瞑想の用語と概要
「アーナパーナ(調息)」 呼吸に気づく導入的瞑想
「ニミッタ(相)」 集中が増して近行定(非常に禅定に近いところ)になると、現れる光
「ジャーナ」(禅定) サマディー三昧 調意の第四段階 いわゆるサマタ瞑想、止観
「ナーマ(物質)」と「ルーパ(心)」 二つの現象を認知して、次にはそれ自体を観る瞑想をする
「ルーパ・カラーパ(色聚)」 この透明な光の中の空界の中に微細な物質の微粒子で生滅している
「サマタ(止)」の瞑想samathabhāvanā カラーパの段階に到達することを「心清浄」とする。
「ヴィパッサナー(観)」の瞑想 vipassanā-bhāvanā 「色聚」の中のさらに細かい色法を分析する
以上の定義は一時的なもの
下記の文章を一読して自分の体験と照らし合わせながら言葉に置き換えたもので、ちゃんとした言葉を選べていないまだ過程のもの
参考文献 清浄道論 The Path of Purification: Visuddhimagga
全2部23章から成る。1-2章が「戒」(戒律)、3-11章が「定」(禅定・サマタ瞑想)、第2部の12-23章が「慧」(ヴィパッサナー瞑想)に関する
瞑想でのポイント
瞑想で一番重要なのは「サティ(気付きの力)」。
サティが弱いと、心はすぐに妄想をしたり、寝てしまいます。
気付きの力は、できるだけ寝るまでの間、ずっと気付くようにしてください。
気付きの力を上げていく努力が必要です。
アーナパーナ瞑想で重要なことは、「気付きの力」と「これを得るための努力(精進)」の2点になります。
アーナパーナをして第四禅定まで得てから、ナーマ・ルーパの現象を見るようにします。
ヴィパッサナで無常・苦・無我を見ますが、ヴィパッサナ瞑想ができるためには、その前にナーマ(物質)とルーパ(心)の現象そのものが分からないとできません。
ですので、アーナパーナ瞑想に成功したら、次はナーマ、ルーパの瞑想をして物質と心の現象そのものを見る必要があります。この後にヴィパッサナで無常・苦・無我を観ていきます。
アーナパーナ瞑想に成功して、いきなり「ヴィパッサナ瞑想をしなさい」といっても、ヴィパッサナする対象のことが分からないと観察そのものができません。何をヴィパッサナすれば良いかがわかりません。
たとえば三十二身分ですが、眼・耳・鼻・舌・身・意という六門(感覚器官)があります。六門にある物質を観察して確認できないと、ヴィパッサナ瞑想はできません。眼にある物質の生滅、無常・苦・無我を観なさいといっても、六門にある物質そのものをルーパ瞑想によって分かっていないとヴィパッサナ(観察)のしようがないからです。
眼のヴィパッサナ瞑想をする場合〜眼に含まれる物質を確認する
たとえば六門(感覚器官)の一つの「眼」には54種類の物質が含まれています。
眼のルーパ瞑想(物質の確認)をする場合、禅定に入って、禅定からでて、そのジャーナの力(禅定力)によって「眼」を見ていきます。眼を観察するといっても四界分別(物質の分析)で観察していきます。そうすると「眼の形」ではなく、「微粒子」に変わって見えるようになります。
眼に含まれている微粒子が見えるようになったら、その微粒子にどういうものが含まれているのかを一つ一つ確認していきます。眼には54種類の微粒子が含まれていることがわかります。
眼に含まれる「見える作用」としての物質
この中で、チャック・ダスラ・カラーパという「見える働き」を司る「眼の10個の微粒子」があります。「見える働き」をする「眼の10個の微粒子」は、眼の全てに含まれているのではなく、眼の特定の部位にあるカラーパ(微粒子)になります。これは眼の黒目の中心にあり、ダニの頭のような形をして含まれています。
眼に含まれる「触覚」としての物質
またカヤ・ダスラ・カラーパという、「触ればどこなのかが分かる感覚」を司る微粒子もあります。これは眼の全体に含まれています。先の「見える要素(チャック・ダスラ・カラーパ)」というのは、ただ見えることだけが優先されます。カヤ・ダスラ・カラーパのように「触ったことが分かる」働きはありません。
「男女を区別する」物質
またバワ・ダスラ・カラーパという「男性か女性かと区別する要素」があります。男性に含まれる要素と、女性に含まれる要素は違います。バワ・カラーパを見れば、後ろから見ても前から見ても「この人は男性だ」「女性だ」というのが分かります。
これは眼にも含まれています。ですから男性の眼の形と、女性の目の形は違います。この働きはバワ・カラーパによります。男性と女性との違を生み出す働きがバワ・カラーパになります。これは眼だけでなく、全身に含まれています。
たとえば男女が分からないように隠して、手だけを外に出しても、その手だけを見て「男性」「女性」とすぐに見分けることができます。この働きがバワ・ダスラ・カラーパになります。
バワ・ダスラ・カラーパは体の全て、全身に含まれている要素で、見ればすぐに男性か女性かが分かるようになっています。
眼に含まれるその他の物質
また眼にはこのほかに、心によって作られる物質があり、「8つの要素」があります。※地、水、火、風、色、匂い、味、栄養素の8種類。
さらに眼には「時節」という要素もあります。時節とは、暑い・寒いといった気候条件で生まれる要素です。※地、水、火、風、色、匂い、味、栄養素の8種類。
しかも眼には「食」による要素もあります。「栄養素」は毎日食事として摂っている食べ物から作られる物質です。地、水、火、風、色、匂い、味、栄養素の8種類。
観察対象が分かっていないとヴィパッサナ瞑想はできない
ですからヴィパッサナ瞑想をする際、どういう対象をヴィパッサナ(観察)するかがわかるようにする必要があります。物質にどういう種類があって、どういった原因で出来ているかといったことを見分けて、はっきり見て、それからヴィパッサナ瞑想を行うことが大事になってきます。
たとえば眼の「見える要素(チャック・ダスラ・カラーパ)」をヴィパッサナ(観察)する場合、まず四界分別を行います。眼を作り上げている物質を微粒子(カラーパ)に分解します。
そして、これらの微粒子の中で「透明感(パサダ)」の要素を取り上げます。「透明感(パサダ)」とは見える要素そのものになります。透明感(パサダ)は、体の他の部分にもあります。そして眼に含まれる「透明感(パサダ)」を確認するために、体の他の部分にある同じ要素を探して比較し、確認します。
また「耳」の場合、「聞こえる要素」があります。耳の場合でも「透明感(パサダ)」の要素があり、耳は音を対象として見(聞)ます。耳で「聞こえる音」というのは、「透明感(パサダ)」によって「聞こえ」ています。眼と同じように、これを確認します。
無常を観る
そしてこれらの眼の要素を全て確認できたら、これらの要素をヴィパッサナ瞑想で確認していきます。生じては滅する、生じては滅するという「生住異滅」を観察して、無常をみていきます。
こういう要素(10個や8個の要素から成る微粒子)は、一気に現れて一気に消滅し、一気に現れては一気に消滅するということを繰り返しています。これは眼だけでなく、全てにおいて起きています。そしてこういう生成と消滅を見て「無常」を知ります。
苦を観る
生滅は何回も繰り返して起きていて、1秒の間に、早い速度で何度も起きて、この生滅が自分を「苦しめている」ことがわかります。これが「苦」です。これを知ることが「智慧」で、ヴィパッサナ瞑想で見通すわけです。
無我を観る
そしてこういう生滅を繰り返した後で、何かが残るかといえば何も残らないのです。何もありません。しかも自分で抑えること(自由にコントロールすること)もできません。これは自然の現象で、ただ生滅を繰り返しているだけです。そしてこれを「無我」といいます。
ヴィパッサナ瞑想を行う前に物質の現象と心の現象を確認
ヴィパッサナ瞑想を教える前に、ルーパ瞑想やナーマ瞑想を行って、物質の現象と心の現象を確認することが重要になってきます。
このように分かった上でヴィパッサナを行うなら、自分の智慧で全てはっきりと無常を確認できて、ヴィパッサナをマスターすることができます。
ですので「ジャーナ(禅定)を得たらすぐにヴィパッサナをしてもいいですよ」と言っても、何を確認し何を観察すればよいかの「対象」が分からないと、ヴィパッサナがなかなかできなくなります。
こういうヴィパッサナ瞑想ができないと、なかなか悟ることも難しくなります。
Q.アーナパーナ瞑想中、膝とかの体が痛くなった場合でも、呼吸に意識を向けるようにしたほうがいいのでしょうか。
A.呼吸に集中するようにしたほうがいいですね。毎日、瞑想をしていれば自然に体は慣れてきて、体の痛みは消えていきます。なるべく呼吸だけに専念して、瞑想をすることです。
Q.修行は先が長いように思いますが、普通の主婦でも行っていく価値はあるのでしょうか。
A.主婦の場合は家庭のことがありますので、定年退職なってからとか、子どもが手放せる時期になれば、ミャンマーのモービーに行って瞑想を行うことも可能です。
あるいは自宅で、自分で時間を設けて毎日、1時間、アーナパーナ瞑想をするとか、そういう努力は必要になってきます。これを続けていけば禅定を得る可能性もあります。
Q.自分で修行をすることによって、精神的に悩みを抱えている方を立ち直らせることは可能でしょうか?
