ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

 

 

第一章 仏教が説く「業」

「業」について学ぶということ

業(カルマ)という言葉を聞くと、どんなイメージが浮かぶでしょうか。「イケメンの彼氏をゲットできたのは、自分が前世でお姫様だったカルマ」とか、ロマンチックな気分に浸るでしょうか。それとも、「自分がいま不幸なのは過去世の悪業が降りかかっているからだ」と暗い気持ちになるでしょうか。

 

どちらにしても、業という言葉は、現在の幸不幸に関わる、自分には思い当たらない、よくわからない不可抗力として捉えられているようです。

 

現在ではおもにスピリチュアル、精神世界の分野で親しまれている業という観念は、そもそも仏教の世界で精密に研究されて来ました。仏教の開祖であるお釈迦様(釈迦牟尼仏陀)は、この分野のエキスパートだったと言われています。

 

仏教では、業を「意思をもってなされた善悪の結果を出す行為」と定義しています。ですから、前世とか過去世とかに限らず、私たちはいまここで意思をもってしている行ない、考えること、しゃべること、体を使って何かをすることも、すべて「業(カルマ)」ということになります。

 

つまり、業について学ぶということは、自分が幸福になるために(あるいは不幸にならないために)どのように心と体の行為を管理していけばいいのか、という勉強なのです。私たちがまず学ぶべきことはこのことです。 本書を通して、もっとも肝心な業論ともいうべき「心と体の行為の管理」方法について解説したいと思います。

 

ただ、それだけで業の話は終わりません。仏教では「輪廻転生」を教えています。私たちはみな、過去の業を引き継いで生きているとも言っています。しかし私たちは誰も過去世のことなど憶えていません。知ることのできる自分の業について気にしない人でも、知ることもできない過去の業については深刻に考えたりします。これは仏教では「アベコベ(顚倒)」と呼ぶ態度ですが、みんな関心を持っているのだから、無視するわけにも行きません。過去世の業についてどう考えるべきか、という問題も解決しておきましょう。

 

2011年3月に起きた東日本大震災では、津波によって沢山の人々がいっぺんに亡くなるということが起きました。仏教では、業は基本的に個人の問題とされています。しかし災害や戦争などで多くの人が一度に不幸にみまわれたり、経済状況がうなぎのぼりになって国の大多数の人々が幸福になったりする場合、それは業の考え方ではどう説明するのでしょうか? あるいは説明しないのでしょうか? この問題についても第四章のQ&Aコーナーで取り上げました。お釈迦様の教えから、答えを見出してみたいと思います。

 

人生の不可思議に回答を与える業

まず、我々が業(カルマ)を意識するときについて考えてみましょう。人生には「流れ」がありますね。この世に生まれてきて、その瞬間からずーっと流れて、流れて変化していきます。そうやって流れで生きていくと、途中で、ふと「どうしてこうなったんだろう?」と、疑問に思うときがあります。そのとき、業という概念が入ってくるのです。 

仏教でいう「業(カルマ)」は、キリスト教の流れでは「神」になります。日本の場合は「天地創造の神」という概念になじみがないので、キリスト教系の学校では、まだ心が清らかな子供たちに「運命」「定め」などを植え付けてマインドコントロールするのです。「そういうふうに決まっているのです、運命です」という湾曲した概念を植え付けて、その上に「神」という概念を設定するという手順をとります。あるいは、「我々の人生は最初から神の計らいによるのだ」と言ったりします。そんなふうに、自分ではどうしようもない人生の流れについて、「なぜだ?」と思う人間の心に、なんとか解決を与えようとするのです。

 

考えてはいけない四つのこと

ブッダは業(カルマ)について誰よりも詳しく理解して語っていました。しかしそのブッダが、「業について考えてはいけない」と説かれているのです。それはどういうことでしょうか? 

ブッダは「考えても終わらないもの」、つまり「考えてはいけない四つのこと」を示します。その一つに業が含まれるのです。

 

@Buddhāna, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo;

ya cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

 

ブッダたちの、ブッダとは何ですかという領域・境域のこと(ブッダとはこういうものだというブッダに対するすべてのこと)は、考えても考えても終わりません。考える人の心は狂気になります。

 

AJhāyissa, bhikkhave, jhānavisayo acinteyyo, na cintetabbo;

ya cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. 

 

禅定の経験に入っている修行者の禅定は何かということは、人間には考えることが不可能です。考えてはならない、考える人の心は狂気になります。

 

BKammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo;

ya cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

 

業と過去は考えても終わりがない。考える人の心は狂気に陥ってしまいます。

 

CLokacintā, bhikkhave, acinteyyā, na cintetabbā;

ya cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. 

 

世間の考察も思考し尽くせるものではありません。思考する人の心は狂気に陥ってしまいます。

 

つまり、考えてはいけない四つのこととは、「ブッダの境地」「禅定」「業」「世間」なのです。 ブッダの境地も、禅定も、一般的な人間の領域を超えています。言葉で考えたり説明したりできる範囲のことではないのです。時空を超えていますから、考えても考えきれないのです。また、四番目の「世間」というのは、現代の一般的な「世間」とは少し言葉の意味合いが違っていて、「生命」「宇宙」と同義です。 

仏教は、「宇宙論はやめたほうがいい」という立場をとっています。人間が宇宙について思考しても思考しても終わりがないんだよ、ということです。なぜなら、宇宙は広大で、しかも直接体験できる世界ではないからです。見える物質、経験できる物質にしても、『4%の宇宙』(リチャード・パネク著)という本は日本語訳もされていますが、たった4%にすぎないといわれます。現代科学知識で宇宙を知ったところで、たった4%ですから、ろくに知っていることにはなりません。残りの物質にはダークマター(暗黒物質)という名前を付けたりしていますが、そのダークマターにしても、本当にあるのかすら、よくわかっていません。考えてもきりがなく、すごく時間が無駄になりますから、お釈迦様は「考えないでください」とおっしゃっているのです。

 

なぜ、お釈迦様は三番目に業について考えてはいけないとおっしゃったのでしょうか? それは簡単です。業というのは、もう過去のことだからです。過去というのは人間には考えきれない項目なのです。人間の脳の処理能力範囲を超えています。まったく理解不可能です。考えるならば頭がいかれますよ、だから考えてはいけません、ということです。 

そういうわけで、「お釈迦様が考えるなとおっしゃったから、業の話はここで終了します」と言ってもいいのですが、頭がいかれない程度に、経典にある仏教の業論のポイントを解説しようと思います。

 

 

業のポイント1 命の材料

命とは業のことです。このまま理解してください。

では、命とは何か、皆さんはご存じでしょうか。皆さん一人一人は一個一個の命です。ですから、業が命ということは「私は業です」と言ってもかまわないのです。「生きているとは業のことです」とも言えます。 

 

業を理解するためには、命そのものが何なのか、理解しなくてはいけません。パーリ語の用語はkammassakatā(カンマッサカター)、「業を自己とすること」という意味です。日本語では「業自性」と訳されています。 

kammassakatāについて、私の説明をしてみます。「生命とは業です」ということです。私たちの命は、業でつくられているのです。「命の材料は業である」という意味でもあります。 

 

身体も心も業でできている

考えてみれば簡単ですね。「私の身体は何でできているのか?」と言えば、答えは「業でできている」となります。ですから身体そのものが業なのです。ということは、物質的な身体の精神である「心」も業という材料でできているということです。 

肉体だけではなくて、我々の心も感情も気持ちも、全身、すべて業でつくられています。ですから、「業がわからない」と思ったら自分の脛でも見てください。業でできています。髪の毛一本、取ってみたら、それも業でできています。ですから、業とは何か、調べたらわかるはずです。しかし、実際、自分そのものがすっかりぜんぶ業なので理解しきれないだけなのです。 

業には、まったくもって秘密・神秘はありません。業は隠れているわけではありません。自分そのままが業です。業という材料でできていますから、「業ってよくわからないなあ」と言う必要はありません。 

 

業は摩訶不思議で神秘なものではなく、はっきりあるのですが理解しにくいものなのです。いわば宇宙と同じです。先ほど説明しましたね。宇宙は、はっきりとあるのですが、4%しか知り得ていないといわれています。その4%すらいい加減で、ほんのわずかなことを知っているだけです。しかし、では宇宙は隠れているかというと、ぜんぜん隠れていません。そういうわけで、業も別に隠れているわけではないのですが、私たちにはなかなかわからないのです。 

 

世間では「業」というと、なにかと摩訶不思議で神秘的なものとして、謎めいて語られたりしますね? それは、みんな神秘が好きなだけなのです。世の中の人々の神秘好きは、チベット仏教の人気を見ても明らかです。真理を語るお釈迦様の仏教より、迷信や呪文ばかり言っているチベット仏教のほうが魅力的に感じるのです。 

 

業のポイント2 相続するもの

「業は命」に続いてのポイントは、「業は相続するもの(kammadāyāda カンマダーヤーダ)」ということです。

 

命、生き物が業を相続するのです。生まれる瞬間に、業という生かされるエネルギーを相続してこの世で生命が現れます。この世といっても、人間のことだけではありません。人間の世界はもちろん、犬の世界でも猫の世界でも、虫でも、どんな世界でも生命が生まれる瞬間、けっこう財産を相続して生命が生まれます。この財産を「業」というのです。 

財産というのは、相続をわかりやすく言うために使った言葉で、正確にいえば、いわゆる「生かされているエネルギー」「生きるエネルギー」です。

 

生きるエネルギーで自殺する

我々は、何かすごいパワーがあって生きています。もう、諦めずにとにかく生きています。そんな人生の途中で、人によっては大きな失敗をして生きることが嫌になって自殺してしまうこともあります。そのとき、生かされているエネルギーをぜんぶ使って自殺するのです。どういうことか、おわかりでしょうか。生かされているエネルギーをぜんぶ使って自殺する……。そう言われると、「ちょっとおかしいな」と感じるでしょう? 自殺するためには、そうとうエネルギーが必要なのです。ですから、「それぐらいエネルギーを絞ることができるのなら、生きてみればいいでしょう」と言えます。本来は、ちょっとしたエネルギーを使うだけで生きていられるのです。しかし、ちょっと失敗したところでとんでもなく凹(ヘコ)んでしまい、「もう俺は自殺してやるぞ」となって自殺を図る。それにはものすごいエネルギーが必要なのです。

 

業は他人に管理不可能

とにかく我々には、死ぬまで生かされているエネルギーがあります。それはだいたい誰でも実感できると思います。何かじっとしていられない、何かしなくちゃいけないというエネルギーがいつでもあるのです。これが、我々が相続する各々の業なのです。したがって、他の生命にその生命の命、生き方、性格、能力、幸不幸などをそう簡単に管理することや、変えることなどはできません。 

 

これは、ぜひ理解していただきたいポイントです。各生命が、自分が相続しているエネルギー、財産を持っていて、それを使って生きています。ですから、他人にそれを維持管理することはほとんど不可能なことです。 

簡単な例でいうと、お母さんが「勉強しなさいよ」と言ったからといって、子供が勉強するとは限らない、ということです。私が「怒らないで生きたほうがいいですよ」と言ったところで、私の本を読んだ人が自分の性格を変えるのかというと、そうやすやすとは変えないということなのです。 

 

しかし、「他人は管理できない」ということを皆さん、認めたくはないでしょう。管理できると思っています。会社の役職についても「管理職」などという言葉もありますし、我々は人間関係やらいろいろな分野においてどうやって管理すべきか、かなり苦労してさまざまな研究をして調べています。「マネジメント」というものが、ものすごく膨大な学問にもなっています。ビジネスマネジメント・商売の管理。インダストリアルマネジメント・工場などの生産管理。それからパーソナルマネジメント・人間の管理をどうするのか。さまざまな分野に分かれています。大学でマネジメントを研究分野に選んだら、全体的な総論を学んで終わりではなく、それぞれの分野から一分野、専門を決めて研究することになります。 

 

しかし、どんなに管理したところで、人は言う通りにやりません。他人が自分を管理しようとすると、常識的な人間なら腹が立ちます。「どうしても管理してほしい」と思っていたり、「はい、旦那様、言う通りにいたします」という性格だったりしたら、念のため病院に行って調べてもらったほうがいいと思います。生き物は、動物さえも管理されたくないのがふつうです。犬・猫が人間に、「管理してほしい」と頼むなんてあり得ないことです。管理不可能です。 

 

そういうわけで、マネジメント学を専攻してアメリカの優秀な大学を卒業したからといって、いい管理者になるのかといえば、そうでもありません。たまたま、その能力がある人もいます。日産を見事に立て直したカルロス・ゴーン氏のように、倒産しつつある会社をちゃんと管理し、しっかり蘇えらせて堂々と商売できるようにしてあげたようなことは、誰にでもできることではありません。 

 

うまくいかない親子関係

皆さん、ぜひ「簡単に人の管理はできない」ということを憶えていただきたいと思います。子供を産んだからといって、お母さんたちが調子に乗ったらだめなのです。 

赤ちゃんを初めて産んだ親が最初に抱く子育ての悩みは、「私は、この子を育てるのにどうすればいいのか」ということです。赤ちゃんを見てみると、いかに人間が管理不可能な存在なのかがよくわかるはずです。そこでみんな間違ったやり方で、赤ちゃんにすべて合わせてあげたり、子供の言うことは何でもやってあげたりして、親が子供の奴隷になってしまったりします。そうやって、すごく迷惑な人間を育ててしまったりするのです。 

 

親が奴隷のようになって育てていくと、赤ちゃんだった人間が18歳ぐらいの若者になったときに、自分でも何をすればいいかわからない人間に育っています。どんな勉強をすればいいか、どんな仕事をすればいいか、まったく見つけることができずに途方に暮れてしまいます。元気がいちばん必要なときにまったく元気がなくなってしまい、学校を辞めたり、いろいろなとんでもないことをしたりする嫌な存在になってしまうのです。 

 

ですから、子育ては難しいのです。たとえば、1歳ぐらいの赤ちゃんなどは、欲求することをやってあげないと激怒して、ものすごく攻撃するでしょう。そこで泣きやませるために、なんとか気が済むようにしてあげます。すると子供は、どんどんその調子で親を管理しようと思うのです。逆でしょう? 親を管理するなんて。しかし、日本では、やっぱり親子関係というのは、子が親を管理する世界になっていて、うまくいっていないと感じます。 

 

業(カルマ)は、お釈迦様が「考えるな」とおっしゃったほど難しいことですが、「人を管理することは、そう簡単ではない」というポイントは、しっかり憶えておきましょう。

 

業のポイント3 幸不幸は相続次第

世の中では、よくいるでしょう?性格はどう見ても悪いのに、けっこううまくやっていて不幸にならない人たち。とんでもないことばっかりやっているのに、ぜんぜん大丈夫な人々がいますね。反対に、本当に真面目で素直で正直で、悪いことは何もしないで生きているのに、何一つうまくいかない人々もいます。「なんだ、こりゃ?」と思いますね。これは業(カルマ)の相続の問題なのです。 

 

その人が善いものを相続していると、今の生き方はそれほど関係なく、一応幸せで生きていられます。逆に、たいしたものを相続していないと、頑張っても「たいしたことないなあ」という結果になります。この業の相続の兼ね合いがあるため、世の中で悪人がかならず負けくじを引いて、善人がかならず勝ちくじを引くというふうにはならないのです。 

 

