ダイオキシンは猛毒ではない?
最近あのダイオキシンに「実はあまり大した毒性ではないのではないか」という説が浮上しています。ダイオキシンといえば言うまでもなく、多くの書物やニュースなどで「発ガン性・催奇形性・内分泌攪乱作用などあらゆる毒性を併せ持ち、12kgあれば日本人全員を殺せる史上最強の毒物」と騒がれていたはずの化合物です。果てはアトピーや「キレる子供」の原因といった根拠のない嫌疑までかけられており、おそらく現在最も嫌われ、恐れられている化合物といっても過言ではないでしょう。
2,3,7,8-tetrachloro-dibenzo-p-dioxin。
ダイオキシンの多くの異性体のうち最も毒性が強いもの。
ダイオキシンは農薬合成時などの不純物としてできる他、塩素を含む化合物を燃やすことによっても生成します。1999年、所沢近辺の産廃処理施設から発生するダイオキシンが付近の環境を汚染しているとして大きな騒ぎを起こしたのは記憶に新しいところです(これは後に判明した通り虚報でしたが)。さらに食塩と新聞紙を一緒に燃やすだけでもダイオキシンが発生することも実証され、近年では自宅での焚き火でさえ危険とされるようになってしまいました。
ベトナム戦争で使われた枯葉剤2,4-D(左)と2,4,5-T(右)。合成過程でダイオキシンを生成する。
さてこれだけ騒がれてきたダイオキシンに、なぜ今になって「大した毒性ではない」という話が出てきたのか?一言で言えば、「動物実験では確かに強い毒性があった。だがダイオキシンで倒れた人間はほとんどいないではないか」ということです。
毒性と一口に言っても急性毒性、慢性毒性、発ガン性、生殖毒性、内分泌攪乱作用などさまざまな種類があります。このうち急性毒性は文字通り「どれだけ飲んだら死ぬか」という数値で、LD50という数値で表します。例えばある化合物のLD50が100mg/kgと言った場合、「体重1kgあたり100mg(60kgの人なら6g)の化合物を飲むと、その50%が死ぬ」ということになります。
ダイオキシンのモルモットでのLD50は0.6μg/kgとされます(μgは100万分の1グラム)。この数値を体重60kgの人間に当てはめれば致死量は36μg、つまり1gのダイオキシンは17000人分の致死量に相当することになります。多くの本に登場する「青酸カリの1万倍、サリンの17倍」という数値はこれが根拠と思われます。ただし、モルモットは化学物質に対し非常に敏感な動物であることが知られています。
サリン。ヒトでのLD50は10μg/kg前後とされる。
というわけで他の動物でのデータを見ると、イヌのLD50は3000μg/kg、ハムスターでは5000μg/kgであり、これらの動物はモルモットより数千倍もダイオキシンに強いのです。ここまで種差の大きい化合物は非常に珍しく、これはなぜなのかまだわかっていません。というわけで単純にモルモットでの毒性を人間に当てはめるわけにはいかないのです。
人間でのLD50は当然測定するわけに行きませんが、人間はイヌやハムスターよりさらにダイオキシンに強いと考えられる根拠があります。今までに何度か事故などにより大量のダイオキシンがばらまかれたケースがありますが、これによる死者はほとんど出ていないのです。
最も顕著なケースは、北イタリアのセベソで起こった事故です。1976年7月、この町にある農薬工場で化学反応の暴走が起こり、推定130kgものダイオキシンが噴出しました。これは周辺数キロの範囲に飛び散って17000人がこれを浴び、しかもまずい対応のために避難が始まったのは事故から1週間が経過して、住民がたっぷりとダイオキシンを吸い込んでからになってしまいました。住民の血中ダイオキシン濃度は通常の2000〜5000倍にもはね上がり、悲惨な事態を予見してイタリアのみならずヨーロッパ一円がパニックに陥りました。
ところが驚くべきことに、22億人分の致死量(モルモットでの数値)のダイオキシンが狭い範囲に降り注いだこの事故で、死者は一人も出ていません。奇形児の出産を恐れて中絶した妊婦もたくさん出ましたが、胎児にも特別な異常は見られなかったということです。出産に踏み切った女性たちの子供や直接ダイオキシンを浴びた住民たちはその後長い間追跡調査を受けていますが、体質によりクロロアクネ(吹き出物に似た数ヶ月で治る皮膚病)が出た人を除けば、病気の発生率・死亡率など特に異常は見られていません。
その他世界各地でこうした事故は何度か起こっていますが、ダイオキシンが原因で死亡した可能性があるのは1963年オランダでの事故で清掃作業にあたり、大量の残存ダイオキシンに触れた4人だけとされます。史上最強の毒物にしてはこれはあまりにおかしな話で、少なくともヒトでの急性毒性に関しては「サリンの17倍」うんぬんの議論は完全な間違いと断じてよさそうです。
(追記)