A.できる可能性はあります。また精神に悩みを抱えている方自身が、ここまで行うのはかなり難しいですが、自分の心を安定させることなら可能性はあると思われます。
Q.三法印における「苦」についてですが、「森羅万象は全てが苦である(一切皆苦)」という解釈で正しいのでしょうか。
A.全てが「苦」であるということで正しくなります。真理の立場からいえばスカ(楽)はなく、ドゥッカ(苦)しかありません。生きている物でも、鉱物でも、全ては生住異滅という生滅を繰り返していて本質は「苦」になります。しかし凡夫の感性では三法印で言われている「苦」は分かりません。けれどもヴィパッサナ瞑想を行って観察できれば、一切皆苦であることが分かるようになります。
四界分別観を道具として使います。例えば、レンガを粉々にしてその細かい粒において生滅を観ます。微粒子の中に無常・苦・無我を観ます。私たちが集中して、カラーパ(物質の微粒子)を詳しく観察すると、八つの性質を見ることができます。すなわち、地・水・火・風と色・香り・味・栄養素です。
眼だけでなく、耳・鼻・舌・身においてルーパ(物質現象)の八つの性質と無常・苦・無我を観て行きます。四聖諦の初めの苦諦です。ナーマ(精神現象)は生滅がはやく、観察するのがとても難しいのですが、ナーマを観察することによって第二の集諦が理解できます。これには時間がかかります。
四界差別観(四界分別観)
「四界差別(四界分別)観)」は、初期仏教〜現代の上座部で、重視される代表的な瞑想法の一つです。
部派仏教では、「止(サマタ)」という集中する瞑想に分類されるようになった瞑想法ですが、本来は、「観(ヴィパッサナー)」という観察する瞑想の要素が強い方法でしょう。
基本的に、「四界差別観」は、五蘊の色身、つまり、体などが四大元素の「地」、「水」、「火」、「風」に過ぎず、どれも「私」ではないことを知る瞑想法です。
四大元素というのは象徴的な存在で、我々が日常で言うそれとは違います。
「地」は硬さの性質を持つ存在、「水」はつながりのある性質の存在、「火」は熱を持つ性質の存在、「風」は推進する性質の存在です。
四界差別観は「近分定」、つまり、外的な感覚のない内的なイメージ(取相)のみを意識に保持できる状態で行うとされるようになりました。
まず、「原始仏典」の中部 『界分別経』の方法を紹介します。
この方法は「観」の瞑想です。
まず、髪、毛、爪、歯、皮・肉、筋、骨、脊髄、腎臓・心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓・腸、腸間膜、胃物、大便、脳髄の20の身体部分が、内なる固く粗い「地」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「地」の要素も同様に観察します。
次に、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪・涙、脂肪油、唾、鼻液、間接液、小便の12の身体部分が、内なる水の水と化す「水」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「水」の要素も同様に観察します。
次に、それによって熱せられ、老化され、焼かれ、飲食消化されるもの、その他の、内なる火の火と化す「火」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「火」の要素も同様に観察します。
最後に、上向きの風、下向きの風、腹の外の風、腹の内の風、四肢に向かう風、出息、入息、その他の、内なる風の風と化す「風」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「風」の要素も同様に観察します。
次に、南伝仏教の最大の聖典、修行指導書である『清浄道論』に沿って説明します。
賢い人は、身体に四大元素が存在すると、順に4種の瞑想するだけで良いとされます。
しかし、普通の人は、次のように瞑想します。
・具体的に略して
身体を4つの部分が、それぞれ四界であると思念します。
・具体的に詳細に
身体の32の各部分(42種)を、別々に四界に分別して思念します。
・抽象的に略して
身体を4つの部分それぞれに、四界があると思念します。
・抽象的に詳細に
四界のそれぞれの中にも、他の三界があると思念します。
さらにそれぞれを、13種類の観点(言葉・集合・原子・特徴・現れ・多と一・分解と分解なき・部分を共にするしない・内外・包摂・縁・集中・縁の区分)から四界を思念します。
次に、現代のミャンマーで行われているパオ流の「四界差別観」について、少し説明します。
パオ流では、まず、身体のある部分で、その後に全身の各部位で、四界の12の特徴を識別します。
具体的には次の通りです。
・地界:硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ
・水界:流動性、粘着性
・火界:熱さ、冷たさ
・風界:支持性、推進性
最初のどの部分で感じるかは、例えば、次の通りです。
・推進性:呼吸する際の頭部中央
・硬さ:歯
・粗さ:舌で歯の先端
・重さ:ひざの上に置いた手の重さ
・支持性:直立した時の直立させる力
・柔らかさ:舌で唇の内側
・滑らかさ:舌で湿らせた唇
・軽さ:指を上下させて
・熱さ:全身
・粘着性:皮膚、筋肉、腱など
・流動性:唾液
次に、12の特徴を四界にまとめて識別します。
集中が増して近行定になると、「ニミッタ(相)」と呼ばれる光が現れます。
この透明な光の中の空界の中に微細な「色聚(ルーパ・カラーパ)」を識別します。
この段階に到達することを「心清浄」とします。
ここまでが「止(サマタ)」の瞑想です。
その後、「色聚」の中のさらに細かい色法を分析する段階からが「観(ヴィパッサナー)」の瞑想になります。
物質の微粒子を観る
それで今話しました12の性質について、1つずつ上から下に通して観ていきます。ひとつずつ、観て行きます。最初は一つずつゆっくり観ていくのですが、段々慣れてきたら、素早く上から下までそれぞれの感覚について観ていきます。それを非常に速くやっていると、それらの感覚がはっきり分かってきて、すると身体を感じるのではなく、感覚そのものだけがあるように感じられます。
そういう性質だけを感じるようになってくると、段々集中が良くなって、とても幸福な感じになってきて、次にそこに色――アーナーパーナでいうとニミッタのような色――が見えるようになります。
最初、そういう色が現れたとしても、その色の方に意識を向けるのではなく、その性質の感覚をずっと見続けます。それで、赤とか青とか黄色ですけど、それを見ていくと、段々白くなってきて、氷のような、そんな感じに見えてきます。氷のようなものが見えてくるのは、身体の外側に見えてくることもあるし、内側に見えてくることもあります。
それでアーナーパーナと同じなのですが、氷のようなイメージがしっかりして、はっきりしてきたら、今度はそこに心を集中するようにします。身体のところで、氷のように、またはダイアモンドのように光っているニミッタに意識を集中していくと、禅定に非常に近い近行定にまで達することができます。
前に説明しましたけれども、アーナーパーナ・サティが苦手な人は、この四界分別観をやってみて、非常に禅定に近いところ、近行定というところまで行くことができます。
それでアーナーパーナ・サティがうまくいって、禅定に達した人も、ヴィパッサナーをやるときに、まず四界分別観を実践します。身体全体ではなくて、眼球を観察すると、眼の中に小さな微細な粒子が生じて滅しているのを見ることができます。それで微細な粒子を見ていくと、あるものは鮮明に見えるし、あるものははっきり見えません。その小さな粒子が生じて滅しているというのは、とても速い瞬間で起こっているので、集中力がないとなかなか見ることができません。
それで第四禅定まで行った後に、微細な粒子を見て、透明なものと透明ではないものとあるのですが、透明な粒子のなかにどんな要素があるのか、あるいは、透明でないものについてはその中にどういう要素があるかを観察します。
眼の中を見たときに、透明な粒子は、だいたい眼の中心部、黒目のあたりにあります。その透明な粒子のことを、眼の中の「透明なルーパ・カラーパ」といいます。この透明な粒子がこわれてしまうと、ものを見ることができなくなってしまいます。
眼を作っている物質について観るときに、4つの原因があります。実際の粒子が生じたり滅したりしているのですが、その粒子の原因の一つはカルマ、二つ目は心、三つ目は暑かったり寒かったりという温度、四番目は栄養素です。そういう四つの原因によって、すべての眼の中のルーパ・カラーパ、物質の微粒子ですね、これが生じたり滅したりしています。
その微粒子を見ることが出来なければ、それら四つの原因によって生じたり滅したりしているということも知ることができません。それでヴィパッサナーを実践するときには、そういうレベルまで達していないと観ることが出来ないわけです。その例として、仏陀の時代の1つのお話をしたいと思います。
○ある比丘の話
ブッダの時代に、ナンダカという比丘がいらっしゃいました。そのとき、500人の女性が出家して比丘尼になっていました。比丘たちはパーティモッカというお坊さんの戒律を唱えます。その後に、仏陀とか、それから先輩の比丘たち、ブッダの弟子の長老格のお坊さんたちが説法をします。
それで、比丘尼の1人が自分たちも説法を聞きたいと思って、仏陀のところに来て頼みました。2週間に一回は比丘尼たちのところに来て、経を詠み、その後に説法をしてくださるよう頼みました。
ブッダはそこに派遣する比丘を選んだのですが、まずそれは阿羅漢であること。年齢が40以上であること。もう1つは教える能力があるということ。一人一人見てそれらの基準に適う人を選びました。ナンダカという比丘は、要請されても、自分は忙しいとか言って、そこに派遣されるのを嫌がりました。なぜ断っていたかというと、ナンダカ比丘は阿羅漢でありまして、見通す力を持っていたので、自分の過去世について見ていました。
昔、ナンダカ比丘は王様だった時があって、500人の比丘尼を見てみたら、かつて全員自分の妻であったことが分かりました。そんな過去を持っていたわけですけれども、なぜ彼が仏陀の要請を断ったかというと、他の阿羅漢の中には神通力を持っている人がいて、そういう人は他人の過去世もある程度見ることができます。
彼の過去世も見るかもしれません。その時に、王様の妻だった人たちがいることを見て、「なんだ、今も昔の奥さんと一緒にいるのか」とそのように言ったりすると、それをした人が悪いカルマを積むことになるというので、それを恐れて躊躇していました。
それで、仏陀は、侍者をしていたアーナンダ尊者に聞きました。アーナンダ尊者が言うには、他の比丘たちは了承して、比丘尼の所へ教えに言っているけれども、ナンダカ比丘だけがいつも断わり続けている、ということでした。
仏陀が見てみると、比丘尼たちは、ナンダカ比丘以外の比丘が行って教えても、悟ることはできない。ナンダカ比丘だけが、その比丘尼たちに悟らせる力があると、仏陀は見通しました。それで、仏陀はナンダカ比丘を呼んで、500人の比丘尼たちに教えに行くよう要請しました。それで彼も了承したわけです。
○ナンダカ比丘の説法
あるとき500人の比丘尼たちに、今日はナンダカ比丘が説法に来るということが伝わると、比丘尼たちは他の比丘たちが来てもあまり喜ばなかったのですが、その話を聞いてたいそう喜びました。そういう嬉しい気持ちというのは、非常に大事です。
その晩、ナンダカ比丘が500人の比丘尼のいる僧院にやって来ました。比丘は、500人の比丘尼に話したのですが、前の比丘たちがやってきて話を聞いていたときは、ただ義務として聞いていただけで、あまり身に付かなかったのです。今度、ナンダカ比丘が来て話した時は、とても喜んで聴いていたので、非常に集中力良く聴くことができました。
ナンダカ比丘は、法話を集中して聞くように、それでも理解できない時はもう一回聞き直すように、質問するようにとお話ししました。その説法の中で、私たちには眼耳鼻舌身意という六つの門があります、という話をしました。まず眼について、透明な眼の要素があるのを観るように言いました。良い波羅密を持っている人は、それをすぐに観ることができるで、眼の中の微粒子を見るように言いました。
