初禅を目指す前に預流に

ダンマの実践

 

https://tammada.hatenablog.com/

 

 

 

恩返しと恩送り

先日テレビを見ていたら、「いろんな人から恩を受けたので、恩返しでなく、これからは若い人たちに恩送りをしたいと思っています」と話している人(一般人)がいました。これは若い日の自分と同じ考えで、苦々しく感じました。

 

 

 

私自身も若い頃、多くの人の恩を受けて今の自分があるので、恩を受けた人に「恩返しをしたい」気持ちはありました。しかし、まだ若かった私は生活に精いっぱいで、恩のある人たちはお金持ちで、遠い故郷にいる人ばかりなので、詰まらない物品を贈ったところで失笑を買うだけと考え、それなら自分より後から来る人たちを援助しようと考えました。

 

 

 

恩を受けた人に恩を返せば、それで完結してしまうけれど、次々に後から来る人を助ければ、支援は永遠に続くので、大きな支援の輪になり、恩返しをするより社会にとって良いと考えていました。そして誰かを支援する時は、恩ある人の恩を思いました。

 

 

 

しかしブッダの仏教を学んで、その考えが誤っていたことに初めて気づきました。自然の法則では、受けた恩は借りなので、借金と考えれば良く理解できます。

 

 

 

お金持ちからお金を借りて、そのお金持ちは、返してほしくて貸したのでなく、与えると決めて与えたのでも、自然の真実では借りで、返さなければ、踏み倒したことになります。他人の恩を踏み倒しておいて、もっと貧しい人に貸し、「あなたのお陰です」と最初の恩人に感謝するなど、盗人猛々しい厚顔無恥な人間です。

 

 

 

私は「受けた恩は借り」と知らなかったので、自分の頭で考えて、冒頭のような間違った考えをしていました。現世で、助けてくれる温情のある人に多数出会ったのは、たぶん過去世でも、後から来る人を支援していたのだと思います。しかし、恩ある人に恩返しをして来なかったので、現世ではあまり発展しませんでした。

 

 

 

今では、恩を知ることは、非常に大切なこと分かります。ブッダが「恩知らずは破滅する」と言われているからです。恩は一種の借金、借金以上の借金で、踏み倒せば、世俗的にも、タンマの面でも、発展は期待できないと見えるからです。

 

 

 

団塊世代の私は、親も先生も「親孝行をしなさい」と教えなかったので、恩というものについて教えられたことも、考えたこともありませんでした。生まれた時代を考えれば、それは仕方なかったとは言え、老人になってから知ったのは、残念です。

 

 

 

ブッダの教えを学んだ今なら、自分より偉大な人、世の成功者である恩人に恩を返すことは、無理して大きな金額の品物を贈って返すのではなく、近くへ行った時は、その度に敬意を表す品物(手土産)を持って顔を出し、いつでも恩に感じていると、言動で表すべきだったと分かります。

 

 

 

私は「尊敬も恩も、心で思っていれば通じる」と、勝手に思い込んでいました。しかしブッダは「尊敬する人には敬意を表しなさい」と言われています。ということは、思っていても通じないということでしょう。

 

 

 

だからアジアには表敬訪問という礼儀があり、友達の家へ行ったら、着いた時と、辞去する時、両親や祖父母に挨拶しなければなりません。有名人などは今でも、地方へ行くと、知事や市長などを表敬訪問します子や孫にそのような昔式の礼儀を教えることは、子や孫を発展させます。勉強だけさせて、勉強だけできる子になっても、恩を知らず、恩の返し方を知らなければ、親や、その子が望むような幸福な人にはなれません。

 

 

 

恩送り、つまり他人を支援することは良いことですが、恩返しの代わりにはなりません。恩は借なので、返せる状態になったら先に借りを返し、それから他人の支援をするべきです。いくら他人に貸しても、貸主に返さなければ、借金は消えないからです。

 

 

 

そして、恩を受けた金銭的価値だけを返しても、例えば百万円支援してもらって百万円返しても、そこには恩が残ります。恩の部分は、繰り返し尊敬と感謝を、体と言葉と心で表す以外に、返しようがありません。

 

 

海の歌2021-04-25

仏教では、自分が手本とすべき物を持つべきと言います。いつでも手本にする物があれば、何につけても迷わず、心の拠り所にすることができます。ダンマは最高の拠り所ですが、すべてを記憶し、すべての場面で思い出すのは難しいので、ダンマに沿っている(正しい見解の類の)自分の心にぴったりした言葉や歌は、記憶しやすく、思い出すのに都合が良いです。

 

最近、西条八十の「海の歌」という詩を見つけました。

 

大いなる 船くつがえす

かくれたる 力はあれど

あどけなし 磯のさざ波

白砂に 小蟹と遊ぶ

 

満ち潮の 満ちて誇らず

引き潮の わかれ嘆かず

塵あくた のせて濁らず

青き水脈(みお) つねに新し

 

おおらかに すべてを呑みて

おおらかに すべてを濯い

とこしえに かがやける海

ああわれら生きん 海の心に

 

大海(わだつみ)の 広き心に

 

https://youtu.be/Y64feccSOZo

 

 昭和三十年に作られた、古関裕而作曲、伊藤久男歌唱の「三越ホームソング」の歌詞です。

 

「大いなる船くつがえす、かくれたる力はあれど」は無力無能でなく、偉大な力はあってもひけらかさず、「小蟹と遊ぶ」は繊細な優しさがあり、「満ち潮の満ちて誇らず」は慢がなく、「わかれ嘆かず」は執着や痴がなく、「塵芥のせて濁らず、青き水脈、つねに新し」は、世界の汚れに触れても汚れない例えに、ブッダが好く使われている蓮華と同じです。「おおらかにすべてを呑みて」はタターター(真如)で、「すべてを濯い」は、貪りや憂いなど、常に心の汚れを濯ぐサティ、四念処で、「とこしえに輝ける海」は涅槃です。

 

歌われている海は阿羅漢の心であり、武士の精神、日本人の理想だと思います。今日は偶々伊藤久男の命日でした。人の一生は短く、残された仕事は永遠なので、何かにつけて昔の人の作品に触れることは、良い事と思い、世俗の話ですが、この歌について書いて見ました。

 

詩はこのように美しく、意味は深く、曲も壮麗で気高く、このような歌が国歌なら、すべての人に好まれ、誰もが気持ち良く歌えるような気がします。

 

 

もう一つ、昔の童謡の「村の鍛冶屋」(作者不明)は、確か小学校低学年の音楽の教科書にあり、子供の頃に歌った歌で、思い出す度に、懶惰と闘う日常生活の手本としたいと思います。こういう言葉は在家の心の宝です。

 

 

 

しばしも休まず槌打つ響き

飛び散る火花や走る湯玉

フイゴの風さえ息をもつかず

仕事に精出す村の鍛冶屋

 

主は名高きいっこく者で

早起き早寝の病知らず

鉄より堅しと誇れる腕に

勝りて堅きは彼が心

 

刀は打たねど大鎌小鎌

馬鍬に作鍬、鋤よ鉈よ

平和の打ち物休まず打ちて

日日に戦う懶惰の敵と

 

稼ぐに追いつく貧乏なくて

名物鍛冶屋は日ごとに繁盛

あたりに類なき仕事のほまれ

槌打つ響きに増して高し

 

https://youtu.be/kphnvoE62Ms

 

 

2021-04-16

平等に暮らすのは苦

 ブッダは「四つの階級も同じで、カッティヤ(武士)もバラモン(司祭)もヴェッサ(商人)も、スドゥッタラ(労働者)も、出家して私が公開したタンマヴィナヤ(この場合は教団というような意味)に入れば、当然全員が自分の古い名前と家名を捨て、当然新たにサキヤプティヤ(釈迦族の子)のサマナと呼ばれます」と言われているので、「仏教は平等を説いている」と主張する人がいます。

 

しかしプッタタート師によると、ブッダは「平等に暮らすのは苦」と言われているそうです。ブッダの教団は、出家すれば、どの階級の人も平等にブッダの弟子になりますが、教団内には出家年数による序列があり、一日でも早く出家した人は、「先輩」として敬わなければなりません。同じ先輩でも、年数の多い人ほど敬わなければならない世界です。仏教では上下がないのではなく、上下に分ける基準が、当時の世間のように、生まれや身分でないだけです。

 

 

 

寺という言葉の語源である「テーラ(サンガの規定による長老)」は、新参比丘にとって尊敬しなければならない人ですが、それは出家して十年を経過した人で、年数を規準にしています。そして後輩が先輩に対して守らなければならない言葉遣いなども、ブッダは細かく規定しています。また社会や家庭内でも、年長者を尊重するよう教え、「親も子もない、先生も生徒もない、サマナもバラモンもいない、年寄も若者もない」という見解を、誤った見解と明言しています。

 

つまりすべての人の日常生活で、すべての人が平等に暮らすことなど、説かれていないということです。

 

だから大乗も含めた仏教文化の国では、長と老を敬う慣習があり、大勢の人が集まる場所では、相応しい席順を守らなければなりません。つまり上の者と下の者を区別して扱う文化と言うこともできます。それは社会的には、上下があることは秩序を生じさせ、それによって安定や平和が生じ、穏やかな幸福が維持でき、進歩発展が期待できます。個人的には、長老を尊重することは善のカンマで、行動した人の心を素直にし、苦を生じさせないからだと思います。

 

2010年8月5日のペルー コピアポ鉱山落盤事故の経過をWikipediaで読むと、地下に閉じ込められた三十三人の工夫が、1013日に全員救出が完了するまでの二カ月を超える月日を、地下で安全に過ごすことができたのは、自然に、必要な役割分担ができ、全員がそれらの指示に従ったからと分かります。相応しい資質と責任がある現場監督がリーダーになり、適任者を見出して医療係、宗教係、精神科ケア係、外部との通信係などを決め、他の人はリーダーや係を信頼することで一致団結して、最初は食べ物も飲み水もない苦境を、大事なく乗り越えました。平等を主張し、全員平等に行動して右往左往していれば、全員が餓死、あるいは仲間内の争いで滅びたかもしれません。

 

ブッダはいろんな場面で「団結」を教え、(告げ口など)団結を破る行為を禁じ、非難しています。団結するには核である人、リーダーが不可欠です。だから団体には必ずリーダーや監督、オーケストラには指揮者、劇団には監督、建設現場にも監督、調理場には料理長など、指揮監督する人がいます。全員が同じ技量があったとしても、統率する人は必要で、技量に違いがあればなおのこと、上下の序列は必要になります。