2004年12月、ウクライナ共和国の大統領候補であったユシチェンコ氏がダイオキシンを食事に盛られて倒れ、顔面に青黒い発疹ができて人相がすっかり変わってしまった、という事件がありました。氏はその後無事回復して大統領の座に就きましたが、その後の調査で彼は2mg程度のダイオキシンを食べさせられたと見積もられています。これはニュースで一時期騒がれた「高濃度ダイオキシン汚染キャベツ」を、一度に200万個程度食べた量に相当します。これだけのダイオキシンを一時に摂っても生命に別状がなかったわけですから、急性毒性に関してダイオキシンのリスクは全く取るに足りないことのよい証明になったともいえるでしょう。
ダイオキシンの発ガン性についても詳細な研究が行われています。詳しいデータは参考文献に譲りますが、動物実験の結果によればダイオキシンには発ガン性はなく、すでに発生したガンを増殖させる能力だけがあることがわかっています。後者の能力も強いものではなく、人間が日常取り入れている量の6万倍にあたる量のダイオキシンを投与して、ようやく10%の動物がガンを発生したというレベルにとどまっています。
ただしWHO(世界保健機構)の分類では、ダイオキシンはそれまで「発ガンの可能性あり」だったものが、1997年に「発ガン性物質」へと変更されています。これは各国の専門家から成る委員会での投票により、11対9で決まったとのことです。発ガン性があるかないかが投票で決められるというのも本来妙な話ですが、そうでもしないと決着しないほどに専門家の意見も割れたわけで、政治的要因も絡んだ苦渋の決断だったようです。どちらが正しいのかは筆者あたりに判定できることではありませんが、いずれにしろ発ガン性があるかないかは極めて微妙で、タバコの煙や焼き魚の焦げほどのようなはっきりしたリスクではなさそうです。
肉や魚の焦げに含まれる発ガン物質、ベンゾピレン。
ダイオキシンには内分泌攪乱作用(いわゆる環境ホルモン作用)があることもわかっています。体内での作用メカニズムも明らかになりつつあり、ダイオキシンに問題があるとしたらこの作用であろうと現在では考えられています。環境ホルモンは精子数の減少、発ガン、子供の形態異常など極めて広範囲な影響を引き起こすと考えられている上、長期に渡って作用するのでその観察には注意を要します。
しかしこれも動物実験の結果によれば、人体に悪影響が出るには数十μgレベルのダイオキシンが必要と考えられます。これは大変な微量のように思えますが、TVなどで大きく報道された「高濃度汚染野菜」に含まれるダイオキシンは数pg(ピコグラム、1兆分の1グラム)のレベルで、両者には1000万倍、文字通りアリと小錦ほどの差があるのです。
仮に毎日100pgのダイオキシンを取り入れ、これが全て体内に蓄積されたとしても(実際には一定のペースでダイオキシンは体外に出ていきますが)、悪影響が出る数値に達するまでには2000年近くかかる計算になります。これは毎日バケツで1杯ずつ水を注ぎ(しかも水は少しずつ蒸発していく)、東京ドームを満タンにする作業に匹敵します。
皮肉なことですが、ダイオキシン騒ぎの一因はこうした分析機器の進歩にあったともいえます。現代の技術は1フェムトグラム(1000兆分の1グラム)のダイオキシンさえ検出を可能にしますが、これによって今まで「ゼロ」だと思っていた身の回りのダイオキシンが、「見えて」きてしまったのです(冷静に考えればこれは人体に害をなす量ではないのですが)。顕微鏡が発明され、細菌の存在を知ったことで身の回りのものが急に汚く感じられるようになってしまった――というのに似ているかもしれません。
もちろん、こうした実験結果や事故の調査結果をそのまま信じて鵜呑みにしてよいのかという問題はあります。政府がデータを隠している、大企業が圧力をかけている、という主張は数多くあり、ダイオキシン低毒説を唱える研究者を「御用学者」「安全宣言屋」として激しく糾弾する本も見かけます。実際、上記のWHOの決定には「セベソの事故には隠蔽されたデータが存在する」という風聞が大きく影響したと言われます。そんなデータがあるのかどうか筆者には知るよしもありませんが、筆者としては両論を読んだ上、低毒説の方に十分な科学的根拠があると判断してこの項を書いていることを申し添えておきます。最近広まってきた低毒説に対する有力な反論も、今のところどうやら出現していません。
実際、こうした問題の難しさは「疑うことは無限にできるが、誰もが納得できる『無害』の証明は事実上不可能」という点にあります。いくら実験データを積み重ねても「動物実験では本当のところはわからない」「未知の作用があるかもしれない」「他の物質と複合的に作用するかもしれない」など言いがかりのつけようはいくらでもあり、これを完全に否定することは大規模な人体実験でもしない限り不可能です。
いってみればこれはネス湖をいくら大規模に捜索したところで、「ネッシーはいない」という証明にはならないのと同じことです。どこかに隠れ潜んでいる可能性が0とはいえない以上、科学者としては「これだけ捜して骨一本見つからないのだから、いないと考えるのが妥当なのではないか」という程度のことしか言えません。「○○は存在する」という証明は証拠一つ挙げればいいから簡単ですが、「○○は存在しない」という証明は非常に難しく、これはダイオキシンに限らず自然科学全体につきまとう問題です。
