善悪の基準  枠組みと離脱   知識人と知の弊害  

反日のルーツ、大衆の特権、ヨブと神 

 

 

人間は悪にも善にもなります。

すべての人間が善だけでいられないのが人間の特徴です。

1つのものを善と悪に分けたので、TPOに合わせて、それが善と判断されたり、悪と判断されたりするからです。

これも分けるという行為を大脳がして、それからその一つを選択してしまうことから起こります。

 

善と悪との違いは、1つの閉じた世界を善とした時にその外側の世界を悪と呼びます。

または、1つの閉じた世界を悪とした時にその外側の世界を善と呼びます。

したがって自分が閉じた世界の中にいる間はいつも自分が決めた価値観の世界にいれますが、自分がそこから外に出ると自分の判断と反対側の世界にいることになります。

 

これと同じことを個人ではなく集団で考えると、たとえば同じ善の価値観によって閉じる世界の中にいる時は、周囲の人から善人と呼ばれますが、その外側の世界の人たちから見れば善人である自分は悪人になってしまいます。

たとえば、どんな敵でも倒し仲間を守る無敵の正義のヒーローは、外側の価値観、すなわち敵の視点から見れば悪の権化にみえる、ということです。

ということは自分がある価値観の枠組みの内側にいるか外側にいるかによって、善人にも悪人にもなってしまうということです。

 

「人間の邪悪な心を変えるより、プルトニムの性質を変えるほうがやさしい」  アインシュタイン

 

 

2つの善悪の基準

善悪の基準は色々あるようなので考察してみます。

大別すると2種類あり、枠組みを作ることで成立する善悪と、枠組みを取り外すことで成立する善悪の基準です。

 

枠組みを作る善悪の基準は、一般的に日常生活で使われているもので、ますは囲い(枠)を設定(定義)して、善と悪に分ける方法。

もう一つは、囲いを外していくプロセスを善、囲いを設定するプロセスを悪とするのを基準とします。

たとえば瞑想での善悪は、「元来の自分」に近づくために現在使用している枠組みを外すことを善として、それを邪魔することが悪となるので、後者の基準に属していることになります。

言葉を変えると、日常生活で使っている善悪の判断から離脱することを目指しているのが後者の基準となります。

ですから横に並べて比較して対立する「ヨコの関係」と、そのような枠組みを作らないようにする「タテの関係」となるので、この2つの善悪の基準は始めからお互いに交わることはありません。

 

 

「知る」とは分けること

「知る」とは1つのものに線を引いて2つにして、違いをみつけることである。

だから「知る」とは分けること、とも言える。

ある昆虫を2枚の羽があるので蛾か蝶、前羽の先端が黒いのでモンシロ蝶である、というように次々に分けることで固有名詞に特定していくことを「分かった」「理解した」とするのが、「知るプロセス」の作業である。

ただこの区分(分け方)には絶対のものがあるのではなく、分けた人の好み(自由選択)であるので、動物や植物の分類法もそこには普遍的なものがないことは生物学者によってよく指摘される。

なにを基準にして分割していくかは、分割者の決めた一つの基準でしかないので、基準の数だけ分割方法も存在する。

そしてこの「知る」ことで知識が増えていくという基準は、先程の「2種類の基準」でいうと、「分けて」「比較して」「定義して」判断する前者の基準に属するものである。

 

 

 

知識とは分断と統合

知識とは囲いを設定して、それに名前と定義と概念を付加する作業によって作られるものなので、

1つのものを次々と分断し、後に分断した複数をまた1つに統合することで、知識というシステムは成立する。

統合、すなわち分断されたものどうしの関係性を構築せずに、部分をそのまま放置されていると、それは知識とは呼ばれない。

 

この「分断と統合」というプロセスは人為的なもので、ヒトに幻想を抱かせる装置となるので、釈尊はこの「統合」が悟りの障碍になることを説いた。

統合とは事実に即していない幻想であり、脳のなかで構成された論理的な「ヒトの計らい」であるので、そこから離脱することが苦しみから離れる実践であることを伝え続けた。

簡潔な具体例とその経とのリンク

 

インド哲学ではこの「分断と統合」によって得られる意識をjīva個我意識と呼び、これより深い意識にmanasbuddhiahankāracittapurakriti、そしてpurushaがあることを伝え続けている。

 

 

