディラの方を連れて行きな」と言いました。「そいつはどこにいるんだい?」「あの子は、そこの藪のなかにいるよ。」「そいつに声をかけておくれよ。」「今ちょっと餌がないんだよ」と老婆が言うと、博奕打ちたちは早速お金を出して、ご馳走の餌を買ってきました。老婆はそれを受けとり、戸口にあるブタの餌桶を充たして、その餌桶のそばに立ちました。三十人ばかりの博奕打ちたちも、縄を手にして同じように立っていました。老婆は、「ほうれ、チュッラトゥンディラや、おいで」とブタに声をかけました。それを聞いてマハートゥンディラは、「これまで私のお母さんは、チュッラトゥンディラに声をかけたことはなかった。いつもは先に私のほうを呼んだものである。今日はきっと私たちに恐ろしいことが起るだろう」と思いました。兄は弟に話しかけて、「弟よ、お母さんが呼んでいるぞ。すぐに行って見ておいで」と言いました。
弟は藪の中から出て行きましたが、餌の木桶のそばに博奕打ちたちが待ち構えているのを見て、「今日私は殺されてしまうんだ」と思い、死の恐怖におののいて逃げ出し、身震いしながら兄の前に戻ってきました。しかし、身を震わせてよろめき歩き、しっかりと立っていることができませんでした。マハートゥンディラは弟を見て、「弟よ、今日おまえは動揺して歩き廻りながら、入口の様子ばかりを窺っている。いったいどうしてそんなふうにしているんだ」と尋ねました。弟は自分が見てきたことを話して、詩句を唱えました。
今日 ご馳走の餌で
餌桶は充たされ
母はそばで見守っている
されど 投げ縄を持った人が多数いる
食べる気持ちは消えうせた
(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓 ……恐怖
恐怖感は全ての人間にあります。人間だけではありません。すべての生きとし生けるものに、恐怖感があるのです。恐怖感に苛まれて困っている人もいるのですが、しかし恐怖感が全く消えてしまったら、どういうことになるかとは考えたこともないのです。かえってそれは、考えられないのです。恐怖感から完全に解放された生命などいませんから、そうなったときの開放感がどのようなものかと推測さえもできません。
様々な恐怖感があります。試験に落第したら、就職できなかったら、リストラになったら、癌に冒されたら、伴侶が浮気したら、子供が非行に走ったら、家に強盗が入ったら、云々。このリストは限りなく続くのです。一つ一つの恐怖感を取り除く対処法を探そうとするかもしれませんが、そんなものはないと思ったほうがよいのです。無限の恐怖感に、無限の対処法が必要です。
無限に広がる恐怖感を生み出す大もとがあります。それは、死の恐怖感です。生命は死にたくないのです。何としてでも死だけは、避けたいのです。幸福で生き続けるために、人間と他のすべての生命が行っている一切の行動は、元はといえば、死を避ける行為です。宇宙探検も、科学発見も、文学や芸術も、残酷な殺戮を行う戦争も、愚かな人間が死を避けるためにやっているのです。死は必ず訪れると皆聞いたことはありますが、それがわが身にも降りかかって来るとは決して思いません。認めないのです。だから人間の生き方は、矛盾から始まって矛盾で終わるのです。戦争を起こしたら敵も味方も両方とも死ぬとわかっていながら、「平和のために、皆の命を守るために」戦うのです。平和のために平和を壊す。十人を殺した殺戮者を正義に目覚めさせるために、百人を殺して脅すのです。人は長生きするために猛毒を飲むような生き方をしているのです。死の恐怖感を正しく理解しない限り、人の行為は全て矛盾なのです。
兄弟ブタの話A
Tuṇḍila jātaka(No.388)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
死の恐怖に苛まれた比丘についてお釈迦さまが語られた物語です。あるお婆さんが森で子ブタ二匹を拾って、我が子のように愛情いっぱい注ぎ、育てました。ブタといえば食用の家畜動物ですが、このお婆さんには「うちの息子二人」という感じしかなかったので、決して手放そうとはしませんでした。ところがある日、博奕打ちたちが老婆に酒を飲ませ、酔わせたところで弟ブタのチュッラトゥンディラの方を売る承諾を得ました。ご馳走を餌桶に入れ、ブタを呼びました。投げ縄を持って待ちかまえていた人を見たブタは、恐怖感に覆われて、何も食べずに兄の元へ逃げたのです。自分が脅え震えている訳を兄に聞かれて、このように詩句で答えました。
今日 ご馳走の餌で
餌桶は充たされ
母はそばで見守っている
されど 投げ縄を持った人が多数いる
食べる気持ちは消えうせた
(前号から続きます)
それを聞いて菩薩(兄ブタのマハートゥンディラ)は、「弟チュッラトゥンディラよ、お母さんがこれまでブタを養っておられたその目的が、まさに今日達せられるのだ。おまえは何を悩んでいるのか」と言って、朗々とした声でブッダのように真理を語り、二つの詩句を唱えました。
震えるのか、うろうろするのか、
避難場所を求めるのか。
逃げ場はない。君はどこへ逃げるのか。
チュッラトゥンディラよ、
落ち着いてただ食を摂れ。
肉のために飼われたのだから。
全ての汗と垢を清澄な湖で洗い流せ。
消えることがない新芳香で自己を飾れ。
兄が「十のpāramitā」(十波羅蜜)を思い起こし、その中の「mettā
pāramitā 慈悲波羅蜜」を念頭において最初の詩句を唱えたとき、その声は十二ヨージャナ離れたバーラーナシーの都まで響き渡りました。それを聞くやいなや、王や副王などを始めとして、バーラーナシーの住民すべてが出てきました。出てくることができない者も、家に居ながら耳を傾けました。王の家来は、藪をとり囲んで地面を平坦にならし、砂を撒きました。博奕打ちたちの酔いは醒め、縄を捨てて教えを聞こうと立っていました。老婆もまた、酔いが醒めてしまいました。
菩薩は大衆の中央に進み出て、チュッラトゥンディラのために教えを説き始めました。それを聞いてチュッラトゥンディラは、「私の兄はこのように語る。しかし蓮池に入って沐浴し、身体から汗と汚れをとり去り、新しい香油をつけることは、どんなときでも私たちの習慣ではあり得ない。いったい、兄は何故にこのように言ったのであろうか」と問いながら、第四の詩句を唱えました。
清澄な湖とは何ですか。
汗と垢とは何ですか。
消えることがない、
新芳香とは何ですか。
それを聞いて菩薩は、「それでは耳を傾けて聞きなさい」と言って、二つの詩句を唱えました。
清澄な湖とは法である。
罪は汗と垢である。
戒こそは新芳香であり、
その香は尽きることなし。
殺す者は歓喜して殺す。
殺される者には歓喜はあらず。
祝祭日の夜の円かな月の如く、
人は歓喜して命を捨てる。
このように菩薩は朗々とした声で、ブッダのように法を説きました。大衆は拍手を響かせ、上着を振り回し、称讃の声を大空に轟かせました。
バーラーナシーの王は、菩薩に王位の勲章を与え、老婆にも財産を与えました。王は、二匹のブタを香水で入浴させて衣服を着せ、首に花鬘を飾らせました。そして都へつれて帰り、我が子のようにして多くの従臣もつけました。菩薩は王に五戒を授け、またバーラーナシーの住民とカーシ国の住民すべてに戒を守らせました。菩薩は、彼らのために斎日には法を説き、裁判所に坐って裁判を行ないました。彼がその地位にあるあいだは、偽りの訴訟ごとをおこす者は、まったくありませんでした。
その後、間もなく王は亡くなりました。菩薩は、大葬の礼を行ないました。彼は、裁判所で裁判した事件の記録を整理して、一冊の書物にまとめ、「この本を調べて裁判を行なうように」と言って大勢の人々に教えを説き、怠らないようにと訓戒しました。そうして皆が泣き悲しむうちに、チュッラトゥンディラとともに、森へ帰って行きました。
その後、菩薩の教誡は、六万年のあいだ行なわれ続けました。
お釈迦さまはこの話をされて真理を明らかにされ、過去を現在にあてはめられました。(真理の説法が終わったとき、死を恐れていた比丘は、預流果の悟りに達しました。)「そのときの王はアーナンダであった。チュッラトゥンディラは死を恐れた比丘であり、会衆はブッダの会衆であった。マハートゥンディラは実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人は生まれて死ぬ。何をして生きていても全て死で終わるのだと、智慧のある人は覚悟して生きるのです。しかし普通の人は、「我は不死なり」という態度で生きているのです。そう考えている人々は、人生の荒波を乗り越えるどころか、ちょっとしたさざ波に出会っただけで大混乱に陥るのです。脅えて震え、うろつくのです。食べて遊んで贅沢をして楽に生きるために、全ての力を費やすのです。生きている間獲得した全てのもののみならず、大事に守ってきた自分の身体さえも、最後には失うのです。だのに、確実に来る死を迎える準備は、全くしようとしないのです。ですから、人にとって嫌なものといえば、それは死なのです。避けたいものは、死です。恐いものも死です。不幸とは、すなわち死なのです。死体さえも恐いのです。仏教からみると、これは本末転倒の感情なのです。反対に死を認める人は、諸々の悪で心を汚さず清らかな心で、常に平安と安穏な気持ちで生きていられるのです。
死は確実だと言うために、また生きることに執着することはいかに無意味かを示すために、このエピソードの配役はブタに委ねられているのです。我が子のように育てても、ブタの運命は決まっています。殺されて食べられるのです。ただその目的のために育られたブタには、楽しく死ぬしか他の選択肢はありません。どうせ殺されるなら、泣いたりわめいたりしても何の得にもなりません。それは生に対する叶わない執着なのです。執着が強ければ強いほど、死は苦しいのです。これはブタを殺して美味しく食べてもいいという意味の話ではありません。ブタは、一切の生命の代役です。「私」です。
「私」がどうしても死ぬのならば、財産・権力・名誉などを獲得するために、死にもの狂いで頑張るべきでしょうか。仕事のために命を捨てるべきなのでしょうか。どんな成功を収めても、全ては無に帰すのです。道徳的で善い人間になって、心の平安を獲得しておけば、それだけは永遠にのこるのです。
古井戸の話
Jarudapāna jātaka(No.256)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティー在住の商人たちについて語られたものです。
商人たちはサーヴァッティーで商品を仕入れ、車に満載し、商売をするために出かけるとき、如来を招待しました。大布施を行ない、帰依して戒を保ち、お釈迦さまに礼拝し、「世尊よ、わたしたちは商売のために長い道中を参ります。商品を売って成功し、無事に帰って参りましたら、ふたたび世尊にご挨拶申し上げましょう」と言って、旅立ちました。商人たちは難路を行く途中で、古井戸を見つけて、「この井戸には水がない。しかし我々はのどが渇いている。この井戸を掘り下げてみよう」と言って、掘っている間に、相次いでたくさんの鉄や瑠璃等を手に入れました。商人たちはそれで満足して、その財宝を車に満載し、無事にサーヴァッティーに帰って来ました。商人たちは持って来た財宝を収蔵し終わって、「わたしたちは成功した。お釈迦様に食物を捧げよう」と思い、如来を招待し布施を行った後、礼拝して片隅に坐り、自分たちが財宝を得た様子をお釈迦さまにお話ししました。お釈迦さまは、「あなたたちウパーサカ(男性信者)は、その財宝で満足し、適量を知っていたので、財宝も楽な生き方も手に入れたのです。しかし昔、満足せず、適量をわきまえず、賢者の言葉にも従わないで生命を失った者がありました」と言われ、商人たちに乞われて、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はバーラーナシーで商人の家に生まれました。やがて成年に達して、隊商たちの長となりました。彼はバーラーナシーで商品を仕入れ、車に満載して、たくさんの商人をつれて、その同じ難路に差し掛かり、その同じ井戸を見ました。そこでそれらの商人たちは、「水を飲もう」と言って、井戸を掘っているうちに、相次いでたくさんの鉄等を手に入れました。彼らは財宝をたくさん手に入れたにもかかわらず、それに満足しませんでした。「ここには他に、これよりも素晴らしいものがあるであろう」と言って、いま一層深くその井戸を掘りました。そのとき菩薩は商人たちに言いました。「さあ、商人たちよ、貪欲というものは破滅の根源です。わたしたちはすでにたくさんの財宝を得ました。これだけで満足すべきです。掘り過ぎてはいけません。」商人たちは菩薩に制止されたにもかかわらず、なおも掘り続けました。しかしその井戸には竜が棲息していました。そのとき、その井戸の下に住んでいた竜王は、自分の宮殿がこわされ、土塊や塵芥が落ちて来たとき、怒って、菩薩を除くすべての商人を一人残らず鼻息で打ち殺してしまいました。彼は竜宮から出て来て、車を仕立てさせ、財宝全部を満載し、菩薩を乗り心地のよい車に乗せ、若い竜たちに車をひかせて、菩薩をバーラーナシーに案内して家に入らせた後、財宝を順序良く収蔵させて、自分たちの竜宮に帰って行きました。菩薩は財宝を売り、たとえば鋤で畑を掘る場合は余すことなく掘るように、インド全土に遍く布施をし、戒を受けて斎戒を行ない、やがて生命が終わったとき、天界に生まれました。
お釈迦さまはこの過去のことを話されてから、悟りをひらいた人として、つぎの詩句を唱えられました。
水を欲して 古井戸を掘る商人たちが
鉄・銅・すず・鉛を掘り当てた さらにたくさんの
金・銀・真珠・瑠璃も掘り当てた それでも満ち足らず
さらにさらに掘り続けた商人たちは
猛毒をもつ蛇王の
威厳の炎によって 忽ち死滅した
だから掘りなさい
掘り過ぎはやめなさい
掘り過ぎは罪である
掘る者は財を得る
掘り過ぎは破綻する
お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの竜王はサーリプッタであり、隊商の長は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
「知足」は、仏教では大事な概念です。幸福を目指す人々は、人生設計するとき、知足という土台の上に構築するものであるということを、決して忘れてはならないのです。「頑張ればいくらでも儲かる。金はいくらあっても良い」などという考え方は、全くの本末転倒なのです。いくらでも儲かるんだといって、あらゆるものに手を出すと、何一つ管理できなくなるのです。商売繁盛どころか、大赤字を抱えたあげく破綻するのです。自分の能力のレベルと目的をわきまえてから商売する人は、成功するのです。その人は自分の夢を叶えて、豊かに生きることができるのです。
仏教が、欲を「破滅のもとだ」と目の仇にしていることは、確かな事実です。そのことに反応して「欲がないと、何の商売もできない。だから仏教は、経済活動をする社会とは何の関係もない教えだ」と思うのは、一瞬先のことも考えられない俗世間の人間です。「商売するなかれ」と仏教で説かれたことは、一度もありません。「この世でもあの世でも、賢い人は幸福に生きるのだ」というのは、釈尊の言葉です。仏陀は、地雷があるところに旗を立てているだけです。人間はそれを見て、仏陀は先へ進みたい人を邪魔しているのだと苦情を言っているのです。人生は、貪り、怒り、競争心、嫉妬、裏切り、無知などの地雷で、埋め尽くされているのです。闇雲に「成功を収めたい」と思って人生を走る人は、地雷を踏んで破滅する恐れが高いのです。全てのものごとに対して悟っている仏陀の話を信頼する人は、地雷を避けて人生の道を見事に進んで、安穏の境地に至るのです。
このエピソードに最後に出てくる偈に、「だから掘りなさい」という行があります。これは、知足の原理のもとで正しく経済活動をすれば、幸福になるので努めなさい、という意味です。あとの行には「掘り過ぎは罪である」とあります。人はたとえ環境を破壊しても資源がなくなっても、金儲けに狂って、ガン細胞のように事業を拡大するのです。人間が今の調子で進めば、幸福になるどころか、地球の生命がみな滅びるという恩恵にあずかるのです。ですから経済活動のやり過ぎは、生命の息の根を止めてしまう行為なので、罪なのです。「知足」の原理のもとに人生設計すると、地球上の人間も他の生き物も、地球が存在する限りは、どこまででも幸福に生き続けることでしょう。「掘り過ぎは破綻する」という言葉は、核兵器まで用いて戯れようとする、欲にイカレた現代人に対する忠告のような言葉です。
ダサンナカ国製の刀剣の話@
Dasaṇṇaka jātaka(No.401)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、前妻への愛着が断ち切れない比丘について語られたものです。
お釈迦さまはその比丘に、「あなたは悩むことがあって修行に身が入らなくなっているそうだが、本当ですか」とお尋ねになりました。「本当でございます、尊師よ。」「何について悩んでいるのですか。」「もとの妻のことが忘れられません」と比丘が答えると、お釈迦さまは、「比丘よ、今あなたの修行の障害になっているこの女性は、過去にもあなたを精神的な病気に陥れ、あなたはあやうく死ぬところでした。その時、賢者らの助けによって、かろうじて命拾いをしたのです」と言って過去のことを話されました。
むかし、バーラーナシーでマッダヴァ大王が国を統治していたとき、菩薩は、バラモンの家庭に生れました。彼はセーナカクマーラ(クマーラ=少年の意)と名づけられました。成長した彼は、タッカシラーであらゆる学問を修得しました。その後バーラーナシーへ帰ってから、マッダヴァ王の相談役を務める大臣となりました。まるで月や太陽が親しまれるように、セーナカ賢者という愛称で、市民に好かれていました。
そのころ、王の司祭大臣の息子が、王に仕えるために参じました。そのとき彼は、いろいろな装飾品で着飾った非常に美しい第一王妃を見て、すっかり心を奪われてしまいました。彼は家へ帰ってから、食事もせずに寝込んでしまいましたが、友人たちに尋ねられて、彼はそのわけを話したのでした。
王は、「司祭の息子の姿が見えない。いったいどういうことか」と尋ねました。その訳を聞いた王は、彼を召喚しました。この若者の気持ちが痛いほどわかった王は、このように解決策を決めました。「わたしは、おまえに妃を七日の間与えよう。七日間おまえの家で彼女と一緒に過ごしてみなさい。それでお前も満足するだろう。しかし、八日目には必ず妃を後宮につれて来なさい」と言いました。彼は、「かしこまりました」と言って承知し、大変喜んで妃を家へつれて帰りました。
ところが、一緒に楽しんでいるうちに、彼らはお互いに恋に落ちてしまいました。この二人は、誰にも気づかれないように家の門から逃げ出して、他の王の領土へ行ってしまいました。誰にも彼らの行方はわかりませんでした。彼らの進んだ道は、まるで船の航路のようでありました。王は、町中に太鼓を打たせて布告を出し、さまざまの方法で探し求めましたが、妃のゆくえは、ようとして知れませんでした。
そこで王には、激しい悲しみがわき起こりました。胸は重くなり、血が逆流したようになりました。それからというものは、内臓からも血が出て吐血しました。そして徐々に病気が重くなりました。偉大な王医でさえ、治すことができませんでした。菩薩は、「この王さまは、身体の病気ではない。お妃を見つけられないので、精神的な病にかかっているのだ。心理療法を施して治さなくてはならない」と思いました。
そこでアーユラとプックサという、王の賢い大臣二人に治療方法について相談しました。
「王さまは、お妃が見つからないので、精神的な病にかかっているのです。身体の病気ではありません。私たちには、薬を与える以外に、人の病を治すたくさんの方法があります。手だてをつくして王さまを治して差し上げましょう。では、このような計画でいきましょう。王宮の庭で見世物を催させます。そこで、剣を飲む技を得意とする者に、剣を飲ませましょう。王さまには宮殿の窓際に坐っていただき、見世物をお目にかけましょう。剣を飲む技を見た王さまは、きっと側近の大臣にこのように尋ねると思います。『これは命がけでやっている技だね。これよりも難しい技などあるのかい。』そこで、友アーユラよ、君は答えなさい。『王さま、人に何かを〈差し上げます〉と言うことは、この技よりももっと難しいと思います』と答えてください。そこで王さまは興味を抱き、さらに質問することになると思います。友プックサよ、王さまは、君の意見も聞くでしょう。そのとき、あなたは王さまに、このようにお答えしなさい。『大王さま、〈差し上げます〉と口では言っていても、何も与えない人のほうが多いものです。〈与える〉という言葉だけでは、人の役に立ちません。言葉だけでは誰も生きられはしない。〈差し上げる〉と言われただけで、食べることも、飲むこともできません。口に出して言うだけでなく、その言葉の通りに実行し、約束の通りに品物を与えるということは、もっと難しいことです』と。それからあとでするべきことは、わたしが心得ています。」
それから彼らは、計画通りに見世物の用意を済ませました。彼ら三人の賢者は王のもとへ行き、「大王さま、王宮の庭で見世物を用意してございます。それをご覧になると、苦しみ、悲しみなんかは消え失せます」と申し上げました。王さまを案内し、窓を開き、見世物をご覧に入れました。
大勢の人々がそれぞれ自分の得意とする技芸を披露しました。いよいよ、この見せ物の真打ちがやって参りました。一メートル弱の鋭い刃をもつ宝剣を飲み始めました。王はそれを見て、「この男は、あんな鋭い剣を飲んだ。いったい、あれよりももっと難しいことなんかがあるのか」と、感嘆の声を上げました。そして尋ねてみようと、賢者アーユラに対して最初の詩句を唱えました。
ダサンナカ国で作られた
人の血を吸い尽くす
鋭い刃を持つ刀剣を
公衆の面前で男は飲みこむ
これより至難の技があるのか
もしあるとするならばそれを問う
問うた私に答えを申せ
(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
いろいろな事に未練を残していたり、思い残すことが一杯あったりすると、修行なんか出来るはずはないし、まったく実りは得られません。過去の出来事に対する未練を断ち切って、吹っ切れた状態のほうが、人は成長していくのです。これは修行だけのことではありません。何かにチャレンジしてそれを成功させたいと思う人は、他のことに未練を感じたり、思い悩んだりすると、期待通りの成功は収められないのです。何をするにも、それだけに集中してやれば上手くいくのです。今やっていること以外、何かを思い出したり、妄想したりするのは、心が過去の出来事に引っ掛かっているということです。過去に足を引っ張られないようにして、吹っ切れた状態でいると、人のいかなる行為でも実るのです。
●Dasaṇṇaka
jātaka
人は簡単に、精神的な病に陥るのです。人は、身体のことばかり心配しますが、身体はしょっちゅう病気になるわけではありません。しかし、心がいとも簡単に病気になって倒れるという事実は、忘れているのです。治療を受けたり薬を飲んだりする、数々の病の中で、九割ほどは痛んだ心が作り出す病気なのです。闇雲に薬を飲んで、あらゆる健康食品を食い漁って、身体を更に壊すよりも、自分の精神が健康か否か調べた方が良いと思います。
現代では、精神的な病気に対しても物理的な薬物を与えて治療しようとしています。すでに壊れている身体を更に壊してしまったところで、患者は何一つ出来ない状態になるのです。それで治したことにするのです。それでは、暴れている人の手足を鎖で縛って、口に猿ぐつわをはめて、「もう落ち着きましたよ」と言うようなものです。このジャータカ物語は、精神的な病を心理療法で完治するエピソードを展開しているのです。
ダサンナカ国製の刀剣の話A
Dasaṇṇaka jātaka(No.401)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
(前号から続きます)
それから彼らは、計画通りに見世物の用意を済ませました。彼ら三人の賢者は王のもとへ行き、「大王さま。王宮の庭で見世物を用意してございます。それをご覧になると、苦しみ、悲しみなんかは消え失せます」と申し上げました。王さまを案内し、窓を開き、見世物をご覧に入れました。
大勢の人々がそれぞれ自分の得意とする技芸を披露しました。いよいよ、この見せ物の真打ちがやって参りました。一メートル弱の鋭い刃をもつ宝剣を飲み始めました。王はそれを見て、「この男は、あんな鋭い剣を飲んだ。いったい、あれよりももっと難しいことなんかがあるのか」と、感嘆の声を上げました。尋ねてみよう。賢者アーユラに対して、最初の詩句を唱えました。
ダサンナカ国で作られた
人の血を吸い尽くす
鋭い刃を持つ刀剣を
公衆の面前で男は飲みこむ
これより至難の技があるのか
もしあるとするならばそれを問う
問うた私に答えを申せ
そこで賢者は答えて、第二の詩句を唱えました。
人の血を吸い尽くす刀剣も
報酬のためなら飲みこむであろう
しかし「私は与える」と発言するのは
それよりも至難の技である
他の行為は容易いもの
かく知り給え、マッダヴァ国王よ
王は、アーユラ賢者の言葉を聞き、考えました。「『わたしは与える』と発言することは、危険な剣を飲むことよりも難しいことなのだ。」王さまはハタと気づきました。「わたしは『司祭の息子に妃を与える』と言った。そうすると、わたしは、最も難しいことをしたことになる」と思い、心のなかの苦悩が、少し薄らいできました。それから、「『他人に与える』と発言することよりも、他にもっと難しいことがあるのだろうか」と考えて、プックサ賢者に語りかけて、第三の詩句を唱えました。
俗事聖事に博学な
アーユラは私の問に答えた
今プックサに我は問う
これより至難の技とは何か
もしあるとするならばそれを問う
問うた私に答えを申せ
そこで王に答えてプックサ賢者は、第四の詩句を唱えました。
宣言されても実行されない
言葉はむなしい発言である
「われは与う」と宣言し
それを実行する
これこそが更に難しい
至難の技である
かく知り給え、マッダヴァ国王よ
王はその言葉を聞いて、「わたしは、『司祭の息子に妃を与える』と言って、言葉通りに与えた。わたしは、まったくなしがたいことをしたのだ」と思いめぐらしたので、苦悩が一層薄らいできました。そこで王さまは、こう思いつきました。「セーナカ賢者よりもっと賢い者は誰もおらぬ。この質問を彼に尋ねてみよう。」そこでそれを質問して、第五の詩句を唱えました。
俗事聖事に博学な
プックサは私の問に答えた
いまセーナカに我は問う
これより至難の技とは何か
もしあるとするならばそれを問う
問うた私に答えを申せ
そこで王に答えてセーナカ賢者は、第六の詩句を唱えました。
人は多かれ少なかれ
財宝を施すことはできるだろう
しかし与えて悔まぬということは
それよりも至難の技である
他の行為は容易いもの
かく知り給え、マッダヴァ国王よ
王は、菩薩の言葉を聞いて、反省しました。「わたしは、自分の意志で、司祭の息子に妃を与えながら、自分の心を抑えることができずに、悩み疲れている。これはわたしにふさわしいことではない。もし妃がわたしに愛着があるのなら、この富を捨てて逃げ出したりはしなかったろう。わたしに愛情を示さずに逃げ去った女に、何の用もないではないか。」王がこのように考えたとき、まるで蓮の葉の上にある水滴がころげ落ちるように、すべての苦悩が消え去ってしまいました。ちょうどその瞬間に王の内臓は回復し、王は健康で安らかになって、菩薩を誉めたたえ、最後の詩句を唱えました。
アーユラは問に答えたり
賢者プックサもまた然り
されどセーナカの解答は
あらゆる問を圧倒する
王は、このように菩薩を賞讃して喜び、たくさんの財宝を彼に授けました。
お釈迦さまは、この話をされて真理を説き明かされ、過去を現在にあてはめられました。(真理の説法が終わったとき、悩んで修行に身が入らなくなっていた比丘は、預流果の境地に達しました)「そのときの王妃は比丘の前妻であった。王は悩んで修行に身が入らなくなった比丘であり、アーユラ賢者はモッガラーナ、プックサ賢者はサーリプッタであり、セーナカ賢者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