ただひとつ確実に言えることは、日本のダイオキシン汚染は1970年ころをピークとして、以後順調に改善を続けているということです。当時の汚染の元凶であったある種の農薬も現在は禁止され、焼却炉の改善などによって環境中に放出されるダイオキシンは大幅に減少しています。前述の通り環境ホルモンは長期に渡って作用を及ぼすためリスク評価が難しいのですが、数十年前から今より多量のダイオキシンを浴びてきた日本人は長年世界一の長寿を保っています。これを見る限り、環境ホルモン作用についても一応安心といっていいのではないでしょうか。
ダイオキシンや環境ホルモン以外にも、人体に対する害を疑われる物質はたくさんあります。これらのうち人類に取り返しのつかない被害を与える可能性があるものは、グレーゾーンであってもきちんと対策を立て、害の有無についてできる限りの検討を行うべきであるのは当然のことです。とはいえあまりに化学物質の害に過敏になり、取るに足りないリスクに対して巨額の対策費用を投じ、有用な化合物を葬り去るようなこともまたあってはなりません。
気づかないうちに我々は一酸化炭素や青酸などの「猛毒」を空気や食事から摂取していますが、量がごく少ないので体はこれを問題なく処理し、何も目に見える害は起きません。逆に前項のアカネ色素のように、本来ほぼ無害な化合物でもあまりに非常識な量を長期に渡って食べ続ければ、何かしら問題が起きるのは当然のことです。これはビタミンやミネラルなど、一般に「体にいい」と言われている物質でも例外ではありません。
化合物が体によいか悪いかは「○か×か」といった単純なものではなく、それを体に取り入れる量によって決まる――。実に当たり前のことですが、その当たり前を我々がきちんと理解することができれば、化学物質をめぐる空虚な騒ぎはずいぶんと少なくなることと思います。そしてそれを伝えるメディアはこのことを十分に認識し、責任と誠意をもって報道に携わってもらいたいものだと思う次第です。
参考文献
「メス化する自然」 デボラ・キャドバリー著 集英社
「逆説・化学物質」「からだと化学物質」 ジョン・エムズリー著 丸善
「所沢ダイオキシン報道」 横田一著 緑風出版
「ダイオキシン情報の虚構」 林俊郎著 健友館
「化学物質のリスクとコミュニケーション」 安井至(「バイオサイエンスとインダストリー」2004年6月号)
ニュースの中の化学物質
1997年、ネイサン・ゾナー君という14歳の少年が書いた「我々はどのようにしてだまされるのか」というタイトルのレポートが科学フェアで入賞し、マスコミにも取り上げられて話題を呼びました。彼はDHMOという化学物質の害を指摘し、この物質の使用規制を求めて周囲の50人の大人に署名を求め、うち43名のサインを得ることに成功したのです。彼の挙げたDHMOの危険性は、
(1)酸性雨の主成分であり、温室効果を引き起こすことも知られている
(2)多くの場合、海難事故死者の直接の死因となっている
(3)高レベルのDHMOにさらされることで植物の成長が阻害される
(4)末期癌の腫瘍細胞中にも必ず含まれている
(5)この物質によって火傷のような症状が起こることがあり、固体状態のDHMOに長時間触れていると皮膚の大規模な損傷を起こす
(6)多くの金属を腐食・劣化させる
(7)自動車のブレーキや電気系統の機能低下の原因ともなる
といったものです。そしてこの危険な物質はアメリカ中の工場で冷却・洗浄・溶剤などとして何の規制もなく使用・排出され、結果として全米の湖や川、果ては母乳や南極の氷にまで高濃度のDHMOが検出されているとネイサン君は訴えました。さてあなたならこの規制に賛成し、呼びかけに応じて署名をするでしょうか?
鋭い方ならお気づきの通り、DHMO(dihydrogen monoxide)は和訳すれば一酸化二水素、要するにただの水(H2O)です。読み返していただければわかる通り、DHMOの性質について隠していることはあっても、ウソは一つも入っていません。単なる水であっても、恣意的に危なそうな事柄だけを取り出せばいかにも危険な化学物質のように見え、規制の対象とさえなりかねない――。ネイサン少年の指摘はなかなかに重い意味を持っているように思えます。
恐怖の化学物質?DHMO
まあこのDHMO規制の話は笑い話で済みますが、近年の化学物質に関する報道を見ていると、実際にこれと大差ないことをしようとしているケースもあるように見えます。
例えば最近、食品の着色料として用いられるアカネ色素に発ガン性があることが確認され、厚生労働省が使用の自粛・消費者への注意喚起を呼びかけたというニュースがありました。すでに「自粛要請などではなく使用禁止にすべき」「他の色素は大丈夫なのか」といった不安の声が挙がっているようです。
アカネ色素の主成分、arizarin
しかしこの件を伝えた多くの新聞や、厚生労働省のサイトなどでも、どれだけの量を食べればガンが起きるのかといったことについてほとんど触れられていないのは非常に疑問です。唯一詳しい実験内容が伝えられていた朝日新聞の見出しによれば「強い発ガン性確認」とあり、「アカネ色素が5%混入したえさを2年間与え続けたマウスのうち、雄の80%が腎臓がんを発症した」ということです。さて果たしてこれが「強い発ガン性」といえるようなものなのでしょうか?
