エントロピー 熱力学第二法則
はじめに
疑問
秩序と無秩序
この世に孤立した系はあるのか?
熱力学という学問の限界
新説 熱からカタチへ 熱から生まれるダークマター
付録
熱力学の概観と理想という基準
エントロピー増大の法則の概念と理想という基準
コラム
5億年の進化 無秩序から秩序へ
政治と秩序
はじめに
崖の上の岩が崖下に落ちると自発的に戻ることはないし、
ナイフが錆びると元と全く同じのナイフに戻ることはない。
覆水盆に返らずの諺がいうように、こぼれた水は元に戻ることはない。
そこには一方的な時間の流れがあり、逆行することはない。
つまり、秩序は無秩序になるが、無秩序は秩序にはならない。
この不可逆性を式で表すことはできるのか?
このエネルギーを熱エネルギーの問題にすることで、
不可逆性を数式にすることができる。
物理学に「時間」の概念を取り入れたものである、と解釈されている。
「物事は秩序だった状態に自発的に戻ることはない」
換言すれば、「物事は秩序あるものから無秩序に変化する」ということである。
これがエントロピー増大の法則として、多くの人は
「宇宙は秩序から無秩序という滅亡に向かっている」とこの世を解釈することになる。
しかし、これには条件がある。
閉じた系(断熱系)の中で起こる法則であって、開いた系ではこのようなエントロピー増大の法則が
必ずしも起きるとは限らない。
たとえば、
量子レベルでは無秩序が秩序をうむ。 たとえば真空で生滅する素粒子のように。
また地球レベルでも無秩序が秩序をうむ。たとえば二酸化炭素と水から樹木が生まれるように。
そして、宇宙レベルでも秩序をうむ。たとえば、星の爆発が新たな星と惑星を生むように。
最後に、宇宙創生と消滅のレベルにおいても、同じことが起きる。
熱エネルギーはそのまま消滅するのではなく、それは素粒子よりはるかなに極小で未発見の物質(ダークマター)に変換される。
エネルギーと物質の関係式であるE=mc2 のmは原子の構成要素の素粒子だけではなく、それらよりはるかに小さいダークマターを含む。
ダークマターはお互いの引力で影響を相互に交換し、また粒子に戻ろうとする過程で微細なエネルギーは集中し素粒子を形成する。
無秩序の中では「エネルギーのゆらぎ」があり、処々の時空で素粒子が生まれては消えていく。
物質は固体から液体、液体から気体となり、分子運動が大きくなり熱をもち、
その熱が絶対温度に近づくことで、熱エネルギーは素粒子より極めて小さいエネルギー体に変換されて、
それらが時々、処々でぶつかりカタチを顕しては消えていく。
このような小さな小さな爆発が遍く宇宙で起きている。
そしてすべての物質がエネルギー体になると、エントロピー増大の流れに終止符がうたれ、
この宇宙は消滅するが、これまで歯止めになっていた増大のエネルギーがなくなることで、
宇宙の膨張は止まり、次には、ダークマターは引き合い、宇宙全体は収縮をはじめる。
そして収縮しきった時に各中心点が爆発し、その微細エネルギーは素粒子、原子、物質を構成する。
この世を直線的変化に捉えて、宇宙の滅亡と宇宙の起源を妄想するのは、熱エネルギーがダークマターに変換することを考慮しないことに由来する。
このエネルギー変換が宇宙の膨張と縮小というカタチになって現れる。
過去の推論にある通り、この宇宙のエネルギーは次々と形態を変えるが、宇宙全体のエネルギー量は変わることはない。
このメカニズムをパーリ経典の三蔵の観点からみてみると、
物質エネルギーが熱エネルギーになり、
その熱エネルギーが微細物質bhūtaとなり、
bhūtaが微細エネルギーdhammāになり、
宇宙が無秩序のdhammāだけになった時に、
宇宙の拡張は終わり、次にdhammāが集まる収縮がはじまり、
収縮が終わるとまた爆発が起きる。
こうして無秩序から秩序が生まれるサイクルはまた出発点に戻り、輪廻する。
熱力学への疑問
熱力学には理想気体というこの世にはない出来事を基準にしている部分がある。
たとえば、
熱力学第2法則は「エントロピー増大の法則(閉鎖系という条件のもとで)」と言われるが、熱が完全に仕事に変換できるのは、絶対0度のときに限るのだが、この世には絶対0度は存在しない。
また、この法則の前提(絶対条件)である「閉鎖系」は、この宇宙に存在するのであろうか?
もしダークマターという素粒子よりも遥かに微細な質量を認めるのであれば、この宇宙にある真空も液体も固体も粗い粒子の集合体なので、ダークマターはこれらの間を素通りするので、これは閉鎖系とは呼べず、全てがつながっている開放系に呼ぶにふさわしいのではないのか?
また開放系には平衡と非平衡の2つに分類されるが、平衡状態とは温度の変化のない星の光エネルギーに影響がない状態を指すので、厳密にはそのような時空はこの宇宙には存在しないし、どの星からも何万光年の距離がある場所でしか適用できない法則を、星に近く非平衡の場所で適応するのは、ただの過剰一般化でしかない。
このようにこの世にない時空を基準(閉鎖系、平衡状態、理想気体)にして、ダークエネルギーを構成要素から除外して世界観を構築することで、辻褄合わせの理論を唱えることから、矛盾が矛盾を生む状況になる。
このような矛盾した法則を信じて(思考パターンに固執して)脳内の世界を構築してしまう原因は、過去に学習した出来事から自動反応回路であるアプリケーションを作ってしまったことに起因する。
そして、その特定のTPOにしか通用しない因果律を他のTPOにも適応させることが、自意識過剰の原因である。
そして、過剰な自我意識に突き動かされて、他者の恐怖と歓喜の条件反射を悪意なき正義感で利用することで混乱が増幅されている。
これが学問の負のアプローチであり、学問の限界でもある。
秩序と無秩序
範囲 |
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エントロピー |
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例 |
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宇宙 |
秩序→無秩序 |
増大 |
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宇宙の膨張 |
熱力学第2法則 |
宇宙 |
無秩序→秩序 |
減少 |
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星と惑星の誕生 |
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地球 |
秩序→無秩序 |
増大 |
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水→氷 |
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地球 |
無秩序→秩序 |
減少 |
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生命体 |
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量子 |
秩序→無秩序 |
増大 |
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半減期のβ崩壊 |
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量子 |
無秩序→秩序 |
減少 |
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素粒子の誕生 |
量子力学 |
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熱とは原子の運動のこと。
原子の運動をエネルギーといい、
原子の運動量が増えることを無秩序になる、という
エントロピーの増大とは分子の運動の増大のこと。
エントロピーは減少することなく、ずっと無秩序の混沌に向かい続けている。
こう言われると「怖い」と感じるのはこの法則に従って混沌の地獄に向かっていると妄想したから。
しかし無秩序の混沌の世界にならないのは、明日になったら太陽が昇るから。
こうして地球の分子は安定している。
しかし、太陽と地球を含む系全体は無秩序となっていく。
エントロピー増大の法則
条件は熱の出入りがないところ
ミルク+コーヒー → ○ コーヒーミルク
コーヒーミルク → ☓ ミルク+コーヒー
宇宙にあるすべての物質は時間とともに無秩序な状態になっていく
それが元の状態に戻ることはない
宇宙の乱雑さは常に増大している
この法則が成り立つにはもう一度、条件を吟味することである。
環境と系との関係が「熱の出入りがないところ」、すなわち「孤立系」だけに通用する法則ということである。
条件が熱の出入りがあるところならばエントロピーは減少しえうる。
すなわち、閉鎖系と開放系では、エントロピーは減少しえうる、ということになる。
たとえば無秩序の二酸化炭素と水から、秩序ある草という生命体に変換されるように。
この世に孤立した系は存在するのか?