王は、大変優しい人でした。司祭の息子がお妃に恋こがれてしまったことを、よく理解しました。恋の発作というものは、罰することでも説教することでも、治められるものではありません。司祭の息子の淡い初恋だと思って、自分のお妃を貸してあげたのでしょう。一週間経てば「これは実る恋ではありません」という事実に気づくだろうという、王さまの親心です。しかし、今も昔も若者といえば、大人の気持ちを理解しようともしないで、自分のわがままを通してしまうものです。それはそれで一向に構いませんが、王さまが受けた精神的なショックは、並大抵のものではありませんでした。お妃が駈け落ちしたら、国家を統治する王さまのメンツはガタ落ちです。それでも現代の政治家と違って、報復、制裁、略奪、殺戮などに走ることはしませんでした。しかし、自分が信頼していた可愛いお妃がいなくなったことは、とてもこたえたのです。胃に穴があいて、吐血することになったのです。もはや薬は効かない、精神的な病です。
このエピソードで行っている治療方法は、簡単に見えますが、微妙に複雑なのです。人は気高い人格者になるべきです。人格者は、いかなる問題に出会っても、山の如くに動揺しないのです。ここでは三段階で王さまの人格に訴えているのです。自分が絶対に離したくないものを他人に与えようと考えるだけでも、並大抵のことではありません。この王さまは偉いのです。「あげる」と口に出すのも普通はできないが、大事なものを本気で他人にあげてしまったのです。それは桁違いの人格なのです。これを実行したこの王さまは、本当に偉い。しかし、あげてしまってから「惜しいなあ、寂しいなあ」と思ってしまうのは、人情というものです。「私はあげてしまった。相手がそれで幸せなら充分だ」と思って吹っ切れることは、勝れた人格者にしか出来ないことです。精神的に全く悩まないための秘訣は、これなのです。過去を引きずらないようにしましょう。
ウドゥンバラ樹とオウムの話Mahāsuka jātaka(No.429)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある比丘について語られたものです。
彼はお釈迦さまのもとで修行の指導を受けてから、コーサラ国の国境の村に近い森林に住んでいました。人々は彼のために、行き帰りが楽な所に昼夜住める房舎を用意し、うやうやしく仕えていました。ところが彼が雨安居に入った最初の月にその村が焼けてしまい、村人には蒔く種すらも残りませんでした。村人たちは、比丘においしい食べ物をお布施することができなくなりました。彼にとってはよい住居でしたが、食物が不味いことに悩んで修行は全く進みませんでした。それから三ヵ月過ぎて、彼はお釈迦さまのもとにご挨拶に行きました。お釈迦さまは、親しく言葉を交わされ、「食物には困ったろうが、房舎は快適であったろう?」とお尋ねになりました。彼は、その事情を報告しました。お釈迦さまは、彼のその房舎が快適であったことをお知りになり、「比丘よ、沙門というものは、房舎が快適であれば、食欲に陥るのではなく手に入った食べ物で満足し、修行を行うべきである。むかしの賢者は、動物として生を受けたときでさえも、自分の住所である枯木で木の粉を食べていても、欲望に囚われることなく、満足して恩(感謝)を忘れることなく、他の場所へ去りはしなかった。おまえはどうして『食物が乏しい、粗末である』と言って、適当な房舎を活用しなかったのであるか」とおっしゃり、彼に請われて、過去のことを話されました。
**********************
むかし、ヒマラヤ山中のガンガー河の岸辺に、ウドゥンバラの森があって、数千羽のオウムが住んでいました。そこに一羽のオウムの王がおり、自分の住んでいる木の果実がなくなると、残っているものは若芽でも、葉でも、樹皮でも、枯皮でも、何でも食べ、ガンガー河の水を飲み、徹底した少欲知足生活で、決して別の場所には去りませんでした。彼の少欲知足の徳によって、帝釈天(サッカ)の天宮は震動しました。帝釈天は原因を調べたところで彼を見出しました。そして、彼を試すために、自分の神通力によってその木を枯らしてしまいました。そのため木は幹だけが残り、穴だらけになり、風に吹きさらされて立っていました。そしてその穴から木の粉くずがでてきました。オウムの王は、その木の粉くずを食べ、ガンガー河の水を飲み、他の場所へは去らずに、風や太陽の熱を気にせず、ウドゥンバラの幹のてっぺんに坐っていました。帝釈天は、彼がとても少欲であることを知り、「彼に恩(感謝)について語らせ、謝礼を彼に与え、ウドゥンバラ樹に甘露の果実を実らせてこよう」と思いました。帝釈天は一羽の白鳥に姿を変え、自分の妻である阿修羅の娘、スジャーを先に立てて、そのウドゥンバラの森へ行き、近くに立つ一本の木の枝にとまりました。そして、オウムと会話を始めて、最初の詩句を唱えました。
果実に溢れる樹木には
鳥は群らがり果実を賞味する
果実が尽きたところで
鳥たちは他方へ飛び去る
彼はこのように言って、オウムを立ち去らせるために第二の詩句を唱えました。
オウムよ、飛び去れ
何故枯れ木の上で困窮するのか
そのわけを聞きましょう
春の如き麗しい鳥よ
何故枯れ木を捨て去らないのか
そこでオウムの王は、帝釈天に向かい、「白鳥よ、私がこの木を捨てて去らないのは、この樹に恩を感じているからです」と言って、二つの詩句を唱えました。
白鳥よ 真友の友情は命の如し
苦楽と禍福を共にし
友人を捨て去ることはしない
善人は常に善行為を想う
白鳥よ 私も親善を尽くす
樹は我が親族にして友なり
命を惜しみ この枯樹を見捨てることは
友情の道ではない
帝釈天は彼の言葉を聞いて満足し、賞讃して贈り物を与えようと思い、二つの詩句を唱えました。
汝は友情と慈しみと和合を
見事に語る
この法を重んじる汝は
賢者の賞讃に値する
オウムよ
私は汝に謝礼をする
汝が望むものは
何なのか
それを聞いてオウムの王は、贈り物を選びつつ、第七の詩句を唱えました。
白鳥よ もしも私が謝礼を受けるなら
再びその樹の生命を希望する
枝葉がのびて果実が実り
栄えて美しく立つように
そこで帝釈天は彼に謝礼を与えようと第八の詩句を唱えました。
友よ 果実の豊かなこの樹を見よ
君はこの樹と共に住むべし
枝葉がのびて果実が実り
栄えて美しく立つであろう
このように言って、帝釈天は白鳥の身体を捨て、自分とスジャーとの神通力を現し、ガンガー河から手で水をすくって、ウドゥンバラ樹の幹に注ぎました。するとただちに樹には枝や若葉が茂り、甘い果実が実り、露出した宝石の山のように、美しく輝きながらそびえ立ちました。オウムの王はそれを見て喜び、帝釈天をほめたたえて、第九の詩句を唱えました。
多くの果実を眺め見て
わが喜びは限りなし
それと同じく帝釈天一族にも
幸福と栄えあれ
帝釈天は彼に謝礼をして、ウドゥンバラの果実を甘露の如くして妻のスジャーと一緒に自分の住処へ帰りました。
最後に、この物語についてお釈迦さまが次の詩句を唱えられました。
オウムに謝礼をして
再び果実を実らせ
帝釈天夫妻は
神々の歓喜苑へと立ち去った
お釈迦さまはこの話をされて、「比丘よ、このようにむかしの賢者は動物として生を受けても、欲に溺れることはなかったのだ。おまえは、どうしてこのような教えのもとで出家しながら欲に溺れる行動をするのであるか。行ってその場所で暮らしなさい」とおっしゃって、さらに指導なさいました。そして、過去を現在にあてはめられました。(その比丘は、その場所へ行き、ヴィパッサナー実践を行い、阿羅漢の悟りに到達しました。)「そのときの帝釈天はアヌルッダであり、オウムの王は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓…恩返し
受けた恩を忘れる人は悪人であると、釈尊は説かれます。受けた恩を決して忘れないことと恩返しをすることは、仏教が最も重んじる道徳です。恩を知る人、感謝の気持ちを忘れない人こそ、この世で成長して幸福になるのです。仏道さえも完成するのです。
現世物語で出てきた比丘には、感謝の気持ちがなかったのです。村人たちは一生懸命お布施をして協力してあげたのに、その人々が不幸になったときに、一緒に居て励ましてあげる気持ちにはならなかったのです。食い物が不味かったことに心の中で不満を抱いて、自分の修行も失敗したのです。「私も命がけで修行を頑張りますので、皆さまも落胆することなく、この不幸を乗り越えるために頑張って下さい」と言えば良かったのに…。修行を完成することは、お布施をする人に対する最高で完全な恩返しなのです。
香り盗人の話 Bhisapuppha jātaka(No.392)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある比丘について語られたものです。
その比丘は、ジェータ林を離れて、コーサラ国の、とある森の近くに住んでおり、ある日のこと、蓮池に降りて行って、花の咲いた蓮花を見つけ、風下に立って香りを嗅いでいたということです。そのとき、その森に住んでいる女神が、「尊者よ、あなたは香り泥棒ではないでしょうか。実にあなたの行為は偸盗罪にあたります」と言って、彼を恐れさせました。これを聞いた彼は、大変に怯えて、ふたたびジェータ林に帰ってきて、お釈迦さまに礼拝して坐りました。お釈迦さまに、「比丘よ、お前はどこに行っていたのか」と尋ねられ、彼は、「これこれの森に住んでおりました。そこで女神が、このように言って、わたしを恐れさせました」と答えました。そこでお釈迦さまは、「比丘よ、花の香りを嗅いで、女神におびやかされたのはお前ばかりではない。昔の賢者も、かつて恐怖させられたことがある」と言って、比丘に請われて、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、カーシ国の町のあるバラモンの家に生まれました。彼は成長すると、タッカシラーの町で学問を学び、その後仙人の道に出家して、ある蓮池の近くに住んでいました。ある日のこと池へ降りて行き、満開の蓮の花を見て、その香りを嗅ぎながらたたずんでいました。そのとき一人の女神が木の幹の穴から現れて、彼を恐れさせて、第一の詩句を唱えました。
水中に生まれた一輪の蓮の花
貰いもせずにあなたは嗅ぐ
それは偸盗罪の一種といえる
君は香り盗人なのである
そこで菩薩は、第二の詩句を唱えました。
取ることもなく折ることもなく
ただ離れて花を嗅ぐのみである
何故にして私は
香り盗人と呼ばわれるのか
ちょうどそのとき、一人の男が、その池で蓮根を掘り出して、蓮花を傷つけていました。菩薩はそれを見て、「離れて立って香りを嗅ぐ者を、あなたは盗人と呼ぶのなら、どうしてあの男をそのように言わないのですか」と女神に語りかけながら、第三の詩句を唱えました。
この人は蓮根を掘る
蓮花を切り散らす
このように散々に痛めつける
何故この人には言わないのか
そこで神は、その男にはそう言わぬ理由を説明して、第四、第五の詩句を唱えました。
残酷な行為が多い人は
子守りの前掛けの様に汚れている
彼に言うことはない
しかし自己を戒める人には言う
煩悩から離れて
常に清浄を求める人には
毛端ほどの罪さえも
雲のように大きく見える
女神の意外な言葉に気付かされ、菩薩は感動して第六の詩句を唱えました。
実に神霊よ 君は私を知っている
さらに私を隣れんでいる
神霊よ 私の他の過ちを見出したならば
ふたたび私に告げたまえ
そこで女神は、彼にたいして第七の詩句を唱えました。
貴方と同居しているのではない
貴方に養われているのでもない
比丘よ 如何にして天界に行けるかは
自分自身で知りなさい
女神はこのように彼を諭して、自分の住所に入って行きました。菩薩も禅定に入り、梵天の世界に生まれるべき身となりました。
お釈迦さまは、この話をされて真理を明らかにされ、過去を現在にあてはめられました。(真理の説法が終わったとき、その比丘は、預流果の悟りに達しました。)「そのときの女神はウッパラヴァンナーであった。修行者は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓…香り盗人
偸盗罪といえば、銀行強盗のようにスケールが大きい行為のことを思ってしまいます。最小のスケールの偸盗罪は、もしかすると万引きくらいでしょうか。どちらにしても、それは他人のものを強引に自分のものにしようとする犯罪行為です。偸盗の仏教の定義は、「与えられていない他人のものを盗ること」です。その品物を置いている場所から移動させた瞬間に、偸盗の罪は完成します。
俗世間の法律では盗まれるものの価値によって罪の重さを計ります。仏教は人の行為は法律的に合法か違法かということよりも、心が汚れるか清らかになるかということに基づいて、善か悪かを判断するのです。ですから、世俗的には何の価値も見出せないものを盗ったことによっても、自分の心が汚れたらそれは偸盗罪なのです。
仏教における偸盗罪の論理的な説明を理解した方が、自分自身の行為を正すために役に立つと思います。私たちには眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官があります。心というのは、その器官の働きなのです。この六つに色・声・香・味・触・法という情報が触れると、認識が生まれるのです。汚れた認識が生まれたら、悪を犯したことになるし、清らかな認識が生まれたら、善行為をしたことになるのです。それから善因善果、悪因悪果という自業自得の法則が成り立つのです。「盗む」と言えば、一般的には金を盗む、店の商品を盗むなど具体的な事を考えます。しかし仏教の業論の場合は、具体的な盗品を見て犯した罪の重さを計るのではないのです。論理的に考えなくてはならないのです。
たとえば、ある人が店から香水を盗んだとします。その人の心は鼻という身体器官を使って嗅ぐ香りを盗んでいるのです。身体で触ることのできる物体をも盗んでいます。その盗品の価値によってその人の心の中で、儲かった、得をしたという欲も生まれます。もしその品物は美しいものであれば、見て楽しむことも出来ます。そこでその人は、単に品物としての香水を盗んだのではなく、眼・鼻・身・意を汚す行為をしたのです。外から四つのものを盗っているのです。その四つでどれほど自分の心が汚れたかということによって、悪業の重さが決まるのです。
では、別の人が金を払って同じ品物を買ったとします。その人も単なる品物を得たのではなく、見て美しいもの、良い香り、身体で触れられるもの、良いものを手に入れた心の喜びという四つのものを得ているのです。この人も欲を出してそれを使うと心が汚れますが、人間として正当な楽しみを得ているのだから、悪業・罪を犯したとは言わないのです。悟りをひらいていない凡夫の、普通の煩悩に汚れた生き方なのです。社会的に不正な行為ではなく、正当な行為で楽しむ人の心の汚れは、悟りをひらかない限りは誰にも避けられないものです。
盗んだ人は、自分の喜びのために、他人に対する何の躊躇も遠慮もなく強引に品物を手に入れたのです。そこに、盗むという意欲が働いたのです。この悪意に基づいた身体の行為は、偸盗罪なのです。盗品を喜ぶその人の心は、二重に汚れるのです。論理的にいえば、盗むということは眼・耳・鼻・舌・身に触れる、色・声・香・味・触を盗ることです。女神は真理に基づいて、論理的に修行者を戒めたのです。
蚊を退治する話 Makasa jātaka(No.044)
この物語は、釈尊がマガダ国を遊行しておられたときに、ある村で愚かな村人たちについて語られたものです。伝えるところによると、そのとき如来は、サーヴァッティーからマガダ国へ赴き、そこを遊行して、とある村へ到着されました。その村には、大勢の愚か者たちが住んでいました。
ある日のこと、その愚か者たちが集まって、「皆さん、われわれが森へ入って仕事をしていると蚊にくわれ、そのためにわれわれの仕事が邪魔されてしまう。皆で弓と武器を持って行って蚊と戦い、全部の蚊を射ったり斬ったりして殺してしまいましょう」と相談しました。そして、森へ入って行き、「蚊を射殺そう」と言って、心ならずも互いに射合い、斬り合いました。そして苦しみながら帰って来て、村の内や中央や入口に倒れていました。
お釈迦さまは、比丘たちに囲まれながら、その村へ托鉢に入られました。残った賢い人々は、お釈迦さまを見て、村の入口に礼拝所を作り、お釈迦さまを初めとする比丘サンガに多大な布施を行ない、お釈迦さまを礼拝して一面に坐りました。お釈迦さまは、あちこちの場所の負傷した人々をご覧になり、信者たちにたずねられました。「これら大勢の者たちは傷ついているが、彼らはどうしたのか。」「尊師よ、この人たちは、『蚊を退治しよう』と言って出かけ、互いに射合って、自ら怪我人となったのです。」お釈迦さまは、「愚か者たちが、『蚊を打とう』として自分たち自身が傷ついたのはいまだけのことではなく、前生でも、『蚊を打とう』として仲間を打ったのである」と言って、人々に懇請されて過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、商業で生計を立てていました。そのとき、カーシ国のとある辺境の村に大勢の大工たちが住んでいました。
その中の一人である禿頭の大工が木を切っているとき、一匹の蚊が、その銅鍋の底のような後頭にとまって、槍で突くように頭を嘴(くちばし)で刺しました。彼は自分のそばに坐っている息子に言いました。「おい、わしの頭を蚊が槍で突くように刺している。追い払っておくれ。」息子は、「父さん、辛抱していてくださいな。一撃でそいつを殺しますから」と言いました。菩薩は、自分の扱う商品を仕入れるためにこの村に着き、その大工の小屋に坐っていました。大工が息子に「おい、この蚊を追い払っておくれ」と言ったのは、丁度そのときでした。息子は、「父さん、追い払ってあげるよ」と、鋭利な大なたを振りあげ、父親の背後に立って、「蚊を打つよ」と、父親の頭を真二つに割ってしまいました。大工は、即座に死んでしまいました。菩薩は、彼のそのしわざを見て、「(味方の愚か者よりは)たとえ仇敵であっても、賢明な者のほうがまだましである。何故ならばそういう者は、刑罰の恐れを理由にしてでも、人々を殺すことまではしないだろう」と考えて、つぎのような詩句を唱えました。
浅はかな味方より余程
思慮ある敵は優れたり
蚊を殺そうとするこの白痴は
父親の頭を切り裂く
この詩句を唱えて菩薩は立ち去って行きました。大工は、親族たちによって、手厚く葬られました。
お釈迦さまは、「信者らよ、このように昔も蚊を退治しようとして、人を殺した者がいたのです」とおっしゃって、説法をなさいました。そして過去を現在にあてはめられました。「そのときの詩句を唱えて去った賢明な商人は、実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓…蚊を退治する話
人付き合いというものは、生きていく上で必ず必要です。人間関係さえ上手くいけば、幸福に生きられるということは明白な事実です。人付き合いの失敗は、人生そのものの失敗です。人は誰でも多かれ少なかれ、他人との付き合いについてかなり苦心するのです。幼児たちから老人まで、他人との付き合い方は頭の痛い問題です。ですからこれは一生涯の問題です。
他の問題、たとえば仕事のことは、仕事に就く年齢に達したとき悩めばよいのです。それは子供と老人には関係がないのです。健康の問題は、病気を抱えている人々が気にするべきものです。教育の問題は、若者が注意すべきです。子育ての問題は、若い夫婦たちが取り組むべきものです。老夫婦たちにはその悩みはありません。このように考えると、人間に関わるこれらの問題というのは一生涯のものではなく、一時のことであると理解できます。人には次から次へと問題が現れますが、一つの問題を生涯引きずる必要はありません。その時どきに現れる問題を、その場でその時に解決していけばよいのです。
しかし、人付き合い・人間関係という問題は、一生涯の問題です。解決しましたと軽々しく言って片づけることはできないのです。年齢と環境の変化とともに、人間関係の形は変わっていきます。それに絶えず適応しないと、社会人として落ちこぼれるのです。幼稚園児たちの人間関係と、小学生の人間関係は同じではありません。園児の時は友達がいっぱいいたのに、小学生になってから仲間に苛められて、ひとりぼっちになるケースもあるのです。それは、その子が年齢による状況の変化に適応できなかったということです。二十歳になった子供の暴力で親が悩むのは、両者ともに年齢の変化に適応できなくなっているからです。
また、場所によっても人間関係は変わるのです。たとえば、会社で真面目に仕事をする立派なサラリーマンが、飲み屋で女性とトラブルを起こしてセクハラ罪で訴えられるとします。この場合は、会社では立派な人間ですが、遊び場の人間関係での立ち居振る舞いがまずかったことになるのです。ですから、時と場に応じて常に変化する人間関係に、我々は常に適応できるように心がけなくてはならないのです。
家にいても学校・会社にいても、人間関係からは逃げられません。ひとりで山で遊んでいても、やりたい放題で遊ぶことは禁止なのです。社会のために自然を守り汚さないことに、気をつけなくてはいけません。自然災害に遭遇して全財産を失って、避難生活をしていても、人間関係だけはついてきます。たとえ避難所でも人間関係につまづいてしまったら大問題です。病院で死ぬ間際にあるときも、他人との関係だけはつきまとうのです。
たくさん仲間がいたからといって、人間関係が上手とは言い切れません。逆に、ひとりでいるからといって、人間関係が下手だとは限りません。私たちはたくさん仲間を作ることで、人付き合いが上手だと自画自賛しますが、これはとても危険なことです。現代人はいとも簡単にこのポイントを見過ごし、不幸に陥っているのです。このジャータカが、幸福に生きるために必要不可欠なこのポイントを物語っています。
味方に言われたからといって無批判で何でもやる生き方は、正しくないのです。智恵のない味方は、失敗したところでそこに仲間も引きずろうとするのです。たとえば日本国の味方がどこかで戦争を引き起こしたからといって、日本国民に何の関係もない国まで出かけて、戦争に参加して殺し合いをする必要はありません。良い味方だと思うならば、戦争を引き起こすような愚かな行為をしないように相手を諭すべきです。
毒蛇に咬まれた修行者の話 Veḷuka jātaka(No.43)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある頑固な比丘について語られたものです。
お釈迦さまは彼に、「比丘よ、そなたは聞き分けがないということだが、本当か」とたずねられました。「本当です、尊師よ」と答えたので、「比丘よ、そなたが頑固なのは今だけのことではなく、前世でも頑固だった。頑固だったために、そなたは賢者たちの忠告を聞き入れず、蛇に咬まれて命を落とすに至った」とおっしゃって、過去のことを話されました。
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、カーシ国の大金持の家に生を享けました。彼は、分別ある年齢に達すると、欲望から起こるわざわいと、世俗離脱における利益とを理解し、欲望を捨ててヒマラヤ山に入りました。そして、仙人として出家生活に入ると、集中瞑想を行ない、五つの神通力と八つの禅定を得て、瞑想の喜悦を享受して過ごしました。その後、多くの弟子をもち、五百人の修行者にとりまかれ、集団の師となって暮らしていました。あるとき、一匹の幼い毒蛇がその習性に従って這いまわり、一人の修行者の庵に舞い込んで来ました。修行者は、その蛇に息子に対するような愛情を起こし、それを竹の筒の中に入れて育てました。それは、竹の筒の中に飼われていたので、「ヴェールカ(竹坊や)」と名づけられました。また修行者は、それを息子に対するような愛情をもって育てたので、「ヴェールカの父」と言われるようになりました。
そのとき菩薩は、「一人の修行者が毒蛇を育てているそうだ」ということを聞いてその修行者を呼び寄せ、「おまえは、毒蛇を育てているそうだが、本当か」とたずねると、「本当です」と答えたので、「毒蛇は飼い慣らせないものだ。そのようにして飼うのはやめなさい」と言いました。修行者は言いました。「お師匠さま、あの子はわたしの息子です。わたしは、あの子なしでは生きていけません。」「それでは、おまえはその息子のもとで命を失うだろう」と菩薩は言いました。修行者は、菩薩のことばを受け入れず、毒蛇を捨てることができませんでした。それから幾日かたって、修行者たちはみな、野生の果実を採りに出かけましたが、行った場所でいろいろな果実が容易に手に入ることが分かると、二、三日そこに滞在しました。ヴェールカの父も彼らと一緒に出かけましたが、毒蛇を竹の筒の中に入れ、覆いをして残して行きました。二、三日して、彼は彼らと一緒に帰って来て、「ヴェールカに餌をやろう」と、竹の筒を開けました。そして、「さあ、せがれや、おなかが空いただろう」と手を差しのべました。毒蛇は、二、三日のあいだ、食べものを断たれていたので腹を立て、差しのべられた手に咬みつきました。修行者はその場で死に至り、蛇は森へ逃げて行きました。修行者たちはそれを見て、菩薩に報告しました。菩薩は、彼を手厚く葬らせ、修行者の集まりの中央に坐り、修行者たちを訓戒するため、つぎのような詩句を唱えました。
他人の幸福を願う慈悲深き人の
訓戒に耳を貸さない者は
惨めになるのだ
ヴェールカの父のように
こうして、菩薩は修行者たちに訓戒し、四つの崇高な境地である「慈・悲・喜・捨」を修習して、寿命が尽きると、梵天の世界に生まれました。
お釈迦さまは、「比丘よ、そなたが頑固なのは今だけのことではなく、前世でも頑固だったために、毒蛇に咬まれて腐乱することになった」と、この説法を取りあげ、過去を現在にあてはめられました。「そのときのヴェールカの父は頑固な比丘であり、その他の修行者たちは比丘サンガであり、そして修行者たちの師は実にわたくしであった」と。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
頑固だということだけで、悪い性格だときめつけるのは早すぎます。人が善いことに励んでいる場合に、悪いことにしか興味を示さない社会はそれを批判したり、無視したりする。また苛めたり、あらゆる手段で誘惑したりもする。それは、ままあることです。社会からの誘惑というものは、人を堕落に陥らせるのです。優柔不断な性格であるならば、それに負けてしまうのです。それでは立派な人格者にはなれません。従って、「善」に励む者は、芯の強い人でなければなりません。社会からは「相当に頑固なヤツ」と言われるかもしれません。それは自分の決めた道をやり遂げる立派な性格です。悪い意味での頑固ではありません。
仏教で「頑固 dubbaca」というのは、善き人の躾に逆らうことです。また、助言を理解しようとしないことです。人の言うことをむやみに何でも聞き入れる者が、柔軟性がある善い性格だというわけではありません。単に優柔不断で、自分で何も決めることができない無知な人かもしれません。年下の人、経験や知識などが浅い人は、目上の人のアドバイスに耳を傾けるべきです。それこそが成長の道です。
人には好き嫌い、向き不向きというものがあり、自分はこうなりたいという夢もあるものです。それは明るく生きるための動機付けなのですが、知識も経験も浅い人が考えることは、必ずしも本人のためになることばかりではないのです。
経験者、知識人、またその人のことを心配する人々は、その人の好き嫌いや、やりたいこと、夢についていろいろとアドバイスするものです。幸福になりたいなら、それに耳を貸して自分の道を軌道修正しなくてはならないのです。頑固な人は、こういう場合に大人のアドバイスに逆らうのです。こうなってしまうと人格の向上どころか、人生そのものが行き詰まってしまうのです。
頑固な性格は、ある特定な人間だけに限ったものではありません。人は誰でも本来頑固だと言った方がよいと思います。たとえば子どもは楽しいからマンガを読みたい。母は、将来楽しくなるから勉強しなさいと言う。子どもは「嫌だ。後でするから……今この本を読んでいるから……」云々と言って、母に逆らいます。そのように、人の幸せを願って目上の人がする善きアドバイスに逆らうのが、頑固という性格です。