(皆さんも目を閉じてみて、眼球の中の透明な粒子が生じたり滅したりするのが見えますか。イメージしてみてください。波羅密というのはそれぞれみなさん異なっています)
それで、比丘が説明したのは、そんなふうにして眼の中の粒子も生じたり滅したりしている無常のものです。ですから、これは自分の眼であるということはできない、自分のものではないということを話しました。眼というのは、私でもないし、私のものでもありません。
○体は自分のものではない
もし眼が自分のものだったら、自分の自由にすることができるわけだから、無常のままにしておかないで、留めておくことができるでしょうが、実際は生滅を止めることができない。生滅するというのは自然の本性であって、眼というのは自然のものだから、自分のものではないという風に説明をしました。
皆さん分かりますか。ですから、この眼を自分の眼だというふうには思わないようにしてください。なぜならいつもこの眼は自分のものだ、自分に属するものだというふうに思い込んでいて、そこに問題があるわけです。仏陀とか弟子たちがいつも言っていたのは、眼もそうですが、生じて滅していて、無常であって、自分の自由にすることはできない、掴むことはできないものであると言うことです。
エゴ=自我というのが、「自分のもの」というふうに掴んでしまう。そのエゴが「私の目はとても美しく、他人よりも良い」と思ってしまう。皆さんそんなふうに思いますか?そこに問題があります。
耳もそこに集中してみると、透明なものが生じたり滅したりしているというのを観ることができます。それもまた生じたり滅したりしています。そういう風に生じたり滅したりするのを観察した後に、それらが無常であって、苦であって、無我であるということが分かります。
それでそういう風に見た後で、瞑想して見てみると、耳の中の透明な粒子というのは、自分のものではないし、自分には属さないし、自分自身ではないということが分かります。
眼耳鼻舌身意という六つの門について同じように言うことができます。
そんなふうにして体全体が自分のものではない、という風に観て、それは自分だけでなく他人についてもいえるわけで、六つの門についても、やはりその人に属するわけではないわけです。そして自分についての執着があるだけではなくて、他人についての執着もあります。皆さんどうでしょうか。自分の夫とか子供とかボーイフレンドとかガールフレンドについてすべて執着を持ったりするでしょう。そのことで疲れたりしませんか。愛があれば、疲れるということはありません。
皆さんも、執着のためにとても疲れているように見えますが、どうでしょうか(笑)。なぜ執着するかというと、夫がいると、その夫は「自分の夫である」という思いがあります。どうですか、それが真実ではないですか。
「これは私の妻であって、私に属するものである」と、そのように思っています。皆と分け与えることができません。自分だけのものと思います。そうではないですか。
結婚して20年ぐらい経って、夫が他の女性に見とれていた時に、妻の方はどんなふうに思うでしょうか。妻は夫が他の女性に見とれていて、幸せでしょうか。どう感じるでしょうか。「自分の夫であって、自分に属するものであるから、自分に属する夫が、他の女性に目を向けるのは、許せない」とこうなるわけです。
いろいろな国へ行って様々な人に会いますが、こういう問題が非常に多いのです。教えていると、生徒が来て、泣きながらそういう話をします。集中なんかとても出来ません。そういう相談が来た時生徒たちに話すのは、夫はあなた一人のものではないと言うことです。
私たちは非常に多くの過去世を持っています。どれほど多くの過去世を経てきたか数えることができません。それだけの長い過去を経てきたわけですから、数えることができないくらいの夫がいて、また妻がいる、と言うことです。
結婚した時に、相手の女性が過去において一緒だった女性であった、ということもあります。なぜ一緒になったかというと、過去からのカルマがあって、そのカルマを切ることができないため、また今生でも一緒になったということがあります。
ですから、夫というのは自分だけに属しているのではなく、他の人にも属しているということを話しました。どうでしょうか。それが事実ではないでしょうか。そんな風にしてカルマというものを見ていくわけです。
心を探究する 三島ジーン 第二部 光とイメージ〜意識の微細レベル 第一章 光明
一章二節 光の分解
(一) ルーパ・カラーパ
ミャンマーの上座部仏教の代表的指導者であるパオ・サヤドー(注:サヤドーは尊敬 されている教師を意味するビルマ語)の説明によれば、四界分別観において現れていた光を発散する氷の塊のようなニミッタは、やがて「ルーパ・カラーパ」と呼ばれる小さな微粒子の集団へと分解することになる(1)。
止観の行の深いレベルに達した修行者は、 無数の微粒子が非常に早い速度で生起し、消滅する様子に直面することになる。パオ・サヤドーの説明によれば、注意を一点に固定する「止」の行のみを実践する修行者は、ルーパ・カラーパを観ることはできない。ルーパ・カラーパは非常に微細な事象であって、「止」だけを徹底させても、それを経験することは難しい。それを確実に 観ようと思うならば、修行者は「観」の行によって得られる生滅智のレベルにまで達している必要がある(2)。
「止」と「観」の注意の技法(つまり、意図的に注意を一点に固定する技法〈止〉と、自動的に生起する事象に対してまんべんなく気づいていく技法〈観〉) の両者を鍛えぬいて合わせたときに、光として顕現するニミッタはルーパ・カラーパと呼ばれる極微の事象として認知されることになる。止観の行者は自分の内と外の区別無く現れていた光り輝くニミッタを、ルーパ・カラーパの集団として認知するようになり、あらゆる事象を、生滅を繰り返す微粒子の集団、あるいは微細な波動の集まりとして理解するようになる。 止観の行の指導者であるゴエンカ氏の弟子ウィリアム・ハート氏は、このような体性感覚への気づきの瞑想からルーパ・カラーパの認知に至るまでの様子を次のように語っ ている。
まじめに瞑想をつづけてゆくと、やがて感覚の質が変化する段階に入る。全身に均一で微細な感覚があらわれ、それがものすごいスピードで生まれては消えてゆくのである。このとき意識はうわべのかたまりをつらぬいて、それを構成している背後の現象を感じ取っている。万物を構成する微粒子のうごきを感知している。微粒子はひっきりなしに生まれては消え、その無常性をまざまざと体験するのである。からだのどこを観察しても微粒子が振動している。血液、骨、固体の部分、液体の部分、気体の部分、醜いところ、美しい ところ、どこを観察しても波動の集まりだけを感じる。もうからだの各部を区別できない。 識別したり命名したりするプロセスも止まる。このとき、自分自身のなかで、たえず流動し、生まれては消える物質の究極の真理を体験するのである(3)。
(二) 透明な要素(transparent-element)
現代科学が原子や素粒子といった物質の最小単位を探究して、それに質量や電荷、スピンなどといった様々な基本的要素や特性を見出しているように、仏教も非常に微細な認知事象であるルーパ・カラーパを探究して、それに対して様々な要素や属性を見出している。それらの各要素には、「地」「火」「水」「風」「色 いろ 」「匂い」「味」「栄養素」「命」「性」「心」「透明」などといった名前が付けられている(4)。
これら各種の要素群の中でも、「透明な要素」はルーパ・カラーパを大きく二つに分 類する基準となっている(5)。透明な要素がある微粒子は「透明なルーパ・カラーパ (transparent rupa-kalapas)」と呼ばれ、それが無い微粒子は「不透明なルーパ・カラ ーパ(opaque rupa-kalapas」と呼ばれる。現代生物学において、地球上の動物が脊髄の有無によって脊髄動物と無脊髄動物に大きく二分されているように、ルーパ・カラーパは透明な要素の有無によって大きく二分される。 体性感覚を観る四界分別観では、止観の行者は身体を透明な氷の塊(ニミッタ)として認知するようになるが、パオ・サヤドーの説明によれば、この透明な氷の塊として認知されていたものは、実はルーパ・カラーパ群の透明な要素の集団である。心の刹那レベルを分別する生滅智が十分ではなく、ルーパ・カラーパの一つ一つを識別できない修行者は、そのルーパ・カラーパの透明な要素の集団を、透明な氷の塊として認知する。 しかしながら、生滅智が十分に発達した修行者は、それを分解して、ルーパ・カラーパの透明な要素の集まりとして観るようになる(6)。
興味深いことに、このルーパ・カラーパの透明な要素は、五種の感覚器官(眼、耳、 鼻、舌、身)由来の刺激に対して反応すると言う(7)。視覚性の刺激に反応する透明の 要素は、「眼の透明の要素」と呼ばれる。その他に、聴覚性の刺激に反応する「耳の透 明の要素」、嗅覚性の刺激に反応する「鼻の透明の要素」、味覚性の刺激に反応する「舌 の透明の要素」、触覚などの身体性の刺激に反応する「身体の透明の要素」が存在している。 上座部仏教の心理学が説明するところによると、私たちの日常的な意識経験である視 覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などは、このルーパ・カラーパの透明の要素に依存して生じている。ルーパ・カラーパの透明の要素が各感覚刺激群に応答して、視覚や聴覚、体 性感覚といった私たちにとって馴染み深い各種の感覚が生まれている。したがって、止観の行者の心の中の光り輝く澄んだニミッタやルーパ・カラーパは、神仏が発する霊妙な光のようなものではなく、それは日常的な知覚の基盤、基底となるものである。それは様々な感覚刺激群に応答し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚といった粗大な意識現象へと分化発展するものである。多彩で豊潤なクオリア世界は、光の世界から創造されている。
(三) 究極の物質性(ultimate materiality)
仏教の論書の一つであるアビダルマによれば、どのルーパ・カラーパにも必ず八種類の要素が備わっており、それら各要素は共に生起している(8)。
その基本的な八種類の 要素とは、「地」「火」「水」「風」「色 いろ 」「匂い」「味」「栄養素」である。アビダルマの概念に沿った修行を実践するパオ・サヤドーは、これら八つの基本的要素群は修行過程に おいて最終的にはすべてのルーパ・カラーパに見出されるようになると説明する。ルー パ・カラーパは修行者の心で非常に速い速度で生滅を繰り返しているので、そこに各種要素を同定するのはかなり難しい作業である。しかしながら、最終的には熟達した止観の行者は各々のルーパ・カラーパにすべての要素群を一瞥して見分けることが可能にな る。パオ・サヤドーは、このルーパ・カラーパに見出される各要素群こそが、「究極の 物質性」であり、「究極の現実」であると指摘する。 この基本的な八種類の要素のうち、「地」「火」「水」「風」の四元素は、先ほど説明したように各種の体性感覚として見出されるようである。また、「色 いろ 」「匂い」「味」は、それぞれ文字通りの感覚を意味する。つまり、これらの要素群の多くは、非常に微細な 意識レベルでの何らかの感覚情報(クオリア)を意味している。 仏教(特に上座部仏教)は、私たちが認知可能な物質に関する事象の一切すべてを、 ルーパ・カラーパ、もしくはルーパ・カラーパの各要素群によって説明しようと試みる。 現代科学においては自然世界が原子や量子のような物質の最少単位にまで還元されているように、仏教においては、私たちに認知される事象として現れる自然世界や身体は、ルーパ・カラーパもしくは各要素群のレベルにまで還元される。ゴエンカ氏の弟子ウィリアム・ハート氏は、このルーパ・カラーパと物質世界の関係性について、次のように 述べている。
