ゲーテの色彩論
ニュートンは光を単純に空間に実在するものとして認識したのに対して、
ゲーテは光を影との全体性の中でとらえ、空間だけではなく、時間によって変化するヒトの知覚のパターン認識に関わるものとした。
粒子になったり波動になったりする量子力学や相対性理論の時空論の先取りをゲーテはしている。
「色彩は味がする!」
連続講演を聴いた後カンディンスキーは、それに感化された絵を数枚残している。「アーリエールの場面―ゲーテ『ファウスト』第2部より」や「指し示す人」という作品には、まだ具象ながら明らかに物質界、魂界、霊界の3つの区分け、人間を構成する4つの要素という直接の影響が見られる。さらに、講演の最後に引用されたゲーテの『ファウスト』の詩、「色とりどりの光の反映のなかに、われわれは人生を捉えるのだ」は、色彩の秘教的な捉え方へと彼を深く誘っていった。
ゲーテは色彩は光と闇との出会いのなかに生じ、光の受苦と行為であるとした。同時代の象徴派詩人は色彩を象徴的に他の感覚と結びつけた。神智学者は古からのグノーシス的伝統を受け継ぎ、粗雑なものから微細なものへ至る色彩の段階を示した。これらに答えるようにカンディンスキーは色彩論を展開していく。それは必ずしも神智学やシュタイナーに沿ったものではなく、彼個人の色のついた深まり方、という云い方ができる独自のものである。色彩療法から色と味覚の関係に心動かされ、本の欄外へ「F(色彩)は味がする!」と書きこむところから、色彩が匂い、聴こえ、味がし、冷たく、暖かく、悲しく、心躍るような感情を呼びおこす、感覚のコレスポンダンス即ち「内面の響き」へと通じるところまではわずかの距離である。これは近年、シネステシア(知覚複合、共感覚)をどこまでも唯物的に脳の神経的作用として捉える方向とは一線を画するものである。
色彩は、魂に直接的な影響を与える手段である。色彩は鍵盤。目は槌。魂は多くの弦をもつピアノである。画家は、あれこれ の鍵盤をたたいて、合目的的に人間の魂を振動させる、手であ
る。
―『抽象芸術論』西田秀穂訳
二つの間 電子の真空と形 空と色 ゲーテとニュートン 闇と光
還元主義は、限られた適用範囲や切り取られた範囲では、精密科学として有効な手段である。だからといって、この考え方を生命体や量子力学に適応して一つの側面ですべてを「○○にすぎない」としてしまっては、意識の外側にアクセスすることができなくなる。
次に起源を探してそれで説明する方法も、意識は騙せても非意識には通用しない。
一側面や起源で説明することに満足する人がいて、これを一元論と早とちりする人もいるが、これは単純な間違いだ。
例えば唯物論や物理主義などがなんでもモノに還元して説明するので、それはおかしい、精神があるでしょう、と単純なデカルトが行った肉体と精神を分ける二元論でこの世界を見ようとした。
すると確かに物理的には便利にはなったが、それと同じだけの不都合(環境、社会、精神病、科学、家族)があることに気がついてきたので、道教の陰陽思想や般若心経の陰の中に陽があり陽の中に陰があるという、どちらも相補して成り立っていると考え方を目指す世界観が改めて芽生え始めた。
ところが、言葉による知の普遍化(義務教育、大学の指導法、インターネット、パソコン、マスコミ・ミニコミ)により、実際の社会では、すぐに結果が出てわかりやすい白黒を作ることが目指している。喩え話でいうと、灰色のままにして黙っていたり、わからないことはそのまま風呂敷に包んで頭の隅にずっと置いておいたり、喉に引っかかった納得できない異物を長年放置することで石化させて体の一部にするような悠長なことをヒトは好まなくなった。シンプルに健康的に明るくプチ・潔癖症としてスッキリと生きていくことを選択した。
仲間や家族や自分の体が致命的なダメージがない人はこのままでもいい、しかしついに痛みだけでは済まされなくなったヒトたちには、古くからあって新しい「二つの関係」と「二つの間」との付き合い方も、24時間のうちの1時間だけでもとりいれてみるのはどうだろう?