熱力学的な4つの分類
熱力学では、系は外界との間のエネルギー交換の有無から分類される。
熱力学で考察されるエネルギー交換は、仕事と熱、および物質(質量)のエネルギーの移動(変化)である。
ここでいう仕事とは、ピストン-シリンダ系のような力と変位の積として表される機械的な仕事だけではなく、電気エネルギーなどあらゆるエネルギーの変化である。
質量の移動とは、例えばガソリンエンジンであれば、燃焼室へのガソリンと空気の吸入や、燃焼後の排気などである。
ガソリンなどの燃料は、化学的なエネルギーを内在しており、燃焼に伴ってそれが放出される。
すなわちガソリンの吸入はエネルギーの流入である。
燃焼という急激な化学反応に限らず、部屋の換気でも室内外の温度や湿度のエネルギーが移動する。
外界と物質や仕事や熱などのエネルギー交換があるのは開放系(開いた系、open system)、
物質の移動はないが、仕事や熱によるエネルギー交換があるのは閉鎖系(閉じた系、closed system)
物質と熱のエネルギーの移動をないが、仕事によるエネルギー交換があるのは断熱系(adiabatic
system)
物質と熱と仕事というあらゆるエネルギーの交換がないのは孤立系(isolated system)と呼ばれる。
具体的には
開放系:外界と物質・エネルギーのやりとりがある 栓のしまっていないフラスコ 細胞内の環境
閉鎖系:外界とエネルギーのやりとりのみある。 大きな水槽の中に沈めた、栓の閉まったフラスコ
断熱系:外界と熱・物質のやりとりがない 断熱材で覆われたフラスコ
孤立系:外界と物質・エネルギーのやりとりがない。 世界と遮断されたフラスコ?
閉鎖系では質量保存の法則が成り立ち、
孤立系では質量保存の法則に加えてエネルギー保存の法則、エントロピー増大則が成り立つ。
系と物質・熱の出入り
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熱 |
仕事(エネルギー) |
物質 |
孤立系 |
isolated
system |
不可 |
不可 |
不可 |
断熱系 |
adiabatic
system |
不可 |
可 |
不可 |
閉鎖系 |
closed
system |
可 |
可 |
不可 |
開放系 |
open system |
可 |
可 |
可 |
専門用語
系が熱を交換する外界は熱浴(heat bath)と呼ばれ、質量を交換する外界は粒子浴(particle bath)と呼ばれる。
系のどの部分においても温度、組成などが等しいとき、これを均一系 homogeneous
system という。そうでないとき不均一系
heterogeneous system という。また、系は、構成する物質の種類により一成分系(水、100%メタノールなど)、二成分系(食塩水、70%メタノールなど)や多成分系と分けることができる。
私説
この宇宙は孤立系でも断熱系でも閉鎖系でもなく、開放系でないのか?
科学者は熱エネルギーはそのまま消滅すると思ってしまっているのではないか?
宇宙が孤立系に見えるのは、熱エネルギーがダークマターやダークエネルギーに変換されていることが証明されていないので、
辻褄を合わせるために、この宇宙を孤立系とした理想状態を仮定、すなわち大脳が作り上げた空想の世界を作ることで説明しているのではないか?
熱エネルギーが限りなく絶対温度に近づくことで、ダークマターやダークエネルギーに変換され、それで宇宙が膨張しているのではないか?
アクシオンもしくはダークマターが素粒子よりも微細だとすると、金属や水や空気も擦り抜けてしまうので、この世に孤立系などは存在しないことになるのではないか?
熱力学の分類の誤謬がエントロピー増大の法則を生んだ?
以下のような解釈が私たちが誤謬を重ねる原因となっているので、まずはよくある解釈をみて、その後に問題点を指摘する。
『地球全体をシステムとしてみた場合には、近似的には、閉鎖系とみなしても問題が生じないことが多い。
つまり、地球外とは物質のやりとりは近似的にはないが、太陽からのエネルギーを受け取っているために、閉鎖系となる。
しかし、地球を構成する部分的な要素、たとえば、流域を取り出してみた場合には、明らかに開放系であり、孤立系や閉鎖系とみなしてよい場合は、かなり限定的になると考えられる。
たとえば、海洋で周囲を囲まれたひとつの島を系とみなした場合には、近似的には閉鎖系とみなしてよい場合もあるかもしれない。しかし、海を介して外から動植物が流れ着いたり、もっと積極的に移動してきたり、人間のように外部と活発な交易を行う存在を考えた場合には、島とて閉鎖系とみなすことは不適切な場合が多いかもしれない。そのため、おおむね、私たちが地球上の環境を構成するある系を対象として考える場合にも、その系のことは、開放系とみなすことが適切であると考えられる。
さらに開放系は、平衡開放系と非平衡開放系に区分される。
環境の研究を進めるとき、現時点では、大抵の場合、平衡状態あるいは準平衡状態を仮定することが通常である。
平衡状態とは、簡単に言えばつり合いがとれていることであり、熱的平衡、物質的平衡といったときには、それぞれ温度変化がないこと、物質の種類と総量に変化がないこと、である。
ただし、たとえば、熱的平衡状態にあるときにも、系に流入するエネルギーと流出するエネルギーとが釣り合っていれば、正味温度変化はない。
また物質量も、系への流入と流出とがつりあっていれば総量には変化がなく平衡状態となる。
環境研究で現実に対象とする系の多くでは、考えている時間間隔の取り方や、実践的な目的の多くで、平衡状態を仮定しても無理がない場合は多い。
一方、定義に厳密に従うとすると、ほぼすべての現象は厳密には、非平衡開放系、となる。
したがって、真正面から正直に私たちが対象とする系をとらえようとすれば、非平衡開放系を取り扱う手法が必要となる。
しかし残念ながら、現時点では、熱力学、および、統計力学の理論が盤石なのは、平衡系についてのみである。一方で、非線形科学や複雑系の科学が対象とし、理論構築が進行形なのがまさにこの非平衡系である。
平衡系を考えるだけでもかなり多くのことがわかるし、現実には存在しないが、ある理想的な状態、つまりポテンシャルのような概念として平衡状態を想定することにより、現実の分析を進めることができるようになる。』
https://hydro-takeon.jp/blogs/works/488にある文章を編集したものである。
黄色のマーカーの部分がこの小文の現代科学の問題点を象徴している。
まずは、「近似値、大抵の場合、通常、無理がない場合、多い」の語句を使うことで、嘘は言っていないという前提を築く。
次に、この宇宙にはない空想の設定を仮想して、それを理想的な状態とし、それを思考パターンの基準とすることからはじめるアプローチである。
メリットは可側化、数値化、法則化、利便性、効率化、合理化、コスパ、時短である。
デメリットは各自の都合に合わせた省略と統合という編集、そこからはじめる誤謬のスパイラル、最終的には宇宙の「いのち」の弱体化、
である。
これが現代科学や数学にも共通する問題であり、学問のアプローチの限界である。
学問の底流には、各自の無意識と自己顕示欲の回路が初動の原因となっているからである。
まずは各自がこのような過去に作成してしまった自動反応回路を弱体化することからはじめるのが、
これから遭遇する数々の科学のデータに左右されてしまうことから離れるアプローチである。
開放系は、平衡開放系と非平衡開放系に区分される。
しかし、この温度が変化しない平衡状態とは宇宙のどこに存在するのか?