ブッダは物質世界がすべて、パーリ語でカラーパという「分解できない極小単位」から 構成されていることを発見した。この極小単位が果てしなく変化して、物質の基本的な性質である質量、粘着力、熱、運動をあらわす。さらに、それらが組み合わさって「もの」 が構成される。ものは一見ほとんど変化しない。ところが実際、ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、 連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである。わたしたちがそれぞれ「自分」と呼んでいる「からだ」の実体なのである(9)。仏教の心理学は、粗大な意識レベルの事象だけでなく、微細な意識レベルの事象でさえも、ルーパ・カラーパによって説明する。例えば、光を発散しているように見えるニミッタも、実はルーパ・カラーパの「色 いろ 」の要素の集まりが「光」として認知されているにすぎないと説明する。集中する力が高まるにしたがって、ニミッタの色 いろ は、より光 り輝くものへと変化することになるが、熟練した止観の行者は、光として現れていた事象でさえも、ルーパ・カラーパ(の透明な要素)の集まりとして認知するようになる。 現代の仏教者は、しばしばルーパ・カラーパを現代物理学の素粒子や原子に喩える。 しかしながら、科学者の立場からすれば、そのような言説はあくまでも比喩であって、 ルーパ・カラーパを客観的な自然世界を構成する物質の最小単位の一つとみなすことは 到底できないであろう。仏教者は微粒子そのものに「色 いろ 」「匂い」「味」といった感覚的な特質が見出されることを指摘するが、現代科学は「色 いろ 」「匂い」「味」のような感覚的な特質は客観的物質に内在する存在論的なものではなく、私たちの心の中に内在する認識論的なものであると理解している。したがって科学の側から言えば、感覚特性(クオ リア)を内に含むルーパ・カラーパを、科学的な実在物である「素粒子」や「原子」と 同列に扱うことは不可能である。 しかしながらルーパ・カラーパを、物質世界を構成する最小の実在として扱わずに、 深い集中によって認知可能となる微細なレベルの心的事象として扱うのならば、私たち 現代人にも比較的受け入れやすいものになるかと思う。止観の行者らは注意集中の技法を駆使して、非常に微細なレベルの意識場の活動や挙動を捉えて、それを「微粒子(ル ーパ・カラーパ)の生滅」や「波動の流れ」として描写しているのではないだろうか。 卓越した止観の行者は非常に微細な意識場の活動を捉えて、そこに多様なクオリアの萌芽を見出し、その変動する模様や挙動などを直接観察によって見極めようとしているのではないだろうか※ 。
※ここではルーパ・カラーパの各要素群をクオリアの一種として認識論的に解釈している。しかしながら、ルーパ・ カラーパの要素のなかには認識論的には解釈し難い要素も幾つか存在する。たとえば、男性性と女性性の区別に関与する「性(sex)」という要素がある。常識的には「性」は私たちの個人的意識やクオリアとは無関係であり、生物学的な染色体や外見的な容貌によって決定されると理解されている。仏教の古い論書であるアビダルマは「性」 を物質の一つとして列挙しているが、パオ・サヤドーは「性」という要素もルーパ・カラーパに見出すことが可能であると説明する。パオ・サヤドーは微細レベルの心的現象を伝統的なアビダルマの体系に沿って詳しく説明しているが、私たち一般の立場から見れば「認識論」と「存在論」が交錯しており、理解し難いものも少なくない。
(四) 脳卒中時の微細な意識レベル
意識の微細レベルは極度の注意集中という心理学的な要因によって経験可能となるが、特殊な神経生物学的な要因によっても微細レベルの意識を経験できる可能性がある(ただし、神経生物学的要因の場合は、それをコントロールすることができない)。第 一部では神経解剖学者ジル・ボルト・テイラー博士の自身の脳卒中時の神秘的体験について述べたが、彼女が説明する特殊な意識経験は、上座部仏教徒らが語る意識の微細レ ベルの描写に非常によく似ている。脳卒中によって神経細胞の機能が徐々に崩壊するにつれて、彼女の通常の粗大レベルの意識は後退し始め、世界と自己はエネルギー、流れ、粒子として認知されるようになっていく。
「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔へだてる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている!……自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。 しかしわたしの場合、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。あなたとわたしの全ての微塵イオタiを含み、 そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。 わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認知できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)。 わたしの意識は覚醒していました。そして、流れのなかにいるのを感じています。目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、流れています。ものともののあいだの境界線はわかりません。なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。 この精神状態では、三次元を知覚できません。ものが近くにあるのか遠くにあるのかもわからない。もし、誰かが戸口に立っていても、その人が動くまで、その存在を判別できないのです。特定の粒々のかたまりが動くことに特別な注意を向けないとダメだったのです。そのうえ、色は色として脳に伝わりません。色が区別できないのです(10)。
1 The venerable Pa-Auk Tawya Sayadaw「Knowing and Seeing (Revised Edition)」Pa-Auk Forest Monastery (Editors), WAVE Publications (2003) p151 (http://www.paaukforestmonastery.org/books.htm)
2 同上 pp.195-196
3 ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法」日本ヴィパッサナー協会(監 修)、 太田陽太郎(訳)、春秋社 (1999) 一六九〜一七〇頁
4 前掲書1 pp.132-135
5 同上 p.152
6 同上 p.151
7 同上 pp.159-161, p.173 など
8 櫻部建、上山春平「仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉」角川学芸出版 (1996) 一〇三〜一〇四頁、アル ボムッレ・スマナサーラ、藤本晃「ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第一巻 物質の分析」サン ガ (2005) 二九八〜二九九頁、前掲書1pp.132-135
9 ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法」日本ヴィパッサナー協会(監 修)、太田陽太郎(訳)、春秋社 (1999) 三二頁
10 ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」竹内薫(訳)、新潮社 (2009) 七二〜七四頁
マハーシ・サヤドーは、ミャンマーの僧侶で、上座部仏教大長老である。なお、「マハーシ」というのは、下述するように、彼がかつて指導を行っていた「マハーシ僧院」のことであり、「サヤドー、サヤドウ、セヤドー、サヤードー等とも」とは、ミャンマー仏教で一般的に用いられる「長老」を意味する尊称
サティア・ナラヤン・ゴエンカは、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者。レディ・サヤドを祖とする瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、欧米・世界に普及させた。
ARIYA ATTANGIKA MAGGA:八正道 アリヤ・アッタンギカ・マッガ
Ariyaは「聖なる」、atthangikaは「八支の」、maggaは「道」。 八正道<はっしょうどう>とは、涅槃に導く八つの実践徳目からなる聖なる生き方のことで、
1.正見(正しい見解)、2.正思惟(正しい考え方)、3.正語(正しい言葉)、4.正業(正しい行動)、
5.正命(正しい仕事)、6.正精進(正しい努力)、7.正念(正しい気づき)、8.正定(正しい精神統一)
の八つから成ります。
煩悩をなくす方法は、この八つの道しかありません。 これは、やってみると必ず悟りに至る方法であり、仏道のすべてだと言ってもいいのです。 ところがこの八つを聞くと、「なんだ、涅槃に導く道というのはそれくらいのことか」と、つい思ってしまうのです。 何年間も断食行をするとか、千日行とか、荒行など、大胆なことは何もないのです。 すごく素朴な言葉で、誰でも今すぐにできるようなことばかりが並んでいます。 真の悟りを得るほどの修行がこれくらいでいいのだろうかと思ってしまうのです。 人々にはどこかに苦行を賞賛するところがあり、冬に滝に打たれたり厳しい荒行をする修行者こそスゴいと思ってしまいます。 人々は同時に快楽に憧れ、「五欲を満たす楽しみこそが幸福だ」と考えています。 お釈迦さまは、このような苦・楽に執着した生き方は、両極とも正しくないとおっしゃいました。 苦楽には関係なく、自分の一つ一つの行動が人格の完成に導かれる一歩であるような生き方こそ、人間の生きるべき優れた道ですよ、というのが仏教の考え方です。 ですから八正道は、中道(majjhimâ patipadâ)の具体的な実践法でもあるのです。 この八つの道こそが、幸福の道、苦しみをなくす道、やすらぎの道ですよ、とお釈迦さまはおっしゃるのです。
「物事を客観的に見なさい、正しく考え、語り、行動しなさい、役に立つ仕事をし、明るく励んでください」と問題なく明るく生きる道が教えてあって、「それだけでは足らない。 せっかく人間に生まれてきたのだから、大胆なこと、悟りにもチャレンジしなさい。 正しく気づくこと、正しい精神統一もしてください」と解脱への道も教えています。 すごくわかりやすい言葉で、ものすごく鋭い智慧で、あまりにもわかりやすいのだけれども、何かをどこかでもうちょっと自分で捜して確かめていかなければならない謎解きのような部分もある、すごく味のある道なのです。
八正道の一つ一つの項目については、多くの経典でかなり詳しく説明してあります。 たとえば律藏(戒律についての経典)は膨大な数があるのですが、結局まとめて言えば、正語と正業と正命の三つについて書いてあるのです。 そのように、殆どの経典は、八正道の中に入ります。
八正道を歩むことこそ、人間の一生の仕事なのです。 一分ごとに、会社のためなどではなく、自分の心の成長のため、周囲の人々や皆の幸福のため、という大きなスケールで生きるのです。 時間にしても、輪廻という厖大な時間を考えて、そちらの問題を解決しようとする世界なのです。
八正道は八つ揃って完全な形となる道であることが描かれたシンボルが法輪です。 法輪はこの道の円満な形を示すとともに、八正道はワンセットの道で、どれか一つを実行すれば他の七つも自動的についてくることをも表しています。 これはブッダの智慧ですから、「一番目はやっと終了した、次は二番目だ」という、とろい道ではありません。 八つの道のうち、どこから始めても、一歩だけ進んでも、サッと完璧に進むのです。 「初めから完璧な道であり、中程も完璧であり、終わりも完璧な道です」。 これは仏法の特色として、経典に書かれていることです。 当時の人々がすごく驚いたのもそこなのです。 ほんのちょっと聞いただけで、完全な人生学が出てくる。 まだ仏教とは何なのかと全くわかってもいないのに、聞いた通りに実行してみれば、完全な人生学が出てくる。 ですから当時、お釈迦さまの話を聞いて、その場ですぐに出家した人はかなりたくさんいました。