「妥協する」という言葉もよく使われます。しかしこれも、頑固であることの別な表現なのです。妥協するということは、決して立派なことではありません。妥協する人は、立派な頑固者です。ただ仕方なく相手の意見を聞き入れただけなのです。長持ちするとは思えません。善き人が我々を躾けて言う言葉は、気分的には気に入らないでしょう。もっと別なことをやりたいかもしれません。しかし、善き人の話に耳を傾ける、理解しようとする、納得がいくまで話し合いをする、反論も出してみる、その上で目上の人のアドバイスが本当に自分の為になるものだと理解すれば、自分の生き方を善い方向に軌道修正できるのです。このような生き方が、「素直」というものでしょう。「素直・正直」というのは、弱いという意味ではありません。妥協しないで、理解する人の生き方なのです。しっかり者です。
「毒蛇は可愛い、我が子のように情が湧いてくる」と言われると、大人にもその気持ちはわかるのです。しかし、ペットは戯れながら、可愛く飼い主を噛んだりもします。それは楽しいが、毒蛇が戯れるのはいかがなものでしょうか。
チュッラカ長者の話@ Cullakaseṭṭhi jātaka(No.4)
この物語は、釈尊がラージャガハ近郊のジーヴァカのマンゴー林に滞在しておられたときに、チュッラパンタカ長老について語られたものです。
この場合、まずチュッラパンタカの出生について語らねばなりません。伝えるところによると、ラージャガハの長者の娘が、自分の下男とねんごろになり、「他の者が私たちのこのふるまいを知るかもしれない」と恐れて、このように言いました。「私たちはこの場所に住むことはできません。もし、私の両親がこの過ちを知るようなことがあれば、私を切り刻んでしまうでしょう。他国へ行って暮らすことにしましょうよ。」そして手持ちの大事なものを持って表の門を出て、「どこでもよいから他の者に知られない場所に行って暮らしましょう」と、二人は出て行きました。
彼らが、ある場所で一緒に暮らしていくうちに、彼女のおなかに子が宿りました。彼女は臨月が近づいたので、夫と相談しました。「私のおなかの子は、もう間もなく生まれます。知人や親戚のいない場所でお産をするのは、私たち二人にとってはとてもつらいことです。家に帰りましょうよ。」しかし彼は、「もし今私が行けば、命がない」と考えて、「今日は行く、明日は行く」と言いながら、一日また一日と空しく過ごしていました。彼女は思案しました、「このバカ者は、自分が犯した過ちを恐れて思いきって行くことができないのだ。世の中で両親というのは絶対に我が子を心配するもの、この人が行こうが行くまいが、私は行くことにしよう」と。
彼女は彼が家から出かけているあいだに、家財道具を整理し、自分の実家に行くことを隣の家に住む人々に告げて旅路につきました。さて、その男は家に戻っても彼女が見えないので、近所の人たちにたずね、「実家に行きましたよ」と聞き、急いで後を追い、途中で追いつきました。ちょうどそこで彼女は出産していました。彼は、「子どもはどうなの?」とたずねました。「あなた、男の子が生まれたのよ。」「さあ、私たちはどうしたらよいだろう。」「お産のために、私たちは実家に行こうとしたのに、途中で生まれてしまったのだから、あちらへ行ったって何になりましょう。引き返すことにしましょう」と言って、二人は心をあわせて引き返しました。そして、その子供には、道路で生まれたということで、パンタカ(旅人)という名をつけました。
ほどなくして、彼女に別の子が宿りましたが、すべて前と同じ次第になりました。その子供も道路で生まれたことから、初めに生まれたほうをマハーパンタカ(マハーは、大という意味です)という名にして、次の子にはチュッラパンタカ(チュッラは、小という意味です)という名をつけました。彼らは、二人の子供を連れて自分たちの住む所に戻りました。彼らがそこで暮らしていたとき、幼いマハーパンタカは、他の子供たちが「おじさん」とか「おじいさん」とか「おばあさん」と言っているのを聞いて、母親にたずねました。「お母さん、よその子供たちは『おじさん』とか『おじいさん』とか『おばあさん』とか言っているよ。僕たちには親戚はいないの。」「そうよ坊や、ここにはおまえたちの親戚はいないのよ。でもラージャガハの都には、お金持の長者であるおまえたちのおじいさんがいます。そこには、おまえたちの親戚が沢山いますよ。」「お母さん、どうしてそこへ行かないの。」彼女は、自分が行かない理由を息子に話しましたが、息子たちが繰り返しそのことを話すので、夫に言いました。「この子供らは私をとても困らせるのよ。両親は私たちを見ても怒って肉まで食べるようなことをするはずはないわ。さあ、子供らにおじいさんの家を見せてやりましょう。」「私は顔を合わせることはできないが、おまえをそこへ連れて行ってやろう。」「けっこうよ、あなた。どんなふうにしてでも、子供らにおじいさんの家を見せてやればよろしいのよ。」
二人は子供たちを連れて、やがてラージャガハに着き、都の門のところにある一家屋に宿をとり、子供の母親は、二人の子供を連れて戻って来たことを両親にとりつがせました。両親はそのことづてを聞くと、「輪廻の世界にいる私たちに息子や娘がいないわけはない。だが、彼らは私たちに大きな罪を犯したから、彼らを私たちの目の届くところにおくことはできない。これだけの財産を持って二人は安穏な場所へ行って住めばよい。しかし子供たちはこちらへ連れてきてくれ」と言いました。長者の娘は、両親から送られた財産を受け取り、子供たちを、やって来た使いの者たちの手に渡して送り出しました。
それから、子供たちは祖父の家で成長しました。彼らのうちで、チュッラパンタカは幼すぎましたが、マハーパンタカのほうは祖父と一緒に十力具者(お釈迦さま)の法話を聞きに行きました。彼はつねにお釈迦さまの面前で教えを聞いているうちに、出家することに心が傾いていきました。彼は祖父に言いました。「もしおじいさんたちが承知してくれるなら、ぼくは出家したいのだけれど。」「願ってもないことだよ。全世界の人が出家することよりも、わしらにとってはおまえ一人が出家するほうがめでたいことなのだ。おまえ、もしできると思うなら出家しなさい」と承知して、お釈迦さまのもとへ一緒に出かけました。
お釈迦さまは言われました。「長者よ、この子供はそなたの何にあたるのか。」「はい、尊師よ、この子供は私の孫でございまして、お釈迦さまのもとで『自分は出家したい』と申しました」と答えました。お釈迦さまは一人の長老に、「この子供を出家させよ」と命じられました。その長老は、彼に髪の毛、身体の毛、爪、歯、皮膚という五つの観察を説いて出家させました。彼は多くのブッダの教えを習得し、成年になると比丘戒を受け、比丘になりました。比丘として受戒した彼は、徹底的に、専心して修習し、阿羅漢の境地に到達しました。
彼は瞑想の喜悦と、解脱の安穏とを享受しつつ、日々を送りながら考えるのでした。「いったい、この喜悦と安穏をチュッラパンタカに与えることができるだろうか」と。そこで、祖父の長者のところへ行き、「大長者よ、もしあなたが承知してくださるならば、私はチュッラパンタカを出家させたいのですが」と言いました。長者は、「尊師よ、出家させてください」と言って承知しました。そこで長老マハーパンタカは、幼いチュッラパンタカに沙弥出家を授けて、十戒を堅く守らせました。沙弥のチュッラパンタカは、出家はしたけれども、愚鈍でありました。そのため、
美しく慕わしく香る紅蓮華が
暁に綻びるような
太陽が大空に輝くような
釈尊をご覧になれ
というこの一つの詩句を四ヵ月かけても習得することができませんでした。
実は彼は、昔カッサパという正覚者の時代にも出家して、賢い人でありましたが、ある一人の愚鈍な比丘がお経を習うのに苦戦しているのを見て、嘲笑しました。彼に嘲笑されたその比丘は、恥じて落ち込みました。それからお経を習得することをやめてしまいました。その業によって、彼は今出家したけれども愚鈍になったのです。一偈の前半を習って、後半に移るとき、前半を忘れてしまいます。彼がこれだけの詩句を習得しようと努力しているあいだに、四ヵ月もの日々を費やしてしまいました。(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
子供は、甘えたい放題親に甘える。わがままも言いたい放題です。親に逆らうことになったときも、やりたい放題で容赦しないのです。しかし親は一貫して子供のことを心配するものです。子供の幸福を願うのです。
子供には親の気持ちが全然理解できないという事実は、誠に悲しいことです。親に反抗するのは勝手で構わないが、親に再び顔を合わせられないほどに逆らってはならないと思います。
チュッラカ長者の話ACullakaseṭṭhi jātaka(No.4)
そこで、マハーパンタカが彼に言いました。「チュッラパンタカよ、おまえはこの教えを全うすることができない。四ヵ月も費やしたのに詩句一つも習得できない。そんなおまえが出家としての修行をどうして達成することができよう。寺を出なさい」と、放逐しました。
チュッラパンタカは、ブッダの教えを敬愛していたので、在家に戻ることを欲しませんでした。
そのとき、マハーパンタカはお布施の采配の担当を一任されていました。
ジーヴァカ・コーマーラバッチャが香や花や多くの供物を持って自分のマンゴーの林へ出かけ、お釈迦さまに供養して教えを聞き、座から立って十力具者(お釈迦さま)を礼拝してから、マハーパンタカに近づいて、「尊師よ、お釈迦さまのもとには、どれくらいの比丘がおりますか」とたずねました。「五百人ばかりです。」「尊師よ、明日、お釈迦さまを初めとする五百人の比丘たちをお連れして、私たちの住居で供養をお受けください。」「ウパーサカ(男性在家信者)よ、チュッラパンタカは愚鈍で、修行を達成できない。彼を除いた、残りの者に対する招待をお受けいたします」と長老は言いました。
それを聞いてチュッラパンタカは考えました。「長老は、これだけ多くの比丘の招待を受けておりながら、私を除外して受けた。きっと私の兄には、私に対する思いやりがなくなったのだろう。今さら出家でいても、私にとって何になろう。在家に戻って、布施などの善行為を行ないながら生きることにしよう。」彼は、「翌日早朝に、私は還俗します」と決めたのです。
お釈迦さまは、明け方に世間を観察されるとき、この様子を発見され、先まわりして、チュッラパンタカの出口を遮ろうと門のところを経行しながら待っておられました。チュッラパンタカは建物から出ると、お釈迦さまに出会ったので、近づいて挨拶をしました。すると、お釈迦さまは彼に対して、「チュッラパンタカよ、そなたは今時分にどこへ行くのか」と言われました。「尊師よ、兄が私を放逐しました。私は還俗するために行くのです。」「チュッラパンタカよ、そなたは私を頼りに出家したのだ。兄に放逐されたのなら、どうして私のもとへ来なかったのだ。君が在家に戻って何になろう。私のもとにいなさい」と言われ、チュッラパンタカを連れて行き、仏殿の前に坐らせて、「チュッラパンタカよ、東の方に向かってこの布きれを『垢とり、垢とり』と言って擦りながら、この場所にいなさい」と、神通力で作り出した清潔な布きれを渡しました。そして釈尊は時間になったので、比丘サンガにとりまかれてジーヴァカの家に行き、用意の座に坐られました。
チュッラパンタカのほうは太陽を仰ぎつつ、その布きれに、「垢とり、垢とり」と言って擦りながら坐っていました。その布きれは彼が擦り続けているうちに汚れてしまいました。そこで彼は考えました。「この布きれはとても清潔でした。しかし、私の身体に触れたことで、以前の清潔さを捨ててこのように汚れてしまった。変わったのだ。実に、作られたものは無常なのだ」と。このことが、諸行の消滅を観察する、ヴィパッサナー実践となったのです。
お釈迦さまは、チュッラパンタカの心がヴィパッサナー実践に移行したということを察知されて、「チュッラパンタカよ、この布きれが汚れて垢に染まったことを気にする必要はありません。実に、君の心の内には、貪欲などの垢がある。それらを取り除きなさい」と言われて、光明を放ち、あたかも面前に坐っているかのように姿を現わして、つぎのような詩句を唱えられました。
垢とは塵に非ず貪欲こそが垢なり
垢とは貪欲の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する
垢とは塵に非ず瞋恚こそが垢なり
垢とは瞋恚の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する
垢とは塵に非ず無知こそが垢なり
垢とは無知の同義語である
比丘はこの垢を捨てて
無垢の教えに安住する
詩句がおわると、チュッラパンタカは、特別な能力までも具わった大阿羅漢の境地に到達しました。その特別な能力は、三蔵経の教えの理解でもあります。
実は、彼はある前生に国王であったとき、都城を廻っていた折、額から汗が出たので、清潔な布で額を拭ったところ、布が汚れてしまいました。彼は、「私の身体に触れたことで、以前の清潔さを捨ててこのように汚れてしまった。変わったのだ。実に、作られたものは無常なのだ」と、無常観を体得しました。このようなわけで、彼には「垢とり」というのが一番適合したのです。
ところで、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、十力具者にお食事前の手洗い水を差し出しました。お釈迦さまは、「ジーヴァカよ、精舎には比丘たちがまだいるのではないか」と、手で鉢を覆われました。マハーパンタカ長老は、「尊師よ、精舎には比丘たちはおりません」と申しあげました。お釈迦さまは、「ジーヴァカよ、いるかもしれませんよ」と言われました。ジーヴァカは、「それでは、おまえ、出かけて行きなさい。精舎に比丘たちがいるかいないかを調べてきなさい」と男を遣わしました。
その瞬間に、チュッラパンタカは、「私の兄は『精舎に比丘たちはいない』と言ったが、精舎に比丘たちのいることを彼に見せつけてやろう」と、マンゴーの林全体に神通で比丘たちをあふれさせました。ある比丘たちは、衣服の仕事を行ない、ある者たちは染色の仕事を、ある者たちは誦経をするというぐあいに、互いに異なった千人の比丘を現出させました。その男は、精舎に多くの比丘たちがいるのを見て引き返し、「だんなさま、マンゴーの林全体が比丘たちで満ちあふれております」とジーヴァカに報告しました。一方、チュッラパンタカ長老はその場で、この詩句を唱えました。
我が身を千体も化作して
心地良きマンゴー林に
パンタカが坐している
食事の時を告げられるまで
(次号に続きます)
チュッラカ長者の話BCullakaseṭṭhi jātaka(No.4)
そこで、お釈迦さまはその男に、「精舎へ行って『如来がチュッラパンタカを呼んでいる』と言いなさい」と言われました。彼は出かけてそのように言ったところ、「私がチュッラパンタカです」「私がチュッラパンタカです」と千人の比丘が一斉に声を上げました。その男は帰って来て、「尊師、皆がチュッラパンタカというそうです」と申しあげました。「では、そなたは行って、『私がチュッラパンタカです』と最初に名乗った者の手をつかまえなさい。残りの者たちは消えうせてしまうでしょう。」彼はその通りにしました。すると、千人もいた比丘たちはたちまち消えうせました。長老チュッラパンタカは、出向いた男と一緒に行きました。
お釈迦さまは食事が終わると、「ジーヴァカよ、チュッラパンタカの鉢をとりなさい(※↓)。彼は、そなたに説法するでしょう」と言われました。ジーヴァカはそのようにしました。長老は咆哮する若いライオンのように、三蔵経典に基づいて説法しました。お釈迦さまは座から立ちあがって、比丘サンガにとりまかれて精舎に行かれました。そして比丘たちの務めがすむと、座から立ちあがり、居室の前に立って、比丘たちに助言を授けました。さらに瞑想を指導されてから居室に入り、右脇を下にして(獅子臥形という)床に就かれました。
さて、夕刻になると、講堂に比丘たちがあちこちから参集して、あたかも褐色の毛布を張り巡らしたように居並び、ブッダの威徳について話を始めました。
「友よ、マハーパンタカは、チュッラパンタカの気質を知らないで、四ヵ月かかっても一つの詩句を習得することができない、この者は愚鈍だ……と言って、精舎から追い出した。ところが、正覚者は、この上ない法の王であられ、ほんの半日のあいだに、彼に『無碍解』(特別な能力までも具わった大阿羅漢の境地)を授け、彼は、『無碍解』によって三蔵経典に精通するようになった。ああ、諸仏の御力はまことに偉大なものだ」と。
そのとき、世尊は講堂でこの話が始まったのを知られ、「今こそ私は行くべきだ」と、臥床から起きあがられました。濃い赤褐色の二重の衣を下に着け、稲妻のように輝く腰帯を結び、赤褐色の上衣をまとい、芳香室(お釈迦さまの居室は「芳香室」と呼びます)から出られました。ライオンの如く、雄々しく堂々とした歩調で、講堂に行かれました。そして、飾りたてた堂の中央の、立派に備えられた見事な座にあがられました。六色の光明を放ち、あたかも海の底までも照らしつつユガンダラの山頂に昇った朝日のように、座の中央に坐られました。正覚者が来られただけで、比丘サンガは、話を中断して沈黙しました。
お釈迦さまは、優しく慈しみの心で比丘たちをご覧になり、「この会衆はまことに立派だ。一人として無作法に手を動かしたり、足を動かしたり、咳ばらいや、くしゃみをする者がいない。この者たちはすべてブッダを尊重して敬意を抱き、ブッダの威光に畏敬の念を持ち、たとえ私が生涯話さずに坐っていても、先んじて話を切り出して語ることはないであろう。話を始める機会は私が承知すべきことだ。私がまず話をすることにしよう」と、妙なる神々しい声で比丘たちに告げました。「比丘たちよ、今どのような話をしていたのか。君たちが中断した話はどのようなものであったのか」と問われました。「尊師、私たちは、禁止されている卑しい話をしていたのではありません。世尊のすぐれた威徳を賞讃しながら坐っていたのです。『友よ、マハーパンタカは、チュッラパンタカの気質を知らないで、四ヵ月かかっても一つの詩句を習得することができない、この者は愚鈍だ……と言って、精舎から追い出した。ところが、正覚者は、この上ない法の王であられ、ほんの半日のあいだに、彼に『無碍解』を授け、彼は、『無碍解』によって三蔵経典に精通するようになった。ああ、諸仏の御力はまことに偉大なものだ』と話をしていました。」お釈迦さまは比丘たちの話を聞かれ、「比丘らよ、チュッラパンタカは今、私によって、もろもろの教えのなかでも大いなる教えを得たが、前生でも、私によって、もろもろの財産のなかでも大いなる財産を獲得したのだ」と言われました。比丘たちは、そのわけを明らかにされるよう世尊に懇請しました。世尊は、過去の生涯の隠れた経緯を説き明かされました。(次号に続きます)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
在家信者さんたちは、釈尊とその弟子たちに御布施の法要を競って行いました。しかしその機会は、なかなか得られるものではありません。釈尊は、翌日の接待の申し出しかお受けにならないのです。明後日、来週、来月などの約束は絶対なさらない。「明日、御布施を致したいので、家にいらしていただけませんか」と頼まなくてはいけないのです。そうなると、一人の接待しか受けられません。たとえ貧乏な人でも、誰より先に釈尊にお願いすることができれば、その人の接待を受ける。その次に国王が来て頼んでも、断るのです。アナータピンディカ長者、ヴィサーカー夫人、ジーヴァカ医師などは預流果の悟りに達していて、仏教におけるしきたり、習慣に詳しかったので、他の人よりも釈尊に食事の法要をするチャンスを得られました。しかし釈尊は、より大勢の人々に御布施の功徳を与えるために個人の接待を最小限にして、多く托鉢に出られたのです。
食事の法要が終わったら、必ず信者さんたちに説法をなさいます。それは、いただいた食事の施しに対する、仏陀からの法施なのです。説法の内容はその人の機根に応じて変わりますが、一般的には、御布施によってどれほど徳を積んだか、その結果としてどのように幸福になるかを説明されます。また、回向することによって先祖供養もさせます。信者が喜ぶという意味と、回向という意味も合わせて、食後の説法はパーリ語でanumodanāと言います。
この説法は、釈尊かサーリプッタ尊者などの大弟子たちが行うのです。信者さんが特定の比丘の説法を希望する場合、その比丘の鉢を預かります。他の比丘たちは帰られますが、この比丘は説法をしてから鉢を返してもらうのです。(↑※)
チュッラカ長者の話C
Cullakaseṭṭhi jātaka(No.4)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
(前号から続きます)
その昔カーシ王国のバーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は長者の家に生まれ、成長して長者の地位を得て、チュッラカ(小)長者と名づけられました。彼は、賢明で有能であり、あらゆる吉凶を見分けられました。
ある日のこと、彼は王に仕えに行く途中で、路傍で死んだネズミを見つけ、その瞬間の星廻りを読んで、このように言いました。「能力のある人がこのネズミを取れば、妻を養い事業を営むことができるだろう」と。
そのとき、ある貧しい家の息子が、その長者の言葉を聞き、「この人が、いい加減なことを言うはずはなかろう」と、そのネズミを取って、ある酒屋で猫の餌用に売り渡し、小銭を手に入れました。その小銭で砂糖を入手し、水瓶に飲み水を入れて持ちました。彼は森からやって来る花環作りたちに出会って、少量ずつ砂糖のかたまりを与え一杓の水も与えました。彼らはお返しに、めいめい一つかみの花をくれました。彼はその花の代価で翌日も砂糖を手に入れ、水瓶を持って花園へ行きました。その日、花環作りたちは半分摘み残された花の茂みを彼に与えて行きました。彼は、まもなくこのような方法で八カハーパナ(八両)を得ました。
さらに、ある風雨の日に、王家の庭園に大量の枯れた小枝や大枝や木の葉が風のために落ちたことがありました。庭園の管理人は、これをどう処分したらよいのかわかりませんでした。彼はその場に行き、「もしこの枯木や葉を私にいただけるのなら、私はあなたに代わってこれらをすべて片づけてあげましょう」と管理人に言いました。彼は、「よろしい、持って行ってくれ」と承諾しました。チュッランテーヴァーシカ(チュッラカ長者の教えを受けた弟子、という意味)である彼は、子供らの遊び場へ行って砂糖を与えると、子供たちにすべての枯木や葉をすぐさま片づけさせ、庭園の門のところに山積みさせました。ちょうどそのとき、王家の陶芸家が王家の人々の陶器を焼くための薪を探していました。陶芸家は庭園の門のところでそれらを見つけ、彼の手から買いとりました。その日、チュッランテーヴァーシカは木を売って十六両と、瓶などの五個の陶器を手に入れました。
彼は、所持金が二十四両になったとき、「妙案がある」と都の門からほど遠からぬ場所に水瓶を一個据え、五百人の草刈り人たちに飲み水を供給しました。彼らは、「あんたは私たちに大変親切にしてくれた。あんたのために何をしてあげたらいいだろう」と訊きました。彼は、「私に何か事が起きたら、手伝ってください」と答えました。その後、彼はあちらこちらと動き廻っているうちに、陸路の商人や水路の商人と親しくなりました。陸路の商人は彼に、「明日、この都に馬の仲買人が五百頭の馬を連れてやって来るだろう」と教えました。彼はその言葉を聞くと、草刈り人たちに、「今日、私にひとつずつ草束をください。そして、私が草を売らないうちは、自分の草を売らないでください」と頼みました。彼らは、「いいとも」と承知して、五百の草束を運んできて、彼の家に積んで置きました。馬の仲買人は都じゅうで馬の草を入手できなかったので、彼に千両を渡してその草を買い取りました。
それから数日たって、水路の商人である友人が彼に、「港に大きな船がやって来た」と告げました。彼は、妙案が浮かんで、八両で、あらゆる装備のついた豪奢な車を借りてきて、威風堂々と船着き場に赴きました。船を買収するための誓約として指輪を一つ船主に渡すと、遠からぬ場所に天幕を張らせて坐りました。そして従者たちに、「外から商人がやって来た場合には、三人の門番を通じて知らせなさい」と命じました。「船が着いた」ということを聞いて、バーラーナシーから百人の商人たちが、「品物を手に入れよう」とやって来ました。だが彼らは、「あなたがたは品物を得ることはできない。某所の大商人が、すでに買収する契約をしてしまった」という話を聞いて、彼のもとへやって来ました。従者たちは前もって注意されていた通り、三人の門番を通じて、彼らのやって来たことを知らせました。その百人の商人たちは各自、千両を出して彼と一緒に船の所有者になり、さらに各自、もう千両ずつ出して彼に所有権を放棄させ、品物を自分らの所有にしました。
チュッランテーヴァーシカは、こうして二十万両を獲得してバーラーナシーに帰り、「恩に報いるのは当然だ」と、十万両を持ってチュッラカ長者のもとへ行きました。すると、長者は彼に、「君は何をしてこの財産を獲得しましたか」とたずねました。彼は、「あなたが話された方法にもとづいて、ちょうど四ヵ月の間に獲得したのです」と、死んだネズミのことから始めてすべての出来事を語りました。チュッラカ大長者は、彼の言葉を聞いて、「このような若者を他人にとられてはなるまい」と思い、年ごろの自分の娘を与え、自分の後継ぎとして、全資産の所有者としました。彼は長者の死後、その都における億万長者の地位を得ました。また、菩薩であるチュッラカ長者は、業に従って生まれかわって行きました。正覚者は、この説法をされてから、次の詩句を唱えられました。
才能ある賢者は
資金がわずかでも
見事に身をたてる
微かな火種を
吹き起こすように
こうして、お釈迦さまは、「比丘らよ、チュッラパンタカは今、私によって、私の教えのなかで最高の法を得たが、前世でも、私によって、財産のなかでも巨万の冨を獲得したのだ」と言われました。このように二つの出来事を語られると、過去を現在にあてはめられ、「そのときのチュッランテーヴァーシカはチュッラパンタカであり、チュッラカ大長者は実に私であった」と言われて、説法を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
この世ではダメな人間など、存在しません。それは、仏教が人々に対して示す姿勢なのです。仏教の前では、全ての人間は、本来幸福に満たされている、能力に溢れているものなのです。いかなる人でも「ダメな人間だ」と、捨ててはならないのです。人にどれほどの能力が秘められているのかなど、そんなに簡単に分かるものではないのです。
しかし、実際の世界では、成功する人も失敗する人も中途半端な人も、ありふれています。これを正確に表現するならば、「成功する人の数は、極めて少ない」という言い方になるのです。それは運命でしょうか? 諦めるべきでしょうか? 違います。方法の問題です。自分に適した方法を用いない限り、秘められた才能は発揮されないのです。私たちは、同じ手段で、同じ方法で、全ての人々を育てようとしているのです。これが、大失敗の元です。教育の場でも、落ちこぼれが出てくるのは、決してその子供たちの頭が悪いからではありません。その子供たちに既成の教育方法が合わなかっただけです。自分の能力も充分発揮できていない社会人には、各々の能力を充分発揮させるような教育システムは作れないのです。教育を受けることに向いていない人にも、幸福になれる別な道があるはずです。それを発見できないから、この世は失敗者で溢れているのです。
釈尊は「善逝」、「調御丈夫」と呼ばれています。それは、釈尊が具備されていた、各々の人の秘められた能力を発揮させ導くことができるという、この上ない能力を示す称号なのです。釈尊が遺された教えも、社会のあらゆる人々が幸福になるために、解脱を得るために教示されたものです。あなたに適した教示も、経典の中に必ずあるのです。それを発見してみましょう。人生も成功するし、解脱も得られると思います。人は、賢者の話に耳を傾けるべきなのです。
偉大な猿王物語
Mahākapi jātaka(No.407)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダが、ジェータバナという町で語られたお話です。
