組原さんがまとめられたものを考察しています。
佐々木閑氏の「般若心経」を読む
「ブッダ 真理のことば」をまとめ終えてから、「僕の哲学」との比較で考えてみた。
自分が「正体不明のX」であるということは、空間的にも時間的にも自分の位置づけができないということである。
先に佐々木氏の「般若心経」60頁以下を紹介しながらまとめたように、ブッダはこの世には基本的な存在要素が実在していることを認め、その存在要素が複雑に関係し合い寄り集まり、定められた因果則によって刻々と転変することによって様々なものごとを形成していると考えた。そして、そういった存在は一見すると安定的に常住しているように見えるが、実際は、たんにそれらを形成している基本要素の集合体に過ぎないので実体がなく、そして常に変化し続けているとし、そういう状態であることを「空」と言った。私から見ればこのような基本要素が「ある」とも言い切れないし、因果則が「ある」ことについてはより一層疑わしく思われ、「ない」ように見える。「あるように見える」基本要素が常に変化していること、その結果基本要素の集合体に「実体がない」と評価できることについては、しかし、実感として深くうなずける。でもブッダ的に考えても、それぞれの時点での記憶は私の脳内に刻まれてなんらかの形で残っているであろうから、私の場合蓄積された記憶を信じて毎日を生きるといったスタンスになっている。
これに対して、「般若心経」の主張は、ブッダの言う基本要素自体も実体を持たない架空の存在なのであり、この世を構成している基本の要素などはなく、その要素間に働いていると考えられている因果則も存在せず、この世はそのような理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いていて、これが「空」であるというのである。
この立ち位置にいることは簡単だが、これによって多くの誤謬と混乱を招くことを考慮しない思考回路に関心がある。
このように基本要素も因果則も錯覚であって、「ない」と言い切ている。いやあ、すごいですねえ、この断定感。しかし「般若心経」の主張はここで終わらずに、何もかも「ない」=「空」と言い切ったあと、身を任せられる「超越的な法則」があるというのである。現時点ではそんな便利なものは私には信じられない、というか、「超越的な法則」にアクセスしやすければしやすいだけ「神頼み」の度合いも強まるので、そういうものに身を任せようという気持ちにはならない。
佐々木氏の「般若心経」の最後にブックス特別章「「私とはなにか」を再考する」が収録されている。この章を読むと、「釈迦の仏教」と「般若心経」、それぞれの考えを整理した上で、佐々木氏が「私」をどのように把握しているかが書かれている。これを参考にしながら、この問題についてどう考えればいいかを私も考えてみたい。
般若心経の冒頭部に出てくる「五蘊(ごうん)」とは、われわれ人間はどのようなものからできていてどのような在り方をしているかを分析して「色(しき)」「受」「想」「行」「識」の5要素に分けたものである。「色」とは、本来は外界にあるすべてのものであるが、ここでは肉体。残り4つは内面つまり心の世界に関係し、「受」は外界からの刺激を感じる感受の働き、「想」はいろいろなことを考える構想の働き、「行」は何かを行おうとする意思の働き、「識」はあらゆる心的作用の基礎となる認識の働きである。
この五蘊の認識は釈尊の教えとは大きく違う。
もしよければ、これについてのエッセイは6論にわたって書いてあります。
この他に「十二処」(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、その対象となる色・声・香・味・触・法の六境)、「十八界」(十二処+眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識)などの分類もあり、こうした存在要素が複雑に関係し合いながら寄り集まり、定められた因果則によって刻々と転変することでこの世界が形作られているとブッダは考えた。(200721・火曜日)
[「般若心経」を読む(2)]
この世の在り方を正しく認識することができたら、次は、その世の中で日々われわれを襲いかかってくる「生きることの苦しみ」をどうやって消し去るのかという問題にブッダは立ち向かった。それができなければ宗教とは言えないであろう。そしてその道を表すのが先に見た「四諦(しだい)」「八正道」である。
ブッダによれば、この世の真理には、「苦諦」、「集諦」(じったい)、「滅諦」、「道諦」という4つの局面がある。苦諦とは、この世はひたすら苦しみであるという「一切皆苦」の真理。
原文は
第一の真理 苦諦 (転法輪経 14行目から)
“Idaṃ
kho pana, bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccaṃ—
jātipi dukkhā,