ある知識人の思考パターンと傾向

知識人の中には、知識を基にして判断をしてしまうクセが身についてしまっている傾向があり、その人たちはスポットライトを当てている枠組を基準にして善悪を判断している。

 

その囲い(枠組み)の中で暮らしている時空が多く、その囲いを大事にする傾向が強い人ほど、囲いの外側にある悪が許せなくなる気持ちが強くなり、それを行動で表現する傾向がある。

 

それらの条件反射や感情や思考パターンは、携帯電話のアプリのように、あるインプットの信号に対して決まった法則によってアウトプットを出す装置となり、それに依存して、言葉を変えるとそれらに操られて、日常を暮らしている。

知識人は、このようなアプリ(自動反応回路)を作り続ける学習を幼児期からしてきたことで、他者からアドバンテージを得て競争に勝ち抜き、メリットを得るという成功体験を積み重ねてきた。

 

それによって得た現状を維持したいという欲望が、これまで結果を出しているアプリに対しての強い執着心となり、この潜在意識にあるアプリによって動かされる余生を過ごす。

この強欲が、知識のシステムには大きな欠落した部分があることを見させようとしないのである。

これまでに築き上げてきたものを棄てて次のステージで裸一貫ではじめることはしないのである。

こうして知識人としては誕生できたが、生命体としては干からびていく。

 

これが仏教から見れば「まだ欲界で生きているだけであって、本来の自分のためにはまだ生まれてきてもいない」ということにある。

キリスト教では、知識人は「未だrebornの経験をしていない人たち」である、と言われる所以である。

 

 

知識のメカニズムを利用するのが大学とマスコミ

以上のことから、知識を基準として生きる人たちは、枠組みを作ること、定義をすること、比較をすることで、自分の作った枠を理論づけ、洗練し、装飾して肯定する。そして、その外側にあるものをを非難してしまう思考パターンと感情パターンと行動パターンの3つをするようになる。

すなわち知識から作った自動反応回路によって無意識のうちに操作されてしまう機械的生物になる。

しかしこのような自動反応回路を有効に使える場所がある。

それが、知識をつくることを使命とする大学などの高等教育機関である。

また、自動反応回路を人々に取り付けて、新たな情報がないと生きていけない依存症に陥らせるのがマスコミのお仕事となる。

だからといって、大学やマスコミを批判する人も少ないないが、この2つの機関はヒトにアプリを埋め込むのを生業にしている装置であるので、それらの働きを評価するべきであろう。

 

 

知識人による知識に対する戒め

「知識人は大挙して世論の表面にすぎないものを善とみなし、そこで偽善のポーズをとることに専心している。もっといえば、世論の表面なるものは知識人の破廉恥によって分泌された偽善的な言説の堆積から成っている。つまり曲学阿世が民主主義における知識人の常態となっているのである。」

                《西部邁 「リベラルマインド」 「『世論』の逆がおおむね正しい」》

 

要するに反抗期の子供の論点である。一番自分にとって大事な、自分を守ってくれているものに対して最も強く反抗する。               《谷沢永一 「山本七平の知恵」 他の著書「人間通」》

 

私は、「無難な理想論」というのは「偽善」がまかり通ることだと思う。綺麗事の“糖衣”で物事の本質を覆ってしまって、人間というものの苦い現実を見せないようにしている。それが戦後日本の何もかもを幼くさせてしまった。                            《金美齢 「この世の偽善」》

 

現在の日本人は、本質的に優秀な人びとなのに、見るも無残な幼児性に冒されている。

その理由は、戦後の日本人を大きくダメにした日教組的教育が人間というものの現実を正視し把握しなかったのと、戦時中の日本人の生き方を鋭く批判したはずのマスコミが実は勇気がなく、無難な理想論に迎合して、そうでないものに対して思想弾圧までしたところにある。            《曽野綾子 産経新聞2013/1/1

 

 

私は明らかに国家からの「恩恵」を蒙っている。多少は酷いめにも遭っているが、トータルでは「私が国家に奉仕した分より、かなり多めに私の方が国家から恩恵を受けている」ことについては確信がある。

 

「批判はするが責任はとらない」というようなことは、集団のフルメンバーが取ることのできない態度である。というのは、ある社会を住みやすくするのは、最終的にはその社会が「住みにくい」と声を荒立てて批判する人間ではなく、その社会が「住みにくい」と批判されたときに「恥じ入る」人間だからである。

                                《内田樹 「子どもは判ってくれない」》

 