ある時比丘たちが、お釈迦さまが日々衆生の解脱のために休むことなく憐れみをもって心配なさっているにもかかわらず、自分の親族のためにも行うべき義務を果たされていることを話していました。するとそこにお釈迦さまが来られ、「何を話しているのか」とおたずねになりました。比丘たちがお答えすると、お釈迦さまは、「如来は、過去生でも一族のために行動したのだ」と、過去の物語をお話しになりました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は猿として生まれました。強くて立派な猿に成長した菩薩は、八万匹の猿たちのボス猿になってヒマラヤに住んでいました。ヒマラヤ山に流れるガンガー河のほとりには、小山のように大きくてフサフサと葉が生い茂るマンゴーの大木がありました。その木には、ほっぺたがとろけるほどおいしくて水ガメみたいに大きなマンゴーの実が、あふれんばかりに実るのでした。賢いボス猿は、他の猿たちとマンゴーを食べながら、「もしも川の中に実が落ちて流され、それを人間が見つけたならば、たいへんなことが起きるだろう」と考えました。そして、川の中に実が落ちないよう注意して、皆にもよく注意させ、川にせり出した枝の実を小さいうちにつみ取るように気をつけていました。
ところが皆で気をつけていたにもかかわらず、熟れたマンゴーの実が一つ、川に落ちて流されてしまったのです。ちょうど川の下流では、王様が川遊びをして魚を捕らせていました。マンゴーは魚の網にかかり、漁師がそれを王に差し上げました。王はマンゴーを食べてその最高の味にとりつかれ、「この実がなっている木を探せ」と大臣に命じました。家来たちは方々を探し、ヒマラヤ山中のガンガー河上流にその木があることをつきとめました。王はたくさんの筏(いかだ)を作り、大勢の家来を引き連れて川を遡(さかのぼ)りました。マンゴーの大木を見つけた王は熟れた実を拾い、思う存分食べました。満足した王は、その夜はそこに泊まることにして食事をとり、眠くなって木のそばに立派な寝床をつくらせて寝てしまいました。
菩薩の猿は、猿たちと夜中にマンゴーの木にもどり、皆で果実を食べていました。その時王が目を覚ましました。王は、猿たちがおいしい果物を食べているのを見て腹を立て、猿肉も食べてやろうと思いつき、「この猿どもを取り囲め。明日の朝、射殺して猿鍋にするのだ」と家来たちに命じました。弓矢を持った人間にねらわれていることに気づいた猿たちは震えあがり、「ボス、たいへんです! 我々は恐ろしい人間たちに取り囲まれています」とひどく怯えながら訴えました。
ボス猿はまず、「みんな、恐れなくてもいい。私がおまえたちを助けよう」と力強く言って、皆を落ち着かせました。川向こうに飛び越えると矢は届きませんが、川幅はとても広いのです。普通の猿が飛び越えるのはとても無理です。しかしボス猿には強い脚の力があったので、すぐに向こう岸にビューンと飛び移りました。ボス猿は丈夫な蔓(つる)を探し、「私が飛んだ河の幅はこの長さ、木に結ぶためにはこれだけ必要」とちょうどの長さに切ろうとしました。そのために忙しくて自分の足に結ぶ長さを足すのを忘れました。ボス猿は、丈夫な木と自分の足に蔓の端をそれぞれしっかりと結びつけ、川を素早く飛び戻りました。ところが、足に結んだ分の長さが足りず、木にたどり着くことができません。
それでも、菩薩であるボス猿は慌てません。両手でマンゴーの枝をしっかりとつかみました。そしてそのままで、「さあみんな、早く、私の背中を橋にして、私を踏んで、蔓の上を渡って向こう岸へと逃げなさい」と言ったのです。八万匹の猿たちは、「お頭(かしら)、本当に申し訳ない、申し訳ない」と許しを請いながら、言われたとおりに次々と向こう岸に渡りました。
猿の群のナンバー2がこれを見て、密かに喜びました。「これは俺のジャマ者のボスを追い払う良いチャンスだ」と思ったのです。その猿はわざと最後まで残って高い枝に登り、そこからボス猿の背中に思いっきり飛び降りました。勢いをつけてひどく蹴りつけたのです。ボス猿の内蔵は破裂し、耐えられないほどの苦痛がボス猿を襲いました。ボス猿を蹴りつけた猿は、そのままそこを立ち去りました。
ブラフマダッタ王は、その一部始終をしっかりと見ていました。王は、「あのボス猿は、動物ではありながら、自分の命も顧みずに仲間たちを助けたのだ」と感動し、「この猿の王を死なせてはならない。ちゃんと手当をするように」と家来たちに命じました。ボス猿はゆっくりと木の枝から下ろされ、ガンガー河でていねいに沐浴させられました。そして、高価な薬油を塗られ、砂糖水を与えられ、油引きの革の上に黄色い衣をかけて横たえられました。
ブラフマダッタ王はボス猿の下座に座り、詩でボス猿に問いかけました。
みずからを、踏ませてまでも
河を渡らせ、皆を救う。
あなたは彼らの何なのですか。
彼らはあなたの何なのですか。
大猿よ。
これを聞いた猿の王も、詩で答え返しました。
私は王で、彼らを治める頭(かしら)です。
恐れ怯えて泣き崩れる
彼らを決して見放すものか。
後ろ足に蔓(つる)をしばり、
百本の矢を巧みに避け、
風に飛ぶ雲のように、
河をひらりと飛び越えた。
マンゴーの幹にはたどりつかぬが、
両手で枝をしっかりと捉えた。
蔓と私を橋にして、
猿たちは無事に河を渡った。
蔓の枷(かせ)は私を痛めつけず、
死も私を苦しめない。
彼らに平和をもたらして、
王の務めを果たしたのです。
王よ、これはあなたにも良い例えである。
王たるものは、国、国民、兵隊、村、
すべてのものに、幸せを与えるべきです。
それは、政治家の務めである。
このように王を諭す詩を唱えた後、ボス猿は亡くなりました。ブラフマダッタ王は深く感銘を受け、大臣たちを集め、猿の王の葬儀を国王と同じように盛大に執り行うよう命じました。大臣たちは車百台分の薪の山をつくり、ボス猿をそこで荼毘(だび)に付した後、その頭骨を王に渡しました。ブラフマダッタ王は、ボス猿の頭骨に黄金をちりばめさせました。ボス猿の火葬場にはストゥーパが建てられて灯火を灯され、香料や花が供養されました。王はきれいに飾った頭骨を槍の先につけて先頭にたて、香料や花で供養しつつバーラーナシーに戻りました。ボス猿の頭骨は城内の廟(びょう)に安置され、街はきれいに飾られて、七日間のあいだ国中で喪の供養が行われました。ブラフマダッタ王は一生涯、菩薩の猿の廟を香料や花で供養しました。そして、その戒めの教えに基づいて徳行を行い、国を公正に治めました。王はその徳により、死後、天界に生まれました。
お釈迦さまは過去の物語を終えられ、「その時の王はアーナンダであり、ボス猿を蹴りつけた猿はデーヴァダッタでした。八万匹の猿たちはブッダの弟子たちであり、猿の王は私でした」とお話しになりました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
仏教が理想と考えている政治論があります。その複雑な政治論のまとめを、このエピソードで簡単に表現してあります。王といえば、現代語では「政府・国家」になります。現代の国々が議員制度で統治されていても、最高責任者は必ずいます。世界中の政治家は、国より先に、自分の権力を安定させることを第一にします。第二の義務は、自分と仲間達の懐を肥やすことです。その二つの目的を全うする上で、国民にも何か良いことが起きる可能性があります。が、ほとんどの場合は、ろくな結果にはなりません。こういう政治体制を、仏教は昔からも批判してきたのです。
仏教が批判したのは、現代のように言論の自由がある民主主義的な政治政党ではなかったのです。政府は王でしたから、専制君主なのです。批判するのは、とても危険なことなのです。しかし仏陀は、怒り憎しみではなく政治家と国民の幸福を切願して論理的におっしゃるので、仏陀に逆らった王はいなかったのです。このエピソードでは、猿のボスさえも、自分の命を犠牲にしてでも群の幸福と平和を守ってあげるのです。「苦しい目にあって、私は何を得るのか」とは、決して考えない。王になったのは、贅沢三昧で民を搾取して生きるためではなく、その民を我が子のように愛し、守ってあげる為なのです。ですから、楽な仕事ではない。国の命が自分に委ねられているのです。菩薩の猿王が人間の王に言った「これはあなたに対しても良い例えです」という言葉が、仏教が政治家に言いたいことをダイレクトに、インパクト強く表現しているところです。
政治家が国を守った、平和にしてあげた、国民の生活を楽にしてあげた、皆を幸福にしたと言えるならば、その充実感こそが、唯一の報償なのです。政治とは、国民に痛みを伴う政治をやることではなく、自分が苦難を受けながらでも国民を幸せにしてあげる、菩薩行なのです。
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ケチケチ大富豪の物語@
Illīsa jātaka(No.78)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
マガダ国にサッカラという町があり、マッチャリコーシャという億万長者の豪商が住んでいました。マッチャリコーシャはひどいケチでした。草の先の露ほどのものさえ、決して人に与えません。お金があるのにケチケチと切りつめて暮らし、鬼の住む蓮池のように誰も寄せつけずに生活していました。
ある朝お釈迦さまは、慈悲の目で世間を見渡され、サッカラの豪商とその妻は預流果の悟りを得る能力があることをご覧になって、彼らに法を説いてあげようとお考えになりました。
その日の前日、マッチャリコーシャはお城に出かけ、お城から帰宅する途中、男が道ばたで米粉で作った揚げ菓子をおいしそうに食べているのを見ました。豪商は、自分もすごく食べたくなりました。しかしケチな豪商は、「私が食べて、家の皆にも食べさせるはめになったらたいへんだ」とガマンしました。そのうちに、だんだん体が黄色くなって青筋が浮き出てきました。豪商は苦しくなって、寝床にしがみつくように横になりました。それでも揚げ菓子のことは、決して誰にも言わなかったのです。
妻が心配して、「どこか悪いのではないですか」「お城で何かあったのですか」「家の者が、気に障ることをしましたか」「何かほしいものがあるのではないですか」と色々と訊いても、「別に何もないのだ」と生返事ばかりして寝ています。それでも妻が「何かほしくないですか。何でも言ってください」としつこく言うと、やっと「米粉の揚げ菓子が食べたい」と言ったのです。
妻は、「どうして黙っていたのですか。町中の人に揚げ菓子を作って振る舞いましょうよ!」と喜んで言いました。豪商は「とんでもない!人のことは放っておけ!」と怒りました。「では近所に振る舞いましょうよ」「何という大盤振る舞い屋だ!」「では家の皆に振る舞いましょう」「何という浪費家だ!」「では家族で食べましょう」「子供たちには贅沢だ!」「では、私たち二人で食べましょう」「なぜおまえまで食べるのだ!」。何を言われても機嫌が悪かった豪商は、「では、あなただけのために作りましょう」と妻が言うのを聞いて、やっとうなづきました。
「台所で作ると皆にバレる。米粉と牛乳とバターと砂糖とハチミツ、それに鍋とかまどを七階の部屋に用意して、そこでこっそり作っておくれ」と豪商は言いました。妻は「はい、はい」と、言われた通りのものを準備させました。豪商は建物にも部屋にも鍵をかけ、七階の高殿の部屋の中で、やっと安心して椅子に腰掛けました。妻は豪商のために揚げ菓子を作り始めました。
ブッダの十大弟子のお一人に、モッガラーナ尊者という神通力に優れた大長老がおられます。ブッダはモッガラーナ尊者に、「モッガラーナよ、サッカラの強欲な豪商が、揚げ菓子を独り占めしようとして七階の高殿の部屋にいる。そこへ行って教えを説き、彼の妻と彼をこちらに連れてきてください」とおっしゃいました。モッガラーナ尊者は「かしこまりました」と、すぐに神通力でそちらに飛び、豪商がいる七階の部屋の窓の外に、衣を形良くつけ、宝石の像のようにすらりと立ちました。
一般の人には、神通力など、まず見せることはありません。モッガラーナ尊者が窓の外にいるのを見たら、誰でも驚くはずなのです。しかし欲で目がくらんでいる豪商は、その力を賛嘆するよりも、揚げ菓子を取られることを思って心臓が震えました。「こういう連中を避けて七階に来ているのに、窓の外にまで来て立っているとは!」と、鍋で煮詰めた砂糖のようにブツブツと怒りながら、「修行者よ、そこで何を得ようとしているのか。あなたが空中で歩行しても何も得られないだろうよ」と言いました。モッガラーナ尊者はその場で歩く瞑想をしました。豪商が「空中で歩いてもムダだ。空中で坐っても何も得られないのだ」と言うと、尊者は結跏趺坐を組みました。豪商が「ムダだ! 窓の敷居に立っても何も得られないぞ」と言うと、尊者は窓の敷居のところに立ちました。「ムダだ。たとえ香をたいても何も得られないのだ」と言うと、尊者は香をたきました。部屋全体にお香の煙が立ちこめ、豪商は目が痛くなりました。豪商は、家が火事になっては困るので「炎を出しても何も得られないぞ」とは言わないようにして、「しょうがないから一つだけ菓子をあげて帰ってもらおう」と思い、「小さな菓子を一つ作って出家者に与え、追い返しなさい」と妻に命じました。妻は少量の種を鍋に入れましたが、菓子は大きくふくれました。「妻にまかせてはおけない」と、豪商が自分で小さなお菓子を作ろうとしました。すると、前よりもっと大きくなりました。いくらがんばっても、全部大きくなるのです。根負けした豪商は、「いちばん小さな菓子を捜して一つあげなさい」と言いました。妻が小さいのを取ろうとすると、全部の菓子がくっついてしまいました。豪商が来て、一つだけ菓子を取ろうとしても、取れません。二人で両端を持って引っ張りましたが、取れないのです。一生懸命になっているうちに汗が出てへとへとになりました。豪商はやっとモッガラーナ尊者の神通力の偉大さに気づきました。そして、優れた出家者にさえケチケチしている自分がとても恥ずかしくなりました。彼は「もう私は揚げ菓子はいらない。全部お坊様にお布施しなさい」と言いました。
妻が菓子を持ってモッガラーナ尊者のところに行くと、尊者は彼らのために、お布施について法を説きました。布施の功徳を天空の月のように説き示された豪商は、生まれてはじめて清らかな信仰心を起こしました。そして「尊者、どうぞこちらの椅子に坐ってお菓子を召し上がってください」とていねいに言ったのです。尊者は「豪商よ、正しく悟りを開いた方が、五百人の修行僧と共に僧院におられます。もしよければ一緒に師のもとに行きましょう。師はここから四十五ヨージャナ離れた祇園精舎におられます。もしお望みなら、私の神通力でお連れしましょう」と言いました。豪商の夫妻は「よろしくお願いします」とお願いしました。
モッガラーナ尊者は、部屋の階段の下に祇園精舎の門をつなげました。豪商の夫婦は、階段を下りて祇園精舎に入りました。二人は、僧団に供養の水を献上し、お釈迦さまの鉢に揚げ菓子を入れました。師が、ご自身の生命を維持するだけ取られると、五百人の比丘たちも、次々と同様に菓子を取りました。豪商と妻も食べたいだけ取り、物乞いの人々にも与えましたが、菓子はなお余りました。余った菓子は門の近くの洞穴に捨てられました。豪商の夫婦は釈尊の傍に行って祝福の言葉を与えられ、釈尊から法話を聞いて預流果の悟りを得ました。
翌日、比丘たちが昨日のことを話していると釈尊が来られ、「何を話しているのか」とおたずねになりました。「昨日、モッガラーナ尊者が貪欲な豪商を教化して尊師に会わせ、預流果の悟りを得させたことを話しておりました」と皆が答えたところ、釈尊はモッガラーナ尊者をほめて次の詩を唱えられました。
ミツバチが花を損なうことなく
蜜を取り去って行くように
聖者は人々を損なうことなく、
村々を歩く (ダンマパダ49)
そして、「モッガラーナが欲張りな豪商を導いたことは過去にもあった」と、過去の物語を話されました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
■ケチの定義
物惜しみというより、ケチといえば、それは何かと誰でもご存知だと思います。自分のものを他人と分かち合わない人のことを、ケチだと言うでしょう。その意味は、かなり甘いのです。これから、ケチの意味を理解しておきましょう。
ケチは、一種の精神的な病気です。ケチ菌が心に感染したら、じわじわとその人の心を蝕んでいくのです。突然発病する病気ではありません。感染したその日から病気となって、その症状がじわじわと悪化して、人を破壊のドン底に陥れるのです。最初は何の危険も感じないが、心の明るさが消えていくのです。笑えなくなる、生きることは面白くなくなる、人付き合いは嫌になる、外へ出掛けたくない。大衆を集めてお祭りなどの楽しい催し物などをやっていても、無料で参加できるのに、人混みは耐えられない。しかし、引っ込みながら、自分も参加したい、楽しみたいと、悶々と悩む。友人は皆いなくなる。次に、親戚は親戚関係を絶つ。家族はバラバラになる。一緒にいても、自分の話は聞いてもらえない。時々妻や子供が大胆な行動をとって、財産を破壊する。例えば、家を担保にして、商売をするために詐欺師たちからお金を借りる。麻薬に手を出す。暴力団に入るなどです。それから、その人の自然環境も悪くなっていくのです。台風が来たら、先に自分の家が壊れる。白蟻やねずみなどが家に住みつく。目には見えないが、不幸を招く悪霊たちが家にも身体にも取り憑く。
それで終わらない。健康も崩れていく。治療不可能な病気にかかる。簡単な病気でも、なかなか治らない状態になる。それによって寿命が縮むか、長生きしても病弱で苦しむかのいずれかです。人格は崩れて、徳は消える。暗い思考のお陰で、心が怒り・憎しみに溢れる。一人寂しく死んで、地獄に堕ちる。たとえ人間界に生まれても、皆に嫌われる不格好な身体を持つ。子育てもできないほど経済状態が厳しい家に生まれる。ケチ菌に感染したら、症状はこのように悪化していくのです。(次号に続く)
ケチケチ大富豪の物語A
Illīsa jātaka(No.78)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、イッリーサという億万長者の豪商がいました。彼は体にあらゆる障害をもち、手は不自由、足はびっこ、目は片目というありさまでした。しかも邪見があり、物惜しみをし、強欲で、人に何一つ与えませんでした。イッリーサの家は、七代にわたって施しをする慈善家として知られた家でした。けれどもイッリーサは、家のしきたりを破って施しのためのお堂を焼き払い、貧しい乞食が来ると背中を打ち据えて追い返させるほどでした。
イッリーサ豪商はある日お城に出かけ、帰宅する途中、腐った魚を肴にして酒を飲んでいる人を見かけました。そして、自分もひどく酒を飲みたくなりました。しかし、「もし私が酒を飲めば、うちの者どもも飲む。大事な財産が減ってしまうぞ」という考えが浮かび、ガマンしました。そのうちに次第に体が黄色くなり、青筋が浮き出てきました。豪商は苦しくなって、寝床にしがみつくように横になりました。でも酒のことは、決して誰にも言いませんでした。
妻が心配して色々と聞いても生返事ばかりして寝ています。それでもしつこく訊くと、やっと「酒が飲みたい」と白状しました。そこで、「どうして黙っていたのですか。町中の人に酒を振る舞いましょうよ」「人のことは放っておけ!」からはじまって、前回の話と同じように、「では、あなたお一人で飲んでください」と妻が言うまで、豪商は文句を言い続けました。一人で酒が飲めることになって落ち着いた豪商は、こっそりと酒を買ってこさせて川へ行き、川岸の茂みに隠れて酒を飲み始めました。
イッリーサ豪商の父は、生前の善行によって、死後、帝釈天(サッカ神)となって、天界に住んでいました。帝釈天はある日、下界をのぞき、息子が家のしきたりを破って慈善を一切行わなず、一人でこっそりと酒を飲んでいるのを見ました。帝釈天である父は、「息子に『行為とその果報』という因果関係を教えてやろう」と思い、人間界に降りて息子そっくりの姿に化けました。
イッリーサに化けた帝釈天は、まずお城を訪ね、「私の家には八億の財産があります。それを王様に差し上げたいと存じます」と申し出ました。王は、「その必要はない。私には十分財産がある」と、断りました。彼は「では私は施しをしようと思います」と言って、王の許可を得ました。帝釈天は豪商の家に行き、門番に「私を語って家に入ろうとする者がいたら、背中を打って追い返せ」と命じてから家に入りました。そして豪華な椅子に座り、豪商の妻に、「妻よ、私はこれから皆に施しをしようと思う」と言いました。その言葉を聞いた妻や子供や使用人たちは、「旦那様は酒を飲んで気が大きくなってしまった」と驚きました。妻は「どうぞお好きなように皆にお与えください」と答えました。帝釈天は「それでは、『金・銀・宝石・真珠がほしい人は、イッリーサ豪商の家に行け』と太鼓を打って町中にふれまわすように」と妻に命じました。
おふれを聞いた大勢の人々が、思い思いの入れ物を手に豪商の家に集まりました。帝釈天は「望むだけ取りなさい」と蔵を開けました。みんな大喜びで、あれこれと、宝物をいっぱい持ち帰りました。ある田舎者が豪商の牛に豪商の宝を満載し、豪商をほめたたえながら歩いていました。「イッリーサの旦那、万歳! おかげで私も金持ちだ。この財産は親にもらったのではない。すべてイッリーサ様のおかげです」。その言葉が、酒を飲んでいる豪商の耳に入りました。
驚いた豪商は、「男が私の財産をもらったと言っている。王様が略奪など許されるはずがない」と、茂みから飛び出しました。すると、自分の牛が自分の宝物をいっぱい引いて歩いています。豪商は慌てて、「返せ! これは全部私のものだ!」と牛の鼻紐を取りました。田舎者は「何をする! イッリーサ様が私に施してくださったのだ!」と、雷が落ちる勢いで豪商の肩を打ちすえました。豪商はその場に倒れましたが、震えながら立ち上がって泥を払い、追いすがりました。田舎者はイッリーサの髪をつかんで頭を地面にたたきつけ、立ち去りました。あまりのことに、豪商の酔いは、すっかりさめてしまいました。
慌てて家に戻った豪商は、自分の財産を持ち帰ろうとする人々を見て驚きました。「これはいったいどうしたことだ! 王様が私の財産を略奪してもいいと言ったのか!」と、皆の胸ぐらを捕まえて叫びました。人々は豪商を殴りました。痛みと混乱で狂いそうになった豪商が家に入ろうとすると、門番が竹の棒で彼の背中を打って追い返そうとしました。豪商はもうわけがわからなくなって、「もはや王様に助けてもらうしかない」と、急いでお城に行きました。「王様、なぜ我が家の略奪を許されたのですか」と王に訴えたところ、王は「そなたが自分でやって来て、財産を差し出すと申し出たのだ。私が断ると、町中に施しをすると触れ歩いたではないか」と答えました。「そんなバカな。私がすごいケチなことをご存じでしょう。私は草の先の露ほども人に与えないのです。私を語った者を呼び、どうぞお調べください」と、豪商は王に懇願しました。
豪商の家に使いがやられ、豪商に化けた帝釈天が城に呼ばれました。二人はそっくりです。誰にも見分けがつきません。豪商の妻が城に呼ばれました。妻は、「こちらが主人です」と、帝釈天の側に立ちました。子供たちや使用人も呼ばれましたが、皆、帝釈天の側に立つのです。困り果てた豪商は、「私の頭には髪に隠れた腫れ物がある。私の賢い理髪師を呼べば、私が本物だとわかるだろう」と考えました。理髪師が呼ばれて二人の頭を見ようとした瞬間に、帝釈天は自分の頭にも腫れ物を作りました。理髪師は二人の頭を見て「王様、二人とも同じ腫れ物があり、どちらが本当のイッリーサ様か見分けることはできません」と、次の詩を唱えました。
どちらもびっこ、
どちらも片目、
どちらにも腫れ物、
どちらがイッリーサかわからない
イッリーサ豪商は心配のあまり気を失い、その場に倒れました。それを見た帝釈天は本当の姿を現し、「王よ、私は帝釈天です」と慈愛にあふれた姿で空中に立ちました。イッリーサは水をかけられて息を吹き返し、立ち上がって帝釈天に頭を下げました。
帝釈天は「イッリーサよ、家の財産はおまえのものではない。私はおまえの父だ。善行を積んだ徳によって、死後、帝釈天となった。おまえは強欲で、家のしきたりを破って慈善堂を焼き払い、乞食を追い払って、鬼の住む蓮池のような家にして財産を守っている。もしもお堂を元通りにして慈善行をするならよし。さもなければ、財産はすべて奪い、金剛杖で頭を割ってしまうぞ!」と叱りつけました。イッリーサは震え上がり、「絶対に慈善行を行います」と誓いました。帝釈天は空中に坐って豪商に法を説き、五戒を授けてから天界へと戻りました。心を入れ替えたイッリーサ豪商は、帝釈天の教えに従って善行を行い、その徳によって死後天界に生まれました。
お釈迦さまは過去の物語を終えられ、「その時のイッリーサ豪商はサッカラの欲張りな豪商であり、帝釈天はモッガラーナでした。王はアーナンダであり、イッリーサの理髪師は私でした」とお話しになりました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
■ケチもいろいろ
いろんな種のケチがあります。子供にはあげるが、旦那にはあげない。家で節約の盾に隠れてケチをして、外で友人たちと一緒に豪遊する。金はあげても物はあげない。物はあげても金はあげない。食べ物なら分かち合っても、金や物などは絶対あげない。また食べ物だけに一貫してケチに徹する。異性には太っ腹ですが、同性には厳密に厳しい。
利口・慈しみなどを演じて、ケチ菌を養う人もいる。例えば、「他人から得たものは無駄にしないで、有効に使う人にあげるべきです。難民を援助すると、戦争する人々はいい気になって戦い続けるから援助を止めましょう。貧しい人に物をあげると怠け者になって仕事をしないので、あげること自体が不善行為になるのだ」などと言うのです。
■ケチな人は頭がおかしい
「自分が汗水を垂らして儲けたものは自分のものである。それは他人にあげる必要はない。他人に貰う権利もない。自分の金を自分が使って何が悪いのか」と思う。それはケチな人の逆さま思考です。他人の協力なしに金は儲かりません。自然・生命・人間の協力があってこそ、自分が恵まれているのです。その協力がなければ、自分一人でいくら頑張っても水の泡です。ですから、自分が得た収入も、結局は自分一人のものではありません。
「お前を食わしているのではないか」と妻を侮辱する、想像を絶するほどケチな人もいる。たったこの一言葉で、その人は自分の人生を台無しにするのです。死ぬときは置いていくものですから、財産は決して自分の物にならないと仏陀が説かれる。
「自分さえも自分のものではないのに、私に家族がいる、財産があると思う愚か者は、悩み苦しむ。」(ダンマパダ62)
他人と分かち合って生活する人は、財産にも良い人間にも恵まれるのです。道徳を守り、精神を清らかにする修行者に施しをすると、徳と智慧にも恵まれるのです。誰にあげても良いのですが、罪を犯す人を応援して物をあげることだけは、徳ではなく罪になります。完全たる真理を語り続ける、戒を守る仏弟子達にする布施は、最大の徳になる。
この物語はケチのあまりに、精神病にかかった人の話です。精神的に発病したならば、ショック療法しないと治らないのです。
幸運物語
Siri jātaka(No.284)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがコーサラ国、舎衛城近郊の祇園精舎におられた時のお話です。
祇園精舎を教団にお布施したのは、舎衛城のアナータピンディカ長者という大富豪です。長者は在家仏教徒として、生涯にわたって、毎日毎日、金に糸目をつけずにお食事や日常品のお布施をしつづけました。ある時、大金を貸した知人の舟が嵐にあうなどの不運が重なり、長者の財産が傾いたことがありました。それでも長者は全く気にせずに、毎日教団にお布施をつづけていました。財政を心配したアナータピンディカ家の守護神が、「今はお布施はやめてください」と言いました。長者はそんな言葉には全く従わず、それどころか、守護神を追い出してしまったのです。家を追い出された守護神は困り果て、帝釈天に助けを求めました。しかし、帝釈天でさえ、ブッダと親しいアナータピンディカ長者に意見できるほど偉くはありません。帝釈天は、「君は、早く長者の家に戻り、彼の財産を回復しなさい。そうすれば、許してくれるだろう」とアドバイスしました。守護神はその言葉に従って懸命に働いて、長者の財産を元に戻し、長者に許してもらいました。