 

何としても結果を出さなければならない仕事の現場では、元々平等に持ち合わせていない技量や資質の人が平等を主張したら、混乱と停滞だけで、一歩も進めません。端役を嫌って、誰もが主役をしたいと主張すれば、配役を決めることもできません。

 

最近、河野ワクチン担当大臣が「平等性」と言ったのが気になりました。全国にワクチンを割り振る時、感染者や感染率が高い大都市がある都道府県も、毎日の感染者が一桁、あるいは無い県も人口割で配るのは、大火事が拡大している県と、まだ火事がない県とを同じに、平等に消防車を配置するのと同じで、中学生にでもできる分配だと思います。

 

もし治療薬の不足が生じれば、「治療薬の平等性」と言って、重傷患者のいない県と、感染爆発している都府県と同じに配分するかもしれません。

 

平等は民主主義と同じで、自然の在り様を見たことがなく、自然の在り様を知らない人が、西洋人から聞いて「素晴らしい」と見て夢見る妄想です。平等に働いて平等の所得を得ることを夢見た共産主義は、半世紀もしないで崩壊しました。たとえ同じように働いても、人はみなカンマが(働く意図の種類と強さが)違うので、同じ結果を受け取ることはあり得ず、受け取る結果に差が生じなければならないので、時間の経過によって歪が大きくなり、経済主義としての共産主義は、自然の法則で崩壊しました。

 

通常の患者が待っている内科医の待合室に、呼吸困難を起こした人が運びこまれれば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。通常診療の患者が待っている産科医の待合室に、切迫流産の人が駆け込めば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。そのようなことはどこにでも普通にあり、誰も文句を言う人はいません。順番の平等性より、緊急性、必要性の優先を認めるからでしょう。

 

冒頭のブッダの言葉にあるように、人を平等に扱うことは世間にあまりない良いことですが、良い結果が生じる場合だけを周到に考えて使わないと、愚かになり、滑稽になります。平等は自然にない概念なので、何にでも使う物ではないように見えます。

 

 

ブッダのホロスコープ2021-03-21

占星学で個人を占う時は、ホロスコープ、あるいは出生図と呼ばれる図を使います。十二房あるみかんを輪切りにした面のような図で、十二の室に十二の星座が入ります。そして占う人が生まれた日の生まれた時刻に天空にあった惑星を、ミカンの輪切りのような図に書き込んで、それぞれの惑星が位置する星座と室(ハウス)を見、他の惑星と作り出す角度を見て、様々な情報を読みます。

 

出生図を見れば、その人はどのような性質で、どのような生き方をする傾向があるか推測できます。しかし出生時の天体が表すものは、その時生まれた人の過去の情報を示すものであり、将来を予言する物ではありません。過去世ではこのような習性があったと分かれば、その習性が現世も残っている可能性が高いので、そのような習性があれば、結果である人生はどのようか、原因(習性)と結果(人生の傾向)を教えています。

 

普通は生まれた人の生年月日と時刻、出生地などを元に出生図を作成しますが、出生年月日が明らかでない人の場合、出生図を先に作って、それから出生日時を特定することも理論的には可能なはずです。

 

ブッダヴァチャナ・シリーズの本を読んでブッダの色んな面を知る度に、占い師の性で、「これは何星が何座にあるのではないか」「これは何星が何室にあるのではないか」「これは何星と何星が何十度離れているではないか」と推測してしまうことが度々あります。

 

ブッダは、太陰暦六月十五日生まれであることは分かっていますが、誕生年は何年と確定されてなく、幾つかの説があります。そこで、ブッダの出生図を推測で作成すれば、生年が特定できる可能性があります。

 

十二房あるミカンの輪切りのような図を紙に描き、時計なら9の数字がある場所を出生点とし、時計の8までの間を1室、時計の7までの間を2室、時計の6までの間を3室と、左回りに室番号をふり、十二の室を作ります。そしていろんな経で推測できる情報から、どこに何の星があるか推測してみます。

 

・ブッダの誕生日は陰暦615日なので、太陽暦では5月か6月で、牡牛座か双子座になります。

・満月の日の生まれなので、月は太陽と反対側の蠍座か射手座にあります。

・ブッダは獅子のような姿をしていたとあるので、1室(アセンダント)は獅子座と推測できます。アセンダント獅子座の人は、威厳のある立派な風貌をしています。

・徹底的な訓練と特殊な経験で才能を開花させ、不可思議な人格の変容を遂げているので、冥王星が1室(獅子座)にあると推測できます。1室が獅子座だと、双子座は時計の12の所にある10室で、太陽は十室、牡牛座なら9室にあると推測できます。

・幼い時から、三つの季節を快適に過ごせるよう作られた三つの城を移動していた(つまり引っ越しが多い)こと、生涯が旅だったこと、晩年故郷へ戻ろうとしたことなどから、4室に月が入ると推測できます。

・満月の日の生まれなので、太陽と月は180度前後離れているので、月が4室にあれば推測できるので、太陽は10室にあると思われます。

・大悟する前夜に「この体の血肉が干からびて骨と皮だけになっても、真実を悟るまでここから立ち上がらない」と言われた主旨の誓願を読むと、1室(獅子座)にある火星と冥王星は八度以内にあると推測できます。火星と冥王星が接近していると、目的を遂げるか倒れるまで働く人だからです。

・義母であるパチャバディー王女が出家する時のやり取りを読むと、女性の扱いが苦手のように見られますが、火星が獅子座にあると、そういう傾向があります。

・旅は楽しみでなく、仕事のためだったので、土星が9室にあると推測します。この人は深刻な研究課題に取り組む人です。

・木星が9室にあれば聖職による学問の完成、哲学的な考えと慈悲心が人格的力を強化するとあり、10室にあれば、何をしても社会的に尊敬される人になり、教育や専門職、実業家、公職に向いているので、どちらもあり得ますが、9室の方が可能性は高いと思います。

・王家や将軍家などに生まれた人、嫁ぐ人はほとんどすべて4室に天王星があるので、ブッダもそうであろうと推測します。4室にある天王星と10室にある太陽が180度離れていれば、父と考え方が違い、父子関係の問題があり、結婚後は、社会的に成功しても、家庭の不満を招きます。

・水星と金星はいつでも太陽の近くにいるので、8室から12室の間にあるはずですが、あまり重要でないので、良く分かりません。天王星、海王星は、推測するにも、強い根拠がないので、正直良く分かりません。

 

以上の理由で、

 

1室の獅子座は、冥王星と火星があり、

4室には月があり、(天王星もあるかも)

9室には土星、木星、金星、水星があり、

10室、双子座に太陽があると思われます。

 

特に注目すべきは、1室、獅子座にある冥王星です。冥王星の周期は248年なので、千年に四周、ブッダの死後2500年の間に10周くらいしか廻っていません。だから、仏歴の紀元と言われているBC543年に近い頃の、冥王星が獅子座にあった年を探します。冥王星が一つの星座に滞在するのは約20年間で、その間に、火星が獅子座にあった年を探すと、火星は周期が687日で、二年弱に一回、50日ほどあり、冥王星が獅子座にある約20年の間に、十回くらいあります。これで500日くらいに絞られます。

 

冥王星が獅子座にある20数年の間に、土星は一巡しないので、土星が牡羊座から牡牛座、双子座辺りにある時を探します。それは二年余りしかないので、その中で、上記の条件を満たす年がブッダの生まれた年と分かります。

 

そしてその中に太陽が牡牛座か双子座で、月と180度離れている日を探せば、正確なブッダの出生図を作ることができます。

 

星座の位置情報が分かるサイトもありますが、無料で使えるのはせいぜい百年間くらいで、紀元前のことなど知る由もありません。最後に冥王星が獅子座にあったのは1937年(10月)から1958年頃までで、単純に1937から248×10を引くと、十回前に冥王星が獅子座にあったのは紀元前543年から20年間くらいになります。

 

タイで使っている仏歴では、紀元がBC543年ですが、それはブッダが涅槃した年を紀元にしていると言われています。ブッダの死を紀元にしていれば、ブッダが生まれたのは、それより80年前、BC623年になり、冥王星は三分の一周ほどずれてしまいます。

 

このような単純な計算は、使い物にならないかもしれませんが、BC543年の5月か6月頃、あるいはそれに近い年で、火星が獅子座に入るかどうか。このややこしい計算をしてくださる人が現れれば、ブッダの生年を特定できるように思います。

 

 

 

チッタとヴィンニャーナ2021-03-06

前回心の構造について触れたついでに、もう少し心について書いてみたいと思います。ブッダは、動物(人)は名(ナーマ。抽象)と形(ルーパ)、心と体で成立していると見ます。心の部分を受・想・行・識の四つに分け、それに体である形(ルーパ)を足すと五蘊になると規定しています

 

一般に「体と心」と言う場合の心は、実は二層になっています。一番分かりやすい西洋の言葉で言うと、mind spirits の二種類で、マインドは体にと直結している心の部分で、感覚、記憶、注意集中、意思決定、情動、気分、自覚などです。マインドと体は同時に変化し、同時に上下します。スピリッツは体と関わらない独立した心で、マインドより高い道徳や宗教、思想などの部分です。

 

日本語では、spirits を精神と言い、mind を神(シン)と言います。パーリ語ではmindはチッタ、spirits はヴィンニャーナです。

 

mindの部分を指す日本語はあいまいで、調べて見ると、「@mind=精、Aspirits=神」と言ったり、「@心理、A神気」と言ったりしていますが、それらの言葉の意味するものの境界が同じでなく、二つの物を明らかに区別できる言葉でないようです。

 

貝原益軒は養生訓で『調息の法、呼吸をととのへ、静かにすれば、 息ようやく微かなり。かくの如くすれば神気定まる』と言っています。アーナーパーナサティの第一部、身随観では、呼吸を整えて心(チッタ)を静めるように、「息と並行して定まる、あるいは静まる」のはspirits ではなく mindです。

 

日本語には使い慣れた良い言葉がなく、使われている言葉も定義が確定していないので、私は「神(シン)」と「精神」という言葉が、分かりやすくて一番良いと思います。広辞苑の「神」の意味には、「身体に宿っている心」とあり、体との関係がはっきりしています。

神経は神が走る道、失神は一時的に心を失うことと、他の言葉との関連を見ても納得できます。精という字は混じり気がない、白くする、気力があるなどという意味なので、精神は混じり気のない神、力のある神です。

 

 

 