シチズン(市民)とは「国家からの保護を受けるかわりに国家への忠誠を誓う人々」のことであるにもかかわらず、彼らは市民の名において国家の外に出ようとしていいる。      

   《西部邁 「無念の戦後史」 他の著書「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」》

 

 

日本は国家を意識せずに毎日が暮らせる国である。国家からの保護は天然のものと思っているから、それへの感謝はなく、介入や干渉は全て負担と感じるから、「地球市民」になりたいと発想するのだ。

 

国家は文明生活の基盤システムであり、経済発展のインフラであり、外国からの侵略や掠奪から自分を守るために必要不可欠なものである。だから人間は国家をつくった。何度でもつくる。もしも国家がなくなったときは、再び国家をつくる。地球市民になれて嬉しいという人はいるかも知れないが、すぐに後悔することだろう。

《日下公人 「戦争が嫌いな人のための戦争学」 他の著書「誰も書かなかった「反日」地方紙の正体」》

 

 

「左翼」=理性や啓蒙の子であり、民主主義・平等・人権をこの世で実現しようとする。政治や経済の仕組みは人間の手で作りかえることができる、という前提でものを考える。しばしば左翼は、革命によって理想の世の中を作り出すことを夢見てきた。

「右翼」=伝統や人間の感情・情緒を重んじる。長い間定着してきた世の中の仕組みは、多少の弊害があってもそう簡単には変えられないし、変えるべきものでもないと右翼は考える。また個人よりも共同体の価値を重視する。…20世紀には左右の対立は、資本主義を倒すべきか否かをめぐるものであった。  《知恵蔵2006》

 

 

共産・社会主義者も国民全体から見ればごく少数のはずだが、一部社会的な影響力を行使できる場に偏在しているのが現状。特に大学はそれが顕著である。大学の教員の中に占める左翼の割合は、ほかのどの世界と比べても一番多いだろう。       《八木秀次》

 

 

左翼は潰れる心配がないところで増える。(大学・官庁など)可能性として潰れることがあるようなところは、風通しもよく競争があるものだから、左翼運動なんてやっていられない。         《林道義》

 

 

なぜ大学に左翼勢力がはびこり得たか…

やはりマスコミとの連携が大きい。戦後、学者にとってのステータスというのは、少なくとも社会科学系では朝日新聞に名前が載るとか、岩波書店から本が出るとかいう時代があった。これら朝日・岩波に気に入られようとして左翼の虜になる、あるいは傾斜していくという傾向はなくなっていない。    《渡部昇一》

 

 

彼らには、戦後日本がソ連や中国・北朝鮮のような社会になるべきだという理想があった。でも現実はそうならなかった。彼らはそうならなかったことを実に悔しく思っている

その悔しさをどう晴らすかというと、今の日本が悪くなればいいわけである。とにかく今の日本がうまくいっているのが妬ましくてしようがないから、何でもかんでも難クセをつけて、日本を悪いほうへ導こうとする。

                                  《井沢元彦 「朝日新聞の正義」》

 

 

短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまいというものがある。あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある…

 

「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」に全ての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。

 

子供を育てることは女性の社会的活動にハンディを負わせる。だから「私は子供を産まない」という女性は、他の女性よりも高い賃金・高い地位を得る可能性が高い。しかし、女性全員が社会的アチーブメントを求めて子供を産むのを止めると、「社会」がなくなるので、賃金も地位も空語となる。

 

倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。私たちが自分に課すべき倫理的規範は、ある意味で簡単なものである。それは社会の全員が「自分みたいな人間」になっても生きていけるような人間になることである。  《内田樹 「街場の現代思想」》

 

 

「生きることは身体に悪い」 「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」 「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」 「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」   

…ということを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。でもそれは、自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。       《内田樹 「村上春樹にご用心」「もういちど村上春樹にご用心」》

 

 

サヨクやプロ市民といった「反日」の身振りは、そのような学校民主主義の「優等生」たちの身だしなみであり、その限りにおいてはそれはまさに戦後、高度経済成長期以降に輪郭をあらわにしていったニッポンのエリートカルチュアの、あるコアの部分でもあった。

身だしなみである以上、それはいちいち考えなくてもいいもの、になっている。マナーとしてのサヨク、とにかくそういうもの、としての「反日」。なぜネクタイをしなければいけないのか、なぜ靴をはかねばならないのか、といったことをいちいち考えながらこなしている者はいない。