そのように、貧乏になってもすぐにまた大金持ちになる長者を見て、あるバラモンが、「アナータピンディカ長者のところには幸運の神がいるにちがいない。客人のような顔をして訪問し、幸運の神を盗んで来てやろう」と考えました。このバラモンは幸運の神を見る能力があったのです。長者の家を訪ねたバラモンが「幸運はどこだろう」と見回すと、金の駕籠で飼われている真珠のように白い鶏の鶏冠に幸運の神がいました。バラモンは、「何とすばらしい鶏だ。私にはたくさんの弟子がいます。でもうちの鶏ときたら時間にルーズで、弟子達を起こさず、困っています。ぜひこの賢そうな鶏を私にください」と懇願しました。長者はサラッと「はい、どうぞ」と言いました。その言葉を聞いた幸運の神は、寝台の横に飾られた宝石の玉にパッと飛び移りました。バラモンは、あれこれ理由をつけて、宝石の玉をも懇願しました。欲のない長者が「どうぞ。それも、もらってちょうだい」と言ったとたん、幸運の神は長者の位を象徴する家宝の杖にパッと飛び移りました。バラモンは、またうまいことを言って、杖も、もらい受けました。すると幸運の神は、長者の第一夫人の額に飛び移ったのです。さすがの幸運泥棒も、奥さんをもらいたいとは言えず、「実は、私は幸運の神の相を知っています。今日は、幸運を盗もうと思ってやって来ました。ところが、幸運の神が宿ったものををもらい受けると、神はパッと他に飛び移ります。とうとう奥様の額に宿ってしまいました。いくら何でも奥様をもらい受けることはできません。私はあきらめました。やはりあなたのものは、あなたのものです」と言って、帰りました。
長者はこのことをおもしろく感じ、「お釈迦さまにお話ししよう」と思って祇園精舎へ行き、ブッダに礼拝して傍らに坐り、一部始終をお話ししました。ブッダは「長者よ、この度は幸運が他の者のところに行くことはなかったが、過去に、徳の少ない人の得た幸運が、徳多き人のところに行ったことがあった」と、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンに生まれました。成長した菩薩はタッカシラーで学問を習得し、両親が亡くなると出家して、ヒマラヤで修行をしました。ある時、バーラーナシーに托鉢に来た菩薩は、善良な象使いに出会い、彼に請われるままに象使いの庭園に滞在することになりました。
ある夜、森で薪を集めていて城壁の閉門時間に遅れた一人の木こりが、しかたなく森の神殿の祠で薪を枕に寝ていました。神殿の大木には野生の鶏たちが住んでいました。鶏たちは仲が悪いらしく、上の枝の鶏が下の枝の鶏の背中に糞を落としました。下の鶏が「何でこんなことするんだ!」と怒るのもかまわず、上の鶏はまた下の鶏に糞をかけたのです。怒った下の鶏が「聞いて驚くな。俺を殺して焼いて食べると、次の朝千金を得られるんだぞ!」と大声を出すと、上の鶏は「お前、そんなことでいばるなよ。俺の太ももを食べると王になる。外側の肉を食べると男は将軍、女は第一王妃。骨つき肉を食べると在家者は大蔵大臣、出家者は国師だぞ」と自慢しました。それを聞いた木こりは、すぐに上の枝の鶏を捕らえて殺し、城門が開くのを待ちかねて家に帰り、妻に鶏を料理させました。木こりは「まず沐浴して身体を清めてからこれを食べよう」と、鶏肉料理を壺に入れ、それを持ってガンガー河に行きました。木こりが沐浴していると、突然、高波が襲いかかり、壺をさらって、木こりを溺れさせました。木こりは、何とか水から逃れて、這々の体で家に逃げ帰りました。
波にさらわれた壺は下流に流され、象を沐浴させていた象使いがそれを拾いました。象使いは壺の料理を見て、行者に供養しようと思いました。菩薩の行者は、天眼によってこの一部始終を知り、象使いの家に行きました。そして、鶏肉料理を供養しようとした象使いに、「この肉は私が分けましょう」と言って、太ももの肉を象使いに、外側の肉を象使いの妻に与え、自分は骨のところの肉を食べました。そして、「あなたは三日後に王になるでしょう。そのことを心にとめておきなさい」と言いました。
三日後に、隣国の王が攻めてきて、城壁を取り囲みました。王は象使いに自分の服を着せて王に変装させ、「お前は象に乗って戦え」と命じ、自分は家臣に変装して戦場に出かけました。ところが王は、すぐに矢に射られて死んでしまったのです。それを知った象使いは、蔵から大金を取り出し、「金の欲しい者は前に出て戦え」と太鼓を打ち鳴らし、敵軍を蹴散らしてしまいました。
大臣たちは国王の葬儀を終えた後、王の座について協議しました。そして「王様は象使いに自らの衣を与えられた。象使いは勇敢に戦って勝利を得た。彼に王になってもらおう」と、象使いを王位につけました。象使いの妻は第一王妃となり、菩薩は国師となりました。
ここでブッダは過去の話を終え、詩を唱えられました。
財を集めることならば
能力を活かし、日雇いでもして
不運な人にもできること
しかし、財を享受することは
幸運な者にのみできる
他の人を乗り越えて
有徳者に冨は常に集まる
たとえ大不況においてさえ
そして、「長者よ、幸福な者とは善を行う者のことで、他のことではない。徳を積む人は、鉱山を持たなくても、宝石を得るのだ。
神々と人間が望むものをすべて与える宝がある。どんな願いであっても、かなえられる宝である。美貌、麗しさ、権力、地位などは望むまま。天輪王の幸福や天界の王の位さえ得られる。人間界の成功、天界のあらゆる楽しみどころか、涅槃の成就さえ、かなうのだよ。善友との深い結びつき、明知、自在性、真理の会得、解脱、弟子としての完成、独覚の境地など、ありとあらゆるものが得られる奇跡のような宝。その宝とは、善行為なのだ。ゆえに思慮ある者、賢者たちは、善行為を賞賛する」と説かれ、
鶏も、宝石も、杖も、妻も、
これらはただの幸運のしるし
清らかな徳を積む者を、
幸運が決して離さない
とアナータピンディカ長者をほめる詩を唱えられてから、「王になった象使いはアーナンダであり、行者は私であった」と話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
金を儲けることはそれほど難しくない。人は、沢山金を貯めて金持ちの気分になりたいと夢を見るが、金持ちになるということは、決して困難な行為ではありません。少々頭を働かせて自分がおかれている状況を判断すれば、金を手に入れる方法はすぐみえて来る。
しかし、今の人にはそれも難しい。自由な発想はない。頭は固い。思考はワンパターン。知識は感情に抑えられている。自分の自由な発想で商いをしようとするのではなく、皆やっていることの真似だけをする。そうなると競争の原理が働くので、金が入らなくなる。自分がユニークな思考で商いをするならば、自分にとってのライバルはいないのです。それで安定した収入を得られるのです。
金持ちになりたいならば、才能なんか無くても良い。日雇いで文句も言わず黙々と肉体労働でもするならば、金ぐらいは入ります。その金を使わず貯めておけば金持ちなのです。
「財産があるか否か」と「恵まれているか否か」は別々な話です。飲まず食わず奴隷のように働いて億万長者になっても、人生は成功しているとは言えない。明るいとも言えない。恵まれている人こそ、楽しく、明るく、不安が無く、生きているのです。恵まれているということは、財産はその人に対して正しく機能しているという意味です。わかりやすく言えば、使わない、使えない財産があっても、意味がないということです。幸福になるどころか、命が狙われるかも知れません。
徳を積んでいない人は、財産を正しく使う気にはならない。使ってみようとしても間違った使い方をするので、全財産が無くなるのです。人は、善行為をして徳を積むことを、大事に考えた方が良い。有徳者のところに財産は勝手に揃う。使っても使っても、また揃う。布施をすることなどで徳を積む人は、他人に貢献しているのです。人の役にたつ生き方をしているのです。皆に協力しているのです。そのような人の足を引っ張ろうとは、誰も思わない。その人の財産を盗むことも、その人の商売を倒産させることも不可能です。不況のどん底にいても、有徳者には収入があるのです。
人は「どうすれば金が儲かるか」ばかり考えて悩んでいる。それは暗い思考です。金が入るどころか、ある財産も逃げてしまうのです。徳を積むことに専念すれば、財産は勝手に入ってくるものなのです。
「ダダーン!」物語
Daddabha jātaka(No.322)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。そのころ祇園精舎の近くでは、多くの苦行者たちが、針のような棘のむしろの上に寝ころんだり、四〇度を超える炎天下の下で四方に火を炊いてひどい熱の中で坐ったり、死ぬほどの激しい苦行に明け暮れていました。比丘たちは、托鉢に行く途中で苦行者たちを見かけ、釈尊に、「尊師、彼らの激しい苦行には何か意味があるのでしょうか」とたずねました。釈尊は、「比丘たちよ、彼らの苦行には何の意味もないし、得るものもない。その内実は、便所に行く道のようなものであり、『ウサギが聞いた物音』と変わりはないのだ」とおっしゃいました。比丘たちが「尊師、『ウサギが聞いた物音』とはいったい何なのでしょうか」とお訊きすると、ブッダは過去の物語を話されました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は立派なライオンとして生まれ、獣たちの王となって森に住んでいました。
森の西側の海辺には椰子林があり、たくさんのウサギたちが住んでいました。ある日、一匹のウサギが食事を終え、椰子の根もとで寝ころんで、「もし大地がひっくり返ったら、どうすればいいかなぁ…」と不安そうに考えていました。すると、その瞬間、熟した大きな椰子の実が一つ、「ダダーン!」とすごく大きな音をたてて落下したのです。
ウサギはビックリ仰天して飛び起きて、「本当に大地がひっくり返るんだ!」と後も見ず、一目さんに逃げ出しました。死の恐怖で真っ青になってすごい勢いで逃げるウサギを見て、他のウサギたちが「どうしたんだ!」と驚いて訊きました。ウサギは懸命に逃げながら、「話なんかしてる場合じゃない!」と必死の形相で言いました。「これはただごとではない」と思ってさらにたずねると、ウサギは「大地がひっくり返るんだよ〜」と走りながら叫んだのです。それを聞いて、たくさんのウサギたちも、次々に逃げ出しました。我も我もと逃げる数は増え続け、とうとう十万匹のウサギの大群が、一斉に駆けだしたのです。それを鹿たちが見て、「どうしたのだ!」と訊きました。ウサギたちが「大地がひっくり返るんだよ〜」と皆で叫ぶと、「大変だ!」と鹿たちも一緒に逃げ出しました。それを見てイノシシたちが、「なぜ逃げるのだ!」と訊きました。皆が逃げながら「大地がひっくり返る、大地がひっくり返る」と言うのを聞いて、イノシシたちも逃げ出しました。次に牛たちが、次に水牛たちが、次に山羊たちが、つられて逃げ出しました。そして犀たち、次に虎たち、ライオンたち、さらに象たちまでが、皆、死の恐怖にとらわれて、「大変だ!大地がひっくり返る!」と、必死で逃げ出したのです。森中の動物たちの大集団が血相を変えて怒濤の勢いで走るという、たいへんな騒ぎになりました。
菩薩のライオンがこれを見て、「これはいったいどうしたことだ」とたずねました。皆、必死の形相で逃げながら、「大地がひっくり返るのです、逃げないとダメです」と口々に言いました。菩薩は「大地がひっくり返るなどということが、あるはずがない。皆、きっと何か勘違いしているに違いない。私が力を出さなければ、このまま走り続け、みんな海に落ちて死んでしまうだろう。彼らの命を助けてあげねばならない」と考えました。ライオンは、素速く皆を追い越して山の麓に先回りし、三度、百獣の王の雄叫びを大声で大地に轟かせました。さすがの動物たちも、その声の恐ろしさには足がすくみ、その場に立ちつくしました。
菩薩のライオンは、「なぜ逃げるのか」と改めて皆に訊きました。「王様、大地がひっくり返るのです」「誰がそれを見たのか」「象たちが知っています」「いえ、ライオンたちが知っています」「いえ、虎たちが知っています」「いや、犀たちに聞きました」「いえ、山羊たちが言ったのです」「いえ我々も知りません。水牛たちが知っています」「いえ、牛たちが見たはずです」「いえ、知っているのはイノシシたちです」「いえ、鹿たちに聞いたのです」「いえ我々は知りません。ウサギたちに聞きました」。そこで、ウサギの中の誰が見たのかということになり、一番最初に逃げ出したウサギが前に出ました。
菩薩のライオンは、「君はなぜ大地がひっくり返ると言ったのか」とたずねました。「王様、私は見たのです」「どこで見たのか」「西の海辺にある椰子の林の中です。ちょうど私が『もし大地がひっくり返ったらどうしよう』と考えていたところに、大地が割れるものすごい音がしたのです。私は心臓が止まるほど驚き、死ぬかと思って、必死で逃げてきたのです」。
それを聞いた菩薩は、「おそらく林の中の椰子の実が落ちて、ダダーン! と大音がしたのだろう。このウサギはその音を聞き、大地が割れると思いこんだに違いない。実際のところを確かめてみよう」と考えました。そして「私はこの者が大地が割れる音を聞いたところに行き、本当に大地がひっくり返っているかどうか調べてこよう。皆、ここで待っていなさい」と皆を落ち着かせ、ウサギを背中に乗せてライオンの高速で飛ばし、椰子の林に到着しました。「ウサギよ、どこで大地がひっくり返るのを見たのだ」「王様、恐ろしくてとても行けません」「ウサギよ、怖がることはない」。しかしウサギは怖がって、どうしても椰子の実が落ちたところに近寄ることはできません。そして震えながら、「王様、あそこが大地が割れる音がしたところです」と指をさし、詩を唱えました。
貴き人よ、我の住むところの近く
ダダーン! という地響きが鳴る
なぜにその音が鳴りしかは
我もまた知らぬなり
菩薩のライオンはその場所へ行って、とても大きなココナッツ椰子の実が落ちているのを見、「大地が割れる音」の原因を確かめました。菩薩はそのことを話してウサギを安心させ、彼を背中に乗せて、再び皆のところに素速く戻りました。そして動物たちに事情を説明し、皆を落ち着かせて自分たちの住処に帰しました。
動物たちが走っていた先には海に面した崖がありました。菩薩が止めなければ、みんな海に飛び込んで死んでしまうところでした。動物たちは、菩薩のおかげで、命拾いをしたのです。
椰子の実が、ダダーン! と落ちる音を聞き
必死で逃げるウサギあり。
ウサギの言葉を聞いたとき、
動物は、皆、怖れなす。
話を智慧で見れぬ者、
他人の言葉を鵜呑みにし、
人の叫びに従う者は、
他人の声に頼るのみ。
戒を守り、智慧があり、
静かさを楽しむ賢者であれば、
他人に頼ることはない。
お釈迦さまは「その時の獣たちの王は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
「ダダーン物語」は、お読みになっただけで、言わんとすることは理解できるでしょう。「子供向きのお話だ」と軽く見てしまう恐れもあります。しかしジャータカ物語は仏教の真理と道徳をよりわかりやすく明確に説明するものです。この物語は我々に何を示しているのでしょうか。
まず、このウサギちゃんは、腹一杯食べて居眠りしながら、余計な妄想を始めたのです。この妄想が大騒ぎの原因なのです。ここで「妄想なんかは全くもくだらない。かえって危険なものである」と教えている。妄想なんかは誰にでも簡単にできるのです。食べ過ぎたらそれに関連して何かを妄想する。飲み過ぎて酔っぱらったら、別なことを妄想する。仕事を失敗したら、また何かを妄想する。体調が崩れたら何かを妄想する。24時間、人は絶えず妄想し続ける。妄想の中身はバラバラで、一貫性があるものではないのです。公園で散歩をしながら何かを妄想して、家に帰ると子供たちが散らかした居間が目に入る。それでまた別なことを妄想する。人はその場でその場で、何かを妄想して生きている。妄想には何の一貫性もないから、ちょっと前に何を妄想したか、きれいさっぱり忘れる。これが、普通の人の生き方なのです。
「一貫性がない」というと、何か良くないことのように聞こえます。しかし、妄想に一貫性がないから先に考えたことを忘れられ、だからこそ妄想が大危機に至らず済むのです。もし人が一日中ワンパターンで同じことを妄想しているならば、精神病に陥ってしまうのです。だから妄想に一貫性がないことは悪いことではありません。しかし自分が何を考えているのかはさっぱりわからない生き方も評価できるものではありません。仏教は、妄想は大変危険なものであると教えるのです。
妄想することほど簡単な行為はありません。人の人生は妄想で始まるのです。赤ちゃんのときから、親が子供に妄想遊びをさせるのです。子供の遊びは、ほとんど妄想と戯れることです。それから我々は死ぬまで妄想し続けるのです。世間ではそれを「想像力」と評価する傾向があります。妄想を実行して人の役に立ったならば、その妄想に「想像力」と言えるでしょう。しかし、他人の役に立つ思考・アイデアなどに豊かな人間は、この世でとても少ないのです。妄想は無知から発生する心の回転なのです。生きるために必要な精神的なエネルギーが、この心の無駄な回転に浪費されるから、皆、常に疲れているのです。力がないのです。妄想さえ控えれば、人生はエネルギーに溢れる明るいものに、たちまち変わります。この物語に出てくる菩薩のライオン(仏教の立場)は、皆の役に立つことと事実とに基づいて考察するべきだと推薦しているのです。人の妄想を鵜呑みにせずに、事実は自分自身で確かめるべきものです。この世界は妄想の達人たち(無知の代物)に支配されているから、苦が絶えないのです。
「無常を観る者」の物語
Uraga jātaka(No.354)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。ある地主が最愛の息子を亡くし、片時も悲しみが忘れられずに嘆き暮らしていました。お釈迦さまは、この地主に預流果に悟る能力があることを観られ、托鉢の途中で彼の家に立ち寄られました。喜んだ地主が礼拝して傍らに坐ると、釈尊は、「居士よ、何を悲しんでいるのですか」とおたずねになりました。地主が「尊師、息子を亡くし、涙ばかり出るのです」と答えると、「居士よ、壊れる性質のものは壊れ、滅ぶべき性質のものは滅びる。それはある一人だけの話ではない。ある村だけでの話でもない。果てしなく広大な大宇宙(三界)の中で、死なない者はいないのです。一切の生きとし生けるものは死ぬ性質のものであり、つくられたものは壊れるものだ。過去の賢者たちは、我が子が死んでも『滅びるべき性質のものが滅びた』と知って、悲しむことはなかったのだよ」と説かれ、地主に請われるままに過去の話を語られました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある村のバラモンに生まれ、農業を営んでいました。菩薩には息子と娘がいました。息子は成人して嫁をもらい、菩薩の一家は皆で仲良く暮らしていました。菩薩は、「お前たちは、それぞれ自分のできる範囲で施しを行いなさい。行いを正しくし、懺悔するのだよ。そして死を随観し、自分たちも死ぬことを観じなさい。死は確かなものだが、生は不確かなものだ。すべてのものは無常であって滅ぶ性質のものだ。それを、夜も昼も忘れないように、努め励みなさい」と皆に教えました。家族の者は「お父さん、よくわかりました」と菩薩の言葉を受け入れて、死の随観に励みました。
ある日、菩薩はいつものように息子と農作業に出かけました。息子が畑のゴミを集めて焼いたところ、その煙が近くの蟻塚に入り、蟻塚に住む毒蛇の目を痛めました。毒蛇は怒って蟻塚から這い出し、「こいつのせいだ」とばかりに息子の足を猛毒の牙で噛みつきました。息子は即死状態でその場に倒れました。菩薩はすぐに息子に駆け寄りましたが、息子が死んだのを知ると、彼を抱き上げて樹の根本に横たえ、上から衣を掛けました。普段から修行をしている菩薩は泣いたり嘆いたりすることはなく、「壊れるべき性質のものは壊れる。死すべき性質のものが死んだのだ。すべての現象は無常であり、死に至るものである」と無常であることを観察して、畑を耕しつづけました。
その時、隣人が畑のそばを通りかかりました。菩薩は「家の方へお帰りですか」と声をかけ、「すみませんが、私どもの家に立ち寄って、今日は二人分の弁当ではなく一人分でよいこと、また、今日は女中だけに弁当を持たせず、家族全員が清らかな服を着て、お香と花を持って皆でこちらに来るようにと伝えてくださいませんか」と頼みました。隣人は承知して家に帰り、菩薩の妻に伝言を伝えました。妻は、「誰がこの伝言を頼んだのでしょうか」とたずね、夫の言葉であることを知ると、息子が死んだことをさとりました。しかし、妻も普段からよく修行をしていたので、泣いたり喚いたりすることはありません。家族全員に菩薩の伝言を伝え、自分も清らかな服を着て、花とお香と菩薩の食事を持って、皆と一緒に畑に行きました。皆、事情を察していましたが、泣き叫んだりする者は一人もいませんでした。菩薩は息子が横たわっている近くに坐って食事をし、食事が終わると皆に薪を集めさせ、息子の遺体を薪の上に横たえました。菩薩の一家は花とお香を遺体に供え、薪に火をつけて息子を荼毘に付しました。その間も、泣いたり喚いたりする者は誰もいません。ふだんの修行のおかげで落ち着いていました。
彼らの正しい行いの力によって、天界にいる帝釈天の、天の玉座が熱を帯びました。帝釈天は「いったい誰が私をこの座から動かそうとしているのか」と下界を眺め、菩薩の一家の徳の威光によって座が熱くなったことを知りました。帝釈天は喜びを感じ、「彼らが皆、正しい言葉を獅子吼するのであれば、あの家族を七宝で満たそう」と、急いで下界に下りました。
菩薩たちはまだ息子の遺骸を焼いていました。帝釈天は「何をしているのですか」と、菩薩に話しかけました。「火葬を行っています」「落ち着いたその様子では、人間を焼いているはずがない。鹿の焼き肉を作っているのでしょう」「いいえ、人を火葬しています」「ではその人は、あなた方の敵なのでしょう」「いいえ、それどころかうちの一人息子です」「では、さぞ憎い子どもだったのでしょう」「いいえ、最愛の息子でした」「では、なぜあなた方は、我を忘れて泣き叫ばないのか」。父である菩薩は詩で答えました。
人は死に、
蛇が脱皮するように、
己の身体を捨てて去りゆく。
焼かれるものは親族の、
悲しみなど知りはしない。
ゆえにわれは、嘆き悲しまず。
彼は行くべきところに行けり。
帝釈天は菩薩の妻に訊きました。「ご婦人、亡き人はあなたの何だったのですか」「十ヶ月間お腹に宿し、乳を飲ませ、手塩にかけて育てた息子でした」「奥さん、父親は男だから泣かないこともあろうが、母親の心は柔らかいものだ。なぜ泣き崩れないのですか」。母は次の詩で答えました。
招かれずして彼の世より来たりて、
告げることなく此の世を去る。
来た時と同じように去る。
何の泣き崩るべきことがあるものか。
焼かれるものは親族の
悲しみなど知りはしない。
ゆえにわれは、嘆き悲しまず。
彼は行くべきところに行けり。
帝釈天は菩薩の娘に訊きました。「娘さん、亡き人はあなたの何でしたか」「彼は私の兄でした」「娘さん、妹は兄を慕うものだ。あなたはなぜ泣き崩れないのですか」。妹は次の詩で答えました。
泣き悲しみてやせ細り、
何の得るものがあることか。
わが両親や親族たち、
友人たちなど、親しい人を、
煩い悩ますのみなれば。
焼かれるものは親族の
悲しみなど知りはしない。
ゆえにわれは、嘆き悲しまず。
彼は行くべきところに行けり。
帝釈天は死んだ息子の妻に訊きました。「ご婦人よ、亡き人はあなたの何でしたか」「彼は私の夫でした」「女の人は夫が死んで一人になると頼りのない存在となるものだ。あなたはなぜ泣かないのですか」。妻は次の詩を唱えました。
死者を追い、縋り嘆くさまは、
月を追い泣く幼子と同じ。
得るものなどは何もない。
焼かれるものは親族の
悲しみなど知りはしない。
ゆえにわれは、嘆き悲しまず。
彼は行くべきところに行けり。
帝釈天は女中に訊きました。「女中さん、亡き人はあなたの何でしたか」「私が仕える若主人でした」「その嘆かない様子を見ると、あなたはこき使われていたのでしょう」「とんでもありません。若旦那様はとても親切で、まるで私が育てた方のようでした」「ではなぜ悲嘆に暮れていないのですか」。女中は次の詩を唱えました。
壊れてしまった水瓶は、
もう元には戻らない。
同じように、死に去りし者を、
想(おも)い悲しんでも、益はなし。
焼かれるものは親族の
悲しみなど知りはしない。
ゆえにわれは、嘆き悲しまず。
彼は行くべきところに行けり。
帝釈天は、皆が正しくしっかりと語るのを聞き、清らかな喜びの心を起こして言いました。「あなた方は死の随観の修行に励まれた。我は帝釈天である。あなた方にたくさんの財宝を与えよう。これからも、あなた方は、施しをし、戒を保ち、懺悔をして、修行に励みなさい」。帝釈天は、彼らにたくさんの財宝を与えて去っていきました。
お釈迦さまが過去の話を終えられて、さらにしばらく法話を続けると、息子を亡くした地主は預流果の悟りを得ました。釈尊は「その時の女中はクッジュタラーで、娘はウッパラヴァンナー、息子はラーフラで、嫁はケーマー、母はラーフラの母であり、バラモンの農夫は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
より理性的に、より実用主義的に生きるために、人はどのように思考の管理をすれば良いのかと教えてくれる物語です。死の随観という用語は、パーリ語で maraṇānussati
です。anussati
は、事実をそのまま観察することを意味します。想像したり、価値判断を入れたり、主観を挿入して色を付けたりしないことです。「生まれるもの、生起するものは、ことごとく壊れていく性質である」と観察するのです。そこに感情を導入すると、妄想になってしまうのです。頭が混乱するのです。「何で死んだんだろう。もう少々生きていれば良かったのに。親しき人の死別を経験する私は不幸だ」などと妄想して、理性が現れるどころか、更に無知に陥ってしまう。日の出も日没も、何の不思議もない自然現象です。そこには喜びも悲しみもありません。冷静に受け止めることができます。死という現象も、それと全く同じ気持ちで受け止められる精神的な能力を育むために、死の随観が勧められています。
無知な人は死を避けようとする。不幸な出来事だと思う。日常会話で使ってはならない禁句だと思う。事実に背を向ける人は、事実に遭遇すると途方に暮れるのです。やるべきことも出来なくなるのです。死を認めることは、死を宣告された時では遅いのです。将来に対していろいろ夢を抱いて、最盛期を過ごしている時に観察するべきものです。死は確実に来るものである。それは、やがて訪れるものではなく、いつでも起こり得るものであると観察する人は、我が儘奔放に、強情で生きることはしない。他人に迷惑を掛けたり、無駄なことに必死に努力したりもしない。妄想に耽って時間を無駄にしない。生きていることは珍しいものだとよく理解して、瞬時に壊れるはずのこの人生を、いかに有効的にするかということに興味を持つのです。
死を認める人は、とても明るくて活発的なのです。しかし、この世のものに対しては、執着や未練を粘り強く持っているわけではありません。親しい人の死に出会っても、泣いて悲しんで無気力になるのではなく、瞬時に「これからどうするべきか」と考えるのです。自分の死も、生が短いと分かった時点で、そこまで有効に生きるためにはどうすれば良いのかと考えるのです。執着がない代わりに、無駄な生き方だけはしないのです。
俗世間の人々の生き方をみると、限りない期待・希望を抱いて、無駄だけをして生きていることが伺えます。死ぬ時さえも、死にきれない思いなのです。「やりたかったことはいっぱいあるのに、果たさなくてはいけない責任が一杯あるのに」という気持ちで、立ち去っていく世界に対して未練を残したままで死ぬのです。それはとても不幸な死に方なのです。穏やかな明るい心で死を迎えることができないのです。暗い感情で死ぬ人には、暗い先が待っているのです。死を認める人は、明るく生き、明るく死を迎えて、明るい死後を築くのです。
糞(くそ)まみれのイノシシ物語
Sūkara jātaka(No.153)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