それは、星の光エネルギーが熱に変換されないほど遠く離れた場所であり、そこでは温度は絶対零度に限りなく近づいているので、温度に変化は見られない。
そんな場所を基準にして、非平衡状態の地球の環境の研究を進めているのがこの分野の学問の現実である。
熱力学
熱力学は原子や分子などの微細なミクロなものにスポットライト当てるのではなく、
圧力と体積と温度にスポットライトを当てる巨視的なマクロの法則の学問。
理想気体(分子間力がなく、分子の体積が0の気体)を設定してそこから物事を考える。
つまり引力が存在しないという前提とする、空想実験から導き出された、実在しない気体のことである。
実在気体は理想気体ではないが、計測してもほとんど数値に表れないので、分子間力を無視して、理想気体を基準にして計算をすることで近似値が求められる
PV=nRT
P圧力V体積=n物質量R定数T温度 気体定数R≒8.31×103 =8.31(J/mol・k)
U 気体の内部エネルギーの変化
Q 気体が吸収した熱
W 気体がされた仕事 圧力×断面積×距離 = 圧力×体積
準静的変化 非常にゆっくりした(ほぼ止まっているかのような)変化
熱Qとは =U−W(気体した仕事) もしくはU+W(気体がされた仕事)
熱を含めたエネルギー保存の法則 = 熱をエネルギーに取り入れる法則
熱もエネルギーとして捉えられるようになった。
熱力学は平衡状態から非平衡状態、そして平衡状態へと推移した場合に2つの平衡状態を扱う学問
モル比熱
1molの気体の温度を1kだけ上昇させるのに必要な熱量
定積モル比熱 Cv=Q/nT Q=n CvT
定圧モル比熱 Cp=Q/nT Q=n CpT 仕事(距離×面積)の増大分だけQが大きくなる
温度や圧力や体積の依存性は通常無視され、定数として扱われる。
理想気体に関しては厳密に定数。
理想気体では温度や圧力や体積に依存せずに、つまり考えることなく一般化してしまう。
理想気体とはこの世に存在しない概念でしかない。
このような学問を学んだ者が過剰一般化するような価値観を持って生活を過ごすよ傾向があるのが問題である。
これが高校で学ぶ時によく起こる教育の問題である。
単原子分子理想気体 Cv=3/2R Cp=5/2R
2原子分子理想気体 Cv=5/2R Cp=7/2R
理想気体の内部エネルギー
理想気体では引力がないことを前提にしているので、位置エネルギーが0なので、運動エネルギーがそのまま内部エネルギーになる。
したがって、理想気体の内部エネルギーは温度だけの関数となり、圧力や体積には依拠しない。
なぜならば分子間力が発生しないからである。
分子間力がない、ということは分子がその気体には存在しないことを意味する。
以上のことから、温度が同じであれば、他の条件が異なっても、内部エネルギーは同じになる、
という結論になる。 1:31:50
分子がない状態を前提にすることから始める学問の恐ろしさ
理想気体の温度をT上げたときの内部エネルギーの変化U
PV=nRTにおいてnRTは一定なので、PとVの関係は反比例になる。
温度Tが上がると反比例のグラフが右上にずれる。
内部エネルギーはグラフ上のどの点でも同じであるので、
計算しやすい定積変化にすると、Q=n CvT W=0 つまり定積変化ならば仕事が0になるので、
熱力学第一原則により U=n CvT
これでエネルギーと温度の変化する関係はU/T=n Cv で傾きはn Cv
またT=0でU=0なので、原点0.0を通る、傾きn Cvの直線、
すなわちエネルギーと温度が比例するグラフであることがわかる。
よって、
理想気体の内部エネルギー変化は
U=n CvT
注意することは定積変化だけではなく、定圧変化でもこの式は応用できる。
なぜならば内部エネルギー変化(反比例のグラフ)においてどの点においても内部エネルギーは同じであるから。
つまり、Q=n CpTは成り立つが、U=n CpTは成り立たない。
なぜならば、Uの場合はn CpTにWが付加されるからである。
マイヤーの関係式
理想気体に限っては、
Cp=Cv+R が成り立つ
導出(データの法則性を自分の知っている知識で裏付ける)
準静的定圧変化を考える
熱Qとは =U−W(気体した仕事) もしくはU+W(気体がされた仕事)
内部エネルギーU=nCvT Q=nCpT―W W=Pv
Pvの体積を変換する。
PV=nRTからP(V+v) =nR(T+T) → Pv=nRT=W
元の式に戻して
Q=nCpT―nRT
熱力学第一原則v=Q−W より、
nCvT=nCpT−nRTにおいてnとTは共通なので、Cv=Cp−R →Cp=Cv+R
ポアソンの法則
理想気体の準静的断熱変化ではポアソンの法則が成り立つ 魔法瓶の中の熱湯
PVγ =一定 γ=Cp/Cv=比熱比
単原子分子理想気体5/3
複原子分子理想気体7/5
導出 微分積分を使う
PVT わずかに変化させる → P+dP、V+dV、T+dT dは凾謔閧熹小な変化
状態方程式
(P+dP)(V+dV)= nR(T+dT)
−) PV = nRT
@ PdV+VdP+dPdV= nRdT
dPdVは限りなく0に近いので無視する。
熱力学第一法則 U=Q+W より
dU=Q+W
状態方程式(理想気体の内部エネルギー変化) U=nCvT より
dU=nCvdT
仕事は W=PdVなので
dU=Q+W= nCvdTで 断熱によりQは0なので、
nCvdT=PdV → A dT=P/nCv ×dv
Aを@に代入して
@ PdV+VdP = nRdT
= nR ×P/nCv ×dv =PR/Cv×dv
→
P(Cv+R/Cv)dv+VdP =0
マイヤーの関係式 Cv+R=Cp
比熱比 γ=Cp/Cvより
Pγdv+VdP =0
→
足し合わせる、すなわち積分する。
∫dp/P = ∫−γdv/V
logP =−γlogV + C
logPVγ=C
PVγ=eC =定数
理想気体のときにしか成り立たない。
準静的断熱変化のときにしか成り立たない
ポワソンの法則の注意事項
1 準静的な断熱変化では成り立たない
断熱自由膨張(気体が先にある真空中に拡散)では成り立たない
2 PVγ=一定を PV=nRTを用いて変形してPVγ-1 =一定の形で表すこともある。
P=nRT/VをPVγ=一定に代入すると T Vγ-1 =一定/nR
熱機関
熱サイクル(一巡して元に戻る)を繰り返し
熱として得たエネルギーを仕事に変換する装置
熱効率 efficeitnly
e=W’正味/Q+
W’正味 差し引き気体がした仕事 全体からマイナスを差し引いたもの
Q+ 気体が吸収した分だけの熱
気体がした仕事はグラフの円と円柱の面積
気体がされた仕事はグラフ円柱の面積
正味の仕事はグラフの円面積
注意事項
熱力学第一原則
内部エネルギー変化はない U=0= Q+ ― Q− ― W’正味
W’正味 =Q+ ― Q−
e = W’正味 =Q+ ― Q−/Q+ = 1−Q−/Q+
この宇宙のあらゆる存在はは常に変化し続けている。
エントロピーの法則も変化し続けている対象、すなわち宇宙がテーマであるのに、人々はこれを因果関係(前後のパターン)として認識することで、その結果「時間の矢」がここにあると信じ込んでいるが、因果関係とはヒトの大脳皮質が作り出した過剰一般化による観念であることをボルツマンは看破した。
統計力学 S=kBlogW W状態数 kB ボルツマン定数 S(Saki Carnot)はエントロピー
Wとは「取りうるミクロ状態の数」
マクロに見たら同じだけど、ミクロに見たら異なる状態 この状態の可能性の広さを「乱雑さ」と表現する
取りうる状態が多い時は乱雑に見える。
たとえば、端に寄っていた粒子が全体に拡がると乱雑さが増した、と表現する。
どんどん状況は複雑になっていく、ということ。
覆水盆に返らず
乱雑な運動を引き起こすのは熱。
エネルギーの移動形態は熱力学では2つある。
熱(不規則的な方向に粒子が乱雑に動く)と仕事(規則的な方向に粒子が整って動く)。
エントロピーは増大するというRudolf Julius Emmanuel Clausiusのエントロピー法則式においてエントロピーが低いところから高いところに向かうということが基本的な物理式の中で唯一、過去と未来を認識している法則とされている。
1865年の論文では、不可逆過程も考慮に入れ、
∫dQ/T≤0
クラウジウスは1865年の論文で、Sを
dS=dQ/T (準静的)
dQ 準静的に入ってきた熱 T温度 元々の乱雑さ
と定義した。
dQ乱雑さの増加 をT温度(元々の乱雑さ)で割ることでスケールする。変化の度合いをみる。
準静的に入ってきた熱ではない場合については何も語っていない。
一般的には準静的に熱は入ってこないので、dS=dQ/Tではなく、dS ≧ dQ/Tそして
dS ≧ ∫dQ/Tとなる。
この式から、熱力学第2法則(エントロピー増大の法則)が導き出される。
dS ≧ 0 (断熱過程dQ=0の時)
(等号成立は準静的過程の時)
つまり、断熱過程においてエントロピーは減少しない。
すなわち、断熱過程で移行するときの不可逆性の指標になる。
注) 外界と仕事のやりとりがあってもこの式は成り立つ。条件は断熱過程であること。
上の式に条件をつける(狭義にする)
孤立系の自発的変化(仕事Wが0ゼロの場合)では、エントロピーは必ず増大し、極限値で安定する。
自発的変化とは不可逆変化のこと。
準静的過程ではないので等号は成立しないので、
dS > 0となる。条件は孤立(すなわち断熱系)、自発的変化の場合である。
例 断熱自由膨張(理想気体)
P1,V1,T1 → P/2,2V,T1
変化は非平衡であるが、計算をする時にはエントロピーは「状態」であるので、現実の非平衡の変化ではなく、
等温準静的過程である平衡の変化とみなすことで、計算値を出すことができる。
等温準静的過程における仕事量
W=−∫2V
V Pv
= -nrT∫2V V 1/v v
= -nrT ln 2V/V lnは対数log
= -nrT ln 2
熱の計算式は
Q=U−W 第一法則より
=0−(-nrT ln 2)
=nrT ln 2
よってエントロピー変化は断熱自由膨張と等温準静的過程と同じになる。
外界のエントロピーの変化を考える
断熱自由膨張 非平衡過程
系のS = nrT ln 2
外のS = 0 = S外 = ∫ −Q/T外 = 0
全体のS = 外界のS + 系のS = nrT ln 2 > 0
等温準静膨張
系のS = nrT ln 2
外のS = - nrT ln 2 = ∫ −Q/T外
全体のS = 外界のS + 系のS = 0
エントロピーの変化は0
外界が断熱系で、系が開放系であれば
系のエントロピーが負であっても、それを補う外界のエントロピーが正であれば、その変化は起こりうる。
つまり、系のエントロピー変化が負であり得る。
換言すれば、どんな状況でもエントロピーは増大するというのは間違い、しかし必ずその外界ではエントロピーは増大している。
等圧準静過程
等圧熱容量
Cp = Q/T
モル比熱
1molの気体の温度を1kだけ上昇させるのに必要な熱量
定積モル比熱 Cv=Q/nT Q=n CvT
定圧モル比熱 Cp=Q/nT Q=n CpT 仕事(距離×面積)の増大分だけQが大きくなる
S = Q/T = Cp/T ・T
Cpが一定になる温度範囲で考えると、
S = Cp ∫ 1/T T = Cp ln T2/T1
熱を入れるとどれだけ変化するかでエントロピーを計算する
クラウジウスは、カルノーサイクルの研究をする中で、このdQ/Tと言う量を積分すると、カルノーサイクルを1周した際、この積分の総和がゼロに成る事に気が付いた。
クラウジウスは、上式の様に、このdQ/TをdSと言う新しい量として表し、このdSを積分した量であるSをエントロピーと呼んだ。そして、この新しい量Sの変化dSが、熱現象の方向を決定する事に気が付いたのであった。
クラウジウスが発見した段階において、エントロピーは原子の実在性を前提としておらず、啓蒙書などで良く使われる「デタラメさの尺度」と言った意味は全く無く、熱機関の可逆性の指標だった。
クラウジウスは、熱力学第一・第二法則を以下の表現で表した。
1.宇宙のエネルギーは一定である
2.宇宙のエントロピーは最大値に向かう
ある時の考えとその誤謬
可逆性がないことを熱力学で説明しようとするのはなぜだろう?