同じように、すでにその場のマナーと化してしまったサヨクぶり、プロ市民らしさは、いちいち疑問を呈するようなものでもなくなっている。「反日マスコミ」のあの反省のなさ、世間から浴びせられている視線についての自覚の欠如は、それほどまでに彼らの「反日」が単なる習い性、深く考えた上で自覚的に選択されたものなどではとうになくなっていることの、雄弁な証拠に過ぎない。

 

高度成長期の大衆化をくぐってゆく過程で、サヨクは間違いなくある「自由」の表象、「個人」であることを最も手軽かつ効率的に見にまとうことのできるアイテムと化していった。だからこそ身だしなみとして誰もが身にまとえる、それこそお手軽なジーンズみたいなものになっていったわけである。 

《大月隆寛 正論2009/7月号》

 

 

進歩派は、「支配と抵抗」や「搾取と徴発」といった二元論的分析や、事実を図式にあてはめるかのような論法をする。                                 《塚瀬進 「満洲の日本人」》

 

 

玖村は、もともと国家的な歴史学者であった。彼が敗戦後、マルクス主義の理論を適用し、唯物史観に走ったのは、学生の人気を得、著書をかいて、世間に名前を知られたかったのである。進歩的なことを言えば、学生の人気が集り、著書が売れると思った。学生の人気を博することは、大学教授の保身の術の一つである、と考えた。

                                《松本清張 「カルネアデスの舟板」》

 

 

日本という国は蔑むべき存在だ、悪いことばかりしている国であると観念して、それに対抗する自分を「自立した市民」とみなすわけである。「反権力」「日本否定」のイデオロギーである。学生時代にエリート意識が強烈で、「革命」による権力獲得に最も近いと信じていた者が、社会に出てから官僚よりも権力に遠くなった苛立ちから生ずるコンプレックスである。  

 

観念主義者は、それが夢であってもよいと考える。その理想を追い続けることが彼らにとっての人生であり、自分の言説に動かされてついてくる人々がいつも存在してくれていることが必要なのである。このような観念の場に自らを置くことによって、この上ない満足感・幸福感・やすらぎの境地を得る。

 

無上のユーフォーリア(陶酔感)に浸りきることが、ときには観念と現実との間に見境がつかない精神状態を招くようである。新聞記者のような場合には、それが「虚報」という形となって現れる。 

                                《宮脇磊介 「騙されやすい日本人」》

 

 

進歩主義は人間の善性に信頼をおくかぎり、ユートピアと一体である。しかし、そのユートピアから見て、或いはよくなるはずの未来から見て、日本の現状を批判するという姿勢が余りにも強すぎる。

 

60年安保に際して、大部分の国民を巻き込んだ安保反対闘争のオピニオン・リーダーだったのが、進歩的文化人である。もし仮に彼らの主張通りにして、安保条約破棄、社会党政権の樹立がなされていたら、経済大国・平和国家とはほど遠い現実が支配したであろう。

その点、一般国民は賢明であった。当初は安保改定反対であったが、その後の日本の繁栄に改定日米安保条約が大きく貢献していることを見抜き、今では日米安保は日本にとって必須という認識が大半を占めている。

 

進歩的文化人は、ソ連のスターリンの独裁や人権抑圧、或いは中国の文革という集団ヒステリー現象、さらに北朝鮮の狂信的独裁制と経済の貧困等々を当時何と言ったか。「それらはアメリカ帝国主義が社会主義国を陥れるためのプロパガンダである」と。           《吉澤国雄 「真正保守がこの国の活路をひらく」》

 

 

戦後日本で左翼やリベラルと呼ばれた人々が「進んだ西洋」を価値判断の基準とする姿勢をとったのは、西洋を絶対視していたというより、むしろ戦略的に「日本の現状を批判するための拠点を、あえて理想化された西洋社会のイメージに求めた」側面がかなりあった。

 

ところが、「じゃあ、もう西洋中心主義はやめましょう。西洋近代とは大して素晴らしいものじゃなかったし、他の地域を植民地にしてひどい連中だったのです」ということになると、この国で「進歩的」な知識人であるためにいちばん必要なツールだった、「日本を批判するための思想軸」自体もなくなってしまった。

                   《與那覇潤 「「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人」》

 

 

 