ある夜、祇園精舎で法話会がありました。お釈迦さまは月明かりの下、宝玉で飾られた演台に立って朗々と法を説かれ、法話が終わると側にあるご自分の部屋に入られました。釈尊の一番弟子の、智慧第一と称されるサーリプッタ尊者も、釈尊にていねいに礼拝してから自室に戻られました。サーリプッタ尊者と並んで釈尊の二大弟子のお一人であるモッガラーナ尊者も同様に自室に戻られたのですが、しばらくして問答のためにサーリプッタ尊者をお訪ねになりました。その辺りにいた大勢の比丘、比丘尼、男女の在家信者たちが、お二人の大長老を囲んで集まりました。サーリプッタ尊者は法話の座に着かれ、さまざまな質問に対して、夜空を月が照らすように明らかにしながら、一つ一つお答えになりました。人々は、すばらしい法話に心を喜ばせ、静かに耳を傾けていました。
その時、一人の年寄りの長老が、「私はここで、サーリプッタ長老が返答に困るような賢い質問をしてやろう。そうすれば、この大勢の人たちは『なんとすばらしい学識者だ』と私を尊敬するに違いない」と考えました。年寄りの長老は立ってサーリプッタ尊者のそばに行き、「友、サーリプッタさん、私もあなたに質問をしようと思うが、よろしいか。徹底、取捨選択、論破、承諾、特質的、細別的、その決め方を教えていただきたいのだ」と得意そうに言いました。
サーリプッタ尊者は、「この老人は欲から離れられず、空っぽで、何も知ろうとしていない」とわかり、彼の質問には何も答えず、扇を閉じて座を立ち、自室へ戻られました。モッガラーナ尊者も同じように自室に戻ってしまわれました。在家信者たちは、「あの年寄りの長老のせいで、せっかくの法話が終わってしまった」と、その長老を非難して詰め寄りました。年寄りの長老は、慌ててその場を離れようと急いだために、フタが壊れた肥溜めに落ちてしまいました。
皆は驚いて長老を助けましたが、あまりのことにその夜の法話で静まり喜んでいた心が落ち込み、もう一度お釈迦さまのお話が聞きたくなって、釈尊のところに戻りました。釈尊は、「こんな時間に、いったいどうしたのですか」とたずねられました。人々が事情をお話しすると、釈尊は「あの老人が自分の本当の力を知らず、高慢になって糞まみれになったことは、過去にもあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はライオンとして生まれ、ヒマラヤ山中の洞窟に住んでいました。洞窟の近くにある湖のほとりには、たくさんのイノシシが住んでいました。また、その近くには、多くの苦行者たちが、茅葺きの小屋を建てて住んでいました。
ある日、ライオンは、水牛や野猿などの獣のうちの一匹を食べてお腹がふくれ、湖で水を飲んでいました。すると、一匹の太った大きなイノシシが、獲物を探しにやってきました。ライオンはそのイノシシを見て「私は今はお腹が大きいが、今度、こいつを食べてやろう。このイノシシが怯えて逃げないように、今日はもう帰るとするか」と思い、静かに湖から離れようとしました。
イノシシはそれを誤解して、「このライオンは、俺を見て、怖がって逃げようとしているぞ。よし、こいつと果たし合いをするように仕掛けてやろう」と思いあがり、首をあげ、ライオンに戦いを挑む詩を唱えました。
友よ、私は四本足で、
君も、同じく四本足だ。
ここへ来たれ、ライオンよ。
怯えてどこへ逃げるのか。
ライオンはその言葉を聞いて、「友よ、私は今日は君と戦うつもりはない。七日後にここで戦おう」と挑戦を受けて、その場を立ち去りました。
イノシシは、「俺はライオンと果たし合いをすることになったぞ」と高ぶって、親族に自慢しました。親族のイノシシたちはその話を聞いて恐ろしさに震え、「バカ者め。自分の力も知らず、ライオンに果たし合いを挑むなど、何という身の程知らずだ。ライオンは、おまえだけではなく、我々全員の命を取るだろう。全く、軽率なことをしたものだ」と責めました。イノシシはすっかり怯え、「何とか助けてくれ」と懇願しました。親族の中の知恵者が、「一ついい方法を教えよう。湖のそばには苦行者たちが住んでいる。人間の大小便は、不浄でひどく臭いのだ。苦行者たちが便所にしているところに行って、大小便の上で身体を転がしなさい。七日間の間、転がっては乾かし、転がっては乾かし、身体を糞まみれにするのだ。果たし合いの日には身体を汚物で濡らしたまま早めに行って、風上に立っていなさい。ライオンというのはきれい好きで、わずかな汚れも嫌うものだ。おまえの不潔な姿を見たら、きっと戦わずに立ち去って、勝ちをゆずるだろう」と教えました。イノシシは言われたとおりに、苦行者たちの便所に行って、転がっては乾かし、転がっては乾かし、身体中を糞まみれにしました。イノシシの体は大小便だらけの恐ろしく汚い有様になりました。
そのようにして七日間が経ちました。決闘当日、汚物で体を濡らしたイノシシは、早めに行って風上に立ちました。果たし合いの場に現れたライオンは、ひどい悪臭を嗅ぎ、すぐにイノシシの策に気づきました。そして、「こいつはよく考えたものだ。こんなやつはすぐに倒して食べてやろうと思ったが、こんな汚いやつに触れることはできない。私は立ち去ることにしよう」と、次の詩を唱えました。
毛皮が臭くて、糞まみれ。
悪臭漂う、イノシシよ。
そのまま戦うつもりなら、
勝利などはもういらぬ。
ライオンは引き返して他の獲物を捕り、湖の水を飲んで、山の洞窟に戻りました。イノシシは「俺は勝ったぞ。ライオンを負かしたぞ」と威張って言いました。親族たちはその頭の悪さにあきれ、「こいつとここにいては自分たちの命が危ない」と、よそへ逃げて行きました。
お釈迦さまは、「その糞まみれになったイノシシは肥溜めに落ちた長老であり、ライオンは私であった」と過去の話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
空っぽな人間ほど社会での高い位置を望む者はいません。知識にも才能にも恵まれてない人は、社会で先頭に立って活動する人々に憧れます。自分もそのような位置にいればいかに格好良いでしょうと夢見るのです。自分の能力の程を省みず成功者の顔ばかり仰ぐことも、人間を煩わせる妄想パターンの一つです。
若い時に成功者に憧れるのは自然の流れです。それは、「私も頑張らなくては」と自分を励ますために、成功者を目標にすることです。それによって自分の能力を向上させ、大人になることでしょう。そこまでは問題ないのですが、自分の能力を省みず、上達させる努力もせず、憧れるだけの妄想は、人を精神的な病気にしてしまいます。精神病に罹ったら、社会の位置を確保するどころではなく、社会から隔離されることになる。しかしこれも大きな問題ではありません。適切に精神的な治療を施してあげれば、それで良いのではないかと思います。
問題は、「憧れ病」が、社会で大変大きなトラブルを引き起こしている側面があることです。政治家の権力と威厳に憧れて、国民を幸せにする能力も気持ちもひとかけらもない人が政治家になる場合を考えてみましょう。その人は、正面から正々堂々と政治活動するのではなく、あらゆる悪い手を使って権力を握るのです。それからその権力の維持に必死になる。時々、選挙で選ばれたのに選挙そのものを禁止して、自分の座を守るケースも世間では見られます。選挙を禁止するためには、国内に政治不安、暴動、反乱があった方が好都合なので、僅かな問題に凶暴に反応して国民の苛立ちをとことん煽るのです。政治家に限らず、資格のない人物があらゆる手を使って上によじ登ろうとすることは、よくあります。経営能力もないのに、課長になったり、部長になったり、社長になったりして、その会社を倒産に追い込む人も少なくありません。能力がない人の経営で銀行まで倒産する世界なのです。
才能・能力がある人には自信があります。「何としても昇格しなくてはいけない」と思わないのです。自分の立場を確保しておかなくてはいけないという不安がないのです。昇格するのも、社会での高い位置に置かれるのも、自然の流れに任すのです。能力ある人なら、頂点に立っても、その社会を繁栄させ、守るのです。しかしこの世では、資格があっても、能力があっても、才能があっても、その人が相応しい位置に立つことは、殆どあり得ないほど稀なことです。
「憧れ病」に罹っている人々は、四六時中、自分の位置を築くために必死で行動しているのです。能力ある人々の足を引っ張るために、色々からくりするのです。結果として、資格のある人々がはみ出されて、何の資格もない人々に支配されている、現代のような社会が現れてくるのです。この物語は、このような社会現象に対して警鐘を鳴らしているのです。
賢い隊商主の物語
Apaṇṇaka jātaka(No.1)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は隊商主の家に生まれました。立派に成長した菩薩は、五百の車からなる隊商を率い、東から西、西から東へと商いの旅をしていました。
ある時、菩薩は五百の車に高価な品物を満載し、商売の旅に出ることにしました。ところがちょうどその頃、同じバーラーナシーに住むもう一人の隊商主の息子も五百の車に商品を満載し、同方向に旅に出ようとしていました。その隊商主の息子は賢くはなく、愚鈍でした。
菩薩は「あの愚か者の息子と一緒に街を発つと、あわせて千もの車が道を通ることになる。それは道の許容量を超えた数であり、薪や水が不足し、牛が食べる草もなくなってしまう。どちらかが先に出発し、時期をずらして行く方がいいだろう」と考えました。
そこで、もう一人の隊商長を呼んでそのことを話し、「君は、先に発つか、後から発つか、どちらがいい?」と訊きました。
愚かな隊商長は考えました。「我々は先に発った方が利得が大きい。先に発つと、道路も荒らされておらず、牛たちの草も手つかずだ。 我々が食べる葉っぱも、水も、汚されずにたっぷりあるだろう。商品の値段も好きに決めることができるぞ」と。そこで、「では、僕が先に出発するよ」と答えました。
菩薩ははじめから、自分たちは後から発った方がいいと思っていました。「後から行けば、先に通る一隊がでこぼこ道をなだらかにしてくれるだろう。牛の食む草も、先発隊の牛たちが古い草を食べた後の甘い新芽が生えているはずだ。我々も新しくておいしい葉を食べられる。彼らが水がない場所に井戸を掘ってくれるから、水も楽に手に入る。品物の値段を決めるのは人の命を奪うようなことだ。先に定められた値段で品物を売った方がいい」と思ったからです。
二人はお互いにその決定に満足し、愚かな息子の率いる隊商が先に街を出発しました。
旅に出た隊商は人里を離れ、難所にさしかかりました。難所には、盗賊、猛獣、乾き、悪鬼、飢饉という五種類の難所があります。
ここは、水不足と悪鬼という二つの苦難があるとされる難所でした。愚かな隊商長は、水を満杯にした大きな瓶を車に積ませ、六〇ヨージャナの難所に入りました。難所の中程に達した頃、ここに住む夜叉(鬼神)が、「あいつらに水を捨てさせて、弱らせてから、全部食べてやろう」と考えて、策略を巡らしました。
夜叉は、魔力で、真っ白な若い牛に曳かせた牛車をつくり、十人の手下の鬼たちを武士に化けさせました。彼らは、頭や衣を水で濡らし、白や青の蓮華で飾り、蓮華の花束を持ったりレンコンを食べたりしながら車輪を泥だらけにした牛車を牛に曳かせ、隊商の来る道に向かいました。
隊商主は、砂塵を避けるため、向かい風の時は従者に前を囲まれて進み、風が背後から吹く時は後ろを囲まれて進みます。その時は、隊商主の車が先頭に立って進んでいました。彼らは反対方向から出会って挨拶を交わし、すれ違おうとしてお互いに道を譲りながら言葉を交わしました。
隊商主は「友よ、私どもはバーラーナシーの都から来ました。あなた方は向こうから来られたが、手に手に蓮華を持ち、レンコンを食べ、水に濡れておいでだ。雨でも降ったのですか。この先に池があるのですか」とたずねました。
夜叉は「友よ、なぜそんなことを訊くのですか。あそこに緑が広がっているでしょう。あそこから先は水が豊富でいつも雨が降っています。蓮華の咲く池もたくさんありますよ。ここまでは水が必要でしょうが、もうだいじょうぶ。重い水は捨てて、楽に行きなさい」と話し、「では失礼します。我々は少し遅れました」と先を急ぐふりをして、見えなくなるところまで進んでから自分たちの住処にもどりました。
愚かな隊商長は夜叉の言葉を信じ、水をすべて捨てさせて荷を軽くし、先を急ぎました。ところがそこから先には一滴の水もありません。人々も牛たちも乾き切って、喉がからからになりました。日が没して円陣を組んでも、飲み水も粥もありません。
皆が疲れ切って眠ったところに夜叉たちが襲いかかり、簡単に皆殺しにして、血肉を喰らい、骨だけ残して立ち去りました。リーダーの無能のせいで、すべてが破滅したのです。
菩薩たちは、一ヶ月半遅れて出発し、快調に旅を続けて同じ難所にさしかかりました。菩薩は皆に、「これから私の許しなしには、誰も一滴の水も使ってはならない。また、この辺りには毒の植物がある。見たことがない植物は食べる前に私に訊くように」と命じ、水を満杯にした水瓶を車に載せて、難所に入りました。
夜叉たちが前回と同様に、体中を水で濡らし、蓮の花やレンコンを持って現れました。そして、この先はよく雨が降って水がとても豊富だとウソをつき、水を捨てて荷を軽くするようにと菩薩の一行に勧めました。
菩薩はすぐにおかしいと気づきました。「ここは『水がない難所』として有名な所なのに、この者たちの目には怖れの色がない。彼らには影もない。きっと夜叉に違いない。彼らの様子からして、先にここを通った隊商は、だまされたらしい。おそらく水を捨てさせられて疲れ果て、夜叉に食べられてしまったのだろう。だが、私も同じようにだまされると思ったら大間違いだぞ」と思い、「お前たちは立ち去れ。我々は商人だ。新しい水を見つけないうちは、決して水は捨てない。水を見つけてから、重い水を捨てて荷を軽くするのだ」と言いました。夜叉たちは何も言わず、見えないところまで進んでから、自分たちの住処にもどりました。
夜叉たちの様子にすっかりだまされた人々は、口々に、「旦那様、あの人々は、この先は水が豊富だと言いました。重たい水を捨てて荷を軽くし、楽に進みましょう」と訴えました。
菩薩は車を止めさせて、全員を集めました。「この難所に池があるという話を聞いた者はいるのか」「いえ、旦那様、そんな話は聞いたことがありません」「先程の人々は、緑の見えるところには雨が降ると言った。雨風はどれくらいの広さで降るだろうか」「一ヨージャナくらいです」「誰か、雨風を感じた人がいるか」「いいえ、感じません」「雨雲はどれくらいのところに見えるだろうか」「一ヨージャナぐらいです」「誰か雨雲を見た人がいるのか」「いいえ、見えません」「稲妻はどれくらいのところで見えるだろうか」「四、五ヨージャナくらいです」「誰か稲妻を見た人はいるのか」「いいえ、いません」。このような会話を皆と交わしてから、菩薩は、「先程の一行はきっと夜叉に違いない。我々に水を捨てさせ、弱らせてから襲いかかろうとしたのだろう。彼らの様子を見ると、先に出発した隊商は、だまされて喰われてしまったのだろう。我らは一滴の水も捨てずに先を急ごう」と言いました。
果たして、進んで行く途中には、水は一滴もありませんでした。さらに進むと、商品を満載した五百の車と、たくさんの人骨や牛の骨が散らばっているのが目に入りました。菩薩は車を止め、車を円形に並べて野営を張り、中央に牛を入れ、皆にたっぷりと水分と食事を摂らせて休ませました。そして自分は武器を持った者たちを率い、夜中じゅう見張りをしました。翌朝は荷物を整理し、古くなった車を捨てて丈夫な車に替え、安価な品物を捨てて高価な品物を積んで出発しました。菩薩は、目的地に着くと、元値の二、三倍の値段で品物を売り、全員を連れて、再びバーラーナシーにもどりました。
ブッダは、「このように、間違った思念にとらわれた者は滅び、妄想を離れて正しくものごとを見た者は鬼神の手から逃れて安全に目的を達した」 と説かれ、次の詩を唱えられました。
ある者は、道理を説き
またある者は、妄想を語る
賢者はこれを知りて
妄想なき道を選ぶべし
釈尊は「愚かな隊商主はデーヴァダッタであり、その従者はデーヴァダッタの弟子たちだった。賢い隊商主の従者は仏の弟子たちであり、賢い隊商主は私であった」と話されて、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
いかがですか。判断能力に自信がありますか? いつでもしっかりと正しい決断をして、失敗なしに生きていますか? この物語は、正しい判断はいかに大事かと諭します。判断ミスが大変危険なのは言うまでもありません。しかし、より問題なのは、正しい判断をする確信がないことです。決断・判断の時に考慮すべきいくつかのポイントが、この物語で読みとれます。
二人の隊商主の間で「誰が先に出かけるか」という問題が起き、判断が必要になりました。無知な隊商主は「早い方が勝ちだ」と決めたのです。メリットだけを考えて、デメリットの方は無視したのです。
経済の世界では、儲かることだけ考えると倒産するのです。商売に挑んでも、商売は一方的に儲かる道ではありません。競争があります。市場の状況もあります。政治不安も影響を与えます。宗教や習慣も影響を与えます。それらが全部うまくいっても、客に対して面白く、なおかつ丁寧に対応しなければならない。それが、商売がうまくはかどる命です。
無知な商人には、この能力がなかったみたいです。智慧のある商人は、悪条件を良い条件に変えてしまう能力があったのです。
何かを判断する時、自分の好都合だけを考えてはいけません。感情的になって舞い上がっていると、正しい判断ができない。無知な商人が「楽々にボロ儲けできるぞ」と思ったのと同じです。感情ではなく理性に基づいて、状況を把握して、データに照らして、その場その場で具体的な判断をするべきです。
物語の中で悪鬼が役割を演じているからといって、この話は決して神話的なものではありません。智恵の商人は、砂漠の先に水があるかないかを、具体的なデータに照らして判断したのです。
普通の人は、見ただけ、最初の印象だけ、聞いただけで判断を急ぐのです。情報が入り乱れている現代社会では、これは大きな問題です。ニュースを知る限り、世界中が誤判断の達人のように見えます。今は、正直に事実のみを伝える時代ではありません。ニュースも娯楽の一つになっています。面白おかしく聞かせたいと、皆の気を引き寄せる工夫ばかりしています。本当に起きた出来事は伝えてくれません。
情報がねじ曲がっている。だから無批判で情報を受け入れるのではなく、情報の裏も考えた方が良い。行間も読める能力が必要です。
日常生活の中でも、常に、データに基づいた理性的な判断ができるように進まなくてはならないのです。
つい好き嫌いなどの感情で決めてしまう性格が、危険なのです。理屈と理性は違います。理屈を言い出すと、「そうでもないああでもない」と、いくらでもしゃべれます。それは明らかに妄想です。
理性というのは、データに基づいて至るべき判断に至ることです。そうすると迷いは生じないのです。判断に迷いがあるならば、その判断は正しくないのです。
ということは、「迷いのない判断」をするべきなのです。ものごとを正しく観察すると、自然に迷いのない答えが出るのです。
シンドゥ産の仔馬物語
Kuṇḍakakucchisindhava jātaka(No.254)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これはシャカムニブッダがコーサラ国、舎衛城郊外にある祇園精舎におられた時のお話です。
舎衛城で雨安居を過ごされてから遊行に発たれていたお釈迦さまとブッダの弟子たちが、再び祇園精舎にもどられました。舎衛城の人々はとても喜び、競うように精舎へ行って、釈尊や比丘方に食事のお布施を招待しました。ある貧しい老婆が、お布施の受け付け時間の終わり頃に、一人分のお布施を申し込みました。お布施を受け付ける係の比丘は「サーリプッタ長老以外は、皆、招待を受けてしまいました。おばあさんのところにはサーリプッタ長老に行っていただくことにしましょう」と老婆に告げました。老婆はたいへん喜びました。
サーリプッタ尊者が貧しい老婆の家で食事のお布施を受けられるという噂はすぐに広まり、それを聞いたコーサラ国王は、すぐに豪華な食事や衣服と千金を老婆の家に贈らせました。アナータピンディカ長者やヴィサーカー婦人など、多くの人々も次々にお金や品物を贈り、老婆のところには、一日にして一万金ものお金が集まりました。
お布施の当日、十分に準備を整えた老婆は祇園精舎の門で待ち、サーリプッタ尊者が来られると礼拝して鉢を受け取り、自分の家に案内しました。サーリプッタ尊者は老婆が作った粥や料理を召し上がり、食事の後で老婆に法を説かれました。老婆は預流果の悟りを得ました。
比丘たちが、サーリプッタ尊者の徳によって貧しい老婆が多大な恩恵を得たことを話していると、釈尊が来られ、何を話しているのかおたずねになりました。比丘たちがお話しすると、「サーリプッタがあの老婆の作った食事を食べ、彼女に恩恵を与えたことは過去にもあった」とおっしゃって、皆に請われて過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は北国の馬商人の家に生まれました。
バーラーナシーの近くの村には一軒の大きな屋敷がありました。かつて富豪であった家は、今は落ちぶれ、たった一人残された老婆がぽつんと住んでいました。ある馬商人が五百頭の馬を連れてバーラーナシーへ向かう途中、老婆の邸宅で宿を借りました。ちょうどその夜、シンドゥ産の純血種の雌馬が産気づき、一頭の仔馬が生まれました。二、三日して馬商人がそこを発とうとすると、老婆は、「この仔馬をどうぞ私にくださいな。宿代は安くしますから」と頼みました。生まれたばかりの仔馬の世話から解放される馬商人にとっても悪い話ではなく、老婆はその仔馬をもらい受けました。老婆は仔馬をわが子のようにかわいがり、糠を混ぜた料理や、残飯や、草などを与えて育てました。
ある時、菩薩も、五百頭の馬を連れてバーラーナシーに旅立ちました。そして、旅の途中、老婆の屋敷で宿を借りることにしました。ところがシンドゥ産の仔馬の匂いをかぎつけた馬たちが、屋敷の中に入ろうとしません。その様子を見た菩薩は、「おばあさん、この家にも馬がいるでしょう?」と老婆に訊きました。老婆は「はい。一頭だけいます。わが子のようにかわいがって育てていますよ」と答えました。「その馬はどこですか」「さあ、どこかに散歩に行ったのでしょう」「いつ帰ってきますか」「あれは適当な時になったら帰ってくるでしょう」。
菩薩は自分の馬たちを外につなぎ、この家の仔馬が帰ってくるのを待ちました。シンドゥ産の仔馬は適当な頃に帰ってきました。菩薩は仔馬の特徴を見て、この馬は驚くほどの値打ちがあるすばらしい名馬だと知りました。菩薩は「この馬の価値は、はかりしれない。宿の老婆に代価を払い、この馬をもらい受けよう」と決めました。シンドゥ産の仔馬が家に入ると、他の馬たちも家に入りました。
菩薩は二、三日その家に泊まって馬たちを休ませ、出発する時になって、「おばあさん、十分な代価を払いますから、この馬をゆずってください」と老婆に申し出ました。「あなた、それは無理ですよ。わが子を売ることはできません」と、老婆は断りました。「おばあさん、あの馬に何を食べさせていますか」「糠を混ぜた料理や残飯や草を食べさせて育てていますよ」「おばあさん、私がこの馬を手に入れたならば、馬にとって最上のものを食べさせて、最高の生活をさせます。厩には天幕を張り、絨毯を敷いて育てます」「あなた様の所にいた方が、あの子の幸福になるのなら、どうぞあの子を連れて行ってください」。
菩薩は仔馬の、四本の足、しっぽ、頭、の六カ所それぞれに千金ずつのお金を包み、新しい高価な衣服も添えて、老婆に渡しました。老婆はその服を着て仔馬の前に立ちました。仔馬は老婆と別れることを察して涙を流しました。老婆は仔馬の背中を優しくなぜて、「私は十分な養育費をもらったのですよ。お前は行きなさい、わが子よ」と言いました。それを聞いて、仔馬は、菩薩と一緒に家を出ました。
菩薩は仔馬のために、馬にとっての最高の食事を用意しました。しかし、「この馬が自分の値打ちを知っているかどうか試してみよう」と考えて、糠を混ぜた料理や残飯を、仔馬の飼い葉桶に入れました。シンドゥ産の仔馬は、一口も食べませんでした。菩薩は詩で仔馬にたずねました。
君のご飯は残飯や、糠を混ぜたものと聞く
いつもの食事を、なぜ食べぬのか? 仔馬よ
仔馬も詩で答えました。
大バラモンよ、私の値打ちを知らぬなら
糠の料理で十分だ
あなたは私の値打ちを知る
あなたの糠飯を、私は食わぬ
菩薩はそれを聞いて満足し、「君を試そうと思ったのだ。悪く思うな」と言って、最上の食事を食べさせました。菩薩は馬たちを王の所に連れて行きました。そして、片方に五百頭の馬をつなぎ、片方に立派な天蓋と絨毯のついた天幕を張り、シンドゥ産の馬一頭だけを中に入れました。
王は、「なぜこの馬だけ特別待遇なのか」と訊きました。菩薩は「大王様、このシンドゥ産の馬は独りでおいておかないと、他の馬が逃げてしまうのです」と答えました。王は「この馬の速さを見よう」と言いました。菩薩が「ではご覧ください」とシンドゥ産の馬を走らせると、あまりの速さに、城の庭園全体に馬の姿が隙間なく見えるほどでした。誰一人として、ちゃんと目で追える者はいません。次に、馬のお腹に赤い布を付けて走らせると、赤い布だけがグルグルと廻っているように見えるのでした。庭園の蓮池の上を走らせると、水面の上をを飛び、蹄の先さえも濡らさず、蓮の葉一枚も池に沈めません。
このようなすばらしい能力を見せた後、菩薩は馬から下りて手を差し出しました。馬は、四本の足を揃えて、菩薩の手の上に立ちました。菩薩は、「大王様、この馬が本気を出せば、海の周りを走っても、間に合わないほどなのです」と言いました。
王はたいそう満足し、菩薩に国の半分を与え、シンドゥ産の仔馬を国の吉祥馬にしました。馬は王の寵愛を受けただけでなく、王から尊敬もされました。シンドゥ産の馬の厩は王の寝室のようであり、床は四種類の香料で磨かれ、壁は香草や花で飾られました。上には金の星を散りばめた天蓋があり、四方には立派な幕が張り巡らされました。厩には常に香油の灯りが灯され、便所には黄金の便器がおかれました。そして毎日、王が食べるような食事ばかりが与えられました。
この馬が来て以来、全インドの主権がこの国に集まりました。王は、菩薩の教えに従って善政を行い、死後、天に生まれました。
お釈迦さまは、「その時の老婆は舎衛城の貧しい老婆であり、シンドゥ産の仔馬はサーリプッタであった。王はアーナンダであり、馬商人は私であった」と語られて、過去の話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
仏教で、お釈迦さまの次に偉大なる方といえば、サーリプッタ尊者です。裕福な人々は、十人、五十人、百人などの比丘たちに御布施の接待をします。招待の申込を受け付ける係の比丘が、それぞれの家に、比丘たちを振り分けるのです。当然なことがら、偉大なるサーリプッタ尊者を一般比丘たちのグループに入れるわけにはいきません。うっかりして、貧しい老婆が「私にも一人のお坊さんを招待させて下さい」と言った日は、サーリプッタ尊者だけ誰の招待もなく托鉢に出るはめになってしまっていたのです。係の比丘は、恐縮しながらサーリプッタ尊者にお願いを立てたことでしょう。
ブッダに、サンガに、御布施をすることは、経済的な負担にはなりません。清らかな心でブッダとサンガに布施を行う人々は、何不自由なく生きていられるように、幸福に恵まれるものです。
物語に出てくるシンドゥ産の馬は、仏教が推薦している「社会で賞賛されるべき人格」を代表しています。彼にまず見える性格は、育てやすいことです。自分を飼ってくれたお母さんから与えられた食べ物を文句一つ言わず食べ、外へ出て自由に食べたり走ったりして、一人で自分の能力を向上させていたのです。お母さんが馬のことを何も知らないからといって、馬がバカで大きくなった訳ではないのです。それに比べて、人間は違います。たいがい「親が無知だから自分は無知になった」とか「親の躾が悪かったから自分が性格の悪い人間になった」とか、何でもかんでも親のせいにしようとする恩知らずなのです。生まれてきて親の資格を問う人間こそ、人間としての失格者なのです。ほとんどの親は、生まれてきた子を精一杯苦労して育てるのです。子供に、親に想像できないほどの才能や能力があれば、それを自分自身の力で磨き上げて、親にも恩返ししなくてはいけないのです。「親のせいで良い人間になれなかった」と言うのは、元々良い人間になれる能力のない人間の言い訳なのです。