jarāpi dukkhā, byādhipi dukkho, maraṇampi
dukkhaṃ,
appiyehi sampayogo
dukkho, piyehi vippayogo dukkho,
yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ
—saṃkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā“
であり、最終行の翻訳は、
「要するに、五蘊に対する執着によって、(止めることが可能な)苦が生じます。」
になる。
このように、「苦」の原因は五蘊(感覚器官とマインドを使った認識プロセス)に執着しているためだと明確に指摘しており、どこにも「一切皆苦」については書かれていないので、これは意訳ともいえるが、ここから誤解が生じるのであれば誤訳といえよう。
集諦とは、その苦しみを生み出す原因は心の中の煩悩だと知ること。滅諦とは、その煩悩を消滅させることで苦が消えるという真理。道諦とは、煩悩を消滅させるための具体的な8つの道(八正道)を実践すること。
このように、苦しみの原因を外的な物理現象ではなく、自分の心の在り方にもっていく。たとえば、医療によって生存期間を延ばすことができても病気そのものを完全になくすことなど不可能であるが、苦しみの原因が病気そのものではなく、永遠に健康なままでありたいといった心の願望にあるのだと考えれば、解決方法はその気持ちを変える方へと向かう。人間は誰しも老い衰え、病気になるという事実を正しく受け入れることができるように自分の心を変えていく、それが苦しみを消す唯一の道だ、と。道諦で挙げられている八正道は、「正見=正しいものの見方」「正思惟(しょうしゆい)=正しい考え」「正語=正しい言葉」「正業(しょうごう)=正しい行い」「正命(しょうみょう)=正しい生活」「正精進=正しい努力」「正念=正しい自覚」「正定(しょうじょう)=正しい瞑想」で、すべてに「正しい」という形容詞がついているだった。
漢字文化圏の一つである日本仏教で使われる「正」は「sanmā」の翻訳です。
「san」付加する、この場合は貪瞋痴を意味します。 参照 サンサール(輪廻)、サンカーラ、サンニャなど
「mā」は削除を意味し、前後の語句の内容を削除、すなわち解放を意味します。
「mā」はたとえば、
「mā hōtijāti、jāti」は、「繰り返す出生から解放されますように」というように使われます。
ですから「sanmā」は「貪瞋痴から解放されている」という意味になります。
「正しい」という表現は仏教では実は避けたいのだと思います。
理由は、基準点を決めればそこから上下、左右、善悪は生まれますが、「正しさ」は境界線を引くことによって生まれるからです。
「〇〇ではない」というのは仏教的ですが、「正」の字源が「邑(まち、むら)を攻める」(白川静の説)という意味なので、征服、政治につながっていきますので、本来ならば八正道もそのまま、san(貪・瞋・癡)を取り除いた「語、業、命、精、見、念、思、定」と訳したほうが、「正しさ」を誤解している後代にとってはよかったのかもしれません。
たとえば、sammā ditthiを「間違った見方(貪瞋痴)から解放」と言うように。
佐々木氏によれば、「それは、自分中心のあやまった見解を捨て、この世の在りようを客観的に、合理的に見るという意味を含んでい」て、だから「釈迦の仏教」は「心の病院」である、と。仏教は「心の」病院なので、「心の苦しみ」を持っていない人には必要はないともいわれる。
この客観的、合理的という視点が曲者である。これが人工衛星からの視点(エッセイ釈尊の風 誤訳がなくならない理由)であり、釈尊が離れることを促していた立ち位置を、釈尊の教えだと解釈していないことを願う。
このようにブッダの教えの基本は「この世の在り方を正しく理解し、その知識を土台にして、苦しみを消すための道を自分で歩んでゆく」というもので、だからそこには「この世の在り方は、誰にでも理解できるかたちで、正しく語ることができる」という前提がある。
ところがこれが、大乗仏教の時代になると大いに揺らいできて、この世の真の姿はわれわれがいくら探究し、分析していっても明確に語ることはできない超常的なものであって、それは特別なパワーを通さなければ理解できないものだということになった。こういう考えが生まれてきた根っこには、「すべてを原因と結果の因果関係で説明するブッダの考えでは自分の努力以外に救う道がなく、もしそこに別の、なにか神秘的な救済の力を導入しようとするなら、そのためにはブッダの考えを超える一層上位の世界観を構築するしか方法がない」
一層上位というのは論理学での話であって、抽象度を上げることで、言語上では上位になったと言えるが、それによって具体性が霧散してしまい、ヒトには伝わらなくなるので、釈尊があえて言語化できるレベルに下位して、説明してきた功績をどのように評価するのであろうか?