ここに上げた知識人の言説の特徴は、自分自身が知識という「分断と統合」と「善悪」と「潜在意識」と「無意識」と「自意識過剰」と「社会からの認証欲求」と「勘違いされたプライド」いう「枠組み」に囚われていることを自覚しているからこそ、気づいていることである。

 

たとえば上記の知識人が仮定した前世紀のリベラルは下記のような人たちなのかもしれない。

小田実

矢崎泰久

中山千夏

田嶋陽子

江口圭一  平凡社百科事典

松井やより 朝日新聞

大内兵衛

などなど

 

保守派とリベラルの共通点

保守もリベラルも相手のことを批判するときには、知識によって作り出されてしまう正誤、善悪、好き嫌いが、どちらにも前面にでてくる。

そして、相手を批判する内容は、まるで自分自身のことを苦し紛れに告白しているかのようにも聞こえてくる。

これは、区切ること、関係性を構築(統合する)すること、そして判断すること、すなわち「知ること」によって生まれてしまう必然の結果である。

これが知の快楽であり、限界でもある。

 

もう一つの共通点は保守もリベラルも表面的には性格が良く、優しい人もがいことである。

ただその優しさは内側の同胞に対するもので、同じ胞でないとされたら、突然の冷酷さに変わる。

 

たとえばフランス革命のスローガンはLiberté, Égalité, Fraternité は「自由・平等・博愛」と訳されているが、Fraternitéは友愛とも訳されたりしているが英語のfraternityと同じで、frèreの語源は「兄弟」なので、これは「分けへだてのない平等な愛」ではなく、同志愛または同胞愛または兄弟愛のことなので、同志や同胞や友とい枠組みの外にいる者だと判断されたら、すぐに敵として冷酷に扱われることになる。

これが知識を価値観の中心においてしまった生物の特徴となる。

 

これはスローガンが美しければ美しいほど、その範疇に入らない外側のものは嫌悪され、除外され、結果的に革命では多くの死者を出すことになる。

参照するのは革命後のフランス、ロシア、中国などの死者数をみればわかりやすい。

これは知識だけではなく理性をも価値観の中心、すなわち枠組みを作ってしまった顛末である。

 

 

相手を切る刃を自分の首にも当てる資質

ある保守派の意見をいくつか聞きながら、それは発言者自身に返ってくるブーメランであり、次にはその刃を他者に向けたままにしておくのか、その刃をちゃんと自分の首に当てるのかが、各自に問われている。

たとえば、こんな意見があった。

 

私は反日日本人の動機の不純さも嫌いである。

連中が我々は先の戦争を反省せねばならないというときの我々には決して彼ら自身は含まれていない。

他者の犯罪を弾劾する行為は愉快なものだ。まるで神の視座を持ったが如くの気分になり、高みから下衆な連中の悪事を裁くという快感が得られるからだ。

それは強者となることの快感といえよう。

 

連中は反日によって権力を得ているといえる。それは世論というものを操り、国家権力すら屈服させる。そして悪辣なことに彼ら自身の行動の自由は、国家と民主主義によって守られており、彼らの権力は何物にも縛られることはない。

国家権力すら、法によって規制されているというのに、誰にも掣肘されることなく振るうことが出来る権力とは!!私は反日日本人こそファシズムの名にふさわしいと思う。

 

我々の真の敵は反日日本人である。左翼にあらず。

日本の軍国主義や侵略戦争を絶対悪とするのは、<反日日本人>のオリジナルではない、という事実だ。第2次大戦後、日本を占領統治したGHQは、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画を実行した。それは、“War Guilt Information Program(WGIP)と呼ばれている。まともな歴史家なら誰でも知っていることだ。

 <反日日本人>の日教組や教師は、みごとにその計画にはまった。ナンセンスな“反日闘争”で、戦後65年を過ぎた現在まで、教育現場を混乱させてきた。彼らは、GHQ占領政策をはじめ日本の歴史を、虚心坦懐に勉強しなおさなければならない。

 

戦後から高度成長前期にかけて、日本を貶め日本を断罪し日本人に懺悔させることが知識人の役割であるかのように喧伝された時期があったのです。マスゴミや教育界もこぞってその流れに乗りました。(この流れの影に中国やソ連の共産党の政治工作の存在を指摘する人も居ます。)

結果、大江健三郎や灰谷健次郎や井上ひさし等の反日的傾向が強くかつ社会的影響力のある文化人が多く輩出されることになり、これらの反日(侮日)文化人等がオピニオンリーダー的役割を果たし、朝日などの反日新聞が