真面目に頑張って、真剣に仕事をしていてもあんまりうまくいかない人がいます。一方、仕事はさぼりたい放題さぼって、悪いことをやりたい放題やっているのに、どんどん、どんどん役職が上がっていって、課長、社長にまでなって終わる人がいます。

そういう不公平な世の中を見ると、すごく悔しくて腹が立ちますね。「なぜ、善い人間がうまくいかないのか」「なぜ、悪人ばっかりうまくいっているのか」と考えると、腹が立ちます。しかし、いくら腹を立てても、こればかりはどうしようもないのです。生まれたときに、ものすごいパワー、業という強烈なエネルギーを相続していますから、そのエネルギーには敵わないのです。 

 

世間一般で、「運命」「定め」「カルマ」などの概念がよく語られるのは、生まれ持った業のエネルギーに、それなりに気づいているからです。一般の方々が、「あれは一種の運命ですね」「そんな定めですね」「それはカルマだよ」とかなんとか言っていますね。

そこで「過去世でこんな罪を犯したから、これこれをして償わなければ」などというのは、仏教の業論から見れば荒唐無稽ですが、なぜ、そのような論旨展開が出てくるかといえば、業の相続によって、今の生き方が反映されない人生になることがあるという、そのはたらきを微妙に感じているからなのです。

 

業のポイント4 起源

仏教からいえば、業(カルマ)は起源なのです(kammayoni カンマヨーニ)。

起源、つまりorigin(オリジン)です。これは難しいポイントになります。

 

Yoni(ヨーニ)とは、胎、子宮、生、生まれること、起源、原因などという意味です。業が生命を生み出すのだということですね。生命を創ったのは業です。業が初めて生命を誕生させるのです。 

 

この業のはたらきを、宗教の世界では「神」を使って語ったりしています。地球はこうやって現れた、それから空がこうやって現れた、それから人間を創って、動物を創って……などと、宗教ではoriginの物語を語りますね。いろいろな世界で、文化ごとにストーリーは違っていますが、天地創造の物語はあります。 

 

しかし、仏教にいわせれば、神という超越した存在が創造するのではないのです。何より仏教には絶対的な「神」という概念はまったくありません。神・創造主という概念は、もう頭がそうとういかれている人しか考えませんよ、ということで最初から取り合わずに捨てています。真理を語る仏教は、業という、理解しにくいエネルギーがどんどん生命を生み出すといいます創造者というのは、業のことです。業とは、自分そのものでもありますから、創造主にお願いして特別に自分をVIP扱いしてもらいたいと思っても無理です。 

 

神や祈りは非論理的

人間は、神・創造主に祈って「自分のことを特別になんとかしてちょうだい」と、よくお願いしますね。しかし、実際に存在する創造者は業です。そして、業というのは自分そのものなのです。ですから、どうやって自分に祈りましょうか、という話です。鏡を見ながら、「あなた、なんとか私にこれこれをやってください、お願いします」と祈るのと同じなのです。自分を二人、つくれませんからね。 

 

祈りというのは、論理的に考えたら、ものすごく詐欺的なものだとわかります。もし、神がすべてを創ったならば、自分を創ったならば、祈るなんて冒瀆です。あらためて神に祈りを捧げるということは、偉大なる神からすれば、「私があなたを忘れたとでもいうのでしょうか?」ということにもなるでしょう。しかし、世の神はこれまたおかしなことに「祈りなさい」と言います。「祈ったらやってあげるぞ」とも言うのです。それもそうとうバカげた矛盾です。だって、全知全能なんでしょう?それなのに祈るまでわからないのですか?我々が祈って願をかけないと何もやってくれないのでしょうか? 

しかも、祈ったところで、「では、願をかけたのだからやってくれるでしょう」と思っても、それもないのです。我々が頑張らなければ、どうにもなりません。祈りによって得るものはゼロ、何もないというのが真相です。とにかく仏教には、神も祈りもありません。 

 

神学者たちは、たいへん苦労しています。神学で世界の不公平が説明できないのは、業ではなく神を盲信しているからです。神は全知全能で無限の憐れみを持っていて、とても優しい方で、完璧で完全で……など、あれこれ語られます。

しかし、世の中は不公平だらけで苦しいことだらけで、もうどうにもなりません。ですから「いったい何なのか! 神は無限の憐れみで私たちを守ってくれるのではないのか!」となったときに、どう説明すれば納得がいく論理になるのか、神学者は今でも苦労しているのです。 

 

テキストだけは膨大にあります。ある神学者は「神は全知全能で、慈しみにあふれていて、世界・森羅万象を創造した。そこからは自動回転に任せている。だからこんなことになっているのだ」と言ったりしています。

しかし、「祈ろうが祈るまいが、世界は自動回転だ」というこの説だと、「それだと神は、創造するものに対して無関心ということになるだろう」という問題が出てきますね。すると、別の神学者が「それでは論理的にまずい。神は無関心でいるわけじゃないんだ。無関心だといったら慈しみ、憐れみがないことになる。しかし、神には完璧に憐れみがあるから関心があるんだ。関心があるのになぜやってくれないのかといえば、それは神がやがて解決するまで待っているからだ」などと、いろいろ言うのです。 

 

このように、世の宗教では何の証拠もなく、いくつかの盲信による固定概念で、いろいろな屁理屈が語られています。しかし、実際のところ、生命の起源は業なのです。 

 

業のポイント5 親族

業は親族です(kammabandhu カンマバンドゥ)。

生まれてきた人は、親族によって守られ育てられます。そして、死ぬまで絆は切れません。 

 

空から突然、現れた人というのはいません。日本にはかぐや姫や桃太郎がいるようですが、昔話の中だけですね。実際は、世の中では誰にでも親がいて、親から生まれます。ですから、親族がいます。この親族関係を切ることはできないのです。

なぜなら、「私はどんな人間になっているのか」ということは、「親族がどのように育てたか」ということだからです。現在の私たちの態度・生き方・性格、あれやこれや、すべて親族の管理の結果です。 

表面的には、「親族なんか関係ない!」と言って家出することもできますし、親族とまったく関係なく逃げて生きることもできます。

しかし、本当の意味では、親族というのは業のことなのです。業からは逃げられません。業はずーっと、自分を守って管理しています。 

 

自分が何者になるかは、ほとんど親族の手によるものです。私たちがどんな人間になるのか、どんな言葉をしゃべるのか、どんな性格なのか、どんな仕事をするのか、仕事で苦労するのか楽をするのか、結婚してハチャメチャな地獄をつくるのか、幸せな家庭を築くのか、もうほとんど業によってやらされているのです。 

 

生命は業によって守られて育てられるのです。その人間がどのようになるかは、ほとんど業のはたらきによるものです。人が死ぬまで業が責任を取ります。

生まれて・生きて・死ぬ、そのメインプログラム三つを、業がやっているのです。生まれること、それは業の仕事です。生きること、それも業の仕事です。それから死ぬこと、それも同じ業の仕事です。その三つの仕事をしっかりやっています。 

 

ツキも業のはたらき

私たちは、日常でよく「ラッキー」「ついている」「ついていない」などと言うでしょう?ときどき、「これは不幸なご先祖の因縁だ」などとも言いますね。

これは、「親族は業」「生まれて・生きて・死ぬことは業がやっている」というポイントについて誤解しているのです。 

 

日本ではすごい商売にもなっています。「なんだかものごとがうまくいかないんです……」と相談すると、「これはもう、ご先祖様の因縁です」と言われて先祖供養をする宗教があります。「ご先祖様を成仏させます」と言って、けっこうお金を取ります。そのように言う人々は、自分の言っていることを真面目に信じている場合も、「もしかするとそうかもしれない」と思っている場合もありますが、まるっきりいんちきです。

実際は、「ついている」「ついていない」は、業のはたらきによるものなのです。 

 

長い間、苦労しながらなんとか生きてきた人に突然宝くじが当たったり、蓄えがあったのに連帯保証人になったばっかりに全財産がなくなったりする場合もあります。このような出来事も業のはたらきです。

 

業のポイント6 生命の頼り

業は頼りです。「助けてくれ」というならば、業に頼むしかないのです。これはkamma paisaraa(カンマパティサラナ)といいます。 

 

舞い上がっているときに足を引っ張るのも、困ったときに助けになるのも、自分自身の業の力です。いつでも業が糸を引いているのです。生命は業に依存しているのです。 

人は、もう本当に業に頼っていて、業から解放されて自由に生きることは不可能です。陸上の生命が陸に頼ったり、水中の生命が水をよりどころにしたりすることと同じなのです。一切の生命は業をよりどころにしています。 

 

水の中にいる魚は、水からは自由にならないでしょう。何をしようと、「飛び出してやるぞ!」と魚が思っても、やっぱり水が頼りになるのです。「敵から逃げよう」というときにも水が助けてくれるのです。そして、自分を敵の口の中に放り込むのも水です。どうしようもありません。 

 

陸上にいる我々は、地球から離れません。飛行機に乗っても、地球の引力があるからこそ飛行機が飛んでいるのであって、陸上です。地球に引っ張られていなければ飛行機を操縦することもできなくなってしまいます。そして、丁寧に操縦していても、ちょっと間違ったら大変なことになります。助けるのも殺すのも業です。 

 

この飛行機と引力のたとえはわかりやすいと思います。地球に引っ張られているから飛行機は離陸して飛びます。ちゃんと航路を選んで飛んでいるあいだも、地球の引力が必要です。着陸するときも同じです。地球の引力が飛行機に効かなかったら、どうやって着陸できるでしょう。逆に、着陸が危険と背中合わせで慎重な操縦が必要だという点も、同じ地球の引力のはたらきのためです。ちょっと間違えたり、ちょっと角度が変わったりしたら終わりです。この引力が業のたとえです。このように、我々は業を頼りにしています。生命の頼りは業です。

 

業のポイント7 差をつけるもの

業が生命に差をつけます(kamma satte vibhajati, yadida hīnappaītatāya

優れた生命になる、卑しい生命になるなどの生命の差異は、それぞれの業のはたらきによるものです。 

 

この世の中で、まったく同じアイデンティティーの生命はいません。一人一人が違います。神が創ったのなら、どうして工場で創ったように均等ではないのでしょう。それは、生命を、人を創っているのが神ではなく業だからです。業というエネルギーが創っているから、一人一人が違うのです。 

 

一個人が、自分を他人と比較してみます。自分の幸不幸を他人の幸不幸と比較します。それで差を感じます。比較しなければ、差を感じません。子供たちは家では兄弟同士で比較して喧嘩になります。「結局、お母さんは、お兄ちゃんのことばっかり可愛がっている」とか、いろいろ文句まで言います。お母さんは、そう言われても「そんなことないんだよ」といって認めないでしょう。実際はお母さんが差をつけているのではなく、それぞれの業が差をつけているのです。 

 

学校へ行っても、すぐに差がつきます。同じ学校なのに、同じクラスなのに、同じ歳なのに、同じことを勉強しているのに一人一人が違います。個人が納得いくかいかないか、それとは関係なく、最初から差がついているのです。 

 

ときどきみんな、世の中の格差に怒ります。「みんな均等にしなくちゃだめだ」と言ったりしますが、均等は成り立たないのです。かつて、共産党政権で「労働者の世界をつくりましょう。みんな平等にしてあげますよ」と謳って実施した時代もありました。できたでしょうか。たった半年ぐらいの期間でも、平等な世界があったとは言えません。今、もう共産主義といえば北朝鮮だけです。 

 

たしかに北朝鮮では、金さんだけが神様で、あとはみんな平等です。国民は奴隷。とんでもない結果です。では、民主主義世界、自由経済社会は平等でしょうか。いえ、平等ではありませんね。平等はあり得ないのです。 

 

ユートピア(理想郷)という言葉がありますね。これは、「あり得ない」からユートピアというのです。均等ではない社会、謳われるだけのユートピアという実態が気に入るか気に入らないか、それは私の知ったことではありませんが、ともかく均等やユートピアというのは、現実的に不可能です。 

 

差をつけるのは業です。生命は本来平等ですが、決して同一にはなりません。すべての生命は業が生んで創りますから、生命は平等です。しかし、同一、イコールにはならないのです。

この「差をつける」という業のポイントの説明は中部経典135akammavibhagasutta,小業分別経(M.III,1英訳という経典にある一行の説明です。

 

 

都合よく利用される業

ここで、業(カルマ)と差別について少々説明します。Karma(カルマ、サンスクリット語)・kamma(カンマ、パーリ語)という言葉はよく知られているのですが、誰もこの意味をわかっていません。

今、世界中、誰でもカルマという言葉を知っています。パーリ語では「カンマ」ですが、「カルマ」という読みで、そのまま、世界のどんな言語にも入り込んでいます。英語の辞書にもあります。しかし、カルマとは何かを、誰もわかっていないのです。 

 

人を差別するために、社会の不公平を認めるために、権力を誇示するために、業という概念に逃げる人もいます。不幸な人を見て、「これはあなたのカルマでしょう」と言うことで人を差別するのです。権力者が、「我々はそういう業で生まれたんだからしょうがないだろう」と言ったりして自分の権力を正当化し、誇示したりします。とにかく人を差別するために業という概念を使うのです。 

 

人は自分の過去の業を知ることはできません。その無智、弱みを商売のネタにするのです。世の中には過去の業を占う詐欺師たちもあふれています。ヨーロッパにも、チベットにも、「あなたの過去の業は……」と占ってくれる人がいます。私は、日本は業を占う国としては世界一優秀な国だと思います。お釈迦様が「考えてはいけない」とおっしゃるほど、一般人には理解できない、とても難しい概念にもかかわらず、これのプロができているほどですからね。どれほど詐欺師かと感心します。この特集では難解な内容は省きますが、本当に業のはたらきを説明したら、そうとう大変です。仏典をものすごく調べている私たちも、最終結論は「これはわかりません。お手上げだ」と言うほど難しいのです。それを占ってくれるというのですから。  

 

最近、ある人に聞いた例を挙げます。仏教の宗教家から「五代か四代ぐらい前の先祖が精神的にすごく不安定で、納得することなく死にました。だからあなたの娘さんには子供が授かりません」と言われた、というのです。どうですか?見事な占いでしょう。娘さんに子供ができなくて困っているそうなのです。そこで宗教家に質問したのかもしれませんが、でも、この占いを信じたらバカでしょう?仮に、本当に四〜五代前の先祖が納得いかない死に方をしたとしても、どうしてそれが娘さんに子供が生まれない理由になるのでしょうか。

業の正しい理解でいうなら、その娘さんは今の娘さんの業で生まれていますから、娘さんの業のプログラムに子育てプログラムがなければ、子供ができなくても当然なのです。人生を、ぜんぶ、死ぬまで管理するのは業なのですから。女性だからといってみんなに子供が生まれるわけではないのは、そういうわけなのです。

しかし、カルマの占い師たちは、これに「先祖」を持ち出します。だとすれば、皆さんのご先祖様たちは、ずいぶんとたちの悪い先祖だ、ということになりますね。「どうしてご先祖様は、子孫たちを放っておかないのか」と悩まなくてはいけなくなってしまいます。まるで笑い話です。

 

