過去・現在・未来 流れる時間を否定
ブロック宇宙論による過去・現在・未来の否定
三次元の空間にはすでに4つ目の軸である時間が組み込まれている。
時間は巨大な宇宙空間の中で「ある瞬間にその人・ものがどこにいたか」を表す座標でしかなく、
こういう意味で「時間の流れというものは存在しない」という主張。
過去・現在・未来という順番に意味を与えているのは、人間の脳の働きでしかない。
すなわち検索機能を起動するためには並べることが必要となり、混沌という事実から、秩序という検索できる状態にする必要が生まれてくるというわけです。
ですから「自分の記憶」によってしか、時間というものを説明することができない。
時間の流れはなく、あるのはブロック
「ブロック宇宙論」は過去、現在、未来 全ての時間を、同列に考えます
そして、四次元時空(ブロック宇宙)のどこかに過去、現在、未来の出来事が実在すると考えるわけです
「ブロック宇宙論」では恐竜も実在として存在しているし、未来の出来事も実在としてすでに時空のどこかにあるのです
そこには「時間の流れ」はなく、ブロック(塊)のどこかを切ってもある出来事があるだけというのです
ブロック宇宙の世界では時間に向きがないので現在、過去、未来の区別もない。
時間は実在しない、あるいは時間は実在するが、時間の流れは存在しないといった主張がなされています
この「ブロック宇宙論」は時間の非実在性を説いたマクタガート(1866〜1925・イギリスの哲学者)のC系列の考えを発展させたものです。
ブロック宇宙論は詭弁なのか?
マクタガートは、時間についての表現は、2つありそのどちらにおいても時間は、実在しないといいます
A、過去、現在、未来といった表現
この系列上の出来事は、異なる時点において、過去でもあり、現在でもあり、未来でもある
例えば、ある出来事が、現在の12時30分におきているとしても
10時30分という時点からすれば未来だし
15時30分という時点からすれば過去となる
→ 時間は実在しない
また、ある出来事が過去、現在、未来といった3つの互いに排除しあう特性を持つので矛盾する
→ 時間は実在しない
といった話です
B、ある時点より前、より後といった表現
B系列は「向き」をもつ点で時間的といえますが、マクタガートによると時間は必然的に変化を伴うのに、より先、より後というのでは、変化がない
例えば、2010年は、つねに2000年より後であるなので、実在性がない
ということです
なお、マクタガートによるとB系列だけでは時間が存在するためには不十分で、A系列が、真の時間であるといいます
マクタガートの間違えは、
1、≪言葉というものは物差しで測るようにモノゴトをきっちり分けることができない≫
ことを知らないのがそもそもの間違えです
2、言葉があるということは我々の世界になんらかの形で「ある」ことは、確かです
あとは≪実体≫としてあるのか、食事とか日没のような≪現象≫としてあるのか、神とか霊魂のように≪概念≫としてだけあるのか、ということになります
3、結論は、時間も、過去・現在・未来も、物事の変化=「現象」を表現するのに、人間が考えだした「概念」です
マクタガートの「時間は実在しない」論理には、「時間ではない」としたC系列があります
この話がブロック宇宙の根源がみられるのです
C系列とは「順序」という要素があり、「順序」には変化がないので時間ではないといいます
たとえば、あ・い・う・え・お といった順序は、い・え・う・お・あ などとといった他の組み合わせのいずれでもないですが変化することを示していないので時間ではないというわけです
また、C系列は永久に固定されていてそこに「変化」を入れてもB系列にならない、なぜなら、Bは、先(あ)→後(お)という時間ですがCに変化を入れても、Cは時間の向きを考慮しないので、あ→い→う→え→お、お→え→う→い→あ、のどちらかに流れることなるといいます
ブロック宇宙論というのは相対性理論の「時空」(時間と空間が一緒)ということ概念から、時間を空間のように考えるわけです
空間ならば、物体が移動できます
そこで、我々がコンビニに買い物に行くようにブロック宇宙を動き回ることが可能になればタイムトラベルもできるなんて話になっているのです
こうした、空間的な「時間」の概念は相対性理論とともに、ミンコフスキー空間(時空)が基礎になっているといいます
ミンコフスキー(1864〜1909)とは、ドイツ人数学者で、彼が、アインシュタインの特殊相対性理論における「時空」を、数学的に表したものがミンコフスキー空間(時空)です
それとこの「ブロック宇宙論」はじつは、古代ギリシアの哲学者ゼノン(前490〜前430頃)の「飛ぶ矢」のパラドックス(飛ぶ矢は動かず)と深く関わっている言えるのです
ゼノンといえば「アキレスと亀」のパラドックスが有名です
「飛ぶ矢」のパラドックスとは
【 飛んでいる矢もその一瞬一瞬を考えれば止まっている瞬間とは点であって延長を持たないからある瞬間における矢は動いていない。瞬間をいくら足していっても矢は動いていないはずである
】
というものでゼノンは一瞬という時間を点という面積におきかえて「時間は存在しない」と論じたわけです
「飛ぶ矢」は≪アキレスと亀なら、まだしもあまりにも現実の知覚とかけ離れている≫とか≪詭弁である≫とか
言われつづけながら二千年たった現在も「詭弁」であることの反証に成功した人がいないというパラドックスです。
こうした問題を現代の物理学では解決できないことから≪ブロック宇宙論≫の立場があるわけです
アメリカの理論物理学者ブライアン・グリーン(1963〜)は
【 変化という概念は時間のある一瞬については何の意味もない
】
【 変化は、時間の経過のなかで起こり、時間の経過を意味する。しかし、いったいどんな時間概念ならば経過することが可能なのだろうか?