五蘊の形は身体で、受・想・行・識は心ですが、受は感じる部分、想は記憶し思い出す部分、行は考える部分の心で、この三つがチッタ、マインド、あるいは神と見えます。最後の識はパーリ語でヴィンニャーナと言い、ヴィンニャーナは、仏教用語では「識」と訳しますが、一般には「精神、魂」と訳すので、これがスピリッツ、精神の部分である心です。このように五蘊を見ると、心は二層になっていることが分かります。

 

感覚、記憶、知識、注意集中、意思決定、情動、気分、自覚などの範囲である、受・想・行であるマインド、あるいは神は高等動物にもありますが、道徳や宗教、思想などの範囲である、スピリッツ、あるいは精神と呼べる部分は人にしかありません。

 

カンマターナ(業処。あるいは瞑想)はマインド、神の部分の訓練です。色んな物を見て、聞いて、嗅ぎ、味わい、触れる度に、この部分の心(神)は休みなく変動し上下するので、安定しませんが、外部のどんな情報を受け取っても動じなくさせる訓練が、各種の瞑想です。しかしどんなに訓練しても、どんなに習熟しても、想受滅に至らない限り、努力で生じさせたサマーディが失われれば、心はもとどおり、不安定に戻ります。

 

だからブッダの方法は、四念処も、アーナーパーナサティも、心の訓練から初めて(身随観=体)、少しずつ智慧の部分に移動し(受随観、心随観=神の部分である心)、最後には智慧だけ(法随観=智慧、精神)にし、いつまでも体の影響を受けるマインド、神の段階の訓練に留まっていません。

 

精神の部分を育てるには、精神的体験と呼ばれる熟慮、あるいはヴィパッサナーをして、ただの体験を、何があっても消えない、変わらない智慧にすることだと思います。

「もう懲りた」「こう悟った」と言える状態にして心に銘じれば、それが精神の部分の知識にすることです。

精神の部分の知識を智慧と言い、これがその人の、宗教面から見た価値だと思います。

 

瞑想家の多くの人が、瞑想だけで解脱するとか、瞑想で悟れると発言しているのを聞きます。しかし神(チッタ、あるいはマインド)の力だけでは、心を支配している間だけの仮の解脱、一時的な涅槃はできても、本当の涅槃、完璧な解脱はできません。

 

薬物などを止めるには、初めは意思や気力や集中力などで自らを禁止しても、それだけでは本当に止めることはできず、何かの機会に再発する可能性があります。しかし「如意足のメカニズム」に書いたように、智慧や知識の部分(宗教や道徳である精神の部分)の力は神を支配できるので、薬物の魅力と、身体的、社会的、道徳的、宗教的な観点の害について、とことん学んで本当の恐ろしさを知れば、智慧の力でマインド、神を支配することができ、「二度と戻らない」というところに至ると思います。わずかでも、完全に止められる人もいるようですから。

 

同じように、心から無明を追放するには、神(チッタ、マインド)の話であるサマーディだけでなく、精神の話であるブッダの教えを学んで、自然の真実を漏らさず知り、如意足には如意足の四つが必要なように、涅槃に至るには何が必要か、涅槃に至らせる物を生じさせるにはどうするか、その過程を熟知して、初めから順に実践していけば、いつか阿羅漢に到達するはずです。

 

だから仏教は智慧の宗教と呼ばれます。神と呼ぶ心(チッタ、あるいはマインド)の力で解脱できると信じるのは、仏教の見解でなく、ヨギーなどの見解のように見えます。

 

 

 

如意足のメカニズム

何年も前、何週間も微熱が続き、動悸や息苦しさ、不眠、血圧の高下などの症状もあり、寝ていても辛い日々が続いたことがあった時、取り敢えずどこが悪いのか調べてもらおうと病院へ行きました。症状から疑えるだけの項目を詳細に検査しましたが、「どこと言って悪いところがない。むしろ年齢にしては良い数字だ」と言われて帰ってきました。すると一日付き添っていた家族が、「本当は病気じゃないんじゃないの? 病院にいる時は苦しそうに見えなかったし、元気そうだった」と言いました。

 

家で歩く時は、家具に掴りながら小さな歩幅でゆっくり歩き、イスに掛けるの食事のは食事の時だけで、食べ終われば一秒も早くベッドに戻り、食事の途中で横になることもありました。病院へ行く時のタクシーの中でも、できれば横になりたいほどでしたが、病院へ到着すると、そこは人目のある場所なので、できだけ大股でゆっくり歩きました。家にいる時のように体を屈めた見っともない姿で歩くのは、体は多少楽でも、精神的な意味で受け入れがたく、非常に苦だからです。

 

テレビ番組である医師が「お年寄りは、診察している時は元気そうでに見えても、本当は重症なことがある」と、つまり「診察室では大変そうな様子が見えないが、それを信じると重症を見落とす虞がある」という趣旨の発言をしているのを聞いたことがあります。病院へ診察に行った日の家族の発言と、クリニックで診察している医師の発言が意味する物は何なのだろうと心に掛かりました。

 

最近の芸能人は、仕事中に絶命するのを理想とする人が何人もいて、亡くなる数日前まで撮影に参加し、あるいは舞台を勤める人がいます。中には病気を隠していて、報道で聞いた限りでは、周囲の人も、その人が亡くなるまで病気であることに気づいてない場合もあります。

 

美空ひばりは最後の数年間は病苦との戦いで、最後のTV番組の収録の時、プロデューサーに「この番組が最後になるかもしれないからね。私ねえ、見た目よりもうんと疲れているのよ。一曲終わる度にガクッとくるの」と話したそうです。立っているだけで精一杯の体で、歌い終わる度に舞台の袖で体を横たえ、目を瞑って休息しながら、不死鳥コンサートを成し遂げた時の舞台裏の様子を、ドキュメント番組で見たことがあります。あれほどの重態でも、精神力だけで、非常に体力を消耗するコンサートを敢行できるものかと、不思議に思った記憶があります。

 

ブッダヴァチャナによるブッダの伝記を読むと、その時私が「精神力」と見た物は、実は「如意足」ではないかと気づきました。

 

如意足の如意とは「思いのまま」という意味で、足と言うのは、動物やテーブルのように四つあるので脚と呼びます。つまり四項目の魔法という意味です。

 

1.欲(チャンダ) それにを愛して満足すること

2.進(ヴィリヤ) その努力すること

3.心(チッタ)  本気で関心を持つこと

4.思惟(ヴィマンサー) それの道理をひたすら広く調査し熟考すること、の四項目です。

 

プッタタート比丘は、次のように説明しています。

 

『チャンダは、自分が「人間が得るべき最高に善い物」と信じる物として満足することで、この項目は、後のすべての項目が功徳を生じさせる、最初の気力になります。

 

ヴィリヤは努力で、成功するまで長く途切れることのない連続した行為を意味します。この言葉は、一部に勇敢という意味が含まれています。

 

チッタは自分の気持ちからそれを放り出さないで、いつでも心の中で、その目的をはっきりさせておくという意味です。この言葉には、サマーディという言葉の意味が十分に含まれています。

 

ヴィマンサーはその成功の原因と結果を、いつでもどんどん深く調べて熟慮することを意味します。この言葉は智慧という言葉の意味を十分に含んでいます。

 

この四つがある人は、人間にとって不可能でないことに成功します』。

 

 

死に近い芸能人を例にすると、舞台などを勤めることを「最高に良いことと信じて満足し(欲)」、そうする努力し(進)、途切れることなく決意を維持し(心)、医師やスタッフなどと相談して、最善の策を練っておく(思惟)ことで、人間にとって不可能でないことを成功させる如意足=魔法になります。

 

老人の中には、病院では普段より元気に振る舞う人がいるのは、人前で見苦しい姿を曝さないことは「最高に良いことと信じて満足し」、「そうする努力をし」、「途切れることなくそのことにサマーディがあり」ます。そうすることの結果は、自分自身の沽券を維持するために不可欠と、熟慮とは言わないかもしれませんが、確信しているので、如意足の四つが揃います。

 

病院でシャキッとしていても、普段より苦しいということはありませんが、家に戻ると、病院にいた時のようにシャキッとできません。それは「満足」も「努力」も「本気」「原因と結果の熟慮」もないから、つまり如意足(魔法)を維持する意味を感じないからだと思います。

 

ブッダは、自身の死をアーナンダに予告した後、「四如意足で一劫(世界が一回終わるまでの時間)も生きられる」と言われています。二度、そのように言われ、アーナンダは二度とも「死を遅らせてください」と言わなかったので、涅槃の直前になって「まだ涅槃なさらないでください」と懇願すると、ブッダは「もうできないと」と拒絶なさり、予定通り涅槃されました。

 

また同じ頃、ブッダは「サンカーラの変化による苦受を受け取り、如意足で凌いでいる」とアーナンダに話されています。

 

意志の強い芸能人は一日、あるいはリハーサルなどを含めて数日維持することができ、一部の老人は、診察に行く数時間だけ維持できるので、ブッダのように本当の満足と、努力、完璧なサマーディと思惟、つまり本物の四如意足があれば、本当に一劫でも生きられるのかもしれません。

 

もう一つ、別の角度で熟慮すると、プッタタート比丘は、ある話の中で「人には心と体があるが、心の部分は神(シン)と呼ぶ部分と、精神 と呼ぶ部分があり、一つではない。神は体と繋がっている心で、精神は、体がどんなに苦でも、少しも影響を受けずに維持できる」と話しています。

 

普通に心と呼ぶのは、実は神で、体が苦なら神も影響を受け、反対に恐怖や不安などで神が病めば、次第に体も不調を来たし、表裏のように深い関係です。しかし精神は、思想犯などはどんなに拷問を受けても転向しないように、体がどんなに苦でも、幸福でも揺らぐことはありません。

 

この見方は日本にも昔からありました。神経というのは、体に影響される心の部分である神が走る経路で、安神薬は、体でなく、神の部分を落ち着かせる薬と分かります。mental spiritual という言葉があるので、西洋にも「心には二つの部分がある」という見方があったと思います。

 

精神と呼ぶ部分は体の影響を受けない、純粋に心だけの部分です。

宗教や、宗教的な環境は、精神の部分を育てると考えます。そして強い精神は、体に支配される部分である神を管理できると思います。だから如意足のメカニズムは、精神による神と体の支配と見ることができます。

 