マウスは非常に大食いな動物で、1日に体重の15〜30%ものえさをたべないと生きていけません。その5%というのは人間で言えば500g近い量を毎日食べ続けることに相当し、この量を食べて無害な物質というのはそうあるものではありません(食塩は約200g、カフェインは5g前後、ニコチンではわずか60mgを食べれば死に至ります)。ましてアリザリンはあまり水溶性の高い物質でもありませんから、この実験条件は毎日砂を大量に食べているも同然であり、これを2年も続けていれば何か臓器に障害が起きるのが当然と思えます。
コーヒーの成分カフェイン(左)とたばこの成分ニコチン(右)。
実際には食品に含まれている色素の量は多くてもせいぜい数ミリグラムといったオーダーであり、ガンを起こすのに必要な量の数十万分の1といったところです。日本国内に流通するアカネ色素を含んだ食品は(アカネ色素は、ではありません)年間20数t程度ということですから、国民一人あたりにならせば1日約0.5ミリグラム、とうてい問題になる量とは思えません。
ごく微量とはいえ発ガン物質が入っているのは怖いという方もおられるでしょうが、実際に我々は摂取量と致死量が10倍も違わない化学物質を日常的に取り入れています。その物質の名はエチルアルコールです。日本酒を5合飲んで平気な人も、一気に5升飲めばまず確実にあの世行きでしょう。
また食事を詳しく分析すれば、ごく微量ながら猛毒の青酸やヒ素なども検出されます。日常口にしている化合物でもとんでもなく大量に取り入れれば体調を崩すこともあるし、毒物であってもごく少量ならば体はこれを問題なく処理する、というだけのことです。
とはいえ、もちろんこうした着色料は本来食品に入っている必要のないものですから、アカネ色素を規制することには筆者は特に反対ではありません。まあ現実には不可能なほど大量に食べないとガンにならないアカネ色素より、煙を吸うだけでガンを発生するタバコを先に規制するのが筋ではないか、とは思いますが。
報道過剰が問題なケースもあれば、報道されないことが問題であるケースもあります。最近は以前ほど話題に上らなくなった、環境ホルモンに関する事柄などがそれです。
環境ホルモンの話は以前ステロイドの項で詳しく書いた通り、体内で女性ホルモンに似た作用をし、取り入れた動物に生殖器の発達不全、精子数の減少などを引き起こすとされる物質群のことです(他のタイプもある)。そしていくつかの物質が疑われた中、有力な候補の一つとしてやり玉に挙がったのがフタル酸エステル類でした。
フタル酸ジエチル(DEP)
この物質は「可塑剤」としてポリ塩化ビニル(塩ビ)に混ぜて使われます。塩ビはそのままでは水道管に使われるような非常に硬いプラスチックですが、DEPを加えると塩ビの鎖の間に入り込んで滑りがよくなり、しなやかで柔軟な素材に生まれ変わります。このDEPがラップや皿からごく一部食品中などに溶け出し、先に述べた障害の原因になっているのではと疑われたわけです。
ポリ塩化ビニル
しかしここまで多くの検討が積み重ねられてきた結果、どうやら「フタル酸エステルには、いわれていたような環境ホルモン作用はないらしい」という結論に現在は落ち着きつつあるようです。その他の毒性も極めて低く、一度に2kg食べても体に害はないとされています。
フタル酸エステル類以外にも、環境ホルモン作用の疑いをかけられた化合物はたくさんあります。この問題に関しては多くの報道がなされましたが、現在あの騒ぎがどうなったか知っている方は少ないのではないでしょうか。1998年、環境庁(現・環境省)は環境ホルモン作用が疑われる物質として65化合物をリストアップしたのですが、これらはその後の調査で人体への影響が観察されず、リストは取り下げとなったのです。
ただしこうした結果は「○○は極めて危険な化合物である」といった報道に比べてニュースバリューが低いと思われるのか、ほとんど表だって取り上げられることはありません。このあたり化合物を製造・使用する側からすればたまったものではありませんが、疑惑がかけられる時にはマスコミあげて大騒ぎし、無罪放免となった時には何事もなかったように沈黙というのは、人間の場合も化学物質の場合も同じことであるようです。
環境ホルモン作用が疑われたビスフェノールA、ノニルフェノール
☆ホルムアルデヒドの話
Yahoo!ニュースの「サイエンス」トピックスでは科学に関するニュースが項目別に分類されており、リアルタイムでたくさんの情報が見られるので筆者も便利に利用しています。ここには「物理学」「天文学」「医療」などの他「ナノテクノロジー」「SARS」「遺伝子組み換え食品」といった項目までが揃っているのですが、残念ながら「化学」という項目は存在していません。「化学」と名のつくトピックは「化学物質と健康」があるだけで、化学がニュースになるのは人の健康を害したときだけなのか、と化学者の端くれとしてはやや情けない思いになってしまいます。
その「化学物質と健康」トピックの中で、最近ダイオキシンなどと並んでよく登場するのが今回の主役「ホルムアルデヒド」です。シックハウス症候群の原因物質として悪名を高めているこの化合物、今回はその実体に迫ってみましょう。
