般若心経偽経典説

 

「般若心経」が海外の経典批評学では偽経典だとされる説も有力です。

 

根拠は

『般若心経』における成立史の問題

『般若心経』における経の説者の適格性の問題

ゴータマシッダールタが否定した呪術語の挿入

「色即是空、空即是色」という文言の思想的妥当性の問題

という4つの論点。

 

 

経典のの成立史の問題というのは、当時インディアナ大学準教授の Jan Nattier The Heart Sūtra A Chinese Apocryphal Text ”〔 in Journal of the International Association of Buddhist Studies ,vol15 ,no2 1992 , pp153-223.〕 という論文で偽経説(Apocryphal Text)を提示しています。

彼は、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという偽経説を提起している。

 

 偽経 というのは一般的に 漢土撰述の経典 や時に本邦撰述の経典の事を指し、特に「般若心経偽経説」においては従来インドで成立していたサンスクリット語のお経を漢語に翻訳したものと思われていた 般若心経 が実は中国において漢語で成立したものだったのではないかという仮説です。

 

 学者や研究者なる立ち位置にある者の学問としての研究行動としては、 般若心経 が偽経かどうかというのは研究する意味がありますが、

 

原田和宗「梵文『小本・般若心経』和訳」『密教文化』Vol.2002 (2002) No.209 P L17-L62

『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』 大蔵出版、2010

石井公成「『般若心経』をめぐる諸問題 : ジャン・ナティエ氏の玄奘創作説を疑う」(印度學佛教學研究第64巻第1 平成2712月)pp.26-32

 

 

仮に 般若心経 が漢土撰述のいわゆる偽経であったからといって、心経の教えが間違っていることにはならないが、「大乗非仏説」の立場に立つことにより、偽経を唱える人も多い。

教典の形に成ったのは釈尊滅後おおよそ500年もたっているので、いくら結集があったにせよ間違いなく釈尊説とはいえません。

 

唐の玄奘(げんじよう)が訳した「大般若経」600巻の精髄が、273文字で書かれた「般若心経」である。

「大般若教典」から抽出されたにしては、最古のものは6世紀頃の漢訳ものがある。

般若心経のほとんどの文章は、『二万五千頌般若経』からの抜粋で、最後のマントラは、『仏説陀羅尼集経』第三巻の般若大心陀羅尼第十六からとっています。これらの経文を編集し、最初に「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」という文を加えています。

 

編集に関しては、もしかしたら中国で為されたのかも知れません。しかし、編集を中国で行ったとしても、般若心経の内容は『二万五千頌般若経』の抜粋であり、要約された心経は元の般若経の趣旨には反していません。

 

最古のサンスクリット心経が中国最古の心経よりだいぶ新しい事(つまり中国で作られてインドに逆輸入された可能性が高い)、漢文として非常に完成度が高い事などが挙げています。西洋の一部では偽経として研究対象に選ばれなかった歴史があります。

 

2「経の説者の適格性の問題」とは『 般若心経 において教えを説いている観自在菩薩は修行中の身であるたかだか「菩薩」に過ぎず、観自在菩薩が教えを説いている相手は悟りを開いた 輪廻からすでに解脱した 存在である阿羅漢であるシャーリプトラなのであって、「格下の修行中の身である菩薩が格上の阿羅漢に対して教えを説くなどおかしい 」ということです。

この主張に対する反論は二点です。

 

まず第一に「格の上下」と言う問題についてなのですが、この心経に登場する菩薩は、観自在菩薩すなわちコードネーム観音( クワン・イン )は、ただの菩薩ではなく正確には「菩薩摩訶薩」という立場にいるという事を知る必要があります。

これは観音はすでに仏陀に相当する格を持っていて本来ならば仏陀として自分の仏国土を持っても良いほどなのに、それでは末端の衆生を救いきれなくなってしまうとしてあえて菩薩の身分に止まっているような方であるという事です。

 

日本で日常の読誦に供されているいわゆる小本の 般若心経 はある意味において「呪術的な効果」が期待されて使用されてきて歴史があり、日常の読誦に供されるためのものです。この小本以外の俗に広本( 大本 )と呼ばれるものがあるので、心経の論理的な展開は広本まで視野に入れた上で理解する必要があります。

この俗に広本 大本 と呼ばれるものは『 大正蔵 』にはきちんと収録されています ちなみに 大正蔵 には七種類の漢訳 般若心経 が収録されています

漢訳の小本版では、観音が「深い智慧の完成」という三昧において 「一切の苦しみと厄災とを済度 されたことを述べたところで、そのまま観音がいきなり「 舎利子よ 」とシャーリプトラに語りかける場面から展開されていますが、このあたりの経緯を広本ではもう少し丁寧に次のように描写しています。