それを後押しする事で、反日=正義、のような勘違いをする国民が多く発生する事になりました。

 

 

保守派もリベラルも同じ「過剰一般化症」の病人の集団      原因は知識の性質と思考パターン

反日というのもただのレッテルなので、反日=正義であると勘違いするような人々が実際にいるのではなく、私たちはTPOに合わせて適切な、時には誤解だらけの思考パターンで考えたり、判断したり、行動したりしている。

ヒトが誰でも陥ってしまうのは「過剰一般化」という脳の病気です。

過剰一般化とは、ある一つの因果関係をそのTPOではないところでも過剰に適応してしまい、法則や原理や摂理や真実や本質や知識や理性として、「分けて」は「統合」するというパターン認識を繰り返してしまうことです。

 

 

「私たち」ではなく、「わたし」の生存を基準にすると

自分の生存を基準にして、社会をよくしようとするのはこの世を生き辛く、己の首を真綿で絞めることにすぎない。

 

生命原理だけで環境社会を保護しようとしている今日の環境倫理思想と同じ思考パターンがある。

全体の健康や全体の保護を考えることに1つの考え(分析と統合)を使うのは、ある狂気の発動でなる。

というのは各自の健康と保護には各自のTPOに合わせた特殊なものとなるので、それら統合したものには具体性はなく、ただ一般論としての当たり障りのないものであるのに、それを意見の全面に押し出してくるのは、全体性という正義を大義名分として使う本人の無意識を本人自身が気がついていない可能性が高く、それが正気の沙汰ではないからである。

「全体の病気を持ち出そうとする者ほど、病気にかかっている奴はいない」稲垣足穂

 

ホッブズの全体性の提案は社会契約として近代国家のモデルになったが、それは全体性をつかって他者を支配するための道具となった。

 

16世紀から聖書を使ってアフリカ・南米・アジアを植民地にし、

18世紀からは理念を使って革命を正当化して既得権益所有者を追い払い、

20世紀からは科学を使って、自己正当化を押し進め、悪を他者に押し付ける

やっていることの共通点は、自分の考えを枠組みに入れて、外側を作り出して、それらを憐れみ、改善しようと努力して、うまく行かない時にはチャンスを与えたとしてその後は排除する。

そして、それらの行動を行う時には自分自身の立っている場所や考えている場所を深く考察することはあえてせずに不善を自分の枠組みの外だけに見つけることである。

自分の潜在意識や無意識を探求しないことから起こる行動である。

 

 

大衆の特権は自分の潜在意識を見ないで他者を裁くこと    ヒトのサガを考えることができない残酷さ

オルテガの『大衆の反逆』は、まず大衆がけっして愚鈍ではないこと、大衆は上層階層にも下層階層にもいること、その全体は無名であることを指摘する。ようするに大衆とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」なのである。

 そこまでは、大衆に罪はない。いやいやどこまでいっても大衆には罪がない。ところが、この大衆の動きや考えが何かに反映し、それがその社会が選択した「信念」と思えてしまうと、問題が出る。オルテガはその現象こそが、いまスペインにおこりつつある現象なのだと観察した。すなわち、罪のない大衆はいまや「無名の意思」を「やみくもに現代社会におしつけはじめた」のではないかというものだ。

 大衆に罪がないとすれば、どこかに罪がまわっていく。どこかに罪の主体が押しつけられる。たとえばスキャンダルによる失脚、たとえばマスコミの報道によるキャンペーン、たとえば政治家の政治、たとえば官僚の判断力。大衆はこれらを自由に問題にして、そしてさっと去っていく。

オルテガによれば、大衆の特権は「自分を棚にあげて言動に参加できること」にある。そして、いつでもその言動を暗示してくれた相手を褒めつくし、またその相手を捨ててしまう特権をもつ。

 ただし、大衆がいつ「心変わり」するかは、誰もわからない。それでも社会は、この大衆の特権によって進むのである。

 この分析は、本書をたちまちベストセラーにした。スペインだけではなく、各国で翻訳された。1930年の初版といえば、ナチスが台頭し、猛威をふるいはじめたときである。人々はオルテガを読み、自分が大衆に属していることを初めて知らされる。

大衆がどのように出現してきたか、オルテガの回答は意外なものである。「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」が大衆をつくったのだというものだ。これでピンとくる人はよほどカンが鋭いか、何かの苦汁を嘗めた経験がある人だろう。