まずホルムアルデヒドとはどんな化合物か。名前だけ聞くとなんだか非常にややこしい物質を想像してしまいますが、実のところ下に示す通り極めて簡単な化合物です。炭素1つ、酸素1つ、水素2つとわずか4つの原子だけから成っており、この世のありとあらゆる有機化合物の中で最もシンプルなもののひとつといっていいでしょう。
formaldehyde
ただしホルムアルデヒドはそれ自身でつながり合う性質があり、3つが輪になったものをトリオキサン、長く鎖状につながったものをパラホルムアルデヒドと呼びます。これらはガス状の単体ホルムアルデヒド(上図)に比べて保存・貯蔵がしやすいので、実験室ではこれらを使用直前に酸や熱で分解して使うことがほとんどです。
1,3,5-trioxane(上)とparaformaldehyde(下)
ホルムアルデヒドは自分自身だけでなく、いろいろな分子をつないで橋かけをする性質があります。たとえば尿素とホルムアルデヒドを混ぜてやると、両者は水分子が外れる形で互いに結合します。この過程が繰り返されて、最終的には何百万、何億という原子から成る巨大なランダムネットワークが形成されます。これが尿素樹脂と呼ばれるプラスチックです。これは混ぜるだけで固まるため接着剤としても使用可能で、薄い板を貼り合わせて合板(ベニヤ板)を作るためなどに多量に利用されています。
尿素とホルムアルデヒドの脱水縮合(上)と尿素樹脂(下)
ホルムアルデヒドは他にも、フェノールやメラミンといった比較的外れやすい水素原子を持つ化合物と自由自在に縮合し、多くの種類のプラスチックを作り上げます。このためホルムアルデヒドは極めて重要な工業原料であり、国内の生産高は年間120万t以上にものぼっています。
フェノール(左)とメラミン(右)
「外れやすい水素原子」を持つ化合物は何もこれらだけに限らず、タンパク質などもホルムアルデヒドと反応しうる水素を多数持っています。このためタンパク質はホルムアルデヒドと出会うとあちこちが橋かけされ、固められてその機能を失ってしまいます。みなさんも理科の実験室などでホルマリン漬けの標本を見たことがあると思いますが、実は「ホルマリン」というのはホルムアルデヒドの水溶液であり、「ホルマリン漬け」というのは生物のタンパク質を固めて腐敗を受けにくくする処置なのです。
生命の機能を司るタンパク質を固めて変質させてしまうわけですから、ホルムアルデヒドには毒性もあることになります。戦後の混乱期にメタノール入りの密造酒が出回って多くの人が失明したり命を落としたりといった事件がありましたが、これも直接の原因はホルムアルデヒドにありました。
体内に入ってきた酒(エタノール)を処置するのは、肝臓にあるアルコールデヒドロゲナーゼ(アルコール脱水素酵素)と呼ばれる酵素です。エタノール分子から水素原子を2つ奪ってアセトアルデヒドとする役回りの酵素で、これがさらに酢酸へと酸化されて体外へ排出されます(一種の解毒作用です)。
alcoholdehydrogenase。左は全原子表示、右は模式表示(表示について詳細はこちら)。
アルコールデヒドロゲナーゼの行う反応。エタノール分子(左)を酸化してアセトアルデヒドとする。
たいていの酵素の場合その働きは非常に厳密で、目的の物以外を処理することはあまりありません。ところがこのアルコールデヒドロゲナーゼはかなりルーズな酵素で、よせばいいのにエタノールだけでなくメタノールも酸化してホルムアルデヒドに変えてしまいます。こうしてメタノールを飲むと体内に大量にホルムアルデヒドが発生することになります。
メタノールの酸化反応。
網膜にあるタンパクはホルムアルデヒドと反応しやすく、このため容易に機能を失って失明に至ります。さらに大量のメタノール(コップ1杯程度)を飲むと全身のタンパクが破壊され、組織損傷を起こして最悪の場合死に至ることになります。いってみればホルムアルデヒドの毒性と防腐・殺菌作用は表裏一体、同じ事柄の両面であるに過ぎません。
さて冒頭で書いた通り、ホルムアルデヒドは現在問題になっているシックハウス症候群の原因物質のひとつと考えられています。新築の家の建材に使われた接着剤、プラスチックなどから原料のホルムアルデヒドが放散し、これを吸い込んだ人に頭痛・吐き気・思考力低下など広範囲な症状を引き起こしているというものです。
では上に挙げたような毒性がシックハウス症候群の原因になっているのか、というと実はそうでもなさそうなのです。タンパクの変性による症状を引き起こすにはグラム単位のホルムアルデヒドを取り入れる必要がありますが、部屋の空気に混じるホルムアルデヒドの濃度はせいぜいppm(百万分の1)の単位で、いくら吸い込んでもタンパク質の変性を引き起こすにははるかに遠い価です。実際我々もホルムアルデヒドを実験に使う機会がありますが、この時にはおそらく普通の部屋の数千倍という濃度のホルムアルデヒドが漂っているにも関わらず、たいていの人にとっては特別どうということもありません(防護メガネをかけていないと多少目がチカチカする程度です)。
またやはりシックハウスの原因とされているトルエン・キシレンなどの揮発性有機化合物(VOC)は、ホルムアルデヒドとは性質も用途も似ても似つかない化合物ですが、人によって同じような症状を引き起こします。この他、防虫剤・ワックス・化粧品の成分などさまざまな物質がシックハウスの原因になりえます。