当然ながら、瞬間には時間の経過は含まれない。なぜなら、瞬間とは時間の素材でありただそこに存在するだけで変化しないからである 】
【 ある場所が空間のなかで移動すれば別の場所になるだけのことだし、時間のなかである瞬間を移動したとすれば別の瞬間になるだけのことだろう
】
【 時間は流れていく川というよりもむしろ永遠に凍りついたまま今ある場所に存在し続ける大きな氷の塊に似ている
】
と述べています。
ブロック宇宙論というのは以上のような論理から
≪時間が流れるという感覚は人間が作り出した概念であり、時間は存在しない≫とか
≪我々は時間の経過を観測しているわけではない。実際に観測しているのは、この世界の状態が私たちがいまだ記憶に留めている以前の状態とは異なるということにすぎない。
時間とは、脳が記憶を留めておくことによって生み出された幻想である≫
などの主張がされているわけです
ブロック宇宙論の要点は
A、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月1日には熱い
B、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月2日には冷たい
AとBを因果的に関連付けて鉄の棒の温度が変化した というのは誤りである
→ 時間の流れは存在しない
→ 時間が流れているという感覚は幻想
というわけです
A、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月1日には熱い
B、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月2日には冷たい
この場合≪「熱」というエネルギー≫が作用で≪「熱」の状態が変化していく割合≫が速度です
A〜Bまでの経過を、写真にすると
ある瞬間(=0時間)の写真には鉄の棒の温度1000℃が記述されていて
ある瞬間(=0時間)の写真には鉄の棒の温度250℃が記述されていて
ある瞬間(=0時間)の写真には鉄の棒の温度50℃が記述されていて・・・・
以上のように、瞬間瞬間の≪空間≫には存在とともに、作用(熱エネルギー)が記述されているのです
同様に「飛ぶ矢」のパラドックスは
A、矢は、12時30分10秒には、A地点で静止していた
B、矢は、12時30分15秒には、B地点で静止していた
と言い換えることができます
この場合≪「矢」の運動エネルギー≫が作用です
このように、瞬間の空間に作用が記述されていれば時間というものは、必ず生まれます
また、矢の飛ぶ作用がゼロ、鉄の棒の熱の作用ゼロだとしても存在がある限り、「劣化」など、別のなんらかの作用が存在します。
つまり、存在がある限りなんらかの時間が、存在しているということです。
そして地球上では、500℃の鉄の棒は空気に熱を奪われて冷めていくだけで、たとえば空気より熱を奪って700℃、1000℃になることはできません。
飛ぶ矢の運動エネルギーは、空気の摩擦で、熱や音に変化し、減少していくしかなく、空気の熱からエネルギーを得てどんどん速くなる なんてことにはなりません。
モノやコトには時間的な変化ができるようにエネルギーが移動する方向が、決まっているのです。
地球での変化、太陽での変化による方向性はあるが、方向は同じではない。
「飛ぶ矢」のパラドックスにしろ、「ブロック宇宙論」にしろ、根本は、≪瞬間には、時間の流れは含まれていない≫という根拠をもとに組み立てられたものですが、瞬間=0時間の空間には、時間そのもの=時の流れ の記述はありませんが、時の流れを生み出す「作用」(エネルギー)の記述があり、その作用が、≪速度としての時間≫≪時の流れとしての時間≫を生み出し、作用の連続が≪作用がある効果をもたらすまでの期間としての時間≫を生み出している、ということです
ブロック宇宙論の矛盾は使用している言語の定義に明示されています。
「ある場所が空間のなかで移動すれば別の場所になるだけのことだし、時間のなかである瞬間を移動したとすれば、別の瞬間になるだけ」
「移動」そのものが、≪変化≫であり、それが≪時間≫そのものではないのか。
「我々は時間の経過を観測しているわけではない。実際に観測しているのは、この状態が記憶に留めている以前の状態とは異なるということにすぎない」
「この状態」(現在) と比較した「以前の状態」(過去)は以前という≪時間≫の概念を使っているのに、時間はない、というのは論理的におかしいのではないのか?
≪時間が流れるという感覚は人間が作り出した概念であり、時間は存在しない≫
そうではなくモノやコトの変化や動き、すなわちモノやコトが流れるという感覚を人間が「時間」という概念で定義したのです。
話が、まるっきり逆さまなのです
A、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月1日には熱い
B、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月2日には冷たい
そこに「時間の流れはない」
こうした話は、時間を実体視しているのです
モノやコトの動きや変化とは別の実体的な時間の存在を認めているということです
たとえば、トランプの1枚、1枚が0時間の空間であり、「存在」と、存在のもつ「作用」とが記述されています
トランプのカードをまとめて右手にもち1枚、1枚、下に落としていき、途中で落とすのを停止します。
この落ちている最中のカードの1枚と、床の上で静止しているカードの1枚とは同じではない、ということです。
動いているカードの1枚には作用の大きさが記述されているのに対して、静止しているトランプの1枚には記述されていない、あるいはゼロが記述されているのです
結論は、時間(速度としての時間・時の流れという時間)は「作用」に付随して生まれています。
ですから、時間とは、作用よりも抽象度の高い概念であり、熱い鉄の棒の一瞬はすでに時間の中での事物である、ということになります。
ですから、ある作用が連続するということには、時間の連続がすでに含まれていることになる。
現在主義による否定
現在以外に存在を確定できるものはない
過去すら実在するかどうかわからない
あなたが体験している世界は水槽の中で生かされている脳が見ているバーチャルリアリティではないと証明できるか?
時間をはじめとする世界の実在を証明することはできない。
時間が実在しないことがわかっても、世界の何かを変化させるものではない。
しかし「わたし」は変化する。
物理学が解き明かすことによって、その解き明かされたものは「世界」自体になる。