 自由民主主義が大衆をつくったことは多数決の原理にあらわれている。これはわかりやすい。工業化が大衆をつくったことも、マスプロダクト・マスセールによって誰もが同じものを所有する欲望をもったということを見れば、見当がつく。だが、科学的実験はなぜ大衆の出現に関係があるのだろうか。

 オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。それはきっと大衆の言動に近いものになる。それよりなにより、そうした科学にとびつくのがまさに大衆だということになるだろう。

 こういう懸念がオルテガに「科学的実験が大衆の増長を促す」という「風が吹けば桶屋がもうかる」式の推測を成り立たせた。オルテガはこの見方に自信をもっていた(ややもちすぎていた)。それは、こうした科学を推進してやまない科学者を「サビオ・イグノランテ」(無知の賢者)と呼んでいることからもうかがえる。

ぼくはオルテガの大衆論を諸手では迎えない。いろいろ不満があるし、とんちんかんなところも感じている。

 たとえば、オルテガがエリートと大衆を分けているのは、もう古い。古いだけではなく、まちがってもいる。いまではエリートも大衆に媚びざるをえなくなっているからだ。

 そういう不満はいろいろあるのだが、感慨や沈思もいろいろあった。ひとつは、オルテガのように大衆と対決する哲人は、もう資本主義のさかんな国にはあらわれないんじゃないかという感慨だ。なぜなら、そのような哲人は大衆を衆愚扱いすることになり、それでは自ら天に唾するものになってしまうからである。

 これは、哲人は大衆と対決するのではなく、たんに大衆の場面から去るしかなくなっているという感慨でもある。

 もうひとつは、大衆の解体は何によっておこるのだろうかという疑問のような感慨だ。そんなことはおこりえないのか、それとも大衆そのものが自壊する要因があるとしたら、それは何なのだろうか、また大衆が自壊をのりこえる作用をもっているとしたらそれは何なのだろうかという問いでもある。

 

 

ヨブの苦難はどこから来たのか

『ヨブ記』は 旧約聖書に収められた韻文である。https://1000ya.isis.ne.jp/0487.html

 主人公がヨブ。  

 裕福で正直な名士で、「ウツ」の地(おそらく死海の南のエドム)に住んでいた。家族も土地も家畜も充分だった。聖書は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた」と書いている。そのヨブの信仰を神がさまざまな試練によって試した。ヨブだけが試されたのだ。ヨブはそれに対して信仰の堅固なところを証明してみせた。

 神はヨブの信仰がどこまで深いのかを試すため、悪魔を呼んで、ヨブの財産を傷つけたらどうか、体を傷つけたらどうかなどと言う。悪魔がたくみにヨブの体に悪腫をつけると、ヨブは体中を搔きむしって苦しむのだが、けっして神を恨まない。見かねた妻が「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」と自死を促すのだが、ヨブは「愚かな女だ」と悲しむ。

 そのうちヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。友人たちはヨブが本人と見分けがつかないほど苛酷な姿になっているのに衝撃をうけ七昼夜を一緒にするものの、うまく会話が交わせない。

 ここまでが「序」にあたる序曲で、ここにヨブの詩が入る。「わたしの生まれた日は消えうせよ」という有名な呪歌だ。呪歌からは壮絶なヨブの疑念が燃え上がる。

 

 次に「破」に入る。友人たちはヨブを慰めるために、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」「罰せられるのは悪人だけだ」などと説く。これは当時のユダヤ教の古典的な教訓である。きっとそのような教えが流布していたのであろう。けれどもヨブは、そのような教えを納得できなくなっている。

 友人たちは、たしかに善人でも苦難にあうことがあるだろうが、そもそも完全に潔白で汚れがない者なんているはずもなく、おそらく天使だって完全ではないのだから、それに人間はついつい悪に染まりやすいのだから、神を信頼しつづけて謙虚に神に祈ればいいのではないかと勧める。

 ヨブは自分がまったく悪行をはたらいていないのに、神がなぜ試練を与えたのかが理解できない。だから友人の言葉には同意できない。そういうヨブの態度を見て、じりじりしてきた3人のうちのビルダドが「いつまでそんなことを言っているのか。お前の口は嵐のようだ。神が裁きを曲げられるか、全能者が正義を曲げられるか」と罵る。他の友人もヨブを批判する。