シックハウスの原因物質、トルエンとキシレン。塗料などの溶剤として用いられる。
ではいったいなぜ症状が起きるのか――。これは今のところ「わからない」という他ありません。わかっているのは特定の化学物質を吸い込み続け、ある一定のライン以上に蓄積すると突然に症状が起こるということです。この「一定ライン」は人によって極めてまちまちで、たいていの人には一生住んでいてもなんともない量の物質にも過敏に反応する体質の人があるわけです。
こうした病気は環境・食事・精神面など多様な要素が複合的にからみ合って発症すると考えられるため、真の原因を突き止めるだけでも非常な困難が伴います。実のところ、こうした化学物質過敏症患者の訴える症状や発症条件はあまりにまちまちであり、統一的なひとつの病気として扱えるものであるのか疑問を呈する専門家も少なくありません。新居に入る時というのは、環境の変化によって心身が様々なストレスにさらされる時期でもあり、そこから生じる様々な症状の原因を家の臭いに結びつけて「シックハウスだ」と判定しているケースなども恐らくあることでしょう。このあたりは今後の研究に進展を待たねばならないところです。
とはいえ現在もシックハウス対策は進められており、ホルムアルデヒドなどの放散・吸入を最小限に抑える研究が進行しています。建材に使われるプラスチックや接着剤も最近はホルムアルデヒドを使わないタイプに置き換わりつつありますし、酸化チタンや鉄イオンで建材をコーティングし、悪臭物質やホルムアルデヒドを酸化分解してしまう商品も実用化されています。中でも酸化チタンは光のエネルギーによって活性酸素を発生し(人体に影響はありません)、細菌や有害物質を効率よく除去する力があるので、近年大きな注目を集めています。
ホルムアルデヒド対策に用いられる鉄(II)EDTA錯体。
安く便利であるという理由で多用されてきたホルムアルデヒドは、その安易な使用を見直さざるを得ない時期を迎えています。予想がつかなかったこととはいえ、化学が生み出した物質が人体にダメージを与えていることは事実で、その対策を立てるのは現代の化学に課された大きな義務でしょう。化学が環境を痛めつけてきたのは残念ながら事実ですが、これに立ち向かうことができる唯一の学問もまた化学だけです。
われた化合物の名誉のために(1)〜DDT〜
化学者の端くれたる筆者にとって悲しいことに、近年どうにも化学のイメージはよくありません。環境破壊の先棒担ぎのような扱いを受け、「化学」「合成」と名のつく物はそれだけで悪者のように見られます。化学のもたらした恩恵は大きいのに、なぜか大きく取り上げられるのは害毒の方だけ、という感もなきにしもあらずです。今回からマスコミによく登場する物質をいくつか取り上げ、その光と影を検証してみることにしましょう。1回目は悪玉化学物質の最右翼、DDTです。
DDTという名称は、ジクロロジフェニルトリクロロエタンの頭文字を取ったものです(ただし現在の命名ルールでは、1,1,1-トリクロロ-2,2-ビス(4-クロロフェニル)エタンという名称になります)。DDTが最初に合成されたのは1874年のことですが、スイスのミュラーによってその強力な殺虫効果が発見されたのは1939年になってからのことでした。下に示す通り5つの塩素原子(黄緑)を含んでいます。
DDT
DDTはきわめて安価に合成でき、多くの昆虫に対してごく少量で殺虫作用を示します。それでいて人間など高等生物にはまったく無害(と思われた)なのですから、これはまさに夢のような薬剤でした。このため特に第二次世界大戦後の占領地で、蚊やシラミを駆除するために大量に用いられました(これらの虫は黄熱病、チフス、マラリアなどの病原体をばらまきます)。戦後の日本で、DDTの粉末を頭から浴びる子供の写真をご覧になったことのある方も多いことでしょう。これによって戦後につきものの伝染病の蔓延はすっかり影を潜めることとなりました。DDTの生産量は30年間に300万tに達し、発見者ミュラーは1948年のノーベル医学生理学賞に輝いたのです。
1962年、環境運動家のバイブルともいわれる、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の出版を機にDDTの没落は始まりました。カーソンはDDTが昆虫を食べる鳥の体内に蓄積し、鳥たちを死に追いやっていると訴えたのです。さらに長期に渡る環境への残存性、ヒトに対する発癌性が指摘され、一気にDDT禁止運動は加熱していきました。その後水や食品、南極の氷に至るまでDDTが検出され、ついに人間の母乳までが汚染を受けていることがわかって、DDTは1968年に使用が全面禁止されることとなりました。この後90年代に入ってさらにDDTには内分泌撹乱効果(いわゆる環境ホルモン作用)があるのではないかという疑いが持たれ、かつての妙薬のイメージはこれ以上落ちようがないところまで落ちてしまいました。
こうして抹殺されたDDTですが、最近の研究によって少なくともヒトに対しては発癌性がないことがわかっています。また環境残存性に関しても、普通の土壌では細菌によって2週間で消化され、海水中でも1ヶ月で9割が分解されることがわかっています。危険性を訴える研究に比べ、こうした結果は大きく扱われることはほとんどないため、あまり知られてはいませんが……。
