Saññā 五蘊の「想」saññākkhandha
Saññā は知覚や認識や認知力と表象作用と訳される事が多いが、もっと深い意味がある。
その意味はウィキペディアでは、心に像を思い浮かべる作用や、心に浮かぶ像のことであり、例えば、眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること、とあるが、これらは釈尊の意味していることからは遠いと思う。
釈尊はこのSaññāを含めた五蘊の一つ一つがヒトを苦しみの世界に導くものなので、それを意図を持って言語化して、その特徴とデメリットと修正方法を提示した。
それを実践しなければ、想saññāの機能をただ指摘しても、誤謬を重ねることに変わりはない。
お馴染みの図でいうと
AとBの濃度が違うように見えるのは
私たちが過去に学習した「一般化や法則」が源にある。
それは、
市松模様という一般化
右上から光があたると円柱には影ができるという法則
この「一般化や法則」の元になっているものがSaññā である。
そしてこのSaññā によって「決めつけ」が起きる。
わたしはSaññā のことを「カゴ」と勝手に呼んでいる。
例えば、週末にまとめて洗濯するために、洗濯物をいくつかのカゴに区分けしているのだが、これによって洗濯物の特徴に合わせて、洗う順番や洗剤の種類などを使い分けることができる。
このように情報を自分の過去に作成した枠に区分する過程が想蘊サンニャ(想)です。
たとえば色や形が目に触れると、目がそれを感じた瞬間に、言葉であれこれと考える以前に、認識システムは瞬間的に生の情報を個別の情報に区別しています。
スマートフォンのカメラ機能でいうと、顔を自動認識するアプリが想蘊です。
たとえば、中央の突起物を中心線にして左右の等距離にあるモノを眼とする、というプログラムのことです。
ヒトはこのような区分けするカゴを頭の中にいっぱい持っていて、内外の信号が入ってくる度に瞬間に区分してカゴに入れている。
例えば、これは果物、あれは野菜と区分け、果物のカゴに入れた後は赤色と黄色で分けたカゴにいれ、赤のカゴから次にはそれをリンゴというカゴにいれる。
こうやって眼の前の赤くて円い物体はリンゴに特定される。
英語で言えば眼の前のThe red thing が一般化されたan appleに化けるプロセスである。
この世の全てのリンゴなど知るはずもないのに、勝手に一般化して本人は自覚していないのに分かった気に無意識のうちになっているマジックである。
その内容にはなにも分かっていなくても、たしかにカゴに分けた(分類)ので、ひとまず満足している。
この「分ける」プロセスを「理解した」とする機会は多い。
またこのSaññā を、「嵌め込まれた信号」と表現するとすることもできる。
身体の内外から届く「感覚信号」を予めに「彫っていた多数の穴の空いた板」に流してみて、丁度ハマったものだけを自分が知っている信号として認識するプロセスのこと。
これによって入力された感覚信号の中にある既知のデータと似ているものを瞬間的に把握することができるようになる。
心理学で説明される「カクテルパーティー効果」はこのSaññā (学習によって作成されたカゴ)の力によって、騒がしい雑踏の中にいても自分の関心のある音だけを選択して聴くことができる。
私たちは、興味のある対象にサンニャをつくります。たとえば誰かと話をしている時でも、耳には相手の話し声以外のたくさんの音も入ってきていますが、相手の話に関係のない音は無意識の内に無視しています。
つまり無視している音にはサンニャが生まれていません。
サンニャが生まれない音は聞こえていないことになります。
逆に言うと、サンニャがある音だけが認識されることになります。
この感覚信号を一般化された言語に瞬時に転換しているのもSaññā の役割である。
第二外国語学習時や、同時通訳者はこの作業に長けている人が多い。
また言語に限らず、イメージ、シンボル、音、ボディーランゲージ、などのコミュニケーションの基盤はすべてこのSaññāを通すことによって行われている。
自分の体験を同じ体験をしていない他者に伝える時には、アナロジーによってその体験を伝えるしか方法がない。
例えば道路の交通標識のようなサインが言語や文化の背景が違っていても通じるのは、Saññāが世界共通語のためである。
例えば、ケチュア語でninaと言われたも何のことだかわからないが、
この写真を見ればそれが「火」や「炎」であることは誰にでも分かるようになる。
このように対象物が何でありどういう意味があるのかを瞬間的に完全に理解できるので、saññāを「認識」と訳する理由である。
同じモノや考え方を体験しても体験者各自のsaññāが違うとその後の認識が変わってしまうので、
学校や社会では同じsaññāを共有できるまで何度でも繰り返して教育するシステムを強要する。