 

それから、仏の威神力により長老たるシャーリプトラが菩薩摩訶薩たる聖観自在に対してこの語をかく申したり。

善男子たるある何者か、甚深なる般若(智慧)の完成の行を行ぜんと欲したるその者は如何にして(それを) 学ぶべきか 」、と。

 

 つまり、このようなシャーリプトラからの問いかけがまずはあった上で、そのシャーリプトラからの問いかけに対する回答として観音のシャーリプトラに対する「舎利子よ」 という呼びかけが出てくることになるわけなのですが、この場面で重要なポイントは「 仏の威神力により という部分になります。

 

 広本において丁寧に描写されている記述に従えば、観音に対してシャーリプトラが 甚深なる般若(智慧)の完成の行を行ぜんと欲したるその者は如何にして(それを)学ぶべきか と質問したのは 仏の威神力」によっているのであって、シャーリプトラは決して自発的に自らの意志で質問したわけではない、という事です。

 これは、仏すなわちお釈迦様がシャーリプトラにサイキック能力(憑依や神通力や催眠術やテレパシーなどの何らかの方法)でシャーリプトラを意識操作してそのような質問をさせたと解釈する事もできますし、そのようなオカルト的な解釈が好みでないならば次のように解釈する事もできるでしょう。

 

釈 迦  お〜い、舎利子〜。

舎利子 はい、何でございましょうか? お釈迦様

釈 迦  最近クワン・インの奴がブイブイ言わせてるみたいだからさぁ、あいつがどの程度できるようになったかちょっと確かめたいんだけど〜。

舎利子 はい。

釈 迦 それでさ、ちょっとおまえも手伝ってくれないかな?

舎利子 御意、仰せのままに。

釈 迦  これ・・・。想定問答集作ってきたからさ、いつもみたいにみんなが集まったらおまえが俺の代わりにアイツに質問してあいつがどんな答え方するかチェックしてくれる?、

舎利子 御意、仰せのままに。

釈 迦  じゃ、頼んだよ!

舎利子 御意、仰せのままに。

 

 などというやり取りがお釈迦様とシャーリプトラとの間で、『 般若心経 』という舞台の幕が開く前の控え室あたりで交わされていた、という事をこの「仏の威神力により」という文言は指し示しているという解釈もしくは想像あるいは妄想できます。

 

 つまり、「菩薩が阿羅漢に教えを説くのは、菩薩が阿羅漢よりも格上だからである。」などという事はまったくなくて、仏の指示を受けた(仏の威神力によった)阿羅漢が、菩薩の境地や境涯がどの程度のものかをテストしているわけです。

 そこで、観音は実に見事な解答を示す事ができたので、 広本版の『般若心経』の最後には黒幕のお釈迦様が姿を表に現した上で観音に対して「おまえの言ったとおりだ」とお褒めの言葉を投げかける、という形で大団円を迎えるようになっています。

 このような『般若心経』の基本的な構成を広本を通して理解できていれば、「菩薩が阿羅漢に教えを説くなんて、おかしいので心経は偽経典である」という判断はしないことになります。

では何故?日常の読誦に用いている小本にはそのような細かい事情に関する描写が省略されているのかというと、それは読誦用の 般若心経 が主に呪術的な効果にフォーカスされていたので、可能な限り短くする必要があったからなのではないかと推定します。

 

ゴータマ・シッダールタが否定した呪術語の挿入

ブッダは当時の常識であった呪術的世界観からの解放と輪廻からの離脱を掲げました。

眼の前のモノをあるがままに見ることで、「いま、ここ」に生きることができ、過去のイメージや未来の妄想から離脱して、五蘊の苦しみから解放される術を説いていました。

ヒトは意識していたとしても渇望や嫌悪をベースにした条件反射を学習してしまうので、それを無意識の内に繰り返さないために、平常心を培うことを修行の中心に据えて、快・不快によるソーマティック・マーカーを意図せずには書き込まないようにしました。

このようなお釈迦さんが条件反射のシンボルである呪術をお経に書き加えるはずがないというのが、偽経説を唱える者たちの主張です。

 

これに対しての反論は、

お釈迦さまが呪術的世界観から離脱を唱えたのは間違いないが、その後の一般社会は現在に至るまで、言語をはじめとする思考の世界の呪術的世界観から解き放たれることはできずままにいるのが現実である。いまだに悟ることができない状態を大部分の文明が維持しているので、この経典はお釈迦さまが書いたのではないことが明らか(没後500年以上)であるので、その経典にお釈迦さまの意向に反して呪術的文句が加筆されていても一つも不思議ではなく、経典内に呪術的文面があるからといってこれを偽経典の根拠とするのは論理的ではない、と思う。