崩れた崖の上の石はもとに戻らないし(位置エネルギー)、鉄は錆びると元に戻らない(化学エネルギー)。
エントロピーの増大と時間の相関関係があるのだろうか?
エントロピー増大の法則を過去から未来への時間経過(時間の矢)と定義するのは過剰一般化の可能性はないだろうか?
エントロピーの増大によって「時間の矢」を観念的に理解した人々は、自分たちの観念によって「時間」を作り出しているのではないか?
実際のエントロピーとは個々の粒子が常に変化し続けていることを指し示したものではないか?
コラム
政治と秩序
現象は常に変化し続けいているので、それに逆らうのにはエネルギーが必要である。
政治的にいうと保守は逆らうだけの余裕とエネルギーと金が必要なので、金持ちが多い。
そのようなものがないと現象に則することになるので革新的になる。
変化は宇宙の法則に則しているので容易であるが、変化を拒み留まるのは困難である。
変化しないところを作ることで、その他のところが余分に変化する必要が生まれてくる。
エネルギーの総和は変わらないからである。
変化に合わせて少しずつ変化していくのが暮らしやすい生き方。
5億年の進化 無秩序から秩序へ
生物の変化
古生代カンブリア紀の海にいたアノマロカリスが約5億年かけて人類に変化した。
Anomalocarisは古代ギリシア語の「ἀνώμαλος」(anomalos、奇妙な・異常な) と「καρίς」(caris、カニもしくはエビの意、水生節足動物の学名に常用される接尾辞)の合成語で、すなわち「奇妙なエビ」を意味する。中国語でも同じ意味で「奇蝦」と呼ばれる]。
参考資料
第2法則はボルツマンの天才が如何なく発揮されたもので、アトキンスは「自然には根本的な非対称がある」というふうに表現した。熱と仕事のあいだには非対称性があるということで、この見方こそがエントロピーという見方を生み、第2法則が「エントロピー増大の法則」という異名をとることにもなった。熱は仕事に変換できるが、完全にそのことがおこるのは絶対0度のときだけだという意味にもなる。
数ある科学成果のなかでも「熱力学第2法則ほど、人間の精神の解放に貢献したものはない」とよく言われる。
人間精神の解放とは何ぞやというところだが、たしかに蒸気機関を通して第2法則が見えてきて以来、この法則がもたらした見通しはまことに広範囲にわたった。第2法則は極大の宇宙にも極小の粒子にも深くかかわり、かつすべての生物の生と死にも根本においてかかわっている。
こんなに重大な法則はめったにない。それにもかかわらず、これほどその解釈が難しく、また多様な真理の認識をもたらす法則も少ない。
第2法則は次のように定義を順に"いいかえ"てみると、その広大な内容が少しは見えてくる。
(1)「熱を完全に仕事に変換するのは不可能である」。
熱源から熱を吸収して、それをすべて仕事に変換するだけで、あとは何の変化ももたらさないというような過程はおこりえない。いいかえれば、仕事と熱は、双方ともエネルギーを移動させるしかたの様式だという意味では等価だが、お互いに入れかわるときの入れ変わり方は等価ではない。
(2)「自然な過程には宇宙のエントロピーの増加が伴う」。
これは、系を熱するとエントロピーが増加するが、仕事をしてもエントロピーは変わらないとも書き換えられる。つまり、宇宙のエントロピーは仕事には活用しにくいものだということである。エネルギーが分散するときには、エントロピーは増加する傾向にあるということだ。
(3)「宇宙はより高い確率の状態に移っている」。
このことが意味している内容は深遠だが、簡単にいえば、「自然の変化がおこるたびに、世界全体のエントロピーは増えている。そしてその方向が一番の安定なのだろう」ということだろう。これを「宇宙や自然界には、世界全体のエントロピーが増大するという非対称性がひそんでいる」というふうに解釈したい。
(4)「熱の一部が仕事に変換されるとき、カオスが乱雑状態の中から一様な運動を引き出す」。
ここからはエントロピーとカオスが入れ替わる。秩序だった生成物、すなわちエントロピーの低い生成物が、あまり秩序だっていない(エントロピーの高い)反応物質からあらわれてくることがありうるということである。ただしそのためには、系の周辺で系の内部のエントロピーの減少を補う以上のカオスが生成される必要がある。
(5)「熱を完全に仕事に変換しようとすると、そこに構造があらわれてくる」。
有名なプリゴジンの散逸構造がどのように出現するかということである。ここでは、「エントロピーがより速くつくられるようになると、構造がないところに構造ができる」というふうにいいかえたい。この構造のひとつが生命なのである。
と、まあ本書の紹介をかねて捻った言い方をしてみたが、第2法則のもつ意味をたった5ステップの「いいかえ」で、宇宙の本質や生命の誕生まで届かせようというのは、どだい無理だったかもしれない。
しかし、第2法則がもっている意味は、急げばそういうことなのだ。そして、ついつい宇宙から生命までを、星の誕生から珈琲にミルクが交じるまでを、一気に駆け抜けたくなるものなのだ。
本書はそのことをいくつものモデル、とくにサイクルモデルやエンジンモデルやケミカルモデルを駆使して、実に巧みにナビゲートした。熱力学やエントロピーを解説した本はいくらでもあるが、本書のように、理知的で、模式性に富んだものは少なかった。
そのうえで、本書は科学思想的にも示唆に富む。ときどき著者が言い放つ言いまわしが得がたかったのだ。
たとえばぼくは、「鉄を燃やす化学反応」のところで、次のような記述に出会ってギョッとした。そこにはこんなふうに書いてあった。「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」!