この物語のお母さんも、自分の子(仔馬)が自分には想像できないほど価値のある馬だと知った時点で、子供の将来を邪魔せずに、世に出してあげたのです。母にも仔にも別れは悲しかったかもしれませんが、仕方がないのです。世に出すことこそが、やるべき行為なのです。
シンドゥヴァ馬は、自分が何者か、どれぐらいの価値のある存在かと知っている。しかし、そんなことは何も知らないお母さんにはわがままはいわない。威張らない。しかし他の馬たちは、彼が住む厩に入ることさえも恐縮に感じる。菩薩の馬商人に飼われた時、シンドゥヴァ馬は自分の格にあった接し方を期待した。なぜなら菩薩は自分の価値を知っているとわかったからです。粗末に扱うことは認めないプライドを持っていたのです。
人間も自分の能力の程を知っていた方がよいのではないかと思われる。何の能力もないのに能力を見せる虎の威を借りる生き方は、社会に対して多大な迷惑です。能力があるにも関わらずそれに気づいてないことも大変な損失です。本人にも社会にもです。
それぞれの人間は、自分にどこまで能力があるのかと気づいていた方がいいに決まっているのです。
しかし、それはどこまで伸ばせるかと知っていなければ、また問題になります。ある人は見栄を出して余計なことまでしてしまい、持っている能力も台無しにする。そういうケースもあれば、伸ばせる能力があるのに現在の状態で自己満足に陥って、堕落する人々もいる。したがって、中道は大事でしょうね。
人格のある人は、育てた親や教えてくれた方々に対しては、自分がいくらその人々を乗り越えても謙虚でいるのです。しかし、他人にこき使われるような弱い人間ではないのです。謙虚でいるべきところとプライドを守るべきところを、よく区別判断して生きるのです。
「豚に真珠」物語
Avāriya jātaka(No.376)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。アチラヴァティーという川に、三宝の功徳を知らず、世俗の徳も知らない乱暴者の渡し守がいました。
ある時、田舎に住む比丘が、お釈迦さまにお仕えしようと田舎から訪ねて来ました。
夕暮れ時にアチラヴァティー川に着いた比丘が舟を出すように頼みました。「船頭さん、私を向こう岸まで渡してください」
「今はとても遅い。今日はどこかへ泊まってください。明日、船を出します。」
「私に泊まるところはありません。どうか今日船を出してください。」
そう頼まれると、渡し守は激怒しました。「こら、比丘! それなら、乗れ!」
彼は比丘を舟に乗せてムチャクチャに船をこいで、比丘の衣をびしょぬれにした上に、わざとまっすぐ川を渡らずに、かなり川下に降ろしました。夜遅く精舎に着いた比丘がその日はもう時間がなく、次の日にお釈迦さまのところに行くと、釈尊は「いつ着いたのか」と訊かれました。
「昨日です」「ではなぜ挨拶に今日来たのか」。そこで比丘が昨日の出来事をお話しすると、釈尊は「あの渡し守は過去においても乱暴者であり、賢者に乱暴をはたらいたことがあった」とおっしゃって、比丘に請われるままに過去の話を語られました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンに生まれました。成長してタッカシラーで学問を修めた菩薩は出家して、ヒマラヤの行者になりました。ある時、日用品を得るためにバーラーナシーの街に下りてきた菩薩を王が見かけました。菩薩のすばらしい立ち居振る舞いに感心した王は、菩薩にお城に住んでもらうようにと頼み、菩薩はお城の御苑に滞在することになりました。王は毎日のように菩薩を訪れ、菩薩から法を聞きました。菩薩は、「大王よ、王は四つの不正(好み・怒り・畏怖・無知によって公平に審判を行わないこと)を捨て、忍耐を育て、慈悲を完成し、優しさに満たして正しく国を治めるべきです」と、次の詩を唱えました。
怒りなきよう、大地の主よ
怒りなきよう、君子よ
怒りに怒りを返さぬ王は、国中の尊敬を得る
村、森、低地、高地、いづこでも、
怒りなきよう、君子よ
菩薩の法話を聞いて心を清められた王はたいへん喜び、豊かな村をお布施したいと申し出ました。しかし菩薩は断りました。
そうするうちに十二年が経ちました。菩薩は「私は長居しすぎた。そろそろ旅に出よう」と思い立ち、庭師に「私は同じ所に長くいすぎた。しばらく国を旅して来ようと思う。王様によろしくお伝えください」と言い残し、お城を立ち去りました。
菩薩はガンジス河の渡し場に来ました。渡し場にはアヴァーリヤ親爺という名の渡し守がいました。彼は愚か者であり、賢者の徳を理解せず、自らの利益を得る方法も知りませんでした。アヴァーリヤ親爺はいつも、川を渡ろうとする人をまず向こう岸に渡してから賃料を要求していました。自分の要求する船賃を払わない人がいると罵って暴力をふるう渡し守は、自分もしょっちゅう殴られて、ケガが絶えませんでした。たくさん儲けるつもりの行いで、かえって彼の儲けは、いつもわずかでした。
ここでお釈迦さまは、この状況を次の詩句で唱えられました。
アヴァーリヤ親爺、ガンジス河の渡し守
人を先に渡し、船賃を後に請う
喧嘩は増えるが、財は増えず
菩薩は渡し守に、向こう岸に舟を出すように頼みました。アヴァーリヤ親爺は、「お坊さんは船賃を払ってくれるのかい」と訊きました。菩薩は「財産を殖やし、道理を知り、真理を得る方法を教えよう」と答えました。渡し守は「きっと何かいいものをくれるに違いない」と思い、菩薩を舟に乗せて向こう岸に連れて行きました。「では、船賃を払ってください」と渡し守が言うと、菩薩は「よかろう」と、財産を殖やす方法を次の詩句で唱えました。
船頭よ、船賃は、
岸に着く前に求むもの
船に乗る時、降りし時
人の気持ちは違うゆえ
渡し守は思いました。「これはただの忠告にすぎない。もっと何かくれるに違いない」と思いました。菩薩は「それが財産を殖やすための忠告だよ。
次に、道理を知り、真理を得る教えを説くから、よく聞きなさい」と、次の詩を唱えました。
村、森、低地、高地、いづこでも、
怒りなきよう、船頭よ
菩薩は「これは道理を知り、真理を得る教えだよ」と、告げました。愚かで鈍い渡し守は、その説法について考えることは何もせず、「お坊さん、まさかこれが船賃じゃないだろうな」と怒って言いました。そして菩薩が「そうだ。これが船賃だ。船頭よ」と答えると、「ふざけるな! こんなものが何の役に立つんだ! 俺がほしいのはこんなものではない」と怒鳴りつけ、腹を立てて菩薩を押し倒し、顔や胸を殴りつけました。
さて、お釈迦さまはここで、「比丘らよ、行者は王に法を説き、豊かな村を差し出された。同じ法を愚か者の船頭に説くと、殴られたのだ。教えは心ある人に説くべきものだ。ふさわしくない愚か者に説くべきではないのだよ」とおっしゃって、次の詩を唱えられました。
王に説き、村を差し出されしその教え、
同じ教えを船頭は、聞きて我を殴りたり
渡し守が菩薩を殴っていると、渡し守の妻が昼のお弁当を運んできました。妻は二人を見て、「お前さん、この修行者は王様が帰依しておられるお方ですよ。殴ったりしてはダメですよ」と驚いて止めました。渡し守はますます怒り、「お前は俺に指図するのか」と、妻まで殴り倒しました。お弁当は地面に落ちて散乱し、妊娠していた妻は流産してしまいました。人々は渡し守を取り囲み、「人殺しの悪党め」と非難しながら縛り上げ、王のもとに連れて行きました。王は渡し守に刑罰を与えました。
ブッダは過去の話を終え、最後にもう一つ詩を唱えられました。
食事は散らばり、妻は打たれ、
胎児は死んで地面に流れた
勝れた教えも、愚か者には、
豚に真珠のようなもの
お釈迦さまはつづけて法を説かれ、それを聞いた比丘は預流果の悟りを得ました。
釈尊は「その時の渡し守はアチラヴァティー川の渡し守、王はアーナンダ、行者は私であった」と、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人生の成功とは、どういうことでしょうか。成功は、三つの事柄で成り立つものです。
1.富を得ること 2.人格 3.道徳 です。
1.の、富を得ることだけは、誰でも知っています。富を得ただけで、成功者だと噂されるのです。
しかし、金があっても、我が儘で乱暴者で人格者でないならば、社会はその人をほめません。性格が悪く傲慢な人は、金持ちであっても尊敬されないのです。世界はほとんど金の信仰者なのだから金持ちがほめられるのは当たり前なのに、不正を働いて行いが悪い金持ちは批判される。その財産はほめる対象から外れます。世界は無意識的に、金よりも性格が大事だと感じているのです。この無意識的な感情は、真理なのです。人はそれを無視して、人生の成功は金を儲けることだと妄信している。子供たちに、若者に、金儲けだけを押し付けている。その結果として、社会の混乱、犯罪などが絶えないのです。
成功の3番目は、道徳です。道徳を守らないと、この世で裁かれる。それだけで事は済みません。死後も苦境に陥るのです。百年に満たずに生きて、死後、地獄に落ちるならば、それまた成功の生き方とは言えません。
本当の成功者は、今生で幸福に生きて、死後も天界に生まれるのです。死後の天界の話には宗教や信仰が絡んでくるのでややこしいのですが、仏教は宗教や信仰に関係なく、人は死後天界に生まれると説いているのです。商売をして財産を儲けると同時に、人格者でいれば充分なのです。怒らず、奢らず、不正を働かず、皆と仲良く、謙虚で生活するならば、それが人格なのです。その人はこの世でも皆に尊敬される。死後は天界に生まれてますます幸福になる。人生の成功は、財産、人格、道徳の三脚で成り立つのです。
◆ ◆ ◆
このエピソードで出てくる船頭は、金持ちになりたいと思ってはいたが、その方法を知らなかったのです。
今の世でも、ただ店を開いただけで客が殺到するわけではありません。品物を作っただけで皆揃って買いに来るわけではないのです。資格があるだけで会社は人を雇いません。
金が入る、何か別の秘密があるみたいです。それは人の心なのです。
デパートでも、子供たちに気持ちよく遊べる場を作ってあげれば、またそちらに子供たちを楽しませることのできる人を雇っているならば、お母さんたちはそのデパートで買い物をするのです。デパートのおもちゃ売り場に子供の遊び場を設けても、子供をダシにして親に要らないおもちゃを買わせるという欲がからんだカラクリが見え見えなので、商売繁盛にはなりません。子持ちの親は、そのデパートを避けるのです。人の心の働きは微妙です。「儲かりたい」という感情をむき出しにすると、客に逃げられる結果になるのです。
船に乗る客の気持ちは、無事に川を渡ることです。その時は、船頭も船も有り難い存在です。その時に、船賃のことを話し合った方が良いのです。船頭が心優しく、明るい人なら、客はお礼をはずむことを惜しみません。
しかし、向こうの岸に渡ってしまえば、客は、いかに早く目的地に行くかという気持ちになるのです。もう船なんかはどうでも良くなるのです。私たちが飛行機に乗る時と飛行機から降りる時の気持ちを考えれば、よく分かるのです。
さすがに電車も飛行機も、乗る前に料金を頂くのです。飛行機会社が、外国の空港に客を降ろしてから航空運賃を要求するならば、大変なことになると思います。支払いを断ったら法廷で闘うことになります。客も、あれが悪かった、これが悪かったと文句を言うでしょう。
商売をする場合は、客の心理状態を微妙に計算しなくてはならないのです。
それは、客は泥棒だという意味ではありません。航空券を予約するときは、客は自分好みの航空会社を選ぶ。値段も交渉する。外国旅行したい、楽しみたいと思っているから、大変喜んでお金を払うのです。
仏教は昔から「船に乗る前に運賃の交渉」の論理なのです。
「ジャッカルに仕えたライオン」物語
Manoja jātaka(No.397)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがマガダ国の王舎城近郊にある竹林精舎におられた時のお話です。
仲の良い二人の若者がいて、一人は竹林精舎のお釈迦さまのもとで出家し、もう一人は僧団の和合を破って僧団を出て行ったデーヴァダッタのところで出家しました。仲良しの彼らは出家してもたびたび会い、互いの僧院にも遊びに行きました。デーヴァダッタは阿闍世王子を信奉者にしてガヤーシーサに僧院を建ててもらい、毎日、五百の銀皿に、三年越しの香米とごちそうを溢れさせた供養を受け、贅沢に暮らしていました。デーヴァダッタの弟子は、釈尊の弟子となった比丘に、「君は毎日毎日、托鉢に歩かなければならないね。我々のガヤーシーサの精舎は、阿闍世王子の供養を受けて、すばらしいごちそうにあふれているよ。何もそんな苦労することはない。托鉢の時間にはこちらに来ておいしい食事をとればいいじゃないか」と勧めました。何度も勧められてその気になった比丘は、ガヤーシーサでごちそうを食べるようになりました。
それを聞いた比丘の友人たちは、彼に事情を聞きました。その比丘が「私はデーヴァダッタにもらうのではない。友人に勧められているだけだよ」と言いわけするのを聞くと、比丘たちは彼をお釈迦さまのところに連れて行きました。
お釈迦さまは「比丘らよ、なぜこの比丘を無理に連れてきたのか」とお訊きになりました。「尊師、彼はデーヴァダッタが不法に得た食事を食べています」「比丘よ、それは事実なのか」「尊師、私はデーヴァダッタから食事をもらうのではありません。友人に勧められて食べているのです」「比丘よ、そのような言いわけをすることはよくない。デーヴァダッタは行いの悪い破戒者だ。君はここで出家して私の教えを聞きながら、なぜデーヴァダッタが不法に得た食べ物を食べるのか。昔から君は、誰彼かまわず、すぐに信じてしまう性格だったのだよ」と、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はライオンでした。菩薩には息子と娘がいました。息子の名はマノージャといいました。成長したマノージャは妻をもらって一家の働き手となり、歳を取った両親と妻と妹のために狩りをして、家族は仲良く暮らしていました。
ある日、牧場で一匹のジャッカルが悪事を企んで、隠れるために地面に伏せていました。マノージャはそこを通りかかり、「どうしたんだい?」と訊きました。ずるいジャッカルは、「あなた様にお仕えしたくて頭を下げています」と言いました。マノージャは「よし」と、ジャッカルを連れて自分の洞窟にもどりました。
ジャッカルの名はギリヤといいました。菩薩である父ライオンはギリヤを見て、「マノージャ、ジャッカルは性格が悪い。きっと悪い影響をお前に与えるだろう。あいつとは親しくつきあうな」と忠告しました。しかしマノージャは、毎日のようにギリヤを従えて狩りをつづけました。
ある日ギリヤは馬の肉が食べたくなって、マノージャに言いました。「旦那、私たちは馬の肉は食べていません。今度は馬を襲いましょう」「ギリヤよ、馬はどこにいるのか」「バーラーナシーの川岸にいます」。マノージャはギリヤを従えて川に行き、川で沐浴している馬を襲いました。彼は、家族のために、馬を背中に乗せて洞窟に帰りました。
菩薩の父ライオンは馬の肉を食べ、「息子よ、馬は王の財産だ。王は、獣を仕留める手だてを持っている。馬を食べるライオンは長生きはできない。馬を襲うのはやめなさい」と忠告しました。しかしマノージャは父の言うことは聞きません。相変わらずギリヤを従えて、馬を襲いつづけました。
馬がライオンに襲われると聞いた王は、城内に池をつくらせて、城内で馬を飼いはじめました。マノージャは城内に忍び込んで馬を襲いました。王は柵のある厩をつくらせました。マノージャは、厩の柵を飛び越えてまで、馬を襲いつづけたのです。王は、とうとう弓矢の名手を呼び、「お前はライオンを射殺せるか」と訊きました。彼は「できます」と、ライオンの通り道に櫓をつくり、中に隠れて待ちました。
何も知らないマノージャが、城の外にギリヤを待たせ、馬を襲いに来ました。弓矢の名手は、「ライオンは来る時は非常に素速くて仕留めるのは難しい」と考えて、マノージャが馬を殺してもどるのを待ちました。仕事を終えて馬を背中に乗せたマノージャが通り過ぎると、弓矢の名手は、後ろから鋭い矢を放ちました。矢はマノージャの体を貫きました。マノージャは「やられた!」と咆哮を響かせ、弓の名手は、弓の弦を雷鳴のごとくうならせました。ギリヤは、マノージャの慟哭と弓の音が辺りに響き渡るのを聞いて、次の詩を唱えました。
弓が張られ、弦がうなり
わが友、獣の王、マノージャの命が消えた
さて、俺は、気が向くままに森へ去ろう
友は死んだ
また新しい友をさがせばいいさ
マノージャは何とか自分の洞窟までたどり着いて馬を背中から下ろし、その場で倒れて死にました。マノージャの家族は外に出て、血まみれになって死に絶えたマノージャの亡骸を見ました。マノージャの家族はそれぞれ、詩を唱えました。
世に悪友とつきあって
幸福になる者などいない
悪友ギリヤに惑わされ
見よ! 徒死したマノージャを(父)
悪友の仲間となった我が息子
母を悲嘆にくれさせる
ここに血まみれになり倒れ
見よ! 徒死したマノージャを(母)
幸福を知る善友の
忠告の言葉を聞かぬ者
悪に交わり、滅ぶまで
悪果を受けるはめとなる(妹)
最高位にありながら、最劣の者につくす者
彼は、最劣以下の者
王でありながら、下郎に仕え
見よ! 射殺された獣の王を(妻)
最後に、ブッダは次の詩を唱えられました。
劣る者につくすなら、彼はいずれ落ちぶれる
同等の者につくすなら、彼は落ちることはない
尊い人に従えば、彼はすみやかに向上す
ゆえに、人は、おのれより、すぐれた人に従うべし
釈尊がこの話の後しばらく法話を続けられると、デーヴァダッタのところで食事をした比丘は預流果の悟りを得ました。釈尊は、「その時のジャッカルはデーヴァダッタ、マノージャはこの比丘であり、妹はウッパラヴァンナー、妻はケーマー、母親はラーフラの母であり、マノージャの父は私であった」と、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
生まれてきた人はどのような人間に成長していくのかということは、その人が誰と仲良くしているのかということを観察すると、推測できます。人は、決して「自分」というものを明確に確立していないのです。人は誰でも自分が何ものか、将来どんな人間になるのかわかっていないのです。ですから、とても不安なのです。落ち着かないのです。場合によって、恐怖感に悩まされることにもなるのです。
この状態から脱出したいのです。安心感を味わいたいのです。自分に対する、将来に対する不安を乗り越えたいのです。そのために、どんな人間でもやることは決まっているのです。それは、仲間を作ることです。仲間というのは、安心して生きるために必要な「環境」なのです。環境が良ければ、動植物も人間も、スクスク繁栄するということは言うまでもありません。しかし、人間の場合は、「良い環境」というのは、きれいな空気、水、有機栽培の食べ物だけでは決して足りません。物質的な環境は好ましくなくても人工的に環境を作る能力、技術は、人間が持っているので、それほど問題にならないのです。
人間にとって一番大事な環境は、仲間です。自分が生きている社会です。社会という環境から支えられて、人間が成長していくのです。家族、学校、会社、友人達などは、性質は異なった個別の社会ですが、一人の人間がこの個別の社会をまとめて、「自分だけの社会」を築くのです。自分の将来は、この「自分だけの社会」が定めるのです。従って、幸福になりたい、人生を成功したい、まっとうな人間になりたいと思うならば、自分が置かれている「自分だけの社会」はどういうものかと注意しなくてはいけないのです。
「自分だけの社会」は、自分自身で作るものです。それがあまり良くないと発見したら、変えることができるのです。変えなくてはいけないのです。教育よりも、仕事よりも、身体の健康よりも、自分が置かれている「自分だけの社会」は、自分に影響を与えるのです。知識社会で天才的な能力を発揮しても、環境が悪ければ何の役にも立ちません。嫌になるほど財産に恵まれても、環境が悪ければ、犯罪者で人生を終えるのです。人は良い躾で、説教で、良い人間になると思っているようですが、それが勘違いなのです。躾をしても、説教をしても、面白いことに人の耳に入らないのです。人を育てるのは、「自分だけの社会」なのです。
こういうわけで、仏教はこの問題を最優先にしているのです。「善友に巡り会えたら、人は仏道を完成するのです」というのは、仏陀の言葉です。完全たる悟りをひらいて、輪廻転生を乗り越えることさえできるのだ、という意味なのです。一人の能力では瞑想実践して成功させることさえもできないのです。瞑想実践は、全くも独りで行う挑戦であることにも関わらずです。自分が誰と一緒に生活しているのかということは、自分の幸福に対して絶対的な条件であると、肝に銘じておく必要があります。決して軽く見てはいけないのです。
この物語で主人公を演じる獅子マノージャ君は、初めはなかなかの人格者でした。勇気がある、怠けることなく努力をする、親も家族も大事に守る。人間でいえば文句のつけどころのない、理想的な孝行息子です。すべてのジャータカ物語の中で、悪役を演じるのは、ジャッカル(豺狼)の仕事です。やり手のマノージャは、ジャッカルのギリヤが僕になってくれて、気分が良かったでしょう。ジャッカルを仲間にするなよと、親に注意されたのに、その躾は耳に入らなかったのです。(環境の影響は絶大なのです。)
立派な人間になりたければ、自分より性格が優れている人々の中に強引にでも入り込むことです。優れている環境の中では、自分がプライドを捨てて僕になっても構わないのです。
虎の威を借るビーマセーナ
Bhīmasena jātaka(No.80)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
ある比丘が、「友よ、私ほど高貴の出の者はいないのだ。私は偉大な王族の立派な家柄で、実家は大金持ちなのです。私の家では下僕でさえ白米と肉を食べ、カーシ産の服を着て、カーシ産の香油を使っていた。私は出家したのでこのように粗末なものを食べ、粗末な衣を着なければならなくなってしまったが」と、ことあるごとに皆に自慢して歩いていました。
一人の比丘が、彼の自慢話は虚偽であったことを知り、そのことを皆に伝えました。比丘たちが「あの比丘は、解脱のための道に入ろうと出家しながら、ほらを吹き、威張っている」と彼のみっともなさについて話していると、釈尊が来られ、「比丘らよ、何を話しているのか」とおたずねになりました。比丘たちがお答えすると、「あの男が大口をたたくのは今だけではない。彼は過去でも大言壮語して威張っていた」と言われ、皆から請われるままに、過去の物語を話されました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある町のバラモンの名家に生まれました。菩薩はとても優秀でしたが、生まれつき少々背が低く、背中が曲がっていました。成人した菩薩はタッカシラーの有名な先生の元で、三つのヴェーダと、一八の学問と、弓矢などの技芸を完全に修得し、チュッラダヌッガハパンティタ(小射手博士)と呼ばれるほどの俊才になりました。
学業を終えた菩薩は師の元を離れ、自分の仕事を探すための旅に出ました。菩薩は「私が王様に仕えようとしても、『こんな小男に何ができるのか』と言われて雇ってもらえないことだろう。私は、一人で仕事を捜すより、見た目の良い男を捜し、その男と組んで仕事を捜した方がいいだろう」と考えました。
ある時、菩薩は、立派な体格の織物職人に出会いました。彼はビーマセーナという名前でした。菩薩は、「あなたはこれほど立派な体をしているのに、なぜこんな仕事をしているのですか」とたずねました。ビーマセーナは「食べていくことができないからです」と答えました。菩薩は「世界に私ほどの弓の名手はいません。しかし、私が王様に面会しても『こんな小男に何ができるのか』と言われ、雇ってはもらえないでしょう。あなたは体格が良い。あなたが王様に面会して『私は弓の名手です』と言えば、雇われるに違いありません。あなたが王から命じられた仕事は、私がやりましょう。二人で組めば、どちらも良い仕事が得られます。そのようにしたらどうですか」とピーマセーナを誘いました。ビーマセーナは「言われるとおりにしましょう」と同意しました。
菩薩はビーマセーナを連れて、バーラーナシーの王のもとを訪ねました。ビーマセーナは、王に挨拶をして、「私は弓の名手です。世界に私ほどの弓の名手はいません」と言いました。「いくらで私に仕えると言うのか」「半月で千金です」「そちらの男は誰だ」「私の助手です」「よろしい。仕えなさい」。ビーマセーナは王に雇われました。ビーマセーナに仕事が来ると、菩薩がその仕事をこなしました。
ある時、カーシの森に人食い虎が出て、多くの人が襲われるという事件が起こりました。王はビーマセーナを呼び、「そなたは虎を捕らえることができるか」と訊きました。彼は、「虎一匹捉えられないで、弓の名手と言えるでしょうか」と答えました。 王はビーマセーナに特別手当を与え、虎退治を命じました。
ビーマセーナは家に帰り、菩薩に仕事を頼みました。菩薩は、「よろしい。森に行きなさい」と言いました。ビーマセーナは、「あなたが行かれるのではないのですか?」と訊きました。「私は行かなくても、ある方法があります」「教えてください」「あなたは一人で森に入るのではなく、その地方の人々を集め、千か二千の弓矢を持たせ、いっしょに虎のところへ行くのです。虎が起きあがったら、あなたは素早く茂みの中に隠れて伏せるのです。そうすれば、そこにいる人々が、虎を射殺すことでしょう。虎が殺されたら、あなたは歯で蔓をかみ切って、その端を持って虎の横に立ち、『なぜ虎を殺してしまったのだ。私はこの虎を生け捕りにして王の元に連れて行こうと思って、牛のように虎をしばろうと、蔓草を探していた。その間に虎は殺された。誰が虎を殺したのか』 と言うのです。人々は怖れて貢ぎ物を差し出すでしょう。王様からもご褒美がもらえるでしょう」と教えました。ビーマセーナは一人で森へ出かけました。
ビーマセーナは計画通りに振る舞って成功し、森の危険は去りました。ビーマセーナは人々からの貢ぎ物を受け取り、その上に、「王様、虎は私が退治しました。森は元通りになりました」と報告したので、喜んだ王からも褒美をもらいました。
別の日、野牛が暴れて道をふさいでしまう事件が起こりました。王は、ビーマセーナに野牛の退治を命じました。ビーマセーナは虎退治の時と同じ方法を使って、再び成功しました。王はますます喜んで、より多くの褒美を与えました。ビーマセーナは王に気に入られ、次第に権力者になりました。
権力を得たビーマセーナは尊大になり、菩薩を見下すようになりました。菩薩の言うことを聞かなくなって、「私はあなたのお陰で生活しているわけではない。あなたは私の使用人にすぎないのだ」という乱暴なことまで言うようになったのです。
それからしばらく経って、敵国の王が攻めてきました。敵国の王はバーラーナシーを取り囲み、「おとなしく国を明け渡せ。さもなくば、我と戦え」という信書を送りつけてきました。王は、ビーマセーナに、戦場に行って戦うことを命じました。ビーマセーナは立派なよろいかぶとをつけ、武装した大きな象にまたがって先頭に立ちました。ピーマセーナのことを案じた菩薩も十分に武装して、ビーマセーナの後ろにまたがりました。
ピーマセーナは大勢の軍隊を引き連れて、戦場に向かいました。しかし陣太鼓の音が聞こえてくると、彼はひどく怯えて、ガタガタと震え出しました。菩薩は、「このままでは、ビーマセーナは象から落ちて死んでしまうだろう」と、象の背中に彼をしばりつけました。戦場に着いたビーマセーナは、その様子を見て、恐怖のあまりに失禁し、象の背中を汚物で汚しました。菩薩は「ビーマセーナよ、君は、以前は戦場の勇士のようだった。しかし今はあまりにも怯えて象の背中を汚している」と、次の詩を唱えました。
前面には大言壮語し
背後で汚物を失禁す
ビーマセーナよ
勇ましい話と惨めな姿
両者は調和せぬ