スリランカでは1948年から62年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数は31人にまで激減しました。この数はDDTが禁止されてから5年のうちに、もとの250万人まで逆戻りしています。DDTによって救われた人命の数は5千万とも1億ともいわれ、これは他のどんな化合物をも上回るものです。その得失を総合的に考えた場合、安価でこれほどに効果の高いDDTを完全に葬り去るのは果たして得策なのか、疑問を差し挟む声はこれまでにも挙げられてきました。
そして2006年ついに、WHO(世界保健機構)は「マラリア蔓延を防ぐため、流行地でのDDT使用を推奨する」という声明を発表したのです。野生動物への蓄積、様々な人体へのリスクなども総合的に考慮し、「家の内壁や屋根にスプレーしておく」という方法でなら、危険性を最小限に抑えつつマラリア患者を減少させることができるとしています。少量のスプレーでもDDTは壁に十分に残存して長期に渡って蚊を殺すため、この方法を正しく用いればマラリア患者を10分の1に減らすことができるとのことです(ただしDDTを分解する能力を持った耐性昆虫がすでに数多く発生しているため、DDTが必ずしも有効な武器になるかは議論があります)。
WHOがこうした判断を下した背景には、地球温暖化によるマラリアの流行地域拡大への懸念もありそうです。実際現在の東京の夏は、十分にマラリアを媒介する蚊が生存できる温度であるといわれます。世界最大の感染症であり、これまで生きた全人類の半分の死因となったという説さえあるマラリアが、人口の密集した大都市で発生したらどうなるか――。マラリアの問題は決して人ごとではないのです。
実はこの声明が発表された時、ある新聞記者の方から筆者に宛てて「このような声明が出されたが、本当にDDTの安全性に問題はないのだろうか」という質問のメールが送られてきました。筆者は上記の事情を述べ、「WHOの判断はリスクとベネフィットを十分に考慮した上での妥当な判断なのではないか」と返信したのですが、結局掲載された記事では「ほんとに大丈夫?」という見出しがつけられ、DDTの危険性の方を強調する内容となっていました。もちろん限られた紙面の中ですべてを論じるのは難しいのでしょうが、WHOが決断に至った経緯など詳しく述べられていれば、リスクというものに関して考えるよい機会になったのにと多少残念ではあります。
DDTの問題は我々に多くの教訓を残しました。現代の殺虫剤、農薬はDDTの時代とは比較にならないほどの厳しい安全基準を要求されています。かつての農薬は水銀、ヒ素などを含んだ、今考えると恐ろしいほどの毒物だったのですが、現在市販されているある種の農薬などは茶碗に一杯「食べても」大丈夫というほどに安全になっています。虫に毒だから人にも毒だろう、というような単純な話ではなくなっているのです。素早く分解されて環境に残留しない農薬の開発も進んでいます。
農薬だから、化学製品だからと毛嫌いするのは簡単だし、ある程度無理もないことです。しかし化学は失敗を教訓として、常に前進を続けています。そして一般の目に触れないところで、少しでも安心して使える製品を作り出すべく、日夜研究を続けている化学者たちがいることを忘れないでいていただきたいと思います。
☆喪われた化合物の名誉のために(2)〜調味料〜
99年夏、「買ってはいけない」という本がベストセラーになり、賛否両論含めた様々な論議を巻き起こしました。筆者の感想をはっきりいえば、もちろんなるほどと思える項目もあるのだけれど、その他であまりに頭の痛い記述が多すぎ、とうてい信用するに値しないというのが正直なところです。それでもこの本の影響力は絶大で、ちょっとインターネットを検索しただけで「買ってはいけない」の引用と思える記述に山ほど出くわしました。言いたいことは山ほどありますが、とりあえず今回は化学調味料を取り上げてみましょう。実はこの調味料は、筆者の商売敵でもある会社の製品なので、あまり弁護してやる筋合いではないのですが(笑)、一化学者として思うところを書いてみます。
「味の素」の主成分(97.5%)はグルタミン酸ナトリウムという化合物です。「買ってはいけない」ではこの化合物が脳細胞を破壊するとか、急性神経毒性を持つとか実に恐ろしげなことが書かれています。その根拠となる実験は「生後10〜12日めのマウスに体重1kgあたり0.5gを経口投与するとその52%に、1gを投与すると100%に神経細胞の損傷や破壊が起こった」というものですが、これは人間でいえば数十gの味の素の濃厚水溶液を、直接チューブで赤ん坊の胃に流し込んだ状態です。それだけ一気に摂取すればどんなものでも何らかの障害を引き起こすのが当然です(このデータさえ現在では否定する論文が多いとのことです)。普通に調味料として使っている分には何の問題も考えられません。
グルタミン酸ナトリウム。赤が酸素、青が窒素、紫がナトリウム。
以前も触れた通り、グルタミン酸はタンパク質を構成する20種のアミノ酸のひとつです。人体の主要部分は全てタンパク質といって差し支えありませんので、グルタミン酸なしで生命はありえません。またグルタミン酸は単独でも肉・魚・野菜などあらゆる食品に含まれており、グルタミン酸を全く含まない食事を採ることはほぼ不可能。もちろんそんな食事を続けていれば、数日で体はガタガタということになるでしょう(なおグルタミン酸はナトリウム塩にしないとそのうまみを感じません)。