すでにおわかりのことだとはおもうけれど、鉄が錆びたり、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーと大いに関係することなのである。
確実性の終焉The End of Certainty 1997 Ilya
Prigogineイリヤ・プリゴジン[訳]安孫子誠也・谷口佳津宏
プリゴジンとブリュッセル学派が打ち立てた散逸構造論がもたらした衝撃は、いまなお科学と思想の中心部を揺るがせている。その震動はあいかわらず心地よい。
その心地よさは、それまで夕焼けや波打ち際や滝を眺めているのは好きだが、科学には疎かったという者たちにも波及した。
われわれは長いあいだにわたって、ひとつの大きな疑問をもってきた。地球は宇宙の熱力学的な進行にしたがっていつか滅びるだろうに、その地球上の生命というものはまるでその不可逆な過程に逆らうかのように個々のシステムを精緻にし、生命の謳歌を主張しているように見える。これはなぜなのかという疑問だ。しかもその生命も結局は個体生命としては次々に死んでいく。
詩人たちはこのことをこそ歌い、哲学者たちはこのことをもって思索の源泉としてきた。
生命だけではない。地球の高い空に乱れて散らばっていた雲は、いつのまにかウロコ雲やイワシ雲のような形を整えるということがあり、乱流がほとばしっている川の流れには、いつのまにか見事な渦ができていることもある。けれどもこれらはいずれは消える。そうであるのに、いっときの形を整えるかのようなドラマを見せている。夕焼けを見ていていつまでも飽きないのは、この生成と消滅がしばし大空の舞台の書き割りを覆ってくれるからである。
いったい自然の流れは、大きな流れが見せるものと小さな流れが見せるものとでは、そこには異なる法則がはたらいているのかどうか。もしそうだとしたら、その二つの法則をつなげて理解することはできないのか、どうか。この疑問はさかのぼればヘラクレイトスにまでさかのぼっていた。
そこにはもうひとつ、大きな謎が含まれていた。自然はどのように時間と戯れているのかということだ。科学や数学では時間はtか−tであらわす。力学や化学ではtと−tを入れ替えても事態に変わりがないときに、その過程は可逆的であるとみなしてきた。
しかし、自然界にはtと−tを入れ替えられない現象がいくらでもおきている。熱力学ではとくに頻繁におこっている。熱い珈琲はそのままほうっておけば室温と同じになり、さらにほうっておけばがちがちの固体になっていく。これを熱いブルーマウンテンに戻すことは不可能なのである。
熱いものはいずれは冷える。そこには時間の不可逆がおこっている。いったい時間経過を可逆にしていることと不可逆にしていることのあいだには何がおこっているのか。これをプリゴジンは、力学系のミクロな可逆性と熱力学系のマクロな不可逆とを、ボルツマンの統計学的解決の先っぽでつかまえた。
散逸構造論は不可逆過程の熱力学システムの研究、とりわけ非平衡系のシステムを研究対象にして生まれた。これを非線形熱力学という。
プリゴジンが注目した非平衡系は定常状態にあるシステムのことで、川の流れのように、内部的にはさまざまな変化があっても大局的には時間的に一定の流れをもつものをいう。散逸構造はこの定常状態の中で生まれる。
熱力学的な非平衡系の単純な例は、高温部と低温部があって高温から低温に熱が流れつづけているような例に容易に見いだすことができる。この変化が止んでシステム内が一定の状態になれば、それは熱平衡系とよばれる。熱い珈琲が室温と同じ状態になったとき、それが熱平衡系である。だから熱平衡系にも構造はある。たとえばシステム内に水と氷や、水と油が分かれてあるときなどだ。
が、その非平衡系の内部をよくよく見ると、実はそこにはもっと劇的な変化がおこっていて、そこにウロコ雲やイワシ雲のように、それが新たな秩序の生成に見えるような現象が生起する。熱いブルーマウンテンにミルクを入れてかきまわしたときのマーブルパターンなども、そのような現象のひとつだった。
こうした現象はシステム内の温度差・圧力差・電位差のような非平衡性を解消するような流れをおこし、非平衡系をなんとか熱平衡系へと転化させようとして、いわば非平衡的なるものをしきりに散逸させている。熱い珈琲のマーブルパターンはそのような小さな散逸が生じた束の間のファンタスマゴリFantasmagorieの幻想である。
しかもこの過程は不可逆である。勝手に元の状態に戻るようなことはおこらない。ブルーマウンテンのマーブルパターンはスプーンでかきまぜていったん消えれば、もう恋人を前にしたテーブルの上に再生することはない。
不可逆過程は熱力学の本質と密接にむすびついている。熱力学第二法則はエントロピー増大の法則として、不可逆的にエントロピーを増大させる現象のすべてにあてはまる。
大戦前、プリゴジンは第二法則を研究しながら、熱力学的な平衡が安定であるための条件を求めていた。そして、システム内部のエントロピー生成量が最小になるときにシステムが安定し、その特別の場合が熱平衡状態であること、そこではエントロピー生成量がゼロになっていることをつきとめた。
ところがやがて、この成果(エントロピー生成最小の原理とよばれる)を熱平衡から遠い非平衡系に移そうとすると、まったく別の現象がおこることに気がついた。「熱平衡から遠い非平衡系」というのは、システムをとりまく周囲の非平衡性が大きくなった場合のシステムのことをいう。その場合は、不可逆的な流れの大きさを非平衡の線形一次式ではあらわせない。ということは、ここではエントロピー生成最小の原理は成り立たないということなのだ。システムの内部に生じる構造の非対称性がシステムの周囲の非対称性より大きくなっているからだった。
プリゴジンは、これは「自発的な対称性の破れ」がおこっているためと見て、このようにして生じる構造を「散逸構造」と名付けたのである。散逸構造では大局はそんなそぶりをまったく見せていないのに(対称性はちっとも破れていないのに)、その局所においては小さな秩序が生成されていた。
散逸構造の発生は、ちょっと考えてみると奇妙なことである。熱力学第二法則やエントロピー増大則というのは、システムの構造がしだいに消滅していって、いわば平坦化していくようなことを、いいかえればシステムの対称性がどんどん増大していくことをあらわしていたはずである。
実際にも、熱平衡系では周囲の非対称性が一定に保たれていて、システムの対称性が増大して、そのぶん非対称性が周囲の非対称性と一致したときにシステムは安定する。ところが散逸構造ではシステムの対称性は周囲の対称性より低下する。なぜなのか。
そこでプリゴジンはここに「熱的なゆらぎ」による秩序が生成されて、この差異を解消しているのではないかと考えた。わかりやすくいえば、外見は連続して見える流体などの物質状態も、それを細かく見れば粒子的な構造が激しい熱運動をしていて、そのミクロなゆらぎは非平衡状態が一定の限度に達したときにマクロに発現するのではないかと考えたのである。自発的な対称性の破れもこのときに発生すると解釈した。
プリゴジンはこうした散逸構造の出現でもシステムの大局的な定常状態は大きくは変わらないことを証明してみせた。そこでは、正のエントロピーの生成量と負のエントロピーの流入量が互いに打ち消しあって、システムのエントロピーが一定の値となっていた。これで散逸構造の安定は説明できた。
では、一方、散逸構造が生み出したものは何なのかという問題が残った。ここからが非線形非平衡熱力学の独壇場になる。
ベナールの対流は、液体の入った浅い鍋を下から熱すると、ある温度のところから急に対流のパターンが出てきて、上から見るとハチの巣のような形になる現象をいう。鍋が熱せられて非平衡が大きくなり、それがエネルギーの散逸をともなってグローバル・パターンを自己組織化させているという現象だ。
ベルーソフ・ジャボチンスキー反応では、グローバル・パターンが生じてからも、そのパターンが化学時計とよばれる単位で時間的に振動する。ということは、そこでは時間的な対称性も破れてグローバルな時間のパターンも創発されているということになる。
こうした現象は何かに似ている。そうなのである、生命体にこそ似ている。生命は宇宙的な熱平衡から遠く離れた地球という非平衡開放系の上で生じたシステムである。そうして生まれた情報高分子としての生命はやがて自己組織化をおこして、生物時計というような独自な時間を刻み、消化系や神経系を発達させてそこに秩序を生成させた。
熱力学開放系は、システムの内部から外部に向かって内部化学反応によってこしらえられた反応物質をせっせと取り去ることができるシステムのことをいう。そうだとすれば、代謝機構や排泄機構をもっている生命体は、まさに熱力学開放系のモデルだということになる。しかもあいつぐ不安定性の発生と分岐の出現によって、生物的な化学散逸構造はどんどん複雑化することができる。
このことを述べたのが圧倒的な熱狂をもって読まれたスタンジェールとの共著『混沌からの秩序』(Order out
of Chaos)(みすず書房)である。そこには象徴的に次のように書かれていた。
かつてジョセフ・ニーダムは「西洋の思想はオートマトンautomatonとしての世界像と、神が宇宙を支配するという神学的世界像とのあいだを行ったり来りしている」と書いたものだった。ニーダムはそれを西洋に特徴的な分裂病と命名した。それに対してプリゴジンはこう付け加える、「実はしかし、この二つはむすびついている。つまりオートマトンはその外部に神を必要とする」。
こうしてプリゴジンは生命体の発生分化や成長にこそ、自分が研究してきたしくみがあてはまることに気がついた。とくに、生命体にひそむ「内部時間」はプリゴジンが研究してきた時間の演算子でも説明できるのではないかと考えた。神もオートマトンもその内部に時計をもっていたわけだ。
いまでも読者が多い『存在から発展へ』(みすず書房)はまさにこのことを高らかに宣言するパイオニアの役割をはたした。この著書でプリゴジンは、それまでのハミルトニアンによる力学の定式化に代えて、リウビル演算子による定式化を試みて、外部からの規定をうけない「内部時間」にあたる時間演算子を提出している。
というわけで、プリゴジンは散逸構造論の旗手から複雑性の科学の旗手へ、さらに時間論の旗手となって、本書『確実性の終焉』を著すまでにいたったのである。
本書はいま述べた時間の問題をさらに突っこんだプリゴジンの最後のまとまった著書にあたるもので、話題は量子論や宇宙論における時間のパラドックスの解決までを照準に入れている。
プリゴジンはここでは神とオートマトンに代えて、こう書いている。「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界なのである」と。
プリゴジンは最後の最後には、確率論的で相関的な時空開放系を想定したようである。
エルヴィン・シュレディンガー 生命とは何か?