如意足という言葉を聞いたことがない庶民でも、体や神(メンタルな)の話ではない、

「満足」「努力」「サマーディ」「周到さ」は、精神の話で、強い精神の人は、死の直前など、ここぞという時に如意足を使うことができるようです。

ブッダは、一部の人が使っている、あるいは自分自身も使う不思議な力をご覧になって、その心を分析して要素を探し出し、四如意足を規定されたのだと思います。

 

またブッダは「人が四如意足に励んでたくさんし、乗り物のようにし、敷台のように安定させて、すべてを良く訓練すれば、堅忍不抜になり始め、その人が望めば、一劫でも、一郷以上でも存在することができます」

 

「比丘のみなさん。このように四如意足に励んでたくさんしたので、私はこのような神通のある人になり、いろんな軌跡を見せることができ、一人の人を大勢にすることができ、大勢を一人にし、隠れた場所を明らかな場所にし、明らかな場所を隠れた場所にし、空気の中を歩くように支障なく壁や塀を通り抜け、水に潜るように大地に潜って浮かび上がることもでき、地面を歩くように水面を歩くことができ、翼のある鳥のように結跏趺坐したまま空を行くことができ、掌で太陽を撫でることができ、梵天界まで体の威力を見せることができます」と言われています。3-3. (hahaue.com)

 

だからいつでもそのように如意足努力することで、どんどん心が堅忍不抜になり、最後には神足通まで習得できるかもしれません。

 

ブッダの言葉によるブッダの伝記には、「これが主な仕事としてチャンダに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」

「これが主な仕事としてヴィリヤに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」

「これが主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」

「これが主な仕事としてヴィマンサーに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」

というブッダの言葉があるので、同じ如意足のサマーディにも、「満足、努力、心、智慧」と、依存するものの違いによって四種類あることが分かります。

 

これが、主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足

 これが、主な仕事としてヴィマンサー(智慧)に依存したサマーディがあり、作るものが全部揃っている四如意足です。

 

 

 

 

 

2012-08-23

仏教という名のヒンドゥー教

タイの仏教の本を翻訳し始めてから十余年の間に、たくさんの「仏教に関心のある人」に出合いました。しかし「仏教に関心がある人」の多くは瞑想に関心がある人であり、ブッダのタンマとその実践は、瞑想の進歩を助けるものくらいに捉えているようです。だから仏教徒であること、清信士、清信女、つまり善男善女(ブッダの教えにしたがって静かで慎ましく、正しい生活をする人)であることにも関心がありません。

本当の意味の仏教徒は善男善女なので、本当の意味の仏教徒でなければすべて悪男悪女であり、悪男悪女は異教徒です。異教徒は当然滅苦に向かう仏教の道を歩むことはできません。日本に限らず、世界中の「仏教に興味がある人」のほとんどが「瞑想に興味がある人」である理由は何なのかを洞察してみました。

それは、インドは中国に次ぐ人口の多い国であり、インドの宗教の多くが瞑想をするからではないでしょうか。インドで繰り返し生きたことがある人がヒンドゥー教のない国々に生まれると、ヒンドゥー教に近い仏教全般に関心を持ち、そして瞑想をして、それを仏教と理解します。

大昔は日本とインドの間に縁はありませんでしたが、インドで生まれた大乗仏教が浸透するにつれて、インドでバラモン(階級)として生きたことのある人が日本に生まれ始めます。バラモンは在家の僧であり、儀式を司る人なので、中世後半から、日本の仏教は葬儀を行なうようになり、妻帯する僧侶が現れ始めます。その後、インドでバラモンとして生きたことがある人との縁を頼って、政治や闘いをする階級であるクシャトリアだった人が生まれて来ると、日本に武士階級が生まれ、武士が政治をするようになります。

江戸時代になるとカーストとよく似ている「士農工商」の身分制度ができました。「士」はクシャトリア、「農」はバラモンと僧侶、「工商」はバイシャで、その下はシュードラに相当します。違うのは、インドではバラモンが制度を作ったのでクシャトリアより上ですが、日本で制度を作ったのが武士だったので、武士を最高位に制定している点だけです。

古代ギリシャ
にあった身分制度は、市民と奴隷の二階級だけであり、朝鮮半島にあったのは、両班(貴族)、中人(工商)、常人(百姓)、賤民であり、その区分は明らかに異なります。バラモン教の考えなしに、農を上から二番目に規定する考えなど、誰が考えるでしょうか。

なぜバラモン教の人たちが日本にたくさん生まれるようになったのかを見ていくと、インドの北部は、十世紀後半からたびたびイスラム勢力の攻撃を受け、一二〇六年から約三百年間、イスラム王朝に支配されていたのが分かります。つまり、その間、その地域にバラモン教の人は生まれていません。その時代の日本とインドとの接触があったという説は聞いたことはありませんが、不思議なことに戦国時代や安土桃山時代の城の形は、インド北部の家に良く似ています。

たとえば帝釈天、弁財天、毘沙門天鬼子母神などはすべてヒンゥー教の神ですが、それが日本中に祭られています。それらの神を守護神として祭った武将もいます。これらの事実は、当時の日本には、過去世でインド人として生きたことがある人がたくさんいた、ということを表していないでしょうか。

地図でお寺の記号になっている卍は、ジャイナ教のシンボルマークですが、至る所のお寺にあります。最古のは薬師寺の仏像の足の裏に書かれているものだと言われています。なぜ足の裏かを考えると、仏教ではない印を仏像に密かに書く場所は、足の裏くらいしかないからで、隠れキリシタンが仏像の裏に十字架を書いていたのと同じ心理ではないでしょうか。
その後次第に大胆になり、堂々と表を飾る模様に使われ、お寺の印になりました。

大乗仏教
の神々はみなヒンドゥー教から取り入れたものであり、瞑想を修行の王道とすることや、いろんな儀式をあること、大我と一体になることを目指す点などは、パラマートマンと一体になるヒンドゥー教に酷似しています。そして大乗には、ブッダが禁じた「苦行」の類をする宗派もあります。

いろんなタイプの肉食を避けることも、インドのいろんな教義、特にジャイナ教の考え方ですが、江戸時代の日本では四足の動物の肉を食べることを禁じ、中国の仏教は、インドで神聖な動物である牛を食べることを避けました。生類憐みの令のような極端な動物愛護もジャイナ教です。その思想が発展して、食べ物を食べずにミイラになることを崇拝しますが、日本にも即身仏になるお坊さんがいます。

ヒンドゥー教
では、ブッダを神の一人としていますが、大乗の釈迦如来も、多くの如来の一人です。以上の様々な角度から見ると、大乗は東アジアのヒンドゥー教ではないでしょうか。

 

 教義の点から見ると、アッタカター(シンハラ語からパーリ語に翻訳された経)にはヒンドゥー教の経が幾つも混入していると言い、「ヒンドゥー教と仏教の教義の違いは、無我だけ」とターン・プッタタートは言っています。
 
ブッダ
の仏教は東南アジア一帯と見られていますが、それらの地域の仏教も、宗教儀式があることを見れば分かるように(ブッダの仏教には宗教儀式はありません)、すべての地域で大乗とテーラワーダが混合しています。先ほど述べたように、過去世でヒンドゥー教が沁みついている人が多いので、大乗やヒンドゥー教と同じ部分を好むからです。だからターン・プッタタートがいつも指摘していたように、ヒンドゥー教と共通の部分を好む人ばかりで、正真のブッダの教えの部分に関心のある人はほとんどいません。

だから「仏教と言われているもの」「仏教と信じられているもの」のほとんどは、本当はヒンドゥー教なのです。本当の仏教の教えは、分量で言えば三蔵の四割くらいだと言いますし、内容で言えば「滅苦」や「無に関したものだけですが、それらのブッダの言葉に興味を持つ人は、現在のインドシナ半島にも少ないです。

だからインドシナ半島で生きたことがある人が他の国に生まれても、興味を持って近づくのは、やはり「ヒンドゥー教(特にジャイナ教)に酷似している仏教」、「瞑想と慈悲と肉食忌避の仏教」あるいは「仏教という名のヒンドゥー教」でしかありません。

今の世界は、キリスト教徒が約十九億人、イスラム教徒が十億人、ヒンドゥー教徒が八億人、仏教徒が三億人と言われています。しかし三億いる仏教徒のほとんどすべては、実質的にはヒンドゥー教です。

ブッダ
のライバルだったニカンダ ナターブッダマハーヴィーラ)の教義であるジャイナ教は、仏教と違って、ほとんどインド国外へは広まらなかったと言われていますが、卍のマークが世界中のいろんな教義で使われていることからも分かるように、ベジタリアンや程度を越えた動物愛護家やアンチ毛皮派や、瞑想愛好家や、ヌーディストなどが世界各地にいることからも分かるように、 実際には仏教より遥かに多く、世界中に広まっています。

しかし仏教のように名前が有名でないので、滅苦を目指す本当の仏教の教えを知らないので、西洋人は、日本人でも韓国朝鮮人でも、モンゴルやチベット人でも同一視して「中国人」と呼ぶように、、実はヒンドゥー教の教えや実践を人は仏教と呼びます。

だからブッダのタンマを学び、実生活の中で休まず実践して一つ一つ煩悩を減らす修行ではなく、「修行とは瞑想することだ」と執着している人は、繰り返しヒンドゥー教や大乗の地域で生きたことがあり、心にヒンドゥー思想への執着が沁みついている人かも知れません。

 

 

 

タンマの実践は三本撚りの縄

ブッダの教えの目的は滅苦、すべての苦から脱すことです。何か素晴らしいものを得るのではなく、望ましくないものを捨てて本来の在り様(自然物質である体と心)に戻ることです。

「完璧な滅苦の方法」を発見したのはブッダだけなので、同じように完璧な滅苦を目指すには、すべてブッダの言葉でなければできません。ブッダの経を直接学んで実践した人の教えを試してみるか、自分で直接パーリ語経典(ブッダヴァチャナ)を学ぶか、二つの方法があります。

自分だけの方法、あるいは自己流で実践している人の教え、あるいは誰かが開発した方法では滅苦はできません。ブッダの門下のように見える人でも、自己流の方法を考案し説いている人がたくさんいます。滅苦の方法は、「ブッダ以外に知る人はいない」「厳密にブッダの系統以外にはない」と知ることが初めです。これはやがて「疑」を捨てる原因や縁になります。

ブッダ
が説いた滅苦の教えで、最重要なのは四聖諦です。苦の状態(苦諦)と、苦の原因(集諦)と、苦を滅した状態(滅諦)と、滅苦の道(道諦)が示されています。だからこの道諦を実践すれば、苦を滅すことができます。道諦は八正道とも言います。