業から分かる生命の平等

生命に差があるのは業から説明できますが、だからといって、差別を正当化することはできません。よく憶えておいてください。世の中、なぜ均等でないのか。なぜ同じ両親に生まれる子供が一人一人違うのか。なぜ一卵性双生児であっても二人は違う道に行くのか。それらについては業で説明できますが、「私は偉くなるカルマだ」とか「お前は前世のカルマが悪いから差別されて当然」などとは言えないのです。 

 

誰でも無始なる過去から輪廻転生しています。輪廻転生というものがあって、業の説明に必ず関係のあるものです。しかし、どうやって輪廻転生するのか、そのメカニズムなどの理解はひじょうに難しいです。

ともかく、我々は無始なる過去から輪廻転生していますから、量的にいえば、皆ほぼ同じ量の悪業も善業も背負っていると推測したほうがいいのです。私の業が重い、あなたの業が軽い、などというのはあり得ないのです。 

 

輪廻転生という観点から見れば、みんな無始なる過去から輪廻転生しています。つまり、ミミズを捕まえて、「こいつはかわいそうなやつで業が悪くて、俺なんか業が善かったから人間で」などと言えたものではない、ということです。

ミミズの業の量も、自分の業の量も、ほぼ同じです。善であろうが悪であろうが、量は同じ。蟻一匹を見て「なんだ、この蟻!」とか「かわいそう」とか、その差別はとんでもないのです。蟻一匹も私と同じ量の業を背負っているのです。

 

善業と悪業とを比較すれば、誰でも悪業のほうが多いかもしれません。一人の人間の生命の悪業と善業をはかりにかけてみれば、もう悪業のほうがどーんと重くて、善業は少ないかもしれません。

しかし、業の割り当ての総量は蟻でもミミズでも、我々人間にしても犬・猫でも、ぜんぶ同じです。善業と悪業を合わせた総量は、ほぼ同じ量を背負っています。ですから仏教では「生命を業という視野で見てください。生命を差別してはいけません」といいます。「重度の障害者が自分の家にいるなんて、ああ、嫌だ」などと思うのは、とんでもない態度なのです。

みんな、ほぼ同じ量の業を持っていると理解してください。観覧車の上にいる人に、下にいる人を見下すことはできないでしょう? 観覧車は回っていますからね。上に行ったら、「私はほら、上にいておまえは下でしょう。ざまあみろ」と言えますか?バカバカしいでしょう。「ざまあみろ」と言ったところで、どんどん観覧車が回って今度は相手のほうが上になるのですから。 

 

我々は輪廻転生の中ではいろいろ生まれ変わります。生命は、寿命が終わったら死ななくてはいけませんね。人間は80歳ぐらいになったら死ななくてはいけません。それから別な生命になる、それからまた死んで、別な生命になる。皆さん方が死んでもし蚊になったら、欲張っていきなり血を吸おうとするでしょう。おそらくすぐに潰されて死んでしまいます。それからまた別なところへ行く。神にもなる。餓鬼道にも落ちる、地獄にも行く……。 

 

ですから地獄にいる生命が本当にかわいそうで悪人だとか、そんなことは言えるものではありません。「あなたもこれから行きますからね」ということなのです。そして、地獄に堕ちても、その寿命、その業が終わったら、また亡くなって別なところへ行くのです。きれいな円は描いていない、激しい観覧車のようです。みんなが同じ軌道上でぐるぐる回っているのです。回っている最中に、ふと横を見たとき、無智な人に差別意識が生まれるのです。

 

一方、業を気にする人は、皆、平等だと知って自分を戒めるのです。一般人が世の中を見て差別をするのに対し、業を気にする人は生命を差別せず、どんな生命に対しても「ああ、こんにちは」という態度で接します。業の教えは、「一切の生命は平等である。しかし、生命には個性があるので同一にならない」というメッセージです。 

 

業は因果法則の一部でしかない

ここまでの説明を読むと、なんだか「業(カルマ)からはまったく抜けられない。輪廻転生も含めて人生は、業におさえられた観覧車のようで、身動きできないことになっている」と感じるかもしれません。身体そのものも業です。瞼を閉じること一つとっても業なのです。業の力がなければできません。腰が痛いなどというのも業です。私の講演会でずっと座って話を聞いていたら、お尻などが痛くなるでしょうが、皆が皆、痛くなるわけではありませんね。業は絶対、避けられないものです。

命も業、生まれて・生きて・死ぬのも業、身体も業、すべてが業で、業に敵うものは何もないように見受けられます。

 

しかし、業は絶対的なものではありません。業も無常なる現象です。身体の細胞、DNAから何からすべて業ではありますが、絶対者ではありません。業も無常、因縁によって生じる現象です。

 

他の条件なしには、業には結果を出すこともできません。たとえば、自分の相続業で億万長者になる運命があるとします。では、座っていたら、自動的にそうなると思いますか?宗教家に調べてもらったら、私の業が「億万長者になる業だ」と言われたとします。「あ、じゃあ、何もしないで待ってみます」と言ってそうしたら、どうなるでしょう?どうにもなりませんね。もちろん、億万長者にもなりません。

あるいは、占いで「あなたは宝くじが当たりますよ。一億円もらえます」と言われたら、それだけで当たると思いますか?当たりませんね。まず、宝くじを買わないと。あるいは、誰かからもらわないと。とにかく、人の宝くじを盗んででも手に入れないと、当たるわけがありません。そして、当たったら即お金が手に入るでしょうか?いいえ、決まっている場所に行って、あれやこれやと手続きをしなくてはなりません。それでやっと当たったお金が手に入ります。ですから、宝くじの一等賞が当たる業があっても、その業が実るためには、それなりに自分も何かをしなくてはいけないのです。 

 

それから、業には使用期限というものがあります。使用期限を過ぎたら、もう機能しないのです。業そのものも無常ですから、宝くじに当たる運命があっても、時期が終わったらもう当たらなくなってしまうのです。同様に、とても美しい方と結婚できる業があったとしても、若いときは遊んでばかりで、結婚する気にもまったくならず、そのままどんどん歳を取ってしまえば、もう結婚のチャンスはなくなってしまいます。業には有効期限があります。

 

業も無常です。業論とは因果説のわずかな一部なのです。しかし人間は業からは解放されないのです。お釈迦様は、ご自身が「考えてはいけない」とおっしゃるほど難しくてわかりにくい業について、「業論」を展開なさったりしません。仏説は因縁説です。業説ではありません。お釈迦様は因縁を語られます。そして、因縁の一部が業なのです。ほんのちょっとの一部です。

 

経典で、人が病気になる原因を八つ示すところがあります。

Girimānandasutta  Aguttara Nikāya 10.60 英訳

その八番目が業です(kammavipākajā ābādhā 病気)。

経典に、お釈迦様が「人はいろいろな病気になりますよ」とおっしゃっているところがあります。いろいろな病気の、長いリストが書いてあります。その最後に、天気が変化したり、人に殴られたり、事故とか、食べ物にあたるとか、そういうことでも人は病気になるのだと書いてあります。また、意図的に病気になることもあり得ると書いてあります。お釈迦様は病気の原因を八つ、挙げていらっしゃいます。そして、その八つの原因の中で、いちばん治療が効かないのは業によって病気になるときだと説かれます。

 

慢性的な鼻炎やアトピーなどは、業がからんでいる場合があります。業であるならば薬は効きません。業の機能を変える別な治療をしなくてはいけないのです。たとえばアトピーで皮膚がものすごく荒れて大変だったら、人によい肌の感触を与えるという、いわば反対の行為をすると業の効き目が消えてしまいます。逆に言えば、そのようにして業のはたらきを変えないと治りません。

 

業には、生まれるプログラム、生かすプログラム、死なせるプログラムという、三つの仕事があると言いましたね。ですから、この人は癌で死なせなくちゃいけない、この人は脳出血で死なせなくちゃいけない、この人は心臓発作で死なせなくちゃいけない、などとなります。癌も脳出血も心臓発作も治療すれば治る可能性はありますが、業が人を死なせる仕事をしようとして脳出血などを起こす場合は、治療は効きません。治療が間に合わないうちに亡くなってしまうのです。

 

死なせるプログラムの場合のように、「業が理由の場合、どうしようもない」ということはたしかにあるのですが、業は、絶対的な権力者ではありません。そうとう人生を管理しますが、業自身にも「因果法則に沿って機能しなくてはいけない」という憲法があります。また、有効期限もあって、期限が過ぎたら結果を出せなくなります。

 

業も無常です。因果法則の一部です。ですから修行者は、業を理解するよりは因縁を理解することに励みます。仏教の方々は「業を理解してやるぞ!」とは思いません。業のことは、すっかり新しい宗教をつくる人々の管轄になっています。頭がおかしくなって簡単にお金を儲ける方法を考える方々は、業の話を派手に打ち出すのです。しかし、仏教はそういうことはしません。仏教の方々は、「因縁の法則を理解しましょう」といって修行に励むのです。

 

 

第二章 因果法則という真理

五つの自然法則

次に、業をより正確に理解するために、五つの自然法則を学びましょう。テーラワーダ仏教のアビダンマ文献には、「業(カルマ)は五つの自然法則のうちの一つである」と論じられています。

 

Utubījaniyāmo ca, kammadhammaniyāmatā;

Cittassa ca niyāmoti, ñeyyā pañca niyāmatā.

 

@自然 A種子 B業 C法 D心という五つの法則(決定性)がある」という説明ですね。

これはアビダンマ文献Abhidhammāvatāra(アビダンマーワターラ)のnāmarūpa pariccheda(ナーマルーパ パリッチェーダ)章の7.468入阿毘達磨論 Buddhadatta著作から引用しました。

法則(niyāmatā,決定性)とは、どうにもならない、ある決まったパターンで動く、という意味です。結局は因果法則なのですが、因果法則はそう簡単には変わりません。たとえば私が講演をするとき、マイクロフォンにしゃべります。それで、しゃべった声と同じ音がスピーカーから拡大されて聞こえます。スピーカーからザーッと水が流れたり、小石がザラザラーッと流れたり、煙が出たりとか、そんなことはありませんね。もし、ときどきそんなことがあるのなら、講演を聴きに来る人の準備も大変です。マイクロフォンとスピーカーは因縁によって作られた機械です。電気が入っていれば、マイクロフォンにしゃべるとスピーカーから音が出る、ということになっています。これは法則です。スピーカーから音が出るのであって、画像は出ません。モニターからは画像が出るのであって、音は出ません。その因果法則によって、どんなはたらきをするのかという組み立てはしっかり決まっています。今のたとえと同様、「世の中は五つの法則で動いています」ということです。

 

@自然(utu

法則の第一は自然(utu ウトゥ)です。「自然」という一言が表す中身は膨大です。たとえば、地球の自転や公転は自然の法則です。季節も自然の法則です。春に花が咲いたり、冬に雪が降ったりというのは自然法則なのです。宇宙の膨張も自然法則です。いろいろな変化があります。太陽が爆発して死んで、新しい太陽が現れる……それも自然法則です。 

 

そして、我々の身体も自然法則によってどうしようもなく管理されています。季節の変わり目で風邪をひいたり、春になってくると花粉症になったりするのは、どうしようもありません。あるいは、秋になると食欲が出たり、冬はそんなに食欲がわかなかったりということもあるでしょう。それは業ではありません。自然の法則です。

 

A種子(bīja

種子(bīja ビージャ)というのは、まさに「タネ」です。カボチャの種を植えたら、もうカボチャしか出てきませんね。トウモロコシも食べたいなと思っても出てはきません。カボチャの種が、どんなふうに成長するか、芽が出てつるになって、どんな形の花が咲くのか、どんなカボチャになるのかなどは、タネの法則によって決まります。 

 

この種子というのは、人間の遺伝子も含まれます。たとえば「私は自分の業を持って生まれたんだぞ!」と言い張ったところで、やっぱり種・遺伝子は、両親からもらったものです。遺伝子は遺伝子のプログラムで憶えています。自分の業とはまた別に、遺伝子の法則がはたらくのです。 

 

B業(kamma)、C法(dhamma

三番目は、今回ずっと解説している業(kamma カンマ)です。

四番目は法(dhamma ダンマ)の法則です。「法」とは、真理に達したブッダが説く法則のことです。すべて因縁で変化することや、一切は無常である、無我である、空であるといったこと。まだほかにもプラスアルファで、人間にはわからない、特色ある法則がたくさんあります。

 

D心(citta

五番目は心(citta チッタ)です。心にも心の法則があります。 

たとえば、わーっと号泣している人に、瞬時に笑うことはできないのです。号泣が収まって、それから落ち着いて、そのあと、何もわからない状態を通って、それからゆっくりと笑うというプロセスになります。いきなり泣くところから笑うところへ切り替えることはできません。そのように、心にも心の法則があります。

 

業も自然法則に制約される

存在はすべて、この五つの法則によって変化しています。業もまた、法則です。ブッダが説いた五つの法則の三番目が、業(カルマ)です。誰か全生命・全宇宙の管理者がいるわけではありません。あるのは法則のみです。 

地球は自転しますが、自転させる誰かはいません。地球は公転しますが、公転させる誰かはいません。ぜんぶを管理する誰か(神など)がいるのだと西洋の方々は我々に力説しますが、いないのです。 

テレビやラジオは、スイッチを入れないと観たり聴いたりできませんね。神の存在を主張する人たちは、宇宙の法則もそれと同じように考えているのです。しかし、考えてみてください。石を空に向かって投げたら落ちるでしょう? 重力がありますから当然のことですね。法則です。それなのに、神を説く人々は「その石を誰が落とすのか」と問題にするのです。 

この五つの法則というのは、これまた難しいポイントです。法則というのは、どのようにものごとは変化して流れるのか、ということです。ものごとが変化して流れるパターンのことです。

 

たとえば私のDNAの中で、癌になるDNAが入っているならば、その時期になってくると癌が発生します。そのとき、法則がわかっていたらなんとか手を加えることはできますね。たとえばDNAを、遺伝子を改良したらどうでしょう。癌をつくる遺伝子を変えて、別な遺伝子にして発症を防ぐことは可能です。 

私が言いたいのは、遺伝子治療のことではなくて、業だけが「勝手にはたらいてやるぞ」と思っても無理だということです。業だけが勝手に独立して行動することはできません。業も、自然法則にしたがわなくてはいけない、種・種子の法則にしたがわなくてはいけない、法の法則にしたがわなくてはいけない、心の法則にしたがわなくてはいけないのです。 

五つの法則は、それぞれの憲法をちゃんと守って動いています。

 

 

第三章 業を理解した生き方

「運命」は成り立たない

ここまでの説明で、お釈迦様の因果法則の真理、その一部である業の本当のところをある程度、理解されたことと思います。最後に、業を理解したなら、どう生きるべきかについてポイントをお話しします。 

人は、すごいエネルギーである業によって生まれます。しかし、業だけで生きていけるかといったら、そんなことはありません。Cetanā(チェータナー、意志)が必要です。業によって生まれても、生きる場合は意志という判断が必要なのです。 

「おぎゃー」と業によって生まれても、それから生きていくためには意志が必要です。その意志にしても、けっして完全なる自由ということはありません。自由意志は存在しません。しかし、判断しなくては、意志がなくてはどうにもなりません。業だけでは成り立たないのです。業が完璧にすべてを決定することも、定めることもできません。「運命」は成り立ちません。 

たとえば、生まれるときに持っている身体、これは業の領分です。赤ちゃんが「こんな身体は嫌だ!」と言うことはできません。赤ちゃんがどんな身体で生まれるかということは業のはたらきです。しかし、その業にしてもハンディがあります。業はものすごい力があるのですが、しかし、遺伝子にはしたがわなくてはいけないのです。 