という思いがあった。そういう思いが現れているのが般若心経である。
ブッダの考えでは、この世を分析していくと最終的には先に挙げた「十二処」「十八界」に区分けされる。これは、「人はこの世をどう認識しているか」という基準に基づいて世界中のすべての構成要素を分類したもので、「認識するもの」=眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、「認識されるもの」=色・声・香・味・触・法の六境、「認識そのもの」=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識という3領域に分けるものである。六根+六境=十二処、これに六識を加えたものが十八界である。(200722・水曜日)
[「般若心経」を読む(3)]
六根=認識するものとは認識器官のことで、眼・耳・鼻・舌・身という肉体的認識器官と、意という心の中の認識器官である。
六境=認識されるものは六根のそれぞれに対して6種の領域が決まっている。たとえば眼根に対しては「いろ・かたち」が認識されるものだし、耳根に対しては「音」が認識されるものである。
六識=六根と六境が触れ合うことで生まれる認識そのものを加えると全部で18になる。
このような考え方で自分自身を眺めた場合、そこに何が見えてくるのか?
われわれはよく「物質と精神」、あるいは「ものとこころ」などと言うが、この2分割を十八界分類に重ねてみたらどうなるだろうか?18のうちどれが物質で、どれが精神に相当するのか?
まず六根から見ていくと、眼、耳、鼻、舌は物質である。身というのは、ここでは身体という意味ではなく触覚を感じる器官=皮膚のことで、これも物質である。意というのは仏教では「心」の別名であり、これだけは物質でなく精神領域に含まれる。
次に六境を見てみると、眼という認識器官によって認識される対象が「色(いろとかたち)」。耳によって認識されるのが「声」だが、生き物が発する生物的な音声だけでなく、ありとあらゆる「音」をすべて含んでいる。鼻でかぐことができるものを「香」、舌で感じることができるものを「味」、皮膚の器官で感じることができるものを「触」、そして心で認識できるものを「法」という。
これは大乗仏教の誤訳もしくはダンマの理解が表層にとどまっていること、もしくはパーリ語の文法の複数形による意味の変化を理解できていないこと、もしくは定義付けの失敗、もしくは「法」の多層にわたる意味とメカニズムに言及していないことに原因がある。
「色」は明らかに物質である(「色即是空」の「色」とは意味が違う)。「声」も物質だそうで、鐘がゴーンと鳴るとき、その鐘のところに「ゴーン」という音物質が発生するのだそうである。その「ゴーン」をわれわれの耳が聞くと、心の中に「ゴーン」という音の認識が生み出される。鼻なら香物質、舌なら味物質、身(触覚器官)なら触覚物質がそれぞれに「識」=認識を生み出す。
識には表層意識である認識がもちろんメインであるが、=にしてしまうと、中層意識や深層意識は「識」に含まれないことになってしまう。
したがって、色・声・香・味・触の5種類の境は全て物質である。これに対し最後の「法」という境だけは物質ではなく精神の領域の存在である。なぜならそれは意根=心によってしか把握されないものだからである。たとえば、「昨日会った人」を思い出す場合、それは眼や耳で思い出すのではなく、必ず心で思い出す。「昨日会った人」は物質ではないので、眼や耳とは一切反応しない。したがって意根によって認識される「法境」は物質ではなく精神の領域に入る。
以上から、眼から身までの五根と、色から触までの五境の計10種が物質である。この10種をまとめていう言うときの呼び名こそが「色即是空」の「色」である。
ここで定義している「色」は「色蘊rupa khandhā」のことではなかろうか?
六識の識とは「認識そのもの」=われわれの心そのものだから、物質ではなく、全て精神の領域に含まれる。
以上のように「物質と精神」という概念で「私」という存在を区分けしたが、では物質と精神はどこが違うのか?