ブッダ
は、涅槃の寸前に懐疑を質しに来た異教の人に、「八つの道(つまり八正道)のある教義には、阿羅漢がいる。八つの道のない教義には、阿羅漢はいない」と言っています。この言葉から、完璧な滅苦(阿羅漢になる)をするためには、八つの正しさがなければならないと言うことが分かります。

四聖諦と八正道は、ブッダが大悟した後、滅苦の教えは非常に難しいので、人間に教えようか教えまいか悩んだ末、人類の利益のために広めようと決意した初めての説教、初転法輪の中の経でもあります。そのことからも仏教で最も重要な原則であることが分かります。

初めは厳密にブッダにこだわらなくても良いのではないかという人がいますが、たとえば大工仕事など、小学校の工作で作る木箱のように簡単なレベルでも、構造はどんなに簡単でも、簡単なのは構造だけで、原理原則は厳格でなければならないのと同じです。初めから厳格な原則で、簡単な構造を勉強すれは、次第に難しいレベルへ発展して行きます。しかしいい加減な方法では、先へ進むことはおろか、簡単な構造の物も完成しません。

八正道を内容で見ると、智慧(正見・正志)と戒(正語・正業・正命)とサマーディ(正念・正定・正精進)の三種類に分けられます。これを三学と言います。この三つが揃っていれば、滅苦の実践になります。どれか一つだけ、一種類だけの実践では、滅苦の実践にはなりません。

多くの人は、心を鎮める実践、あるいは揺らさない実践、つまりサマーディの部しか見ていません。だから生じてしまったものを止めることはできても、次々に生じるのを止めることはできません。だからサマーディの力による一瞬の滅苦でしかなく、しかも発生は際限なく続きます。ブッダが言っているように、「八つ」あるいは「三種類」を同時にすれば、発生したものをサマーディで止めながら、戒と智慧で生じること自体を抑えることができます。

「戒学」を八正道で言えば、正しい言葉、正しい行動、正しい職業です。これらの正しさとはどんなことかを、ブッダの言葉で学び、ブッダの言葉と一致させます。ターン・プッタタートはブッダヴァチャナだけを基本に説いているので、師のいろんな話を読んで学ぶことができます。最初は「初心者のための仏教」二部四章で簡単に意味を掌握できます。

「三昧学(定学)」である瞑想を八つの正しさに当てはめると、正しいサティと正しいサマーディになります。しかしブッダの「正しさ」と呼ぶには、自己流や、誰かの自己流ではなく、ブッダの言葉(ブッダヴァチャナ)に依拠していなければなりません。心の、こういう状態をこうと見なすという規定は、ほんの少し違えばブッダのものでなくなり、滅苦のできない類になります。どれも似通ったものだからです。だからブッダ以外の手法は、わずかな違いでも役に立たない、と見る方が無難だと思います。

八つの正しさの中で、つまり仏教の実践で最も重要なのは「正しい見解」つまり「智慧学」です。正しい見解があれば、自然に「正しい望み」「正しい言葉」「正しい行動」「正しい生活」と、次々に正しさが生じるからです。反対に、正しい見解がないのに他の正しさを維持しようとすれば、非常な努力を要するばかりでなく、努力を止めれば、休めば、元の黙阿弥です。

正しい知識が最も重要なのは、何をする場合でも同じです。たとえば車の運転をするには、運転に関したした知識が一番大切で、集中力は知識を十分に使えるようにし、戒は、十分な集中力を生じさせるものです。戒と集中力は、使う知識次第で何でも成功させますが、知識と組ませなければただの部品にすぎず、目的のある働きをしません。

 

「正しい見解」とはどういうものか、プッタタート師が特にそれを主題に説いている話は、公開している訳文にはありません。しかしすべての法話は正しい見解のためと言うこともできます。弟のタンマタート著「初心者のための仏教」二部四章には「正しい見解」という見出しがあり、そこでは善、誠実、正義と、苦に関した知識(聖諦)が説かれています。

初心者の正しい見解はそれで十分ですが、初心者レベルを脱すためには、「因果律(縁生)」と「三相」の理解が不可欠です。四聖諦と因果律と三相を、ブッダが言った意味で正しく理解して、何を見るにも、「原因があって結果がある」「すべては変化するので、自分のものではない」と見れば、「実践者として十分正しい見解」と言えます。

つまりどんな危機に遭遇しても、どんな状況に遭遇しても、あらゆるものを因果律と無常・苦・無我で見ることです。そのためには、今挙げた重要なタンマを、ブッダが言った意味で正しく理解する必要があります。「本当にそうだ」としみじみ実感するまで、深く追体験する必要があります。

因果律
とは、「すべては原因と縁によって生じ、原因と縁によって変化し、原因と縁が終わった時消滅する」という自然の法則です。だから原因と縁によって生じたものを嫌悪(怒り。無渇愛)せず、原因と縁がないために生じないものを求め(欲。渇愛)ず、原因と縁によって生じる変化を恐れず、原因と縁が終わって消滅したものを惜しまない(執着)ことです。

因果律
をよく理解すれば、正しい原因をつくるために、自然に「戒」つまり言葉と体の正しさが生じます。口業、身業よりも、意業の量と威力が大きいことを学んで熟慮して知れば、正しい原因を作るために、自然にサマーディを生じさせる気持ちが生じます。言い方を変えれば、俗人が好き勝手な生き方ができるのは、因果律を知らないからです。因果律を本当に知れば、勝手気ままな生き方、智慧に欠ける生き方は、怖くてできなくなります。

三相とは、「すべてのものは、それを作り出した原因と縁によって常に変化している(無常)ので、無常が見える目でそれらを見ると哀れを感じる(苦)。何物も変化の途中の一時の姿でしかないので、それらを「自分」「自分のもの」「自分の何か」と執着することはできない」という知識です。

ターン・プッタタートは日没まえに」の中で、正しい見解は、「タタター(真如)」や「タンマディタター」「タンマニヤムター」などの真実を見るのでも良いとあります。ごく簡単に言えば、すべては原因と縁によって「なるようになる」「なるようにしかならない」「他になりようがない」という真実を見ること、見えることです。それも正しい見解と言っています。

その部分で更に、「幸福をプラスと見ていれば、まだ愚かです」と続けています。幸福や不幸、損や徳、善や悪など、どちらかの価値を捉えていれば、正しい見解ではないということです。「損も得もない。幸福な自分も、善である自分もいない」と見れば、正しい見解です。

これらの知識を、自分の重要な出来事を素材にして熟慮し、いろんな出来事をこの観点で観察すれば、「智慧学(慧学)」の実践になります。実際に何かが自分に振り掛かって来た時、これらの知識で対処できれば、その時知識は智慧になります。いつでも安定してこれらの知識を使うことができれば、智慧があると言います。

戒とサマーディの実践は、朝起きてから夜寝るまで、起きている間中、いつでもします。戒とサマーディは見えやすいので簡単です。智慧学は目に見えないので、習慣のない人には初めは大変です。しかし最も重要な「智慧になる知識」を学んで熟慮し、自然の法則である真実を観察するために、もっとたくさんの時間を使うべきだと思います。智慧があれば、他の二つは自然に生じるからです。ブッ教は智慧(自然の真実を知る)の教えです。戒やサマーディの威力で抑えない点が、ヨギーなどと違う点です。

戒(体と言葉の正しさ)とサマーディ(心の正しさ)と智慧(正しい知識を使う)が全部揃えば、それがブッダの言う八つの正しさになり、初めて滅苦の実践、本当のブッダの仏教の実践になります。すべてブッダの教えが基本にあるので、ブッダのタンマの実践と言えます。

ブッダ
が「八つの道がある教義には阿羅漢がいる」と言っているように、「八つ」を揃って実践する心には、厳密さと努力に応じて、滅苦が現れます。

実践を始める前に、その方法ですれば正しい結果が現れるという理由があるかどうか、良く聞いて(勉強して知り)、その行動がどんな理由でどんな結果を生じるか良く理解して、何も疑問が無くなってから始めるよう、ブッダは言っています。よく分からない部分を、推測や信仰で埋めて出発すれば、ブッダの仏教ではなくなります。

 

 

 

 

タンマの実践は三本撚りの縄(補足)

ブッダの仏教の実践には智慧学が一番重要だということを、更に良く理解していただくために、もう一度同じ話題です。ターン・プッタタートは、仏教の実践だけでなく、「何をするにも戒・サマーディ・智慧が必であり、この三つは撚り合わさっているもので、別々にはできない」と言っています。

本当はどんな行動も同じですが、余り簡単なことでは例えにふさわしくないので、車や飛行機の運転を例にすると、これにも、戒とサマーディ(落ち着き又は集中力)と智慧が必要なことが分かると思います。教習所へ行くと、理論を勉強し技術を習います。これは智慧や知識の部分です。実際に運転をする時は、サマーディも必要です。注意力が散漫では運転できません。そして、適度なサマーディを生じさせ維持するためには、戒も必要です。

車の運転に戒が必要には見えませんが、動物や人を殺した後運転すれば、心が動揺して、必要なサマーディは期待できません。盗みをしても、他人の配偶者と密会しても、あるいは嘘をついても、心のサマーディは失われます。酒類を飲めば、物理的にサマーディが害されます。だから何をするにも、良い結果にするにはサマーディが必要で、サマーディを維持するためには戒が必要です。

サマーディがなければ、宛名一つ綺麗に書けません。サマーディがなければトーストも良く焼けません。サマーディがなければトイレットペーパーを切るような簡単なことも、きちんと出来ません。だから何をするにもサマーディは重要です。そしてサマーディを生じさせるためには、戒が必要です。

だからと言って、車の運転を習いに行ったら、サマーディの訓練から始めたらどうでしょう。飛行機の操縦を習いに行って、サマーディばかり何年も訓練されたらどうでしょう。オリンピックの体操やフィギアスケートには高いサマーディが求められますが、弟子入りして、サマーディの訓練ばかりさせられたらどうでしょう。

何の訓練でも、戒とサマーディはあるという前提で、最初から知識や技術を教えます。大人になった段階で、「人間として必要なサマーディと、そのサマーディを生じさせる戒はある」と見なします。言い換えれば、社会人に必要なことができるサマーディと、サマーディを生じさせる戒は、大人になるまでに家庭や学校で訓練されていなければなりません。

だから何かを習いに行っても、サマーディの訓練はしないし、戒も言い渡されません。柔道や剣道など、道という字がつくスポーツの「道」の部分は、「戒」であり、精神性を重視することで普通以上のサマーディをつけさせます。