 

業としては、「この子はすごく健康的で、すごく体格のいい子供にしてやろう」と思っていても、遺伝子にはしたがわなくてはいけないので、遺伝子が許す範囲で健康なかっこいい人間にすることになります。さらにまた、遺伝子が許す範囲で健康でかっこよく生まれたからといっても、生まれている環境によって、成長具合が左右されます。たとえばエチオピアで生まれたとすると、赤道の真下ですから肌の色も変わっていきますし、身体もそんなには大きくなりません。 

我々の身体の大きさは、地球のどこに生まれたか、どこで大きくなるかということによっても変わります。私などは基本的に南ですから、地球の引力がけっこうあるところです。ですから比較的、身体が小さくなります。もちろん、だからといって遺伝子もありますから、遺伝子が背を伸ばせば、それだけ大きくなります。そういうところで折り合っていくのです。 

 

業+個人の意志で生きる

業ですべてが決まっているわけではないのです。個人がcetanā(意志)という舵を操作しなくてはいけないのです。 

生まれたときに、業が身体をつくってくれますが、私たちにも意志というスイッチが与えられています。赤ちゃんは、自分で泣いて、おっぱいを得るのです。赤ちゃんが泣くと、お母さんが心配しておっぱいが出るようになっています。そこで赤ちゃんもそれなりに頑張って、笑ったり、泣いたり、お母さんの髪の毛を引っ張ったり、いろいろなことをやっています。赤ちゃんがいろいろやることによって、お母さんの愛情が出てきて赤ちゃんを育てます。つまり、赤ちゃんの意志がなければ、生命は成り立たなくなるのです。 

 

我々は意志で行動します。歩いたり、座ったり、しゃべったり、勉強したり、ご飯を食べたり、寝たり、起きたりするのは自分の意志でやっています。水を飲んだり、本を読んだり、どんな本を読むのか選んだり、さまざまなことを自分の意志でやっています。 

たとえば、赤ちゃんが成長していったときに、歴史書に興味が出るのか、文学本に興味が出るのかということは、もしかすると業が決めているかもしれません。たとえば、歴史に興味がある人間に生まれたとしましょう。歴史に興味があるということは業なのです。では、歴史学者になれるでしょうか? ふつうにしていてもなれません。なる場合は、その人が自分で歴史書を探して、読んで、調べて知識人になっていって、その結果として歴史学者になるのです。

 

業と意志(cetanā)と環境

業によって、音楽の才能がある人が生まれたとします。では、自動的に音楽家になるでしょうか? なりませんね。音楽家になるためには、本人が自分の意志で「ああ、これは面白い。練習しなくちゃ」と、自分で練習して練習して音楽の道を歩まなくてはいけないのです。そのように頑張れば、音楽家になったりします。それは五つの法則のはたらきです。 

しかし、たとえば西洋音楽の才能が抜群にある人が、私の国・スリランカに生まれたとしましょう。ピアノは、まずありません。環境がよくないのです。インドの楽器ならありますが、ピアノとなると、一台買うのにオーケストラに必要なだけのインドの楽器が買えてしまうほど、お金がかかります。そんな環境ですと、「こんな単純な音のために、これぐらい金がかかるのか?」となって、まずやりません。ですから、たとえピアニストになる才能・運があっても、その業は実らなくなってしまいます。 

そう言うと、皆さん、おそらく聞きたくなるでしょう。「だったら、どうしてピアノのある国に生まれないのか?」と。業はものすごく複雑ですから、そう簡単に生まれる国は決められません。業の他のプログラムもたくさんあります。ですから、他の業のプログラムがはたらくためにその場所で生まれたのかもしれないのです。複雑で、明確にはわからないのです。

 

業は、業だけではたらくわけではなく、意志も環境も関係します。

ですから、私たちは業を気にする必要はないのです。たとえ業が善くなくても、舵を操作することで生きる道を変えられます。操縦桿を握っているのは、自分なのです。自分の人生を、正しく自分の好きな方向へ操縦すればよろしいのです。それが業のいちばん大事なポイントです。 

業そのものが、まるで絶対者みたいにすべてを支配している側面はありますが、cetanā(意志)がないとどうにもなりません。ご馳走を食べる運命があっても、自分が自分の意志でその方向へはたらきかけなければ、ご馳走は食べられないのです。このcetanā(意志)は、仏教がものすごく強烈に押すポイントです。

 

お釈迦様はこうおっしゃいます。

 

cetanāha bhikkhave, kamma vadāmi.

比丘たちよ、cetanāこそが業だと、私は説きます。

Nibbedhikasutta Aguttara Nikāya 6.63 英訳 Penetrative

 

つまり、「ここで今まで紹介してきた業のセクションは、あまりどうにもならないものなので放っておきなさい。あなた方が気にするべき大事な業はcetanā(意志)だ」ということです。「意志が業だと理解しておきなさい。これで安全ですよ」ということです。 

意志なら、自分でいくらでも、どうとでもできます。やるか、やらないか、当たり前のごとくやめるか、とことんやるのか……。自分で自分の意志の管理は完璧にできます。ですから、意志そのものも業なのです。 

 

大事なのは行為の業

次に、行為としての業について考えてみましょう。

業には、意味が二つあります。業(カルマ)といえば、行為という意味も、結果という意味もあります。一つは過去で、もう一つは行為です。 

一般の方々は、業の二つの意味のうち、過去ばかりを気にします。間違いもいいところなのです。過去はどうにもなりませんし、わかりもしないものです。私はここまでの業論で、過去の業について、そのはたらきを説明してきました。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、行為の業なのです。 

結果・過去としての業については、起きた出来事、起きた結果はそのまま放っておくしかありません。業によって生まれたのですから、今さら女になりたい、男になりたい、翼が欲しいとか、そんなことを思っても意味がありません。「もう、結果が出ました」ということで終わりです。 

 

やるべきことは、結果が出たあとの行為に気をつけることです。次に、どのように意志という舵を操作して前に進むのか、ということです。 

たとえば、東日本大震災は大変なことでしたが、「地震が起きた。津波が来た。すべて壊れました。はい終わり」ということなのです。すでに結果が出たのですから、泣いたり悩んだり、「なんだ、これは!」と憤っても元に戻れません。「次にあなたはどうするのか」ということだけが重要な問題です。 

 

いつでも皆さんの頭の中に、「では、どうしましょう」という質問を入れておいてください。

過去の業は無視する、放っておくことにするのです。過去ではなく、つねに「今、こうなっちゃったから、どうしましょう」という、たったそれだけに集中します。個人個人がそれをつねに考えて行動すれば、ものごとはものすごくうまくいくのです。「ああ、大変だ。大変なことになっちゃった。どうしよう」ではなく「では、この場合はどうしましょう?」と、次の行動に向かうのです。 

 

つねに「今どうするか」を考える

私は、行為の業のほうだけをずっと考えています。もう長いことその訓練をしていますから、つねに「次、どうしましょうか」という考えがはたらいて、何が起きてもまったくビックリしません。とつぜん何かが起こっても、瞬間的に「次にどうしましょうか」と、次からとる行動をぜんぶ決めています。

ですから、悩んだり落ち込んだり、ビックリしたり怖くなったりする余裕がないのです。

 

「意志によって新たな行為をすることが業である」というのが、業の正しいとらえ方だと思います。自分の意志で、新たな行為をすること。

津波で、地震で、自分の家が壊れてしまったら、「では、まずはこれをやるべき」「次にこれをやるべき」「次にこれをやるべき」、それだけなのです。美しい街が壊れたら、国としては、「これをやる」「これをやる」「これをやる」といってやるべきことを進めていくだけなのです。しかし、いまだに動いていない感じですね。直後の、もう食べる物もなかったときには、みんな協力していましたが。 

本当は、どんなに被害を受けた人も、まったく被害のない人も、誰もがみんな、いつでも、「はい、次にどうしましょう」「次のステップは何なのか」という生き方で行為に徹して生きなくてはいけないのです。アクティブ・活発に徹しなくてはいけないのです。 

 

微塵も悩んだらだめなのです。なぜなら、悩むことは行為です。美しい行いではありません。悪行為です。人が死んだら悲しむでしょう。あれも行為です。しかし、悪行為です。親戚が亡くなったとき、もう落ち込んで悲しくてしょうがない、というのは美しい行為ではありません。優しさでもありません。悪行為なのです。ですから、いつでも「どうすればいい?」ということを頭に入れて、すぐアクティブに行動に移らなくてはいけないのです。行為は、条件がそろったときに果報になります。

 

私たちが意志でやっているすべての行為が業です。業ですから、結果を出します。そこでいったん悪い結果になっても、それからアクティブに生きてみると善い結果にすることができるのです。

つまり、どんな不幸も我々の意志次第で、幸福の起爆剤にすることができます。もちろん、逆もできます。幸福の結果を、不幸の起爆剤にすることも可能なのです。現代は皆、そちらをやっているようですが……。 

 

仏教は、「何があっても自分の意志でそれを好転させなさい」と説きます。たとえば、盲目で生まれたなら、「別にどうってことはないでしょう。目が見えないことを、意志を使って有効に生かしていきましょう」と言います。耳が聞こえない身体で生まれたら「別にかまいませんね。ではどうしましょうか。こういうことならできそうですね」という感じです。 

たとえば、筋ジストロフィーなどの病気で全身が不自由でも、やっと口に筆をくわえて絵を描いたりする人たちがいらっしゃいますね。ものすごく素晴らしい作品ができて、身体に不自由のない人が描くものより心が惹かれます。 

幸福か不幸かということを気にすると、人生は暗くなります。世間でいう幸福か不幸かは、人間にとってあまり関係ないのです。「私は幸福です」と思ったら、傲慢になって悪行為になります。「私は不幸だ」と思ったら、怒りで落ち込んで暗くなって悪行為になります。ですから、そうではなくて、「次、どうしましょうか」ということで、次、次、次へと意志をもって善い行為をすることです。人生はそれで結果として幸福になります。 

 

どのように生きるのか、ということこそ大事です。つねに、どのように生きるのかがテーマです。「なぜ、生まれたのか」「なぜ、このように生まれたのか」ではないのです。もう生まれてしまったのだから、今さら「何のために生まれた?」などという問いは時間の無駄です。

 

感覚の流れが生きること

これも難しいポイントですが、「感覚と業」について説明します。vedanā(ヴェーダナー、感覚)の流れが生きることなのです。 

生きるということは、我々の身体に感覚があって感覚が流れることなのです。見える、聞こえる、考える、感じる、寒くなる、温かくなる、身体が痛くなる、楽になる……いろいろな感覚があります。これが生きることなのです。 

たとえば「お腹がすいた」ということは、感覚です。それでご飯を食べます。感覚があるからご飯を食べるということです。そして、「満腹になった」ということも感覚です。それでご飯を食べることをやめます。呼吸も同様です。呼吸するのは感覚があるからです。感覚がなくなると呼吸もできなくなります。ですから、感覚が生きていることであって、感覚が本当の命であることにもなります。感覚の停止は生命の死です。

 

感覚が隙間なく変化することもまた、法則です。感覚というのは心のことです。先ほど解説した五つの法則の中の五番目に、「心の法則」というものがありましたね。心の法則の一つは、「隙間なく現れる」ということです。この世で死んでも、感覚が隙間なく、再び生まれるはめになります。 

感覚は、心は、隙間なく変化します。心は瞬間で消えますが、隙間なく次の心が現れるのです。心が、感覚が停止したら死にますが、隙間なく現れます。これはストップできません。ですから人が死んでも、この肉体の中で感覚が停止しても、感覚そのものが隙間なくまた回転するのです。これは大切なポイントです。 

今も我々は、死んで生まれて、死んで生まれています。一つの感覚が現れてすぐ消えて、また現れてすぐ消えます。ときどき、足がなくなったり、目が見えなくなったり、いろいろ故障が起きますが、最終的にはこの肉体という機械そのものが故障して機能しない状態になります。しかし、死んで生まれるという流れは止まりません。死んでは生まれる、死んでは生まれるという流れは感覚の流れです。身体が壊れても、感覚は無常に変化し続けるのです。死後も続きます。

 

善行為と悪行為の定義

私たちの感覚は、三つに分けられます。苦の感覚、楽の感覚、不苦不楽の感覚という三種類です。私たちが意志によって起こす行為に関しても、この三種類のうちのいずれかの感覚を引き起こします。そこで、業の問題になります。意志により起こす行為が苦の感覚を引き起こすならば、その果報として苦が生じるのです。行為が楽の感覚を引き起こすならば、楽の果報が生じます。不苦不楽の場合も同じです。 

このポイントは難しいです。私たちは、ふだんいろいろな行為をします。たとえば座りますね。最初は楽だと思うかもしれませんが、感覚は変化して、じっとしていると苦になって嫌になります。では、歩きましょうといって、歩くことにします。歩くときにも、一瞬ごとに感覚は変化します。 

行為とは感覚の変化なのです。私が何か行為をして苦しみの感覚を引き起こしたなら、それは悪行為だといいます。なぜなら、悪結果になるからです。逆に、他人を助けたり、他人の悩みをなくすようにしてあげたり、他人の苦の感覚を楽の感覚に変える行為をすれば、果報として私も楽しい感覚を得られます。泣いている人に「こんなの、もう気にすることないでしょう。笑っちゃいましょうよ」などと言って、なんとかして悩みをなくしてあげることができたら、その行為が自分に楽を与える業になるのです。自分の意志が起こしたその行為が、自分に苦や楽を与える力のある業になり、その感覚を得ることになるのです。 

世間一般では、楽な果報になる行いを善行為といいます。仏教の精密な定義でいえば、善行為・悪行為という定義が成り立つかどうかわかりませんが、楽の感覚を引き起こす行為は一応、善行為とします。苦しみは嫌ですから、苦しみの感覚を起こす行為は悪行為としています。

 

たとえば、私が犬を殺したとします。その場合、犬に何をあげたでしょうか。最大の恐怖感、最大の苦しみを与えたことになります。そうなると、自分も見事にその結果、その感覚を受けるのです。 

しかし、業は単独ではたらくわけではありませんね。いろいろ条件がそろっていないと結果が出ないことは、先ほど説明しました。とにかく結果は出ますが、条件がそろうまで出るのを待っています。いろいろな条件との兼ね合いがあるので、犬を殺したその結果がいつ、どのように現れるのか、法則通りですが、この法則はふつうの人には計算することはできないのです。 

皆さん、行為の結果はけっこう気にします。一万円を寄付したら、どんな善いことがあるだろう? じゃあ十万円を寄付したら結果は、もっとどんな善いことがあるだろう、と気にします。しかし、わからないのです。一万円の寄付の功徳が高いか、十万円の寄付の功徳が高いか、単純にはわかりません。金額で決まるものではなく、寄付したときの気持ちで決まるのです。また、他の生命にどの程度の幸福、楽、喜び、安心感を与えたのかで、結果は設定されます。そのような気持ちは数字で計算できません。

 

一万円、寄付するという行為の場合、他にどれだけのものを与えたかが結果に関係しますし、自分のものである一万円への愛着も関係します。「私のもの」には愛着があります。あげる場合は、愛着をなくさなくてはいけません。 