たとえば「物質とは手足や血や肉のような、もとをたどれば素粒子でできているもの。精神とは脳の内部で形成されている情報システムの機能。」などとわかったように言っても「人から手足や血や肉を取り除いていって、肉体がすべてなくなったあと、最後に精神だけが残るのか?」と問われればそういうことにはならないだろう。逆に、「脳の機能がすべてストップした人が、肉体としてだけ生きているということがあるのか?」と考えると、これまた答えに詰まる。(200723・木曜日)
答えは「ある」と簡単にでるのではなかろうか?
ヒトは受精卵が内胚葉、中胚葉、外胚葉と分化して、この外胚葉が神経管となり、それが脳にまで発達した。
生物の中には脳まで発達せずとも、環境に適応して、生殖活動をして、縄張りを広げているモノが多い。
また極端な例であれば植物や微生物のように明らかに外胚葉がない生命体も生きている、と言ってよいのではないか。
[「般若心経」を読む(4)]
ということで、佐々木氏は肉体だけで生きている人間というのは想定困難だ、と。佐々木氏によれば、脳死の場合は、「思考や記憶は失われても自律神経などの脳機能は生きている」が、ここで言っているのは、そういった生存を支えるすべての機能が失われてもその人は物質としての肉体だけで生命を保持できるかという問題であるとされる。
このように考えてくると、肉体と精神を完全に2分割して別のものと考えることに無理があると佐々木氏は言い、そういう思考のおおもとには「人は肉体だけで生きている他の愚かな動物とは違って、体内に魂=精神という、人だけに与えられた特別にすぐれたものを有している」という人を特別視するわれわれの持って生まれた偏見があるとする。
「私」の在り方を佐々木氏はタコの図にして考える)。
われわれの肉体上には眼根から身根まで5つの根があり、これがいわゆる五感を生み出す感覚器官である。五感のほかにわれわれは意根という、五感ではつかまえられない対象(法境)を把握するための認識器官である。タコの頭にあたる心には、五感のほか意根からも情報が送られてくる。この時、心には意根による認識が起こり、これを「意識」と呼ぶ。われわれが普段使っている意識という言葉のおおもとの意味がこれである。
意根だけではなく、他の五根からのシグナルを受け取っても「意識」となる。
意根からのシグナルとは過去についての記憶と未来における妄想のことである。
これら6つの感覚器官が6本のタコの毛として描かれる。
この意識を生み出す認識器官としての意根はいったいわれわれの内部のどこにあるのか?
釈尊はメンタル体(Gandhabba)にあるhadaya vatthu(肉体の心臓の近くにある)だと説いている。論蔵
佐々木氏の考えでは、意根の本性は実は心であるが、ただし今現在のこの時点から一瞬間だけ前の過去の心を指すのだという。仏教では一瞬間のことを刹那というので、意根とは「一刹那前の心」である。そうすると、一刹那前の心が認識器官になって、そこからの情報が一刹那後の心へと送られ、そこに意識という認識を生み出すという理解になる。
「タコの頭に毛が6本」の図で注意すべきことは、6本のケーブルから情報が心に流れ込むと言っても、複数のケーブルの情報が同時に流れ込むことはない。ある一瞬間に情報が流れ込むのは6本のうち1本だけで、それが刹那ごとに次々に移り変わっていくので、目にもとまらぬ速さで6種の認識がさまざまに入れ替わることとなる。
釈尊は10億分の1秒だという。出典を捜索中。Aṅguttara Nikāya (1.48)
実際には「見る」「聞く」とを違った時間で行っているにも関わらず「皆がエア聞いている」などとわれわれは思い込む。場合によっては同じ種類の認識が複数刹那の間ずっと続いていくことも可能で、その場合は「ずっと見つめている」とか「聞き惚れている」といった状態になる。タコの頭(心)は「6色電球」になっていて、この6色というのが6種類の認識である。認識器官の先に認識される六境があり、色境から触境までは物質だが、法境だけは、「昨日会った人」のように物質には含まれない存在である。
タコの頭にたくさんの足がついているのはなにか?これは「心の作用」なのだそうである。模式図では足は8本であるが、ほんとうは40本以上の足が出ているのだそうで、その作用が起こっているときは豆電球がつく。