 

因みに真言の意味についてです。

真言(マントラ)はあえて訳すべからずとされています。訳してしまうと、意味が限定されてしまうし、言葉としての力も無くなってしまうと考えられてるからです。

真言というのは、東洋医学で言えば経絡のように、理由は解明できていなくても実際に効果が確認されているものです。音のバイブレーションの波動や共鳴やうねりの周波数がモノやココロに影響を与える呪文です。ですから意味を解明しないでそのまま受け入れて使います。

何故ならば訳を読んで、なんだ、たいしたことをいってないではないか、と思うと効果がなくなるからです。

ですから般若心経を真剣に唱える必要がない人だけが下記の意味を読んでください。

もしくは書かれた意味を参考にするだけで、言葉の奥にある層の力があることに敬意を払って、表層的な意味を読んでもバカにしなければ問題はありません。

 

たしかに最後の段に

羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦という呪語が書かれています。

表層の意味は

羯諦羯諦   往き往きて、彼岸に往き

波羅僧羯諦  完全に彼岸に到達した者こそ

菩提薩婆訶  悟りそのものである、めでたし

 

 

 

「色即是空、空即是色」の思想的妥当性の問題

AB BA の関係とはABであることを意味する

このような色と空の関係は、道教の一部や「玄」の概念を説明する前の導入部で説明される「陰と陽」や「無と有」の関係性と類似していることから、仏教の思想ではなく、根本的には一部の道教の思想だと推定される。

 

ナーガルジュナの「空」の考え方を参考にすると、色と空の関係は 色∈空 であるはずなので、「即」で2つを結び付けられるのは「色」と「無(空相)」であって、「空」ではない。

例えばブルドックは犬であるが、犬はブルドックではない、ように。

 

これらのことからこの般若心経は仏教の経典としては「空」の把握の仕方が根本的に違う。

もし唯識派の「空」の思想性を『般若心経』に表記するならば、「色即是無 依空中 含空、無即是色 依空中 含空」が妥当ではないだろうか?と思う。

経典の記述者が論理的文体で構成し、末代まで残そうしたのであれば、このような基本的な誤謬もしくは誤解されるような文面を使って記述しないはずだというのが偽経典だという主張する根拠の一つである。

 

これに対しての反論は、たしかに論理的に言語仕様しては偽経典主張者のいうとおりであるが、般若心経はマントラとして日常的な呪術的利用することを目的としたので、読み上げやすいように、「大般若経」600巻の精髄を273字に凝縮させたものである。そこで、耳触りと読み上げの心地よさと呪術的使用を優先させたために、論理的記述を緩めてしまったのではないか、それを補うために「空相」や「空中」の概念を使って、思想的誤謬に至らないように修正したのだと推定してみた。

 

まずは、道教と儒教の思想背景を持つ識者たちに仏教の世界観を伝えようとするために、はじめにあえて「空即是色」という思考回路を持ち出して、「空と色」と道教の「無と有、陰と陽」の相似性を示して、共感性を共有することで同調することで、読者にインパクトや同感を与えることを先行させた。。

しかし、次には「空即是色」とは日常の三次元にはない「悟りの体験」をした者からの視点なので、この世の特徴である組織のもつ限界を否定しない儒教の視点に戻ることで、話をわかりやすくした。

これが後に続く「空相」や「空中」に語る時の立ち位置になる。

 

そして、最後にはじめの「空即是色」の「空」を拡大解釈させてすべてを含みながら、カタチばかりかそれを意識する存在(わたし、観察者)までにも囚われることがない世界の解説とそこにいたる方法を説くのが、この「般若心経」の目的であったと推論する。

それ故に、はじめに識者の同意を得るために「空即是色」の「空」からはじめる戦略をとったために、後にナーガルジュナの「空」までを含まざるを得ないために論理的な飛躍(誤謬)が生じた。

 

般若心経の限界は、この論理的矛盾から発しているので、最後には呪術に依存するしかなかったことである。

呪術がいけないといっているのではなく、限界を知ることによってはじめて次の世界の扉を開けることができるので、これがこのお経の導き方であることを指摘する。

 

ただ文字に頼る識者が陥る論理とは矛盾に帰結する必然性の問題を、「内観の訓練」をせずに呪術に投げてしまう利用法に限ってしまうのは、もったいない。