たとえば、私に一万円しかないならば、その一万円には強烈な愛着があるでしょう。たとえば三千万円も持っている人なら、十万円に対しての愛着は少ないでしょう。その二人が、それぞれ一万円、十万円を寄付する場合、どちらが強い愛着をなくそうとしているかがポイントになります。なけなしの一万円を寄付するというのは、ものすごく力の強い愛着をなくそうとすることです。そうとう大変なことをやっています。しかし、三千万円持っている人が「十万円、はい、どうぞ」というのは、痛くもかゆくもないでしょう。業の結果は、なくした愛着で変わってくるのです。この愛着は計算できません。世の中の人たちが金額で業の力を考えているのは、正しくないのです。

 

感情が意志に判断を促す

私たちの髪の毛一本までもがぜんぶ業なのです。もう、どうしようもないのです。しかも、私たちは生きるとき、自分でなんとかできるのは意志だけなのです。意志にはそれほど自由はありません。意志とは、「判断します」ということです。そして、この判断を促すのが感情です。感情が意志に判断を促します。 たとえば、「お腹がすいたからご飯を食べます」と判断します。ご飯を食べることにしたとき、「サンドイッチにします」と判断します。そのときの条件など、参考にするものによって判断するのです。たとえば「食事の時間だけど、あんまりご飯を食べたくないな」という気持ちがあって、「それだったらサンドイッチでいいんじゃない?」というふうに判断したりします。 

 

判断するときには、何か参考にするものが必要です。この参考にするものが、たいていは「感情」なのです。「気持ち」ですね。「おにぎりもあるし、ラーメンもあるし、サンドイッチもあるのに、なぜあなたはサンドイッチに決めたのですか?」と聞かれても、答えはだいたい「なんとなく」とか「そういう気分だから」ということではないでしょうか。ただ、そういう気持ちだからということですね。 

このように、我々は判断するとき、意志をはたらかせるとき、いつでも感情を参考にします。しかし、これはかなり危険なことなのです。理性で判断しないのですから。仏教では、意志(cetanā)に気をつけろよ、といいます。

 

自分の人生で、意志だけは自分でなんとかできます。ですから、何よりも意志に気をつけるとよいのです。しかし、私たちは理性で判断しないのです。判断に際して感情で決めてしまいます。昼食をラーメンにするかサンドイッチにするか判断するときに、理性で「ラーメンを食べたらカロリーが多いし、いろいろ化学調味料もいっぱい入っているし、だから私はサンドイッチにします」というところまでいかずに、「ラーメンとサンドイッチ? 私はサンドイッチが好きだから、サンドイッチにします」で終わってしまうのです。 

感情といえば、結局は貪瞋痴(とんじんち)です。貪瞋痴の衝動で起こす行為は、悪結果をもたらす業になります。しかし、私たちはふだん、理性で判断するのが正しいのですが、誰もそうしません。皆、貪瞋痴で、気持ちで判断するのです。それがぜんぶ悪行為になるのです。

 

気持ちに流されるのではなく、気持ちを抑えようと、制御しようとしたことだけが善行為になります。貪瞋痴を制御するために行う行為のみが、善業になります。ここは、すごく微妙なポイントです。貪瞋痴にしたがうのではなく、貪瞋痴をちょっとコントロールしようとすることで善行為になります。 

ですから、一万円で自分がご馳走を食べても善行為にはなりません。「おいしいものが食べたい」という感情で、気持ちでやるので悪行為になります。しかし、その一万円を、自分のご馳走にではなく誰か困っている人にあげたなら、自分が楽しみたかった気持ちをコントロールしたのですから善行為になるのです。 

仏教には道徳リストがあります。そのリストは、貪瞋痴を制御するために書かれたものです。貪瞋痴の根絶は究極の善であり、業から解放されることでもあります。貪瞋痴を根絶すれば、業の力の入る隙はないということです。初めて業から自由になります

 

悪業の果報から身を守る

人間は業で生まれると言いましたが、人間みんな、善い業で生まれます。悪業で生まれるということはありません。しかし、「善い」といっても程度の差はあります。アクセサリーでも金と金メッキがあるでしょう。パッと見たときには同じ金に見えますが、メッキとの差はけっこうあります。それと同様、人間は善業で生まれますが、その善業には差があります。たとえ不自由な身体で生まれても、善業で生まれたのです。しかし、その善業はふつうの人の善業よりは少々弱いかもしれません。 

 

善い業で生まれますから、悪業からとにかく身を守って生きるのがよいのです。仏教が薦めるのは、日々大量に善を行い、善業になる業を貯める生き方です。毎日毎日、善いこと善いこと善いこと善いこと……、貪瞋痴の反対のことをやって、やって、たくさん貯めるのです。いつでも、何か善いことをして貯めるのです。すると、善行為で忙しいので、過去の悪い業に結果を出すチャンスがなくなります。 

たとえば、私にとんでもない不幸になる運命があったとしましょう。プログラムが組まれています。しかし、私は善いことをするのに忙しいのです。忙しいので、業には結果が出るチャンスがなくなるのです。私の身体は、時には、かなりきつくて痛くなって倒れそうになるときもあります。しかし、たとえば講演中は痛みはないのです。なぜかというと、頭が仏教のことを考えるのに忙しいからです。ですから、身体を痛めつけてやるぞ!という業は「ちょっと待ってみましょう」という待機状態になります。ずっと待っているままで有効期限切れになることもあります。 

 

ですから、降りかかる悪業があったとしても、私たちが善行為をすることで忙しければ、けっこう悪いことから逃げられるのです。 

果報は順番待ちをしています。過去の悪業が、果報を出そうとその順番を待っています。しかし、私が毎日、善行為をしていると、現在の善業の果報力もどんどん心に貯まります。すると、過去の悪行為の果報の順番が後回しになることもあるのです。 

怒り、欲、嫉妬、恨み、憎しみ、悩み、落ち込みなどの感情をなくしてみます。その妄想をやめます。もう怒り、憎しみはさようなら、何があっても怒らない、悩まない、憎まないと決めるのです。いつでもニコッと笑って生きてみることにすると、けっこう悪業が下がっていってしまいます。毎日、すごくよく笑って優しい人間でいれば、好転するのです。それで悪業から自分が守られます。悪の果報をあらわにする意志が弱くなってくるのです。悪いことをしたい、ひどい目に遭いたいという意志はあるのですが、怒らない、悩まない、悔やまないという生き方でいると、悪い意志は弱くなって過去の悪業は順番が下がっていくのです。

 

不幸を回避する慈悲喜捨の念

悪業から身を守る第二のポイントは、日々、慈悲喜捨の念を修行することです。慈悲喜捨、それぞれの意味を簡潔に解説していきます。

 

●「慈」(mettā メッター)

友情という意味で、「仲良くしましょう」という気持ちに近い感情です。あらゆる生命の幸せを願う慈しみの感情です。

 

●「悲」(karuā カルナー)

見返りを求めず、「困っている人を助けたい」と思う感情です。抜苦の心ともいいます。

 

●「喜」(muditā ムディター)

嫉妬の反対の心で、人の成功をまるでわがことのようにしてともに喜べる感情です。人の良い部分がよく見え、それをわがことのように喜びます。共に喜ぶ、喜びを分かち合うという意味です。

 

●「捨」(upekkhā ウベッカー)

あらゆる事柄をすべて平等に見つめる冷静な感情です。すべての生命は平等であると理解できる能力です。人間、動物、魚などなど、生命には無数の種類があります。そして生命は、みな互いに違う個体です。猫二匹を見ても、それらは互いに異なります。一卵性双生児であっても人格は別々です。一切の生命と派、個体の集まりですが、生命として見ると平等です。同一ではありませんが平等だと理解する、この能力を「捨」といいます

 

この四つは、ひじょうに優れた、やさしくて明るい感情です。仏教ではこの四つをまとめて「四無量心」といいます。

 

善行為がどういうものだかよくわからなくても、とりあえず慈悲喜捨の念を頭に入れておくのです。他の妄想はやめて、頭の中を慈悲喜捨だけにします。何が起きても慈悲の念を忘れないようにします。すると、一切の行為は、自動的に善行為に変わってしまうのです。 

慈悲喜捨の念で生きていると、何をやっても善行為なのです。慈悲喜捨がない人は「善いことをしたいけれど、どうしたらいいのだろう」と困らなくてはいけません。しかし、慈悲喜捨の念がある人なら大丈夫です。やることは何でもぜんぶ善になってしまうのです。

 

すごく便利なのです。すごく楽です。悩んで、悩んで善行為を決める人と違います。慈悲喜捨の念で生きてみると、よほどのものでない限り、過去の悪業が現れるチャンスを失います。悪業には出番がなくなるのです。障害を持って生まれたとしても、身体に障害があったら不幸になるはずですが、慈悲喜捨で生きてみると、不幸になる業がはたらくチャンスがないのです。ごくふつうに、明るく生きることができてしまいます。不幸を避けるカラクリは、慈悲喜捨の念なのです。 

 

慈悲喜捨の念で生きると、過去の業の善業だけが結果を出すことになります。慈悲喜捨の念でいると、過去の悪業も善業もあるうち、善業だけが、もうどんどん、どんどん出てくるのです。しかも、慈悲喜捨の念は、過去の悪業にも大きなダメージを与えます。慈悲喜捨を念じれば念じるほど、過去の悪業がダメージを受けて、結果を出す順番になってもガタガタで出てこられなくなります。慈悲喜捨は過去の悪業を壊すこともできるのです。

 

最上の善行為「妄想をやめる」

悪業の果報から身を守る方法はまだあります。妄想をやめることです。妄想を制御する実践は、最上の善行為です。 

「妄想する」というのは、感情をかき回すということです。とんでもない悪なのです。そして、妄想をストップさせよう、ストップさせようとする力は、ものすごくパワーがあるのです。ですから、最上の善行為です。今生で起こる予定の悪結果はほとんどなくなります。 

生まれたなら、自分には不幸になるプログラムも、幸福になるプログラムも入り混じってあります。妄想をやめようとして生きれば、不幸になるプログラムがほとんど実行不可能状態になります。妄想をやめようとする力はそうとう強いのです。意志がとても強くなります。 

 

ヴィパッサナー冥想を始めた人からよく聞く話の一つに、「自分は何もやってないのに問題が消えている」ということがあります。ふだんは「これってどういうことですか」と質問されても説明しませんが、まさにこの業の説明通りです。「真面目に実況中継をして妄想をストップすると、自分にかかってくる予定であった悪業が実行不可能状態になる」ということなのです。妄想をやめると理性が現れます。妄想をやめたら論理的にしかものごとを考えられないでしょう。ですから理性が出てくるのです。 

 

理性は善です。理性が現れたら、生きる道は悪から離れて善の流れに入るのです。今、我々は貪瞋痴で生きているから、悪の道を生きているのです。一日生きたら、一日分いっぱい悪いことをしたことになります。百年生きたら、百年間もそうとう悪いことをしたことになります。生きるとはろくでもない、とんでもなく悪いことになるのです。それが、妄想をやめるとどうなるかというと、悪を犯す道からガクッと脱線して、善の道に人生が入れ替えられます。すごく便利なことなのです。

 

仏教を学び、智慧を育てる

ここまで、「善行為」「慈悲喜捨」「妄想をやめる」という三つの悪業から身を守る方法を説明しました。そして四番目の方法は、「智慧を育てる」ことです。

 

世の中の学問を学んでも、智慧は現れません。アインシュタインの本を読んでも無智になるだけです。科学者の本を読めば読むほど、無智になりますよ。なぜなら、欲がどんどん現れてくるからです。欲ならいくらでも現れます。ですから智慧が現れてほしければ、ブッダの説かれた真理を学ばなくてはいけない。これはもう決定的で断言的にどうしようもないことなのです。 

 

智慧を育てるためには、仏教を学ぶしかありません。ブッダの説かれた真理を学ぶこと、理解することで、まずは理性で生きるようになります。理性で生きれば、智慧を発見するのです。 

聖書にしても、心理学的に微妙によくないのです。差別に悩まされる悪い人間になったり、人を殺してもかまわないだろうという気分になったりします。ヒンドゥー教を学んでも、バガヴァッド・ギーターを読んでも、ヨーガ・スートラを読んでもだめです。ブッダの教えを学ぶしかありません。 

智慧を開発したければ、ブッダの教えを学ぶしかないのです。学んでいくと、まず理性が現れます。真理に納得すると、智慧が現れるようになります。それからブッダの教えたことを考えていったときに、「なるほどその通りだ、よくわかった、この通りだ」とわかってくるのです。納得がいくと、もう智慧が現れだすのです。 

 

空・無常・無我などの話は智慧を引き起こします。空とは何でしょうか、無我とは何でしょうか、無常とは何でしょうか、と実験しながら学んでいくのです。それでけっこう智慧が起こってきます。 

空・無常・無我だけではなく、因縁とは何かと学んでも智慧が現れます。また、智慧を経験したければ八正道という方法があります。八正道の実践は智慧に達する方法です。 

智慧が現れたら一切の執着がなくなります。解脱に達することは、業から完全に解放されることです。業というのは、善であろうが悪であろうが、とんでもなく悪いのです。ですから、業から逃げなくてはいけません。逃げる方法というのが、智慧を開発することなのです。智慧を開発すれば、執着がなくなるのです。「生きていきたい」という執着も、業になります。これがなくなることは、業からの解放です。解脱できるのです。 

 

初めから解脱を目指すかどうかはともかく、悪い業が結果を出すチャンスを失うくらい、日々、理性で生きて、善行為に忙しい毎日を実践すれば、悪い問題は起こらない幸福な日々が送れます。業を正しく理解して、お釈迦様のお薦めになる生き方にぜひ挑戦していただきたいと思います。

 

 

 

第四章 業に関するQ&A

災害・戦争と業の相続

Q:「業(カルマ)」は個人が相続するものと聞いています。しかし、災害や戦争、国王の暴挙など、同じ原因により、一度に多くの人々が苦しむ場合、業論ではどのように考えますか?