友人たちはヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見ているわけである。けれどもヨブはその罪の自覚がないらしい。そこで、エリファズはいくつもの無慈悲な行為をあげ、ヨブに濡れ衣を着せる。

 よくあることである。相手が小さな罪を認めないのなら、もっと大きな罪を付加させたくなるのは、大半の人間がもつ感情であり、かつまたマスメディアや批評家がもつ態度というものだ。

 ヨブはこれらの暴言に耐えられなくなって、「君たちは慰めのふりをして苦しめている」「役にたたない医者だ」と、友人たちを詰(なじ)る。「黙ってくれ、私に話をさせてくれ。たとえどんなことがふりかかってもいい」という絶叫だ。

 驚いた友人たちは、ヨブにともかく黙って試練に耐え、毅然としていけばいいではないかと、なにやら懐柔策に出る。ここでヨブの断固とした一撃が出る。「私が話かけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい」。

 この「神への申し立て」が可能なのかどうかという一点が、『ヨブ記』の最初の神学的逆上になる。

 ヨブはすでに何度も神に跪き、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいと懇願してきたのである。ヨブは自分が公平に裁かれているのなら、その報いをうける覚悟はあったわけである。けれども神は沈黙したままにいる。なぜ神は、主は、何も言おうとしないのか。

 この疑問はものすごい。

 それどころか、ここからがさらに重大な社会の成立の仕方そのものに対する大問題になるのだが、もし神が告発者であって、かつ裁判者であるとしたなら、いったいこの世の誰がヨブを裁けるのかという「大疑」が生じてくる。つまり、ここには「もはや上訴のない社会」という問題が立ちはだかってくるわけなのだ。

どうだろうか。

 ここまでで、誰が『ヨブ記』が提訴しつつある問題に「解」を思いつけるだろうか。自信があるなら、挑戦してもらいたい。

 そのうえで言うのだが、今日の欧米世界の底辺にあるユダヤ=キリスト教社会がこの問題を解決するには、実はこの問題に目をふさぐしかないはずなのだということに気がつかれたい。

さて、こうして「序・破」をおえた『ヨブ記』はいよいよ「急」にさしかかる。

 ここではヨブが「神はどこにいるのか」「遠いところにいないのなら、自分とともにここに来てほしい」、そして「自分は神とともに裁きの場に出たい」とさえ言う。しかしそれでも神は沈黙したままなのである。

 こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。悪魔を非難するのではない。神に絶望するのだ。そしてすべての人間との交わりを避けて、すべてが自分を放っておいてほしいと願う。これはまさに絶望の精神の行方の暗示というものである。けれども、ここがユダヤ教的なところなのだが、ヨブは絶望しきれない。自害もならず、遁世もない。そして、それならせめて「自分に対する告訴状」を神が出してくれることを、一縷の望みに託すことになる。

 ここでエリファズ、ビルダド、ツォファルの会話を聞いていた新たな登場人物である青年エリフが出てきて、ヨブの独白を聞く。これが長いのだが、意外な結末はその直後に訪れる。嵐の中から主ヤハウェの大音声がついに聞こえてくるのである。

 

これは何者か。

知識もないのに、言葉を重ねて、

神の経験を暗くするとは。

男らしく腰に帯せよ。

わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ

わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。

 

これが神の第一弁論といわれる開始であった。

 ヨブは必死に答えようとするのだが、答えはまとまらない。つづいて神の第二弁論が雷鳴のごとく降り落とされる。

 

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。

神を責めたてる者よ、答えるがよい。

 

ヨブは神の臨在に圧倒され、打ちのめされる。そして「急」は幕を閉じ、「終」になる。

 ヨブは言う、「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。こうして終曲はふたたび散文に戻って、3人の友人には神の訓戒がくだされ、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。

 ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。

なんと恐ろしい物語だろうか。なんと答えのないレーゼドラマだろうか。

 しかも、この『ヨブ記』を書いた"編集者"の名も出自も、これまであらゆる聖書研究者が"調査"をかけながらも、ついにまったく見当がつかないままなのである。そして、『ヨブ記』の悪魔はメフィストフェレスとなり、神と悪魔の両者を含む超越者はスタヴローギンとなり、ヨブは馬鹿なイワンとも、ゴッホの向日葵とも、ユダヤ・キリスト教社会の未解決の象徴ともなっていったのだ。

ヨブの問答。

これは、少しでも神と交わりたい者が必ず出会わなければならない神の教えなのである。

 

 

 

 

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