結局「味の素」は食品に広く含まれるうまみ成分を取り出したもの、というのに過ぎません。「買ってはいけない」の他の項目には「L-グルタミン酸ナトリウムは、もともと食品に含まれる成分でその安全性は高い」となっており、一体どちらが本当なのかと言いたくなります。まして「環境ホルモン作用の疑いがある」などとは、単なる根拠のない言いがかりとしかいいようがありません。「味の素の使い過ぎが日本人の味覚をダメにしている」という指摘もありますが、これはまた別の議論ですのでここでは取り上げません。
また味の素は石油から合成されていることを匂わす記述もあります。まあ筆者にはA社の社内事情は知るすべもありませんが、化学合成ではどう考えてもコスト的に引き合いません。CMでやっている通り、サトウキビから醗酵法で作る方がはるかに安上がりと思われます(もちろんどうやって作ろうとできたものは同じ化合物ですから、本来このことは問題にはならないのですが、気分的によくないのは事実です)。
こうした、当然記載されるべき情報をわざと隠し、危険そうに見えるデータだけを恣意的に寄せ集めて科学的に見せかけるやり方は断じて許しがたいものです。おそらくこんな騒ぎになるとは思わず、よく調べもせずに気楽に書き倒したのでしょうが、ずいぶんと無責任な商売もあったものだと思わざるを得ません。
カドミウムがヒトにとって必須であるという事実は報告されていません。しかし、ヤギを用いた実験では、カドミウム欠乏による低体重児出産、流産の増加や、動かない・首をまっすぐに上げない等の筋力低下がみられ、それらはカドミウム投与によって改善することが報告されています。このことから、ヒトを含む哺乳動物に対するカドミウムの必須性が推定される1)ようになってきました。1)ミネラルの事典:糸川嘉則編集、朝倉書店、p387、2003
カドミウムの慢性毒性としては、腎臓の近位尿細管障害が特徴的で、多尿、低分子タンパク(β2-ミクログロブリン、リゾチーム、メタロチオネイン等)尿がみられ、排出される低分子タンパクの量は暴露のない人の100倍以上に増加します。さらに腎障害が進行すると遠位尿細管機能低下、糸球体機能低下、血清クレアチニンの上昇等が起こり、最終的には腎不全で死亡することもあります。我が国のカドミウムによる最大の汚染地域である富山県神通川流域では、昭和30年代から地域住民にイタイイタイ病という奇病が多発し、当初、この病気の原因としてカドミウムと骨の関係がクローズアップされていました。しかし、その後の研究でカドミウムは骨に直接障害を与えるのではなく、これは腎臓障害に骨軟化が合併した病気であることが分かってきました。
カドミウムは、青みをおびた銀白色の軟らかい金属で、鉄材の錆を防ぐためのメッキ、電池、及び鉛、スズ等との合金に用いられています。カドミウムは亜鉛、銅などの鉱床に高濃度に共存するため、これらの金属を採掘、精錬する時の副産物として得ることができます。従って、カドミウム汚染の主な発生源は金属の採掘、精錬の場所であり、空気中に放出されたカドミウムは水中、土壌に堆積し、そこで生育した野菜、穀類、家畜、魚介類等、様々な食品を経由して人体内に取り込まれます。
カドミウムはすべての食品中に存在しますが、その濃度には食品の種類によって大きな差(平均値で0.003〜0.1ppm)がみられます。野菜、穀類、獣肉、魚肉中では0.005〜0.06ppmと低濃度ですが、獣、魚類の肝臓、腎臓では1ppm程度と高濃度で、さらに貝類、イカの肝臓では100ppm以上の高い値を示すことがあります。また、日本人が主食とする米中のカドミウムは、非汚染地域で0.005〜0.13ppm、カドミウム汚染地域各地では0.2〜2.0ppmと、非汚染地域の米に比べて10倍以上のカドミウムが含まれています。そこで、我が国では主食とする米からのカドミウム摂取量を制限するため、食品衛生法によって、カドミウム濃度が0.4ppm以上1ppm未満の米は食用として販売禁止、1ppm以上の米は栽培することも禁止としています。
ヒトでのカドミウムの体内吸収は、主に消化管と呼吸器を経由して行なわれ、消化管からの吸収率は1〜6%、呼吸器からは粒子径、化合物等によって異なりますが、2.5〜20%程度とされています。体内に吸収されたカドミウムは全身の臓器に運ばれ、標的臓器である腎臓に運ばれたカドミウムはメタロチオネイン(MT:分子量6000〜7000、SH基を有するシステインを30%前後含み、カドミウム、亜鉛、銅等の金属を11%まで含有)を誘導し、そのSH基に結合して腎皮質に高濃度に蓄積するため、毒性の発現が抑えられます。しかし、腎臓中のカドミウム濃度が過剰になり、MTのSH基と結合できないカドミウムが出現すると、それによって腎臓障害が発症すると考えられています。健康成人では、体内カドミウムの50%は腎臓に、15%は肝臓に、20%は全身の筋肉に存在しています。また、体内に蓄積されたカドミウムは主に尿中に排泄されることから、健康成人の尿中カドミウム量はその体内蓄積量及び腎臓中濃度を示すよい指標であると考えられています。