 

A:

業は個人が相続する

業はあくまでも個人が相続するものです。他人に与えることも他人から奪うこともできません。業とは心に溜まるポテンシャルなのです。ただポテンシャルなので、それによって心が重くなったり拡大したりはしないのです。生命が行為するのは意志があってのことです。考える、話す、身体でもって行為をする、これら三つの行為は、意志によって起こるのです。汚れた意志があれば「悪行為」と言い、清らかな意志があれば「善行為」と言うのです。行為にも、その結果にも、業と言うのです。それも個人のものなのです。

 

生命が亡くなる四つの原因

生命が亡くなる原因は四つ説かれています。

 

一、寿命が尽きること。生命にはある程度で決まっている寿命があります。明確に日にちは数えられませんが、我々は平均寿命という言葉でそれをあらわしているのです。人間、動物、昆虫たちなどのそれぞれの生命に、平均寿命というものがあります。徐々に細胞の更新能力が減るのです。死ななくてはいけなくなるのです。

二、業が尽きること。業とは命を維持管理するポテンシャルなのです。精神力、心の力、と理解しても構わないのです。栄養などを摂っても、精神的に活気がなければ、明るさがなければ、生きる意欲がなければ、代謝機能は正しく働かないのです。生命がうまれることも、生まれてから死ぬまでの維持管理も、死ぬことも、業の管轄です。手を加えて人生をある程度まで変えられますが、全体的なプログラムを変えることはできません。精神的な力も徐々に衰えるようになっているのです。たとえ健康な身体を持っていても、精神的なエネルギーが尽きたら、死を迎えるのです。

三、寿命と業の両方が尽きること。前の二つの項目の一つがなくなっても生命は死ぬのに、三番目の項目は蛇足だと思われるでしょう。この項目で言っているのは、生命の自然死なのです。長生きができて、生命としてやるべきことをやって、最期に自然に死ぬのです。最期になると、精神状態も身体の状態も、これ以上はもたないと分かるのです。

四、事故死。これは体力も精神力もあるにも関わらず、他の何かの原因で命を失うことです。その特別な出来事がなければ、その生命は寿命を全うできたのです。

事故死や自然災害による死と業

このうち、四番目の項目についてさらに説明しなくてはいけないのです。「生命の死も業の管轄であるならば、事故死は何なのか?」という疑問が起こります。しかしこの場合も、結局は業が絡んでいるのです。分かりやすい例を出します。ひとが殺人を犯したとしましょう。裁判で死刑が確定して、執行されたとします。幸福で長生きできたはずの人間の命が、突然、断たれたのです。それはその人がこの世でおこなった行為の結果です。飲酒運転をしたり、居眠り運転をしたりして、命を失う場合もあります。それはその人々の不注意・無責任という態度の結果です。それも業です。若者が無免許で運転して、事故を起こして亡くなる場合もあります。この世でおこなわれる行為の結果なのです。行為に結果がある、というのが業の話です。ですから、事故死にも業が絡んでいるのです。

 

よく理解できないのは、地震・津波などの自然災害で命を失うことです。作業現場を通りかかったところで、何かが落ちてきて命を失うこともあります。子供が用水路で遊んでいて、足を滑らせて亡くなることもあります。このようなケースの場合は、不注意が原因とは言えません。注意していても、死ぬ場合はあります。

 

 

四つの業の働き

この問題を解決するために、仏教は業の働き方を説明します。四つあります。

 

一、生まれを司る業。業というエネルギーがなければ、生命はうまれません。輪廻転生もしません。どんな次元でどのようにうまれる生命であろうとも、業によって生まれるのです。

二、支持業。うまれた生命のいのちをサポートして、支えてあげる業です。生まれを司った業をサポートする、別の業です。生まれてから、たくさんの業に支えられて生きる場合もあります。人間の場合はよくあることです。いろんな条件に恵まれて、いろいろな人の協力やサポートがあって、明るく元気に生きる人々の例はあまりにもたくさんあります。サポートがなければ生きていられない、というのが人間の次元です。動物として生まれたのに、人間に飼われて愛されて、楽に生活する生命もいます。野生でいたならば、餌探しに苦労するし、縄張り争いもあるし、戦わなくてはいけないし、他の生命に殺される恐れもあるのに、人間に飼われたらその心配がなくなる。それはペットたちの補助業です。

三、妨害業。生きている間、その生命に邪魔をする、妨害をする業のことです。人生は頑張ったからといって、うまくいくはずがないのです。様々な妨害もあるのです。健康体で生まれたのに、ウィルスなどに感染して一生病弱で生きるはめになる人もいるのです。我々は毎日、妨害業を経験して生きているはずです。

四、殺害業。生まれを司った業が命を維持管理しているのに、その生命に他の業が割り込んできて、命を落とすのです。前に書いた事故死と、この殺害業には関係があるようです。

 

業の教えは止悪作善の戒め

業を正しく理解できるのは、正覚者であるお釈迦さまだけです。他の人々には、業という法則があることは発見できても、何業によって何が起きたのかと、明確に言うことはできません。一個の業で生まれるのに、生きている上ではたくさんの業が絡んでくるのだと、右の説明で理解できると思います。一般人は、決して人の業を判断してはいけません。正しく判断できる、ということはあり得ないのです。ひとが亡くなったら、誰だって悲しいのです。しかしどんな業で亡くなったのかと、探す必要はないのです。若者であっても、ガンなどが発生する場合があります。妨害業が割り込んだ可能性はあります。それがどんな業であっても、私たちには関係ないのです。治してもらうために頑張ることです。もし業の法則をある程度で理解しているならば、その若者に支持業が割り込んでくるよう、いろいろ手を加えるのはよいことです。

 

業は理解できないほど複雑な組み合わせで働きますが、あくまでも個人が相続するものです。「他人の業のせいで、私が不幸になった/幸福になった」というのはあり得ないことです。ひとが善いことをする時は、自分もそれに賛成したり、協力してあげたりすると、自分にも善い結果が現れるのです。犯罪をおかしてないが、それに賛成したり、また黙認したりするならば、自分も何らかの結果を受けるのです。

 

「生まれてきた人々は、善行為を選んで行うべきだ。悪行為を断言的にやめるべきだ」という戒めのために、業の法則が説かれているのです。一般の方々には、その理解で充分です。業についてややこしく考えないほうが無難です。

 

同じ災難に遭っても業の働きは個人ごと

それでもよく分からないことがあります。戦争では関係ない人々まで死にます。一部の人だけ戦争をするが、国民みんながそれによって不幸に陥ります。電力はみんな使っているが、福島原発事故によって、周りに住んでいた方々だけたいへんなダメージを受けているのです。旱魃でたくさんの人々が死ぬのです。広島・長崎の原爆投下で、戦争とは何の縁もない一般人が亡くなってしまったのです。地震・津波なども同じ結果です。もし太陽に異変が起きたら、地球上に住むみんなが影響を受けるのです。合衆国の何人かが引き起こしたリーマン・ショックの影響で、経済不況が世界に拡がったのです。このような出来事と業の働きを噛みあわせて考えようと思うと、頭が混乱に陥るに違いありません。人々にできるのは、身を守るために頑張ることです。自分のことばかり心配しないで、他の人々の幸福も考えて行動するならば、たいへん立派な生き方です。

 

太陽の異変で地球上のすべての生命が影響を受けたからといって、それは業ではないとは言えません。しかし胸を張って業だと言うことも、いろいろ問題を起こします。すべての生命が一緒になって、同じ業を積んだのかと訊きたくもなります。ここで言えるのは、個人が受ける苦・楽は、その個人の業の結果である、ということです。十人くらい集まってパーティをやったとしましょう。みんなで料理を作って食べたのです。食べものがあたったとしましょう。同じ物を食べたからといって、食あたりの苦しみはみんな同じではありません。治るスピードも個人によって違います。もしかすると、治ることができなくて命を落とす人もいるかも知れません。ですから、個人差があるのです。たとえ太陽の異変を例にしても、同じ結果になるのです。瞬時に死ぬ生命もいるし、苦しんで苦しんで死ぬ生命もいるでしょう。

 

業の総量はみんな同じ

すべての生命は、無始なる過去から輪廻転生しているのです。ですから、蓄積している業の量はみんな同じであると推測できます。無量の業のなかから、わずかな一部だけ、いまの生まれで働いているのです。それで量が減ることはないのです。海の水一滴を使いきったからといって、海の水が減るわけではありません。業も同じです。海には大量に水が入るように、いったん生まれた生命は無数の行為をするので、その行為も業として蓄積するのです。そこで太陽の異変が起きて、地球上の生命がみんな死ぬはめになったと推測しましょう。その時は、各生命が持っている無量の業から、何かの殺害業が割り込んでくることでしょう。業も条件が揃わないと結果を出しません。蓮の実は保管しておけば百年、二百年でももちます。しかし芽は出ません。それを泥の中に放り込んだら、二三ヶ月以内で芽が出ます。我々みんなが無量の業を背負っていますが、条件が揃わないので、結果を出さずに種のままでいるのです。結果を出すチャンスに出会うことなく、消える業もあるのです。

 

生きているうえでは、過去の悪業が実る環境を避けて、善業が実る環境を作るようにすればいいのではないかと思います。

 

身体と心のバランスは業が関係していますか?

Q:身体と心についてうかがいたいです。身体の状態(病気、怪我)などに引きずられるように心の状態が悪くなってしまいます。それはやはり、業のメカニズムと関係しているのでしょうか。どうすればいつも心が穏やかな状態を保てるのでしょうか。

 

A:高度な冥想をしていない限り、我々は輪廻転生するときに、何か物質・身体を作ります。身体と心は、ものすごい腐れ縁のようなものです。心には最強・最大の力がありますが、我々はずっと肉体に依存して生きていて、心がその力を発揮するチャンスがまったくないのです。心は、身体がないと機能できないという誤解に陥っているのです。

 

皆さんもそうでしょう? 身体のどこかが機能しないことを考えただけでも、死ぬほど恐くなるでしょう。たとえば、目がなければ困る、耳がなかったら困る、舌の感覚がなくなったらどうしよう……。しかし、肉体はどうしても壊れるものです。身体がちょっとどうにかなっても心には本当は関係ないのですが、心はすごく臆病で、身体にムチャクチャ依存するのです。そんな、ムチャクチャ依存する愚かな心が身体を管理するのですから、身体もろくなことがありません。いろいろな人の身体を調べても、いろいろな欠点というか、欠陥があるのです。

 

必ず身体にはどこかちょっとおかしなところがあります。それは心の問題なのです。逆に、ほんの少しでも身体に何か変化が起きてしまうと、心がビックリして、興奮して怖くなって、驚きます。驚いてしまうと、その瞬間、驚いた影響が身体に入ります。そして、身体がさらに壊れます。いつでも悪循環になるのです。

 

ふつうは、肉体がいろいろ壊れたり怪我をしたりしても、だいたいすぐ治ります。肉体は業(kamma)の法則だけではなくて種(bīja)の法則によっても管理されていますから、壊れても何とかなります。肉体の種子の法則に任せておけば、治療しなくても治るのです。しかし、私たちは任せませんね。病気になったら「ああ大変だ、どうしよう、先生治してください」と興奮したりして、驚いて心を弱くするのです。すると、植物なら一週間で治すことが、心が肉体をいじることで二〜三カ月間かかったりするのです。たとえば、病気になったら最初はびっくりして興奮していても、ずーっとそういう状態でいると、病気に慣れてしまいます。慣れると「あ、別に驚くことじゃないや」という気分になります。落ち着くのです。そこでやっと回復方向にいく。心と身体はそういう関係なのです。

 

ですから、あまりにも肉体を心配する人々は、早く病気になります。たとえば、女の子はけっこう身体のことを気にしますが、男の子はあまり身体のことを気にしないものです。遊ぶことがいちばん大事で、ケガしても別にかまわない。親が「このケガならちゃんと消毒して手当てしないと」というような傷をつくっても「べつにいいよ」と言うのです。実際、それでいいのです。すぐに治りますからね。

 

心で悩んだり心配したりすると、病気が持続することになります。ですからいつも、肉体は肉体の法則で、遺伝子の法則で、種子の法則で、もう何とかなるだろう、私は関係ないんだと思うことが早く治すコツなのです。「肉体が勝手に病気になった、知ったことではないよ」という調子でいると、けっこう早く治ります。いつでも心穏やかにしたければ、悩まず、妄想しないで、慈しみの気持ちで生きることです。そうすれば心が明るいのです。

 

慈しみの実践をしたら、だいたい7割ぐらいの病気は消えてしまうと思います。慈しみを実践する人にも病気がある場合は、それは業のプログラムですからどうにもなりません。「ああ、そうですか」と、それはそのまま受け取るしかないのです。それ以外の病気はほとんどないのです。慈しみを実践するとケガもしません。何となくガードになって身体を守ってくれます。「心が病気にならないように」というお釈迦様の言葉がありますから、毎日、慈しみを実践してください。そうすると心は明るくなると思います。

 

趣味が業におよぼす影響とは?

Q:写真を撮ることが好きで、趣味といってもいいと思います。しかし最近、それは執着なのではないかと考えるようになりました。写真を撮ることは行為として執着なのか、また、撮ることや写真を観た人が感じた結果によって、善業とも悪業ともなり得るのか、今、考えているところです。ご助言ございましたらお願いします。

 

A:写真に限らず、その趣味のやり方次第で、善業にも悪業にもなります。趣味を頑張るのはかまわないのですが、それで何を表現したいと思っているのか、が大事です。ただの時間つぶしなのか、何もないと人生がつまらないから趣味をもって面白くするために、というものなのか。

 

「人生を面白くするため」ということなら、そんなに善とも悪とも言えることではありません。つまらなく退屈でいるよりは、心を明るく活発にしたほうがいいですから、個人的な趣味で写真にかかわるのもいいでしょう。

 

あるいは写真で何か表現したいと思っている場合、その表現したいことによって善にもなるし悪にもなります。ですからそこを考えてください。

 

たとえば、同じ動物の写真を撮る場合でも、何を表現するのかで業が変わってくるのです。「動物はとても美しくかわいく生きている」ということを表現したいのか、「動物たちも人生は大変だ」ということを表現したいのか、などです。テレビで時おり、昆虫のサバイバルというか、どうやって交尾して相手を誘惑するのか、ドキュメンタリー番組で紹介したりします。その時に、観た人が「ああ、大変だなあ」とか「生命が誕生するというのは昆虫であってもかなり綿密な世界だなあ」とか、「生きるというのは誰でも同じだ」などというメッセージが伝わってくるとしたら、それはいいメッセージを伝えていることになります。ですから「善い」とは言えます。そのあたりを、個人的な趣味に関する場合は個人でしっかりする必要があるのです。ただ「欲」を表現したくて出すとしたら悪いことになってしまいます。

 

ですから、自分で決めるのです。まず趣味を持って明るく生きることにする。この質問者が写真を趣味にしているのは、明るく生きる手段としては別に善でも悪でもなく、どちらかと言えば「まあ、いいんじゃないかな」というほうに入ります。つまらなく生きているよりは、脳をちゃんと活発にしたほうが良いですからね。その先、「人に見てもらいたい」という側面については、「何を表現しているのか」ということが大事です。「あんた、すごいねえ」とか、褒められたくてやっているならば、あまりよろしくありません。それはただのエゴですね。自分では褒められたいとそんなに思わなくても「この写真を見て感動しました」とか言われるようなら、いいことかもしれません。そこらへんは個人で判断して、どうやっていくかを決めるべきでしょう。

 

なりたい仕事や歩むべき道は業と関係しますか?