八正道は、お釈迦さまが、最初の弟子となった五人の比丘達に、最初の説法として説かれた教えだそうです。 この教えを聞いてまずコンダンニャ尊者が預流果の悟りを開かれ、順次、五人とも預流果に悟られました。 その後、無我の説法がなされると、五人とも完全たる解脱を得たと、経典に記されています。
では次号では、八正道の項目一つ一つについて見ていきたいと思います。
1. SAMMÂ DITTHI(サンマー・ディッティ):正見 <しょうけん>
八正道は、悪を為さず、善を為し、悟りへと進む八支の道です。
その八正道の第一番目が「正見」です。 Sammâ は「正しい」、ditthi は「見解」―正見とは「智慧によって正しい見解を得ること」です。
仏道は智慧の道なので、智慧(正見)で始まって智慧(正定)で終わるのです。 智慧の目で見るとは、客観的にありのままに事実を見て、因果関係を理解することです。 正しい道徳や修行によって心が清らかになって幸福になる、という因果関係に納得すると、八正道を信頼して進んでいくことができるようになるのです。
正しく見るためには、「これこそだ」と何かの意見にとらわれないことと、固定概念を捨てることが大切です。 その上で、客観的に見てみるのです。 何を見るのかというと、まず自分を観察するのです。 「生きるということはどういうことなのか」「自分とは何なのか」とまず理解する。 そこから始まるのです。 悟りへの道は、「悟るぞ」「煩悩をなくすぞ」と力むのではなく、「自分とは何なのか」と正直に見ることが第一歩なのです。 たとえば怠けていたら、単純に、「あ、私に怠けがある」と見る。 それだけでいいのです。 「ああとんでもない、こんなことではダメだ、ダメだ」などと考えたり、妄想することはいりません。 自分が怠け者であることを認めずに、どこかで「自分の嫌な面を消してやろう、消してやろう」と思ってしまう。 それは逆効果なのです。 怠けが出たら「怠け」、怒りが出たら「怒り」と、感情を置いておいて、ありのままに見るのです。 そして、できるだけ細かいところまで観察するようにしていきます。 それで初めて「なるほど、こんなものか」とわかってくるのです。 「生きることはdukkha(ドゥッカ:苦)だよ」とわかるのです。 よく見ると、「自分」は一瞬たりとも固定していない。 安定していない。 ものすごい速さで変化していく。 「すべてはどんどん変化する、何にしがみついていても虚しい、結局はどうということはない、すべてはdukkha(苦)だ」とわかる。 それが正見です。
自分をさらに観察すると、心の中には常に「まだ満たされていない、生きていきたい」という根深い衝動があるのに気づきます。 それが渇愛です。 怒りも、憎しみも、怠けも、欲も、だらしなさも、いいかげんなところも、すべて渇愛からくるのです。 「生きていきたい」から、どんなだらしないことでもする。 その上に「私はそういう人間ではない」と平気で隠したりもします。 善人ぶるのもすべて、渇愛のせいです。 観察する一個一個の項目は、すべて苦であって虚しいものであるのに、それでも生きていきたいのはなぜか。 それは、わけもわからない衝動である「渇愛」―これのせいなのですね。 世の中のすべての生命は渇愛によって苦しみを味わっているのです。
苦しい時は、そこにある渇愛を理解しようとしてみて下さい。 たとえば、母親が子供の登校拒否で悩んでいても、「あの友達が悪い、学校の先生が悪い」などと泥沼にはまって苦しむのではなく、これも根元的な執着である渇愛による苦しみであることを理解するのです。 世の中の争いはすべて渇愛から生まれます。 夫婦喧嘩にしろ、学校での仲違いにしろ、会社の中でのトラブルにしろ、国同士の戦争にしろ、すべては渇愛から生まれるのです。
渇愛があるのは、自分の心です。 何かを見たり、聞いたり、食べたりして、それで欲や怒りが生まれるのです。 原因は自分の心にある――ということは、自分の心からウイルスを取り除いて治療すれば、問題はなくなるのですね。 渇愛がなくなれば苦しみがなくなる。 それこそが最高に幸福な状態(涅槃)です、とお釈迦さまはおっしゃっています。 では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。 方法がなければ、いくら立派な教えであっても意味がありません。 お釈迦さまは、その方法もちゃんと教えておられます。それが八正道なのです。
そのような四聖諦(苦集滅道)という四つの真理を理解することが正見です(<1>苦(dukkha)を知る、 <2>苦がどのように生まれるか、その原因を知る、 <3>苦が消えた状態を知る、 <4>苦を消滅させる方法を知る)。
正見というのは、頭がすごく整理されていることです。ゴチャゴチャした曖昧な思考で苦しまず、しっかりと真理を納得していることなのです。
2. SAMMÂ SANKAPPA(サンマー・サンカッパ):
正思惟 <しょうしゆい>
Sammâ は「正しい」、sankappa は「思考」。
八正道の二番目は「正思惟」―正しい考え方です。
私たちはずーっと何か考えていますが、ほとんどは主観的な感情で妄想しているだけなのです。だから考えては間違う、考えては間違う。間違いだらけです。「では正しく考えよう」と思っても、そもそも何が正しい思考なのかさえよくわかりません。やはりお釈迦さまの智慧を借りて、何が正しい思考なのか、教えていただくことにしましょう。お釈迦さまは「三つの思考を避けて下さい」とおっしゃっています。
三つとは、(1)欲(kâmasankappa) (2)怒り(vyâpâdasankappa) (3)害意(vihimsâsankappa)です。これらの「思考」は感情的な流れにすぎませんから、「妄想」と言った方がピッタリで、理解しやすいと思います。
(1)欲の妄想。
Kâmaは自然な範囲を越えた欲です。「お腹がすいたから何か買おう」「旅行に行きたいからバイトでもしようかな」などと考えるのは自然なことで、別に問題はありません。「ここまで」という具体性がなく、際限のない欲が危険なのです。現代社会では「いくらあっても、あればあるほどいい」という考え方で、人間が苦しんで苦しんで、たいへんな苦労を味わっています。どんどん自然を破壊して、他の生命にも多大な迷惑をかけています。「どうしてもあれがほしい、これでなければダメだ」等、ものに執着する妄想は不幸のもとなのです。
(2)怒りの妄想。
イヤな気持ちになる暗い妄想が怒りの思考です。たとえば「私なんか何をやってもダメだ」とクヨクヨ考えることも怒りなのです。暗い感情、嫌な気持ちが出てきたら、考えることをストップすることです。怒りで汚れた暗い心であれこれ考えても、良い智恵は浮かびません。ただし「怒り」にも自然な範囲があります。「朝寝坊はやめなさい!」と子供を叱ったりするような、すぐに消える怒りは別に気にしなくてもいいのです。憎しみ、恨み、後悔、落ち込み、嫉妬、憂鬱等々、簡単に消えない感情で妄想することが危険なのです。それらは頭を狂わせ、時には「自分が正しい」と人殺しまでしてしまうような恐ろしい妄想思考です。
(3)害意の妄想。
これも怒りですが、特に自分にとって邪魔な相手に向けられる攻撃的な怒りです。自分の好ましくない対象を、倒そう、潰そう、消してしまおうとする思考のことです。これも結構よくあります。誰でも自分が邪魔されると暴力主義になるのです。虫など弱い相手であれば「害虫だ」と簡単に殺します。邪魔な人には攻撃したくなります。そういう思考はエスカレートして、とても生きづらい世の中をつくり出します。
仏教で奨めている思考も三つあります。
(1) 離欲(nekkhammasankappa) (2)無瞋恚 (avyâpâdasankappa) (3)無害(avihimsâsankappa)です。
(1)離欲の思考。
ものへの依存をやめるような思考です。「やはり欲から離れた方が楽だな」という方向に考えます。「ものがありすぎると苦しいし、欲から離れた方が心がやすまる。離れる方法はあるかな」などと考えていると心が穏やかになってきます。
(2)無瞋恚の思考。
怒りのない、明るい慈しみの思考です。「皆が幸せになってほしいな、どうすれば皆が仲良く平和になるだろうか」などと考えます。自分が何かうまくいかない時でも、クヨクヨと落ち込まず、明るくがんばる方法を考えます。慈しみを育てると、とても幸せに生きられます。
(3)無害の思考。
仏教では、自分を害する相手を許すこと、できれば逆に助けてあげることを教えています。私たちはすぐ「相手が悪い」と問題の原因を外に見ようとしますが、嫌なことをする相手に怒らないで対応できるかどうかは自分自身の問題なのです。「敵だ」と相手を攻撃するのは無知なやり方です。無害の思考で上手く問題を解決することはすばらしい修行になります。
思考(妄想)を管理せず好き勝手に流しているとたいへん危険です。心は全く成長しなくなります。それなのに誰一人、思考を管理しようとしていません。身体の管理より思考の管理の方がずっと大切なのです。常に客観的に「ああ、自分はこんなことも考えている、あんなことも考えている」と明確に観察するのです。そうすると自分は何者かが見えてきます。自分の思考は、自分の個性であり、人格です。ですから正直に見て下さい。そして「悪いこと、無意味なこと、ろくでもないことを考えるのはやめる」と決めて実行します。離欲と慈しみの思考を努力して育てるのです。それが正思惟の修行です。
3. SAMMÂ VÂCÂ(サンマー・ワーチャー):正語 <しょうご>
Sammâ は「正しい」、vâcâ は「言葉」。
八正道の三番目は「正語」―正しくしゃべることです。
ではどういうことをしゃべればいいのか。これも難しい問題です。やはりお釈迦さまの智慧を借りましょう。
お釈迦さまは、(1)嘘(musâvâdâ) (2) 誹謗中傷(pisunâvâcâ) (3) 陰口(pharusâvâcâ)(4) 無駄話(samphappalâpa)の四種の言葉をやめなさい、と教えてくださっています。
(1)「嘘」。
正直は仏教の道徳の柱です。嘘は心の成長を止めるのです。嘘をつく人の心を育てることは、お釈迦さまにさえできません。嘘とは、事実を意図的に変えてしゃべり、他人に精神的・経済的なダメージを与えようとすることです。たとえば子供に「嘘を言うと閻魔さまに舌を抜かれるよ」などと言うことは嘘ではありません。嘘は、何かの悪だくみのために言うのです。嘘をつく人は、生きる上で何よりも大事な「信頼」をなくします。
では、事実であれば何でもしゃべっていいのかというと、それは違います。世の中には知らなくてもいいことも多いのです。嘘でないからといって、何でもかんでもしゃべる人も迷惑な存在です。言う必要がないことは、黙っています。話さなくてはならないことだけを、時と場合を見て、慈しみで話すようにすればいいのです。
(2)「誹謗中傷」。
人の心を傷つけるような粗暴な言葉です。どんな生命にも、いい意味でのプライドが必要です。そのプライドを傷つけてはいけないのです。言葉によって人を傷つけ、生きる気力を失わせたりするならば、たいへんな迷惑になります。きつい言葉には気をつけるようにします。誹謗中傷の反対は、優しい言葉、親切な言葉、励ましの言葉です。相手が元気になる言葉、相手が良い人間になる言葉をしゃべることをこころがけるのです。
(3)「陰口」。
これは「噂話」とも言います。本人がいないところで悪口を言うことです。陰口は「仲が良い」という優しい気持ちを壊すのです。仲が良いことは、とても美しい慈しみの生き方です。いくら事実であっても、陰口を言ってはいけません。陰口を言う人は、世の中に汚水をまき散らしているようなものです。結局は皆から嫌われて、寂しく生きることになるのです。陰口の反対は、人と人とを仲良くさせる話です。そういう能力がある人は、世の中ですごく認められるのです。たとえば国際紛争中に第三国の誰かが来て紛争を仲裁することができたならば、その人はどれほど立派だと誉められることでしょうか。誉められるだけでなく、多くの人々を幸福にするのです。仲裁話は生命の幸せを応援する、すばらしい行為なのです。