これはcetasikaと呼ばれるもので52の種類がある。不善心所(14種)と浄心所(25種)と同他心所(13種)
たとえば外界にある「リンゴ」を見ると、その刹那に「赤いいろと、丸いかたち」が眼根を通して心に情報として送られる。すると心にはその「いろとかたち」が映し出される。ここまでが心本体の働きだが、それに対してわれわれは「おいしそうだなあ」とか「食べたいなあ」とか「去年食べたリンゴとは違うなあ」とかさまざまな反応を起こすが、それが足の部分が行っている作用である。この足を「心所(しんじょ)」といい、思考や感情や記憶や意志などわれわれが積極的に起こすすべての心的作用を受け持つ。(200724・金曜日)
[「般若心経」を読む(5)]
「私」というのは以上のように、外部存在(六境)からもたらされる情報を六根が感知して心に送り、心はそれを認識として表出し、そしてその認識に対して40以上もある心的作用(心所)がさまざまなパターンをつくって働きかける、その全体なのである。この構造をよく見ると、「物質と精神」に分けることは不可能だとわかる。眼根から身根までは構成要素は物質なのだが、それが心と結びついて一緒に働くという点ではむしろ心の領域に属する。もちろん心と心所も精神領域に入る。仏教が考えている私という存在は、物質と精神という分割線で線引きすることはできず、あえて言うなら「物質的要素と心的要素が決して切り離すことのできない一体化した組織として機能している状態」だということになる。
たいした価値もない肉体という入れ物の中に精神という崇高な存在が閉じこめられていると考える他の多くの宗教とは違って、ブッダは「肉体」「精神」という枠組みではとらえることのできない相対的な複合機能として「私」というものを見た。そしてそれは、肉体とは別なところに魂という独立した存在があるとということを丸ごと信じることが困難な現代社会にぴったり当てはまる説明でもある。
「般若心経」は、ブッダの教えに基づく世界の見方を否定する。「五蘊」や「十八界」のような区分けで世界を説明してみてもそれは所詮不十分で未熟な理解でしかないというのである。
「説明」というものは、大脳皮質による二分法の分析なので、所詮はじめから不十分で、未熟な分析と解釈と伝達しかできないものだが、言語の限界を理解して、「方向を指さすだけであとは詫びるだけ」のものである。
この「説明」の語句に囚われてしまうことがないように、釈尊自身は文字を残すことをしなかった。それほど大脳中心主義者がヒトの社会の中で勘違いし続けることを釈尊は知っていたからである。
それを「区分け」にスポットライトをあてて「未熟な理解」という価値判断をするのは傲慢、もしくはヒトのサガに寄り添うことができないことだとは感じないのであろうか?
この世の真の姿は、そういった言葉で限定される日常レベルの説明では明かすことのできない神秘的状態で存在していると言う。言葉で限定できない以上なにか記号のようなものを使って便宜的に表すしか方法がなく、その記号が「空」なのである。しかし、「世界の本質は空である」と言っても具体的には何もわからず、ブッダが語るような区分けで理解できる世界ではないということだけは伝えられるが、あとは人それぞれがその本質を感じ取るしかない。そのための呪文として「ぎゃてい、ぎゃてい」という呪文が使われている。「般若心経」ではこのように、この世の在り方を「区分のない1つの総体」としてとらえ、しかもそこには、人智を超えた高度な法則性が備わっていて、その法則性に沿って悟りへの道が開かれていると考える。だから「私」というものについても、それを規定するあらゆる区分は「錯覚」であり、「私」という概念が虚構であるのと同様に「五蘊」や「十二処」や「十八界」といった区分も本当の姿ではないということになる。だから、「般若心経」の世界観に立てばこの世は「物質と精神」といった2元論はおろか、「釈迦の仏教」が考えた「要素集合体」という概念さえ飛び越えて「感じ取るしかない規定不可能な一存在」ということになり、分析は否定される。分析を最も基本的な作業だと考える科学的方法とも真っ向から対立する。
飛び越えるというよりも、釈尊の教えから離れた、という表現のほうが事実に即してはいないだろうか?
これではもう釈尊の名前を使わずに新宗教を名乗るべきではなかろうか?
釈尊の特徴は四諦と五蘊と縁起であるが、その解釈を変えてしまっては、釈尊の教えともはやいえないのではないか?