Q:現在大学四年生で来年就職しなければなりません。しかし、とくにしたいこともなく自分はどうしたいのか、いくら考えてもわかりません。かといってしたくもない仕事をするような会社に入りたくはありません。これから先の道がまったく見えない状態です。どうしたら、自分はどうしたいのかがわかるでしょうか。自由に心落ち着いて生きていきたいです。もし、業(カルマ)の性質や前世などを理解できれば、少しは落ち着いて道を進めるのでしょうか。アドバイスをお願いいたします。

 

A:自分のことを考え過ぎなんですね。どの職業を選ぶか、どんな仕事に就くかなどについて、それほど大げさにとらえる必要はないと思います。

 

夢を見るのは自由ですが、あまりにも見過ぎるのは危険です。現実的に考えると、我々はその日その日で何とか生きてきただけなのです。たとえば、この方は大学四年生だと言いますが、まず大学に入学したときには一年生でしたから、そこでやるべきことをやりましたね。そして、二年生になったらその時やるべきことをやったでしょう。そうして四年生になった今、就職活動とかいろいろやらなければいけないことがあります。ですから、その日その日でやるべきことをやればいいのです。

 

いくつかの仕事を見つけて、「どれにしようかな」と迷って、決める時に、たとえば仕事の名前を紙に書いてトランプのようにシャッフルしてから、目をとじて「じゃあこちらにしましょう」と一枚ひいて決めてもかまわないと思います。それぐらい気楽でいいのです。仕事を選ぶのに、そんなに大胆な意味づけをしてはいけないのです。

 

何を基準に仕事を選ぶかといえば、できるだけ自分にとってやりやすい、単純な仕事を選ぶのも選択基準のひとつになりますね。それは「仕事はたいしたことではない」という意味ではありません。仕事はとても大事なことです。仕事があるからこそ、人間が生きていられるのです。それは「仕事をして給料をもらって生活する」という側面もありますが、大事なのは、「仕事そのものが人々を助けることである」というところなのです。ですから、皆さま方が真面目に仕事をしないと、世の中は成り立たないのです。

 

電車の運転手は、ものすごく面白くない仕事をやっています。もう、あれほどつまらないことをよくも何時間もできるものだと感心するほどです。しかし、そういう人々がものすごく真剣に仕事をするので、我々は死なずにすんでいるでしょう。世の中をちゃんと動かすためには、仕事という項目は欠かせないものなのです。

 

ですからどんな仕事でもかまいません。やる時は真面目にやって、「ああ、よく出来ました」と納得がいく、それぐらいのことで十分だと思います。ですから、あまり大胆に考えないで、自分なら簡単にやり遂げることができる、と思える仕事を選んだほうがよいのです。

 

私たち誰もがするべきことは、この質問に挙げられたような仕事ではなく、「日々、よりよい人間になること」なのです。我々は、生まれてから死ぬまで生きていなければいけません。ですから、何よりも、よりよい人間になることが一生の仕事なのです。大切なのは、どんな会社に入るかということではないのです。会社に入っても、ずーと居られるわけではありません。ですから、一生の仕事は「日々よりよい人間になること」だと理解して、収入を確保するために何とかしますよ、いうことで仕事を捉えればよいのです。

 

将来の夢をあまりにも考えたところで、現実にはその日その日で生きているだけの人生でしょう。私も同じですよ。こうやって日本に住んでいますが、そんなことは若い頃には想像もしていませんでした。私は、歳を取るまで大学で生きると思っていたのです。しかし結局はやめてしまいました。ま、そんなものですよ。嫌になってやめて、その日その日で生きていて、若い時には想像もできないことをやっているというわけです。

 

今も、その日その日でやるべきことをやって生きているだけです。たとえば「明日、講演会ですよ」となれば、前の晩は家でデータを探して繋げて繋げていって、スライドを作って、準備します。その日その日で生きているだけです。若い者も同じです。ただ、若い人たちには将来が長くありますから、認めたくないだけです。でも、将来がどれぐらいあるかなどということはわかったものではないでしょう。ですから、「あれはやりたくない」「これもどうかな」「自分には何が合っているかな」などと悩んでいるだけでは、時間がもったいないです。「私はどうすればいいか」ということだけを、その日その日で、さっさと、「こちらにするぞ」と気楽に選んだほうがいいと思います。

 

ですから大事なのは、どんな仕事を選ぶかではないのです。人生は仕事とは別にあります。よい人間になることは、どんな仕事を選んでもできると思います。いろいろ勉強したりして、自分の別な世界、自分の人格を向上する別なプログラムを進めていっていただきたいのです。それがずーっとやるべきプログラムであり、それを続ける上でも収入が必要ですから、それは何か仕事を選んでやればよろしいでしょう。会社を退職しても、元気で生きている限りはまた別の仕事が見つかると思います。そういうふうに気楽に考えたほうがいいと思います。

 

 

「自業自得」と「諸法無我」は矛盾する?

Q:「自業自得」と「諸法無我」の教えについて、どうも噛みあわないように感じてしまうことがあります。ブッダの教えを勘違いせずに理解するためのポイントを教えて下さい。

 

A:世間では「自業自得」を暗いイメージで受け取っていますが、それは間違った理解です。自業自得とは、善いことをすれば善い結果になるし、悪いことをすれば悪い結果になるという話です。「自業自得」と言った途端に、バチが当たる話だと思わないでください。自分がしたことの結果が出ます、ということです。善いこと、悪いこと、どうでもいいこと、自分がしたどんな行為もその結果を自分で受ける。それが自業自得ということなのです。

 

この自業自得と諸法無我が噛みあわないと思ってしまうのは、私たちがいつでも「自我がある」と思っているからです。脳科学の研究でも、「自我は脳のカラクリで作られる錯覚である」ということははっきりしている。脳が実在しない過去のデータと、現在と、将来の推測とをまとめて判断するために、自我という概念をつくっているのです。

 

自我という錯覚がさまざまな恐ろしい問題をつくって脳を破壊するのです。怒り、落ち込み、悲しみ、世界の戦争に至るまで、自我の錯覚が引き起こしているのです。ただ「便宜上、人に張ったラベル」程度に思えばいいのに、自我が実在すると派手に思ってしまう。自我が錯覚だと理解すれば、何の問題もないのです。そのまま物事がスムーズに流れるのです。

 

誰でも自我という錯覚に囚われているから、ブッダの話を聴いた途端に「あれ? おかしいな?」と思ってしまうのです。輪廻転生する変わらない自我(魂)があるなら、輪廻転生などできないのです。人間に永遠不滅の変化しない魂があるなら、それを赤ちゃんの自分、子供の自分、中年になった自分が知っているのでしょうか? まるっきり気づかないでしょう。

 

自我が実在するならば、悪を犯しても構わないのです。行為によって変化しないのだから。善いことをしても無駄ですね。それは俗世間の考え方の矛盾です。永遠の魂を説く宗教家の言っていることが矛盾なのです。大乗仏教もそれをごまかしつつ、教義に入れてしまった。しかし本覚思想のように、「一切衆生が本来、覚っている」と言った時点で、その宗派は解散しないといけないはずです。そうやって、宗教家は現実とまるっきり噛みあわないことを言っているのです。

 

身体も心も無常だから、刻々と変わり続けるのです。どうせ必ず変わるのだから、計画的に変えましょう、と仏教が言うのです。たとえば、食べて寝て、食べて寝て、のくり返しでも変わりますが、二日もたったら最悪状態になります。それならば、計画を立てて食べる量を決めて、運動メニューを作って管理すれば、変わり方がかっこよくなるのです。

 

何をしても、しなくても、人は変わってしまいます。明確に「自業自得」でしょう。双子の一人が歌を習ったら、もう一人も自然に歌えるようになると思いますか? 自分の行いは自分に返ってくるのです。この場合は、自分というのはただの言葉で、実在するわけではない。自分という言葉を作ったのは脳の働きなのです。

 

脳にもともと自我の錯覚があるから、言葉を作る時も「私」というコンセプトが入るのです。私というコンセプト、概念がないと言葉がつくれないのです。数学言語、科学言語は「私」無しに作れますが、言語の根元にあるのは「私」という錯覚なのです。解決策は赤ちゃんに最初に科学を教えることかもしれません。でも、それはできない相談でしょう。

私という主体は客体を使うことから生じる。

 

勉強するだけで身体と心が変化します。変わって、変わり続けて別のものになる。「私」が変わると言ったらおかしいのです。勉強しただけで、身体も変わるし、心も変わる。食べただけでも、身体も変わるし、心も変わる。もう元の人ではないのです。変わることはノンストップです。止まらないのです。

 

変わるためにいちばん邪魔になるのは、変わらない何かがあることです。ポットのお湯を沸騰させたとしても、ポットに石ころが入っていたら、石は変わりません。米が無常だから、炊いたら食べられるのです。炊いたご飯が口に入ると感覚が変わるのです。それで心も変わります。炊いたご飯をそのままで食べるか、お茶漬けにするか、おにぎりにするか、それだけでも心が変化する。つねに絶えず、肉体も心もずーっと変換するのです。

 

これは皆さんには、冥想することでしか理解できないことです。でも川とか、滝とか、噴水とかを観察して理解して下さい。華厳の滝は瞬間・瞬間、消えます。それが無常です。われわれの錯覚で、「去年もこの滝を見たんだよ」という。しかし滝は一瞬しか見えないのです。次の瞬間には別なものに変わるのです。言語で、我々の理解として、滝があるという錯覚を使うのです。この錯覚がないと生活するために不便なのです。それだけのことです。

 

無常だからこそ、輪廻転生は成り立つのです。無常だからこそ、自業自得なのです。自業自得は、心について言うことですが、これは物質も同じです。日光が寒くなったら華厳の滝の水が凍ります。東京の我々の飲む水が凍るわけではないのです。無常だからこそ、ものごとは変えることができるのです。因縁によって変わるので、好き勝手には変わらないですが、便利な方向へと変えることはできるのです。変化しない何かがあったら、たいへんなことになります。

 

諸法無我だからこそ、人が頑張って結果を受けるということが成り立つのです。勉強して試験を受けた人が合格するのであって、お母さんは合格しないのです。しかし、たとえば自分が受験に成功すると、家族全体も喜びを感じて幸福になるでしょう。子供が仕事を頑張った結果として、親もいい家に住めるようになったりもする。それは自業自得の教えから、どう説明すればいいのでしょうか? 息子を育てたのは親です。親が子供を育て、心配して、励ましたのです。その結果として、自分が家をもらっているのです。結局、親がした行為の結果を親ももらっているのです。親子関係が悪かったら、子供が成功しても、自分は何ももらえない可能性があります。それも自業自得なのです。自業自得の法則は、決してバイパスできません。それで世界が動いているのです。

 

輪廻転生への誤解

Q:輪廻転生しても自分にその記憶はありません。それなのに今生で善行為をするのは、その業(カルマ)によって次に生まれる生命への慈悲から、ということなのでしょうか?

 

A:この疑問には、間違った宗教的な考えが入っています。輪廻とは、魂が引越しするわけではないのです。すべて滝のように変化するのです。我々は身体と心を使って様々な行為をします。その行為によって次の結果が変わるのです。物質は地球からもらったものだから持って行けない。生命が死ぬ時、心は物質とは別法則で流れます。その心が次に変化すると、以前の肉体とは別の物質を捕まえます。心が物質を取り込んで、新しい身体を作るのです。それが転生です。その新しい生命は、自分とも言えないけど、他人とも言えない存在なのです。

 

人間でいるあいだは、人間社会の情報で心身を構成します。死ぬ時は、ここで学んだことはすべて捨てて、次の生を送らないといけない。次に生まれる生命次元のことをイチから学ぶのです。たとえば超越した神々の次元に生まれたら、日本の歴史なんか憶えていても役に立たないでしょう。輪廻転生とは、電車を降りたらつり革から手を離すようなものです。ですから、輪廻転生したからといって、心は一向に成長しないのです。

 

仏教は心だけ成長させる方法を教えているのです。肉体の成長ではなく、心をパワフルにする方法です。心をパワフルにすれば、生まれ変わっても犬猫にはなりません。人間は数が少ないので、次は人間にならない可能性はありますが……。過去が消えるのは、どうってことないのです。我々も子供の頃にやったことの記憶はほとんど消えています。母のおっぱいを吸っていた時のぬくもり、その味も忘れているでしょう。そうとうな量を忘れているのです。いまも我々は過去を忘れることを続けています。それはどうってことはないのです。自分に都合の悪いことをわざと忘れるのは性格悪い証拠ですけどね。

 

仏教では、人の恩だけは憶えておきなさい、恨みは綺麗サッパリ忘れなさいと教えています。それは俗世間では言っていないことです。「これから生まれる自分に慈悲をもとう」というのは、あまりにも妄想的で罪になる思考です。我々は、一緒に生きている生命に慈悲を拡げるのです。それで将来に対する心配は消えてしまいます。

 

しかし将来は確定していないのです。凡夫でいる限りは、保証できないのです。善いことをすれば善いところに生まれ変わります。でも絶対大丈夫、という保証書だけは出せませんよと言うことです。腕のいい運転手は事故を起こしませんが、絶対安心という保証はできないのです。道路状況がどう変わるかわかりませんから。そういうわけで、仏教では、「さっさと解脱を目指して下さい」と教えているのです。

 

障害者と業

Q:仏教では過去の因が縁により現在の果を生み出すとしていますね。合理的な考えだと思います。過去世の行状により来世が決定する記述も見られます。それでは今生に障害を持って生まれた者は過去世で悪業を為したからなのでしょうか? 障害者からするとかなりきつい考えだと思えますが、どうお考えでしょうか?

 

A:業(カルマ)の話は、因果法則の論理から出てきた一つの思想「枝」です。一切の生命の「生」が形成される瞬間に関わる諸々の原因の中で、過去の行いもその一つとして機能します。仏教は全ては過去の業ですよという「一因論」には全く反対です。一神論は一因論の一種です多因、多縁で現在の果が現れるのです。また因でも縁でも変われば、変わった結果を期待することもできるのです。ですから「過去の業だからどうにもなりません」というアキラメの話でもないのです。

 

人に限らず、生命が生まれる瞬間の最初のこころには、業の影響が優先するようです。わかりやすく言えば、業は『身体』よりも『こころ』『性格』『精神』を管理するようですね。身体とこころは不離、不可分離状態で機能しますから、業は確実に体にも影響を与えることになります。

 

生命であろうが他のものであろうが、全てのものは因縁によって、現れたり滅したりするので、誰かの機嫌をとるために真理を歪曲することはできないでしょうね。「大慈悲の絶対神のみ知る理由であなたは障害者になりました。だから喜びなさい。あなたは神の特使者だ」と言うと、良い結果になるのでしょうか。

 

また、もし誰かが仏教で説く「業の教え」を参考にして、「あなたは過去の業で障害をもって生まれることになったのです」と言うことは正しいのでしょうか。それは慈しみの行為なのでしょうか。

 

私はそう言う人は嘘つきだと思います。ブッダは覚りの智慧で業の働きを発見したのですが、我々一般人には理解することも、経験することもほとんど無理です。業については、「思考、想像するなかれ。思索の領域を越えていることであり、考えると頭がおかしくなる」と釈尊は説かれています。正直な仏教徒は「悪いことをすると悪い結果になる」という日常の具体的なところに留まり、あれこれ考えあぐねることなく善行為をするよう努力するのです。

 

他人の運命について、生き方について、批判的なこと、差別的なことを考えるのは仏教的ではないのです。過去の業について自分自身がはっきりと知っているのなら別ですが、知りもしないくせに「貴方が過去の業で云々」と言うことは単なる差別で、他人いじめで、インチキで、嘘つきで、また大きなお世話です。ブッダの教えを誹謗中傷しているのです。

 

瞬間瞬間、全てのものが変わっていくのです。命も生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで止まることなく変わっていくのです。無数の因、無数の縁によって変わり方、方向性が定められるのです。業はその無数の因のなかの一つです。区別できないだろうと思います。業だけに絶対的な力があるわけではありません。今の結果が良くないと思う人は、適切に因縁を変えて、次によい結果をだせばよいのではないかと思います。その良い結果も、すべては無常ですので、また変わるのです。

 

なぜ、人の頭に「障害者」という言葉が浮ぶのでしょう。

 

人間の身体はそれぞれ違うというだけでしょう。さらに能力の差もあります。人それぞれに出来ることも、出来ないこともあるのです。ですから、障害者、健常者という二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。

智慧の人は、『区別』を理解して『差別』を非難するのです。区別の立場から見れば同一のものは一つもないのです。『同じ』人間でも日々変わるでしょうに。日々違うでしょうに。

 

健常者とは誰ですか。真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。俗世間の基準で、貪瞋痴の基準で、「私は健常者、あの人は障害者」と決めてよいのでしょうか。完全な覚りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来るのです。障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。

 

業と仲良く暮らしたい

Q:人が生まれる時、熟した業(カルマ)で生まれてくる。生きている間は業の影響から逃れられない。そのように理解しています。であれば、業の影響と仲良く暮らしていきたいと思うのですが、どのような業が自分に影響しているか気づきたいと思います。どこに気をつければいいでしょうか?