しかし普通の物を習う時は、直接それまで知らなかった専門的な知識や技術を学びます。非常に精巧な技術なども、段階的に訓練すれば、それぞれの段階に必要なサマーディは自然に具わって行くので、サマーディの訓練だけをさせる職種、あるいは技能はないと思います。

飛行機の操縦は、車の運転より多くの知識を必要とします。車の運転は、バイクの運転より多くの知識が必要です。同じように、滅苦の実践には、四聖諦や八正道、縁起や五蘊や三相など、内面世界についてちょっと知識が必要です。しかし、多すぎると言うほど多くはないと考えます。

サマーディは、それらの知識を熟慮するために必要ですが、高度なことを考えれば考えるほどサマーディが深くなるという原則があるので、熟慮を始める前には、普通に戒のある生活、つまり「節度のある慎み深い生活」つまり、「世俗の喜びのない生活」をしていれば、普通のサマーディで十分だと思います。反対に、戒や節度のない暮らし、慎みのない生活、喜びを追求している生活をしていれば、普通のサマーディでさえ期待できません。

戒や慎みのある生活をしていれば、あとは使う知識次第で、何をしてもうまく行きます。サマーディしかしないで、戒と智慧を忘れているのが瞑想族で、知識ばかりで戒とサマーディを忘れているのが今の学習家です。戒ばかりで、智慧を忘れているためにサマーディも生じない人たちも、たまにいます。

ブッダ
の仏教の実践には、最初にサマーディにしようと考えるより、「サマーディを生じさせる生活」、つまり戒や慎みのある生活を心がけ、勉強は智慧の部分、「正しい見解」の部分を増やすこと(つまり自分の論理を捨て、自然の法則に合わせること)です。正しい見解で世界を見れば見るほど、熟慮すればするほど、サマーディは自然に深くなるからです。

 

 

三相の苦=ドゥッカター

四聖諦の苦と三相の苦は違うのですかという質問があったので、「耐えがたい状態」である苦、煩悩が原因である苦、つまり四聖諦の苦と、三相の苦の違いについて説明します。

三相とは、「万物の無常・苦・無我である状態」であることはご存じだと思います。パーリ語を調べて見たら、堪え難い状態という意味である四聖諦の苦は「ドゥッカ」ですが、三相の苦は「ドゥッカター」で、「ター」がついています

ヴィパッサナーをする時には必ずこの、「無常・苦・無我」の形で見なければならないので、これを理解することは、ブッダのタンマを実践するためには不可欠です。ヴィパッサナーとは「真実を見ること」と説明されていますが、現象である事実を見ることではなく、普遍的真実を見ることです。しかし真実を見ると言っても漠然とし過ぎて、何をどう見るのか分りません。ターン・プッタタートは、「何らかのものを無常・苦・無我で見ること」と言っています。

無常・苦・無我について「人間マニュアル」では、次のように説明されています。
『無常とは不確実なこと、すべてのものは常に変化している状態であり、変わらないものは何もないという意味です。苦とは、すべてのものは苦の状態であり、明らかな見解のない人の心を苦しくするという意味です。無我とは自分でないこと、すべてのものには実体がないので、これが自分、これが自分のものと捉えられる状態は何もないという意味です』。

無常は、たくさん説明する必要はないと思います。お茶やコーヒーが冷めるのを見ても、朝昼晩の変化や一年の季節の変化を見ても、人の一生や死を見ても、すべては変化していると、誰でも見ることができます。無常とは「既に見えている変化」だからです。

苦(ドゥッカター)は、「すべてのものは無常なので、それらに執着するべきではない」という無我に導く橋渡しをするタンマです。「明らかな見解のない人の心を苦しくする」という感覚は、中世の「あはれ」、現代語では「切ない」に近い感覚です。

中世の「あはれ」という感覚はそこで止まってしまって無我へ導かなかったので、「世を儚む」という感覚になりました。天皇や皇族や貴族など当時の知識人の多くは、無常であり苦である世間に厭きて隠遁生活をしました。(当時の仏教に無常と苦までしかないことは、実体はヒンドゥー教であることを表しています。ヒンドゥーには無常と苦まであるとターン・プッタタートが言っています。)

三相の苦は、たとえば桜の美しさは、どんなにもっても数日であることを、誰でも知っています。「一夜の嵐」ということも知っています。「想定外」などと言うバカな人はいません。すぐに散ると誰でも知っているので、その美しさと儚さを思うと切なく感じます。「私の桜」と執着できないと感じるからです。だから、さくらに執着する人はいません。さくらに無常と苦が見えるので、無我に近づきます。「無常」が「既に見えている変化」に対して、「苦・ドッカター」は、「未然の変化、まだ生じていない変化」です。

たとえばお祭りなどで売っている水素風船は、見ると綺麗なので幼い子は欲しがります。しかし大人は、翌朝には凋んでいる姿が見えるので、もったいない、詰まらない、もっと良い物を買って与えようと思います。大人は風船の翌朝の変化、つまり「苦」が見えるので、溺れて執着しません。だから大抵の大人は、水素風船に無常・苦・無我が見えます。

しかしその人も、綺麗な洋服や、格好いい時計などには未然の変化、「苦・ドゥッカター」が見えなければ、素晴らしさはずっと続くと勘違いして、欲しがり、所有し、溺れて執着します。この人には洋服や装身具等の「無常・苦・無我」が見えません。そういう物は詰らないと考える人は、詰らないと見ている物に「無常・苦・無我」が見えています。しかし、車や家には「無常・苦・無我」が見えないで、欲しがるかもしれません。

 

いろんな物質に「無常・苦・無我」が見える人も、名声や名誉や社会的地位などに「無常・苦・無我」が見えなくて、それらを渇望するかもしれません。

今自分の心を惹きつけているもの、自分が関心のあるものをよく見て、それは変化しないか、永遠に魅力的かどうかをあらゆる角度から見て、「変化しないものは何もない」と見、物質なら「一瞬後に燃えて無くなることもある」と見、抽象的なものなら「名誉や地位は、突然降りかかる火の子のような出来事で、すべてを失うこともある」とヴィパッサナー(自然法の)して見て、それらに対する執着を止めます。

カギカッコで囲った部分は、まだ生じていない変化、つまり「苦・ドゥッカター」を見ることです。既に見えている変化である無常は、常に意識しているかいないかの違いはありますが、誰にでも見えます。子供にも見えます。無常を、いま無常が見えている物だけの性質と見ないで、すべてに共通の性質と知れば、どんなものにも苦・ドゥッカターが見えます。

今自分の心を捕えるものを、一つ一つこのように「無常・苦・無我」でヴィパッサナーして、執着を捨てて行くと、一つずつ執着が減り、ある程度消えた時点で、ある時同じレベルの執着が一斉になくなります。そして一つ上のレベルのものを同じように「無常、苦・無我」でヴィパッサナーして、一つずつ減らして行くと、またある時同じレベルの残りの執着が一斉に消える、という繰り返しで滅苦に至ります。ターン・プッタタートはブッダの言葉に従って、このように「無常・苦・無我」で見ることが、ブッダが言われているヴィパッサナーと説明しています。

一番低いレベルは、体、つまり性欲や性欲に関わる人や物、生活すべてへの執着で、中間のレベルは、趣味や道楽のようなものへの執着で、最後のレベルは名誉や名声など、抽象的なものへの執着です。これらを段階的に捨てて行って、完璧に捨てれば滅苦は終わります。

このようにすれば滅苦ができそうかどうか、考えて見てください。これ以外の手法のヴィパッサナーで、本当に滅苦ができるか、考えて見てください。できると考えるなら、滅苦に至る過程に納得できる理由があるかどうか考えて見てください。

滅苦のためのヴィパッサナーに不可欠な「無常・苦、無我」、特にまだ知らない「苦」と「無我」をよく理解して、日常生活で心を捕えるものに出合ったら、そのものの「苦」と「無我」が見えるように、ヴィパッサナーする練習をして見てください。

 

 

 

「ブッダ最後の旅」の「不放逸」について

ブッダ最後の旅」という本の中に『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』という言葉があります。原始仏教関連の本は少ないので、ブッダの言葉を学ぶ人たちの間でこの本は有名です。しかし、この文の中の『怠ることなく』という語について、私は誤訳だと思います。

この部分の原語は appamaada で、意味は『不注意、迂闊、油断』だからです。水野弘元編のパーリ語辞典では、この語の意味は『不放逸』とあり、国語j辞典にある不放逸の意味は「怠慢、怠惰、勝手気まま」とあります。ブッダ最後の旅の出版年は辞書の出版年の五年後なので、この辞書が元になっているのかもしれません。

しかしappamaadaが不放逸では、ブッダが最期の最後に「勤勉」を説いたことになってしまします。怠けないよう勤勉にするには理性だけあれば足りるし、愚かな類の勤勉もたくさんあります。「勤勉」はブッダ以外でもたくさんの宗教や道徳家が説いています。そして『怠ることなく』勤勉にするのは、通常は仕事や勉強や修行なので、次の言葉が『修行』と訳されてしまいました。

ポーオーパユットー著、野中耕一訳の「仏教辞典」では、訳者は水野弘元の訳語のまま「不放逸」としています。しかし著者が直接三蔵の引用で説明している部分は、『念(サティ)を欠くことなく住すこと、念(サティ)で促しコントロールして、すべての実践・行為を自覚し、責任ある義務を常に念頭において、放棄することなく、真剣に周到に前進すること』とあります。

だから、訳者は「不放逸」という訳語を当てていますが、著者の説明は『不注意や迂闊や油断』という意味の説明になっています。「サティが欠けないよう維持し、サティで管理して、すべての行動を自覚し、義務を念頭におき、真剣に周到にすること」は「怠惰でない」話ではなく、「油断をしない」話です。

このように二つの理解がある場合、一般の人は他の事例を調べてみて、同じ事例がたくさんあれば多い方を正解と見なしがちです。しかし辞書などの根本が間違っている場合、そうした判断法は大きな失敗に繋がります。

仏教辞典の著者であるポーオーパユットーはタイのお坊さんなので、スリランカビルマではどのように使われているか調べる方法もありますが、それも簡単ではないのと、全部が同じ間違いをしている場合もあるので、多数の見解を正解とするのも正しくありません。あるいはみな違う場合は更にややこしくなります。