Erwin
Schrodinger What is life? [訳]岡小天・鎮目恭夫 岩波新書 1951・1975
この本はぼくの生命観に依代を立ててもらったような一冊だ。26歳くらいのときだったろうか。
第6章「秩序・無秩序・エントロピー」にさしかかって、その依代の根っこを見た。思いがけない根っこだったのでぶるぶるっときたが、根っこが示すメッセージの鋭さのようなものが稲妻のごとくに走った。全体が七一節で構成されている中の五七節だから、ほぼ結論部にさしかかったところにあたるのだが、そこに「生物は負エントロピーを食べて生きている」とあったのだ。
そうか、そうなのか。生物は負のエントロピー(ネゲントロピー)を食べているのか。そうだ、これだよ、こうじゃなくちゃならない。愕然とした。もしポール・ヴァレリーがこれを読めた時代に青春期をおくっていたなら、この一行の稲妻こそが精神の一撃になったろうとおもわれる。
宇宙の全体や物質の基本的な運動は、大局的には「エントロピーの増大」に向かっている。このことを宣告しているのは熱力学第2法則というものだ。どんな物質も放っておけば(閉鎖系のシステムならば)無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。
締め切った部屋で熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器もろとも室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死(熱的死)と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宇宙も紅茶も、ひたすらこの熱死に向かっている。
ところが地球上の生命がせっせと活動をしているときは(開放系なので)、これとは逆の現象がおこっているように見える。生命は熱力学の原理に抵抗するかのように情報生命体としての秩序をつくり、これを維持させたり代謝させたりしているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。
むろん生物の個体もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えることになる。しかし、そこにいたるまでが物理学の法則に沿ってはいない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)をへらし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。
個体ではなく、生命系としてみると、情報生命たちは38億年ほど前からずっと宇宙エントロピーに逆らってきた。光合成を発明したことが、この逆らいを成立させた最初で最大の出来事だったろう。そこからは細胞膜(生体膜)ができ、ミトコンドリアが取りこまれ、多細胞生物が登場し、情報を複製する遺伝子が縦横無尽にはたらいて、ついには巨大な進化の傘を広げて、われわれをつくった。
これをいいかえれば、生命はトータルな系として「負のエントロピー」をずうっと食べてきたということになる。なんらかのしくみとなんらかの理由によって無秩序(エントロピーの増大)を排除し、秩序を形成しているのである。そのために巧みにエントロピーを捨ててきた。そればかりか、たいていの生物は独得の生殖活動をして次の世代にその大半の仕組みを継続させている。個体は次々に熱死を迎えても、それを種や属というくくりでみると、多くの種や属は時空間をまたいでエントロピー増大と闘っているようになったのだ。そうだとすればやはり、生命は「負のエントロピー」を食べているとみなさざるをえない。
この指摘は、ずばり生物という情報生命システムについての本質を突いていた。そしてエルヴィン・シュレーディンガーという才能が驚くべき洞察力の持ち主であることを告げていた。
シュレーディンガーはひとつながりの波動方程式をもって、一躍、量子力学の寵児となった。そこから生まれた波動力学はかつて誰も思いつかないものだったし、その波動函数が扱うことはハイゼンベルクのマトリックス力学と相並んで、極小の世界を解読するための驚異的な力を発揮した。
だからふつうにシュレーディンガーを紹介するなら、ド・ブロイの物質波仮説に続く量子力学の1920年代半ばからの高揚とともに語るのが筋というものだろうが、また、あまりにも有名な「シュレーディンガーの猫」を引き合いに出してその天才的発想を紹介するべきなのだろうけれど、ここではその理論物理屋シュレーディンガーにとどまらないシュレーディンガーを案内したい。情報生命系の謎に挑戦したシュレーディンガーのほうだ。
もっとも「シュレーディンガーの猫」については一言だけ書いておく。これは1935年にドイツの科学雑誌に量子論がかかえる重大な問題を思考実験のモデルとして発表したもので、あっというまに話題になった。
鉄の箱の中に放射性物質と放射線の検出装置、それと連動した毒ガス発生器を入れておく。放射性物質が原子核崩壊をおこすと放射線を出し、それを検出装置がキャッチすると信号がおくられて毒ガスが出る。そういう箱を用意しておいて、そこに生きた猫を入れ、蓋を閉じて中が見えないようにする。1時間後、さて、猫が生きているか死んでいるかを、外から決めることができるだろうかという思考実験である。
放射性物質はいつ崩壊するかはわからない。1時間で原子核崩壊がおこる確率が50パーセントだとすると、猫は生きているか死んでいるかではなくて、生と死の状態を半分ずつ重ね合わせたものになっているとしか考えられないのではないか。量子世界には、そういう「シュレーディンガーの猫」がいるのではないか。こういう話である。
この話で最も重要なことは、観測者が鉄の箱を開けて見たとたんに、猫の生死は決まるということにある。見れば生死の決まる猫、見ないときは生死まだらの猫がいる。シュレーディンガーはこの例によって、量子力学の「観測の理論」の重要性を指摘したのだった。
本書はシュレーディンガーの連続講演にもとづいて執筆された。講演の主旨は「生きている生物体の空間的境界の内部でおこる時間空間的な現象は、物理学と化学によってどのように説明できるのか」というものだ。
それまで生命活動の秘密に物理学が言及できたことは、ただの1度もなかった。生物が物質で構成されていることはわかっているにもかかわらず(構成要素も物質だし、遺伝子も物質であるにもかかわらず)、その物質のふるまいを記述すべき物理学は、生命の秘密にはまったく言及できないままだった。シュレーディンガーはその謎に挑もうとした。考え抜いたすえに設定した突破口が冴えていた。どこが冴えていたのか。
物理化学というものは一般に周期性結晶を扱ってきた。それについては物理化学の右に出るものはない。シュレーディンガーはこの視点を転倒させて、「非周期性結晶」を扱うつもりで説明を試みれば、物理化学が生命の活動の本質に到達する可能性をもつのではないかと考えたのである。
本書はこの非周期性結晶を前において、このあと遺伝子のふるまいやそれを構成する原子のふるまいの説明に入っていくのだが、その後、DNAの二重螺旋の謎が解かれ、分子生物学がいやがうえにも発達したのちの見解からみれば、この説明はいまでは物足りない。しかし、それにもかかわらずシュレーディンガーの着想は、いまもってドキッとする予見に充ちていた。
たとえば「暗号文の写本」はコピー(DNA転写)されるだけではなくてコピーミス(突然変異)されるにちがいないという見方、また「型」を継承するために生物活動が何をしようとしているかという推理をめぐる見方などは、いまならこれを「情報」とか「ゲノム」と言い直すことによって、いくらでも真相に近い説明に変えられるものばかりなのである。なんとも冴えていた。
シュレーディンガーがもっと独自の領域に踏みこんでいくのは第33節になってからだ。化学結合に関するハイトラー=ロンドンの仮説を紹介した直後、量子力学こそが遺伝と突然変異のしくみの要訣を支えているはずだと言い出す。
いまではよく知られているように、量子力学の世界では粒子のエネルギーは連続していない。とびとびの値のエネルギー(エネルギー準位)をもつ。これを「量子飛躍」とよんでいる。
振子をゆらすと、最初は連続的な動きをくりかえし、やがて空気摩擦やいろいろの条件があって遅くなり、ついには止まってしまう。ところが原子のレベル以下の量子の世界では、振子はもともと連続的な周期運動すらしない。とびとびの量子飛躍の活動しかしない。ふつうの振子は円運動や楕円運動にもなるが、量子の運動の形はとびとびの形しかとろうとはしない。すべては非周期的なのだ。これを量子力学用語では「量子化がおこっている」という。