私は自分が「正体不明のX」だと考えるので、この世の把握については「般若心経」の「空」概念と一致するが、その先の「超越的な法則」があるという主張については、そんなものがあるなんとはとても信じられない。確かに私も、運を天にまかせる、みたいな感覚は好きで、だから「旅の深層」の副題も「行き着くところが、行きたいところ」としたわけである。だから、佐々木氏の本のカバーに「「見えない力」を味方にする」とあるのには共感できるが、ついて行けるのはせいぜいその程度までである。この点ブッダは、当時の通念だった輪廻の考えを除けば、「怪力乱神を語らず」の孔子と似たスタンスに立っているのではないかと思われる。(200725・土曜日)
[2つの涅槃経]
佐々木氏の「ブッダ 最期のことば」(NHK「100分de名著」ブックス、2016)においては「釈迦の仏教」の教えの1つである「涅槃経」について述べられていて、内容的には80歳でこの世を去ることになったブッダの「最後の旅」がストーリー仕立てで描かれている。
ところが4世紀頃になって同じ「涅槃経」という名のお経が作られ、その内容は上記のお経とは大きく異なっていた。「釈迦の仏教」の涅槃経を「阿含涅槃経」、4世紀頃に作られた涅槃経を「大乗涅槃経」と呼んで区別している。
大乗涅槃経によれば、ブッダが涅槃に入り、この世から消滅したというのは人びとに世の無常性を理解させるための方便で、実はいつまでも変わることなくこの世にあるというのである(「如来常住」)。
こういう考えは大乗仏教全体に共通する考えである。「釈迦の仏教」ではわれわれはいくら修行を積んでもブッダになることはできず、「阿羅漢」(ブッダの弟子として悟りを開いた人)どまりだが、われわれもブッダへと向かう道は開かれていて、出家はしないで一般社会人として暮らしながらでも悟りを目指すことができるとして、大乗仏教はそのための道筋を示した。
大乗涅槃経が生み出した独自の新思想は「一切衆生悉有仏性」説(略して「悉有仏性」説)といわれる。「ブッダは私たちとともにある」というのが大乗仏教のベースであるが、「別世界にいて私たちを見守っていてくださる」「はるか昔からすでに会っていて、私たちの後見役として働いていてくださる」とかさまざまなアイデアが出てきた中で、大乗涅槃経は「ブッダはもともと私たち一人ひとりの内側におられる。実は私たち自身が本来ブッダなのだ」というまったく違う視点を導入したのである。
凡俗の本性丸出しで悟りのかけらも見あたらないのに?との疑問には、われわれは本来ブッダとしての資質を備えており、条件さえ整えば外から誰かに助けてもらわなくてもひとりでブッダになることができるという意味だと答え、その条件を整えるために必要な努力というのは、日々の規律を守り、自分の中にはブッダとしての本性=仏性があるということを確信しながら暮らすことであるとした。
この「悉有仏性」説は大乗仏教世界で大いに重要視された。大乗涅槃経がインドから中国に伝わって漢文に翻訳されたのは今からおよそ1600年前の五胡十六国時代だが、その後の南北朝時代になると大乗涅槃経はお経の中の最高峰とされた。その後隋・唐の時代になると「法華経」など他の大乗仏典が人気を得るようになって大乗涅槃経の勢いは幾分衰えたが、「如来常住」「悉有仏性」の教えはすでに定着していた。日本の場合隋・唐時代になってからはじめて本格的に仏教を導入したため大乗涅槃経を最高経典と考える南北朝時代の考えは入らなかったが、ベースには大乗涅槃経の教えがある以上、日本仏教もその色合いを含んだものとなった。道元は「自分の力で煩悩を消して悟りに至る」というブッダの教えと、「人は生まれながらに仏性を有していて、はじめから仏である」という思想の間で、どちらを選ぶべきかさんざん悩んだ。「私たちの中に仏性がある」と言ってしまうと特別な修行は必要ないことになってしまうのに、禅では「座禅」が重要な修行と定義されている。修行が必要ないのになぜ座禅があるのか?悩んだ末に道元は、「禅における座禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであることを確認する作業だ」と座禅の意味をとらえなおした。
「私たちの中に仏性がある」ことがわかっても、そのまわりが汚れているから、自分で勝手に作り上げてしまった自動反応回路に操られ振り回されているので、それらを削除したり上書きしたりして清めることで仏に近づく、という思考をとらずに、「はじめから仏である」というように考えに固執した理由は何だったのだろうか?
このように考えれば確かに整合性ははかれる。道元は大乗的な世界観の中で精一杯にブッダを目指したのだろう。(200726・日曜日)