メンタル体(gandhabba)という考え方があります。
メンタル体のお互いのコミュニケーションはsaññāを介して行われます。
人間は音声(および身体のジェスチャー)や文字を介してコミュニケーションをとります。
特定の言語を学ぶことができれば、脳は特定の言語で表現されていることを把握するのに役立ちますが、メンタル体のgandhabbaはそのメッセージを直接に把握します。
身体の脳や目、耳などを使用する必要はなく、gandhabbaは、肉体の外にいるときには、目や耳を使わずに見たり聞いたりすることができ、他の生命の「想い」によって表現されているものを直接把握することができます。
すべての生命が他のすべての生命とコミュニケーションをとるわけではありませんが、gandhabba、そしてほとんどの他の領域の生命体は、意識によって生成される五蘊の1つであるsaññāを介してコミュニケーションを取ります。
私たちが使用する言語という意味では、saññāは言語ではありません。
この経験は、夢の経験に似ています。
夢の中で、話を聞くとき、耳を使って音声として言うことを「聞く」のではなく、夢の中の人が言っていることを知覚するだけです。
これは、gandhabbaが肉体の外でどのように聞こえるかに最も近いアナロジーです。
見ることも同じです。夢の中で、私たちは目を使って見ることはしません。
私たちが夢を見るとき、私たちの目は閉じています。聞くことも見ることも心で行われます。
実際、これは、abhiññāの力を持つ人々が他の領域の生命と通信する方法です。
参考資料
以前のエッセイ
色・受・想・行・識の五つの蘊
五蘊とは、色・受・想・行・識の五つの蘊、つまり人間の認識作用というプロセスを5つのパートにあえて分けることによって、認識作用のどこに問題点があるのかを明確にするための方便だと推察します。
せっかく5つに分けたのにそれに対する言及と解説がないのは残念です。
というよりは般若心経は悟るための科学的な分析を伝えるためではなく、簡単に暗唱できる呪文として特化したお経であると考えます。
色蘊 – 人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
受蘊 - 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの感覚
想蘊 - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識
行蘊 - 「バラを取りたい」などの気持ち
識蘊 – 「きれいなバラだ」と判断する価値基準。
つまり、想蘊とは、「きれいだ、バラだ」という区別判断をするための情報や価値基準。つまり、受蘊で感覚したものを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別・判断し、行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、「五蘊」とは、人間の認識作用(見て聞いて・・・判断し、行動する)を意味しているのです。
Cf.中野禅塾の解釈 http://nakano-zenjuku.com/?p=109
他の認識学的な解釈 受想行識とはなにか?
「受想行識」とは、ココロ(マインド)の働き、「知る」過程のメカニズム、認識システム、感覚から行動までの無意識の反応、ココロの条件反射、快・不快を伴う反応回路、思考回路、精神作用と、TPOによって言い方は変わるが、どれも「『わたし』の感じ方と反応」のことではないでしょうか?。
そして受想行識をあえて一文字にするためにココロ(mind)が訳としてはわかりやすいのかと思います。
漢字にすると「心」です。本来はこの心という漢字には内臓器官としての主体感覚を持った象形文字でしたが、近代以降にはこの感覚を持つ人は少なくなりました。この循環器系器官の感覚が絶滅したのではありませんが、神経系器官である脳の認知システムの感覚を多用することになり、主体(プレイヤー)の基準が移行していきました。
マインドの語源はラテン語mIns に由来し、cormeum(heart)が感情面を指すのに対して、mIns(mind)は頭の中にある思考能力を指します。
現代の日本で一般的に使われている「こころ」とは、英語でいうとマインドのケースが多く、頭の中の能力のことです。紫式部はマインドのことを「からごころ」、ハートのことを「やまとごころ」と呼んでいます。
この章で使われる「心」とはマインドのことを指します。
心不異空、空不異心、心即是空 空即是心
受想行識も色と同じ五蘊なので、色と同じく心も「空」と違いはなく、「空」はそのままでココロである、ということになります。
色蘊 ヒトの五感器官(肉体)を通して意識(ココロ)によって認識されたモノ