菩薩は「怖れることはない。なぜ私がいるのに怯えるのか」とビーマセーナを象からおろし、汚れた身体を川で洗って家に戻るようにと、彼を先に帰しました。菩薩は、「今こそ私は自分の名前を表に出すべき時だ」と、大声で鬨の声を上げて勇敢に戦い、敵王を捕らえて王の元に戻りました。王は歓喜して、菩薩に大きな名誉を授けました。
それ以降、小射手博士という名前は国の内外に響き渡るようになりました。菩薩はビーマセーナが生活に困らないようにお金を与え、元のところに帰しました。菩薩はそれからも布施行などの善行為をし、その行為に応じて次の世に生まれ変わっていきました。
お釈迦さまは、「ビーマセーナは自己を誇示して語る比丘であり、小射手博士は私であった」と言われ、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
ポイント 1
この世で安定した生き方を営むためには、最低ひとつでもいいから、何かの才能か能力が必要です。社会に貢献できるものが、自分自身にひとつでもなければいけないのです。生まれつき何かの才能を持っている人もいますが、「自分にどんな才能があるのか」と疑問を抱いて悩む人もいます。
悩む必要はありません。人間には、一つ二つくらいは自分にできることが必ずあるのです。悩む人というのは、それにまだ気づいていないか、他人の才能ばかり気にしてうらやんで妄想しているかです。人間の心はシリコンゴムのようなもので、どんな形にもなるのです。強引に伸ばしてもなかなか切れるものではありません。才能がないと思う人は、何かの能力を身につければ問題は解決する。しかし…。
才能があっても上手くいかないケースも沢山あります。作家としての能力はあるが、本は売れない。音楽の能力はあるが、自分の歌や作品はヒットしない。職人としての能力は世界一と言っても過言ではないが、注文は来ない。美大を出ても、画家として生計を立てられない。このような問題は、世間では普通です。
この物語の小射手博士も、同じ問題に遭遇したのです。小射手博士は菩薩なので、彼がとった態度は、自分の才能が売れないときにはどうすればよいのかという答えなのです。軍隊を率いる才能も能力もあったのですが、一つ短所があったのです。少々背が低く、少々背中が曲がっていたのです。将軍になれるどころか、一兵卒になるにも失格です。しかし自分には軍職しかできない。では、どうしましょう? 彼が見事にその問題を乗り越えたのです。
現代の我々には同じ真似はできないのは確かです。この物語で言っているのは、自分の短所をカバーして長所を活かす方法を見つけなさいということです。例えば、自分の曲がヒットしないなら、人気絶頂の人とデュエット一つでもして、レコードを出してみることです。今も、それほど歌唱能力がない人々が、必死でビジュアルに挑戦しているでしょう。天童よしみさんの歌唱力は天才的ですが、国民的な歌手になるまで時間がかかりました。しかし、彼女はビジュアルの問題を見事に乗り越えたのです。物語の小射手博士とだぶってしまったのです。
また、自分の才能を世間にアピールする好機を逃してはならないのです。社会が必要ともしないのに、勝手にアピールすると逆効果になるのです。要求が出た瞬間に自分の能力を活かして見せれば、認めてもらえるのです。我々は「自分の才能を活かせない、能力に適した仕事がない」などの愚痴を言うのではなく、好機を見逃さないようにした方が良いのです。魚がいない川に、釣りのプロが釣り竿を掛けて「私はプロなのに魚が掛かって来ない」と愚痴を言わず、魚がいるところに行ってルアーを降ろした方が良いのです。素人より成功します。(これはたとえ話で、釣りは殺生です。誤解しないように。)能力と才能とともに、それを活かせる方法も知っておかなくてはならないのです。
ポイント 2
ほら吹きは気持ち悪いダメな行為だと、この物語は教えてくれるのです。仏教でなくても、一般の社会でも、ほら吹きには立場がないのです。嘲笑の的にはなりますが、本人には何の得もないのです。雇ってはもらえないのです。
当然、口が達者な人もいるのです。見事に大言壮語をして、信頼を買ってしまう場合も、良い仕事に就く場合もあるのです。ほら吹きは、それで調子に乗るのです。大言壮語は徐々にエスカレートするのです。やがて、子供にさえもばれてしまうことになるのです。それで、あっと言う間に地に落ちるのです。
大言壮語は、才能、能力がないにもかかわらず自己主張する人々がやるものです。遅かれ早かれ、地に落ちることは決まっているのです。その人には人格的に問題があるのです。その性格が直らない限り、人格向上も期待できないのです。
「天の法」物語
Devadhamma jātaka(No.6)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
シャカムニブッダがコーサラ国の舎衛城近郊の祇園精舎におられた時のことです。舎衛城のある資産家が、妻に死なれて出家しました。彼は、出家する前に、台所つきの小屋と食材を満たした貯蔵庫を造り、出家してからはそこに住んで家の使用人に料理を作らせて食べていました。ある時、地方から来た比丘たちが多くの家財道具や衣服を見て、かの比丘にたずねました。「これは誰のものですか」「私のものです」「すべてあなたのものなのですか」「そうです」。比丘たちは、「友よ、君は小欲の教えのもとで出家しながら、教えに従っていない。師にお話を聞きなさい」とその比丘を釈尊の所に連れて行きました。
釈尊が「比丘らよ、なぜこの修行僧を無理に連れてきたのか」とたずねられたので、比丘たちがわけをお話ししました。「君が物を多く所有しているというのは本当なのか」「尊師、本当です」。「なぜ多くの物を持つのか。私は小欲で満足することを賞賛しているでしょう?」と釈尊が言われると、かの比丘は腹を立て、「では、こうすればいいでしょう」と上衣を脱ぎ捨てて、皆の前で下衣一枚だけになりました。釈尊は彼をなだめられ、「比丘よ、君は、前世では、池に住む羅刹(鬼神)であった時でさえ、慚愧(ざんぎ = 人としての恥を知り、識者の目を怖れる)の心をもって十二年間を過ごしたではないか。それなのに今、このような尊ぶべき教えのもとで出家しながら、慚愧の心を捨てて立つのか」と諭されました。それを聞いた比丘は慚愧の思いを起こし、衣をつけてお釈迦さまに礼拝し、おとなしく傍らに坐りました。釈尊は皆に請われるままに、過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は王子として生まれ、マヒンサーサ王子と名づけられました。その何年後かに弟のチャンダ王子が生まれ、チャンダ王子が走り回るようになると、二人の母であるお后は亡くなりました。そこで新しい王妃が位につきました。しばらく経つと、その王妃に息子が生まれ、スリヤ王子と名づけられました。王はスリヤ王子の誕生を喜び、新しいお后に、「何でもおまえの好きなものを与えよう」と言いました。
お后は贈り物を受ける権利を保留し、スリヤ王子がだいぶん大きくなったところで、「あの贈り物のお約束を、今、お願いいたします。スリヤ王子に王位を授けてください」と王に願い出ました。王は「何を言うのだ。上の二人の王子は、すばらしい輝きを放って成長している。三番目の王子に王位を譲ることはできない」と断りました。しかしお后はあきらめず、何度も頼みました。
その様子を見た王は心配になりました。王は上の二人の王子を呼んで、「お前たち、私はスリヤ王子が生まれた時、后に望みのものをやると約束した。スリヤの母は、わが子の王位を求めている。私はそのような頼みを聞くつもりはない。しかし、女は思い詰めると何をするかわからない。お前たちに悪事をたくらむかもしれない。お前たちは森林に隠れ住み、私の死後に出てきて王位を継いでおくれ」と、涙を浮かべて命じました。王子たちは父王に礼をして、すぐに城を出ることにしました。ちょうど庭で遊んでいたスリヤ王子はその話を聞きつけ、「僕も兄さんたちと一緒に行く」と、二人の兄と共にお城を出ました。
三人はヒマラヤ山に入りました。菩薩であるマヒンサーサ王子は、下の方にある湖を見て、弟に「スリヤ王子、あの湖で遊んでから皆に水を汲んできておくれ」と言いました。スリヤ王子は湖に降りていきました。
実は、その湖は、ある羅刹(鬼神)の領分でした。羅刹は毘沙門天から「水に入った者は、天の法を知る者以外、自由に食べてもかまわない」という許可を与えられていました。羅刹は水に入った者に天の法を問い、答えられないことを確かめてから、食べていました。スリヤ王子が何も気をつけることがなく湖に入ると、羅刹が出てきて「お前は天の法を知っているか」と訊きました。スリヤ王子が「知っているよ。天の法とは、月と太陽だ」と答えると、羅刹は「お前は天の法を知らない」と言って王子を捕まえ、自分の住処に連れて行きました。
スリヤ王子の帰りが遅いので、菩薩はチャンダ王子を見に行かせました。チャンダ王子も、あまりよく調べずに湖に入ってしまいました。羅刹が出てきて、チャンダ王子に、「お前は天の法を知っているのか」とたずねました。チャンダ王子が「知っている。天の法とは、東西南北という四方のことだ」と答えると、羅刹は「お前は天の法を知らない」と、チャンダ王子も捕らえて、とりこにしました。
菩薩はチャンダ王子もなかなか帰ってこないので、自ら様子を見に来ました。湖の岸に着くと、湖に向かう二人の足跡が一方通行で残っていました。菩薩は、「ここは鬼神が住む場所に違いない」と知り、剣と弓を手に持って湖の側に立ちました。菩薩が水に入らないのを見た羅刹は、木こりに化け、菩薩に「あなたは旅で疲れている。なぜ湖に入り、沐浴し、水を飲んで、レンコンを食べ、蓮華を飾って身体を楽しませないのか」と話しかけました。
菩薩はすぐに、これは湖の鬼神だと気づき、「私の弟たちを捕らえたのはあなたでしょう」と言いました。羅刹は「そうだ。俺だ」と答えました。「なぜ捕らえたのですか」「俺には湖に入ってくる者を捕らえる権利があるのだ」「あなたはすべての者を捕らえるのですか」「そうではない。天の法を知っている者は捕らえない」「あなたは天の法を知りたいのですか」「そうだ」「私はそれを知っています。私が天の法を教えましょう」「教えてくれ。俺はそれが聞きたいのだ」。
そのような会話を交わしてから、菩薩は、「では天の法を説きましょう。しかし、このままでは落ち着いて話ができません」と言いました。羅刹は菩薩に沐浴をさせ、飲み水や食事を差し上げ、蓮華で飾ったり油を塗ったりしてもてなし、美しく飾った座を設けました。菩薩は準備された座に坐り、羅刹を傍らに坐らせて、「では耳を傾けて、天の法を聞きなさい」と、次の詩を唱えました。
慚愧(ざんぎ)の心をそなえ
清らかな法に励み
寂静(じゃくじょう)に住む善き人こそ
天の法を知る者といわれる
羅刹はこれを聞いて清らかな喜びの心を起こし、菩薩に、「賢者よ、私はあなたのお力で、清らかな喜びの心を起こしました。あなたこそ天の法をご存じの方です。お礼に、弟方お二人のうち、どちらか一人をお返しすることにしましょう。どちらを連れてきましょうか」と訊きました。菩薩は「では、年下の弟を連れてきてください」と答えました。
「賢者よ、あなたは天の法をご存じだが、それを実行しておられぬ」「なぜですか」「あなたは、年上の者を尊重するという善行を実行してないからです」「鬼神よ、私は天の法を知り、それを実行しています。実は、我らが森に入ってきたのは、下の弟のためなのです。あの子の母は、私の父である王に、あの子の王位を要求しました。父はそれを断りましたが、私たちの身を案じ、私たちを護るために、森に住むように命じたのです。下の王子はそれを知り、自分から私たちについてきました。それなのに森で鬼神に食べられたなどと、どうして言えることでしょう。誰も信じてくれず、必ず問題が起こります。だから私は、下の弟を取り戻そうとしたのです」「よくわかりました。賢者よ、あなたは天の法を知り、それを実行する方です」。
羅刹は信頼感を取り戻し、菩薩を賛嘆しました。羅刹は菩薩の弟たちを二人とも連れてきて、菩薩に返しました。菩薩は羅刹に、「友よ、あなたは自分の過去の悪業によって、他人の血肉を喰らう鬼神となったのです。ここで、こういう生活を続けていれば、悪業があなたを地獄から抜け出せないようにするばかりだ。これからは、悪事をやめ、善を行いなさい」と説き、彼を改心させました。
羅刹は菩薩に仕えることにし、彼らと共に森で暮らしました。ある夜、星の動きを見て父王の死を知った菩薩は、弟たちと羅刹を連れてバーラーナシーにもどりました。菩薩は王位を継ぎ、チャンダ王子を副王に、スリヤ王子を大将軍にし、羅刹には景色の良い場所に住居を与えました。羅刹の住居は最上の花で飾られ、毎日最上の食事が与えられました。王となった菩薩は正義に則った政治を行い、業に従って生まれ変わっていきました。
その話の後で釈尊が四聖諦について説かれると、かの比丘は預流果の悟りを得ました。釈尊は「その時の羅刹は物持ちの比丘であり、スリヤ王子はアーナンダ、チャンダ王子はサーリプッタ、マヒンサーサ王子は私であった」と、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
ジャータカ物語だけではなく、インドの昔話によく出てくる場面があります。
王様の第二の妃が息子を生む。喜んで舞い上がった国王は、「ご褒美として、何でも君の希望を一つ叶えてあげる」と約束する。妃はそのときは何も言わずに約束を保留してもらう。息子が成年になると、「約束です。息子を次の王として認定しなさい」とねだる。法律的には第一の妃の子供達が王位を継ぐのだから、王様は困り果てる。しかし、王として約束も果たさなくてはならない。
人間は欲に絡むとなんでも約束する。正直な人は、約束を果たそうと無理をして不幸になる。いい加減な人は平気で約束を破るので、信頼できない。ポイントは、約束は守らなくてはならない。であるならば、感情に目が眩んで、果たせない約束、非論理的な約束はしないことです。非現実的な約束はしないことです。どんな約束でも、法律の範囲の中で、道徳の範囲の中でしなくてはいけないのです。「あなたに暴力を振るうあいつを殺してあげる」などの約束はダメなのです。強引に約束を迫られたときでも、法律、道徳、常識違反のものは、きっぱり断ることです。また、無理な約束の場合も注意して判断することです。
この物語では「天の法」(deva dhamma)がキーワードになっています。「天」というと、「人間より優れている、人間は尊く思う必要がある」という意味になります。また「太陽、日夜、日々」という意味もあるのです。要するに「人間は絶対守らなくてはならない道徳、規則」ということです。人食い鬼神は、天の法を知っている人は食わないのです。その権利はないのです。これは、「天の法を守る人には、この世で何の危機もない」ということです。
生きている上で、人はあらゆる災難、あらゆる不幸に遭遇するのです。また無知の上で、やってはいけないことを気づかずやってしまって、不幸になるのです。
そこで、人を守ってくれるのが、「天の法」です。
第一は「慚(ざん)」です。パーリ語で hiri(恥)です。良い意味のプライドを持って、悪を犯すのを恥じるのです。
第二は「愧(ぎ)」です。パーリ語で ottappa
(怖れ)です。悪いことをすると悪い結果になるので、それを脅えるのです。社会の自分の立場がなくなることや、裁かれること、逮捕されること、不名誉になること、非難されることを脅えて、悪をやめるのです。
「この二つは車の車軸のようなもので、この法を守れば世界は安全だ」と、釈尊は説かれているのです。
第三の天の法は「善行為をすること」です。人は常に善いと思われる行為をするようにと、努めなくてはならないのです。自分の役に立つ、他人の役に立つ行為をするべきです。
第四の天の法は「落ち着いていること」です。いくら善い人であっても、突然興奮したり混乱したりすると、自己管理できなくなるのです。無知なこと、無法なことをしてしまうのです。ですから、常に落ち着いていることが大事です。幸福で平和な社会を築くためには、この四つの項目で充分ではないでしょうか。この天の法を守る人は、この世だけではなく、あの世でも幸福なのです。
インドでは、神も神霊も鬼神も樹神も、何でもかんでも信仰するのです。お供えをして日々の幸福を願うのです。災難を妨げることを期待するのです。民間信仰というのは根が深く、理屈をいっても、科学文明が発達しても、消えてしまうものではありません。非論理的だ、迷信だとわかっていながらも、祈りをするのです。しかし、迷信に反対の仏教は、民間信仰に攻撃しないのです。代わりに、より道徳的で理性的なやり方で祈りや供儀をやるようにと、信仰を改良するのです。生け贄などに絶対反対するのです。「生け贄の代わりに、農作物で供養して、自分たちが信仰している神々や神霊に、感謝しなさい。喜んだ神々も、あなたがたを守るでしょう」と説くのです。
そういう教えによって、仏教徒にならなかったとしても、罪を犯さない、他人に迷惑を掛けない人間になるのです。罪を犯さないで感謝の気持ちで生きているのだから、その業によって不幸を免れることもできるのです。
ライオンと虎が去った森
Byaggha jātaka(No.272)
アルボムッレ・スマナサーラ長老
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のことです。ある雨安居(雨期の間の修行)の時、お釈迦さまの二大弟子であるサーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者のお二人は、祇園精舎を離れて静かに雨安居を過ごそうと、お釈迦さまの許しを得て、コーカーリカ国へ行かれました。お二人は、コーカーリカと呼ばれる出家者の寺で雨安居を過ごすことにしました。お二人は、自分たちの滞在を内密にするようにコーカーリカ比丘に言って、コーカーリカ比丘にも法話をしてあげながら、雨安居の三ヶ月間の間、静かに成就法の安楽を過ごされました。
雨安居の時期が終わり、お二人の大長老は祇園精舎に帰ることにしました。コーカーリカ比丘は長老方について近くの村まで出てお二人を送ってから、村の人々に、「あなた方は、お釈迦さまの二大高弟といわれる仏弟子のお二人が三ヶ月もお寺に滞在しておられたのに何も知らなかったとは、まるで動物のようだね」と言いました。人々は、「なぜ教えてくれなかったのですか」と驚いて、たくさんの薬や衣や油などを持って長老方を追いかけ、「知らぬこととはいえ大変失礼致しました。なにとぞ私どものためにお布施をお受けください」とお願いしました。コーカーリカ比丘もそちらに来て、「長老方は小欲だから、きっと品物を私にくださるだろう」と期待して待っていました。しかし、これらのお布施はコーカーリカ比丘の言葉に促されて得られたものであることを知っている長老方は品物を受け取られず、コーカーリカ比丘も何も得られませんでした。彼はがっかりして腹を立てました。コーカーリカの人々は長老方に「では、私たちを憐れんで、ぜひもう一度こちらにいらっしゃってください」とお願いし、お二人はそれを承諾されて、祇園精舎にもどられました。
お二人の長老方は、時期を見て、自分たちに従う五百人ずつの弟子たち、皆で千人の比丘たちを連れて、再びコーカーリカ国を訪れました。人々は喜んで毎日盛大な供養をしました。そちらではたくさんの衣や薬などもお布施されました。コーカーリカ比丘は、自分も当然何かもらえるものと期待していました。しかし、お布施を扱う比丘たちはコーカリカ比丘には品物を渡さず、長老方からの指示もありませんでした。コーカーリカ比丘は怒り狂い、長老方を非難しました。「前の時は自分たちもお布施を受けなかったが、今回はたくさんお布施されている。それなのにあの二人は人のことなど顧みず、何も渡さない」とお二人を罵ったのです。
サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者は、「この男は我々のために罪を犯している」と思われ、比丘たちを連れて立ち去ることにしました。コーカーリカの人たちが、もっと滞在してくださいと懇願しましたが、お二人のお気持ちは変わりませんでした。人々は、お二人が立ち去られるのはコーカーリカ比丘のせいだと気づいて彼を非難し、「長老方が滞在できないようにするのなら、あなたはここを出て行ってください。あの方々にお詫びして、もう一度来ていただくか、あるいはあなたが出て行くか、どちらかにしてください」と詰め寄りました。皆の剣幕に恐れをなしたコーカーリカ比丘は、お二人を追いかけて、滞在していただくように頼みました。しかしサーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者は、「友よ、帰りなさい。私たちは引き返しません」と、祇園精舎にもどってしまわれました。コーカーリカの人たちは納得せず、「こういう愚か者がいたら、優れた大長老はこちらには来てくれない」と、すごい剣幕でコーカーリカ比丘を追い出しました。
コーカーリカ比丘はサーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者を連れて帰ろうと思い、祇園精舎にやって来ました。彼はブッダに礼拝した後、二人の高弟のところに行って、「友よ、コーカーリカの人々は、あなた方に来ていただきたいと望んでいます。一緒に戻ろうではありませんか」と言いました。しかし、お二人の高弟は「友よ、あなたは行きなさい。私たちは行きません」と断られました。コーカーリカ比丘は一人で帰るしかありませんでした。
比丘たちが集まって、「コーカーリカ比丘はサーリプッタ長老とモッガラーナ長老と一緒にいることもできず、離れることもできないようだ」と話していました。そこに釈尊が来られ、何を話しているのかおたずねになりました。比丘たちがお答えすると、「過去においても、コーカーリカ比丘は、サーリプッタとモッガラーナと一緒にいることもできず、離れることもできなかった」と言われ、皆に請われるままに過去のことを話されました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は、ある森の樹の樹神でした。同じ森で、菩薩の樹からそれほど遠くないところにある大木に、もう一人の樹神がいました。その樹神は愚か者で、ものの道理がわかりませんでした。
その森には、恐ろしいライオンと虎が住んでいました。そのライオンや虎を怖れた人々は、決して森に寄りつきませんでした。ライオンや虎はさまざまな獣を殺して食べ、満腹になると、死骸を残して放っておきました。そのため、その森には死の匂いがただよっていました。
ある日、愚かな樹神が菩薩に、「君、我々の森は、ライオンや虎のために、汚れた死の匂いに満ちている。私はあいつらを追い払おうと思う」と言いました。菩薩は「この森は、彼らのおかげで護られている。ライオンや虎がいなくなったら人間たちが来て、多くの樹を伐り払い、畑を作ったり村を作ったりするに違いない。そうなったら君も困るだろう」と、次の詩を唱えました。
おのれの安穏を壊してしまう
悪い友人に対しては
自分の眼を護るごと、
賢者はおのれを護るべし
おのれの安穏を増大させる
善き友人に対しては
他の為すべきを為すがごと、
その暮らしを護るべし
菩薩がこのように明確に説いたのにもかかわらず、愚かな樹神は、よく理解できませんでした。そしてある日、恐ろしい様相でライオンと虎を脅し、彼らを森から追い出してしまいました。
ライオンと虎がいなくなると、人間たちが森へ来るようになり、森を壊し始めました。愚かな樹神はまた菩薩のところにやってきて、「君の言う通りだった。ライオンと虎がいなくなると、人間どもが森を荒らしに来てたいへんなことになってしまった。いったいどうすればいいだろう」と困り果てて言いました。菩薩は「ライオンと虎は向こうの森に移ったようだ。あちらに行って、彼らを連れ戻すのが良いだろう」と答えました。愚かな樹神はその森に行き、合掌して次の詩を唱えました
さあ、虎よ、もどっておくれ
大いなる森に、帰っておくれ
虎なき森は荒らされている
虎は、決して、森から離れるな
そのように懇願しましたが、ライオンと虎は「お前は帰れ。俺たちは帰らない」と断りました。愚かな樹神は、すごすごと一人で森に帰るしかありませんでした。人間たちは好きなように森を切り開き、畑を作りはじめました。
釈尊は「愚かな樹神はコーカーリカであり、ライオンはサーリプッタ、虎はモッガラーナ、賢い樹神は私であった」と語られて、過去の話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
他人の役に立つ人は、社会に認められる。見返りを期待せず献身的に人々の役に立つような生き方をする人は、社会に尊敬される。他人に認められる生き方をするならば、自分の人生も安定するのです。コーカーリカ比丘は村の寺守をしていたが、村人たちの役には立たなかったようです。村人たちはコーカーリカ比丘に、盛大にお布施したり尊敬したりはしなかったのです。サーリプッタ・モッガラーナ両尊者は、皆の役に立っていたのです。日々説法することで、指導することで、忙しかったのです。お二人が釈尊の次に人々に尊敬されたのは当然のことです。コーカーリカ比丘は、自分が守っている寺にこの偉大なるお二方がお休みに来られたことで、自分も捨てたものではないと勘違いしたのです。お二人がその寺にわざと行かれたのは、その寺が誰にも知られていないからです。誰も知らない比丘が寺守していたからです。骨休めするためには絶好の場所でした。
他人の力を借りて、自分も大したものだと言いふらしている人間は少なくありませんが、このような性格ではまっとうな人間にはなりません。人の道徳、能力に便乗して自我を張るのではなく、自分自身で道徳、能力などを身につけなくてはいけないのです。貧乏な人が、借りた宝石で一時的に身を飾っても、金持ちにはならないのです。
人の権力、能力、財力、道徳などに便乗して、自分もその人々が得る徳の一部を分けてもらおうと思っても、上手くいかないのです。国の総理大臣の家に入ることは、一般人にはできません。立ち入り禁止です。しかし家政婦は簡単に毎日入る。勝手口から入るために合い鍵まで持っている。総理大臣と軽々く話す。場合によって、こうしなさい、これはダメですよ、と言うこともあり得る。しかし、家政婦に、総理大臣がもっている権力に便乗して何かできるのか? 何もできません。家政婦の格は変わりません。
人の能力に便乗すること自体は悪くないのです。しかし、自分もその影響を受けて、良い人間にならなくてはいけないのです。徳を分けてもらおうと思う人は、偉大なる方々に見放されます。自分で努力する人なら、偉大なる方々に見守られます。
「自然を真剣に守るべきだ」というのが最近流行っているスローガンです。それは、自然を破壊することで幸福になるのだという誤解に基づいて生きてきた結果、気づいたことです。しかし人が問題に気づいた時はもう遅く、やり直しが出来ないほど問題は悪化しているのです。お経では初めからも、人間と動植物は互いに調和して心配しあって生きていなくてはならないのだと知っていたのです。仏教徒は、木の枝一本でも、無闇に不必要に切ってはならないと説かれるのです。
このジャータカ物語に出てくる頭の悪い樹神は、森にライオンと虎がいることを嫌がったのです。神だから清らかなところを好むのです。死骸やら、腐っている肉の悪臭やらは、とても嫌なのです。だからといって、ライオンと虎の森に住む権利を奪うことは、我が儘な自己主張なのです。森を守りたくてライオンと虎を追い出したことで、森を破壊してしまったのです。贅沢に住もうではないかと思って他人の権利まで奪うと、自分の住むところもなくなってしまうのです。
この物語は、より楽でより贅沢な生き方を目指して現代人がやっていることを、二千五百年前に予言したようなものです。偉そうな態度で獣であるライオンと虎を追い出して威張っていた神が、後に惨めになったのです。プライドを捨てて、ライオンと虎の前に跪いて「戻ってください」と懇願するはめになったのです。しかし、一度破壊したものが元に戻るのでしょうか。現代人も大変惨めに、飲み水さえも金を払って入手しています。地球の周りに無限と言えるほどきれいな空気があったのに、今は皆、必死で空気のきれいなところを探しているのです。見渡す限りみどりで囲まれていたこの世界で、今の人間は、小さなポットの中で珍しくもない植物を植えて鑑賞するのです。壮大な自然の中で堂々と生きていられるはずでしたのに、今の人間の生き方は、とても悲しい、惨めなものです。傲慢になって自然をバカにすると、自然からバカにされるのです。