シュレーディンガーはこの奇妙なふるまいをもつ量子レベルから、熱力学的に見れば奇妙な秩序のふるまいをもつ生命活動を見ようというのである。それには量子がつくりだす原子のふるまいがあきらかになり、その原子が寄り集まって安定を求めた分子の状態を説明する必要がある。シュレーディンガーはその説明を試みつつ、これらに一貫する「非周期性」と「量子飛躍性」を暗示的に重ね、それを実行させている最大の仕掛けに「負のエントロピー」の関与があることを提示しようとした。
かくして途中をとばしていえば、こう締めくくったのだ。以下、直接の引用ではなくて、ぼくがシュレーディンガー風の口調にあわせて要約してみた。口調は講演録からまねた。内容はまったく変えていない。
物質というものは自分で自分のふるまいを御していて、周囲のすべての条件と組み合わせて律しているものです。そこには、極小の量子力学から極大のニュートン力学やアインシュタインの相対性理論までを満足させる原理があてはまります。そのひとつの大きな原理は、物質は平衡状態では活動を安定させるということです。
ところが生物体というものは、物質とは違って、自分の力で動けなくなるような平衡状態になることを、あえて免れるしくみをもっているのです。生物はその内側では物質の新陳代謝をくりかえしているのですが、それにもかかわらず、生物総体としては平衡状態を免れているのです。まことに驚くべきことです。
なぜそんなことができるのか、生物体が食べているものに秘密があるとしか思われないのですが、その食べているものとは、熱的平衡を避けるためのもの、すなわちエントロピーの増大を妨げるものにほかなりません。
そうなのです、生物は周囲の環境から「負のエントロピー」をうまいぐあいにとりいれているのです。いいかえれば、生物は生きるために必要なエントロピーをうまいぐあいに外に捨てるしくみをもっているのです。このしくみがどこから発現してきたかということは、いまはその時点を突きとめられないものの、その起源が生命分子をつくりあげるときの量子活動と関係していることはあきらかです。
生命は量子から生まれ、それが情報高分子となって複写活動や代謝活動をするようになるうちに、「負のエントロピー」をとりこむようにしたのですね……。
このような仮説の説明の仕方のうちの、熱力学的な解釈と遺伝情報にまつわる生命分子の秩序生成についての解釈の大半は、いまではイリヤ・プリゴジンやヘルマン・ハーケンやマンフレート・アイゲンをはじめとする熱力学者や生物物理学者たちによって、また多くの分子生物学者たちによってかなり書き改められ、新たな説得力をもって説明がつくようになっている。
そうではあるのだが、それでもなお、ぼくがまだ十分な追跡ができていないだけかもしれないのだけれど、そこに量子力学が介在し、そのことが生命組織に「自己」と「秩序」を形成させているという仮説については、つまりは量子生命論とでもいうべき仮説については、いまだシュレーディンガーから3歩ほども先に進めないでいるのである。
なぜシュレーディンガーはここまで先験的な冒険をすることができたのだろうか。天才的なひらめきに富んでいたといえば、むろんそうではあろうけれど、どうもそこには何かの「哲学」があったようにおもわれる。
その「哲学」が何であるかはぼくにもずっと見当のつかないものだったのだが、『わが世界観』(共立出版→ちくま学芸文庫)や『精神と物質』(工作舎)を読むにつれ、また、ウォルター・ムーアの大著『シュレーディンガー』(培風館)をはじめとする評伝や推察や議論を読むにつれ、なんとなくひとつの見当がついてきた。それはあとから考えてみると、すでに本書『生命とは何か』の最後に暗示されていたことだった。
シュレーディンガーはウィーンに生まれ育った。父親はウィーン工科大学で化学を学んだ実業家だった。少年シュレーディンガーは学校よりも自宅で遊ぶことが好きだったようだ。けれども1906年にウィーン大学に入ってからは、見ちがえるほどに学習した。本をむしゃぶりつくように読んだ。熱力学のボルツマンの影響を受けた。
大学では最初は連続体力学の固有値問題にとりくんだ。ボルツマンが自殺したため、ハーゼノールが指導教官になった。第一次世界大戦が始まると、4年にわたって砲兵隊の士官として各地の戦地に従軍した。ハーゼノールがこのとき戦死した。ボルツマンとハーゼノールの唐突な死は、シュレーディンガーに何かを突き立てた。
ついで1920年にイェーナの大学で実験物理学の助手をし、いくつかの大学での研究の日々をへて、チューリッヒ大学でラウエの後任として数理物理学の教授を6年務めた。そこにはヘルマン・ワイルがいた(ぼくが最も好きな数理的哲人だ)。24年に大きな飛躍がやってきた。ド・ブロイが「物質波」という概念を提唱したのだ。ハミルトン︲ヤコビ方程式にとびこむと、力学と光学には何らかのアナロジカルな対応関係があることに気がついた。
その後の波動力学の提唱にいたるシュレーディンガーや、ポール・ディラックと一緒にノーベル賞をとるにおよんだシュレーディンガーについては省略したい。
今夜、強調しておきたいのは、3つのことである。ひとつはシュレーディンガーがオーストリアを祖国としながら、36年にわたって祖国に戻れなかったこと、ひとつは一貫して生命の秘密に異常な関心をもちつづけたこと、ひとつはインド哲学に大きな影響をうけていたということである。最初の2つは本書やべつの評伝を読んでもらうこととして、インド哲学の一隅に格別の興味をもったことについてふれておきたい。
シュレーディンガーがインド哲学、とりわけヴェーダンタ哲学(ウパニシャッド)に興味をもったのは、若き日々に読み耽ったショーペンハウアーのせいだった。ニーチェの思索にも巨大な影を落としたショーペンハウアーについてここで解説するのはよしておくが、ショーペンハウアーはヨーロッパ哲学史ではめずらしくもインド哲学や仏教哲学の理解者であった。そんなきっかけで東洋哲学や仏教哲学にふれたシュレーディンガーは、なかでもヴェーダンタ哲学が提示した「梵我一如」の思想に感動する。宇宙原理ブラフマンとしての「梵」と個我原理アートマンとしての「我」とが一如になる、互いに関連しあって連動しているという思想である。
どのように感動したかということは、本書『生命とは何か』のエピローグに語られている。シュレーディンガーは物理学者としてつねに決定論と闘うために、インド哲学に学んでいたのである。
大半の物理学の原則には決定論(determinism)が貫いている。ほとんどの出来事はその出来事に先行する出来事で決定しているという見方だ。しかしハイゼンベルクの不確定性原理が高らかに宣言したように、またド・ブロイやシュレーディンガー自身が物質の粒子性と波動性の両立を謳ったように、物質のふるまいには決定論的ではないところもある。このとき量子論の一部では、この決定論的ではないところを確率的に解釈して乗り切った。これが「確率振幅」とか「統計的確率像」とよばれている考え方である。
けれどもシュレーディンガーは、この解釈の全面適用には不満だったのだ。なぜなら物質も、その物質でできている人間も、どう見ても確率的なものとはいえない何かの動向を秘めている。量子のふるまいの根幹にある量子飛躍のようなものを秘めている。とくに生物の大半の活動は決定論と確率論の両方をまぜこぜに生かしているようにもおもわれる。量子レベルの不確定性だけにもとづいているとはおもえない。
シュレーディンガーはここで悩んだのである。自分の直観と生命活動のルールと物理学の最も好ましい部分とが重ならないからだ。しかしやがてハッとする。
たとえばX線が照射されたショウジョウバエに突然変異がおこる理由を考えた。また減数分裂や特異な生物進化の突起性について考えてみた。ひょっとするとこのような現象こそが生命活動の本来にあって、そこから安定した「種の進化」が出てきたのではないかと考えたのだ。そうだとすれば、生物体の原初には最初から不安定性や不確実なものが動いていたのではないか。
ここからのシュレーディンガーは以前にもまして独創的になっていった。非決定論的な動向を「私」という一個の生命体にあてはめてみたのだ。そして、「私」が大きくは決定論的な自然法則に従っていることと、にもかかわらず「私」がその自然法則の支配者にも操作者にもなっていないこととのあいだに、何がおこっているかを考えた。
このとき浮上してきたのがインド哲学における「梵我一如」の思想だった。大なるブラフマン(梵)と小なるアートマン(我)が一如に相応しあっているという思想だ。ピンときた。ミクロコスモスとマクロコスモスはどこかで相応関係をもっているということである。これは「私」と「量子レベル」を一緒に語ろうとすることだったろう。いや、もっと重要な思想も引き出した。それは多くのインド哲学理論では、「私」は複数か、もしくは複合的であるということだ。