 

A:自分の身体は業がつくったものです。業は貯金みたいなものです。旅行する時は費用を全額、旅行会社に払わないといけないのです。プランによってパック内容が違います。認識を司る感覚器官は直接、業の管理下にあります。感覚器官の能力は人それぞれで、それは変えられません。使用期限が過ぎたら、業が終わり。元には戻りません。

収入の割り当ても、得た収入でどの程度幸せになるのか、というのも業の管轄です。1万円の収入でけっこう楽しく生きている人もいて、5万円もらって足らない、足らないと悩む人もいる。1万円の人の業のほうが善い業です。生きる上で、業の影響は免れません。しかし、それをチェックしたらどうなるかというと、どうにもならないのです。

 

業は気にしない方がいいのですが、しかし知っておいたほうがいいことです。「億万長者になりたい」とむやみに頑張っても、億万長者にはなれません。自分の収入の業を知っている人なら、それに合わせて頑張ればいいのです。少々、気にするだけのことです。

 

仏教で教える「少欲知足」というのは、業から身を守るために使うのです。金持ちになってはいけないという話ではありません。得たもので満足すること。それが業から身を守る方法です。眼耳鼻舌身も業です。生まれつき足が一本短いなら、それで一生苦労しないといけない。肉体から感じる感覚についても業が管理しています。身体がそれほど強くない人であっても、身体をよいことに使うことで業が調整されて、コンディションがよくなる場合があるのです。効き目がないのは、目と耳です。もらった能力を管理できないのです。視覚、聴覚を早く壊すことはできるが、伸ばすことは難しいのです。それでも白内障、緑内障になるのを避ける事はできる。当然、治療不可能なものもあります。

 

少欲知足で節度を守って生きることで、自分の業をある程度で管理できるようになります。業論には、「責任を持って生きなさい。たくさん善いことをしなさい」という道徳的な意味がある。本書の第一章で述べたように、業は人間に理解できないくらい難しいのだと、お釈迦様は釘をさしました。しかし悪いことをしなければ無難でしょう。ですから、一般の人には止悪作善を語るのです。専門的に仏教を学ぶ人には、ある程度理解できるように業論を説明するのです。

ですから理解できる範囲で理解して、業について分からないところは放っておいても構わない。「善行為をすることにします」と決めて、業のことを気にしないようにするのも安全な手段です。

 

 

 

日本テーラワーダ仏教協会のwebから引用

Kammaカンマ

大昔から人間は、「なぜ自分はここに、このようにいるのか」という、自分たちの存在の成り立ちに対する答えを求めて来ました。

その疑問は多くの宗教や哲学を生み出し、「すべては全能の神に創造されたのだ」「どんなことも偶然の産物にすぎない」「全部、過去世で決められた運命だ」等、様々な答えが語られてきたのです。

仏教ではものの成り立ちについて、因果法則を説きます。「ある原因とある条件が揃ったところである結果が現れる、その原因や条件が消えればその結果も消える」というのが因果法則です。業論は、生命の因果法則だということができます。

 

Kamma(業)」の辞書の意味は「行為」です。

仏教では、身体の行動だけでなくしゃべることや考えることも行為に入ります。「善因善果、悪因悪果」という言葉で知られるように、良い行為には良い結果が、悪い行為には悪い結果がついてくるというのが法則です。けれども世の中には不条理だと思えることがたくさんあります。正直でまじめな人がリストラにあった、かわいい子供が突然事故で亡くなったなど、わけがわからないことが起こるのです。そうすると、「定め、運命、宿命」等の言葉が出てきます。私たちが「業」について考えるのはそういう時です。

釈尊は、「すべては宿命であって、決められた定めだ」という考え方には反対されました。

すべてが決められているならば人間が努力する余地はなくなります。そういう考え方は恐ろしい邪見だとおっしゃっています。「ではいったいなぜ?」という疑問が起きますが、すべての原因と条件を明確に知ることは、人間には不可能です。釈尊は、人間には知り尽くすことができず、無理に理解しようとすると頭が狂ってしまうようなことが四つある、と言われました。その中の一つが業のことなのです。業については、普遍的な法則としてのみ理解するのがよいのです。

 

釈尊は業について、「業は自己のものだということが正見です:kammassakatā sammāditthi 」と説かれました。

自分の行為の結果は自分に返ってくる、それを理解することが正しい考え方だということで、つまり、自己責任ということです。

仏教は個人主義です。誰かが犯罪を犯しても、その親兄弟を責めることはありません。業はあくまでも自分だけのものなのです。すべては自己責任なのだから、他人のせいにすることもできないのです。人はすぐに他人のせいにするクセがありますが、何でも全部自分の責任だと思った方が正しいのです。

「業は自分のものだ」という言葉には、一人一人の人権を尊重するという意味もあります。だから仏教では、「何々するなかれ」という命令形はめったに使いません。「こういうことをするとこうなりますよ」と事実を教えます。やるかやらないかは、それぞれの自由なのです。

人は完全に独立した個人であって、誰にも支配されていません。自由です。しかし行為には結果があります。それは宇宙の法則で、どうしようもないのです。ですから、「すべては自己責任だ」としっかり生きるべきなのです。

その生き方が身につくと「悪いことをすれば自分がひどい目に遭う。だから私はやりません」と、周りの悪影響を受けずに生きていけます。仏教の業論では、そういう強さも教えているのです。

 

ここで付け加えると、「周りの影響」ということも、業論ではとても重要なテーマです。

普通、私たちはどうしても周りの影響を受けるからです。人は自然と似たもの同士でつきあいます。怒りっぽい人は怒りっぽい人同士、悪い考え方を持っている人は悪い考え方を持っている人同士、音楽の才能がある人は音楽の才能がある人同士など、性格別、能力別にグループをつくります。似たもの同士は同じ運命で回転するので、運命の方向は変わりません。運を好転させたければ、自分の欠点を良く理解して、苦労してでも自分の短所と逆の性格を持つ人々とつきあった方がいいと思います。そのためには的確な判断力やかなりの忍耐力が必要で、実際にはなかなか難しいのです。だから本格的に自己変革して運を好転できる人の数は少ないのです。

 

すべては無常なのだから我々の運命も努力すれば好転する、というのが仏教の立場です。

それは「やればできる」という単純なことではありません。原因と条件が揃ったところで結果が出るのです。その理を理解し、客観的に物事を正しく判断して合理的にがんばりなさい、ということなのです。(次回につづく)

 

業論とは人の幸不幸について語るものだ、と言うこともできます。

前回、自分の幸不幸の責任は自分にあることを述べました。仏教では、幸不幸は心の問題だと説いています。交通事故で足が一本なくなった人が不幸だとは決められないのです。その人が明るく堂々とがんばっているならば、別に不幸ではありません。中にはちょっとしたケガだけで落ち込んで不幸になる人もいます。幸不幸は各自の思考パターンから来ているのです。思考パターンは過去の行為の結果(業)です。思考パターンを変えるのは難しいですが、努力すれば変えることができます。そのために必要なのは、合理的で具体的な智恵と知識です。

自分を徹底的に客観的に見ることができる勇気も必要です。自分自身を本質的に変えるためには、かなりの勇気が必要なのです。人はどうしても楽な方へ、怠ける方へと流れ、自分の性格で落ち着こうとします。自分の思考パターンで落ち着いてしまえば、その人に進歩はないのです。

 

業とはいったい何なのか、より具体的な説明があります。 「比丘らよ、『意志が業だ』と私は言う:Cetanā 'ha bikkhave kamma vadāmi という釈尊の言葉があります。

「業」=「意志」だとおっしゃるのです。心には常に「行為を起こす動機となる想い」があります。たとえば妄想する場合でも、「なぜこういうことを妄想するのか」と見てみると、何らかの「想い」が見つかるでしょう? その「想い」がcetanā(意志)であり、業なのです。

結果を出すのはそれなのです。「想い」が清らかなものか、貪瞋痴で汚れているかによって、善業か不善業かが決まるのです。たとえば「自分が成功したい」という貪りや「人に負けないぞ」という怒りで行動するのは不善業です。欲や怒りが強いと意志も強いので、うまくいくように見えますが、結局は良い結果になりません。一見「良いこと」であっても、意志が汚れている場合は、悪いことをしているのです。「病院をつくった、学校をつくった」というだけで、善行為か悪行為かは決められません。欲のない慈しみの気持ちでがんばると、結果も良いし、充実感も得られます。とにかく、なるべく「自分が」という自我意識を置いて行動することが、良い結果を得る道なのです。意志に行為の重点があると知り、それを語ったのはお釈迦さまだけです。

 

ではここで、心の業を積み重ねる仕組みについて少し詳しく見てみましょう。心の業というのは非常に微妙で細やかなものなのです。

たとえば花を見て「花だ」と思ったら、その瞬間にもう業を積んでいるのです。「花を見る」とは、目に入った情報を瞬時に頭の中で合成して、「花だ」と認識するということです。頭の中で現象を組み立てる時にも、やはりかすかな意志がはたらいていて、そこにその人の経験が関わっています。「花だ」とわかると同時に感情も揃っています。それは個人的な作業で、同じものを見ても頭の中の認識は一人一人違います。目に光を感じることは自然の流れで、それは避けられません。そこまでは善でも悪でもなく、業にはなりません。目に触れた光を「花だ、壁だ」と判断したとたんに感情をつくり、「好きか嫌いか、これはどういうものか」などと考えています。それが、自分の将来を決める業になるのです。耳で聞く場合も、「音」だけで止まると、業にはなりません。しかし我々は耳に音が触れた瞬間に「鳥の声だ」「車の音だ」と認識しています。瞬時に頭の中で合成しているのです。もうすでに業を積んでいるのです。

 

たとえばある人が道を歩いているとします。それだけで、ドンドンその人の頭の中の合成機能が変わっていきます。感情も変わっていきます。それによって性格も変わっていくのです。「ただ歩いているだけで、どうってことない」と思うかもしれませんが、そういう単純な行為でさえ、小さな小さな業を心の中にためていくのです。その瞬間その瞬間、違うものを合成するのです。それがたまってたまって、次へ次へ次へと、自分を変えていくのです。業からは逃がれられないのです。ただ歩いているだけでも、悪行為をしているのか、善行為をしているのか、わかったものではないのです。聞く場合でも、味わう場合でも同じです。何をしても、瞬間瞬間の小さな粒子をたくさん積み重ねていって、無数の業を積み重ねながら、自分の見方を変えていくのです。完全に悟らない限り、業を積み重ね続けることからは逃げられません。私たちはいつでも自分の運命に足すか引くか、どちらかのことをしているのです。(次回につづく)

 

前回は、六処(眼耳鼻舌身意)に対象が触れるとその瞬間に頭の中で現象をつくり出し、感情が生まれている。それらは次から次へと流れて行き、その瞬間瞬間、業がポテンシャルなエネルギーとして蓄えられ、同時に自分を変化させていくというところまで述べました。私たちに生じる感情はほとんどが不善心所(不善なる心のはたらき)なので、感情=煩悩と言ってもいいくらいなのですが、善心所(善なる心のはたらき)が心に生じることもあります。善心所が生じると善い業を蓄積することになります。

 

幸福は善い業の結果です。たとえば花を見て「きれいだ」と喜んだとすると、その瞬間、その人は過去の善業の結果を味わっているのです。同じ花を見て不機嫌になった人は、悪い業の結果を受けているのです。判断には各自の経験が入りますから、同じ花を見ても、一人は幸福になり、一人は不幸になります。過去の行為が今の瞬間の幸不幸を決めているのです。しかしたとえ善果を得て幸せになってもそこに罠があります。幸福を喜ぶ人は、そこから多くの感情をつくり出します。それらの感情はほとんどが「欲」という不善のカテゴリーに入るのです。そこでその人は幸福を感じつつ、次から次へと、不善業を積んでいくことになるのです。もしも、「イヤだなあ」と機嫌が悪くなったならば「怒り」のカテゴリーに入る不善業を積み重ねていくことになります。「良い」とも「イヤだ」とも思わず無関心な時は無知がはたらいています。ですから「生きる」ということは、欲と怒りと無知の悪業を膨大に積み重ねていくことなのです。しかも私たちは、とても好ましいことやひどくイヤなことを心に刻み込み、何度も何度も思い出すのです。そうやって思い出すたびに不善行為を重ねることになります。

 

そのように、私たちがつくり出していく業も膨大な量ですが、過去生から背負っている業はそれと比べものにならないほど巨大なものです。無始なる過去から積み重ねた業の量は生半可ではないのです。生命は皆、想像を絶する量の業を背負っているのです。悪業を償おうとしても、償い切れるものではありません。ブッダは、過去生の業など放っておきなさい、と説かれます。大切なのは自分が今罪を犯さないことですよ、と。過去を嘆いたり後悔したりしても罪を重ねるだけなのです。過去のことを考える暇があったら、今の瞬間に気づくことです。自分がかつて何をしたとしても、皆、無量の業を背負っているのだから、大差はないのです。膨大にためこんでいる業の中から、条件が揃うと、ある業が自動的に機能するのです。自分の好き勝手に業を機能させることはできません。では我々に手も足も出ないかというと、そうではありません。条件を変えると、結果も変わるのです。

 

そこで仏教では、法則を正しく理解して冷静に落ち着いていることを推薦します。つまり、良いことに出会ってもイヤなことに出会っても、無執着の心で放っておくのです。世間では「執着を捨てるなどとんでもない、喜怒哀楽こそすばらしい」と思っています。「楽しんでこその人生だ」と常に喜びを探し求めています。つまり、「欲」の不善業を探し求めているのです。世の中で好ましいものばかりに出会う人はいないので、当然、怒りも生じます。

 

世に善行為というものはとても少ないのです。たとえば「慈悲」という秒単位で徳が増える最高の善行為を教えられても、教わったとおりに無差別の慈悲を実践する人はまずいません。善悪判断を止めるように言われても、「なんと素晴らしいことか」「なんと腹立たしいか」とあれこれ妄想することは決して止めません。そういうわけで、欲と怒りと無知という膨大な不善業をつくりながら生きていく我々は、決して輪廻から逃れられないのです。

 

仏教の業論は、「そういう生き方はとても危険ですよ、智恵をはたらかせて生きてみなさい、智恵こそ救いであって、智恵がなければすべて終わりですよ」と教えているのです。智恵を育てる道がヴィパッサナー瞑想です。何かを認識して判断する前に、淡々とサティ(気づき)をすると、不善業はつくりません。同時に鋭い判断能力と智恵が出てきます。自分の心に起こっていく出来事をそのまま客観的に観ていく —— それに勝る方法はありません。ですから、ヴィパッサナー瞑想こそ、最高の善行為なのです。