むずかしいことではない、内容はこれまでに書いてきた、川の泡や人体では常に細胞が死に同時に生まれているという話だ。地球のすべてのものに共通している電子をみてみたい。
モノは形としては多様なものでも、その素粒子のレベルにおいては全てのものに共通性とつながりがある。この視点に立ち、形と「形のない繋がり」の二つの間にいるという立場がある。
ゲーテ 対 ニュートン ウォルター・ハイトラー 人間と自然科学的な認識
色彩を帯びた影 と 電波 はそれぞれの方法で解明することはできない。
色彩論と物理学 この二つを統合する科学が必要である。
ニュートン
色とは光によって導かれる現象の一つです。光がなければ色は存在できないのです。
科学が求めているのはこうした普遍の真理です。
ゲーテ
色は自然の中にあります。
人間の目を通して景色を眺めるとき、そこに色が立ち現れるのです。
科学は人間のため、人間があってこそ存在します。科学的な真理とは自然と人間の間にあるのです。
ゲーテの色彩論 farbenlehre
プリズムで光は色に分かれなかった。色彩を生じさせるためには境界が必要なのだ。
光は闇から生み出される 色はこの二つの境界線の中にある
ニュートンよ、暗室から出て太陽の下で光を見ればいい。
「友よ、暗室を離れたまえ、光を歪める暗室、複雑怪奇な像にひれ伏せるばかり、あの惨めな暗室」
現代でもニュートン光学では分光器によって数値化した後に統合して色を決める
色の研究は人間の目を通して行うべきである。
ファウスト
光は闇から生まれた。母なる闇と光は本家争いをしているが勝ち目はない、何故ならば光は物質にしばられたものだからである。
人間の目の仕組み
色彩を帯びた影 夕焼けの時の影が緑色になる。
錐体は色を感じる (稈体は光の強さ) 赤と白の光線がまじった影は赤色の波長が交じり、これに錐体が反応して、補色である緑や青色を作り出し大脳皮質に信号を送る。
ベンハムのコマ
白と黒色のコマを回すと、色がついているように見える。回転数により色が変わる。
主体と客体のゆらぎ 王様と民衆 太陽と月
意識からこの世を見ることを主観と呼びます。ぼんやりした気分の時や夢を見ているのも主観です。
ここに新しい主観の考え方を持ち込んだのが、16世紀のプロテスタントです。意識の中にある自意識に焦点を当てました。ぼんやりしている時や夢を見る視点を主観からのぞき、理性によってできた理念や体験を主観と言い換えました。そして、この主観が、すべての意味を定義する中心としました。 唯一神の父なる神のように。
世界でまどろんでいるもので、意識化(他との共通性や普遍性が見つけられるもの)できないものは、意味を持たないものとして、意識の外に置き(無意識)ました。そしてそれらを無視することで、新しい定義の主観ができたのです。
意識から生まれる自意識を、まず第一として、そこから生まれる理念からこの世を見ることをはじめました。
そうして、自然界はこの自意識に従属するものとして捉えます。
物理学の法則や数式はイデアとして捉えることができたので、自然界も同じようにイデアで理解できると、自意識は考えようとします。
自意識は観る者なので、一つのものを分化させるのが役割なので、そうなってしまうのは当然です。
言葉とは意味がありルールがあるということです。四本足でヒゲがあってミャーと鳴けば、猫だというように、各種の共通点を探し、それで纏(まと)められるものに名詞をつけ、意味づけできます。
コラム 運動力学の法則 最後の魔術師ニュートン
アイザック・ニュートンは発見したニュートン力学を微視的な原子の領域においても適用させようとして失敗しましたが、何故そのように考えてしまったのでしょうか。
それはニュートン力学があちことで近似値を出すという成功体験からちょっと調子に乗ってしまったという人間らしい行動からそう考えてしまうのはありがちなことだと私は思います。
ところで、ニュートンは合理的精神の先駆者だと評価されることがありますが、実際は最後の魔術師であったと言われる理由は以下のためです。
《プリンキピア》の巻末につけられた〈一般注〉や《光学》の最後に提出されている〈疑問〉からもうかがえるように、ニュートンは神学や錬金術の思考パターンを使って、物理をはじめとした科学を説明しようとしました。
例えば、重力の原因を神の存在に求めたり、《光学》では、自然科学(哲学)の主たる任務を〈仮説を捏造することなく,……結果から原因を導き出して〉,第1原因,つまり神に到達することだと明言しています。
といっても捏造した仮説で歴史に法則を見つける癖は最後までやめることができませんでした。
例えば、天文学の法則を使って、キリスト教の歴史的事件を研究する年代学を作り上げたりしていました。自然界ばかりか歴史においても一定の秩序を見いだそうとする彼の欲求は尽きることがありませんでした。
神の被造物である自然と神の預言の成就としての歴史のいずれにおいても同一の普遍的な統一性が存在するという確信を強く持っていました。
合理主義とは、科学実験のデータの積み重なる結果と結びついてばかりいるのではなく、キリスト教という一神教を一面的に見る手段であることを、ニュートン自身が生涯を通して表現しました。この物質や数式や力学や法則を使ってこの世を理解しようとする科学的態度は21世紀から見ると還元的(一面的)ですが、この時代が求める世界観でした。
ゲーテから宇宙の根源は「闇」から始まっていると指摘されても、彼は「はじめに光があった」という考え方から奥深くにある世界観に行くことができませんでした。
ゲーテの「闇」が「いのち」「空」「始源」につながることがアイザックには体験できなかったことと、彼が母親を拒否していたことの関係は他のコラムで書きます。
慣性の法則 ニュートンの運動第1法則
外部から力の作用を受けない物体は,初めに静止していればそのまま静止を続け,初めにある速度をもっていればその速度を保持して等速度運動を続ける。
慣性があるために,飛行機や高速の電車内においても乗客はその速度を体に感ずることはなく,速度の変化のみを感ずる。そして,まったくゆれずに等速度で走る乗物内では,窓の外を見ない限り,走っているかどうかの判定ができない。
運動の第2法則とは、物体に力が作用すれば速度は変化する。
同じ物体にいろいろな力を加えたときに生ずる加速度は力に比例し,方向も力の方向と一致する。
力を F,加速度を a としてベクトルの関係式 F=ma で表される。比例定数m はその物体の質量と呼ばれる。この式を a=F/m とかくと,同じ力 F によって生ずる加速度も物体の質量によって異なり,質量の大きいものは速度を保持しようとする性質が大きく,物体のもつ慣性の大小を表す量が質量である。質量が指数であるとも言える。
また、質量以外にも、ゆれたり回転している場合に,実際の力が作用しなくても加速度を生ずるように見える事象がある。この見かけの加速度を生じさせる見かけの力(座標系の加速度を a とすると−ma)が慣性力であり、遠心力はその一例である。台風の渦巻きなどもコリオリの力 force de Coriolisという慣性力を使って説明できる。
一言でいうと、どこから見るかによって、見えるものが違うように感じるのである。