(4)「無駄話」。
何の意味もない、役に立たない、有意義な情報など全くない話です。無駄話は、精神的に混乱した人が、自分の不安を発散しようとしてしゃべるのです。しかし結局、しゃべればしゃべるほど不安になって、ますますしゃべるという悪循環になります。無駄話の最も悪いところは、「無知」という最低の煩悩をどんどん増やすことです。時間を無駄にするだけでなく、無知の混乱状態を生じさせ、聞く相手に並々ならぬ大損を与えるのです。無駄話はやめて、有意義なこと、人の役に立つことをしゃべるように心がけます。しゃべることがなければ黙っていればいいのです。本当に仲の良い間柄は、意外と静かなものです。静かさ(落ち着いて黙っていること)は、善行為です。
お釈迦さまは、八正道を語る場合も、何が正しくて何が正しくないか、ちゃんと定義して教えて下さっています。「正語」の定義は「嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話、その四つをやめること」です。言葉に気をつけることは、心の成長には欠かせません。人間は、内容に注意せずにしゃべる時には、かなり頭が悪くなるのです。言葉の管理を怠ると、自分で気づかないうちに、脳がかなりのダメージを受けます。感情がたかまってきて、それを発散するだけの言葉は、ただのわめき声です。自分がちゃんとしゃべっているのか、ただわめいているだけなのか、気をつけて観察してみましょう。
「正語」をまとめて言うと、皆のためになる言葉、平和に導く言葉をしゃべることです。しゃべるときにはいつでも、「この言葉は人のためになるだろうか、皆の幸福のために役立つだろうか」と気をつけて、良い言葉をしゃべる習慣をつけることです。
4. SAMMÂ KAMMANTA(サンマー・カンマンタ):正業 <しょうごう>
Sammâ は「正しい」、kammanta は「行動」。
八正道の四番目は「正業」―身体による正しい行動です。
では何が「正しい行動」なのか。これも私たちにはなかなかわからないのです。「正しい行動って何だろう、ボランティアでもしないといけないのかな」などと考えてしまうのですね。お釈迦さまは、正業についても、「次の三つのことをやめて下さい」と明確に教えて下さっています。
三つとは、(1)殺生、(2)盗み、(3)邪な行為です。その三つだけはしないで下さい、と。それが「正業」―正しい行為なのです。すごく簡単でしょう? 他の生命を殺すことはやめましょう、人のものを盗んだりすることはやめましょう、不倫など邪な行為をすることはやめましょうと、その三つを守ればいいのです。
(1)殺生しない(不殺生)。
世の中に「殺されたい」と思っている生命はいません。生命はみんな生きていきたい ― 昔も今もこれからも、それだけは変わりません。生命は皆平等です。「生命の王様」はいません。誰にも他の生命が生きる権利を奪う権利はないのです。仏教の道徳は、「すべての生命は平等であり、すべての生命は幸福に生きていきたい」という基本に基づいています。それによって「殺生をしないこと」という徳目が説かれているのです。「殺すなかれ」というよりも、「殺すことは罪ですよ」と。「相手が死んでもいい」という、とても恐ろしい心にならなければ殺すことはできません。心がとても汚れるのです。他の生命を殺すことは不幸になる道です、というのが法則です。他の生命を奪う人は、自分が幸福になる権利を失うのです。
人は、一人一人、自分のライフスタイルとして、生きるポリシーとして、すべての生命の幸福を願う温かい慈しみの心で生きるべきなのです。特別に何か行動しなくても、皆の幸福を願うだけで十分です。それだけで、自分もとても幸福に生きることができます。
(2)盗まない(不偸盗)。
与えられていないものを取らないことです。盗みは自分勝手な欲によって、他人に多大な迷惑をかける行為です。人の物を盗んではいけないことは誰でも知っていますが、いわゆる窃盗行為だけが盗みではありません。私は社会では盗む人がほとんどで、盗まない人があまりにも少ないと思っています。不正にものを取得する行為 ― 賄賂、汚職、税金のごまかし、騙しなどはいくらでもあります。強引に不必要な商品を売りつける、働くべき時間に仕事をサボる。それらはすべて「盗み」であって、社会の不幸の原因になるのです。盗みを行う人は、どこかコソコソと隠れるように日陰者として生きることになります。堂々と明るくのんびりと幸せに生きることはできないのです。
(3)邪な行為をしない(不邪淫)。
邪な行為とは、不倫など、他人に迷惑をかけるような反社会的な性的行為のことです。これも欲の問題ですね。楽しく生きるのはいいのですが、だからといって悪いことまでして楽しもうとすると、逆に楽しく生きることはできなくなってしまうのです。不幸になるのです。特に邪な行為の場合は、他人が自由に幸福に生きる権利をかなり奪います。邪な行為は、心の成長をストップさせる落とし穴です。邪な行為の反対は少欲知足の生き方です。
邪な行為をしないだけでも、それによって人間がどれほど安全で幸福に生きられるかというと、たいへんなものなのです。ですから不邪淫も、三つの禁止項目のうちの一つとして挙げられているのです。
「正業」をまとめて言えば、「他人に迷惑をかけない生き方をする」ということなのですね。だいたい人間というのは悪いことが好きなのです。悪いことをしたいのです。他の生命を殺したい、人のものを盗みたい、邪な行為で楽しみたいなど、すごく恐ろしい欲を持っているのです。そういう悪行為から離れることも大切な修行です。
5. SAMMÂ ÂJÎVA(サンマー・アージーヴァ):正命 <しょうみょう>
Sammâ は「正しい」。âjîva は「生きるための手段」―
いわゆる「仕事」です。私達が生きていくためには何か仕事をする必要があります。「正命」とは、人の迷惑になる仕事をせず、皆の役に立つ仕事をすることです。具体的には、毒の製造と売買、武器の製造と売買、麻薬の製造と売買、動物の売買などをしてはならないとされています。また、仕事のために、殺生、盗み、邪淫、嘘、噂話、誹謗中傷、無駄話、という七つの悪業をおかしてはなりません。人の役に立つ仕事をする人は、社会にとって必要な存在です。そういう人は、いくら世の中が不況になっても生き残れるのです。現代社会では、どうでもいい、役に立たない、見栄ばかりの高価なものが世の中に溢れています。必要のないものが溢れた実質的でない経済世界は脆弱で不健康です。ですから今の経済は、いつ崩れても何の不思議もない状態です。人の役に立つことをして正当な報酬を得ることこそしっかりした商売です。
Âjîva は「仕事」ですが、それは「職業」というよりも、「どのように生きているか」という意味です。ですから、いわゆる狭い意味の「仕事」というよりは、かなり広い意味の「仕事」です。生命はどこでどのように生きていても、それぞれ生きるために何かをしているのです。âjîva とは、そういう、生きる務めを果たすことです。ですから我々に一生ついてくることだといえます。ちゃんと自分の務めを果たしていない人は、確実に不幸になるのです。
たとえば赤ちゃんにも仕事があるのです。オッパイを飲んで寝て、起きて遊んで、またちょっと寝てなどと、15分間隔でやっているでしょう? あれは自分の仕事をしているのです。夜中に何度も起きて、泣いたり、オッパイを飲んだり、お母さんにとっては大変なのだけれども、赤ちゃんは自分の仕事をしているのです。ちゃんと仕事をすると、みるみるうちに成長するのです。もしも赤ちゃんが自分の仕事をしなければ、とても心配なのです。産まれた赤ちゃんが全く泣かないとすごく心配です。夜中に起きてオッパイを飲まないと、またとても心配なのです。
大人になると、働いて収入を得ることになります。世間ではそれだけを「仕事」だと言っていますが、それは人の生き方の一部分にすぎません。「収入を得る」とは結局「食べ物を獲得する」ということです。食べ物を得ることを大きく考えすぎて、それに自分の生涯をかけてしまうと、「生きる」ということを忘れてしまいます。「生きる」ことは、もっとスケールの大きなことでしょう? 金儲けにまつわることだけが人生のすべてだと思ってしまうと不幸です。そういう人は、何のために生きているのかわからなくなってしまいます。本当の仕事というのは、いつでも、どんな一秒にもあるのです。どの一秒も、自分がその一秒にやらなければいけないことをちゃんとすることです。そうすれば、正しく生きていくことができるのです。
俗世間では、職業に人生をかけて、休む暇もなく働いているような生き方を誉めています。世間の見方というのはほとんどが「間違っているものは正しい、正しいものは間違っている」という顛倒(逆さま)思考なのです。本当は、生活を維持するための仕事については必要最低限に小さくしておいた方がいいのです。何か必要なことをしてあげて、自分に必要なものをもらう。それぐらいの小さなことにしておくと、ストレスはたまりません。
その瞬間、その瞬間、自分にとって、皆にとって、大事なこと、役に立つこと、ためになることをする。それが本当の仕事です。本当の仕事は一生ついてきます。仕事がない瞬間はないのです。その仕事こそ、きっちりとするべきなのです。それが苦しみをなくす道です。いつ何をしていても、その時に何をするべきか、感情を抜きにしてしっかりと見ることです。「今やるべき仕事」をちゃんとやる生き方。そういうライフスタイルが、八正道の五番目の「正命」―「正しい生き方」なのです。
6. SAMMÂ VÂYÂMA(サンマー・ワーヤーマ):正精進 <しょうしょうじん>
Sammâ は「正しい」、vâyâma は「精進」。八正道の六番目は「正精進」―正しい努力です。
「努力」という言葉は人気があって、時々色紙などに書いて張ってあったりしますね。でもほとんどがただの「浮いた言葉」になっています。いくら美しい言葉でも、実行できない言葉は無駄話です。
お釈迦さまは「千の偈(詩句)を唱えていても、実践せず心が清らかにならなければ意味がない」とおっしゃるのです。
「一行の偈でも、それを実践するのであれば、それこそ真の言葉だといえます」と。しかも世間では「精進、努力」と聞いたとたんに、皆、自分の欲や怒りで解釈するでしょう?
ですからたとえ実践しても間違ってしまうのです。「努力しましょう」というと、「競争に勝ちましょう、もっと儲かるようにがんばりましょう」という意味になってしまっています。世間の「努力」とは、ほとんどそれだけで終わってしまうのです。
では正しい努力、「正精進」とは、いったいどのような意味なのでしょうか。
お釈迦さまは、
という四つを努力することが正精進だとおっしゃっています。なんでもかんでもがんばればいいのではなく、道徳的に立派な人間になるために努力することが正精進なのです。
では、「悟りという目標に向かってがんばろう」と努力することはどうでしょうか。実はそれも、たいがいは間違ってしまうのです。そもそも私たちに「悟りという目標」など持てるはずがないのです。経験したことがないのに「悟り」などわかるはずがないからです。「悟り」というものを勝手に想像して「こういうふうになりたい」と考えても、あまり意味のないことで、かえって自分の悩みが出てきてしまうのです。たとえば自分の身体が汚れているのを見て、「新しい部屋のようにきれいになりたい」と思っても、バカらしいでしょう?
こちらは人間なのですから。「私は金のようにきれいになるぞ、ダイヤモンドのようにきれいになるぞ」と思ってもなれないのです。
そのように、外に目標を設定して「ああなりたい、こうなりたい」というのは正しい道ではありません。それよりも、自分のダメなところを見つけて、それをなくすようにしていけばいいのです。自分のダメなところなら、具体的につかめるのです。自分を見て「ここがこういうふうに汚れている」とわかった時点で、そこをきれいにしていく。そうしていくと、自分なりの完全な美しさが生まれてくるのです。外に目標を置いても意味がありません。
ですからはっきりとコンパクトに、前述の四つのことを努力します。四つのことをがんばる人が不幸になると思いますか?