こんな時はブッダカーラーマ経で教えているように、「誰が言っているから」とか「どの本にあるから」「みんなが言っているから」「ずっとそう言われているから」「自分の考えと一致するから」などという理由で正しいと判断して信じるのではなく、理由と自分の知性であらゆる角度から熟慮して判断するのが良いです。

「油断や迂闊」でないこと、「周到であること」には、心の静かさ、つまりサマーディ(三昧)と智慧が不可欠です。心に後ろめたさがあれば心の落ち着きは失われるので、サマーディのためには戒も必要です。これで、appamaada『油断のないこと』という言葉には、戒・定・慧の三学が必要になり、仏教の完璧な実践になります。怠けないだけでは、第一義の仏教の実践にはなりません。

もう一つの角度から見ると、不放逸、つまり怠慢、勝手気ままでないことは世俗的な仕事を成功させます。ブッダの教えの実践にも「勤勉」は欠かせませんが、八正道の一項目「正精進」でしかないように、ブッダの教えの実践の「一部」です。迂闊でないこと、油断をしないことは、既に説明したように戒・定・慧のすべてを必要とするので、ブッダの教えの実践のすべてが揃っています。

以上の理由で後者(油断のないこと)は仏教の教え、仏教の実践になり、怠けないことだけでは滅苦に繋がらないことが分かります。世間一般にあるいろんな宗教の教えと同じ(世俗諦レベル)なので、ブッダの仏教の教えや実践ではありません。

パーリ三蔵・長部マハーヴァッガの中の、智慧解脱について説明した言葉に、『彼は注意深くしなければならない仕事を成功させ、そして二度と不注意な人に戻ることはない』というのがあります。この文の「不注意」の部分に「不放逸」つまり怠慢や勝手気ままという意の訳語を使えば、解脱とは『怠慢でなく、勝手気ままでなく、勤勉になり、二度と怠慢に戻らないこと』になってしまいます。

 

そして前半の『すべての事象』という部分の事象は、サンカーラという語句で、サンカーラとは原因と縁によって生じたものすべてを意味します。しかしブッダが言われる場合、五蘊と世界が同じものであるように、サンカーラは心身のことを言います。山河や木や花など外部のものには目を向けず、世界のすべてを自分の内部である五蘊と見るように、すべてのサンカーラは自分の心身、つまり五蘊を意味し、あるいは行(考え)だけを意味することもあります。いずれにしても自分の内部のものであり、外部のものではないと信じます。

 

参考までに、この文章のプッタタート師の訳は、『今みなさんに忠告します。すべてのサンカーラ(行、つまり心身)は当然衰退します。今みなさんに忠告します。みなさん、自分と他人の利益(阿羅漢果、あるいは涅槃)を不注意でないことで完璧になさい』です。


このようにいろんな角度から深く読めば(熟慮すれば)、まったくパーリ語を知らなくても、間違いに気づくことができます。文字だけを読んでいたのでは、文字の意味しか分かりません。ブッダの教えを学ぶ時は、いつでもカーラマ経の項目を活用して「これで滅苦ができるか」と熟慮する眼で見ていただきたいと思います。

(誤訳を皆無にするのは困難ですが、重要な言葉の誤訳は、可能な限り修正されなければ、ブッダの教えが歪みます。私の訳文の誤りも、このようにして探し、そして発見なさったら教えていただければ幸いです)。

 

カーラマ経について  (増支部・三集・大品5)  アルボムッレ・スマナサーラ長老

テーラワーダ仏教はスリランカがイギリスの植民地であった時代に、イギリスの自国の宗教であるキリスト教を根づかせようという意図の下にイギリス人によって研究され、その欠点を指摘することによってテーラワーダ仏教に変わるキリスト教を伝播しようとしたのですが、どう考えてみてもテーラワーダ仏教の欠点を指摘することが出来ず、逆に自分たちもテーラワーダ仏教の教える真理に目覚めるものさえ出てきて、結局そうしたイギリス人の手によってヨーロッパに広がったという経緯があります。その最初がイギリスに設立されたパーリ語協会であったのです。その後、英訳された教典も作られ、それはヨーロッパ教典として日本にも入ってきました。日本では、お釈迦さまの直接の教えが書かれているということでこのヨーロッパ教典を研究してみようという何人かの学者が現われ、その結果南伝大蔵経として昭和の始めに70巻の本が出版されました。

 

この南伝大蔵経が日本語で出版された唯一のテーラワーダの教典なのです。一部の教典は訳されたものがあるにはありますが一般的な解説書がありませんからどれも難解なものばかりです。このPAIPADĀに連載されているものも初歩解説書といっていいかもしれません。初歩の解説書といっても、この世界の不変の真理を教えるものですから、初めての人にはちょっと難しく感じられるところがあるかもしれませんが、どうか途中で投げ出さずに最後まで挑戦してみてください。自分の心を成長させるための、お釈迦さまの真理を勉強し、実践するためにあなたが縁があって出会った最良の道と考えてください。

 

お釈迦さまの教えと言われているものはいまでもたくさん遺のこされています。しかし、前号までその歴史としてお話したとおり、どれがほんとうの教えなのか皆目かいもく分からなくなってきてしまったのが現状です。ここで、お釈迦さまの教えの真実を理解するために恰好かっこうの教科書『カーラーマ経』というお経がありますので、それをご紹介しましょう。このお経は「自ら確かめよ」という題です。

 

「このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。

『世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を罵ののしり、誹そしり、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。

いったい、だれが誠を語り、だれが偽いつわって語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。』

『カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑まどいは起こるものである。

あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、

 

人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文じゅもん、神の啓示などに頼ってはいけない、

世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、

古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、

自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、

経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、

理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、

人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、

自分の見方に(見けん)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、

説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、

説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、

カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは咎とがを持っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去るべきである。』

 

『カーラーマ族の人々よ、これをどう考えるか。人の心のうちに起こるむさぼりは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

『世尊よ、不利益を起こします』

『カーラーマ族の人々よ、そのむさぼりをもつ人は、むさぼりによって打ち負かされ、心を占しめられたものであって、そのむさぼりの心はやがては命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

『世尊よ、その通りでございます』

『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。人の心のうちに起こる怒りは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

『世尊よ、不利益を起こします』

『カーラーマ族の人々よ、その怒りを持つ人は、怒りによって打ち負かされ、心を占しめられたものであって、その怒りの心はやがては命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

『世尊よ、その通りでございます』

 

『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。正しいことを知らない愚かな心は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

『世尊よ、不利益を起こします』

『カーラーマ族の人々よ、正しいことを知らないその愚かな心を持つ人は、愚かさによって打ち負かされ、心を占しめられたものであって、その愚かな心はやがて命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

『世尊よ、その通りでございます』

 

『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。これらのことは善か、それとも不善か』

『世尊よ、不善です』

『これらのことがらは、不善である。これらのことがらは、咎とがを持っている、これらのことがらは智者によって非難されている。これらのことがらを行うならば、自分自身に不利益と苦しみを招くと自分自身で知るならば、聞き知ったことや、伝え承けたことなどは、すべて捨て去るべきであろう』

 

『また、カーラーマ族の人々よ、そのむさぼり、怒り、愚かさを持たない人は、むさぼりによって打ち負かされることなく、心占しめられることのないものであり、命あるものを害なうことなく、与えられていないものを取ることもなく、他人の妻と通じることなく、偽って語ることなく、他人にもそのように勧める。およそそのことが、長いあいだその人に、利益と幸福とをもたらすものである』 」

 

このカーラーマ教はものを信じる根拠をすべて否定しているものである。

人は何かを信じる場合に権威あるものを根拠として、その証拠であるとするくせがある。例えば、この経典は歴史があり古いものだから正しいといった偏見や、この経典を持っているだけで功徳があるとまで信じている人などに対して、お釈迦さまは教典に書かれているからといって即正しいということはないと言っておられます。たしかに今ではお釈迦さまが遣したといわれる言葉はたくさんあり、どれが本当のものなのかまったく分からなくなっていて、まさに教典に頼るなと言われた言葉どおりになっているのです。また、もともと持っている見解(見)に頼るなとも言っておられます。日本には日本的な考え方がありアメリカにはアメリカ独自の風習や論理の組み立て方があるということです。ひとはとかくいままで経験したことや古くからある考え方やものの見方に捉われやすく、そのために真実というものが掴みにくくなっているのです。

 

また偉い人や肩書の立派な人の言うことは何となく信じてしまうものですが、外見だけでものごとを判断するのは危険であるとも教えます。例えキリストであろうと、マホメットであろうと釈迦自身であろうと、自分たちの師に頼ってはいけないというのです。どうですか、私たちが日頃何気なく行っている行為に潜む過信という落とし穴を見事に言い当てられているのです。私たちは、大勢の人が信用しているからといって、教典に書かれてあるからとただそれだけのことで、すぐそういうものを信じ、頼ってしまいがちです。お釈迦さまは人間が欲望によって考えたことはいずれも間違って伝わっていくだろうことを看破され、あくまでも自分で確かめよ、と言っているのです。

 

このように善、不善は自らが知るものであり、自らが確かめられるものであると、カーラーマ経で教えているのです。本に書かれているとか、伝統があるとか、偉い先生の教えといっても、それが真実であるとは限りません。あくまでも自分で確かめ、実証を得た上で行うべきであると、仏教は教えているのです。

 

仏教には信仰はありません。信仰ではなく、聞いたこと、見たこと、学んだことは自らが自分でそれを実践し、それによって自分の心からの欲望のむさぼりや、怒りの心が消えてなくなっていくことを体験し、それを実証していくことこそが必要なのです。仏教には欲望を満足させるものは一切ありません。自分ですべてのことを実践することによってそのことを確かめてください。その結果、必ず信仰のような曖昧模糊としたものではなく智慧による確信に変えていくのです。

以上で歴史的な背景からの見解を終えます。

 

 

せめて預流果

人は一生のうちで、宗教など精神的なことに興味をもつ期間が何度かあります。占星学で見ると、大抵は一年から二年半くらいで終わります。だから興味をもって何かを手繰り寄せ始める頃には、その時期が終わってしまうので、何も結果はありません。

最も長い時で数年から十年足らずですが、これは誰にでもあるわけではありません。この長期の宗教に興味を持つ時機が、生涯に一度もめぐって来ない人の方が多いです。 だから幸運にも、長期間宗教に関心がある時機に巡り合った人は、そのチャンスを、最高に有効に使わなければもったいないです。仏教ではよく、「人間に生まれ、仏教に出合った機会を無駄にしてはいけない」と言いますが、本当に稀で貴重な機会だからです。