今日ならば、この「複数の私」や「複合的な私」を、多様性と複雑性をもつ情報的自己像というふうにとらえることができるであろう。ぼくならばまさに複合的で編集的な自己像として「たくさんの私」を持ち出したい。シュレーディンガーは、そのことを量子力学とインド哲学という両極をめぐる思索から導き出した。まことにもって驚くべき推察だった。
シュレーディンガーの思想は、その科学思想も生命思想も、また哲学思想も、いまなお読み切られてはいない。かつて湯川秀樹は『わが世界観』を愛読して、せめてシュレーディンガーをあと五歩進めようとして、かの「素領域仮説」をインド哲学から老荘哲学のほうに振ったものだった。科学界は冷淡だった。老子や荘子を素粒子にもちこんでもらっては困るのだ。
だが、はたしてそうだろうか。シュレーディンガーと湯川の東洋思想は現代科学になっていいはずである。けれどもいま、この2人の量子飛躍に満ちた振子をうけつぐ者は、いないようである。
附記¶シュレディンガーの翻訳はまだ半ばにすら届いていない。主要な論文は『シュレディンガー選集』(共立出版)に入っているが、ウォルター・ムーアの『シュレディンガー』(培風館)などを読むと、ずいぶんたくさんの重要著作がある。それでも、唯一の自伝ともいうべき『わが世界観』(共立出版)や脳の秘密にとりくんだ『精神と物質』(工作舎)はこうした未読のシュレディンガーに対する渇望を癒してくれるのに十分な潤いに満ちている。シュレディンガーの波動力学や「シュレディンガーの猫」を解説した本はゴマンとあるのでここでは割愛するが、最近刊行された2冊のウィットに富んだ本だけを、推薦しておく。アミール・アクゼルの『量子のからみあう宇宙』(早川書房)と竹内薫とSANAMIの共著による『シュレディンガーの哲学する猫』(徳間書店)だ。物理や数学をまったく知らなくても、いや知らないほうが楽しく読める本である。なお、「私」と量子をつなげる試みもニューエイジ・サイエンスの成果を持ち出せばいくつかあるのだが、ここではダナ・ゾハーの『クォンタム・セルフ』(青土社)だけを紹介しておく。
モノーは『偶然と必然』において、生物学の法則が熱力学の第二法則を侵害している証拠はまったくないと書いていた。一見すると、高度情報分子が構造的に転写され、さらに増殖していくのは、第二法則に矛盾しているように見えるのだが、それはタンパク質の立体特異性にむすびついた情報化学のせいであって、この情報化学のプロセスでは第二法則にもとづく熱力学的対価を生物は何の狂いもなくちゃんと支払っているというのである。ただしモノーはそう言いながらも、タンパク質の情報プログラムを作るアミノ酸の配列順序の決定は偶然によるもので、その偶然が種の特性を決めているのであって、そこには量子レベルでは突然変異による変化があっても、それらは生物の全体の保存機構によって帳尻をあわしているので、生物全体においては自然淘汰は必然の不可逆過程にほかならないと説いた。
しかしカイヨワは、これに疑問をもった。どこかに重要な対角線やナナメが欠けていると見た。
そのひとつが、「形成」ではなく「破壊や崩壊」に目をむけることだった。すなわち、量子的な突然変異は必ずしも偶然の産物なのではなく、そこに対称性の崩れという必然が関与しているのではないかと予想したのだった。
これは驚くべき仮説である。
そもそも「対称」とは均質性や等方性をもったシステムが安定を獲得したときにあらわれる属性であるが、ここに何かのきっかけでごくごく部分的な破壊がおこったときは、その破壊をうけたシステムは新たな特性を獲得して、そのシステムの別の安定のレベルに達しようとする。
これは無対称のシステムが安定を取り戻そうとする動向とは異なるもので、熱力学でいえばむしろ負のエントロピーに向かっている動向だと考えられる。カイヨワはこのような見方に立って、生物と情報とシステムの新たな解読の方法を模索した。
今日ならば、プリゴジンの非平衡系の熱力学やホランドの複雑系の化学によって説明のつくことも、まだ創発性や相転移の科学が見えなかった時期に、これだけの仮説を独自に雄弁に語るということは稀有なことだった。
情報量
2021.03.30
情報量は「場合の数」の比を対数化したものである(情報の分野で、対数底として 2 を用いる)。例えば、コドンを一つ想定したとき、単にコドンと言われると、その取りうる場合の数は 4×4×4 = 64 通りとなる。次に、「コドンの 1 番目の塩基は T です。」という情報が得られたとする。この情報を知った後、コドンの取りうる場合の数は
1×4×4 = 16 通りになる。「コドンの 1 番目の塩基は
T です。」という情報を知る前は 64 通り、知った後は 16
通りになる。このとき、「コドンの 1 番目の塩基は T です。」という情報の情報量は log(64/16) = 2 のように計算される。このように、情報量はある情報を「知る前の場合の数」と「知った後の場合の数」の比を対数化したもので定義される。
p=log事前の場合の数事後の場合の数=log4×4×41×4×4=log22=2
選択情報量(自己エントロピー)
単に情報量ともいう。事象 E が起こる確率を P(E) とするとき、事象 E が起こったと知らされた時の情報量 I(E) を次と定義する。
I(E)=log1P(E)=−logP(E)
つまり、事象 E が起こる前では、その事象が起こるのか起こらないのかが不明であり、両方の場合を想定する必要があり、確率は 1 である。一方、「事象 E は起こります」という情報を受け取った後、その事象が起こる確率 P(E) だけを想定すればよい。従って、事前の確率(≈ 場合の数)は 1 で、事後の確率は P(E) となり、「事象 E は起こります」の情報量は上の式によって計算できる。
平均情報量(エントロピー、シャノンエントロピー)
事象 E が起こる確率を P(E) とし、すべての事象 E ∈ Ω に対して、その情報量の期待値を平均情報量という。情報エントロピーやシャノンエントロピーなどともいう。
H=−E∈ΩP(E)logP(E)
バイオインフォマティクスの分野おいて、エントロピーはマルチプルアライメントの乱雑度を測る指標として用いられる。一般的に、マルチプルアラインメントにおいて、ミスマッチなどの多い領域では情報エントロピーが高い。これに対して、例えばプロモーター領域などの保存されている領域においては、情報エントロピーが小さい。
次のようなマルチプルアライメントの情報エントロピーを求める例を示す。
1 2 3 4 5 6 7 8 9
A C A A A C A G T
A A A A T G A G T
A T C A A C A C C
A G C A T G C T T
位置 i に出現する塩基 X の出現確率を pi(X) とすると、位置 i の情報エントロピー Hi は次のように計算できる。
Hi=X=A,C,G,T1pi(X)logpi(X)=−X=A,C,G,Tpi(X)logpi(X)
例えば、位置 1 と位置 2 の情報エントロピーH1、H2 は次のように求められる。
H1H2==+==−P1(A)logp1(A)=−1log1=0−(P2(C)logp2(C)+P2(A)logp2(A)P2(T)logp2(T)+P2(G)logp2(G))−(14log14+14log14+14log14+14log14)2
H1 が小さいので、このアライメントの位置 1 の塩基がよく保存されています。一方、H2 = 2 となり、位置 2 はほとんど保存されていないと言える。
情報エントロピーの値域
情報エントロピーは取りうる範囲はゼロ以上で、塩基ならば log24 以下、アミノ酸ならば log220
以下である。以下は証明。
C を文字の集合とする。塩基ならば C = {A, C, G, T}、|C| = 4 である。また、アミノ酸ならば C = {A, C, ..., W}、|C| = 20 である。
x > 0 のとき、logex ≤ x - 1 であることを利用すると、
loge1|C|pi≤1|C|pi−1
これより、情報エントロピーは次の不等式を満す。
−i∈Cpilogepi+i∈Cpiloge1|C|=≤==i∈Cpiloge1|C|pii∈Cpi(1|C|pi−1)(1|C|−pA)+(1|C|−pC)+⋯1|C|×|C|−i∈Cpi=1−1=0
よって、
−i∈Cpilogepi≤loge|C|
両辺を loge2 で割ると、
−i∈Cpilog2pi≤log2|C|
となる。pi ≤ 1
であるから、-pilog2pi ≥
0 が成り立つ。
以上により、情報エントロピーの取り得る範囲は次のようになる。
0≤H=i∈C−pilog2pi≤log2|C|