それはあり得ません。それどころか、その方向に努力していけば、完璧な人間になれるのです。
最初は一番目立つ悪いところに気づいて、そこをなくすようにがんばります。それからだんだんと、小さな悪いクセなどもなくすようにがんばってみます。やはりそれには努力が必要なのですね。善いことの場合も同じこと。たとえ小さな善いことでも、少々がんばらないと実行できないものです。小さな善行為からはじめていけばいいのです。そうやって、少しずつ、自分ができる善行為を増やしていけばいいのです。
悪いことをやめて善いことをすることこそ、幸福への道です。人格をドンドン磨いて誰からも信頼されるすばらしい人間になる道。何かを信仰する暗い道ではありません。日々、人格を完成の方へ進む道です。ですから、仏教徒であることをとても誇りに思ったほうがいいと思います。
7. SAMMÂ SATI(サンマー・サティ):正念 <しょうねん>
八正道の七番目は「sammâ sati :正念」です。
Sati(サティ)は「念、憶念、記憶」と訳されていますが、普通日本語の意味は「気づくこと」です(英訳はawareness、mindfulness)。
「正念」とは「正しい気づき」のことです。こころの汚れが無くすような方向へ客観的に気づいていくことです。
正念と正定は、解脱のための修行方法です。「今の瞬間の自分に気づくこと」…これが sati の修行法(ヴィパッサナー冥想)です。「自分に気づくだけで悟りまで至れるものだろうか」と思われるかもしれませんが、「気づき」というはたらきは実にすごい力をもっているのです。お釈迦さまの遺言に『appamâda:不放逸』という言葉が出てきますが、これは「今の瞬間に気づいている状態(覚醒している状態)を維持する」という意味です。お釈迦さまは最後の最後まで sati の実践に励むことを説いて、亡くなられたのです。
『四念処経<しねんじょきょう>:Satipatthâna sutta』(長部経典 22、中部経典 10)という、sati の修行方法について詳しく説かれた経典があります。
そこには「人間のすべての憂い、悲しみ、悩みを全部なくすため、清らかな心を作るため、解脱するためには sati (気づき)を実践して下さい。涅槃を経験するためには、この道しかありません」と説かれています。
「四念処」の「四」は「身体・感受作用・心・法」の四つで、「念処」とは「気づいて止まる(気づいたことについて考えたり妄想をはたらかせたりしない)」ということです。普通、だれでもそれなりにものごとに気づいていると思いますが、感覚器官に入る情報を主観的に見て妄想したり、推測したりするので煩悩が限りなく生まれてくるのです。
お釈迦さまが「Sati の実践によってのみ解脱に至れます」と説かれているのです。
それほど大きな力を持っているはたらきなのですから、sati を理論的に説明することは容易ではありません。理屈で理解するためには厖大な学問が必要です。Sati については理屈で理解しようとするよりも、自分で実際に修行をして体験してみるのが一番てっとり早くわかり、しかも自分の人生にもたいへん役に立ちます。
少しだけ理論的に説明します。
「気づき」のない状態を「聞くこと」を例に考えてみましょう。私たちは普通、自分の感情や固定概念で、聞いたこと(音)を瞬時に判断して解釈しています。耳に音が入った瞬間に「気持ちのいい音楽だ」「上司がまた怒っている」などと解釈し、サッと気持ちがよくなったり、イヤになったりします。そのように、「聞くこと」によって煩悩(欲・怒り・無知)が有無を言わさず生じてしまうのです。感覚の対象(この場合は音)によって、心がいいように操られているのです。音に「怒りなさい」と命令されると怒る。「執着しなさい」と命令されると執着する。音の奴隷状態です。音だけではありません。「見るもの・音・匂い・味・皮膚感覚・妄想や思考」という六つの感覚器官から入る情報に、私たちは命令され、支配されています。そしてそれによって自分の心を煩悩で汚すという不善をなし、知らないうちに悪業をつくりつづける羽目に陥っています。その不善の道を善の道に変えるのが、sati (気づき)なのです。正しく気づくことによって、欲や怒りを止め、最終的には煩悩が生じない状態にまでもっていくのです。
といっても、好きな音楽が聞こえた時、「音、音、音だ」と正しく気づこうとがんばったとしても、直ちに智慧が生じて音楽に惹かれる気持ち(欲)がなくなるわけではありません。それ程単純ではないのです。Sati を長年、毎日毎日正しく積み重ねていくと、だんだん対象への執着が薄れてくるのです。少しずつ色んな対象から束縛されないようになっていって、特別な智慧が生まれてきます。
Sati にはもう一つ、すばらしいはたらきがあります。
悟るためにはたくさんの善因が必要ですが、そのすべての善因を sati が引き寄せるのです。 Sati をちゃんと実行していれば、集中力や、智慧や、精進や、そういう悟るために必要な善い因がすべてついてくるのです。ですからお釈迦さまは、「精進しなさい、智慧を育てなさい」ということよりも「sati を絶えずがんばりなさい」ということをずっとおっしゃっています。
Sati の実践は「その時、その時、今の瞬間の自分に気づいていく」というとても簡単なやり方なので、年齢を問わず、修行を始めてすぐの初心者から実践できます。そして sati を正しくつづけると、究極の悟りまで運んでくれるのです。 Sati の道は、涅槃まで一方通行で進ませる不思議な道です。これは、何か神秘的な体験を得る道ではありません。その人の人間そのものを完全な人格者に育て上げ、解脱するところまで成長させる道なのです。
8-1. SAMMÂ SAMÂDHI(サンマー・サマーディ):正定 <しょうじょう>
八正道の最後は「sammâ samâdhi :正定」−−−「正しい精神統一」です。
「正念」と「正定」は、ほとんど修行の世界と言えるものでしょう。修行(正念、正定)に関心を持たなくても、正思惟、正語、正業、などをまじめに頑張ると、人生の苦しみはほとんどなくなって人間として成功することは確実です。しかし仏道は、この世の成功ばかりを目指すのではなく、涅槃、いわゆる究極の幸福を目指しています。そのために、正念と正定が必要なのです。
サマーディは、普通の五官の認識レベルを超えた認識体験です。サマーディを経験するためには、五官(眼耳鼻舌身)から入る情報(色声香味触)への欲から離れなければなりません。しかし私達にとって、目や耳から得る情報は命そのもののようになっています。「心を回転させるためには五官からの刺激が必要だ、その刺激がなくなると命を脅かされる」と感じているのです。五官から得られる刺激に強く執着していて、どうしても離れられません。だから、いくら冥想しても、なかなか正定(禅定)が得られないのです。正定(禅定)を早く築くためには、サマーディ冥想という方法があります。サマーディ冥想は、何か一つの対象に徹底的に集中して、心に入る他の情報を遮断する訓練です。集中力の訓練だと理解してもいいのです。うまくいけば、精神統一することもできるのです。集中力は心に強烈な喜び、喜悦感を与えてくれるので、俗世間のことに対して興味が消えていくのです。俗世間のことに未練がある限り心は統一しません。欲から得られる喜びは、心の統一性(サマーディ)から得られる喜悦感とは、正反対のものです。ですから、サマーディをつくるためには、欲から離れることが、不可欠の条件です(vivicceva kâmehi)。
集中力は、日常生活においても、必ず役に立つものです。集中力がない人は、この世で何一つ、成し遂げることができません。集中力自体が喜びを与えるのです。ですから、世の中では、音楽、踊り、ゲーム、競輪・競馬などの遊びに、誰もが簡単に惹かれてしまうのです。人はこのようなものには、簡単に夢中になることができます。だから楽しいのです。
集中力(精神統一)はとてもすばらしい能力です。これさえあれば、なんでも成功することができるのです。だからといって、何でもいいからとにかく集中しましょうということではありません。俗世間の遊びなどに集中すると、依存症に陥ってしまうのです。心の自由がなくなって、強烈な束縛が生まれてきます。自分の人生がいくら不幸になっても、かまわないことになるのです。さらに、欲・怒りなどが制御不可能なところまで暴走して、人を破滅させるのです。
集中するための対象は、真剣に考えて選ばなければなりません。現代社会では、音楽、踊り、性行為、薬物なども取り入れて冥想するやり方も見られますが、それが本当に冥想になるとは思われません。正しいサマーディの場合は、依存症が起こらないこと、欲・怒りなどの感情が消えること、束縛がなくなること、心が自由になることが必要条件です。そうでないと『正定』ではないのです。善になるのは、正定のみです。悪と見なすべき『邪定』もあります。
サマーディをつくるためには無数に対象があるかもしれませんが、仏教では、正定になる条件を充たしているサマーディ冥想の方法を40種類教えています。これらは、ただ単に、サマーディ(禅定・三昧)をつくって神秘世界で戯れるためのものではなく、智慧を開発して悟りを目指すためのものです。八正道の場合は、正定をつくった人は、次に正見を実践します。つまり、八正道の一番目にまた戻るのです。完全なる悟りを開くために、このサイクルを繰り返すのです。
40種のサマーディ冥想法の中で、呼吸冥想(ânâpâna sati)がたいへんよく知られています。これは釈尊さえも実践された冥想方法です。比較的簡単な冥想ですが、サマーディまで進むためには指導を受けないと難しいかもしれません。健康、武道などの目的を達するために呼吸訓練をしても、サマーディ状態にまでは達しない可能性もあります。しかしÂnâpâna satiはどんな目的で実践しても、悪い結果にはならない安全な冥想です。それから仏随念、法随念、僧随念、戒随念、神随念などもあります。戒随念は自分が守っている戒律道徳について観察することです。仏教の神随念は、神を念じることではありません。いたるところに神々が住んでいる、彼らには人間の心がいとも簡単に読み取れる、世間では立派な修行者だと誉められていても、心に汚れが生じたら、自分が偽善者であることは神々にばれているのです。ですから、たとえ夢の中でも汚れた概念が心に生まれないように、厳密に注意して生活するのが神随念です。これも立派な冥想ですが、神々の存在などを真剣に信じない人には、何の効き目もないのです。死随念、不浄随念などは、指導者に教えてもらって実践した方が効果があります。万人にでき、また、指導もそれほどいらない最高なサマーディ冥想は、慈・悲・喜・捨という四つの慈悲の冥想です。この場合も、慈悲の意義をよく理解して指導を受けながら実践すると、サマーディに達し易いのです。サマーディに達しなくても、慈・悲・喜・捨の冥想は、自我意識を薄くして心を清らかにしてくれます。慈悲が心についた人は、いかなる場合でも落ち着いていられるので、とても機能的な集中力が常にあることになるのです。(次号につづく)
8-2. SAMMÂ SAMÂDHI(サンマー・サマーディ):正定 <しょうじょう>
前回も述べましたが、「正定」とは「正しい精神統一」です。サマーディ冥想(サマタ冥想)は、何か一つの対象に心を集中し、精神を統一することに励む修行です。一生懸命に一つのことに集中していると、それがおもしろくなってきて欲の世界に対する未練が薄れ、一時的に欲の世界から離れられるようになるのです。「慈悲の冥想」も、サマーディ冥想の一つです。ずーっと真剣に「慈悲の冥想」に集中していると、ドンドン心が集中して気持ちが良くなってきます。そうすると、個々の生命に対して差別意識をもつようになって執着したり、それによって悩んだりすることはなくなります。サマーディを妨げている煩悩「欲・怒り・眠気・混乱状態と後悔・疑い」(五蓋)が抑えられます。すると、慈悲の冥想と自分が一つになった状態が流れていくような経験が生まれるのです。その心の状態を禅定といいます。
仏教では、存在の次元を「欲界・色界・無色界」の三界に分けています。欲界は五官(眼耳鼻舌身)の刺激によって生きている世界で、いわゆる私たちが生きているふつうの世界のことです。禅定をつくると、心は欲界を超えて、色界に入ることになります。色界は五官の刺激に頼らない世界です。身体はあるのだけれども、見たり聞いたりして心が外のエネルギーから刺激を得る必要はありません。無色界は身体さえもいらない次元で、ただ心のエネルギーのみで生きている世界です。
禅定には段階があります。経典では、色界の禅定を四段階(第一禅定〜第四禅定)に分けています。第一禅定では思考も喜悦感もありますが、レベルが進むに従って徐々に思考が消え、喜悦感もなくなって、ただ落ち着いているだけの状態になります。しかし、ヴィパッサナー冥想で自分を観察するためには、思考(ヴィタッカ、ヴィチャーラ)がないと難しいのです。ですから高いレベルの禅定状態に入ると、却って修行がやりにくくなります。ヴィパッサナー冥想には、第一禅定をつくればそれで十分です。修行のためには、神秘体験がないといって困る必要は全くありません。ただ、禅定をつくると、心が清らかになって落ち着きができるのです。禅定状態から出ても、その徳は残っています。その落ち着いた集中力のある状態でヴィパッサナーの修行をすると、楽に修行ができるのです。