仏教に関心をもったら、何も考えずに手近なものに飛び付かないで、いろんな物を調べ、比較し、熟慮して、できるかぎり「本物」、「本当に滅苦ができるもの」を求め、本当のブッダの教えに出合ったら、それを熟慮し、実生活で実践して、せめてその期間中に預流になる努力をするべきです。

預流者、ソーダーバンとは、涅槃に至る流れにたどり着いた人という意味です。一度預流になれば、「最終的には、かならず涅槃へたどり着く」とブッダが言っているので、宗教に興味のある時期は過ぎてしまっても、気持ちが弛み、再びサティやサマーティが衰えても、何があっても、いつかは必ず涅槃へ到達できるということです。

川の流れに落ちた木の葉や小石は、何かに引っかかって停滞することはあっても、川上に向かって遡上することは決してなく、再び大雨の後などの流れに乗って下り、いつかは必ず海へ出るのと同じです。

何かの確約が取れたことを、よく「パスポートを手に入れた」という言い方をしますが、実際にはパスポートを手に入れただけでは、かならず外国に行ける訳ではありません。チケットも買わなければならないし、座席も取らなければならないし、本人が空港へ行って、飛行機に乗り込まなければなりません。自分が搭乗している飛行機が離陸しても、本当に到着するまでは、「必ず行ける」と保障できる人は誰もいません。

しかし預流になれば、確実に涅槃が約束されます。かならず涅槃へ至る流れに乗った人だと、ブッダが言っているのですから。

だから仏教に興味を持ったら、とりあえず、何としても預流になっておくべきだと、私は言います。瞑想して初禅を目指す前に、預流になる努力をするべきだと思います。

瞑想で禅定に達しても涅槃は約束されません。 しかし預流になれば、預流は聖人の第一段階なので、煩悩が減った分だけサマーティが深くなり、瞑想でも何の修行でも、いまのまま、俗人凡人のままするよりも、はるかに効果が上がるからです。

瞑想が上達すれば、自然に預流になり、一来になり、阿那含になり、最後には阿羅漢になれると考えている人がいるかもしれませんが、預流果を得るには、預流向と呼ばれる実践をしなければ到達できません。だからサマタ、止業処、あるいはアーナーパーナサティの「体を見る」第一部のレベルでは、預流にはなれません。

世俗を脱す(聖人になる)タンマを見るのは、アーナーパーナサティなら第四部13段階以上ですが、ほとんどの人は第一部の3段階から4段階に進むことができないと、プッタタート比丘は言っています。

つまり瞑想では、ほとんどすべての人が、16段階中の3段階目でつまずいてしまい、4段階目の、体を制御できるレベルに達しないらしいです。だから、ほとんどの人は、体を見る段階である第一部を修了することができません。瞑想で涅槃を目指すことは、非常に成功確率の低い方法だと言うことができます。

それよりも、何としても預流になるまでタンマを熟慮する(自然のヴィパッサナー)方が、成功する確率が非常に高い上に、成功すれば将来の涅槃が約束されます。

預流果を得るための預流向とは、「有身見」と、「疑」と、「戒禁取」を断つことです。

有身見とは、体を自分と考えること、疑とは、滅苦の道に関する疑念、つまり、ブッダは本当に解脱したのかとか、ブッダの教えで本当に苦を無くせるのか、という疑いです。最後の戒禁取とは、霊験あらたかなもの、神聖なもの、有り難い存在に対する信仰は、誤解と気づいて捨てることです。持戒や瞑想に、実際にある以上の効果があると信じることも、戒禁取になります。

霊験がある、神聖だと信じてきたものの真実を見て、この体は自分ではないと見え、そして、ブッダの教えを実践すれば苦を絶滅できると確信できれば、預流果をに到達します。

 

 預流向はそれほど難しくありません。「青少年のためのブッダの伝記」にも幾つか例がありますが、ブッダがあちこちで説法をしている時、聞いていて預流になった人は数知れずいます。

当時ブッダの話を聞いて阿羅漢になった人たちの多くは、両家の子息(つまり徳が高い人たち)だったらしいですが、預流果は貧しい機屋の娘も、ごく普通の身分の人も預流果を得ています。

だからタンマの講義を何度も読み、読んだ時間の何十倍も、何百倍もそれについて考えれば、そのうち自然に「本当にそうだ。体は自分ではない。ブッダは本当に解脱した。神聖なものへの信仰は誤解だ」と本当に分かり、つくづく感じます。

本当に分かれば、たとえば誰かに「体は自分だと答えなければ命はない」と言われても、心の深奥では、体は自分ではないという確信は変わりません。

考えると言っても、理論で考えるのではありません。学校の試験勉強のように、語句の繋がりや、意味を要約するのでもありません。ブッダが言われている教えが本当かどうか、自分の経験や、見聞きしたことや、自然のあり方と照らし合わせて、検証することです。

自分の考えを通して何を考察しても、俗人、凡人の考えから脱しないので、かならずブッダの教えを学んで知り、それに関わりのある自分で体験した事実と照合して、本当かどうかを検証する方法しかありません。

ブッダ
の言われていることが本当だと分かれば、真実だと分かれば、有身見も、疑も、戒禁取も霧散してしまいます。

ブッダ
の教えを本気になって、自分が体験した真実で検証すれば、ブッダの教えが間違っていると証明できる人は誰もいない、とブッダ自身が言われているように、誰もが納得します。

ブッダ
が言われていることに心から納得し、ブッダの教えに反した行動ができなくなれば、少なくとも預流であり、涅槃が確約された人になります。「お釈迦様」ではなく、必ず滅苦ができる「ブッダ」の教えだけを、事実と照合する方法で熟慮すれば、預流果、ソーダーバンは決して難しくありません。

 

 

 

ワンプラ(菩薩日)

心には幸福(喜)と不幸(苦)とどちらでもない状態の、三つの状態があります。
ブッダ
は幸福も不幸も、苦しさは同じだと言っています。世俗の幸福の裏側には不幸が隠れているので、真の幸福ではないからです。

ブッダ
が言う本当の幸福とは、真ん中の、幸福でも不幸でもない状態を「幸福」としています。これを中道と言います。転げ落ちる心配のある山の頂きでもなく、光の見えない深い淵の底でもなく、安定した平地のような状態です。

幸福な状態と不幸な状態は、誰でも日々体験しているので分かると思います。

満足できる状態が「幸」で、耐え難い状態が「苦」です。
田舎の親戚の家や、長期滞在のリゾートなどで寛いでいる時、あるいは家で独り留守番をしている時などに感じる開放感などが、「幸福でも苦」でもない状態です。 何も心を楽しませるものはないけれど、心を苦しめるものもない状態です。

ブッダ
は三番目の状態が一番良いと言っています。

世俗のすべてのものには、それと同じ三つの状態があります。
たとえば豪華で快適な住まい(幸)と、家も安定して寝るところもない、ホームレスや非難所などの生活(苦)と、贅沢ではないが住む所がある状態(普通)、贅沢な食べ物(幸)と、他人の食べ残しや捨てたものや捨てる寸前の食べ物、あるいは食べ物がない状態(苦)と、普通の質素な食べ物(普通)、豪華な装飾や高級素材を使った衣服(幸)と、他人が捨てたものや用が足りない衣服(苦)と、普通の使える衣服(普通)、です。

これらの三つの状態の味は、幸福と、苦と、幸福でも苦でもない状態です。

幸福も不幸も心の苦しさは同じですから、豪華で贅沢な生活をすれば、非常に困窮した生活と苦しさは同じです。幸福の絶頂でも苦しみを感じることがあるのはこのためです。

タイにはワンプラという日があります。陰暦の毎月8日、15日、23日、30日、つまり新月と満月と上弦、下弦の日に、通常守っている五戒のほかに、三つ追加して八戒を守ります。
追加するのは、正午から翌朝まで食事をしない、一切の楽しみを避ける、高いベッドや厚い布団で寝ない、です。

戒は何でもそうですが、言葉で言われているより深い意図の広い意味が含まれています。
これらは日頃贅沢な暮らしに慣れていると、心が「真ん中のちょうど良い状態」「普通という程度」を忘れてしまうので、ちょうど良い状態、普通の状態を常に忘れないためにある、在家の習慣です。

だから食事は、日頃忘れている質素な食事にし、午後は飢えの感覚を味わいます。朝昼に豪華な食事をしては意味がありません。
一切の娯楽も同じです。質素な服を着て、何も心を楽しませるものがなくても、心を苦しめるものが無ければ幸福であることを知ります。
脚の高いベッドというのは、快適過ぎない住まいという意味です。

これらは八正道の中の正しい生活という項目です。
正しい生活とは、泥棒や殺生をしないという意味ばかりでなく、贅沢でない、必用なだけの質素な生活のことです。

現代人が昔の人より精神的な苦が多いのは、日々贅沢を求めて思い通りにする生活に慣れすぎたために、思い通りになるはずのない人間関係や心の面まで、思い通りにしたいと願う「わがまま」を育ててしまったからです。

ブッダ
や出家僧が私物を所有せず、必要最低限の質素な暮らしをしているのは、物質的豊かさと心の純潔は共存できないからです。

私たちが苦しみを減らすには、苦しみの仲間である怒りや欲望や煩悩を減らすには、生活を、豊かでも欠乏でもない、真ん中の状態にしなければなりません。

そのために、先ずはワンプラをやって見ませんか。週一回、半日飢えを体験するだけでも、ずいぶん自分の心を管理できるようになります。

突然食事の回数を減らすのが大変だったら、粗食を腹八分目にすることから始めてみてください。戒にこだわらず、出来ることから始めます。粗食にするだけでも新しい感覚を知ることが出来ます。
一番安価な服を着て、歌舞音曲、ドラマや映画も見ない、楽しみの読書もやめてみてください。 世界には、日頃忘れている生活があることを思い出します。

「普通」とは、質素と豪華の「中間」ではありません。欠乏と陶酔する程の豊かさの中間の、「欠乏のない状態」「人らしく生存できる状態」が「普通」 です。だからときどき不味いものを食べて、「生きるために食べる」原点を認識する必用があります。感覚や心が思い上がらないためです。

正しい「普通の感覚」をもたなければなりません。普通という感覚を狂わせないようにしなければなりません。
「普通」とは、質素な食べる物がある状態です。それが苦でない普通の状態であると同時に、苦を生じさせない状態でもあります。

ワンプラを体験してそれを知ってみませんか。

ブッダ
の教えは、質素な暮らしの中でだけ理解できるものだと思います。