受蘊 ヒトの五感と脳による認知メカニズムの感覚情報
想蘊 ヒトの記憶や一般化する時に使うイメージ、そしてそれをブリコラージュ(寄せ集めて編集)する想像
行蘊 判断や選択、または理由付け。 そしてこれらの回路による反応やココロの条件反射
識蘊 学習した経験や知識をベースにして作り上げた思考回路、区分とパターン化で一般化して名前をつける
(大脳皮質で)分別して命名する意識による認識システム
想蘊
想蘊(saññā,)は知覚作用perceptionとして、多くのケースでは意識のある時に活躍するのですが、実は寝ている時も夢を見る時にもこの想蘊の作用は働いています。
知覚作用とは、新たな情報を過去の経験からつくられた枠組み(カゴ)で区分けすることです。
六処(眼耳鼻舌身意)が対象にしたモノに接する(接触phassaコンタクト)時、この情報(raw information)が個別の情報に区別される働きが自動的に生じます。この区分される過程が想蘊サンニャ(想)です。
たとえば色や形が目に触れると、目がそれを感じた瞬間に、言葉であれこれと考える以前に、認識システムは瞬間的に生の情報を個別の情報に区別しています。スマートフォンのカメラ機能でいうと、顔を自動認識するアプリが想蘊です。
私たちは、興味のある対象にサンニャをつくります。たとえば誰かと話をしている時でも、耳には相手の話し声以外のたくさんの音も入ってきていますが、相手の話に関係のない音は無意識の内に無視しています。心理学でいうカクテルパーティー効果です。つまり無視している音にはサンニャが生まれていません。サンニャが生まれない音は聞こえていません。逆に言うと、サンニャがある音だけが認識されることになります。
サンニャは訓練によって鋭く強くすることができます。一般的にいうと、勉強ができるようになりたい人は、色々と工夫してサンニャの働きを力強くしたり数を増やしたりしています。これが感性の敏感さを鍛え、記憶術となり、イメージ反応の俊敏さや知識量を増やすことになります。これが教育や洗脳のメカニズムです。
私たちの認識システムはいつでも新しいサンニャををつくり続けています。
感覚器官に、全く同一なのものが接触(phassaコンタクトする)することは決してありません。
対象や感覚器官や受蘊やサンニャが常に変化をし続けているからです。だから精密に言うと、同じ音を二回聞くことはないのです。すべては一度かぎりです。けれども似ているものを二度、三度と認識すると、「同じものだ」と錯覚するように脳はプログラミングされています。「妄想・概念」ともいわれる認識システムがはたらいて、勝手にサンニャをつくってしまうためです。このシステムによって、情報(raw information)は能率よく短時間に分別できるので、生産性と利便性のために生命体はこのシステムを長い時間をかけて作りあげてきました。
ただ欠点は過去に学習したサンニャに依存してしまうと、「いま、ここ」には対応できないということです。
概念、知識、記憶などもすべてサンニャーの塊です。私たちが「わたしがいる」などと錯覚する原因となっているいちばんの原因(元凶?)はヴェーダナー(受蘊)という感受作用ですが、この「過去の想」であるサンニャを基準(依存)にしてしまうことが、すべての錯覚の原因になっています。
瞬間瞬間、色々なサンニャが生まれては消え、消えては生まれて、流れ続けていきます。
「いま、ここ」には「何か変わらぬもの」や「わたし」などはありません。
ただただ一時も途絶えることなく生滅をくり返し流れゆくサンニャがあるだけです。
これほどサンニャの力は大きく、ヒトの誤謬は避けられなく、これらの認識を基にして成り立っている「自己」というのは当てにならないものなのです。
私はこのサンニャという枠組(イメージ)を「カゴ」と呼んでいて、例えば乾いた洗濯物を洋服箪笥に入れる時に、洗い物の特徴に合わせてしまう棚が違います。この棚のことを「カゴ」と呼び、これが想蘊の元型です。イメージとも呼ばれますが、これは常に変化するので「幻想」とも言えます。
それなのに、このサンニャを基準にし、これに依存することで、差異化と差別化が起こり、ここから偏見と優先性が生じさせてしまっていることは明確であるのに、このテーマで話し合う機会はあまりありません。
この「カゴ」自体が過去のある限定されたTPOによって作られたものであり、このカゴの使い方(分類法)も昔に学んだやり方をただ機械的に踏襲しているだけなので、過去に作ってしまったクセや善悪や好き嫌いや美醜などの価値観が伴ってしまっています。この価値観とはすべて過去の体験に由来しているもので、目の前の現実とは違いがあることは明らかです。過去の教育や経験によって想蘊(知識)は増大し続け、それらをベースにして生きることは、「いま、ここ」を体感するのではなく、過去の記憶によって縛られれていること、そして操られていることだ、とも言えます。