「禅定」を目指して頑張ろうとする人は、たくさんいます。しかし仏教では、禅定を得ることは目的とはしません。もちろん禅定を体験することは良いことには違いないのですが、ちょっとした危険もあるのです。危険といっても危ない目に遭うのではなく、禅定を得て満足してしまうと、そこで心の成長が止まってしまうのです。禅定は強い喜悦感を伴うので、それで満足してしまうのですね。そうならないように気をつけなければなりません。禅定を得た上で、さらに修行をすることこそ大切なのです。ですから仏教では、禅定をつくっただけではそれほど高く評価しないのです。あくまでも目的は、すべての煩悩をなくすこと、解脱を得ることなのです。
心が落ち着いて集中力のある人が自分の心身を観察していくと、「一切は苦であること、すべては無常であって実体はないこと」が発見できます。桜が散るのを見て「無常だ」と思っても、真理の世界からは遠いのです。悟るためには素粒子レベルで観察して、すべてがあまりにも早く変化していくということを、強烈に、インパクト強く、観なければなりません。そのためにはやはり、かなりの集中力が必要です。
解脱を得る時には、自ずと八正道がそろっています。正しい見解を持つこと、悪い思考・悪い言葉・悪行為という三悪業からの遠離、役に立つ仕事をすること、不放逸な切れ目のない気づきの実践をしようという精進、それらがすべて必要です。それによって正しい正念の実践ができ、正念と同時に正しい心の統一(正定)も現れるのです。このように八正道が力強くバランスを整えてはたらくその時、智慧によって解脱が起こるのです。
そう聞くと、なんだか難しくて遠い道のように感じられるかもしれません。しかしこれは、私たちが、今すぐに始められる道です。静かなところに姿勢を正して坐り、サティ(気づき)をもってヴィパッサナー冥想をはじめると、私たちはすでに八正道に一歩を踏み出しているのです。
(スマナサーラ師の講義より編集/文責;早川瑞生)
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アーナパーナサティ ディーパンカーラ・サヤレー
瞑想の目的
私たちが、瞑想をする目的は苦から自由になることです。私たちは何度も何度も再生してきました。この再生は苦です。ですから、瞑想の目的は、苦からの脱出解放にあるということを基本的に理解することが必要です。そして、四聖諦について理解する必要があります。第一は苦についての真理です。苦についての真理を理解するためには五つの集合体(五蘊)について理解する必要があります。心と体(名色)における、生滅、無常、生、無我について理解する必要があります。
肉体における生滅そして眼耳鼻舌身という肉体(ルーパ)と意(心の過程)において生滅および苦の真理を見ていきます。ゆっくりゆっくり実践して、何が肉体(ルーパ)であり何が心(ナーマ)の現象であるかを見ていきます。
第二の真理は苦の原因についての真理です。私たちの身体と心における生滅、無常、苦、無我を見ていきますと、過去における行いがカルマ(業)を作っているわけですが、その過去の行いが結果をもたらしている。原因があって結果があるわけです。
過去世を見てみますと、そこに執着があり、―それは、人間の存在、デーヴァ、見解(ディッティ)に対してですが―この執着が原因となって、その結果現在に人間として生まれています。
ヴィパッサナー瞑想はこの二つの対象について瞑想します。すなわち過去における身体と心の生滅、無常、苦、無我が現在に結果し、現在の執着が未来に結果をもたらすのを見ていきます。ゆっくりゆっくり実践し、洞察の智慧をつけると、第三の真理、苦の消滅の真理を理解し、第四の真理、八正道を実践すれば悟りに至ります。
ですから私たちは今悟りを求めて瞑想しているわけです。第四の真理に至る道は八つに分かれていてこれを実践して行きます。四聖諦はただこの八正道を実践することによって達成されます。
この八正道は三つのグループに分けることができます。まず戒です。戒においては五戒あるいは八戒を守ります。(戒)
第二は定のグループです。(定)
第三は智慧のグループです(慧)
ですから瞑想を始める前の段階で五戒、八戒を守ることから始めます。
次に定について。集中力を育てるため40の瞑想法があります。人によりその過去世において求めるものや趣味などに違いがあります。ある人々にはアーナパーナサティ(呼吸の気づき)による瞑想法で容易に実践できますが、他の人々にはそれは難しいものです。それで慈悲の瞑想、四界分別観の瞑想など他の瞑想法があり、まず一つを選びます。40の瞑想法を皆やるのは大変なので、ここではアーナパーナ・サティを選んでやります。アーナパーナ・サティが苦手な人には四界分別観という瞑想法もあります。
アーナパーナ・サティの方法
アーナパーナ・サティにおいては、意識を鼻先に集中します。そこにおいて息が入ってきて出て行くのを観察します。そして呼吸が身体の中に入ったり出たりするのを追いません。ただ、鼻孔周辺の接触、に集中します。その場合皮膚感覚を見るのではありません。皮膚に焦点を当てると振動だとか感覚が生じます。そうではなく接触、に焦点を当てるのです。振動や感覚、温かい、冷たいという呼吸とは別のところへ行かないようにします。ゆっくりゆっくりと集中していきます。
ここではあくまでも呼吸に集中するのです。入ったり出たりする勢いを見ます。初めは5分くらい集中できるかもしれません。そして心はどこかへさまよい出すかもしれません。それに気づいたらまた呼吸に引きもどします。いつでも呼吸に気づいているようにします。
初めのうち心は、必ず外へ飛んでいってしまうものです。ですから、心を制御しなくてはなりません。眠くなったり、痛みが出てきたりして気になったりします。しかしそこに心を持っていかないで、必ず呼吸に戻るようにします。いつでも呼吸を瞑想対象にします。私たちは今、集中力の訓練をしているのです。呼吸が瞑想の中心対象になっています。呼吸以外に注意を向けると、集中力が失われてしまいます。
とても深い集中力の訓練のためには対象を一つにする必要があります。5分10分と集中していきます。10分、20分呼吸に集中します。たまに心はさまようかもしれません。そんなときでも、たえず呼吸に戻ってくるようにします。心が外へさまようなら、数を数えることもよいでしょう。吸って吐いて、一つ。吸って、吐いて、二つ。と八つまで数え、また一から始めます。
そしてゆっくりゆっくりと心が静まり静寂になり集中していきます。20分30分も続けられると心と呼吸とが一緒になり呼吸に対して親しくなっていきます。喜び、幸福感が出てきます。すると対象が一層はっきりしていきます。そして呼吸はより穏やかになってきます。体が軽やかになり体の痛みも感じなくなっていきます。そし集中力が高まってきます。
ニミッタの出現
集中力が出てくると、ある、黄色やその他の色がが見えてきます。継続的に30分も呼吸に集中していると、顔の前に、明るい光が見えてきます。
それはさまざまで、異なった色が見えたりしますが、目を開けて、「これは何だ」と見てはいけません。あくまでも呼吸に集中し続けます。この時点で光の方に注意を向けると、集中力は途切れてしまいます。
質問:好奇心が湧いて、これは何だろうと思って見たくなってしまうのですが。
答:光の方を見ないで、呼吸に集中します。初めのうち光の方を見るとすぐになくなってしまいます。
呼吸に集中し続けると黄色やオレンジ色が見えてきます。そして、さらに呼吸に集中し続けるとその色は、だんだんと白く変わっていきます。色が白くなっても呼吸に集中し続けて下さい。そうすると白い色がさらに明るさを増し、クリスタルのように透明になってきます。
そしてこのニミッタ、(相、イメージ)が10分間も安定しているようなら、今度はその光のニミッタの方に集中します。つまり、ニミッタには3段階あります。
1、黄色、オレンジ、その他の色として現れる。
2、色が白くなってくる。
3、さらに輝きを増し、透明になる。
ゆっくりゆっくりとこのニミッタが安定してきたら、集中力を呼吸からニミッタの方に移します。
質問:「見たい見たい」と思って見てしまって、そこでニミッタがなくなってしまいます。どうやって引き伸ばしたらよいでしょうか。
答:それは心が興奮しているからです。静かでなくなっているからです。リラックスして心を静めましょう。
そしてニミッタに集中して、1時間、2時間、心が外へ飛んでしまうことなく集中していると、身体の感覚がなくなります。ただ、心とニミッタだけになります。それが禅定です。禅定には初禅から四禅までありますが、そこまで到達するには、先生の案内が必要です。急がず、ゆっくりゆっくりとやっていきましょう。
三十二身分
そして深い禅定を得た後に、戒・定・慧のうちの第三の智慧のセッションがあります。洞察の智慧です。私たちの身体の内側で何が起こっているかについての洞察です。禅定によって得た光のニミッタで体の32の部分を見ていきます。ニミッタを懐中電灯のようにして見ていきます。バクテリア、菌などは普通の目では見えません。顕微鏡を使わないと見えません。しかし私たちは、禅定の力を使って体のいろいろな部分を見ていきます。
32の身体の部分について見ていくのです。わかりますか。私たちはニミッタを使ってこの身体の部分について一つ一つ見ていきます。するとそれが、単なる器官にすぎないことが分かります。皆さんはそれらの器官について、自分の体を好ましいと思っているでしょうか。体の32の部分を見ていくと、それが大変汚れたものであることが見えてきます。
私たちが自らの体をはっきり見ることができないでいると、体への執着を作り出します。自分だけでなく他の人々の身体についてもです。家族、妻子への執着のもとになります。
体における32の部分についての真実を見るのが第一の洞察です。骸骨を見るのもその32の部分の中にあります。ニミッタを持って見るとき、他の器官は消えて、身体の中に骸骨だけを見ることができます。
私たちも、いつの日か、確実に骸骨になってしまうでしょう。私だけでなく、皆が骸骨になります。それでブッダは自らの骸骨を集中して観ることによって、また他人の骸骨を見ることによって、執着をなくすことができると説きました。ですからブッダの時代には多くの比丘がこの骸骨を見ていました。美しい婦人がきても、「おや骸骨が来た」と見ていました。そのようにして私たちも家族に対する執着をなくすことができます。このように身体の部分を集中することによって初禅に至ることができます。
質問:身体を見ることによって初禅に至るのですか。それとも、初禅に至ってから、身体を見るのですか。
答:二つの道があります。禅定を得てから、その光を使って体の部分を見ていく、これが一つ。
もう一つは、禅定に至ってなくても、四界分別観で身体を見ていく。その瞑想で、初禅まで到達することができます。
白骨観の後には白いカシナの瞑想(白編)があります。その後に四界分別観の瞑想をします。ヴィパッサナーに入って行くときには四界分別観の瞑想から始めます。それは眼耳鼻舌身を使うのですが、ここでは眼からはじめましょう。眼をつぶったときに、ルーパが生滅しているのが見えますか。カラーパと呼ばれる、アトムみたいなとても小さな微粒子が生滅しています。
今、四界分別観を道具として使います。例えば、レンガを粉々にしてその細かい粒において生滅を観ます。微粒子の中に無常・苦・無我を観ます。私たちが集中して、カラーパ(物質の微粒子)を詳しく観察すると、八つの性質を見ることができます。すなわち、地・水・火・風と色・香り・味・栄養素です。
眼だけでなく、耳・鼻・舌・身においてルーパ(物質現象)の八つの性質と無常・苦・無我を観て行きます。四聖諦の初めの苦諦です。ナーマ(精神現象)は生滅がはやく、観察するのがとても難しいのですが、ナーマを観察することによって第二の集諦が理解できます。これには時間がかかります。
少し前のことを思い出すことから始まって、どんどん前へさかのぼり、お母さんのおなかの中にいたときを思い出し、さらに過去の生を思い出します。過去生において女性であった人は女性の身体で、デーヴァであった人はデーヴァの身体であったことを知ります。その体の中に四つの要素、地水火風を見ます。そして心において、いかなる意志をもって生きているかを見ます。これには第四禅定の力が必要です。過去生と今生とのつながりが分かると、因果関係が理解でき、四聖諦の第二の真理、集諦が分かります。
質問:眼を閉じた時に、粒子の模様みたいなものが見えるのですが、それがカラーパでしょうか。
答:それはよく調べないと何とも言えません。過去で波羅蜜を積んでいた人なら、禅定まで行かなくても、カラーパの生滅が見えることがあります。ですからよく調べる必要があります。
まとめますと、最初にアーナパーナ・サティをやって、ニミッタが見えるようになって、集中力が増すようにと、修行を進めて行きます。